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内包と外延、可能世界意味論、そして、独我論についてである。そこに干し柿がぶらさがっている。正直言って、その昔風呂上りのときに見たじいさんの玉にそっくりだ。干し柿は風にゆられ、どんどんミイラ化を促進。そんな変化のなか、その干し柿は自らのアイデンティティをもっている。同一性には変化やら、流れがひそんでいる。私は干し柿を食べたくなり、口にほおばり、さらに、異様に踊りたくなったので、アイロン台のうえでおどった。その直後、新しいロケットの推進力をおもいつく。どこからやってくるのだろうか、感情やインスピレーション。どうやら、同一性というトンネル、そこに流れるものから汲み取っているようだ。
内包と外延についてである。ポールロワイヤルの論理学というのがある。これは論理学のなかの基本書といわれる。ここで内包とか、外延がでてくる。人間は動物だ、といきなり公園のスピーカーから聞こえてきた。だから、よい子のみんなは早く家にかえれ、くらいの放送だった。動物といったら、動物の性質がある。動く生き物であり、栄養摂取してエネルギーにチェンジしているみたいな性質。これを動物の内包をという。こんな動物の性質、内包をもっているやつは銀の鈴のしたに集まれと、号令かける。すると、動物のメンバーが勢ぞろい。これが外延である。
現代ではフレーゲがもうちょっと細かく考えた。どらえもんはロボットである。こんな文章があったとき、内包と外延はなにか。内包とはこの文章の意義だという。理屈上、矛盾していなければ意義は無数に作れちゃう。どらえもんが空を飛ぶ、かわら割りをする。つまづいて転んだら金の延べ棒をみつける、などなど。実際におきたことでなくても、論理的に矛盾しなければ意義がある。これらが内包だ。そして、それが真実かどうか、真偽という値のどっちかがくっつくはず。この真偽こそがこの命題の意味、外延になる。
必然性ということばがある。ぜっていそうなる、というやつだ。この言葉はどうも可能世界で関係しているらしい。可能世界は無数にあるという。聖徳太子がスキンヘッドでしかも眉毛なしの世界。総理大臣がイタリア人の世界。論理的に矛盾しないかぎり無数の可能世界があり、これら可能世界を貫いて捻じ曲げることができない大大原則、これが必然性だ。どんな可能世界でもおそらく1+1は2が成り立つかもしれない。
ここで可能世界意味論のお話。すべてのひょっとしたらの可能世界を焼き鳥の串のように貫く。これが必然だといったが、これはあまりに強すぎる主張だ。これを様相論理学では強い様相体系S5と名づける。もうちょっとやさしくなでて頂戴、ということで、弱い様相体系S3のご紹介。聖徳太子が一階のサラリーマンやっている可能世界をA。そして十条のお触書をかいたとされる現実の聖徳太子の世界をB。AとBは世界が似ている。かなり接近した世界であり、接近可能性をRと名づける。すると、ARBとなって、AとBのふたつを貫く必然性があるかもよ、となる。さらに、Bの世界がCの聖徳太子が発明家だった世界に接近しているとしよう。すると、AがBににているなら、AはCにもにているはずだ、ということになり、これを推移性という。ここまで必然性を強めるとS4の様相体系だ。そして、A、B、C入れ替えてひっくりかえしてもOKという反射性を認める。すると、S5の強烈な必然性があらわれる。
最後に独我論についてひとこと。世界でぼくちんしかいない、というのが独我論。すると、目の前のお花は実在していないのか。私いとりで心のなかで創った妄想か。これが存在論的独我論。もうちょっとやさしくすると、認識論的独我論になる。これはお花はみえるのだから、やっぱり実在しているかもしれないが、やまちゃんのからだはみえても、かれの腹黒い心のうちはみえないから、他人はいない、私ひとりしかいない、というものだ。ヴィトゲンシュタインの独我論がこれに近い。かれはいう。私に見ているものは見えると。あたりまえである。私にはみえない、やまちゃんがみているものはみえない。おなじく、私がみているようにはやまちゃんはみえない。だから独我論者は相手になにもつたえることができない。世界で私しかいない、と言い切るが、もっとすすんで、世界に私はいない、と結論するヴィトゲンシュタイン。私は根拠がない。生活の流れ、言葉のルールにも根拠なし。この流れがうまれたものであって、私っていうかたまりがあるわけではない。
まとめ
**存在の科学**
異次元理論 私はだれでもないし、だれでもある 私の瞬間の意識は無数のひとの瞬間の意識と共有し、この線上の集まりが私になる 水分は三次元肉体の交点
同一性である=。これは異次元間をつなぐトンネル、通路。だから、通路を流れるものであり、それが同一性になる。同一性には次元を超えた変化、流れが含まれていた。このトンネルである=の正体はなにか。これが0次元の点なのである。0次元の点は量子であり、量子は確率的に、可能的にいろんところに同時存在している。つまり、これこそ、可能世界、異なった次元をむすびつけるトンネルそのものだった。だから以前お話したように意識は量子であり、いろんな次元を組み合わせるのだ。
四次元は時間軸、ひとがうまれてから死ぬまでの一生、これを通してかわらなう人格軸でもある。だから、直線、一次元というようなわかりやすい表現を使った。四次元直線を割り箸にたとえて、これをならべると五次元平面になる。割り箸一本一本がひとりの人格だから、これは人類、他者をふくめた人間たちであり、共通する論理、ことばをもつのでロゴス空間である。こんな人類の五次元平面のようなものが縦につみかさなって六次元立体。別の五次元平面は別の類、猛禽類だの、昆虫類だ。そして、この六次元立体は感情を共有する感情空間。
さて、五次元平面にきれいにならんだ四次元軸。じつはきれい並んでいないのである。斜めに通って他の四次元軸と交差しているものもある。無数の四次元人格軸は無数の他の四次元人格軸と交差して直線上になる。無数の点でできているが、この点はいろんな他人四次元軸との交点である。つまりこういうことである。私は今この瞬間にいらいらしたり、うれしくなる感情がこみあげる。ひらめいたり、インスピレーションがわく。これらはどこからやってくるのか。じつは他人の人格軸との交点であり、私のこの瞬間の意識はやまちゃんの今この瞬間の意識と同じなので。もちろん、この直後、私はさいとうさんの人格軸との交点になり、斉藤さんと同じ意識を共有する。こりかたまった直線があるのである。この直線は無数の他人四次元軸と交点をもって、その交点のあつまりでできている。私は誰でもないと同時、だれでもあるのである。いままでみたことがない風景が夢にあられるのも、私は別人の意識を共有し、交点にさしかかったからである。五次元平面を任意に直線状に線をひいたときにその線が私の人格軸になる。同じことは、六次元立体でもいえる。この立体を任意にきると、五次元平面ができる。この五次元平面は人類の一部、昆虫類の一部、無機物の一部を含む類になっている。共通する性質、内包をもつ切断面なのだ。内包、外延はたかだか任意の線、任意の平面である。私はだれでもないし、だれでもある。
さて、人間のからだは三次元物体であるが、四次元の軸が交差し、互いに意識のクオリアを他者と共有しているように、三次元物体である肉体も他人となにかを共有し、交点をもっているのだろうか。人体のほとんどが水分である。口から水分を摂取し、体内にとどまって排泄。小便は蒸発し、雲になり雨となり、山田君の口から入り、やまだくんのからだを形成する。水分の地球的規模のサイクル。まさしく、肉体の大半を占める水分が三次元肉体の交点であった。
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