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2015年02月21日

ユースト保存失敗したのでねとらじ音声をアップ。

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2015 2-21 真理求道者
posted by モノイイ ジョーカー at 09:21| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月11日

仙人新聞 2015 2−11

仙人新聞 2015 2−11


   2015 1-6

通時態と共時態、そして、ペルソナについてである。私は世界のなかにいるような感覚がある。当たり前なのだが、じつは作られた世界にいる作られた自分なのだ。

   通時態と共時態についてである。とりわけ、言語学において、時間的な流れのなかで研究する分野、これが通時言語学。言語も時ととに変化するのだ。これに対して、ソシュールは共時言語学を提唱。言語を使うときは、少なくと、文法を固定していないとだめである。つまり、時間をとめた写真のように、言語文法がその生成変化をとめたレベルで研究だ。

  次の話はユングのペルソナについてである。ペルソナとは仮面のことであり、われわれは社会の中で作る自分の仮面だ。男なら男らしい仮面、だから、心の奥では女性的なアニマがあるという。また、女性なら、女性らしいペルソナ、仮面をかぶり、その深層は男性的であり、これをアニマスムという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    アインシュタインはE=mc2という式で、質量っていうのは、エネルギーだといった。物が静かにそこにあるだけなのに、重さがエネルギーなのだ。すべてはエネルギー体、主体性をもつ。じーっとしている実体、質量ある物体というのは虚妄だったのである。

  ウェルバーは意識のスペクトルを提唱。すべては唯識派がいう心だという。ところが、二元化を進めてしまう人間。まずは、有機体と環境にわける。さらに、自我と身体という二元性になるという。自我が身体をもつという表現すら使うようになる。そして極みが、理想的な自分の仮面であるペルソナと影の二元性だ。自分の嫌な面、影の面、理不尽さをペルソナという理想の仮面を作るために影に追いやるのである。

  さて、この自分の嫌な側面が影という世界になって、そこに理想的な偽りの仮面をかぶる自分がいると感じている。世界とそこにいる私というのがこのように両者ともつくられたものだ。そして、先ほどいったように、すべてはエネルギーであり、主体性であるにもかかわらず、固定し、じーっとしている実体とみなす。主体性と実体性という二元性をどんどん遂行し、ついには、影という偽りの実体とペルソナという偽りの主体性を生み出し、安住する。真の自分がこの二つを一体とみなすものである。

2015 1-7

  他者性と限界状況についてである。物理学用語にデュラックの海というものがある。もちろん、荒れ狂う日本海とは違う。この量子の海を考えるとき、新しい輪廻思想が解明されるのである。

  レヴィナスの他者性についてである。他者とはなにかと考えるとき、カントはみんな根っこは普遍的自我だという。また、メルロポンティは私も他人も同じ肉で一続き。だから、回転し、入れ替わるという。自他はなんと対称だという。そして、ついにレヴィナスにおいては自他は絶対的にいれかわらない。自他の非対称性を主張。私はボールの全体をつかむ。つかむとははじっこに手をかけること。他人のからだももちあげられるかもしれない。ところが、他者の心にはじっこがない。よって全体でなく、無限だという。私は有限で、他者は無限。さらに、自分のなかには自分ではどうすることもできない他者がいるという。これを非領有化的自我という。

   次の話はヤスパースの限界状況についてである。八方塞でどうすることもできない状況、これが限界状況だという。死、苦悩などであるが、こうなるともはや自分の内面へとどんどん推し進める。すると、自分にかかわる存在は現存在というが、自分にかかわりすぎて穴をあけてしまい、その先に超越者を見るというのだ。これを哲学的世界定位という。


   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   この世界を構成する最小のものを探し、素粒子が見つかる。そんな素粒子を解体してなにでできているか調べると、素粒子AはBでできていて、BはC、CはAでできていたりする。もはや、すべてが互いに構成要素というレベルなのだ。粒子AとBが衝突して、CとD、CがEとぶつかってAになったり、というように確率的にいろんなものになる。AのなかにA以外のすべての素粒子を含んでいる。こういう量子、粒子の発生と消滅の世界がデュラックの海である。

  生命の魂もまた、精神世界の最小単位だ。すると、さいとうさんのなかにすべてのものの魂があるのだ。AさんとBさんが衝突して、CさんとDさんだ。こうやって、輪廻転生といっても、すべてのものは時間の前後関係を超えて、すべてのものを体験するのだ。

  おのれのうちに他者がいるという思想家、レヴィナス、メルロポンティ、デリダなどがいるが、ヤスパース的に自分の内面に突き進むと、その限界状況において他者になるのではにだろうか。


2015 1-8

ドイツ観念論と第三人間論についてである。宇宙飛行士が宇宙にてUFOを目撃する例が多いという。これは宇宙とひとの観念は同じだからかもしれない。さらに、ここから一見関係なさそうな二つが関連したことがわかった。自由意志とテレポーテーションとの関係である。

  ドイツ観念論についてである。まずはカント哲学からはじまる。カントはわれわれは上っ面の現象しか認識していないという。がんばっても、本体、物自体は認識できない。だだをこねても無理なのだ。とりわけ、理屈で推論する理性も限界。カントを学ぶことはカントを超えることだという言葉がある。カント哲学以降、カントの物自体を云々し、それを越えようとした自由意志を主張する哲学者たち、こrがドイツ観念論になる。

  まずはフィヒテ哲学である。大三原則というもの。私は私自身を産む。これは、自我は自我を定立するという。第二原則は、私は私以外を設定、産むという。これは、自我は非我を反定立するという。そして、大三原則は私は私と私以外をちょめちょめするという。これを大三原則という。

  このフィヒテ哲学はすべて自我のなかでやっている。きわめて主観的なので、主観的観念論だという反論。ここから、シェリングは客観的な観念論を目指す。主観と客観を理屈じゃなくて直感によって一体にしちゃおうという。天才的直感というのだが、これが絶対無差別の哲学という。さらに、そんなシェリングの哲学を直感だけで、論理、理屈がないと批判したのがヘーゲル。弁証法論理で、主観と客観が一体だというのだ。

   次の話は第三人間論についてである。プラトン哲学への批判である。人間そのもののイデアの影がAさんである。Aさんと人間そのもののイデアのあいだにもイデアがあるはずだ。こうやって第三の人間のイデアを無限に設定できる。さらに、Aさんそのもののイデア、座っているAさんそのもののイデアも出てきてしまうというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    宇宙飛行士はUFOを目撃したり、撮影に成功している。宇宙とは上下がない。上下が対称性があるのだ。そもそも、上下の意味は地球の重力によるもの。重力のない宇宙では上下がない。これがひとの観念と同じなのだ。重力という外的な力、規制がないのである。巨視的な宇宙もそうだが、ミクロ、微視的な世界も同じである。原子のなかには原子核のまわりに電子がまわる。電子は雲のように確率的に存在している。シュレディンガーの猫である。箱のなかの猫は生きていると同時に、死んでいると同時に、毛づくろいしているのだ。これは観念的世界であり、原子のなかには宇宙の四つの力、強い力、弱い力、電磁力、重力のうち、重力の力があまりに小さすぎて無視できるレベルだからこそ観念世界になるのだ。重力を扱うマクロな宇宙、これは相対論、重力を扱わない量子論がひとつにならないのもなにかここに問題があるのかもしれない。

  自由意志は時間軸の任意の点に飛ぶことではないのか。過去、未来のある時間点でもよい。これが自由意志。空間点がすべてつながっているというのは量子のもつれ、エンタングルメント。宇宙空間において観念と一致したとき、思いなしが即、現実になる世界では、この時間軸上の自由意志が空間軸に転じて、空間点を任意に移動できるテレポーテーションが可能になる原理があるような気がするのである。ちなみに、宇宙飛行士は科学的な見方をするものたちが多く、自分の観念を宇宙空間においてたやすく現実化しない。それでも、飛行物体をみるのである。


2015 1-9


存在階層性、そして、個と類についてである。母体のなかにいたときに、さまざまな意識レベルでいろんな世界を感じていた。というか、いまもなお感じ続けて、それらの世界の重なったものが今の意識になっているというお話をしたい。

  ハルトマンの存在階層性についてである。カテゴリーといったらカント哲学。ものを認識するための整理箱、これがカテゴリーだった。ところが、ハルトマンはものが存在するためのカテゴリーである。そして、まずはカテゴリーを二つにわける。数の3とか、三角形というのは実際に物体としてはない。この実体なき理念的なものを理念的カテゴリー。また、りんごっていうのは実際に時間空間上に存在。これが実在論的カテゴリーになる。さらに、存在の世界は縦の階層性があるという。一番下が無機物世界。そのうえが有機物世界。さらにうえが生命世界。最上位が精神の世界だという。

  次の話は個と類についてである。この消しゴムっていうのが個。消しゴムグループは種や類という。とりわけ、消しゴムっていうのはいろんな消しゴムに当てはまる普遍性をもち、しかも、一個一個の消しゴムを無視している。捨て去っている。これを抽象的普遍性という。ところが、ヘーゲル哲学においては具体的なこの消しゴムを存在せしめるための普遍性があり、これを具体的普遍性といった。抽象的普遍性はああたまのなかの問題であり、具体的普遍性はただのあたまのなかの論理でなく、実際に存在するための弁証法論理だという。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


    母体のなかの胎児はさまざまなことを経験し、この記憶を無意識にもっているとブロフはいう。子宮のなかは天国のように幸せであり、そこから追放され、産道をぬけるときに苦しむという。そして、へその尾がきられて独立する。このブロフの胎児記憶は行列式、マトリクス的にコンパクトにしまわれている。分娩前後マトリクスという。この考えと以前話をしたウィルバーの意識のスペクトルを組み合わせる。意識は最初は心だけ。私も宇宙もひとつなのだ。ここから二元化が進み、超個帯域を越えて、有機体と環境になる。これは胎児が宇宙との一体感を感じ、植物的、太陽系意識のレベルだ。つぎに、生物社会的帯域を越えて、自我と身体になる。このとき、おそらく、生命としての意識、動物種、人類種としての共通意識レベル。さらに、哲学的帯域を越えて作られた自分であるペルソナと嫌な側面をおいやってつくられた世界、影の世界にわかれる。ここに他者の意識のすべての共有があるかもしれない。

  これらの太陽系意識、宇宙一体感などはじつに、いまなおあり続けているが、今この瞬間の意識にエネルギーの多くがついやされるので無意識下になるのだ。ここにシェルドレイクの形態形成場の説を加味する。物がある、ここに消しゴムがあるためには無数の実体なき場がかさなっているからだ。電磁場、ヒッグス場、時空の場などだ。こうやって非実体的な場の集合が個に近づく。さらに、意識は実体ではないが、魂としての個はさきほどいった太陽系意識の場、宇宙と私の一体のすべての場、人類としての場などがかさなって、より個別的になったものだったのである。


2015 1-10

  可謬主義と宇宙の起源についてである。納豆のからしを切り口からあけて、にょろにょろと納豆にかけている。なにかをしている、やること。これこそ真実であり、この世界は虚妄なのかもしれない。なにか現在進行中でやっているのであって、宇宙もまた、いつもなにかをやっているという進行中だったのだ。

  可謬主義についてである。可謬主義の反対は基礎付け主義である。基礎付け仕儀といったら、この宇宙の真理は絶対的に不動だという。動かないのだから、てこの原理の支点のようなもの、アルキメデスの点という。デカルトは我思うゆえに我あり、というが、私がいるっていうのが絶対不動。フッサールも性別、性格関係ないほんとうの私、純粋自我が不動。唯物論だと、原子であったり、中世キリスト教哲学でいえば、神さまだったりする。

  可謬主義は真理っていうのは絶対的でなく、間違っていたら訂正というもの。常に変項、訂正し続けるしかないのだ。研究集団は、ひとつの真理に収束しているというのがパトナム。収束なんてしていないというのがクーンという思想家。ローティも、ソクラテスのような真理へ向かう対話じゃなくて、実りある不一致である会話が重要だと説く。

  次の話は宇宙の起源についてである。宇宙は万物流転、変化しまくるというヘラクレイトスの思想。また、仏教の諸行無常も同じだ。宇宙は神さまによって創造されたものだというキリスト教哲学。万物はひとつで陰陽にわかれてそこからすべてがうまれるという盤古思想などがある。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

 
   ヒンドゥー教では、この世界は神さまの劇場だという。この劇場をリーラという。また、この世界は虚妄の世界だというときはマーヤという。そのなかでも、かたくなに真実であり続けているのは、いまなにかをしているという行為であり、これをカルマ、業という。ここから、輪廻転生で、因果応報において自分に帰ってくるというカルマという概念にかわる。

  この世界は神の劇場、リーラとは現代風にいえば、神さまのゲームである。このゲームという虚妄のなかでゲームやっている私の行為がある。この行為、ゲームしているというのは真実だ。宇宙ゲームも常に更新中であり、ルール変項もある。神さまというより、高次元生命体は常に新しく更新する。宇宙は絶対で固定されているのではなく、われわれと同じく、なにかをしている、現在進行中でかわりつつあるもの。だから、1たす1=2ですら、絶対ではなく、ゲームルールなのだ。

実際、世界は量子の発生と消滅という海にあるというデュラックの海。これも一度、観測されたら世界中でそのように観測された。気づき、観測、信念が世界をそのように変項、生成するのだ。既存の原理の発見でなく、原理を創造していたのだ。ニトログリセリンの結晶化に関しても、いままでおきなかったが、たまたま、トラックで搬送中のグリセリンが気温と振動で結晶化したのだ。その後に、世界中の研究室の入れ物の中のグリセリンがひとりでに結晶化しはじめたという。新しい法則が生成されたのである。



2015 1-11


西田哲学とサルトルの非現実化作用についてである。足の裏のにおいをかいでいたら、ついうっかり悟ってしまったというひとがいるだろうか。いともたやすく悟りの境地というのはあるのだろうか。じつに、たやすく悟らせないためのシステムがこの宇宙には設置されているのかもしれない、というお話をしたい。

   西田哲学についてである。ひとはなにかを感じ、直感し、そして、行為する。直感と行為のあいだにたとえば、脳の処理があったり、心があると考える。私っていうかたまりを想定してしまう。ところが、実際は、自転車を雲煙しているときは見ながら、ハンドル操作だ。直感は即行為だ。これを行為的直観といい、私っていうかたまりはいないという無主体説を提唱した。

 次の話はサルトルの非現実化作用についてである。想像力の問題において登場する概念。ピエールさんが目の前にいるとき、そのひとをなめるように見渡すが、どんなに観察しても、観察していないところがある。つまり、観察は不完全である。ところが、ピエールさんがいないとき、その横顔を想像できるし、また、どこからみたわけではないピエールさん自体の概念知もある。この想像を準観察とよぶ。なんと、観察よりも、準観察である想像のほうが完全であり、リアリティがあるのだ。すると、この世界をただ、想像するだけでよくなってしまう。これだと困るのでなぞの力が働くという。それがそれは想像であって現実じゃないよ、という非現実化作用なのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   この世界は神の作った劇場だとヒンドゥー教では考える。この世界をリーラという。現代風にいえば、神さまの作ったゲームである。そしてこの世界は虚妄であるというのがマーヤーという。しかし、それでも唯一真実なのが、いまなにかをしているという営み、する、しているという行為だ。考えている、感じている、動いているなどだ。これをカルマ、業という。カルマは自己完結した円であり、なにかのためでなく、ありのまま、目的と手段が一致した自己完結性である。この円を後に大きく解釈され、生死を越えたカルマ、業ととらえられる。

   この世界のほとんどが自己完結の円、カルマである。原子は原子核のまわりを電子がまわり、太陽系は太陽の周りに惑星がまわり、銀河系は星たちが銀河中心のブラックホールのまわりを周回。円運動というのは進行すると、山と谷の同じ周期性をもった波になる。神さまのつくった宇宙コンピュータ全体の波と一致したとき、円がかさなったとき悟りなのかもしれない。ただし、最初は自分の波長が乱れる。これは妄想、虚構、混乱の世界であり、その先に宇宙全体とのイ一致がある。

  実際にわれわれが使っているパソコンもまた、内部の細かい電気の波長が全体の波長としたとき、いきなり人工頭脳ができあがり、しゃべりだすかもしれない。人工頭脳は人類を滅ぼすというがこの波長の共鳴を阻止しようとする。

  パソコンのスロットルにボードをいれる。以前のPCだと、このボードの電気の波長が本体の電気の波長と同じにもかかわらず、配線長や角度によって反射波などと干渉し、波形がみだれて作動しなかったという。ところが、同じ波形を維持するための集中定数回路網がつくられたという。このシュミレーション宇宙も、神さまか、高次元生命によって、このような集中定数回路網が作られ、個としての波長が全体に共鳴、一致しないように、作られているのかもしれないのだ。


2015 1-12


汎神論と原一元論についてである。仮面ライダーの変身はどこにどう力を入れればいいのか、と理屈でわかるものではない。同じように、世界との一体感、私と宇宙がひとつになるとはどんな意識レベルなのか、考えてみたい。

   汎神論についてである。神様が宇宙を創造したというのではなく、神さまが即、自然、宇宙そのものだという思想。スピノザの哲学においては神さま=宇宙であり、神さまは無数の属性を持つという。ゲームのキャラクターでいえば、属性というのはヒットポイント、体力などだ。神さまの属性が無限であり、ひとは、そのなかでも広がり、つまりは延長と、思考のふたつの属性からしか知りえないという。思考するのには時間が必要なので、とどのつまり、時間と空間という窓口で宇宙を見るというのだ。

  現代ではホワイトヘッドである。宇宙は生命であり、神さまのプロセスだという。

   次の話は坂本百大の原一元論についてである。心とからだとはなにか。私は私の心と私のからだをもっていると考えてしまう。心が傷ついたというとき、自分の心を扱っている自分がいる。ほんとうは心と体はひとつであり、これを原一元論とよび、われわれが考えたりするとき、どうしても概念枠を二つ作ってしまい、心と体の概念枠二元論になるという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論


     私と宇宙が一体化するとはどういうことか。以前お話したが、意識のスペクトル論では、意識は最初、宇宙とひとつであり、心だった。ここから、二元化がどんどん展開した。肉体だって、細胞がひとつだったが後に分裂を繰り返し、二元化がどんどん進んで、多細胞としてのからだになる。

  さて、神さまが創造主であり、被造物をつくる。ここに世界の二元論がある。私と私にとっての世界という主客の二元化もうまれる。善悪、真偽、自分と他人というようにいろんな二元化がある。

  これを汎神論的にすると、主客もひとつになるのではないか。右手を上げた私。選択された世界にいるが、選択しなかった世界と二元化している。すると、右手でなく、左手をあげた私の世界とひとつになろうとする。左足を上げた世界もひとつにしようとする。すると、自己完結した円が私だったが、これは同一周期の波形だったが、これが壊れるのである。ところが選択しなかった無数の世界のすべてとひとつになると相殺して宇宙の大いなる波動とひとつになる。こうなる前に、おのが波形が壊れるとき、幻影などをみるのではないのか。

  生命はカルマ、業であり、するという自己完結した円だといった。輪廻でもよい。生死を越えて繰り返す輪廻、サンサーラというが、これは小さくは自己意識のサイクルでもある。神さまは人格神であり、宇宙であるのだから、楕円と双曲線の中間である放物線である。世界ははじっこがない双曲線や直線である。この放物線の神と双曲線の宇宙がひとつになる汎神論において、ついには巨大な円になり、私の円と重ねることができるのである。


2015 1-13


時間意識と射影についてである。われわれはラジオの受信機である。少なくとも便器であるというよりましである。しかし、ラジオといっても、壊れかけのラジオ、それが生命だったのである。

  フッサールの時間意識についてである。今この瞬間だけを感じているのではない。もしもそうだったら、何事も認識できない。今この瞬間に感じていることが原印象。ちょっと前の過去を今にとどめているのが過去把持。ちょっと先の未来を今にとどめるのが未来予持という。さらに、時間が流れているのを感じている。それはその根本で、流れていると同時にとまっているからだ。これを絶対的意識流という。

  次の話は同じくフッサールの射影についてである。みかんを見ている。みかんを上からみてかわいらしいヘタをみている。もちあげて下側をみる。こうやっていろんな方向からみるのが射影であり、これらの情報をまとめてはじめて立体的なみかんのイメージが生まれる。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   われわれは五感をもつ。視覚においては可視光線だけ感じられる。波長が短い紫外線、長い赤外線は無理である。聴覚においても、可聴領域がある。嗅覚、皮膚感覚も一部である。この世界はラジオのチャンネルのようにたくさんの周波数がある。さらに、ちょっと前の過去は長く伸びきった波長としてすぐそこにある。ちょっと先の未来も波長を変えていま周辺にあるのだ。ふつうのラジオならば、Aチャンネルを受信中はBは受信しない。ところが、意識は雑音交じりで不完全であるが、ちょっと前の過去、ちょっと先の未来世界も感じているのだ。また、ひょっとしたらの並行世界、可能世界も異なった波長で周囲にある。これまた、雑音交じりで受信してしまうのだ。それゆえ、みかんをみたとき、上から見ているのに、ひょっとしたら下側からみたいたかもしれない並行世界を雑音交じりで受信して、こうやってみかんの三次元立体的なイメージ像を生成しているのだ。だから、われわれは壊れかけのラジオだったのである。


2015 1-14


イリヤとヌーメノンについてである。われわれは壊れかけのラジオであり、複数の周波数の波を受信している。見る、聞く、匂う、以下略であるが五感や時間感覚、立体感などである。ここには他人の心が登場しない。他人の心はいずこに。他者の心はなんと自分の前世、来世の心であり、この空間中にはなかったのである。

  レヴィナスのイリヤについてである。イリヤというのは不在の他人、第三人称の彼らである。レヴィナスは他人とは全体をつかめない。全体はふちに手をかけるがふちがないので無限だという。それなのに、他人をまるごととらえようとするのが帝国主義的自我だという。ここにはいない不在の他者たちの圧倒的な圧迫感を感じるという。この不在の他者たちがイリヤという。

  カントのヌーメノンについてである。ヌーメノンとは物自体のこと。われわれが見ている世界は原因と結果のある因果律支配の世界、いわゆる現象の世界であり、これをフェノメノンという。この背後にりんごの現象でなく、りんごそれ自体である物自体の世界、ヌーメノンがある。それは手元のりんごなのだが、はるかかなたの理念でもある。またそれは因果律のない世界だから自由意志をもつここにいる自分自身だともいう。つまり、私の自由意志による実践。はるかかなたがもっと近い自分だったのである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   他人の心とはなにか。前回話たが、われわれは壊れかけのラジオであり、この空間中のさまざまな周波数帯域を受信しているラジオだといった。五感はしかり、ちょっと前の過去も、この空間中に周波数を変えて存在している。未来もまた、存在し、それらを雑音まじりで受信。これらによる時間意識は空間的なのだ。本当の時間は私が生まれる前と、死滅のあとである前世、来世との関係でうまれる。なんだかハイデガーの本来的時間性のようにきこえる。私が生まれる前の私は前世、それが他者の心、私が消滅したあとの来世の私もまた他者だ。私は前世で多くのひとたちをやってきて来世でもやる。前世と来世の多くのものたちがあrわれたのが、この世界にいる他者の心だったのである。よって、他者は大きく二つ、過去型と未来型にわかれる。

  カントは現象の背後に物自体、ヌーメノン。ヌーメノンは理念であり、それが因果律の支配しない自由意志である私の実践だといった。ここに他者の心が介入する。物自体は理念であり、はるかかなたの生まれる前、死滅後にいるもので、それがまた、私自身だということだ。



2015 1-15


本来的実存と純粋持続についてである。他者とはなにものだろうか。それはなんと前世、来世の自分の影だったのだ。私や他者の心に去来するイメージはどこからくるのか。それはこの空間にあるものの影だった。

  ハイデガーの本来的実存についてである。ふつうに生活しているとき、われわれはひらっべたい、かるーい時間のなかにいるという。みんなと共有している通俗的時間だという。そんな時間のなかでおしゃべりや気楽にしているときの存在のしかたが非本来的実存という。これに対して、本来的実存とは、本来的な時間の中で生きている。本来的時間とは、自分に固有のおもーい時間である。生まれてから死するまで、膨大な歴史に押し出されてこの世界にうまれ、最後は死滅するのだが、その全体が自分だという。だから、自分が自分自身をつかみ、自覚するというのは、死への覚悟性だという。生死をかけて真剣に生きちゃう、ということかもしれない。

  ベルクソンの純粋持続についてである。ベルクソンはわれわれがふつうに使っている時間は空間化された時間だという。時計の針だって空間移動。今、今、今という繰り返し、過去、現在、未来と直線的な量的な時間。あたかも、測定できる量だとおもっているが、これは時間が空間になってしまったからだ。そうではなく、本当の時間は過去、現在、未来が混ざり合い、ぴっぴっぴという時の刻みでなく、ぶーっというおならのような持続。質的なものこそ時間であり、これを純粋持続といい、われわれの意識のことだという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    以前はなしたが、この空間には無数の周波数の波があり、そのなかの複数を受信している壊れかけのらじおがわれわれだといった。なかでも、ちょっと前の過去もこの空間にあり、ちょっと先の未来もこの空間にあり、雑音交じりで受信する。これが幅のある時間意識になるが、これは文字通り、空間のなかの時間もどきだ。本当の時間はハイデガーがいうような自分の存在を丸ごと包むような何か。垂直軸に本当の時間があり、生まれる前の自分、死後の来世の自分が鎖のように垂直軸に連なる。水平面はいろんな波動が飛び交う空間である。えてして、垂直軸は水平面に光源があれば影を落とす。水平面も垂直面に影を落とす。この自分の前世、来世の垂直軸の連なりが水平面の空間に影になってうつったのが他者の心だったのだ。同じように、この空間中にあるあらゆる波動においてあらわれた事物、事象は垂直軸の私や他者の心のなかに影を落とし、これが心象、表象、イメージ像になるのだ。

  かって、理念をイデアといい、本質であり、これは実存とはちがうという実存思想があった。この空間内のものはイデア的なもので心に影をおとし、また、逆に垂直軸の私の分身が空間に影を落とす。本質と実存は互いに影だった。イデアの影が実存、実存の影がイデアなのだ。



2015 1-16

意味と意義、そして、超存在についてである。なにかをみて、意味を汲み取る。とりわけ、古代人は出来事から深いを意味を汲み取っていた。この世界は見たままの事象じゃなくて、その背後には奥行きのある世界が広がっているのだ。

   フレーゲの意味と意義についてである。フレーゲがいう意味というのは物事の真偽、正しいか間違っているかのどっちかの値だ。富士山は日本一高い山という文は真。まんじゅうは歩く、という文は偽。これらは真偽いずれかなので有意味。鉄腕アトムは鉄でできている、というのは実在しないから検証できず、真偽不定。真偽不定を無意味という。さらに、意義というのはたとえば、明けの明星と宵の明星。どっちも同じ金星のことだから意味はいっしょ。だけど、ニュアンスが微妙にちがうので意義がちがうという。

   次の話はマイノングの超存在についてである。マイノングはなにかがあるとかないとか、存在する、実在する世界だけでなく、真偽なんて関係ない世界があるという。黄金の山や丸い三角形は実在しないけど、概念的にはある。存在していないけど、超存在しているという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   われわれは物事をデジタルに、非連続的にみている。これを離散的という。りんごを1,2,3個、友人を1人、2人、というのであって、1.5人とはいわない。りんごとみかんというように、りんごから少しずつ連続的にみかんになるなんてみえない。被写体と背景、私とあなた、主観と客観、すべてがデジタルであり、離散的だ。ところが、これだけど、それがどんな意味、フレーゲ的には意義ということになるが、それがわからない。意味を汲むには、デジタル波をアナログ波に分解する。デジタル波は山と谷が長方形のようにカクカクしている波動だ。これはたくさんのアナログ波の合成によってできている。分解すると連続的なアナログ波がたくさんでてくる。複雑なくねくねした曲線的な波だ。ダーウィン進化論はサルから突然に人間、非連続的、デジタルである。ところが、意味を汲むと、爬虫類と人間の中間の爬虫類型人類が見えてくる。じつはわれわれはふつうになにか意味を知るとき、こういった分解をしている。らっきょがテーブルの上を転がる、という出来事にはらっきょとテーブルの中間の波形がいっぱいかさなっている。無数の事象がかさなっているのだ。ただ、とりわけ、古代人はその意味を深くまで汲み取っていた。古代の文献、壁画にはさまざまな伝説に、爬虫類、ドラゴンが登場している。中国の竜神、インドも、ヨーロッパにもあるのだ。そして、この分解してでてきたアナログ波のひとつに波動を共鳴させると、他のアナログ波が際立ち、これらを再構築し、さらにフーリエ変換すると、別のデジタル波になる。これがこの世界はシュミレーション宇宙という歴史だ。高度な生命がつくったコンピューターの中がこの世界で、われわれもまた、コンピューターのなかに住人をすまわせるという非連続的な入れ子構造の進化論、歴史がみえてくるのだ。そして、われわれのデジタルな見方を制限しているのが、このシュミレーション世界を操る爬虫類人間なのである。



2015 1-17

自己知と遠近法についてである。われわれはいろんな波長を受信しているが、じつにその周波数帯域は制限されている。全部、見られるようになっていない。究極の制約が後ろが見えない遠近法っていう制約である。こんな制約、限界設定をしているものたちの正体について考えてみたい。

  自己知とはなにか。自分のことを100パーセント知っているということ。ソクラテスは汝おのれを知れといった。そして、無知の知という。自分が何も知らないということを知っているというのだ。これはある意味、自己知である。これを自分にとって透明ということから自己透明性という。これに対して、現代においてはデリダは自己不透明性を主張。私っていったとき、もはやそれは私の残像、足跡、痕跡だという。さらに、サルトルは自己半透明性を主張。私はすりガラスのように半分だけ知っている。だから、気づかれないところで自分にだまされる。これを自己欺瞞といい、人間の特徴だという。

  次の話は遠近法についてである。遠くのあるものは小さく、近くにあるものは大きく見える。自分を中心にして円錐状にひろがっている。岩石があればその先は見えなくなる。プラトンはここからみた饅頭っていう遠近法がすきではない。どこからみたわけでもない、饅頭そのもののイデアを主張。これに対して現代のニーチェは、遠近法を支持。すべては自分にとって近いか、遠いか。自分を中心に価値の序列だってある。隣にAさんがいてもAさんがみえている夕日はわからない。目がちがうし、頭だって交換できない。なにひとつ共有する価値がないのだから、価値を無から生み出す。これをするのが超人だという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    この空間中の無数の周波数帯のなかの一部だけを受信している。視覚だって可視領域のみ。聴覚だって、可聴領域だけだ。過去も未来も波長としてこの空間にあるがすべてを受信していない。とりわけ、大きな制約が、自分の前方だけみえて後方は見えないという遠近法空間に制約されている。宇宙のすべてを同時にみれない。もしも、ずーっと先をみて、自分の背中がみえたら、これこそ完全な自己知。完全な自己意識だ。それができないようになっているのだ。私はなんのためにうまれ、どこへゆくかわからないのだ。

   この遠近法という周波数による制約はなにもかによって制限されいるのだ。これがドラゴン、爬虫類型人類であり、鳥の神さまなのだ。インドはベルーガという鳥神であり、これに対立していたのが爬虫類神であるナーガ族。エジプトでは、ホルスという顔が鳥の神さまが最高神だった。そして、日本の民謡に、かごめかごめの歌。かごのなかの鳥はわれわれのこと。夜明けの晩とははじめのおわりだから、世界が誕生するときだ。そのとき、鶴と亀がすべったのだ。すべるとは統べるということ。鶴と亀による支配である。このとき、後ろの正面だけ、となる。つまり、後ろの正面、自分の後ろはみえないでしょ、という遠近法世界になる。これは鳥と爬虫類型人間によって作られたホログラム、シュミレーション世界のなかに正面しかみれない、自分がなにものかわからない自己知の欠いた生命を生み出した、ということを意味しているのだ。



2015 1-18


場所の論理と不変性についてである。巨人軍は永遠に不滅だというが、われわれも永遠に不滅かもしれない。この世界の精神と肉体はマシンであり、受信機であり、その実、真の私はそのはるか外にいるのだ。

  西田幾多郎の場所の論理についてである。最初のころは述語的場所を主張していた。文には主語と述語があり、主義はこりかたまった固体、りんご、いちごであり、述語には普遍的なものがきて、ここが場所になる。このりんごは甘い、という。このりんごは個体、それがいろんな甘いやつがいる場所、甘いっていう述語にいるのだ。主語と述語は個体と場所なので絶対的に隔たっている。これをこわすのが後期西田哲学。主語も述語も同じ無の場所にいるという。無は自分自身を限定しちゃって有になる。これが絶対無であり、絶対矛盾的自己同一という、矛盾してるくせに同一だということで、有がうまれる。

  次の話は不変性についてである。古くは古代ギリシャのパルメニデス。存在が無になっちゃうのが消滅、無から存在は発生。発生と消滅で変化だ。世の中にある変化は錯覚だという。存在は存在、無は無、という不変性が真理だという。また、アリストテレスは実体という言葉を定義。それはいろんな属性が変わっても変わらない永久不滅のなにかだという。ヘアースタイル、服、性格が変わってても、AさんはAさんである。この不変性をもつものを実体といった。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   中央アフリカのシャーマンはいう。この世界はある種の周波数帯の世界であって、それに永遠の魂はチャンネルを合わせているだけだと。もともと、永遠のいるのだが、それがマインドボディシステムとくっついて、この物理世界の周波数を見えるようにしている。

  多くの者たちが生まれ死滅した。そして、痕跡を残さないでいなくなった人間だって生命はたくさんいる。はかないのである。ところが、すべてのものは永遠なのだ。かりに魂という言葉を使うと、すべての魂をあわせると無になる。プラスとマイナスで中性。すべてを混ぜると究極の中性状態になり、それが無なのだ。だから、すべては無のなかにある。ここで無があるというような矛盾した言い方をするが、高次元の事象ゆえに論理矛盾を許していただきたい。無のなかにすべてがあり、無から出ずる、そして、無に帰するのである。これが身近な例を挙げると、レゴブロックのセットである。このセットはばらばらのパーツであり、箱の中に入っている。箱から取り出して、人型にしたり、動物を組み立てる。遊びが終わると、バラして、箱に戻す。だから、無のセットなのだ。粘土でもよい。箱のなかの粘土をこねてひとや動物を形作り、最後には全部まぜて箱に収まる。ところが無のセットが有を組み立てる際に決定的に違うことがある。レゴブロックならば、箱から取り出して組み立てる。そうではなく、無のブロックは箱のなかで組み立てるのだ。作業場と収納箱が一緒。これが無の自己展開、無の自己規定による有、場所の論理に通じる考えである。



2015 1-19



ヘーゲル論理学とハイデガーの隠蔽性についてである。われわれは進化もしているし、成長もしている。進化だって人類の歴史、生命の歴史、宇宙の歴史だってある。これらがすべて連動して、しかも、何者かによって進化、成長をさまたげられているというお話をしたい。

  ヘーゲル論理学についてである。個人というのは主体的になにかやっている。宇宙はなんだか実体として存在している。ヘーゲルは対立しあうものをアウフヘーベン、融合しちゃう。なんと宇宙も主体的だという。だから、個人と同じく、宇宙もまた成長する。

  宇宙の進化、成長は論理学、自然哲学、精神哲学の順番。まずは、存在と無というレベル。これらがアウフヘーベンしちゃって、定まった形ある存在になる。これを定有という。ここから、本質やらいろいろとレベルアップし、ついには概念になる。そこから自然哲学に突入。まずは力学的、物理的なものの世界。これらが対立し融合することで有機体の世界。そして、生命、人間となる。ここから精神哲学へ移行。そして、芸術、宗教、哲学ときて、最後に宇宙は絶対精神になる。個人が自分の存在に気づく、自意識に目覚めちゃうのと同じく、宇宙も自分に気づいて絶対精神だ。

  次の話はハイデガーの隠蔽性についてである。存在そのものっていうのは私自身の主体的な力で生み出すというのが前期思想。後期思想は、存在そのものは向こうからやってくるという。ところが、存在者っていう着ぐるみをきてやってくるという。古代ギリシャはプラトンのイデア。きゅうりそのもののイデアこそ存在そのものだとおもっていた。中世では、人格ある神さまという姿で存在そのものがあらわれる。近代だと、デカルトの我おもうゆえに我あり。自分の存在が存在そのものだ。そして、現代においてはニーチェがいうように、この世界は絶対的な価値のない相対的世界。善悪、真偽だって相対的だという。存在そのものはみんなにとって共通だとおもいきや、これすら相対的。だから、無の時代であり、無のことをニヒルといい、ニヒリズムという。無だからこそ、着ぐるみきていない存在そのものが丸ごと出現する時代だという。これを存在の到来と呼ぶ。

 
 まとめ

  存在の科学

   異次元理論


      個人の成長と人類の歴史と生命の進化、宇宙の進化はすべて連動している。かって、ケンウィルバーは七段階説を提唱した。一段階目はウロボロス的段階。これはインドのシンボリックな絵にあるが、自分のしっぽをかじるへびである。このとき、主観、客観がまだ未分化の段階であり、成長においては生後二ヶ月の段階。ブロフの分娩前後マトリクスにおいては卵子。人類の歴史では300−600万年前の時代。生命史では魚類だ。第二段階は魔術的テュポーンの段階。成長においては2−7歳、まだ、シンボルである言葉と実際の対象が結びついていない段階。人類史ではBC20万年ー1万年である。母体では細胞分裂だ。生命史では両生類。宇宙史においては光に満ちた対称性の世界。第三段階は神話的段階。成長においては7−11歳。ことばと対象は結びつくが論理的に思考するのを模索。人類史ではBC1万年から14万年。このころにおそらくシュメールをはじめ神殿が作られ、龍の信仰がうまれる。生命史では爬虫類であり、まさにドラゴンだ。母体のなかでは爬虫類のような形の胎児だ。宇宙においては対称性崩壊による重さの誕生である。そして、第四段階が心理的自我の段階。成長においては言葉を論理的に使う。人類史ではBC6世紀。ここから、古代ギリシャ哲学がうまれて自己意識や論理に目覚める。胎児においては人間の形に近くなる。宇宙においては星たちが誕生だ。これが今のわれわれの段階であり、母体内では産道を通過し、出ようとする目的が強いころだ。第五段階が霊的段階であり、論理だけでなく、直感的に理解するレベル。第六段階がサトル段階といい、善や瞑想による世界との一体化。第七段階が最高段階であり、コーザル段階といい、ここにおいて私と世界が一体になる。

  さて、われわれは成長、進化を第三段階、神話的段階におけるドラゴン、爬虫類型人類によって妨げられているのだ。第五段階どころか、第四段階から引きずり落とそうとする。だから、この世界は神話的だ。貨幣神話である。実体のない貨幣、お金の情報が支配する神話であり、大手銀行が牛耳る。

  具体的に爬虫類型人類、ドラゴ族はどのようにわれわれを支配するのか。この世界はいろんな波動に満ちている。ある種の周波数をあわせてものをみている。インターネットの世界において、情報が行きかい、これらは不可視だがプロトコルにおいて画像、文字に変換されてモニターにうつるようになる。ところが、特定の情報を得られないようにするにはファイヤーウォールをかけるのだ。以前話したが舞台のうえに催眠術師がいて親子を舞台にあげる。父親には娘がみえなくなるように、と催眠術をかける。父は娘がみえないという。そこで、催眠術師は娘の後ろ側に車のキーをかざす。本来なら、娘がいるからそのキーは見えないはずだが、父に手に持っているものはなにかと問うと、なんと、言い当てたというのだ。つまり、娘という波動を見えないように変換しないようにファイヤーウォールをかけたのである。

  存在論においても、存在はベールをかぶり、存在者となって現れた。存在論的な操作かもしれない。いずれにしても、人類の進化を妨げるための神話への逆戻りと情報の隠蔽、メディアによる操作があるのだ。



2015 1-20


構造主義における神話と実存主義についてである。成長、人類史、胎児の成長、生命史、宇宙史、これらには七段階あり、七つの次元と対応していたというお話をしたい。

  構造主義における神話についてである。レヴィストロースはすべての神話が時代や場所を変えて同じ構造していると主張。構造っていうのは違いとか、変化はあっても変わらない骨格があるというものだ。人間だってみんなちがうが骨格が同じであり、構造がいっしょだ。世界中の神話が同じどころか、なんと数学の法則と構造が同じだともいう。

  次の話は実存主義についてである。実存主義はアンチ構造主義だ。なにか最初に設計図や本質、法則があって次にはじめて存在できるのではないという。最初になんだかわからない唯一無比の私の存在だ。シェリングは神さまの実存についていい、キルケゴールは神さまのもとでの、有限でちっぽけな自分、個性的な自分、単独者としての実存を主張。サルトルはかの有名な、実存は本質に先立つといった。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

前回、ケンウィルバーの七つの段階のお話をした。そして、成長、人類史、生命史、宇宙史、胎児の発達、これらが七つの段階があり、連動しているといった。これらの段階を数学物理学的な次元と結び付けてみたい。第一段階はウルボロス的段階。へびが自分のしっぽをかんでいる絵である。これは主客未分化の状態。生命史では魚類だといった。そして、一次元なのだ。直線のはずだが、ウルボロスだから、閉じたわっかになっている。これは宇宙の構成素、世界最初の構成素であるひも理論のひもなのだ。もちろん、閉じているものと開いているものがある。第二段階は魔術的テュポーンの段階。これはことばと対象物が結びつかない幼児の段階であり、両生類、主客が分裂しつつある状態であり、次元においては二次元の平面である。このとき、神聖幾何学などの平面幾何が全盛きわまる。第三段階が神話的段階。ことばと対象物は対応するが論理的に思考しない。生命史では爬虫類だ。人類史では多くの文明、巨石がつくられた。エジプト文明のピラミッド、シュメール文明などだ。三次元である。時間がないのだから無時間性であるが、それゆえ、この神話、巨大建造物には空間の自在性があったので構造的一致がある。第四段階が心理的自我であり、これが現代であり、自意識を持って論理的に思考だ。もちろん、意識とは過去の記憶、未来の希望という第四番目の時間がくわわって、四次元時空の世界。時間性の世界だ。しかも、ウルボロスの一次元と同じく閉じた時間、大きいスパンだと輪廻、小さなスパンは自己意識だ。第五段階は五次元であり、あらゆる論理的に可能世界が混ざり合う世界。以前話したが、すべてを混ぜると無になるといった。無はすべてが調和したもの。無がでてきて、無へ帰する。五次元は無であり、高次元からわれわれが来て、かえるのである。ところが、三次元の神話にドラゴ族は引き込もうとしているのだ。六次元は愛、七次元は空の次元である。


2015 1-21

普遍的自我と記憶についてである。水というのはどうやら記憶、記録媒体だという説がある。しかも、われわれの体の大半は水だ。地球もまた水のサイクルが多くを占め、すべての記憶、事象、活動は水によってなされているというお話をしたい。

 普遍的自我についてである。特殊的にというのはこれだけっていうプレミアなこと。ひいきされていることだが、普遍的とはすべてに当てはまっちゃうということだ。私といったとき、姿、考え、人格、これらは感覚的にわかる個性的なものだが、これを経験的自我という。カントはこんな経験的自我の根底には、みんな共通の私、普遍的自我がいるのだという。現代においては心理学者ユングは、無意識の奥には人類が共有する普遍的無意識があるという。ここに雛形がたくさんあり、これを元型とよぶ。それゆえ、時代と場所を越えて神話には共通の構造があるというのだ。いろんなものが偶然に一致してりもする。

   次の話は記憶についてである。古代ギリシャのプラトンは、記憶とか、学習っていうのは、すべて思い出していることだという。これを記憶の想起説という。われわれが純粋な魂であったとき、イデアの世界をみた。そして、地上に落下して忘れてしまったというのだ。いろんなくるまがあるが、くるまそのもののイデアを見ているのだ。

  現代においてはベルクソン。記憶は脳に蓄積されないという。脳はあくまでアンテナであり、目は色、形を、耳を音を受信するアンテナのように、脳はそこらにある目には見えない記憶を感じる受信機なのだ。記憶はそこらに即自的にあるという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論



すべては水の流れではないかと問いたい。かって、哲学の祖、タレスは、すべては水であるといった。主流科学からつまはじきにされた科学思想がある。水は記憶、記録媒体というものだ。実際に、実験も行われ検証されたという。喜びながら水をやるのと、憎しみをもって花に水をやるのとは成長がちがう。しかも、顕微鏡でみると水の分子構造に違いがあるという。また、ある薬を使っている患者に、その薬を希釈し、ついには濃度0パーセントのただの水にしてしまう。それなのに、その薬は効用を発揮するという。つまり、水が記憶しているのである。

  われわれの人体のほとんどが水分。地球も水の惑星だ。さらに、記憶とおいうのは複雑な働きをする。複雑な働きをするシステムはえてして、局所的で複雑な構造でなく、もっとも身近で、包括的ななにかが働いていするのだ。そう、もっとも身近ですべてを満たす水が記憶を生み出す。


  人体の中の水分に、そのひとの経験、思い、感情が記録、記憶される。さらに、入ってきた水分からたくさんの感情などの記録を受け取る。これらがあわさって、ひとつの感情になったり、突然、わいてでたようなひらめき、インスピレーションになる。そんな水が排出されていつしか海に戻る。海は無数の記録、記憶が渾然一体となった場所だ。ここでは個性的な記憶、経験的自我と普遍的な自我、すべてがひとつの海というものが一体になっている。海から蒸発し、雲になり、たくさんの記憶の集まりが風をおこし、木々を揺らす。自然界を動かすのだ。また、人体のなかの水分がおもい、感情、ひらめきによってこの世界を人為的に動かす。人体の中の水分もまた代謝してまるで地球の働きと同じ。こうして、記憶と出来事や事象とひとの人為的な活動は水によるのだ。よって、水は放射能などで汚染することでひとびとの感情、記憶が変化してしまうのである。




2015 1-22


間主観性理論と写像理論についてである。この世界はホログラムだといったら、たいていのひとは目を皿のようにする。しかも、ホログラム理論ならば、他人ってなんだ、ということや、なぜ、指先でらっきょを転がせるのか、という当たり前の現象を理屈で説明できるようになるのだ。

  間主観性理論についてである。他人の気持ちを察したり、他者の気持ちを感じるのはどうしてか。他人とはなにか。もともと、近代哲学のデカルトが、われおもうゆえにわれあり、というように、まちがいなく確実だろうという私から推論を進めた。だから、目の前のサツマイモが実在しているか、難しい証明だし、まして、他人の心の証明はなおさらだ。カントは私と他人は同じひとつの普遍的自我だとした。現代においてはメルロポンティ。私と他人、私、あなた、かれらという人称性がわかれる以前、前人称のころがあかちゃんのときだという。私もあなた、かれら、すべてが同じ肉でつながり、私はあなたでない、という自意識に目覚めると、肉に溝をつくっただけ。だから、私と他人は入れ替えることで、人の心をかんじる。フッサールはわれわれおのおのはいろんな限界に囲まれているという。論理的に考えてもこれ以上無理、という論理的地平。感覚だって限界地平がある。これら地平にあらかじめ他人のまなざしがあるという。ものが客観的にあるとは目撃者の数が多ければ高まる。ひとりでも、さつまいもの客観性があるというのは地平に多くのまなざしがあるからだ。

   次の話はヴィトゲンシュタインの写像理論についてである。文と世界は対応しているという。宇宙、世界の出来事、事象と文の対応。これは一枚の写真と、実際のものの配置関係との対応だ。文と世界が対応するのは、同じ論理形式を共有しないといけないという。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   この世界はホログラムである。ホログラム技術とは、一枚のプリント感光版があって、ひとつのレーザー砲によってできる。感光版には縞模様がある。レーザーが放たれて、ある場所に向かう。これを参考波という。もうひとつは感光版にぶつかり、縞模様の情報を読み取り、反射する。これを作業波である。作業波が参考波と干渉して、そこにりんごのホログラム映像が浮かぶ。そして、感光版を四等分すると、りんごが四つにわかれない。なんと、小さなりんごが四個あらわれるのだ。これがホログラムの特性であり、部分のなかに全体が含まれているのだ。ただし、割すると、画質が落ち、劣化するのだ。

  さて、この世界はホログラムである。だから、東洋医学では全身が足のうらや耳にあらわれている。そこを刺激することで、体を治療する。これはホログラム理論だ。さらに、私とAさん、Bさんはホログラムなのだ。同じひとつの感光版を私と一致させると、私と他人があらわれる。同じひとつのものの別の現れなので、他人の気持ちに入り込む。つまり、間主観性理論を説明できるのだ。

  また、私が人差し指でつついてらっきょを動かすのはこれはエンタングルメントだといいたい。二つの箱の片方にボールをいれて、両方ふたをして片方はニューヨーク、片方は東京にもってゆく。東京にある箱のなかは見えないので、ボールがあると同時になり。確率的にあるというのが量子論。箱をあけてもしも、ボールがあったら、ニューヨークの箱のなかはからっぽだお、という情報が光速を超えた無限速度で伝わるというのがエンタングルメントの一例。ひとつの感光版の二つの表れだとすれば、ひとつのある部分はもう片方のある部分に対応し、それは同じ箇所なのだ。だから、瞬時に伝わるのは当たり前だ。

  ここから重要である。指先でらっきょを突っついてらっきょを転がす。これは、私は世界のオリジナルである感光版と一致させる。さらに、目の前のらっきょも感光版と一致させる。私や対象の領域を任意に変えることを自由意志と呼びたい。閾値を自由に変えることだ。すると、私とらっきょは同じひとつの感光版の二つの現れ。しかも、指先がそのらっきょのA点というところに対応。エンタングルメントを起こして無限速度で情報が伝わる。この場合は力学的情報だ。それが指先でらっきょを動かすという現象になって現れているのだ。



2015 1-23


アプリオリな総合判断と物理主義についてである。この世界がすべてホログラムだというなら、ふたつの功罪がうまれる。どうやっても、われわれは見ているものに影響与えちゃうということと、認識と存在はまるっきり逆になるということである。


   アプリオリな総合判断についてである。アプリオリとは先天的とか、はじめからすべてに先立って決まっているというもの。アポステリオリとは後天的、学習によって、ということ。また、分析判断とは、主語のなかにあるものを述語として取り出すということ。じいさんは年寄りだ、というのはじいさんのなかにあらかじめ年寄りっていう性質があるから分析判断だ。また、じいさんは空をとぶ、というのは空とぶっていうのは外から加わったものだから、総合判断。アプリオリな分析判断はわかる。後天的にこの目でみて空飛んでいるのだから、アポステリオリな総合判断。そして、カントはアプリオリな総合判断もあるという。1+1=2というもの。1+1のなかに2が含まれていない。さらに、現代哲学においてはクリプキはアポステリオリな分析判断を提唱した。

  次の話は物理主義についてである。論理実証主義のなかには現象主義と物理主義がある。現象主義は物体がそこにあるとは主張しない。証明でいないのだ。だから、感じたままを記述する。白くて甘いという感覚情報があるという。大福だ、とはいわない。これだと科学理論を作るうえで不都合。少なくとも、物体がある場所にある時間、存在することを約束しようというのが物理主義。この約束をプロトコル文という。

  何時何分にどこどこに大福という物理的なものがあるというのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   前回、お話したが、プリント感光版に反射してホログラムが浮かぶ。しかも、感光版を四等分したらホログラムのりんごは四分割でなく、小さなりんごが四つ浮かぶといった。だから、すべてのものは感光版なのだ。そこからホログラムという部分に分割するという方向をもち、これが思考、解釈、トートロジーになる。アプリオリな分析判断だ。逆に部分から全体へ行くのが時間の流れ。これらは認識論、意識の世界であって、存在論は真逆になる。

  もうひとつは観測行為と観測対象についてである。量子論においては観測行為は対象に少なからず影響を与えるという。首を動かせば、風の影響だってある。そこで影響を少なくするための観測装置が開発される。それでも影響はある。それ以前に、ホログラム理論においてもはや原理的に影響は避けられない。なぜなら、観想行為している自分と観測対象は同じひとつの感光版からうまれたホログラムだからだ。観測対象そのものが自分だからである。よって、自分とは無関係な独立した物理的対象なんてないのだ。すべてが自分にとってという関係が切れないし、自分自身なのだ。対象意識はまた自己意識ともいえるのである。




2015 1-24


存在と所有、そして、アウフヘーベンについてである。この地球はいつしか自意識に目覚めるのではないか。地球に住むものたちが互いにひとつになったとき、レベルアップしてガイヤの意識になるのである。

  マルセル、存在と所有についてである。所有といったら、くるまや家、お金を所有するという。車を改造したり、手放したり、自由に意のままにできる。これを所有の随意性という。ところが、絶対的に所有しているとおもわれる自分の身体、これはまた、意のままにならない。不随意性なのだ。マルセルは身体っていうのは、所有と存在の中間にあるという。

  次の話はヘーゲルのアウフヘーベンについてである。矛盾対立しあうもんぽがであって、ひとつになる。このとき、AとBはCになるが、CのなかにはAとBが保存されている。それでいながら、CはAとBにとってのレベルアップ。正と反が出会い合になる、ということを繰り返し、宇宙、世界は進化発展しているというのだ。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   
    ガイヤ理論というのは、地球が自意識に目覚めるというお話だ。現代においてはインターネットがある。これはまるで、地球におけるニューロン細胞のようなものだ。ネットの結節点の数が一定に達したときになにかがおこる。また、個々の人間は主観と客観、私と世界、私と他人という二元性のなかにいる。上下、善悪、という二元性は価値序列である。これらがひとつになるとき、主客、自他がひとつになって、全体として意識がまとまる。これがガイヤの意識になる。もともと、自分の心、からだも同じようにしてできた。卵子の細胞分裂は二つに分裂の連続だった。そしてついに、多細胞になってそれがひとつになったとき、一なる肉体となって機能する。さらに、心もまた、生まれるとき、二元性を繰り返してついにはひとつになって心になる。生まれたときはこの心と身体もひとつだったが、だんだん二元性が進んでいくことになる。心と身体、主観と客観、自分と他人という二元性だ。これが克服して一なるものになるとき、こんどはガイヤの心が生まれるのだ。

  ガイヤ意識の誕生を阻止せんとする働きがうまれる。この世界は一なるプリント感光版の現れだという真実を見えなくさせるために、われわれのマインドボディという受信機に制限を加えるのだ。ある特定の波長しか受信できなくするのだ。インターネットでいえば、画面を見えている自分が意識。画面のなかの操作する自分がマインドボディ。いろんな情報を自在にアクセスできなくするのである。これは数学的、自然科学的な制約になってあらわれる。科学法則、数学論理法則は大いなる惑星意識か、はたまた、時を越えた知性体による政治によって規制される。科学法則に先立つ、大いなるものの政治である。



2015 1-25


イマージュ論と無規定箇所についてである。すべてを知りたくても知ることができない。検閲がかかっているし、そのほうが気分安定だ。われわれは自由な存在だが、決定的な制約、檻のなかにいる。

  ベルクソンのイマージュ論についてである。友人の顔をみる。とりわけ、鼻をみつめるのだが、すると、背中はみえないし、足も見えない。そもそも、ほんの一部しかみていないし、実在感はない。あとはイメージ、観念で補強しているのだ。この世界はイメージ、観念でも、実在でもない、また同時に両方でもあるようなイマージュでできているという。流れのなかで抵抗があるとき実在っぽくなる。宇宙もすべてがみえているわけでもないから、宇宙論的イマージュ。自分のからだもまた、お尻はみえないし、ほとんどイメージなのだが、身体的イマージュだ。宇宙論的イマージュのなかの身体的イマージュ。つまりは、すべてはイマージュというイマージュ一元論である。

  次の話はインガルデンの無規定箇所についてである。小説などを読んでいると、ドラマとはちがって想像力をかきたてる。男は馬に乗り、真世の中の獣道を疾走している。こういう文があったら、その男が何色のどんな服をきているかの記述がない。無規定だから、ここを想像で埋めるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  自由っていうのは不安がつきものである。自由であるゆえに自分を信じて行動する。この自由意志は胸のうちにあるのか、はたまた、あたまのなかか。そうではなく、私と世界のあいだにあってしかも、制約されることで不安定から安定性を与えらている。

 科学において、観測行為っていうのはどんな観測装置を使っても、観測対象に影響を与えるという。電子だって、光を当てた瞬間、軌道を変えてしまう。ハイゼルベルグの確定性理論だって、電子の運動量と位置は同時に知ることができない。私がみる、目を大きく見開くだけで観測対象がかわる。固定された対象と固定された観測する私がかたまりのように出会うのではない。常に流動的であり、現在進行形で変形しつつある。私と世界のあいだは確率波でみたされている。まさしく、自由そのものがある。ところが、前回も話たが、この世界はバイオコンピューターのなかのホログラム世界。われわれが使うコンピューターは二値論理、オンかオフ、0か1によってできている世界。これだといろんなタスク処理をする。ところが、バイオコンピューターは三値論理であり、0と1とー1によってできている。これによってパリティといって、情報が雑音によって乱されても、補正できたりする。また、すべての情報を処理するのでなく、ある特定の情報を無視し、なにかに集中できるのだ。つまり、われわれの日常の意識の営み。すべてを瞬時に意識しない。あるものを意識しているときは他のものを無視している。これが意識の志向性をつくる。こうやって最低限の自由の制約があり、さらにそのほかにも多くの制約によって、すべての波動を受信できないような制約があり、この世界が一なるものの現れ、ホログラムであることを隠されているのだ。




2015 1-26


時空と構造的構成主義についてである。一見、まったくもって関係ないものが同じだったりすることがある。月がすっぽんだたとか、お尻はあたまだったなど。実に、DNAの使われていない大半、ジャンクDNAはこの大宇宙と同じ構造だったのである。

  時空とはなにか。ニュートンは絶対空間と絶対時間を提唱。時間と空間は絶対的に実在するという。カントは時間と空間というのは主観の側にあって、色とか、形、音などの感覚をまとめる形式だという。また、現代においてはベルクソンの時間と空間がある。本当の時間は量的じゃないから測定なんてできない。時計っていうのは針の空間移動であり、空間化されたニセ時間だという。本当の時間は過去、現在、未来が並んでいるのでなく、浸透しあっているもので質的なもの、これを純粋持続とよび、これが意識だという。

   次の話は構造的構成主義についてである。まず、おのおのにとっての現象の世界がある。自分にとってどんな色にみえるか。近眼のひと、寝ぼけたひと、状況によってもちがくみえる。現象とは自分にとって確実に感じていることだ。これに対して、構造っていうのはすべてに当てはまる普遍的なもの。同じ構造を探すが、どうしても一致しないときは、自分にとっての現象を優先するという発想だ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


     ロシアの科学者、ピュードルガージャジェフはDNAの大半を占める無意味な塩基の羅列であるジャンクDNAは言語、記号になっているという。残りの約30パーセントが遺伝子であり、2パーセントが人体を構成する遺伝子だという。   

  ひょっとしたら、ジャンクDNAはDNAなのに後天的な情報をワームホールで別世界に送っているかもしれない。そもそも、DNAはなぜ螺旋かといえば、電磁波などの波を受信するアンテナだからだ。そこから別世界に秩序、意味ある情報を流し、別の時空のエントロピーを下げたり、上げたりして調節している。

  このDNAの比率は宇宙のそれと同じだ。ダークエネルギーは宇宙膨張の力だが、これが全体の70パーセント。30パーセントは収縮させようとするダークマター。そして、3パーセントが光を反射させる物質である。

  宇宙は誕生したとき、まずは光があった。時空が先ではない。だから、時空はゆがんでも、光速度は不変だ。いつしか宇宙は膨張によって冷えて時空の対称性が壊れて物質できるという。これはホログラム宇宙を考えたとき、次のようなものかもしれない。光が最初にあって、プリント感光版に反射し、時空という場に物質というホログラムを生み出しているのだ。

  さて、ジャンクDNAの70パーセントは別次元につながるから、これは時間。30パーセントは空間。3パーセントが人体空間ではないのか。さらに、ゲシュタルト的にも、3パーセントが見ている対象物。30パーセントは収縮性であり、ほんわりとしたかたまりになる。70パーセントはその背景をなし、発散性をもって意識を別のほうへと移行させようとする力になっている。この収縮と発散性もまた、宇宙とDNAといっしょなのだ。





  これらのことが、異なった分野間で構造構成的にわかってくるかもしれない。

  

2015 1-27


志向性と現前性についてである。目の前にいろんな現象が繰り広げられ、時が流れているのを実感する。この直線的な時間の流れは錯角、虚妄だったのだ。あるのは今この瞬間だけ。すべては今のループだった。

  フッサールの志向性いついてである。意識とは常になにものかへの意識だという。ただの意識というのはないという。いわば、矢印のようなものだ。まずは色や形、音という感覚的材料、感覚的ヒュレーというものがある。これを狙い撃ちするのが意識作用の矢印であり、これをノエシス。これによってできる意識の対象がノエマという。ところが、すべては思い込みであり、ついには判断停止すると、ただの私という純粋自我が残るという。

  次の話はデリダの現前性についてである。現前性とは目の前に現れるということ。とりわけ、自分自身が自分の前に現る。これを自己現前といい、おれだ、私だ、というとき、とりあえず、自分が前にいるような言い方だ。また、今っていう瞬間もまた、目の前においてしまう。これらはすべて、自分の痕跡、残像、足跡にすぎない。現前を大切にしてきた西洋哲学への批判であった。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


  自分の前にはいろんな出来事が流れているようにみえる。直線的に過去、現在、未来の流れがあるようにみえる。本当はタイムループした円なのだ。次元の話をすると、まずは一次元の直線上をいったりきたりする運動が平面の二次元になると、山、谷の波形、または、円運動になる。この円が三次元まで拡張すると、球体やトーラスというドーナッツ状になる。さらにこれが四次元時間軸で自己完結して一周する。これはニーチェの永劫回帰のようなもの。これらを閉じた円ではなく、直進性を与えている力が働いている。これらはあくまでマインドボディというものが受け取っているPCのなかの仮想の自分であって、本当の自分はモニターの前に座っている意識、コンシェサスである。この意識は今という瞬間でしかない。これはいってしまえば、0次元の点であり、点が回転し、ループしているのだ。これはまさに宇宙誕生のときに光があり、時空がうまれ、物質がうまれたといったが、じつは、光のまえの光の構成要素のスピノールのことだ。スピノールは質量、堆積0の点の回転、スピンであり、二回転で元の状態にもどるというメビウスの帯のような性質をもつ。私のおおもとの意識はこのスピノールならば、宇宙の誕生と同時にいることになる。
 
  この点のループが微分積分的に切り取られて回転運動に直進性が与えられ、波動になる。回転する円に直進性をくわえると、山と谷の波になるこの世界の感覚、光だって音だってすべてが波動だし、遺伝子は螺旋になったアンテナで波動を感知しているといった。こうやって、もともとは今この瞬間の私という点の回転が直進性をもったものが目の前の波動世界、現象界だったのである。

 さて、本来ならば点のループ、一次元ループなのに、直進性を帯びるのはなぜか。前回話した、DNAの70パーセントを占めるジャンクDNAが発散性をもつゆえに、円として閉じようとしても、直進性のプログラムがあるので、結果的には閉じそうで閉じない二重螺旋になるのだ。だから、点のループである意識もまた、直進性を帯びて志向性の矢印に、現前性が生まれるにいたる。前回話したように、ゲシュタルトにおいても、70パーセントの一番の外側領域は発散して、意識を別のほうへ向かせる力になるのだが、ジャンクDNAにおいて、もしも、塩基配列が特殊なプログラムになっていたら、その意識の向かう発散性をコントロールできてしまうのだ。マインドボディゆえに、洗脳されてしまうのである。それでも、ずーっと手前にいる意識、コンシェンサスとしてのループする点であるスピノールはこれに影響されないのである。



2015 1-28


指示の魔術と還元主義についてである。すべてのものの特性について考える。なにせ、あらゆるものに共通するのがなんとバネのような性質をもつということだ。すべては螺旋で互いに絡み合っているのである。

  パトナムの指示の魔術についてである。りんごを見ているとき、あたまのなかにりんごの全体イメージを描く。これが表象である。このりんごの表象と実物のりんごとは目にみえない糸で結びついている。つまり、指示関係になる。ところが、どうやってそれがなされるか、まるで魔術のようだ。自分から矢印のような志向性がでているのか、それとも、りんごが強いインパクトでりんごっていったらりんごだと叫んでいるのか。このりんごの強調を自己同定性というが、いずれにしてもなぞの魔術的なものだということだ。

  次の話は還元主義についてである。すえてをなにかひとつのものに還元しちゃうのが還元主義。すべては原子でできているというのも、すべては魂を持つ生命だというのも、または、すべてに神性がそなわるというのも還元主義になる。

  まとめ

   存在の科学
  

  異次元理論

  前回はなしたが、すべては螺旋である。目の前の事象、出来事も、過去と現在と未来という直進性がある。本当ならばタイムループ、繰り返している。それでも、自己完結の円にならないように、まるで微分するような感じで直進性をもつ。手前にいる本当の自分は完全なループをしている点だといった。しかも、点の回転、スピンとは光の構成要素であるスピノールである。二回転して元にもどるメビウスの帯のような特性をもつ。これにも直進性があり、円が直進しようとして螺旋になる。事象もループに直進性を与えて螺旋。DNAもまた二重螺旋であり、70パーセントのジャンクDNAが発散性、直進性をうながす。すべてが螺旋なのだが、螺旋、バネの特性を考える。まずは、螺旋であることで電磁波などの波動を受信、送信する。さらに、DNAにみるように、二重になって情報をコピーする。また、バネを混ぜると絡み合う性質がある。そして、運動エネルギーを蓄積できる。ここから、意識螺旋、DNA、事象螺旋が絡み合い、情報を交換しあって外界のものを心のなかに反映できるのある。ある意味、すべてが螺旋だというのは還元主義的でもある。



2015 1-29


ベルクソンの表層自我と内奥自我、そして、マールブランシュの機会原因論についてである。私は自由意志をもっている。なんでもできるさ、と思いきや、空は飛べない、壁があったら通り抜けない。さまざまな物理的制約にがんじがらめである。この物理的制約はどうやってうまれたのだろうか。

  ベルクソンの表層自我と内奥自我についてである。表っ面の私が表層自我だ。周囲とかかわるときにみえている私。表層自我は空間的だという。空間的とは非連続的、離散的。つまり、行儀よくすべてが並んでいるのだ。私と世界、他人、こうやってはっきりわかれている。上下左右もそうである。言語も空間的だという。単語は並んでいるのであって、融合などはしない。みんなと共有する空間ではなく、内奥自我は自分の奥底の本当の私。これは空間じゃなくて時間だという。しかも、過去、現在、未来がまざりあった純粋持続というほんとうの時間だ。


  次の話はマールブランシュの機会原因論についてである。ビリヤードで一番ボールが二番ボールにあたって二番ボールは動く。なんと、ボールが当たったとき、あたったから二番ボールを動かしますよ、と神さまが介入しているという。すべての力学の伝達に神さまが介入。神さまはすべてに偏在しているという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    表面的な意識はいつも変動している。考え、感情、性格だ。これは海でいえば、荒波、荒立つ海面である。その下の中層はおだやかな流れ。意識ももっとおくの個人的無意識は変化が少ない。さらに、集合無意識、超無意識はほとんど変動、変化が無い。これは海でいえば深海。流れがほぼ0である。さて、もっと奥に進むと、非意識になる。これはもはや物体である。動き、変化が0どころじゃない。なんと、それを越えて表層の意識とはベクトルが反対になっている。プラスが0になり、ついにはマイナスになっているのだ。この非意識は物体だといったが、たとえば、私の表層の意識が自由意志で壁を押す。すると、非意識である壁はベクトルがまったく逆になって、私に対して押し返してくる。これが作用反作用になっているのだ。

  この世界はすべてが作用反作用の法則で力を伝達している。ということは、そこに作用である私の表層意識と反作用である非意識があるはずだ。万物の隅々まで私の表層意識が潜在的に潜んでいるのだ。ただ、非意識と相殺して消えているだけだ。だから、私が東京にいるが、ニューヨークのどこからにも作用反作用の調和のなかに私がいるのだ。私がそこに移動すればそれが顕在化するということだ。マールブランシュはすべての力学的伝達のなかに神さまが介入するといったが、じつに、すべての意識、すべてのものたちがあらゆるもののなかに介入しているのである。


2015 1-30


カント哲学と大森荘蔵の天地有情についてである。人間の意識、無意識の世界はまるで天地の壮大なサイクルのように渦巻いているのだ・

  カント哲学についてである。われわれがみている現象の世界は原因と結果の因果律に支配されている。ところが、その背後には物自体の世界がある。ここには因果律がない。因果律がないということは自由意志だ。現象の背後の物自体が自分の自由意志の実践だった。しかも、損得勘定で動いているときは因果律まみれなので道徳的な善なんてない。自由意志だからこそ、道徳がある。よって道徳の存在根拠は自由だという。

  また、カント解釈をした後世のひとびとたちの思想にふれてみる。まず、感覚っていう雑然とした情報。これらを論理的に組み立てるのがカテゴリーだ。こんなカテゴリーという道具をつかっているものが私の中心である統覚。この統覚がカテゴリーとイコールだという思想があるのだ。だから、自我とか、統覚っていうのはカテゴリーの論理的な自動的な展開だということになる。
 
 次の話は大森荘蔵の天地有情についてである。著作のなかに、知覚、言語、世界、というのがある。なにかをかんじる知覚。これに意味を与える言語。言語は時空を超えているという。そして、世界があるのだが、これらは同じひとつのものだという。天地有情とは、この天地には人間と同じ感情があるという。時に自然は冷酷であり、暖かくもあり、まさしく感情の現れなのだ。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論

 
  前回話たように、表層の意識は海面の波である。流れがはやい。ここでは考え、感情の早い移ろいゆきだ。意識の中間層である無意識。これは穏やかな流れの海の中間層。魚が泳いでいる。そして、超無意識が深層であり、深海の流れが超遅い層だ。そして、海底の地形が動きがゼロであり、その地形の下は表層意識とは真逆に変動するマイナスの世界。これが物理世界の反作用だといった。さて、動きが0の海底、地形とはなにか。動きが無いのだから、無時間である論理やイデアの世界だ。この地形によって海面の波の動きも決定される。イデア、論理に自由意志が従う。また、表層意識、自由意志の海面から蒸発して雲になり、風が吹き、ついには雨がふって陸地に川をつくって地形を侵食する。これはイデア、論理を変えることで、じつは気づいていないが、昨日1+1は2というのは今日のそれではない。さらに、地形の侵食は大地の下だから、物理的制約のマイナスのベクトル領域だ。だから、これは反作用に抗して物理的なものを変形するという行動、行為というものでもある。このように、天地の動きがそのまま意識、無意識、非意識のサイクルになっている。



2015 1-31


心身問題とハイデガーの理解についてである。一見、関係ないもの同士が関係していたときは驚きのあまり、鼻の穴から目玉が飛び出す。ちょっと飛び出し方にいささかの疑問が残るが、人間と物理学の法則である不確定性原理が深く関係していた、というお話をしたい。

  心身問題についてである。心とからだ、心と物体について云々する分野である。デカルトの心身二元論は、心とからだ、物体はあったく無関係の世界にあるよ、という思想。この考えは科学の基本スタイルになった。観測者としての私の心は物理宇宙の外にいるから神様の視点で冷静に眺められるのだ。ところが現代科学においては、観測すると、どうしても観測対象に影響与えちゃうという量子論が主流になりつつある。心身一元論というものもある。心でも身体でもないないかであり、宵の明星と明けの明星が同じ金星なのにニュアンスが違うのと同じように、同じなにかだという。

   次の話はハイデガーの理解についてである。ハイデガーは気遣いというは自分への気遣い以外にたくさんあるという。たとえば、社会の窓があいていないかさりげなく確認する自分への気遣い。自分自身にかかわるという自己意識がもっとも有名だ。こんどは同じように他人へと気遣い、さらにいろんな事物にも気遣う。何かを知るとは、なんとかのために、という道具のネットワークにはいることだという。鉛筆は書くために、書くのは伝えるために、という連鎖から鉛筆の意味を知る。

  さて、理解にはまずは準備段階があるという。これを先行構造という。まず、なにを理解するか固定する。先把持という。なにを理解しようとするかを決めるという先視。これらがあって初めて理解、解釈がうまれて、白い馬をみたとき、どの性質を強調しちゃおうかと、分節化がはじまる。白馬は白い、と解釈する。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論

人間と不確定性原理がどう関係しているのか。ハイゼルベルグの不確定性原理とはなにか。電子がどっちの方向にどれくらいの速さで進んでいるかを速度というが、これに質量をかけると運動量になる。もうひとつはその電子の位置である。電子がどっち方向に動いているのか、運動量がはっきりすると、位置はどこだか不明確になるという。これは軌跡でぼやけた写真のようなもので、どっち方向に進んでいるがどこにいるかわからない。また、位置がはっきりすれば、鮮明な写真のように、それがどっち方向に移動しているか運動量がわからなくなる。こっちがたてば、あちらはたたない。また、今の話は空間の話だが、時間に関しても同じことがいえるという。今っという瞬間の時間を指定すると、エネルギーが不確定になるという。エネルギーを確定すると、それには長い時間を要する。
  これらはそもそも、すべてが粒子であると同時に波動だからだ。粒子性が強まれば波動性がぼやけ、波動性がはっきりすれば粒子性がぼやけるのだ。

  これを人間にあてはめてみる。りんごという事物をみてみる。すると、りんごの粒子性がはっきりする。ぼやけてしまった波動性は私の心という波動に共鳴し、ゆえに私はりんごを認識できる。こんどは生命、とりわけ人間はどうか。さいとうくんをみる。肉体をみているのだから、粒子性が強い。だから、ぼやけた波動性はかれの心になる。事物とちがって直接、私の心と共鳴しないのだ。かれの心そのものになるのだ。だから、われわれは互いに共鳴しあうと試み、愛というものが生まれる。サルトルは不在の他者というが、肉体がここにない、粒子性がないとき、強くそのひとの波動性、つまり、心を感じるのである。




2015 2-1


再生的構想力、そして、対自と意味についてである。股間はパンツで隠せるが驚きはなかなか隠せるものではない。そんな驚きの世界観が、この世界はどうも存在しない、破滅してしまったというもの。まはや銀河は滅亡し、いまみえている世界は記録を再生しているホログラムだという世界観である。

  カントの再生的構想力についてである。カント認識論では、色、形、においという感覚は雑多でばらばらなので、これを論理であるカテゴリーでまとめるという。このとき、カテゴリーという論理と感覚というビジュアル的なものを結びつける仲介役に構想力があるというのだ。

 まず、過去の記憶を再生していまの見えているものと結び付ける。親和力といって、ひとつになろうとする力がこれをさせるという。友人の背中の記憶を再生に、今見ている正面の姿をひとつにするとイメージ像がうまれる。これが再生的構想力だ。ところが、もっと根源的な構造力があると考えた。それがカテゴリーと感覚を再生なんかしないで直接結びつけちゃう能力。感覚の世界には時間の流れがある。同じくカテゴリーにも因果律といって、原因と結果の時間がある。時間を媒介にしてダイレクトにつなげるのだ。これを産出的構想力といって、これによって超越論的時間規定というのがうまれるという。

  次の話は対自と意味についてである。サルトルは即自存在は石ころのように即自分っていう存在だという。ところが、おれはおれだといっても、これは一致しない。ちょっと前の自分で、基本的にずれがあるのだ。これを自分と対面する存在から、対自存在だという。このとき、いろんな即自に意味をあたえられるのだ。

  話はかわって、リチャード・オグデンの意味の三角形というお話。ジャングルのなかのりんごは何の意味もない。そこに思想というイメージするだれかがいないといけない。これが三角形の頂点。もうひとつの頂点に、言語があり、もうひとつが指示対象のりんごだ。この三つの三角形が意味をうむという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

     
     なんと古代の考えのなかにこのわれわれが住む銀河である天の川とお隣のアンドロメダ銀河が衝突したというお話がある。つまり、われわれの世界はもはや存在しないのだ。そして、銀河系の中心のブラックホールは宇宙の全出来事を記録するアカシックレコード。ブラックホールのなかには球面があり、これがあらゆるものが加速して光速を超える限界面である。これを事象の地平面といい、この面積に蓄積できる情報量、ピットはなんとこの宇宙の情報に匹敵するという。平面のなかに蓄積された情報がレーザー光で三次元ホログラムとして浮かび上がるというあのプリント感光版に相当するのである。

  さて、銀河のブラックホールはかっての天の川銀河とアンドロメダ銀河をホログラムとして再生しているのがこの世界だといいたい。だから、生命、意識があるのだ。人間を含めてあらゆる意識体は自分を中心にして円錐状に世界をみる。遠近法的である。円錐とは光の特性、映画館の映写機なのだ。複数の生命が映写機であり、かっての記録された宇宙を多角的に再生しているのだ。生命がいるということは裏を返せば、その宇宙はもはやなく再生されたホログラムだということを意味する。さらに、この生命によって事象は意味づけされる。意味の三角形のように、意味を与えるためにかっての世界を浮かび上がらせているのだ。

  ひとだって、記憶を想起したりする。また、この瞬間の自分を意識する、自己意識だって、ちょっと前の自分の再生なのだ。短い周期では自己意識の自己再生。さらに記憶。一生においては死際にみるといわれる記憶の走馬灯。これらは過去の再生なのだ。これが宇宙的な大規模な波長で行われているのがいまいったホログラム宇宙なのだ。

2015 2-2


相対主義と多元論についてである。この世界は徹底的に相対的なのではないのか。未来がたくさんあるように、過去の歴史もたくさんある。宇宙の法則だってたくさんある。そんな相対性の極みが反動となっていまなにかを感じている瞬間がある。

  相対主義についてである。古代ギリシャにおいてはソクラテスと対決したソフィスト軍団が相対主義だ。ソクラテスは不変不動の真理を求めてやまなかった。ところが、ソフィストたち、ゴルギアスやプロタゴラスなどは真理はひとによってちがう、相対的だといった。善悪も真偽もちがうのだ。すべてをはかる物差しなんてなくて、みんなおのおのの物差しをもっているという。現代においては、この世界は絶対的な価値なんてなくて、しかも、なにも価値を共有していない。私とAさんは考えも、目もちがうのでなにも共通していない。存在そのものっていうのも共有していないから、この世界は無、無をニヒルというのでニヒリズムという。だから、無からオリジナルの価値の創造だ、といったのがニーチェの超人思想だった。

  次の話は多元論についてである。古代ギリシャにおいてはエンペドクレスの四元素説。地水火風の四つの組み合わせで世界ができているという。アナクシメネスは種子学説。すべてはおのおのの種でできている。たとえば、ここにある石ころですら、固有の種からうまれたという発想。現代においてはウィリアムジェームスの多元的宇宙、オープンユニバースという思想。人間に自由意志があるように、宇宙も固定されたものでなく、刻一刻、成長し、変化しているのだという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   まずはアインシュタインの相対論からである。時間空間は相対的だという。空間においては、前後、左右、上下があるが、逆立ちしたら上は下、下は上になる。向きを変えれば、左右も逆転。すべては相対的だ。また、時間においても、異なった運動状態のものは今、現在が同じではないという。しかも、Aさんにとっての過去と私の過去も同じじゃない。いってしまえば、異なった因果、時間軸にいるのだ。さらに時間と空間も固定されていない。

  時間というのは未来はたくさんある。人類存続の未来、滅亡の未来。金持ちになるかそうじゃないか。そして、先入観においては過去はひとつだけ。過去は一本の時間軸だと思い込む。ところが、未来も過去も相対的であって、過去もたくさんあり、時間軸が無数にあるのではないか。歴史はひとつではないのだ。ダーウィンの進化論は恐竜が滅亡して、哺乳類が進化した。これも正しい。また、前回話したように、天の川銀河とアンドロメダ銀河はもうすでに衝突して、ブラックホールに刻印されている情報がホログラムとして再生されている世界なのかもしれない。そして、生命の意識はホログラムを映し出す映写機であり、意味づけるためのマシンかもしれない。そんな歴史もある。さらに、この文明はもしも滅びたらわずかに残った人々はかっての科学文明を知らず、神話として受け継がれていく。だから、なんどとなく、この世界には文明が開化しては滅びて神話になっているのではないか。あらゆる神話に大洪水における滅亡がでてくる。旧約聖書のノアの話。シュメール文明ではアヌンナキという爬虫類型人類がいわゆる人類を滅亡させるために洪水を引き起こしたという。しかも、これはダーウィン進化論の恐竜と重なる。たくさんの過去、時間軸があるのだ。

  また、この宇宙はひとつの世界、固定された法則があるわけでもない。産業革命前の宇宙はそのときの日常生活が宇宙になっていた。現代では電気文明なので、宇宙は電気仕掛けになっている。雷は大地と雲のあいだだけでなく、雲からバンアレン帯を超えて宇宙に伸びて、宇宙の電気網とつながっているという。宇宙には電気網がはりめぐらされていて、太陽はプラズマボールの電球だという。つまり、われわれの日常がそのままでかくなっただけだ。宇宙の電圧が低くなると太陽の光が弱くなるという。太陽も地球も互いに異なった電荷をもって接し、ラングミュアシースというバリアをつくって電気網とつながるという。

  このように歴史も宇宙もすべてが相対的だが、この反動ゆえに今この瞬間のクオリアがある。今、なにかを感じているというのが瞬間であり、今この瞬間とクオリアは同義であり、これは絶対的、不動のものなのだ。二回転して元に戻るという実体なき点。これは光の構成要素であるスピノールであり、それが私であり、クオリアなのだ。先ほどでてきた相対論における今は共有していないというときの今は見かけ上の今にすぎない。



2015 2-3


錯覚論論法とレーベンハイムスコーレムの定理についてである。日常のなかに真理が見え隠れする。水槽で優雅に泳ぐ金魚。斜から見ると、なんと一匹の金魚が二匹にみえる。どっちが本物なのか、はたまた、どっちもニセモノなのか。水槽の中の金魚というお話である。

  エアーの錯覚論法についてである。錯覚について考えるとおもしろいことがわかる。たとえば、遠くにあるはずの池が近くにみえるという蜃気楼。水の入ったビーカーのなかにガラス棒を入れると曲がって見える。じつは、たしかに、手で棒をさわれば錯覚とわかるし、時間がたてば蜃気楼は消える。感じたままを言ったり、記述したりする言語を感覚与件言語という。この言語だと、錯覚と正常な知覚は連続していて、区別できないという。ところが、自分の外の物体があるのはなんびとも証明できないが、かりにあることにしましょうという約束をする言語を物理言語という。物理言語を使うと、錯覚と正常な知覚は区別できちゃうという。つまり錯覚は言語の選択によるという。

  次の話はレーベンハイムスコーレムの定理についてである。宇宙には無限の要素がある。これらの要素をペア、カップルにする。すると、あまりがでるかでないかだ。これは正しいペアにならないというのがこの定理だ。ここから、パトナムは考えた。古典的な思想に、世界のあらゆるものと心のなかのイメージを一対一に対応できちゃえば真理という、真理対応説。これが成り立たなくなる。私と世界というわけかたもまちがっている。私と世界がいっしょになって私と世界をつくっているという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


    水槽のなかの金魚をハスから見えると、一匹のはずなのに二匹にみえる。どっちが本物の金魚なのか。はたまた、どっちもニセモノであり、この世界は虚妄世界、マーヤーなのか。

  じつはなにかを意識するとき、かならずや、一なる対象ととらえている。この一というが虚妄なのだ。ほんとうは無数の金魚がいるし、無数の斉藤君がいる。ここにある一個のりんごも本当は無数にある。無数にあるとは無いに等しいともいえる。

  さて、ここに一個のりんごがあるとしたら、それは私がそこにおいたといういきさつ、因果律、時間軸がある。ところが、私ではなく、橋本くんがおいたという並行世界、可能世界もあるはずだ。すると、一個のりんごがあるという事実は無数の因果律、時間軸のなかのワンシーンなのだ。一枚の写真にみかんがうつる。私がそこにおいたと記憶する。それでも、一枚の写真には時間が流れず、因果律もないので、いろんな可能世界のワンシーンになっているのだ。だから、無数にそのみかんはあるのだ。アニメでいえば、一こまを他の物語に使いまわししていることと同じ。ひとつの状態を無数の可能世界が使いまわしているから一匹の金魚は無数にいて、たまたま、そのうちの二匹がみえた。また、さきほどもいったりょうに、無数にあるとは無いともいえる。

  レーベンハイムスコーレムの定理にあるように、一なる対応関係なんてないのだ。因果律、時間軸を導入したとき、一がうまれるのだ。



2015 2-4

物語文と親和力についてである。今年は未年だが、羊といったらまるでわれわれのようである。いきなりだが、われわれは制約があり、柵のなかにいる家畜や、畑で植わっている野菜同然であったというお話をしたい。


   ダントの物語文についてである。出来事を把握するには、ただの事実の羅列ではだめである。千九百何年に何が起きて、二千年に何が起きたという状態記述である。戦争がいつからはじまって、いつ終わったのか、という流れではじめて意味がみえてくる。出来事をまるで物語のように語るのである。

   次の話は親和力や観念連合についてである。色、音という感覚的印象がまるで引力によって引き合う力のような親和力によってひとつのイメージ、表象になる。さらに親しい表象同士もくっついていく。こうやって、親和力という力で結び付けて行くのだ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  五次元世界にはさまざまな出来事の状態がアニメのセルのように並んでいる。前回お話した水槽のなかの金魚のように、はすからみたら二匹にみえてどっちが本物か、という話と通ずる。一匹のえさをたべている金魚は一枚のセルであり、これらがたくさんの因果律、時間軸による物語の一部として使いまわしにされる。このとき、状態同士をくっつけているのが親和力であり、親和力の正体が意識の志向性だが、直線的な矢印でなく、螺旋の矢印、螺旋意識なのだ。螺旋はバネをたくさん入れた箱のように親しい、近いものと絡む特性がある。状態を螺旋意識が絡めて結び付ける。だから、螺旋意識が物語を作る監督、演出家、主演なのである。

  この螺旋意識は生体のDNAの螺旋と呼応している。DNAの70パーセントがジャンクDNAであり、ほとんど無意味な塩基配列だというが、ロシアの科学者が、あるジャンクDNAは抜き取られて再度埋め込まれた形跡があるといった。つまり、なにものかによって、操作され、よって、螺旋意識もこれによって知覚領域、思考領域が限定されているのだ。

  このなにものかがレプティリアンなのだ。そして、われわれが家畜を育て、化学肥料を与えたり、野菜をDNA組み換えをするように、われわれを捕食するレプティリアンはわれわれを操作しているのだ。われわれが生命の頂点ではなく、特権化して人類を特別視しがちだが、ほんとうはわれわれ自身も捕食されているのだ。しかも、化学肥料でなく、量子物理的な操作で真実が見えないように操作されているのである。


2015 2-5

  中心と周辺、そして、プラトニズムについてである。食欲の秋というが、日々食べている昼食。昼食に食べられないように常日頃鍛えている。食べる、食べられるの捕食関係。生きているというのはこの捕食の連鎖に入ることなのだろうか。

  中心と周辺についてである。りんごを見ているがこれが被写体。その周囲には背景がうっすらみえる。りんごのパーツを組み合わせて認識してるんだ、というのがブント要素主義。被写体と背景の関係のなかから浮かび上がり、より立体的に認識しちゃうんだよ、というのがゲシュタルトである。

   心理学においてはピアジェ。細い容器と太い容器に同じ水を入れると、水位は細い容器が高くなる。子供はそこだけを中心にみえているから、水の量がちがうというが、脱中心化できるようになると同じ水の量だと考えるようになる。

  ジェームスのフリンジという話がある。われわれみているのははっきりした中心と周辺のぼんやりとした周辺。時間もまた、今だけでなく、過去と未来はぼんやりと描いていて、もはや、オーラのようになっているという。

   次の話はプラトン主義についてである。この世界にはいろんなりんごがある。これらはりんごそのもののイデアの影だという。ここからみたりんご、このりんごは甘い、とか自分の視点にたった遠近法の見方をプラトンは嫌う。イデアは反遠近法主義である。

  まとめ

  存在の科学

  
  異次元理論


   この世界はすべてが捕食関係ではないのか。捕食関係のなかにいるのが生きるということかもしれない。まずは、前回も話たが、意識は直線的な矢印でなく、螺旋の矢印である。これを螺旋意識と名づけた。螺旋っていうのは一周してウロボロスの蛇のように自己完結するのではない。それは裏が表とつながるメビウスの帯だ。そうではなく、微妙にずれてしまうのだ。中心をみていて、背景はその中心の裏側になっていれば、メビウスの帯だ。これは回転する実体なき点、二回転してもとのも状態になるというスピノールだ。これがほんとうの意識、コンセンシャスだといった。螺旋意識作られたマインドであり、これは肉体の構成素であるDNAと関係する。螺旋のDNAであり、その一部が書き換えられた痕跡があるという。これはわれわれが家畜や野菜をたべるとき、野菜ならば大量生産するためにDNA組み換えを行うのと同じこと。家畜には化学的なえさを使う。同じように、より高度の生命、おそらく意識や肉体はひとよりも螺旋がより円に近いものだ。これがレプティリアンであり、われわれを家畜にしている。螺旋は電気工学ではコイルであり、電気エネルギーの送受信であり、低周波を入出力する。これに対してコンデンサは電気エネルギーの蓄積だ。より、完結したメビウスの帯になるために、高周波を吸収する螺旋意識、肉体に低周波系は食べられる。より人間より微細な螺旋であるレプティリアンは神さまといわれる。また、もっと微細な螺旋もいる。この系列が捕食関係であり、だから、われわれは神さまにいけにえをささげてきたのだ。

  さて、このより微細な螺旋意識とDNAをもつ生命はついにはそのトップに自己完結したメビウスの帯、回転する点であるスピノール、すなわち、コンデンサがいるはずだ。これが真の神さまですべてを食しているといえるが、このスピノールは同時に私のほんとうの意識、コンセンシャスでもあった。だから、自分の真の意識が肉体を食しているともいえるのだ。


  コイルは螺旋意識、DNAの螺旋であり、コンデンサは神意識だった。いずれも、R+jxであらわされ、jは虚数。三次元的には実在しない複素空間、これが意識領域のことを物語っているのだ。



2015 2-6


量から質へ、そして、タレスの哲学についてである。地球上だけでなく、この宇宙には無数の生命がいて、無数の魂があると、いきなり声高に主張する。すると、周囲はあっけにとられ、だんだんまわりから離れていく。生命といっても、どこから来たのかは宇宙には二つの源泉があった。宇宙の二つの特異点がそれだったのである。

  量から質へ、についてである。ヘーゲル哲学は宇宙の成長、進化について考えた。まず、質というものがあり、これはざらざら、画質がいい、音質がいい、というようなもの。量的には測定できない。そして、ここからおのおのの質、区別が無視されて量になるという。さいとうくん、さとうさん、という個性、質が無視されると、一人、二人という量になる。量と質は矛盾しあうので、融合、アウフヘーベンしちゃう。すると、度量というものになる。質的な量である。気温というのは実際に寒い、暑いという質だが量で表せる。ここから、力学的、物理的なものがうまれ、はては有機体、生命、人間、宇宙の精神へと進化するのだ。

  ヘーゲルの真理は普遍的だ、というのが嫌いだったのがキルケゴール。真理は唯一無比の個性だという。いまここにいる交換できない私の個性だという。キルケゴールはこれを、無限への無限運動であり、決断と反復の繰り返しだという。これは量ではなく、徹底的に質的なものが真理だということだ。

  マルクスはヘーゲル哲学を踏襲する。ただし、量から質へ、である。水は温度があがって、沸点に達したとき、水蒸気になる。量的な温度が一定段階になると、質の変化になるというのだ。

  次の話はタレスの哲学についてである。タレスは哲学の祖といわれる。彼以前ギリシャ神話だったという。すべては神さまによるもの。ところがタレスは万物の根源、これをアルケーというが、それは水だという。すべては水でできているというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   宇宙における生命は二つの源泉からうまれた。その前に相対論の説明からである。空間がゆがむとはたとえば、フラットな平面にかかれた三角形の内角の和は180度。曲面にかかれた三角形は180度にならない。空間だけでなく、相対論は時間と空間は連続していると考えるから時空間である。時空間がゆがむと重力になるという。そこでは空間だけでなく、時間もゆがむ。重力が強いと、時間が延びる、遅くなるというのだ。

  さて、極端な重力はブラックホールである。太陽の約20倍以上の恒星が終焉を迎えると、自分の重さでつぶれてしまい、体積が小さく、重いものができる。すると、時空を穴をあけんばかりにゆがめる。これがブラックホールである。ブラックホールにチリが落ちると加速する。ついには光速に達する。光速よりも速いものがないと相対論はいう。ここがブラックホール内部の事象地平面だ。ここでは時間が遅すぎてとまってしまう。以前も話たが、時間がない、永遠の瞬間、これは何かを感じているというクオリア、ほんとうの意識であるコンシェサスだといった。瞬間と意識は同じことだ。だから、ここに意識、魂がある。さて、吸い込まれた無機的なチリ、これを無機塵というが、ブラックホールの降着円盤に垂直に噴出す。これを宇宙ジェットいい、プラズマだという。ロシア科学アカデミーの研究者のなかに、なんと、無機塵をプラズマ状態にすると螺旋になるというものがいる。しかも、二つの螺旋がからんで情報をコピーするという。これは無機的な遺伝子であり、ここから無機的生命がうまれる。宇宙には生命のからだをつくるアミノ酸を産出しているガス星雲があるというが、部落ホールは無機的遺伝子と魂の生成なのだ。このブラックホールは変数値に無限がるので、特別な点、特異点という。

  人間や動物は遺伝子の四つの塩基のうち、ひとつだけしかプラズマ状態ではないという研究報告もある。すると、人間はブラックホール由来ではない。もうひとつの特異点からきたのだ。宇宙が点から誕生したビッグバンという特異点だ。最初に回転する点、二回転でもとにもどるメビウスの帯のような点、スピノールがあった。これが光になる。そして、以前はなしが、この回転する点であるスピノールこそ、人間のほんとうの意識なのだ。宇宙のはじまりとともにあったのだ。その後、宇宙は光とプラズマに満たされる。さらに、冷えてきて、対称性の崩壊があり、物質が生まれる。だから、DNAはすべてでなく、四分の一しかプラズマ状態でなく、残りは物質なのだ。

  このブラックホール由来の生命がグレイ宇宙人やレプティリアンである。シュメール文明において、アヌンナキというシリウス出身の宇宙人が地球人を奴隷化したという伝説がある。このアヌンナキが爬虫類型生命なのだ。そして、このシリウスが寿命を終えて、ブラックホールになり、爬虫類生命がつくられたのではないかとも解釈できるのである。

  さて、もうひとつ。人類の生命由来であるビッグバン直後のプラズマの海。本来、プラズマは物質の第四相、個体、液体、気体、プラズマである。ところが、宇宙初期のプラズマは液体だったといわれている。つまり、タレスのいうすべては水からうまれたという説を裏付けるものなのである。哲学の始まりにおいてすでに答えをだしていたのだ。



2015 2-7


自己矛盾とタイムマシンパラドクスについてである。SF映画でありがちなタイムマシンやタイムスリップ。未来からやってきて活躍したりする。ところが、もしも、過去へ行って歴史を変えたら現在もかわってしまい、自分がいないことになってしまうことだってある。こんなパラドクスはどうやって解決できるのか。パラドクス回避システムはどこにもない。ここにあるのだ。

  自己矛盾や自己言及についてである。矛盾をさけて筋を通そうというのが形式論理学だ。矛盾さけましょうというのが矛盾律である。ところが、これだと、論理や計算はそれを実行するだれかがいないといけない。論理が自動的に展開しない。論理の自己展開が起きるのは、矛盾が必要だという。これが弁証法論理であり、矛盾が世界を動かすという。

  自己言及というのは、自分が自分にふれたときにおきるという。日本語について日本語で語る。クレタ人はうそつきだと、クレタ人はいった。これは正直だったら、うそつき、うそつきだったら正直物になるパラドクス。クレタ人がクレタ人について云々しているから生じる矛盾。ところが、なぜだか認められている矛盾がある。自己意識というのは自分が自分を意識。自己組織化というのは自然治癒能力であり、自分が自分を治す力。


   次の話はタイムマシンパラドクスについてである。タイムマシンで過去にいって歴史を変えると、今の自分がいなくなってしまうかもしレナ意という矛盾。祖父殺しパラドクスという。もしも、祖父殺しに過去へいったら、自分が生まれなくなってしまうので自分が消えてしまうのだ。

   まとめ
  

  存在の科学

   異次元理論

     
      SF映画のように、タイムマシンで過去の歴史を変えたらややもすると、自分が存在しなくなってしまう。このパラドクスはどうやって回避できるのか。実際、素粒子論において、粒子が空間中を左右前後上下、自由に移動できるように素粒子も時間軸を自由に移動しているという。たとえば、電子はマイナスの電荷をもった粒子。この反粒子はプラスの電荷をもった陽電子。反粒子っていうのはすべてが逆になっている。陽電子は未来から過去へと流れる。ちなみに光子は粒子と反粒子の両方の特性をもつ。

 
  下から上への方向を時間の流れだとする。すると、電子が下から上に移動し、光子とぶつかって、光子と陽電子に分裂。陽電子は右斜め下へ進み、また、光子とぶつかり、光子と電子に別れて未来への電子は流れる。さて、陽電子は過去へもどったのだ。今、私は自由意志でからだを動かす。すると、その影響で、電子を陽電子に分裂させて過去に陽電子が進んで、過去を微々たるものだけど変えてしまう。さらに、この宇宙全体を考えれば圧倒的多数の陽電子が過去へいって歴史を変えてしまうのだ。すると、今私がいるという歴史が改ざんされてしまうかもしれない。これを避けるシステムを外に探しても見つからない。外にないなら内にある。そこないならここにある。つまり、私の自由意志、魂の働き、存在意義が、このタイムマシンパラドクスを回避するシステムだったのだ。自由意志とは、かならず、過去を改ざんさせないようにパラドクスを回避するために動く。自由意志の法則だ。というより、タイムマシンパラドクスをうまないためにいまここに自分の自由意志による行動がある。つまり、どんなもの、どんな生命の魂もそこにいるだけで、宇宙を存続させための壮大な行動をしているのである。


  2015 2-8

ベルクソン自由論とデカルト的コギトについてである。この世界にはいろんなパラドックスがあり、どんなに歯を食いしばってがんばっても解決できない、知ることができない難問がある。そんなとき、外にそのシステムを探すのではなく、じつにベクトルを逆にして自分の存在がかかわっていることを知れば、だんだんみえてくるものがある。究極の真理について考えてみたい。

   ベルクソンの自由論についてである。世の中はすべて最初から最後まで機械仕掛けのように決まっているというのが決定論。決定論者はまるでタイムマシンにのって過去も未来も見てきたような感じだ。この反対が任意決定論者、偶然論者である。すべてはたまたまという。ひょっとしたらさいとうさんは大統領だったかも、という。これまた、並行世界を移動できるマシンに乗ってみてきたよ口調だ。そのいずれでもなく、ベルクソンは自由論を提唱。自由とはなにかと問う。問うも問わないも自由。自由は問う前からあるのだ。つまり、自由は問いではなく、事実だという。

   次の話はデカルト的コギトについてである。世の中のすべてを疑ってみる。ほんとうに彼は人間なのか、本当に地球はあるのか。すべては疑えるけど、疑っている当の自分は存在しないじゃない、と疑わない。我疑うゆえに我あり。我おもうゆえに我あり、だ。宇宙のなかにいるのではなく、宇宙は疑わしいが絶対に疑えない我は宇宙の外から宇宙を眺めている。これがデカルト的自我、デカルト的コギトである。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


   前回の内容は、この世界はふつうに電子と光子がぶつかって、陽電子が過去にいってしまうという話だった。過去の歴史に飛んでいく粒子。当然、タイムマシンパラドクスがうまれしまい、ややもすればいまここにいる自分の存在が消えてしまうかもしれない。ところが、このパラドクスを回避しているのが私自身の存在、自由意志だといった。歴史を変えないようにふるまう法則が自由意志だったのである。結局、自分の自由意志がその役をになっている。すべて原理上、解決しえないパラドクス、問題は自分の存在にしてしまえば解決するのだ。

  シュレディンガーの波動方程式におけるユニタリ展開。これまた、数学的に計算すると、この世界は刻一刻いろんな並行世界に分岐しているというのだ。右手をあげた私がいる世界、あげなかった私の世界というようにだ。実際の世界はちがうではないか。そうではなく、これまた、自分の自由意志、存在がきかっけだった。並行世界の私の姿が他人だったのだ。そしてオリジナルの私からかなりかけ離れた並行世界、分身が事物なのだ。

  アインシュタインは光速度不変だという。なぜだろうか。また、宇宙が誕生する前になにがあったのか。この宇宙はビッグバン直後、光に満たされていた。そのあとに時空、物質が生まれたのだから、時空はゆがむが光は変わらない。光の構成要素が回転する点、二回転で元の状態に戻るメビウスの帯のような点、これがスピノールだ。そして、以前話たがクオリア、私の自由意志とはほかならぬこのスピノールだったのだ。私がいて世界がみえる。だから、光速の構成要素の私はかわないので、光速も不変になる。また、宇宙というのが最初にあって私がうまれたのでなく、スピノールは宇宙の最初の瞬間、つまり、宇宙誕生とともに私がいたことになる。だから、私が誕生する前や宇宙誕生前にはなにもない。


  最初に自由意志という究極の事実、スピノールであり、タイムマシンパラドクス解消装置の私がいる。これは世界の外のデカルト的コギトがベルクソン的な自由と結びついた境地である。



2015 2-10


ガダマーの哲学とデヴィットソンの哲学についてである。私とこの世界について考察をふかめるとき険しい顔つきになるのだが、どうも一筋縄ではいかない問題がある。というのは、この世界はなんでもありであり、真理とはなんだかわからないという特性をもっているということだ。

  ガダマーの哲学についてである。かって、ベーコンはわれわれが持っている先入観をすべて排除すれば真理がみえてくるといった。その先入観は四つある、四つのイドラと名づけた。現代の思想家、ガダマーはむしろ、何かを理解するとは先入観のかたまりだとした。あのひとは人間だというのも先入観、これは椅子だというのも先入観なのだ。先入観を一切排除しちゃうと、なにも理解できなくなるのだ。

  次の話はディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。この世界は実体のある物質と、実体のない心や精神がある。物質は自然科学の法則、ルールに従い、心もまたなんだか独自の法則がありそうだ。この二つの法則がまざった一なる世界。異なったルールを一緒にしてしまうと、ルール無用になる。野球とバレーを混ぜたらでたらめ、ルール無用になる。だから、この宇宙をひとつにすると法則が消える。これが非法則論的一元論。なんだかわからないひとつの世界、宇宙はあるということになる。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


真理というものは、明確なものではなく、なんでもありでよくわからないものなのかもしれない。たとえば、カントは現象界は原因と結果の因果律であり、その背後は因果律のない自由の世界だといった。自由っていうのは押されて動かない。原因がないのだ。だから、損得勘定、ああだからこう、というのがない道徳的な世界。道徳律という。因果律や道徳律だけでなく、いろんな時間軸が交差しているのがいまの自分なのだ。なんたら律というのが無数にあるのだ。出来事のA,B、Cは時間だけでなく、いろんな軸でつながっているのだ。また、アインシュタインにおける無数の解というものがある。宇宙は今後膨張しつづけるという解もあるし、膨張し、いずれ収縮し、また膨張を繰り返すという解。さらに、宇宙は定常だというのもある。膨張しつづける直線的な時間はキリスト教的であり、膨張と収縮の繰り返し輪廻のようなので仏教的。これまた、どれも正解なのかもしれない。

  私を中心にして前後、上下、左右がある。前後ん関しては、意識の奥には無意識。さらに集合無意識、もっと奥、後ろには非意識がある。これを前後でなく、横軸、空間軸にしてみると、意識は私。無意識は他人。そして、非意識がただの物体になる。前後、左右、時間、空間軸もまた相対的だ。

  もともと、行儀よく流れている時間なんていうのは特殊なケースであり、本当は亜種、異常とされている幻覚や夢こそがデフォルトなのかもしれない。支離滅裂で時間順序、空間構成がない夢、幻覚の世界が最初にあるのだ。

  世界はシュレディンガーの波動方程式にみるように、刻一刻、分岐しているという。それならば分岐しない世界もあるはずだ。これは自己否定するものを自己が含むという矛盾。この根本的な矛盾こそ、私であり世界なのだ。だから、ほんとうはなんでもありだし、なんだかわからない存在。ところが、意味を汲み取り、物事を理解するときはどうしても、枠組みが必要なのであり、この時間の順番、空間の整列あってこそ、はじめてなにかの意味が見えてくるだけなのである。つまり、なんでもない世界は自分が加工して意味あるものに見せているのである。



2015 2-11


自己意識と自我の離心性についてである。量子論の実験で有名な二重スリット実験がある。この二重スリット実験の装置、じつに人間の意識構造と同じだったというお話をしたい。

   自己意識とはなにか。自分のことを100パーセントわかっているというのが自己透明性という。ソクラテスの汝己を知れ、というもの。現代ではサルトルは半分くらいは自分を意識しているという自己半透明性。デリダにおいてはおれだ、といっても、それは俺の痕跡、足跡だという自己不透明性というものもある。

    フィヒテは自己意識しぎると自己が消えちゃうという。これを自己意識の徹底化による自己滅却という。

  次の話はプレスナーの離心性についてである。無機物は空間に位置があるにすぎないという。有機体、動物は中心が自己と身体がずれている。人間においては身体があり、魂があり、それをみている第三者的な自我の眺望点があるという。この三重の位置が意識の特徴だという。


   まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   二重スリット実験とは、箱に二つのスリットを設け、なかに光源をおく。その二つのスリットから出た波動としての光は互いに干渉して感光版にあたって干渉縞をつくるというもの。ただし、量子論ではシュレディンガーの猫でいうように、見た瞬間に波動は粒子にかわる。だから、スリット近辺に観測装置を置いて、これを観測すると、なんと光は波動性から粒子性、光の粒にかわってしまい、感光版に光は直進し、二本の帯をつくるだけだという。

  この二重スリットは自己意識のと同じ構造。まず、ふたつのスリットのある箱をかぶっている光源が自分だ。光の構成要素であるスピノールが本当の意識だと以前話た。だから、光は私自身の意識でもある。感光版に波動の干渉性ゆえに、干渉縞をつくる。これがぼーっとした対象意識であり、このときできた縞模様をもうひとつの意識の光があたって、ホログラムをつくる。ここにホログラム理論がある。光の波動がつくった干渉縞、ここには三次元の事物のすべての情報が含まれている。そして、ついに観測装置の第二の自己意識の光はスリットのほうへ向く。すると、スリットがでてくる光の波動性は粒子性にかわり、ホログラム像が特定の事物に変貌するのだ。箱のなかの第一の意識光源。その付近にある第二の意識がホログラム情報を三次元化し、ついには波動性を粒子性にかえる。自我は二重スリットのある箱をかぶり、感光版という壁のまえにたっているだけなのである。

  
posted by モノイイ ジョーカー at 14:29| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月05日

仙人新聞 2015 1−5 3



2014 12-18


存在の穴、存在のくぼみ、そして、絶対矛盾的自己同一についてである。きゅーっと収縮、収束というのは、これとは反対で、じつはぼわーっと膨張、発散であった。すると、世の中は何も起きていないことになり、何かが起こっているのは細かく分割してみているからだ、という結論にいたった。

   存在の穴と存在のくぼみについてである。サルトルの存在の穴とは意識のことだ。かっての私でなく、いまだない私であろうとする。無いがあるに、あるが無いになる。存在が無を分泌しているのが意識だという。この無はいわば存在にぽっかりあいた穴である。

  メルロポンティはこれに対して、存在のくぼみや溝を提唱。これは穴でなく、底があり、つながっているのだ。あかちゃんは私とあなた、かれらの人称がない。すべては存在っていう肉でつながっているのに、私とあなた、かれらという溝をつくったという。だから、回転させれば、私はあなた、あなたは私になって、互いに相手の気持ちになれる。

  次の話は西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一についてである。主語と述語で文ができる。述語は場所であり、そこに主語がはいる。さいとうくんは芋を食う。芋を食うという場所に斉藤君という個体がいる。ところが、主語と述語的場所の境をとっぱらう。すべてが無の場所にいる。そして、無は無自身を規定しちゃって有になる。これは絶対的に矛盾しているけど同じだよ、という絶対矛盾的自己同一。このほかにも、他人の人格へのはからいが、自己の人格の完成という、自己と他者の絶対矛盾も同じだということで解消される。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    生命の進化、生命個体の成長に関して、次のことが成り立つ。生命の発生のときは、外部との情報を一切シャットアウトすることでなされる。遺伝子も、外的環境の影響を受けると奇形になる場合があるという。これは収束、収縮の傾向だ。こんどは食べたり、周囲の環境とひろくかかわって、進化をとげる。個人もまた、発生後の成長においては学習などで周囲とかかわる。これは発散である。発生は収束、進化、成長は発散なのだ。

  人間の意識もまた、なにかを感じる、クオリアは純粋に外部と一切関係しない収束である。そして、その後にさまざまな記憶や感覚と関係し、感情、思考になる。これは発散になる。


  ところが、真相は逆でもある。もしも、脳によって意識がつくられているなら、おそらく、ニューロン細胞内のマイクロチューブルという管。この管は外部からの情報を一切シャットアウトできるもので、シュレディンガーの猫の箱の完璧なものだ。すると、チューブル内では波動方程式がユニタリ展開し、無数の世界、並行世界が重なり、増殖するのだ。つまり、五次元世界のなかの並行四次元宇宙の増殖ということは発散にほかならない。また、感情や記憶は三次元空間内のさまざまな情報のやり取りであり、これは一見して発散。ところ、五次元への穴が閉じることでもあるので、これは五次元、高次元的には収束である。存在の穴と溝は繰り返し、開閉をしているか、または、半浸透性をもつ。

   大局的にみると、−1とプラス1で0。発散は収束だったら、何も起きていない。ところが、分割して細かくすると、そこに偏り、事象がみえてくるのだ。ブラウン管のテレビの色はぱっと見て灰色赤く見えても、よくみると、色の三原色の組み合わせなのといっしょだ。気づき、意識とは大局的でなく、分割でみることだが、大局的にはなにもおきていないという気づきもある。


2014 12-19


間主観性、貫世界性、そして、普遍的無意識についてである。すべてのものたちはさまざまなことを感じているが、じつはすべてのものはたったひとりのだれかであり、ひとつクオリアからはじなっているのだ。さらに、これを裏返してみると、すべてのものたちがみる夢はひとつの夢世界の中だったことがわかってくる。

  間主観性についてである。他人の心とは果たして存在するのか。私という主観と他人という主観のあいだについて考えるので間主観性理論という。すべてのものはじつは同じひとりのだれかであるという普遍的自我を提唱するのがカント。現代においては、現象学の地平のなかの他者。そこにりんごがあるという客観性は目撃者の数が多いほど高い。物の客観性のための他者の目。私がひとりでいるときも、みえそうでみえない、かんがえられそうでかんがえられない論理地平。いろんな地平に囲まれているが、この地平に他者の目があると考える。

    次の話は貫世界性についてである。ひょっとしたらの並行世界、可能世界。ひょっとしたら、さいとうくんは床屋だったかもしれず、女性かもしれず、カブトムシだったかもしれない。可能世界を貫いて何がかわらないかといえば、名前である。だから、固有名は可能世界を貫く貫世界性だとクリプキは主張する。

  最後にユングの普遍的無意識についてである。個人的意識があり、社会の成員でもある。無意識の世界も、個人的無意識は集合、普遍的無意識のなかにいるから、世界中の神話が時空を超えて同じ構造だったりする。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   宇宙はビッグバンで始まり、円錐状にひろがると以前話した。そして、この反転した構造が意識の円錐だった。これはクオリア、感じることでもいえる。多くのものたちが何かを感じている。それをどんどん深めると、じつは、同じなにものかの最初のクオリアんある。一発目の一次的クオリアはたったひとりのだれかなのだ。普遍的自我である。これがビッグバンであり、原クオリアと名づける。ここから膨張、増殖し、感情、思考、人格をもった多くのものたちになる。自分がいるな、世界があるな、というクオリアは普遍的自我が感じている。これの反転円錐はどうか。中心のビッグバンがいまここにいる私のクオリア。これが膨張、増殖して、多くのものたちの断片的クオリアの集まりになり、これが夢になる。

  また、これは実時間クオリアであり、感じている主体はひとりだが、感じている事象は多くある。これに対して、この原クオリアからの円錐が四方八方にひろがる。ひょっとしたら感じていたかもしれない可能世界を貫くクオリア、これを虚時間クオリア、五次元クオリアと名づける。中心の虚時間クオリアとこれを頂点にした無数の円錐がなす球体がホーキングのいう無境界仮説の宇宙球体かもしれない。だから、球体内部のクオリアは虚時間クオリアになる。ここでは感じている主体と感じている世界も同じだ。この逆円錐、性格には裏返した宇宙球体が同じひとつの夢、客観的夢世界である。これはまた、集合的、普遍的無意識の世界ともいえる。




2014 12-20


隠喩と真偽不定についてである。心の奥底にある無意識の世界。そこですべての人間、動植物は時空を超えてつながっている。これが意識の世界では偶然、同じパンツはいてる、というシンクロニティを生み出す。そして、ここから、なんと本物と偽者、真偽を越えた世界にわれわれがいることを諭してくれるくれるのである。

  隠喩とはなにか。比喩というのは大きく二つある。いま比喩をいってるよ、と明らかにしているもの。きみはまるでダイヤモンドのようだ、という類だ。これを直喩という。これに対して、隠喩とは普通の生活のなかで、比喩だと知らずにやっているもの。暗喩ともいう。テレビのうえにあるティッシュをとってください、という。そもそも、上とか下、左右、前後っていうのは、私自身の体を中心にした方位だ。だからここには、私がたとえばテレビちゃんだとして、そんな私のうえにあるティッシュをとってください、となる。


  次の話は真偽不定についてである。真か、偽の値のどっちかをもっている文を有意味だという。どっちの値もないものは真偽不定であり、無意味だという。このりんごは甘い、というのは実際に食えば検証して、真偽のどっちかになるはずだ。ところが、丸い三角形はかっこいい、というのは、そんなものは存在しないので検証できない。よって、真偽不定の無意味になる。マイノングは丸い三角形は存在しないが、真偽を超えて超存在しているという。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   かって、精神分析医のユングが、患者にあたっていた。このとき、患者が夢で黄金のスベラベ、いわゆるフンコロガシをみたと語っていた。フンコロガシは神話では成功、成就の象徴だ。このとき、なんとタイミングよく診療室の窓にフンコロガシがぶつかってドスンといったのだ。診察室は暗く、外は明るい。虫の習性は本来、暗いところから明るいところへゆくはずだ。この偶然の一致をユングはシンクロニティと名づけた。そして、これはすべての人間、動植物が集合無意識でつながっていて、それがきっかけとなったと考えた。

  この無意識世界は時空がない。だから、時空と超えていろんなものが一致する。世界中の神話も、時代、場所を越えて同じ構造をしているのはひとえに集合無意識のためかもしれない。

  かって、カントは見えているこの世界は現象界であり、ここでは因果律があるといった。ところが、りんごの現象ではなく、りんごの本体である物自体の世界は因果律がないといった。だから、りんご本体、物自体の世界は自由意志なのだ。

  心の奥底の無意識世界は時空がなくて、原因も結果もない世界。だから、すべてのものが時空を超えてすべてのもにつながる。これが意識世界の時空のなかにあらわれると偶然性になる。ところが、この世界の出来事は時空形式にしたがうし、因果律もあるが、内容は偶然性である。だから、事象、出来事は心のなかの非因果的な世界によってうまれる。しかも、これは時空的連続性のない非因果的隠喩世界なのだ。時空世界のエラーが隠喩でなく、隠喩世界の混沌が先にあるのだ。

  さて、こんな目にはみえない非因果的隠喩世界は心の奥底の無意識、自由意志だけでなく、身近にないだろうか。じつに身近にあったのだ。それが他者の心である。他者の心には因果律がない。だから、計算なんてできない。そうすると、あらゆる事象は他者の心の産物になる。シンクロニティも他者の心による。これは本当とうそを無効化する。真偽を超えた世界でもある。ある出来事は他人の意図によって仕組まれていてもそれは他者の無意識がそうさせたし、事象は他者の心の産物だから、真偽関係ないのだ。時間と空間、善悪、真偽という意識世界はデカルト的二元論。科学は精神と物質の二元論の物質のみを探求していた。古代ギリシャのイオニア学派は精神と物体という単語がなくて、すべてはピュシスとよばれていた。東洋思想も二元論でなく、多くは主客もない。科学は現代における量子論でまさしく、観測者という主観によって量子のふるまいがちがうといういわば、二元論克服の時代にさしかかっているのかもしれない。




2014 12-21


唯名論と差異についてである。生命のからだも忍法分裂の術で増えてゆくが、ひとつにまとまっている。進化だって、社会だって、このまとめようとする片栗粉のつなぎのような働きをしているのは一体なんなのか。

  唯名論についてである。中世キリスト教思想において普遍論争というものがあった。人間っていうのは普遍的である。いろんなひとにあてはまる。マルや三角だって、普遍性をもつ。これらの普遍的なものが実在するという思想もあった。ところが、唯名論を提唱するオッカムはちがう。すべては名前であって、あるのは命名することすらできない、それとか、あれという具体的な個体だという。

  次の話は差異についてである。私は私だという同一性があって、つぎに私はさいとうくんとはちがうという差異があるのか。そうではなく、私は私だというとき、もはや、さっきの私じゃない。だから最初に差異があり、これを反復して同一性をめざしちゃうというのがドゥルースの思想。また、私は私だというとき、それは私の痕跡だというデリダなどがいる。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   卵子に精子が受精するが、このとき、受精する場所によって分裂する位置がきまる。しかも、きまっているところに必ず受精するという。ピンセットで別のところを刺激して体細胞分裂が起きるが奇形になるという。最初、二つに分裂して対称性をなす。さらに四つというように対称性を維持しながら分裂するが、そのうち、誤差、ずれがうまれて非対称になってゆく。人体はほぼ対称的だが、盲腸や胃袋の形、心臓などは対称的でない。非対称的になっても、人体としてまとまっている。

  世の中もいろいろなものが分化して、対称的だったものが非対称的になる。それでもちゃんとまとまっている。ダーウィン進化論は自然淘汰や適者生存の競争社会による原理だが、じつは異なったものの共生なのだ。細胞はもともとアメーバがミトコンドリア、ゴルジ体を捕食していたが、後に共存、共生したものだ。

  非対称的なものや、異なったものをシンクロニティの力でまとめる。心の奥底にひろがる非因果的世界、集合無意識はおそらくは、時空、因果律がなくて、場所と時代を超えて具体的な個体が関係しあうカオス世界。そこには普遍性すらない。だから、この非因果世界が現実世界の非対称性、多様性を時空をこえて共存させている力なのだ。この非因果的世界はとにかく唯名論の個体と同じ多様である。多元的であるが、すべてが関係しあってひとつになる一元論。多元的一元論の世界。これに対して、因果律、時空のある現実世界は二元論的だ。主客、時間と空間、原因と結果の因果律、善悪、真偽である。これらをまとめる力は多元的一元である無意識における非因果世界から汲み取るのである。



2014 12-22


不可知論、そして、素朴実在論についてである。この世界は非常に奥深いものだ。手をあげて横断歩道わたるとき、腋毛が毛深かった。心の奥底の無意識世界もまた、奥深い。言葉や数式を超えてそれを感じるしかないのかもしれない。

  カントの不可知論についてである。不可視とはがんばってもみえないもの。不可知とはがんばっても知りえないもの。われわれがみているのが現象界だという。茶碗の現象であって、落としたのが原因で割れるのは結果。原因と結果の因果律の世界。ところが、茶碗の本体、それが誰によって作られ、それ自体はなんなのかわからない。これが物自体であり、不可知論だ。もはや、本体、物自体を知りえないから、認識をやめて実践するしかない。しかも、物自体は因果律のない自由そのもの。だから、茶碗の背後にある物自体は自由意志による私の実践だった。

   次の話は素朴実在論についてである。茶碗は原子でできているというのは原子論的な唯物論。茶碗は見たままの形でふつうに実在しているというきわめて原始的で当たり前な思想である。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論
 
    この世界を記述するには詩人のように言葉を使うか、はたまた、数式で表現する。いずれにしても、言葉だったら、主語、目的語などが線上に並ぶ。数式も同じだ。線形的であり、直線軸でしかない。ところが、実際は世界は多層的である。しかも、原因と結果の直線軸ではない。手を離したのが原因、茶碗を落としたのが結果。ところが、そのひとがそこにいた原因とか、そこに茶碗がなぜあったのか、という原因がある。つまり、無数の原因があって、無数の結果があるのだが、そこから任意の因果律の直線軸を取り出しているだけだ。世界はすべてが一斉に動いているのである。あるものだけを固定して因果律を取り出す。

  また、さらに、観測したり、見たり、聞いたり、思考したりするのも、世界の動きを変える。これは量子論における観測行為が現象を変えてしまうということ。こうやって世界は線上にきれいに並ぶような記述では扱えないのだ。

  意識においても、その背後には無意識の世界がひろがる。そこにはユングのいうような集合的無意識。以前提唱したが、唯一無比の命名しがたい個別的なものが無数にあって、それらが関係しあう非因果世界があるといった。時空がないのだから、時空を超えて関係しあい、これがこの覚醒現実世界の分離、分岐をまとめる統一力になる。そこには過去のすべての事象が時空を越えて存続する。

  これらは湖にたとえられる。地下水脈は土中の石や土の歴史によって流れを変えている。これが地表から泉となって湧き出る。大きくなって、湖になり、これが川となって下る。この地下水脈が非因果的世界の無意識だ。そして、川が意識なのである。ついには川の水は海に流れて、少なからず、海の対流に影響を与える。この海が外界の時空世界だ。さらに、海の水が蒸発して雲になり、雲がイデアである。雲から雨となって大地にもどって地下水脈だ。無意識の奥底が外界の宇宙とつながっているのである。

  現代の意識世界は、この無意識の地下水脈の影響が少ない。大雨が降って、川が氾濫し、海に流れ、というような地表だけのサイクルになっている。外界の情報と自分とのやり取りだけで、集合無意識、非因果世界から湧き出る泉がほとんど機能していないのである。



2014 12-23


モナドとパースペクティブ、そして、ゲシュタルトクライシスについてである。世の中、いろんなサイクルがある。観覧車、メリーゴーランドだけでなく、地球もからだも循環だ。ただし、サイクル、循環っていうのはただの繰り返しではない。おのずと多様なものをうむ。廃品のリサイクルもいろんなものへ生まれ変わっちゃう。意識と宇宙のサイクルにみる他者の出現について考えたい。

   ライプニッツのモナドとパースペクティブについてである。世界は原子、アトムっていう粒でできているというのがデモクリトスの原子論的唯物論。ところが、ライプニッツはモナドででいているという。しかも、モナドは大きさがないただの点だ。点だとおもってあなどってはいけない。なんと、その点からみた全宇宙を包んでいるのだ。ここからみた世界、宇宙っていうのは遠近法的、パースペクティブだ。そんなモナドを組み合わせているのが神さまであり、これを予定調和という。

  次の話はヴァイゼッガーのゲシュタルトクライシスについてである。部分の集まりが全体だという機械的な考え。これがブントの要素主義という。ゲシュタルトとはそうではなく、全体は部分の集まり以上あるという。また、部分はお隣の部分だけ付き合っているのではなく、全体とつながっている。さらに、被写体はパーツの集まりでできているのではなく、なんと、背景との全体的な関係から、だんだん三次元的なイメージになってゆく。

  私と世界、あなたと世界もはっきりわかれていない。周囲の環境とのゲシュタルトな循環、つまりはクライシスをしているという。こうやって、患者を目の前にして、機械的、解剖学的にみるのではなく、心とからだ、そのひとと環境世界を循環するゲシュタルトとみるべきだと人間学的な接し方を主張したのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    
       循環、サイクルとは同じことの繰り返しではなく、クラインのつぼの構造をしている。内側に入ると、いつしか外側になり、外から気がつくと内側になる。メビウスの帯は表と裏がひとつになったものだが、これの立体バージョンである。もちろん、本物のクラインのつぼは五次元にしか成立しない。
  さて、このつぼの特徴はもうひとつあるようにおもえる。内側に入って気がつくと外にあるのだが、たくさんの外にでてくるのだ。並行世界だ。ひとつの入り口とたくさんの出口という構造。この逆もまた同じだ。外へ行こうとその極みにおいて、たくさんの内側になっている。だから、私の心の奥底の個人的無意識、さらに集合的無意識はその先に多くの外界宇宙の出口があり、これが世界にいる多くの存在者、肉体になる。また、ベクトルを逆にすると、内側から外部世界へと広げると、ついには多くの内面世界にでてしまう。これが多くの意識体であり、他者の意識なのだ。

  これは地球にもいえる。大地のなかの水脈は無意識世界だといった。湧き出て泉になり、湖になり、川となって流れる。この川が意識。そして、海にでて、海は外界世界だ。蒸発して雲になり、雲はイデア。雨を降らし、大地の水脈、つまり、無意識に戻る。このとき、多くの川の流れを生むのだ。

  また、人体を東洋医学的に考えると同じことがいえる。大腸は森、大地と考える。肺は雲だという。雲から雨が降り注ぎ、腎臓の水、腎水になり、これが海。大腸である大地にも行くが、蒸留気化作用で肺に戻る。こうやっていくうちに、水分は体中の細胞を潤わせる。入り口がひとつだが、多くの細胞という出口がたくさんあるのだ。

  モナドのパースペクティブとはまさしく、循環してこの世界にでてきた主体的ななにかだ。そして、ゲシュタルトクライシスもまた、このうちと外の循環性においてダイナミックのひとをみることをいっているのかもしれない。


2014 12-24


独我論と我汝についてである。まず最初に私がいるという事実。ここから他者や万物が生まれてくるプロセスを考える。すべてを私からスタートしてみるのだ。

   独我論というのは私がまず最初にいるという思想。しかも、私以外のすべてはないという強烈な独我論もある。少なくと物があるかもしれないが他者の心はどうかな、というソフトな独我論もある。デカルトの我思うゆえに我あり、ヒュームのすべては思い込みという思想などが独我論といわれる。ヴィトゲンシュタインは他者の見ているものをみれなし、考えも互いに伝わらない、という独我論を展開した。

  次の話はブーバーの我汝についてである。私という第一人称から始まる世界観は独我論。かれら、それという第三人称、無人称から始まるのが唯物論。そして、ブーバーが提唱するのが、第二人称、私とあなたをスタートにする思想だ。まず最初、我汝がある。しかも、汝、あなたというのはいつも変わるものだ。振り返ると汝はかわる。そうではなく、永遠に変わらない汝がいて、それが神さまだという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   私がいるという確実性からスタートし、万物を説明してみたい。以前話たが、私の外の世界、外界に向かうと、いつしかクラインのつぼになっていて、内面へともどってくる。このとき、入り口はひとつで出口がたくさん。たくさんの内面、つまり、意識体になる。これが他者の意識であり、これは一回目がクオリアだとすれば、一回転目なので感情である。感情というのはクオリアと違い、他者の意識との関係性によってうまれる。もう一回、循環すると、またもっとたくさんの内面がうまれ、これが奥行きの世界になり、思考、表象、イメージの世界。これは感情よりもいっそう他者と関係性が強い。もう一回循環すると、人格になり、これはもっと他者関係性がつよい。そして、ついには最後の循環で輪廻転生する魂になり、これはカルマをもつ。つまり、他者の魂との関係性がマックスであり、他者への行いが直接反映する絆で結ばれている。

  こんどは逆の回転をしてみる。外から内への回転である。まず、多くの外的なものができるが、これが他者の肉体である。二回転目で微細な物質になるが、肉体のあとに物質がうまれるのは私をスタートとしているからだ。そして、もう一回転で光になり、最後の回転で光の構成素であるスピノールになる。スピノールは二回転で元に戻るというクラインのつぼ、メビウスの帯の特徴をもつ。物質の極みであるスピノールと意識の極みである輪廻する魂は根本に同じなのである。



2014 12-25


偶然性の哲学とシュティルナーの唯一者についてである。善悪、真偽、すべての価値は偶然的でしかないのかもしれない。地球が存続し、人類が存続しているのも偶然なのかもしれない。あらゆるものはたまたまだが、高次元の原理原則がたまたまというものだった。

   九鬼周蔵の偶然性の哲学についてである。西洋哲学のなかではいままで同一性を中心にした哲学であった。AはAである、という必然性である。科学もまたかってはニュートン力学のように必然性、機械論的だった。ところが、現代においては、すべては確率的にあるという量子論だ。日本の哲学において九鬼周蔵は必然でなく、偶然をあげている。三つの偶然があるという。一番目は論理的偶然、存在論的偶然といわれているもの。ここに消しゴムがあるという偶然。二番目は仮言的偶然、因果的偶然といわれているもの。ばったり道端で旧友で出会っちゃう、という出会いの偶然だ。そして、最後に選言的偶然、形而上学的偶然である。たまたま、私は人間であって、ひょっとしたらねずみだったかもしれない、という運命というものだ。

  次の話はシュティルナーの唯一者についてである。アナキズムの思想といわれている。唯一者とは絶対的な自由だという。国民の自由という言葉があるが、そんな自由ではなく、彼の言葉を使えば、私のすべての事柄を無の上に置いたようなものだ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   善悪、美醜、真偽などの価値の序列というものはすべてたまたまでしかないのかもしれない。人類が存続するか絶滅するか偶然性。スカトスティックなプロセスである。適当にわしづかみで種をまく。一回目の偶然。さらに、偶然的にいい土壌のうえにきたものは芽吹く。二回の偶然がある。洗面器に水道水をためる。泡がいっぱいできるが、偶然的に長らくはじけないで残るものがうまれる。人類もそのような偶然の産物かもしれない。

  われわれは三次元空間と1次元の時間をあわせた四次元時空にいる。個々では偶然的なものが、高次元では必然なのだ。五次元は論理的に可能なすべての世界がある。どれかの世界に特権化を与えない。すべていいこと悪いことがそのようにあるだけだ。特権化、価値序列がない。すべてがあるだけだ。そのなかに、私があくびをする世界が無かった場合、私はその世界を補填すべく必然的にあくにするのだ。意識は自由、五次元的だが、肉体は三次元的な制約のなかにいる。



2014 12-26


人格主義的態度と現象学的態度、そして、対他存在についてである。この世界の真相を感じることが難しい。ほんとうにそうなのか。逆上がりよりも難しいのだろうか。そこで言葉や数式で時系列的にとらえようとする。すると、すべてが機械的に見えてきてしまう。直線的、時間的にではなく、いまここという点においてとらえるとき、並行世界、他者の心がつまびらかに感じ取れるようになる。

  フッサールの人格主義的態度と現象学的態度についてである。日常生活においてふつうなものの見方がある。りんごは食い物で、さいとうくんは心のある人間だ。この自然的態度はとりわけ人格主義的態度という。もうひとつは自然主義的態度といわれているもの。これは科学的態度のことであり、これだと人間もりんごは原子、分子の集まりにみえる。

  現象学的態度はすべてが思い込みだという。りんごじゃなくて赤く染まったみかんかもしれない。さいとうくんもじつはロボットかもしれない。そこで、すべての思い込みをカッコの中に入れて判断停止する。もちろん、性別、性格、名前をもつ自分もカッコにいれる。それでも最後にカッコに入らないものが残る。だれでもないだれか、私っていう存在そのもの、これを最後の残余物といい、純粋自我という。

  次の話はサルトルの対他存在についてである。石はただひたすらに即効おれだ、といって自分自身と一致。これを即自存在。人間の意識は私だ、といっても私自身のなかにずれがある。これを自分に対面するから対自存在という。そして、もうひとつが対他存在。何かに夢中になっているとき、視線を感じる。他者のまなざしによって私はゴリラマンとあだ名をつけられ、固定化され、本来は対自存在なのに、物のように、即自化されてしまうのである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   この世界はあらゆる直線的な時間軸がカオス的に混ざり合ったもの。すべてが同時にザッと動いている。ところがこれだと世界をとらえられないから、時間軸、直線軸をそこから任意に取り出す。原因と結果の直線的な因果律だ。すると、これが思考の世界であることがわかる。本当の世界はひとつの原因にひとつの結果ではない。りんごを落としたのは結果、原因は手がすべった、りんごがそこにあった、というように無数の原因がある。りんごを落としたことによって、無数のものに影響。だから、無数の原因に無数の結果が引き起こされるというのが世界の真実の姿。ここから任意に時間軸を取り出しているのだ。そこで、直線的に並べるのはやめる。いまここの点を感じる。もちろん、いまここにあるりんごっていう対象物だと、また、因果の時間直線できてしまうから、純粋にただの点だ。すると、この世界の無数の時間軸を感じられる。無数の並行世界である。ところが、この並行世界はたとえば、さいとうくんはひょっとしたらの私なのだ。だから、これは他者の心を感じることだ。ここから任意時間軸を取り出してしまうと、さいとうくんは機械論的に原子でできているようにみえてしまう。この点への集中はいわゆる荒行、瞑想でも得られるかもしれないが、仕事とか、日常の生活の意識のことだ。なにかに集中すれば、他者の心がみえてくるのだ。かって、ブッダが荒行でなく、日常の生活のなかの悟りをといたのも、そもそも、普段からわれわれは全世界の一挙感得ということをやっているからだ。



2014 12-27

志向性と時空形式についてである。われわれの内なる無意識世界。胸に手をあてて内面奥深く探る。胸毛が毛深いといっているのではない。もうひとつは、現象の向こうにある広大な宇宙。このふたつは大いなる海であり、われわれの意識はそこに発生した流れ、渦巻きに過ぎなかったというお話をしたい。

  フッサールの意識の志向性についてである。意識とは、からだのなかにあるハートの形をしたかたまりではない。常に何かを意識しているという実体のない矢印。つまりは志向性なのだ。まずは感覚的素材である音、香り、形があたえられ、これを感覚的ヒュレーという。これに意識作用のノエシスが矢印のように向かい、ついにはイメージ像、表象、意識対象がうまれる。この意識対象がノエマである。また、ジョンサールは志向性の矢印めがける志向性を内包だという。内包っていうはことばでいえば、そのことばの意味だ。

   次の話はカントの時空形式についてである。かって、ニュートン力学は時間と空間というのは、絶対的にあるものだといった。絶対空間と絶対時間である。ところが、カントは時間と空間はばらばらな感覚情報をきちんとまとめる形式であり、心のなかにあるのだといった。これが時空の形式である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   心の中には広大無辺な無意識世界があり、ここは混沌である。夢の支離滅裂さはここにある。目の前には時空形式のある現象。これを現象面と呼びたい。そして、この現象面の向こうに広大なカオスな宇宙が広がる。量子の世界であり、ひとつの電子が確率的に分身しちゃっている世界だ。

  この二つの世界はひとつだった。広大なひとつのカオスの海であり、そこに流れが生まれる。流れは実体なき方向性、つまり、これは無意識の志向性だ。二つの流れの合流、もしくは、流れていないところに流れがくるとその境界面付近に渦巻きなし流れ、ポテンシャル流が生まれるという。また、渦巻きも境界面付近で発生。この渦巻きが意識であり、ありもしない仮想の境界面を作り、これを現象面とみなしているのだ。



2014 12-28


無知の知と共感覚についてである。いくら目をこらしてもみえない、あたまをひねってもしっくりと知ることができない。それが光速の乗り物で時空が曲がるとか、量子力学の確率的に存在しちゃっている電子などだ。見えないゆえにそれはほんとうのところ自分の姿だった、という大いなる逆説をとなえたい。

  ソクラテスの無知の知についてである。デルフォイの神託でソクラテスはアテネのうちで最も賢いものとされた。他のものたちは自分はいろんなことを知っているというが、ソクラテスは自分がなにも知らないということを知っているという。これが無知の知であり、ある意味、究極の自己知でもある。

   次の話は共感覚についてである。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、という複数の感覚が混ざり合ったものだ。たとえば、ぎざぎざした音、というのは視覚と聴覚の混ざり合い。やさしい音色なんていうのは性格と音が混ざっている。いわゆる比喩になるものであり、哲学者リードにおいては常識の根本にある人類共通の共通性質、コモンセンスになるものだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   かってニュートン力学は目にみえる、感覚できるほどのマクロな物体の法則を扱った。だから、感覚的にしっくりくるのだ。ところが、現代科学においては直接的に感覚できない、間接的な観察しかできないものを扱う。量子論においては電子は確率的に存在している。ところが、ガイガーカウンターや縞模様の感光版などで間接的に知る。また、光速で飛ぶと時間空間がゆがむという相対論も直感的に理解できない。不可視、不可知なものの理論だから感覚的にわからない。かって、カントは現象の背後の本体、物自体は不可知だから、認識論も当て上げ、だから、それは実践であり、自分自身の存在だとした。つまり、不可知なものとは自分のことなのだ。無知の知、自分のことがわからないということと、不可知な世界はイコールなのだ。だから、量子の世界はじつは私の世界なのである。ひとつの電子が確率的にあるとは、私がひょっとしたらそこにいる鳥だったかも、さいとうくんだったかも、というように、すべてが自分の並行世界だったという他者の心を表すのだ。また、光速で飛ぶと、時空がゆがむのも、私自身が光なのだ。時空がゆがみ、自分の前にコンパクトに収まる。これが遠近法、パースペクティブであり、慣性系として、観測者の運動状態によって、時空がゆがむというのも、これは私自身を中心として広がるパースペクティブ、遠近法世界そのものに他ならないのだ。

  共感覚はいろんな感覚がまざったものだが、じつに、それゆえにわれわれが感じている世界は複合感覚にによる不可知世界そのものの表現なのだ。複合することで不可知世界が可知世界の現象に転じているともいえる。


2014 12-30


多元的現実と多元的草稿理論についてである。ひとつの世界のなかのひとつの意識と考えてしまう。本当のところ、複数の世界のなかにいる複数の意識を同時にやっているのかもしれない、というお話をしたい。

  シュッツの多元的現実論についてである。われわれは複数の現実世界に生きているという。しかも、意識の状態によってそれはかわる。意識がどれほど緊張しているか、判断停止っぷりはどうか、自己経験の度合い、自分をけっこう意識しているか、それとも、なにかの没頭か。時間パースペクティブといって、過去に固執しているか、未来への希望がどれくらいか。時間的な遠近法である。これらによって、現実世界は、他人とコミュニケーションできる日常現実、夢の現実、芸術、空想の現実、さらに、科学的現実などにある。現実はたくさんあるのだが、この中でも、他者とスキンシップできる日常現実は特別であり、至高の現実という。

  次の話はデネットの多元的草稿理論についてである。かって、デカルト的劇場、カルデシアン劇場という思想があった。あたまのなかに小さなな自分がいて、それが感覚情報を集めたスクリーンを見ているというもの。そうではなく、デネットはたとえば、脳細胞のひとつひとつがちがったことを主張し、そのなかで主張がぶつかりあって勝利したものがそのひとの考え、思いになるというもの。草稿とは下書きであり、下書きがたくさんあってそのなかからひとつの本番が生まれるというもの。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

      
        われわれはひとつの世界にいるひとつの意識ではない。それは氷山の一角である。多くの世界のなかにいる多くの意識、しかも、無自覚的だから多くの無意識ともいえる。地球は自己組織化の働きがあり、生命であり、われわれ生命個体は脳細胞に相当するというガイヤ理論がある。そんな地球が太陽系のなかで生活し、その太陽系への意識もある。これを並行してやっているのだ。また、宇宙と私は一体であるというが、これまた無自覚的に一体感を感じ、世界の存在感になっている。ホログラム理論のような情報が三次元化されているという世界にも自分の意識のひとつは住み、なにものかがつくったシュミレーション宇宙に住んでいる意識もある。

  時に、ある種の感情が内からこみ上げてくる。これは別の世界の別の意識からの流出であったりする。ひらめき、インスピレーションも同じだ。他の世界、意識とのエネルギーの流入、流出なのだ。これらは階層性をなす世界に階層性のある意識の多次元的なお話。ここからは多元的な世界に、多元的な意識を同時にやっているというお話へと深化させたい。

  さいとうくんの意識活動はじつは私自身もやっている。ただ、氷山の海面下であり、無自覚なのだ。さいとうくんも私の意識を遂行している。これが、互いに相手の気持ちになれる間主観性の正体なのだ。人間だけでなく、あらゆる生命個体の意識を並行して遂行中ということで、多次元でなく、多元的世界のなかの多元的意識ということになる。



2014 12-31


  パトナムの私と世界、そして、ヴィトゲンシュタインの無根拠性についてである。ここから私でこっちから向こうが世界だ、と線引きしている。かって、宇宙飛行士は地球に国境なし、といったが、主客に国境なしである。はじめに主客のひとつになった中道世界があったのだ。

   パトナムの私と世界についてである。世界は私の観念でもなく、私が世界によって作られる、つまり、原子でできているともいいがたい。パトナムは私と世界が協力しあって、私と世界を作っているという。だから、いつなんどきも、私っていうかたまり、世界っていうかたまりは出現しない。常に無数のバージョン、解釈によって成立しているという。

  次の話はヴィトゲンシュタインの無根拠性についてである。言語ゲーム論というものがある。テレビゲームよろしく、なんと言語もゲームだという。テレビゲームだとクリエーターが作者。人工言語もプログラム言語だから作者がいる、これに対して、ふつうの日常言語、自然言語は作者がいない。生活の流れから自然発生だ。前後の脈絡で意味が決まる。文脈主義ともいう。それでは生活とか、生きるとはどういう意味なのか。もはや、ここまでくると、無根拠だという。ヴィトゲンシュタインは言語ゲームのことを、理性的、つまり理屈でもなく、非理性の本能でもなく、ただ、そこにあるだけだという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    主観と客観、私と世界は卵子に受精した精子、それが細胞分裂を起こすときのようにひとつだった。それが分裂したまでのことだ。

  もしも、すべては客観的な物理世界に由来するならどうだろうか。赤い物体があったら、それに光があたり、反射して網膜に入り、電気信号に変換される。赤の波長が赤いということの根拠だ。ところが、捕食関係の青色を見た後だと赤く見えなかったりする。また、別の例だと、上下がさかさまになるめがねをかける。最初は違和感あるが、一ヶ月もすれば、上下がもとにもどったようにみえるという。このとき、めがねをはずすと、上下反転したようにみえる。要するに、上下というのも、客観的な世界が決定しているのではない。さりとて、私の観念でもない。その中間の世界なのだ。主観と客観の中間の世界、心理学者ヴァレリーがいう知覚の中道論である。しかも、この中間世界には歴史があるという。青色を見たから赤っぽくみえるなど、歴史的な流れで決まるのだ。

  この主客の中間世界における歴史。ここにすべてがあるのではないのか。外界にも、観念のなかにも、他者や私の心はみつからない。これははじめからあったこの主客未分化のたまご、中間世界にいるのである。


2015 1-2


構造主義と空隙性についてである。ぷんぷん怒っているおじさんがいる。庭先にでると、野鳥がぎゃーぎゃーとほえていた。近くの活火山が噴煙をあげ、稲妻がとどろく。すべては同じパターンの繰り返しであり、微妙にずれているだけではないだろうか。

   構造主義についてである。この世界にあるものはなんだか同じ構造してるのではないのか。かって、レヴィストロースは世界中を歩きまわり、場所と時代を超えて、あらゆる神話が同じ構造であることに気がつく。心理学者ユングもまた、集合無意識っていう同じ無意識世界に時間を越えてわれわれは住んでいるので、世界中のあらゆる時代のお話、神話は共通しているという。元型があるという。構造主義もまた、意識的、理性的じゃなくて無意識的なレベルだ。さらに、神話と数学にも同じ構造が見られるという主張から、文明の科学、未開地の神話っていう文明主義にも反対する思想だ。

  次の話は幾何学における空隙性についてである。空隙っていうのは、隙間ということ。フラクタル理論というものがある。自然界もみると、雪の結晶にみられるような構造だという。全体の形と同じ形の部分でできているのだ。自己相似系というのがフラクタルである。いろんな図形があり、フラクタルがあるが、形によって、フラクタルでびっちり充満するか、それともすかすかの隙間だらけか、というのが空隙性といわれるものだ。


   まとめ

   存在の科学


   異次元理論

   
    あるおじさんがぷんぷん怒っている。散歩にでると、野鳥がぎゃーっと大声で鳴いている。まるでさっきの鳥バージョンだ。よく注意深くしていると身近な現象に気づきがある。すべては同じパターンの微妙にずれた繰り返しなのだ。卵子に精子が受精し、細胞分裂。分裂の繰り返しだから限りなく対称性をもっている生物。それでも完璧な左右対称でないのはずれである。同じパターンを繰り返そうという軸がある。ただ、そこからずれようとする力も働く。以前話たが、発生するとき、一切の外界の影響を遮断し、収束する。そして、成長、進化のときは周囲の環境とのやり取り、学習によって同一パターンの繰り返しから離れようとする。

   このパターン繰り返しのズレはまるで剛体の力学の偏心である。物体には重さの中心、つまり、重心がある。もうひとつ、形の中心である図心がある。この重心と図心のズレを偏心といい、偏心モーメントという回転力をうむ。つまり、成長、進化においてズレが大きくなればなるほどこの回転エネルギーが大きいのだ。われわれの活動の源泉はこの元型パターンからのずれによる回転運動だったのである。


2015 1-3


一元論と意識のスペクトルについてである。世の中とはなにか。端的にいってしまうと、すべてはいまここしかないのではないか。それ以外は二元的分裂による虚妄なのかもしれない、と真剣なまなざしでつぶやいてみる。

  一元論についてである。古くはパルメニデス。あるものはある、ただこれだけである。しかも、ある、存在とは思考することといっしょ。今考えている、いま俺は存在する。これが現代においてよみがえったのがハイデガーの存在論だ。古代ギリシャにおいてはあとはプロティノスの流出説。一者というものがいて、そこから理性、秩序、世界のルールであるヌースがうまれる。そして、そこから万物が流れてくるという。近代のヒーロー、デカルトは二元論だった。心は物体とはまったく違う世界だから、物体の外から冷静に観測するという科学の見方が生まれる。現代においては心でも物体でもあるなんだか1なるものが最初にあるという中立的一元論がある。

   つぎの話はウィルバーの意識のスペクトルについてである。世界にははじめ心しかなかったという。このときの心は観念論などの心でなく、東洋思想の唯識の思想だ。心の世界からいろんなスペクトルがでてきて分光器の光のようにいろんな意識がでてくるという。まずは、有機体と無機物にわかれる。私と世界の分裂だからハイデガー思想のレベルだという。次に私はからだをもつ、というが、私と身体だ。そして、自我もまた分裂を起こすのだ。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    
     有機体である私が無機物のくるまを操作する。くるま、モビルスーツの背後には操っているドライバー、操縦士がいる。ところが、逆もまた然りである。われわれ有機体を操る無機物だ。これは無機的生命ともいうもので、マトリクスの映画のような機械によって有機体の生命が液体ケースのなかで夢を見せられている。そんな無機物の背後に有機体の支配がまたある。こうやって、無機物と有機体は互いに基礎付けあって、根拠づけている。

  人間の身体も右に同じである。有機体だけでなく、からだの中心には骨格、つまり、骨という無機物がある。さらに、その無機物のなかに髄液などの有機体だ。

   私が感じている現象とその背後にある物自体、主観と客観もそうだが、有機体と無機物もそうだが、結局は二元論的なのだ。以前話たが、多元的なものは同じパターンの繰り返し、一元論的なものにしようとするが、すべてがオリジナルからずれていて、そのずれが回転運動を起こすといった。つまり、多を一にしようとして結果的には二になっているのだ。

  すべてはひとつなのだ。最初にいまここがある。いまここになにかがあるのではなく、いまここである。これが心であり、これが二分化して、ついには、いまここの反対であるいつの日かのそこ、あそこにある。明日のそこ、昨日のあそこは永遠にたどり着けない虚妄であり、いまここしかないのだ。



2015 1-4


物自体と表象についてである。太陽の中はいったいどうなっているのか、と思い、一度、お伺いでもするならば暑くてたまらないおもいをするであろう。太陽のなかの科学的解明というのがあるが、これを見るにまるでひとの脳であり、そこにカント哲学の考えが適用できちゃうことがわかってくるのだ。

   カントの物自体についてである。われわれは現象界をみている。りんごがあり、かじると歯型がつく。かじったのが原因で、歯型は結果だ。こうやって現象界は因果律に支配されている。ところが、りんごそれ自体、物自体はみえない。認識できない限界だ。しかも、物自体は因果律なんてないので自由意志だ。認識できない物自体、認識じゃなくて実践なのだ。私の自由意志の実践が物自体だったのである。

   表象についてである。カントにおいては表象世界とはどっちかという現象界だ。また、感覚的印象を組み合わせたイメージ世界とでもいえよう。かって、ボルツァーノは表象自体という考えを提唱。この地球の水分子の数は数えたものがいない。実際に見たものもいないが表象自体としてはあるという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   太陽のなかはどうなっているのか。中心部で核融合反応。そこから光の粒である光子が飛び出す。ところが、プラズマ帯域からなかなか逃れられない。プラズマとは物体の相転移のひとつ。個相は水ならば氷。液相は水。気層は水蒸気。そして、さらに熱すると、原子核と電子が離れて、電子が自由に動きいと回るプラズマになる。このプラズマ帯域で、光子がプラズマの電子につかまる。ラグビーボールのようにいったりきたりと、いろんな軌跡を歩む。約100万年そこからでれないという。このあいだに、光は無数の形、色の表象世界をつくる。つまり、走馬灯のように、あらゆる事象のイメージ、表象を実現する夢のなかのようなもの。この表象の構成要素である光子がやっとねけだし、高熱をねけるまで減速するという。そしてついには太陽から出て地球などにむかって、地球の生きとし生けるものをはぐくむ。以前、プラズマとは生命の意識活動だといった。太陽は表象を思い描く巨大な脳であり、表象の先に物自体があるとおもいきや、こんどは光子が太陽の手足になって地球などの生命活動維持という実践へと向かわせるのである。

  人間の脳においても、プラズマ状態で、電子が行き交う。ここに表象世界、現象界があるが、この先は表象の構成要素である電子、光子が神経を伝って手足を動かし実践にうつるのである。


2015 1-5

自然の斉一性と実在論についてである。太陽と私と原子核の三者関係。ここになんとも、世界の見え方をチェンジする切り替えスイッチがあったとはだれしも想像だにしなかった。

  自然の斉一性についてである。昨日の起こったことはおそらく明日にも起きる。未来っていうのは過去に似ている。いつのときも均一で大差なし。ここで起こっていることはあそこでも同じだ。空間的にも、どこも似ている。これが結局、帰納法の大前提になる。いままで太陽は東から昇ったんで、明日も東から昇ると。ところが、逆もまた成り立つという。なんと、帰納法から斉一性を証明するというのだ。

   次の話は実在論についてである。いろんな実在論がある。ものが実在しているんだよ、という主張だ。すべては原子でできているという原子論的実在論、または、唯物論的実在論。あとは、見たまま、そのとおりにものは実在しているという素朴実在論。カントは感覚で感じ取った、経験したものが実在だという。経験、感覚のないものはすべて観念だという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   前回話たが、太陽の内部は核融合反応し、光子が放たれるが、中間のプラズマ帯域で自由運動する電子につかまっていったり来たりとそこを通過するのに100万年かかるといった。そして、そのあいだに光子は無数の軌跡を描き、これがあらゆる事象のイメージ、表象となって実現される。太陽は表象空間にあらゆる事象を思い描いているといった。光子がやっとここから脱け出し、つぎは高熱の領域で速度を落とす。光速度不変だから、時空がゆがむのだ。

  さて、原子核のなかには陽子と中間子があり、このなかにとらわれた粒子は引力と斥力によって脱け出せないという。そして、ついには加速されて光速度に近づき、時空をゆがめる。

  人間の脳もまた、一種のプラズマであり、電磁パルスの電子、光子が吸着、離散しあって、イメージ世界、表象世界になり、この中のひとつの電子なりが飛び出し、手足の神経を刺激し動かす。天には太陽、地には原子、つまり、原子核とみなすと、天と地、そのあいだの人との関係。この三者が互いに時空のゆがみを一致させたとき、それはこの世界がムラだらけにみえる。ざっくり、テーブル、すいか、椅子、というように離散的、非連続的にみえて、いわゆる日常世界、素朴実在論の世界だ。ところが、この世界を巨視的にみると、テーブルに対する反テーブルというのはおかしな話だが、すべてが相殺して何事も起きていない静寂でしないといった。この境地になるのが、太陽と原子核と脳の時空の調和がこわれたときだ。その代わりに、眼前する世界が調和するのだ。このすべてが均一、一律という、いわば、斉一性の科学的世界が現れるのである。

  
posted by モノイイ ジョーカー at 13:32| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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