まずは最初に現代における心の哲学からである。心はみえない、おっぱいにはさまれても、胸のうち、心に近づいたわけではない。心とはいったいなんなのか、そもそも、そんなものがあるかが問題である。ハートつかんだナイスガイはよくうるが、投網でつかまえたのか、それとも、素手で捕らえたのか。ナイスガイは誇らしくハートのゲット方法について語るが、これを聞いていた鼻の下の溝が深い少年。負け惜しみなのか、捕らえられた宇宙人は私がゲットした、と言い張った。ハートよりも、宇宙人ゲットのほうが、より偉人度が高いとまでいい添えた。心の哲学といってもいろんな考えがある。ひとつに機能主義である。これまたいたって簡単、老人でも操作できるシンプル鉄人28号。シンプルイズコンプレックスとはいわないが、いまのケータイ電話は多機能である。電話を分解してみると、複雑な電子回路発見、と隊員は叫ぶ。急いで欠けつけた川口隊長、お茶の缶に足とられ川に流される。一寸法師にひろわれて、おおかみ少年ならぬ一寸少年として育てられる。複雑な電子回路やスピーカーといったパーツが連動しあって、互いに原因と結果の機械的な連鎖。いわゆるボタン押すと光るシステム。ボタン押したのが原因、光ったのは結果、というようなただの因果律。じつに、目的なんてない。脳の働きが原因で、小鼻が動いたのは結果。これではつまらない。ひとはやはり目的意識もっている。マラソン選手はおされてゴールにむかうのでなく、ゴールしてやるという目的を掲げながら、ついでに内職しながら走っている。目的論的な機能主義という心の哲学もあるのだ。
機能主義の基本は脳の裏付けあってこそ、うれしくなるし、小鼻がかゆくなる。ところが、脳の裏付け、脳あってこそ心あり、を批判する立場だってある。これが解釈主義の心の哲学だ。哲学者デネットは心はただの解釈だという。片足立ちしていきなり笑い始めた相手レスラー。もちろん、なにを考えているのか、なにをもくろんでいるのかわからない。そこで、これをみたものはかれの行動を解釈するのだ。きっと、肉体年齢を突如しりたくなって、何秒片足立ちできるか心みているだろうと解釈するものもいる。また、新しい必殺技の序曲にちがいないと解釈することもできる。そもそも、心は力の平行四辺形や三角形の重心といっしょだというのだ。力は矢印で表現できちゃう。この矢印を対角線にして、平行四辺形をつくると、力を分解できるのだと物理学者は豪語する。しかも、いろんな力をくみあわせひとつの力にしてもいいし、ふたつの力と解釈もできる。答えはひとつではない、と試験結果が悪かったものが弁明会見を開くが、まさにそのとおり。いろんな力の組み合わせが考えられる。三角形の重心はかたまりじゃない。それなのに、とりあえず、このGスポットが重心だと想定。同じように、心もまたただの解釈だというのだ。
解釈主義的であるくせに、脳によって裏付けされていると考える哲学者もいる。その名もディヴィットソンである。脳は虫眼鏡が拡大しズームインすれば、ピースして看板もっている青年たちはみえないが、たしかに物理現象である。脳は物理的な法則にしたがっているが、心は心の法則。共通する法則ではない。サッカーと野球はルールがちがう。このどっちをも包んでしまうもっと大きなものが社会のルールかもしれない。ただ,心と物の共通ルールなんてない。非法則的でしかも、心も鍋もフライパンも皆ひとつ。人類皆兄弟よりも、強烈な接着力。これが非法則的一元論である。
環境やら生態に心ありきと、大胆な考えが広まる。紙のうえに鉛筆走らせる。陸上部の鉛筆なんて夢にもみたことがない。計算するとき、あたまのなかで計算しているというより、紙と鉛筆のコラボレーションで考えている。つまり、心はあたまをはみ出し、パンツは襟からはみ出る。環境にまで心は行き渡っている。心はあたま、からだ、環境にあるというのだ。
解釈学的循環というなにやらややこしい概念について。ここに分厚い文献がある。まくらにするひと、敷き布団にするひと、いろいろいる。文献だとおおげさだから小説でもよい。小説を解釈するとは、まず、全体をざーっと目を通す。速読やっているひとをみて、うそだろ、と思った自分に反省。全体の流れから、主人公の老人の発言、おっぱいを避けるんだ、っという文を解釈。じつに、部分によって、全体ができていて、全体あってこその部分。これをいったりきたりとするのがいわゆる解釈。だから堂々めぐり、こてめんどうどう、と胴が二発くるとは尾おもわなかったと剣道家の言葉。めんで攻撃、胴で体当たり、こてで攻撃。こてこてしすぎて、手首痛いし、なんだか一回り人間として小さくなったような気がする。哲学者ディルタイはこんな部分と全体の堂々めぐり、湯けむり京都めぐりを水平次元の解釈だといった。これにたいして、堂々めぐらない解釈、これが垂直方向の解釈だ。なにかを実体験し、これを表現、そして、うむうむと理解する。ここには堂々めぐりがないという。
哲学者ハイデガーもまた解釈学的循環に敏感肌もっていた。先行理解と解釈のペアである。私は説明できないけど、存在そのものってなにかを理解している。みんな同じである。漠然と最初から、ハナクソをはじめて食べた大昔、それよりもずーっとまえから知っていた。これが存在理解、存在了解、先行理解といわれるもの。このあとに、目の前のハナクソという具体的な存在者を認識するのだ。ハナクソの存在、まずは、存在を理解、つぎにハナクソを解釈だ。もうすでにおまえが存在であることをしっている、とケンシロウ。そして、ハナクソであることを解釈する。まず最初に世界、宇宙全体を一望。全部知っているがはっきりはしない。ここからハナクソ、耳糞、ロールケーキなどなどをねらいうちして解釈し、こまかく、分節するのだという。耳糞のあとロールケーキはかなりの貧富の差があったことをいがめない。
まとめ
存在の科学 未来人脱出計画 解釈学的実在論
有効理論というものがある。わたしは身の回りのものを最低限のピクセルをあつめて認識している。顕微鏡をみればもっと小さなピクセルまで拡大できる。とりあえず、私にとって確認できる世界、等身大の世界について理論たてちゃおうというのが有効理論だ。
どうやら、素粒子という小さな世界はピクセル小さすぎて見えない。それでもここの理論は等身大の日常世界とまったくもって同じ構造をしているにちがいない。私が小さくなってもでかくなってもいっしょなのだ。
小さな世界、光子は電子Aと電子Bのあいだを力伝達するもの。電子は離れれば離れるほど、力弱くなる。光子がなにかにじゃまされているからだ。光子は仮想粒子に変身するという。仮想粒子とは質量がゼロ、エネルギーがゼロのくせに高速回転している謎めいた粒子。なんでエネルギーがゼロなのにうごけるかはおそらく異次元からのエネルギーをもらっているのだろう。たとえば、光子が仮想粒子である仮想電子と仮想陽電子にわかれる。そして、このふたつがそのままきえることもあれば、出会って光子になることもあるという。こうあやって、電子Aと電子Bのあいだが離れれば多くの仮想粒子があるから、力伝達が阻害されるのだという。しかも、なにゆえ仮想であるのか。電子Aが電子Bに力伝達したとき、どの仮想粒子をどんなふうに経由してきたかは何通りもあって確定できないからだ。ふつうに弱い力とか,机を押すときも同じ。手から机を経由、床に力伝達。結果的には床に力がゆくが、机のなかをどうやって力伝達したかは幾通りもの解釈がある。力の平行四辺形やら六角形で分解すらできる。仮想粒子を経由しているからである。
ひとの心も力の平行四辺形のように解釈だといったデネット。仮想粒子経由だから、無数の解釈がなりたつ。友人のあの笑いは無数の解釈ができる。いまここにいる亀。どこからどう経由してやってきたのかも無数に解釈できる。仮想粒子経由だからだ。心はあたまをはみだして、周囲の環境にまでひろがるという考えがあった。私にはみえない壁のむこう、知らないさまざまな出来事。これら無数の解釈、仮想粒子を経由して心はある。そして、仮想粒子はこの次元からエネルギーを供給されているのでなく、他の次元から供給されているから、みかけ上エネルギーゼロで高速回転にみえたが、まさに、心にもこれがなりたつ。心が仮想粒子経由ならば当然、あらゆる解釈を経由してきた、つまりは、ひょっとしての可能性の世界、平行世界経由のなにかであるにちがいないのだ。心は平行世界からやってくる。ひとは存在了解すらして、これがハイデガーのいう解釈学的状況だった。この状況下でなにかひとつを解釈。存在を先行理解しているとは、無数の解釈を一挙に理解していること。つまり、存在了解、先行理解とは、心が無数の平行世界経由、仮想粒子経由であることを暗示している。これを解釈学的実在論と名づけたい。
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