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哲学漫談視聴について    朝の哲学漫談は今まで通り一人演説にさせてもらいます。チャットがきても答えらないかもしれないけど、無視したり、嫌ったりしてるのではありません。あしからず。よるの哲学漫談はチャットをしながら、とくにこれといったルールなしでやっていきたいと思ってます。よるのまんだんは哲学の話とは限りません。ダンプ放送はひるのまんだんです。     よるの哲学漫談、したらば掲示板はこちらです。-->http://jbbs.livedoor.jp/music/23492/  当コンテンツは宗教とは一切関係ございません。哲学、建築等に特化したお笑いコンテンツを目指しております。 したらば掲示板はこちらーー>http://jbbs.livedoor.jp/music/23492/ 本家本元の仙人養成学校ブログー>http://sennin.seesaa.net/ ねとらじ「宇宙人の哲学漫談」−>http://203.131.199.131:8080/testjo.m3u ――――――――――――――――――――――――――― 哲学漫談とクレイジートークが融合します。 宇宙をmixする! あさまん(ちゃっとはしません)を新構成しました。 宇宙mix---Krazy mixed up Universe.---(ステ、ねとらじ) 第一章 思想mix(哲学漫談) --- mixed up philososhy 思想をmix ごちゃまぜ 第二章 ロジカルmix(クレイジートーク) ---mixed up logical 論理・言葉をmix ごちゃまぜ 第三章 sound mix ---sound mix 音をmix 準備中・練習中 第四章 ボディmix ---mixed up body 体の動きを奇妙にmix 食べながら鉄棒など 動きをごちゃまぜ 準備中 第五章 世界mix --- mixed world 世界、人種、国をmix 準備中 *mixed up・・・ごちゃ混ぜに混ぜること   krazy ・・・crazyの俗語 かなりイっちゃっていること   ------------------------------ よるまんはちゃっとしながらリアルストーリー(ステ、はじめだけねとらじもいっしょに) よるまんも新構成します。 よるまん3D配信になる予定です。そのときは3Dめがねは各自ご用意ください。まだ検討中。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー その他の配信 ひるまん  ダンプねとらじ配信ーーダンプ運転しながらの配信(らじおのみ、たまにステでやるかも)  DJ真理求道者ーー運転中でないとき、家でまったりとらじおだけの配信(ねとらじ)  ひるまん外配信ーーふつうに外配信 あまりやりませんね。(ステ)  秘密配信 イ○…TV――極秘配信です。    

2009年11月09日

仙人新聞 2009・11・09

仙人新聞 2009・11・09

**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)**



**その他の配信**



**哲風呂**


内包と外延、可能世界意味論、そして、独我論についてである。そこに干し柿がぶらさがっている。正直言って、その昔風呂上りのときに見たじいさんの玉にそっくりだ。干し柿は風にゆられ、どんどんミイラ化を促進。そんな変化のなか、その干し柿は自らのアイデンティティをもっている。同一性には変化やら、流れがひそんでいる。私は干し柿を食べたくなり、口にほおばり、さらに、異様に踊りたくなったので、アイロン台のうえでおどった。その直後、新しいロケットの推進力をおもいつく。どこからやってくるのだろうか、感情やインスピレーション。どうやら、同一性というトンネル、そこに流れるものから汲み取っているようだ。

  内包と外延についてである。ポールロワイヤルの論理学というのがある。これは論理学のなかの基本書といわれる。ここで内包とか、外延がでてくる。人間は動物だ、といきなり公園のスピーカーから聞こえてきた。だから、よい子のみんなは早く家にかえれ、くらいの放送だった。動物といったら、動物の性質がある。動く生き物であり、栄養摂取してエネルギーにチェンジしているみたいな性質。これを動物の内包をという。こんな動物の性質、内包をもっているやつは銀の鈴のしたに集まれと、号令かける。すると、動物のメンバーが勢ぞろい。これが外延である。

  現代ではフレーゲがもうちょっと細かく考えた。どらえもんはロボットである。こんな文章があったとき、内包と外延はなにか。内包とはこの文章の意義だという。理屈上、矛盾していなければ意義は無数に作れちゃう。どらえもんが空を飛ぶ、かわら割りをする。つまづいて転んだら金の延べ棒をみつける、などなど。実際におきたことでなくても、論理的に矛盾しなければ意義がある。これらが内包だ。そして、それが真実かどうか、真偽という値のどっちかがくっつくはず。この真偽こそがこの命題の意味、外延になる。

  必然性ということばがある。ぜっていそうなる、というやつだ。この言葉はどうも可能世界で関係しているらしい。可能世界は無数にあるという。聖徳太子がスキンヘッドでしかも眉毛なしの世界。総理大臣がイタリア人の世界。論理的に矛盾しないかぎり無数の可能世界があり、これら可能世界を貫いて捻じ曲げることができない大大原則、これが必然性だ。どんな可能世界でもおそらく1+1は2が成り立つかもしれない。

  ここで可能世界意味論のお話。すべてのひょっとしたらの可能世界を焼き鳥の串のように貫く。これが必然だといったが、これはあまりに強すぎる主張だ。これを様相論理学では強い様相体系S5と名づける。もうちょっとやさしくなでて頂戴、ということで、弱い様相体系S3のご紹介。聖徳太子が一階のサラリーマンやっている可能世界をA。そして十条のお触書をかいたとされる現実の聖徳太子の世界をB。AとBは世界が似ている。かなり接近した世界であり、接近可能性をRと名づける。すると、ARBとなって、AとBのふたつを貫く必然性があるかもよ、となる。さらに、Bの世界がCの聖徳太子が発明家だった世界に接近しているとしよう。すると、AがBににているなら、AはCにもにているはずだ、ということになり、これを推移性という。ここまで必然性を強めるとS4の様相体系だ。そして、A、B、C入れ替えてひっくりかえしてもOKという反射性を認める。すると、S5の強烈な必然性があらわれる。

  最後に独我論についてひとこと。世界でぼくちんしかいない、というのが独我論。すると、目の前のお花は実在していないのか。私いとりで心のなかで創った妄想か。これが存在論的独我論。もうちょっとやさしくすると、認識論的独我論になる。これはお花はみえるのだから、やっぱり実在しているかもしれないが、やまちゃんのからだはみえても、かれの腹黒い心のうちはみえないから、他人はいない、私ひとりしかいない、というものだ。ヴィトゲンシュタインの独我論がこれに近い。かれはいう。私に見ているものは見えると。あたりまえである。私にはみえない、やまちゃんがみているものはみえない。おなじく、私がみているようにはやまちゃんはみえない。だから独我論者は相手になにもつたえることができない。世界で私しかいない、と言い切るが、もっとすすんで、世界に私はいない、と結論するヴィトゲンシュタイン。私は根拠がない。生活の流れ、言葉のルールにも根拠なし。この流れがうまれたものであって、私っていうかたまりがあるわけではない。


  まとめ

  **存在の科学**


  異次元理論  私はだれでもないし、だれでもある   私の瞬間の意識は無数のひとの瞬間の意識と共有し、この線上の集まりが私になる  水分は三次元肉体の交点

  同一性である=。これは異次元間をつなぐトンネル、通路。だから、通路を流れるものであり、それが同一性になる。同一性には次元を超えた変化、流れが含まれていた。このトンネルである=の正体はなにか。これが0次元の点なのである。0次元の点は量子であり、量子は確率的に、可能的にいろんところに同時存在している。つまり、これこそ、可能世界、異なった次元をむすびつけるトンネルそのものだった。だから以前お話したように意識は量子であり、いろんな次元を組み合わせるのだ。

   四次元は時間軸、ひとがうまれてから死ぬまでの一生、これを通してかわらなう人格軸でもある。だから、直線、一次元というようなわかりやすい表現を使った。四次元直線を割り箸にたとえて、これをならべると五次元平面になる。割り箸一本一本がひとりの人格だから、これは人類、他者をふくめた人間たちであり、共通する論理、ことばをもつのでロゴス空間である。こんな人類の五次元平面のようなものが縦につみかさなって六次元立体。別の五次元平面は別の類、猛禽類だの、昆虫類だ。そして、この六次元立体は感情を共有する感情空間。

  さて、五次元平面にきれいにならんだ四次元軸。じつはきれい並んでいないのである。斜めに通って他の四次元軸と交差しているものもある。無数の四次元人格軸は無数の他の四次元人格軸と交差して直線上になる。無数の点でできているが、この点はいろんな他人四次元軸との交点である。つまりこういうことである。私は今この瞬間にいらいらしたり、うれしくなる感情がこみあげる。ひらめいたり、インスピレーションがわく。これらはどこからやってくるのか。じつは他人の人格軸との交点であり、私のこの瞬間の意識はやまちゃんの今この瞬間の意識と同じなので。もちろん、この直後、私はさいとうさんの人格軸との交点になり、斉藤さんと同じ意識を共有する。こりかたまった直線があるのである。この直線は無数の他人四次元軸と交点をもって、その交点のあつまりでできている。私は誰でもないと同時、だれでもあるのである。いままでみたことがない風景が夢にあられるのも、私は別人の意識を共有し、交点にさしかかったからである。五次元平面を任意に直線状に線をひいたときにその線が私の人格軸になる。同じことは、六次元立体でもいえる。この立体を任意にきると、五次元平面ができる。この五次元平面は人類の一部、昆虫類の一部、無機物の一部を含む類になっている。共通する性質、内包をもつ切断面なのだ。内包、外延はたかだか任意の線、任意の平面である。私はだれでもないし、だれでもある。

さて、人間のからだは三次元物体であるが、四次元の軸が交差し、互いに意識のクオリアを他者と共有しているように、三次元物体である肉体も他人となにかを共有し、交点をもっているのだろうか。人体のほとんどが水分である。口から水分を摂取し、体内にとどまって排泄。小便は蒸発し、雲になり雨となり、山田君の口から入り、やまだくんのからだを形成する。水分の地球的規模のサイクル。まさしく、肉体の大半を占める水分が三次元肉体の交点であった。
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2009年11月08日

仙人新聞 2009・11・08

仙人新聞 2009・11・08

**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)**



**その他の配信**



**哲風呂**

同一哲学、即自かつ対自存在、そして、絶対的意識流についてである。ここにおまるがあるっていったらある。断固ここにあることを認める。おまるからいつエスケープできるのか。おまる卒業の暁にはきっとかわいいガールフレンドができるにちがいない。あるものある、とはあたりまえのこと。この同一性がすいべてだともいえる。だけど、諸行無常の響きありというではないか。さっきまでポマードでこりかたまったヘアーだったのに、大宇宙の時間の流れはおそろし、ヘアーは乱れ、オールバックがオールフロント、さらには年月を経てオール真横になる。森羅万象、生滅流転だが、じつはこれこそ同一性の正体だった。

  同一哲学についてである。絶対同一の哲学といったらシェリングである。絶対無差別ともいう。だから、チョコもうんちもくそみそいっしょ。すべては同じだという極論。とりわけ、私と私以外の宇宙、あたまのなかのイメージである観念とそとに実在するやつら。これら正反対を同じだというのだから、相当な理屈があることだろう。ところが、あたまで理屈的に考える理性はじつに直感しているというのだ。それはあたから、あたまのうえの電球がぴかっとひかってひらめくようなもの。直感といっても、目でみて鼻でにおう感性的直感ではなく、知的直感といわれるもの。

  ただし、ここで注意事項であるが、人類滅亡しないようにゴミくずはくずかごへ、というのではなく、この同一性は主観、つまりは、私の心のなかでいろんなものをひとつにしちゃおう、というのではない。これを主観的同一性というのだが、シェリングいわく、客観的同一性をおれはやっているんだよ、と悲痛に訴える。

  自然は見える精神で、精神はいないいないじじいの見えない自然だいうくらい、精神と自然も同じだともうったえた。

  こんないささかいっちゃっているシェリングだが、パリディリィの思想に影響されまくっている。パリディリディは記号を使って説明した。ただただ考えているだけのことを純粋思惟と名づけて、これをA。これに感覚的な情報、素材が与えられ、これをc。AとCがくみあわさって、現実に考えられているやつ、というBができる。赤い、すっぱいという素材cをもらってこれをうめぼしと考えるA。ところが、梅干について考えているとき、落花生のことは考えていない。それでもいつ落花生に思いはせるかもしれない可能性がある。実際には考えられていない考える可能性はーBだという。考えているときは考えていないものも同伴中だ。だから、A+C=B−Bとなり、AはCになるという。純粋に考えていることがそのまま感覚情報の素材、よって主観は客観だ。

  次の話は即自かつ対自についてである。即自とは、あるものはあるし、ないものないこと。サルトルいわく、これはそこらの物体だ。対自とはあるものないし、ないとおもったらあること。人間の意識のことだいう。私はみかんをみつめてよだれをたらし、遠吠えをする。すくなくとも、みかんを意識しているといは、私は意識さらたみかんではない、と心のなかで叫んでいる。私が私自身を意識するときも、私は私ではない、ということで意識できちゃう。意識は自己分裂で、いつも、せわしく無を噴出し、無が分裂をうむ。けつの割れ目はけつの無だ。ひとはみかんのような安心感、安定感がほしい。対自のくせに、即自になりたいと思う。対自と即自の両方をみたすのは神様だけ。だからひとは神さまになろうとしていつも挫折しているという。

  最後にフッサールの絶対的意識流についてである。意識とは流れである。流れるボタンとまちがえてビデボタンオンするのはまだいいが、核戦争のボタンを押さないでほしい、と真冬の布団のなかで短冊にかきこんだ。いろんなものを意識している。犬がやってきた。現在、この瞬間に意識しているが、犬であることしったのは、過去の犬の記憶が入り込んでいるから。さらに、おそらくケツのにおい嗅がれるだろう、と未来を予測する。過去、現在、未来がただいに連繋しあって意識はなりたつが、意識のはじめとおわりは意識できない、とあたりまえのことをいっておく。そんないろんな意識があつまって体験になる。この体験の流れは体験流といわれしゃんとまとまっている。私自身の意識も刻一刻流れている。流れをつくっているのは別の意識の流れだとしたが、流れの流れの流れというように無限につづいてしまってきりがない。きりがないことはやめにして、ほかの方法を探そう。そこで最終的には意識の奥底に絶対的意識流というものがあるという。これはただの流れではない。流れは止まっているものからみたら流れ。荒波にもまれながらカヌーが通りすがって見えるのは岸で椅子に座ってみているから。絶対的意識流は流れと止まっているということを同時にやっている器用なやつだという。

  まとめ

 **存在の科学**

   異次元理論 =の通路が複雑にくみあわさって複雑な感覚がうまれる

  すべては=だといった。同一性なのである。りんごはりんご、みかんはみかん、私は私。しかも、=は異なったディメンション、次元を結びつける通路、その通路を流れるものだともいった。ふつうにいう同一性とはなにかにたいして同じものにとどまってみえるという相対的同一性。絶対的同一性とはそのなかに流れ、通路を含む。

  以前、私の意識は物となんらかわらないといった。自由意志と物体は同じ、しかも、私は感覚するし、物も感覚しているといった。物の同一性である即自存在は同時に意識と同じ対自存在だともいいたい。

  別次元を=で結びつけ、次元のあいだを流れるとさまざまなものがうまれる。物を立体的に想像するのは、二次元平面を四次元直線経由でみたから立体的な三次元をうむ。二次元平面と四次元の通路は平面の時間的経過であるから、おそらく図形だ。この=通路にもう一本の通路があって、そこを流れてみる。この通路の先には五次元立体、つまりは生命、非生命を含む類体系、感情である。ここに色が発生する。においも、触感も、味覚もこれらの次元の複雑な通路の流れによってうまれる。


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2009年11月07日

仙人新聞 2009・11・07

仙人新聞 2009・11・07

**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク、ボディmix)


**その他の配信**



**哲風呂**


隠喩と同一律についてである。時をかける少女はいるが、小便を雑草にかけるおじさんもいる。というか、異次元をかけめぐるおじさんもいるかもしれない。いろんな次元が世の中にはあるが、これまた複雑にからみあっている。まるで焼きそばのようである。めんが不規則にからみあい、しなびたキャベツをみつけ、これを箸でつまんだときはなんだかマグロ漁船でマグロゲットくらいの狩の達成感に浸れる。次元のあいだにはトンネルがある。これがどうも特別なやつではなさそうだ。だれでもどこにでもあるその異次元トンネル。その正体はいかに。

  隠喩についてである。 比喩とは直喩と隠喩にわかれる。加齢臭と香水臭に大別できるようなものだ。直喩とはダイレクトな喩えを使い、どっちかというと正面切って堂々とした比喩である。やまちゃんはまるでごりらのような歩き方だ、というとき、まるでなんとかのようだ、そっくりだ、と名言している。なにもごりらそのものだとはいっていない。コロッケはメンチとそっくりである。店員も時に間違える。ところが、気がつかないうちに忍者のように忍び寄る喩えが隠喩である。はっとりくんがコタツのなかで丸くなっていても気がつかないようなもの。テレビの前の風呂敷を取ってきてくれないか、とスナイパーに頼まれる。まさに、この表現に隠喩が潜む。テレビの前に、といったが、基本的に前というのは、私にとって前か、後ろかである。私のからだにとってなのに、テレビの前とは、あたかも、私自身がテレビだとしたら、その前に、というようなことになる。私をテレビにたとえて、前に、という言葉使っているのだ。

  文学的表現にもこんな隠喩がたくさんある。隠喩は表現を豊かにする。隠喩は論理的、理屈からして間違っている。私はテレビではない、と断じるのがリテラリストといわれるひとたち。代表者はプラトンだ。リテラリストは隠喩なんて意味ねぇ〜っというであろう。意味とか、意義があって、これらの条件をクリアしてさっそくそれが正しいか、間違っているか。つまりは、真偽を判定するのだ。だから、隠喩は意味、意義という論理的な条件みたしていないから真ではないというのだ。ルールにしたがって、それが正しいかどうかであって、ルール無用のものには真なんていうのであろう。ところが、ふつうにことわざなどの隠喩たっぷり具たっぷりの言い回しをする自然人ならば、隠喩は真だといえるのだ。

    隠喩はなにもことばだけの限定発売品ではない。映画だって文学にだって使っている。しかも、目でみている世界を違う世界に入り込ませたりして、どんどん膨れ上がっていくのだ。丘のまえにあるちかんの看板。丘があたかも私のからだのようにそこに身をおきて、目の前にちかんの看板だ。いろんなカテゴリー、領域、世界をまぜあわせる。

  科学は隠喩つかっていない、といいきってしまいそうだが、じつはさりげなく隠喩を使う。モデル化である。モデルといっても、ちゃぶ台のうえでドレス着て回転するモデル女優ではない。原子はみえないので、あたかもボールのように扱う。れっきとした隠喩ではないか。

  次の話は同一律についてである。古代ギリシャではパルメニデスである。歯切れよく、江戸っ子調に、あるものあるし、ないっていったらない、という。近代においてはAはAである、という一見あったりめ〜よな同一律をぶちこわそうとした哲学者出現。ヘーゲルである。ヘーゲルは矛盾しているものこそ、ほんとうの意味で世の中を動かしていると考える。矛盾しちゃった、改善しないといけないから動く。からだが痒いから掻く。かきむしるのはよくない。同一律だと、世界はじ〜っと動かぬままだ。

 ライプニッツは同一律の裏返ったものが矛盾律だという。AはAであると同時にAではない、ということは不可能である。矛盾したらアウト。だから、かれの可能世界論に適用される。いろんな世界がある。みよちゃんが国家元首ぬなっている可能世界、聖徳太子がひげをはやしていなかった可能世界。これら可能世界のすべてを貫く大原則。それが矛盾律だという。矛盾していたら許さない、失格。だからこれを事実の真理という。これにたいして、同一律はただの形式的なもの、あたまのなかで考えるときのルールにすぎないという。

  やまちゃんはやまちゃんであるし、かつ、やまちゃんではない、ということは無理。こんな矛盾律ともうひとつ、排中立というものがある。こちらはやまちゃんがそれ以外のものかのいずれかです、と知人は紹介してくれた。これが排中立でありじっさい、やまちゃんとやまちゃん以外をあわせると、まるごと宇宙全部になる。なんてすごい原則なのだろうか。宇宙全部にふれている。だから、直感主義者はこれらを否定する。直感主義とは、直感し、感じられるものを積み重ねて数学創ろうぜクラブだ。だから、矛盾律は見えないし、排中立は宇宙全部みないといけないから不可能だという。

  まとめ

  **存在の科学**


 異次元理論   次元はつながり、かさなりあう  次元をつなげる通路が=、同一性   同一性とは流れでもある

  目の前にある三次元物体であるぞうきん。ぞうきんが存在しているとは、低次元を含み、高次元を巻き込んでいる。すべての次元がかかわっているからこそ、ぞうきんが存在できる。すると異なった次元を組み合わせ、重ねることもできる。ここからいささか暗号解読のようになる。0は抜きにして、1,2,3次元は1次元直線としてまとまり、4,5,6、次元は2、7,8,9は3次元のまとまりとみる。また、1,4、7次元は孤立、個別性。知次元は直線だだし、四次元は一本の時間軸、または人格、魂だ。2,5,8次元は自己完結性である。2は陰陽、5は五行、8は完全数である。3,6,9次元は非完結性。3次元は縦横高さ。三つの辺である三角形のくみあわせはすべてをつくる。6は人の数であり、9は無限小数でつかわれる。

  これらの異なった次元がつながり、関係しあうその通路。それが同一律である=である。=は次元間のトンネルである。AはAである、はたしかに同一次元の同一性。AはBである、水はH2Oである、など、左辺、右辺は別次元の話だ。100センチは1メートルである。たしかに単位がちがうが、単位をディメンション、つまり、次元という。ことなった次元をむすびつける同一性、=。私がみえている現象界は=であり、通路を行き交う異なった次元の「流れである。流れは同一性でもあった。私自身は自由意志をもち、私は私である、という自己同一性をもつ。私自身が流れる通路と同一性である=であった。

  ここで蛇足になるかもしてないが、この世界は究極的には三角形でできているともいえる。この三次元空間で描かれる最小の図形は三角形。二角形は描けない。だから、四次元の最小の角の図形は四角形。ピラミッドはこの現世を黄泉の国につなげる通路だといわれる。側面からみると三角形、上から見ると四次元最小角図形である四角形だ。


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2009年11月06日

仙人新聞 2009・11・06

仙人新聞 2009・11・06
   
**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)**


**哲風呂**


   図式と中立性変様についてである。私は八百屋でおいしそうなスイカを品定めする。そもそも、一番大切なことは、まずはどれがスイカなのかを見極めるテクニックだ。つぎに大きさを見る。少なくとも、立体的にイメージしないと難しいものである。それでは八百屋さんにはフルーツ野菜だけではなく、他の客だって、安売りのきゅうりにむらがるおばさんだって、そして、八百屋の店長だっていらっしゃる。八百屋さんが人間であり、おばさんもまた人類に所属する哺乳類であると感じ取るにはどんなテクニックが必要なのか。じつに、ここらへんで異次元を超えた超絶テクニックをふつうにやっている私がいるのだ。


  図式とは何か。一般的にいうと、あたまのなかで考えた知識、概念だとわkりずらくて発狂しそうになるのでこれを図や表で表現することだ。国際政治学者はよく厚紙にスコップ人間を描いて、これを国にあてはめてわ駆りやすく説明しているではないか。あの図や表が図式、別名、スキーマである。

  哲学者カントのいう図式はなるほどである。彼はあたまのなかの概念、理屈でこねくることを悟性と名づける。悟性だけではりんご認識できない。そこで目、鼻などから感覚情報をいただく。これが感性である。感性と悟性の取次ぎ役、仲買業者的なものが構想力である。構想力とはいわば想像力にことだ。概念っぽくもあるし、感覚的でもある想像。この構想力にも、ゼロから想像しちゃうという発明家的なやつがいる。これが産出的構想力とよばれる。産出的構想力は過去のイメージとか、記憶なんて使わない。この産出的構想力がいきんで産み落とすタマゴが超越論的図式といわれるもの。この感覚風な知識である超越論的図式あってこそ、りんごという概念と、赤くて丸くてあっま〜い、という感覚が互いに溶け合う。超越論的図式の正体はいかに。いまその覆面をはぐことにしよう。感覚と悟性、感覚とあたまのなかの知識の仲買業者。ということは、感覚にも、知識にも出入りしているやつだ。感覚とは時間的に変化がある。さっきまで頬を赤らめていたのに、封筒をあけたら遅滞金払えの督促状で青ざめる。赤いから青いへと時間的に変化。また、赤いということはそれなりの空間がないとあらわせない。時間と空間が感覚の枠組みだ。同じく、悟性や知識にも少なくとも時間が必要。考えるにはち〜っとまってシンキングタイムだ。だから、時間が悟性と感覚を取り持つ超越論的図式の正体なのだ。これをとりわけ超越論的時間と名づけた。

  哲学者フィヒテもまた図式という考えをもっていた。フィヒテの知識学である。知識学とは知識をひけらかす学問ではない。知識ってなにかと考える知識だ。神様はなにかと考えたとき、これを図式でイメージするしかない。そして、ついに図式でもわからずに、こっぱみじんに知識が破壊される。このとき、はじめて神様の図式というのは私自身、人間であることに気がつくのである。

  次の話は哲学者フッサールの中立性変様についてである。八百屋で一生に一回でもいからプリンスメロンくいて〜っとみつめているとき、われわれは何をしているのか。まずは、これはプリンスメロンであり、目の前に断固存在していると信じている。これを信念様相という。これによって、メロンがあるのか、どうかを定めている。これを存在定立というのだ。相当、力み顔であるか、ないかと存在定立。信念と存在がぎりぎりで一致しているような妙な境地だ。この存在定立、つまりは、そこにメロンがあるかないかなんてどうでもいい状態になる。中途半端な意識状態の極地なので、これを中立性変様と呼ぶのだ。ところが、中立性変様は想像や仮説とはちがう。仮説といったらなんだか理性的で、理屈っぽい。本能でも理性でもないから仮説ではない。想像かといえば、そうでもない。想像はなんどでも繰り返し可能だ。想像の想像の想像だってできる。ところが、中立性変様はそんなまどろこしい繰り返しができない。要するに、ぼ〜っとメロンをながめて、そこにメロンという物体があるどころか、線と色だけがみえるようなそんな状態だ。やまちゃんの顔をながめて中立性変様。顔面ではなく、線と色しかみえなくなる。やまちゃんは完全に無視されてちょっとむかついている。


  まとめ

  **存在の科学**


  異次元理論  x次元をx+2次元経由でx+1次元を認識する  物の同一性、動物の魂、人間の人格を把握する異次元経由法

   0次元の点は果たして本当に0次元なのだろうか。ちょっとまわりこんでみたらひょっとしたら直線の一次元かもしれない。そのためには二次元の平面を移動しないといけない。二次元を介して0次元の点は一次元の直線であることが確認される。つまり、x次元をみているとき、x+1次元かどうかはx+2次元を経由してわかる。一次元の直線も三次元を経由して、それが二次元平面かどうか確認できる。ということは、二次元物平面である現象もまた、四次元の時間軸、人格軸である思考、想像力を介して、はじめて三次元の立体であることが認識できる。これが構想力、図式ではないだろうか。そして、さらに三次元立体が人格をもつ、同一性をもつかは五次元平面を迂回しないといけない。五次元平面とは人類としてのロゴス、言葉であった。こうやって、それが人間であり、人格があるのか、はたまた亀の一種なのか、りんごという物体の同一性なのかを認識する。厳密にいうと、五次元の人格か、それとも亀、両生類、無機物のなにものかの同一性かはここでは判定できない。この人間として、動物として、理解するためには6次元立体を経由してはじめて、五次元平面が人類、動物、植物かが判定されるのだ。6次元立体とは感情だと以前お話した。つまり、感情経由でひとは他者の人格、動物の魂、無機物のはっきりとした同一性を知る。

論理、言葉、ロゴスによって同一性を知り、感情によって人格、魂を知るのだ。


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2009年11月05日

仙人新聞 2009.11.05

仙人新聞 2009.11.05


**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)


**哲風呂**

構造主義と次元性についてである。散歩中に面白いものを拾う。きれいな石であったり、貝殻だったりするが、あさりをひろうには潮干狩りに限る。潮干狩りもいっしゅの狩である。狩にでかけて潮干狩りをするものだ。貝殻の形、重さ、そして、潮のにおいがする。なんでこんなに美しいのか。さまざまな性質をもっている貝殻。貝殻はいわば貝の骸骨だ。無数の性質はいりまじってひとつの貝殻がここにある。無数の次元がそこに含まれている。低次元の0,1,2、だけでなく、高次元も巻き込まれて貝殻ができる。ということは、高次元のさまざまなものが現れていることになる。

  構造主義というお話である。構造とは握り締めることができない。つまり、かたまりでも実体でもないもの。構造となにか。じ〜っとしているとそれに気がつかない。自分の足でフィールドワーク。手をつかってこねまわし変形させる。あっ貝殻発見、美女のヒップを目撃、恐竜の足跡みつけた。形も種類もちがう、このなかに変わらないものを見つける。床屋さんは客の頭を変形させる。それでもかわらないもの、不変なものを発見。構造とは変形、変換をしても変わらないものである。

  哲学者レビストロースは実際に自分の足でジャングル奥地に入り、そこにすむ部族の風習を研究した。野外学習どころではない。ジャングル、未開部族だから危険もいっぱい。そこに伝わる神話を聞く。遠くはなられた部族の神話と比較したあとき驚愕した。というのも、たしかに登場人物だってストーリーもちがうが、共通する構造がみえてきたからだ。

  構造を定義してみたい。変形しても変わらないのが構造。男女がいて、意識的に目をまるくしながら想像で形をかえて、金玉の数はちがうけど、変わらない構造があると発見するのではない。意識的ではなく、一切口にもださず、無意識に変形して無意識に構造を感じているのだ。これは意識的に理性的いろいろと考えて真理探究だ、西洋の理性中心主義の批判だ。二つ目は荒唐無稽で理屈ないような部族の神話に数学の四元置換という法則がはいりこんでいた。これは先進文明だの、未開文明だの、そんなものはあまり関係ない、という考えになる。三つ目は変形したり、変換させる順番なんてどうでもいいということ。男から金玉をはずして、無精ひげをとりのぞいて、とその順番はどうでもいい。変形の順番が大切だという歴史主義批判だ。三番目は、要素と要素関係は同じ土俵で扱うというもの。要素とはいわば、野球チームのメンバー。メンバーのチームプレーは要素関係。ダブルプレーとファースト山田君は同じ土俵であつかわれる。これは数学や科学だとあまりない。職人のやっていることである。靴職人は靴という作品をつくるが、かれのテクニックもまた作品だ。作品製作と作品の区別なし。これを器用仕事、ブリコラージュという。ここから科学主義批判がうまれる。

  次の話はモーリスメルロポンティの次元性というお話である。次元といったらなんだかめっぽうデカイというイメージがある。0,1,2,3,4、次元。異次元のはざまに手がはさまってかすり傷を負ったものは少ない。じつは次元というのはそこらに無数にころがっているというのだ。次元とは宇宙のすべてを包んだり、載せている土台である。奥行きというのは、この世界に同時に存在しているものたちが載る次元。ピンク照明で照らす。すると、照らされたもの、てらされるかもしれない宇宙のすべてはこのピンク照明の土台に載る。だから、ピンク照明という次元。線という次元は線のあるものはみんな仲間だ。だから、どんなにちっぽけで具体的なやつも宇宙を載せる次元になっちゃう可能性があるという。机のシミ、ひたいのしわ一本も次元である。とりわけ、からだはいろんなものを体験できる次元。次元のなかでも優れた次元がある。あらゆる土台を載せる土台だけど、自分はどんな土台にも載らない。次元をすべてを載せるが、自分が属する次元なし。これが普遍的次元と呼ばれる宇宙だという。


  まとめ

 **存在の科学** 

  異次元理論  饅頭に全次元が巻き込まれて、性質をもつにいたる   力は無機的物体の言葉である

  テーブルのうえに饅頭が置いてある。饅頭は三次元物体であるが、0次元からいままでいったことのない方向に特定の角度で移動し、その軌跡が二次元になる。この二次元もまたいったことのない方向に特定の角度、ラジアンでひきのばされ、さらには同じく三次元にも特定角度でのばされる。こうやって饅頭の輪郭、形ができる。饅頭にはほかにも、色、味、におい、その他無数の性質を含む。この形以外の無数の性質は3次元よりも高い次元のものが三次元空間に巻き込まれて出現したものだ。これを巻き込み理論という。直線の一次元は高次元の平面二次元を含む。一次元は拡大すると平面を筒状にしたものというのだ。すると、たかが饅頭ひとつでも、そこに高次元、低次元、すべてをふくめた特定角度の引き伸ばされた次元を含むことになる。

  四次元は時間軸、人格軸で、ひょっとしたらの人格軸の集まりが他人をふくめた人類の5次元平面になるといった。5次元平面はことば、論理、ロゴスによって影響しあう。5次元平面は人類だけでなく、他の生命の類、両生類、爬虫類もあり、非生命である無機物の5次元平面もある。これらが重なり合って、六次元立体になり、六次元立体が影響およぼしあうのが感情だといった。だから、無機的物体も、いろんな動植物にも感情がある。これらの高次元の要素が三次元物体の饅頭に巻き込まれて、饅頭は味もふくめていろんな性質をもつことになる。

  さて、5次元平面はロゴス、言葉によって個人が互いに影響及ぼす。同じくごりら類もまた、ロゴスのようなものがあるであろう。それでは非生命、無機物の5次元平面が影響を及ぼす中間要素はなにか。これが無機物のロゴスである力学、力の伝達なのだ。力とは無機的物体の言葉である。

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2009年11月04日

仙人新聞2009・11・04

仙人新聞2009・11・04

**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)**


**哲風呂**


感情とロゴスについてである。月末の支払いに追われ、ついでに悪漢たちょからも追いかけられ、ゴミ箱のなかに隠れたら、そこにはミュータントが潜んでいて噛み付かれる。あ〜なんて最悪なんだ、と営業スマイルで捨てゼリフを残し、こうなったら別次元にパワフルワンダータイムトリップだと叫ぶ。嫌なことあったらぶっ飛んで、別次元にいってみたいものだ。ファミレスでドリンク自由をたのんでセレブっているときも、コーヒーの注ぎ口が右曲がりでシャツにコーヒーのシミをつけてしまったときも同じだ。異次元にいってみたい、とよく街中の農夫は叫んでいるが、そもそも、異次元とはなにかと問いたい。

  感情についてである。いたって冷静に理屈で考えているとき、小僧に髪の毛をむしられていらつく。いらついたり、怒っているとあたまのなかで整理できずに混乱だ。だから、感情とは理性、秩序を乱すといわれる。感情は大きく三つにわかれる。喜怒哀楽を感じちゃう。一発で割り箸さけたのでなんだかうれしい。うれしいという自分の内面をつかみとる。これを覚知という。こういう別個の感情があるということ。二つ目は、年寄りをおぶって太平洋を渡っている心やさしい青年をみて、すばらしいやつだ、いいやつだ、と価値をゲットする。うつくしい、善い、という価値を掴み取るのも感情である。三つ目はすばやく回転すると、風を感じて気分よい。バイクにのって疾走しているときは、ひたい丸見えだが、気分よい。からだの動きによって得られる感情、これが身体的杵ステーゼである。

  さて、哲学者フッサールは意識の志向性について説いた。意識とはなにかについての意識だ。草むらから家政婦が覗き、こじかを狙い撃ちしてかみつく。家政婦は見た、というより、家政婦はかみついた。こじかがいます、といたって冷静に意識の矢印をさしむける。ここには感情はない。ところが、弟子のシェーラーは意識の志向性っていうのは、ほんとうは感情付きの矢印ではないかといった。おいしそうだ、むっしゅむらむらという感情おさえながらかみつくのだ。なんてすばらしい青い空だろうか、空に意識集中。このときも、なんてすばらしいのかあ、と感情、、価値がこびりついている。だから、感情志向性とか、価値感得という言い方する。ところがこれでは二番目の価値としての感情だ。感情と自分の存在がなんだか薄利している。はがれちゃっている。そこでハイデガー哲学が登場する。ハイデガーは人間の存在を現存在とよぶ。感情とは自分がどかーんと現存在していることと、目の前に世界が存在していることへの感情だという。そんな水虫なおった、うれしいな、みたいな細かいことではなく、存在の感情だというのだ。私は人間になるか、テナガザルになるか選択してうまれてこなかった。最初から人間のオスとして世の中に投げ出された。膨大な過去の歴史がヘビーなつっぱりで押しだしたのだ。そして、私はテレビゲームに夢中のとき、あたかも、私から私自身が分裂しどうに、飛び出している。これを意識の超越という。なげだされて、目の前のものに顔見アンド前のめりで超越だ。ところが、これもまた、過去の歴史はイメージだから、厳密には存在と感情の一体化とはいいがたい。そこでミシェルアンリという哲学者である。自分から自分が飛び出すとは、いわゆる自己分裂。ここに時間がうまれるとハイデガー。おどろくと目が飛び出つし、鼻水だてどぴゅっし〜のごとくでてくる。こんな意識の超越はなにによってなされるのか。もっと意識の奥底に超越があるかもしれない。すると、超越の超越ときりが無い。そこで、アンリは超越ではなく、内にひめたる力、内在の力を主張する。この内在の力こそ感情だというのだ。


  つぎはロゴスについてである。感情とは正反対で、いたって冷静に理屈っぽい。ロゴスとは言葉、論理、理屈のこと。ロゴスと感情、内面と外面、精神とからだ、という組み合わせで前者の一本勝ちという判定が哲学ではおおくはくだされる。

  哲学者フッサールは言葉に着目だ。言葉には二つの機能がある。目ざまし機能にバイブ機能はついていない。指示機能と表現機能である。さぶちゃん、だ、と叫ぶとき、このさぶちゃんという言葉は経験的に実在しているさぶちゃんをさしている。つまり、指差し機能である。さぶちゃんはかっこよくて、背が高い、と私が友人に力説するとき、実際にさぶちゃんがいなくてもさぶちゃんを表現している。かっこよいそのものというイデアや背が高いそのもののイデアを拝借して、これを使っている。イデアは純粋で、なんとかそのものというやつだ。だから、ここにロゴスが入り込んでいる。

  西洋哲学はロゴスとか、精神に偏っているよ、といたのがニーチェである。感情とか、からだをわすれちゃいけない。必然的な法則ではなくて、たまたまの無骨な力。こんな偶然的な力で世界はできているという。

  同じく、哲学者デリダもまた、精神、ロゴス、内面、ダイレクトに直感というものをそれほどたいしたことがないという。というのも、この真反対、からだ、感情、外面、というものが卑下されて、どうでもいいようにされてしまっているが、精神のなかにも、ロゴスのなかにもこれらが潜んでいるという。ダイレクトに目の前にあるものを新鮮のままゲット。ここには痕跡、足跡、不在っていうものが潜む。わ〜シュークリームだ、と叫ぶ。シュークリームという言葉を自分が口にだしていったのでその意味は新鮮だし、重々よくその意味を知っているはず。それでもシュークリームの名付け親はここにはいない。不在の他人が入り込んでいるのだ。とにかく、すべてには原痕跡といういままで卑下されていたものたちが潜んでいる。

  まとめ

  **存在の科学**

  異次元理論  5次元平面類と6次元立体生命

  0次元から三次元までは理解できる。問題は四次元からその上である。0次元は点である。これがいままで移動したことがない方向に動く。その軌跡が直線、つまり、一次元。一次元もまたいままで移動していない方角にうごくと、その軌跡が二次元の平面。平面は同じように三次元の立体になる。この移動する方角であるがいろんな角度、つまり、ラジアンがある。この高次元の移動角度によって三次元物体の形が決まる。三次元以降の高次元もまた、三次元物体のなかにすでにまきこまれていて、移動角度によってその色、質量、さまざまな性質となる。

  さて、四次元以降についてよく考えてみる。ちなみに、0次元は点であり、量子であることをここに明記する。四次元は三次元物体がいままで移動したことのない方向に移動したときにできる。これが時間軸の四次元である。そして、物であれば、お茶碗ができてから消滅するまでの個別性、ひとであれば、うまれてから死ぬまでの人格となる。つまり、時間軸上、空間的な肉体は変形するし、性格もかわるかもしれない、かれはあかちゃんのときも年取ってからも同じ彼である。これが人格だ。そして、この四次元の時間、人格軸は一次元の直線に見立てられる。この人格軸がいままで移動したことがない方向に移動すると人格平面、つまり、五次元平面になる。ひょっとしたら大統領だったかも、やまちゃんだったかも、という可能性の人格であり、これは私と複数の他人の軸がつくる平面である。私と同じ人間である他人、つまり、人類は共通のロゴス、言葉、論理でつながる。この平面を類の平面となづけ、この類に共通するのがロゴスである。この平面がいまだかって移動したことのない方向に移動して6次元立体になる。平面の類が積み重ねられている。複数の平面の類は人類だけでなく、両生類や爬虫類などの生物種の平面である。そして、この6次元物体に共通のものが感情である。5次元はロゴス、6次元は感情だったのである。動物、昆虫たちと感情を共有できるのである。

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2009年11月03日

仙人新聞 2009・11・3

仙人新聞 2009・11・3

**哲学漫談・クレイジートーク**







**その他ラジオ配信**
たまにアップします。





**哲風呂**


感覚与件、観察理論負荷性、そして、無についてである。まぶしいと感じてしかめっつら、ぼいんだ、っと叫んでにやけ面、風にあたって気持ちいいし、公衆便所でくっさ〜っと魂の叫び。さまざまなものを感覚しているのだが、人間だけでなく微生物の斉藤さんだって、はては植物、鉱物にいたるまで、すべてが感覚をもっているのかもしれない。全身銀色のウェットスーツに身を包み、われわれは宇宙人だ、とつぶやくのもよかろう。そうではなくて、皮膚感覚をシャットアウトしてみる。目隠しして、鼻をつまみ、耳栓だ。そんな状況だと、おもわず、幻覚みえてしまうという。感覚消すと想像力が発動だ。じつはここに宇宙と感覚と想像のヒミツがありそうなのだ。

 感覚与件についてである。ときにばあさんをじいさんに見間違え、大根とにんじんをまちがえる。目が疲れているのであろう。UFOを甘食パンとまちがえてかじってしまい、宇宙大戦争に発展。よく平行線なのに、目の錯覚で歪曲して見えたりする。絶対にまちがっていると言い張る頑固おやじだっている。錯覚したものは真実ではない。そんなことはわかっている。ただ正しく感じても、うっかり錯覚してしまっても、とにかく何かを感じていることだけは確かだ。これをなんと呼べばよいのだろう。本当に並行ではなく曲がって見えるし、この先急な右曲がりダンディがいるので注意、という看板。同じ色には見えないという錯覚もある。ただそのように感じたままのもの、これが感覚与件である。

  さて、哲学者ラッセルはひょっとしたら見ていたかも、という可能性も感覚与件に入れちゃう。車を買うときはいろんな角度からくるまをなめるように品定めする。それでも、車のなかまではみないが、ひょっとしたらエンジンが装着しているかも、ということまで感じている。もしなんとかなならなんとかだ、という可能性を仮言命題という。これまで感覚与件にいれるわけでだが、この可能性の感覚与件をセンシビリアという。

  これに対して、哲学者エアーは感覚与件はいままさに感じているものだけ。青色をじ〜っと眺めたあとに赤いふんどしを見ると、ちょっと違った色に見える。さっきみた赤いふんどしと目がおかしくなってから見た赤いふんどし。どっちが真実かではなくて、そんなことおかまいなしに、今見ているものだけが感覚与件。感覚与件は生活でなにをしてこれをして、という流れ、文脈とはまったく無縁だという。

  観察の理論負荷性というハンソンの考え。これはエアーと対立するものだ。蝶々を観察する。野外学習でいないばああいは町長さんを観察だ。科学ではまず観察を克明に記載して、最終的な判断材料だ。ところが、この目、鼻をつかった観察をこんなに信用していいのだろうか。ひとはあたまのなかにいろんな考え、理論をもつ。たかだか世界っていうのはただの物体だと思い込んでいれば、その理論、考えが感覚や知覚におもいっきり圧力加える。だから、現代人と古代人は同じ感覚、知覚でものをみていなかったというのだ。文化や時代によって、ひとのあたまのなかはちがう。だかた、当然、観察してもちがってみえる。好きな子はかわいくみえちゃうし、嫌悪しているもんものは妖怪ほどにみえる。

  次の話は無についてである。無ってなんだろうか。難しい問題だ。無について真剣に考えたが、それは考えないことだと結論してしまう。無を感じてやろうとするが、それは何も感じないことではないか。近代では哲学者ヘーゲルがちょこっと論理的な考えをした。ただの存在がある。純粋有というのだが、これはなんら詳細かかれていないし、具体的でもない。なんだかわからないし、なんにでもないものだから、同時に純粋無だというのだ。こので有が無に変身。ここからかれの矛盾くっつけろ、の弁証法のスタートだ。現代ではハイデガーとサルトルである。無hを論理的にうんぬんするのではなく、無とは感情だというハイデガー。無とはお先まっくらで手探り状態。落とし穴があるかもしれない、ゾンビがいるかも。無の感情は不安なのである。存在の感情なにかといえば、それは退屈だという。具体的な存在者、ペットボトルジュースのボトルキャップ。キャラクターは犬だった。こちらは具体的に形がある。だけど、それをみていたらつまらなくなった。なんだか退屈になってきて、何にも興味示さなくなった瞬間、ただの存在がどかーんとかんじられるようになる。ハイデガーにおいては無とは非常事態の状態だ。ところが、サルトルはちがう。私はペットボトルを意識する。心のなかで叫ぶのだ、私はペットボトルではないと。だから、私はペットボトルを意識できる。私が私を意識するときも、私は意識された私ではない、と叫ぶ。つまり、私と私、私とペットボトルのあいだに無を分泌。こうやって、ふつうに無を大量生産しているのである。この無の分泌こそ、人間がいろんなことが選択できるという自由の証である。

  まとめ

  **存在の科学**

   ホロムーブメント理論 物は物を感覚する 感覚とは存在と無の動的平衡

  感覚とはなにかと考えたい。色、におい、断片的な情報である。これは一本の木を知覚する、というのよはちがう。知覚や想像ではなく、ただ寒い、熱い、赤い、臭い、という感覚である。

  三次元球体の地球では重力線にそって人間がへばりつく。私とあなたと両者にはみえない不在の他者である。これらは別々の時間軸をもち、この時間軸は直交していっるといった。この現れが三次元空間のはずだが、三次元にまきこまれた四次元球体は無だともいった。すべての線がすべてに直交する。ところが、質量ある物体があれば、引力、重力が発生し、その代表は地球であるわけだが、地球上のものはたしかに重力線を直交させているものもいあるが、ほとんどが直交していない。私と対面するあなた、不在の他者。これらを直交から鋭角、鈍角に空間をゆがめるとき、遠近法の世界がうまれる。このゆがみ、圧縮はその反作用として負圧を生じる。これが四次元球、つまりは無への影響だ。遠近法的にものをみるとは、同時に負圧による無の膨張がともない、これが見えない影を想像するといういわば想像力をうむ。さらには意味もうむ。知覚も遠近法的だし、想像力はもっと無の膨張をともなう。それでは断片的な感覚はどうだろうか。感覚は遠近法的ではなく、無を膨張させない。三次元空間をゆがめず、ありのままである。三次元空間にあるもの、つまりはこれを存在と名づける。他方に無。存在を圧縮し、無を膨張というのが知覚、想像。感覚は存在と無が動的平衡になっている状態。バランスをたもっているのである。人間、動物、植物となるにつれて、この平衡は完璧に近づく。つまり、人間の感覚は多少ゆがみもたらす。植物の微小な細かい感覚はゆがみすくない。そして、完璧な存在と無の平衡が無機的物体だといいたいのだ。生命のいない岩石だらけの場所があったら、そこでは岩石は超微小感覚をしている。物は物を感覚しているのである。

  感覚をシャットアウトした部屋にとじこめて人体実験をしたらしい。すると、幻覚がみえるという。つまり、存在と無の平衡、その境界の感覚がずれてしまうのだ。

**哲風呂**


意識の直接与件に関する試論、と日常性における頽落についてである。なぜ、ひとはコミュニケーションするのだろうか。口からつば飛ばしなら議論し、互いにむきあって語る。右向け左という掛け声で後ろ振り向き、真後ろのひとに声をかけて、今日もいい天気ですね、と大雨のなか切り出す。いろんな場所に移動してはコミュニケーションしちゃう。ひとが言葉を話す宇宙的な意味。一時的な感覚、第一印象が大切になる。刺激を求めて、れっつご〜コミュニケーション、といいたいが、どこか臭い言い回しなので、言ってないことにしてほしい。刺激、感覚を求めているのは何も人間だけではなかった。動植物だけでなく、そこに落ちている岩石もそうである。岩石の声も聞いてみるのもいいだろう。


  哲学者ベルクソンの論文、意識の直接与件に関する試論、についてである。このまどろこしいタイトルだといいずらい。舌をかみそうなので、時間と自由、という別の名で呼ばれることもある。ベルクソンは時間を空間にしちゃうのが嫌いである。靴べらをスプーン代わりにしたり、ブラジャーを目隠し代わりにすることよりももっと深刻だ。世の中、とりわけ、自分自身の正体も時間である、という。継ぎ目のない滑らか連続。ここからおなかでここからがケツだとはっきりいえない。ここからフォークの柄であり、ここがフォークの先端だと凶器攻撃中のレスラーが説明。こうやって、言葉は連続しているものをデジタルに分割だ。このおおざっぱな分割こそ、空間だという。意識だって、過去、現在、未来なんていうように分割されていない。むしろ、過去の記憶が現在見ているライオン映像と食い込みあって、さてと逃げようかな、と未来の目的すら入り込む。出来事だって連続している。走っている男性がいるが、走るとはどこからどこまで走る行為なのか。かれがよこになって足をしきりにうごかしはじめたらもはや走っていないのか。この本当の時間を空間にすることで大失敗した論理がある。ゼノンのパラドックスである。亀は足が遅いので有名。おそらく靴のせいであろう。後ろから追い上げる世界ナンバーワンアスリートのアキレス。アキレスは亀を追い越せないというロジックだ。というのも、亀にアキレスはあと1メートルに近づく。その半分の50センチに近づくには、半分の25センチ地点を通過しないとけない。こうやって、数学的に割る2やっていくと、無限の中間点を通過しないとアキレスは亀を追い越せない。これが時間をみんな空間的、長さ的に計算しちゃった結果だ。

  自我とは内奥自我と表層自我があるという。うわっつらのぼくちんと内面深く魂のこもっているぼくちん。内奥自我は時間であって、すご〜く質的にバラエティーに富んでいる。だから、怒っているだの、悲しんでいるだの、言葉では表現できない。これに対して、他人のまえで笑顔をふるまっているときの、表面的な私。言葉を話して、みんながわかるおおざっぱな言い回しだ。やまちゃんが先日、女性からふられたんだって、と言ってみる。どんな状況だったのか、やまちゃんだってどんなヘアーで歩き方なのか、おおざっぱすぎてわからないのが言葉である。だからこそ、たくさんひとと意味が共有できちゃう。そして、社会のなかで役に立つ。

  自由とはなにかと哲学者はいう。決定論者はうまれたときから、すべて計算できるほどに精密に決まっているという。ベルクソンならば、決定論者はタイムマシンにのって過去と未来を接着したというであろう。非決定論者というものがいる。ひょっとしたら私は大統領やっていたかもしれない、人間なんて偶然の連続だという。ベルクソンいわく、このひともまた、タイムマシンにのって、ひょっとしたらの世界について語っている。時間をあたかも、空間を移動するように扱っている。そうではなく、ベルクソンが考えるに、自由とはなにか、と問題にするのではなく、問題以前に事実そうなんだ、という。自由とはなぜかという問題ではなく、事実ここにあるというのだ。

  次の話はハイデガーの日常性における頽落についてである。ハイデガーは人間には本当の存在とうそっぽい存在があるという。私の本当の存在、これが本来的実存だ。私は私自身にかまって、気使って生きている。眉毛のうえにフランスパンが一斤くっついていたらこれをとる。身なりを気にするだけでなく、自分がやっていることも意識している。おのれに関与し、かかわり、気を使う。ところが、自分の存在をすっかり忘れてしまうときがある。これが自己忘却の非本来的実存である。すると、私は周囲のものに気を払う。私はだれだといっても、だれでもあってだれでもない、ただのひとだ。椅子にすわったときには、すでにそこに他人がかかわっている。椅子をつくったひとがいる。最初から私も他人も大きなネットワークの一部だった。これが共同存在である。おしゃべりをし、テレビをみて、私自身をほんとうにみつめない。これが頽落である。

  まとめ

 **存在の科学**

  ホロムーブメント理論 コミュニケーションは圧力緩和のためであり、感覚、物体にむかう

  私は遠近法的に生きるとき、見えないところを想像する。遠近法は以前お話したように、すべての重力線がス直で互いに相殺しあって、重力0の質量なしの虚空、真空である。つまりは無。この無が四次元球であり、三次元球である地球に住む生命は互いの自分の重力線を90度にできず、私とあなたとの対面では鋭角にすらなる。だから、ここに本来90度であるべき重力線に正圧がくわわり、四次元球には負圧生じる。正圧が遠近法、負圧が想像をうむ。宇宙はバランスを保とうとする。だから、ひとりのあなたとばかり対面せずに、横を向いたり、後ろふりむき、場合によっては地球上を移動して不在の他者をあなたという人称にかえて接する。こうやって、圧力による負圧を軽減させようと、複数の人間へのコンタクトがなされ、ここに言葉をつかったコミュニケーションが成立する。かぎりなく、向きをかえ、場所をかえ、聞き手と話し手の人称すら変えて、想像と遠近法のアンバランスを補正しようと勤める。いろんなひととコミュニケーションが増えるにしたがって、四次元球、三次元球のバランスがうまれる。前回話した虚空のなかの無機的物体のように、存在と無のバランスだ。つまり、ただの物に近づき、微小感覚に近づく。コミュニケーションの果ては感覚、刺激を求めるようになるのだ。そして、ついには、微小感覚の物になる。

  ひとがコミュニケーションし、社会生活を営み、ついには死滅するのだが、結局物体になってしまうことなのか。もしそうならキリスト教のいうような天の国はないのか。天は四次元球、無。地は三次元球、物体、存在である。存在と無のバランス、天地平衡になるのが物体だ。

  こどもはいけないことをするが、おやはそれをやったらおばけがでるだの、ばちがあたるとたしなめる。大人もまた、法が整備されるまえは宗教によってたしなめられる。つまり、親は子にするような力がある。たしかに、倫理観は必要だ。これに儒教的な生の一回性をいれたらどうなるだろうか。つまり、輪廻や天の国を考えない。精一杯にいまを生きる。ただし、キリスト倫理はここにとどめておく。天の国の考えを改めたらというあくまあで仮定である。天地合して物体になるが、物体と生は基本的にはバランス関係の違いであった。
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2009年10月31日

仙人新聞 2009・10・31

仙人新聞 2009・10・31

**哲学漫談**
録画失敗なので音声です。


**クレイジートーク**


**哲風呂**


主意主義と相対主義についてである。久しぶりに地球でも散歩してみる。どうにも丸っこくて滑りそうだ。地球の引力、重力を信じて、わが道を行く。目的地はクリーニング屋さんである。どぶ板から白い煙がたちこめて、きっとあとからターミネーターかなにかがそこに着陸するのであろう。染み抜きしてもらったパンツを手に散歩がてらに地球散歩。なにゆえ地球は丸いのか。世界中のひとたちは地球の中心に足をむけて歩いている。日本の裏側のひとたちは私にたいして足をむけて歩いている。そんなことを考えると、集中して縦笛を吹けずに、うっかり鼻の穴のなかに縦笛を突っ込んでしまいそうになる。

  主意主義についてである。主意主義に対抗する勢力は主知主義である。どこがどうちがうのか。字を虫眼鏡でよくみてみる。主に意志、意志がメインなのが主意主義。主知主義はもっぱら知識が大切だ、みたいな知識メインの考えだ。意志とはいくぞ、すわるぞ、っという気合に見られるように、意欲である。知識とはなんだか冷静沈着、客観的にうんぬんと考えたり、眺めたりする。決して鼻息を荒立てない。さて、今回は主意主義のお話である。

  主意主義には二つのタイプがあるらしい。妥協しまくった局部的主意主義と、妥協なき、強烈、猛烈な全面的主意主義である。局部的主意主義とは、たしかにいくぞ、よいしょ、っという掛け声のような意志の働きが真っ先にくる。ところがふと冷静にたちどまってそんな意志の働きについてうんぬんするのだ。つまり、お〜〜っという雄たけびをあげたあとに、この気合、意志はなんぞや、と冷静に知識で考えるのである。へいらっしゃい、と威勢のいい寿司職人。その直後、めがねをかけて、へいらっしゃいという意志はどんな心理的な働きがあるのか、と客観的に考えるのだ。一部主知主義が混入しているのである。ヴントの心理学などがその例である。

  次に全面的主意主義である。こちらは妥協がない。どんなこといっても、やっぱり理屈や知識ではなく、うりゃ〜っていう意志が最初にあるし、世の中に存在しているものは全て意志によって誕生だ。しかも、その昔は神様の御意志で森羅万象、被造物が創られたというキリスト教。近代になると、木にしがみついてうっき〜っとサルのような鳴き声を上げるセミとちがって、何にもしがみつかずに、自分の足でたつセミになったのが人間。人間中心主義であるが、この人間の意志はすべての存在を出現させたのだ、となる。こちらの代表者はショーペンハウワーやニーチェである。意志と知識をちょっとかっこよく言い換えてみる。関心と認識である。かっこよくなかった。水族館でなんだとふと水槽にいるやつに関心抱く。そのあとに、じ〜っと認識してさんまだの、しゃけだのと考える。まずは関心があってこそ、顔が目がそちらに向く。ショーペンハウワーでは、やまちゃん個人の意志が最初にあって、つぎにやまちゃんのアフロのなかの頭脳で、いろんなイメージがつくられると考える。美しい女性をみて、興奮しつつ、よし右脳イメージ力全快という意志が働き、次に、あたまのなかで裸のイメージ像を製造だ。同じように宇宙にもなんだか意志がある。この意志がイメージし、森羅万象ができあがる。


    次の話は相対主義についてである。古代ギリシャのプロタゴラスにゴルギアスが代表だ。万物の尺度は人間だ、という。要するにすべてはマイスケール、マイメジャーをもって、いろんなものにあてがう。自分はこっちのほうが真理っぽいというであろう。貝や鳥よりもメジャーになりたい。豊満な胸にまきつきたいと、友人は語る。私は相対主義者でございます、と自称するものは少ないが、やはり、何気に平然と相対主義をやってしまっているケースもある。たとえば、哲学者カントである。われわれはモノの一面だけしかみていない。どんなに魚類に精通した魚屋さんでも、目の前の魚が何匹のたこと遭遇していまにいたったのかなんてわからない。その魚自体、これが物自体である。物自体はわからないけど、それぞれの視点からみんなが現象を見ている。

  現代においては哲学者クーンやウィンチである。とりわけ、科学理論についてふれている。物理学をあげれば、ニュートン力学、相対性理論、量子力学、熱力学、といっぱいあるが、どうにもこれらの異なった分野で対決させたら戦いにならないという。土俵、グランドがちがうのである。大リーガーがアメリカのグランドにいて、日本のプロ野球選手が東京ドームにいた場合、試合にならない。ニュートン力学はニュートン力学のルールでやっている。だから、互いのグループのそとはルール無用であり、きっとルール無用の悪党がいるにちがいない。カールポパーはこの辺を批判した。結局、カオス、混沌のなかにひょっこりひょうたん大陸のように理屈、知識が浮いている。だから非合理主義ではないか、と。

  また、相対主義には若干問題点がある。というのは、自分自身についてそれをあてはめると自爆するのだ。すべては相対的でしかない、と断言したとき、相対的ではない、という主張も認めることになるのだ。

  まとめ

 **存在の科学**


  ホロムーブメント理論 空間における人称z軸の鋭角、鈍角の交わりと四次元空間における人称軸の垂直な交わり

 地球は球体であり、その上にひとが直立する。以前お話したように、私、あなた、不在の他者は垂直に交わる時間軸をおのおのにもつといった。ところが、この三次元空間内では、地球上では私と対面したあなたと、ふたりの真後ろにいる不在の他者も、地球中心へとむかう重力線、つまりはおのおのの私のz軸が直交していない。その角度、30度かもしれないし、0.000001度かもしれない。この三者の重力線の角度を強引に垂直したところが、高次元、四次元における四次元球体上のわれわれの意識である。四次元球体はすべてが垂直に交わるような、すべての重力線が直角であるような球体。これも以前お話したが、バネ構造である。バネが一周して、もどるかなとおもいきや、ずれてもっと大きなバネになる。この大きなバネも一周してつながるかと思いきや、またもやずれてもっと大きなバネになって無限に続く。このバネの任意の一点から接線を引くと、この接線はすべての任意の点の接線とみかたによっては直角になる。

  三次元における人称が直角に交わらないことと、四次元球体における直角交わり。これらが相合わさって遠近法、パースペクティブをつくる。つまり、近いものは大きく、遠いものは小さく見えるし、角度によってゆがんで見える。

すべてのひとは、互いに私であなたで不在の他者、つまりは相対主義的である。自分のz軸を固定した座標系が意志となり、相対的な四次元球体の接線、つまりは意識活動である知識、認識は相対的である。


**哲風呂**


意味の意味、と想像力についてである。すご〜く眠い春のうらら。真冬もうららっろ睡魔に襲われる。縁側での日焼け、通称、丘サーファーならぬ、縁側サーファーであるばあさん。まさしく日焼けしながらの転寝であり、夢見心地になる。まぶたの裏のうつしだされる幻影。風景であったり、ひとであったり、ガラパゴスオオトカゲだったりするが、この夢が今回の問題である。自分がつくりだした想像物なのか。わらわらは夢や認識において最低限の想像をしている。しかも、こんな想像力が壮大な宇宙の力でうみだされているとは想像だにしなかった。

  オイゲンとリチャード共著、意味の意味、についてである。いったい大人用おむつには何の意味があるのか、と会議室で議論する。いたるところで、意味っていう言葉を使っている。場合によっては鼻歌まじりで意味という言葉を使う。当時は意味はどんな意味なのか、つまりは、意味の意味について考えるものはいなかった。

  そこでオイゲンとリチャードは意味の意味について考えた。ここで登場するのが意味の三角形である。恋の三角形にバミューダトライアングル、トライアスロンから二等辺三角形という名の野球チームまで、いろんな三角形があるのだが、ここで意味の三角形についての説明である。

  三角形の頂点に君臨するのが思想である。思想というのはなんだかあたまのなかのイメージだ。どんなイメージでもよい。おっぱいがレモンで、お尻が白桃というフルーツの女王を思い描いても法に抵触しない。三角形の左頂点には象徴がくる。象徴っていうのは、たとえば、米印っていうのは細く説明してやるぞ、っという代表的なマーク。いろんな補足説明がるが、これらのすべてを代表しているようなやつだ。うんも星人のマークも、うんも星人たちの代表だ。ということは、人が使っている言葉はすべて象徴である。人間っていう言葉はいろんなひとたちを代表しているようなもの。だから、象徴でも、言葉でもいいのだが、これと三角形の頂点の思想、イメージとは因果関係によって結ばれる。どっちかが原因で、どっちかが結果である。人間をイメージし、思想があって、人間っていいな〜っと象徴、言葉を放つこともできる。原因と結果の因果関係だ。三角形の右頂点には指示物、事物っていうのが居座っている。要するに目の前にあるたわしやスリッパといった物である。しかも、これと三角形頂点にいる思想、イメージはどんな結びつきなのか、が気になる。指差し関係なのだ。つまり、思想、イメージは実際にあるたわしを指差す。あいつをイメージし、たわしの毛をひんむいたその素っ裸な中身までイメージだ。

  さて、問題は三角形の右と左の頂点の結びつき。これは点線で結ばれるという。なんで点線かというと実際に結ばれていないからだ。というのも、中間業者である思想、イメージをしている誰かがそこに居合わせないとたわしっていう言葉と実際のたわしという事物は関係をもたない。だから、ジャングルの奥地、人里離れたところの一本の木に、たわし、と落書きされていても、それは実際のたわしとの関係を結べないのだ。

  これは一部の論理学者とは大きくちがう。論理とはそれ自体でなんだか存在していそうだ、意味だって人間いなくてもそれ自体ころがっていそうだという考えとは対極をなしちゃう。


  次の話は想像力についてである。想像というのは、あたまのなかで桃の中身を想像するようなもの。じいさん、ばあさんはたかくくって、上目づかいでその中に桃太郎がどうせ入るだろうと思っていた。一刀両断、桃を切るのはやめて、桃太郎を困らせてやろう。桃太郎は桃のなかで異変に気がつく。想像はなんでもOKであるが、かって哲学者デカルトはあくまでも補助的に使おうといっていた。というのも、デカルトは明晰判明、くっきり、きっちり、はっきりがすきだ。曖昧み〜なマインは好まない。又ヒュームは想像は危険だ、気をつけろ、と怒鳴るであろう。たしかに、かれはちゃんとした想像は立派な論理、理屈になるとはいっている。哲学者カントは想像力を構想力と名づける。構想力は感覚と論理の中間、その仲介役であった。

  さて、ここで問題なのが現代の哲学者サルトルである。やまちゃんをこの目で観察だ。肌の色、あたまの大きさ、ほくろの数。観察しても、やっぱりすべて観察できるわけではない。無数の角度から眺めるの実質無理だ。だから、もうやまちゃんを観察するのをやめて、そっぽむきながらやまちゃんを準観察する。この準観察こそ、想像力である。やまちゃんを準観察、想像すると一発で全体像がわかる。山ちゃんってこんな感じ、という概念だ。一方、やまちゃんの断片、あの愛らしい後頭部だけをピックアップして想像できる。だから、想像は感覚的でもある。要するに、想像、準観察は一発で全体をつかみとる、もれなくやまちゃんの全体だから、観察よりもより完璧、リアリティがあるはず。こうなったら想像力は非常に危ない。なぜなら、実際の観察よりも、想像がリアルだったら、見ない、かがない、さわらない、人間活動しなくなるから。これは想像にすぎないんだよ、という非現実化作用というなぞめいた力がここに加わるというのだ。

  まとめ

  **存在の科学**


  ホロムーブメント理論 遠近法が正圧、想像力は負圧 想像力は無、四次元球だから意味を伴う

  地球は丸い。中心にむかって重力が働く。だから私、あなた、不在の他者はこの重力線に垂直に立つ。この三者の重力線は垂直に交わるといったが実際はそうではない。本来、四次元球体ではバネ上の任意の接線、垂線はすべて互いに垂直になるといった。すると、重力線が無数の方向にあるので、互いの力を相殺しあって、重力0の世界だ。じつに、重力発生しないとなると、質量のないもの。ようするに、そこに身近にある真空、物体のない無、これが四次元球体の正体である。そして、この四次元球体の接線、垂線を垂直ではんくするために圧力が加えられる。こうして、近いものは大きい、遠いものは小さいという遠近法的視野を手に入れる。また、この無、真空は物体の輪郭、単語の輪郭をつくり、はては意味の生成現場である。意味とは欠け、穴、輪郭であり、実体がないのだ。意味発生場所と無、四次元球。四次元球の接線、垂線に圧力を加えて遠近法世界、その副作用が圧力とは反対側に負圧が生じる。この負圧が想像力である。だから、必ず、遠近法的なものには負圧としての想像力が伴い、想像力があるということは、無、四次元球だから、意味を伴う。

posted by モノイイ ジョーカー at 17:37| 東京 晴れ| Comment(1) | TrackBack(0) | 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする