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2008年05月03日
存在の科学 立体白紙論 森羅万象のある理由
存在の科学 立体白紙論 森羅万象のある理由
宇宙意識があって、ペンを手して立体的な紙に絵を描く。この宇宙意識は意識レベルがあって、完全な無意識状態では必然的に物理的なものをこの白紙にかきこむ。ちょっと無意識状態では生命体をかきこむ。必然的であると同時にあるていどの自由が保証されている。そして、宇宙意識が自己意識をもつやいなや、個人としての私自身の存在を描く。私は宇宙意識の自己意識状態である。すると、こんなことがいえる。立体的な紙があり、ペンを手にして宇宙意識が絵をかくが、これは製作活動であり、製作とは規制のものの破壊、消滅でもあるというのこと。この製作活動で必要不可欠のものはなにか。少なくとも、ペンは必要がない。宇宙意識にひつようなのは描く、製作する時間だけだ。要するに、ひつよ最低限、製作活動には時間が必要。宇宙意識は製作、破壊という活動そのものでもよい。すると、宇宙意識はただの時間だともいえる。つまり、時間が立体的な白紙、三次元空間に絵を描いている。時間が空間に形を与える。以上、これが森羅万象がこの宇宙に存在する理由である。
宇宙意識があって、ペンを手して立体的な紙に絵を描く。この宇宙意識は意識レベルがあって、完全な無意識状態では必然的に物理的なものをこの白紙にかきこむ。ちょっと無意識状態では生命体をかきこむ。必然的であると同時にあるていどの自由が保証されている。そして、宇宙意識が自己意識をもつやいなや、個人としての私自身の存在を描く。私は宇宙意識の自己意識状態である。すると、こんなことがいえる。立体的な紙があり、ペンを手にして宇宙意識が絵をかくが、これは製作活動であり、製作とは規制のものの破壊、消滅でもあるというのこと。この製作活動で必要不可欠のものはなにか。少なくとも、ペンは必要がない。宇宙意識にひつようなのは描く、製作する時間だけだ。要するに、ひつよ最低限、製作活動には時間が必要。宇宙意識は製作、破壊という活動そのものでもよい。すると、宇宙意識はただの時間だともいえる。つまり、時間が立体的な白紙、三次元空間に絵を描いている。時間が空間に形を与える。以上、これが森羅万象がこの宇宙に存在する理由である。
仙人養成講座 哲風呂 時間と基礎的存在論へ
時間と基礎的存在論についてである。私とは何者なのか。せっしゃ、忍者でござる、とさりげなくアピールするのもいいが、職業や年齢を聞いているのではない。私とはどういう存在なのかである。たしかにホモではなく、ホモサピエンスである。人間である、たくましい肉体をもっている。それ以前に私はいつもなにかを意識している何かである。おでんのたまごに箸を突き刺して、黄身がたいへんなことになっている。いまだ出動だ、メカロボット。走っている車のホイールを見ていたら目がまわったんです、とお医者さんに症状を話す。とにかく、さまざまなものを意識し、見ているのである。だれがなにをどうやって意識しているのか。今回のお話は私の正体についである。
時間とはなにか。哲学者カントは時間と空間が宇宙には存在しているんだよ、という世の常識を受け入れない。人間が産まれるとき、時間と空間というメガネをかけて産まれてくる。めがねがずりおちそうになったら、とっさに足のゆびをつかって持ち上げる。鼻の下の長いキリンがいたら、鼻のしたで持ち上げても良い。そして、この時間、空間のめがねを通して、いろんな外界の感覚的情報を入手する。生臭くて、赤くて、丸い。これらの雑多な感覚情報を入れ物にいれて整理する。腐ったりんごというイメージができる。これが認識である。この入れ物がこれまた産まれながら持っているカテゴリーといわれるもの。論理的に考えるための道具。そして、ここからが重要事項なのだが、感覚的情報にカテゴリーを使うとき、あきらかに、カテゴリーと感覚は異質なもの。かたや論理的、理屈っぽいやつ。かたや、感覚、ビジュアルなやつ。このふたつをドッキングするには闇のブローカーを介入させるしかない。それか仲人である。闇のブローカーであり、時に仲人を務めるやつ。こいつはきっと感覚と論理のどっちにも共通しているやつだ。論理的なカテゴリーのなかに因果性のカテゴリーがある。原因があれば結果があるんだ、とまじめな顔で学級委員長が天井に向かって叫ぶ。また、赤い、臭い、という感覚にも、少しづつ青みがかってきたとか、だんだん臭くなってまいりました、というように時間的な流れがある。つまり、カテゴリーと感覚のどっちのも時間という性質がある。だから、仲人の正体は時間であることがある。カントはカテゴリーを感覚にくっつける中間業者を超越論的時間規定と名づけた。
現代においてはショーペンハウワー。意志と表象の世界についてうんぬんする。うんぬんっと大自然にむかって叫ぶ。うんぬんと山彦になって帰ってくる。われわれの知っている限りの世界はイメージ、表象の世界である。くるまが迫ってくる。ボンネットのなかに隠されているエンジンが見えない。前からみるとかっこいいが、うしろからみたらかっこわるいかもしれない。われわれは本当にものの一部しかみていない。だから、どんなにてやんでーっと江戸っ子すら想像力、イメージに頼らざるを得ない。この世界は表象の世界であり、ここにも時の流れ、時間がある。また、よいっしょっと言いながらブレンバスター。どっこいっしょといいながら背負い投げをするが、このとき気合が必要である。やるぞ、なげるぞ、たべるぞ、っという意志が必要だ。この意志はなにかにむかっている突進中だというのでなく、がむしゃらに生きようとする力だという。これを盲目的な生への力だという。ここにも時間がある。この意志の時間と表象、イメージの時間がぴたりとあたまにハエがとまるのでなく、ぴたりと一致したそのときにこの世界は消滅してしまうという。
現代哲学において忘れてはいけないのがニーチェである。ニーチェは永劫回帰の思想をとなえる。鼻をかんだら鼻から梅干の種がでてきた。ふとわれにかえって、なんだかこの場面、むかし経験したことがあるような気がしてくる。いわゆるデジャブーである。ニーチェはいまこの瞬間にたとえば足の匂いをかいでいるとしたら、足の匂いをかいで無限回目だと主張するだろう。いまというこの瞬間はいままでになんどとなく繰り返してきたというのだ。死んでまた産まれ、まったく同じことを繰り返す。だから、いまこの瞬間に小ばえが鼻にはいったとしても全面肯定、運命として受け入れ笑い飛ばしてしまえば良い。哲学者ベルクソンは時間といっても、アナログ時計ではないという。針の空間的移動でしかない。ほんとうの時間は何センチ針がうごいたとか、量では計れない。3センチと8センチ、どこかちがうかといえば、量がちがうだけ。ぺろーりと舐めてみても味はかわらない。つまりは質のちがいはない。ところが、本当の時間は私自身のなかにある純粋持続だという。持続的なおならをきいたことがある。ぶーーっと長い間なりつづける。しかも、このぶーっというながーいおならは一定の音色、質の変化の連続だったりする。同じ音色がなっているのでなく、高くなったり低くなったりと質が変化する。純粋持続とは刻一刻、質が変化しまくるわれわれの意識状態である。かゆい、くすぐったい、おもしろい、悲しい、いろんな感情、いろんなことを感じ取っている。ほんとうの時間は純粋持続だというのだ。哲学者フッサールはこれまたふつうに時計や直線で表現される時間はニセモノだといいはる。物理的な時間である。10、9、っとカウントダウン。くしゃみまであと5秒前である。物理的な時間は思いこみであり、こんな時間は私の鼻っぱしに現われた時間。この時間をつくっている私の意識もまた時間的に変化しまくる。これが意識流といわれるもの。お天気屋さんではないが、私の感情、意識も刻一刻変化している。大魔人だってスマイル0円から怒り顔350円まで変貌する。こんな意識流だって、もっと奥のほうにある絶対的意識流によって作られているという。時間は時間をうまない。まはや、絶対的意識流は時間の流れではないという。流れながらとまっているという器用な技をもっているやつだ。
次に、哲学者ハイデガーの基礎的存在論についてである。存在とは何か、と真剣に問い掛ける。真剣な顔つきとは便所で力んでいるときくらいだ。真剣になったついでに存在とはないかと考えてみよう。じつに、存在といっても、そこらにこらがっているものではない。たしかに、砂漠にいけばサボテンが存在している。存在者であって、存在そのものではない。だから、どうやったら、存在そのものを研究できるのか。もっとも身近な存在に着目。第2ボタンはまだけっこう離れている。一番親しい存在とは私自身の存在だ。私の存在とはなにか、と問いかけるが、じつはなんとなく存在ってなにかを了解しているという。ただ、これを説明するとなると、もはや不可能に近い。漠然と存在了解しているというのだ。存在とはなにか、と問うことができる。問うはまったく知らないと問えない。よくよく知り尽くしていたら問う必要なし。よって、存在をなんとなく中途半端に知っている、ようするに存在了解しているというのだ。こうやって、自分の存在について考えちゃう。これが基礎的存在論である。
まとめ
存在の科学 立体白紙論 森羅万象のある理由
宇宙意識があって、ペンを手して立体的な紙に絵を描く。この宇宙意識は意識レベルがあって、完全な無意識状態では必然的に物理的なものをこの白紙にかきこむ。ちょっと無意識状態では生命体をかきこむ。必然的であると同時にあるていどの自由が保証されている。そして、宇宙意識が自己意識をもつやいなや、個人としての私自身の存在を描く。私は宇宙意識の自己意識状態である。すると、こんなことがいえる。立体的な紙があり、ペンを手にして宇宙意識が絵をかくが、これは製作活動であり、製作とは規制のものの破壊、消滅でもあるというのこと。この製作活動で必要不可欠のものはなにか。少なくとも、ペンは必要がない。宇宙意識にひつようなのは描く、製作する時間だけだ。要するに、ひつよ最低限、製作活動には時間が必要。宇宙意識は製作、破壊という活動そのものでもよい。すると、宇宙意識はただの時間だともいえる。つまり、時間が立体的な白紙、三次元空間に絵を描いている。時間が空間に形を与える。以上、これが森羅万象がこの宇宙に存在する理由である。
時間とはなにか。哲学者カントは時間と空間が宇宙には存在しているんだよ、という世の常識を受け入れない。人間が産まれるとき、時間と空間というメガネをかけて産まれてくる。めがねがずりおちそうになったら、とっさに足のゆびをつかって持ち上げる。鼻の下の長いキリンがいたら、鼻のしたで持ち上げても良い。そして、この時間、空間のめがねを通して、いろんな外界の感覚的情報を入手する。生臭くて、赤くて、丸い。これらの雑多な感覚情報を入れ物にいれて整理する。腐ったりんごというイメージができる。これが認識である。この入れ物がこれまた産まれながら持っているカテゴリーといわれるもの。論理的に考えるための道具。そして、ここからが重要事項なのだが、感覚的情報にカテゴリーを使うとき、あきらかに、カテゴリーと感覚は異質なもの。かたや論理的、理屈っぽいやつ。かたや、感覚、ビジュアルなやつ。このふたつをドッキングするには闇のブローカーを介入させるしかない。それか仲人である。闇のブローカーであり、時に仲人を務めるやつ。こいつはきっと感覚と論理のどっちにも共通しているやつだ。論理的なカテゴリーのなかに因果性のカテゴリーがある。原因があれば結果があるんだ、とまじめな顔で学級委員長が天井に向かって叫ぶ。また、赤い、臭い、という感覚にも、少しづつ青みがかってきたとか、だんだん臭くなってまいりました、というように時間的な流れがある。つまり、カテゴリーと感覚のどっちのも時間という性質がある。だから、仲人の正体は時間であることがある。カントはカテゴリーを感覚にくっつける中間業者を超越論的時間規定と名づけた。
現代においてはショーペンハウワー。意志と表象の世界についてうんぬんする。うんぬんっと大自然にむかって叫ぶ。うんぬんと山彦になって帰ってくる。われわれの知っている限りの世界はイメージ、表象の世界である。くるまが迫ってくる。ボンネットのなかに隠されているエンジンが見えない。前からみるとかっこいいが、うしろからみたらかっこわるいかもしれない。われわれは本当にものの一部しかみていない。だから、どんなにてやんでーっと江戸っ子すら想像力、イメージに頼らざるを得ない。この世界は表象の世界であり、ここにも時の流れ、時間がある。また、よいっしょっと言いながらブレンバスター。どっこいっしょといいながら背負い投げをするが、このとき気合が必要である。やるぞ、なげるぞ、たべるぞ、っという意志が必要だ。この意志はなにかにむかっている突進中だというのでなく、がむしゃらに生きようとする力だという。これを盲目的な生への力だという。ここにも時間がある。この意志の時間と表象、イメージの時間がぴたりとあたまにハエがとまるのでなく、ぴたりと一致したそのときにこの世界は消滅してしまうという。
現代哲学において忘れてはいけないのがニーチェである。ニーチェは永劫回帰の思想をとなえる。鼻をかんだら鼻から梅干の種がでてきた。ふとわれにかえって、なんだかこの場面、むかし経験したことがあるような気がしてくる。いわゆるデジャブーである。ニーチェはいまこの瞬間にたとえば足の匂いをかいでいるとしたら、足の匂いをかいで無限回目だと主張するだろう。いまというこの瞬間はいままでになんどとなく繰り返してきたというのだ。死んでまた産まれ、まったく同じことを繰り返す。だから、いまこの瞬間に小ばえが鼻にはいったとしても全面肯定、運命として受け入れ笑い飛ばしてしまえば良い。哲学者ベルクソンは時間といっても、アナログ時計ではないという。針の空間的移動でしかない。ほんとうの時間は何センチ針がうごいたとか、量では計れない。3センチと8センチ、どこかちがうかといえば、量がちがうだけ。ぺろーりと舐めてみても味はかわらない。つまりは質のちがいはない。ところが、本当の時間は私自身のなかにある純粋持続だという。持続的なおならをきいたことがある。ぶーーっと長い間なりつづける。しかも、このぶーっというながーいおならは一定の音色、質の変化の連続だったりする。同じ音色がなっているのでなく、高くなったり低くなったりと質が変化する。純粋持続とは刻一刻、質が変化しまくるわれわれの意識状態である。かゆい、くすぐったい、おもしろい、悲しい、いろんな感情、いろんなことを感じ取っている。ほんとうの時間は純粋持続だというのだ。哲学者フッサールはこれまたふつうに時計や直線で表現される時間はニセモノだといいはる。物理的な時間である。10、9、っとカウントダウン。くしゃみまであと5秒前である。物理的な時間は思いこみであり、こんな時間は私の鼻っぱしに現われた時間。この時間をつくっている私の意識もまた時間的に変化しまくる。これが意識流といわれるもの。お天気屋さんではないが、私の感情、意識も刻一刻変化している。大魔人だってスマイル0円から怒り顔350円まで変貌する。こんな意識流だって、もっと奥のほうにある絶対的意識流によって作られているという。時間は時間をうまない。まはや、絶対的意識流は時間の流れではないという。流れながらとまっているという器用な技をもっているやつだ。
次に、哲学者ハイデガーの基礎的存在論についてである。存在とは何か、と真剣に問い掛ける。真剣な顔つきとは便所で力んでいるときくらいだ。真剣になったついでに存在とはないかと考えてみよう。じつに、存在といっても、そこらにこらがっているものではない。たしかに、砂漠にいけばサボテンが存在している。存在者であって、存在そのものではない。だから、どうやったら、存在そのものを研究できるのか。もっとも身近な存在に着目。第2ボタンはまだけっこう離れている。一番親しい存在とは私自身の存在だ。私の存在とはなにか、と問いかけるが、じつはなんとなく存在ってなにかを了解しているという。ただ、これを説明するとなると、もはや不可能に近い。漠然と存在了解しているというのだ。存在とはなにか、と問うことができる。問うはまったく知らないと問えない。よくよく知り尽くしていたら問う必要なし。よって、存在をなんとなく中途半端に知っている、ようするに存在了解しているというのだ。こうやって、自分の存在について考えちゃう。これが基礎的存在論である。
まとめ
存在の科学 立体白紙論 森羅万象のある理由
宇宙意識があって、ペンを手して立体的な紙に絵を描く。この宇宙意識は意識レベルがあって、完全な無意識状態では必然的に物理的なものをこの白紙にかきこむ。ちょっと無意識状態では生命体をかきこむ。必然的であると同時にあるていどの自由が保証されている。そして、宇宙意識が自己意識をもつやいなや、個人としての私自身の存在を描く。私は宇宙意識の自己意識状態である。すると、こんなことがいえる。立体的な紙があり、ペンを手にして宇宙意識が絵をかくが、これは製作活動であり、製作とは規制のものの破壊、消滅でもあるというのこと。この製作活動で必要不可欠のものはなにか。少なくとも、ペンは必要がない。宇宙意識にひつようなのは描く、製作する時間だけだ。要するに、ひつよ最低限、製作活動には時間が必要。宇宙意識は製作、破壊という活動そのものでもよい。すると、宇宙意識はただの時間だともいえる。つまり、時間が立体的な白紙、三次元空間に絵を描いている。時間が空間に形を与える。以上、これが森羅万象がこの宇宙に存在する理由である。






