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2014年07月06日

仙人新聞 2014 7-6

仙人新聞 2014 7-6



2014 2-16

  

    プラグマティズムと環境主義についてである。テンテケテンテンっと言いながら児童公園でリズムに合わせて踊っている。ややもすれば、機動隊に囲まれてしまうようなそんなハイリスクな踊りだ。そう、リズムである。すべては周期的なリズムであり、種の誕生と破滅、さらには、意識するしない、というのも周期性を持っていたのだ。


   プラグラティズムについてである。プラグマティッシュというのは、実用的ということ。あのひとを褒め称えると、お年玉をくれる。もしこうすれば、ああなる、という仮言法である。これに対して、カントは何でするのか、なんていう理由、原因なしの、汝なすべし、という定言法を主張。これはプラクティス、実践という。

  プラグマティストの紹介なのだが、まずはパースである。パースはアンチデカルトである。デカルトは我思うゆえに我あり、といったとき、どうして自分の存在に気づいたのか。うちを見つめる内観。しかも、理屈抜きの直感である。この直感を否定するのがパースだ。すべてはなんのため、という記号の連なりだというのだ。


   ジェームスは真理っていうのがなんかそこにあるのでなく、つねに真理にしつつある、という真理化だという。

  このほかにも、間違っていたら謙虚に修正し続けて真理に近づこうというローティの可謬主義。胸の内側の心、外側の世界にわけるのやめようよ。心も世界もどっちも内側で、共同して、心と世界を作っているというパトナムの思想もある。


  また、なんかのため、ということばかりやっていると、これでは説明もできないものにぶち当たる。これが生だという。プラグマティズムは生の哲学と馬が合う。


   次の話は環境主義についてである。とりわけ、心の問題である。心というのはからだのなかにあるのだろうか。計算するとき、心は紙とペンのなかにある。何かに夢中の時、心はその夢中のなにかのところにある。心は脳どころか、体をはみ出して環境に染み出しているという思想だ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   すべては波動で周期性をもってる。太陽のまわりを地球をはじめとする惑星がまわる。太陽系もまたぐるぐるまわりながら、銀河の中心のブラックホールのまわりをまわる。ややこしいが、銀河円盤上をまわりながら、銀河をまわっている。

  なぜ、太陽系がまわっているかといえば、それは連星だからだ。宇宙におけるそのほとんどの恒星は連星、つまり、カップルで互いに回っているという。太陽の伴星はなんなのか。まだ、観測はされていないが、ネメシスという。太陽は生命をはぐくむ。つまり、生への欲望であるエロス。その伴星であるネメシスは死への欲望であるタナトスではないのか。互いにまわるのが2万6000万年周期であり、この周期で地球上の種は滅びるという。微生物、昆虫、一番有名なのが、爬虫類である恐竜。これはちょうど太陽系が銀河円盤上のオールトの雲に入り、ネメシスから隕石がやってくるからだという。このように、宇宙における周期が種の誕生と消滅にかかわる。


   つぎに意識についての周期性だ。量子論だと、箱のなかの猫はあらゆる状態がかさなり、これをあけたとたん、意識することで、ひとつの状態に収束するというのがコペンハーゲン解釈。すべての状態に分岐するというのが多世界解釈。そして、自然状態で収束するという考えがある。これがロジャーペンローズである。重力による収束という。確率の状態がどんどん増えてくる。すると、飽和状態になり、おもわず、きゅーっと収束してくれるなにかが現れる。それが脳におけるマイクロチューブルだという。人間だけでなく、湖中も皆そうである。この宇宙は波動状態で、いろんな確率の世界が増え続け、マックスになると、脳による意識、すなわち、マイクロチューブルによる収束が行われる。だから、プラグマティッシュなシステムのなかに脳、意識があり、宇宙は意識、心あってこそ成立する。私がいま床を意識したのは、床の確率波がマックスになって収束してほしかったからだ。


  三つの世界がある。プラトン的数学世界。物質世界、心の世界だ。最近の研究だと、どうもプラトン的数学世界における実体なき情報が物質の元であることがわかった。スピンやスピノールだ。さらに、そんな脳が心の世界を生み出し、心の世界がプラトン的数学世界を産む。論理的に考えたりする世界だ。この三角形がぐるぐるまわりながら成立しているのである。


   
2014 2-22



    主体性と真理対応説についてである。宇宙丸ごとがあたまのなかにあるなんて信じられない。それこそ、冷蔵庫のなかの豆腐が納豆とよなよないちゃついている、という話のほうがまだ信じられないくもない。あたまのなかに宇宙があるにはある種の重大な操作が必要だった。だから、ひとは、生命は主体的だったのである。


  主体性についてである。実体っていうのは、自分との一致。だから、じーっとしている。豆腐は実体であって、主体的に踊ったりしない。主体とは自分であろうと常に活動しているのだ。自分を中心に世界がひろがってみえるのだ。パースペクティズムともいう。いわゆる遠近法主義。近いものは大きく、遠くのは小さくみえる。壁があったらその向こうが見えない。ところが、プラトンのイデア論しかり、デカルト的自我もそうだが、宇宙の外から、すべてを実体としてみる。


   次の話は真理対応説についてである。古典的な真理観である。心のなかのイメージの配置と、宇宙のすべての配置が対応していて、一致していたら、それは真理だというのだ。現代に甦った真理対応説。これが前期のヴィトゲンシュタインの写像理論。文、命題っていうのは、宇宙の出来事、事象に対応しちゃっている。文のなかの単語は宇宙の事物に対応だ。世界、宇宙の構造と文、命題の構造が同じであるとき、この対応は生まれるという。

  
   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    前回、宇宙における時空の最小単位、これがプランク長さであり、プランク時間だといった。原子が自然状態で崩壊するように、プランク時間のあいだはいろんな状態が重なった波動であったものが、プランク時間経過後に崩壊して、粒子性に収束する。波動状態が心だという考えから、プランク時間の波動はみえない。ところが、相対論における観測者同士の運動状態による時空の伸び縮みによって、プランク時間内の波動が引き伸ばされてみえることもあり、これが生命の心と感じるのだ。


  前々回、宇宙大規模構造は脳のシナプス結合と構造上名時だといった。私の脳のなかに宇宙があり、そんな宇宙のなかに住んでいる。

  この二つの考えを融合したい。心のなか、脳のなかの出来事が大宇宙の出来事と一対一に対応している。時空と越えて情報伝達する非局所相関だ。そして、無限宇宙が自分の心、脳のなかに入る。このとき、有限のなかに無限を入れることになる。有限のなかに無限を表現する座標系がペンローズ座標系だ。われわれが主体的に、遠近法的にものをみる座標系はこのようなペンローズ座標になっているのだ。だから、主体性とはペンローズ座標系だともいえる。



2014 2-27


    我汝とミーメーシスについてである。散歩をしていると道端に一輪の花をみつける。微笑ましくなって、忍者のごとくすばやく後ろに回りこみ、花粉を採取し、ばくてんして立ち去る。さて、花っていうのは太陽の光を浴びて成長するのだが、人間はなんの光を浴びて意識活動を営んでいるか、という深遠なことを思い、いてもたってもいられずに思わず、でんぐり返しをする。

  ブーバーの我汝についてである。世界っていうのは最初になにがあるのか。一人称の私、二人称のあなた、三人称は彼ら、それらだ。三人称のそれらが最初にあった場合。つまり、岩石や原子たちだ。それらから私とあなたは出来ているというのだから唯物論。一人称が最初にあったら、自己中心的な独我論。私が最初にいて、あなた、それらがあるということになる。このいずれでもなく、最初から私とあなたというのがセットだという。そして、ブーバーはとりわけ、永遠のあなた、汝を神様だという。


   次の話はミーメーシスについてである。ミーメーシスとは模倣のことだ。物まねである。プラトンは、物質というのは純粋なイデアをまねているといった。ピュタゴラスは万物というのは、数をまねて作られているという。ミーメーシスは人が成長したり、文明が発達するうえで必要だとよくいう。技術は自然の模倣だという。


   まとめ


   存在の科学



    異次元理論


 
   花っていうのは太陽の光によって成長する。太陽光には複数の光の波長がある。波長によって、葉っぱや花、茎というように成長因子がちがうという。そして、なによりも、花は自らの糧である光、太陽に似ているだ。放射状に広がっているのだ。これはミーメーシスである。

  神は自らの姿に似せてひとを創ったという。ひとに糧を与えている神様もきっと人に似ている。ひとはあたまと両腕、両足がある。五ぼう星なのだ。神様から与えられるエネルギーも五に関係しているにちがいない。五次元からやってくるのである。


   脳のなかにマイクロチューブルという管があり、これはチューブリンという物質でできているという。ここでなにが行われているか。時間の最小単位はプランク時間という。このプランク時間のあいだは出来事はユニタリ、すなわち、状態が重なった波動なのだ。生きている猫、死んでいる猫、遊んでいる猫、すべてが重なる。プランク時間経過すると飽和状態のようになり、自然に収束。これらは計算可能なのだが、どの状態に確定するのかは計算不可能。これは自由意志や偶然の引き起こすなにかの因子がある。これが植物でいう太陽光に相当するなにか。光、フォトンではなく、五次元からくる光速を越えたタキオンかもしれない。相対論を無視しなければ、時空を超えた謎の非局所相関かもしれない。いずれにしても、これが五ぼう星ではないか、と考えられるのだ。


   我汝、永遠の汝である神様と対峙して、恵を与えられているのである。


2014 3-1


  
    記憶の即自性と人格の記憶説についてである。昨日食べたごはんを思い出す。そもそも、昨日の自分といまの自分が同じなのだろうか。記憶は一体どこにあるのか。夕飯に朝飯を食べ、朝飯におやつを食べた記憶が甦ってくる。


   哲学者ベルクソンの記憶の即自性についてである。その昔、記憶とはなにか、といろんな人達が考えた。イギリス経験論のロックとヒューム。かれらはなんと記憶っていうのは、知覚とか印象の濃いやつだという。一瞬みえたハエ。残像としてわずか三秒。記憶はそれが濃く残っているものなのだ。現代ではベルクソン。体で覚える身体的記憶というものがある。そうではなく、純粋記憶というものは脳に蓄積されていないという。なんと、脳はアンテナだという。記憶はそこらにそれ自体であるという。目は色、形を感じるアンテナ。耳は音だ。耳ではものは見えない。脳は目には見えない記憶とアクセスしているという。


   次の話は人格の記憶説である。昨日と同じ人間、人格だとなぜいえるのか。人格の身体説では、同じ身体だからだという。ところが、身体は新陳代謝だってしてるし、同じだといいきれない。だから、昨日のことを覚えていれば同じ人間だというのだ。これまた、ジョンロックの説である。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   電磁波が飛び交い、そこには情報が載っている。電磁場は時空のなかでなく、時空と並行して重なっている。量子場、重力場もそのようだと思われる。ケータイやラジオの情報は電磁波にあるのだ。そこの周波数を合わせれば聞こえる。人間の記憶もまた、個人記憶場というのがあるのだろう。そこにそれ自体で記憶がある。周波数をあわせて記憶の蓄積、引き出しを行う。脳のマイクロチューブルにおいていろんな並行状態が重なり、自然収束をしてひとつにかたまる。このとき、ひとはクオリア、感じるのだ。同時にこのときに記憶場に刻印される。

  個人記憶場は支流である。大河からわかれた支流だ。人類記憶場があり、これは無意識に作用してさまざまな本能をうむ。さらに、生命記憶場もある。生命活動、細胞の活動もここから汲み取られる。もっと根本には無機物の場もあり、最終的には宇宙誕生のときから続く場があり、波長がある。宇宙マイクロ波放射だ。ビッグバンのときの光が伸ばされていまもまた空間を漂っているのだ。



2014 3-5



    鏡像段階と絶対精神についてである。なんでも吸い込むブラックホール、掃除機なんてものじゃない。そんなブラック企業ならぬホールは宇宙にとってどんな機能を果たすのか。なんとそれは鏡であり、宇宙の自己意識の証である、というお話をしたい。


    ラカンの鏡像段階についてである。精神分析学のラカン。赤ん坊はおぎゃーっとなくが、自分の身体がばらばらでコントロールできていないという。さすがに成人になって、あぐらをかいた自分の足をみて、曲者っと叫ぶものはいない。右手と左手のチームワームが乱れて珍プレー。拍手失敗して顔をはさむこともない。赤子は自分の身体を統合しようとする。鏡をみて統合するのだ。実際の鏡でなしに、それが親だったり、他人だったりすることもある。この統合の働きが後にひとの努力になるのだという。


  最初に自覚があって、そのあとに疎外があるのではないという。社会にでて最初に疎外があって、そこから統合するのだという。人格はなんと分裂、パラノイアだというのだ。


   次の話はヘーゲルの絶対精神についてである。個人の自己意識はいつしか物心がついて、自意識に目覚める。そして、ぞうきんやふきんはただあるだけの実体だが、ひとは主体的だ。宇宙は実体、ひとは主体というのが常識っぽいが、じつのところ、ヘーゲルの考えだと宇宙も主体性だという。そして、ついに、自分が宇宙であると気がつき、絶対精神になるという。



   まとめ


   存在の科学



   異次元理論


    ブラックホールは鏡だった。前回はなしたように、鏡は左右対称ではない。右手は右手、左手は左手、あたまはあたま、足は足がうつっている。じつは前後反転している。本来なら自分の背中が見えるはずだが、背中が胸、腰が腹、後頭部が顔面に反転だ。これまた、以前はなしたが、物の見えない裏側は引き伸ばされて、そのものの背景になっているといった。だから、鏡にうつった自分は自分の背景である外界宇宙。ひとの心もみえない。よって、そのひとをとりまく外界宇宙の現われ。ブラックホールの事象地平面は原理上見えない。だから、これはブラックホールの背景であるこの宇宙そのものだ。ブラックホールはその存在は間接的に観測されるが、これは鏡なのだ。だから当然、前後反転している。ひとでいえば前後とは自分と他人、主観と客観である。これが反転。つまり、自他、主客が逆になっているのだ。

  宇宙における鏡とは宇宙における鏡像段階、つまりは自意識の目覚めである。宇宙やひとには二つの気づき、アウェイネスがあった。ひとつはそのひとの誕生、宇宙誕生のビッグバンという特異点。もうひとつがそのひとの自意識の目覚め、宇宙においては二つ目の特異点であるブラックホールである。



2014 3-9



    真偽を越えた世界と観念論についてである。イメージが膨らんでくる。あの岩石の後ろでミミズがすもうをとっているイメージだ。イメージの増殖はまるで細胞増殖であり、これはじつに同じものであった。

  真偽を越えた世界についてである。真か偽か、というのは有意味なものだ。真偽のどっちかの値をもつとは、実際、自分の目で観測、観察すること。だから、しゃべるひまわりとか、黄金の山は実在しないので真偽の検証できないから真偽こえちゃっている無意味なものになる。

  こんな真偽のないものは、存在とか、存在しないとか関係のないレベルのもの。マイノングはこれを超存在と名づける。

  フレーゲは真偽を持つのが意味、真偽関係ないものを意義といった。


   次の話は観念論についてである。すべては自分のなかの夢だとか、りんごを見ているからりんごがあるというバークリの実質的観念論。これらは主観的観念論とよばれる。ところが、私のなかの観念でなく、そもそも、この宇宙がなにものかの観念だというのが、客観的観念論であり、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   脳細胞のなかのマイクロチューブルは周囲の環境から隔絶された孤立系。だから、そこではいろんな状態が重なっている波動なのだ。このなかの波動が自然に収束するのはしきい値を超えることだが、このときの収束の度合いを決め、どの状態になるかを決めるのが計算不可能な何かが関与している。これが中心体の関与だ。

  細胞のなかの中心体は細胞分裂をさせているもの。生体煮を意地する代謝もこれだ。ところが、脳細胞は増殖しない。中心体の役割はさきほどいった計算不可能な収束の度合いと状態の選択のときに働いているのだ。つまり、肉体を成長させるなどの細胞内の中心体は細胞分裂。脳細胞の中心体はイメージ増殖にかかわっている。イメージ、観念の世界も肉と同様に増殖するのだ。


  ゾウリムシには神経がない。それなのに、獲物を捕らえるときに記憶をもっているという。なぜなら、ゾウリムシの内部にはマイクロチューブがある。つまり、脳細胞と同じなのだ。脳がゾウリムシともいえるが、この地球、否、宇宙には微生物がたくさんいるが、それらがマイクロチューブルをもつ脳細胞の役割を担って、ネットワークを形成し、地球や宇宙の精神活動を生み出す。


2014 3-13




   哲学的ゾンビと総合統一についてである。こたつのなかでそよ風を感じる。押入れのなかで川のせせらぎ。ひとはなにかを感じるのだ。感じることはどこで何が起きているのだ。じつに全宇宙の歴史を巻き込んだ壮大なプロセスだったのである。


   哲学的ゾンビについてである。ゾンビっていうのは気持ちのこもった贈り物をしない。なぜなら、人と同じような反応があるが、なにも感じていないのだ。感じることをクオリアという。笑ったり、怒ったりするけど、ほんとうになにか感じているかは証明できないのである。ドロ人間というパラドクスも同じだ。ドロで作った精巧な人間のようなものでも、果たしてクオリアがあるかわからない。


   次の話はカントの総合統一についてである。色、形、音、においなど、感覚っていうのは雑多だ。これらがばらばらだと、りんご一個ですら認識できない。雑多な感覚を総合し、集めちゃう。次にこれをまとめて統一する。これが悟性の働きであり、そのとき初めてりんごを認識できるのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    りんごがある。このとき、感覚には終点がある。色、音、においも対象物であるりんごが終点になっている。もう片方の終点、または始点はどこか。私自身なのだが、はたしているのか定かではない。これらの対象物と繋がる感覚を束ねているのが閉じた時間なのだ。以前話たが、論理的に可能な並行世界が全部あるなら、閉じてしまった時間もあるはず。閉じてわっかになると、未来が過去、過去が未来になって因果律が成り立たない。因果律がないというのは自由意志のことだ。また、このわっかはカントのいうりんごという現象の背後にあるりんごそれ自体、つまり、物自体とつながる。物自体は因果律がないから、じつは自由意志をもった私だった。だから、ここで閉じた円ができる。

 二局面理論というのがある。人間そっくりなロボットと理解力、クオリアのある人間は区別できないというもの。中国語パラドクスともいう。中国語の発音を意味もわからず機械的に暗唱。他方、理解してしゃべっている。どっちが理解しているか傍目からはわからない。クオリアはどこにあるのか。


  ひとはなにかを感じるがどこで感じているのか。ひとのからだは細胞の集まり。細胞とはいわゆる微生物のようなもの。骨は無機物だ。宇宙誕生からいままで、地球誕生から生命の歴史、そして、すべての生命が感じたことが閉じた時間で瞬時に回転しているのだ。骨は無機的世界。細胞はバクテリア、微生物。それでは動物、とりわけ、爬虫類や両生類はどこか。以前はなしたが、細胞は中心体によって分裂増殖だ。ところが、脳細胞はマイクロチューブルのなかの量子を収束。イメージ世界を増殖させているといった。イメージのなかにさまざまな動物たちが、歴史上現れたすべての動物個体のクオリアがひしめいている。そしていまにいたり、ビッグバンにもどって円になる。空間中のなかの点としてわれわれはいるのではなく、その点はいままでの全歴史上の生命個体のクオリアを瞬時に体現しているのである。今何かを感じているとは、いあままでのすべてのものたちのクオリアの総合統一されたものだった。


2014 3-16




    行為的直観とサルトルの想像力についてである。いきなり神社仏閣的な話だが、無と空である。あたまのなかに無を生み出し、空がうまれる。脳と量子と空について考えたい。

   西田幾多郎の行為的直観についてである。自転車に乗る。もちろん、ニケツはいけない。障害物を認識し、すばやいハンドルさばきだ。なにかを直感し、次に行為しているのか。そうではなく、見ながら動いている。刺激と反応のあいだに私っていうかたまりがあるのか。そういうものはないというのだ。主体とは無いこと、去りつつあることだという。


  次の話はサルトルの想像力についてである。やまちゃんを観察。観察っていうのはいろんな視点からみるのだが、全部はみれない。足の裏を見るのを忘れる。ところが、わけあってやまちゃんが不在だ。こんなとき、想像する。これを準観察という。どこからみたわけじゃないやまちゃんそのもののを瞬時に思い描く。概念知だ。また、後姿も想像できる。だから、想像力は時に観察よりも実在感たっぷりだという。よって、これが想像なんだよ、という謎の非現実化作用が働くという。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   脳細胞のなかのマイクロチューブル。秩序化された水に満たされ、周囲の環境から孤立。だから、官のなかは無。構成要素であるチューブリンという二種類の蛋白質が重なり合う。世界が重なりあうのだ。論理的に可能な世界が重なるのが無。すべてが重なると無。すると、周囲環境との断絶ゆえに別のものと繋がろうとする。空間を越えて別の脳細胞、別の細胞とネットワークを築く。これが生体ネットワークである。行為するとき、なにかを感じるクオリアなどは無によって生まれる。

  マイクロチューブルのなかの重なった可能世界のおのおのは別々の法則で活動。だから、これまた互いに孤立している。究極の無、空なのだ。こんどは空間を越えるどころか、時空を越えて過去、現在、未来のいたるところと時空ネットワークを築く。これが想像力であったり、外界のりんごを自分のなかに像にしたりする認識。宇宙、世界全体の存在感を生み出す。これが空によってなされる。


  行為的直観は無であり、想像力は空だといいたい。


2014 3-19

  続き

 
  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   りんごとたわしとやまちゃんは同じものの別の側面。たしかに、やまちゃん自身は正面、後姿など多面的だ。これをまとめてやまちゃんの全体像。ここにはコモンセンス、共通する原理原則がある。りんごとわたしが同じひとつのものに見えないのはその原理原則をもっていないだけだ。いろんなりんごがあるが、りんごそのもののイデアの多面的な見え方ともいえる。すべては一なるものの現れともいえるのだ。

  外界は自然数で、しかも、時間と空間の座標系でみる。もしくは実数の時空座標系だとしても、それ以外は虚数の世界、複素数座標系。だから、外界ではない、うちなる心の世界は複素数座標系だ。これらもひとつのものの別の表れである。座標系は任意に設定できる。同様に、原理原則も任意に立てることで、どれが同じものの別側面なのか、ということも自在に変化してしまうのである。


2014 3-20


   還元主義と実践的惰性態についてである。斜面から小砂利が転がってきた。もちろん、小さな考古学者が懸命に逃げているシーンが思い出される。物体っていうのは重力や引力で動く。これに対して、自由意志、意識っていうのはそうではないとおもわれる。登山家はそこにあるから山に登る。そこにあるからクッキーを食べる。登山家は重力に反して斜面を登る。ところが、意識も物体も同じ重力による活動だったのである。


    還元主義についてである。あらゆるものはなにかでできてるんだ、という発想だ。すべてをなにかに還元しちゃうのだ。すべては原子でできている。靴下だって、靴べらだって、人間もまた原子の集まり。これが原子論とか、唯物論という還元主義になる。すべては魂だ、というのも同じ。また、すべての価値を金に換えてしまうのも、経済的な還元主義になる。


  唯物論といっても、マルクスいわく、正当唯物論と俗流唯物論があるという。俗流唯物論とは科学的唯物論だという。科学っていうのは、世界、宇宙の外に立って、冷静に世の中をみる、いわゆる、デカルト的自我だ。ところが、人間をも含んだ唯物論が正当唯物論だというのだ。


   次の話はサルトルの実践的惰性態についてである。サルトルは、ひとっていうのは絶対的に自由だという。存在するしない、自分の性別、これらすら自由意志によるという。ところが、斜面を転がる石ころは惰性的だ。ひとがたくさんあつまって集団になると、なんと自由意志が消えて惰性的に振舞うようになるという。


  まとめ


    存在の科学



 
   異次元理論



   物体は重力や引力によって動く。斜面を転がるらっきょもそうだ。大気だって、重力や引力によって生み出される。木っ端も重力による風の影響で動く。人間や生命は自由意志、意識活動によって活動する。ところが、そんな生命だって、脳細胞のなかのマイクロチューブル内の可能世界の重ね合わせの崩壊によって意識が生まれているのだ。可能世界は重なるが、おのおのの時空世界は質量分布によって曲率がちがうので、重ねると崩壊し、収束する。時空の曲率とは、アインシュタインは時空のゆがみ、曲率だと考えた。つまり、重力の違いが可能世界の収束、意識を生み出していたのである。同じ重力によって、物も精神、意識も動いていたのだ。


2014 3-22



  超弁証法とアナロギアについてである。教育番組のお兄さん、おねえさんが子供たちといっしょにぐるぐるまわってぽーん、とジャンプしていた。まさしく、宇宙が生命であるとは回転なのだ。そんな大きな宇宙と小さな宇宙であるわれわれ生命体は独自の仕方でひとつだった。


  メルロポンティの超弁証法についてである。弁証法といったらヘーゲル弁証法である。矛盾しあうものが出会う。最初は対立だが、いつしか融合して新しいものになる。これが世界の原動力だというのだ。ところが、メルロポンティはこれを醗酵をやめた死せる弁証法だといった。AとBが矛盾しあってCになる。AとBはいなくなってしまう。そうではなくて、水の入ったバケツをぐるぐる回しても、中心に向かおうとする向心力、外にいこうとする遠心力は融合しない。回転運動をおこすのだ。コインの表と裏も、合体してふにゃふにゃっていうわけのわからないものにならない。表は裏に、裏は表になろうとして回転する。


  次の話はアナロギアについてである。健康的な、という言葉がある。健康的なひと、健康的な便、健康的なドリンク。健康的な、はひとつだが、いろんなものにくっつく。

  そのなかでもとりわわけ、存在そのもの、神さまはすべてにあまねく含まれるという。存在そのものは一なるもの。これがペン、消しゴム、やまちゃん、机、椅子っていうように、すべてに多くのものに当てはまるのだ。これが存在のアナロギアという。


  まとめ

 
  存在の科学


   異次元理論


    地球は自転し、さらに太陽のまわりを公転し、太陽系も連星ネメシスとともに回転し、これがさらに銀河をまわる。回転の回転の回転。いわゆるその軌跡はばね、螺旋構造になっている。螺旋は生命であることだ。大宇宙は大いなる生命なのだ。地球に定着する植物たち、じーっとしているものたち、瞑想でもよいのだが、この螺旋軌道をおのずと描く。大いなる宇宙生命の一部になるのだ。また、生命体、意識体は小さな完結した宇宙でもある。意識は螺旋状の活動であり、遺伝子も同じだ。

  さて、このミクロな完結した宇宙である意識と大いなる宇宙生命はひとつだといいたい。ただし、大きなものがミクロと円をなしてつながるウロボロスの蛇はただの円ではない。一なる大いなる宇宙がミクロと繋がる時、多様化、多義的になる。いわゆるアナロギアである。だから、ここの生命意識は大いなる宇宙とひとつだが、多くの意識、生命となって現れるのである。


2014 3-24



  ゲシュタルト理論と否定は規定、についてである。私はいる、りんごは存在する。便器がそこにあるだけでなく、そんな便器をみつめてしみじみする。つまり、存在から認識へと変貌するのだが、存在と認識は同じシステムだったのである。


  ゲシュタルト理論についてである。部分が集まって全体になるのではない。りんごをみているとき、りんごっていうかたまりが空間にあるのではない。被写体であるりんごと背景の青空が関係しあいながら輪郭がでてくる。部分は全体と直結しているのだ。視覚的だけではない。私っていうかたまりがあって、それが動き、行為するのではない。私と世界はくっきりわかれていない。環境とのやり取りで、私は世界を変え、世界は私を変える。ここにもゲシュタルトがあったのだ。


   次の話はヘーゲルの否定は規定についてである。りんごがある。りんごとはなにかと規定するには、それはみかんじゃない、バナナじゃない、と否定しないといけない。つまり、りんごはみかんじゃないという否定によって、規定されちゃっているのだ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    まずは、すべての可能なかぎりの状態は重なっているとシュレディンガー方程式はいっている。これがユニタリである。このうちひとつの状態に収束。これがリダクションである。これらはブラケットという行列で表される。行列の成分は、生きている猫をみて喜んでいる私とか、死んでいる猫をみて悲しんでいる私という状態。この行列の対角成分の片方は矛盾したあらゆる状態が重なって相殺して0になる。以前、話たが、すべての状態が重なると相殺して無なのだ。だから、逆に無はすべての状態が重なっている。こうやって残り対角成分がリダクションして、状態が決まる。まず最初に、無と存在、これらのゲシュタルトがあるのだ。無の背景と存在の被写体。つぎに、存在のなかでも同じことがおこる。対角成分の一方が相殺して、残りが具体的な存在者になる。りんごや机だ。そして、さらに存在者のなかで対角成分の無化、相殺がなされ、残存するは、見えている机の表側と見えていない机のなか、後ろなどに分かれる。つまり、存在論と認識論はこうやって連続的に同じ構造で繋がっているのだ。陰は存在、陽は無。陰のなかもさらに陰陽にわかれ、これが陰中の陰、陰中の陽になる。さらにそんな陰もまた陰陽に分かれる。これと同様に、存在と無のゲシュタルト。存在はまた、存在者と否定的存在者。存在者は見えるものと見えないものに分かれる。



2014 3-26




    生活世界と先入観についてである。唐突なのだが、おそらく目覚まし時計の呼び鈴代わりにこの文言が聞こえると飛び上がるかもしれない。地球はたまごだった。しかも、鶏のたまごっぽい、というお話をしたいと思う。


  哲学者フッサールの生活世界についてである。鍋とか、やかんをありのままにとらえるふつうの見方を自然的態度という。さらに、鍋は元素なんたらでできている、と捉えるのは自然主義的態度、科学的態度である。また、別の言い方では、ひととか、物、野菜、食い物、ふつうの生活の世界が人格主義的態度といわれる。


   次の話は先入観についてである。先入観は捨てちまえ、とよくいう。やはり、先入観を扱った哲学者といえば、フランシスベーコン。四つの先入観が人間にはあるという。この先入観をイドラという。これを克服できれば、真理みえちゃうという。

   また、現代ではガダマー。先入観はむしろ必要だという。散歩中にひととすれ違って腰を抜かさない。ひとにちがいない、という先入観がたっぷりあるからだ。犬だって、猫だって、なにかをそのようにとらえるには先入観がないといけないというのだ。


    まとめ


   存在の科学


   異次元理論


    地球はまるでたまごのようだ。楕円形をしている。姓名が誕生し、そして、地球に帰る。たしかに、通常のたまごならば、表面に生息し、また、殻のなかに帰ることはない。高度に進化したたまごなのか。鶏のたまごは黄身と白身がある。地球は中心核とマントルがある。おそらく、マントルはたまごの白身部分のように栄養になっているかもしれない。たまごのからざは地球の内部にもそれに相当する重要器官があるかもしれない。細胞も同じような構造をしている。

  さて、われわれは歪んだフィルター、先入観を通して世界をみる。ハエも複眼で世界をみる。どっちが正しい世界なのか。どっちも歪んだ世界を見ている。ユクスキュルの環境世界だ。ニーチェの遠近法だ。フィルターなしの真実の世界なんてないのかもしれない。われわれの先入観フィルターを通すと、大宇宙は無味乾燥に見えるようになっている。地球はたまごで、鶏のようなもののたまごで、ふつうに大宇宙は生活を営んでいるかもしれない。ただし、生命の生存にとってそれは巧妙にフィルターでマスキングされているのだ。


2014 3-28



     統覚と感覚論についてである。目で物をみる。舐め回すようにみるつもりが実際に舐めてしまって号泣。心の鼻で匂う。こうやって五感というものがあるが、脳もまた感覚器官なのではないか。また、潜在意識でひとはなにをしているのか。やまちゃんと斉藤君をやっているのである。


   哲学者カントの統覚についてである。経験的統覚というのがある。個性のある自分のおおもとだ。好き嫌いとか、考え方などは傍目から経験できちゃうからだ。そのずーっと奥に根源的統覚がある。人類共通の普遍的自我のことだ。すべてはたったひとりの自分にいきつくのである。だから、やまちゃんと同じりんごがそこにあると共有できるし、共感できる。


   次の話はコンディヤックの感覚論についてである。ブロンズ像がある。もちろん、心、魂はないとおもわれる。この像の目を開放する。視覚を得る。もちろん、仮想実験である。鼻を開くと、においがわかるようになる。こうやって五感をひとつづつ開いていくと、じつはその延長上に観念があることがわかるという。観念と感覚は同じなのだ。

  また、皮膚感覚、いわゆる、触覚が重要だという。机をなでる。自分のひざをなでる。ここにはちがいがあるのだ。自分のひざを手でなでると、同時に、手はひざになでられる感覚が生まれる。二重感覚である。机には二重感覚がない。ここに私と世界とはちがうんだという主客はうまれる。さらに、見ながら風を肌で感じると、運動感覚が生まれる。自分が動いているっていう感覚だ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   五感だけでなく、脳もまた感覚器官ではないのか。ベルクソンがいうように、記憶っていうのはみえないが、脳がアンテナとなってそこらにある記憶を感じる。それだけでない。脳細胞のなかのマイクロチューブル。ここは遮蔽されているから、いろんな世界が重なってしまう。これが潜在意識レベルだ。このとき、重なった波動世界を感じるのが脳なのだ。想像力とは脳という感覚器官が感じ取った感覚。並行世界が重なっているから、ウマとひとがかさなってケンタウルスになる。

  このユニタリ、並行世界の重ね合わせの潜在意識は同時に他者のすべての心を感じている。並行世界とは他者の心だと以前いった。潜在意識において、無数のひと、生命個体の心になっているのだ。夢もまた、他者からみた世界をみているのかもしれない。


   
2014 3-29




   一元論とイマージュ論についてである。すべては一なるものだ、と叫ぶ。ひよこ饅頭だって、ハーレーダビットソンだって、やまちゃんだって、すべてはなにかひとつのものだ。それが具体的になにかわからず、あたまをかしげて耳垢が肩に落ちる。時空のゆがみ、すなわち、すべては重力だ、というお話をしたい。


   一元論についてである。古代ギリシャではまずパルメニデスの存在の一元論。あるものはある、ないものはない。ただそれだけだという。しかも、考えるっていうのは存在そのものだという。さらにプロティノスのト・ヘン。ト・ヘンとは一者ということ。ここからヌースという法則、理性がうまれ、ここから万物が流れてくるという。ドイツにおいては自我も非我も全部同じだ、というフィヒテの同一性の哲学。のちにベーメの神秘思想の一元論を経て、ついにはシェリングの絶対無差別の思想だ。シェリングは絶対者がなぜ悪をうんだのか、理解しがたかった。そこで、絶対者や善悪をもつ魂、これらをすべて生み出した無底というものをみつける。


   次の話はベルクソンのイマージュ論についてである。これは現代の一元論である。心のなかで思い描くイメージ、観念。壁のむこうはイメージでしかない。壁のむこうを実際にみると実在感たっぷり。観念と実在っていうのは、同じひとつの表れであり、流れのなかで観念っぽくなったり、実在っぽくなるのではないか。この一なるものがイマージュである。自分のからだは全部みえない。盲腸を想像してみる。靴下のなかの指毛に思いはせる。これは身体的イマージュだ。宇宙はすべてがみえない。だから、イメージと実在が混ざる宇宙論的イマージュだ。宇宙論的イマージュのなかの身体的イマージュだという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    意識と物体はただひとつの重力の現れなのではないか。脳細胞のなかのマイクロチューブルは高度に秩序化された水に満たされ、外界とは情報が絶たれている。いわば、純粋空間だ。だからこそ、いろんな世界がシュレディンガー方程式にしたがって重なる。重なるとおのおのの世界の時空のゆがみ、曲率の違いによって自然崩壊する。これがリダクション、収束である。時空のゆがみとは重力のこと。だから、プラトニックな純粋空間内での重力が意識になる。物体は周囲のものといろんな関係性にある。情報のやり取りがすごい。こういう環境と密接に繋がっている雑然とした空間内での重力が物体になる。すべては重力、時空のゆがみだった。


  もうひとつ。あまり本題とは関係ないかもしれない。姓名が死滅するときの意識状態についてだ。マイクロチューブル内で世界が重なり合っているのが潜在意識。これが自然崩壊して収束してひとつになるのが顕在意識、覚醒意識。死滅すると、マイクロチューブルを覆う秩序化された水分がなくなる。すぐにリダクション、収束してしまうのだ。つまり、潜在意識、無意識のきわみでなく、むしろ、覚醒意識のきわみ、ハイパーリアルな状態になるのかもしれない。


2014 3-30



   時間意識と被投性についてである。ファミレスでまずは水がきた。水を一気に飲み干し、全身が潤う。水とはなんだろうか。もっともポピュラーなものだが、水はなんと記憶媒体であり、もっといってしまえば、水が時を生み出していたのだ。そんな不思議なことを考えてみたい。

   時間意識についてである。意識は時間的なものという思想。フッサールでは、意識というのはちょっと前の過去、今この瞬間の印象、そして、ちょっと先の未来をつなげているという。過去把持、原印象、未来予持である。そして、意識の奥底には絶対的意識流があるという。流れを感じるとは、止まっていないといけない。同時に流れていないといけない。流れていると同時に止まっているのが絶対的意識流だという。

   ベルクソンもまた、意識っていうのは過去、現在、未来がぎゅーっと濃縮、凝縮されたものだという。空間とか、物質は希薄、弛緩したもので、今、今、今というように、時間のつながりがない。

 
   次の話はハイデガーの被投的企投性についてである。おぎゃっと生まれたとき、自分のどこの生まれで、性別、そもそも、人間であることなど、自由に自分で選べない。膨大な歴史の流れが押し出して、そうなったのだ。世界に投げ出されたという事で、これを被投性。このなかで、未来を企てる。これを企投性という。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    水は記憶能力をもつという。ミステリアスソリッドといい、水だけが固体になったとき、体積が増える。そして、水に何かを入れると、どんなにろ過しても情報蓄積するというのだ。通常、記憶媒体といえば、メモリ、ハードディスク、石版、紙といった固体。地球や宇宙は生命がいないとき、必要な過去の情報を水に蓄積していたのである。


   脳細胞のなかのマイクロチューブルは秩序化された水に満たされる。これによって外部環境とやり取りを100パーセント遮断し、チューブ内に並行世界の重ね合わせがうまれる。個々の並行世界の重力、すなわち、時空のゆがみのズレがついには自然崩壊を引き起こし、リダクション、収束するのだ。これが潜在意識から顕在意識への移行だ。このとき、収束を起こすのは重力だが、どの世界に収束させるかのトリガーになるのが取り巻いている水なのだ。水の過去の記憶が選択するのだ。いわゆる、ハイデガーの被投性がここにある。


   水は時の流れの象徴だが、まさしく、水が過去とのアクセスを可能にし、時間を生んでいるのだ。


   意識は水によって時間感覚を得る。外界はどうかといえば、無時間なのだ。数学的、幾何学的な永遠世界。プラトン世界でもいいし、論理的可能性の世界だ。そこに水によって時間化された意識があるだけなのだ。


  川の流れ。水を取り去ると、水底の地形が残る。この地形が外界の無時間な論理空間だ。水を去るのだから、これこそ法であり、法則、ダルマといわれるものである。


2014 4-3




     ベルクソンの収縮と弛緩、そして、アポロンとディオニュソスについてである。チンパンジーの物まねをする。カニ歩きをしながら海老のまねをする。じつに、人間以外の動植物は低俗だとおもっている人間なのだが、本当は人間以外の動植物のほうがより生命的なのだ。そして、もうひとつ。天の国があるのかどうか、理屈で考えてみたい。

 
   ベルクソンの収縮と弛緩についてである。時間とは過去、現在、未来がある。精神、意識とは過去現在未来の凝縮、収縮したものだという。ポケットティッシュをみて、敵だとおもって逃げたりしない。今、感じているものに、過去の記憶が重なっているからだ。じいさんが噛み付かないだろうと予期していたりする。つまり、過去、現在、未来が渾然一体の意識だ。ところが、空間や物質は違うという。過去、現在、未来がすかすかに伸びきっている弛緩体だという。だから、いま、いま、いま、でしかない。


  理性と本能がある。アナバチは獲物の急所を知っている。ことばで勉強したわけではない。本能というのは獲物の中に入り込んで、内側からその獲物の急所を知るのだという。ところが、人間の理性は空間的だから、これができないのだ。また、言語は空間的だという。単語が並列に並んでいる。じじばあさん、なんていうように融合、混ざり合ったりしない。


   次の話はアポロンとディオニュソスについてである。古代ギリシャの神話において、アポロンは均整の取れた美少年の神様。ロゴス、論理、言葉の象徴だ。これに対するデュオニュソスは無秩序、踊り、酒の神様。古代哲学からずーっと西洋においてはアポロン的だった。ところが、現代においてニーチェがデュオニソスを復活させたという。



   まとめ


 
   存在の科学



    異次元理論



    脳細胞内のマイクロチューブル。このなかに可能世界が重なっていく。これがシュレディンガーのユニタリ展開。そして、潜在意識だ。もっといってしまえば、これが本能である。おのおのの並行世界は干渉しあって重なっている。コヒーレンス状態だ。これはベルクソンでいえば、意識、精神における過去、現在、未来の収縮体である。そして、覚醒意識になるとき、重なり合った世界は収束し、おのおのの世界は干渉をやめてデコヒーレンスになる。これがリダクションである。ベルクソンでいえば、過去、現在、未来が個々に分離し、弛緩体になった、より、空間、理性、物質的なレベルだ。だから、われわれが俗にいう下等生物のほうが、より生命的なものなのだ。人間の覚醒意識、リダクション、理性はより物質的である。生命から物質化がどんどん促進しているのが文明であり、理性だった。


   天の国とはなにか。死滅したとき、最後にリダクション、世界がひとつに収束して終わるときなのか。そうではなく、もしも、いわゆる魂といわれるものが、可能世界の重なり合い状態に止まれば、それはまるではねが生えたように、あらゆる論理的に可能な並行世界を自在に移動できる状態になれるのではないか。これが天の国かもしれない。



2014 4-4




    単独者と唯名論についてである。突然なのだが、私はだれなのか、あなたはだれなのか、かれらは何者か。だれだだれだ、といったら科学忍法になってしまうのだが、われわれはだれかであり、名前はあるが、その実、永遠の何者かであるというお話である。


   哲学者キルケゴールの単独者についてである。キルケゴールはヘーゲルが嫌いだった。ヘーゲルは宇宙とは絶対精神だ、などの普遍的な真理を求める。ざっくりと普遍的だ。ところが、キルケゴールはちがう。真理とは個性、らしさ、唯一無比のこれとか、あれだ。あれはできるがこれはできないというのが自分らしさ。つまりは、有限性の自覚だという。これが万能ですべてである神様の前に立つときの自覚であり、単独者と名づける。


   次の話はオッカムの唯名論についてである。これはテーブルである。テーブルっていうのは普遍的だ。テーブルそのもののイデアがあるのか。もしくはこれをこれたらしめているこのもの性っていうのがあるのか。そうではなく、すべては名前にすぎないという。あるのは、これとか、あれという唯一無比の個体だけだという。


 
  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   私はだれなのか、あなたは、かれらはだれなのか。たしかに名前があり、経歴だって、素性がある。どこからきたのか。以前はなしたが、ルイスの可能世界実在論。すべての並行世界は実在している。論理的に可能なすべてを含む世界が論理空間。同じように、すべての個性あるものたちは時間を超越して実在するのだ。あれそのもののイデアのようなもの。時間を超越とは昨日と今日の自分は人格が同じ。つまり、時間を越えて一貫しているものだ。すべて可能なかぎりの魂があるのだ。それが顕現しているかどうかだけである。

  時間と空間は斉一性原理によって、均一で量的だとみなされている。じつは空間も場所によって唯一無比の点、質的なのだ。時間も同じである。ところがそれだと混乱してしまうので、われわれには均一にみえるだけだ。量子場における個々の量子は個性ある魂なのだ。





2014 4-5


    
   
    アプリオリな総合判断と経験主義における二つのドグマについてである。巨人軍は永久に不滅です、と大きな声の寝言をしたときはだれしもあるのだろう。不滅とはなにか。とりわけ、すべての魂の永遠性について論理的な証明を試みたい。


   アプリオリな総合判断についてである。アプリオリとアポステリオリっていうのは聞きなれない言葉である。アプリオリとは先天的、生まれながらにして、すべてに先立って、という意味。時間的にも論理的にも先立って、である。アポステリオリは後天的、目で見て、鼻でにおっての経験的な、という意味。もうひとつ。分析判断と総合判断というものがある。主語のなかにすでにあらかじめ述語が内蔵されちゃってるのが分析的。じいさんは年寄りだ、というのは、主語のじいさんにすでに年寄りっていう性質を含んでいるから、主語を解体し、分析すればでてくる。総合判断はちがう。じいさんは焼き鳥を食べる、というもの。じいさんっていう主語には焼き鳥食う、という性質がない。外から総合されたものだ。


  さて、アプリオリな分析判断はわかる。じいさんは年寄りだ、というのは最初から決まってるのだ。アポステリオリな総合判断もわかる。焼き鳥を食べているところを経験したり、見たり、観察できる。カントはなんと、アプリオリな総合判断があるというのだ。1+1は2。1のなかには1を足すと2になるよ、というものが含まれない。しかも、先天的に決まっていることではないか。また、三角形の内角の和は180度っていうのもアプリオリな総合判断だという。


   次の話はクワイン、経験主義における二つのドグマ、についてである。この著書ででてくるのは、アプリオリとアポステリオリ、さらには分析と総合っていう区別なんていらないというもの。じいさんは年寄り、っていうのは分析判断だといったが、年寄りっていうのは何歳からか、生物学的に説明が必要だし、それには日本語を使うから、文法の説明もいる。つまり、クワインは全体論、ホーリズムの視点から、これは総合判断だともいえるのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   仮想の容量無限大のPC、チューリングマシンがあるとしよう。これはアルゴリズムを実行し、計算可能だ。このマシンは物事を理解できるのだろうか。決定論的に計算できるが、決定論的なんだけど、計算できない、つまり、計算不可能なものをわれわれ人間がもっているという。対角線論法っていうのがあるが、これも計算できない。タイルの問題があり、人間には決定論的に理解できるが、これを実現するアルゴリズムがないので、マシンには計算不可能だ。

  さて、デタラメ、無秩序っていうのはなんだかひとの自由意志のようにおもえるがじつはちがう。デタラメは計算可能なのだ。確率やカオス理論だ。計算可能な偶然性である。

  決定論を必然性といいかえられるし、アプリオリともいえる。デタラメ、無秩序は偶然性、アポステリオリともいえる。また、計算できちゃう、計算可能っていうのは分析的、計算不可能は総合的だ。だから、必然的、決定論的な計算不可能とは、カントの言葉だとアプリオリな総合判断なのだ。これが魂なのではないのか。論理的に可能なすべての並行世界があつまった論理空間。論理的に可能なすべての個性ある魂があつまった世界がある。時間を超越したイデアであり、この魂はあるけど、あれはないという特権性、偶然性はない。すべてが時間を越えて実在するのだから決定論、必然性だ。魂における自由意志はじつに、必然的で決定論的だった。なんだか逆説的だが、ニーチェの運命こそ自由意志だ、という思想に近い。


2014 4-6



     存在了解とデカルト主義についてである。小さいものと大きいものは明らかにちがう。ところが、心のなかのイメージ、想像の世界には大きさなんてないのだ。なんとあたまのなかはこの物理宇宙をはるかに越えた世界だったというお話である。


   哲学者ハイデガーの存在了解についてである。んーっと力んだら脱皮してしまった、という話は聞いたことがない。ところが、人間は自分から脱け出そうとするという。これを超越ともいう。また、脱自ともいう。これによって、自分自身がずれてしまって、今っていっても、ちょっと前の今になってしまう。つまりは時間がうまれる。これを時間地平が開かれるという。


   時間地平において、こんどは自分から脱け出しつつあるのだから、自分の存在そのものの輪郭が見えてくる。存在そのものだから、もはや、私とか、世界の区別なし。これが存在そのものの地平だ。こうして、ついにはこの存在地平のうえに机、椅子、というような存在者が出現だ。

 
  次の話はデカルト主義についてである。デカルトは世界とは延長、空間的な広がりだといった。スピノザはそんな延長すら神様のひとつの属性だという。デカルトは世界が延長、そして、精神っていうのは思考だという。こうして、精神は延長の世界の外から、笑うこともいらつくことおなく冷静沈着に俯瞰しているものになる。これが科学的な見方であり、デカルト的自我という。近代のヒーローとまでいわれたデカルト主義。カントもまた、自分っていう確固たる存在から歩を進めるのである。ちなみに、前期ハイデガーもどっちかというとデカルト的である。



  まとめ


  存在の科学


    異次元理論


     あたまのなかの脳細胞。脳細胞内のマイクロチューブルは水で遮蔽され、外界の環境から遮断されている。肉体は環境とのやりとりをしている。意識、精神は究極の孤立系であるから、可能世界が重なり合う。量子論的なミクロな話だし、あたまのなかだが、もはや世界が互いに重なる、干渉しているというコヒーレントな状態では、中だの外だの、ミクロだのマクロはない。これが想像の世界だ。こうして、論理的に可能なすべての世界、論理空間になり、このうちのひとつがわれわれの肉体がある物理世界になる。一なる肉体、物理世界と多なる意識空間だ。意識は物理世界を包み込むような感じで外からアプローチしている。いわゆるこれが存在地平ではないか。地平そのものは実体がない無。論理空間も無であり、この地平こそが論理空間であり、精神の居場所なのだ。


  また、デカルト的自我のように、脳内の論理空間から一なる物理宇宙を外からコミットしているというのは、デカルト的自我だが、以前、話たように、論理空間はいろんな世界が一体になってしまった矛盾に満ちた混沌世界。すなわち、感情渦巻く精神だったのである。


2014 4-8


   続き  


  バークリの観念論についてである。ふつうに考えたら、そこにさんまがみえるのは、さんまが最初にあるからである。バークリはこのへんをひっくり返す。なんと、さんまを見ている、感じているからさんまがあるというのだ。魚屋さんにこんなことをいったらきっと怒鳴られるかもしれない。実質的観念論といって、観念論のなかでも純度が高い。部屋にだれもいなかったら、さんまの塩焼きはあるのだろうか。虎視眈々とねらっているハエがいれば、きっとあるだろう。ほんとうに虫1匹いなかったらどうだろうか。神様が見ているから、さんまがあるという。


   次の話は量子論における二つの解釈についてである。アインシュタイン、ボーム、ペンローズは客観主義。見ても見ていなくても、物っていうのは存在しちゃうという。とりわけ、ペンローズは自然に波動が重力によって収束し、粒子化するという。見たものしか信じないのが、量子論の標準理論、コペンハーゲン学派。ボーア、ホーキング博士である。実証主義といって、見た、観測したものが確実で、見えない過程はどうでもよい。とくに、ボーアは、量子の波動は人がそれを意識し、感じた瞬間にきゅーっと収束するという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


     地球の内部を見たものはいない。見ていないということは収束していない波動状態。以前、話したように、世界が重なって波動の状態は意識のおおもと、潜在意識だ。ただし、音などの外界との環境のつながりはここにはある。だから、波動であったとしても、これを第二意識体と呼びたい。観測していないはるかかなたの宇宙もまだ収束しないで波動なので、第二意識体に満たされる。人間の脳内のマイクロチューブルは完全に環境から遮断されている純粋な波動。これを第一意識体と名づける。


    この宇宙はおおいなるものの脳なのかもしれない。そして、われわれが見て、感じて、波動を収束させているのだ。こうやってわれわれがなにかをみて収束し、我々自身のクオリアでもあるが、大いなるもののクオリアにもなるのだ。脳のなかに小さな脳がたくさんあるようなものだ。


2014 4-9




    主体性と我思うゆえに我あり、についてである。こことそこがある。そこにあるちゃぶ台がひっくり返るが、ここでそれを感じている。すべてのそこはここで感じる。ここそこについて考えてみたい。


   主体性とはなにか。実体というのはじーっと不変的ななにかだ。アリストテレスもいうように、実体とコンビを組んでいるのが属性だ。属性はいろいろかわる。斉藤君の服装は属性だから変化にとむ。ところが、斉藤君の人格は変らない。実体ではなく、主体というのは、不変的じゃなくて、刻一刻更新、何かを営んでいるものだ。デカルトはこんな主体が世界を眺めているという。こうれに追随したのが、カント。主体的な自分なのだが、はるかなたには乗り越えられない物自体っていう壁を見つける。近代に入ると、意識的ではない、没意識的実体というのだが、これはスピノザっぽい発想で、これをデカルトの主体とくっつけちゃえ、という運動にかわる。ヘーゲルにおいては宇宙は実体はじゃなくて、ちゃんと目的をもっている主体だといった。


   次の話はデカルトの、我思うゆえに我あり、についてである。デカルトは一生に一回、すべてを疑う事をオススメしている。ほんとうにこれは大根なのか、あのひとは人間なのか。そして、とうとう究極の疑いに到達。こんなことをしている私自身はほんとうはいないのではないか、と。だけど、すくなくても今まさに疑っている自分はいるはずだ。我疑うゆえに我あり、これが、我思うゆえに我あり、になるのだ。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    そこにあるもの、ちゃぶ台はそこで感じているのでなく、ここで感じているのだ。すべてのそこはここで感じている。多くのそこの点はここの点でクオリアになる。点をいくら集めても点である。


   ところが、無限の点。無限のそこがここというゼロの点に集約。以前はなしたが、ゼロ×無限は有限だった。だから、無限のそこをここで感じることによって、有限の肉体が現れるのだ。


2014 4-13



   認識論と存在論、そして、鏡のメタファーについてである。小さな世界でおきていること。ミジンコの指相撲とか、ラッパムシの踊りではない。光を構成するものの話であり、それが果ては時空間、存在者、意識をも作り出すというお話をしたい。


   認識論と存在論についてである。古代ギリシャのプラトン。いろんなじゃがいもがあるが、これらは影である。じゃがいものイデアっていうのがあって、これの影だという。弟子のアリストテレスはじゃがいものなかにそれたらしめているエイドスという形相があり、その素材である質料があるという。なんでじゃがいもがあるのか、と存在について論じるのだ。現代ではハイデガー。よいしょと自分から脱け出そうとするとき、時間がうまれ、さらに存在の地平が開かれるという。

  存在論におけるエイドスと質料。この形相、エイドスが心のなかにおさめられ、質料は外からやってくる感覚とみなすようになる。ここから認識ってなんだろうという認識論になる。これをハイロウモルフィズムという。形相でなく、カテゴリーとよばれ、これによって感覚的質料が組み合わせられる。


   次の話は鏡のメタファーと光のメタファーについてである。メタファーとは隠喩のこと。まるでキミのあたまはじゃがいもだ、というのは直接的に比喩だよ、といってるので直喩。比喩だよ、といわないでさりげなく比喩なもの、隠喩であり、メタファーだ。


   光があたって対象物がみえる。だから、対象を認識するのが光のメタファー。光が鏡に反射して、自分の姿がみえる。自己意識のことだが、これが鏡のメタファーである。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


  光の構成素であるスピノール。これは数学的と物理的との中間的な存在だ。スピノールは二回転して元の状態にもどる。フラッグポールという。通常のベクトルは一回転すればもとの状態だ。二回転しないともとの状態にもどれないのはメビウスの帯。もしくは、くもの巣のようなネットワーク。くもの巣にひっかかると、一回転してもからまるだけだ。二回転するとネットから開放される。つまり、スピノールが時空のネットワークを作っている。一回転目でからまり、時空を感じ、時空を越えたものとつながる、いわゆるエンタングルメントである。時空や存在そのもののレベル。二回転目で開放され、これは光子一回転のスピン。光は物の形を明らかにし、ここで認識論に転じる。さらにスピノール一回転でこんどは、自分の存在を感じる。自己意識であるが、自分の存在感だ。そして、二回転目で光なので、形や性質が見えるような経験的な自己意識になる。

 
  


    関係主義と反事実的条件法についてである。エネルギーを吸収すべく口をとがらせて蚊になったつもりで攻撃だ。もしくは、空気中に漂っている羽の生えたミジンコみたいなものを食す。いずれにしても、エネルギーとは一体なのだろうか。それはじつのところ並行世界の集まりだった。

  関係主義についてである。AくんとBくんはたかい友情関係で結ばれているという。まずは、Aくん、Bくんという実体があって、次に関係にはいるはずだ。ところが、AくんがAくんであるのはBくんとの関係性によってである。実体主義というのが、実体が関係に先立っちゃうというふつうな考え。そうではなく、関係性が最初にあって、その結節点に実体が生まれるという発想だ。リッカートの関係主義などがそれである。


   次の話は反事実的条件法についてである。科学はまず観測を重視する。実際に観測して、なんどとなく起こる現象ならば、次も起こるであろうと予測、法則化する。帰納法と演繹法だ。また、原因があって、結果があるという因果律も重要だ。ところが、因果律は顕微鏡で観察できないのだ。そこで、因果律もどきで矛盾しない論理を考えようと試みる。りんごを食べたのが原因で歯茎出血、というのは原因と結果の因果律。これを言い換えると、ある条件のもとで、もしもりんごを食べなかったら、歯茎出血してなかっただろう、といえばよい。うまい具合に因果律を回避と思いきや、じつは、ある条件で、というのがたいへんなのだ。そのときの宇宙における星の全配置もその条件に入っているのだ。だから、世の中のすべての状態を記述しないといけないので、これまた反事実的条件法もうまくいかなかったりする。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   エネルギーとはなんなのか。いわゆるその物体がもつ潜在性であり、可能性だ。これをポテンシャルという。位置エネルギーっていうのは、高さに重力加速度をかけるのだが、物体は潜在的に位置エネルギーをもっている。位置ポテンシャルだ。落下したとき、床を傷づけたりする仕事をする。運動エネルギーも同じ。これらはまだ実現してない可能性であり、並行世界だ。化石燃料のポテンシャルはかって動植物であったというもうすでにないという過去の並行世界。要するに、実際、いまはちがうという反実世界、並行世界の集まりがポテンシャルであり、エネルギーなのだ。

  さて、以前に、自分以外の他者、それが机であって、椅子であっても、虫であっても、他人であっても、すべては自分がひょっとしたらそうだったかもしれない並行世界だといった。つまり、周囲の日常に並行世界がかさなっている、シュレディンガーの波動方程式がそのままあらわれているのが日常だといった。ということは他者が並行世界なのだから、他者との関係性こそ、エネルギーなのだ。われわれは他者の関係性からエネルギーを得ていたのだ。



posted by モノイイ ジョーカー at 11:42| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする