youtube マッシュTVの動画大量投稿中はこちら(日付順を押して見てください。) とうとう出来ました!存在科学研究所公式ページ 大人の教育番組3ちゃんねる生放送 ジョーカーによるネットテレビ放送!!
ブログパーツならStickam!
 当コンテンツは宗教とは一切関係ございません。哲学、建築等に特化したお笑いコンテンツを目指しております。   マッシュTV音声などのオンデマンド放送もやってます。下をクリックすれば聞けます。  宇宙人養成学校 まっしゅRadio放送局  放送時間はだいだい平日は夜から朝にかけて、土日は24時間。生放送は午後7時から10時の間に放送する場合があります。  雑誌などのメディア掲載は大歓迎です。  相互リンクも大歓迎です。  

2008年05月12日

寒邪在表症

寒邪在表症

  この自然界はなにでできているかといえば、六つの気によってできているという。寒、熱、風などである。これらの気が猛威をふるうときがある。寒の気が邪気になる。おじさんだって、ハンケツすれば怒る。寒邪がからだの表面に進出してくる。すると、体表の防衛軍である衛気が寒さによって動きが鈍くなる。寒は相手を凍らせて固めたり、吸引する技をもっている。衛気は身動きとれず、自分の仕事ができなくなる。衛気は汗の穴、これをソウリというが開閉する仕事がある。汗の穴、ソウリの開閉ができなうなるから、汗がなくなるのだ。まら、皮膚はけイラクで肺とつながり、寒邪が経絡つたって肺にはいる。すると咳がでる。肺は鼻と経絡でつながっているから、鼻水がでる。ただし、衛気がかたまってしまっても、正気がやってきて、寒邪と皮膚上で激しい闘争を繰り広げる。このとき、熱が発生するという。なんとかの合戦である。くるぶしの合戦かもしれず、太ももの合戦かもしれない。主な症状は、悪寒、熱、頭痛、身体痛、鼻水、咳。これは寒が表にいる軽い状態である。
posted by モノイイ ジョーカー at 20:27| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 東洋医学漫談 弁証論治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宇宙人 まっしゅ (20080202)

posted by モノイイ ジョーカー at 20:25| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学  点的時間論  人間の自由意志は裸の特異点

存在の科学  点的時間論  人間の自由意志は裸の特異点

   ブラックホールは質量がでかくて、体積が小さいものだ。しかも、はんぱない引力ですべてのものを飲みこむ。光をも吸いこんでしまうので、残念でならないがブラックホールは見えないのだ。見えないから人間にとって認識の限界。地平線のむこうである。これを科学では事象の地平という。事象の地平によってか囲まれて見えないブラックホール。ここでは因果法則も物理法則も成り立たないという。ブラックホールを事象の地平に囲まれた特異点という。見えない特別な点である。

  哲学の分野でも地平概念がある。人間の認識は見えるか見えないかのぎりぎりの地平線であたまりを囲まれているという。ねこのたまちゃんこんにちは。たまちゃんはいままでなにをしてきて、どこからきて、なにをかんがえているのかもはや知るよしもない。あたりを見渡すと、知るうえでの限界がある。どこにでも地平線があるという。

  科学においては近年、裸の特異点という仮説が立てられた。事象の地平線に囲まれていないブラックホールがあるというのだ。すると、ブラックホールという特異点は物理法則も因果律も成り立たないから、過去やら未来すらないことになる。これだとおかしくなってくる。だから、宇宙検閲官仮説が主張された。こんな裸の特異点を規制するような法則があるにちがいないという仮説だ。

  さて、哲学では様相概念というものがある。いろんなカテゴリーがあるが、もっとも広範囲をカバーするカテゴリー。形式的な条件をクリアした可能性。可能性にじっさいの感覚情報がくわわった現実性。可能性に、原因に結果がこびりつくよ、という因果律が少々加わると、必然性になるという。そして、ただの現実性が偶然性ともいわれる。人間の意識、心はたしかに食欲にまけて、商品に手がのびてしまうこともあるが、これをぐっとこらえたりいきなり前触れもなくサンバの踊りをするという自由意志がある。これはある意味、偶然性である。因果律のない可能性だ。これこそ、ブラックホールではないだろうか。物理法則、因果律がない地平の向こうの特異点である。そして、さらに裸の特異点、身の回りのブラックホールだってたくさんある。人間をふくめたせ生命体の意識だ。しかも、私はつねの地平に囲まれている。他人のかんがえていることはおろか、大根の素性だって地平のむこうである。だから、大根にだって特異点、ブラックホール、心があるのだ。見えないところに心がある。否、見えないものは全部ブラックホール、心だといってよいかもしれないおいしそうなりんごをまなざす。目にハートが浮かんでいる。自分の肉体のなかに心があって、これがりんごをむかっているのではない。りんごの地平に心がある。りんごに心がいっているのである。だから、ここで声高に声をからせて次の日にうがいしちゃうくらい訴えたい。見えないもの、つまりは地平の向こうにあるのは心、ブロックホールであり、見えるものは物質であると。カルタ大会の腕の動き、短音の隙間、知られることがないそれらの隙間に心はある。

  1903年、ロシアにおいて謎の巨大爆発があった。ツングースカの大爆発である。世界大戦以前の時代に、広島原爆の約1000倍もの破壊力のある爆発。森林が吹き飛び、当初は隕石落下と思われていたが、隕石の破片は見当たらなかったという。近年もっとも有力視されている仮説は小さなブラックホールが爆発したのではないかという仮説である。

  つまり、こうである。世界大戦のような無慈悲な戦争は心無いものによって実行された。まさに、大戦前夜にある一定数の人たちの心が失われた。これがツングースのブラックホール大爆発だったのではないのかと。また、別の見方ができるかもしれない。世界大戦で失われた命、心が時間差で現われたもの。いずれにしても、これがブラックホールの爆発によるものならば、それは同時に心、意識の消失を意味するのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 20:22| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人養成講座 哲風呂 様相と地平へ

様相と地平についてである。どんなに速く走っても、地平線をつかむことができない。水平線だって、リーチの長いやつがいても掴み取れない。大げさに言うと、至る所に地平線がある。トイレでしゃがんでいると、和式ならば自分のひざと久々にご対面する。ひざの向こうがみえない、ひざのむこうのすね毛にはるかなるロマンを感じるがここからだと見えない。いかんせん、セレブな生活が続いたもので、久々の和式である。和の美しさとわびさびがそこにはある。どこにでも地平線があるよ、と猫型ロボットの口癖のようだが、口びるの皮を食べる癖もはたして口癖といえるかどうか、国際会議で真剣な眉毛で論じられるべきかもしれない。真剣な眉毛なんて売っていない。自分で作るんだ、と先輩からすばらしい助言をいただいたのは、太古の昔、まだ魚が岸にたどり着き手足が飛び出す有史以前の話だ。

   様相とはなにか。存在のしかたである。座り方だって、正座したり、あぐらかきがらバナナを食べて瞑想するとか、いろんな座り方がある。同じく存在のしかたも千差万別。大きく二つのタイプの様相にわけられる。一つは哲学者カントに代表される認識論的様相論である。もうひとつは哲学者ヘーゲルが代表しちゃう存在論的様相論だ。

  カントの認識論だと、人間は感覚情報を忙しく収集し、これらをあたまのなかに準備されている洋服ダンスのなかにきっちりとまとめあげて成立すると考える。整理整頓好きなのである。ワイルドでかつ、整理整頓好きなものが、土嚢袋のかげに隠れて狙っている。サバイバルは整理整頓好きでないとやっていけない。このあたまのなかの洋服ダンスに相当するのが、カテゴリーである。わぁーたくさんの白ごまだ、と感動に目をうるうるさせながら叫ぶ。どれくらいの量があるのか、あたまで考えちゃうとき、量のカテゴリーを使っちゃう。おいしい白ごまだの、一粒一粒な筋肉質でしっかりとした白ごまだというとき、質のカテゴリーを使っている。白ごまと白くまの関係について研究室にこもって考える。親戚関係か、どろどろとしたペースト状の不倫関係なのか。このとき、関係のカテゴリーがたくみに使われている。そして、待ってましたといわんばかりに登場するのが様相のカテゴリーである。目の前に出現したペペロンチーノの妖怪。はたして、あくまでも可能性なのか、現実なのか、はたまた必然性か。可能性とは、形式的条件をクリアしたやつらのこと。論理的には、理屈のうえでは矛盾しないものである。りんご一つとミカン一つで合計2つ。手鼻をかんだら、鼻くそが地面に突き刺さるのも、確立は低いが可能性はある。現実性はこんな可能性が実際に目で見れて、鼻で匂える、つまりは感覚が付着した可能性だ。背中にギョウチュウ検査のシールをつけたままオリンピックに出場したものがいるかどうかしらないが、ぴったりと感覚が付着しているのが現実だ。そして、可能性に関係のカテゴリーのなかの因果性が大さじ少々付け加わったのが必然性だという。因果性とは、原因があったら結果がある、ということ。そして、偶然性とはただの味もそっけもない現実性である。

  ヘーゲル哲学の存在論的様相論とは、様相を認識の装置とは考えない。様相は存在そのもののことだというのだ。味噌汁をジーパンにこぼしてしまって、とりあえず、軍を出動させ、ふきんでふき取ってもらう。味噌汁をこぼす可能性はたしかにあったは、あのとき、私を三段飛びの選手が飛びこえていなかったら動揺せず、味噌汁をこぼさずに済んだのに、と回想する。見方を変えると、実際に起きてしまったからこれが冷たい現実というより、味噌汁ゆえに熱い現実でもある。また、なるべくしてなってしまったのだから、これgは必然性でもある。たまたま、こぼしてしまったと弁明記者会見を開いても良いが、これは偶然性である。味噌汁をこぼしたという歴史的大事件は、可能性、現実性、必然性、偶然性にも、いかようにもとらえることができる。これらはじつは渾然一体、ダイナミックに合体しているというのだ。


   さて、次に地平という概念についてである。その昔は天文学でこの概念が使われていた。目をこらしてもアンドロメダ星雲が見えない、と壮絶な叫びとともに、天文クラブの部室から飛び出してきた少年。望遠鏡をヒタイにあてても見えないと嘆く。いわゆる、人間がどうがんばっても見えないぎりぎりの一線である。また、近代においては哲学者カント。それは認識能力の限界のことをいっていると主張。目でじろじろとものをみる感覚。美しいドレスを着たらくだにコタツのなかでであって感動の雨あられ。美しいものには、もっと上があるはずだ。これ以上美しいものはないというぎりぎりの線。これを美学的地平という。あたまのなかで論理的に考える。じいさんの白髪の乱れ具合を物理法則で解明しようとしたが、多忙であること、そんな複雑なことをコンピューターのように迅速に計算できない。そこで論理的に考える限界に達し、ギブアップと叫ぶ。これが論理的地平である。そして、私はあたまで日がな一日考えているだけでなく、ごぼうを手にして寝ているケツのけばを立たせようと、こすりつけりこともある。危ないと叫んで身を呈して、脚立の頂きから落下中のタコを救出。つまりはからだをはった実践である。こんな人間の実践にも限界があるはずだ。これが実践的限界である。

   現代においては哲学者フッサールの地平概念である。私はきゅうりを眺める。拝観料は頂かないという良心的な八百屋さんである。このきゅうりはどこで育ち、どんな経路でここにたどり着いたのか。いばらの道を歩んでここにたどり着き、獰猛な鈴虫に食べられる運命かもしれない。とにかく、そのすべてをしることはできないぎりぎりの限界がある。これを内部地平という。きゅうりを眺めていると、その向こうで八百屋のおじさんが買い物客と野球拳をしているのがかすかに見える。そのむこうには聳え立つ城砦が見える。これらは背景であるが、その背景のぎりぎり見える限界がある。これが外部地平である。これらのいろんな地平を全部、載せている巨大なテーブル、そのテーブルの地平が世界地平、別名、地平の地平である。

   まとめ


  存在の科学  点的時間論  人間の自由意志は裸の特異点

   ブラックホールは質量がでかくて、体積が小さいものだ。しかも、はんぱない引力ですべてのものを飲みこむ。光をも吸いこんでしまうので、残念でならないがブラックホールは見えないのだ。見えないから人間にとって認識の限界。地平線のむこうである。これを科学では事象の地平という。事象の地平によってか囲まれて見えないブラックホール。ここでは因果法則も物理法則も成り立たないという。ブラックホールを事象の地平に囲まれた特異点という。見えない特別な点である。

  哲学の分野でも地平概念がある。人間の認識は見えるか見えないかのぎりぎりの地平線であたまりを囲まれているという。ねこのたまちゃんこんにちは。たまちゃんはいままでなにをしてきて、どこからきて、なにをかんがえているのかもはや知るよしもない。あたりを見渡すと、知るうえでの限界がある。どこにでも地平線があるという。

  科学においては近年、裸の特異点という仮説が立てられた。事象の地平線に囲まれていないブラックホールがあるというのだ。すると、ブラックホールという特異点は物理法則も因果律も成り立たないから、過去やら未来すらないことになる。これだとおかしくなってくる。だから、宇宙検閲官仮説が主張された。こんな裸の特異点を規制するような法則があるにちがいないという仮説だ。

  さて、哲学では様相概念というものがある。いろんなカテゴリーがあるが、もっとも広範囲をカバーするカテゴリー。形式的な条件をクリアした可能性。可能性にじっさいの感覚情報がくわわった現実性。可能性に、原因に結果がこびりつくよ、という因果律が少々加わると、必然性になるという。そして、ただの現実性が偶然性ともいわれる。人間の意識、心はたしかに食欲にまけて、商品に手がのびてしまうこともあるが、これをぐっとこらえたりいきなり前触れもなくサンバの踊りをするという自由意志がある。これはある意味、偶然性である。因果律のない可能性だ。これこそ、ブラックホールではないだろうか。物理法則、因果律がない地平の向こうの特異点である。そして、さらに裸の特異点、身の回りのブラックホールだってたくさんある。人間をふくめたせ生命体の意識だ。しかも、私はつねの地平に囲まれている。他人のかんがえていることはおろか、大根の素性だって地平のむこうである。だから、大根にだって特異点、ブラックホール、心があるのだ。見えないところに心がある。否、見えないものは全部ブラックホール、心だといってよいかもしれないおいしそうなりんごをまなざす。目にハートが浮かんでいる。自分の肉体のなかに心があって、これがりんごをむかっているのではない。りんごの地平に心がある。りんごに心がいっているのである。だから、ここで声高に声をからせて次の日にうがいしちゃうくらい訴えたい。見えないもの、つまりは地平の向こうにあるのは心、ブロックホールであり、見えるものは物質であると。カルタ大会の腕の動き、短音の隙間、知られることがないそれらの隙間に心はある。

  1903年、ロシアにおいて謎の巨大爆発があった。ツングースカの大爆発である。世界大戦以前の時代に、広島原爆の約1000倍もの破壊力のある爆発。森林が吹き飛び、当初は隕石落下と思われていたが、隕石の破片は見当たらなかったという。近年もっとも有力視されている仮説は小さなブラックホールが爆発したのではないかという仮説である。

  つまり、こうである。世界大戦のような無慈悲な戦争は心無いものによって実行された。まさに、大戦前夜にある一定数の人たちの心が失われた。これがツングースのブラックホール大爆発だったのではないのかと。また、別の見方ができるかもしれない。世界大戦で失われた命、心が時間差で現われたもの。いずれにしても、これがブラックホールの爆発によるものならば、それは同時に心、意識の消失を意味するのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 20:18| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする