| ブログパーツならStickam! |
2008年05月13日
存在の科学 点的時間論 中性的ブラックホール、中性的身体
存在の科学 点的時間論 中性的ブラックホール、中性的身体
超越的とは自分をはるかに超えた向こう側をげっとしようとすること。山の向こうに見えるあの小屋にひつじのメリーは監禁されている。あの小屋というのは自分にとって超越的である。一方、超越論的とは、そんな超越的なものをめざす自分の意識を意識してしまうもの。ただし、超越論的だから超越的なものを意識できるというフッサールの考えもある。つまり、私は私自身のなかであたかも、手編みのセーターを編む可憐な少女のように、手元で、否、自分のなかに小屋を編んでしまうのだ。こうやって、超越的なものを自分のなかにつくる。自分の内側に超越的なものがあるから内在的超越。内側にくせに外側ぶってやがる。意識は志向性という名の矢印である。矢印は自分の矢印を指す。ただ、的が若干はずれてトルネードし、ばねのような構造になってしまうのだ。つまり、自分の内側のような外側のような微妙な状態。超越的も超越論的も、基本的には同じ。私は夜空の星をロマンチックな目つきで眺めるが、これは自分の内面をみつめているのといっしょ。おやおや、ブラックホールらしき影を確認。ブラックホールはその実体は見えない。おやおや私の影を発見だ、ただ、私自身の本体はがんばっても見えない。
二つのブラックほールがあるのではない。内部ブラックホールでもなく、外部ブラックホールでもない中性的なブラックホールである。矢印が自分自身をさししめそうと的をはずすように、完璧に自分の内面をみつめているのであはない。また、惑星やら太陽がみえる。身のまわりには小惑星群がみわたせる絶景ポイントだ。それでも、自分のからだを動かせば、その小惑星の形が変わる、物質的なものも、私の身体とどこがちがうかといえば、中性的なものが的をはずして、かたやただの物質、かたや私自身の身体となって現われているだけである。この物質でも身体でもあるものを中性的身体と名づけたい。
超越的とは自分をはるかに超えた向こう側をげっとしようとすること。山の向こうに見えるあの小屋にひつじのメリーは監禁されている。あの小屋というのは自分にとって超越的である。一方、超越論的とは、そんな超越的なものをめざす自分の意識を意識してしまうもの。ただし、超越論的だから超越的なものを意識できるというフッサールの考えもある。つまり、私は私自身のなかであたかも、手編みのセーターを編む可憐な少女のように、手元で、否、自分のなかに小屋を編んでしまうのだ。こうやって、超越的なものを自分のなかにつくる。自分の内側に超越的なものがあるから内在的超越。内側にくせに外側ぶってやがる。意識は志向性という名の矢印である。矢印は自分の矢印を指す。ただ、的が若干はずれてトルネードし、ばねのような構造になってしまうのだ。つまり、自分の内側のような外側のような微妙な状態。超越的も超越論的も、基本的には同じ。私は夜空の星をロマンチックな目つきで眺めるが、これは自分の内面をみつめているのといっしょ。おやおや、ブラックホールらしき影を確認。ブラックホールはその実体は見えない。おやおや私の影を発見だ、ただ、私自身の本体はがんばっても見えない。
二つのブラックほールがあるのではない。内部ブラックホールでもなく、外部ブラックホールでもない中性的なブラックホールである。矢印が自分自身をさししめそうと的をはずすように、完璧に自分の内面をみつめているのであはない。また、惑星やら太陽がみえる。身のまわりには小惑星群がみわたせる絶景ポイントだ。それでも、自分のからだを動かせば、その小惑星の形が変わる、物質的なものも、私の身体とどこがちがうかといえば、中性的なものが的をはずして、かたやただの物質、かたや私自身の身体となって現われているだけである。この物質でも身体でもあるものを中性的身体と名づけたい。
仙人養成講座 哲風呂 超越的、超越論的、そして、志向性へ
超越的、超越論的、そして、志向性についてである。私はいままで何をやってきたのか。人類に貢献したのだろうかと、パチンコをしながらふと考える。何本のトイレットペ−パーを消費し、これがどれくらいの森林に相当するのか。トイレの個室のまえで、上、というボタンを押して待っているとき、ふと、考える。私はどこからきてどこへ行こうとしているのか。小便器からきて大便器へとむかっている道中、数々の愛と感動のドラマに遭遇した。私自身につて考え、世界について思い馳せ、そして、自分のルーツと向かうべきゴールを思う。けっして、おっぱいにはさまってギブアップとさけんでしまったおろかな自分を思い起こしたりはしない。
超越的と超越論的という概念についてである。超越的とは飛び越えた向こうはるか向こうである。ぶっ飛ぶとか、ずーっとあっちにあるということ。あそこに見えるプロレスラーを飛び越えたむこうに米屋があります、と丁寧に道を教えてくれた歩行者。自分のなかでうじうじしているのでなく、あたまのなかでもんもんと考えているわけでもなく、自分の外の世界である。パン屋にて大きなはさみを手にした客がうぐいすパンを狙っている。うぐいすぱん危ない、とさけびながらすかさず身を呈して救い出す。私はうぐいすパンという超越的なものを狙い、救出した。消防所長から感謝状をもらえなかったので、とりあえず、感謝状を自作して飾る。私がなにかを意識するとき、壁にたかっているハエに意識集中して、手にした棍棒を振り上げたとき、ハエは私にとって超越的であり、同時にハエは私にまなざされてはずかしさから顔を真っ赤にしている。哲学者カントいわく、われわれは超越的なものをめざす。
カントはまた、およそ、傲慢にも人間は神様やら宇宙やらに考えをめぐらせ、能力の限界に達してうっかりミスをしてしまう。負けず嫌いが屈伸し、ひざを伸ばした状態でひざを舐めようとしている。柔軟性を要求されるが、限界に達しておならをもらす。この人間の認識能力の限界を言い表す言葉に、超越論的というものがある。
また、われわれは居酒屋で、あたりに気を配り、いざ、敵が襲いかかってきたことを想定し、テニスラケットを手にして後ろにけつを突き出す。直系3センチのミニミニスカートを背中につけているので、そのおじさんの姿はアンモラルである。店員が通路を歩き、サラリーマンが地球温暖化について談笑しいる。いろんなものを目でみて、耳で聞く。つまりは経験している。なにゆえ、私は経験し、認識できるのか。そんな認識のしかた、経験のしかたについて認識すること。じーっと哀愁漂うサラリーマンの横腹をみつめているが、そんな見つめている私自身を見つめる。これが超越的なものを認識しているしかたを論じるから、超越論的というのだ。
ところが、哲学者フッサールにおいては超越的、超越論的の概念をちょっと趣向をかえて使っている。そもそも、超越論的に自分自身のなかでもじもじしているからこそ、目の前の大男ゴンザレスの白魚のようなうなじを認識できるののである。自分の口のなかに指をつっこみ、歯並びを確認する。にきびをつぶし、破壊しまくる。自分が自分自身にかかわりちょっかいだしているというのは、明らかな超越論的なものだ。だからこそ、自分のまえに立ちはだかる醤油瓶という超越的なもんを認識できる。要するに、私は醤油瓶という超越的なものを自分自身のなかに作っているというのだ。自分の内側に超越的な富士山をつくる。だからこのことを内在的超越ともいう。自分自身にかかわることが、自分のそとの超越的、ぶっとんだずーっと向こうにあるやつを認識できちゃうのである。
志向性という概念についてである。哲学者フッサールは人間の意識をサッカーボールのようなかたまりとは考えない。なんと先端が鋭利にとがった矢印のように考える。矢印をつかって歯のすきまの歯垢をとることはある。矢印が目から放たれて、すき焼きの肉に突き刺さる。なにかに意識を集中し、これを認識する。さて、朝、世のおやじはたいてい牛乳を飲みながら新聞を読む。活字がいっぱいあるが、読めない漢字は読み飛ばし、心のなかではなんとかだの、うにゃうにゃ、ちょめちょめだと発音する。経済摩擦によるちょめちょめは今年度はちょめちょえによってうにゃうにゃされた。なんとなく理解できればよい、と自らの堅い意志表明をしながら、読み進める。そもそも、言葉、単語は実際のなにかを指差している。つまりは矢印を放っている恐ろしいやつだ。パラグライダーが飛んでいる、という文。パラグライダーという単語は実際のパラグライダーを矢印で指し示す。人間の意識の志向性と同じなのだ。これをパラグライダーの内包という。バナナという単語にも内包がある。バナナは果物の一種である、というのは外延と呼ばれる。バナナという単語は果物という概念に包まれている。そうではなくて、内包は端的に矢印で指差しているのだ。
意識の志向性はそのまま内包なのか、はたまた、志向性の志向性が内包だというものもあらわれる。いろんな考えがあるし、いろんな髪質がある。自分の意識の志向性、つまり、矢印が自分自身の矢印に刺さっている。体育座りして、腹が減り、おもわず、自分のひざ小僧をかじってしまった愚か者と一緒だ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 中性的ブラックホール、中性的身体
超越的とは自分をはるかに超えた向こう側をげっとしようとすること。山の向こうに見えるあの小屋にひつじのメリーは監禁されている。あの小屋というのは自分にとって超越的である。一方、超越論的とは、そんな超越的なものをめざす自分の意識を意識してしまうもの。ただし、超越論的だから超越的なものを意識できるというフッサールの考えもある。つまり、私は私自身のなかであたかも、手編みのセーターを編む可憐な少女のように、手元で、否、自分のなかに小屋を編んでしまうのだ。こうやって、超越的なものを自分のなかにつくる。自分の内側に超越的なものがあるから内在的超越。内側にくせに外側ぶってやがる。意識は志向性という名の矢印である。矢印は自分の矢印を指す。ただ、的が若干はずれてトルネードし、ばねのような構造になってしまうのだ。つまり、自分の内側のような外側のような微妙な状態。超越的も超越論的も、基本的には同じ。私は夜空の星をロマンチックな目つきで眺めるが、これは自分の内面をみつめているのといっしょ。おやおや、ブラックホールらしき影を確認。ブラックホールはその実体は見えない。おやおや私の影を発見だ、ただ、私自身の本体はがんばっても見えない。
二つのブラックほールがあるのではない。内部ブラックホールでもなく、外部ブラックホールでもない中性的なブラックホールである。矢印が自分自身をさししめそうと的をはずすように、完璧に自分の内面をみつめているのであはない。また、惑星やら太陽がみえる。身のまわりには小惑星群がみわたせる絶景ポイントだ。それでも、自分のからだを動かせば、その小惑星の形が変わる、物質的なものも、私の身体とどこがちがうかといえば、中性的なものが的をはずして、かたやただの物質、かたや私自身の身体となって現われているだけである。この物質でも身体でもあるものを中性的身体と名づけたい。
超越的と超越論的という概念についてである。超越的とは飛び越えた向こうはるか向こうである。ぶっ飛ぶとか、ずーっとあっちにあるということ。あそこに見えるプロレスラーを飛び越えたむこうに米屋があります、と丁寧に道を教えてくれた歩行者。自分のなかでうじうじしているのでなく、あたまのなかでもんもんと考えているわけでもなく、自分の外の世界である。パン屋にて大きなはさみを手にした客がうぐいすパンを狙っている。うぐいすぱん危ない、とさけびながらすかさず身を呈して救い出す。私はうぐいすパンという超越的なものを狙い、救出した。消防所長から感謝状をもらえなかったので、とりあえず、感謝状を自作して飾る。私がなにかを意識するとき、壁にたかっているハエに意識集中して、手にした棍棒を振り上げたとき、ハエは私にとって超越的であり、同時にハエは私にまなざされてはずかしさから顔を真っ赤にしている。哲学者カントいわく、われわれは超越的なものをめざす。
カントはまた、およそ、傲慢にも人間は神様やら宇宙やらに考えをめぐらせ、能力の限界に達してうっかりミスをしてしまう。負けず嫌いが屈伸し、ひざを伸ばした状態でひざを舐めようとしている。柔軟性を要求されるが、限界に達しておならをもらす。この人間の認識能力の限界を言い表す言葉に、超越論的というものがある。
また、われわれは居酒屋で、あたりに気を配り、いざ、敵が襲いかかってきたことを想定し、テニスラケットを手にして後ろにけつを突き出す。直系3センチのミニミニスカートを背中につけているので、そのおじさんの姿はアンモラルである。店員が通路を歩き、サラリーマンが地球温暖化について談笑しいる。いろんなものを目でみて、耳で聞く。つまりは経験している。なにゆえ、私は経験し、認識できるのか。そんな認識のしかた、経験のしかたについて認識すること。じーっと哀愁漂うサラリーマンの横腹をみつめているが、そんな見つめている私自身を見つめる。これが超越的なものを認識しているしかたを論じるから、超越論的というのだ。
ところが、哲学者フッサールにおいては超越的、超越論的の概念をちょっと趣向をかえて使っている。そもそも、超越論的に自分自身のなかでもじもじしているからこそ、目の前の大男ゴンザレスの白魚のようなうなじを認識できるののである。自分の口のなかに指をつっこみ、歯並びを確認する。にきびをつぶし、破壊しまくる。自分が自分自身にかかわりちょっかいだしているというのは、明らかな超越論的なものだ。だからこそ、自分のまえに立ちはだかる醤油瓶という超越的なもんを認識できる。要するに、私は醤油瓶という超越的なものを自分自身のなかに作っているというのだ。自分の内側に超越的な富士山をつくる。だからこのことを内在的超越ともいう。自分自身にかかわることが、自分のそとの超越的、ぶっとんだずーっと向こうにあるやつを認識できちゃうのである。
志向性という概念についてである。哲学者フッサールは人間の意識をサッカーボールのようなかたまりとは考えない。なんと先端が鋭利にとがった矢印のように考える。矢印をつかって歯のすきまの歯垢をとることはある。矢印が目から放たれて、すき焼きの肉に突き刺さる。なにかに意識を集中し、これを認識する。さて、朝、世のおやじはたいてい牛乳を飲みながら新聞を読む。活字がいっぱいあるが、読めない漢字は読み飛ばし、心のなかではなんとかだの、うにゃうにゃ、ちょめちょめだと発音する。経済摩擦によるちょめちょめは今年度はちょめちょえによってうにゃうにゃされた。なんとなく理解できればよい、と自らの堅い意志表明をしながら、読み進める。そもそも、言葉、単語は実際のなにかを指差している。つまりは矢印を放っている恐ろしいやつだ。パラグライダーが飛んでいる、という文。パラグライダーという単語は実際のパラグライダーを矢印で指し示す。人間の意識の志向性と同じなのだ。これをパラグライダーの内包という。バナナという単語にも内包がある。バナナは果物の一種である、というのは外延と呼ばれる。バナナという単語は果物という概念に包まれている。そうではなくて、内包は端的に矢印で指差しているのだ。
意識の志向性はそのまま内包なのか、はたまた、志向性の志向性が内包だというものもあらわれる。いろんな考えがあるし、いろんな髪質がある。自分の意識の志向性、つまり、矢印が自分自身の矢印に刺さっている。体育座りして、腹が減り、おもわず、自分のひざ小僧をかじってしまった愚か者と一緒だ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 中性的ブラックホール、中性的身体
超越的とは自分をはるかに超えた向こう側をげっとしようとすること。山の向こうに見えるあの小屋にひつじのメリーは監禁されている。あの小屋というのは自分にとって超越的である。一方、超越論的とは、そんな超越的なものをめざす自分の意識を意識してしまうもの。ただし、超越論的だから超越的なものを意識できるというフッサールの考えもある。つまり、私は私自身のなかであたかも、手編みのセーターを編む可憐な少女のように、手元で、否、自分のなかに小屋を編んでしまうのだ。こうやって、超越的なものを自分のなかにつくる。自分の内側に超越的なものがあるから内在的超越。内側にくせに外側ぶってやがる。意識は志向性という名の矢印である。矢印は自分の矢印を指す。ただ、的が若干はずれてトルネードし、ばねのような構造になってしまうのだ。つまり、自分の内側のような外側のような微妙な状態。超越的も超越論的も、基本的には同じ。私は夜空の星をロマンチックな目つきで眺めるが、これは自分の内面をみつめているのといっしょ。おやおや、ブラックホールらしき影を確認。ブラックホールはその実体は見えない。おやおや私の影を発見だ、ただ、私自身の本体はがんばっても見えない。
二つのブラックほールがあるのではない。内部ブラックホールでもなく、外部ブラックホールでもない中性的なブラックホールである。矢印が自分自身をさししめそうと的をはずすように、完璧に自分の内面をみつめているのであはない。また、惑星やら太陽がみえる。身のまわりには小惑星群がみわたせる絶景ポイントだ。それでも、自分のからだを動かせば、その小惑星の形が変わる、物質的なものも、私の身体とどこがちがうかといえば、中性的なものが的をはずして、かたやただの物質、かたや私自身の身体となって現われているだけである。この物質でも身体でもあるものを中性的身体と名づけたい。






