法則とは何かについて。外国語ではどうやら法則と法律は同じ表現らしい。だけど、よーくかんがえると法律と自然科学の法則はちがう。立小便禁止法、片足立ちで靴下脱ぐ規正法、いろんな法律があるかもしれないが、これらは語尾にすべしっという強烈なものがくっつく。公衆の面前で股間をだすべきではない、人権尊重すべし、など。道徳法則というやつも同じである。親孝行をすべし、がけから落ちそうになっているものがいたら、ファイト一発で引き上げるべし、という力強さがある。これにたしいて、自然科学の法則は素の顔で事務的処理だ。わざわざ競馬中継のような白熱さはださない。雨粒が万有引力の法則にしたがって落ちてきます、ホームベースを60キロの力でふみました。あじもそっけもなくあっさりと事実のみを述べる。
さて、法則に関しては逆も成り立つ。こすると摩擦熱が発生するから自慰行為に注意。摩擦熱の発生はさけられない。かならず、スカイダイビングするものは落下する。自然法則に反して上昇しない。数学や論理学の法則はもっと強烈に働く。1+1が2であることに超不満。不満つのって、ぐれてしまう。じいさんが同時にばあさんであることが不可能だという論理学の矛盾律。矛盾律にしたがいたくね〜っと不良は反抗心をあらわす。サザンが9であることに反抗する。じつは、自然科学、数学、論理学は絶対に従わないといけない、べしべしべしの最強軍団。法律ならば、一時停止を二時停止してしまい、やぶることもしばしば。道徳法則に反して、互いの足を引っ張り合う。だから、法律、道徳法則はそんな強い法則ではないというのだ。
自然科学はまずは仮説をたてる。地球は丸いかもと仮説をたてて、実際になでてみてその丸みを検証。検証結果が仮説どうりだったばあいは、仮説は法則にレベルアップしちゃう。通常、科学法則はこんな形でさっそうと登場する。すべてのXにかんして、XがAならXはBだ、という形だ。すべての人間にかんして、人間が二足歩行すれば、人間は棒にあたる。ここですべての人間が果たして歩けば棒にあたるようなトロイ系であろうか。じつは、どこからどこまでの人間というような範囲や枠組を決めないのが科学法則の特徴だ。オープンなのである。まねきねこの場所を移動しただけで新装開店だと叫ぶ家具屋さんではない。範囲をきめないということは、科学哲学者トゥルーミンいわく、有効期限なしの遊園地ネズミーランドのチケットのようなもの。ねずみーにチケットをわたして、門前払いあさってこいになるか、どうぞいらっしゃいませになるかはわからない。有効期限が記載されていないチケットである。法則がどこまで適用できちゃうか皆目わからないのである。賞味期限表記されていないスーパーの刺身のようなもの。いちかばちか食ってみてピーっという正解音か、ぶーっという不正解がお尻から鳴る。科学とは有効範囲わからないからとりあえず、つかってみて賭けてみるのだ。
次の話は多元論について。この世界はなんかたったひとつの原理によって丸くおさまっているとは考えない。ごちゃごちゃして統一感なしだ。ぞうりと高級スーツの接点なし。ベルサイユ宮殿とだんご虫に共通する原理なし。かって古代ギリシャのエンペドクレスは、この世界は四つの原理によって出来ているという。地、水、火、風のくみあわせでなんでもできるという。アナクシマンドロスは四つなんかではたりないというであろう。無数の種子、スペルマタによって世界はできているという。無数にあるのだから数えるのも面倒くさい。ここにあるこのいわくつきのわら草履。このわら草履の原理、スペルマタからうまれた。そのとなりにも長靴がある。長靴の本質だの、イデアを内蔵しているとはいわない。まさにこの長靴の法則、原理によって成立。やっとのことで産毛をぬいた。この産毛には、この産毛ワールドがあり、このスペルマタによってうまれる。
現代に多元論を復活させたのが哲学者ジェームスである。ジェームスといえば、ボンドと続けたいところだが、ぐーっとこらえて口にガムテープでもはってほしい。ジェームスはヘーゲル哲学がお嫌い。ヘーゲルはこの世界はたったひとつの原理で丸くおさめようと考えた。手乗り世界のように、これこそ世界、宇宙でございます、と説明。宇宙の歴史、人類の歴史は適当にできたのでなく、なんだかゴールをめざしている。宇宙は宇宙自身の存在にきづいちゃう。これが神様の心、絶対精神の誕生だという。むかしとんぼがはしりまわり、ナウマン象がほえほえと吠え、北京原人に現代人、さらには社会まできづかれた長き歴史。その最終局面で神様の精神が完成するというのだ。ところが、ジェームスはこんなたったひとつの原理なんてないという。世界はポケットティッシュのようにコンパクトにまとまらない。無数の原理があってひとつにはならない。世界がブロックのように閉じられた単純なものという世界観をブロックユニバースという。ブロックユニバース、ガッピー、えんがちょ、と叫ぶのだ。
まとめ
存在の科学 未来人脱出計画 宇宙さんと山田さん 上下をみるか左右をみるか
宇宙の誕生、そのはじまりは無。質量0の電子、光子などなど。対称性がこわれつつある生命。完全に壊れた物体。こうやって質量を獲得する宇宙の歴史。膨張宇宙はこうやって最終段階であるビッグフリーズに突入だ。宇宙が終わらせないための反作用。未来から過去へ、有から無への逆走がはじまる。これが反粒子であり、ひいては生命の意識になる。このふたつの流れが浸透し、シミをつくる。意識的な生命である。もちろん、この意識がむかうべきは無であり、収縮の方向である。
さて、膨張しきったただの有から脱却しなければならないという強い必然性がある。意識が必然的であり、決意し、行為するのは最果ての終局宇宙から来たものだから。膨張宇宙はこれとは反対に偶然性。無から有の誕生はいたtてたまたま、偶然だ。それなのに、この膨張する物理宇宙は科学法則によって記述できる。ひとつは、膨張宇宙を記述しているのが収縮する意識だから。だから、おのずと法則に必然性が帯びる。もうひとつ考えられるには、宇宙は膨張し、意識は有から無への収縮にみえるが、これは相対的だということ。もっともっと大きな宇宙、もっと大きな加速で膨張しているものにとってみれば、この物理宇宙は収縮しているようにみえる。だから、この一見して膨張、無から有への移行にみえるものがその実、宇宙さまという収縮意識だともいえる。ただ、収縮速度がマイナスにみえるだけ。宇宙の法則と私の心の法則はべつだ。法則は多元的に無数にあるが、逆に宇宙も私の意識も相対的なちがいがあるだけ。相対的にちがうが同じひとつのもの。収縮は膨張、膨張は収縮。無から有へ、有から無へ。原理、法則は無数にあるが、中身はひとつ。うえをみるのでも、したをみるのでなく横をみる。同時代のひとがいるし、同じ人間がいる。われわれは同じレベルで視線をあわせる。たしかに、宇宙もひとだといえる。意識よりも加速的に収縮するものもいる。ただ、上下よりも左右をみて、ひとをひと、宇宙を宇宙とみなす。上下は誕生前と死滅後にかかわってくるものだ。






