オホーツク沿岸では1958年に肉眼で低緯度オーロラを観測したという。それを再現しようというのである。
オーロラといえば、北極の空。仕事や学校から帰ってきて部屋で大の字に横になる。天井にオーロラが見えたら、とりあえず、証拠写真をとる。カメラを手にして身構える。ボクシングの構えで身構えて、はい、チーズ、っと叫ぶ。天井に貼りついているのは、たいてい、昔のアイドルのポスター。ちょうど、アイドルの鼻の穴からハエ取り紙が垂れ下がる。なんだか、横になっても天井みつめても、ただならぬ緊張感。およそ、自然界では鼻からハエとり紙が飛びでてる生き物はいない。飛びだす3D映画のようだが、目が飛び出て無くてほっとした。ハエ取り紙でなく、ケツ拭き紙が天井から垂れ下がる。ケツ拭き紙にしがみついて親父がお尻こするつける。はさまんかんぺーは柱にケツを押し付けて、ケツで柱食ってる。ケツを観察してみよう、っという理科の教科書。右の尻っペたの隣に左の尻っペた。その隣も尻っペた。いくつも、並んでる。皮を向いたみかんのようである。どこからどこまで、一人前なのか、わからなくなり、頭抱えて、頭の乳首から母乳出す。母乳をススッテル目の下にクマがある悪代官。悪代官もあかちゃんのときは、こんなにかわいいのかと感心していると、ぼーっとしてないで、チャブ台をふきんで拭いて、っと又の間にはさまっていた王子様に命令。ふきんでチャブ台の上にこびりついた食べかすをはがす。ちゃぶだいの上で元気よく遊んでいたカブトムシのミーちゃんが脳裏をよぎる。ひっかっかりをとらないで、っとよく口癖のように言っていたものだと懐かしむ。すると、現場の親方にどなられる。懐かしんでるくらいなら、金槌にえさをやれ、っと言われる。金槌のえさとは一体なにか。インターネットで調べようと、ストーブのスイッチを押すが、自動ドアが開いて、エレベーターガールが上にも下にもいきまーす、っと現れる。パソコンの電源がなかなかつかない。パソコンの電源をつける方法を百貨辞典で調べようと、ページをめくろうとしたら、ばあさんのスカートをめくってしまい、逮捕。出所後、腹が減っては糞ができぬ、っという格言を座右の名として、ラーメン屋に入る。ラーメンをくおうとしたが、ラーメンを調教。すっかり自分の言う事を聞く、麺、シャーチュ―、なると。いざというとき、おぼれるものはワラをもつかむ、というがそんなときには口笛ひとつでかけつけるナルト。おぼれてるものは豪華客船もつかんじゃう。なると、ちゃーしゅーが駆けつけてくれて、そのままとおりすがる。各駅停車でなく、急行線。丸くて緑色の山手線。こけ生えた金玉。今となってはヤドカニ済んでる。丸い緑の運命線。手相占い師、首かしげる。
身の危険を感じるとき、なるとを呼ぶ。路上に捨てられたコンビニ袋。動き回ってる。風のいたずらと考えるのが常識的。プラズマの仕業だ、っというのが一部の科学者。生きてる、っと言い張るのが動物王国のおじさん。だんだん、怖くなってきて思わず、ナルト、ちゃーしゅーを呼んでしまう。
何気ない日常生活。外を歩いていると、ベランダで布団を叩いているおばさん。ベランダで太鼓叩いてるおじさん。おじさんか、おばさんかはっきりしない、とりあえず、アンドロイド。シチューのにおいが漂ってる。虫取り網で捕まえて今日のおかず。においを捕まえるのは難しい。においを串ざし。においにコテ、メン、胴。最後にかかとをくすぐって、今、かかと触ってる、触ってないクイズ。かかとの神経は鈍い。
日常性という概念がある。ハイデガ―は存在そのものとは何か、と問いかける。とりあえず、目がいっちゃってるパラノイアさんに1000円。お年玉をあげて答えてもらう。目の前にはいろんな存在者。コンビニ袋がロープに投げられて帰ってきたところを、おかえりなさいませ、っと正座して頭付き。コンビニ袋という具体的な存在者。そうではなく、問題は、コンビニ袋の存在そのものである。そこで、一番近場に存在そのものを感じる。靴の裏にこびりついてる世界遺産のチュ―インガム。なんとか文明の人が噛んだガム。たしかに身近ではあるが、一番近い存在は、やっぱり自分。自分の存在そのものについて考える。これを基本中の基本、ゴルフでいえば、一番はじめの靴みがき。歯みがきしながら靴みがき。その器用さを買われて重量あげの選手。器用じゃないとバーベル握れない。自分が自分の存在に関係してる。黒づんだ乳首を指でなでてゴロゴロいわせる。無駄毛を抜く。にきび押してみる。尻っペたにある扉開いて、中から缶ジュース出てくる。自分に関係しつつ、今まさに存在してることを現存在と名づける。自分が自分にかかわってるというは、かかわってる自分とかかわれちゃってる自分に自己分裂。このことによって、人間は存在そのものとは何かっと問いかけられるという。問いかけるとは、なんとなく知ってる、了解してるからといかけられるという。おっぱいはまったく知らないならば、おっぱいとは何かっと問いかけられない。また、おっぱいの生態、種類をよく知ってるなら、問いかける必要性なし。存在そのものを問う、とはなんとなく知ってる。かかわってるのである。そんな現存在が、とりあえず、たいてい、という日常生活に埋没。浜辺で首まで埋まってる人。現存在が自分自身に関係してるのでなく、日常生活のさまざまなモノにかかわってる。ゲームに無中。コントローラーのポーズボタンを全身全霊で押して、トイレに駆け込む。トイレの自動ドアにはさまれる。チャブ台の上のどんぶりにかかわり、おわんと友達になって、いっしょに遊園地にあるシーソーで遊ぶ。いろんなものに配慮するのである。他人には気を使う。ネクタイ曲がって、近所のおじさんがこびりちてるよ、っと教えてあげる。ひたいに埋め込まれてる方位磁針が正しい時間しめしてないよ、っとさりげなくダンスしながら教えてあげる。モノを配慮し、落ちてくる人口衛星をアタックしてやろうと配慮し、他人を気遣って存在してる。すっかり自分の存在を忘れちゃってる。ズボンがタニシに全部食われちゃっても気が付かない。自己忘却という。自分はみんなと同じ顔。縁日で買ってきたお面、お尻をつけて平均的な日常を生きてる。これを本当の存在のし方ではないということから、非本来性という。これにたいして、自分が自分の存在にかかわってる存在の仕方を本来性と呼ぶ。世の中に裸で投げ出され、自分が日本人、耳二つある人間、これは自分ではどうにもできない事実。これを被投性という。ここから今度は未来にむかって、大志を抱く。靴下はいてやるぞーおーっと気合。眠っていた恐竜が目覚めて追いかけてくる。逃げてやるぞ、っという未来にむけて足が一歩前へ出る。恐竜のふんを踏む。これが未来にむかっての企て。企投性という。人間とは被投性と企投性、日常生活にどっぷり首までアゴまでつかって、もちろん、頭のうえに使用済みパンツ載せていい湯だな、っというような存在の仕方をしているという。






