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2008年05月09日
存在の科学 点的時間論 私は他人であり、ブラックホールである
存在の科学 点的時間論 私は他人であり、ブラックホールである
私が居合せていない人っこ一人いないアマゾン流域三丁目にて、激流に小石が流されてもそれになんの意味があるのだろうか。自分が感じていないそれ自体存在している世界だ。また、そとをみるのでなく、部屋に自分のかかとを人質に立てこもって、自分自身を見つめてみる。そこに本当に濃厚な私がいるだろうか。そこにいるのはだれなのか。他人やら自分以外のものから隔離された自分はいったいなにものなのか。私のいない世界は無力、世界のない私も無力、これがメルロポンティの哲学だ。そして、私がものを感じ、知覚しているのでなく、私のなかのひとが感じているのだという。もっと極端にいうと肉である。すべては同じ肉だという。机だって、椅子だって、からだだって同じ肉であり、地続きだというのだ。内側も外側もない。内面も外の世界も見境つかない。
要するに私という団子と世界という団子が出会うのではない。あるのは、見えるものと見えないものだけ。そして、私はどんなに目をこらしても、私自身が見えない。それならば、いわゆる遠くを見たとき、絶対に見えないものがあるかもしれない。外も内もいっしょだから。たしかにがんばれば金星だって見える。K脳性は0パーセントではない。それでも絶対に見える可能性が0パーセントのものがある。光を吸いこんでしまう物質、つまり、ブラックホールである。光粒子を吸いこむやつは見えないのだ。そして、こんどは私について考える。私も光を目から吸いこんでいる。そうやって物をじろじろ認識いている。だから私は見えないし、他人の心だって見えない。私、他人、ブラックホール。見えないやつがいたのである。そして、すべては見える肉とそこにできた見えない亀裂であるとメルロポンティはいう。だから言いたい。私は他人であり、ブラックホールであり、しかも見えないものだと。
私が居合せていない人っこ一人いないアマゾン流域三丁目にて、激流に小石が流されてもそれになんの意味があるのだろうか。自分が感じていないそれ自体存在している世界だ。また、そとをみるのでなく、部屋に自分のかかとを人質に立てこもって、自分自身を見つめてみる。そこに本当に濃厚な私がいるだろうか。そこにいるのはだれなのか。他人やら自分以外のものから隔離された自分はいったいなにものなのか。私のいない世界は無力、世界のない私も無力、これがメルロポンティの哲学だ。そして、私がものを感じ、知覚しているのでなく、私のなかのひとが感じているのだという。もっと極端にいうと肉である。すべては同じ肉だという。机だって、椅子だって、からだだって同じ肉であり、地続きだというのだ。内側も外側もない。内面も外の世界も見境つかない。
要するに私という団子と世界という団子が出会うのではない。あるのは、見えるものと見えないものだけ。そして、私はどんなに目をこらしても、私自身が見えない。それならば、いわゆる遠くを見たとき、絶対に見えないものがあるかもしれない。外も内もいっしょだから。たしかにがんばれば金星だって見える。K脳性は0パーセントではない。それでも絶対に見える可能性が0パーセントのものがある。光を吸いこんでしまう物質、つまり、ブラックホールである。光粒子を吸いこむやつは見えないのだ。そして、こんどは私について考える。私も光を目から吸いこんでいる。そうやって物をじろじろ認識いている。だから私は見えないし、他人の心だって見えない。私、他人、ブラックホール。見えないやつがいたのである。そして、すべては見える肉とそこにできた見えない亀裂であるとメルロポンティはいう。だから言いたい。私は他人であり、ブラックホールであり、しかも見えないものだと。
仙人養成講座 哲風呂 知覚の現象学へ
知覚の現象学についてである。一人部屋に閉じこもり、なまりの壁に囲まれた核シェルターにて、自分自身をみつめる時間が必要だ。一人にさせてくれ、と捨てセリフをはき、街頭に出てすぽっとライトを浴びる。自分をみつめるのだが、どこをみつめるかが問題である。マイヒップは見えやしない。はるかかなたの自分のお尻に思いをはせ、とりあえず、へそでもみつめてみる。なんだかきたならしいことに気がつき、勇気をふりしぼって、命がけでごまをとってみる。そのとき、頭上にご先祖さまなんぞが現われて、へそのごまだけはとっちゃいけないとジェスチャーで伝える。自分をみつめたがどこに自分がいるのか。とりあえず、ガウンで自分がかくされている。おもむろにガウンを脱ぎ捨て素っ裸。相撲ファンがなぜだか接近してきて、肌をぺたぺたと触り始める。おかげで吹出物が破裂。大事件である。
哲学者メルロポンティ著、知覚の現象学、についてお話したい。メルロポンティの代表的な著作に、行動の構造、というものがある。これはもっぱら人間の動きを外からじろじろとまなざしたもの。恋人がベンチのうえで相撲とっている。そんな光景を草むらから観察していると葉っぱにたかっていた芋虫にけつをかまれて負傷。名誉の負傷をおったということでとりあえず自己満足するのだが、あくまで、人間観察であり、動物園ではサルの交尾でも外から観察する。当事者じゃないから無責任に眺め見るだけ。ところが、知覚の現象学の視点はちがう。あくまでも当事者であり、高級花瓶を落すどころか食べてしまった責任とらないといけない。自分の内側から感じること、端的に感じちゃうとはどういうことかと物思いにふけってしまう。なにゆえひとはかんじちゃうのか、とのけぞりながら思索でもしよう。
まずは主知主義と経験主義について物申す。物申すときは腹から声をだすのだが、いかんせん、腹にスピーカーを搭載していないのでご了承願いたい。主知主義とは名は体をあらわすように、すべては知識いっぺんとうであたまのなかで処理してしまうタイプだ。きょうのおかずは辛子明太子。あたまで処理してしまう。いわゆる、理屈っぽい。たしかに、論理的に考えるのだが、自分のなかでもんもん考えるタイプであって、ニュータイプヒーローなんかじゃない。これに対して、経験主義はむしろ目を大きく見開いて、ややもすれば、目じりがさけるのだが、外界をよーく観察するアウトドア−派である。主知主義か、経験主義か、このふたつを仲直りさせるしかない。自分の殻のなかと、目の前にひろがる広大なジャングル。もちろん、パンツのなかをしみじみお茶を飲みながらながめている。自分の内面をみつめるか、広大な自然をまえにして、見知らぬおやじの後頭部をながめるか。内面と外面はどうやってつながっているのか。かって、哲学者デカルトは徹底的にすべてを疑った。こおろぎにむかって、おまえがしゃべれるのは知っている、と捨てセリフをはいてやる。ほんとうはパンツはいてないんだろうと面接官に言い放つ。とにかく、世界、宇宙はほんとうのところ存在していないのではないかと考える。さらに、自分すら存在しないのではないのか、と疑ってみる。とくにファミレスのウエイターのバイト中、お客にシーザーサラダをぶっかけてしまったとき、私は存在しないんです、と叫びたくなる。たしかに、気持ちはわからなくもない。それでも、すくなくとも自分は存在しないのではないか、と疑っている自分は存在していないと疑えない。だから、私自身の存在はぜってい疑えないと主張。これが我思うゆえに我あり、である。この我のことをコギトという。
すると、コギトとしての僕チンと、世界やら宇宙がまったく別々に存在していることになる。私のカタマリと宇宙のカタマリがある。これではこの二つのカタマリはどうやってコラボレーションするのか、手をあわせてスーパーコンビネーションキックを放たれるのか。ここで哲学者フッサールはコギトはただの肉団子ではないと考える。高級肉団子だともいわない。志向的コギトだというのだ。志向性とは私の目から放たれた矢印だ。後ろに気配を感じ、なにものだっと丁寧に叫びながら振り向く。こんどは正面からさそり一族がちゃりんこにのって攻めてくる。りんりんがうるさい。油の切れたブレーキ音が超音波となって攻撃してくる。さまざまなものに、意識がむいている。これは明らかに、矢印のようになっているのだ。だから、私と世界は並んでうんこ座りする仲良し不良組とはちがって、志向性という矢印でつながっていると考えるのだ。哲学者サルトルはこの志向的なコギトの考えに圧倒し、おもわず青ざめたという。青空と同化してカモフラージュしてしまったのかはわからない。意に反してカモフラージュすることだってある。ベージュの布団にはだかで横になっているとカモフラージュしてしまうことがしばしば。
ところが、よくよく考えてみると、志向性とは鋭利な矢印であるから、根元と先端があるはずだ。根元はどこにつながっているかといえば、私にくっついている。なんだか私を中心にして世界がひろがっているようなきがしてならない。自分が中心だ、と訴えたところ観衆は鼻をつまんで涙する。ふつうはハンカチで目をおさえるのだろう。私中心主義、別名、主観主義の誕生だ。
主観主義は片寄りすぎている。あんなに傾いてひざ小僧を地面にこすったらたいへんだわ、と実家の名付け親はオートレーサーの子を心配する。メルロポンティは考える。私はどこから見ているのか、と。たしかに、山のいただきから眼下を見下ろすとき、靴紐がほどけているのかよーく見える。ここからこうやっていきがった態度で眺めている。しかも、眺めている自分の周りの世界と私自身は閉じていない。つまり、靴紐をながめるとき、私と靴紐という関係で自己完結しない。物音がきこえたのでふと見上げると、らくだが空を飛んでいる。私とらくだ、という関係でしっくりおさまるが、これで一体化しない。また、私のそとには即自存在がうじゃうじゃいる。即自存在とは、自分自身と100パーセント一致してそれ自体で存在しているやつらだという。押し入れのなかには年代物のカマンベールチーズがねむっている。いがいといびきがうるさいので苦情をいれてやる。私が見たり匂ったり舐めたりしてはいないのに、チーズはそれ自体で即自的に存在している。なんでワタしにとっていろんなやつらが私の了承を得ずにそれ自体で存在しているのか。ジャンブルのなかで枯葉が動いた。だれも見ていないのに動いたのだ。おそらく、だれもにおっていないが私の靴下のなかには異臭がつまっている。サハラ砂漠には砂Aが存在しているのちがいない。このふたつの考えをつなげると、結局、なんで私にそれ自体存在しているやつが飛び込んでくるのか、ということになる。ジェット機の音が突然聞こえ、隕石の落下した轟音すら聞こえる。それ自体で存在しているやつは私に現象となって姿あらわすのはどうしてか、私に淡い恋心を抱いているのか。せんべいのカスが私の前に立ちはだかる。カスは私に気があるのだろうか。
メルロポンティはこの宇宙が神様、絶対者であり、私に現象となって現れるのだという。だから、神様はイエスとなって人類に現われた。イエスの受肉という。神様、絶対者ははるか手の届かない超越的なものだと考えてしまう。おいそれとわたしなんかと、控えめなコーヒー音頭でもおどってしまう。もしくはたじたじになってしまう。メルロポンティが考える絶対者は超越的だけではない。つまり、規模がでかいだの、ぶっ飛んでいるというだけではない。私のとってこの世界、絶対者が顔をだすかどうかが問題なのだ。人類に私に神様がもしもあらわれなかったらナンセンスだというのだ。洋服ダンスのかどをまがった地下通路のさきに黄金の花瓶があるという。だれも見てはいないし、今後も見る予定はないとしよう。果たして黄金の花瓶になんの意味があるのか。これを人類のいない神様は無力だと表現した。
それほど自分だの、人類だのを賛美しても、一人部屋にこもって自分をみつめるとそこにはだれがいるのだろうか。私とはなにかと内面を見つめる。濃縮された純度100パーセントのおのれがそこにいるのか。そうではない。なんだか希薄で、スポンジのようにすかすかである。スポンジでかかとをこするがアカが落せない。ストレスがたまってなぜだか昭和シンザンが噴火。だから、他人のいない自分の内面もまた無力、ナンセンスだというのだ。
メルロポンティはいう。超越論的主観性とは間主観性であると。なんだこりゃ、と首をかしげるものが多数通過。カウントしすぎて指が腱鞘炎だ。超越論的主観性とは、自分は自分自身を意識しまくること。自分ているんだな、しゃがみながら地面に顔つけているがこれは恋人にふられてしまう必殺のポーズだ、すぐにクールな自分にチェンいしないといけない。自己意識のことである。これに対して、間主観性とは、文字通り、主観同士の間ということ。私とやまちゃん、はなちゃんにさっちゃん。いわゆるみんなである。すると、私はみんなだ、と訳せる。なんと、私が漂白剤をつかって真っ白になったTシャツを頬にすりりつけてその優しい肌触りを感じているのではないというのだ。私はまちがいなく頬ずりしてかんじているとこぶしを高々ともぐらの穴につっこんで主張したいところだが、残念ながら、私が感じている、知覚しているのではないという。ひとが知覚しているというのだ。私が知覚しているのでなく、ひとが知覚しているとはどういうことか。ひととはみんなが共通してもっている肉体だ。名前をもち、自己意識しまくる自分以前に私はただの肉であり、ひとである。おぎゃっと誕生したとき、私はひとだった。私とか、あなた、かれ、彼女、かれらという人称がまだなかった。だからこれを非人称性という。ところが、大人の階段をスキーで滑りのぼり、いつしか、性にめざめて股間がおはようと叫び、自我に目覚める。つまり、自分は他人とはちがう。私は大根なんかじゃない、と人称性をもつにいたる。そのベースにはひとがいるのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 私は他人であり、ブラックホールである
私が居合せていない人っこ一人いないアマゾン流域三丁目にて、激流に小石が流されてもそれになんの意味があるのだろうか。自分が感じていないそれ自体存在している世界だ。また、そとをみるのでなく、部屋に自分のかかとを人質に立てこもって、自分自身を見つめてみる。そこに本当に濃厚な私がいるだろうか。そこにいるのはだれなのか。他人やら自分以外のものから隔離された自分はいったいなにものなのか。私のいない世界は無力、世界のない私も無力、これがメルロポンティの哲学だ。そして、私がものを感じ、知覚しているのでなく、私のなかのひとが感じているのだという。もっと極端にいうと肉である。すべては同じ肉だという。机だって、椅子だって、からだだって同じ肉であり、地続きだというのだ。内側も外側もない。内面も外の世界も見境つかない。
要するに私という団子と世界という団子が出会うのではない。あるのは、見えるものと見えないものだけ。そして、私はどんなに目をこらしても、私自身が見えない。それならば、いわゆる遠くを見たとき、絶対に見えないものがあるかもしれない。外も内もいっしょだから。たしかにがんばれば金星だって見える。K脳性は0パーセントではない。それでも絶対に見える可能性が0パーセントのものがある。光を吸いこんでしまう物質、つまり、ブラックホールである。光粒子を吸いこむやつは見えないのだ。そして、こんどは私について考える。私も光を目から吸いこんでいる。そうやって物をじろじろ認識いている。だから私は見えないし、他人の心だって見えない。私、他人、ブラックホール。見えないやつがいたのである。そして、すべては見える肉とそこにできた見えない亀裂であるとメルロポンティはいう。だから言いたい。私は他人であり、ブラックホールであり、しかも見えないものだと。
哲学者メルロポンティ著、知覚の現象学、についてお話したい。メルロポンティの代表的な著作に、行動の構造、というものがある。これはもっぱら人間の動きを外からじろじろとまなざしたもの。恋人がベンチのうえで相撲とっている。そんな光景を草むらから観察していると葉っぱにたかっていた芋虫にけつをかまれて負傷。名誉の負傷をおったということでとりあえず自己満足するのだが、あくまで、人間観察であり、動物園ではサルの交尾でも外から観察する。当事者じゃないから無責任に眺め見るだけ。ところが、知覚の現象学の視点はちがう。あくまでも当事者であり、高級花瓶を落すどころか食べてしまった責任とらないといけない。自分の内側から感じること、端的に感じちゃうとはどういうことかと物思いにふけってしまう。なにゆえひとはかんじちゃうのか、とのけぞりながら思索でもしよう。
まずは主知主義と経験主義について物申す。物申すときは腹から声をだすのだが、いかんせん、腹にスピーカーを搭載していないのでご了承願いたい。主知主義とは名は体をあらわすように、すべては知識いっぺんとうであたまのなかで処理してしまうタイプだ。きょうのおかずは辛子明太子。あたまで処理してしまう。いわゆる、理屈っぽい。たしかに、論理的に考えるのだが、自分のなかでもんもん考えるタイプであって、ニュータイプヒーローなんかじゃない。これに対して、経験主義はむしろ目を大きく見開いて、ややもすれば、目じりがさけるのだが、外界をよーく観察するアウトドア−派である。主知主義か、経験主義か、このふたつを仲直りさせるしかない。自分の殻のなかと、目の前にひろがる広大なジャングル。もちろん、パンツのなかをしみじみお茶を飲みながらながめている。自分の内面をみつめるか、広大な自然をまえにして、見知らぬおやじの後頭部をながめるか。内面と外面はどうやってつながっているのか。かって、哲学者デカルトは徹底的にすべてを疑った。こおろぎにむかって、おまえがしゃべれるのは知っている、と捨てセリフをはいてやる。ほんとうはパンツはいてないんだろうと面接官に言い放つ。とにかく、世界、宇宙はほんとうのところ存在していないのではないかと考える。さらに、自分すら存在しないのではないのか、と疑ってみる。とくにファミレスのウエイターのバイト中、お客にシーザーサラダをぶっかけてしまったとき、私は存在しないんです、と叫びたくなる。たしかに、気持ちはわからなくもない。それでも、すくなくとも自分は存在しないのではないか、と疑っている自分は存在していないと疑えない。だから、私自身の存在はぜってい疑えないと主張。これが我思うゆえに我あり、である。この我のことをコギトという。
すると、コギトとしての僕チンと、世界やら宇宙がまったく別々に存在していることになる。私のカタマリと宇宙のカタマリがある。これではこの二つのカタマリはどうやってコラボレーションするのか、手をあわせてスーパーコンビネーションキックを放たれるのか。ここで哲学者フッサールはコギトはただの肉団子ではないと考える。高級肉団子だともいわない。志向的コギトだというのだ。志向性とは私の目から放たれた矢印だ。後ろに気配を感じ、なにものだっと丁寧に叫びながら振り向く。こんどは正面からさそり一族がちゃりんこにのって攻めてくる。りんりんがうるさい。油の切れたブレーキ音が超音波となって攻撃してくる。さまざまなものに、意識がむいている。これは明らかに、矢印のようになっているのだ。だから、私と世界は並んでうんこ座りする仲良し不良組とはちがって、志向性という矢印でつながっていると考えるのだ。哲学者サルトルはこの志向的なコギトの考えに圧倒し、おもわず青ざめたという。青空と同化してカモフラージュしてしまったのかはわからない。意に反してカモフラージュすることだってある。ベージュの布団にはだかで横になっているとカモフラージュしてしまうことがしばしば。
ところが、よくよく考えてみると、志向性とは鋭利な矢印であるから、根元と先端があるはずだ。根元はどこにつながっているかといえば、私にくっついている。なんだか私を中心にして世界がひろがっているようなきがしてならない。自分が中心だ、と訴えたところ観衆は鼻をつまんで涙する。ふつうはハンカチで目をおさえるのだろう。私中心主義、別名、主観主義の誕生だ。
主観主義は片寄りすぎている。あんなに傾いてひざ小僧を地面にこすったらたいへんだわ、と実家の名付け親はオートレーサーの子を心配する。メルロポンティは考える。私はどこから見ているのか、と。たしかに、山のいただきから眼下を見下ろすとき、靴紐がほどけているのかよーく見える。ここからこうやっていきがった態度で眺めている。しかも、眺めている自分の周りの世界と私自身は閉じていない。つまり、靴紐をながめるとき、私と靴紐という関係で自己完結しない。物音がきこえたのでふと見上げると、らくだが空を飛んでいる。私とらくだ、という関係でしっくりおさまるが、これで一体化しない。また、私のそとには即自存在がうじゃうじゃいる。即自存在とは、自分自身と100パーセント一致してそれ自体で存在しているやつらだという。押し入れのなかには年代物のカマンベールチーズがねむっている。いがいといびきがうるさいので苦情をいれてやる。私が見たり匂ったり舐めたりしてはいないのに、チーズはそれ自体で即自的に存在している。なんでワタしにとっていろんなやつらが私の了承を得ずにそれ自体で存在しているのか。ジャンブルのなかで枯葉が動いた。だれも見ていないのに動いたのだ。おそらく、だれもにおっていないが私の靴下のなかには異臭がつまっている。サハラ砂漠には砂Aが存在しているのちがいない。このふたつの考えをつなげると、結局、なんで私にそれ自体存在しているやつが飛び込んでくるのか、ということになる。ジェット機の音が突然聞こえ、隕石の落下した轟音すら聞こえる。それ自体で存在しているやつは私に現象となって姿あらわすのはどうしてか、私に淡い恋心を抱いているのか。せんべいのカスが私の前に立ちはだかる。カスは私に気があるのだろうか。
メルロポンティはこの宇宙が神様、絶対者であり、私に現象となって現れるのだという。だから、神様はイエスとなって人類に現われた。イエスの受肉という。神様、絶対者ははるか手の届かない超越的なものだと考えてしまう。おいそれとわたしなんかと、控えめなコーヒー音頭でもおどってしまう。もしくはたじたじになってしまう。メルロポンティが考える絶対者は超越的だけではない。つまり、規模がでかいだの、ぶっ飛んでいるというだけではない。私のとってこの世界、絶対者が顔をだすかどうかが問題なのだ。人類に私に神様がもしもあらわれなかったらナンセンスだというのだ。洋服ダンスのかどをまがった地下通路のさきに黄金の花瓶があるという。だれも見てはいないし、今後も見る予定はないとしよう。果たして黄金の花瓶になんの意味があるのか。これを人類のいない神様は無力だと表現した。
それほど自分だの、人類だのを賛美しても、一人部屋にこもって自分をみつめるとそこにはだれがいるのだろうか。私とはなにかと内面を見つめる。濃縮された純度100パーセントのおのれがそこにいるのか。そうではない。なんだか希薄で、スポンジのようにすかすかである。スポンジでかかとをこするがアカが落せない。ストレスがたまってなぜだか昭和シンザンが噴火。だから、他人のいない自分の内面もまた無力、ナンセンスだというのだ。
メルロポンティはいう。超越論的主観性とは間主観性であると。なんだこりゃ、と首をかしげるものが多数通過。カウントしすぎて指が腱鞘炎だ。超越論的主観性とは、自分は自分自身を意識しまくること。自分ているんだな、しゃがみながら地面に顔つけているがこれは恋人にふられてしまう必殺のポーズだ、すぐにクールな自分にチェンいしないといけない。自己意識のことである。これに対して、間主観性とは、文字通り、主観同士の間ということ。私とやまちゃん、はなちゃんにさっちゃん。いわゆるみんなである。すると、私はみんなだ、と訳せる。なんと、私が漂白剤をつかって真っ白になったTシャツを頬にすりりつけてその優しい肌触りを感じているのではないというのだ。私はまちがいなく頬ずりしてかんじているとこぶしを高々ともぐらの穴につっこんで主張したいところだが、残念ながら、私が感じている、知覚しているのではないという。ひとが知覚しているというのだ。私が知覚しているのでなく、ひとが知覚しているとはどういうことか。ひととはみんなが共通してもっている肉体だ。名前をもち、自己意識しまくる自分以前に私はただの肉であり、ひとである。おぎゃっと誕生したとき、私はひとだった。私とか、あなた、かれ、彼女、かれらという人称がまだなかった。だからこれを非人称性という。ところが、大人の階段をスキーで滑りのぼり、いつしか、性にめざめて股間がおはようと叫び、自我に目覚める。つまり、自分は他人とはちがう。私は大根なんかじゃない、と人称性をもつにいたる。そのベースにはひとがいるのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 私は他人であり、ブラックホールである
私が居合せていない人っこ一人いないアマゾン流域三丁目にて、激流に小石が流されてもそれになんの意味があるのだろうか。自分が感じていないそれ自体存在している世界だ。また、そとをみるのでなく、部屋に自分のかかとを人質に立てこもって、自分自身を見つめてみる。そこに本当に濃厚な私がいるだろうか。そこにいるのはだれなのか。他人やら自分以外のものから隔離された自分はいったいなにものなのか。私のいない世界は無力、世界のない私も無力、これがメルロポンティの哲学だ。そして、私がものを感じ、知覚しているのでなく、私のなかのひとが感じているのだという。もっと極端にいうと肉である。すべては同じ肉だという。机だって、椅子だって、からだだって同じ肉であり、地続きだというのだ。内側も外側もない。内面も外の世界も見境つかない。
要するに私という団子と世界という団子が出会うのではない。あるのは、見えるものと見えないものだけ。そして、私はどんなに目をこらしても、私自身が見えない。それならば、いわゆる遠くを見たとき、絶対に見えないものがあるかもしれない。外も内もいっしょだから。たしかにがんばれば金星だって見える。K脳性は0パーセントではない。それでも絶対に見える可能性が0パーセントのものがある。光を吸いこんでしまう物質、つまり、ブラックホールである。光粒子を吸いこむやつは見えないのだ。そして、こんどは私について考える。私も光を目から吸いこんでいる。そうやって物をじろじろ認識いている。だから私は見えないし、他人の心だって見えない。私、他人、ブラックホール。見えないやつがいたのである。そして、すべては見える肉とそこにできた見えない亀裂であるとメルロポンティはいう。だから言いたい。私は他人であり、ブラックホールであり、しかも見えないものだと。






