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2008年05月07日

宇宙人 まっしゅ (20080126)

posted by モノイイ ジョーカー at 17:52| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学  点的時間論  ブラックホールは精神であり、それ以外は肉体である

存在の科学  点的時間論  ブラックホールは精神であり、それ以外は肉体である

  夜空を眺めてみる。広大な宇宙がひろがり、首もつかれる。おやおや、ブラックホールがみえるではないか。割り箸でつまもうとしてもつまめない現実に自己嫌悪に陥り、発狂。ブラックホールはたしかに、科学的に検証されつつある。光が強力な重力で屈折するのだ。ブラックホールだけではない。惑星だって確認できる。これらはただの物質だ。ブラックホールは物質が凝縮され、体積が超小さくなったにもかかわらず、質量が変わらないもの。ようするに、1トンの鼻くそ。惑星、恒星はただの物質であり、それほど濃縮されていない粗雑なものだ。

  哲学者ベルクソンは精神と物質、記憶と物質の違いはぎゅっと凝縮されたものか、はたまた、伸び広がった弛緩されたものかの程度の違いだと考えた。まず、私は身の回りを見渡す。ちゃぶ台があるがこれはただの物質だ。その向こうには知人がヨガをやっている。知人は人間であり、生命体、意識をもっている。ふつうの日常世界には物質と生命、物質と意識があることに気がつく。そこでこんどは目を宇宙に向ける。夜空に広がる宇宙だって、茶の間だって、よりひろい宇宙の一部。つまり、まったくもって同じもの。宇宙には惑星、恒星、隕石などの物質的なものがぶんぶん動き回っている。それだけではない。先ほども言ったように、ブラックホールだってある。伸びひろがり、ぶったるんでいる物質と、ぎゅーっと濃縮されたブラックホール。要するに、私の周囲のなんらかわらない。ブラックホールとは精神、意識である。惑星、恒星は物質だ。このように、宇宙全体がひとつの巨大な生命体であることに気がつく。あるおじさんはメタボリックになりつつ、からだが膨張してきたとつぶやく。ところが、かれの意識、精神、記憶は凝縮されてゆく。宇宙もまた、膨張をしているがブラックホールは収縮している。宇宙はそんなおじさんとなんらかわらない。

   ブラックホールは物質が凝縮されたもので、意識もまた物質の凝縮だ。凝縮すると小さくなりついには無の点になる。ここに物質、空間の破壊がある。このとき、コーヘンのいう微分法が適用される。有から無へと移行する過程で無数の点を経由する。空間の破壊が無の点になり、時間を産む。時間とは濃縮されてたがに浸透しあった物質の極地だ。だからこんな無の点には質的には無数のものが含まれる。ベルクソンのいう純粋持続でもある。空間の破壊といったが、これをカタストロフィーという。崩壊であるが、厳密には消滅のこと。物質が濃縮し消滅することも崩壊であり、物質が弛緩して崩れてしまうことも崩壊、つまりカタストロフィーだ。

    山も記憶する。山が崩れ、獣道ができたり、風化したりするとき、力が加わる。力の伝達とは波である。山の一部が濃縮され、これが移動する。濃縮部の中央は無の点になる。力の伝達だけでなく、音の伝達も空気の濃縮部の伝わりである。一部が凝縮されてその中央部に無の点を形成する。要するに、力も音も波は有のなかに無が移動するということ。この無の点がブックホールであり、ここに記憶があり、精神、意識がある。人間の脳は電気信号で働いているといわれるが、電気もまた波である。波であることは濃縮部の無の点が移動しているはず。ここに精神的な記憶の所在がある。
posted by モノイイ ジョーカー at 17:48| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂  記憶と物質、存在の穴、存在のくぼみへ

記憶と物質、存在の穴、存在のくぼみについてである。足元をながめると広大無辺な宇宙がひろがっていた。久々に宇宙旅行でもしようかな、と軽い気持ちでこたつのなかにもぐりこむ。なんという香しい匂いだろう。大根足を発見だ。惑星がぐるぐるまわっている。ねこのたまちゃんがへをこく。さまざまなエピソードがあって目的地のアンドロメダ星雲にロープウェーで到着だ。着地のさいは真剣である。宇宙は広いな大きいな、とつぶやいていたら俳人にきみもいっしょに俳句を歌わないかとスカウトされる。そんな宇宙をありのままにみつめたとききがつくことがある。こんなことはしていられない、老人のおむつを取り替える時間だ、と仕事中であることに気がつく。そうではなくてブラックホールだの惑星だの、じつにこれらは一人の人間とそっくりな構造、働きをしているということに気がつくのである。

  哲学者ベルクソン著、記憶と物質、である。老人と海、老人とまご。お年玉あげるからいじめないで賄賂をわたす。やんぼーとまーぼーなど、世の中にはペアがたくさんいらっしゃる。記憶と物質もそんな仲良しペアのたぐいである。精神と物質といってもかまわない。ベルクソンは仲良しカップル論、つまりは二元論にたってものを考える。そもそもこの世界は夢か幻か、とお見合いのときに相手と談義する。恋人にいってみるとゴミ箱に捨てられる。バスケの選手にいうとダストシュートにダンクシュートされる。世界にはいろんなものがある。高級靴下、手がすべって落下してしまったハンバーガーのレタス。トレーのうえにはそんな敗北者がたくさんにいる。世界に存在しやがるやつらは全部ただの妄想、イメージなのか、はたまた、実在しているのだろうか。精神、心が作り上げたものか、はたまた、ちゃんと実在しているやつなのか。すべてはただのイメージだという夢見心地な考えが観念論。目を細めて、ときおり大きなあくびをして口のなかは納豆の糸がひく。すべては間違いなく現実に実在しているものだというのが実在論だ。こぶしで机を叩き、おもわず、鼻のあなからあかひげが飛び出す。実在しているったら実在しているんだ、てやんでー、といってみたが、てやんでーの発音がよろしくなくペナルティー。イエローカードを手にした審判員が近づいてくる。そして、イエローカードを食え、と言いつけ、食べてみると美味でございます、と一言。この観念論と実在論のどっちが正しいと片方だけにエゴひいきをしないのがベルクソン。観念だし、実在もしているという。精神と物質のブレンドだ、というのいだ。

   ベルクソンのイマージュという概念がある。精神と物質、観念と実在が絶妙にまざりあったほのか香ばしさ、これがイマージュという概念だ。私の目の前には大きな落花生がどんぶらこと叫びながら空を飛んでいる。落花生は間違いなくこのふたつの目で認識しているし、実在している。ところが、その殻のなかには果たして豆が搭乗しているかどうかは確認しがたい。こんなとき、私は殻のなかの豆をイメージしちゃう。私の周辺のあらゆるものが、こんな実在とイメージのごった煮だったことに気がつく。きゅうりでもナスでもどっちでもいいだよ、となぜだかふてくされている鈴虫。私のたくましいわき腹がひくひくと動く肉体もイマージュである。宇宙に漂っている物質もイマージュだ。ただ、手鏡で顔面を観察しているとき、口元にトウモロコシがくっついていることにきがつく。そのときまさにトウモロコシを知覚し感じ取っている。イマージュがきゅーっと収縮、凝縮されて知覚になる。なんとなく目のかたすみにうつっている光景、山がみえ、山にかかっているオーバーコートがかすかにみえるがこれらは漠然とした物質である。物質は拡張、膨張、弛緩したイメージだというのだ。イマージュがきゅーっとなって知覚、伸び広がって膨張したのが物質。おにぎりとおかゆ、どっちもシャリである。

  さて、じつに記憶と物質もきゅーっとひきしまったスレンダーな足の親指か、はたまた、ファットな親指かのちがいでしかない。小学校1年のときに悪漢に終われ命からがらサイボーグの斎藤くんに助けられた思い出。二年生のときに、ランドセルと間違えて近所のスキンヘッドのおじさんをおんぶして学校に言ってしまった嫌な思い出。こうやって記憶、思い出はさまざまな出来事が濃縮、凝縮されているものだ。これに対して、引越しのとき巨大な冷蔵庫、テレビソファーをおにぎりのように凝縮できない。もしできるなら、引越し業者に依頼しないですむ。物質的なものは膨張、弛緩しているからだ。記憶と物質もまたおにぎりとおかゆのちがいだ。

  また、美しい白いドレスを着た近所のおじいちゃんをたまに目撃するが、白いという質はじつのところ光の波長でしかない。量的な波長、物質的な波をぎゅーっとこれまたオニギリにすることで、白いという質、知覚がうまれると考える。

   つぎは哲学者サルトル、存在の穴、そして、メルロポンティの存在のくぼみについて一言、二言うんちくたれたい。うんちくは口からたれるがうんちはお尻からたれる、と古代人はよく言ったものだ。存在の穴とはこおろぎのケツの穴ではない。これを探すとなると100人がかりで大規模な捜査を決行せねばらない。石鹸は石鹸であり、自分自身と一致していると石鹸の訪問販売員はいう。これをサルトルならば即自存在という言い方をする。ただの存在ではなく、ましていわんや脂肪のかたまりでもなく、そこにぽっかりと空いた穴こそが人間の意識だと考えるのである。私は石鹸に意識を集中する。私と石鹸のあいだになにもないからこそ石鹸を認識できちゃう。目に石鹸をぴったりとくっつけていては石鹸が認識できないことは、親方の仕事を盗んでいたときに悟る。何もない無、なにもない空間があってこそモノを認識できるのだ。これを無の分泌という。ジャコウネコはお尻からおならを分泌するが、私は無を分泌するのだ。私が私自身を意識することだってある。そのとき、意識している私と意識されちゃった私のあいだにやっぱり無が必要だ。これが存在にあいた無、穴である。これに対して、哲学者メルロポンティは自分の意識は存在の穴でなくくぼみだという。そもそも、自分自身の意識は見えない、理想や理念、論理的なものも顕微鏡を持ってしても見えない。見えないもの。これが存在のくぼみなのだ。そして、意識は存在のくぼみであり、あくまでも存在というシーツにできたくぼみ、やまちゃんの顔面に突如出現して世界を震撼させたえくぼでしかない。どう考えても、存在やら世界のうえに出現したものなのだ。私の意識は存在やら世界に従属させられているというのだ。


  まとめ

  存在の科学  点的時間論  ブラックホールは精神であり、それ以外は肉体である

  夜空を眺めてみる。広大な宇宙がひろがり、首もつかれる。おやおや、ブラックホールがみえるではないか。割り箸でつまもうとしてもつまめない現実に自己嫌悪に陥り、発狂。ブラックホールはたしかに、科学的に検証されつつある。光が強力な重力で屈折するのだ。ブラックホールだけではない。惑星だって確認できる。これらはただの物質だ。ブラックホールは物質が凝縮され、体積が超小さくなったにもかかわらず、質量が変わらないもの。ようするに、1トンの鼻くそ。惑星、恒星はただの物質であり、それほど濃縮されていない粗雑なものだ。

  哲学者ベルクソンは精神と物質、記憶と物質の違いはぎゅっと凝縮されたものか、はたまた、伸び広がった弛緩されたものかの程度の違いだと考えた。まず、私は身の回りを見渡す。ちゃぶ台があるがこれはただの物質だ。その向こうには知人がヨガをやっている。知人は人間であり、生命体、意識をもっている。ふつうの日常世界には物質と生命、物質と意識があることに気がつく。そこでこんどは目を宇宙に向ける。夜空に広がる宇宙だって、茶の間だって、よりひろい宇宙の一部。つまり、まったくもって同じもの。宇宙には惑星、恒星、隕石などの物質的なものがぶんぶん動き回っている。それだけではない。先ほども言ったように、ブラックホールだってある。伸びひろがり、ぶったるんでいる物質と、ぎゅーっと濃縮されたブラックホール。要するに、私の周囲のなんらかわらない。ブラックホールとは精神、意識である。惑星、恒星は物質だ。このように、宇宙全体がひとつの巨大な生命体であることに気がつく。あるおじさんはメタボリックになりつつ、からだが膨張してきたとつぶやく。ところが、かれの意識、精神、記憶は凝縮されてゆく。宇宙もまた、膨張をしているがブラックホールは収縮している。宇宙はそんなおじさんとなんらかわらない。

   ブラックホールは物質が凝縮されたもので、意識もまた物質の凝縮だ。凝縮すると小さくなりついには無の点になる。ここに物質、空間の破壊がある。このとき、コーヘンのいう微分法が適用される。有から無へと移行する過程で無数の点を経由する。空間の破壊が無の点になり、時間を産む。時間とは濃縮されてたがに浸透しあった物質の極地だ。だからこんな無の点には質的には無数のものが含まれる。ベルクソンのいう純粋持続でもある。空間の破壊といったが、これをカタストロフィーという。崩壊であるが、厳密には消滅のこと。物質が濃縮し消滅することも崩壊であり、物質が弛緩して崩れてしまうことも崩壊、つまりカタストロフィーだ。

    山も記憶する。山が崩れ、獣道ができたり、風化したりするとき、力が加わる。力の伝達とは波である。山の一部が濃縮され、これが移動する。濃縮部の中央は無の点になる。力の伝達だけでなく、音の伝達も空気の濃縮部の伝わりである。一部が凝縮されてその中央部に無の点を形成する。要するに、力も音も波は有のなかに無が移動するということ。この無の点がブックホールであり、ここに記憶があり、精神、意識がある。人間の脳は電気信号で働いているといわれるが、電気もまた波である。波であることは濃縮部の無の点が移動しているはず。ここに精神的な記憶の所在がある。
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