固体とはなにか。固体とはカタマリだ。犬のふんが聳え立つ。あの頂点を極めるんだ。登山家は燃え上がるような闘志。消防車がかけつけるが、実際にはそんな炎がみえない。ひゅーまの目の奥が火事だ。消防隊に目に水ぶっかけられ、やてくれっと叫ぶ。せっかく、炎をつくったのに、けされたらもともこもない。固体とは単純明白へのへのもへじ、カタマリのことだ。こちらがかの有名な夏みかんの銅像でございます。銅像であるからには、銅でできているにちがいないと材料に詳しい学者はメガホンを口にあててつぶやく。そんつぶやきがいがない。トマスアクィナスという哲学者は考える。夏みかんの銅像をその銅像たらしめているものはないか。大量生産しても、まさにここにある夏みかんの銅像。こいつをこいつにしているのは、まさしくこの夏みかんをつくっている素材。たしかに、お隣の銅像も銅だが、違うものでできている。世界でたったひとつのこの銅像。なんだか愛らしくなってきて頬づり。堅くて頬を負傷。固体を固体たらしめているのは材料であって、形ではない。材料を質料といい、夏みかんの特徴ある形やら、エロチックなふくらみ具合などが形相だ。ドゥンススコトゥスはこれに反撥。このもの性だと叫ぶ。ソクラテスをソクラテスたらしめているのは、ソクラテスを作っている細胞とかではない。ソクラテスの設計図みたいな、いわば、形相だという。ソクラテス性っていう形相がどんな素材にもくっついたらソクラテスの誕生だ。
さて、これらとは真っ向から対立するのが、オッカムの唯名論だ。夏みかんを夏みかんたらしめている本質とか形相なんてどこにあるんだというであろう。ドラえもんなたらさっそうと後ろポケットから取り出してくれそうだが、そうはいかない。夏みかんっていうのはただの名前である。人間っていういろんなひとたちにあてはまっちゃう便利な概念、イデアがある。ところが、人間そのものなんて、お会いしたことがない。そういうことで、人間、夏みかんなどなどはただの名札にかかれた名前。あるのはこいつあいつである。この世でひとしかない固体があつまってたむろしているだけ。
イギリス経験論のロックは、固体という言葉をちょっとちがったニュアンスで使っていた。やさしく、ときに厳しく、トイレではまじめな山田さん。山田さんは個性をもっているし、そんな個性がみんなにすかれている。個性をもった人格、山田氏。山田氏こそが固体だというのだ。
現代にはいっちゃうと、ちょっと論理的で理屈っぽくなる。x、yという謎の記号の雨あられ。数学で使われる変数だ。論理学では変項といっても、なんでもこいっという入れ物だ。入れ物のxになにかが忍び込んだ瞬間、そいつは存在できちゃう。ここが存在との出会いの場所ということ、存在論的コミットメントと呼ぶ。クリプキというアメリカの哲学者。とにかく、意地っ張りで堅いやつが固体である。桃太郎という固体。たとえ火のなか、水のなか。シンクロナイトの選手に蹴られながらも水のなかでも桃太郎やっている。現実でも夢でも、おとぎばなしのなかに投げ込まれても桃太郎だ。あらゆる可能性の世界を貫いて桃太郎しているから、これ固定してこびりつきながらも桃太郎を指差しているやつということで、固定指示子と名づけた。そして、ストローソンという哲学者。なんといっても宇宙、神様、魂っていう壮大なものを考えたいが、どんなにがんばっても見えない。目をしかめてもチャールストンヘストンのような渋い顔つきになるだけである。なにかヒントになるものがころがっていないだろうか。クイズ番組だって、司会者にこびうればヒントの一つや二つはくれるもの。そこで、自然言語に着目する。ふつうにしゃべっている自然発生した言葉だ。ひょっとしたら宇宙の構造と同じかもと考える。主語と述語があって、そもそも、単語っていうのは頑固である。アラジンと魔法のランプにでてくるアラジン。アラジンはどんな状況でもアラジンだ。塩をかけたらシンデレラ姫にはならない。同じと定めたらそれがずーっと維持される。これが同定性である。宇宙もそんなかたまりがあつまった世界かもしれない。また、靴べらがいるから気をつけろ、とはいわない。最近のまんがでは、靴べら男なるキャラクターがあってもおかしくないが、基本的には靴べらがある、という言い方をする。やまちゃんがここにおいてある、とはいわない。やまちゃんは人間だからいるのだ。このように、文法上、どうも人物と物体を区別しているから、宇宙でも人間と物体はぜってい違うものだというのだ。
メルロポンティの次元性というお話をする。異次元世界へようそこ、といきなり、お茶屋さんは客を招き入れる。気味悪いからみんな逃げ出す。四次元空間という言葉を役所の手続き上の言葉に出てきた。次元といったら、ディメンションといって、いわば、単位のことだ。長さの単位はセンチメートル。センチメンタルはどれくらい感傷にすたっているかの単位。重さはグラムだ。なんだか、長さの次元も重さの次元も、すげ〜でかいようにみえてしまう。ところが、メルロポンティはすべてのちっぽけやつらも次元をもっているというのだ。次元とは、いわば、お皿のようなもので、そのうえにはいろんなやつらがたむろする。長さっていう次元は、長い鼻、長さのある一切のものを載せている。照明色という次元もある。いろんなものに光あてることができる。かかとにスポットライトでも当ててみる。ピンクのライトという次元だってある。ほうれん草にあててみると、なんだかアダルトなほうれん草にみえてくる。鉄分豊富なんて関係ない。鉄人はほうれん草の食いすぎによってできたなんていうウンチクは聞きたくない。とにかく、アダルトな雰囲気をかもしだす次元だ。メルロポンティはすべてのものが次元もっているというのだ。そこにあるほこりだって、立派な次元で、宇宙を載せている。とりわけ、身体という次元がすごい。いま、すっぽんエキスがすごい、という看板を見たことがあるが、身体というのは五感をもち、形、いろ、匂い、味といういろんなものをまとめる次元だ。さらには、自分はなにものにも所属しないくせに、すべてを載せている次元がある。これが次元の次元である世界、宇宙である。
まとめ
存在の科学 未来人脱出計画 固体と次元が同じもの すべてが個になる尽き果てることない世界
なにを固体とみなすか。とりあえず、やまちゃんという性格やさしい個人でもいい。斎藤君も個人である。ところが、なんとかれらは細胞にとってみれば、次元である。斎藤君の細胞は斎藤君という次元のなかにいきる。われわれがあたかも、三次元空間にいるような感じである。地球という次元にもわれわれは生息する。
さて、次元だって、固体だって、見かたによっていかようにもなる。こうなったら、こんな区別をとっぱらってみる。斎藤君と地球君、そして、きゅうりちゃん、宇宙くん。四次元さんと斎藤君の不倫関係。宇宙がでかくて、斎藤君が身長169センチだなんていう大きさも体重も関係ない。すべてを世の中に一つしかない個とみなすのである。徹底的にたった一つの固体。宇宙さんだってたったひとつの固体。そもそも、ほこりっていう固体は宇宙さんっていう固体に含まれているという包含関係を無視していいのだろうか。そうではないのだ。じつに、われわれはこの三次元空間やら宇宙をある意味はみ出している。平行世界だの、多数の時空面を前提とすれば、完璧にすっぽりと所属している全宇宙がないことに気がつく。
前回お話したが、インターネットや文化の崩壊が結局は個人主義にいきつくというお話をした。個人はさらにこまかくなり、自分と自分のあいだにも個の葛藤が発生する。このような事態をさけるには、まずは、自分が個の集まりだという意識をもつまえに、もっとたくさんの個が散在していることに気がついたほうがよい。銀河系と金魚と人間を同じ個として接する。個への分散はなにも、自己自身の分裂にいたるまでにまだ無数にあるはずだ。
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