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2008年05月04日

宇宙人養成学校 まっしゅRadio  (20070813)

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存在の科学  人生リプレイ論

存在の科学  人生リプレイ

  ひとは死を迎えるとき、脳細胞が死滅し、いままでのすべての記憶が一挙によみがえるという。要するに、もう一度いままで自分が感じたことを繰り返すのである。これは仮想現実の世界である。仮想現実のなかでもいずれ死が訪れる。また、脳細胞の死滅による記憶の再生がはじまる。幾度となくリプレイされ、今回は何回目のリプレイかもわからない。ただ1度だけリアル世界の死がおとずれているはずだ。あとは無限回のリプレイである。一なるリアル現実と多なる仮想世界。真実と虚構、一と多という2項対立がこの考えだと見事に融和する。以前、宇宙人、もしくは古代文明人のパソコンのなかにわれわれの住む世界は作られたとお話した。基本的にはこれと同様、入れ子構造だといいたいのだ。しかも、リアル世界での死にぎわ、つまり、いまわのきわが永続し、これが無数の仮想世界、虚構世界がリプレイされている。これは脳細胞の死滅という、存在から無への移行に際して、存在であらずものに近づくとき、そこにはコーヘンがいったような微分法により、無数の点が存在しているはず。死滅する瞬間に無数の人生リプレイが実行されるのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 17:41| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂 コーヘンの純粋認識の論理学、差異と反復へ

コーヘンの純粋認識の論理学、差異と反復についてである。もしも、われわれがずーっと同じことをくりかえしていると考えたらどうだろうか。たしかに、朝はいつものようにナイアガラの滝で顔を洗い、庭先にひろがるロッキー山脈にむかって大きく深呼吸をし、便座シートに越しかけ操縦舵をにぎる。最近、トイレでのスタイルが型にはまってきてマンネリ化している。こんなんじゃ大物にはなれないとイメージチェンジをはかる。便座シートのうえにたって便をする。環境がかわれば気分もかわる。日々の事務ワークに飽き飽きし、脱サラ宣言をポツダムにてとりおこなう。ナイル川流域でらーめん店を開店し、花輪がいっぱい。現地人からは鼻輪をプレゼントされる。仕事をかえる、座り方、食べ方をかえてみる。繰り返しからの脱却だが、そもそも、我々人間が皆一様に同じ人生を繰り返していたら、とはかんがえられないだろうか。

  コーヘンの純粋認識の論理学についてである。新カント学派のコーヘン、そもそも、新カント学派はカント哲学の復興という目的があった。今月の目標は給食を残さず食べること。カント哲学では認識とは論理と感覚のドッキングと考える。仲の良いカップルが尻相撲をすると、お尻がドッキングし離れなくなるという話を高潔な紳士から聞いたことがある。目からは視覚情報。目の保養に海水浴。ビキニ姿の海がめがたまご産んでいるところをウォッチング。耳からはせんべいをくっている咀嚼音。なにやら怪しい匂いが立ち込めてきた。おならするときはちゃんと右見て上見て安全確認してからしなさい、とあれほどいったのに、と通りすがりのおばちゃんに叱られる。とにかく、これら感覚情報はあまりにも細かすぎる。都会の雑踏のなか、サラリーマンのぴょこんぴょこんという足音。刑事さんがガードレールを飛び越える音。これらの細かいたくさんの感覚情報をまとめるひつようがある。整理整頓を心がけ、論理的なカテゴリーの容器に感覚を押しこめる。それはあたかも、弁当箱にウィンナールーム、いなごの佃部屋と仕分けされているのといっしょ。そして、感覚をカテゴリーといううつわによってまとめることを悟性という。要するに、感覚情報を材料にして調理するのが悟性だ。悟性はよいしょどっこらしょ、という自発的なもの。相撲でいうつっぱりだ。一方の感覚はなにもしないでも、耳や目から飛びこんでくる。隣の家のおじさんが咳払い。痰がからむ音をきいたとき、下町情緒を感じてしまう。もちろん、庭先にはモモヒキがいけにえのごとくちゅうぶらりんにされている。悟性は自発的、積極的であり、感覚は受動的、消極的と考えるのだ。そこで新カント学派のコーヘンは、ほんとうは感覚も自発的に私自身が産んじゃった、と考えるのである。すべては頭で考えることでうまれるという。考えて考えまくれの精神で、なんと、感覚すらも作っちゃうのである。古代ギリシャのパルメニデスは存在とは思考だ、と言い放つ。まずは存在して、よーいどーんで思考がはじまるのではない。逆にいろいろと考えをめぐらせたからどかーんとモノが存在するわけでもないという。要するに、考えることが存在しちゃうことだというのだ。そんなパルメニデスの哲学を復活するような気配が感じられるコーヘンの哲学。


   とにかく流れ作業中に考えてみる。海老漁船に載りこんで、投網をふぁいとで引き上げているときに考えこんでみる。すると、考えていないものがあるはずだ。ケーキ食いたい、と考えているとき、実感のじいさんはいまなにをしているのか、ということは考えていない。考えるとは、考えていないものに限りなく近づくこと。ケーキをみつめ、ケーキについて思い巡らす。どうすればケーキがつかまるのか。目の前のケーキそのものに少しづつ歩み寄る。だけど、ケーキそれ自体は100パーセント理解できない。ここで数学の微分法が登場する。ゴールまであとわずか。1メートルの半分を通過するには、その半分の50センチ地点を通過しないといけない。こうやって、1メートル先のゴール地点にたどり着いて満面な笑みで腋毛をみせつけるためには無数の地点を通過しないといけないのだ。ひたいのシワは狭い。本当に鋭くて大の男三人はきつすぎる。ヒタイの一本のシワは微小だが、微小なもののなかに無限の点があると考えるのだ。だから、考えまくって、考えていないものに近づく途中に無数の感覚情報が出現するというのだ。根源の判断という考えがある。Sは非Aである、というのがすべてのベース、おおもとだという。というのは、Aをささえ、Aを持ち上げるのはA自身ではない。一人部屋で胴上げされたんだ、と主張する友人の話はまゆつばだ。まゆげに酸性のつばをつけすぎて薄くなる。AはA以外のもの、つまり、非Aによって持ち上げられ、根拠づけられるのである。だから、考えていることは、考えていないものあってこそ成立しちゃう。

  次にジルドルゥ−スの、差異と反復、についてである。いままでの西洋哲学では表象と再現前のしすぎだという。まずは当店ナンバーワンのりんごちゃんがやってきた。八百屋さんでの一幕である。りんごをまなざし、つぎに仕事の都合上、トイレまで遠征にいかざるをえなくなった。思い存分、悔いのないように若いころは精一杯用をたす。またもどってくるとそこにはりんごちゃんがいる。りんごといっても、中身はみえないは、裏側が傷んでいるかもしれない。とにかく、りんごの全体イメージを思い描く。子のイメージが表象である。りんごの表象は近所のタバコ屋までライターを買いに単身渡米したあとでものこりつづける。りんごちゃんを思い起こすのである。また、りんごの裏側をみたり、斜めからみたりとなんともヌード写真でも撮っているかのようだ。そんなときも、りんごのイメージをなんどとなく思い描く。再びりんごをイメージ、表象するから再現前である。

  ジルドルゥ−スの哲学はちがう。すべては差異と反復だという。りんごだって、さっきまでは腹がへり、背中も減っていたので、食欲の対象。いまとなっては絵画の被写体になっている。同じりんごもそのときどきで微妙に意味がちがう。この違いの繰り返しのなかで、りんごちゃんはりんごちゃんだ、という同一性ができてくる。この差異、違いを反復するのはどこでおこなわれるのか。たとえば、哲学者ベルクソンは過去を中心にして、反復の術を決行。なんで私はりんごちゃんを認識できるのか。いままさにこの100マンボルトのぼくちんの瞳でみているからだろうか。りんごは食べ物、あまずっぱくておもわず、髪の毛がさかだってしまうという過去の記憶がオーバーラップすることで認識している。だから、同じりんごを2度と認識できないという。先日、りんごにミサイル攻撃されて負傷。本日、そのりんごとご対面するが、憎き敵でしかない。過去を中心とした反復なのだ。また、今という現在を中心にした反復は哲学者ヒュームだという。こたつのなかでたまちゃんが走りまわり、イヌは庭で丸くなる。なんど見てもコタツにはたまちゃんがいる。そのうち、見なくともどうせたまちゃんがコタツのなかでマングースと格闘しているんだろう、とかたくくるようになる。これを習慣による思いこみだという。最後に、未来を中心にした反復であるが、哲学者ニーチェである。今この瞬間はいままでなんども、無限回くりかえしてきたという。授業中におならがもれてしまい全校生徒が校庭へと避難。国会にて証人尋問され責任もん団にまで発展だ。こんな嫌なことも、こんご自分が死んでまた同じ人生を歩み、同じ目にあうというのだ。どうせ、同じことを永遠に繰り返しているのなら、今この瞬間に落とし穴に落ちてあちゃっぱー状態でも、こうつぶやくといい。されどもう一度、これが人生だと。つまり、嫌なこと、いいこと、すべてを全面肯定して笑いとばすのである。

   まとめ
  
 存在の科学  人生リプレイ論

  ひとは死を迎えるとき、脳細胞が死滅し、いままでのすべての記憶が一挙によみがえるという。要するに、もう一度いままで自分が感じたことを繰り返すのである。これは仮想現実の世界である。仮想現実のなかでもいずれ死が訪れる。また、脳細胞の死滅による記憶の再生がはじまる。幾度となくリプレイされ、今回は何回目のリプレイかもわからない。ただ1度だけリアル世界の死がおとずれているはずだ。あとは無限回のリプレイである。一なるリアル現実と多なる仮想世界。真実と虚構、一と多という2項対立がこの考えだと見事に融和する。以前、宇宙人、もしくは古代文明人のパソコンのなかにわれわれの住む世界は作られたとお話した。基本的にはこれと同様、入れ子構造だといいたいのだ。しかも、リアル世界での死にぎわ、つまり、いまわのきわが永続し、これが無数の仮想世界、虚構世界がリプレイされている。これは脳細胞の死滅という、存在から無への移行に際して、存在であらずものに近づくとき、そこにはコーヘンがいったような微分法により、無数の点が存在しているはず。死滅する瞬間に無数の人生リプレイが実行されるのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 17:39| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする