地震前に的確な震度を予測したという。予測といったらノストラダムスの予言でなく、予測。天気を予測しちゃったりする。それにしても、科学技術の進歩が目覚しい世の中である。もう、パチンコで身をかがめてパチンコ玉をとる必要はない。ロボット、サイボーグのたぐいをつかうのである。駅の改札員も、チョッキと切符きるのでなく、ロボットが切符きってくれたりする。キッチンからお茶の間まで歩かずに、リリーフカーで移動である。銭湯にて、お湯と水のボタン間違えないように、ガイドロボット大活躍。
未来を予測するのはたのしい。おれたちに明日はない、と若者がいう。おれたちに未来はない、とおじさんはいう。それでも、栄光の未来を追い求め、ボーリングにカラオケに日々いそしんでいるのである。こつこつとテレビゲームでもやって、つつましく生活し、昼は一生懸命、ごろごろして、ぶらぶらして棚からぼたもちが降ってくるのを真剣なまなざしでまっているのである。
未来は重要である。人間がなにか行動をおこすとき、かならず、未来に目標を置いて、それにむかってカニ走りするのだ。
哲学者ハイデガ―の投企である。またの名を企投である。逆さにしただけである。上から読んでも佐藤太郎、下から読んだらぐーぐーぐー。面倒くさくて寝てしまう。まず、ハイデガ―は人間のことを現存在と呼ぶ。私は人間であります、排便1000回、人間としては強者でございます。1000回使っても大丈夫。丈夫なアナをもっております。現存在とは、今、まさにここにいるんだ、っという意味をこめて、ちょっと力み気味に血管浮き立たせて強調する。浮き出た血管を見て、ヤブカがヨダレたらしてる。ヤブカが一日の疲れを癒し巣の中で、晩酌してる。ストレスたまってしょうがない。人肌恋しく、たかったところがシュークリームの上。一生の不覚。
人から完全に無視されちゃう。公園で四足で散歩してると、ウォーキングの女王こと、駄菓子屋のばあさんがベンチと思ってこしかける。街中でつったっていると、自動販売機と間違えられ、口に1000円札を強引にくわえさせられ、乳首押される。期待に答えようと、あたりはずれの電子音を口ずさむ。そんなとき、今、まさに自分は存在するんだよ、とコブシにぎって強調する。パーに負けてしまい、屈辱感からインドへと旅に出る。生まれ変わって帰ってくる。カエルになってる。本当にうまれかわってしまい、ちょっと恥ずかしくなって赤面。
現存在とは何か。自分はいろんなものにかかわってる。友人との電話で、今、何やってるの、と言われ、ゴリラの背中にかかわってる、とそっけなく答える。しばしの沈黙が続き、電話がきれる。アメリカンドックを食べるとき、ケチャップ、マスタードたっぷりである。これはご先祖様の遺言である。ケチャップはたっぷりたのむよ、というもの。無理な遺言のこしてゆく場合もしばしば。土星をちゃんと残さずたべなさい。とにかく、ケチャップとかかわってる。右手にケチャップ、左手にアメリカンドック。二刀流である。宮本武蔵あらわれて、不機嫌な顔。アメリカンドックでなく、ケチャップをかじってしまう。運動神経悪すぎである。歩いていて、自分のケツをけっとばしてしまい、ガードレールに越しかけてそのまま一人バックドロップではすまない。ころがって気がついたらサハラ砂漠。らくだにまたがろうとしてらくだに逃げられ、落下したのが砂漠のオアシス。湖である。いろんなものと人間はかかわってる。いろんな存在者にかかわってるのである。ところが、存在者はいっぱいあるのだが、存在そのものって何なのか、疑問がつのってとうとう不眠症。エスカレーターに乗って旅行してると、目の前に巻きグソ発見。ここぞとばかり、まきぐそにたかる。映画のみすぎでる。ぼくらとギンバエの冒険、という映画をみて、ギンバエの生きざま魅了されてしまったのである。すると、くそになりすましていたコブラ。いきなり、かみつかれる。キングコブラという存在者。キングコブラの存在そのものについて考えてるひまはない。ファイト一髪で、がけから落ちそうな友人の手をひっぱる瞬間。友人のささくれが気になる。ちゃんと栄養とってるのか、と聞いてみる。爪もきったほうがよい、とアドバイス。結婚線が多すぎると批判。とにかく、そんなこと考えてる場合ではないのだ。いろんな存在者の存在そのもの。自分にもっとも身近なものの存在そのもの考えよう。わきの下にはさまってる、ラグビーボール。もっと近くの存在者はおりませんか、と大声を出す。すると、自分が手をあげる。タクシーでなく、飛行中のロケットが止まる。自分自身の存在そのものがもっとも身近である。そして、自分の存在そのものとは、何かと問いかける。問いかけるとは、まったく知らないものなら問うことできず、よーく知ってるものは問う必要もない。なんとなく、自分の存在そのものについて知ってるのだ。これを存在了解という。そして、自分が自分の存在そのものにかかわってるということが、現存在の意味である。手鏡で、鼻のアナを埋めてる人。たしかに、自分の鼻にかかわってる。そうではなく、自分の存在にかかわってるのである。
人間、またの名を現存在。ときに、人間は刺激と反応によって生きてるっと政治家が石鹸の上で演説。石鹸の上は危ないよ、っと安全第一のスタントマンに貴重な助言をいただく。浣腸されて、ヴいーっ叫ぶ。ほくろを押されて刺激され、目が赤く光る。水族館にて、カジキマグロに遭遇である。ヨダレがたれる。悲しくてヨダレながす。涙腺が口とつながってる。お尻触られてもだえる力士。そのすきにわきの下の財布をうばわれる。刺激と反応で人間は生きてるんだ、と副話術の人形の独り言。また、感覚があって、意志があるとも考える人も結構いる。白くてやわらかい饅頭が目に飛びこんでくる。たまらなくなって、ズボンを脱ぎ始め、食べてしまう。食べるぞ、っという意志が発動するのだ。
ところが、ハイデガ―は人間は刺激と反応で動いてるとはいわない。開示性だという。開いているのである。大またおっぴろげて宇宙と世界がつながってる。社会の窓がオープンしてる人とはビジネスパート―ナーにはなっちゃいけねーっと酋長さんのお言葉。こんな開示性、世界にむかって開いてる、オープンである人間。世界、宇宙のそとで、爪楊枝くわえて静観してるのではない。世界の中に肩までどっぷりつかって世界にたいして開放的なのである。開示性は二つの側面がある。二つの顔を持つ男。二つの足を持つ男。まず、開示性の積極的な側面、父母会で積極的に手をあげる。親からは手をあげたほうが負けといわれる。積極的なところを了解や理解という。
世界、宇宙にあるものに、積極的にかかわる。いろんな存在者とかかわっちゃう。電柱のアナに指突っ込み、ラーメン屋のろうでできた見本をさわりまくって、だんご虫のおっぱいしぼったりと多忙な日々を送ってる。特定の存在者にカタメで狙い打ちする。これを理解という。たとえば、月を狙い打ちする。月とはなんなのかを理解したい。月とは衛星である、と主語に述語をくっつける。また、理解できないが、漠然と知ってるものを了解という。月とはなにかを理解するのでなく、月の存在そのものをなんとなく感じ取る。存在そのものは狙い打ちするのでなく、あわるか、さわらないかのところで、前進全霊でかかわってるのだ。
また、受動的、受身で消極的な側面もある。自分の意志でよっしゃーっという気合で金魚のふんをつまむのでなく、金魚にくわえられて体もっていかれる。後ろからうば車にはねられる。これは逆に、かかわられちゃってるのである。うば車にかかわられてる。座布団に支えられて、一家の大黒柱はあぐらをくむ。座布団に支えられちゃってるのである。やってるとやられっちゃってる。蚊を両足にはさんでつぶすという積極さと、背中にたかってる蚊にイボを食べられちゃってる消極さ。人間は世界、宇宙に舞えと後ろからはさまれちゃってるのである。消極的なかまれちゃってる、たべられちゃってる、の受動性。これは情態性となって現れる。情態性とは気分である。気分とは積極的にイイ気分になってやるぞとか、気合でイイ気分になってやるという類のものではない。突然、気分はおそってくる。朝、機嫌悪い人。朝飯の目玉焼きにめつぶし。気分は消極的で受身なのである。
さて、やられちゃった、さわられちゃったの受動性。もちろん、生まれちゃったというものがある。もぐらのアナからでてきてこんにちわ。自分が世の中に無防備に素っ裸でなげだされちゃったという受身中の受身。自分の意志では日本人であるとか、男であるとか、腕二本というのは注文できない全面的に受け入れざるをえないもの。これを被投性という。また、積極的にスーパーでいろんな食材に地獄突きという了解や理解。これを投企というのだ。読んで字のごとく投げ企てること。ヤカンをキャッチャーミットめがけて投げる。可能性にむかってなにかをすること。未来にむけて投企。スーパーでくろ豆発見。捕獲してやろうと、いちかばちか可能性である。べろがでてくる。ペロっとカメレオンのごとく黒豆をベロでゲット。
人間の行為はいろいろある。カレーのシミがついたTシャツがぶらさがってる、という日常から、ロボットのアクセサリーをつくる、という科学的な世界もすべて投企が重要なのである。足がしびれたから足をくずす。こんな地味な動きを全国放送で流されたら、自分の評価が落ちてしまうと考える。しびれをなくす、という目的をもって行動を起こす。未来の平和な世界をめざして足をくずす。未来にむけての投企である。道具をつかって、車をつくる。モンキー、スパナ、ドライバー。道具を使って車つくるののが目的。車つくるのは自分が乗るためである。乗るのは自分のため。最終的には自分のためにという輝かしい栄光の未来へむかって、ドライバーでタイヤつっついてるのだ。これも投企である。
近代科学は自然を数学で表現しちゃえという目的をもって、数学をつかう。数学的投企である。よこちんの幾何学的考察。数学的に表現するのが目的だ。
後期ハイデガ―は、明日にむかって走れという未来の可能性にむけてドジョウすくいする投企は、じつは、その人間が存在してる時代によって投企されちゃってる、とかんがえるようになる。投企されちゃった、とは、自分がどじょうすくいしてるのも、時代の大きな流れにながされちゃってる。いわば、流行にながされて体もっていかれちゃってるのである。江戸時代にはイモヨウカンをたべながら、殿様にむかって土下座、ひれふす。いつのまにか、時代によって自分の行動は決まってしまってる。これを自分の存在そのものにも影響あたえちゃってる、そんな大きな存在の流れということで、存在史となづける。
さて、哲学者サルトルは、輝かしい未来にむかって、肉屋さんで豚の細切れ100グラムを選択する。人間はとことん自由だという。そんな投企が大きなウェイトしめるのである。
メルローポンティーは意識的に口元についてるケチャップをベロを器用にぺろっと舐める投企の根底には、意識的ではない、身体、体の投企があるという。人間は意識的に友人の肩甲骨をねらいうちしてちょめちょめ攻撃するのだが、これを支えているのは自分の身体。そして、無意識のうちに身体が投企する。しゃべっていても、無意識に足の指が動いてる。別の生き物のようにうごいていて、テーブルの下にいたチーターが獲物だと思ってかみつくのである。
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