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2008年05月14日

宇宙人 まっしゅ (20080204-1)

posted by モノイイ ジョーカー at 18:47| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学  点的時間論 集団の自由、個人の不自由

存在の科学  点的時間論 集団の自由、個人の不自由

  かって哲学者エピクロスは、この世界はケノンとアトムでできていると主張。ケノンとはなにもない空間。そこにアトムという粒が落下しているというのだ。すべては落下中というのだが、まっすぐに落ちているのはただの物質。人間の自由意志は、微妙にずれながら落下しているというのだ。このずれが集まって、予測不能な人間の自由意志になると考えていた。

  さて、人の心は見えない、物陰はがんばれば見える。ブラックホールは光を吸収しているゆえに見えない。可視的なものと不可視なものがあり、不可視名モノブラックホールであり、心であるといった。すべての物体はこのブラックホールに吸いこまれている。ところが、人間の心も含め、宇宙のブラックホール、惑星の引力などなどが影響しあって、私の心は直線的に落下しない。肉体が自分の心、つまりはマイブラックホールに直線に落ちるのでなく、他のブラックホール、心、惑星の引力の影響によって軌跡がずれるのである。ここに人間の自由意志が発生する。ただそこに豆腐があるだけなら、おそらく、ブラックホールに直線的落下し、収縮して終わりである。ところが、他のブラックホールである人の心などの影響によって、直線が曲線にゆがむのである。宇宙のあらゆる心、ブラックホールが遠くから影響を与え、予想だにしない軌跡をえがいて落下する。これが自由意志である。だからここでいいたいのは、私が宇宙、ジャングルでひとりぼっちでいることが自由なのではない。むしろ、これはただ惰性態、つまりは、物体になりさがり直線落下するのみだ。ところが、星座占いが個人への星の影響を考える様に、宇宙のブラックホールだの、人の心ブラックホールのさまざまな影響あってこそ、自由な存在になれるのだ。つまり、ひとはひとに見られるという対他存在によって、軌跡を変えられ、自由なふるまいができるようになる。人の輪は制限、規約があっておよそ、自由とは真反対のように思えるが、その実、人との対面、対他存在によって、互いの引力の複雑な影響力で自由を勝ち取るのである。個人が自由であり、集団は必然ではなく、集団にこそ自由を求める後期サルトルの哲学、弁証法的理性批判もまた、このことから納得できるようになる。
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仙人養成講座 哲風呂 主意主義と実践的惰性態へ

主意主義と実践的惰性態についてである。いきなり、足の裏をみせつけて、この紋所が目に入らぬか、と九官鳥にむかって言い放つ。九官鳥は首をかしげ、わけがわからなくなってパニック状態に陥っている。ヒットエンドランだ、とコーチがサインを出す。ジェスチャーで表現している。一塁ランナーは二塁に走るのが世の常識であるが、ベンチにむかって涙しながら走るランナーは非常識極まりない。まして、実家にむかって走り、コタツに入ってねこのたまちゃんとスキンシップをはかっていやがる。このように人間の行動、動きは予想できない。自由意志で動いてもらうのは、ちょっと予想できないから慎んでください、と添乗員から言われる。すみません、と言いながら、こうべをたれて、たれすぎるほどにたれて、添乗員の靴紐を食べちゃう。こんなふうに、自由意志で行動してしまう人間だが、そこには必然的な法則のみじんも感じられない。そこで今回は、人間の自由意志と社会の制度について、真剣におしぼりでブラジャーの形を作りながらお話していきたい所存だ。

  主意主義の哲学についてモノ申す。主意主義と対立するのが主知主義である。間接技の鬼VS生クリーム作りの職人、というような対決の構図がここにはある。主意主義とは、人間のいくそ、よいしょ、どっこいっしょという気合、意気込みこそがナンバーワンだ、という考えだ。なせばなる、といいながら公園のハトを追いかけるボディガード。要人を介護するのが仕事なのに、ハトをおいかけているひまがあるのだろうか。そもそも、気合で捕まえるしかない。あんなに口のなかがねばついているエイリアン。あくびするのにも、かなりの気合が必要である。あくびするのに、かなりの労力である。どんなふうにあくびするかと頭でかんがえるのではない。これでは知性になってしまう。
知性ですべてを解決してやるとあたまでっかちな博士は考える。知性ナンバーワンと考えるのが主知主義である。

  主意主義は大きく二つに分類される。局部的主意主義と全面的主意主義である。虫に指されたり、駄菓子屋のばあさんに血すわれたりすると、あぷるす山脈のようにはれあがり、かゆみを我慢できなくなる。たいてい、局部的に痒くなるのだ。全身痒くて、地面にからだをこすりつけている男を発見。釣り人は糸みみずだと思いこみ、拾い上げる。あぶない、謎の素性の知れぬ男。局部的主意主義は全部が意志の力ではないという。えいやーっとき合いをいれて、バーベルをかみつく。どういう噛み付き方をするかは頭で考えている。たしかに、意志はあるが、少なくとも、学問というものは頭で、知性で考えぬくものだ。これに対して、全部が意志によって作られた、という大胆な哲学もある。これが全面的主意主義である。意志の力でまきつかれた金魚のふんから脱出するという映画のワンシーンだけに限らない。この世のすべて、世界、宇宙は意志によってつくっちゃった。存在しているものには秩序、ルールがある。こんな存在秩序もよいしょというすさまじい気合で周囲のひとたちは唖然と見つめるなかつくっちゃったのだ。哲学者ショーペンハウワー、ニーチェなどがこれに属する。ショーペンハウワーは意志と表象の世界を強調する。まず、世界、宇宙には強烈な意志がある。しかも、どこにむかっているのか、フォームも、形も、計画すらないただの力だ。ふつうにマラソンでゴールをめざす。ちゃんとソナーで目標物を確認して、ひた走る。方向性も目的もないただの力。これを生への盲目的意志と名づける。ただひたすら生きてやるぞ、という強い意志である。このうえに機動戦士の鼻の穴にフィットして操縦するような感じで、表象というものがある。表象とは要するに、イメージのこと。われわれの住むこの世界はほとんどがイメージ、表象である。まちがいなく、行く手を阻む大型ス−パー。たしかにリアルに存在しているのだが、スーパーの裏側は見えないし、どんな食材が特価であり、主婦たちが目の色をかえて群がっているかは想像の域をでない。友人と遊んでいるときも、友人ののどちんこが見えない。だから想像するしかない。このように、ほとんどが想像物、表象なのだ。ニーチェ哲学では、この世界はナンセンスであることが歯を食いしばって強調される。無意味だというのだ。たしかに、ひとり部屋で自分のおならを匂うときもあれば、にぎりっぺの真相を確認すべく実験するときだってある。ところが、これによって将来的に役にたつのか、老後の安定した生活を手に入れられるかは定かではない。善悪の判断にこまっちゃうときもある。老人にシルバーシートを譲るにしても、足腰を鍛え上げるためのはむしろフィットネスクラブ会員券を譲ったほうが良いかもしれない。善悪、真偽というのも、ひとや状況によって相対的であり、ぜってい正しいものはない。よって、この世界は絶対的な価値がなく、なににしがみついて生きていけば良いかわからず、当惑する右往左往ダンスをおどりたくなる。右往左往しすぎて、足のうらにはタコができ、そのすばらしいタコに魅了されたアラブの大富豪がこれを高額で買い取ってくれれば問題はない。すべて無価値であり、この世界は無だ、というのがニーチェのいうニヒリズムの暗い時代である。すると、今後どうすればよいのか。自分の意志で新しい価値を作るしかないというのだ。そもそも、隣にはやまちゃんがいるが、やまちゃんの鼻をお借りしてカレー臭を匂っているのではない。やまちゃんの視点からモノをみれない、匂えない。ピノキオの鼻でにおったら、おそらく、鼻が長いから匂いを感じるまで3分はかかる。すべえのひと自分の視点からしかものを認識できないし、まして、どっちが正しい見方だとかを比較できやしない。これが究極の遠近法である。自分の視点からしか価値はないのだから、自分はゼロから作るしかないのだ。

   さて、次のお話は哲学者サルトルの実践的惰性態である。惰性で斜面を滑るスキーヤー。半目状態でやるきなし。パンチを間一髪で避け、たまたま、その先にアイスクリームがあったので惰性で舐めてしまった。サッカーのゴール手前で足がもつれた。惰性座りこみ、さらには惰性で横になって昼ね寝。一切、自分自身、力をくわえることなく身をゆだねて滑っているだけ。惰性でオリンピックの金メダルはゲットできない。いちに努力、ニにアイスクリームである。アイスクリームが食いたい季節がやってきた。200海里を越えてアイスクリームを購入、ダホされちゃう。ダホしないでくれ、と耳元で叫んでみる。とにかく、われわれはよいしょと実践するのはいいが、ときに惰性的に、マンネリ化し、習慣になってしまうことがある。刺激のない生活を送り、奥さんはとうとうそばに七味唐辛子をかけた。刺激が欲しいとおもう今日この頃。鼻毛を抜いて気合を入れる力士。がんばれ、指相撲と尻相撲の異種格闘技線だ。

  哲学者サルトルは当初、人間は徹底的に自由だと主張。人間の意識は対自存在だといい、モノは即自存在だといった。私は私自身を意識し、社会のまどが空いていたら、すかさず、相手の目にアイマスクさせる。意識している自分は自分自身を意識している。意識されちゃった自分と意識している自分に分裂だ。これが対自存在である。すると、ちょっとまえの自分ではまはやない。ちょっと先の自分ではいまだない。私は私だ、と主張したいし、私はコックだと主張したい。それでも刻一刻、自分は自分であらずものに変身しまくっている。対自存在とは固定されずに徹底的に変化し、とらえどころがない。つかめないアメーバのようなやつだ。手摺がついているアメーバなんかいない。これに対して、路上に転がる弾道ミサイル。ミサイルはミサイルである、というように自分自身と一致している。固定されているのだ。

   私は手足をのばしながらしゃがんで、おならをに2連発しながらいろんなものを製作する。電柱、道路、家、とさまざまなものが実践によって造られるがそれらは、道路は道路である、電柱は電柱である、という固定された即自存在である。そして、なんとなく電柱やりつづけている。つまり、即自存在とはいいかげんな惰性、習慣なのである。こんな惰性的なもんをしっかりとした意味あるものに高めたい。電柱、道路、看板、という即自存在の全体をつくるだけでなく、全体を一まとまりにして、掴み取ることで、惰性的ではなくなるという。そもそも、自分の心内を外に表現しようと、鉄板のうえでアイスホッケーをしたり盆踊りを踊る。こうやって、自己表現するのだが、そんな自分もまわりから固定され、盆踊りを踊るクールなやつ、というようにお人形さんのように固定されてしまうのだ。これが疎外感である。自分は即自存在にされて、のけ者にされる。これを防ぐためには、社会として一致団結して、全体をつかみとればいいのだ。山田君、斎藤君に、野球場、卵に、スコップ。いろんなものをまとめて全体をつかめば惰性ではなくなるというのだ。当初、人間は一人ぼっちで徹底的に自由な存在だと言っていたが、サルトルの後期の著作、弁証法的理性批判では、このような団結による全体をゲットが強調されるのだ。


   まとめ

  存在の科学  点的時間論 集団の自由、個人の不自由

  かって哲学者エピクロスは、この世界はケノンとアトムでできていると主張。ケノンとはなにもない空間。そこにアトムという粒が落下しているというのだ。すべては落下中というのだが、まっすぐに落ちているのはただの物質。人間の自由意志は、微妙にずれながら落下しているというのだ。このずれが集まって、予測不能な人間の自由意志になると考えていた。

  さて、人の心は見えない、物陰はがんばれば見える。ブラックホールは光を吸収しているゆえに見えない。可視的なものと不可視なものがあり、不可視名モノブラックホールであり、心であるといった。すべての物体はこのブラックホールに吸いこまれている。ところが、人間の心も含め、宇宙のブラックホール、惑星の引力などなどが影響しあって、私の心は直線的に落下しない。肉体が自分の心、つまりはマイブラックホールに直線に落ちるのでなく、他のブラックホール、心、惑星の引力の影響によって軌跡がずれるのである。ここに人間の自由意志が発生する。ただそこに豆腐があるだけなら、おそらく、ブラックホールに直線的落下し、収縮して終わりである。ところが、他のブラックホールである人の心などの影響によって、直線が曲線にゆがむのである。宇宙のあらゆる心、ブラックホールが遠くから影響を与え、予想だにしない軌跡をえがいて落下する。これが自由意志である。だからここでいいたいのは、私が宇宙、ジャングルでひとりぼっちでいることが自由なのではない。むしろ、これはただ惰性態、つまりは、物体になりさがり直線落下するのみだ。ところが、星座占いが個人への星の影響を考える様に、宇宙のブラックホールだの、人の心ブラックホールのさまざまな影響あってこそ、自由な存在になれるのだ。つまり、ひとはひとに見られるという対他存在によって、軌跡を変えられ、自由なふるまいができるようになる。人の輪は制限、規約があっておよそ、自由とは真反対のように思えるが、その実、人との対面、対他存在によって、互いの引力の複雑な影響力で自由を勝ち取るのである。個人が自由であり、集団は必然ではなく、集団にこそ自由を求める後期サルトルの哲学、弁証法的理性批判もまた、このことから納得できるようになる。
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