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2008年05月08日
存在の科学 点的時間論 形式論理の破壊による弁証法論理の誕生
存在の科学 点的時間論 形式論理の破壊による弁証法論理の誕生
空間の破壊による時間の誕生
路上を徘徊中、辺りを見渡す。首が曲がらないところまでいったので、とりあえず、腰を回転せねばならない。いろんなひとたちがいる。ガードレールのうえで綱渡りの練習する若者。きゅうりを貪り食う鈴虫風なものたち。買い物かごをぶらさげて走りまわる主婦。金玉ぶらさげて走りまわるおじさん。ふつうの日常である。ふと、空をみあげ天体望遠鏡をかざす。すると、惑星やら恒星、ブラックホールまでがみえる。そもそも、どこから宇宙であり、どこからこの平凡な日常なのか。大気圏がその境目だろうか。じつに、われわれは地球の引力にひきつけられ、ほんとうにうすっぺらい大気の層に住んでいる。より広い意味ではこの日常も宇宙である。
すると、夜空に広がる宇宙と身の回りのもの、ほんとうは同じ構造をしているのではないかと考えられる。私の身の回りには意識をもった他人がいる。豊満な肉体が満員電車でひしめき合う。石ころだって転がっている。意識と物質があるではないか。さて、こんどは夜空にひろがる広大な宇宙である。惑星があり、恒星があり、どっちも石ころだ。白鳥座付近にブラックホールを発見だ。光を吸いこんでいるブラックホール。ブラックホールとは体積が小さいくせに質量がでかいやつ。10トンの鼻くそみたいなやつ。物質が濃縮された状態だ。そんなブラックホールは光をも吸いこみ、さらには吸いこまれると過去やら未来へと行ってしまうと理論的には考えられている。
さて、ここでお気づきであろうか。かって、哲学者ベルクソンは濃縮、凝縮されたものが記憶であり、精神、心だと主張。伸び広がって膨張しているのが物質だといった。濃縮か膨張か、精神と物質はただそれだけの違いだと。すると、ブラックホールが濃縮されたいわば人間でいう意識、精神に相当するもの。他の惑星は物質だ。つまり、宇宙はわれわれの身の回りと同じようなもの。意識をもった他人とさまざまな物質がある。
物質が濃縮されると、互いに食いこんで溶けこんで破壊される。いわば、空間の秩序が破壊されるのである。空間とは形式論理の法則に従う。否、形式論理が空間の性質をもっているといってもよい。このスイカは同時にメロンであることは不可能である。形式論理ではこうなる。ところが、濃縮すると、メロンとスイカが一体化するというおよそ矛盾した大事件が発生。空間の形式論理が破壊され、濃縮されたブラックホールでは時間の弁証法論理が出現する。空間が破壊されて時間の誕生。空間的に有であったものが空間的な無になる。1が0になるのだ。このとき、哲学者コーヘンがいっていたような微分法が成り立つ。1が0になるとき、有が無に、空間が時間になるとき、およそ、異なったものにチェンジするとき、無限の点を通過する。つまりは、微小なもののなかに無限大の情報が詰まっている。だから、モノが濃縮されて消滅する過程で宇宙のすべてがそこに含まれている。だから、別な観点からいえば、ここに矛盾しない自己言及、つまりは排中律が成り立つ。自分が自分にふれると矛盾する。排中律とは、こちらは物干し竿か物干し竿でないかのいずれかである、というもの。つまりは、宇宙の全部を言い尽くしているから絶対的に正しい文になる。全宇宙のなかに当然主張している当人も含まれているから、自分が自分についてふれちゃっている。だから本来自己言及で矛盾するはず。宇宙の全部をふくんでいれば矛盾しないのだ。だから、ブラックホールの濃縮、そのプロセスで微分方的にすべての宇宙を含んでいるからここに排中律が成立し矛盾しない。濃縮し消滅したあかつきにはこんどは空間の消滅でもあるから、時間原理が誕生する。空間が濃縮されて排中の原理の世界へ、さらには点となって消滅し時間が誕生。排中律とは空間から時間が誕生するその途上で現われるのである。
ブラックホールとは何者かの意識体である。そして、排中の原理のような矛盾しない自己言及、その極みに、私は私である、という自己同一性なる自己言及があり、人格の同一性がある。さらには、ブラックホールは光をも吸いこむ。人間の意識、精神もまた外界の光を取りいれ、吸いこみ、物を認識しているではないか。ブラックホールに吸いこまれると過去、未来へとタイムスリップするという。人間の意識、精神もまた時間を自由に移動する。過去の記憶、そして、未来の希望である。
このように宇宙は非日常空間ではない。日常の世界であり、近所のおばさんが買い物をしているのと同じなのだ。
空間の破壊による時間の誕生
路上を徘徊中、辺りを見渡す。首が曲がらないところまでいったので、とりあえず、腰を回転せねばならない。いろんなひとたちがいる。ガードレールのうえで綱渡りの練習する若者。きゅうりを貪り食う鈴虫風なものたち。買い物かごをぶらさげて走りまわる主婦。金玉ぶらさげて走りまわるおじさん。ふつうの日常である。ふと、空をみあげ天体望遠鏡をかざす。すると、惑星やら恒星、ブラックホールまでがみえる。そもそも、どこから宇宙であり、どこからこの平凡な日常なのか。大気圏がその境目だろうか。じつに、われわれは地球の引力にひきつけられ、ほんとうにうすっぺらい大気の層に住んでいる。より広い意味ではこの日常も宇宙である。
すると、夜空に広がる宇宙と身の回りのもの、ほんとうは同じ構造をしているのではないかと考えられる。私の身の回りには意識をもった他人がいる。豊満な肉体が満員電車でひしめき合う。石ころだって転がっている。意識と物質があるではないか。さて、こんどは夜空にひろがる広大な宇宙である。惑星があり、恒星があり、どっちも石ころだ。白鳥座付近にブラックホールを発見だ。光を吸いこんでいるブラックホール。ブラックホールとは体積が小さいくせに質量がでかいやつ。10トンの鼻くそみたいなやつ。物質が濃縮された状態だ。そんなブラックホールは光をも吸いこみ、さらには吸いこまれると過去やら未来へと行ってしまうと理論的には考えられている。
さて、ここでお気づきであろうか。かって、哲学者ベルクソンは濃縮、凝縮されたものが記憶であり、精神、心だと主張。伸び広がって膨張しているのが物質だといった。濃縮か膨張か、精神と物質はただそれだけの違いだと。すると、ブラックホールが濃縮されたいわば人間でいう意識、精神に相当するもの。他の惑星は物質だ。つまり、宇宙はわれわれの身の回りと同じようなもの。意識をもった他人とさまざまな物質がある。
物質が濃縮されると、互いに食いこんで溶けこんで破壊される。いわば、空間の秩序が破壊されるのである。空間とは形式論理の法則に従う。否、形式論理が空間の性質をもっているといってもよい。このスイカは同時にメロンであることは不可能である。形式論理ではこうなる。ところが、濃縮すると、メロンとスイカが一体化するというおよそ矛盾した大事件が発生。空間の形式論理が破壊され、濃縮されたブラックホールでは時間の弁証法論理が出現する。空間が破壊されて時間の誕生。空間的に有であったものが空間的な無になる。1が0になるのだ。このとき、哲学者コーヘンがいっていたような微分法が成り立つ。1が0になるとき、有が無に、空間が時間になるとき、およそ、異なったものにチェンジするとき、無限の点を通過する。つまりは、微小なもののなかに無限大の情報が詰まっている。だから、モノが濃縮されて消滅する過程で宇宙のすべてがそこに含まれている。だから、別な観点からいえば、ここに矛盾しない自己言及、つまりは排中律が成り立つ。自分が自分にふれると矛盾する。排中律とは、こちらは物干し竿か物干し竿でないかのいずれかである、というもの。つまりは、宇宙の全部を言い尽くしているから絶対的に正しい文になる。全宇宙のなかに当然主張している当人も含まれているから、自分が自分についてふれちゃっている。だから本来自己言及で矛盾するはず。宇宙の全部をふくんでいれば矛盾しないのだ。だから、ブラックホールの濃縮、そのプロセスで微分方的にすべての宇宙を含んでいるからここに排中律が成立し矛盾しない。濃縮し消滅したあかつきにはこんどは空間の消滅でもあるから、時間原理が誕生する。空間が濃縮されて排中の原理の世界へ、さらには点となって消滅し時間が誕生。排中律とは空間から時間が誕生するその途上で現われるのである。
ブラックホールとは何者かの意識体である。そして、排中の原理のような矛盾しない自己言及、その極みに、私は私である、という自己同一性なる自己言及があり、人格の同一性がある。さらには、ブラックホールは光をも吸いこむ。人間の意識、精神もまた外界の光を取りいれ、吸いこみ、物を認識しているではないか。ブラックホールに吸いこまれると過去、未来へとタイムスリップするという。人間の意識、精神もまた時間を自由に移動する。過去の記憶、そして、未来の希望である。
このように宇宙は非日常空間ではない。日常の世界であり、近所のおばさんが買い物をしているのと同じなのだ。
仙人養成講座 哲風呂 自己言及と弁証法へ
自己言及と弁証法についてである。本日のお話はアダルトな雰囲気たっぷりな老婆が営む駄菓子屋と、夜空にひろがる広大な宇宙についてだ。スーパーで買い物かごを振り回してパイソンの集団を追いかけている主婦と、やはりこの広大な銀河宇宙との関係だ。生活感あふれるベランダと宇宙とはどう考えてもおもわず、赤ペンで一線引きたくなる。そこをぐーっとこらえて赤ペンをさやに戻し、じつはなんらかわらない同じレベルで考えるである。宇宙と日常、ブラックホールと腹巻についた醤油のシミ。これらは広い意味でいう宇宙のなかの出来事だ。醤油の染みがついていたからって国際問題にまで発展しかねない。
自己言及という概念についてまずは考える。ときおり、顔面を虫にさされたとき、手でぽりぽりと掻いてしまう。耐えねばならない辛いときだってある。それでもその痒みに耐えられず、右手が顔面に接近。もちろん、機動戦士が出動するときのような緊張感とBGMで近づいてくる。自分が自分の顔面にふれる。自分が自分自身について言及しちゃう。もちろん、トイレではまずはケツをふいて用をたし、すかさず、どこでもドアから飛び出す。自分のケツが手にふれる瞬間であり、日常茶飯事の見なれた光景だ。自己言及を英語でわざと難しくいうとセルフリファレンスである。ちょこっとバイリンガルになりたいときだったある。バイリンガルで本当にもうしわけないと土下座しておじき、一回転してかかと落しにきをつけたい。この文は日本語で書かれております、と選手宣誓である。じつに、日本語を使って、日本語だ主張しているかられっきとした立派な自己言及である。なんでもかんでも疑いまくり、気がついたら周りの友人たちはヘリコプターで本国から逃亡してしまったという、懐疑論者。懐疑論者はこんなことをいう。すべての主張は疑わしい、と。すると、懐疑論者の主張自身も疑わしくなってしまう。自己言及は矛盾に陥るのである。哲学者サルトルのいう自己欺瞞も自己言及の一種だ。自分が自分をだますのである。ふつうに詐欺師は50円玉を5円玉だといって言葉巧みにひとをだます。詐欺師Aはなんの罪もないくりくり頭の少年Bをだますのだ。もちろんその手口を知られないように巧妙にダチョウのポーズで獲物に近づく。ところが、自己欺瞞とは詐欺師も被害者も同じ自分なのだ。自分にばれないように浮気する。そんなことができるだろうか。人間の意識は定立的意識と非定立的意識があるという。じーっと友人ののどぼとけに狙い定めて、指ではさんじゃう。意識を集中するとき、定立的意識になる。友人ののどぼとけの向こうにかすかに見えるのがかの有名なエッフェル塔。そのむこうには青空が目のかたすみにうつる。これらの背景はなんとなく意識しているものだから非定立的意識という。自己欺瞞とは、こんな非定立的意識からこっそり周りこんで自分をだますのである。
さて、ほとんどの自己言及は矛盾しちゃう、とハニカミ屋は電柱の影で叫ぶ。ところが、矛盾しない自己言及があったのだ。論理学でいう排中律といわれる大原則である。こちらは奈良の大仏であるか、奈良の大仏以外のものであるかのいずれかでございます、とバスガイドはいう。この主張は絶対的に正しい文だ。必ず真である。なぜなら、奈良の大仏と奈良の大仏以外を合わせると宇宙の全部になってしまうから。そして、宇宙の全部のなかにはもちろん、自分のふくまれちゃっている。宇宙の一員であるバスガイド。だから、自分が自分にふれちゃっている自己言及なのだ。それなのになんで矛盾しないのだろうか。
つぎは弁証法についてのお話である。昔々あるところに大きな桃がいて、こいつが美しい白鳥になり、亀をいじめ龍宮城にラチ監禁されたという心がぜんぜん温まらないお話。そもそも、矛盾しまくっているストーリーであるが、矛盾は極力避けたいと思うのが人間だ。弁証法とはこんな矛盾を扱う分野である。近代のおいて哲学者カントは、超越論的分析論はバンバンザイ、超越論的弁証論はいただけないと考えた。われわれ人間は、目でモノを舐めまわす様に見て、べろで嗅ぐように味わい、耳で物音を聞く。感覚的な材料を収集し、これをあたまで論理的に判断し認識する。これが超越論的分析論だ。これに対して、超越論的弁証論とは、感覚なんていらないよと目隠し鼻栓、耳栓状態でひたすら頭だけで論理的に考えてしまうもの。神様はみえないが、あたまで考えてみる。宇宙の果てについても考える。すると、神様はいるかもいないかも、宇宙は果てがあるかもないかも、というどっちつかずの優柔不断になってしまう。これをまた超越論的仮象といい、うまれながらにしてやってしまう人間の超うっかりミスだというのだ。
さて、後に哲学者フィヒテやシェリングは矛盾しあう二つのもの、正と反が合体して合ができると主張。ヘーゲルにおいてこの矛盾しあうもののドッキングが弁証法と名づけられた。矛盾し、対立するものが合体してレベルアップしニュータイプのヒーローが誕生する。ときおり、街中でみかけるが、スポーツカーと手押し車が合体して、超ウルトラオープンカーに変身したりする。厳密にいうと矛盾しあうものの合体とはいわない。アウフヘーベンする、という言い方である。アウフヘーベンとは聞きなれないと、耳糞が地層のように堆積しているおじさんはつぶやくが、三つの特徴をもつ概念だ。一つには、矛盾しあうものが合体。二つ目は、よりレベルアップする。三つ目は合体以前の矛盾しあうものがちゃんと保管されている、ということ。つまりは徹底的に矛盾している概念だ。こうやって、矛盾しあうものがアウフヘーベンされて世界は成り立っているという。人間がモノを考えるときも、モノが存在するのも、この弁証法の大原則に則っているというのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 形式論理の破壊による弁証法論理の誕生
空間の破壊による時間の誕生
路上を徘徊中、辺りを見渡す。首が曲がらないところまでいったので、とりあえず、腰を回転せねばならない。いろんなひとたちがいる。ガードレールのうえで綱渡りの練習する若者。きゅうりを貪り食う鈴虫風なものたち。買い物かごをぶらさげて走りまわる主婦。金玉ぶらさげて走りまわるおじさん。ふつうの日常である。ふと、空をみあげ天体望遠鏡をかざす。すると、惑星やら恒星、ブラックホールまでがみえる。そもそも、どこから宇宙であり、どこからこの平凡な日常なのか。大気圏がその境目だろうか。じつに、われわれは地球の引力にひきつけられ、ほんとうにうすっぺらい大気の層に住んでいる。より広い意味ではこの日常も宇宙である。
すると、夜空に広がる宇宙と身の回りのもの、ほんとうは同じ構造をしているのではないかと考えられる。私の身の回りには意識をもった他人がいる。豊満な肉体が満員電車でひしめき合う。石ころだって転がっている。意識と物質があるではないか。さて、こんどは夜空にひろがる広大な宇宙である。惑星があり、恒星があり、どっちも石ころだ。白鳥座付近にブラックホールを発見だ。光を吸いこんでいるブラックホール。ブラックホールとは体積が小さいくせに質量がでかいやつ。10トンの鼻くそみたいなやつ。物質が濃縮された状態だ。そんなブラックホールは光をも吸いこみ、さらには吸いこまれると過去やら未来へと行ってしまうと理論的には考えられている。
さて、ここでお気づきであろうか。かって、哲学者ベルクソンは濃縮、凝縮されたものが記憶であり、精神、心だと主張。伸び広がって膨張しているのが物質だといった。濃縮か膨張か、精神と物質はただそれだけの違いだと。すると、ブラックホールが濃縮されたいわば人間でいう意識、精神に相当するもの。他の惑星は物質だ。つまり、宇宙はわれわれの身の回りと同じようなもの。意識をもった他人とさまざまな物質がある。
物質が濃縮されると、互いに食いこんで溶けこんで破壊される。いわば、空間の秩序が破壊されるのである。空間とは形式論理の法則に従う。否、形式論理が空間の性質をもっているといってもよい。このスイカは同時にメロンであることは不可能である。形式論理ではこうなる。ところが、濃縮すると、メロンとスイカが一体化するというおよそ矛盾した大事件が発生。空間の形式論理が破壊され、濃縮されたブラックホールでは時間の弁証法論理が出現する。空間が破壊されて時間の誕生。空間的に有であったものが空間的な無になる。1が0になるのだ。このとき、哲学者コーヘンがいっていたような微分法が成り立つ。1が0になるとき、有が無に、空間が時間になるとき、およそ、異なったものにチェンジするとき、無限の点を通過する。つまりは、微小なもののなかに無限大の情報が詰まっている。だから、モノが濃縮されて消滅する過程で宇宙のすべてがそこに含まれている。だから、別な観点からいえば、ここに矛盾しない自己言及、つまりは排中律が成り立つ。自分が自分にふれると矛盾する。排中律とは、こちらは物干し竿か物干し竿でないかのいずれかである、というもの。つまりは、宇宙の全部を言い尽くしているから絶対的に正しい文になる。全宇宙のなかに当然主張している当人も含まれているから、自分が自分についてふれちゃっている。だから本来自己言及で矛盾するはず。宇宙の全部をふくんでいれば矛盾しないのだ。だから、ブラックホールの濃縮、そのプロセスで微分方的にすべての宇宙を含んでいるからここに排中律が成立し矛盾しない。濃縮し消滅したあかつきにはこんどは空間の消滅でもあるから、時間原理が誕生する。空間が濃縮されて排中の原理の世界へ、さらには点となって消滅し時間が誕生。排中律とは空間から時間が誕生するその途上で現われるのである。
ブラックホールとは何者かの意識体である。そして、排中の原理のような矛盾しない自己言及、その極みに、私は私である、という自己同一性なる自己言及があり、人格の同一性がある。さらには、ブラックホールは光をも吸いこむ。人間の意識、精神もまた外界の光を取りいれ、吸いこみ、物を認識しているではないか。ブラックホールに吸いこまれると過去、未来へとタイムスリップするという。人間の意識、精神もまた時間を自由に移動する。過去の記憶、そして、未来の希望である。
このように宇宙は非日常空間ではない。日常の世界であり、近所のおばさんが買い物をしているのと同じなのだ。
自己言及という概念についてまずは考える。ときおり、顔面を虫にさされたとき、手でぽりぽりと掻いてしまう。耐えねばならない辛いときだってある。それでもその痒みに耐えられず、右手が顔面に接近。もちろん、機動戦士が出動するときのような緊張感とBGMで近づいてくる。自分が自分の顔面にふれる。自分が自分自身について言及しちゃう。もちろん、トイレではまずはケツをふいて用をたし、すかさず、どこでもドアから飛び出す。自分のケツが手にふれる瞬間であり、日常茶飯事の見なれた光景だ。自己言及を英語でわざと難しくいうとセルフリファレンスである。ちょこっとバイリンガルになりたいときだったある。バイリンガルで本当にもうしわけないと土下座しておじき、一回転してかかと落しにきをつけたい。この文は日本語で書かれております、と選手宣誓である。じつに、日本語を使って、日本語だ主張しているかられっきとした立派な自己言及である。なんでもかんでも疑いまくり、気がついたら周りの友人たちはヘリコプターで本国から逃亡してしまったという、懐疑論者。懐疑論者はこんなことをいう。すべての主張は疑わしい、と。すると、懐疑論者の主張自身も疑わしくなってしまう。自己言及は矛盾に陥るのである。哲学者サルトルのいう自己欺瞞も自己言及の一種だ。自分が自分をだますのである。ふつうに詐欺師は50円玉を5円玉だといって言葉巧みにひとをだます。詐欺師Aはなんの罪もないくりくり頭の少年Bをだますのだ。もちろんその手口を知られないように巧妙にダチョウのポーズで獲物に近づく。ところが、自己欺瞞とは詐欺師も被害者も同じ自分なのだ。自分にばれないように浮気する。そんなことができるだろうか。人間の意識は定立的意識と非定立的意識があるという。じーっと友人ののどぼとけに狙い定めて、指ではさんじゃう。意識を集中するとき、定立的意識になる。友人ののどぼとけの向こうにかすかに見えるのがかの有名なエッフェル塔。そのむこうには青空が目のかたすみにうつる。これらの背景はなんとなく意識しているものだから非定立的意識という。自己欺瞞とは、こんな非定立的意識からこっそり周りこんで自分をだますのである。
さて、ほとんどの自己言及は矛盾しちゃう、とハニカミ屋は電柱の影で叫ぶ。ところが、矛盾しない自己言及があったのだ。論理学でいう排中律といわれる大原則である。こちらは奈良の大仏であるか、奈良の大仏以外のものであるかのいずれかでございます、とバスガイドはいう。この主張は絶対的に正しい文だ。必ず真である。なぜなら、奈良の大仏と奈良の大仏以外を合わせると宇宙の全部になってしまうから。そして、宇宙の全部のなかにはもちろん、自分のふくまれちゃっている。宇宙の一員であるバスガイド。だから、自分が自分にふれちゃっている自己言及なのだ。それなのになんで矛盾しないのだろうか。
つぎは弁証法についてのお話である。昔々あるところに大きな桃がいて、こいつが美しい白鳥になり、亀をいじめ龍宮城にラチ監禁されたという心がぜんぜん温まらないお話。そもそも、矛盾しまくっているストーリーであるが、矛盾は極力避けたいと思うのが人間だ。弁証法とはこんな矛盾を扱う分野である。近代のおいて哲学者カントは、超越論的分析論はバンバンザイ、超越論的弁証論はいただけないと考えた。われわれ人間は、目でモノを舐めまわす様に見て、べろで嗅ぐように味わい、耳で物音を聞く。感覚的な材料を収集し、これをあたまで論理的に判断し認識する。これが超越論的分析論だ。これに対して、超越論的弁証論とは、感覚なんていらないよと目隠し鼻栓、耳栓状態でひたすら頭だけで論理的に考えてしまうもの。神様はみえないが、あたまで考えてみる。宇宙の果てについても考える。すると、神様はいるかもいないかも、宇宙は果てがあるかもないかも、というどっちつかずの優柔不断になってしまう。これをまた超越論的仮象といい、うまれながらにしてやってしまう人間の超うっかりミスだというのだ。
さて、後に哲学者フィヒテやシェリングは矛盾しあう二つのもの、正と反が合体して合ができると主張。ヘーゲルにおいてこの矛盾しあうもののドッキングが弁証法と名づけられた。矛盾し、対立するものが合体してレベルアップしニュータイプのヒーローが誕生する。ときおり、街中でみかけるが、スポーツカーと手押し車が合体して、超ウルトラオープンカーに変身したりする。厳密にいうと矛盾しあうものの合体とはいわない。アウフヘーベンする、という言い方である。アウフヘーベンとは聞きなれないと、耳糞が地層のように堆積しているおじさんはつぶやくが、三つの特徴をもつ概念だ。一つには、矛盾しあうものが合体。二つ目は、よりレベルアップする。三つ目は合体以前の矛盾しあうものがちゃんと保管されている、ということ。つまりは徹底的に矛盾している概念だ。こうやって、矛盾しあうものがアウフヘーベンされて世界は成り立っているという。人間がモノを考えるときも、モノが存在するのも、この弁証法の大原則に則っているというのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 形式論理の破壊による弁証法論理の誕生
空間の破壊による時間の誕生
路上を徘徊中、辺りを見渡す。首が曲がらないところまでいったので、とりあえず、腰を回転せねばならない。いろんなひとたちがいる。ガードレールのうえで綱渡りの練習する若者。きゅうりを貪り食う鈴虫風なものたち。買い物かごをぶらさげて走りまわる主婦。金玉ぶらさげて走りまわるおじさん。ふつうの日常である。ふと、空をみあげ天体望遠鏡をかざす。すると、惑星やら恒星、ブラックホールまでがみえる。そもそも、どこから宇宙であり、どこからこの平凡な日常なのか。大気圏がその境目だろうか。じつに、われわれは地球の引力にひきつけられ、ほんとうにうすっぺらい大気の層に住んでいる。より広い意味ではこの日常も宇宙である。
すると、夜空に広がる宇宙と身の回りのもの、ほんとうは同じ構造をしているのではないかと考えられる。私の身の回りには意識をもった他人がいる。豊満な肉体が満員電車でひしめき合う。石ころだって転がっている。意識と物質があるではないか。さて、こんどは夜空にひろがる広大な宇宙である。惑星があり、恒星があり、どっちも石ころだ。白鳥座付近にブラックホールを発見だ。光を吸いこんでいるブラックホール。ブラックホールとは体積が小さいくせに質量がでかいやつ。10トンの鼻くそみたいなやつ。物質が濃縮された状態だ。そんなブラックホールは光をも吸いこみ、さらには吸いこまれると過去やら未来へと行ってしまうと理論的には考えられている。
さて、ここでお気づきであろうか。かって、哲学者ベルクソンは濃縮、凝縮されたものが記憶であり、精神、心だと主張。伸び広がって膨張しているのが物質だといった。濃縮か膨張か、精神と物質はただそれだけの違いだと。すると、ブラックホールが濃縮されたいわば人間でいう意識、精神に相当するもの。他の惑星は物質だ。つまり、宇宙はわれわれの身の回りと同じようなもの。意識をもった他人とさまざまな物質がある。
物質が濃縮されると、互いに食いこんで溶けこんで破壊される。いわば、空間の秩序が破壊されるのである。空間とは形式論理の法則に従う。否、形式論理が空間の性質をもっているといってもよい。このスイカは同時にメロンであることは不可能である。形式論理ではこうなる。ところが、濃縮すると、メロンとスイカが一体化するというおよそ矛盾した大事件が発生。空間の形式論理が破壊され、濃縮されたブラックホールでは時間の弁証法論理が出現する。空間が破壊されて時間の誕生。空間的に有であったものが空間的な無になる。1が0になるのだ。このとき、哲学者コーヘンがいっていたような微分法が成り立つ。1が0になるとき、有が無に、空間が時間になるとき、およそ、異なったものにチェンジするとき、無限の点を通過する。つまりは、微小なもののなかに無限大の情報が詰まっている。だから、モノが濃縮されて消滅する過程で宇宙のすべてがそこに含まれている。だから、別な観点からいえば、ここに矛盾しない自己言及、つまりは排中律が成り立つ。自分が自分にふれると矛盾する。排中律とは、こちらは物干し竿か物干し竿でないかのいずれかである、というもの。つまりは、宇宙の全部を言い尽くしているから絶対的に正しい文になる。全宇宙のなかに当然主張している当人も含まれているから、自分が自分についてふれちゃっている。だから本来自己言及で矛盾するはず。宇宙の全部をふくんでいれば矛盾しないのだ。だから、ブラックホールの濃縮、そのプロセスで微分方的にすべての宇宙を含んでいるからここに排中律が成立し矛盾しない。濃縮し消滅したあかつきにはこんどは空間の消滅でもあるから、時間原理が誕生する。空間が濃縮されて排中の原理の世界へ、さらには点となって消滅し時間が誕生。排中律とは空間から時間が誕生するその途上で現われるのである。
ブラックホールとは何者かの意識体である。そして、排中の原理のような矛盾しない自己言及、その極みに、私は私である、という自己同一性なる自己言及があり、人格の同一性がある。さらには、ブラックホールは光をも吸いこむ。人間の意識、精神もまた外界の光を取りいれ、吸いこみ、物を認識しているではないか。ブラックホールに吸いこまれると過去、未来へとタイムスリップするという。人間の意識、精神もまた時間を自由に移動する。過去の記憶、そして、未来の希望である。
このように宇宙は非日常空間ではない。日常の世界であり、近所のおばさんが買い物をしているのと同じなのだ。






