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2012年05月16日

仙人新聞 2012・05・16

仙人新聞 2012・05・16


なんと8日分。。


**宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版**

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**宇宙mixエクリチュール版**

**哲風呂**

受動的総合と中立性変様についてである。おれはおれで、あなたはあなたと線引き。覚醒しているとき、ひとはときにいがみ合い、かみついたりする。自分の心のなかの記憶はだれのものではない。おしっこもらしたこと、おならをしてしまったこと。ところが、寝ているときはそんな境界が取り外されるのではないか、というお話である。


   フッサールの受動的総合についてである。あれがこうなって、ここがそこにつがるから、きっとタバコ屋のばあさんは爬虫類だと決め付ける。自発的に考えて、いろんなものを総合し、判断しちゃう。ところが、自発的に判断しなくても、一発で受動的になんかあると気がつく。受動的総合である。フッサールは受動的といっても、最小限の自発的な力が働いていると考える。

   次の話は中立性変様である。これは饅頭で、あちらにるのはお姫様だと判断。こうだと定めるのを定立作用という。存在してるんだ、と存在定立。ほんとにお姫様かよ、お疑わしいものを定立するのが懐疑的定立。こんな定立をやめて判断停止してみる。すると、なんと線と色しかみえず、もはや、立体感すらなくなる。すべてを中立化してしまうのである。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    覚醒しているときは、私と他者ははっきりわかれている。私がみたもの、感じたものは私の記憶だ。感じられたり、思い出したりするときも、宇宙の空間点、ZPFにアクセスして固有周期に一致したロッカーから得る。ところが、寝ているときは超リラックスしていて、鍵がかかっていない。無意識化や睡眠中の夢、これが他者の記憶やクオリアを無数の固有周期のロッカーから断片的に取り出したものだ。そもそも、ZPFの点は高次元を巻き込んでいるので、別四次元時空、別平行世界からも断片的に情報を得る。

  異次元、高次元からのエネルギーの流入がこの宇宙を膨張または爆縮させている全体の73パーセントを占めるダークエネルギー。高次元アクセスは夢や無意識であった。ここから宇宙はエネルギーを得ている。覚醒時には見えない、光を反射、放射しない夜のまどろみの世界である。


   クレイジートーク


   今朝方、雪が降り、路面はアイス盤になっている。それでも出勤なのだが、くるまがスリップしそうであり、しかも、渋滞だ。ああ、朝からストレスかかりまくりぷ〜って言う感じで辛抱強く渋滞中に世間のいろんなことを考えてみた。ほとんど悟りの境地に達するのではないか、という卓見で、やばい、朝っぱらから悟りはまずい、ということで、現実に帰還し、仕事が始まったしだい。このへんでクレイジーも終わって、冷たい風が吹き荒れるならお仕事らんらんらん、労働の喜びらんらんらんと鼻歌を歌うことにしよう。


**哲風呂**

無とクオリアについてである。そよ風を感じながらサイクリングである。青い空、白いパンツ、真っ赤な太陽。なにかを感じている。高次元のなにかにアクセスしてそこからストローで吸収している、これが感じること、思い出すことではないか、というお話である。


   無とはなにか。なにもないとはどういうことか。西洋哲学、とりわけ古代ギリシャ哲学などは存在ってなにかを探求。どっちかというと、無をテーマにすると東洋っぽい。ところが、無を題材にした哲学者もいるのだ。哲学者ハイデガーである。無を考えるとはぼ〜っとなにも考えないこと。無は感じられるのか。私の存在っていうのは無にかこまれている。おれはそこにあるぞうきんではない。それだけでなく、生まれる前と死後、私がいないという無。この無にふれてしまう。無は不安なのだが、覚悟して自分の存在の外に手を伸ばし、自分の存在をつかんじゃう。私と世界ではなく、私にとっての世界、世界にとっての私。だから、世界そのものが滑り落ちる壮大なお話だ。

   これに対してサルトル。無なんていうのはそんな大げさではなく、いつも無をジャコウネコのフェロモンのごとく分泌しまくっているよ、と考える。ぞうきんを意識するとき、私はぞうきんではない、とつぶやく。意識している私は意識されているぞうきんではない、私とぞうきんのあいだに無を分泌。ほかならぬ、私自身を意識するときもいっしょ。自己意識である。意識している私と意識されている私のあいだに無の分泌だ。


  次の話はクオリアについてである。真っ赤な太陽、寒いといいながらポケットに手をつっこむ。いろんことを感じている。感じることがクオリアである。感覚質ともいう。哲学的ゾンビという話がある。やまちゃんは果たして青い空を見て、感じているのか。やまちゃんに変身できないからわからない。やまちゃんはゾンビかもしれないのだ。また、フランクジャクソンのマリーの部屋というお話がある。マリーは頭脳明晰な科学者。人間がなぜ物をみれるのか、電気信号にかえて脳で認識という。しかも、科学的な知識のある物理学者だ。ただ、マリーは生まれてから部屋の外に出たことがない。マリーの部屋は質素で、すべてが白黒。そのなかでも赤い、青いという概念は知っている。そんなマリーが部屋からでて青空をはじめてみる。物理的知識以上のものをかんじたのである。あくまで、クオリアは主観的なものではないか、知識ではわからないものではないか、という仮想実験だ。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   無の点、ZPFは真空エネルギーをもつ。宇宙のすべての点を集めると膨大すぎて、宇宙は破裂してしまう計算になる。素粒子を点とみなすからだ。そこで線、ひもと考えた。そうすると、宇宙が破裂しない程度のエネルギーになるという。超ひも理論、超弦理論である。このひもはどんな形なのか。超ひも理論だと宇宙は全部で10か11次元だという。われわれは三次元と一次元の直線を加えて、四次元時空にいる。残りの六次元、余剰次元が線、ひものなかに巻き込まれているという。そして、ひもは振動し、共鳴し、万物をつくる。

  無の点ではなく、無の線、ひもである。この高次元をまきこんでいる形がカラビヤウ多様体だという。母体のなかの胎児のような形だという。このひもは高次元が巻き込まれているので、ここで多世界、平行宇宙とアクセスし、ひとはなにかを感じ、クオリアがあり、記憶を貯蔵できる。


    さて、無の線、ひもではなく、宇宙は二次元の膜でできているというブレーン理論もある。これまたカラビヤウ多様体だ。今後、無の平面ではなく、無の三次元、さらには無の四次元時空が世界を構成しているという理論がうまれるかもしれない。つまり、四次元時空をつくっているのが四次元時空の超コンパクト版、カラビヤウ四次元多様体。すると、ふつうにそこでは時間が流れ、三次元の空間がある。いってみれば、実現しなかった未来、平行世界がこの宇宙の構成要素であり、意識あるものはそこにどこにいてもアクセスできるのだ。


    クレイジートーク


   日曜日なのに、仕事。電気屋さんである。江東区の永代というところ。久々にこの会社にやってきた。それにしても、待機場所は日陰、寒くて氷河期の恐竜のような思いでいままさに耐え忍ぶ。からだを小さく丸めて、まるでアルマジロのような姿で車内で小さくなっている。さて、おいらが現場に入る番なので、ここでクレイジー終了だ。


**哲風呂**

排中の原理、イリヤ、そして、アンガージェマンについてである。量子論の大きな二つの解釈問題。大きな栗の木の下でかりんとを発見。食べてはいけない。話が横におおきくそれたが、コペンハーゲン解釈と多世界解釈。哲学、科学、その他の諸々をまぜあわせて二つをくっつけたい。

  排中の原理についてである。論理学で絶対に正しいことをいうときは、排中の原理だ。まだ、日が浅いバスガイドの卵。右手に見えるのは東京タワーか、東京タワー以外のいずれかである、という。これが排中律だ。東京タワーと東京タワー以外のいずれかとは、ずばり、宇宙のなかのなにかです、といっている。自分が自分にふれちゃうことを自己言及といって、矛盾する。宇宙なかに自分もいるんだから、自己言及でだめっぽいが、排中律は例外的にOKだという。

  次の話はレヴィナスのイリヤについてである。私は一人称、あなたで二人称、かれらは三人称。それらっていう人じゃないものも含めて無人称。どうやらこれがイリヤである。ここにはいない圧倒的多数の他人による圧迫感。主体的であろうと奮起するがそのざわきに負ける。入れ替えちゃえ、と位相転換試みるが失敗におわる。


   最後にアンガージェマンについてである。アンガージェマンは抵当とか、拘束という意味である。サルトルの使用法が有名だ。私は徹底的に自由だという。性別どっちにしようか、人間が獣になるか。設計図なんてない。これが実存が本質に先立つ、というもの。すると、いろんなことを自由に選択できちゃうが、そうするおとで、世界に影響、拘束する。世界を拘束しちゃうとは同時に世界から縛られる。いわゆる責任である。


   まとめ


  存在の科学


    異次元理論


   無の点は真空エネルギー。これだと宇宙のエネルギーが多すぎる。よって、線、ひもではないかと超ひも理論。これだと宇宙は10か11次元あることになる。三次元と一次元の時間をくわえて四次元時空にすむわれわれ。残りの6次元が小さなひもにカラビヤウ多様体という形で巻き込まれている。もしも、プランク長さの三次元に6次元、高次元が含まれるという理論があったらどうか。もっといってしまえば、プランク長さの四次元時空に高次元が内蔵。これだと四次元時空は小さな四次元時空でできているというdフラクタル理論になる。まさしく、われわれは何かを意識し、なにかを行動し、選択する。意識していない、選択しなかった並行世界はどこにあるのか。この四次元時空の構成要素、プランク長さのカラビヤウ多様体の四次元時空がそれではないのか。選択ではなく、選択しなかったものが加速度的に増大。これが宇宙の膨張、ダークエネルギーになる。先日の考えだと、宇宙は定常状態でわれわれを収縮させているといったが、まさしく、選択しなかった膨大な平行世界がこの世界の構成要素として増え続け、圧迫し、量子の波動を収縮させて固体にしているのではないか。量子を意識によって収縮とは、意識しなかった、選択しなかった多世界の増大だった。つまり、コペンハーゲン解釈と多世界解釈の折衷案である。

 
   クレイジートーク


   今日はラッキーだ。落ちているお金をひろったのではない。仕事がどうやら早く終わりそうだ。あくまでも予測である。未定は確定だ。一寸先は闇、もしかしたら忍者がケーキ食ってるかもしれない。闇だから見えない。昨日とちがって暖かい日差しに包まれ、なんだかぽかぽか陽気で顔がみんなほころんでいる。そういうことで、ほころびながら額に汗して、殺伐な現場で仕事に精をだす。クレイジーはここで終わろう。


**哲風呂**

判断停止と否定弁証法についてである。右手を上げてみた。もしかしたら左手をあげていたかもしれない。左手にすればよかったと後悔する。選択しなかった世界がたくさんある。選択したなかったものによって今すんでいる世界の形があるのではないか。しかも、星型の図形の欠けている箇所のようにそれは無い以上にあるものだ。


   哲学者フッサールの判断停止についてである。いろんなことを判断している。やまちゃんは人間だとか、バナナはフルーツだとか。ところが、これらの判断はいささか怪しい。間違っているかもしれないと疑ってみる。こうやって、テコでも動かない真理を探す。すると、判断をすべて停止しても、最後に残るものがあることに気がつく。たしかに、鏡で見える自分の姿も怪しいし、性格だってそうだ。最後の残余物、それが純粋な私、純粋自我だという。


   次の話はアドルノの否定弁証法についてである。かってヘーゲルは肯定弁証法をやっていた。このバナナはこのバナナを否定するあらゆるもの、潜水艦、りんご、以下略。これらをさらに否定して、このバナナにもどってきて万事終了だ。否定の否定は肯定である。すると、もうバナナであることに満足して何もおきない。そうでなく、世の中は動いているし、活動している。否定の否定の否定は否定だという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   二次元でも三次元でもよいが、時間を含んでいるこの世界、図形やオブジェがある。星型の図形は欠けているところがあるから形になっている。立体物でも、たとえば、木彫りの彫刻、削って、欠けをつくって形になる。欠けているところは時間の流れのない二次元、三次元では永遠にその形を成立させるものになる。さて、このわれわれがいる世界は時間の流れがあるので、四次元時空だ。ひょっとしたら左手あげていたかもという別の選択しなかった四次元時空、つまりは平行世界が欠けになって、この世界の形をつくる。そして、当然、その欠けである選択されなかった世界は永遠である。すべてを削って最後にのこる純粋自我、否定のきわみであらわれる営み、これらは永遠の欠けであり、無いことがある以上にあるようなものになっている。


   クレイジートーク


   南千住の現場で、超きつかった。頭痛がするほどだ。久々にこんな現場にきてしまった。走りどうしでぼ〜っとしている。軽くボケった。太陽が見えないということはもうかなり遅い時間なのだろう。こうしちゃいられない。これから家に帰るのだが、方位磁針と帰巣本能で自分んちを探すことにするので、クレイジー終わりだ。

**哲風呂**


統覚、最善世界観、そして、神の存在証明についてである。いいことしてしまった。倒れているアリを助けてしまう。だれかがきっと見ている。神様が見てくれているかもしれない。なにもない宇宙を存在させるために神様はすべてを見て、われわれは意味、価値を作るためにスーパーでニンジンを見る。

   統覚についてである。私が私であるための本体みたいなものだ。自己意識でもある。デカルトは統覚がないと知覚、なにかを感じることもないという。おれはいるんだ、というのがって、はじめて見たり触ったり知覚がある。ところが、ライプニッツは統覚のない知覚もあるよ、という。植物がそうである。統覚は不必要な情報は省いてざっくりと認識する。やまちゃんのジーパンのしわのひとつひとつは無視する。ところが、統覚がないとすべて細かい知覚も取り込む。微小知覚である。


   哲学者カントは経験的統覚と根源的統覚にわける。性格や見た目、経験できちゃう私が経験的統覚。ところが、もっと奥底には人類や世界の私、みんな共通の私がいる。これが根源的統覚であり、だからこそ、目の前の犬のふんをなにかの物体があると認識できる。客観的になにかがあるとは、みんな共通の私が見ているからだ。

   次の話はライプニッツの最善世界観についてである。ひょっとしたら私が大リーガーだった世界があったかもしれない。無数の可能世界の中でもっとも最善なものを神様が選んだという。いわゆる楽観主義である。


   最後に神の存在証明についてである。カントの分け方に習うのが多い。神様の目的論的証明とは、この世界はあまりに緻密でよくできている。きっと神様がつくったのであろう、というもの。二つ目が神様の本体論的証明。空き缶だって存在しているが、強烈なパワーで存在しているもの、存在そのものっていうのが神様だというもの。三つ目が神様の宇宙論的証明だ。こうやってここであぐらのような正座をしているのは、なにかの原因がある。プロレスラーに関節技をかけら手いるのが原因。なんでプロレスしているかといえば、また原因がある。こうやって、原因の原因をさかのぼるときっと宇宙が誕生するときに神様が一撃を加えたからだという。四つ目が神様の道徳論的証明だ。いいことしても幸せになれないなんておかしい。神様が見てくれないと困る、というカントの採用した考えである。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   意識体は選択する。意識したり、活動したり、認識するときは、選択するのだが、同時に選択しなかった並行世界を大量に生産する。これが宇宙を定常としたときに爆縮をうむ。宇宙膨張と解してもよい。この力が量子の波動を収縮し、粒子にする。すべての生命体の意識、これが量子の収縮になり、一なる物理宇宙、粒子性をつくる。いわば、根源的統覚の働きであり、これが神による波動の粒子化と等しいのではないか。さらに、個々の生命が粒子化された世界をさらに収縮させ、意味を生み出す。無から有を神が生じさせ、生命の意識はさらに意味をうむ。無は波動であり、有は粒子である。波動から粒子をうみ、さらに価値を作る。


   クレイジートーク


  現場は草加市。最近疲れがマックスに達し、やつれ気味。なんと、今日の現場は住民の苦情で現着中止になった。これで一息いれられる。さて、これから何をするのか。自問自答を繰り返す。折り紙でもやって一日を過ごそうか、はたまた、昼寝三昧も悪くない。ということで、本日はクレイジーを終えてバケーションである。

**哲風呂**

気分、根源的受容性、そして、唯物論についてである。宇宙とは人間、人間は宇宙ではないか。人間だけでなく、生きとし生けるもの、平面ガエルも立体ガエルも皆、宇宙ではないのか。だからこそ、尊いのだ。内なるこみ上げてくる感情、それが自分の宇宙に住まうものたちの営みである。

  哲学者ハイデガーの気分についてである。西洋哲学は理屈っぽく、論理やロゴスが主人公だった。憤る感情、うれしさ、気分などは脇役のようなものだった。ところが、現代哲学ではハイデガーがこの感情や気分にスポットライトをあてたのだ。私と世界、宇宙ははっきりわけれていない。いわゆる、主観と客観の戦いなんかではない。世界の中でどっぷりつかっている。世界内存在だという。宇宙、世界の膨大な流れに押し出されて、私がうまれ、いまの私の状況がある。世界になげだされた、意志ではどうすることもできない、これが気分だという。

 
  アンリの根源的受容性についてである。ふつうによっしゃっといいながら漬物石をもちあげるばあさん。自発的な意志である。自発的になんでもできるが、感情だけは全面的にもらったもの、与えられたものだ。というのも、感情は操作できない。もらったといっても、ふつうはプレゼントは自分の外側からいただく。自分の内側から全面的にもらうもの、究極の受身であり、根源的受容性、これが感情であり、力だという。


   最後に唯物論についてである。マルクスである。デカルトは科学的な世界をつくった。科学者の目は宇宙の外にあって、そこから冷静に眺める。宇宙の外に身をおいてみる、科学的唯物論を俗流唯物論と名づけた。そして、本当の唯物論は人間をも含めた唯物論だという。


   まとめ

   存在の科学


   異次元理論


  私は定食Aを食べる。Bをたべた世界は多世界に分岐。選択しなかった世界がどんどん増えてくる。これはZPFの無の点や、超ひも理論のひもにカビラヤウ多様体として巻き込まれている。高次元、余剰次元が巻き込まれている。このひもや点が意識である。この一なる宇宙は神様が意識することで、波動は収縮し粒子になり、この宇宙の個的生命がさらに収縮し意味をうむ。同じように私の意識も宇宙だ。私は私を意識し、私自身の宇宙を収縮し、無の波動から有の粒子を作る。そして、私の宇宙のなかの個的生命がさらに収縮させて意味づけるのだが、これが私にはどうすることもできない、気分であり、感情となる。意識は宇宙で、宇宙は意識という唯物論である。


   クレイジートーク   


   現場は雨天中止。髪を切りに久々に実家。世間話してきた。それにしても、おいらは髪の毛の量が多いらしい。ちょっときっただけで、軽く三人前のヘアーだ。しかも、真っ黒くろすけ。真っ黒白すけの意味はわかね〜っといわれてしまうが、赤毛のしろすけもまた理解しがたい大問題に発展しかねないので、クレイジーをここで終わる。


**哲風呂**

絶対精神とディルタイの解釈学的循環についてである。神とはなにか。神の子、十字架、復活、といろんな単語を並べてみる。すると、みんなが宇宙で、自分の中に自分がいるんだと気がついたとき、これらのキーワードがみるみるつながっていくことがわかる。


    ヘーゲルの絶対精神についてである。カント哲学ではこえられなかった物自体。りんごのうわっつらの現象はわかるけど、種がいくつはいっているか、どこからきたのか、りんご自体、物自体がわからない。私と物自体を合体しちゃえ、という精神現象学である。

  おれっているんだと気がつく。自己知という。私は私にきがつく、人間の自己知。それと宇宙さんが自分が宇宙だと気がつく、宇宙の自己知。この二つの自己知が重なるときがある。

  赤くてすっぱい、という感覚。これらが集まり、りんごっていう知覚。さらに、りんごは私の外に物理的にあるじゃん、とイメージを投げつけるのが悟性。そして、りんごは俺のイメージを外になげつけた、おれがいるんだと自己意識。ものかげからこっちを診ている家政婦、おなじ自己意識があるだろうと、他人。主観と客観が合体して、ついには宇宙、世界の精神へとたどり着く。


   次の話はディルタイの解釈学的循環についてである。久々に辞典を開く。人間って調べると、哺乳類でひとだという。人を調べると人間だという。ぐるぐると堂々巡り、循環だ。これを水平次元の解釈学的循環という。これにたいして、聳え立つ山を感じる、体験する。山の全体イメージ、すなわち表現。そして、山を理解。こんな理解のうえでまた山を体験。体験、表現、理解、の堂々巡りなのだが、これは常に新鮮な新しいものが湯水のごとくあふれでるという。


   まとめ

  
  存在の科学


   異次元理論

  

   右手をあげたが、左手をあげた私の世界は選択されなかった。別平行世界として分岐した。どこにいったかというと、高次元、余剰次元として、無の点であるZPFか、はたまた、超ひも理論のひもにコンパクトに収納される。ひもやZPFこそ生命の意識だといった。だから、選択されなかった世界、宇宙が他者の意識だ。そして、この宇宙はだれかの意識である。宇宙さんは自分を意識し、この宇宙の無、波動を収縮させて有、粒子を作り出す。そして、この宇宙にいる生命のあらゆる意識が有をさらに収縮させて意味、価値をつくる。これがこの宇宙さんにとっての感情となる。この宇宙さんはこの宇宙のなかに姿を現す。イエス様である。父なる神の子、イエスである。三位一体もここに証明される。十字架による原罪、宇宙さんの自己責任であり、永遠の魂と復活は宇宙さんの自己意識の完成だ。私もあなたも宇宙であり、自己意識により、おのが宇宙を収縮させ、おのが宇宙のなかにおのれを招来させる。

 
   クレイジートーク


   現場は西新橋。東京の中心にいる。ここから川崎のほうへ走るらしい。道がよくわからなくてあわてふためき、ちょっとライトな気分でムンクの叫び風な笑みを浮かべる。スマイル、スマイル、という掛け声で朝、走っている柔道部。ファイトっていう掛け声ではななかった。

**哲風呂**


  真理整合説、そして、パトナムの私と世界の共同戦線についてである。ある種の栄養が足りていない。そんなとき、ビタミンCが空中を浮遊していてたまたま口から吸い込む。必要なもの、不足しているものは近づいてくる。実際に手を動かしてレモンをかじるのではなく、心の栄養もまた時空を超えて与えられ、与える。意識、心と行動のちがいについてである。


  真理整合説についてである。心の内側に外の宇宙にあるあらゆるものの配列をきちんと思い描く。これが真理対応説、模写説である。ところが、心と宇宙なんていうのははっきりした仕切りがない。全部まぜてしまって、全体として矛盾しないように帳尻あわせ、だというのが真理整合説だ。


   次の話はパトナムの私と世界の共同戦線についてである。パトナムは当初、心のなかにいかに世界をイメージできるかが真理探究だとおもっていた。心のなかはイメージだから、内在的観念論。外の世界はまったくもって実在してるから、外在的実在論。ところが、心と世界、宇宙の仕切りを取り外す。弁当の仕切りをとったら混ぜご飯、おかずとごはんが混ざるではないか。私も世界もみんな内側でしかも実在だ。すると、私と世界は共同戦線で私と世界を互いに作っているということになる。


    まとめ

   存在の科学


   異次元理論



    遠隔実験が行われた。緊張するタイプの被験者と、緊張することが少ない被験者にわける。緊張タイプに遠隔でリラックスしなさい、という念を送る。すると、被験者の皮膚の電気信号、うそ発見器の記録から緊張が大きく和らぐという。しかも、緊張しないタイプに念を送ってもそれほど成果がないという。つまり、不足しているもの、欲しているものは時空を超えて影響を受けやすいのである。

   意識とは超ひもやZPFの点だといった。点やひもにコンパクトに高次元、余剰次元がカラビヤウ空間として織り込まれているのだ。すると、自分のなかには五次元、しかも、そこには四次元時空、平行時空が無数にある。自己意識によって、おのが並行宇宙のどれかを収縮させる。並行宇宙はこの宇宙の過去や未来の世界もある。時空、次元を超えて影響を与えるのである。そもそも、意識活動が脳などの神経系の電気パルスならば、電子や光の波動が三次元ブレーンを移動する現象。この意識、観念がブレーンからはみ出して、別の四次元時空にいけば、重力になる。存在に影響しているのである。不足しているもの、穴があればそれはいずれうまる。時空を超えて、意識活動はそんな不足の補いあう関係によって営まれる。ちなみに、意識のなかの五次元、そのなかのこの自分がいる宇宙にアクセスし、収縮させるとなにがおこるか。これは実際に目の前にあるものを動かしたりする行動、接触することでの力学的伝達、局在的な働きになるのだ。意識は非局在的に壮大な影響力を与えているのだ。


   クレイジートーク


  土曜日で仕事の予定が雨で中止。いままさに春巻きをほおばった直後だ。ひとにはいえない恥ずかしいことかもしれないが、春巻き好きなのである。しかも、皮が硬い、ぱりぱりした武道家のような春巻きもいいが、ふにゃふにゃしているやるきなさそうな春巻きも好きだ。春巻きに国境も、肌色もないということを豪語したところで、クレイジーは終了だ。



posted by モノイイ ジョーカー at 16:06| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月08日

仙人新聞 2012・05・08

仙人新聞 2012・05・08



なんと七日分ww



***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/22276926

http://www.ustream.tv/recorded/22301513

http://www.ustream.tv/recorded/22331118

http://www.ustream.tv/recorded/22358824

http://www.ustream.tv/recorded/22382727

http://www.ustream.tv/recorded/22411785

http://www.ustream.tv/recorded/22432119









***宇宙mixエクリチュール版***



**哲風呂**

不在の他者、イリヤと不在のピエールについてである。部屋でお茶を飲んで、バレリーナのようにぐるっと回転してから、おならだけを残して部屋を後にする。私もだれもいない部屋は今どうなっているのか。ほんとうにちゃぶ台が存在しているのだろうか。もしかしたらただの情報しかないのか。私の不在、そこに私の本体があるというお話である。


   哲学者レヴィナスの不在の他者、イリヤについてである。私は一人称、あなたは二人称、かれらは三人称だ。かれらが丘の上でたむろしている。かれらに対面したとき、あなたという二人称になる。三人称のかれらには会えない、視界の外だ。しかも、主語のないもの、存在者の無いそれ自体が無人称だという。この無人称のかれら、これがイリヤである。だれだかわからないが、見えないうえに圧迫感をかんじちゃう。いまここにいない不在のものたちのざわめきが聞こえる。こうなったら位相転換だと叫ぶ。位相転換とは波において、山を谷、谷を山にすること。すると、大逆転で私っていう主体性がどかーんとあらわれるにちがいない。ところが、これに失敗し、無人称のイリヤに強迫され続けるという。

  次の話はサルトルのいうピエールの不在についてである。この喫茶店に友人のピエールがいないという。もしいるなら、いろんな視点から見ることができるが、見ることができない始点とか、全部から眺められない。ところが、ピエールがいないときは、なんとピエールを瞬時に全体的に知ることができる。概念っぽくもあり、視覚的イメージでもできる。つまり、より想像のほうが現実味があるのだ。これだと想像してればいいという生活差し障りありすぎるので、想像は現実じゃないんだよ、という非現実化の働きが生まれるという。ピエールは自宅の椅子に座っている。その椅子、壁、天井、ポケット、そのピエールのいる世界が私自身になってピエールを見ているのである。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論

   
   部屋がでたとき、今、だれもいない、私もいない不在の部屋はどうなっているのか。マトリクスのように情報、データしかないのか。私は部屋の内部から部屋を感じる。ビルが建っている。ビルの裏側から感じることで、ビルを三次元立体的に認識できる。つまり、空間的には私の本体はここにいるのではなく、あそこにいるのだ。肉体が不在のあそこにいる。


   時間的にもまた、今この瞬間にいるのではない。今にいるのはからだである。いつかから今を見ている。過去や未来、不在の時に私の本体があって、そこから私の肉を見る。これが自己意識ではないか。


   クレイジートーク


   現場は豊島区高松。池袋が近い。国民の祝日に仕事なのだが、池袋は若者たちでにぎわう。仲間にいれてほしいが、この指とまれっとだれかが叫んだら、おもわず、かれの足の指にとまって、水虫との領地争いを始めちゃうかもしれない。そろそろ、時間だ。クレイジーを終了し、現場にご〜である。

**哲風呂**

人間的自由の本質と善悪の彼岸についてである。思いが大切か、はたまた、行為が大切なのか。心がなくて、またはよこしまな心でいいことしちゃう。世界制覇たくらみながら募金活動だ。見えない心はどこにあるのか。そして、自分の役どころ、キャスティングはどうやって決まっているのか。善人、悪人、キャスティングする監督はおおいなる世界である自分の心ではないのか。


   シェリングの人間的自由の本質、無底についてである。万物は神様がおつくりになったという。神様は自分の姿に似せて人間をつくる。それなのになんで人間は悪いことをするのか。小学校のとき、人差し指でかんちょうをしまくった。その手で友人の肩を叩き、ふりむきざま頬を直撃。神様はより創造的に拡大しようという力と自分でありつづけようとする力が調和しているという。ところが、人間はこれを分離させ、創造を善、自分でありつづけるのを悪とした。しかも、自由に選択できるという。これら善悪をひっくるめてすべてを飲み込む混沌、どろどろ善悪スープ、これが底なしの無底である。

  
   次の話はニーチェの善悪の彼岸についてである。自分のとっての善と他人の善はちがう。というか、ひとの目になれないし、あたまも借りれない。正直、見ているもの、かいでいるものもちがう。同じものを共有できずに、絶対的にみんなにとっていっしょという価値なんてないという。だから、善悪の絶対的な基準がない。無価値の時代、ニヒリズムがやってきた。すると、もう自分から善悪を創造するしかない、と言うのだ。道徳は現象ではなく、解釈だという。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   reg実験というものがある。ランダム発生器を開発し、表と裏、正と負をランダムに出力。回数をすれば、限りなく平均値の50パーセントの確率になるはずだ。ところが、ある男性被験者に念じてもらったところ、負の値ばかり、ある女性は正をだしたという。こういった正ばかり出すものたちをたくさんあつめて実験をしたら正に極端に偏ったという。つまり、ひとの念じる未知の力でランダム、カオスに秩序を与えるという。

  さて、前回お話したが、友人Aくんが不在のとき、友人Aくんを想像するのだが、想像は概念的でもあり、感覚的でもある。実際にあるよりもリアリティがあるという。どこからみたAくんではなくすべてから見たAくんだ。だから、不在のAくんがいまいるであろう部屋の壁、机、靴下に私はなっている。私はAくんのとりまく世界になってAくんの全体を瞬時に見ている。

  私のからだはここにあるが、心はあそこ、壁の向こうの見えないところにあるといった。私をとりまく見えない状況は私自身の心が作り出したもの。しかも、私を善人にするか、悪人にするかというキャスティングすら自分が超無意識下においてやっている。reg実験のように正負は平均になる。善悪も平均にすべく自分をキャスティングする。善も悪も、帳尻あわせの平均化工作であり、しかも、おのれが世界になってやっていることかもしれない。



   クレイジートーク


   今日は厄払いにお寺にいってくる。とにかく、はじめてなもので緊張のため顔がこわばっている。一体、どんなことをするのか。不安のあまり逃げ出しそうになるが、あの勇敢なドンキホーテや勇ましいジャンヌダルクを思い起こし、自分と重ね合わせて奮起したところだ。とにかく、そろそろいってきます〜、ってなことでクレイジーをいつものように自然消滅的に終了する。

**哲風呂**

ヴィトゲンシュタインの思想とディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。なんだか窮屈なのときがある。靴のサイズがあわなくてきつい、しかも、満員電車でポマード臭で忍耐強く耐えているときなど。とにかく、あらゆる枠を取っ払ってしまいたいとおもうのだが、枠がないとなにもない、なんでもない世界しなくなる。なんにもない、なんでもない世界についてである。


  ヴィトゲンシュタインの思想についてである。われわれがしゃべっている日常言語。単語には意味があるし、文法、ルールもある。生活のふつうの流れから自然発生したといのだ。だから、なんで茶碗って呼ぶのか、そういうルールだからである。それはただ根拠もなくそこにあるだけ、という。こういった考えが宗教に適用され、ヴィトゲンシュタインフェディズムがうまれる。宗教儀礼、宗教的な言葉、どんなにでたらめに見えようとも、そのなかでのルールがあるのだから意味が生まれる。

   次の話はディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。自然、宇宙の法則がある。物質の法則だ。それと、心もまた法則がありそうだ。よし、腕をあげて天井さわっちゃえ、と意志する。すると、からだがうごき天井さわっちゃう。心が原因で、物体に影響あたえたので、天井へこんだのは結果。心とからだをあわせて宇宙の全部。ということは、心と物体の共通する法則があるのかとあたまをかかえて考えてみる。そんなものがない。よって、宇宙とは法則がないなにか一なるもの、ということで、非法則論的一元論である。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論

   

    宗教的なものは心の法則を説いているのかもしれない。自然科学は物体の法則だ。からだも物質だが、行為は法律というルールがある。いろんな枠組み、ジャンルがあって、そこにいろんな意味がある。もしも、心と物体、すべての枠、仕切りをはずしたらどうなるのか。そこにはなにもない、なんでもない無意味な世界があるのではないか。心と物質の二元論的な枠は現代の世界、そういうルール、枠での意味がうまれる。古代はわれわれがいうデカルト的な二元論、心と体、物体というわけかたではなく、いまとはずれている。だから、われわれには感じられないもの、できない能力、知りえない意味が豊富にある。われわれはまた、今後、この仕切り板を動かし、新たな世界に移行するのかもしれない。


 
   クレイジートーク


   現場は南長崎だ。昨日は厄払いしてきた。厳格な雰囲気のなかでお経がとなえられ、瞑想してみた。まあ、はじめての体験だった。その後は甘いもの、あぶらっこいものを求めて参道で買い物。結構、腹がみたされた。日曜日のお気楽モードも終わり、月曜日を向かえ、スイッチを切り替えるのがたいへんだ。ということでクレイジーもほどほどに労働の喜びでも味わうことにしよう。


**哲風呂**


内在の哲学と自他未分化についてである。宇宙はビッグバンではじまったという。その前にはなにがあったのか。何も無いゆらぎ。闇から突如光だ。藪から棒ではない。世の中は似ている構造でできている。そういえば、あの子の満面な笑みはたんぽぽそっくりではないか。フラクタルとビッグバン、そして、人間がそもそもビッグバンしまくって活動しているという考えにいたったのである。


   哲学者アンリの内在の哲学についてである。ハイデガーは超越の哲学だ。辺りを見渡すといろんなものがある。鉄塔、電柱、むこうには山。これらは存在者なのだが、存在の光に照らされている。だれが照らしているのか。前期ハイデガーは、自分のよいしょという自発性だと考える。鉄塔にしがみつくキングコングに意識集中し、前のめり気味にのめりこむ。あたかも、自分から自分がぬけだしてしまいそうなもの。これが超越である。脱皮のようだから、脱自という。このとき、自分が分裂しちゃいそうになり、自分の抜け殻、自分の存在がかすかにみえてしまう。超越によって、存在そのものが開かれる。ここに存在の光があって、はじねていろんな存在者が照らされる。

   ところが、この超越は鉄塔を見えるようにさせているが、超越そのものが見えるのは見えないなにかの力による。超越は超越によって引き起こされるのか。超越の超越の超越というように、無限に続いちゃう。これを食い止めるのがアンリがいう超越の反意語である内在だ。自発的じゃなくて、まったくもって受身、受動的に受け取るなにか。意識の奥底からにじみ出てくる感情だ。この感情をうけとって、力となり、超越を引き起こす。

  次の話は自他未分化についてである。自分も他人も区別がない状態。メルロポンティはおぎゃっとうまれたあかちゃんは私、あなた、などの人称性がないという。前人称という。そして、物心がついて、だんだん人称がうまれる。そして、そのときに同じ肉としてつながっていたので相手の気持ちがわかるのだ。レヴィナスは言葉、論理、秩序が西洋哲学の柱だったけど、そもそも、ロゴスの土台はなにかと問う。ロゴスはデタラメ、無秩序、混沌のうえにあるという。これがアナルシーである。アナルシーはもはや自分も他人もあったものじゃない。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    宇宙はフラクタルである。全体が部分と同じ構造。ミクロの世界、原子核の周りに電子まわる。マクロでは太陽の周りを惑星がまわる。空間だけでなく、時間的にもフラクタルなのではないのか。

  宇宙が誕生する前はゆらぎだった。無の世界だが、無と確定してしまうと有だ。よって、無いような有るような状態。粒子、反粒子の対発生と対消滅が確率的におきている。発生しては消える。諸行無常である。そして、そのレアな確率で大爆発がおきてビッグバン。宇宙は膨張をはじめ、光の世界に満たされる。

  人間もまた、生まれるときはビッグバンと同じ。というか、今この瞬間、なにかを活動し、実践するときもビッグバンではないのか。無意識、超無意識の混沌、揺らぎが最初にある。そして、ビッグバンがおきて意志がうまれ、手をあげるぞ、という意志で実践する。刻一刻がビッグバンなのである。アンリの内在、感情、力、これがビッグバンなのではないか。


   クレイジートーク


   現場は西日暮里のはずだったが、雨で中止の連絡が入る。うれしいのやら、残念やら。どっちかというと、休養バリバリとりたかったのでうれしさ100倍である。すると、今日はなにをするか計画からはじめないといけない。荒野のサボテンの水であげにいくか、荒野まではかなり遠いので、とりあえず、お庭の雑草にお水でもあげるか。エコロジーな一日にしたいが、万が一、超合金風なロボットに声をかけられても、一心不乱に象のじょうろで水をやる。ということで、庭に久々にでてみるのでクレイジーはここで終了だ。

**哲風呂**

グッドマンの世界制作の方法と日常世界についてである。異次元にレベルアップする。何が変わるかと思いきや、意外とふつうだったりする。今この瞬間が奇跡の連続、奇跡の連続がふつうとはいかに。風で木っ端が動いた。ダーっと叫びながら岩石を動かす。このふたつに大差なしなのだろうか。意志と風でうごく木っ端が同じ。すべてがふつうというお話である。


   ネルソングッドマンの世界制作の方法についてである。何が正常で異常なのか。ふんどし一丁で小走りは異常にみえる。文化の違い、時代のちがいでしかない。科学はプロトコルという方法、いわゆる観察して驚きもせず、正常、異常関係なしに記述する。かえるの解剖でなかからおもちゃがでてきても記録だ。鉄に電気を流したら流れた。ほかの鉄もきっと伝導体にちがいない、と戒律的に目はまじめに語る。部屋のなかに三人の男、だから、三人の男が部屋にいる、とこれはただ偶然でしかない。偶然と戒律、この仕切りはあいまいだ。いろんなジャンル、バリエーションの世界はをひとは作っている。しかも、それらは互いに論理的に矛盾しちゃう。正常、異常、偶然、戒律、はそのときの状況次第だ。

  次の話はフッサールの日常生活についてである。科学的なもののみかたを自然主義的態度。すべては疑わしいけど、自分だけはいるんだよ、という現象学的態度。そして、野菜は分子でできているのではなく、ふつうに食べ物じゃん、という自然的態度。日常生活の世界はいまや分子、原子の科学的な理論的なもののうえにいる。ほんとうは生活のために、測量をはじめ、科学が進歩だ。生活が最初にあって、科学ではないか。それが本末転倒、ケツがあたまになっているという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    宇宙は定常状態。われわれを含めた万物が加速度的に収縮、爆縮しているから、宇宙膨張にみえる。原子核のまわりの電子は確率的に同時存在。電子雲である。この雲は可能性であり、未来や過去の時間そのもの。小さな世界は時間と空間がまざりあっている。どんどん小さくなっているのだから、肉体もまた量子論的にふるまい、しかも、意識はもともと量子で時空がまざっていたが、四次元時空も凝縮されて五次元の世界に入る。次元上昇であるが、じつに生活にかんしてはこれといってかわらないであろう。


   regの実験。念によって乱数発生、カオスを秩序化、乱数をかたよらせたという。乱数発生するロボットを開発。乱数によってロボットが動く。でたらめだが、平均値がある。このロボットを刷り込み現象によって、ひよこたちに親と思いこませる。ひよこはロボットのあとをついていく。乱数で動いているはずなのに、ひよこをかばうように動き始めたという。ひよこの念が乱数を秩序化した。まるで親鳥のような行動をロボットはとったのである。


   つまり、枯葉が風でランダムに動くこと、雲がランダムに形がかわること。人間の意志で岩石を動かすことはじつに乱数、カオスが互いに干渉しあって秩序化しているだけのことで、本質的には同じことではないか。


   クレイジートーク


   現場は豊島区高松。今日は大型ダンプといっしょに仕事だ。いままさに大型ダンプとすれ違う。圧倒的な迫力、ガンダムがやってきた感がある。地球防衛軍登場っていう感じである。とにかく、最近、ちょっとおどろいただけで腰抜かす。犬がしゃべって腰抜かす、あさり、しじみが空を飛んだだけで、腰抜けになった、ということ、クレイジーをいきなりおわって腰を抜かすことにしよう。

**哲風呂**


物象化と関係主義についてである。理科の実験でビーカーに液体しれたらおならの匂いがした。りかちゃん人形の実験ではない。化学反応を起こすのだが、われわれが草履を認識するとき、私と草履の異次元的な化学結合ではないのか、というお話をしたい。

   マルクスの物象化についてである。うっかりかたまりとおもってしまう。ありの行列がなんだか細長い黒い絨毯と勘違い。ほんとは関係なのに、かたまりとみなしたり、関係なのに、そいつにくっついている性質と思い違えてしまう。これが物化。物象化である。チーム名、春菊。春菊チームのなかにはいろんなメンバーがいて、人間関係だってあるのだが、春菊でひとくくりだ。商品の価格、りんご100円。価格は商品にくっついている性質におもえる。ところが、労働力、人間の複雑な関係がうみだしたもの。そもそも、人間だって、網膜に光あたって電気信号になって云々。細胞間のチームワーク、やまちゃんとひとくくりしているが、これはうまれたときから決まっていることであり、先天的な仮象だからOKだという。


   次の話は関係主義である。大筋は同じことだが、かたまり、実体が最初にあるのではなく、関係が最初にあるというもの。いろんなひとと友情、恋愛、親子関係があり、そこから自分っていう実体がうまれる。最初に自分というかたまりがあるのではない。



    まとめ


  存在の科学


   異次元理論

   原子は原子核を中心に、電子がその周りを確率論的に雲となって存在。まさしく、並行宇宙ではないか。量子論のこの考えは最近のブレーン理論につながる。異次元、高次元が小さくまきこまれているというもの。五次元には四次元時空が漂う、並行世界がただよう。そんな五次元が小さいのだ。どれくらいの大きさで何次元まであるのかはエネルギーの損失計算で求める。リニアコライダーという衝突実験である。もしかしたら、原子のサイズなのではないのか。だから、電子は並行世界的に雲である。


    regの装置はランダム、乱数を発生させる。これに意識的に念じて裏と表の確率をかたよらせる。ところが、意識的にやってみるとそれほどのかたよりがなかった。裏表ではなく、夢のような宗教的なシンボルのような絵をつかって実験したところ顕著なかたよりがあったという。つまり、無意識化でregの物理的な装置に影響与えたのだ。物体と意識の根底に共通の無意識領野があるのではないか。無の点、ZPFである。このZPFの自己組織化が私とマシンを作っている。


  原子があつまって分子をつくる。原子のなかの電子、量子はい次元、高次元だった。もちろん、時空を越えた影響力である非局在性もある。だから、私の意識という原子がマシンの原子と異次元経由でむすばれて、異次元的な分子構造になって、マシンに影響、マシンを認識だ。つまり、認識や実践というのは私の意識と物体との異次元上の分子生成、化学反応なのではないのか。


   クレイジートーク


   現場は長崎。それにしてもこの仕事は孤独だ。ひとりで孤高のひとっていう感じで、陸の孤島にてPCに向かい、待機中だ。まあ、小さいころから孤独になれていた。家ではもっぱら人形をつかってひとり遊び。どかーん、ぴゅ〜、びびびっと効果音を炸裂させて迫力ある壮大なスケールなおもちゃひとりあそびだ。さてと、ちょっと気持ちを落ち着かせてから現場に顔を出そう。ひとりごっこしながら現場に近づく危ないナイスガイに変身するので、クレイジーはここで終わる。

**哲風呂**

生の存在と夢についてである。豆腐を箸でほぐし、口に運ぶ。豆腐という物体と私の心。ここから私の心で、ここから向こうが豆腐だ。そんな心と物との中間地帯。物でも心でもない不思議なグレーゾーン。物と心のあいだにある夢の世界についてである。

   哲学者メルロポンティ、生の存在、についてである。まず、フッサールの大地の思想、コペルニクスの転覆について話す。かって、カントはコペルニクス的転回を主張。地球が動いてる、とそれはもう人類を驚かせたコペルニクス。自分が動いている、自分がやっているんだということに気がつく。鼻くそが転がっている。鼻くそという対象と、これを意識する私。鼻くそがあったから、私それを認識するというのはふつうだ。そうではなく、鼻くそと判断し、知覚したのは私自身だというのだ。フッサール、こんどはこんなコペルニクスを転覆させる。ふつうに鼻くそ、岩石ではないし、食い物ではない、という日常生活がある。科学だって、現象学だって、すべては当たり前の大地のうえでやっている。大地、日常は動かない。

 メルロポンティはここから生の存在、もしくは野生の存在を主張。あっ人間だ、と判断し、お菓子があると判断。すべては同じ肉であり、私とお菓子は肉で一体、亀裂しかない。判断し、加工する前の生のもの。ただそれはそこにある肉、私でも物体でもない加工以前の生の素材について考えたのだ。


   次の話は夢についてである。まずはフロイト。過去の精神的ストレスになる嫌な記憶は無意識の世界に詰め込まれる。起きているときは、これを抑圧するからでてこない。寝ているときはリラックスしているので抑圧が緩み、でてくる。ただ、検閲がかかって形を変えて夢に現れるという。

  実際の生活は歴史がある。昨日の仕事の続きを今日やることにする。ところが、夢には歴史がなく、生活史もないというのがふつう。ウスラーは夢にも生活史があるというのだ。


  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


   regの実験。乱数発生器の前で被験者は意識的に念じて白と黒のどちらかの確率を増やす。それほど偏らないという。ところが、白と黒ではなく、宗教的なモニュメントの絵を二枚使って試みると、顕著な偏りがうまれるという。つまり、視覚的、夢のような、無意識的なレベルで作用しているのではないかということだ。乱数発生器は物体、その大元は量子、ZPFである。いわば、物体の無意識だ。人間の超無意識も量子、ZPF。同じなのである。私の意識とマシンはむしろこZPFの自己組織化によって作られたのではないかすら思える。この無意識の領域、これに近いのが睡眠中の夢である。夢は高次元が巻き込まれているZPFの点から高次元、五次元に漂う並行宇宙の断片情報をつむぎだす。物体を意識したり、動かしたり、無意識的に作用するということは、この心と物体の中間領域に夢があることではないか。夢が心と物の中間で、二者をとりもつ。生の存在、未加工の野生というより、無の点、生の無が夢であり、すべての生地なのかもしれない。



   クレイジートーク


  現場は千住橋戸町。現場は超近いし、おまけにいつもより始まりの時間が遅い。いたれりつくせりで現場近くにいる。さまざな特典があるのだ。それでも、目つきはケンシロウだ。なぜなら、仕事に妥協なしとたまに考えてしまう必殺仕事人間だからである。さて、クレイジーを書いていたりという欲望に打ち勝ってそろそろ遅刻しちゃうので現場にいこう。






posted by モノイイ ジョーカー at 09:23| 東京 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

仙人新聞 2012・05・01

仙人新聞 2012・05・01



五日分です。もういつものパターンになりましたw


***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/22145246

http://www.ustream.tv/recorded/22169537

http://www.ustream.tv/recorded/22199022

http://www.ustream.tv/recorded/22235611

http://www.ustream.tv/recorded/22252842



***宇宙mixエクリチュール版***



**哲風呂**

ローティ、哲学と自然の鏡、そして、ヒューム哲学についてである。月とすっぽんだ、という。月とすっぽんの合体ロボット。藪から棒というが、藪に生息する主、それがこの棒だったりする。へそ曲がりに、右曲がりダンディな発言なのだが、一見違っていても、実は同じだったというものがほとんどだ。


   ローティ著、哲学と自然の鏡、についてである。むかしから哲学は、心をあたかも自然や宇宙をそのまま映し出す鏡のようにとらえていた。鏡といったら手鏡で水虫の皮をむいたり、にきびを移動したりするが、鏡が心で、いかに忠実に真実の世界をそこに映し出すかが問題になる。心と世界、しかも、映し出されたものが正しいか間違っているかの真偽、善悪もそうであるが、とにかく、なんでもかんでも二つにわける二元論になっちゃう。ローティはこんなにはっきり二つに分かれているのではなく、常に動いている、写真におさめてもぼやけてしまうように活動、実践的な世界だという。だから、これが絶対不動に真理、真偽もはっきりさせない。まちがっていたら申し訳ない、といいながら訂正。これが可謬主義だ。

   次の話はヒューム哲学についてである。ヒュームはすべては思い込みだという。たしか、便所には誰もいなくても便器のふたがそれ自体であるだろう、と推測。ところが、なんどとなくトイレに駆け込んで、そのときにあったので、習慣的に思い込んでいるだけだ。昨日と今日の自分は同じ自分だと思い込む。昨日、感じた知覚といままさに感じているもの。これらを束ねているものが私、私すら思いこみだ。

  色とかにおいの印象。これらがなんだか習慣的にあつまって、一本の木の知覚。そして、木の裏側を想像し、さらには記憶する。印象、感覚、知覚、記憶、これらははっきりわかれているのではなく、強弱の差。強烈なものが印象や感覚であり、うすまったのが記憶や想像だという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   色や形、においという感覚、そして、知覚があるが、これらはすべて空間中の無の点、ゼロポイントフィールドへのアクセスである。しかも、こういった知覚を記憶したり、想像したりするのも、他ならぬこのZPFへの接続だ。自分の周波数にあわせて、自分自身のロッカーから取り出すのが記憶。他者の記憶や状況が断片的に入り込んだのがひらめき、直感。別次元の空間点への非局在的な接続が想像、などのようにすべてが点への接続。

  人間は生活している。いろんなものを心にうつす。つまりは意識し、また、なにをしているのか、自覚、自己意識もある。ひとも生命もいない惑星。または、生命のいない場所。四元素なり、五行論的な世界ではある。地があり、水があり、火に相当するものがあり、風がある。水に反射して、青空がうつる。風で地形がかわる。湖面は自らの反射光をさらに反射させてきらめく。水面がうつしだすとはまさに意識ではないか。自分を反射させてきらめくのが自己意識。要するに、人間の日常的な営み、そっくりそのまま無生物界、だれもいない世界でも生活が営まれている。人類が進化し、別のことをしているのではない。生命のいないところでも同じような生活がある。

   クレイジートーク


  突然、遅い時間になって雨で中止の電話。うれしさ半分であるが、基本的にはうれしい。近くのコンビニが改装中につき、予期せぬ出来事にあたまがパニック。千葉県某所のコンビニの駐車場で入力中である。それにしても、なんでこんなところにいるのか。コンビニを探してさすらっていたら遠くまで来てしまった。迷子の子猫、もとい、迷える子ごりらにならぬようにヤニ購入したので帰宅することにしよう。てなわけでクレイジーをおしまいにする。

**哲風呂**


ホワイトヘッドのコスモロジーとヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。雷鳴轟き、驚きのあまり尻餅をつく。暗雲立ち込めどしゃぶり。水もしたたるいい金魚だ。金魚がびしょぬれ、というより、初期設定でずぶぬれだ。天気の変動は生命の無意識によるものではないのか。地球的変動は超無意識、つまりは宇宙の関与である。

 
  ホワイトヘッドのコスモロジーについてである。宇宙はこりかたまった事物でできているのではない、という。ちょっとした出来事、事象からできているという。ハンケツっといいながらズボンを下ろす。同じようなズボンの下ろし方はできない。たった一回の貴重な出来事、これが現実存在、アクチュアルエンティティだ。こんなハンケツという事象が宇宙に影響を与え、全宇宙の影響でハンケツという出来事が起きる。現実存在は宇宙を包み、宇宙は現実存在を包む。

 次の話はヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。それはそこにある、という。一体どういうことなのか。なんでここにニンジンがあるのか、根拠を言ってほしい。すべては無根拠だという。言語ゲーム、という発想。生活の流れのなかで自然に言語のルール、文法ができて、しかも、単語の意味もきまる。なんでパンツをパンツという表現なのか、そういうルールだから根拠がない。

  こんなヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を宗教運動に使う。宗教の儀式、はたしてあの動きになんの根拠があるのか。根拠はなく、ただそれはそこにあるだけであり、意味があるのだ。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    身の回りの天候、地域の天気、これらは生命の無意識によるものによる変動が影響しているのではないか。意識はからだを動かす。その下の無意識はからだの外の周囲の世界、いわゆる、状況を決定する。そして、無意識よりも深い超無意識、これは無の点であり、ZPFにおける非局在的な宇宙のつながり、だから、宇宙そのものへ影響与える。地球の地軸の傾き、地球的な規模の火山活動は宇宙に目を向けるべきである。太陽の黒点数と関係している。

  宇宙さんにとって、宇宙さんの無意識はわれわれの意識。だから、われわれの意識が宇宙さんの周囲の状況を決定だ。三次元ブレーン宇宙のまわりとは五次元ではないか。もはや、ここでは数学、自然科学の法則、論理法則が成立しない。ここでは根拠のない任意なルールの選択だ。ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、そのどちらの宇宙もありえる。四つの力の宇宙もあれば、二つの力の宇宙もある。任意の選択、無根拠のルールがある。


   クレイジートーク


   大雨予報につき、今日は休み。雷が遠くなっている。なんだか雨の日はちょっと憂鬱で、気持ちがドラキュラ伯爵のようだ。ナメクジになったようなそんな陰湿感を全面に出して、今日も一日、ナイスガイでいることにする。ナイス貝になりたい。羽の生えたナイス貝になりたいとお星様にお願いしたところで、クレイジーはフェードアウトする。


**哲風呂**

直感主義と論理主義についてである。世の中、理屈では割り切れない、とそろばんをはじいているときにつぶやく。計算できないことがある。理不尽、不条理なのだが、なんといってもこれには高次元の世界が関与しているからだといいたい。どこにでもある四次元ドア、これが計算不能にしている。

  ブラウワーの直感主義についてである。直感し、感じ取ったものは確実だ。数学でも、魚1匹、二匹、というような自然数からコツコツ積み重ねて計算だ。マイナス1匹とか、ルート3匹、虚数iなんていうのは直感できない。だから、とりわけ、無限は直感できないので嫌う。論理学の排中の原理を数学にもちこむこと反対。こちらにおられるのは水戸黄門か、水戸黄門以外のいずれかである、という排中律。水戸黄門と水戸黄門以外というのは、無限の宇宙のどれかといっているのだから、無限について語っている。だから、ブラウワーは排中律を好まない。

  これに反して、論理主義。こちらは直感できなくても、無理数や無限を大いに使ってしまおうというもの。数学に論理学をどっぷり適用だ。もちろん、排中の原理が大好きである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   綱渡りをしているひとは前後した移動できない、いわゆる、一元の直線の世界だ。ところが、足元を拡大すると、ロープをアリがぐるぐるとまわっている。アリにとっては二次元の平面である。高次元はなぜみえないのか。見えないのはえてして小さすぎるからである。一次元に二次元が丸め込まれているのだ。しかも、足元のどこにでも二次元がある。同じく、三次元に住むわれわれのどこにでも、小さすぎて見えない高次元がある。四次元の時間はおそらく、生命の意識であろう。意識とは時間的なものだ。空間中のすべてに生命の意識が充満している。五次元もまたすべてにある。

  さて、高次元、五次元にいってみると、三次元のブレーンがたくさんある。並行世界に分岐して無数に三次元宇宙が漂う。三次元がたくさんあるのだ。もう一度いうと、三次元のなかには高次元が無数にあり、高次元のなかに低次元が無数にある。互いにたくさんに見えている。


  私は一人、他者は無数にいる。私にとって、大衆はたくさんいる。大衆の一人のAさんだけをみると、Aさんのひとなり、性格、いろんな側面がみえてくる。量ではなく、質的な多様性がみえる。いずれにしても、たくさんのものがみえる。Aさんが私も含めた大衆をみると、量的にたくさん。私だけをみても、いろんな側面がみえる。互いが互いに無数にたくさんにみえるのである。


   クレイジートーク

  現場は西日暮里。いきなりだが、そろそろ監督さんに電話する時間だ。もしもし、私りかちゃん、と電話したら失礼きわまりないので、やめておこう。おそらく、年配だからである。年輩を敬う。さすがに、あのヒットポップ系のダンスが凄い、年の功である。あのジャーマンスープレックスもまた年の功だ。なんでもかんでも年の功だ、ということで、そろそろこのへんでクレイジー終えてモールス信号で監督に連絡を入れることにしよう。

**哲風呂**

無を無化する、そして、ヤスパースの実存開明についてである。われわれはどんどん小さくなっているのではないか。スモールイズビューティフル。点よりも小さくなって別世界になってしまう。時間が刻一刻加速されているという驚くべき理論、宇宙が加速度的に膨張しているということ、これらをトータルして今後の人類の行く末を考えたい。


  哲学者ハイデガー、無を無化する、についてである。無いものを無くしちゃう、とはどういうことか。私は無にサンドイッチされている具であり、ピクルスである。過去は私のいなかった棒大な歴史、未来は死である。無にふれるとき、皆目なにもみえないので不安で胸いっぱいだ。そして、覚悟して無をかんじちゃう。これが無の無化。有がどかーんとうまれる。私をはさんでいるところに手をのばすのだから、私が私の存在をつかんじゃう。不安と覚悟、真剣そのものになって自分をつかんじゃうのである。


   哲学者ヤスパースの実存開明についてである。存在の仕方、スタイルがあるらしい。まずは日常的世界定位というもの。どの大根を購入するか手にとって品定め。大根は自分とかかわっているという。自分とかかわる、おのれのケツをふく、これは現存在だ。ハイデガーは人間だけが現存在。ヤスパースはなんと大根も現存在というのだ。日常的な世界定位では私も大根も同じ存在のスタイルだ。


   もうひとつ、科学的世界定位だ。私は日常のなかから抜け出して頭上高くあがり、だれでもない意識一般になってしまう。そうして、状況無関係にいたって冷静に客観的に世の中を見ちゃう。そして、私が精神になって理念をみる、これが理念的世界定位である。


  いずれにしても、ほんとうの存在のスタイルではないという。ほんものは哲学的世界定位だという。八方塞、どこにも逃げられない。こんなときは自分のちっぽけさ、有限だな、と実感。もうこうなったら内側に逃げるしかない。内面的に突き進んで、ついには自分に穴があいて、広大な外の世界が見えてくる。このとき、超越者の声を聴くというのだ。限界状況で超越者と出会うのである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    
   タイムウェーブゼロ理論というものがある。宇宙の時間はらせん状になっていて、だんだん円のサイクルが小さくなって、ついには時間が加速しつづけ、止まってしまうというのだ。

  話は小さなものについてである。超小さなものは空間と時間が接近しすぎて時空が入り交ざる。原子である。原子核を中心に電子がまわるのだが、電子は確率的にいろんなところにかさなりあって存在。原子核を自分に見立てると、まわりは分身の術でいろんなところに電子がある、これは電子の可能性であり、いってしまえば、時間的な可能性、未来だ。空間に時間が入り込んでいるのである。しかも、時間とは時間意識でもある。


  宇宙は加速度的に膨張しているという。宇宙を定常状態とみなすと、じつにわれわれが加速度的に小さくなっていると考えられる。つまり、より、時空が混ざり合い、空間的な肉体も時間意識化される。だから、時間が加速するのではないか。以前話たが、私の意識は無の点。無の点よりも小さくなってしまえば、ZPFの向こう、高次元は微小なものに巻き込まれているのだから、意識は高次元に飛翔する。

  宇宙はフラクタルだ。原子核の周りの電子。太陽のまわりの惑星。ブラックホールを中心に銀河系。私をブラックホールの中心とみなし、周りを飲み込んでいると考える。すると、私はどんどん中心に萎縮しはじめ、ついにはいわゆる事象地平の宇宙側にはいる。事象地平の内側は時空がめちゃくちゃであり、ワームホールで異次元とつながるといわれている。いずれにしても、同じ事態を別な言い方しているだけになる。

 
  クレイジートーク

   現場は昨日と同じ、西日暮里。朝飯はコーンスープにフランスパンというフランソワな朝のひとときだったが、現場にきてまたもやセカンドブレックファーストにカップラーメンのそばを食った。胃のなかは和洋折衷、着物を着た目の青い外国人というような状態であり、腹80文目で動きが若干鈍い。さあ、仕事がはじまるそんな雰囲気なので、クレイジーをさっそくやめて、出動態勢に入る。


**哲風呂**


当為と全体論についてである。なんで鼻くそを知人のシャツにつけてはいけないのか。だれもみていない、防犯カメラがないから何やってもいいのだろうか。そうではなく、すべてが心のなかまでもが記録され、一人でいても無数の目に取り囲まれているということをいいたい。


   当為とはなにか。そこにぶどうがある。商品なので、汝、食いついてはならぬ、と心の声を聴く。ぶどうがそこにあるとは、存在。そして、汝なすべし、してはいけない、というのが当為だ。カントは理屈で、理論的に考える理性はもっぱら存在を扱い、どうやってひとは行為したほうがいいか、という実践理性では当為を扱うという。存在と当為は対になっているのだ。

  ひとがいいことしなさい、といって触発されていいことをする。原因があって結果があり。他者に縛られているから他律という。そうではなく、原因がない、自分から率先して自由意志でやるものが道徳であり、当為であるという。腹減ったから食う、というのは生理学の法則に縛られている。自由は道徳の大前提だったりする。

   哲学者フィヒテは宇宙と一体になるための努力、これを当為といった。ヘーゲルは、有限でちっぽけな自分の目標が当為。無限のはじまり、スタートだという。有限のゴールで、無限のはじまりだという。

   次の話は全体論である。部分は全体と直接関係しちゃっている。耳たぶは全身と関係している。部分を集めたら全体ではなく、部分集めた以上のものが全体にはある。

  クワインが考えるに、部分をちょっといじくっただけで全体が変わってしまうという整合説だ。だから、ワンポイントアクセサリーは気をつけないと、美女を野獣にしてしまう。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

 
  生命のからだの大半が水である。水はなにか特殊な働きがある。さまざまな情報を記録し、それを他の分子に与える。水分子は異次元とつながっているのかもしれない。水は体内中では液体であり、波動をもつ。波動の性質が記録なのだ。量子論ではすべてが波動である。だから、すべてが記録装置であり、心のなかも、していることもすべて記録されている。

   海の波、この波をAとしよう。これははるかかなたの波Bと波Cが重なってできたともいえる。波Dと波Eがかさなっともいえる。つまり、すべてがこの波Aと関係している。私は量子、波動でできているので、すべてのものが関与している。すべてのものたちにかこまれている。一人でいても無数の目に囲まれているのである。道徳、当為とはこんな考えをベースにすれば納得できるかもしれない。

   波Aはひょっとしたら波Fと波Gの重なったものかもしれない。つまり、あらゆる組み合わせが考えられ、すべてが正解である。ひょっとしたらのあらゆる組み合わせ、並行世界のすべてがこの波Aに関与しているのだから、宇宙全体が互いにつながっているという全体論ではなく、この宇宙を越えた並行世界のすべての関与なので、超全体論と名づけたい。



   クレイジートーク


  現場は西日暮里。朝飯は大盛りの中華丼だ。もはや、いまのおいらはハングリー精神がなえてしまい、食った食った、と腹を叩いている満ち足りたものと化している。これだと闘争本能むき出し、歯茎むき出しの、デパートのワゴンコーナー付近の戦には参戦できない。ということで、満腹による睡魔がやってきたので、仕事もはじまることもおまけ的に理由として、クレイジーはここで終わる。




posted by モノイイ ジョーカー at 12:37| 東京 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする