パロールというお話である。パロールをよくスイスロールと聞き間違える。スイスロールを正面からみてはいけない、と隊長は叫ぶ。隊員はあやまってみてしまい、目がまわり倒れる。しかも、倒れたかれに一匹のありがちかより、巣にもちかえろうとしている。えさとまちがえているのだ。パロールとは、音声言語。腹から声をだして、うんこしたい、声はりあげる。すかさず、最新型便器の営業マンがカタログもって近づいてきた。魂のさけびだったのだ。ひとが口から放つ音声言語、これとはまったくもって正反対なのが、ラングという言葉の文法だという。ラングは社会がつくった、厳格な文法。主語と述語、副詞に形容詞、という律儀なルールだ。さて、どんなにいいかげんで、社会のまどからタンポポが自生しているやつでも、話すとき、パロールぶっこくときは、文法、つまりは、ラングに従う。ところが、ときに造語なんてものをつくったり、だっこするパンダ人形をパンダッコちゃんと命名し、パンダッチワイフなどなど、パロールによって、ラングが変形させられる場合があるのだ。野球選手がルールに従い、グランドで相撲をとる。ルールにしたがって試合中に新しいルールが作られるようなもの。ホームベースを梱包し、早く実家に送ったほうが勝ちっていうルール変更になりました。キャッチャーの若白髪をゲットしたやつがナンバーワンだ、というルール変更がありました、などなど。
哲学者メルロポンティは、パロールは口びるがこまめにうごき、のどちんこすら震える。つまりは、テニス、サッカーのようなからだを動かすスポーツといっしょ。ことばを話すのはスポーツ、からだの運動だ、くらいの考え。ハエ取り紙をたくみに避ける友人。そんな運動神経と同じなのが音声言語パロールである。そして、この身体のラジオ体操に毛が三本ついた音声言語パロールが、沈殿し、地層になっちゃたものがラングという文法だという。
哲学者デリダはむしろパロールと対決しているのは、ラングじゃなくて、エクリチュールだといった。パロールが生ゴミ、燃えるゴミ、燃えないゴミ、という早口言葉のような音声なら、音声の正反対は文字にきまっているという。エクリチュールとは文字言語のことだ。授業中、まえの席にすわる友達のせなかに日記をかいていた。発覚して絶好されてしまう。ひとの日記を公衆の面前にさらしたから、かれをせめたのだといたずら小僧は弁明する。音声と文字との対決。西洋哲学は音声ロゴス中心主義だったという。音声は自分の口からでてきたすぐさま自分の耳にはいる。おしっこ、とさけんだとき、その音声が意味することはひとつ、自分にとっては明らかに意味を心得ている。おしっこしたいのか、飲みたいのか,空からおしっこふってきたのか。自分にとっては明らかにひとつにしぼられ、おしっこという意味には中心がある。これにたいして、おしっこと壁に落書きされている。だれがかいたのか、作者不明の作品だ。だから、これをみたものは、ひとによって解釈ちがうし、そのときの状況によっても解釈ちがう。我慢しているひとがこの文字に3センチ以上近づけば、尿意を誘発されてしまう。文字言語は解釈いっぱい、中心がないから脱中心だというのだ。
次にキネステーゼという概念について。さすがにカタカナが頻発すると疲れる。からだを動かすと、物の見え方がかわる。さっきまで美人にみえたけど、この角度からは干からびた亀に見える。どういうことなのか。目くらましの術か。キネステーゼとはカラダを動かしながらものを感じちゃうこと。運動感覚ともいう。
かって、哲学者カントは、ボクサーのようにフットワークで絵画鑑賞といようなキネステーゼは認めなかった。じーっと座布団のうえであぐらかいて、顔面もうごかさずにものをながめる。感覚的情報であるいろ、かたち、匂いを入手し、これをあたまのなかで論理的にくみたてる悟性能力。こうやって、柱のかげから、ひゅーまをばがめるお姉さんのように、からだをうごかさずにもんぼを認識する方法について語っていたカントだった。
ここでもまたメルロポンティである。フッサール現象学のように、意識にはたしかに方向性がある。目から矢印が突き出て、ちくわに突き刺さる。ちくわに意識を集中し、ちくわの急所をかみつき、いただく。意識の志向性であるが、これはちくわの全体イメージをも作ってくれる。当然、意識的であり、このとき、意識しているわたし、意識されているそれ、あなた、かれ、かれらなどの人称性がうまれている。意識しているとは、私、あなた、それという人称性がもれなくくっついてくる。ところが、この意識的な志向性をささえているのは、重量上げの選手ではなく、竜田揚げの選手でもない。身体的志向性だというのだ。からだは意識する以前に、すでにどこか向き、ねらいうちしているのだ。ここでは人称性ができていない。前人称性といって、私、あなた、かれ、かのじょ、それ、の区別なし。みんあいっしょくたであるが、この前人称的な身体的志向性は具体的にはなんなのかをここでいいたい。まぶしい、っと思い、瞳孔を絞れと意識しているだろうか。目が乾燥する、危ないいあまだまばたきだ、と意識的にまばたきしているだろうか。じつに、無意識に、身体がやっていることだ。私とかあなたでもない、名も無きもの、身体がかってに瞳孔調節、まばたき、胃の消化活動やってくれている。身体志向性あってこその、意識的志向性だという。
最後にキアスムという概念についてである。Xのことをキアスムという。ミスターXにミセスX。Xという字を虫めがねで拡大。くろっぽくて引火。2本の棒が交差しているではないか。交差交合、これがキアスムである。メルロポンティはどうしても、すべてをまとめたかった。私と私以外のものを合体させて全部。このとき、私と私以外を入れ替えてもOK。なにもかわらない。反転できるのである。私は自分の頬をさする。手が頬に触れているし、頬は手に触れられている。ややこしくなってきて、おもわず、あたまをかきむしったところ、しらみが大量に殺戮される。触っている手と触られている頬は入れ替わる。頬が手を触れているともいえる。見るものと見えるものも、こうやってひっくり返ることができるという。
まとめ
存在の科学 未来人脱出計画 無から有へ、有から無へ 民主党オマバ氏によってフォトンベルト延期
宇宙は無、質量ゼロの電子、光子の集まりであるプラズマ状態。当然、質量ゼロで実体が無いからどこから見ても対称性だ。対称性の原則がこわれて質量発生。無から有への移行が生命。いつしか、有が圧倒的に多くなり、ついには無機的物体になり、ビッグフリーズで宇宙は終焉迎える。過去から未来へ、無から有への宇宙の進化。ところが、生命だけをクローズアップしてみると、動物から人間、人間といってもドテチンはどっちかというと大地に根ざし、ことばもつかわない。肉からロゴス、有から無へのプロセスだ。言葉という実体ではないものをつかい、ついには、電子の流れであるネット、メールまでもが登場する。さらに、ひとりの人間だって、あかちゃんとして産まれ最初に産声をあげる。泣いているのは宇宙の終焉の未来からやってきたからだ。宇宙の終わりは悲しいのである。こうやって、あかちゃんは脳細胞が多いが少しづつ肉的な細胞が減り、シナプス結合という実体無き関係性が複雑になる。おとなになるにつれて肉からロゴス、ことばをつかうようになる。最後には無が多くをしめて死滅する。生命、ひとりの人間だけをみれば、宇宙の進化とは逆。未来から過去へ、有から無へ、である。つまり、生命、人間は宇宙の時間順序に均衡をあたえるために、無へ進むべき使命を担う。無とは天であり、光であり、プラズマであり、宇宙のはじめである。
ということは、無の増大は宇宙的使命であると同時に人類の滅亡を意味する。社会的にみても、共和党のブッシュ政権。アダムスミスの神のみえざる手という、自由放任主義であるが、結果的には経済を実体無き情報にかえて、非実体経済を作り上げた。つまり、無へとむかっていた。だから、2012年のフォトンベルト、光の帯は人類の終焉、宇宙の端緒であるプラズマを意味していた。ところが、辞退は急展開。民主党はどちらかというと、肉的である。まして、社会党、共産主義、唯物論は肉的、物質的。乳離れが宇宙的使命ならば、人類存続の乳回帰は使命に反する。民主党、オバマ政権によって、フォトンベルト、人類滅亡は先送りされた。
この先送りは一人の人間にもある。有かた無へと一方的にながれるのではない。この有と無は互いにいったりきたりし、全体的には無へと近づいて行く。目はもののカタマリを認識する。実体を認識するが、目から入ってくるものは光子、つまり、実体なきもの。無が入ってきて有にかえている。これにたいして、耳はどうか。耳からは音が入ってくる。音は縦波であり、対称性が壊れている。つまり、肉的なのだ。これが耳から入りすぐさま鼓膜振動が電子パルスにチェンジ。さらには実体なき意味をくみとる。肉からロゴス、有を無にかえている。口から音声を放つ。音声はパロールであり、無。こんどは口から肉、飲食物をいれる。無の方向を勧めるのは、有を無にかえる耳。耳で音をきく。さらには、口から無である音声を放つ。耳で聞いたことを口にだして言う。これが無への促進。この逆が、目で無を有にかえつつ、口に飲食物をいれる。どっちも、無から有への方向だ。テレビを見ながらお菓子を食うというありていな光景。これが無から有への促進。つまりは、人類滅亡防ぐが、宇宙使命に反している行為だ。






