youtube哲学漫談完成版(正式版?)を毎日アップします。ユーストは未加工版(一か月保存)ねとらじは音声のみで生で今まで通りやっていきたいと思います。こちらからです!!−−>新設!!大人の教育番組 ジョーカーの哲学漫談 youtube!!! すべて整理!ジョーカー情報はここに集合ーー>MJKワールド 哲学漫談生配信はここ! 哲学漫談録画はこちら! 熱帯雨林さん作のジョーカームービーはここ! 大人の教育番組3ちゃんねる生放送 ジョーカーによるネットテレビ放送!!
スティッカムで簡単ライブ動画配信
Live video chat by Ustream 哲学漫談視聴について    朝の哲学漫談は今まで通り一人演説にさせてもらいます。チャットがきても答えらないかもしれないけど、無視したり、嫌ったりしてるのではありません。あしからず。よるの哲学漫談はチャットをしながら、とくにこれといったルールなしでやっていきたいと思ってます。よるのまんだんは哲学の話とは限りません。ダンプ放送はひるのまんだんです。     よるの哲学漫談、したらば掲示板はこちらです。-->http://jbbs.livedoor.jp/music/23492/

2010年07月13日

仙人新聞 2010・07・13

仙人新聞 2010・07・13

***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/8219960

http://www.ustream.tv/recorded/8244041



***宇宙mixエクリチュール版***


**哲風呂**


痕跡、個物、そして、目的の王国についてである。野球やるときはあたまつかって判断しないといけない。バッターはキャッチャーのあたまのうえでそば食ってはいけない。ちゃぶ台ではないのだ。審判のマスクに手をひかっけ、しがみつきながらセミの鳴き声も厳禁だ。少なくともひとと物の区別はちゃんとつけないといけない。ただし、先日試合で好プレーやって活躍したやまちゃん、今日はちゃんこちゃんこきてきりたんぽ食っているが同じやまちゃんなのだ。こうやって似ているところさがして同じだと判断する。森羅万象、形も色も匂いも毎回ちがう。ここから同じものだと判断するテクニックについて語ろう。

  哲学者デリダの痕跡についてである。痕跡といったら足跡とか、椅子に残ったケツ型。ぬくもりさえ感じる。痕跡とはとくに空間的なものである。足と足跡、ケツとケツ型は空間的に離れている。さて、哲学者フッサールは人間の意識の奥のまた奥がどうなっているかのぞこうとした。そこには純粋な時間の流れがあるという。私は間髪いれず私自身を意識しちゃう。いわゆる自己意識とか、自己現前といわれるもの。私は私の目の前に土か〜んと出現。どかんのなかにはどらえもんがいそうだが、芸術は爆発どか〜んというときのどか〜んだ。ところが、デリダはここに空間を持ち込む。私は私自身を意識するとき、もうすでに痕跡だというのだ。私とあなたになっている。ちょっとこれはやばいかもとふとおもう。私は私を意識したとき、じつはすでに他人だとでもいうのだろうか。

  メロンくいて〜っと魂の叫び。音声言語のパロールという。自分でいった言葉を自分の耳で聞いちゃう。これは私がいったのだから意味は100パーセント知っているはずで他人や業者は介入していないはずだ。文字言語であるエクリチュール。文学書を手にして威風堂々と立ち読み。こんなとき、作者はそこにはいないからあれやこれやと解釈する。エクリチュールは作者の痕跡だ。音声言語、パロールにもエクリチュールのような痕跡があるという。メロンっていうことばはいろんなひろたちが使ってきた。しかも、日本語は私だけがつくったのではなく、長き歴史、いろんなひとたちがかかわった。よって、パロールにも不在の他者が潜んでいる。他者、他人とは私じゃないんだよ、という私の皮一枚へだてた向こうだから、私は他人のやまちゃんを生きることができない。他者とは死だという考えから、自己意識とは生き生きしているどころか、他人がはいり、死滅しつつあるというのだ。

  次の話は個物についてである。このりんごが好きだ、という。このりんごは甘いともいう。このりんごは世界でたったひとつのかけがえのなさがある。これとか、アレとかというのが個物。甘いっていうのはなにもりんごだけでない、いろんなものにあてはまるから普遍性という。

  最後に目的の王国についてである。カントは人との接し方の理想の王国を考える。やまちゃんをテーブル代わりにつかってはいけない。手段とか、道具ではない。なにかのルールにしたがったり、いわれたからやるんだよというのは他律という。他のものに律せられている。そうではなく、本当の自由は自ら律すること。手段とか、道具でもない。目のまえにいるひとを手段ではなく、その人自身が目的なんだよ、とみなす。こうやって互いに互いを目的としようという理想の世界が目的の王国であって、動物王国とはちょっとちがったりする。


  まとめ

  **存在の科学**

  異次元理論  あたりにたくさんいる人格  同一の物体

  先日のやまちゃんは今日のやまちゃんである。性格も、服もちがうし、ヘアスタイルもちがうが類似している。そして、同じ人格とみなす。先日の我が家は共通点を探して今日の家といっしょだ。人格同一性や物体の同一性。瞬間、瞬間がちがうのだが、一本筋を通して同じものとみなす類似性の能力。じつに、テーブルと椅子は似ていて同じものの表れだとみなす能力は現代人にはないが、その共通点、類似点をみたとき、そこに同一性がみえてしまう。おそらく、古代の人々や残存するシャーマンなどは自然にたいしてそういうみかたをして妖精、妖怪をみるのであろう。一部、薬物によってもそのようなほかの信じられない同一性が見えてくるのかもしれない。




   **クレイジートーク**

  今日はこれからおでかけである。買い物籠をぶんぶん振り回して、ひかえよろう、っと叫びながらおでかけだ。頭が高いとトカゲにいってみた。とかげは穴にあたまつっこみ、尻かくしていなかった。尻がわれていたので、郵便物をはさんでおいた。爬虫類のケツが割れているとは本当なのか、と爬虫類学者がスイスルールをかじりながら歩み寄ってきた。いいかげんなことをいってしまったのでちょっと反省しつつ、昆虫学者を味方につけて応戦だ。ちょうちょ、ちょうちょ、金に群がる。アカ、青、黄色、と歌いながらゴレンジャーにかたって生き血吸う。香取線香でひっぽあたいてあっちいけ、ちょうちょ。ちょうちょ、その羽ばたきかたは華麗で美しい。加齢でしわしわなのでは断じてない。ちょうちょをバタフライというらしいが、その羽の粉だけはごめんだ。ちょうちょつかまえて指についた粉を友人のセーターでふき取る。10年来の築いてきた信頼がここで絶たれる。ごめんね、ひとしくん、もうりんプンつけないから、チューバッカの鳴き声ににているぼくのおならを聞いてくれないか。ということで激しく分けわからなくなってきたので、この辺でクレイジーを閉じよう。




**哲風呂**


   知識社会学とデカルト的自我についてである。芋虫はさなぎになって脱皮してチョウチョになる。じいさんは脱皮して裸になるが空を飛べない。芋虫は葉っぱをたくさん食べて、たまには甘味処で甘いもんでも食いたくなるのだろうが一途に葉っぱを貪り食う。こうやっていつの日か蝶になることを夢見ているのかもしれないが、寝ているとき顔面がひくひく動く友人のをみる、思わず、夢みてる〜っといいながら邪魔したくなるのが親心に子心であり、おまけにただの好奇心である。昆虫のなかには変態してほか形になるのだが、人間もまた同じではないのかというお話だ。

  マンハイムの知識社会学についてである。マルクス唯物論と新カント学派の観念論を批判した。心とか意識が最初にあって、ん〜っと念じて世の中を変えられるだろうか。ん〜っと力めば屁をだすことはできる。意識は存在を変えられない。逆に存在は意識を規定するというのがマルクスの考えだ。これを存在拘束性という。いままでの歴史、弥生時代に平安時代、これらの存在の歴史がいまのぼくちんの心を揺るがしちゃう。そして、世の中は上部構造と下部構造でできているという。たしかに人間も大きな乳首を有する上半身と、大きな玉をもつ下半身にわけられる。下部構造は上部を支える。経済とか、生産などが下部構造だという。いわゆるプロレタリアート、労働者階級だ。これがあってこそ、上部にはダイヤモンドとか、美術とか、骨董品、などなどの目にはみえない価値が乗る。ブルジョア階級である。下部構造が独裁になるという発想であり、しかも、それは存在のいろんな歴史の強烈な波でどどどどと突き動かされて革命がおこるというのだ。これが歴史的必然であり、文字通り存在が意識を規定しちゃっている。こんどは新カント学派の観念論を批判する。とくにマールブルグ学派、全て世界はおれのあたまのなかで作られているという突拍子もない発想だ。ところがわれわれには視座的制約があるんだよ、と批判。座席によって映画館のスクリーンにうつるハリソンフォードの大きさ、形がかわるではないか。マルクスはこの視座的制約を上部構造にあてはめた。ところが、マルクスの理論自身にもこれをあてはめたほうがいい、とマンハイムはいう。つまり、自分に適用であって、けっして、棚上げしないことである。自分のことを棚にあげて、ああだのこうだの、いうのといっしょだというのだ。マルクス理論もまた存在の大きな歴史に動かされているというのであろう。

  すべては公平にあてはめて、しかも、なんだか相対主義っぽい。これを相対主義とよばないで相関主義とよんでくれとのことだ。


   次の話はデカルト的自我についてである。デカルトは合理主義者である。ず〜っと遠くから眺めて理屈で組み立てる。科学というのはもっぱらデカルト的なおれになるのがよい。宇宙について合理的に云々するとき、自分の服に虫がとまったとか、ハースタイル気にしない。自分は宇宙のなかの一員ではなく、宇宙の外側から冷静にみている目玉のおやじになっているのだ。これを神の視点ともいう。


  まとめ

 **存在の科学**

  異次元理論  人間と芋虫  脱皮、成虫への道

  芋虫は葉っぱを食い、さなぎになって蝶になる。一度、眠りについてつぎは蝶の一生を送る。芋虫はもっぱら葉っぱのうえや地面を這う。空を飛ばないし、おそらく、成虫になった蝶を知らないし、見えないであろう。人間もまた地上にへばりつき、欲望を原動力に生きている。いつしか、さなぎになり、蝶になるのではないだろうか。ただし、人間の成虫、蝶は見えない。昆虫は人間からすればよ〜くみえる。これをあまねく人類、人間にも自己適用してみるのだ。相関主義的にみるのである。デカルト的自我といっても所詮、芋虫の人間は宇宙の外にたっていない。おそらく、ぎりぎりの線だとおもわれるが、幼虫生息圏の際でみているだけである。だから、とりわけ、重力の謎が解けない。地球の引力、重力は当たり前すぎるからだ。

  クレイジートーク

  今は現場にいるがとにかく蒸し暑い。汗が滴り落ちる。目に汗がはいってしみる。おもわず、目をおさえて七転八倒する仮面ライダー。敵の攻撃というよりも、八つ当たり気味にショッカーに攻撃だ。太陽はまぶしくて渋い顔つきになってファンができたらどうしようと、本気で悩んでみる。渋めのおやじになって、きゃーきゃーいわれたらどうしようと、あたまかかえて悩む。もちろん、下半身露出してもキャーキャーいわれても、そのキャーの発音が微妙に違うので試験のときは注意が必要だ。ケアレスミスのないように、注意力だけは研ぎ澄ましておこう。精神統一の黙想、もちろん、口さびしいのでせんべいをかじりながら黙想。さてと、午後もまわって後半戦に突入らしいのでクレイジー終了し、戦線に復帰することにしよう。
 

posted by モノイイ ジョーカー at 19:06| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/156250438

この記事へのトラックバック