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2008年04月30日

存在の科学  立体白紙論 超自己意識

存在の科学  立体白紙論 超自己意識

   立体白紙論の補足説明である。われわれは自己意識をもつ。自分ってなんて足が長いんだろうと夕方の散歩中に影をみておもう。自分を意識するのだが、あくまでも名前があり、さまざまな経歴、経験をしてきた個人的な自己意識、経験的自己意識である。自己意識は自分をまなざしているから、自分自身の行動を選択できる。つまりは自由である。ここからさらに、ちょっとぼーっとしてみる。低レベルの無意識状態である。ここで、私は無意識でまばたきをし、呼吸をしている。そして、新陳代謝をし、さまざまなものを生み出す。中レベルの無意識状態によってこれは支えられている。中レベルの無意識では私の肉体をうみだすのでなく、私を含めた他者の肉体をも作り出す無意識だ。無意識のレベルが高くなるにつれて必然的法則に従うようになる。個人的肉体もまた医学的、生物学的法則にしたがっていた。こんどは間主観性レベルで他人をも作る無意識だが、ここでは自由と必然がブレンドされている。他人の心は明らかに法則化できない。ところが、他人の肉体はちゃんと物理の法則にしたがっているから、ひたいをぶつけるとこぶができるのだ。つまり、半分は必然的、半分は自由である。これが中レベルの無意識が作りだしたもの。それでは強レベルの無意識は強烈な必然性をもっているはず。強レベル無意識はなんと森羅万象、宇宙の法則をつくりあげる。数学の公式、物理学の法則もこれによって作られた。意識的につくられるものではない。それではこれらの法則はだれが作っているのだろうか。宇宙の身体、完全身体だろお話した。この完全身体が立体的な白紙にペンで枠組をつくり、領域をつくる。そして、間主観性とか、個人的な私をつくる。なにゆえ、平面的白紙ではないのか。領域がかさなるからである。この立体白紙こそが何もない宇宙空間である。

  ここでこんどは超低レベル意識について考える。自己意識はかなりの低レベル無意識だったが、ある程度の自由意志をもっていた。必然的な法則はおそらく抑えがたき欲望、衝動くらいであろう。今回、すべての個人はグラデーションのように少しづつ必然性を高め、最終的には強無意識である宇宙の法則にまでたどり着いた。みんな根がいっしょで末端で個別的になっている。これらのことを知ったもの、さらには、ご紹介した理論を自覚して実践したものはよりハイレベルな意識、より低レベルな無意識に行きつく。これがみんなが結局は同じなんだという意識。他人は私だという意識状態。いわゆる、すべてのひとは一つの意識、意識一般、統覚の現われであることを意識すること。これが超自己意識である。ここに真の平和思想が誕生する。自己意識が自由意志によって立体白紙に描きこむのが人工物である。超自己意識が立体白紙に描きこむのが天の国である。
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仙人養成講座 哲風呂 意識と必然性へ

意識と必然性についてである。突然、力んだらお尻から人差し指が出てきた、というほどに唐突な話だが、無意識とこの世界についての構造について考えていきたいと思う。ボーっとしているとき、人は無意識に顔面をゆびでぽりぽりとかく。気合をいれて十分ウォーミングアップし、カウントダウンまでして顔面を掻くなんてことはしない。バケツと洗面器、どっちかスタイリッシュでしかも身分が上なのかを談話しているとき、対岸にいる相手は話の最中、無意識にまばたきしている。かたずをのんで、まつげがとれないように細心の注意はらいながらまばたきしているのではない。友人がテレビを見て笑っている。そして、なによりも、着目し、カメラをズームしてもらいたいのは彼の足の指の動き。おそらく、無意識に動かしている。無意識状態では必然的な法則に従う。この無意識状態が自然界の法則を製作しているという驚くべき理論を提唱する。

  まずは、意識とはなにかについて考える。哲学者デカルトは人間の意識がベースとなっていろんな営みがるという。ピザパイだって、トッピングのプロが生地のうえにすばやくトマトを載せる。パイ生地がないと、具が載せられないのは幼稚園生、否、あさり、しじみの貝類にだってわかる。同じく、意識なしに、思考や感情、疑いなどが成立しない。まずは意識、とりわけ、自分自身を意識しまくる自己意識が生地になっている。近代に入ると哲学者カントである。目でモノをみる。まばたきをしたそのすきをねらって履いている靴を盗まれた。見ること、嗅ぐこと、味合うこと。これらの感覚をもとに、経験的意識は成り立つ。鏡にうつっている自分。顔面にへんなものがこびりついていないか。ご飯粒のかぴかぴになったミイラが毛にくっついてないかを確認。そして、はじめて舞台のうえで脚光をあびる。経験的意識に対して、超越論的意識なるものを考えた。自分がいままさに電車のつり革をねらいうちし、そのゆれがおさまったところをみはからって掴み取ろうとしている。そんな自分自身を意識すること。いわゆる自己意識こそが超越論的意識だ。認識しているということを認識しているもの。さて、ドイツ観念論のフィヒテである。そもそも、映画の字幕スーパーが俳優の真っ白な歯とかさなって見えないときに、意識集中してこれを把握しようと勤めるだけではない。なんと、私の意識が私自身をつくっちゃう。たしかに、自分の着るセーターを作ったりはする。バレンタインデーには、手作りのチョコレートを自分にプレゼント。自分の存在そのものをつくる。これを自我が自我を定立する、という言い方をする。そして、事行という概念を提唱。自分というカタマリがじーっとしていて、わきの下の赤いボタンをひっぱると行動し、手足を伸びたり縮んだりするのではない。そもそも、手足を伸縮しているという実践的な行動が即自分の存在そのものだという。事実とは行動すること。前のめりの猛特訓をする。前のめりしているその動きそのものが私の存在。事実イコール行動だというのだ。

  必然性という概念についてである。必然性とはしなければならない、という強烈なやつだ。そこに腹巻がございます、というのはただの冷ややかな事実。腹巻がないとお腹が氷河期をむかえ生きていけない、というのが必然性だ。かって哲学者ライプニッツは論理的必然性と因果的必然性のふたつにわけて考えた。三角形の定理、台形の面積の求め方、カンニングをしないで求めなさい、と答案用紙に書かれている。これら数学的なものは理屈のうえに成り立つ。そして、理屈そのものの学がある。論理を研究する論理学だ。おっぱいが同時にお尻であることは不可能である。エロビデオで同時に欲求を満たしたいとしても、おっぱいとお尻はちがうもの。論理的に矛盾している。論理的なものは絶対にお尻あんどおっぱいをみとめない。要するに、論理的必然性である。これにたいして、もっとソフトでふわふわしているやわらかい必然性がある。因果的必然性である。硬いうんこしたから痔になった。硬いうんこが原因、痔が結果である。自然の法則にちゃんと則っている。これを因果律という。ただ、必ずしも硬いいんこだけが原因ではなかったりする。お尻を的の軍勢に攻撃された、というのが一つの原因かもしれない。

  哲学者ヒュームは因果律、原因と結果の結びつきは必然的ではないという。なんと、いつも硬いうんこしたあとには、便器ちだらけ、ピラニアが血相かえてはしってくrのだ、とぼやいているおじさんがいる。要するに、習慣的に繰り返していると硬いうんこが痔の原因だ、と強く思いこむようになる。因果律は繰り返しの習慣によってできているというのだ。これに反発したのが、哲学者カントである。われわれはあらかじめ、ポケットのなかにハンカチをしのばせているだけでなく、考えるための道具、カテゴリーをもって産まれてくるという。このなかに因果性のカテゴリーなるものがあり、これを目の前の現象にあてはめるというのだ。

   必然的といったらよく道徳の分野でも扱われる。モラルである。モラリストはガムを便器に捨てないし、枝を折ってありの巣につっこんだりしない。因果的必然性は壁にボールを投げつけたら必ず帰ってくる、という原因と結果の結びつき。道徳に当てはめると、人に良いことをすると、お金がもえる、ボランティア精神で稼ぐ、というように、こうすればきっとこうなる方式である。これを外的必然性という。ところが、カントのいうような本当の善なる行いはそんな見えかえり期待しない。たしかに、モノ欲しそうな顔つきにはなるが、請求はしない。シルバーシートを若者に譲る。どうぞどうぞ、とさりげなくスポットライトを浴びながら席を譲る。そもそも、私が後ろからかんちょうされて、勢いあまって席を譲ったらこれは因果的必然性だが、自分の意志でゆずるのである。風に吹かれたとか、大王に命じられたからゆずるのではない。だから、真の道徳的な善ゆえにできるのである。自由とは、原因と結果の結びつきではない。自分が0から行う動き、行為である。これが内的必然性、絶対的必然性といわれるものだ。

  まとめ

 存在の科学  立体白紙論 超自己意識

   立体白紙論の補足説明である。われわれは自己意識をもつ。自分ってなんて足が長いんだろうと夕方の散歩中に影をみておもう。自分を意識するのだが、あくまでも名前があり、さまざまな経歴、経験をしてきた個人的な自己意識、経験的自己意識である。自己意識は自分をまなざしているから、自分自身の行動を選択できる。つまりは自由である。ここからさらに、ちょっとぼーっとしてみる。低レベルの無意識状態である。ここで、私は無意識でまばたきをし、呼吸をしている。そして、新陳代謝をし、さまざまなものを生み出す。中レベルの無意識状態によってこれは支えられている。中レベルの無意識では私の肉体をうみだすのでなく、私を含めた他者の肉体をも作り出す無意識だ。無意識のレベルが高くなるにつれて必然的法則に従うようになる。個人的肉体もまた医学的、生物学的法則にしたがっていた。こんどは間主観性レベルで他人をも作る無意識だが、ここでは自由と必然がブレンドされている。他人の心は明らかに法則化できない。ところが、他人の肉体はちゃんと物理の法則にしたがっているから、ひたいをぶつけるとこぶができるのだ。つまり、半分は必然的、半分は自由である。これが中レベルの無意識が作りだしたもの。それでは強レベルの無意識は強烈な必然性をもっているはず。強レベル無意識はなんと森羅万象、宇宙の法則をつくりあげる。数学の公式、物理学の法則もこれによって作られた。意識的につくられるものではない。それではこれらの法則はだれが作っているのだろうか。宇宙の身体、完全身体だろお話した。この完全身体が立体的な白紙にペンで枠組をつくり、領域をつくる。そして、間主観性とか、個人的な私をつくる。なにゆえ、平面的白紙ではないのか。領域がかさなるからである。この立体白紙こそが何もない宇宙空間である。

  ここでこんどは超低レベル意識について考える。自己意識はかなりの低レベル無意識だったが、ある程度の自由意志をもっていた。必然的な法則はおそらく抑えがたき欲望、衝動くらいであろう。今回、すべての個人はグラデーションのように少しづつ必然性を高め、最終的には強無意識である宇宙の法則にまでたどり着いた。みんな根がいっしょで末端で個別的になっている。これらのことを知ったもの、さらには、ご紹介した理論を自覚して実践したものはよりハイレベルな意識、より低レベルな無意識に行きつく。これがみんなが結局は同じなんだという意識。他人は私だという意識状態。いわゆる、すべてのひとは一つの意識、意識一般、統覚の現われであることを意識すること。これが超自己意識である。ここに真の平和思想が誕生する。自己意識が自由意志によって立体白紙に描きこむのが人工物である。超自己意識が立体白紙に描きこむのが天の国である。
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2008年04月25日

宇宙人 まっしゅ (20080122)_1

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存在の科学  内外一元論、立体白紙理論

存在の科学  内外一元論、立体白紙理論

  内外一元論説をここに提唱する。ひとは内面と外面、自分のうちの心と、そとにある物理的、客観的なものをはっきりと区別しがちである。主観と客観、私と私以外のもの。当たり前の様にくべつし、境界線を作る。境界線をつくっているのも他ならぬ自分である。寝ているときは私は内面の世界で夢をみる。物思いもそうである。覚醒時には自分の外のものをはっきりと認識だ。内と外の境界とは不明確である。じつに、内と外という枠組を目の前に設定しているだけ。善悪だって、この世のあらゆる2項対立の枠組を一枚の紙にかいているだけ。円でかこって領域をつくっているのだ。じつに、この宇宙にはたったひとつの宇宙身体、完全身体がある。この完全身体が目の前にある白い紙に枠やら境界線を書きこんでいる。ここからここまでが私の心、ここからが物理的な世界、ここが私の肉体だと。白紙はなんの線も書かれてないがうらを返せば無数の線が書かれているといってもよい。そして、この紙はなんと平面的でなく、立体的な紙なのだ。だから完全身体が書きこんだ円、これを私1と名づけ、重なる様に、交叉するようにまた別の円をかいてこれが私2のからだだと主張する。つまり、紙が3Dで立体的であり、ここに完全身体がいろんな枠組をつくり、これらの枠を巧妙にずらしたり、入れ替えたりしているのだ。内面と外面、心と物理的世界も枠組であり、いともたやすくずらされたり、チェンジされるのだ。一なる完全身体が紙のうえに無数の境界線をひき、これが立体的にかさなって複数の主観、個人、さらには森羅万象が誕生する。内と外も、上も下もただの紙のうえに描かれたただの枠だったのである。真の意味での内はなく、真の意味での外もないのだ。

 この白紙に書かれた枠組、境界線はまず、個人的な主観と客観の境界線だったりする。この個人もまた個人的完全身体であり、これは一なる完全身体によって描かれた領域だ。そして、この一なる完全身体はかなりの無意識下でみなさまの奥底で働く。この無意識の度合いが強いほど必然性の度合いも強くなることに注意である。自己意識は自由だが、無意識は自然界の法則のように必然的なのだ。完全身体は完全無意識の世界で世界、自然の法則すら枠組として白紙に描いているものである。 

  完全身体は無意識レベルであるが、その度合いがちがう。よって必然性が強いものこそがより無意識レベルが高い。宇宙、自然、数学の法則は強い無意識レベル。他人の存在はたしかに肉体があり、物理法則にはしたがうが、心なるものがあってここには必然性がない。だから中間の無意識レベルで完全身体が作り上げたもの。ここにいる私は、自己意識をもち、ここに自由があるのだが、無意識レベルの低い完全身体が描いた枠組である。しかも、無意識のレベルはグラデーションのように連続している。だから、私が強烈な無意識下で太陽系をつくり、中間的な無意識下で他人を作り、低い無意識下でいまここにいる名前を持つ経験的な自分を作ったのである。作るとは基本的に無意識状態でなされ、作業もまた、無意識下でなされる。活動力とは無意識のうみだすものだ。


  人が死滅すると、おそらく、この低無意識状態の完全身体、いわゆる自己意識がなくなる。こうして、中間レベルの無意識、他人を生み出す状態になったり、ハイレベルな無意識で宇宙をうみだしたりする。さらに考えられるのは、これらの構造を知り、他人と自分は同じ根をもつことを自覚した段階でもはやもっと低レベル意識状態、超覚醒状態にいたる可能性がある。まはや、いわゆる、反省、自己意識をも超えて、利他的な意識状態である。これが永遠の魂であり、天の国への道なのかもしれない。

  このように、立体の白紙に無意識レベルがある完全身体が境界、領域をかきこむ。そして、立体白紙はこの我々の住む3Dの空間である。ここに自然の法則をつくったり、無意識レベルの低い自己意識状態で人工物をつくったりしているのだ。
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仙人養成講座 哲風呂 現象と純粋経験へ

現象と純粋経験についてである。朝目覚め、夢うつつ状態でいると突然、天井からクモの糸がたれさがっている。とりあえず、引っ張ってみると、クス玉が割れて、おめでとう日本一、という垂れ幕が出現。がさごそと耳元で物音がしたので降りかえると、そこには白髪の仙人のような老人が枕元にたっている。お告げかなとおもい、お告げを聞く構えをし、耳に手をあてる。アイスクリームを食べている老人はただこちらをみつめているだけ。なにをしやってきたのだろう。夢うつつのなか、私はおそらく夢をみているのだろうと考える。夢とは私の内面の世界、現実とは私の外の世界。そもそも、内面と外面の区別もあやしい。内と外は口笛を吸いながら、適当に決めたのではないだろうか。どこからが内で外なのか。その国境は定かではないし、背中と腹の地境も、上半身と下半身の国境もよくわからない。すべては地続き、一木作りではないのか、と悩ましい問題を脇に抱えてトライ。

   現象とは何か。自分の前にどかーんと現われているもの、これが現象である。空からケツが降ってきて割れ目に挟まれる。割れ目のなかは禁断の花畑。美しい光景がひろがっていたりする。花畑のようにみえるだけで、真相を知るよしもない。われわれが見ているもの、感じているものは、一面であって、すべてではない。現象しか認識できない、と涙を飲んでひざまづく。もちろん、ローラースケートのひざパットを装着しないと危ない。ひざまづくのは危険である。ひれ伏しながら動き回るものを発見。気持ち悪くて、思わず、四コマまんがで心を癒す。癒しすぎて疲れる。かって、クザ−ヌスはこの世界は私に現われたもので、可視的になった神様だといった。どんなにぎょろ目をしても見えない不可視な神様。これがよーく見える様に現象しちゃったのがこの世界だというのだ。近代においては現象主義っぽいバークリ。ちゃんちゃんこを外国人からプレゼントされる。ちゃんちゃんこがあるから、みえるのでなく、ちゃんちゃんこをみているから、こいつは存在すると言ってしまう。見ているからものが存在している、という大胆不敵な考え。ヒュームはまた、極端に懐疑論的だ。疑うんだ、ジョー、といわれリングの上で相手が本当に人間かどうか、ボクサーかどうかを疑う。そのうち、自分の存在すら疑い始める。すべては繰り返し見ることによって習慣的に思いこんだ信念だというのだ。どうせまたパンツはいているんだろうとたかくくる。すかさず、ひらめのしたもぐりこんで確認。繰り返しによってすべてを信じているだけ。自分もまた、ときに寒いし、落下中のサルと登っている最中のブタがであって火花散らすそんな光景を見ておもわず笑みを大量にこぼす。悲しいとき、楽しいとき、くすぐったいとき、いろんなことを感じているが、これらをまとめている私っていう何者かがいるにちがいないと信じてしまう今日この頃だという。自分の存在すら習慣的に信じているだけだというのだ。

  さて、ここで哲学者カントである。目からふしだらな動きをしているうなぎの姿が飛びこんでくる。みゃみゃーっという鳴き声が聞こえる。肌触りはぬめぬめしっとり。これらの感覚データを私はあたまのなかで整理整頓する。こうやって、一匹のさかりつくうなぎというイメージ、現象をせっせと作るのである。

  哲学者ヘーゲルは現象と本質のカップルについて語る。世の中にはいろんなカップルがいる。仲良く手と足をむすんでスキップしているカップル。たとえば、コーヒーカップの本質とは、コーヒーを入れるためという崇高な目的と使命感をもつ。この性質こそがコーヒーカップの本質であり、じっさいに目にうつしだされるコーヒーカップはただの現象だ。現象は本質がないとあらわれない、本質はまた現象あってこそ。背中がないと腹がない。おもてだけあって裏がないなんて想像を絶する。現象と本質はこんな密着した厚すぎてちょこっと汗臭いお似合いカップルなのだ。

   さて、純粋経験という概念である。ピュアな経験である。白い靴下がシロアリに食べられて穴があいた。店にいって靴下返品、なんていう若気のいたり。靴下のなかにはあらかじめシロアリ隊長がひそんでいたのである。純粋な経験とはなにか。私は目、鼻をつかっていろいろ周囲の状況を把握する。敵が後ろからせめてこないか、こめかみに装着されたサイドミラーで確認だ。じっさいに感覚的に感じることだけでなく、遠い過去のちょっとあまづっぱい腐ったチョコレートの思い出、そんな記憶もまた私の経験である。頭のなかにエロチックなミョウガを想像するのも、私がかんじているのだから経験。目を閉じて寝てしまい、おもわず、笑われてしまったが、そんなときにみる夢もまた私の経験だ。そして、少なくとも、防火服ならぬ、防火まわしをして営業活動をいそしむ常識人は、私と私以外、主観と客観をきっぱりと区別する。ところが、哲学者ジェームスいわく、主観と客観の境界線、生え際はよく見えない。生え際つかまえた、っと民家からおやじの怒鳴り声が聞こえる。うるさくて音楽も聞くこと出来ない。手で耳をおさえようとして、股間とお尻をおさえて排尿困難。ソフトに具合が悪くなる。主観的なものといえば、たとえば、ただの老婆のはだかを想像するようなイメージだ。客観的といえば、間違いなく自分の外に存在しているやつらだ。主観と客観はありのままを受け入れる純粋経験の流れのなか、スートーリー、文脈のなかできまるというのである。私が純粋に感じているのは主観、客観、私、私以外とかの区別なんかないのっぺらななにかである。そして、経験の流れ、文脈で主観っぽくなったり、客観っぽくなたりするというのだ。たしかにじいさんっぽい毛虫、ちゃーしゅーめんっぽい人間をジャングルの奥地のコンビニで見たことはある。主観、客観なんていう区別はくそくらえ。そんな勢いですべてはなにものかを感じているだけという純粋経験を強調するのである。

  哲学者アヴェナリウスならば、自我がケーキのうえに建設されたろうそくの火を消火し、その勇敢な行為に消防庁から名誉勲章とチャンピオンベルトをただでもらった、というようなわけのわからない文を次のようにかんがえるであろう。まず、自我とケーキというカタマリがあると考えない。自我にケーキが飛びこんできたともいわない。自我だってケーキだって、ろうそくだってみんな与えられたもの、哲学的に渋目に言いかえると、与件だというのだ。すべてが与件、なにかから与えられたものだが、すべての固体とその周囲の環境があたえられるだけだという。すべてがこうやって、固体と環境の生物学的な全体でしかにという。

  日本の哲学者西田幾多郎もまた純粋経験について述べる。純粋経験とはダイレクト、直接的な経験だ。ごちゃごちゃ考えたり、嫌らしいめつきで詮索なんてしない。てやんで、やけくそアンドくそったれ攻撃だ、と叫ぶ。ありのままを直接に感じるとは、まさに流れ作業中のパートのおばちゃんだ。必死にベルトコンベア−で運ばれてくる商品、だるまに目をいれてやるお仕事。かなりの熟練したテクニックが必要だ。そんな作業中はだるまを身ながら手足をうごかしている。これを行為的直感という。そして、えてしてこんなときは没頭していて口が半開き状態、意識集中して我を忘れ、けつの割れ目をいも虫にたべらてているのも気がつかないとおもわれがち。つまり、自己意識がない、反省していない状態だとおもわれる。ところが、西田哲学だと、作業中、なにかに没頭しているとは、細かい反省、自己意識をしまくっていると考えるのだ。細か過ぎてもはや自己意識、反省にすらみえないのだ。こうあやって神様を知的直感するのだという。純粋経験はぼーっとありのままをダイレクトに感じつつ、細かく、間断無く自分自身を反省しまくるのだ。

 まとめ

 存在の科学  内外一元論、立体白紙理論

  内外一元論説をここに提唱する。ひとは内面と外面、自分のうちの心と、そとにある物理的、客観的なものをはっきりと区別しがちである。主観と客観、私と私以外のもの。当たり前の様にくべつし、境界線を作る。境界線をつくっているのも他ならぬ自分である。寝ているときは私は内面の世界で夢をみる。物思いもそうである。覚醒時には自分の外のものをはっきりと認識だ。内と外の境界とは不明確である。じつに、内と外という枠組を目の前に設定しているだけ。善悪だって、この世のあらゆる2項対立の枠組を一枚の紙にかいているだけ。円でかこって領域をつくっているのだ。じつに、この宇宙にはたったひとつの宇宙身体、完全身体がある。この完全身体が目の前にある白い紙に枠やら境界線を書きこんでいる。ここからここまでが私の心、ここからが物理的な世界、ここが私の肉体だと。白紙はなんの線も書かれてないがうらを返せば無数の線が書かれているといってもよい。そして、この紙はなんと平面的でなく、立体的な紙なのだ。だから完全身体が書きこんだ円、これを私1と名づけ、重なる様に、交叉するようにまた別の円をかいてこれが私2のからだだと主張する。つまり、紙が3Dで立体的であり、ここに完全身体がいろんな枠組をつくり、これらの枠を巧妙にずらしたり、入れ替えたりしているのだ。内面と外面、心と物理的世界も枠組であり、いともたやすくずらされたり、チェンジされるのだ。一なる完全身体が紙のうえに無数の境界線をひき、これが立体的にかさなって複数の主観、個人、さらには森羅万象が誕生する。内と外も、上も下もただの紙のうえに描かれたただの枠だったのである。真の意味での内はなく、真の意味での外もないのだ。

 この白紙に書かれた枠組、境界線はまず、個人的な主観と客観の境界線だったりする。この個人もまた個人的完全身体であり、これは一なる完全身体によって描かれた領域だ。そして、この一なる完全身体はかなりの無意識下でみなさまの奥底で働く。この無意識の度合いが強いほど必然性の度合いも強くなることに注意である。自己意識は自由だが、無意識は自然界の法則のように必然的なのだ。完全身体は完全無意識の世界で世界、自然の法則すら枠組として白紙に描いているものである。 

  完全身体は無意識レベルであるが、その度合いがちがう。よって必然性が強いものこそがより無意識レベルが高い。宇宙、自然、数学の法則は強い無意識レベル。他人の存在はたしかに肉体があり、物理法則にはしたがうが、心なるものがあってここには必然性がない。だから中間の無意識レベルで完全身体が作り上げたもの。ここにいる私は、自己意識をもち、ここに自由があるのだが、無意識レベルの低い完全身体が描いた枠組である。しかも、無意識のレベルはグラデーションのように連続している。だから、私が強烈な無意識下で太陽系をつくり、中間的な無意識下で他人を作り、低い無意識下でいまここにいる名前を持つ経験的な自分を作ったのである。作るとは基本的に無意識状態でなされ、作業もまた、無意識下でなされる。活動力とは無意識のうみだすものだ。


  人が死滅すると、おそらく、この低無意識状態の完全身体、いわゆる自己意識がなくなる。こうして、中間レベルの無意識、他人を生み出す状態になったり、ハイレベルな無意識で宇宙をうみだしたりする。さらに考えられるのは、これらの構造を知り、他人と自分は同じ根をもつことを自覚した段階でもはやもっと低レベル意識状態、超覚醒状態にいたる可能性がある。まはや、いわゆる、反省、自己意識をも超えて、利他的な意識状態である。これが永遠の魂であり、天の国への道なのかもしれない。

  このように、立体の白紙に無意識レベルがある完全身体が境界、領域をかきこむ。そして、立体白紙はこの我々の住む3Dの空間である。ここに自然の法則をつくったり、無意識レベルの低い自己意識状態で人工物をつくったりしているのだ。
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2008年04月24日

宇宙人 まっしゅ (20080122)

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存在の科学  全身全霊理論

存在の科学  全身全霊理論

  6次元理論を認識プロセスと考えたとき、0から6次元まで総動員して、結局、三次元の立体イメージ、構想力を作ることに主眼が置かれた。ようするに、物をいかにリアルに立体的に想像するかである。同じく、6次元理論の歴史的解釈だと、三次元の恐竜をいかに復元し、いかに作り上げるかが課題となる。6次元理論をパソコンに見たてたとき、三次元の情報を作ることが目標だった。このように、三次元を中心に、これを成立させるためにこのシステム、構造はじつに見事にできている。こうかんがえると、われわれの真の目的が見えてくる。目の前の一本の木をいかに立体的にリアルに想像し、これを現実にするかである。われわれはものを平面的にしか認識できない。これを立体的なものと判断しないといけない。つまり、仮象をいかに現象、本質にするかにかかっている。仮象を現実化することであり、そうすると自ずと目の前の平面情報が現実化し、存在感がうまれる。仮象を現実化する信念という力。これによって一本の木が自分のそとに実在しているにちがいないと存在感をうみだす。自分の存在感もまた自らがうみだすのである。そのとき、自己意識をもって、自分というかたまりをもんもんかんがえていてはうまくいかない。むしろ、自己意識を希薄にし、なにかに集中没頭し、一生懸命、全身全霊になったとき、みずからが無と化すとき、真反対の存在感がうまれるのだ。存在感は自分が身を粉にして作業をし、その中からうまれる。逆説的だが、無に徹して存在をうむのだ。一生懸命ということばは私も含めて現代では安易に使っている。一生、命を懸けるのである。一生懸命、あさりをひろう、一生懸命にゅうりんのふちを掻く、というような使い方をしてしまいがちだが、本当のところそんな軽し使い方はできない。金をたくさんもっていてもでてゆくか、ひとを堕落させるおそれあり。名誉はそのひとの一面でしかない。本当に他人も自分自身も美しいと感じ、偉大さを感じる姿は一生懸命なことをしているときである。

   
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仙人養成講座 哲風呂  仮象と生のカテゴリーへ

仮象と生のカテゴリーについてである。一生懸命になにかに取りこんでいるおじさんの顔は輝いている。サングラスなしでは凝視できないくらい輝いている。水虫の足を孫の手で一生懸命掻いているおじさん。その後姿はまるでヴィーナス像のごときである。全身全霊をかけて痰をさわる。はなの穴をほじくるのにとりあえず、遺書めいたものを書く。青年よ、本気になれ、と低学年の少年にたしなめられる。一生懸命はなんでも美しい。ぼんきゅーぼんも美しい。華麗なふるまいのダンサーに見とれてしまい、ちょこっと興奮気味。美しさ、偉大さは命がけのところにあるのだ。

  仮象とはなにか、と唐突に疑問を投げかけたい。仮象とは端的にいうとうっかりミス、見間違え、錯覚である。ニセ水戸黄門の誕生のまきでござる、というのはよくある話だ。実際に、友人山田君と雑貨屋でインド風な爪楊枝を買い、夕方にはカラオケボックスで野郎ふたり盛り上がる。ところが、カラオケもアニメソングをうたうかきょうを迎えたころ、やまちゃんがニセ山ちゃんであることに気がつく。たしかに、いつもとエクボの位置はちがうし、つむじの数だって、眉毛の動き方もちがっていた。じつは、やまちゃんの顔はニセモノ、縁日でうっているやまちゃんのお面をつけていただけなのだ。そこで唖然とし、腰をぬかす。腰を抜かしたついでに、地面に落ちていた100円をひろって軽くほくそ笑み、たちあがってまたたじろく。仮象とはニセモノのことだ。たとえば、古代ギリシャの哲学者パルメニデス。あるものはある、ないものははじめからずーっとない。当たり前のようなことをいう。これがまさに真実であると涙目で訴えたかは知らない。だけど、運動はニセモノ、仮象だというのだ。ボールが空から降ってくるだろうと、予言者が予告していたように、キャッチャーフライである。ボールはいままさにスカイダイビングをしている。ボールがいま地上1メートルのところにあると思うや否や、もう30センチのところまで迫っている。そこにあると同時に無いということがボールの動きを作っている。あると同時に無いとは決定的な矛盾だ。だから、モノが動いて見えるのは錯覚、仮象だと言いきるのだ。

  これとは反対に哲学者ヘラクレイトスは、むしろ、ずーっと同じ状態でとどまっているものこそ胡散臭いという。水の流れのごとく、すべては流れているというのだ。

  さて、近代に入ると、哲学者カントが仮象についてモノ申す。たしかに家で飼っている猫のたまちゃん、こうやってじーっと見てみると、お尻しか見えない。お尻がたまちゃんなのではない。きっとはるか遠くに旅をして、向こう岸から眺めれば愛らしい顔が見えるに違いない。つまり、私が見ているものはモノの一面で真のすがたではない。どうにか仮象をれっきとした真実、現象に変えないといけない。このとき、人間はおつむで判断するのだ。あれやこれやと意マージし、判断し、猫のたまちゃんは猫科の生き物で、たこ焼きの鰹節が大好物で、きっと顔、おっぱいがあるにちゃがいない。こうやって、仮象を現象にするのが、人間のすばらしき判断力なのである。

  さらに哲学者ヘーゲルである。カントにおいては仮象は虫刺されのように治療すべきものだった。蚊に刺された、と言いながら床に倒れこみ、戸だなの軟膏に手を伸ばすスナイパーの姿はよく映画で散見する。仮象はダメダメの烙印を押されてしまったのだ。ところがヘーゲルは違う。仮象を自分の卵のように温め、決してゆで卵にして食べたりはしない。仮象の反対は真実、いわゆる本質である。やまちゃんはたしかに正面からみるとヘアースタイルが糸こんにゃくそっくりだ。それは仮象にすぎない。やまちゃんをやまちゃんたらしめている大切な性質、やまちゃんの本質があるのだ。くるまだって、色や形、エンジンをいくつ搭載しているかとまちまちだ。それでも、この性質がないとくるまとは呼べないという本質があるはずだ。仮象がないと本質もない。仮象は本質をじつは肩車して支えている。本質もまた仮象をひっぱっている。たがいにささえあって存在してやがるのだ。

  今度お話するのは生の哲学者ディルタイについてである。生のカテゴリーという概念だ。自然科学というものがある。フラスコとビーカー、場合によってはプレパラートを手に実験にいそしむ。卵焼きに醤油たらすとどんな反応を示すか。興味しんしんである。自然科学をするにあたって、論理的にものをかんがえないといけない。そのとき、論理的なカテゴリーなるものを使う。カテゴリーとは型のようなもの。因果性のカテゴリーとは、原因があったら結果がある、というごく当たり前の法則。ひっぱったのが原因で、抜けたのが結果である。ひっぱらなければあのまつげのまっちゃんはここにとどまっていたはずだ。実体のカテゴリーがある。部屋のなかにベッドがある。ベットのシーツにはしわがより、山脈がつらなる。地球制覇をなしとげた満足感にかられながらシーツを眺める。本当につまらない用事で外出する。スナック菓子を開けようとしたところ、大胆で取り返しのつかないあけ方をしてしまったので助けに来てくれという遠い親戚からの連絡だ。新幹線で移動中にふと思う。自分の部屋のベッドは無事だろうかと。部屋のなかにベッドはそれ自体存在しているはずだ。これが実体性という概念だ。そこに私が立ち会っていなくとも、それ自体で存在してやがる、というのが実体だ。


  さて、これらは自然科学のカテゴリーである。どこからこんなカテゴリーがわいてきたのか。自然界にそなわっているのだろうか。じつに、ディルタイは生、いままさに生きているということからこれらの自然科学のカテゴリーはうまれちゃったというのだ。生のカテゴリーというものがあって、ここからいろいろトランスフォームして自然科学のカテゴリーの出来あがりだ。生のカテゴリーとは生きるうえで必要不可欠なカテゴリー。たとえば、コンビニのドアに引くと書かれているのに、反社会的に革命的精神に則て押してみる。抵抗を感じる。ここから押されたら同じ力で押し返されるという相互作用のカテゴリーがうまれる。生きているとついうっかり自分自身を意識してしまう。目の下に陰毛が生えていないかをCDの裏側を鏡代わりに使って確認。自分を意識することを自己意識という。ここから、さっきの自分といまの自分は同じやつだ、と叫ぶ。自我の同一性である。さらに、これは私だけでなく何にでもなりたつにちがいねーっとおかっぴき風につぶやく。ここから餅は餅である、という同一性、はては実体性というカテゴリーがうまれる。すべては生きているということから産まれたものだというのだ。

   まとめ

  存在の科学  全身全霊理論

  6次元理論を認識プロセスと考えたとき、0から6次元まで総動員して、結局、三次元の立体イメージ、構想力を作ることに主眼が置かれた。ようするに、物をいかにリアルに立体的に想像するかである。同じく、6次元理論の歴史的解釈だと、三次元の恐竜をいかに復元し、いかに作り上げるかが課題となる。6次元理論をパソコンに見たてたとき、三次元の情報を作ることが目標だった。このように、三次元を中心に、これを成立させるためにこのシステム、構造はじつに見事にできている。こうかんがえると、われわれの真の目的が見えてくる。目の前の一本の木をいかに立体的にリアルに想像し、これを現実にするかである。われわれはものを平面的にしか認識できない。これを立体的なものと判断しないといけない。つまり、仮象をいかに現象、本質にするかにかかっている。仮象を現実化することであり、そうすると自ずと目の前の平面情報が現実化し、存在感がうまれる。仮象を現実化する信念という力。これによって一本の木が自分のそとに実在しているにちがいないと存在感をうみだす。自分の存在感もまた自らがうみだすのである。そのとき、自己意識をもって、自分というかたまりをもんもんかんがえていてはうまくいかない。むしろ、自己意識を希薄にし、なにかに集中没頭し、一生懸命、全身全霊になったとき、みずからが無と化すとき、真反対の存在感がうまれるのだ。存在感は自分が身を粉にして作業をし、その中からうまれる。逆説的だが、無に徹して存在をうむのだ。一生懸命ということばは私も含めて現代では安易に使っている。一生、命を懸けるのである。一生懸命、あさりをひろう、一生懸命にゅうりんのふちを掻く、というような使い方をしてしまいがちだが、本当のところそんな軽し使い方はできない。金をたくさんもっていてもでてゆくか、ひとを堕落させるおそれあり。名誉はそのひとの一面でしかない。本当に他人も自分自身も美しいと感じ、偉大さを感じる姿は一生懸命なことをしているときである。

   
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宇宙人 まっしゅ (20080121)

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存在の科学  仮想現実論  われわれ人類の目的 私の目的

存在の科学  仮想現実論  われわれ人類の目的 私の目的

   われわれ人類の崇高な目的。はては私の目的とはなにか。仮想現実論から考えていきたい。6次元理論によると、0次元の感覚的直感に始まり、これを1次元の経験的直感、個人的記憶によって蓄積、さらには2次元では目の前のものをありのままに感じてしまう知覚。知覚だけだと立体感がない。モノの裏側、影の部分を考慮しない。そこで三次元をとばして、四次元以降は影次元だといった。四次元は影平面であり、いわゆる論理的なカテゴリー。五次元では影直線である宇宙の記憶。六次元はみんなの意識、意識一般、ないし統覚である。色つきの0から2次元まで、影の4次元から6次元にはさまれて中央にあるのが構想力、イメージ力である三次元。ここで立体的なイメージが形成される。認識の一連のプロセスはこの三次元であるイメージを形成することにある。いかに的確にモノを立体的に認識できるかである。

  この6次元理論を認識ではなく歴史に適用する。0次元は有と無。1次元は直線であり、直線矢印は全宇宙から押され、全宇宙を押すという無機的物質。二次元は微生物であり、三次元は恐竜全盛時代。四次元で人類誕生、五次元は植物であるといった。そして、6次元へといたる。

  こんどは6次元理論をパソコンの働きに当てはめる。なにものかがキーボード入力する。これ0次元である。1次元はメモリであり、ここに一次的データを常駐。2次元と4次元はCPUの計算処理である。5次元はハードディスクであり、6次元はこのパソコンを使っているなにものかの意志。中央の三次元で作られるのが目的の情報である。

  さて、われわれは高等生命体によってつくられたパソコンの仮想世界。人類は4次元であるかた、CPUの論理的な処理をほどこしているところ。2次元である微生物をもとに人類が論理的に解析する。人間のからだは無数の微生物が宿しているといってもよい。そして、1次元である無機的なものを保存する。5次元は植物であり、木を伐採したときの年輪そっくりなハードディスクに保存される。三次元にはなにがくるか。恐竜の時代である。この世界はパソコンのなかの仮想世界であり、恐竜の化石などを手がかりに論理的に思考し、恐竜のイメージをつくりあげるのだ。つまり、パソコンの担い手である高等生命体は恐竜をパソコン上に作っていてわれわれ人類はCPUの計算処理の役割を担う。たしかに、小動物もその昔存在していたはず。いともたやすくそれを推察できる。ただ、恐竜だけはどうも直感的には納得しがたい。論理的に推理しないとイメージが作れない。

  恐竜の物理的な存在感は大きい。つまり、恐竜はある意味存在感の象徴である。だから、われわれ人類が作り上げるのは大いなる存在感である。からだの大きさうんぬんではなく、存在感の大きさ。存在感を強く感じること、これがさしあたっての生の目的ではないだろうか。モノを立体的に認識し、恐竜をリアルにイメージし、自分の存在感を強く感じること。発掘される恐竜の化石はパソコンで入力されたデータである。われわれはこのデータから恐竜を論理的にイメージし、そして、われわれ人類というCPUですらこの恐竜の死骸によってできた石油により活動を得ている。恐竜がいたから石油があるのでなく、恐竜を論理的にイメージするから石油があるのだ。本末転倒こそ、この世界の真実の世界なのだ。大いなる存在感を抱くからこそ、私は存在しているのだ。

  ファイヒンガ−のかのうように哲学がいうように、すべてはかのうようなもの。恐竜の化石かのようなもの。これらは私の生のために不可欠である。マルセルがいうように、私はいろんなものを所有し、そのなかでもとりわけ自分の肉体を所有している。しかし、肉体は所有であると同時に存在でもある。肉体のイメージ、または自分のそとのモノのイメージは0から6次元までが総動員して作られた三次元的立体である。0から2次元までが所有であり、4から6次元までが存在である。そして、その狭間に3次元がある。

  だからこいうことである。仮想、仮象をいかに現実とみなすかである。ここに存在ではなく、存在感がうまれる。

  
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仙人養成講座 哲風呂 存在と所有、かのように哲学へ

存在と所有、かのように哲学についてである。われわれ人類の目的、否、私の目的とはなにか。そんなことを考えていたらプリンのふたの裏を舐めるのを忘れて捨ててしまった。なんていう人類の大損害。とにかく、紙のジュースを絞りにしぼって吸い取るという無駄のない動きがモットーである。資源を大切に、という標語に心打たれる。とにかく、われわれはなにゆえ種族繁栄に翻弄し、腰を前後上下左右、さらには斜めにふるのだろうか。目的があるにちがいない。みんなで仲良く巨大な石を胸にあて何メートル歩けるかを競い合うことが目的ではない。怒り狂ったイッテツがセンスを投げて的を射るように、センス投げることが崇高な人類の目的でもない。われわれはどこからいってきますをし、どこへとただいまするのか。

   哲学者マルセル著、存在と所有、についてである。やまちゃんはいろんなものを所有する。幸福の黄色いパンツ、しかも、力士のサイン入り。まぐろの刺身の化石。これはもちろん賞味期限が十分に切れているもの。愛車、愛人、愛便器。所有しているもの、自分のものということは随意性があるという。要するに意のままにできるということ。もうこんな座布団を捨ててしまえ、と妬きをおこす。周囲のものたちの制止をふりきってゴミ箱にダンクシュートだ。また、中古の座布団として、アジアに売り飛ばす。月々いくらかで貸業営む。とにかく、自分かってにできるのが、所有物である。こんないろんな所有物のなかで絶対的に自分のものがある。やまちゃん自身の自慢の肉体である。鏡にむかってポーズをとるやまちゃん。右手をあげたら、鏡の向こうのやまちゃんは左をあげた。どういうことなのか。真相解明だといわんばかりに、探偵を雇って調査する。元イタリアンシェフの筋金入りの探偵である。自分自身のからだは自分が所有する。だから、身売りなんてしない。たしかに、貴重なへその尾を売ってしまうやからがいらっしゃるかもしれない。それでも、自分のからだのすべてはぜっていに自分のもんだ、とガードレールのうえでうんこすわり、バランスをとりながらスナック菓子を食う若者がくっちゃべってる。すずめのようなそのしぐさがとてもかわいい。母性本能ではなく、わきの下をくすぐられる思い。ところが、ここでいきなり頭上注意である。注意事項を聞かないと、デザートをたべないといけないはめになる。自分の肉体は自分の自由になるだろうか。売れない貸せない。いわゆる意のままにならないから不随意性をもっているのだ。なぜなら、マイ肉体は自分の所有であると同時に自分の存在そのものでもある。存在に参加しているのだ。マルセルはこんな意のままにならない腹話術人形のような身体に真の自由があるという。要するに、私のおっぱい含めたからだ一同は、存在していると同時に所有しているもの。存在と所有のぎりぎりの境界線にいるのだ。

  さて、つぎのお話はファイヒンガ−のかのように哲学についてである。別名、虚構主義ともいう。かって哲学者カントが言っていたように、人間はがんばってまぶたを見開いて、鼻の穴をおっぴろげばいろんなものを認識できる。牛の背中のノミをおいしそうに食っている鳥がみえるだろうか。アフリカのサバンナの下町で見られる心温まる光景である。ちょっと首を伸ばせば、土星人が丸見えである。食い逃げ犯に追いかけられる店主が目に飛び込む。ふと足もとをみると、うんこが逆流している男を発見。とにかく、われわれが見ているのは現象である。どうふんばっても、いきんでも、ラジオ体操してからだをほぐしても認識できないものがある。魂、自由、そして、神様である。これらは統制的原理であるとよくいわれる。統制的とは、人間の認識の限界、統制しているもの。牧場の周囲をかこう柵のようなもの。たしかに、眼をほそめても見えるものではない。それでも必要だというのだ。

  現代においては哲学者ファイヒンガー。魂、自由、神様はなんだかいるかのようなものだという。しかも、おどろくことに、この世のすべてがかのうように存在しているだけ。傲慢にこちらが当店ナンバーワンのにくまんです、と大声はりあげてぶーぶー紙をやぶってしまったところで、本当にそれがにくまんがどうかが怪しい。にくまんかのようなものだ。幾何学ではよく三角形の面積をもめないとおしおきします、とテスト問題に出題される。三角形という言葉を安易に連呼するが、はたして、正確で確実な三角形だといいきれるのだろうか。虫眼鏡で超拡大したところ、線がこまかく折れ曲がっている。三角形かのようなものだ。よく科学者はこの世のすべては原子でできていて、原子核も元気にその中で働いているという。つつがなく原子核もうごめいている今日この頃だという。だが、ここで立ち止まって考えなければならない。原子を顕微鏡でみたとしても、本当にそんな構造していて、そもそも、間違いなく原子なのだろうかと。原子だ、と断定を差し控え、原子かのようなものといえばよい。

   すべてがかのうようなものでも、とりわけ、魂、自由、神さまだけはどうがんばってもみえるものではない。原子だったら、ベストコンディションのときにはっきり見えるかもしれない。魂、自由、神様はその公算は0である。まったくもって、絶対に認識できないからこそ、これは純粋な虚構、純粋なフィクションであり、強烈なかのうようなものだというのだ。ファイヒンガ−はこんなことをやっていったいなにを狙っているのか。つま先立ちをして世界制覇をねらっているものを発見したことはある。100パーセント確実な存在がある。それはいままさに私は産声を大きく張り上げながらこうやって生きているという事実。生の事実こそが確実なのだ。生は確実、それ以外はかのようなものなのだ。

  まとめ

 存在の科学  仮想現実論  われわれ人類の目的 私の目的

   われわれ人類の崇高な目的。はては私の目的とはなにか。仮想現実論から考えていきたい。6次元理論によると、0次元の感覚的直感に始まり、これを1次元の経験的直感、個人的記憶によって蓄積、さらには2次元では目の前のものをありのままに感じてしまう知覚。知覚だけだと立体感がない。モノの裏側、影の部分を考慮しない。そこで三次元をとばして、四次元以降は影次元だといった。四次元は影平面であり、いわゆる論理的なカテゴリー。五次元では影直線である宇宙の記憶。六次元はみんなの意識、意識一般、ないし統覚である。色つきの0から2次元まで、影の4次元から6次元にはさまれて中央にあるのが構想力、イメージ力である三次元。ここで立体的なイメージが形成される。認識の一連のプロセスはこの三次元であるイメージを形成することにある。いかに的確にモノを立体的に認識できるかである。

  この6次元理論を認識ではなく歴史に適用する。0次元は有と無。1次元は直線であり、直線矢印は全宇宙から押され、全宇宙を押すという無機的物質。二次元は微生物であり、三次元は恐竜全盛時代。四次元で人類誕生、五次元は植物であるといった。そして、6次元へといたる。

  こんどは6次元理論をパソコンの働きに当てはめる。なにものかがキーボード入力する。これ0次元である。1次元はメモリであり、ここに一次的データを常駐。2次元と4次元はCPUの計算処理である。5次元はハードディスクであり、6次元はこのパソコンを使っているなにものかの意志。中央の三次元で作られるのが目的の情報である。

  さて、われわれは高等生命体によってつくられたパソコンの仮想世界。人類は4次元であるかた、CPUの論理的な処理をほどこしているところ。2次元である微生物をもとに人類が論理的に解析する。人間のからだは無数の微生物が宿しているといってもよい。そして、1次元である無機的なものを保存する。5次元は植物であり、木を伐採したときの年輪そっくりなハードディスクに保存される。三次元にはなにがくるか。恐竜の時代である。この世界はパソコンのなかの仮想世界であり、恐竜の化石などを手がかりに論理的に思考し、恐竜のイメージをつくりあげるのだ。つまり、パソコンの担い手である高等生命体は恐竜をパソコン上に作っていてわれわれ人類はCPUの計算処理の役割を担う。たしかに、小動物もその昔存在していたはず。いともたやすくそれを推察できる。ただ、恐竜だけはどうも直感的には納得しがたい。論理的に推理しないとイメージが作れない。

  恐竜の物理的な存在感は大きい。つまり、恐竜はある意味存在感の象徴である。だから、われわれ人類が作り上げるのは大いなる存在感である。からだの大きさうんぬんではなく、存在感の大きさ。存在感を強く感じること、これがさしあたっての生の目的ではないだろうか。モノを立体的に認識し、恐竜をリアルにイメージし、自分の存在感を強く感じること。発掘される恐竜の化石はパソコンで入力されたデータである。われわれはこのデータから恐竜を論理的にイメージし、そして、われわれ人類というCPUですらこの恐竜の死骸によってできた石油により活動を得ている。恐竜がいたから石油があるのでなく、恐竜を論理的にイメージするから石油があるのだ。本末転倒こそ、この世界の真実の世界なのだ。大いなる存在感を抱くからこそ、私は存在しているのだ。

  ファイヒンガ−のかのうように哲学がいうように、すべてはかのうようなもの。恐竜の化石かのようなもの。これらは私の生のために不可欠である。マルセルがいうように、私はいろんなものを所有し、そのなかでもとりわけ自分の肉体を所有している。しかし、肉体は所有であると同時に存在でもある。肉体のイメージ、または自分のそとのモノのイメージは0から6次元までが総動員して作られた三次元的立体である。0から2次元までが所有であり、4から6次元までが存在である。そして、その狭間に3次元がある。

  だからこいうことである。仮想、仮象をいかに現実とみなすかである。ここに存在ではなく、存在感がうまれる。

  
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存在の気学  仮想現実と気

存在の気学  仮想現実と気

  仮想現実論の考えを思いっきり取りこむことにする。われわれ人間、そして、この世界がそもそもなにものかが作り上げた高度なコンピューターの中に作られた仮想世界という考えだ。すると、コンピューターの中では電気信号がオン、オフしながら計算処理している。0と1の組み合わせが除法を産む。当然、電気が流れていればそこに電磁場が発生するはずである。フレミングの左手の法則だ。もしも、人体が仮想世界で作られたものなら、たしかに、神経には電気パルスが流れているのはなっとくがゆく。さらに、電気パルスがあるということは、コイル状に電磁場を発生させているに違いない。この電気パルスが発生するさまざまな場、力と磁力を発生させているところが気の通り道ではないだろうか。人体の形状からして、その敢行ルートがある程度定まっているのだ。これによって気の通り道である12経絡が作られると考えられるのだ。
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2008年04月22日

宇宙人 まっしゅ (20080115)

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存在の科学   仮想現実論 宇宙人のパソコンのなかのわれわれの世界 2項対立の巧妙なずれ

存在の科学   仮想現実論 宇宙人のパソコンのなかのわれわれの世界 2項対立の巧妙なずれ

  仮想現実論である。人間はまずひなたぼっこしていると、たいていは円盤があらわれて青白い光に身を包まれ、ヘンなものを埋め込まれる。また、うめこまれちゃったと2、3回はにかんでみせて頭をかく。青白い光を見たとき、おもわず、驚きの表情をする。このとき、われわれは青白い光という感覚をそとからプレゼントされた、与えられたと考える。自分が作ったのではない。これを感覚与件という。また、ただひたすら感じ取っているわけではなく、自ら実践するときもある。手足をうごかして柔軟体操のついでに悪漢にミサイルチョップである。実践nなかでもとりわけ、長けた、人間らしい実践が道徳的実践である。そして、哲学者カントはこんな道徳実践とは自己立法だという。だれかがつくった法に従うのでなく、自分自身が作り上げたものだという。こう考えると、6次元理論をつぎのように解釈することができる。まず、0次元が感覚与件であり、いわば、パソコンのキーボード入力。おそらく、パソコンは不意をつかれる。つぎに、1次元は経験的直感、経験的個人的記憶であり、いわば、メモリの役割をなす。そして、2次元では知覚であり、三次元を中央にしたとき四次元の論理と対をなす。ここにCPUの働きがある。中央の三次元立体がパソコン内部につくられたイメージ、情報である。ちなみに、5次元は宇宙の歴史だといったが、これはハードディスクに相当する。そして、最後に6次元の統覚はいかに。ここに道徳的実践があるのだ。いわば、0から2次元までを入力、4から6次元まで出力であり、このプロセスでパソコン内でのプログラムは繰り返し処理、ルーティン処理が施されいる。この繰り返し処理こそが自己完結性、自己立法としての道徳を作り上げる。こうやって、宇宙人、高等生命体のパソコンのなかで仮想の世界がつくられ、感覚与件から道徳的実践まで、そのすべてがいわゆるパソコンのなかの架空の出来事だったりするのだ。

  存在と無、善と悪、真と偽、内部と外部、男女、肉食と草食。これらは2項対立といわれるものだが、デリダいわくこれらは巧妙にずらされて前者が後者よりも優位に立っていると考えられている。つまり、なぜかアンフェアなのだ。内面は外面よりも尊い。同一性は差異よりもすばらしい。なんでこんな事態がしょうじているのか。自然状態でなら2項対立は完全にフェアなのではないだろうか。じつに、これもまた高等生命体のパソコンのなかに仮想現実としてのわれわれの世界があるとかんがえればなっとくがゆく。パソコンは0と1の二進法、オンとオフのきりかえによってそのデータ処理をおこなっている。オンでは電気が流れ、オフでは電気が流れていない。これが存在と無に対応する。そして、複雑な情報を処理する過程で、どうしても0と1との偏りがうまれるのだ。0と1の組み合わせによって、この2項対立のずれが発生するのだ。こうやって、第三者である高等生命体の関与をもって、2項対立の巧妙なずれを説明できるのである。要するに、一つの方向性をもっているのだ。だから、0と1、2項対立は完全にフェアではなく、アンフェアな状態で刻一刻変化するのである。パソコンの情報をなにかのために使うという目的へむかって方向をもっているのである。

   
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