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2008年05月06日
存在の科学 空間の滅却が時間 点的時間論
存在の科学 空間の滅却が時間 点的時間論
ひとが死ぬとき、脳細胞が死滅し、そのときにあらゆる自分がいままでかんじとってきた記憶が走馬灯のようによみがえる、というお話をした。ところがよくよく考えてみると、ひとは常に死につつある。古い細胞は死滅し、新しい細胞がうまれる。死につつある存在でもある。すると、存在しているものが無になるというのが消滅だから、有から無への移行、1から0への移行においてコーヘンがいうような微分法が成立する。存在が存在であらずものにあるというのは、有から無の無数の点を通過することである。そこんはあらゆる情報がつまり、質的に違うものが無数にある。無から有への移行である発生もまた同じである。また、私はからだを動かし、活動する。右手をあげて元気よく横断歩道をわたる。右手がいままであったところにはなく、頭上にある。こtれもまた、その空間にあった手がないのだから有から無への移行である。じーっとしていても、発生と消滅がある。空間的に存在しているものが空間的な無になるとき時間が発生するのだ。あまりにも当たり前である。発生と消滅が時間だからである。そして、有が無に近づくとき、限りなく無に近い有になっても、無とのあいだには無数の有がある。だから、無限小のなかの無限大の情報になってついには消滅。そのときなにがおきているのか。小さな箱にだんごをぎゅぎゅう詰めするときと互いにだんごは浸透しはじめる。だから、有から無への移行に際して、無限の有が相互に浸透しあい、質の違いと相互の浸透、という状態になり、いわゆるベルクソンのいう純粋持続になるのだ。今という瞬間が永遠であり、たったひとつ。それでいて、純粋持続ゆえに質のことなったものが互いに溶け込んでいる。同じことが繰り返されるのでなく、創造的に新しいものがどんどんうみだされるのである。同じたった一つの今が無限に新しいものを産出。一のなかの多である。一は真実であり、多は虚構でもある。人生は有から無へのプロセスだといってもよい。死滅したあちは無から有へのプロセスがあるかもしれない。つまり、無が相互に浸透しあい有が誕生するのだ。無化しまくることにより、意識が誕生し、有化しまくることは超自己意識を誕生させる。 そして、点のなかに空間が凝縮されることで時間が発生するから点的時間論となづける。
ひとが死ぬとき、脳細胞が死滅し、そのときにあらゆる自分がいままでかんじとってきた記憶が走馬灯のようによみがえる、というお話をした。ところがよくよく考えてみると、ひとは常に死につつある。古い細胞は死滅し、新しい細胞がうまれる。死につつある存在でもある。すると、存在しているものが無になるというのが消滅だから、有から無への移行、1から0への移行においてコーヘンがいうような微分法が成立する。存在が存在であらずものにあるというのは、有から無の無数の点を通過することである。そこんはあらゆる情報がつまり、質的に違うものが無数にある。無から有への移行である発生もまた同じである。また、私はからだを動かし、活動する。右手をあげて元気よく横断歩道をわたる。右手がいままであったところにはなく、頭上にある。こtれもまた、その空間にあった手がないのだから有から無への移行である。じーっとしていても、発生と消滅がある。空間的に存在しているものが空間的な無になるとき時間が発生するのだ。あまりにも当たり前である。発生と消滅が時間だからである。そして、有が無に近づくとき、限りなく無に近い有になっても、無とのあいだには無数の有がある。だから、無限小のなかの無限大の情報になってついには消滅。そのときなにがおきているのか。小さな箱にだんごをぎゅぎゅう詰めするときと互いにだんごは浸透しはじめる。だから、有から無への移行に際して、無限の有が相互に浸透しあい、質の違いと相互の浸透、という状態になり、いわゆるベルクソンのいう純粋持続になるのだ。今という瞬間が永遠であり、たったひとつ。それでいて、純粋持続ゆえに質のことなったものが互いに溶け込んでいる。同じことが繰り返されるのでなく、創造的に新しいものがどんどんうみだされるのである。同じたった一つの今が無限に新しいものを産出。一のなかの多である。一は真実であり、多は虚構でもある。人生は有から無へのプロセスだといってもよい。死滅したあちは無から有へのプロセスがあるかもしれない。つまり、無が相互に浸透しあい有が誕生するのだ。無化しまくることにより、意識が誕生し、有化しまくることは超自己意識を誕生させる。 そして、点のなかに空間が凝縮されることで時間が発生するから点的時間論となづける。
仙人養成講座 哲風呂 主体性と純粋持続へ
主体性と純粋持続についてである。空間と時間とは修学旅行の写真のように互いに肩をならべているものではない。しかも、カメラ目線でピースをし、気合入れてピースしすぎで疲れた表情をしている。ピースするとはカニになることであり、カニは無類のカニ好きに貪り食われてしまう運命にある。時間、空間は並んでいるのでなく、連続しつながっているのだ。たしかに修学旅行の写真でやまちゃんとさとちゃんが繋がっていることが判明することも少なくはない。運命の赤い糸でつながっているのでなく、鼻毛がつながっていたりする。しかも、空間と時間の連続が、生命をもうみだしているのだと声高に主張したい。
主体性とは何か。主体的に白髪を取りなさいとか、主体的に自分の足で消しゴムをひろいなさい、とよくブランコを立ちのりしている少年少女から言われることがある。流行、ファッションに流されずに、自分らしく、自分の意志で靴の匂いをかぐ。なんとも香しい匂いがする。靴下の匂いのほうが激しい。靴下のあなからだれかが覗いている。主体とは主観とはちがう。主観性はどちらかというと、カタマリっぽい。私というカタマリと私以外のカタマリがくっついたり、離れたりする。主体はカタマリではなく、忙しく活動しているやつだ。
近代哲学のデカルトは、我思うゆえに我あり、となにやら小難しいことを主張。いろんなものを疑ったが、疑えないものにぶちあたる。自分ってひょっとしたら存在しないんじゃねーの、と浜辺で日光浴中の真っ白いアンドロイドはつぶやく。ところが、いままさに疑っているということは少なくとも存在していないと疑えないことにふと気がつく。我疑っているから存在するのだ。まったくもって思考活動である。肉だんごのような自分のカタマリという考えを否定しすぎた哲学者ヒューム。ヒューム哲学では、すべては思いこみ、信念によって作られたと考える。ポケットに手をつっこんで小銭の音をならす。そんなことを繰り返しているうちに、習慣的に確認しなくともどうせポケットには小銭があるんだろうと思いこむようになる。鏡のまえにたつと自分がいる。思わず、ボディビルダーのようなポーズをとる。浮き出たアバラ骨が魅力的。指でなで、はじいてフォークソングをうたう。自分の姿を確認しなくとも、どうせ自分というカタマリがいるにちがいないと習慣的に信じるようになる。ほんとうは自分も世界も無いんだよ、あるのは思い込みだというのだ。カントもまた、私自身は活動しまくる主体だという。考えたり、目をぎょろぎょろさせたり、こんぼうをふりまわしたりする私。主体的な自分のずーっと向こうにはバナナの木がある。バナナの木はそれ自体で存在している、根っこがどこまではっているかはしらない。裏側でチンパンジーがくつろいでいるかもしれない。自分がみているみていないかかわらず存在してやがる。これが物自体である。主体と物自体、これがカント哲学の基本的な考えだ。
ヘーゲル哲学においてはこの宇宙が主体的だというぶっとんだ発想だ。この宇宙ははじめは無機物、石ころのようなものしかなかった。いつしか生命が誕生し、お尻をふって異性を誘惑し種族繁栄。進化してとうとうおりこうさんである人間が出現。人間は社会をつくり、国家を形成。こうやって、進化発展し、いつしか神様の精神になるという。宇宙の歴史はなんだか目的、ゴールがあるようにみえてならない。宇宙の歴史は神様の精神、絶対精神が出現するプロセスだというのだ。宇宙が主体だというのだ。
ヘーゲルは行きすぎてしまった。いくところまでいった。やりすぎはよろしくない。こすりすぎてスレンダーになってしまった股間。こすりすぎに注意である。やせほそった股間のかたと結婚を望みますか、と結婚相談のアンケートにかかれている。たんぼのなかで生息するものと結婚きぼうしますか、というチェック項目もあったりする。そこで現代においては、主体といっても、宇宙ではなく、人間こそが主体的だという考えがうまれるにいたった。たとえば、哲学者キルケゴールである。真理とは腹巻とへそのあいだにあるのではない。また、真理とは普遍的なものではないと考える。やまちゃんは人間である、と巷でうわさになっている。やまちゃんと斎藤さんも人間という共通の性質、普遍的な性質をもっている。あまねくすべてに、いろんなやつに当てはまってしまうのが普遍性。真理とはまったく逆で、個性にあるという。私らしさ、やまちゃんらしさこそが真理だ。鼻をかむとき、眉毛を上下させるへんなクセがある。これがやまちゃんの個性的なところ。眉毛を上下するのは目を上下するのとはわけがちう。個性とは世界でたった一つ、つまりは自分のちっぽけさでもある。つまりは有限性なのだ。自分がちっぽけだということはデカイやつが際立ってくる。もっとも大いなるもの、すなわち神様が現われるのである。だから、個性に真理があるということは、神様への信仰でもある。
さてつぎの温まるお話は哲学者ベルクソンの純粋持続である。あたたまりすぎて、一部こげてしまうかもしれない。ほんとうの時間とはなにか。掛け時計をまなざす。掛け時計は、なにがんとばしてんだよ、とちょっぴりおこっている。もう掛け時計と目をあわせるのはやめておこう。長針、短針が動いている。じつは時間というよりも、針の空間移動なのだ。空間的なものはちゃんとお行儀よくならんでいる。たこ焼きと一体化したたこ焼き屋のおじさんはありえない。しかも、空間とは量的に計測できる。忍者はすかさず背中にかついでいる定規をとりだし、相手の身の丈をはかる。ところが、ほんとうの時間とは私自身であり、純粋持続であるという。3時3分と3時8分は量のちがいでしかないが、純粋持続とは質のちがいの連続だ。ざらざらだとおもったら間髪いれずつるつるになる。しょっぱい、苦い、そして、くっせーっという質のちがい。さっきまではおっとりしていたが、いあまは強暴になっている私。私のなかにはこんな純粋持続があるという。そして、質の違いと相互浸透について語る。質がちがうとは、じつに、互いに浸透しくいこんじゃうことだという。お尻はパンツとは質がちがう。だから、お尻がパンツにくいこむ。パンツは食パンではあらず、と侍はつぶやく。パンツは食パンではない、ということでおもいっきり関わっている。そして、私がトイレでキリンと遭遇したとき、きりんさんは大嫌いと叫んだ後、かってみたキリンの記憶がいままさに見ているキリンの知覚に入りこんで、キリンを認識しているのだ。記憶がオーバーラップしているから私はきりんちゃんを認識できちゃう。空間が凝縮しあらゆる物質がつめこまれるところとはなにか。ブラックホールである。ブラックホールこそが空間消滅の場所であり、ここから時間が発生、はては質、意識活動がうみだされている。我々人間にも小ブラックホールがありにちがいない。ブラックホールは特殊なものでなく、身近に自分自身のなかにある。白鳥座の巨大なブラックホールは巨大な生命体の意識である。
まとめ
存在の科学 空間の滅却が時間 点的時間論
ひとが死ぬとき、脳細胞が死滅し、そのときにあらゆる自分がいままでかんじとってきた記憶が走馬灯のようによみがえる、というお話をした。ところがよくよく考えてみると、ひとは常に死につつある。古い細胞は死滅し、新しい細胞がうまれる。死につつある存在でもある。すると、存在しているものが無になるというのが消滅だから、有から無への移行、1から0への移行においてコーヘンがいうような微分法が成立する。存在が存在であらずものにあるというのは、有から無の無数の点を通過することである。そこんはあらゆる情報がつまり、質的に違うものが無数にある。無から有への移行である発生もまた同じである。また、私はからだを動かし、活動する。右手をあげて元気よく横断歩道をわたる。右手がいままであったところにはなく、頭上にある。こtれもまた、その空間にあった手がないのだから有から無への移行である。じーっとしていても、発生と消滅がある。空間的に存在しているものが空間的な無になるとき時間が発生するのだ。あまりにも当たり前である。発生と消滅が時間だからである。そして、有が無に近づくとき、限りなく無に近い有になっても、無とのあいだには無数の有がある。だから、無限小のなかの無限大の情報になってついには消滅。そのときなにがおきているのか。小さな箱にだんごをぎゅぎゅう詰めするときと互いにだんごは浸透しはじめる。だから、有から無への移行に際して、無限の有が相互に浸透しあい、質の違いと相互の浸透、という状態になり、いわゆるベルクソンのいう純粋持続になるのだ。今という瞬間が永遠であり、たったひとつ。それでいて、純粋持続ゆえに質のことなったものが互いに溶け込んでいる。同じことが繰り返されるのでなく、創造的に新しいものがどんどんうみだされるのである。同じたった一つの今が無限に新しいものを産出。一のなかの多である。一は真実であり、多は虚構でもある。人生は有から無へのプロセスだといってもよい。死滅したあちは無から有へのプロセスがあるかもしれない。つまり、無が相互に浸透しあい有が誕生するのだ。無化しまくることにより、意識が誕生し、有化しまくることは超自己意識を誕生させる。 そして、点のなかに空間が凝縮されることで時間が発生するから点的時間論となづける。
主体性とは何か。主体的に白髪を取りなさいとか、主体的に自分の足で消しゴムをひろいなさい、とよくブランコを立ちのりしている少年少女から言われることがある。流行、ファッションに流されずに、自分らしく、自分の意志で靴の匂いをかぐ。なんとも香しい匂いがする。靴下の匂いのほうが激しい。靴下のあなからだれかが覗いている。主体とは主観とはちがう。主観性はどちらかというと、カタマリっぽい。私というカタマリと私以外のカタマリがくっついたり、離れたりする。主体はカタマリではなく、忙しく活動しているやつだ。
近代哲学のデカルトは、我思うゆえに我あり、となにやら小難しいことを主張。いろんなものを疑ったが、疑えないものにぶちあたる。自分ってひょっとしたら存在しないんじゃねーの、と浜辺で日光浴中の真っ白いアンドロイドはつぶやく。ところが、いままさに疑っているということは少なくとも存在していないと疑えないことにふと気がつく。我疑っているから存在するのだ。まったくもって思考活動である。肉だんごのような自分のカタマリという考えを否定しすぎた哲学者ヒューム。ヒューム哲学では、すべては思いこみ、信念によって作られたと考える。ポケットに手をつっこんで小銭の音をならす。そんなことを繰り返しているうちに、習慣的に確認しなくともどうせポケットには小銭があるんだろうと思いこむようになる。鏡のまえにたつと自分がいる。思わず、ボディビルダーのようなポーズをとる。浮き出たアバラ骨が魅力的。指でなで、はじいてフォークソングをうたう。自分の姿を確認しなくとも、どうせ自分というカタマリがいるにちがいないと習慣的に信じるようになる。ほんとうは自分も世界も無いんだよ、あるのは思い込みだというのだ。カントもまた、私自身は活動しまくる主体だという。考えたり、目をぎょろぎょろさせたり、こんぼうをふりまわしたりする私。主体的な自分のずーっと向こうにはバナナの木がある。バナナの木はそれ自体で存在している、根っこがどこまではっているかはしらない。裏側でチンパンジーがくつろいでいるかもしれない。自分がみているみていないかかわらず存在してやがる。これが物自体である。主体と物自体、これがカント哲学の基本的な考えだ。
ヘーゲル哲学においてはこの宇宙が主体的だというぶっとんだ発想だ。この宇宙ははじめは無機物、石ころのようなものしかなかった。いつしか生命が誕生し、お尻をふって異性を誘惑し種族繁栄。進化してとうとうおりこうさんである人間が出現。人間は社会をつくり、国家を形成。こうやって、進化発展し、いつしか神様の精神になるという。宇宙の歴史はなんだか目的、ゴールがあるようにみえてならない。宇宙の歴史は神様の精神、絶対精神が出現するプロセスだというのだ。宇宙が主体だというのだ。
ヘーゲルは行きすぎてしまった。いくところまでいった。やりすぎはよろしくない。こすりすぎてスレンダーになってしまった股間。こすりすぎに注意である。やせほそった股間のかたと結婚を望みますか、と結婚相談のアンケートにかかれている。たんぼのなかで生息するものと結婚きぼうしますか、というチェック項目もあったりする。そこで現代においては、主体といっても、宇宙ではなく、人間こそが主体的だという考えがうまれるにいたった。たとえば、哲学者キルケゴールである。真理とは腹巻とへそのあいだにあるのではない。また、真理とは普遍的なものではないと考える。やまちゃんは人間である、と巷でうわさになっている。やまちゃんと斎藤さんも人間という共通の性質、普遍的な性質をもっている。あまねくすべてに、いろんなやつに当てはまってしまうのが普遍性。真理とはまったく逆で、個性にあるという。私らしさ、やまちゃんらしさこそが真理だ。鼻をかむとき、眉毛を上下させるへんなクセがある。これがやまちゃんの個性的なところ。眉毛を上下するのは目を上下するのとはわけがちう。個性とは世界でたった一つ、つまりは自分のちっぽけさでもある。つまりは有限性なのだ。自分がちっぽけだということはデカイやつが際立ってくる。もっとも大いなるもの、すなわち神様が現われるのである。だから、個性に真理があるということは、神様への信仰でもある。
さてつぎの温まるお話は哲学者ベルクソンの純粋持続である。あたたまりすぎて、一部こげてしまうかもしれない。ほんとうの時間とはなにか。掛け時計をまなざす。掛け時計は、なにがんとばしてんだよ、とちょっぴりおこっている。もう掛け時計と目をあわせるのはやめておこう。長針、短針が動いている。じつは時間というよりも、針の空間移動なのだ。空間的なものはちゃんとお行儀よくならんでいる。たこ焼きと一体化したたこ焼き屋のおじさんはありえない。しかも、空間とは量的に計測できる。忍者はすかさず背中にかついでいる定規をとりだし、相手の身の丈をはかる。ところが、ほんとうの時間とは私自身であり、純粋持続であるという。3時3分と3時8分は量のちがいでしかないが、純粋持続とは質のちがいの連続だ。ざらざらだとおもったら間髪いれずつるつるになる。しょっぱい、苦い、そして、くっせーっという質のちがい。さっきまではおっとりしていたが、いあまは強暴になっている私。私のなかにはこんな純粋持続があるという。そして、質の違いと相互浸透について語る。質がちがうとは、じつに、互いに浸透しくいこんじゃうことだという。お尻はパンツとは質がちがう。だから、お尻がパンツにくいこむ。パンツは食パンではあらず、と侍はつぶやく。パンツは食パンではない、ということでおもいっきり関わっている。そして、私がトイレでキリンと遭遇したとき、きりんさんは大嫌いと叫んだ後、かってみたキリンの記憶がいままさに見ているキリンの知覚に入りこんで、キリンを認識しているのだ。記憶がオーバーラップしているから私はきりんちゃんを認識できちゃう。空間が凝縮しあらゆる物質がつめこまれるところとはなにか。ブラックホールである。ブラックホールこそが空間消滅の場所であり、ここから時間が発生、はては質、意識活動がうみだされている。我々人間にも小ブラックホールがありにちがいない。ブラックホールは特殊なものでなく、身近に自分自身のなかにある。白鳥座の巨大なブラックホールは巨大な生命体の意識である。
まとめ
存在の科学 空間の滅却が時間 点的時間論
ひとが死ぬとき、脳細胞が死滅し、そのときにあらゆる自分がいままでかんじとってきた記憶が走馬灯のようによみがえる、というお話をした。ところがよくよく考えてみると、ひとは常に死につつある。古い細胞は死滅し、新しい細胞がうまれる。死につつある存在でもある。すると、存在しているものが無になるというのが消滅だから、有から無への移行、1から0への移行においてコーヘンがいうような微分法が成立する。存在が存在であらずものにあるというのは、有から無の無数の点を通過することである。そこんはあらゆる情報がつまり、質的に違うものが無数にある。無から有への移行である発生もまた同じである。また、私はからだを動かし、活動する。右手をあげて元気よく横断歩道をわたる。右手がいままであったところにはなく、頭上にある。こtれもまた、その空間にあった手がないのだから有から無への移行である。じーっとしていても、発生と消滅がある。空間的に存在しているものが空間的な無になるとき時間が発生するのだ。あまりにも当たり前である。発生と消滅が時間だからである。そして、有が無に近づくとき、限りなく無に近い有になっても、無とのあいだには無数の有がある。だから、無限小のなかの無限大の情報になってついには消滅。そのときなにがおきているのか。小さな箱にだんごをぎゅぎゅう詰めするときと互いにだんごは浸透しはじめる。だから、有から無への移行に際して、無限の有が相互に浸透しあい、質の違いと相互の浸透、という状態になり、いわゆるベルクソンのいう純粋持続になるのだ。今という瞬間が永遠であり、たったひとつ。それでいて、純粋持続ゆえに質のことなったものが互いに溶け込んでいる。同じことが繰り返されるのでなく、創造的に新しいものがどんどんうみだされるのである。同じたった一つの今が無限に新しいものを産出。一のなかの多である。一は真実であり、多は虚構でもある。人生は有から無へのプロセスだといってもよい。死滅したあちは無から有へのプロセスがあるかもしれない。つまり、無が相互に浸透しあい有が誕生するのだ。無化しまくることにより、意識が誕生し、有化しまくることは超自己意識を誕生させる。 そして、点のなかに空間が凝縮されることで時間が発生するから点的時間論となづける。






