走ってもはがれないという。外しても接着物が足に残らないという。裸足で歩いているような感じで、「履き物のオープンカーのような開放感と、爽快な履き心地」としている。
ヌ―サンである。いろんなサンを知っている。山田サン、橋本サン。みんな年上、先輩である。部活ではもっぱら球拾い。ややもすれば、貝ひろいさせられる。潮干狩りである。老人ホームでは入れ歯拾い。最近に入れ歯にはマイクロチップが搭載。歯の隙間にはさまっていたりする。あなどれない。ただの入れ歯、されど入れ歯。考える入れ歯。人間と入れ歯の第一次世界雪合戦。抑圧されていた入れ歯の反逆である。
ヌ―サンはひものないビーサンである。社会の窓がないジーパン、眉毛のないおじさんもいるが、まずず、なによりも不思議である。足の裏にぴったりと吸いついてる。たしかに、風呂場にて、イスがお尻にくっついてしばし、行動をともにすることがある。クレレ立って、手をあげて歩いてきてっと命じるのはプスプス少女。クレレ国際競歩選手権大会で優勝して、っと鋭い眼光で命令。立ちあがるクレレ。車椅子がお尻にくっついてる。あんな重量物がお尻にくっつくとはプラズマの仕業だと決めつける教授。謎の現象、ちょっとおかしな現象はすべてプラズマのせいにする。友人が笑ってるのに涙ながしてる。笑いじわができない。前髪を抜いて頬にノリでくっつけている。さてさて、とうとう前髪を使い果たしてしまった。よりによって波ペーさんの貴重な一本毛を失敬し、それをしわの偽造に使う。これもすべてプラズマのせいにする。ピーナッツ食ってないのに、お尻からピーナッツ。世界七不思議である。これもプラズマがわるさしたのだと結論。
遠目でみると裸足に見える。円形脱毛症のおじさんを遠めで見て視力検査。カタメをつむって右斜め前っと叫ぶ。イチ、ニー、サン、ダ―ではなく、いち、にー、さん、右斜め上っと叫ぶ。たんげタンペーさん、カタメを閉じてのびのびと視力検査の運動である。右35度上、あいております、立つなチョ―、立つと天上に頭ぶつけるっと叫ぶ。問題はもう一方の眼帯である。眼帯側で検査はじまる。ウサギが左斜め上にジャンプ。おばあさんがおじいさんの四次元ポケットに入ってうたた寝。おそらく、夢か幻覚見てるのだろうっと診断。
サンダルに紐がない。それを見た中年男性は大騒ぎ。触覚のない昆虫をみるような目でみる。同じように、水槽に漂ってる金魚のふんをわが子をみるようなやさしそうな目つきでみてる丸めがねのおじいさん。金魚のふんには強い思い入れがありそうである。おじいさん、昔は腕っ節のよい漁師。しかも、金魚のふんを捕獲するため、遠海漁業をしていた。リアス式海岸が攻めてくる、赤潮が攻めてくる。朝潮が手に潮をもって向かってくるが、青潮だけがどうもピンとこない。泉ぴんきり子である。安いものから高いものまで、動かす力はアームレスリングの選手。
紐がついてない。驚きとともに、凝視する。パソコンの画面でなく、本体見すぎて疲れ目、しかも、垂れ目。たれめを治そうと目薬をさす。鼻の穴に入ってツーんっとする。やっぱり、朝のテレビでやっていた占いは当たるっと確信。てんびん座のあなたはみずがめ座といっしょ、動物じゃないっという占いなのか、能書きなのかわからないことを言っていた。ぼやけてよく見えない。はっきり見えるときもある。輪郭はっきりしてるか、モザイクはいってるか。確実か。はたまた、あいまいか。
明証である。これは直感的にはっきりしてること。直感とはなんだか自分がつくったものでなく、突然、ひらめいちゃうようなこと。一級さんも木魚やくるみ叩いてひらめく。そうだ、靴下の匂いをライオンにかがせれば、きっと怒りだすだろうっという名案が思い浮かぶ。くるみ叩いてたら割れる。中からくるみ太郎あらわる。ばあさんもじいさんにも割れず、ずっと誰かが割ってくれるのを待っていた。じいさん、このビンのふたをあけておくれ、っと頼む。じいさんはまさに男らしさをためされてる瞬間である。手につばつけて、やるきまんまんだが、手から煙。おそらく、つばに科学物質が含まれていたのだろう。歯をくいしばってふたをひねる。キンバが削れた。虫歯菌がそれを回収。
また、明証とは主観的に、自分にだけ正しいものではない。自分にとっては屎尿ビンを手にして走ることがこのうえなくかっこいい。それはそのひとだけにあてはまるものである。屎尿ビンの形が宇宙船ににていようと、みんなにあてはまることではない。明証とはこれに対して、客観的に確かなことである。どんなひとにとっても確実なこと。自分にとっては靴の裏にしがみつく団子ムシ。犬のふんを踏みそうになったとき、身を呈してまで死守した。いわば、命の恩人である。とこりが、隣に住む無類の盆栽好きのおじさんにとってみれば、団子ムシはただの臆病ものにしかみえない。すぐに丸くなっちゃう。そうではなくて、どんなひとにとっても、三角形の角は三つあること確実。明証とは論理的でもある。論理的に一本すじ通ってれば、たいていどんな人にもあてはまる客観性をもってる。
哲学者デカルトは正しい、間違ってるの基準を自分の目、鼻で感じ取ったもの、つまり、経験とは考えない。自分の目を疑う、という言い方もある。かといって、いつも、アンパイアを常時持参して、正しい、間違ってるかの判定の際にリュックサックから取りだすというわけでもない。暑いから、氷河期に育って暑さに弱いから、セーター脱いでランニングの格好は危険である。ランニングシャツとリュックサックが化学反応を起こしていつしか素っ裸の大将に変身。お見合いもできない。一流会社の就職の面接も絶望的である。デカルトは正しい、間違ってる、真か偽かという判定基準を明証によって決定する。要するにはっきりしているものを正しいとかんがえるのである。アフロへアーに静電気、輪郭がはっきりしない。しかも、モザイクかかってるような眉毛。はっきりしていないと正しいとはいえないのである。そして、デカルトは明証という言葉でなく、直感、明晰判明という言葉を良く使う。うぐいすはよくほーほけきょっと鳴いていて、鶏はよく、こけこっこーっと真剣に語ってる。
心理学主義的論理学というものがある。理屈、論理もじつは人間の心理的なものだ、と考えるものである。心理的といったら、好きな人の前にいるとミドリのおばさんもミドリから赤へと変化。赤面してしまう。赤面ライダーは恥ずかしがりやさん。厳密は歳下の男だから、恥ずかしがりやちゃんである。人前にでたり、怪獣と見つめあったりすると赤面する。顔を隠してトイレの個室に逃げこみ、手のひらの人の字を食っている。人食い人種かと、一瞬、世の中を震撼させるが、その実体はただのシャイなタニシ。いつも、藻をくってる。たまに、ハンバーガーセット食う。心理学的論理学ではあくまで、論理、理屈は心理的なもの。なにが正しくて、なにが間違ってるのか。これは明証感情という感情的に明らかだっと目を丸くして瞳孔おっぴろげながら決めているのである。医者が通りかかって勝手に首を横にふっている。まだ、生きてるっと言い放つ。自分の心の中に判定基準もってる。しかもそれが明らかだっという感情である。どうも、この男が犯人くさい。よーく匂ってみる。鼻がけいれんする。ぴくぴくする小鼻のエネルギーを有効活用、3世帯の電気まかなう。
心理主義的論理学の明証感情。こえはあくまで、その人の気分しだい、感情であるにすぎない。お尻の下にアリ塚あって、しかも噴火してる。居心地悪くてその人は不機嫌である。感情に左右される。
ところが、現象学派の登場である。西の花道を乳母車の自走でやってくる。ブレンタ―ノである。はっきりしてる、もやもやしてるは喜怒哀楽の感情ではないと考える。顔で笑って心で泣いて、下半身は怒ってる、背中は喜んでる。明証とは冷静な判断にこびりついてるっと考える。判断とは、主語があって述語くっついてる。犬は四本足だ、っと動物学者が発表。犬が主語で、四本足は述語。こんな判断に明証は住んでいる。判断がもっている性質である。こんな明証は大きく二つに分けられる。直接的明証と間接的明証である。直接的明証は有無をいわずにはっきりしてるといったらはっきりしてるんだ、っと思わずちゃぶ台ひっくり返し、上に乗っていた中華料理をバレーの選手がジャンピングトスで受けとめる。この直接的明証を組み合わせて、絡み合わせて間接的明証である。間接キスというものがある。ハエがうんこにキスするシーンはトレンディ―ドラマでありがち。そんなハエにキスされる。人生、お先真っ暗になる。100ワットの電球をつけて明るくしようと考えるがあの忌まわしい歴史的出来事を忘れることができない。
直接的明証とは、たとえば、哲学者デカルトのいうコギトである。内的知覚という。あらゆるものを疑う。父親が片足立ちで足匂ってる。これはもしかしたら求愛のポーズではなにのかと疑う。そして、なによりも、世の中もすべては存在しないのでは疑い、挙句の果て、自分も存在しないのではっと疑う。いつも対面する友人の顔をはねかえって自分の口の臭いのを感じとって、自分の存在感を感じ取ってる。ところが、口が臭くない。本当に自分がいるのだろうかと、役所に問い合わせても答えてくれない。あらゆるものを疑っても疑ってる自分の存在だけは疑えない、と結論。自分が存在しないなら、疑うこともできない。これが自分の存在を直接に、直感的にいたっと感じ取る直接的明証の例である。内的知覚ともいう。自分の内を感じ取る。お腹に耳を当てる夫。盲腸が動いた音聞こえるっとつぶやく。幸せな一幕である。盲腸の鳴き声聞こえる、お腹がぐーぐーなっている、大腸がけっ飛ばしたなどなど、幸せな一言のオンパレードである。
直接的明証のもう一つの例は、部分がなければ、全体がない、という判断である。細胞がなければ、山田君が存在できない。ミトコンドリア、核、細胞膜、油取り紙、そして、冷蔵庫。そんなものがよってたかって全体として山田くんである。無数の細胞が合体である。部分があってこそ、全体があるとは、あまりにも当たり前、明らかなことであり、直接的明証である。
哲学者フッサールは明証は判断にこびりついてる性質とは考えない。背中にスッパーダ―マンこびりついてるっと助言する。フッサールは明証とは判断が転がってるとき、これを首をタテにふって承認するか、首を横にふって下唇ぶるぶるさせて拒否するかだという。たまには歩行者にでもなろうかなっと歩きはじめる。立派な歩行者になった。両親はそれだけが自分の息子自慢だという。歩行者となって、前方南南西45度の位置にスキンヘッド発見。いささか緊張する。そんなとき、突然、呼ばれて飛び出てっという掛け声でスキンヘッドの耳から大魔王あらわる。スキンヘッドのばあさんのエリアシだけが毛深い。大魔王が引っ張ってる。すかさず、故郷の耳穴に戻る。おそらく、耳に小指つっこんでみみくそをみたから出てきたのである。くしゃみやあくびという単純な動作では出てこない。それかわれわれ人類になにかを警告するため現れたのか。 スキンヘッドのばあさんは振り向く。そんなとき、首を横にふって下唇ぶるぶるさせながら私じゃないと連呼する。つまり、否定で全身で拒否する。うんこにお歳暮いただく。危なく手がでてしまった。走馬灯のようにヒイおじさんが頭の上をかけめぐり、うんにもらっちゃいけない、もたっちゃいけない、っと騒いでる。頭かかえていると、頭とれちゃうのではにかと懸念したシャムおじさん。アンパンをドリブルしながら近づいてきてシュート。いらないっと拒否する。気持ちプラスアルファですから遠慮せずに受け取ってください、っとうんこがていねい語。
判断とはっきりしている、もやもやしてるいるの明証が一体となっているのではなく、フッサールにおいては判断が転がっていて、これを承認するか、拒否するかなのである。
フッサールは、目、鼻などの感覚からやってきたものを素材、ヒュレ―と名づける。人間の意識はハチマキして、腕によりかけてしわくしゃにしながら、これを調理、加工する。三十分クッキングでは白米にお茶づけの元をかけてお湯注ぐ。3秒クッキングでもある。人間の意識は方向性をもってる。どっかむいてる。のどちんこに意識集中。顔面がやわらかい。のどちんこに矛先をむけて、意識を集中。のどちんこの裏側みえないからイメージする。この意識作用をノエシス。これによって出来上がった狙い内してる的であるのどちんこの全体のイメージ、これをノエマという。つまり、自分がかんじとり、直感したのどちんこと、志向されてる、ひょう的となってるのどちんこが一致すれば真、一致しなければ偽となる。これが真偽、正しい、間違ってるの基準である。
物事がどんなふうに自分に与えられるのか。お年玉を両手で手渡されるのか、足の指にはさんで渡されるかによって、全然ちがう。また、意識のし方によっても全然違うものとなって現れる。接し方によっては老人から噛みつかれたり、いきなりスペシウム光線放って指の間軽く焼けどする。意識の仕方によって、明証は十全的と必当然的というあり方をする。
まず、十全的とは、なにかを志向し、意識集中してるとき、全部が赤裸々に現れてる、かくれているものがないような状態。素っ裸ではなく、胃袋もみえる。ちょこっと意識のしかたかえてやれば、目の前をハヤテのように通過した力士。肌色のかたまりに見える。肌色のかたまり、と認識すれば、別に自分にとってはそれが見えているすべてを正直に答えただけ。わきの下に挟まってるスペアのまわしなんかイメージしない。まわしの中に大金かくしてるのではっとかんぐったりしない。ありのままに受けとってそれがすべてなのである。次に必当然的とは、不可疑性が絶対であるというときである。疑えないことが絶対だと考える。ツメを縁側には先客のおばあさんがひなたぼっこしながらスケボーやってるので、やむなく、グランドキャニオンのがけっぷちで足のツメをきっている。足の親指の存在を疑えない。ところが、がんばれば、疑える。なんとなく、友人の後ろ姿に見えてきた。ところが、絶対に疑えないものがある。これが自分の存在である。デカルトのいうコギトである。
さて、フッサールは判断とは述定だと考える。主語に述語をすばやくこびりつけてやる。本人に気が付かないように、セーターに鼻水をこすりつける術、ニンニンである。おじさんは人間である。おじさんという主語に人間という述語をくっつけた。ところが、前述定的というものを考える。述語をくっつけていためたり、加工したりする前の生のおじさん。主語だけである。このまだ、ひたいのアセの匂いがソースの匂いがする生のありのままのおじさん。前述定的にはっきりしてること、前述定的明証というものもあるというのだ。






