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2009年07月05日

クレイジートーク 179093848-ja

今日の哲学漫談(あさ)179093837-ja 

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宇宙人の哲学漫談(20090210)

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存在の科学   ホロムーブメント理論 固体からプラズマへ

存在の科学   ホロムーブメント理論 固体からプラズマ

  プラズマとはあまりに不確定であり、光の強烈なものだ。どこにあるのか探してみるといがいとそこにあった。太陽である。核融合反応ではなく、あれはプラズマ現象ではないだろうか。そしてプラズマによって放たれた光がものに反射させ、ものを認識できるようにしている。つまりは、物を認識するためのツールである。もうひとつプラズマがあった。私の脳、意識である。目から放たれる矢印、意識の志向性という光線。これによって、放たれた光はものをうつしだす。よって、私自身も認識、ものを感じるためのツールだ。太陽はものを見えるように照らすものであって、太陽自身は見られるべき主人公ではない。映画を見るのであって,映写機をみるのではない。だから、太陽をず〜っとみると目が焼かれる。同じく、あまり長いあいだは脳や意識をみるべきではない。これまた光源であるプラズマであって、目が焼かれる。

  プラズマは成熟した段階である。物質の三つの形態。固体を熱して液体、液体熱して気体、気体を熱してプラズマである。ひとは最初土であり、固体であった。そして、ついに母体のなかの子宮、そのなかの羊水での生活になる。これが液体の段階。産まれてからはこんどは気体、空気のなかで生きている。そして、最後にはプラズマの段階がまっている。いままさに私のからだをみたときも、この三つの形態が内蔵されている。気体は空気を取りこみ、液体はいわば、ホルモンの緩やかな伝達物質。そして、肉としての個体があり、プラズマとはすなわち、神経を通る電気信号であり、その最たるは脳における弱いプラズマ状態だ。

  前回、プラズマ愛について語ったが、このプラズマ愛によってひとりの人間が作られる。


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仙人養成講座 哲風呂 志向性、自然主義的及び人格主義的態度、そして、自然的われについて

志向性、自然主義的及び人格主義的態度、そして、自然的われについてである。目から光線を放つ不貞やからを発見だ。気をつけたほうがよい。おそらく人間ではなく、地底人のたぐいであろう。光線といったら、いつも太陽の光でわれわれは生活している。ただし、これら光線をじかにみるとまぶしすぎてしょっぱい顔になってしまうからお見合い中はみないほうがよい。光のまえは空気であり、その前は水であり、もっとまえはただの地面だった。すべてのものが歩むおなじようなプロセスについてもお話したい。


  志向性とはなにかについて考える。哲学者フッサールは意識ってなにかと考えた。神妙な顔つきで水槽をながめるおじさん。おじさんの目はタニシの交尾に釘付けだ。タニシといっても、スタイリッシュなタニシからドン臭いタニシにいたるまで多種多様。風のタニシのエゾシカなんていうことはいいたくない。タニシのさまざまな感覚情報を入手。これらを意識作用がくみたてて、タニシの交尾という全体をつくっている。意識作用をノエシス、そして、タニシのイメージをノエマという。
 
  こんな意識の志向性とはじつは内包性ではないかとささやかれてきた。ひそひそと耳元で叫ぶ。どこかがちがうけど、細かいことを忘れることだ。内包性とは、たとえば、人間を人間たらしめている性質。二足歩行に火も使う。洗濯バサミで鼻をつまめちゃう。いろんな性質があるがこれが内包。この内包をもっているものたちが集まってかららは人間メンバーの会員になる。これが人間という概念の外延である。ことばの内包はまさに意識の志向性のようにそのものたらしているではないか。言葉の内包が変身して毛が生えたものが志向性なのか。サールという思想家はむしろ内包とは志向性の志向性だという。志向性はいわば目からはなたれた矢印であり、ビームである。この矢印にもうひとつの矢印がつきささると、内包はうまれる。

  つぎの話は自然主義的態度と人格主義的態度についてである。これまた哲学者フッサールである。自然主義的態度とはいわば科学的な目つきでみちゃうこと。態度だってふてぶてしい態度からおとなしい態度までいろいろとあるが、とりわけ、科学な態度である。私がミカンと対面したとき、ミカンの成分や分子構造を考える。分子結合がミカンの色の原因であるというように、ここでは原因と結果の因果律が支配している。これにたいして人格主義的態度でミカンと接する。すると、原因と結果ではなく、動機というのがポイントになる。このミカンはなんでここにあり、だれが生産者でなんのために育てたのか。とくに、やまちゃんと対面したとき、自然主義的態度はやまちゃんの胃酸の量とか考えちゃうが、人格主義だとかれはなにをいわんとしているのかとか、なにをしたいのか、というように主体として考えられるようになる。

  さて、自然主義的態度と人格主義的態度のどっちがベースになっているのか。たしかに、人格主義的態度が最初にあって、まずは私という人格があって、つぎにミミズの解剖に着手して、科学的な自然主義的態度があるような気がする。逆にまずは私自身の眼球の科学的な働きがあって、つぎに私の人格があるような気がする。どっちが正しいのか。どっちが親で子供なのかがわからず、授業参観で思い悩む先生。こんなとき、フッサールはどっちでもないもnおがふたつをささえていると結論。これが自然的態度である。主義がついていないことが重要だ。自然的態度とは爪楊枝をくわえてハナクソほじくる日曜のひるさがりのお父さんがやっているポーズだ。つまりは、あまりに当たり前でふつうの日常。これが科学や人格のベースにあるというのだ。


  最後にメルロポンティの自然的われについてである。私は私自身がいままさにパンツをぬごうとしてバランス崩し、地面に落下中であることをい意s気し、自覚している。自我とは私のことをよく知っている。私はあなたでもなくかれらでもないという人称性がある。これに対して,意識的になるまえに人称性のないものが私のなかにいることに気がつく。これが非人称的なひとである。だれかが私だ、とさけぶまえに私自身を営んでいる。胃袋の胃酸分泌は意識的にやっていない。たしかにおならは意識的にやってほしいし、意識せずにおならでてしまうのはどうかとはおもう。まばたきや心拍だって、私が人称的に意識するまえになにものかがやってくれていること。これが自然的なわれであり、ひとといわれるものだ。


  まとめ


  存在の科学   ホロムーブメント理論 固体からプラズマへ

  プラズマとはあまりに不確定であり、光の強烈なものだ。どこにあるのか探してみるといがいとそこにあった。太陽である。核融合反応ではなく、あれはプラズマ現象ではないだろうか。そしてプラズマによって放たれた光がものに反射させ、ものを認識できるようにしている。つまりは、物を認識するためのツールである。もうひとつプラズマがあった。私の脳、意識である。目から放たれる矢印、意識の志向性という光線。これによって、放たれた光はものをうつしだす。よって、私自身も認識、ものを感じるためのツールだ。太陽はものを見えるように照らすものであって、太陽自身は見られるべき主人公ではない。映画を見るのであって,映写機をみるのではない。だから、太陽をず〜っとみると目が焼かれる。同じく、あまり長いあいだは脳や意識をみるべきではない。これまた光源であるプラズマであって、目が焼かれる。

  プラズマは成熟した段階である。物質の三つの形態。固体を熱して液体、液体熱して気体、気体を熱してプラズマである。ひとは最初土であり、固体であった。そして、ついに母体のなかの子宮、そのなかの羊水での生活になる。これが液体の段階。産まれてからはこんどは気体、空気のなかで生きている。そして、最後にはプラズマの段階がまっている。いままさに私のからだをみたときも、この三つの形態が内蔵されている。気体は空気を取りこみ、液体はいわば、ホルモンの緩やかな伝達物質。そして、肉としての個体があり、プラズマとはすなわち、神経を通る電気信号であり、その最たるは脳における弱いプラズマ状態だ。

  前回、プラズマ愛について語ったが、このプラズマ愛によってひとりの人間が作られる。


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今日の哲学漫談(あさ) 179089665-ja

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存在の科学  ホロムーブメント理論  プラズマ愛

存在の科学  ホロムーブメント理論  プラズマ

  社会の成員になると、たがいにたがいを作る。役割があり、これが仮面となり、ペルソナといわれる。自分は周囲の望まれたように作られて行く。家族や親しきひとたちは社会であろうか。たがいに固定させ、粒子にはしない。波動なのである。量子力学でいう粒子性と波動性。見た瞬間に電子は粒子になり、見なければそれは波動性であり、同時にいたるところにある可能性の世界だ。この波動性を維持しつつたがいに感じ合うことが愛ではないだろうか。

  波動を粒子にするとはいわばロゴス、言葉でもある。形式論理的だ。ところが、親しき関係、愛とは言葉ではなく、波動性である。

  物体の3形態についてお話したい。まずは、固体であり、あたためると液体。さらに熱すると気体になり、ついにはプラズマ状態になる。固体からプラズマへの移行は固体から波動性へと移行でもある。固体はたがいに確定し、粒子にする社会である。液体はそこにすくなからず愛がある。気体の愛とは空気のような存在だ。そして、至高の愛とはプラズマ愛である。プラズマはもはやイオンと陽電子などの集合体なので、伝達するための光は伝達の役を果たさない。不確定で波動性の極まったもの。そこでは電子は無数にあらゆる場所、あらゆる時間に可能性として存在できる。だからここにプラズマトンネルができる。このトンネルは時間を超えて、空間をも超えてあらゆる可能世界を行き行きできるトンネルだ。

  空からの謎の落下物。本来は地上や水中にあるべき魚などが空から降る現象が多発している。これはプラズマトンネルのしわざだ。地にあるものが空間をこえて天にゆき、さらには時間をも超えて出現する。プラズマトンネルの生成はひょっとしたら至高のプラズマ愛がどこかでなされたことを物語る。

  
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