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2008年05月15日
存在の科学 点的時間論 知覚とは私自身であり、ブラックホールである 私が知覚しているのでなく、知覚しているから私なのだ
存在の科学 点的時間論 知覚とは私自身であり、ブラックホールである 私が知覚しているのでなく、知覚しているから私なのだ
そもそも、なにかを感じる、知覚するとはどういうことか。なにものかの影が見える。だれだ、クセモノ、名を名乗れ、と叫んでみる。名乗り口上によると、ミドルネームが複雑な東北出身の相撲取りらしい。影を知覚するのはいいが、知覚し、感覚しているのはまちがいなく私自身である。私がまずいる。その後に、知覚モードに切り替わり、周囲の情報をキャッチするのだろうか。目をとじているときでさえ、イメージがあたまのなかにわく。イメージを感じ、知覚している。つまり、私が存在しているとは、生きていることであり、知覚し、感覚していることなのだ。何も感じていないときはない。なにかを感じ、知覚している。
知覚、感覚、私の存在とはイコールで結ばれている。せっかくイコールのヒタイのしわだったのに、年老いて漢数字の三のしわになってしまった。理系から文系へと進路を変えたのだ。足し算が得意で引き算は苦手だった。とにかく、以前にお話したが、私の心、他人の心はブラックホール。光を吸収し、あらゆる物質を収縮させる特異点である。光を吸収するゆえに、見えない、不可視なのだ。心もブラックホールも見ない。物質の凝縮によって、いろんな情報が濃縮され重なる。知覚だって、いろんな感覚情報がかさなりあって濃縮されたもの。記憶、イメージだって、すべてが情報の重なり融合、さらには濃縮である。物質、情報を濃縮することが知覚、記憶、イメージ、はたは認識である。ブラックホールは無限に体積を小さくしつつ、質量は増大し、さらにどんどん物質を吸引する。無の点になって、そこにすべてがつまって重なり融合している。この無の点こそが知覚であり、私自身である。この無の点はブラックホールで引力をもつ。他のブラックホールである他人からも吸い寄せられ、吸い寄せる。こうやって、宇宙全体のさまざまな引力の駆け引きが自由な活動、自由意志、自由な心の働きを生み出す。
そもそも、なにかを感じる、知覚するとはどういうことか。なにものかの影が見える。だれだ、クセモノ、名を名乗れ、と叫んでみる。名乗り口上によると、ミドルネームが複雑な東北出身の相撲取りらしい。影を知覚するのはいいが、知覚し、感覚しているのはまちがいなく私自身である。私がまずいる。その後に、知覚モードに切り替わり、周囲の情報をキャッチするのだろうか。目をとじているときでさえ、イメージがあたまのなかにわく。イメージを感じ、知覚している。つまり、私が存在しているとは、生きていることであり、知覚し、感覚していることなのだ。何も感じていないときはない。なにかを感じ、知覚している。
知覚、感覚、私の存在とはイコールで結ばれている。せっかくイコールのヒタイのしわだったのに、年老いて漢数字の三のしわになってしまった。理系から文系へと進路を変えたのだ。足し算が得意で引き算は苦手だった。とにかく、以前にお話したが、私の心、他人の心はブラックホール。光を吸収し、あらゆる物質を収縮させる特異点である。光を吸収するゆえに、見えない、不可視なのだ。心もブラックホールも見ない。物質の凝縮によって、いろんな情報が濃縮され重なる。知覚だって、いろんな感覚情報がかさなりあって濃縮されたもの。記憶、イメージだって、すべてが情報の重なり融合、さらには濃縮である。物質、情報を濃縮することが知覚、記憶、イメージ、はたは認識である。ブラックホールは無限に体積を小さくしつつ、質量は増大し、さらにどんどん物質を吸引する。無の点になって、そこにすべてがつまって重なり融合している。この無の点こそが知覚であり、私自身である。この無の点はブラックホールで引力をもつ。他のブラックホールである他人からも吸い寄せられ、吸い寄せる。こうやって、宇宙全体のさまざまな引力の駆け引きが自由な活動、自由意志、自由な心の働きを生み出す。
仙人養成講座 哲風呂 知覚へ
知覚についてである。私はいつもなにかを感じて生きている。背骨にそって羽虫が歩いている。性感帯を徘徊中であるが、そんなときのけぞってしまい、のけぞったついでにリンボーダンスでバーをくぐる。耳元でラッパ吹かれて、背筋がぞくぞくとする。感じちゃうのである。私は山登りのとき、美しい景色をながめる。前を歩くじいさんの美しい白髪、おばちゃんのお茶の缶のような胴体、山頂を極めて、眼下にひろがる自分の足のうらをながめる。美しいタコができあがっている。いったい山登りに行ってなにを見てきたのか。とにかく、見る、聞く、匂う。いろんなものを見聞だ。ひとはなにかを感じ、フィーリングのなかでいきている。役所の事務的手続きだってなによりもフィーリングが大切だ。肌と肌がふれあい、アカが擦れ落ちること。フィーリング命、フィーリングバンザイ、と暴走族は横笛を吹く気ながら競歩やっている。とにかく、感じるとは一体だれが感じ、そもそも、感じること、知覚することとはなにを意味するのか。
知覚とはなんであろうか。あらためて、えりをただしてここで問うてみたい。古代ギリシャ哲学プラトンはなにかを知覚するとは、判断しちゃっていることだという。おもわず、かんがえちゃっているのである。おおげさに足をくんで、太ももの間に汗をびっしょりをかきながら考える人は眠っている。そんなおおげさに考え、判断しているのでなく、ぱっと見で、あれは人間だの、海がめをいじめている町のギャング団だの、即座にしかもふつうに判断しているというのだ。見るとか、聞く、というがなにを見ているのか、大さじ30杯くらいの判断が混ざっているのである。これに対して弟子のアリストテレスは批判する。知覚、すなわち、なにかを感じているとは、まったくもって受身、むこうから一方的にやってくるもの。受動的だというのだ。キャッチャーはしゃがんで卵を産んでいるのでなく、ピッチャーが投げ、放棄した雑務をしっかりとミットで受けとめている。キャッチャーはボールをもらいに、わざわざ、三千里離れたピッチャーのもとに遠征したりはしない。じーっと身構えてボールが飛びこむのを待ちつづけている。知覚とはそうやって、やってくるものだというのだ。
近代に入ると、イギリス経験主義者が登場。イギリスの兵隊さんが行進しながら、鼻の穴からやってきた。なんていう鼻の病なのか、耳鼻科の権威をもってしても首をひねるばかり。なにゆえ、首をひねっているのかを調査したところ、どうやらラジオ体操をやっていたそうだ。とにかく、イギリス経験主義といったら、なんといっても哲学者ロックとヒュームである。知覚とは観念だと大胆不敵に言い放つ。観念とは要するにイメージのことである。目でじろじろとカップルがからみあって間接技をかけているのを見る。または、夜は眠くなって、南極で冬眠する。おっぱい星人に食べられる恐ろしい夢をみる。現実に目で見ているのも、夢を見ているのも、ただ、想像しているだけのものも、すべてはイメージ、自分が感じ取ったままであるという。それが現実にあってもなくても関係ねんだ、てやんでー調で、すべては自分が感じているイメージだというのだ。知覚と観念、イメージの違いが、くっせーぬかみそとライトな臭さみのぬかみその違いであって、程度の違いにすぎないと主張するのだ。
現代においてはマッハの感覚主義がこれに近い。自分が感じ取った感覚データのみだという。自分の外にだんご30人姉妹がたむろしていると思っているだけで、その判断が間違っていたら無駄なエネルギーを費やしてしまった自分に悔いが残る。そこで、判断しないでありのまま感じたままをそのまま言えば良い、ということになる。赤くて、甘いチェリーが集団で襲いかかってくる、というのでなく、赤くて甘いという感覚データが存在していると味もそっけなくいえばいいのだ。ところが、マッハの感覚主義にせよ、ヒュームの哲学にせよ、ちょっと極端すぎて非常識である。非常識な人だわ、と近所のおばちゃんから白い目みられ、白い指でつつかれ、焼かれ、食べられてしまいかねない。常識的ではないから、あきらかに、面接試験に落ちてしまう。パラシュートが開いてねぎ畑のうえに着陸である。たまたま、空から降ってきた某国の宇宙船。着陸がおそまつだと世間話をし、互いに心うちとけ、こんど、100円均一のまえで落ち合うことを約束。非常識では社会人としてはよろしくない。そこで哲学者リードは常識哲学を提唱する。私は一匹のうなぎをみつめている。告白するか思い悩んでいる。食べさせてください、きっと幸せにします、と告白である。うなぎを見た瞬間、黒っぽい長細いなにかだと知覚。しばし、考えこんでうなぎだと判決をくだしているだろうか。即断しているのである。間髪いれず、うなぎだ、っと知覚している。知覚とはそのなかに判断が内蔵されていると考えるのである。目でみるだけでなく、判断し、鼻で匂いながら判断している。そして、どんなひとでも、人類共通の常識的な判断をあらかじめ持っているという。これを共通性質、コモンセンスとよんだ。
さて、いままさに知覚しているエレガントなおっぱいは実在するのだ。知覚したまま、モノは実在する。素朴実在論である。たまたま、友人はくしゃみがでそうな顔がしばし3時間続いている。ミサイルの先端で鼻の穴をつっつけば解決できる問題だ。かれの中途半端な表情は本来のかれではないといっても無駄だ。私がみているままにかれは実在している。ところが、錯覚論法という考えがある。ひとはときにうっかり錯覚に陥る。ばあさんを漬物と間違えたり、大きな桃がどんぶらこと拾い上げたところ、じいさんのケツだった。平行線かと思ったらそーめんだったなどなど。錯覚と正しい知覚の違いはどこにあるのか。いろんなものを感じ取り、まずは情報収集である。これをあたまのなかで推論する。しかも、自分の外には吹出物いっぱいの情けない表情をした腹話術の人形がある。人形か、人間か、はたまた、がけから這い上がってきた小便臭漂う糞ガキだろうか。物理的になにかが存在し、これを知覚し、ときに錯覚し、推論する。心のなかに全体的なイメージを作るからこれは表象主義といわれる。また、自分の外側にある物理的なカタマリがあるから、小便臭はするか、カレー臭も入り混じっているは、たいへんなことになっている。知覚がうまれるには、それなりの原因となるなにかが物理的に存在してやがる。これが知覚の因果説である。
感覚といったら、くすぐったい、いたい、まぶしいなど単品である。知覚とは美しい花を知覚するというように、もっと全体的なものだ。花を知覚しているということは、これに対応している何者かが自分のそとにどっかーんと物理的に存在していると考えられる。すると、単品の感覚はいったいなんなのか。赤い、臭い、どん臭い、しょっぱいに対応する物理的なカタマリはないのだろうか。哲学者アームストロングは物理主義の観点から主張する。赤い、という感覚に対応する物理的な大事件がある。赤いといのは光の波動、波である。匂いという感覚も、匂いの粒が鼻に進入し、悪さしているのだ。
もうひとつ忘れてはいけないことがある。哲学者チザムの知覚の副詞説である。副詞といったら、国語、英語の時間に耳にタコができるほど耳元で先生に叫ばれた。なんでそんなことをしたのか、理由はわからない。副詞とは、なんとかっぽい、なんとか的という言い方するやつだ。赤い、というのでなく、赤っぽい、赤的である。丸いというのも、丸っぽい、丸的ということ。つまり、知覚は全部、副詞であり、これらを組み合わせて全体を作るといわんとしているのだ。
また、現象学においては、私と私以外のもの、つまり、主観と客観という二つのコマを前提にしない。そもそも、人間の意識は嫌でもなにかを意識し、どこかを向いている。つまり、矢印であり、方向性をもっているのだ。これを意識の志向性という。さらに、メルロポンティにおいては、からだを動かすことによって、モノの見え方がかわることに気がつく。さっきまで、顔面が見えていたのに、驚くことに、勇気をだしてしゃがんだら股間が見える。自分のからだを動かしつつ、モノを見ちゃう。私の身体も見ているものも、結局はっきりした境界はなく、動きながら、くっついたり離れたりしながら知覚しているのだ。からだを動かしつつ物を見る。身体的キネステーゼという。
まとめ
存在の科学 点的時間論 知覚とは私自身であり、ブラックホールである 私が知覚しているのでなく、知覚しているから私なのだ
そもそも、なにかを感じる、知覚するとはどういうことか。なにものかの影が見える。だれだ、クセモノ、名を名乗れ、と叫んでみる。名乗り口上によると、ミドルネームが複雑な東北出身の相撲取りらしい。影を知覚するのはいいが、知覚し、感覚しているのはまちがいなく私自身である。私がまずいる。その後に、知覚モードに切り替わり、周囲の情報をキャッチするのだろうか。目をとじているときでさえ、イメージがあたまのなかにわく。イメージを感じ、知覚している。つまり、私が存在しているとは、生きていることであり、知覚し、感覚していることなのだ。何も感じていないときはない。なにかを感じ、知覚している。
知覚、感覚、私の存在とはイコールで結ばれている。せっかくイコールのヒタイのしわだったのに、年老いて漢数字の三のしわになってしまった。理系から文系へと進路を変えたのだ。足し算が得意で引き算は苦手だった。とにかく、以前にお話したが、私の心、他人の心はブラックホール。光を吸収し、あらゆる物質を収縮させる特異点である。光を吸収するゆえに、見えない、不可視なのだ。心もブラックホールも見ない。物質の凝縮によって、いろんな情報が濃縮され重なる。知覚だって、いろんな感覚情報がかさなりあって濃縮されたもの。記憶、イメージだって、すべてが情報の重なり融合、さらには濃縮である。物質、情報を濃縮することが知覚、記憶、イメージ、はたは認識である。ブラックホールは無限に体積を小さくしつつ、質量は増大し、さらにどんどん物質を吸引する。無の点になって、そこにすべてがつまって重なり融合している。この無の点こそが知覚であり、私自身である。この無の点はブラックホールで引力をもつ。他のブラックホールである他人からも吸い寄せられ、吸い寄せる。こうやって、宇宙全体のさまざまな引力の駆け引きが自由な活動、自由意志、自由な心の働きを生み出す。
知覚とはなんであろうか。あらためて、えりをただしてここで問うてみたい。古代ギリシャ哲学プラトンはなにかを知覚するとは、判断しちゃっていることだという。おもわず、かんがえちゃっているのである。おおげさに足をくんで、太ももの間に汗をびっしょりをかきながら考える人は眠っている。そんなおおげさに考え、判断しているのでなく、ぱっと見で、あれは人間だの、海がめをいじめている町のギャング団だの、即座にしかもふつうに判断しているというのだ。見るとか、聞く、というがなにを見ているのか、大さじ30杯くらいの判断が混ざっているのである。これに対して弟子のアリストテレスは批判する。知覚、すなわち、なにかを感じているとは、まったくもって受身、むこうから一方的にやってくるもの。受動的だというのだ。キャッチャーはしゃがんで卵を産んでいるのでなく、ピッチャーが投げ、放棄した雑務をしっかりとミットで受けとめている。キャッチャーはボールをもらいに、わざわざ、三千里離れたピッチャーのもとに遠征したりはしない。じーっと身構えてボールが飛びこむのを待ちつづけている。知覚とはそうやって、やってくるものだというのだ。
近代に入ると、イギリス経験主義者が登場。イギリスの兵隊さんが行進しながら、鼻の穴からやってきた。なんていう鼻の病なのか、耳鼻科の権威をもってしても首をひねるばかり。なにゆえ、首をひねっているのかを調査したところ、どうやらラジオ体操をやっていたそうだ。とにかく、イギリス経験主義といったら、なんといっても哲学者ロックとヒュームである。知覚とは観念だと大胆不敵に言い放つ。観念とは要するにイメージのことである。目でじろじろとカップルがからみあって間接技をかけているのを見る。または、夜は眠くなって、南極で冬眠する。おっぱい星人に食べられる恐ろしい夢をみる。現実に目で見ているのも、夢を見ているのも、ただ、想像しているだけのものも、すべてはイメージ、自分が感じ取ったままであるという。それが現実にあってもなくても関係ねんだ、てやんでー調で、すべては自分が感じているイメージだというのだ。知覚と観念、イメージの違いが、くっせーぬかみそとライトな臭さみのぬかみその違いであって、程度の違いにすぎないと主張するのだ。
現代においてはマッハの感覚主義がこれに近い。自分が感じ取った感覚データのみだという。自分の外にだんご30人姉妹がたむろしていると思っているだけで、その判断が間違っていたら無駄なエネルギーを費やしてしまった自分に悔いが残る。そこで、判断しないでありのまま感じたままをそのまま言えば良い、ということになる。赤くて、甘いチェリーが集団で襲いかかってくる、というのでなく、赤くて甘いという感覚データが存在していると味もそっけなくいえばいいのだ。ところが、マッハの感覚主義にせよ、ヒュームの哲学にせよ、ちょっと極端すぎて非常識である。非常識な人だわ、と近所のおばちゃんから白い目みられ、白い指でつつかれ、焼かれ、食べられてしまいかねない。常識的ではないから、あきらかに、面接試験に落ちてしまう。パラシュートが開いてねぎ畑のうえに着陸である。たまたま、空から降ってきた某国の宇宙船。着陸がおそまつだと世間話をし、互いに心うちとけ、こんど、100円均一のまえで落ち合うことを約束。非常識では社会人としてはよろしくない。そこで哲学者リードは常識哲学を提唱する。私は一匹のうなぎをみつめている。告白するか思い悩んでいる。食べさせてください、きっと幸せにします、と告白である。うなぎを見た瞬間、黒っぽい長細いなにかだと知覚。しばし、考えこんでうなぎだと判決をくだしているだろうか。即断しているのである。間髪いれず、うなぎだ、っと知覚している。知覚とはそのなかに判断が内蔵されていると考えるのである。目でみるだけでなく、判断し、鼻で匂いながら判断している。そして、どんなひとでも、人類共通の常識的な判断をあらかじめ持っているという。これを共通性質、コモンセンスとよんだ。
さて、いままさに知覚しているエレガントなおっぱいは実在するのだ。知覚したまま、モノは実在する。素朴実在論である。たまたま、友人はくしゃみがでそうな顔がしばし3時間続いている。ミサイルの先端で鼻の穴をつっつけば解決できる問題だ。かれの中途半端な表情は本来のかれではないといっても無駄だ。私がみているままにかれは実在している。ところが、錯覚論法という考えがある。ひとはときにうっかり錯覚に陥る。ばあさんを漬物と間違えたり、大きな桃がどんぶらこと拾い上げたところ、じいさんのケツだった。平行線かと思ったらそーめんだったなどなど。錯覚と正しい知覚の違いはどこにあるのか。いろんなものを感じ取り、まずは情報収集である。これをあたまのなかで推論する。しかも、自分の外には吹出物いっぱいの情けない表情をした腹話術の人形がある。人形か、人間か、はたまた、がけから這い上がってきた小便臭漂う糞ガキだろうか。物理的になにかが存在し、これを知覚し、ときに錯覚し、推論する。心のなかに全体的なイメージを作るからこれは表象主義といわれる。また、自分の外側にある物理的なカタマリがあるから、小便臭はするか、カレー臭も入り混じっているは、たいへんなことになっている。知覚がうまれるには、それなりの原因となるなにかが物理的に存在してやがる。これが知覚の因果説である。
感覚といったら、くすぐったい、いたい、まぶしいなど単品である。知覚とは美しい花を知覚するというように、もっと全体的なものだ。花を知覚しているということは、これに対応している何者かが自分のそとにどっかーんと物理的に存在していると考えられる。すると、単品の感覚はいったいなんなのか。赤い、臭い、どん臭い、しょっぱいに対応する物理的なカタマリはないのだろうか。哲学者アームストロングは物理主義の観点から主張する。赤い、という感覚に対応する物理的な大事件がある。赤いといのは光の波動、波である。匂いという感覚も、匂いの粒が鼻に進入し、悪さしているのだ。
もうひとつ忘れてはいけないことがある。哲学者チザムの知覚の副詞説である。副詞といったら、国語、英語の時間に耳にタコができるほど耳元で先生に叫ばれた。なんでそんなことをしたのか、理由はわからない。副詞とは、なんとかっぽい、なんとか的という言い方するやつだ。赤い、というのでなく、赤っぽい、赤的である。丸いというのも、丸っぽい、丸的ということ。つまり、知覚は全部、副詞であり、これらを組み合わせて全体を作るといわんとしているのだ。
また、現象学においては、私と私以外のもの、つまり、主観と客観という二つのコマを前提にしない。そもそも、人間の意識は嫌でもなにかを意識し、どこかを向いている。つまり、矢印であり、方向性をもっているのだ。これを意識の志向性という。さらに、メルロポンティにおいては、からだを動かすことによって、モノの見え方がかわることに気がつく。さっきまで、顔面が見えていたのに、驚くことに、勇気をだしてしゃがんだら股間が見える。自分のからだを動かしつつ、モノを見ちゃう。私の身体も見ているものも、結局はっきりした境界はなく、動きながら、くっついたり離れたりしながら知覚しているのだ。からだを動かしつつ物を見る。身体的キネステーゼという。
まとめ
存在の科学 点的時間論 知覚とは私自身であり、ブラックホールである 私が知覚しているのでなく、知覚しているから私なのだ
そもそも、なにかを感じる、知覚するとはどういうことか。なにものかの影が見える。だれだ、クセモノ、名を名乗れ、と叫んでみる。名乗り口上によると、ミドルネームが複雑な東北出身の相撲取りらしい。影を知覚するのはいいが、知覚し、感覚しているのはまちがいなく私自身である。私がまずいる。その後に、知覚モードに切り替わり、周囲の情報をキャッチするのだろうか。目をとじているときでさえ、イメージがあたまのなかにわく。イメージを感じ、知覚している。つまり、私が存在しているとは、生きていることであり、知覚し、感覚していることなのだ。何も感じていないときはない。なにかを感じ、知覚している。
知覚、感覚、私の存在とはイコールで結ばれている。せっかくイコールのヒタイのしわだったのに、年老いて漢数字の三のしわになってしまった。理系から文系へと進路を変えたのだ。足し算が得意で引き算は苦手だった。とにかく、以前にお話したが、私の心、他人の心はブラックホール。光を吸収し、あらゆる物質を収縮させる特異点である。光を吸収するゆえに、見えない、不可視なのだ。心もブラックホールも見ない。物質の凝縮によって、いろんな情報が濃縮され重なる。知覚だって、いろんな感覚情報がかさなりあって濃縮されたもの。記憶、イメージだって、すべてが情報の重なり融合、さらには濃縮である。物質、情報を濃縮することが知覚、記憶、イメージ、はたは認識である。ブラックホールは無限に体積を小さくしつつ、質量は増大し、さらにどんどん物質を吸引する。無の点になって、そこにすべてがつまって重なり融合している。この無の点こそが知覚であり、私自身である。この無の点はブラックホールで引力をもつ。他のブラックホールである他人からも吸い寄せられ、吸い寄せる。こうやって、宇宙全体のさまざまな引力の駆け引きが自由な活動、自由意志、自由な心の働きを生み出す。






