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2008年05月11日
モデム異常によりネットできず 地震の前ぶれ情報を求む
モデムの異常により、投稿、放送ができませんでした。工事修理の人の話によると、あがりの周波数のようなものが強かったようです。無事、復帰してよかったです。ただ、よく地震の前触れに電子機器の異常があると聞くので、今回のパソコン異常はなんらかの関連がないのかと心配です。周囲のひとたちのパソコンなども不調のようです。電子機器の異常、動物の異常行動等がありましたら、どうか、コメントください。いたずらに不安にさせるのではありません。一応、首都圏に住んでいる以上、また、人々の危機回避のうえ、情報収集は必要だと考えています。
存在の科学 点的時間論 ブラックホールはそこにある
存在の科学 点的時間論 ブラックホールはそこにある
ブラックホールは心であるといった。心はどこにあるのか。私はからだが資本だから動き回り活動する。ひとつひとつの動きはナンセンスで、時に笑いを誘発するこっけいなポーズだったりする。口をまげて、目がとじている。そんなスナップ写真だか、このあとの行動をも集めて全体的にみると、いままさにロケットパンチを放とうとする有意義な動きになるのだ。また、短音には意味がない。あ、い、う、である。ところが愛している、と叫ぶと意味が発生。あ、いの間の隙間になにかがある。たしかに短音の間は見えないし、聞こえない。直接には知ることが出来ない。物を立体的にみるときも、正面、後ろ、右側面と視点を変えながらみる。すると、立体的な意味あるイメージが完成する。それぞれの側面の間、亀裂に何か秘密がある。メルロポンティはこれを癒合、両義性と名づけた。言葉、単語、物を立体的にみる、行動、活動。これらの見えているところでなく、見えないところに心がある。ブラックホールも見えない。光や波を吸いこんでしまうからだ。心もまた見えないし、光を受容し認識している。心は見えない亀裂に潜み光を吸収しているブラックホールなのだ。行動にも、言葉にも、ブラックホールなる心がいる。
ブラックホールは心であるといった。心はどこにあるのか。私はからだが資本だから動き回り活動する。ひとつひとつの動きはナンセンスで、時に笑いを誘発するこっけいなポーズだったりする。口をまげて、目がとじている。そんなスナップ写真だか、このあとの行動をも集めて全体的にみると、いままさにロケットパンチを放とうとする有意義な動きになるのだ。また、短音には意味がない。あ、い、う、である。ところが愛している、と叫ぶと意味が発生。あ、いの間の隙間になにかがある。たしかに短音の間は見えないし、聞こえない。直接には知ることが出来ない。物を立体的にみるときも、正面、後ろ、右側面と視点を変えながらみる。すると、立体的な意味あるイメージが完成する。それぞれの側面の間、亀裂に何か秘密がある。メルロポンティはこれを癒合、両義性と名づけた。言葉、単語、物を立体的にみる、行動、活動。これらの見えているところでなく、見えないところに心がある。ブラックホールも見えない。光や波を吸いこんでしまうからだ。心もまた見えないし、光を受容し認識している。心は見えない亀裂に潜み光を吸収しているブラックホールなのだ。行動にも、言葉にも、ブラックホールなる心がいる。
仙人養成講座 哲風呂 身体的主観と両義性の哲学ヘ
身体的主観と両義性の哲学についてである。私は何ゆえ動いているのか。ボランティア活動にいそしんで、一生懸命、ハンバーガーから脱落したレタスを拾い集める。本屋にて、本がさかさまになっていたら温情でもとにもどしてあげる。きっとどこかで神様が見ているに違いないと言い聞かせる。だけどいささか不安になる。無駄な労力ではないと自分に言い聞かせるが、口と耳が結構離れているので声が届かない。要するに顔が長細くてつむじがとがっている。なにゆえ人はタップダンスをおどるついでにシロアリ退治するのか。つまり、シロアリをストンピング攻撃するのだ。シロアリ退治していただいてどうもありがとうございます、とお姫さまに感謝されるが名を伝えずにその場を立ち去る。
私は路上で踊る。いろんなポーズをとっている。目を半開きにして口をポカーっとあけている。よだれがナイアガラの滝状態。次に瞬間、眉毛が若干濃くなり、直立不動でイエッサーっと叫ぶ。軍人のようなその勇ましい態度はきっと料理教室で鍛え上げられたのだろう。ネグセがエッフェル塔のような形をしていると周囲の5万人の観衆から笑われたので、とりあえず、蛇拳のポーズで威嚇する。とにかく、一日を通してさまざまなポーズを取るのだが、これらのからだの動きは単品だとなんの意味もなかったりする。しゃがんでいるじいさん。いままさにしゃがみつつあるじいさんのお尻の落下速度を測定してもしょうがない。なんでしゃがんだのかはもっとこのホームドラマを見つづけなければならない。一つ一つはただのポーズ、動きでありナンセンスであっても、流れのなかで意味がにじみ出てくる。写真で目が半開きで眠そうに見えても、真実は、まぶたの真っ最中であり、これは人間の生存本能によるものだ。
かって哲学者デカルトは、我思うゆえに我あり、と叫んだ。カラオケの点数で何点をゲットしたかもわからないし、まして上司同席で、上司以上のハイスコアでキマヅイ思いをしているのでもない。私はこの世のすべてを疑ってみる。カブトムシは本当はスポーツマンに違いないと疑う。この世界は夢で幻かと疑う。それでも、そんなことを疑っている自分自身の存在は疑えない。自分が存在しないと疑えない、くるまにのっているからドリフト走行できるのだ、とドリフト族は口々にいう。だから、絶対的に存在している我がいると確信だ。ところが、メルロポンティはいう。我なにかをなすがゆえに我ありと。我歩くゆえに、座るゆえに、靴下のかかとを所定の位置に戻しているがゆえに我ありなのだ。たしかに、かかとを戻しているときの鬼のような眼差しはだれにもみられたくない。とにかく、がんばってじーっとしているのだって行動、活動なのだ。行為することで、それらの動きをかき集めた全体ではじめて意味が生まれている。精神、心、ハートがあって、これがからだに命令を出しているのでなく、まずはからだが存在し、動いているのだ。これを身体的主観性という。
勇敢な戦士を募集広告で集め、そして、私の足の魚の目退治に出かける。途中、魔法使いと出会いパーティにくわえる。シルクハットからハトそっくりな形をしたしょうがを取り出すのを得意技とする魔術師である。彼らの剣さばき、魔法のかけかた、これらは断片的に見るとおもわず、噴出してしまうほどこっけいな動きだったりする。ところが、モンスターを撃沈させる一連の動きをつなぎ合わせるとなんだかかっこいい。惚れ惚れして思わず下駄箱にラブレターを潜めたくなる。言葉もまた同じようなものである。潜水艦をもってきてくれ、と平写真が部長に命令。せんすいかん、とは、せ、ん、す、っという短音が集まった単語だが、これら短音だけだとただの得ろビデオのうめき声にしか聞こえない。短音が集まってこそ、たむろしてこそ、せんすいかん、という暴走族が結成してこそ、ここにはじめて意味がにじみ出てきちゃうのだ。
さて、せっかく動物園にはるばる遠海漁業船にのりこみ、樽のうしろに隠れ潜んでまで命がけでやってきたのだからパンダをじっくりと見たいものだ。そんなときは、私はそのパンだの愛らしい横腹だけみつめているだけでなく、からだをつかってすかさず真後ろにまわりこんで鑑賞である。つまり、なにかを立体的に見るにはからだを動かして、舐めるように見る。舐めてもいいかもしれないが、その後はしっかりとうがいをしよう。うがい中に水を飲んでしまい、絶望のふちに立たされたピンクのうさぎちゃんがいままで何匹いたことだろうか。私の意識、精神という高潔なやつが、意識光線を目から放ち、物を認識しているのではないという。これは意識的な志向性である。そうではなく、身体こそなにかに果敢にも、あの腰の曲がった闘牛老婆のごとく突進し、立ちむかうのである。これこそが身体的志向性であり、物を立体的にながめるには自分の足、目、顔を動かすことが必要だというのだ。
同じくメルロポンティの両義性の哲学についてである。右の脇には筆ペン、左には靴べらを携え、二刀流でいざ巌流島経由健康ランドにでも行く。両義性とは二刀流のことである。しかも徹底的ふたつある。右と左だけでなく、もっているしもっていないともいえる。究極の優柔不断であり、右足と左足、どっちを前にだすか迷い判断に困った歩行者は両足をまえにだして、前方にいたプロレスラーをドロップキック。プロレスラーは怒りを通り越して、すすり泣いている。世の中にはいろんなカップルがいる。男が女をリードする場合もあるし、尻にひかれたり、足にひかれたりするものもいる。いわゆる足フェチかもしれない。観念論と実在論というカップルがいる。この世界はすべて夢、幻だという観念論。てやんでーすべては実在しているんだという威勢のよい実在論。観念論でありかつ観念論でもない、しかも、観念論でもなく実在論でもない、そんなのが両義性だ。ますますわからなくなってきたので、気晴らしに熊とでも格闘したkうなるのだが、そこをぐーっとこらえて、こらえすぎてもらしちゃう。なにをこらえていたのだろうか。すべてをあたまで理屈で解決しちゃおうとするちょこっと傲慢な主知主義。理屈ではなく自分の目で観察したものこそが確実だと、言い放つ経験論。これらも両義性である。とことん、かっぷるの間に入ろうとする。カップルが合体するのではない。これを癒合という。私は怪獣えんどう豆を見ている。ビールのおつまみには最適だ。見ているものがいれば見られるものもいる。見られているものがあれば、見えないものだってある。これらにも両義性が成り立つ。ここに癒合がうまれ、見ること、見られることが逆転。見えるものと見えないものすらも反転しちゃう。けっして、合体して巨大なロボットにはトランスフォーマーしないということをこの場をかりて主張したい。メルロポンティはすべては同じ肉でできていて、そこに亀裂があるだけだという。うんこという単語、う、ん、こ、の短音の間の亀裂。ここに両義性が成り立ち、癒合があるのだ。溶け込むようにくっつくのである。
まとめ
存在の科学 点的時間論 ブラックホールはそこにある
ブラックホールは心であるといった。心はどこにあるのか。私はからだが資本だから動き回り活動する。ひとつひとつの動きはナンセンスで、時に笑いを誘発するこっけいなポーズだったりする。口をまげて、目がとじている。そんなスナップ写真だか、このあとの行動をも集めて全体的にみると、いままさにロケットパンチを放とうとする有意義な動きになるのだ。また、短音には意味がない。あ、い、う、である。ところが愛している、と叫ぶと意味が発生。あ、いの間の隙間になにかがある。たしかに短音の間は見えないし、聞こえない。直接には知ることが出来ない。物を立体的にみるときも、正面、後ろ、右側面と視点を変えながらみる。すると、立体的な意味あるイメージが完成する。それぞれの側面の間、亀裂に何か秘密がある。メルロポンティはこれを癒合、両義性と名づけた。言葉、単語、物を立体的にみる、行動、活動。これらの見えているところでなく、見えないところに心がある。ブラックホールも見えない。光や波を吸いこんでしまうからだ。心もまた見えないし、光を受容し認識している。心は見えない亀裂に潜み光を吸収しているブラックホールなのだ。行動にも、言葉にも、ブラックホールなる心がいる。
私は路上で踊る。いろんなポーズをとっている。目を半開きにして口をポカーっとあけている。よだれがナイアガラの滝状態。次に瞬間、眉毛が若干濃くなり、直立不動でイエッサーっと叫ぶ。軍人のようなその勇ましい態度はきっと料理教室で鍛え上げられたのだろう。ネグセがエッフェル塔のような形をしていると周囲の5万人の観衆から笑われたので、とりあえず、蛇拳のポーズで威嚇する。とにかく、一日を通してさまざまなポーズを取るのだが、これらのからだの動きは単品だとなんの意味もなかったりする。しゃがんでいるじいさん。いままさにしゃがみつつあるじいさんのお尻の落下速度を測定してもしょうがない。なんでしゃがんだのかはもっとこのホームドラマを見つづけなければならない。一つ一つはただのポーズ、動きでありナンセンスであっても、流れのなかで意味がにじみ出てくる。写真で目が半開きで眠そうに見えても、真実は、まぶたの真っ最中であり、これは人間の生存本能によるものだ。
かって哲学者デカルトは、我思うゆえに我あり、と叫んだ。カラオケの点数で何点をゲットしたかもわからないし、まして上司同席で、上司以上のハイスコアでキマヅイ思いをしているのでもない。私はこの世のすべてを疑ってみる。カブトムシは本当はスポーツマンに違いないと疑う。この世界は夢で幻かと疑う。それでも、そんなことを疑っている自分自身の存在は疑えない。自分が存在しないと疑えない、くるまにのっているからドリフト走行できるのだ、とドリフト族は口々にいう。だから、絶対的に存在している我がいると確信だ。ところが、メルロポンティはいう。我なにかをなすがゆえに我ありと。我歩くゆえに、座るゆえに、靴下のかかとを所定の位置に戻しているがゆえに我ありなのだ。たしかに、かかとを戻しているときの鬼のような眼差しはだれにもみられたくない。とにかく、がんばってじーっとしているのだって行動、活動なのだ。行為することで、それらの動きをかき集めた全体ではじめて意味が生まれている。精神、心、ハートがあって、これがからだに命令を出しているのでなく、まずはからだが存在し、動いているのだ。これを身体的主観性という。
勇敢な戦士を募集広告で集め、そして、私の足の魚の目退治に出かける。途中、魔法使いと出会いパーティにくわえる。シルクハットからハトそっくりな形をしたしょうがを取り出すのを得意技とする魔術師である。彼らの剣さばき、魔法のかけかた、これらは断片的に見るとおもわず、噴出してしまうほどこっけいな動きだったりする。ところが、モンスターを撃沈させる一連の動きをつなぎ合わせるとなんだかかっこいい。惚れ惚れして思わず下駄箱にラブレターを潜めたくなる。言葉もまた同じようなものである。潜水艦をもってきてくれ、と平写真が部長に命令。せんすいかん、とは、せ、ん、す、っという短音が集まった単語だが、これら短音だけだとただの得ろビデオのうめき声にしか聞こえない。短音が集まってこそ、たむろしてこそ、せんすいかん、という暴走族が結成してこそ、ここにはじめて意味がにじみ出てきちゃうのだ。
さて、せっかく動物園にはるばる遠海漁業船にのりこみ、樽のうしろに隠れ潜んでまで命がけでやってきたのだからパンダをじっくりと見たいものだ。そんなときは、私はそのパンだの愛らしい横腹だけみつめているだけでなく、からだをつかってすかさず真後ろにまわりこんで鑑賞である。つまり、なにかを立体的に見るにはからだを動かして、舐めるように見る。舐めてもいいかもしれないが、その後はしっかりとうがいをしよう。うがい中に水を飲んでしまい、絶望のふちに立たされたピンクのうさぎちゃんがいままで何匹いたことだろうか。私の意識、精神という高潔なやつが、意識光線を目から放ち、物を認識しているのではないという。これは意識的な志向性である。そうではなく、身体こそなにかに果敢にも、あの腰の曲がった闘牛老婆のごとく突進し、立ちむかうのである。これこそが身体的志向性であり、物を立体的にながめるには自分の足、目、顔を動かすことが必要だというのだ。
同じくメルロポンティの両義性の哲学についてである。右の脇には筆ペン、左には靴べらを携え、二刀流でいざ巌流島経由健康ランドにでも行く。両義性とは二刀流のことである。しかも徹底的ふたつある。右と左だけでなく、もっているしもっていないともいえる。究極の優柔不断であり、右足と左足、どっちを前にだすか迷い判断に困った歩行者は両足をまえにだして、前方にいたプロレスラーをドロップキック。プロレスラーは怒りを通り越して、すすり泣いている。世の中にはいろんなカップルがいる。男が女をリードする場合もあるし、尻にひかれたり、足にひかれたりするものもいる。いわゆる足フェチかもしれない。観念論と実在論というカップルがいる。この世界はすべて夢、幻だという観念論。てやんでーすべては実在しているんだという威勢のよい実在論。観念論でありかつ観念論でもない、しかも、観念論でもなく実在論でもない、そんなのが両義性だ。ますますわからなくなってきたので、気晴らしに熊とでも格闘したkうなるのだが、そこをぐーっとこらえて、こらえすぎてもらしちゃう。なにをこらえていたのだろうか。すべてをあたまで理屈で解決しちゃおうとするちょこっと傲慢な主知主義。理屈ではなく自分の目で観察したものこそが確実だと、言い放つ経験論。これらも両義性である。とことん、かっぷるの間に入ろうとする。カップルが合体するのではない。これを癒合という。私は怪獣えんどう豆を見ている。ビールのおつまみには最適だ。見ているものがいれば見られるものもいる。見られているものがあれば、見えないものだってある。これらにも両義性が成り立つ。ここに癒合がうまれ、見ること、見られることが逆転。見えるものと見えないものすらも反転しちゃう。けっして、合体して巨大なロボットにはトランスフォーマーしないということをこの場をかりて主張したい。メルロポンティはすべては同じ肉でできていて、そこに亀裂があるだけだという。うんこという単語、う、ん、こ、の短音の間の亀裂。ここに両義性が成り立ち、癒合があるのだ。溶け込むようにくっつくのである。
まとめ
存在の科学 点的時間論 ブラックホールはそこにある
ブラックホールは心であるといった。心はどこにあるのか。私はからだが資本だから動き回り活動する。ひとつひとつの動きはナンセンスで、時に笑いを誘発するこっけいなポーズだったりする。口をまげて、目がとじている。そんなスナップ写真だか、このあとの行動をも集めて全体的にみると、いままさにロケットパンチを放とうとする有意義な動きになるのだ。また、短音には意味がない。あ、い、う、である。ところが愛している、と叫ぶと意味が発生。あ、いの間の隙間になにかがある。たしかに短音の間は見えないし、聞こえない。直接には知ることが出来ない。物を立体的にみるときも、正面、後ろ、右側面と視点を変えながらみる。すると、立体的な意味あるイメージが完成する。それぞれの側面の間、亀裂に何か秘密がある。メルロポンティはこれを癒合、両義性と名づけた。言葉、単語、物を立体的にみる、行動、活動。これらの見えているところでなく、見えないところに心がある。ブラックホールも見えない。光や波を吸いこんでしまうからだ。心もまた見えないし、光を受容し認識している。心は見えない亀裂に潜み光を吸収しているブラックホールなのだ。行動にも、言葉にも、ブラックホールなる心がいる。






