youtube マッシュTVの動画大量投稿中はこちら(日付順を押して見てください。) とうとう出来ました!存在科学研究所公式ページ 大人の教育番組3ちゃんねる生放送 ジョーカーによるネットテレビ放送!!
ブログパーツならStickam!
 当コンテンツは宗教とは一切関係ございません。哲学、建築等に特化したお笑いコンテンツを目指しております。   マッシュTV音声などのオンデマンド放送もやってます。下をクリックすれば聞けます。  宇宙人養成学校 まっしゅRadio放送局  放送時間はだいだい平日は夜から朝にかけて、土日は24時間。生放送は午後7時から10時の間に放送する場合があります。  雑誌などのメディア掲載は大歓迎です。  相互リンクも大歓迎です。  

2008年05月31日

まっしゅTV vofhdnvlfppdsdss


posted by モノイイ ジョーカー at 18:03| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | マッシュTV  哲学漫談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宇宙人 まっしゅ (20080224)

posted by モノイイ ジョーカー at 17:54| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学  五次元存在論 重力とは、Xがあること

存在の科学  五次元存在論 重力とは、Xがあること

  存在判断におけるなんとかがある。また、ラッセルの言う変項X。なにかがそこに存在すること自体は、質量であり、重力によるもの。ただ、それがなんであるのか、なんのために存在しているのか知性ではわからない。だから変項Xであらわす。匿名のなにかでもある。われわれの住むこの中三次元に大三次元から放たれた単一の素粒子がすべての可能性を現実化して降り注ぐ。中三次元のなかに森羅万象が生成される。このとき中三次元のなかではなんとかがあるという存在判断は中三次元の全体か、はたまた、大三次元から放たれた単一の素粒子を言い表す。一方、なんとかである、という述定判断は、主語に述語を付加することであり、これは中三次元内部における電磁気力、つまりは知性によってなされる。

  また、ふつうに生活し、素朴に自分が人間だと、日本人だとおもっているのだが、これを素朴性という。これに対して徹底的に自分とはないかを反省し、ついには、なんだかわからないだれかという匿名性にいきつく。素朴性は電磁気力であり、匿名性は重力である。しかも、中三次元の全体も、大三次元から放たれた素粒子も知らないからとりあえず変項Xで表現できる。つまりはこうである。重力を発生させている五次元空間を移動する素粒子グラビトンは、その実、私にとってはXであり、存在判断であると。よって、Xがある、と表現できる。
   
posted by モノイイ ジョーカー at 17:49| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂 存在判断と匿名性へ

存在判断と匿名性についてである。私とは一体誰なのか。とりあえず、実家の両親にご相談である。駅前にいるじーっと忍耐強く客引きしている手相占い師は知っているかもしれない。交番にいっても教えてくれない。道はおしれてくれるが、ひとの道についてはどうだろうか。地図をおもむろにひろげて、指でなぞって教えてくれる。指が太すぎてどこの道かがわからない。ささくれは別の道をさしている。私はいったいなにものであり、どこからきたのか。こんなことを必死に考えてもたいした金にならない。肩がふれあって二人の男は互いにまなざす。頬を赤く染めながら恥ずかしそうにけんかうる。そんとき、相手が身長3メートルのロボットのとき、私はだれで、どこからきたのか、と自問し、話をそらす。いい天気ですね、という場合もある。澄みとおるような青空、すがすがしい天気、といいながらのびのびしながら下をむき言い放つ。

  存在判断についてである。夜空をみあげると点滅するジャンボ機が見える。恋人は二人でスクラムを組み、UFOだ、と叫ぶ。なんてロマンチックなのだろうか。星たちはまたたく。夜空には星がある。このとき、がある、というのが存在判断である。ジャンボ餃子、ジャンボジェット機とまあ世の中にはいろんなジャンボがある。がある、といういい方が存在判断。ジャンボジェット機は空を飛ぶものである、と航空力学の専門家がいう。これを聞いた負けず嫌いのすずきさんは、おれだって空を飛べるんだ、とむきになっている。空を飛ぶものである、というときの、である、は述定判断である。この、である、のことはコプラという。

   哲学者デカルトは大胆不敵にも、ごはんにお湯をぶっかけて食べたのでなく、なんと、神様の存在を証明しよおうと試みた。二等辺三角形の証明問題とはわけがちがう。アイロンという概念には、しわを取り除くという述語がくっつく。しかも、鉄でできているとか、熱いとか、いろんな述語がまるでにきびのように付着する。神様の性質、そのくっついている述語とはなにかととりあえず、テレビをみながら真剣にかつ片手間に考えてみる。神様とは存在のことだという。つまり、神様とは、ある、である。存在が述語にくっつくから、神様は存在するしかないというのだ。なるほど、ふむふむと相槌をうちたくなるが、そこれをぐーっとこらえないと熊手かみそりで髭剃り中のときはあぶない。相槌厳禁である。哲学者カントはこんなデカルトの神の存在証明断固反対である。あるとか、存在というのは、走る舐める踊る、というようないわゆる述語ではないという。可能性としての100グラム。現実の豚の細切れ100グラムの以上でも以下でもないという。また、哲学者フッサールいわく、存在とは定立のことだという。このスリッパに見覚えはないのかと取調室にて刑事はデスクのうえに勢いよくこれを置く。スリッパが述語だとしたら、置くことが存在である。山ちゃんは泣き虫である、というとき、泣き虫という述語を置くことが存在だというのだ。

  ブレンターノはすべてを存在判断に作り変えちゃえ、とたくらんだ。鼻をかみたくてもティッシュがない。鼻をかむのが将来の夢と希望だくらいまで差し迫ってきた。そんなとき、友人にティッシュを借りようとたくらむ。巧妙に話術にのせられておもわずティッシュを無利息で貸してしまう。私はうんこである、と枕元で声がした。こんな述定判断は存在判断にチェンジできる。うんこである私がいる。こうやって、すべてを存在判断にチェンジし、さらに人民法廷にて承認と拒否の採決をとる。まさしくこいつは存在する、存在しない。たかがうんこにこれほどまでのことをしているとは驚きである。哲学者マルティは二重判断を提唱する。バッタは緑色である。おもわず、火の打ち所がないくらいに的をえたことをいっているので感動のあまり目をおさえる。おさえた状態でまばたたきができるかをついでに試みる。まぶたには筋肉がない、と心のなかでさびしくつぶやく。バッタは存在すると、まずは存在判断。つぎに、万端準備整って一服でもしたあとに、バッタは緑色だと述定判断をする。こぶしがとんできた。こぶしはまさしくあると存在判断。つぎに、こぶしは硬いものである、と述定判断である。

  マイノングという哲学者はとんでもない発想をした。鉛筆削り付きストッキングというのもとんでもない発想だ。主語にくるものは必ずしも実在しているものとはかぎらない。妖怪ぬらりひょんは存在しない、と叫んでみる。存在しないものを主語にいている。つまり、妖怪ぬらりひょんという主語は、単品だといるかいないか、実在する貸してないかなんて関係のないものだ。それからそでをまくって頭回転して判断するのだから、主語単品ではどっちでもない。存在してしてないなんて細かいことはどうでもよい。存在を超えた存在。つまり、超存在だというのだ。しばしの時間経過、魚にあそこがはえてきて陸上生活がはじまり、新居生活、そして、人類の誕生。そろそろ、述語でくっつけてやるか、といいながら、すそをまくって意気込む。まくるところがまちがっていると親戚に注意され、かーっときておもわず、せっかく買ってきた豆腐を踏みつける。述語をくっつけたとき、超存在は述語にご対面する、相対するものになる。相存在に変身しはうというのだ。

  超存在なんてどうも怪しい胡散臭い。そうおもったラッセルは、主語を全部なぞめいたXにしてしまえと提案。Xはぬらりひょんであり、かつ、ぬるぬるしている、という文になる。このなぞのXは中身がからっぽのうつわだ。くしゃみをしてもなにもでてこないただのつぼだ。なにもでてこないからトウチャン悲しくて涙でちゃう。このXを変項といい、なんでもいれられる箱である。こうすれば、ねらりひょんという名前ですら述語になる。

   次に匿名性と素朴性についてである。フッサールの概念である。私は平然とした顔で野原でうんちする。犯罪のにおい以上に変なにおいがするだろうが、こんなふつうの日常生活において、私は人間であり、男性であるとこれまたふつうに意識している。肩にちからをいれて、人間なんだ、とさけばなくと、人間じゃんと当たり前のように思っている。かがみにうつる自分の姿。テクマクマヤコンといいながら、若白髪を捕獲する。かがみにうつる自分がいて、しかも、名前もある。素朴に自分を意識しているから素朴性だ。素の顔で飛んでいる虫を両手ではさむ。だれの血を吸ったんだ、と刑事は深刻な顔になる。だんだん、深刻になってきて、肩にもちからがはいる。素朴ではなくなってくる。こってこてになるのだ。素朴な態度を自然的態度というが、だんだん異常な態度になる。超越論的態度である。私はいままで、自分を人間だとか、男のなかの男だ、と思い込んでいた。すべては思い込みだから、もうやめてしまおう。すると、名前や国籍すらあやしくなってくる。私はいったいだれなのかわからない。匿名の誰かなのか。超越論的態度とは思い込み一掃であり、自分が自分自身をみつめちゃうこと。こうやって、名前もない、どこからきたのかそのルーツもわからない。ただ、私のまえに時が流れ、カップラーメンに注いだからそろそろできあがってくるころだ。タイムウォッチは不可欠だ。自分のめのまえに流れる時間、じつはこれを作っているのが私のなかに流れる時間、体験流である。さっきよりも少しづつ、元気が回復。刻一刻、私の心持も変化する。自分の中に流れる時。これが体験流なのだ。さらに、こんな体験流すら作っているやつがいる。時間の流れをつくっているのはだれだ。かき氷機は洗濯機に魔法をかけて製作すえる。時間の流れは時間の流れがつくったのでなはなく、絶対的意識流がつくりたもうた、というのだ。絶対的意識流とは、その実、流れているとどうじにとまっているやつ。とまっているから流れをうみだせる。流れているからとまっていられる。つきつめてゆくと、わけがわかからない得体のしれないものにぶちあたる。これが私の正体であり、だれだかわからない匿名のものである。私はジェントルマンであり、あるときは世捨て人でございます、という素朴性。私はだれなんだ、という匿名性である。

 まとめ

 存在の科学  五次元存在論 重力とは、Xがあること

  存在判断におけるなんとかがある。また、ラッセルの言う変項X。なにかがそこに存在すること自体は、質量であり、重力によるもの。ただ、それがなんであるのか、なんのために存在しているのか知性ではわからない。だから変項Xであらわす。匿名のなにかでもある。われわれの住むこの中三次元に大三次元から放たれた単一の素粒子がすべての可能性を現実化して降り注ぐ。中三次元のなかに森羅万象が生成される。このとき中三次元のなかではなんとかがあるという存在判断は中三次元の全体か、はたまた、大三次元から放たれた単一の素粒子を言い表す。一方、なんとかである、という述定判断は、主語に述語を付加することであり、これは中三次元内部における電磁気力、つまりは知性によってなされる。

  また、ふつうに生活し、素朴に自分が人間だと、日本人だとおもっているのだが、これを素朴性という。これに対して徹底的に自分とはないかを反省し、ついには、なんだかわからないだれかという匿名性にいきつく。素朴性は電磁気力であり、匿名性は重力である。しかも、中三次元の全体も、大三次元から放たれた素粒子も知らないからとりあえず変項Xで表現できる。つまりはこうである。重力を発生させている五次元空間を移動する素粒子グラビトンは、その実、私にとってはXであり、存在判断であると。よって、Xがある、と表現できる。
   
posted by モノイイ ジョーカー at 17:47| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月30日

宇宙人 まっしゅ (20080222)_1

posted by モノイイ ジョーカー at 16:49| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学  五次元存在論 論理とは他人である仮説

存在の科学  五次元存在論 論理とは他人である仮説

   論理的に考えるための枠組み。これをカテゴリーという。論理的なカテゴリーとはいわば、あらゆる言葉の文法のベースになる。さまざまな法則のベースにもなっている。論理、カテゴリーは人類共通の普遍的なやからだ。だから、私とあなたとのコミュニケーションが成立する。

  昔から哲学では論理的なカテゴリーって私自身の存在だと思い込んでいた。私がロゴス、論理を自在に使い、ものを考え、イメージする。ところが、よくよく考えると、カテゴリーは人類、世界共通のもの。私が論理、カテゴリーではなく、ひょっとして、他人が論理、カテゴリーではないかと。


   私の存在とは質量をもつ物体、つまり、人体である。当然、五次元宇宙からやってきたグラビトンという素粒子が重力を生み出す。これにたいして、われわれの住む中三次元世界の板上を平行移動する素粒子がフォトン。つまりは、電磁気であり、これが脳の神経に流れて思考する。これがカテゴリーの正体である。論理と感情はこのように電磁気力と重力のことであり直交する。

  大宇宙から放たれたひとつの素粒子が矛盾論理の五次元空間をとおって、中三次元世界に入ってくる。このとき、矛盾論理を通過するから単一が数多になる。ひとつの粒子はぶつかるかもしれない、右にいくかも、左かもしれない。こんなあらゆる可能性が現実化するというパラレルワールド。だから、森羅万象がうまれたのだ。多種多様な森羅万象がたったひとつのものであるというのは、類似性という概念をうむ。馬とかばがにているのは、月とすっぽんの類似性はこの一なる素粒子の多なる素粒子への変貌からうまれる。電磁気のなかでこの一と多の混在が現れるのが、ほかでもない類似性の概念だ。実際に私と他人、他者は同じひとつのもの。さらに三次元空間において電磁気力が無限遠方まで届き、移動するのは、この素粒子の原初にたちかえろうとしているからだ。携帯電話も電磁波によってコミュニケーションを可能にする。テレビラジオも電磁波だ。私にとっての他人とは、類似性であり、類似性とはあまねくすべてに当てはまる論理的なカテゴリー。つまりはこうである。ロゴス、論理、カテゴリー。これらがコミュニケーション、私と他者を貫くものだったが、その実、私の本体を重力とみなしたとき、私はロゴス、論理から排除される。他者が論理、カテゴリーということになるのだ。コミュニケーションそのものが他者であり、イメージ、論理的な思考そのものが他者である。他人、他者はとりわけ、電磁気力による一なるものの回帰がなされるときに強く現れる。
  
posted by モノイイ ジョーカー at 16:46| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂 カテゴリーと他者性へ

カテゴリーと他者性についてである。私は論理的に思考する。将棋しているときは、相手の手を読む。どんな動きをするか、いきなり正座の状態でトルネードアタックをするかもしれない。不測の事態にそなえて、剣道着で防御する。相手は巧妙に私の恥ずかしいところ、つまり、鼻の穴をのぞく。恥ずかしくて、カクシェルターがあったら入りたい気持ちだ。残念ながら、竪穴式住居しかない。しょうがない、ということでふてくされながら竪穴式住居にけつを突っ込む。尻を隠さず、頭の隠さず。チェスだって、クロスワードパズルだって、考えて解く。茶の間で玄米茶を妖怪のようにすすっていると、突然、得たいのしれない外国人が姿をあらわす。身振り手振りで意思の疎通をはかる。英語文法と日本語文法はあらためてちがうことを実感。それでも、論理、理屈は人類共通、世界共通であることに気がつき。喜びいさんでスキップし、スキップが下手だ、と友人に指摘される。らかだか小学校からの浅い付き合いなのに、そこまでいわないでいいだろう、と思いつつ、つくり笑顔をする。


  人類、世界共通なのは論理である。つまりはカテゴリーといわれるもの。カテゴリーとはいったい何物だ、名を名乗れ、といいたくなる。カテゴリー、どうやらこの響きからするとカタカナのようだ。西洋かぶれで皮膚科に通う主婦男性56歳。カタカナ名の羅列に絶えられる強靭な精神力の持ち主。カタカナ嫌い、レ点大好きのひとだっている。カテゴリーとは日本語では範疇という。
  
  重要なのは中身である。かって、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは10個のカテゴリーを適当に拾い集めた。カテゴリーとは最高類だという。いろんな類がある。ハサミムシくんは昆虫組合に所属。昆虫というより大きいグループのなかにいる。昆虫は生物組合に属する。生物という類に所属して、一生懸命葉っぱを食って芋虫は成長し、美しい白鳥になる。醜い芋虫という愛と感動のドラマ。こうやって、もっとも大きい類に到達する。これが最高類である。生物だって、存在している連中の一部。存在という類である。因果性、時間、空間、これらも最高類であり、カテゴリーだとむきになって主張したか、さりげなくつぶやいたは知らない。一級さん、むきになって口をとがらせ変なところに力をいれて、そして、ひらめく。

  カテゴリーという最高類を拾い集めるだけでなく、浜辺にて美しい貝殻を拾っていたら、貝にかみつかれたるする。いそぎんちゃくの優柔不断な動きに嫌気がさして、もうなにもするな、と怒鳴る。カテゴリー、最高類はそもそも、ちゃんと順をふんで集めたほうがよい。しかも、カテゴリーはそこらにころがっているUFOの残骸にそなわっているものではない。人間が物を認識するときに使われるいわば道具のようなものだ、と考えちゃったのが哲学者カントである。まずは、ひとは判断をする。ここで足をあげるべきか、手をあげるべきか、強盗に襲われたときに判断に迷う。そんなときに便利なのが、判断表である。相撲の番付表がほしい、とたんざくにかかれている。判断表もほしい。判断するための手引きであり、これに基づき、カテゴリーを選出。そして、人間は四つのカテゴリーを生まれたときから先天的にもっているとカントはいう。量的に何グラムで、長さ的には何センチの靴下ですか、と問う。的をつけすぎ。量のカテゴリーであるが、ほかにも物事の質を認識するときは質のカテゴリー。じいさんと若い女性が背中合わせになって近づいてくる。二人はどんな関係かと考えるときは関係のカテゴリーである。商店街でおばちゃんの乗ったちゃりんこがつっこんでくる。危ない、そもそも、このちゃりんこは夢か幻か、現実か。否、必然的に自分のところにあらわれたのか。様相のカテゴリーを使った一例である。

  哲学の歴史をだるまさんがころんだ、といいながら振り返ってみると、どうやら、存在とはなにか、という問題から、なんでおいちゃんはきゅうりを認識できるのだ、という認識論へと変化していった。カテゴリーも存在論的なものから、認識論的なものへとチェンジした。現代においてはまさに生きているというところにカテゴリーがあるという生の哲学が誕生。哲学者ディルタイである。科学の法則のなかにみられるカテゴリー。たとえば、相互作用の法則。つっぱりをすると、相手も頬にダメージをうけるが、つっぱった当人の手も同じ力で押し返される。相互作用の法則は自然界に潜んでいるのでなく、生きている、生のなかに潜んでいる。四次元ポケットのなかに商品がひそんでいた。どろぼう、と叫ぶ店員。たけとんぼをあたまにくっつけて走り去るロボット。なんとも穏やかな光景だ。生きているまさにその充実した瞬間に生のカテゴリーがあり、これが曲がって伸びて変形したものが自然界のカテゴリーになる。相互作用の法則もまた、挫折、抵抗感という生のカテゴリーが変形したもの。貝になりたくともなれない。壁にぶちあたって当惑、挫折。ラーメン屋、クリーニング屋があるからこのまま直進できない。壁にあたる。こんな抵抗感が相互作用の法則に化けるのである。

  生の哲学は重々しい。ヘビーなのだが、もっとライトで口当たりさわやかという一品をご紹介。これが現代の言語哲学である。言葉の構造を研究すると、ここにカテゴリーがあるという。まず、主語やら述語、言葉には階層があることにきづかされる。やまちゃんはさとちゃんは人間ではないといった。やまちゃんの発言について語る。やまちゃん、さとちゃん、そして、私は同じ次元にいない。レベルのちがうところでうんぬんしているのだ。

  さて、ここでいきなりお話は飛躍するようだが、他者性についてである。他人とはなんなのか。ふと満員御礼列車のなかで思う。つり革にぶらさがりながら、ついでにあごしたを掻きながら考える。さるか人か、はたまた、雪男か。とにかく、他人の存在について考える。十人十色、さまざまなひとたちがこの世界にはいる。無類のかかとフェチ。おっぱいにはさんでくるみを割る天才。かっては哲学は自己中心的な考えにどくされていた。とにかく、自分だけがテレビにうつりたいとテレビカメラにむかってピースする。帝国主義的自我といい、なんでもすべて私のなかに詰め込む。全部、私のものだ、という傲慢さ。それでいて、年賀状は欠かさないという律儀さ。私がこの世界をイメージし、作ったというものもいる。他人すら私が手作りしたものだ、と豪語する。

  現代においてはやっぱり他人は作り物ではないことに気がつく。その動きが予想できない。優柔不断なインベーダー、右往左往し、動きがぎこちない。インベーダーを攻撃していたら、その顔つきがかわった。青ざめているが、ひょっとしたら具合でも悪いのではないかと心配する。他人はわからない。そこで、直接、そのひとの心を見通すことができないから、間接的に推理するしかない。人形か、人形焼かと推理し、どうも、心をもった人間だろ断定。これが哲学者フッサールの類比化的統覚だ。そうではなく、そのまどろこっしいことではなく、ごちゃごちゃせずにダイレクトに他人と接することができる。これがブーバーの我汝である。私はあなたと直接アクセスできちゃう。我それ関係では、私は直接岩石につっこむ。私と物体との関係だ。

  さらに、そもそも、私と私以外にもの、主観と客観とを何で区別しているのか。区別しないとお尻をぺんぺんひっぱるぞ、と何物かに脅かされているのか。ぺんぺんと引っ張るとは、どうも理解しがたいと電線にとまるすずめが首かしげる。哲学者メルロポンティは考えた、最初に肉があったと。肉に亀裂が入って、まるで美しいけつの割れ目をみるようだ。右のしりっぺたが私、左のしりっぺたが他人。こうやって、同じ肉に亀裂はいって自分と他人にわかれた。だから、どっちが私でどっちが他人なのかはどうでもよいおやじのパイ毛。おやじのパイ毛ががけからおちそうになっていてもどうでもいいから助けない。自分と他人は簡単に入れ替わる。

  そこで哲学者レヴィナスが出現。私と他人は絶対にちがう。私はおかしくて笑いそうになる。代わりにやまちゃんが笑う。悲しくてせつない。なぜだか、さとちゃんが泣く。ひょっとして、神経がつながっているのではかと懸念する。そうではなくて、私はあくまでも私自身の顔面をうごかし、表情をつくるし、腕や足を動かせる。他人の足をあやつれない。私は他人であるやまちゃんをいきなり捕まえる。うまく投網にひっかかった。それでもやまちゃんの心の全体まではつかまえられない。なにを考え、どんな感情をいだいているかわからない。私のことを好きですかと執拗に尋ねる。他人の全体はつかめず、それは無限なのだ。つまり、他人は神様のような無限性である。お客様は神様です。なるほど納得である。首をたてにふったらフケが大量に落下し地球汚染してしまう。ところが、私は私自身の全体をまるごとつかまえることができるか。自分の正体がわからない。他人と同じくらい自分もわからない。無限の暗闇で100ワットの電球をもってしても見えない。私のなかに他人がいる。これがレヴィナスの結論だ。

  まとめ

  存在の科学  五次元存在論 論理とは他人である仮説

   論理的に考えるための枠組み。これをカテゴリーという。論理的なカテゴリーとはいわば、あらゆる言葉の文法のベースになる。さまざまな法則のベースにもなっている。論理、カテゴリーは人類共通の普遍的なやからだ。だから、私とあなたとのコミュニケーションが成立する。

  昔から哲学では論理的なカテゴリーって私自身の存在だと思い込んでいた。私がロゴス、論理を自在に使い、ものを考え、イメージする。ところが、よくよく考えると、カテゴリーは人類、世界共通のもの。私が論理、カテゴリーではなく、ひょっとして、他人が論理、カテゴリーではないかと。


   私の存在とは質量をもつ物体、つまり、人体である。当然、五次元宇宙からやってきたグラビトンという素粒子が重力を生み出す。これにたいして、われわれの住む中三次元世界の板上を平行移動する素粒子がフォトン。つまりは、電磁気であり、これが脳の神経に流れて思考する。これがカテゴリーの正体である。論理と感情はこのように電磁気力と重力のことであり直交する。

  大宇宙から放たれたひとつの素粒子が矛盾論理の五次元空間をとおって、中三次元世界に入ってくる。このとき、矛盾論理を通過するから単一が数多になる。ひとつの粒子はぶつかるかもしれない、右にいくかも、左かもしれない。こんなあらゆる可能性が現実化するというパラレルワールド。だから、森羅万象がうまれたのだ。多種多様な森羅万象がたったひとつのものであるというのは、類似性という概念をうむ。馬とかばがにているのは、月とすっぽんの類似性はこの一なる素粒子の多なる素粒子への変貌からうまれる。電磁気のなかでこの一と多の混在が現れるのが、ほかでもない類似性の概念だ。実際に私と他人、他者は同じひとつのもの。さらに三次元空間において電磁気力が無限遠方まで届き、移動するのは、この素粒子の原初にたちかえろうとしているからだ。携帯電話も電磁波によってコミュニケーションを可能にする。テレビもラジオも電磁波だ。私にとっての他人とは、類似性であり、類似性とはあまねくすべてに当てはまる論理的なカテゴリー。つまりはこうである。ロゴス、論理、カテゴリー。これらがコミュニケーション、私と他者を貫くものだったが、その実、私の本体を重力とみなしたとき、私はロゴス、論理から排除される。他者が論理、カテゴリーということになるのだ。コミュニケーションそのものが他者であり、イメージ、論理的な思考そのものが他者である。他人、他者はとりわけ、電磁気力による一なるものの回帰がなされるときに強く現れる。
  
posted by モノイイ ジョーカー at 16:44| 東京 ??| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宇宙人 まっしゅ (20080222)

posted by モノイイ ジョーカー at 17:05| 東京 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学    五次元存在論  われわれの住む世界はパラレルワールドである     b暗黒物質、磁力は素粒子の進入角度が直角

存在の科学    五次元存在論  われわれの住む世界はパラレルワールドである     b暗黒物質、磁力は素粒子の進入角度が直角

  われわれの住む中宇宙という三次元。そして、夜空の銀河系の大宇宙。さらに微小な原子の世界、これが原子宇宙、ないし、小宇宙となづけた。これら三つの三次元宇宙が五次元宇宙に存在する。三次元宇宙を板のように考えると、大宇宙から放たれた素粒子は矛盾と混沌、三次元の空間法則、論理の成立しえない五次元を通過し、われわれの中宇宙に直交気味に侵入。これがいわゆる重力である。そのとき、大宇宙から放たれた1なる素粒子が五次元の矛盾空間を通過することで、多なる素粒子になって中宇宙にふるそそぐ。この五次元では、こうかもしれない、ああかもしれないという可能性がすべて現実化して、中宇宙に降り注ぐのである。つまり、われわれの住む中宇宙はパラレルワールドだといいたいのだ。ひとつの素粒子からたくさんのものが生み出される。森羅万象がつくられる。素粒子はやまちゃんの鼻になっていたかも、岩石の一部になっていたかも、これらの可能性が現実化したのがわれわれの中宇宙である。大宇宙ではひとつ、中宇宙に多となってふりそそぐという、いわば、コーン状になっている。

  さらに、小宇宙の原子から放たれた素粒子はどうか。じつに量子力学では原子核の周りにはひとつの電子が無限の位置に同時的に存在しているという。つまり、雲のようになっているから電子雲という、われわれがこの原子を見たその瞬間に電子の位置が確定されるという。つまり、大宇宙とは逆に、複数の電子がわれわれの中宇宙にたどり着くとひとつにななっている。多が五次元の矛盾空間を通過して一になる。これまたコーン状になっている。時間的な順番が大宇宙から中宇宙へ、小宇宙から中宇宙へと向いている。だから、この方向性をかえれば、大は小に小は大にもなる。そもそも、この大宇宙はでかい、たったひとつの大きな宇宙なのだから、一から出発だ。原子の小宇宙は、たくさんあるから小さなものは多から出発する。大小の大きさの概念はここから生まれている。

   そらを見上げると、光のない暗黒物質があるという。これをダークマターといい、物質をすいこんでいるのでなく、押しのけている。つまり、重量でなく反重力をもつという。このダークマーターの周りに星、銀河が散在する。じつは、これが重要なのだ。大宇宙から放たれた素粒子が中宇宙に直角に侵入すれば、これが重力であり、そのときの素粒子はグラビトンである。もし、鋭角に三次元の板に進入したら、しばし、三次元上を素粒子が横移動する。つまり、電磁気力となって出現。このときの素粒子はフォトンといわれる。フォトンもグラビトンも同じものであり、進入角度のちがいによるもの。だから、光は両脇から鋭角に侵入し、中央部では直感に進入、まさに、素粒子による圧力を感じる。周囲に光輝く星たちがみえる。これは電磁力、フォトンとなって鋭角に進入したものだ。中央は黒くて反重力で膨張気味。これはじつは直角に進入したグラビトンであり、反重力となってあらわれるがこの三次元では重力になる。

  小宇宙、原子から同じような事態が想定される。中宇宙に鋭角に進入すれば電気力。直角に進入すればおそらく磁力になる。電気力に直交する見えない素粒子である。

  私は世界をいろいろと可能性のなかで解釈し、思考する。つまり、中三次元を移動する素粒子、フォトン、電磁力である。中三次元の板に平行した移動は可能性、思考、イメージの世界。つまりはあれやこれやの解釈の世界である。これらたくさんの可能性がすべて現実化したのが、中三次元の森羅万象である。パラレルワールドの世界とはわれわれの住むこの世界だ。電磁力による私の電磁パルス的な思考。これが全体的に真理に収束する。合理的につじつまをあわせる。ここまで電磁気力の知性のなすべきこと。もうひとつに哲学者パトナムがいうように、私の存在は神様のように世界のそとで世界をイメージしているのでなく、世界とともに、世界のなかにいる。だから、私の存在を無視してはいけない。私と世界が共同で世界をつくるといっていたが、まさに私の存在、人体、物質は質量をもち、重力をもち、よって、五次元世界とのつながりを有する。電磁気力、フォトンは中三次元内部でのお話である。だから、五次元とのつながりは私の肉的な存在、その重力のなかにある。
     
posted by モノイイ ジョーカー at 17:03| 東京 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂 現実性、実在性、そして、内在的実在論へ

現実性、実在性、そして、内在的実在論についてである。現実から目をそむけてはいけない、と自分に言い聞かせ、便器のなかを見つめる。およそ、受けれがたい物体Xが目のまえに出現した。現実はそれほど甘くないとキュウカン鳥のきゅうちゃんがいう。重い言葉を口走るきゅーちゃん。現実から逃げてはいけない。ナマハゲに恐れおののき、後ずさりではなく、なきながらタックルである。冷たい現実に出くわしたら頭からつっこむ。勢いあまって、つむじの赤いボタンがオンになり、背中に装着してあるメリーゴーランドが回り出す。田舎のじいさんがチンパンジーとなにやら変なことをしているのを目撃。ふつうはそんなあさましい光景をみたら、涙しながらホップステップジャンプで大通りを横切る。そうではなく、チンパンジーとじいさんのあいだにスライディングタックルである。現実と実在という言葉はそっくりだ。微妙にちがうニュアンスがある。スポーツがりとゴブガリの違いを大声ではきはきと答えられる青少年の数はめっきりすくなくなり、いまでは日本狼についで絶滅危惧されているかもしれない。現実と実在、どこがちがうのクエスチョン

  現実性とは何か。雪男が実在している、という言い方はどちかというとライトである。甘口カレー風である。ボールペンキャップが実在している。これまた、そっけなく鼻歌をうたいながらでもいうことがでできる。ナイスボディーが近づくと、鼻歌はいつしか鼻息に変わり、そして、泳いでいた目は血走った目に変貌。羊が狼となる。じつに、ボールペンのキャップがあるんだよ、ということ。その隣に、電磁波で攻撃するなぞの兵器があったとしても、これとの関係は考慮しない。キャップだけで閉じている。ところが、現実性は、キャップと秘密兵器、さらには、低気圧とのダイナミックな関係も視野にいれる。つまり、宇宙のいろんなものの実在がたくみなプレーで存在している。

  哲学者カントはひょっとしたらの可能性に、感覚が飛び込んできて現実性だと考える。たしかに、じいさんはあざらしと添い寝している可能性はある。論理的には矛盾していない。そして、部屋のドアをひらけごまであけてみると、実際に添い寝の光景が感覚的に目に飛び込んできた。可能性に感覚が少々入って、現実性の出来上がり。可能性の条件に感覚がくっつく。

   哲学者ヘーゲルは目で見て現実だ、というのでなく、そしらぬ顔でそらをみあげていても、ズボンのなかには四次元の道具が現実に存在している。認識しているしていないなんて関係のない概念だと考えた。現実存在と本質がブレンドされて現実性だという。胸ポケットには切符が入っている。電車にのって、涼しい顔で広告でもみる。扇風機の風が直撃して、ヘアースタイルが大打撃。自然界の猛威である。それでも、ポケットのなかの切符の現実存在、そして、その本質は融合だ。切符の本質とは、いわゆる、切符の可能性であり、かどをつかってつめアカを取れる、これを使うことで都内を電車移動できるという性質だ。

  現代においては哲学者ハイデガーである。現実存在という概念である。現実存在とは人間のことだ、と主張。私の存在、私は私自身の存在に気を払う。ネクタイは曲がってないか、それとも、燃えていないのか、便所のかがみで確認する。それだけでなく、自分は存在していると思わず実感。存在が存在にかかわっている、これが現実存在である。

  次に実在論についてである。中世においては、普遍論争なるものがわきおこった。みんなで肩を組んで仲良く論争だ。普遍的な概念はたくさんある。人間、くるま、漬物。じつに、ただ漬物っと叫んだだけでもどこの漬物であり、どれを指しているかわからない。つまり、漬物というのはあらゆる漬物に当てはまっちゃう普遍的なもの。こんな普遍的な漬物そのものが実在するというが中世の実在論。また、これに対して、漬物というのはただの名前、名札じゃん、というのが唯名論である。

  近世においてはイギリス経験論。まず最初に印象が飛び込んでくる。くさい、まずい、という感覚的印象を心のなかでくみたてて、腐っている刺身だ、とイメージを作る。心のなかのイメージ、観念。すると、実在している腐った生魚はわきにのけられてしまう。観念論対実在論の激烈な戦いがここに始まる。

  現代においては科学理論は実在するのか、と首を傾げ始める。万有引力の法則、数学の法則、これらは目にはみえないがどこかに隠れているのか。かうれんぼうの達人をもってしてもみつからない。そこで、科学理論って実在しないじゃないの、という反実在論がうまれる。還元主義、道具主義である。やまちゃんは実在するか、亀のぴーこちゃんは果たして実在するが、なんとかスペシャル取材班は小鳥屋に潜入する。ぴーこちゃんもやまちゃんも、原子の粒に置き換えられる。これがひとつの単純なやつに還元しちまえ、ということで還元主義。道具主義とは、そもそも、科学の理論は宇宙がうつしだされたものでなく、役にたつかたたないかというただの道具だという。ハエ叩きはハエのあたまをなでるための道具。科学理論はたしかに現代の科学技術を支えている役に立つものだ。おかげさまで炊飯ジャーはボタンひとつでそらを飛ぶ。

  もうひとつ、この宇宙にはいろんなやつらが実在してやがるというのが形而上学実在論。これにたいして、あたまごなしに傲慢に実在してるんだよ、と机をたたくのはよくない。少しづつ、おつむひねって考えて、実在に近づくという内在的実在論がある。

  哲学者パトナムの内在的実在論について少しお話したい。当初、パトナムは形而上学的実在論の立場だった。ところが、後期はひるがえって内在的実在論を主張した。まずは、前期思想である形而上学的実在論である。自分の外に宇宙があって、そこにたくわん、味噌づけ、福神漬け、なんでも実在している。これを心のなかのイメージがあれやこれやと組み合わせ、正しい組みあわせをつくる。いろんなイメージの組み合わせがあるが、宇宙はそのなかのたったひとつの正しい組み合わせだというのだ。たくわんを正しくイメージ。これを実際に実在するたくわんと照らし合わせ、一致する。こうやって、イメージと実在してるものを一対一に対応させて硬い絆でむすんじゃう。世界、宇宙の正しい記述、組み合わせがあるんだよ、これが目には見えない宇宙の全体を考えるから形而上学的実在論だ。

  パトナムは論理学上の原則、レーヴェンスコーレムの定理に出会い、考えを大きく転回。おもかじいっぱい、おもいでいっぱい、おもいでいっぱい、方向転換でござる。宇宙にはいろんな要素がある。ABCDEFG・・他品数豊富。これらの要素を例によって一対一に対応させて、赤い靴紐でむすんでしまう。つまり、カップル、ペアをつくるのだが、宇宙は無限の要素があるから、一対一には完全には対応しないというのだ。真理の対応説が音をたてて壊れる。そこで、自分の外の世界と自分の内側の心にわけちゃうのがよくないなと反省。すべては内側で、そこにすべてが実在していると考えればよい。まず、あれやこれやといろいろと世界を解釈。世界はバナナの皮でできるのか、パンツのきはしでできているのか。さまざまな解釈が切磋琢磨して、ほどよく合理的にくみあわさってゆく。こうやって、ひとつの真理にどんどんちかづいてゆくという。これを真理への収束という。さらに、私のそとの世界、うちの心というのではない。私も世界とともに世界といっしょにいる。私は神様のように、世界を将棋のこまのようにつまんで、レーンになげつけ、ストライクねらってしまうのでなく、世界とともに、世界のなかにいる。だから、世界、宇宙は私が作るイメージであり、私は製作者ではなく、あくまで、世界、宇宙といっしょに仲良く肩をくみながら創って行くものなのだ。私と世界が共同戦線で世界をつくるというのだ。


   まとめ
  
  存在の科学    五次元存在論  われわれの住む世界はパラレルワールドである     b暗黒物質、磁力は素粒子の進入角度が直角

  われわれの住む中宇宙という三次元。そして、夜空の銀河系の大宇宙。さらに微小な原子の世界、これが原子宇宙、ないし、小宇宙となづけた。これら三つの三次元宇宙が五次元宇宙に存在する。三次元宇宙を板のように考えると、大宇宙から放たれた素粒子は矛盾と混沌、三次元の空間法則、論理の成立しえない五次元を通過し、われわれの中宇宙に直交気味に侵入。これがいわゆる重力である。そのとき、大宇宙から放たれた1なる素粒子が五次元の矛盾空間を通過することで、多なる素粒子になって中宇宙にふるそそぐ。この五次元では、こうかもしれない、ああかもしれないという可能性がすべて現実化して、中宇宙に降り注ぐのである。つまり、われわれの住む中宇宙はパラレルワールドだといいたいのだ。ひとつの素粒子からたくさんのものが生み出される。森羅万象がつくられる。素粒子はやまちゃんの鼻になっていたかも、岩石の一部になっていたかも、これらの可能性が現実化したのがわれわれの中宇宙である。大宇宙ではひとつ、中宇宙に多となってふりそそぐという、いわば、コーン状になっている。

  さらに、小宇宙の原子から放たれた素粒子はどうか。じつに量子力学では原子核の周りにはひとつの電子が無限の位置に同時的に存在しているという。つまり、雲のようになっているから電子雲という、われわれがこの原子を見たその瞬間に電子の位置が確定されるという。つまり、大宇宙とは逆に、複数の電子がわれわれの中宇宙にたどり着くとひとつにななっている。多が五次元の矛盾空間を通過して一になる。これまたコーン状になっている。時間的な順番が大宇宙から中宇宙へ、小宇宙から中宇宙へと向いている。だから、この方向性をかえれば、大は小に小は大にもなる。そもそも、この大宇宙はでかい、たったひとつの大きな宇宙なのだから、一から出発だ。原子の小宇宙は、たくさんあるから小さなものは多から出発する。大小の大きさの概念はここから生まれている。

   そらを見上げると、光のない暗黒物質があるという。これをダークマターといい、物質をすいこんでいるのでなく、押しのけている。つまり、重量でなく反重力をもつという。このダークマーターの周りに星、銀河が散在する。じつは、これが重要なのだ。大宇宙から放たれた素粒子が中宇宙に直角に侵入すれば、これが重力であり、そのときの素粒子はグラビトンである。もし、鋭角に三次元の板に進入したら、しばし、三次元上を素粒子が横移動する。つまり、電磁気力となって出現。このときの素粒子はフォトンといわれる。フォトンもグラビトンも同じものであり、進入角度のちがいによるもの。だから、光は両脇から鋭角に侵入し、中央部では直感に進入、まさに、素粒子による圧力を感じる。周囲に光輝く星たちがみえる。これは電磁力、フォトンとなって鋭角に進入したものだ。中央は黒くて反重力で膨張気味。これはじつは直角に進入したグラビトンであり、反重力となってあらわれるがこの三次元では重力になる。

  小宇宙、原子から同じような事態が想定される。中宇宙に鋭角に進入すれば電気力。直角に進入すればおそらく磁力になる。電気力に直交する見えない素粒子である。

  私は世界をいろいろと可能性のなかで解釈し、思考する。つまり、中三次元を移動する素粒子、フォトン、電磁力である。中三次元の板に平行した移動は可能性、思考、イメージの世界。つまりはあれやこれやの解釈の世界である。これらたくさんの可能性がすべて現実化したのが、中三次元の森羅万象である。パラレルワールドの世界とはわれわれの住むこの世界だ。電磁力による私の電磁パルス的な思考。これが全体的に真理に収束する。合理的につじつまをあわせる。ここまで電磁気力の知性のなすべきこと。もうひとつに哲学者パトナムがいうように、私の存在は神様のように世界のそとで世界をイメージしているのでなく、世界とともに、世界のなかにいる。だから、私の存在を無視してはいけない。私と世界が共同で世界をつくるといっていたが、まさに私の存在、人体、物質は質量をもち、重力をもち、よって、五次元世界とのつながりを有する。電磁気力、フォトンは中三次元内部でのお話である。だから、五次元とのつながりは私の肉的な存在、その重力のなかにある。
     
posted by モノイイ ジョーカー at 17:01| 東京 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月28日

宇宙人 まっしゅ (20080221)

posted by モノイイ ジョーカー at 18:15| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学  弁証法的唯物論は精神世界だった

存在の科学  弁証法的唯物論は精神世界だった

  宇宙にある四つの力。たとえば、電磁気力はいわゆる思考活動をうみだす。脳、神経の電気パルスである。思考や認識、超越論的論理学、形式論理学。これらは電磁気力によって生み出される。記号をあやつって理屈を考える形式論理学。私はバナナを認識しているが、どうやって認識しているのかと私自身をも巻き込んで考えてしまう超越論的論理学。バナナをむさぼりくい、われを忘れているときも確かにバナナを論理的に考える。私とバナナの両方をともに考えてしまう超越論的論理学。電磁気力の働きはこんな領域にまで及ぶ。これに対して、認識、論理ではなく、存在とはどこにいってしまったのか。存在の重さ、軽さ。存在しているものは質量を有する。質量があるとは重力が発生する。重力とは、別の三次元との力学的な交渉である。ハイデガーは思索とは存在の声を聞くことだといった。存在しているものは重力によって、素粒子であるグラビトンの発生、消滅によって、その声に聞き従い、思索する。これは論理的に考えることとは違う。電磁気的な思索ではなく、重力的な思索だ。

  さて、残り二つの力である。素粒子間の弱い力によって、素粒子は動き回る。これがいわゆる経験的意識である。そこでは習慣的イメージが作られている。原子の中央に鎮座しているのが原子核。原子核をまとめている強い力。これは私が私自身を意識しているという人格の同一性である。経験的自己意識である。原子が思索する。

   認識や存在、経験的自己意識や経験。なにかを忘れている。歴史である。歴史はもうすでに無い。未来はいまだ無い歴史である。いずれにしても、無に歴史はつまっている。隙間、穴、点、無のなかに歴史は温存される。無の点といったら、ブラックホールの中心部。すべての物質が圧縮され、空間、自然の法則がぶちこわれる。矛盾にみちた世界。じつに、物体の重力の中心もまたブラックホールのように、5次元空間につながる。ここでは三次元の論理は通用しない。


   かって、弁証法的唯物論というものがあった。矛盾し合うものがアウフヘーベンされて、レベルアップ。こうやって、宇宙は進化発展する。ヘーゲルはあくまでも、あたまのイメージの世界だとマルクスは批判。そうではなく、現実の物体、物質に弁証法を適用すると言い出す。すると、このわれわれの歴史は矛盾しあうものがアウフヘーベンされた物質の進化過程だということになる。プロレタリアートの労働者階級とブルジョワジーの資本家階級の闘争だという。矛盾しあうものがアウフヘーベンである。そして、この弁証法に従った歴史を歴史的必然とよぶ。これから世の中は弁証法の法則にしたがって、こうならざるをえないという必然性があるという。また、物体の法則でもあるから弁証法的唯物論ともいう。

  さて、ここで注目である。究極的な矛盾、弁証法の世界は五次元だといった。しかも、この五次元中の三次元空間のあいだを伝達しているゲージ粒子がグラビトン。これがいわゆる重力をうみ、三次元中の質量ある物体を成立させている。つまり、物体と矛盾の論理とは、重力と弁証法的な五次元宇宙のことではないか。しかも、前述したが、この五次元宇宙こそ無の点の中身であり、ここに人類、宇宙のすべての歴史がつまっている。矛盾にみち、歴史を含み、物体の重力を生み出す。これが五次元空間であり、これこそがマルクスのいう弁証法的唯物論、歴史的必然性の世界であるのではないか。つまり、マルクスは現実の物体の法則についてではなく、じつに、目に見えない五次元世界を見事に言い当てていた。弁証法的唯物論は意外とスピリチュアルだったのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 18:12| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂 経験主義、人格の同一性、超越論的論理学、聴従、そして、弁証法へ

経験主義、人格の同一性、超越論的論理学、聴従、そして、弁証法についてである。キーワードがたくさんありすぎて、しかも、一貫性がない。ちょんまげがあたまにはえているくせに、目からなぞの光線を放ち、夕日のガンマンのような拳銃を手にしてマラソンしているおじさんのようだ。和洋折衷、マカロニ江戸時代風、海鮮風じゃがいものにっころがし。お袋の味といえば味噌汁だが、サイボーグの味がする。まとまりがないがゆえにとらえがたい。金魚すくいで金魚の小便をすくうようなもの。ふと、金魚は小便するのか、と自らにといかける昨今。なぞはなぞを呼ぶ。とにかく、一貫性がなく、矛盾にみちているものがある。そもそも、人間は不条理な存在だ。偶然的でたまたまの連続。いわゆるアダルトビデオである。たまたまが邪魔で大事なところおがみえないと夕日に向かって叫ぶ。存在は不条理、理不尽だが、そいつがしゃべること、じつに筋がとおっている。論理的で利発的だが、それはでたらめ、矛盾から生み出されたものだ。

  経験主義とはなにか。目でじろじろ、鼻でくんくん、とまずは感覚によって物体Xの情報を収集する。空から物体Xが降ってきた。それを感覚的な印象によって知るのである。印象が最初であり、スポーツではまずストレッチをして本番をするのといっしょである。経験主義者である哲学者ロック。まずは、印象によって獲得した、赤い、丸い、くさい、ざらざらという情報を心のなかで組み合わせる。まずは目を大きく見開いて、長いまつげが愛らしいモードになってから、こんどは目をほそめて創造にふける。へい、いっちょうあがりっと威勢のよい寿司職人。寿司を握って三時間。ベテランであり、ごはんがおはぎのようになっている。すし職人はネタには敏感である。そのとき、目と鼻のあなをオープンにて情報を得る。つぎに、目を細めてその食材をあたまのなかでイメージ。ロマンチックな目つきになっている。印象にもとづいてあたまでイメージ、観念をつくるのである。それでも、自分の外側にすしネタがあるにちがいないとその実在を疑わなかったロック。第一性質は実際に存在しているものの性質。第二性質といわれているのは、におい、色、手触りなどの私が個人的に感じ取ったものだ。鼻のコンディションによっては香りだってぜんぜんちがう。哲学者ヒュームは自分のそとに銅像が実在していることすら否定する。すべては印象が組み合わさってできた習慣的なものだという。がさごそっと聞こえ振り向いたら妖怪が襲い掛かってきた。なんとも、ほほえましい光景だが、こんなとこを一週間もやっていれば、がさごそイコール
妖怪が襲撃、という習慣が確立される。ここに原因があったら、結果があるという因果律の法則が習慣によってできるというのだ。トイレには便器がある。中に進入するたびに便器がある。そこで、自分がみていなくともどうせ便器があるんだろうと余裕ぶっこく。へではなく余裕をぶっこくのだ。ここにそれ自体ものは存在するという実体性なる法則ができあがる。すべては習慣による思い込み。だから、ややもすれば私の存在すら思い込み。いててて、きもちいい、くっせー、といろんなことを感じているが毎回顔つきがちがう。くっせーっという顔つきはもっともお気に入りであり、エレガントな顔つきだ。いろんな渡しがいるが、私自身が一貫して存在しているのだろう。私の同一性、さっきの私はいまの私という同一性すら、思い込みによって作られるという。いわゆる人格の同一性である。


  つぎは超越論的論理学についてである。形式論理学は形式的で味もそっけもない記号を扱う。内容からっぽでつまらない。それでも純粋な理屈だけである。AはAであると同時にBであっては困るんです、と涙目で訴える。Aってどんな顔つきで無駄毛の数はいくつなのか。詳細情報は不明であり、個性もない。Aにはいろんやつが入ることができるただのうつわだ。超越論的論理学はちがう。たとえば、哲学者カントはいう。自然界の法則が目にとびこんでくるのではない。目くそはそとからやってきたのでなく、分泌したものだ。こちらが親戚の目くそです、とりあえず、知人に紹介する。自分がうみだした目くそ、鼻くそ。自然の法則や概念は私自身が自然界にむかって、根gつけたものだという。これを投げ入れという。つまり、私がいままさにみているこの現象界を作った。これが超越論的分析論である。これに対して、私の目にうつっていない、かいでいない、感覚的なものなしに純粋にあたまのなかで概念組み立てちゃうこと。つまり、いまだみたことがない神様について考え、宇宙の果て、魂について考える。こうすると、神様はいるかいないか、という究極の選択、もっともらしい二つの答えが用意されていて、迷ったあげく混乱してしまい、右足が左足に間接技をかけてしまう。専門用語でいう足がからまるという症状である。これが超越論的弁証論である。

  超越論的とは、超越的についてつばと飛ばしながら論じちゃうということ。超越的とは、自分のそとにあるものを認識すること。ごちそうさまです、とのれんをくぐろうとする。のれんは私のそとにある。そんなのれんは超越的であり、これを認識するのが超越的認識だ。のれんだ、危ない身をかがめて非常事態宣言をする。そして、なんで超越的なのれんを私は認識できるかと冷静になって論じる。これが超越論的だ。新カント学派のリッケルト。超越論的心理学と超越論的論理学をはっきりわけようと提唱。超越的なのれんは私の外にあるのに、どうして、私の内面、心になかに出現し、認識できるのか。これが心とのれんとの関係についてだから、超越論的心理学。これに対して、よくよく考えるとわかるが、超越論的とは、私自身とのれんの両方を巻き込んだ大事件である。私抜きののれんオンリーは超越的。のれんにしがみつくロッククライマーに進化した私、自分の存在をすっかり忘れてのれんにしがみつく。論があるかないかが重要である。私とつまようじのふたりぼっち。日曜の昼飯にカップラーメンを食った直後の映像だ。私と私以外のどっちもブレンドされている対象。超越論的対象について、この論理についてうんぬんするのが、超越論的論理学なのだ。

   判断とは私が作り上げたもの。主語に述語をいけてあげる。いけばなのような上品さで両者を合体だ。この犬は白い、ふさふさしている。ふさふさというな、とどこからともなく聞こえてきた。主語は犬、白いやふさふさは述語。具体的なものを熊手かみそりでジョリジョリときりおとす。すると、究極基体と究極述語が残る。髪の毛を究極にまで切って行くと、地肌が見えてくる。あれは何だ、地肌だ、と隊長が叫び、隊員たちは少年のあたまをのぞく。さらに、ばりかんをつかうと、究極述語もなくなって、究極基体だけが残る。いわゆる、足もとにある東シナ海プレートに気をつけてお乗りください、というのではなく、これにきをつけろ、といってしまうこと。具体的なものでなく、ただのこれだ。これ、あれ、あそこである。たしかに、こいつとか、これ、あれは具体的な内容がなくどんなパンツを口にくわえているかもわからない。色も形も不明どころか、歴史すらない。どこからきて、どんな半生をおくったのかもわからない。つまり、究極基体には歴史が必要だ。

    超越論的とはもっぱら草むらからサラリーマンの背中にくっついている毛糸を狙い撃ちしているライオンのように見つめる、認識する、かいでしまう、という認識論的なものであった。見ず知らずのサラリーマンのスーツに毛糸がついている。とりたくてなぜだか鼻がむずむずしている。そんな満員電車の一幕であった。つぎは、認識ではなく、どかーんと理屈抜きで存在するという存在論について考えたい。哲学者ハイデガーの聴従という概念である。私は足を組んで思索する。いざ、地震のとき、この組んだ足をときほどいて防空壕に避難せねばならない、と考えている。考えるとはないか。自分の意思で自発的に考える。自分で考えて行動しなさい、とひとはいう。じつに、思考とは、存在そのものの声に耳を傾け、聞くことだという。私自身は存在しているが、存在が沈黙の声でかたる。これを聞くことが考えること。この世界は価値が相対的であり、善い事、悪いことも、みんなひとによって、どんな体制で横になっているかで違ってくる。価値が相対的で絶対的なものがないからなにをよりどころにいきればいいかわからない。真偽だって相対的だ。これをニヒリズムという。すべては具体的な存在者。色とりどりの甘納豆。そうではなく、存在そのものはいずこへ、とハイデガーは自問する。すべてが相対的で、無になってしまった。それだからこそ、いままさに存在そのものが顔を出す時代がやってきた。ちょっくら顔をだしてくる。ちょっくらけつをだしてくる。公衆わいせつ罪の可能性あり。存在そのものと存在者を混同してはいけないという。

   打って変わって、弁証法についてお話する。まったく矛盾しあうものが出会ってこんいちわ。合体して新しいものが生まれる。これがドイツ観念論のいう弁証法である。正と反がであい、合がうまれる。男と女が背中をくっつけてあかを落とす。あかがうまれるといってもよい。とにかく、正反合はなんだかマニュアルにのっとりすぎている。いたって、形式的であり、ただの暗号のようなもの。哲学者ヘーゲルはもっとそこに具体的な内容をつめこんじゃえと考える。私はいぶかしげに考えながら、ラジオ体操をする。考えることも、矛盾しあう二つを合体させて新しいものを生み出す弁証法だ。ものを認識するときも右に同じ。この森羅万象、存在の世界もすべて正反対がくっついて新しいものがうまれる。ちなみに、合体という言葉には御幣がある。ここで誤字脱字脱腸の訂正を余儀なくされる。合体ではなく、厳密にはアウフヘーベンだという。アウフヘーベンってなんだろうと、顔面硬直した人形が顔をだすが、もぐらと間違えられてハンマーでたたかれる。アウフヘーベンとは、三つの性質をもつ。まず、矛盾しあうものが溶け合って解消する。二つ目は、レベルアップする。三つ目、それも以前の二つはちゃん保存されている。なんちうことか。徹底的矛盾しているのだ。およそ、理屈をこえた究極的な矛盾実行。アウフヘーベンとしかいいようがない。これを別の言葉で表現しようとする間違いが多発。

  まとめ

  存在の科学  弁証法的唯物論は精神世界だった

  宇宙にある四つの力。たとえば、電磁気力はいわゆる思考活動をうみだす。脳、神経の電気パルスである。思考や認識、超越論的論理学、形式論理学。これらは電磁気力によって生み出される。記号をあやつって理屈を考える形式論理学。私はバナナを認識しているが、どうやって認識しているのかと私自身をも巻き込んで考えてしまう超越論的論理学。バナナをむさぼりくい、われを忘れているときも確かにバナナを論理的に考える。私とバナナの両方をともに考えてしまう超越論的論理学。電磁気力の働きはこんな領域にまで及ぶ。これに対して、認識、論理ではなく、存在とはどこにいってしまったのか。存在の重さ、軽さ。存在しているものは質量を有する。質量があるとは重力が発生する。重力とは、別の三次元との力学的な交渉である。ハイデガーは思索とは存在の声を聞くことだといった。存在しているものは重力によって、素粒子であるグラビトンの発生、消滅によって、その声に聞き従い、思索する。これは論理的に考えることとは違う。電磁気的な思索ではなく、重力的な思索だ。

  さて、残り二つの力である。素粒子間の弱い力によって、素粒子は動き回る。これがいわゆる経験的意識である。そこでは習慣的イメージが作られている。原子の中央に鎮座しているのが原子核。原子核をまとめている強い力。これは私が私自身を意識しているという人格の同一性である。経験的自己意識である。原子が思索する。

   認識や存在、経験的自己意識や経験。なにかを忘れている。歴史である。歴史はもうすでに無い。未来はいまだ無い歴史である。いずれにしても、無に歴史はつまっている。隙間、穴、点、無のなかに歴史は温存される。無の点といったら、ブラックホールの中心部。すべての物質が圧縮され、空間、自然の法則がぶちこわれる。矛盾にみちた世界。じつに、物体の重力の中心もまたブラックホールのように、5次元空間につながる。ここでは三次元の論理は通用しない。


   かって、弁証法的唯物論というものがあった。矛盾し合うものがアウフヘーベンされて、レベルアップ。こうやって、宇宙は進化発展する。ヘーゲルはあくまでも、あたまのイメージの世界だとマルクスは批判。そうではなく、現実の物体、物質に弁証法を適用すると言い出す。すると、このわれわれの歴史は矛盾しあうものがアウフヘーベンされた物質の進化過程だということになる。プロレタリアートの労働者階級とブルジョワジーの資本家階級の闘争だという。矛盾しあうものがアウフヘーベンである。そして、この弁証法に従った歴史を歴史的必然とよぶ。これから世の中は弁証法の法則にしたがって、こうならざるをえないという必然性があるという。また、物体の法則でもあるから弁証法的唯物論ともいう。

  さて、ここで注目である。究極的な矛盾、弁証法の世界は五次元だといった。しかも、この五次元中の三次元空間のあいだを伝達しているゲージ粒子がグラビトン。これがいわゆる重力をうみ、三次元中の質量ある物体を成立させている。つまり、物体と矛盾の論理とは、重力と弁証法的な五次元宇宙のことではないか。しかも、前述したが、この五次元宇宙こそ無の点の中身であり、ここに人類、宇宙のすべての歴史がつまっている。矛盾にみち、歴史を含み、物体の重力を生み出す。これが五次元空間であり、これこそがマルクスのいう弁証法的唯物論、歴史的必然性の世界であるのではないか。つまり、マルクスは現実の物体の法則についてではなく、じつに、目に見えない五次元世界を見事に言い当てていた。弁証法的唯物論は意外とスピリチュアルだったのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 18:11| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

裏熱症

裏熱症

  からだの表面にたかっている虫。血を吸えるものなら吸って見やがれ、と男二匹のど根性なのだが、体表に熱の邪気が襲っているときはそうはいかない。早くなおさないと、表面から裏に入ってしまう。表よりもやっぱり裏がお好き。そうではなく、いわゆる、内臓の熱である。いきなり、内臓のお話はギャップがありすぎて、大半の人間は困惑する。内側の熱、臓器によってその症状は違う。共通することは、熱によって水分が奪われつめたい水が飲みたいと夕焼けにむかって叫びたくなる。熱はうえにゆくのは、世のライター使いたちならばすぐさまわかる。顔面が赤くなり、目が充血。ひどくなる、うんこの水分も焼かれてしまって、便秘。小便はさすがに赤くはならないが黄色になる。
posted by モノイイ ジョーカー at 18:08| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 東洋医学漫談 弁証論治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする