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2008年05月17日
存在の科学 他人とは私の自己意識が空間化されたもの ホワイトホールとは他人である
存在の科学 他人とは私の自己意識が空間化されたもの ホワイトホールとは他人である
ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。
さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。
ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。
さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。
仙人養成講座 哲風呂 独我論、間主観性、そして、多元的現実へ
独我論、間主観性、そして、多元的現実についである。私とは一体なにものなのか、と床屋にて、鏡にうつしだされた自分をみつめながら考える。床屋さんは聳え立つ私のあたまの向こうでなにやらたくらんでいる。床屋のよだれがたれた、間髪いれず、持ち前の反射神経でこれをかわす。少なくともデニ−ロ風な私とイタリアン風味の床屋さんが鏡にうつっている。私と私以外のものだ。私と他人はどことなくそっくりである。高級カウンターを通販で購入していてよかった。さっそく、このカウンターで床屋さんの腕、足の本数を数え始める。ボタンがスムーズに押せて、タコのできない。やはり、ヨーロッパ製はちがうな、と心に思いながら、驚愕の事実に直面する。とりあえず、ここでCMをいれて、前の状況がだぶるかたちで再度、カウントする。なんと、腕と足の本数が私といっしょではないか。なんで私と他人はここまでそっくりなのか。そもそも、なにゆえ、私がいて、他人がこの世に存在するのか。
独我論についてである。単刀直入にいってしまうと、世界、宇宙で私はひとりぼっち。さびしくて、おもわず、笑みがこばれちゃう、というやつだ。さびしいときは、しくしくと大泣きするのが、昆虫としての礼儀ではないか。とにかく、世界にはいろんなひとたちがいる。白髪でフラメンコを踊る老婆。よく、テレビの後ろで目撃する。ゾウリをはいて、袴を着て、ごめんくださいを連呼する外国人。人間ピラミッドでポジションは一番下。それでいていつも四つ足で動きまわり、ピラミッドの崩壊を招いてしまいがちなみよちゃん。亀をみると、ひっくりかえすという習性をもつ、気持ちの良い志をもつさんちゃん。いろんなひとたちがいて、性別はおろか、顔かたち、体つき、性格だってみんなちがう。それなのに、こんな自分以外の他人たちはみんな私の意識の産物だ、だと独我論者はほえる。独我論といっても、おおきく二つのタイプがある。強烈でハードなタイプの独我論。もうひとつはやさしい初心者からゼロから挑戦できちゃうソフトな独我論だ。強烈なハードコアな独我論は存在論的独我論である。そもそも、この世界には私しかいない。なんてナル入っているのだろうか。目の前の亀の子たわしも、むき出しの不安全ピンも、骨折した爪楊枝、そのすべて物体はワタしの意識のなかのもの。ましていわんや、笑顔が恐ろしいぎょうそう、それでいて、怒り顔がチャーミングな隣人、他人の心、意識はもはや私のなかで作られたものだという。私しか存在しないという発想だ。これに対して、ソフトな独我論はちょっとちがう。亀の子たわしみたいな物体はたしかにあるかもしれない。ただし、他人の心、意識はどうも怪しいというのだ。独我論のそのほとんどがソフトタイプである。他人の心はたしかにどんなに目を凝らしても見えない。見えるのは曲がったネクタイと、ヒタイから飛び出したツノだけだ。よくよく考えたらヒタイの角はおかしい。だれだ、と叫んでみる。どうやらケンタウルスらしく、真相をしってほっと一息。お茶を飲もうとしたら、湯のみ茶碗から首長竜が顔をだす。おはようございます、と夕暮れ時に挨拶し、よくよく考えると挨拶を間違えたことに気がつく。
哲学者ヴィトゲンシュタインは、私が見ているものこそが見られているものだ、と花火を見ながらそう訴えたのかは知らないが、名言をはいた。やまちゃんは花火を見ている、と国家安全保障局から電話が入る。やまちゃんはみているが、本当の意味で見ているのではない。本当に花火を見ているのは私だけである。見ていると確信できるのは私だけだ。当たり前すぎたので本当に申し訳ない。それでも、ここに独我論の真髄がつまっている。
哲学者フッサールは当初、独我論になっていた。私の目の前にはディフェンスのやつらが進行を邪魔している。間隙を縫って相手の又下をくぐり、あたまを越え、空を飛んで、ゴール前でシュート。私の目のまえにひろがっているもの。巨大なビル群、羊たちの群れ、これらは皆、私自身が思いこんだものだというのだ。私はあたまで判断し、羊だと信じ込んでいるだけ。こんな思いこみは全部、留保して、とりあえず、確実なものを探そうというのだ。みつけた。私自身の存在、純粋自我こそが確実だというのだ。ちなみに、保留ボタンを押してエーデルワイスの曲をまじまじと聴いてしまう。
さて、ここまで徹底して見つけ出した絶大な信頼と実績の私自身の存在。なんだか、世界に私だけ、という孤独な状況がやってきた。これを哲学的孤独という。さびしくてもうたまらない、とさけびながら素っ裸になって、ハワイアンダンスでも踊る。哀愁の漂うハワイアンダンス。吹雪のなかでハワイアンだ。孤独な一匹ハワイアンダンサーでもかまわない。他人がいないからさびしんのだ。そこで、他人の存在をどうにか証明したいと考える。しかも、モノが客観的に存在している、空飛ぶ冷奴をこの目でみたんだ、と元うそつき少年が語ってもだれも信じない。目撃者が増え、それを見た目玉の数が増えればより客観性がアップする。つまり、モノが客観的に存在しちゃっていることと、他人がいるということはどうも切っても切れない腐れ縁らしい。
ここに間主観性理論が登場する。よくよく見ると、私と目の前のおじさんは形が似ている。背中のボタンを押すと、大きなあくびをし、あっぱいを小バエ立ちが取り囲みなにやら儀式をしている。私とそっくりなことに驚き、ひょっとしたら人形ではなく、私とおなじような温かい心をもっているのではないかと推測するのだ。これが類比化的統覚といわれるやり方だ。そして、さらに、対化という方法を使う。私は独り部屋でたまごを見つめている。ゆで卵にするか、卵焼きにするか思い悩み、焦燥しきったようすだ。たまごを一人みていると、どうしても視界には限界があるので、見えないところがたくさんあることに気がつく。また、たまごの向こう側にはセーヌ川が流れているかもしれない。ぎりぎり見える見えない、知っている知らない、聞こえる聞こえないの地平線に囲まれているのだ。そして、そんな地平線に他人は内蔵されていると考えるのだ。ひとりぼっちでいても、たまごを客観的に認識できちゃうのである。
最後に哲学者シュッツの多元的現実というお話。現実をみるんだ、とおじさんがケツを丸だし。事件であり、れっきとした歴史的大事件である。冷たい現実から目をそらしてはいけない。目をそらしているのでなく、寄り目の練習をしているのである。鼻をそらしてはいけない。臭いものにふたをして不法投棄もあまりよろしくない。現実とは一見、たった一つしかないと思われがちだ。ところが、現実とはたくさんある、といったらどうだろうか。きっと別段驚かず、これってだれの毛といいながら、枕元の陰毛をゴミ箱に入れるだろう。私は久々に眉毛の無い男の毛穴を触る。おそろしく緊張感が漂っている。また、家でごろごろしながら床体操しながらくつろいでテレビをみる。こんなときは、意識はぶったるんでいる。意識の緊張感によって現実も変化する。また、エポケーといって、判断をどこまで停止するかという問題がある。ぼーっとなにも考えていない。判断しまくって、意識を集中するときは赤あげて白あげないで、足あげて、というゲームだ。このエポケー、判断停止の度合いによって現実は異なって現われる。自己意識の度合いも重要である。自分を意識しまくr、ルームミラーで鼻毛を押しこみ隠蔽する男。自意識が強い状態。また、我を忘れて、F1レースにのめりこんでいる男もいる。自意識の度合いによっても、いろんな現実が現われる。かってにヘンな想像上の生き物を空想し、かってに断りも無く鳥肌をたたせているときもあるが、空想だって現実だし、夢も、芸術の世界も現実だ。とりわけ、そのなかでももっとも特別視している現実がある。日常生活の現実である。スーパーで買い物をし、かぼちゃの陰に隠れたり、キュウリを手にしてモンスターと一戦交える、そんな日常生活こそが至高の現実だといわれる。なぜであろうか。この日常生活の現実でだけ、他人と肌をふれあい、つばをとばしてコミュニケーションをとれるからだ。
まとめ
存在の科学 他人とは私の自己意識が空間化されたもの ホワイトホールとは他人である
ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。
さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。
独我論についてである。単刀直入にいってしまうと、世界、宇宙で私はひとりぼっち。さびしくて、おもわず、笑みがこばれちゃう、というやつだ。さびしいときは、しくしくと大泣きするのが、昆虫としての礼儀ではないか。とにかく、世界にはいろんなひとたちがいる。白髪でフラメンコを踊る老婆。よく、テレビの後ろで目撃する。ゾウリをはいて、袴を着て、ごめんくださいを連呼する外国人。人間ピラミッドでポジションは一番下。それでいていつも四つ足で動きまわり、ピラミッドの崩壊を招いてしまいがちなみよちゃん。亀をみると、ひっくりかえすという習性をもつ、気持ちの良い志をもつさんちゃん。いろんなひとたちがいて、性別はおろか、顔かたち、体つき、性格だってみんなちがう。それなのに、こんな自分以外の他人たちはみんな私の意識の産物だ、だと独我論者はほえる。独我論といっても、おおきく二つのタイプがある。強烈でハードなタイプの独我論。もうひとつはやさしい初心者からゼロから挑戦できちゃうソフトな独我論だ。強烈なハードコアな独我論は存在論的独我論である。そもそも、この世界には私しかいない。なんてナル入っているのだろうか。目の前の亀の子たわしも、むき出しの不安全ピンも、骨折した爪楊枝、そのすべて物体はワタしの意識のなかのもの。ましていわんや、笑顔が恐ろしいぎょうそう、それでいて、怒り顔がチャーミングな隣人、他人の心、意識はもはや私のなかで作られたものだという。私しか存在しないという発想だ。これに対して、ソフトな独我論はちょっとちがう。亀の子たわしみたいな物体はたしかにあるかもしれない。ただし、他人の心、意識はどうも怪しいというのだ。独我論のそのほとんどがソフトタイプである。他人の心はたしかにどんなに目を凝らしても見えない。見えるのは曲がったネクタイと、ヒタイから飛び出したツノだけだ。よくよく考えたらヒタイの角はおかしい。だれだ、と叫んでみる。どうやらケンタウルスらしく、真相をしってほっと一息。お茶を飲もうとしたら、湯のみ茶碗から首長竜が顔をだす。おはようございます、と夕暮れ時に挨拶し、よくよく考えると挨拶を間違えたことに気がつく。
哲学者ヴィトゲンシュタインは、私が見ているものこそが見られているものだ、と花火を見ながらそう訴えたのかは知らないが、名言をはいた。やまちゃんは花火を見ている、と国家安全保障局から電話が入る。やまちゃんはみているが、本当の意味で見ているのではない。本当に花火を見ているのは私だけである。見ていると確信できるのは私だけだ。当たり前すぎたので本当に申し訳ない。それでも、ここに独我論の真髄がつまっている。
哲学者フッサールは当初、独我論になっていた。私の目の前にはディフェンスのやつらが進行を邪魔している。間隙を縫って相手の又下をくぐり、あたまを越え、空を飛んで、ゴール前でシュート。私の目のまえにひろがっているもの。巨大なビル群、羊たちの群れ、これらは皆、私自身が思いこんだものだというのだ。私はあたまで判断し、羊だと信じ込んでいるだけ。こんな思いこみは全部、留保して、とりあえず、確実なものを探そうというのだ。みつけた。私自身の存在、純粋自我こそが確実だというのだ。ちなみに、保留ボタンを押してエーデルワイスの曲をまじまじと聴いてしまう。
さて、ここまで徹底して見つけ出した絶大な信頼と実績の私自身の存在。なんだか、世界に私だけ、という孤独な状況がやってきた。これを哲学的孤独という。さびしくてもうたまらない、とさけびながら素っ裸になって、ハワイアンダンスでも踊る。哀愁の漂うハワイアンダンス。吹雪のなかでハワイアンだ。孤独な一匹ハワイアンダンサーでもかまわない。他人がいないからさびしんのだ。そこで、他人の存在をどうにか証明したいと考える。しかも、モノが客観的に存在している、空飛ぶ冷奴をこの目でみたんだ、と元うそつき少年が語ってもだれも信じない。目撃者が増え、それを見た目玉の数が増えればより客観性がアップする。つまり、モノが客観的に存在しちゃっていることと、他人がいるということはどうも切っても切れない腐れ縁らしい。
ここに間主観性理論が登場する。よくよく見ると、私と目の前のおじさんは形が似ている。背中のボタンを押すと、大きなあくびをし、あっぱいを小バエ立ちが取り囲みなにやら儀式をしている。私とそっくりなことに驚き、ひょっとしたら人形ではなく、私とおなじような温かい心をもっているのではないかと推測するのだ。これが類比化的統覚といわれるやり方だ。そして、さらに、対化という方法を使う。私は独り部屋でたまごを見つめている。ゆで卵にするか、卵焼きにするか思い悩み、焦燥しきったようすだ。たまごを一人みていると、どうしても視界には限界があるので、見えないところがたくさんあることに気がつく。また、たまごの向こう側にはセーヌ川が流れているかもしれない。ぎりぎり見える見えない、知っている知らない、聞こえる聞こえないの地平線に囲まれているのだ。そして、そんな地平線に他人は内蔵されていると考えるのだ。ひとりぼっちでいても、たまごを客観的に認識できちゃうのである。
最後に哲学者シュッツの多元的現実というお話。現実をみるんだ、とおじさんがケツを丸だし。事件であり、れっきとした歴史的大事件である。冷たい現実から目をそらしてはいけない。目をそらしているのでなく、寄り目の練習をしているのである。鼻をそらしてはいけない。臭いものにふたをして不法投棄もあまりよろしくない。現実とは一見、たった一つしかないと思われがちだ。ところが、現実とはたくさんある、といったらどうだろうか。きっと別段驚かず、これってだれの毛といいながら、枕元の陰毛をゴミ箱に入れるだろう。私は久々に眉毛の無い男の毛穴を触る。おそろしく緊張感が漂っている。また、家でごろごろしながら床体操しながらくつろいでテレビをみる。こんなときは、意識はぶったるんでいる。意識の緊張感によって現実も変化する。また、エポケーといって、判断をどこまで停止するかという問題がある。ぼーっとなにも考えていない。判断しまくって、意識を集中するときは赤あげて白あげないで、足あげて、というゲームだ。このエポケー、判断停止の度合いによって現実は異なって現われる。自己意識の度合いも重要である。自分を意識しまくr、ルームミラーで鼻毛を押しこみ隠蔽する男。自意識が強い状態。また、我を忘れて、F1レースにのめりこんでいる男もいる。自意識の度合いによっても、いろんな現実が現われる。かってにヘンな想像上の生き物を空想し、かってに断りも無く鳥肌をたたせているときもあるが、空想だって現実だし、夢も、芸術の世界も現実だ。とりわけ、そのなかでももっとも特別視している現実がある。日常生活の現実である。スーパーで買い物をし、かぼちゃの陰に隠れたり、キュウリを手にしてモンスターと一戦交える、そんな日常生活こそが至高の現実だといわれる。なぜであろうか。この日常生活の現実でだけ、他人と肌をふれあい、つばをとばしてコミュニケーションをとれるからだ。
まとめ
存在の科学 他人とは私の自己意識が空間化されたもの ホワイトホールとは他人である
ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。
さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。
2008年05月16日
存在の科学 点的時間論 リアルとは信念によって作られたもの
存在の科学 点的時間論 リアルとは信念によって作られたもの
われわれは現実のなかに生きている。現実を直視せよ、とシンデレラはいう。ピーターパンもこれにはもる。リアル、現実とはなんなのか。ヒュームはすべては繰り返し、習慣によって思いこみ信じているだけだという。りんごが消えたと叫ぶ。食べたのが原因で、消えたのは結果だ。これはなんどとなく繰り返し、習慣的に推測していること。因果律は習慣だという。つまり、現実とは、習慣であり、信じているということではないだろうか。超現実的な話をすれば、月末の支払い日である。銀行にゆくと、待ち構えているメルヘンチックな小鳥のキャラクターたち。これらを尻目にキャッシュドディスペンサーにむかって、手をはさまないようにお札を取り出す。スーパーで金を払い、そして、大好物のみりん、しょうゆを購入する。金を払えば、商品ゲットできると習慣的に信じている。金には価値があると信じ込む。これが現実となってゆくのだ。親子水入らず。親は子を信用し、子は親を信用する。けっして、野球中継を居間でみているとき、かみついたりはしないと信じている。現実とは信仰であり、信じるということだ。金も愛も信念であり、現実、リアルになりうるもの。
ひとの心は不可視であり、ブラックホールもまた光やあらゆる物質を吸いこみ収縮するゆえに不可視である。心はブラックホールだが、これらのブラックホールは互いに引き合うという引力が働く。そして、互いの力が均衡を保つとき、これが調和であり、論理的な形式となる。論理とは、ブラックホールの引力の調和によるもの。ブラックホール自体はもはや形式論理、時間の論理が壊れてしまう世界だという。すると、形式論理をつくりあげているものは、非形式論理、可視的なものを作っているものは不可視なものであるから、ブラックホールこそが形式論理作成の超本人である。論理とは引力の調和であり、これは空間概念をくつがえせば、ブラックホールが重なり合ったもの。見えないものは見えるものの繰り返し、反復によって推測され、信じられるようになる。論理や心もまたこうやって信じられたものだ。そもそも、見えないのだから、信じることしかない。われわれの周囲の世界、その99パーセントは信仰、信じることによって作られたものである。
われわれは現実のなかに生きている。現実を直視せよ、とシンデレラはいう。ピーターパンもこれにはもる。リアル、現実とはなんなのか。ヒュームはすべては繰り返し、習慣によって思いこみ信じているだけだという。りんごが消えたと叫ぶ。食べたのが原因で、消えたのは結果だ。これはなんどとなく繰り返し、習慣的に推測していること。因果律は習慣だという。つまり、現実とは、習慣であり、信じているということではないだろうか。超現実的な話をすれば、月末の支払い日である。銀行にゆくと、待ち構えているメルヘンチックな小鳥のキャラクターたち。これらを尻目にキャッシュドディスペンサーにむかって、手をはさまないようにお札を取り出す。スーパーで金を払い、そして、大好物のみりん、しょうゆを購入する。金を払えば、商品ゲットできると習慣的に信じている。金には価値があると信じ込む。これが現実となってゆくのだ。親子水入らず。親は子を信用し、子は親を信用する。けっして、野球中継を居間でみているとき、かみついたりはしないと信じている。現実とは信仰であり、信じるということだ。金も愛も信念であり、現実、リアルになりうるもの。
ひとの心は不可視であり、ブラックホールもまた光やあらゆる物質を吸いこみ収縮するゆえに不可視である。心はブラックホールだが、これらのブラックホールは互いに引き合うという引力が働く。そして、互いの力が均衡を保つとき、これが調和であり、論理的な形式となる。論理とは、ブラックホールの引力の調和によるもの。ブラックホール自体はもはや形式論理、時間の論理が壊れてしまう世界だという。すると、形式論理をつくりあげているものは、非形式論理、可視的なものを作っているものは不可視なものであるから、ブラックホールこそが形式論理作成の超本人である。論理とは引力の調和であり、これは空間概念をくつがえせば、ブラックホールが重なり合ったもの。見えないものは見えるものの繰り返し、反復によって推測され、信じられるようになる。論理や心もまたこうやって信じられたものだ。そもそも、見えないのだから、信じることしかない。われわれの周囲の世界、その99パーセントは信仰、信じることによって作られたものである。
仙人養成講座 哲風呂 ヒューム哲学とカルナップの世界の論理的構築へ
ヒューム哲学とカルナップの世界の論理的構築、についてである。時に、私は体育館裏にて不良に囲まれ、現実を見るんだ、とお説教される。口からよだれ、お尻から分泌液、そして、お説教もたれる事だって珍しくない。現実を直視するんだ、とUFOに乗った海底人にいわれ、直視しすぎて目が充血。こちらに見えるのが中年男性でございます、これが冷たい現実でございます、と天井にスパイダーマンのようにしがみつきながらがバスガイドは指差す。ヒトサシ指が妙に長い。ただし、その異様さからだれもこれに突っ込みをいれられない。噛み付かれ、食べられてしまうかもしれない。怒らしては行けない。卵焼きを食ってメン鳥に追われ、シュウマイを食ってなぜだかギョウザに追いかけられる。とにかく、われわれはなにかをリアルな現実とみなし、生活し、生きている。
ヒュームの哲学についてである。ヒュームはすべてはイメージ、観念だと言い放つ。目を大きく見開いて、勢いあまってまつげが飛んで行くのだが、ひとは感覚的になにかをとらえ、知覚する。飛び出し注意、豆腐の角に気をつけろ、と交通標語に書かれている。ひとはこれらの危険を感覚し、知覚する。左右を見て、手をあげながら、クロコダイルなワニをまたぎましょう。一時停止し、左右確認、うつぼにちゅーでございます。知覚、感覚だけでなく、私は頭上に雲をつくって、ふしだらなことをイメージ、想像する。フンドシがアルカリに反応して変色。リトマスフンドシについて想像する。口にくわえた体温計。とんぼが興奮気味にケツをくっつけてくる。想像にしても、夢にしても、私自身が感じていることに違いない。感覚も知覚もイメージも、私が感じちゃっていること。フィーリングは大切、肌と肌のふれあい、これがプロレスのブレンバスターである。かつがれて宙に舞っている相手レスラーのあどけない純粋無垢な表情。リングに落ちていまにも泣きそうな顔つき。哲学者ヒュームは、知覚と観念はただ程度の違いだという。時速30キロのよちよち歩き、時速100キロのけんけん歩き、その違いは程度、スピードの違いだ。
私はあたまのなかでいろんなことをイメージする。その中でもとりわけ、実体性、因果律の観念は大切である。ふつうに考えると、これらは森羅万象に備わる法則だと、口をとがらせながら主張したくてたまらなくなる。ヒュームはちがう。因果律という法則は原因があったら必ず結果があるんだべ、という法則だ。ブレーキを踏んだら車は止まる。つまみを回しから、水洗便所の水が流れる。一瞬、濁流にもまれるカヌーが通過した。このことを友人に不敵な笑みを浮かべながら話してもだれも信じてくれない。たしかに、便器にカヌーが通過したんだ、と熱弁してもだめだった。原因があるから結果がある。これが自然界の法則だと科学者は寝言をいう。いびきがうるさくて獲物を逃がしてしまうと、隣で身構えている夜行性の妻は怒る。ヒュームは考える。因果律は高々、習慣によるものだと。繰り返し、マンネリ化によってなんとなく作られるもの。いつも、ブレーキをふむと止まる。だからきっと今回も停止するにちがいないと思いこむ。どうせ、友達の眉毛を食べればまたきっと、。怒り出すに違いないと思いこむ。さらに、実体性に関しても、これを習慣だと言い張る。実体性とは、私がそこに立ち会っていなくとも、それ自体でそいつは存在しているにちがいない、というもの。たしか、過去の記憶を思い起こし、走馬灯のようにパンツを履き替えている自分が脳裏をよぎる。パンツはいてきたような忘れたような。それでも、さっきはあったからきっといまもズボンに隠れて装着しているに違いないと思いこむ。なんどみてもシャイなパンツはそこにある。そのうち、いちいち確認しなくとも、パンツはそれ自体存在しているにちがいないと思いこみ、かたくなな信念ができあがる。これが実体性であり、習慣だという。
まったく驚くことに、自分自身の存在すら思いこみだという。私はいると信じている。たしかにふくらはぎがある。歩行中に自分のふくらはぎを捕まえる。逃げ惑うふくらはぎ。ナイル川に飛びこんで死闘を演じる。私はときに寒くて鼻水がどっぴゅーっと出る。鼻水の出方がおかしいとジャンボギョウザ風なジェット機に乗り合わせていた医者が手をあげて近寄ってくる。砂漠にワープしたときは、暑くてエアコンを抱きしめたくなる。暑い、寒い、悲しい、面白い、いろんなことをかんじっている何者かを感じる。きっと私というカタマリがいるんだろうと信じるようになる。
さて、次は現代の哲学者カルナップ著、世界の論理的構築、についてである。世界を作っているのはだれだ、とちょこっと叫んでみる。ベランダの脇のがけのうえから不敵な笑い声が聞こえる。はーい、私です、と腹から超えだしている青年だ。元気の良い返事なので、とりあえず、生活態度は満点マイナス0.5あげる。すると、青年はあとちょっとで満点だったのにと後悔の念にとらわれ思い悩む。若いころは悩んで悩んで笑いまくれ、と近所のおじさんは人生論を暗闇で語る。世界の作り方講座である。カルナップはまず、なによりも確実で、これは絶対だ、というものから出発する。これを基礎経験という。ぼーっとなにも考えずにありのままを感じる。すると、カレーライスだのカツどんだの、はっきりとしたカタマリではなく、被写体と背景が平面的に見えるだけ。白い皿があるのでなく、白いと周りの青いという輪郭だけ。これをゲシュタルトという。友人もぼーっと眺めるとどこから頭で背景なのか、立体的に捉えられない。友人が風景に見えてくる。山にすらみえてきて、思わず山登りを試み、青空に見えてロケットを打ちこんでしまいがち。最初はきわめて自分の心を扱う。心理的なのだ。ここから、他人の心だの、自分のそとの立体的なピーナッツだの、順番に認識してゆくのだ。こうやって、果てはいろんな価値、文化までも、論理的に作られて行くという。基礎経験から論理的にこねまわして、社会、文化をも作ってしまう。ここに一貫して流れているのは、ハゲタカの精神でも、ミミズの気高き精神でもない。論理であり、形式的なルールだ。すべては形式的なルールによって作られているんじゃないの、ということを証明しようとしたのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 リアルとは信念によって作られたもの
われわれは現実のなかに生きている。現実を直視せよ、とシンデレラはいう。ピーターパンもこれにはもる。リアル、現実とはなんなのか。ヒュームはすべては繰り返し、習慣によって思いこみ信じているだけだという。りんごが消えたと叫ぶ。食べたのが原因で、消えたのは結果だ。これはなんどとなく繰り返し、習慣的に推測していること。因果律は習慣だという。つまり、現実とは、習慣であり、信じているということではないだろうか。超現実的な話をすれば、月末の支払い日である。銀行にゆくと、待ち構えているメルヘンチックな小鳥のキャラクターたち。これらを尻目にキャッシュドディスペンサーにむかって、手をはさまないようにお札を取り出す。スーパーで金を払い、そして、大好物のみりん、しょうゆを購入する。金を払えば、商品ゲットできると習慣的に信じている。金には価値があると信じ込む。これが現実となってゆくのだ。親子水入らず。親は子を信用し、子は親を信用する。けっして、野球中継を居間でみているとき、かみついたりはしないと信じている。現実とは信仰であり、信じるということだ。金も愛も信念であり、現実、リアルになりうるもの。
ひとの心は不可視であり、ブラックホールもまた光やあらゆる物質を吸いこみ収縮するゆえに不可視である。心はブラックホールだが、これらのブラックホールは互いに引き合うという引力が働く。そして、互いの力が均衡を保つとき、これが調和であり、論理的な形式となる。論理とは、ブラックホールの引力の調和によるもの。ブラックホール自体はもはや形式論理、時間の論理が壊れてしまう世界だという。すると、形式論理をつくりあげているものは、非形式論理、可視的なものを作っているものは不可視なものであるから、ブラックホールこそが形式論理作成の超本人である。論理とは引力の調和であり、これは空間概念をくつがえせば、ブラックホールが重なり合ったもの。見えないものは見えるものの繰り返し、反復によって推測され、信じられるようになる。論理や心もまたこうやって信じられたものだ。そもそも、見えないのだから、信じることしかない。われわれの周囲の世界、その99パーセントは信仰、信じることによって作られたものである。
ヒュームの哲学についてである。ヒュームはすべてはイメージ、観念だと言い放つ。目を大きく見開いて、勢いあまってまつげが飛んで行くのだが、ひとは感覚的になにかをとらえ、知覚する。飛び出し注意、豆腐の角に気をつけろ、と交通標語に書かれている。ひとはこれらの危険を感覚し、知覚する。左右を見て、手をあげながら、クロコダイルなワニをまたぎましょう。一時停止し、左右確認、うつぼにちゅーでございます。知覚、感覚だけでなく、私は頭上に雲をつくって、ふしだらなことをイメージ、想像する。フンドシがアルカリに反応して変色。リトマスフンドシについて想像する。口にくわえた体温計。とんぼが興奮気味にケツをくっつけてくる。想像にしても、夢にしても、私自身が感じていることに違いない。感覚も知覚もイメージも、私が感じちゃっていること。フィーリングは大切、肌と肌のふれあい、これがプロレスのブレンバスターである。かつがれて宙に舞っている相手レスラーのあどけない純粋無垢な表情。リングに落ちていまにも泣きそうな顔つき。哲学者ヒュームは、知覚と観念はただ程度の違いだという。時速30キロのよちよち歩き、時速100キロのけんけん歩き、その違いは程度、スピードの違いだ。
私はあたまのなかでいろんなことをイメージする。その中でもとりわけ、実体性、因果律の観念は大切である。ふつうに考えると、これらは森羅万象に備わる法則だと、口をとがらせながら主張したくてたまらなくなる。ヒュームはちがう。因果律という法則は原因があったら必ず結果があるんだべ、という法則だ。ブレーキを踏んだら車は止まる。つまみを回しから、水洗便所の水が流れる。一瞬、濁流にもまれるカヌーが通過した。このことを友人に不敵な笑みを浮かべながら話してもだれも信じてくれない。たしかに、便器にカヌーが通過したんだ、と熱弁してもだめだった。原因があるから結果がある。これが自然界の法則だと科学者は寝言をいう。いびきがうるさくて獲物を逃がしてしまうと、隣で身構えている夜行性の妻は怒る。ヒュームは考える。因果律は高々、習慣によるものだと。繰り返し、マンネリ化によってなんとなく作られるもの。いつも、ブレーキをふむと止まる。だからきっと今回も停止するにちがいないと思いこむ。どうせ、友達の眉毛を食べればまたきっと、。怒り出すに違いないと思いこむ。さらに、実体性に関しても、これを習慣だと言い張る。実体性とは、私がそこに立ち会っていなくとも、それ自体でそいつは存在しているにちがいない、というもの。たしか、過去の記憶を思い起こし、走馬灯のようにパンツを履き替えている自分が脳裏をよぎる。パンツはいてきたような忘れたような。それでも、さっきはあったからきっといまもズボンに隠れて装着しているに違いないと思いこむ。なんどみてもシャイなパンツはそこにある。そのうち、いちいち確認しなくとも、パンツはそれ自体存在しているにちがいないと思いこみ、かたくなな信念ができあがる。これが実体性であり、習慣だという。
まったく驚くことに、自分自身の存在すら思いこみだという。私はいると信じている。たしかにふくらはぎがある。歩行中に自分のふくらはぎを捕まえる。逃げ惑うふくらはぎ。ナイル川に飛びこんで死闘を演じる。私はときに寒くて鼻水がどっぴゅーっと出る。鼻水の出方がおかしいとジャンボギョウザ風なジェット機に乗り合わせていた医者が手をあげて近寄ってくる。砂漠にワープしたときは、暑くてエアコンを抱きしめたくなる。暑い、寒い、悲しい、面白い、いろんなことをかんじっている何者かを感じる。きっと私というカタマリがいるんだろうと信じるようになる。
さて、次は現代の哲学者カルナップ著、世界の論理的構築、についてである。世界を作っているのはだれだ、とちょこっと叫んでみる。ベランダの脇のがけのうえから不敵な笑い声が聞こえる。はーい、私です、と腹から超えだしている青年だ。元気の良い返事なので、とりあえず、生活態度は満点マイナス0.5あげる。すると、青年はあとちょっとで満点だったのにと後悔の念にとらわれ思い悩む。若いころは悩んで悩んで笑いまくれ、と近所のおじさんは人生論を暗闇で語る。世界の作り方講座である。カルナップはまず、なによりも確実で、これは絶対だ、というものから出発する。これを基礎経験という。ぼーっとなにも考えずにありのままを感じる。すると、カレーライスだのカツどんだの、はっきりとしたカタマリではなく、被写体と背景が平面的に見えるだけ。白い皿があるのでなく、白いと周りの青いという輪郭だけ。これをゲシュタルトという。友人もぼーっと眺めるとどこから頭で背景なのか、立体的に捉えられない。友人が風景に見えてくる。山にすらみえてきて、思わず山登りを試み、青空に見えてロケットを打ちこんでしまいがち。最初はきわめて自分の心を扱う。心理的なのだ。ここから、他人の心だの、自分のそとの立体的なピーナッツだの、順番に認識してゆくのだ。こうやって、果てはいろんな価値、文化までも、論理的に作られて行くという。基礎経験から論理的にこねまわして、社会、文化をも作ってしまう。ここに一貫して流れているのは、ハゲタカの精神でも、ミミズの気高き精神でもない。論理であり、形式的なルールだ。すべては形式的なルールによって作られているんじゃないの、ということを証明しようとしたのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 リアルとは信念によって作られたもの
われわれは現実のなかに生きている。現実を直視せよ、とシンデレラはいう。ピーターパンもこれにはもる。リアル、現実とはなんなのか。ヒュームはすべては繰り返し、習慣によって思いこみ信じているだけだという。りんごが消えたと叫ぶ。食べたのが原因で、消えたのは結果だ。これはなんどとなく繰り返し、習慣的に推測していること。因果律は習慣だという。つまり、現実とは、習慣であり、信じているということではないだろうか。超現実的な話をすれば、月末の支払い日である。銀行にゆくと、待ち構えているメルヘンチックな小鳥のキャラクターたち。これらを尻目にキャッシュドディスペンサーにむかって、手をはさまないようにお札を取り出す。スーパーで金を払い、そして、大好物のみりん、しょうゆを購入する。金を払えば、商品ゲットできると習慣的に信じている。金には価値があると信じ込む。これが現実となってゆくのだ。親子水入らず。親は子を信用し、子は親を信用する。けっして、野球中継を居間でみているとき、かみついたりはしないと信じている。現実とは信仰であり、信じるということだ。金も愛も信念であり、現実、リアルになりうるもの。
ひとの心は不可視であり、ブラックホールもまた光やあらゆる物質を吸いこみ収縮するゆえに不可視である。心はブラックホールだが、これらのブラックホールは互いに引き合うという引力が働く。そして、互いの力が均衡を保つとき、これが調和であり、論理的な形式となる。論理とは、ブラックホールの引力の調和によるもの。ブラックホール自体はもはや形式論理、時間の論理が壊れてしまう世界だという。すると、形式論理をつくりあげているものは、非形式論理、可視的なものを作っているものは不可視なものであるから、ブラックホールこそが形式論理作成の超本人である。論理とは引力の調和であり、これは空間概念をくつがえせば、ブラックホールが重なり合ったもの。見えないものは見えるものの繰り返し、反復によって推測され、信じられるようになる。論理や心もまたこうやって信じられたものだ。そもそも、見えないのだから、信じることしかない。われわれの周囲の世界、その99パーセントは信仰、信じることによって作られたものである。



