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2008年05月17日

宇宙人 まっしゅ (20080209)

posted by モノイイ ジョーカー at 18:05| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | まっしゅradio pod仙人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

存在の科学   他人とは私の自己意識が空間化されたもの  ホワイトホールとは他人である

存在の科学   他人とは私の自己意識が空間化されたもの  ホワイトホールとは他人である

  ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。

  さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。
  
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仙人養成講座 哲風呂 独我論、間主観性、そして、多元的現実へ

   独我論、間主観性、そして、多元的現実についである。私とは一体なにものなのか、と床屋にて、鏡にうつしだされた自分をみつめながら考える。床屋さんは聳え立つ私のあたまの向こうでなにやらたくらんでいる。床屋のよだれがたれた、間髪いれず、持ち前の反射神経でこれをかわす。少なくともデニ−ロ風な私とイタリアン風味の床屋さんが鏡にうつっている。私と私以外のものだ。私と他人はどことなくそっくりである。高級カウンターを通販で購入していてよかった。さっそく、このカウンターで床屋さんの腕、足の本数を数え始める。ボタンがスムーズに押せて、タコのできない。やはり、ヨーロッパ製はちがうな、と心に思いながら、驚愕の事実に直面する。とりあえず、ここでCMをいれて、前の状況がだぶるかたちで再度、カウントする。なんと、腕と足の本数が私といっしょではないか。なんで私と他人はここまでそっくりなのか。そもそも、なにゆえ、私がいて、他人がこの世に存在するのか。

  独我論についてである。単刀直入にいってしまうと、世界、宇宙で私はひとりぼっち。さびしくて、おもわず、笑みがこばれちゃう、というやつだ。さびしいときは、しくしくと大泣きするのが、昆虫としての礼儀ではないか。とにかく、世界にはいろんなひとたちがいる。白髪でフラメンコを踊る老婆。よく、テレビの後ろで目撃する。ゾウリをはいて、袴を着て、ごめんくださいを連呼する外国人。人間ピラミッドでポジションは一番下。それでいていつも四つ足で動きまわり、ピラミッドの崩壊を招いてしまいがちなみよちゃん。亀をみると、ひっくりかえすという習性をもつ、気持ちの良い志をもつさんちゃん。いろんなひとたちがいて、性別はおろか、顔かたち、体つき、性格だってみんなちがう。それなのに、こんな自分以外の他人たちはみんな私の意識の産物だ、だと独我論者はほえる。独我論といっても、おおきく二つのタイプがある。強烈でハードなタイプの独我論。もうひとつはやさしい初心者からゼロから挑戦できちゃうソフトな独我論だ。強烈なハードコアな独我論は存在論的独我論である。そもそも、この世界には私しかいない。なんてナル入っているのだろうか。目の前の亀の子たわしも、むき出しの不安全ピンも、骨折した爪楊枝、そのすべて物体はワタしの意識のなかのもの。ましていわんや、笑顔が恐ろしいぎょうそう、それでいて、怒り顔がチャーミングな隣人、他人の心、意識はもはや私のなかで作られたものだという。私しか存在しないという発想だ。これに対して、ソフトな独我論はちょっとちがう。亀の子たわしみたいな物体はたしかにあるかもしれない。ただし、他人の心、意識はどうも怪しいというのだ。独我論のそのほとんどがソフトタイプである。他人の心はたしかにどんなに目を凝らしても見えない。見えるのは曲がったネクタイと、ヒタイから飛び出したツノだけだ。よくよく考えたらヒタイの角はおかしい。だれだ、と叫んでみる。どうやらケンタウルスらしく、真相をしってほっと一息。お茶を飲もうとしたら、湯のみ茶碗から首長竜が顔をだす。おはようございます、と夕暮れ時に挨拶し、よくよく考えると挨拶を間違えたことに気がつく。

  哲学者ヴィトゲンシュタインは、私が見ているものこそが見られているものだ、と花火を見ながらそう訴えたのかは知らないが、名言をはいた。やまちゃんは花火を見ている、と国家安全保障局から電話が入る。やまちゃんはみているが、本当の意味で見ているのではない。本当に花火を見ているのは私だけである。見ていると確信できるのは私だけだ。当たり前すぎたので本当に申し訳ない。それでも、ここに独我論の真髄がつまっている。

  哲学者フッサールは当初、独我論になっていた。私の目の前にはディフェンスのやつらが進行を邪魔している。間隙を縫って相手の又下をくぐり、あたまを越え、空を飛んで、ゴール前でシュート。私の目のまえにひろがっているもの。巨大なビル群、羊たちの群れ、これらは皆、私自身が思いこんだものだというのだ。私はあたまで判断し、羊だと信じ込んでいるだけ。こんな思いこみは全部、留保して、とりあえず、確実なものを探そうというのだ。みつけた。私自身の存在、純粋自我こそが確実だというのだ。ちなみに、保留ボタンを押してエーデルワイスの曲をまじまじと聴いてしまう。

  さて、ここまで徹底して見つけ出した絶大な信頼と実績の私自身の存在。なんだか、世界に私だけ、という孤独な状況がやってきた。これを哲学的孤独という。さびしくてもうたまらない、とさけびながら素っ裸になって、ハワイアンダンスでも踊る。哀愁の漂うハワイアンダンス。吹雪のなかでハワイアンだ。孤独な一匹ハワイアンダンサーでもかまわない。他人がいないからさびしんのだ。そこで、他人の存在をどうにか証明したいと考える。しかも、モノが客観的に存在している、空飛ぶ冷奴をこの目でみたんだ、と元うそつき少年が語ってもだれも信じない。目撃者が増え、それを見た目玉の数が増えればより客観性がアップする。つまり、モノが客観的に存在しちゃっていることと、他人がいるということはどうも切っても切れない腐れ縁らしい。

  ここに間主観性理論が登場する。よくよく見ると、私と目の前のおじさんは形が似ている。背中のボタンを押すと、大きなあくびをし、あっぱいを小バエ立ちが取り囲みなにやら儀式をしている。私とそっくりなことに驚き、ひょっとしたら人形ではなく、私とおなじような温かい心をもっているのではないかと推測するのだ。これが類比化的統覚といわれるやり方だ。そして、さらに、対化という方法を使う。私は独り部屋でたまごを見つめている。ゆで卵にするか、卵焼きにするか思い悩み、焦燥しきったようすだ。たまごを一人みていると、どうしても視界には限界があるので、見えないところがたくさんあることに気がつく。また、たまごの向こう側にはセーヌ川が流れているかもしれない。ぎりぎり見える見えない、知っている知らない、聞こえる聞こえないの地平線に囲まれているのだ。そして、そんな地平線に他人は内蔵されていると考えるのだ。ひとりぼっちでいても、たまごを客観的に認識できちゃうのである。


  最後に哲学者シュッツの多元的現実というお話。現実をみるんだ、とおじさんがケツを丸だし。事件であり、れっきとした歴史的大事件である。冷たい現実から目をそらしてはいけない。目をそらしているのでなく、寄り目の練習をしているのである。鼻をそらしてはいけない。臭いものにふたをして不法投棄もあまりよろしくない。現実とは一見、たった一つしかないと思われがちだ。ところが、現実とはたくさんある、といったらどうだろうか。きっと別段驚かず、これってだれの毛といいながら、枕元の陰毛をゴミ箱に入れるだろう。私は久々に眉毛の無い男の毛穴を触る。おそろしく緊張感が漂っている。また、家でごろごろしながら床体操しながらくつろいでテレビをみる。こんなときは、意識はぶったるんでいる。意識の緊張感によって現実も変化する。また、エポケーといって、判断をどこまで停止するかという問題がある。ぼーっとなにも考えていない。判断しまくって、意識を集中するときは赤あげて白あげないで、足あげて、というゲームだ。このエポケー、判断停止の度合いによって現実は異なって現われる。自己意識の度合いも重要である。自分を意識しまくr、ルームミラーで鼻毛を押しこみ隠蔽する男。自意識が強い状態。また、我を忘れて、F1レースにのめりこんでいる男もいる。自意識の度合いによっても、いろんな現実が現われる。かってにヘンな想像上の生き物を空想し、かってに断りも無く鳥肌をたたせているときもあるが、空想だって現実だし、夢も、芸術の世界も現実だ。とりわけ、そのなかでももっとも特別視している現実がある。日常生活の現実である。スーパーで買い物をし、かぼちゃの陰に隠れたり、キュウリを手にしてモンスターと一戦交える、そんな日常生活こそが至高の現実だといわれる。なぜであろうか。この日常生活の現実でだけ、他人と肌をふれあい、つばをとばしてコミュニケーションをとれるからだ。

  まとめ


  存在の科学   他人とは私の自己意識が空間化されたもの  ホワイトホールとは他人である

  ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。

  さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。
  
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