現象と純粋経験についてである。朝目覚め、夢うつつ状態でいると突然、天井からクモの糸がたれさがっている。とりあえず、引っ張ってみると、クス玉が割れて、おめでとう日本一、という垂れ幕が出現。がさごそと耳元で物音がしたので降りかえると、そこには白髪の仙人のような老人が枕元にたっている。お告げかなとおもい、お告げを聞く構えをし、耳に手をあてる。アイスクリームを食べている老人はただこちらをみつめているだけ。なにをしやってきたのだろう。夢うつつのなか、私はおそらく夢をみているのだろうと考える。夢とは私の内面の世界、現実とは私の外の世界。そもそも、内面と外面の区別もあやしい。内と外は口笛を吸いながら、適当に決めたのではないだろうか。どこからが内で外なのか。その国境は定かではないし、背中と腹の地境も、上半身と下半身の国境もよくわからない。すべては地続き、一木作りではないのか、と悩ましい問題を脇に抱えてトライ。
現象とは何か。自分の前にどかーんと現われているもの、これが現象である。空からケツが降ってきて割れ目に挟まれる。割れ目のなかは禁断の花畑。美しい光景がひろがっていたりする。花畑のようにみえるだけで、真相を知るよしもない。われわれが見ているもの、感じているものは、一面であって、すべてではない。現象しか認識できない、と涙を飲んでひざまづく。もちろん、ローラースケートのひざパットを装着しないと危ない。ひざまづくのは危険である。ひれ伏しながら動き回るものを発見。気持ち悪くて、思わず、四コマまんがで心を癒す。癒しすぎて疲れる。かって、クザ−ヌスはこの世界は私に現われたもので、可視的になった神様だといった。どんなにぎょろ目をしても見えない不可視な神様。これがよーく見える様に現象しちゃったのがこの世界だというのだ。近代においては現象主義っぽいバークリ。ちゃんちゃんこを外国人から
プレゼントされる。ちゃんちゃんこがあるから、みえるのでなく、ちゃんちゃんこをみているから、こいつは存在すると言ってしまう。見ているからものが存在している、という大胆不敵な考え。ヒュームはまた、極端に懐疑論的だ。疑うんだ、ジョー、といわれ
リングの上で相手が本当に人間かどうか、ボクサーかどうかを疑う。そのうち、自分の存在すら疑い始める。すべては繰り返し見ることによって習慣的に思いこんだ信念だというのだ。どうせまた
パンツはいているんだろうとたかくくる。すかさず、ひらめのしたもぐりこんで確認。繰り返しによってすべてを信じているだけ。自分もまた、ときに寒いし、落下中のサルと登っている最中のブタがであって火花散らすそんな光景を見ておもわず笑みを大量にこぼす。悲しいとき、楽しいとき、くすぐったいとき、いろんなことを感じているが、これらをまとめている私っていう何者かがいるにちがいないと信じてしまう今日この頃だという。自分の存在すら習慣的に信じているだけだというのだ。
さて、ここで哲学者カントである。目からふしだらな動きをしている
うなぎの姿が飛びこんでくる。みゃみゃーっという鳴き声が聞こえる。肌触りはぬめぬめ
しっとり。これらの感覚データを私はあたまのなかで整理整頓する。こうやって、一匹のさかりつくうなぎというイメージ、現象をせっせと作るのである。
哲学者ヘーゲルは現象と本質のカップルについて語る。世の中にはいろんなカップルがいる。仲良く手と足をむすんでスキップしているカップル。たとえば、コーヒーカップの本質とは、コーヒーを入れるためという崇高な目的と使命感をもつ。この性質こそがコーヒーカップの本質であり、じっさいに目にうつしだされるコーヒーカップはただの現象だ。現象は本質がないとあらわれない、本質はまた現象あってこそ。背中がないと腹がない。おもてだけあって裏がないなんて想像を絶する。現象と本質はこんな密着した厚すぎてちょこっと汗臭いお似合いカップルなのだ。
さて、純粋経験という概念である。ピュアな経験である。白い
靴下がシロアリに食べられて穴があいた。店にいって靴下返品、なんていう若気のいたり。靴下のなかにはあらかじめシロアリ隊長がひそんでいたのである。純粋な経験とはなにか。私は目、鼻をつかっていろいろ周囲の状況を把握する。敵が後ろからせめてこないか、こめかみに装着されたサイド
ミラーで確認だ。じっさいに感覚的に感じることだけでなく、遠い過去のちょっとあまづっぱい腐ったチョコレートの思い出、そんな記憶もまた私の経験である。頭のなかにエロチックなミョウガを想像するのも、私がかんじているのだから経験。目を閉じて寝てしまい、おもわず、笑われてしまったが、そんなときにみる夢もまた私の経験だ。そして、少なくとも、防火服ならぬ、防火まわしをして営業活動をいそしむ常識人は、私と私以外、主観と客観をきっぱりと区別する。ところが、哲学者ジェームスいわく、主観と客観の境界線、生え際はよく見えない。生え際つかまえた、っと民家からおやじの怒鳴り声が聞こえる。うるさくて
音楽も聞くこと出来ない。手で耳をおさえようとして、股間とお尻をおさえて排尿困難。ソフトに具合が悪くなる。主観的なものといえば、たとえば、ただの老婆のはだかを想像するようなイメージだ。客観的といえば、間違いなく自分の外に存在しているやつらだ。主観と客観はありのままを受け入れる純粋経験の流れのなか、スートーリー、文脈のなかできまるというのである。私が純粋に感じているのは主観、客観、私、私以外とかの区別なんかないのっぺらななにかである。そして、経験の流れ、文脈で主観っぽくなったり、客観っぽくなたりするというのだ。たしかにじいさんっぽい毛虫、ちゃーしゅーめんっぽい人間をジャングルの奥地のコンビニで見たことはある。主観、客観なんていう区別はくそくらえ。そんな勢いですべてはなにものかを感じているだけという純粋経験を強調するのである。
哲学者アヴェナリウスならば、自我がケーキのうえに建設されたろうそくの火を消火し、その勇敢な行為に消防庁から名誉勲章とチャンピオン
ベルトをただでもらった、というようなわけのわからない文を次のようにかんがえるであろう。まず、自我とケーキというカタマリがあると考えない。自我にケーキが飛びこんできたともいわない。自我だってケーキだって、ろうそくだってみんな与えられたもの、哲学的に渋目に言いかえると、与件だというのだ。すべてが与件、なにかから与えられたものだが、すべての固体とその周囲の環境があたえられるだけだという。すべてがこうやって、固体と環境の生物学的な全体でしかにという。
日本の哲学者西田幾多郎もまた純粋経験について述べる。純粋経験とはダイレクト、直接的な経験だ。ごちゃごちゃ考えたり、嫌らしいめつきで詮索なんてしない。てやんで、やけくそアンドくそったれ攻撃だ、と叫ぶ。ありのままを直接に感じるとは、まさに流れ作業中のパートのおばちゃんだ。必死にベルトコンベア−で運ばれてくる商品、だるまに目をいれてやるお仕事。かなりの熟練した
テクニックが必要だ。そんな作業中はだるまを身ながら手足をうごかしている。これを行為的直感という。そして、えてしてこんなときは没頭していて口が半開き状態、意識集中して我を忘れ、けつの割れ目をいも虫にたべらてているのも気がつかないとおもわれがち。つまり、自己意識がない、反省していない状態だとおもわれる。ところが、西田哲学だと、作業中、なにかに没頭しているとは、細かい反省、自己意識をしまくっていると考えるのだ。細か過ぎてもはや自己意識、反省にすらみえないのだ。こうあやって神様を知的直感するのだという。純粋経験はぼーっとありのままをダイレクトに感じつつ、細かく、間断無く自分自身を反省しまくるのだ。
まとめ
存在の科学 内外一元論、立体白紙理論
内外一元論説をここに提唱する。ひとは内面と外面、自分のうちの心と、そとにある物理的、客観的なものをはっきりと区別しがちである。主観と客観、私と私以外のもの。当たり前の様にくべつし、境界線を作る。境界線をつくっているのも他ならぬ自分である。寝ているときは私は内面の世界で夢をみる。物思いもそうである。覚醒時には自分の外のものをはっきりと認識だ。内と外の境界とは不明確である。じつに、内と外という枠組を目の前に設定しているだけ。善悪だって、この世のあらゆる2項対立の枠組を一枚の紙にかいているだけ。円でかこって領域をつくっているのだ。じつに、この宇宙にはたったひとつの宇宙身体、完全身体がある。この完全身体が目の前にある白い紙に枠やら境界線を書きこんでいる。ここからここまでが私の心、ここからが物理的な世界、ここが私の肉体だと。白紙はなんの線も書かれてないがうらを返せば無数の線が書かれているといってもよい。そして、この紙はなんと平面的でなく、立体的な紙なのだ。だから完全身体が書きこんだ円、これを私1と名づけ、重なる様に、交叉するようにまた別の円をかいてこれが私2のからだだと主張する。つまり、紙が3Dで立体的であり、ここに完全身体がいろんな枠組をつくり、これらの枠を巧妙にずらしたり、入れ替えたりしているのだ。内面と外面、心と物理的世界も枠組であり、いともたやすくずらされたり、チェンジされるのだ。一なる完全身体が紙のうえに無数の境界線をひき、これが立体的にかさなって複数の主観、個人、さらには森羅万象が誕生する。内と外も、上も下もただの紙のうえに描かれたただの枠だったのである。真の意味での内はなく、真の意味での外もないのだ。
この白紙に書かれた枠組、境界線はまず、個人的な主観と客観の境界線だったりする。この個人もまた個人的完全身体であり、これは一なる完全身体によって描かれた領域だ。そして、この一なる完全身体はかなりの無意識下でみなさまの奥底で働く。この無意識の度合いが強いほど必然性の度合いも強くなることに注意である。自己意識は自由だが、無意識は自然界の法則のように必然的なのだ。完全身体は完全無意識の世界で世界、自然の法則すら枠組として白紙に描いているものである。
完全身体は無意識レベルであるが、その度合いがちがう。よって必然性が強いものこそがより無意識レベルが高い。宇宙、自然、数学の法則は強い無意識レベル。他人の存在はたしかに肉体があり、物理法則にはしたがうが、心なるものがあってここには必然性がない。だから中間の無意識レベルで完全身体が作り上げたもの。ここにいる私は、自己意識をもち、ここに自由があるのだが、無意識レベルの低い完全身体が描いた枠組である。しかも、無意識のレベルはグラデーションのように連続している。だから、私が強烈な無意識下で太陽系をつくり、中間的な無意識下で他人を作り、低い無意識下でいまここにいる名前を持つ経験的な自分を作ったのである。作るとは基本的に無意識状態でなされ、作業もまた、無意識下でなされる。活動力とは無意識のうみだすものだ。
人が死滅すると、おそらく、この低無意識状態の完全身体、いわゆる自己意識がなくなる。こうして、中間レベルの無意識、他人を生み出す状態になったり、ハイレベルな無意識で宇宙をうみだしたりする。さらに考えられるのは、これらの構造を知り、他人と自分は同じ根をもつことを自覚した段階でもはやもっと低レベル意識状態、超覚醒状態にいたる可能性がある。まはや、いわゆる、反省、自己意識をも超えて、利他的な意識状態である。これが永遠の魂であり、天の国への道なのかもしれない。
このように、立体の白紙に無意識レベルがある完全身体が境界、領域をかきこむ。そして、立体白紙はこの我々の住む3Dの空間である。ここに自然の法則をつくったり、無意識レベルの低い自己意識状態で人工物をつくったりしているのだ。