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2008年05月02日
本日、チャットルーム開設
いつもご愛読ありがとうございます。本日、スティッカムのわいわいチャットにてみなさまとチャットルームでのお話会でもやりたいと思います。ご参加されるかたは下記のページにて、仙人養成学校というルームにパスワード8787でお入りください。http://www.stickam.jp/chatRoom
存在の科学 立体白紙理論 時間が空間に絵を描く
存在の科学 立体白紙理論 時間が空間に絵を描く
宇宙身体が立体的な紙にペンで描く。宇宙身体は宇宙意識といってもよい。まずは強い無意識状態で描いた曲線、直線がある。これが物理的なものである。もちろん、無意識であれあるほど必然性である。つまり、必然的な法則をもつ物体をかく。つぎにちょっと意識的になってしまった中無意識状態で線を描く。いわゆる生命の誕生である。生命体はたしかに必然的な物理法則に従うが、同時にある程度の自由がある。さらにはかなり意識的な状態で描いた線は個人的、経験的自己意識をつくる。他ならぬ私の存在だ。これもまた、心は自由だが、肉体は物理法則という必然性に従う。さて、個人的な意識はこの宇宙身体、宇宙意識によって製作されたものであり、連続しているのだ。一本の木があり、その枝が個人的な私である。
さて、最初に宇宙意識と立体的な白紙があった。宇宙意識がペンで立体に白紙に描きこんだ、といった。じつに、絵をかくときに必要なものは必要最低限、時間が必要なのだ。もちろん、立体的な白紙とは、なにもない空間のこと。だから、宇宙意識とは時間であり、立体白紙とは空間。時間が空間に絵を描き、森羅万象を作り上げるということ。つまり、私とはもとをただせば時間であり、私の周囲にひろがるこの世界は空間である。とりわけ、おおざっぱな言い方になってしまったが、時間が空間に手をくわえてさまざまなものを作り上げているのである。
宇宙身体が立体的な紙にペンで描く。宇宙身体は宇宙意識といってもよい。まずは強い無意識状態で描いた曲線、直線がある。これが物理的なものである。もちろん、無意識であれあるほど必然性である。つまり、必然的な法則をもつ物体をかく。つぎにちょっと意識的になってしまった中無意識状態で線を描く。いわゆる生命の誕生である。生命体はたしかに必然的な物理法則に従うが、同時にある程度の自由がある。さらにはかなり意識的な状態で描いた線は個人的、経験的自己意識をつくる。他ならぬ私の存在だ。これもまた、心は自由だが、肉体は物理法則という必然性に従う。さて、個人的な意識はこの宇宙身体、宇宙意識によって製作されたものであり、連続しているのだ。一本の木があり、その枝が個人的な私である。
さて、最初に宇宙意識と立体的な白紙があった。宇宙意識がペンで立体に白紙に描きこんだ、といった。じつに、絵をかくときに必要なものは必要最低限、時間が必要なのだ。もちろん、立体的な白紙とは、なにもない空間のこと。だから、宇宙意識とは時間であり、立体白紙とは空間。時間が空間に絵を描き、森羅万象を作り上げるということ。つまり、私とはもとをただせば時間であり、私の周囲にひろがるこの世界は空間である。とりわけ、おおざっぱな言い方になってしまったが、時間が空間に手をくわえてさまざまなものを作り上げているのである。
仙人養成講座 哲風呂 チザムの哲学と世界概念へ
チザムの哲学と世界概念についてである。私は一体なにものなのか。とりあえず、おっとっとっと、と上司にお酌しているサラリーマンに問い尋ねる。おもわず、お酌に集中できず、手をすべらせ、上司の高級スーツにぶっかけてしまう。私とはなにか、ということを考えながら寿司を握っているピザ屋さん。さらに、寿司を握っている真っ最中、世界とは何か、と疑問をぶつける。寿司を握るのに失敗し、負傷する。私自身がなにものかもわからず、世界や宇宙についてもなんだかよくわからない、と首をかしげる。自分の外も内もわからない。中途半端な中間にいるわれわれ人間。本日は、私と世界とはなにかについて考えたい。
チザムの哲学について考える。チザムは還元主義が大嫌いである。還元主義とはなんでもかんでも物理的なものに還元してしまえ、というもの。人間だって、動物だって、道端に生えている一輪の樫の木だって、みんな原子でできているよ、と言い放つ。すべてが物理の法則にしたがって、原子核に電子がぐるぐるまわっている、と主張する。チザムは物理的なものに還元できないやつがいるという。ひとの心である。人情味あふれる下町のおじちゃん、おばちゃん、スティンガーは温かい心をもっている。心も物理的なものなのか。科学の知識、膨大な天文学の知識がつまっているばあさんの知識袋。すべての知識はほかならぬ私自身の心が正しい知識だと正当化したものだという。いろんな信念がある。なめくじは無脊椎動物であり、ハエ取り草は麺類を食わない。これらはただの思いこみ、信念だが、間違いなく知識だと断定しているのは私の心だというのだ。また、われわれは言葉を使う。単語、言葉には指示機能をもっている。矢印でこちらでございますと指示しているのだ。山田君、灰皿もってきてくれ、と懇願するとき、灰皿という単語には矢印が装着していて、この矢印は実際の灰皿を指し示す。灰皿を私は色目で眼差す。目からも矢印が突き出していて、灰皿に意識を集中する。私がもしも灰皿を意識していないとき、つまり、目から放たれた矢印が灰皿を突き刺していない状態で、灰皿という単語はジャングルの奥地にたたずむ灰皿を指差しているのだろうか。そうではない。私の意識を経由して、灰皿という単語は実際の灰皿を指しているのだ。まずなによりも私の意識が準備されてないといけない。チザムは、私は間違いなく私と一致していると強調する。かって、哲学者ヒュームは私の存在は思いこみだといった。あるときは跳ねかえったうんこが鼻の穴に侵入し臭い、またあるときは居心地良いベッドで新体操の練習をする。こうやっていろんなことを感じ取っているのだが、感じ取ることを知覚という。これらの知覚をまとめているものをかりに私となづけているだけだという。チザムはこんなヒューム哲学も大嫌いだ。私は間違いなくここにいるし、私がすべてを支えているくらいの勢いだ。
私とはなにか、と真剣に考えたから、こんどはついでに世界、宇宙とはなにかを考えたい。あくまでも、ほどけた靴紐をよわくついでに地球にふれてみてアースするようなものだ。最近、100マンボルトの瞳にみつめられて帯電しているにでついでにアースしちゃうのである。アヴェナリウスの人間的世界概念である。ありのままの世界がある。人間はりんごは果物であり、牛乳は牛のおっぱい汁であることを重々理解している。人間にとって別段あたまひねってかんがえることなく、当たり前の世界こそが真実だというのだ。当たり前、ふつうなものこそ見逃しがちである。ふつうじゃつまらないからである。アヴェナリウスの哲学に触発され、哲学者フッサールは世界とはこうだ、っという思いこみを判断停止しちゃえ、という。判断停止とは判断をやめちゃってばかになること。よだれをたらしながらおどりまくる。もはや、世界とはいろんな実在するものが集まってできているという思いこみはやめようという。グローブ、ミット、金属バット。スポーツ用品から食材までなんでそろっているこの宇宙、世界。世界とはこれらのいろんなものがたむろしている場所だという思いこみをやめようというのだ。そうすると、ただここにいる自分の存在だけが残る。これが純粋自我である。さらに、フッサールは物のカタマリがぶつかったりこすれあったりして宇宙ができているという科学的な考えも竹ぼうきで掃除してしまう。科学的な考え、これを自然主義的態度となづけ、態度をあらためるのである。そこで自然的態度になろうぜ、と肩を叩かれる。肩のうえに飼っていたオウムが負傷。あまりにも当たり前の日常世界こそがすべてを支えるというのだ。パンツの科学的分析なんてもう要らない。パンツは下半身をまもるべく開発された防具だ。どんな科学者だって一日中理論的に考えたり、実験したりはしない。科学者が仕事を終え、帰宅中に一杯やりにあかちょうちんを立ち寄る。そのとき、店主が人間であり、目の前のお通しは食い物であるとあたりまえのように考える。物理的に同じ原子の集まりだとは考えない。つまり、すべてはふつうの生活世界のうえにあるというのだ。
ハイデガーもまた、世界内部的と考えがちな人間をいましめる。世界という水槽のなかで泳いでいる人間、というように考えがちなのだ。水槽のなかには水車があってときにその水流に巻きこまれて必死な形相になる金魚。人間とは、世界といううつわのなかにいるのでなく、世界内存在していると主張。世界につかっているというのだ。あたかも、カレーのじゃがいもが半分ルーに溶けこみながらも一生懸命じゃがいもやっているようなもの。世界に溶けこんで存在しているのだ。
さて、ぎょうざの皮は具を包んでいる。世界はわれわれを包んでいるように思える。小皿のうえで具が皮からはみ出して、非常自体宣言をしている客もみたことはある。どうやっても世界という皮につつまれることのないものがある。これをフッサールは大地、メルロポンティは野生の存在となづけた。これだけは譲れない、世界のなか、世界につつまれていないもの。
まとめ
存在の科学 立体白紙理論 時間が空間に絵を描く
宇宙身体が立体的な紙にペンで描く。宇宙身体は宇宙意識といってもよい。まずは強い無意識状態で描いた曲線、直線がある。これが物理的なものである。もちろん、無意識であれあるほど必然性である。つまり、必然的な法則をもつ物体をかく。つぎにちょっと意識的になってしまった中無意識状態で線を描く。いわゆる生命の誕生である。生命体はたしかに必然的な物理法則に従うが、同時にある程度の自由がある。さらにはかなり意識的な状態で描いた線は個人的、経験的自己意識をつくる。他ならぬ私の存在だ。これもまた、心は自由だが、肉体は物理法則という必然性に従う。さて、個人的な意識はこの宇宙身体、宇宙意識によって製作されたものであり、連続しているのだ。一本の木があり、その枝が個人的な私である。
さて、最初に宇宙意識と立体的な白紙があった。宇宙意識がペンで立体に白紙に描きこんだ、といった。じつに、絵をかくときに必要なものは必要最低限、時間が必要なのだ。もちろん、立体的な白紙とは、なにもない空間のこと。だから、宇宙意識とは時間であり、立体白紙とは空間。時間が空間に絵を描き、森羅万象を作り上げるということ。つまり、私とはもとをただせば時間であり、私の周囲にひろがるこの世界は空間である。とりわけ、おおざっぱな言い方になってしまったが、時間が空間に手をくわえてさまざまなものを作り上げているのである。
チザムの哲学について考える。チザムは還元主義が大嫌いである。還元主義とはなんでもかんでも物理的なものに還元してしまえ、というもの。人間だって、動物だって、道端に生えている一輪の樫の木だって、みんな原子でできているよ、と言い放つ。すべてが物理の法則にしたがって、原子核に電子がぐるぐるまわっている、と主張する。チザムは物理的なものに還元できないやつがいるという。ひとの心である。人情味あふれる下町のおじちゃん、おばちゃん、スティンガーは温かい心をもっている。心も物理的なものなのか。科学の知識、膨大な天文学の知識がつまっているばあさんの知識袋。すべての知識はほかならぬ私自身の心が正しい知識だと正当化したものだという。いろんな信念がある。なめくじは無脊椎動物であり、ハエ取り草は麺類を食わない。これらはただの思いこみ、信念だが、間違いなく知識だと断定しているのは私の心だというのだ。また、われわれは言葉を使う。単語、言葉には指示機能をもっている。矢印でこちらでございますと指示しているのだ。山田君、灰皿もってきてくれ、と懇願するとき、灰皿という単語には矢印が装着していて、この矢印は実際の灰皿を指し示す。灰皿を私は色目で眼差す。目からも矢印が突き出していて、灰皿に意識を集中する。私がもしも灰皿を意識していないとき、つまり、目から放たれた矢印が灰皿を突き刺していない状態で、灰皿という単語はジャングルの奥地にたたずむ灰皿を指差しているのだろうか。そうではない。私の意識を経由して、灰皿という単語は実際の灰皿を指しているのだ。まずなによりも私の意識が準備されてないといけない。チザムは、私は間違いなく私と一致していると強調する。かって、哲学者ヒュームは私の存在は思いこみだといった。あるときは跳ねかえったうんこが鼻の穴に侵入し臭い、またあるときは居心地良いベッドで新体操の練習をする。こうやっていろんなことを感じ取っているのだが、感じ取ることを知覚という。これらの知覚をまとめているものをかりに私となづけているだけだという。チザムはこんなヒューム哲学も大嫌いだ。私は間違いなくここにいるし、私がすべてを支えているくらいの勢いだ。
私とはなにか、と真剣に考えたから、こんどはついでに世界、宇宙とはなにかを考えたい。あくまでも、ほどけた靴紐をよわくついでに地球にふれてみてアースするようなものだ。最近、100マンボルトの瞳にみつめられて帯電しているにでついでにアースしちゃうのである。アヴェナリウスの人間的世界概念である。ありのままの世界がある。人間はりんごは果物であり、牛乳は牛のおっぱい汁であることを重々理解している。人間にとって別段あたまひねってかんがえることなく、当たり前の世界こそが真実だというのだ。当たり前、ふつうなものこそ見逃しがちである。ふつうじゃつまらないからである。アヴェナリウスの哲学に触発され、哲学者フッサールは世界とはこうだ、っという思いこみを判断停止しちゃえ、という。判断停止とは判断をやめちゃってばかになること。よだれをたらしながらおどりまくる。もはや、世界とはいろんな実在するものが集まってできているという思いこみはやめようという。グローブ、ミット、金属バット。スポーツ用品から食材までなんでそろっているこの宇宙、世界。世界とはこれらのいろんなものがたむろしている場所だという思いこみをやめようというのだ。そうすると、ただここにいる自分の存在だけが残る。これが純粋自我である。さらに、フッサールは物のカタマリがぶつかったりこすれあったりして宇宙ができているという科学的な考えも竹ぼうきで掃除してしまう。科学的な考え、これを自然主義的態度となづけ、態度をあらためるのである。そこで自然的態度になろうぜ、と肩を叩かれる。肩のうえに飼っていたオウムが負傷。あまりにも当たり前の日常世界こそがすべてを支えるというのだ。パンツの科学的分析なんてもう要らない。パンツは下半身をまもるべく開発された防具だ。どんな科学者だって一日中理論的に考えたり、実験したりはしない。科学者が仕事を終え、帰宅中に一杯やりにあかちょうちんを立ち寄る。そのとき、店主が人間であり、目の前のお通しは食い物であるとあたりまえのように考える。物理的に同じ原子の集まりだとは考えない。つまり、すべてはふつうの生活世界のうえにあるというのだ。
ハイデガーもまた、世界内部的と考えがちな人間をいましめる。世界という水槽のなかで泳いでいる人間、というように考えがちなのだ。水槽のなかには水車があってときにその水流に巻きこまれて必死な形相になる金魚。人間とは、世界といううつわのなかにいるのでなく、世界内存在していると主張。世界につかっているというのだ。あたかも、カレーのじゃがいもが半分ルーに溶けこみながらも一生懸命じゃがいもやっているようなもの。世界に溶けこんで存在しているのだ。
さて、ぎょうざの皮は具を包んでいる。世界はわれわれを包んでいるように思える。小皿のうえで具が皮からはみ出して、非常自体宣言をしている客もみたことはある。どうやっても世界という皮につつまれることのないものがある。これをフッサールは大地、メルロポンティは野生の存在となづけた。これだけは譲れない、世界のなか、世界につつまれていないもの。
まとめ
存在の科学 立体白紙理論 時間が空間に絵を描く
宇宙身体が立体的な紙にペンで描く。宇宙身体は宇宙意識といってもよい。まずは強い無意識状態で描いた曲線、直線がある。これが物理的なものである。もちろん、無意識であれあるほど必然性である。つまり、必然的な法則をもつ物体をかく。つぎにちょっと意識的になってしまった中無意識状態で線を描く。いわゆる生命の誕生である。生命体はたしかに必然的な物理法則に従うが、同時にある程度の自由がある。さらにはかなり意識的な状態で描いた線は個人的、経験的自己意識をつくる。他ならぬ私の存在だ。これもまた、心は自由だが、肉体は物理法則という必然性に従う。さて、個人的な意識はこの宇宙身体、宇宙意識によって製作されたものであり、連続しているのだ。一本の木があり、その枝が個人的な私である。
さて、最初に宇宙意識と立体的な白紙があった。宇宙意識がペンで立体に白紙に描きこんだ、といった。じつに、絵をかくときに必要なものは必要最低限、時間が必要なのだ。もちろん、立体的な白紙とは、なにもない空間のこと。だから、宇宙意識とは時間であり、立体白紙とは空間。時間が空間に絵を描き、森羅万象を作り上げるということ。つまり、私とはもとをただせば時間であり、私の周囲にひろがるこの世界は空間である。とりわけ、おおざっぱな言い方になってしまったが、時間が空間に手をくわえてさまざまなものを作り上げているのである。






