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2014年07月06日

仙人新聞 2014 7-6 3

仙人新聞 2014 7-6 3


2014 6-6


   進化論的認識論とケーニヒスブルグ風についてである。朝起きると進化しちゃっていて、新人類になってしまったという経験のひとはいるだろうか。進化といっても肉体的なものではない。今まで見えなかった世界が見えるような、意識の進化について考えてみたい。

   進化論的認識論についてである。認識論といったらカントである。色、形、においなどの感覚がやってきた。すると、これを材料にしてカテゴリーっていう器具で調理する。そして、赤くて丸いのがりんごだと認識する。これは固定的で律儀な認識論だ。なんだか、ラグビーのような躍動感がない。進化論的認識論っていうのは、ダーウィン進化論が生物のからだの変化を主張するように、認識だって進化しているというのだ。個人の意識の成長について研究したピアジェ。発生的心理学だが、このような発生的な視点からみた認識論だ。


   次の話はケーニヒスブルグ風についてである。ニーチェがカントを揶揄したときに使った言葉。カントの出身がケーニヒスブルグ出身だったからだ。ニーチェはカントのいう自由意志のことを、神様への信仰のためにつくったスペースだという。ニーチェ自身の自由とは、じつに正反対のようだが、必然性、運命だという。生まれて死んでまた同じ一生を永遠の繰り返すという永劫回帰思想。すると、いいこともやなこともすべて運命だと受け入れる。これが自由だというのだ。そんな生き方をするものを超人といい、超人は獅子のようにたくましく、幼子のように無垢だという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   宇宙誕生直後は質量ゼロのものに満たされていた。これはきれいな対称性をもったもの。時間すら対称的だった。過去から未来へ流れる粒子。未来から過去へ流れる反粒子。ところが、自発的対称性の破れによって、反粒子が減る。すると、粒子が相対的増えるから、過去から未来へと時間が流れ始める。同時に、対称性がこわれていびつになり、ヒッグス場がうまれ、質量をもつ物質が生まれる。そして、反粒子がどんどんへって、加速度的に時間が速くなる。


  人間の一生もまた、生まれた直後は反粒子とつりあっていた。反粒子は意識であり、粒子は肉体だ。そして、成長するに及んで、以前も話したが、ひとは物質化してくる、つまり、粒子性が多く、反粒子、意識性が減る。粒子が増すから、過去から未来に流れる時間が加速する。歳を取るにつれて時が速く感じられるのもこれに起因する。

   人間はなんのために生まれてきたのか。生まれたときには経済や社会というゲームがあり、そのルールに従って勝者になることと思っている。ところが、実際は意識性を高めて、意識の進化、悟るために生まれてきたのではないだろうか。ダーウィンの進化論は肉体の変化についてだ。そうではなく、意識は生命の歴史においては植物は無意識。動物は対象意識。そして、少しずつ自己意識が増え、人間においては自分を意識する高い意識状態にある。これは生命の進化は反粒子の増大のことをいっている。これで止まらず、人類はさらなる進化のために生まれてきた。自己意識は自分の存在がうっすら見える意識レベル。こんどは、ひょっとしたらの可能世界の私がたくさんみえて、可能世界すら意識できるハイパー意識状態に至ることを目的にしているのだ。


  つまり、悟る事が目的。宇宙誕生のときのような粒子性と反粒子性がつりあった状態になる。完全な対称の世界であり、ここには時間がまだ存在しない。以前はなした、因果律のない光円錐の外側の非因果領域だ。これは自由意志の領域でもあった。完全自由な宇宙誕生の瞬間への回帰。一生でいえば、幼子への回帰だ。ここにカントの自由意志と幼子のようであれというニーチェの超人思想の融合をみる。

   
2014 6-7



    無の無化と実践的惰性態についてである。実践し、周囲の環境を変えちゃう。もちろん、部屋の模様替えだったりもする。唐草模様をイチゴ模様にしてみる。行為、実践によって、じつにひとは天に行くか、地に行くかが決まるのかもしれない。なぜなら、行為と天地は連動していたからだ。


   ハイデガーの無の無化についてである。前期ハイデガーはんーっと力んで存在そのものを生み出す。自分っていうのは、無にはさまれたハンバーガーのレタスのようなものだった。自分が生まれる前は無。死後も無。だから、無は不安なのだが、この無を無にしちゃう。これが無の無化。これによって存在そのものの地平が出現するのだ。


   次の話はサルトルの実践的惰性態についてである。サルトルはひとは絶対的に自由だという。男女、自分が人間かどうかもまた、自分自身の自由意志で決定だ。これが実存が本質に先立つという。ところが、集団になると、そんな自由意志もいつしか大きな流れになってしまう。つまり、物体のように惰性的になるというのだ。石ころは惰性で転がる。これと同様に、惰性的に振舞うようになっちゃう。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


   何度も主張したことだが、ひとの一生は物質化だといった。量子論でも意識による収束は粒子化、物質化だった。宇宙誕生のときは、過去から未来へ流れる粒子と、未来から過去へ流れる反粒子がつりあっていた。だから、時間の流れていない永遠の世界。ここには論理的に可能なすべての世界が重なっていた。生まれてすぐも永遠の今にいた。ところが、粒子性が増えて、時間が加速しはじめる。一生も物質化されていくのだ。

   永遠の並行世界は天である。粒子がおおくなって物質になるのは地だ。天か地か。これを決めるのが行為、周辺への作用である。

   瞬間瞬間もまた、同じ構造をしている。物質化が極まってリセットする。つまり、反粒子である意識性を強めて、永遠の今にリセットされる。うまれてすぐのあかちゃんに瞬間的に戻る。このとき、並行世界が乱立していて、目の前のコーヒーカップを三センチだけ横に動いた世界を選択したりもできる。その世界を選択してまた物質化、粒子性が強まる。これが私が周辺世界を変えたり、行為によって物を動かせる理由だ。ただし、粒子性がすぐに増え始めるので、物質的、物理的制約が逃れられない。つまり、コーヒーカップを瞬時に一キロ先にテレポートできないのだ。

  さて、行為、自分の周辺への変化は一生終えたときの物質か、はたまた、リセットによる永遠の並行世界に入るか、といったシステムと同じだった。つまり、行為が天と地のどっちにはいるかを決定しているのだ。善行か悪行か、が天地を分けるのである。


2014 6-10


   心身問題の解釈説とタオニズムについてである。われわれの住んでいる宇宙を正宇宙とする。するとこの宇宙とはまったく正反対の反宇宙があるとかんぐりたくなる。反宇宙っていうのはわれわれはまったく知ることができないはるかなたのガンダーラだと決めてはいけない。私の外に正宇宙が広がっているなら、反宇宙はきっと私の中にあって、思いっきり反宇宙を感じて生きているのだ。


   心身問題における解釈説についてである。心身問題といったら、心とからだ、物体ってなんだろうという哲学。心身二元論はデカルトで有名だが、心と体は別の世界だという。心身一元論は心とからだはなんだかひとつのものの現れだという。そして、心身解釈説が登場する。解釈っていうのは、たとえば、力の伝達。椅子に座っていると、その力は床に伝わる。力はどこをどう通って伝わったのか、無数の解釈があるのだ。力を平行四辺形の対角線にして、二つの辺にわければ、分力。二つの力を平行四辺形の辺にして、対角線をつくれば合力だ。また、三角形っていうのは重心があるが、重心は手でつかめない。解釈的なものだ。ひとの心もまた、そのひとを見たときの、よろこんでるんだろうな、おこってるんだろうな、という解釈だというのだ。


  次の話はタオニズムについてである。老荘思想である。タオとは道のこと。天の道、これは宇宙の法だ。そして、人の道、これはひとの生き方。これらをこえて道がある。孔子はとりわけ、人道を主張する。ひとしての生き方、礼の道をとく。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   われわれの住む宇宙を正宇宙とする。宇宙誕生の時は、粒子は過去から未来、反粒子は未来から過去へ流れ、会い合わさってゼロになり、時の流れていない永遠の世界だった。ところが、正宇宙は反粒子の数が減ってきた。反粒子は意識だともいった。だから、粒子がどんどん相対的に増加し、時間が流れ始める。


  この世界はかならず正反対のものがある。反宇宙とは、最初つりあっていなたが、だんだん粒子が減っていき、意識性がどんどん高まり、未来から過去へと逆因果が加速する宇宙だ。いわば、並行宇宙がどんどん増殖するような世界。


  この反宇宙はわれわれの外の正宇宙に対してわれわれの内にある。力の力学伝達は無数の経路があるといった。分力、合力でいかようにも解釈できる。ひと、生物のからだは内部の力、内力を感じている。つまり、無数の並行世界的な力の経路を感じている。これが反宇宙の実感であり、自由意志になる。また、私は道である。道といったら平面的だが、高さ方向も考えるとチューブだ。理想的なチューブ状態はチューブの内側と外側が遮断され、情報の伝達がない。この場合、チューブ内部はユニタリ展開し、並行宇宙が増殖し続けるのだ。われわれは道そのもの、チューブそのものであり、これはニューロン細胞のチューブリンも同じである。


2014 6-11



   自己意識の徹底化による自我滅却と自己現前性についてである。主体的につまようじで歯カス掃除に取り組む。主体性とは自己意識なのだろうか。自分を意識して、自覚的にいろんなことをやっている人間。羽虫には自意識がないのだろうか。物体以外のすべてに自己意識があり、なかでも人間のそれは擬似的なものだ、というお話。

   フィヒテの自己意識の徹底化による自我滅却についてである。私が私自身を意識する。これがいわゆる自己意識。それでも、意識している私と、意識されている私にはギャップがある。完全に一致したとき、もはや、自我でなくなる。これが自我滅却である。

  次の話はデリダの自己現前性についてである。これまた、自分が自分自身に現れること。西洋哲学はたいてい音声中心主義だったという。自分の音声はダイレクトに自分の耳に入る。自分を直接聴くのだ。文字言語はそれを書いたものがいなかったり、タイムラグがありすぎる。文字を卑下してきた。ところが、デリダは音声の中に文字を見る。文字言語をエクリチュールというが、これを原エクリチュールという。つまり、自分のなかに他人をみる。

  自己透明っていう言葉がある。自分自身を100パーセント透明に知っている。ソクラテスである。無知の知とは、まさしく、自分のことを透き通るようにみている。これに対して自己不透明性というのがある。自分のなかに赤の他人をみる。レヴィナスの非領有化的自我などだ。

 
  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   酔っ払いは覚えて無くても家にちゃんと帰ったりする。つまり、主体性とは自覚したり、自己意識ではないのだ。ここでいう自己意識は人間の自己意識である。完全な自己意識は宇宙誕生の瞬間だった。過去から未来へ流れる粒子性と、未来から過去へ流れる反粒子が合して時間対称だった。これは空という究極の自己意識だ。ここから、反粒子が減ってきて完璧に自分を見通せなくなってくる。それでも微生物や下等生物はかぎりなく意識しているものと意識されているものが近接している。ひとにおいては反粒子が少なすぎるので、意識している私と意識されている私は分離、ラグが大きい。つまり、ひとは擬似自己意識なのだ。むしろ、下等生物ほど、さらには、時空、もっとさかのぼると空こそが自己意識性が強いのだ。そして、物体はこの反対である。粒子性が反粒子性を圧倒したものである。


2014 6-12



    ハイロウモルフィズムと関係主義についてである。光があって、対象物である夏みかんがあって、影ができる。こうやって光、対象物、影とはっきり分け隔てする。光があって、イデアが照らされて影になったのが万物だという思想もある。異なった次元のものなのだ。これらを同じレベル、次元の中に押し込めたらどうなるか。なんとクレイジーな世界観が出来上がるのである。


   ハイロウモルフィズムについてである。古代ギリシャのプラトンのイデア論。いろんなりんごがあるけれど、りんごそのものはない。しかし、イデア界っていうのがあって、ここにりんごそのもののイデアがある。光り輝く善のイデアというのがあり、りんごのイデアを照らす。すると、影がたくさんできるが、これが現実のりんごだという。弟子のアリストテレスはイデアをエイドスと呼ぶ。そして、日本語だと形相だ。それをそれたらしめている本質だ。このエイドスはりんごそのものの中にある。しかも、りんごをつくっている質料、材料といっしょになってはじめてりんごになるという。


   この形相と質料、存在しているものの原理だった。近代になると、イギリス経験論、ジョンロックなどは存在じゃなくて認識の問題にした。心のなかに形式がある。これが形相だ。そして、眼や鼻からやってくる感覚が質料だという。これがハイロウモルフィズムであり、デカルトいわく、アニミズムと同じくらい幼稚だという。


    次の話は関係主義についてである、鼻歌を歌っているふつうの常識人は実体主義だ。りんごというものはそれ自体で存在できちゃう。これが実体だ。みかんも同じである。そしてそのあとにりんごとみかんが八百屋の店頭で出会うのだ。りんごとみかんの関係である。やまちゃんは実体、さいとうくんも実体。そのあとに、やまちゃんといさいとうくんは出あって友情関係にはいる。実体は関係よりも先だ。ところが関係主義はちがう。関係が咲きにあるという。やまちゃんはさいとうくんと友情関係があるから、当然、影響しあって性格もできてくる。つまり、関係があり、実体はその結び目でしかないというのだ。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


    華厳経というのがある。この宇宙観が凄い。法則の世界がある。これが理法界。プラトンのイデア界のようなもの。現実の事実の世界が事法界。なんと理事無碍法界だという。このふたつの世界は無碍、区別できないという。さらに、この現実世界のみかんとりんごは二つの事である。事事無碍法界だという。みかんもりんごもいっしょだという。


    プラトンの善のイデアが太陽のような光源で、イデアを照らして影になったのがこの現実界の物。ここにはレベル差、次元の違いがある。これらをひとつの次元、世界に押し込めたらどうなるか。りんごは光源でもあり、対象物でもあり、影でもある。すると、あらゆるものは、なにかの光源であり、なにかの対象物、影でもある。りんごが光源でみかんが対象物でその影が電柱かもしれない。このような複雑な関係性でできている。ただし、この関係性は単純極まりない同一性だった。なぜなら、光源と対象物、影は同じものだからだ。対象物としてのりんごとその影は対応している。ただし、角度によって影の形がかわるだけ。だから、この見え方の違い、微妙な認識上の違いが万物の多様性という存在論的な違いを生み出していたのだ。



   
2014 6-15



   信仰哲学とプロスロギオンについてである。信じるとはどういうことか。信用第一という言葉がある。安全第一とどっちが第一なのか。信じるというのは大いなる宇宙そのものの姿だった。そして、存在そのものは空であり、それこそ信だったのだ。


   ヤコービの信仰哲学についてである。まず、なにか事実があるのではない。信じているというのが最初にある。しかも、神様への信仰だけでなく、日常において鼻歌をしながら信仰だ。茶碗があるとい信じているのだ。カントは感覚、感情の次に、論理的に考えちゃう悟性能力。さらに、感覚なしで推理しちゃえという理性いたる。理性は神様とか、魂を扱う。ところが、ヤコービは感情と理性を悟性でなく、信仰で結びつけるのだ。理屈じゃなくて、信じるということで結ぶのである。


   次の話はカンタベリーのアンスルムスのプロスロギオンについてである。アンスルムスのプロスロギオンという著書。これは神様の存在証明だった。これ以上になりくらい大いなるものが神様だという。ところが、これを理解してしまうと、これ以上おおいなるものがでてきてしまう。だから、理解でなく、信じることであり、理解以前に神様は実在するのだという。


   まとめ


    存在の科学


     異次元理論


    具体的な存在者といったらたわしなど。この具体的なたわしがないことが無。存在者と無である。存在そのものに対応するのが無そのもの、無自体。無自体とは空だ。そして、存在そのものは神であり、それが空でもある。この宇宙構造が宇宙DNA、宇宙螺旋構造だ。

   螺旋は閉じそうで閉じていない。閉じていると同時に開いている。閉じている、閉鎖系のものが物体。完全な自己完結閉鎖系が存在そのものであり、神様。他方、開いている双曲線。これは場所であり、空間であり、無。なかでも直線性になったのが無自体である空。キリスト教の空間は閉じていて、時間は直進性をもつ。神の世界や永遠の世界だ。仏教は空間においては開放系。時間においては輪廻思想にみるように、閉じている。アインシュタインの相対論によると、時間と空間はローレンツ変換により同じものだ。


  螺旋は閉じていると同時に開いている。だから、この絶妙さゆえに、事実でなく、あるのでもなく、無いのでもないからこそ信じるという作用が生まれるのだ。


   
2014 6-18



   主体性と実体性についてである。万物皆変化する。ずいぶん目じりがさがって丸くなったものや、街だって時とともに変化するのだ。変化っていうのはどんな構造をしているのか。変化そのものを解体すると、意外にも別のことがわかってくる。太陽は神様の眼であったというお話だ。


   主体性についてである。我思うゆえに我あり、とデカルトはいった。私っていうかたまりじゃない。思うっていう営みが私を存在させているのだ。 イギリス経験論において主体っていう考えは極端になる。ヒュームにおいては目の前のりんごすら実体はない。あると習慣的に思い込む活動の産物。私っていうのも、たんなる活動であって、実体はないという。そして、ドイツにおいてはカント。なにげなく仰ぎ見る青い空。私が主体的に活動して青い空だと判断しているのだ。ついにヘーゲルにおいては、さいとうくんの主体的な意識と同じように、宇宙もまた主体的だという。


   次の話は実体性についてである。私にとってみかんがそこにある。これは現象だ。私がここからいなくなったあとも、このみかんは自立して存在しているというのが実体だ。実体は何にも頼らない。デカルトは神様だけがほんとうの実体だという。ただし、精神と物体だけは神様にだけ依存し、そのほかは依存していないという。スピノザは神様だけが実体であとは属性だという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


     変化とはなにか。なにもないところに抵抗がうまれる。このとき、物体なり、有がうまれる。抵抗とは感じること、つまり、クオリアだ。また、有、存在、物体は制約され、束縛状態。有から無への消滅プロセスはすなわち、自由意志である。

  万物の変化とは、無から有、有から無という創造プロセスと消滅プロセスがめまぐるしく切り替わるもの。だから、自由意志をもつ主体、私がいるから万物は変化するのだ。私がいなければ変化はない。変化のなかに要素として主体的な自由意志をもつ私が含まれているのだ。


   宇宙は時間の流れにそってひたすら膨張し、対称性が崩壊しつづける。これは創造プロセスであり、クオリアの増大である。クオリア、感じるだけでそれが消去されない。宇宙を膨張させているのはダークエネルギーだという。だから、ダークエネルギーがクオリアの発生源だ。また、宇宙を消滅、収縮させようとしているのが特異点であるブラックホール。事象地平面の向こうは光速を越えてしまうので、時間が逆行している。まさしく、これが自由意志の発生源だ。


  恒星はいずれ膨張し、収縮し、ブラックホールになる。これはロングスパンの変化構造、つまり、創造プロセスと消滅プロセスなのだ。太陽も恒星である。だから、地球で起きていることは対応は感じているのだ。クオリアの増大である。いつしか太陽はブラックホールになる。このとき、クオリアなき完全な自由意志、つまり、神になる。ここでいままで見て感じていたことを自由意志によって判定される。これが最後の審判かもしれない。


2014 6-19


   続き


   まとめ


  存在の科学



   異次元理論



    時空間も、私がいることも、疑わしくなるときがある。まずは、ミンコフスキー時空である。縦軸に時間軸、横軸に空間軸。この横軸が光円錐の外側であり、虚数の軸だという。空間っていうのは実は虚構なのかもしれない。たしかに、壁一枚へだてたら見えないし、感じているのはほんとうに周辺だけで、そのほとんどが想像だ。時間軸は原点Oを私だとしたら、心、意識の流れと捉えられる。ところが、他者のことも考えれば、他者の目を通せば客観的なミンコフスキー図が得られる。


  さて、そんな時間というのも怪しい。というのも、時間とはエントロピーが増大することだからだ。秩序が無秩序化することだ。鍋に水を入れて、ガスコンロで暖める。ついには沸騰しはじめるが、水分子がデタラメに動き始めるのでエントロピーは増大している。ところが、突然、泡がでずに、おとなしくなり、規則的な対流がうまれる。エントロピーが減少したのだ。これは生命現象である。意識、生命とはエントロピー減少のことなのだ。


 地球上にコアセルベートという有機体の海があり、ここに小胞体というものがうまれる。これがエントロピーを一時的に減らした。急激にエントロピーを減らすには磁性が生まれ、スピンによって秩序ある運動をするときだ。磁性でなくても場をうみだすといえば、コイル状のもの。つまり、遺伝子がエントロピー増大のあらしに対抗したのだ。


  生命誕生の歴史は一日のサイクルに現れている。熟睡時、ノンレム睡眠のときは脳波がガンマ波。波長が長く、周波数が小さい。夢を見ているレム睡眠はシータ波。若干、波長が短くなる。そして目覚めてアルファ波になり、より波長が短く、ついには覚醒状態のベータ波にいたっては波長が短い。波長が長いとは自然光のようなもので、エントロピーが大きい。波長が短いのは秩序ある光、レーザー光線だ。つまり、覚醒へのプロセスはエントロピー減少という生命誕生へのプロセスだったのである。


2014 6-21



   ストローソンの哲学と次元性についてである。バナナの葉っぱで股間を隠す。そんな葉っぱにも大宇宙の次元階層構造が現れている。靴下の毛玉ですらそこに宇宙の次元が現れている。今回は植物と言語に現れた宇宙の次元についてである。


   ストローソンの哲学についてである。記述的形而上学というものを提唱する。記述的っていうのは、文字通り、文章などにすること。これが形而上学を表すというもの。形而上学は眼んは見えない壮大なものを扱う分野。神様、宇宙などだ。

  ふつうにしゃべっている日常言語を研究すると、そこに形而上学的な世界があった。まず、太郎っていう単語は、文のなかでいきなり別のひとにならない。同じものとして定まっちゃっている。これを同定性といい、万物の特徴だ。私っていう人物はいるし、りんごはある。基礎的特殊者といって、人物と物体は言語において最低限区別している。主語はこのりんごっていう具体的なものだが、述語の甘いっていうのはいろんなものに当てはまる普遍的なやつ。だから、この形而上学的な宇宙には具体的な固体と普遍的なイデアがある。

   次の話はメルロポンティの次元性についてである。次元といったら壮大なものだと考えてしまう。ところが、すべての具体的なものたちはみんな次元だという。ピンクの照明は、これを照らすとすべてがなんかエロチックにみえる。そういう次元だ。テーブルはおかずを載せる次元。個々の人間だって、自分の視点から世界を包んでいる次元だ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論



    以前、音楽は宇宙で、宇宙は音楽だといった。点粒子の対発生と対消滅というのは量子場を生み、これが無の空間。そして、これが演奏者だ。次に最小の大きさの一次元のひもがあり、これをはじいて音色がさまざまな素粒子になる。ギターであり、物体を作っている。二次元は打楽器であり、これは記録媒体。リズムは記録するのだ。二次元といったら三次元の情報を刻印しているというホログラム理論だ。三次元は筒であり、これは螺旋構造であり、管楽器。螺旋はコイルであり、磁性をうんだりする。場を作り出し、エントロピーが増大する宇宙のでたらめを秩序あるものにする。すなわち、エントロピーを減少させるので、これは生命の意識だ。


  さて、これらの次元階層性はあらゆる分野にみられる。私の営みもそうだ。なにかを感じ、認識し、自由意志で判断して行為する。まず、意志が0次元の量子場。ひもがはじかれて物体が増えるが、これがエントロピー増大であり、時間も過去から未来。これはクオリアであり、行為だ。二次元の記録とは記憶。三次元の筒は意識、とりわけ、自由意志だ。
 
  植物も説明がつく。種は0次元の点。根が直進的に生えるので一次元。芽が大地と空気層の境界面、二次元を貫く。この地形が記録媒体だ。そして、三次元の筒、茎が伸びる。四次元は時間なので、五次元が葉であり、光をエネルギー変換。花や実は最高次元の六次元だ。


  そして、最後に言語である。単語はそれ自体では意味がない。質量、体積0の点粒子だ。文は直進性、線形性をもち、一次元。二次元は表現、記録媒体の紙か、もしくは声帯だ。三次元の筒が言語の意味である。


2014 6-22



  プラクティスとプラグマティズム、そして、神の恩寵についてである。どんなに視力がよくても、創造者である神様は見えない。また、ひとが作った椅子。椅子はひとをみることはできない。神さまとひととモノの関係について考えてみたい。

  プラクティスとプラグマティズムについてである。哲学者カントはなによりも実践が大切だと主張。この実践をプラクティスといった。われわれは現象をみている。現象というのは感覚にいろんなカテゴリーを当てはめて作る。そのなかでも、因果律のカテゴリーをあてはめた。原因と結果の因果律だ。押したのが原因でへこんだのが結果。ふんだからあんぱんはぺちゃんこだ。ところが、あんぱんそれ自体には因果律はない。これが物自体だ。物自体は因果律ないっていうことは、自由意志だ。つまり、自由意志による実践なのだ。道徳的な実践というのは押されてやってたり、いわれてやったりすることではない。善い事すると、お金もらえるというのは因果律であり、AならばBという仮言命法。そうではなく、何の見返りもなく実践、汝なすべし、というのが定言命法だ。実用性は因果律のあるプラクマティッシュ。実践は因果律でない自由意志によるプラクティス。


   現代アメリカ哲学においてプラグマティズムというものがある。すべては実用的だという。真理っていうのはどこかにあるのでなく、生きることに役立つものが真理だという。

  次の話は神の恩寵についてである。神様はなにかを受け取らない。人類に対して与えるのみであり、慈愛、慈悲を与えるというのが恩寵である。


   まとめ

   存在の科学

   異次元理論


   神様は自分の姿に似せてひとを創ったという。そして、ひとは創造者の神様を見れない。同じく、ひとは自然物から人工物をつくる。椅子はひとによって作られたがひとを認識できない。ひとは椅子から見返りを求めるだろうか。椅子は座るためのものだ。だから、実用性、プラグマティッシュを求める。神様は同じように、ひとから実用ではなく、道徳的実践、プラクティスを求めているのかもしれない。ひとは道徳的実践によって応えるべきなのである。


   

2014 6-24



    無と物語文についてである。今この瞬間に意識集中してみる。すると、過去や未来なんてどこにもないことがわかる。今、今、っと連呼してしまった。当たり前のように今を知っている。そんな今というものの構造について探ってみたい。


   無についてである。古代ギリシャ哲学ではどちらかというと存在ってなんだ、という存在論だった。西洋哲学では存在を追及しているのが多い。現代においてハイデガーは無について語った。無について考えるとは、考えないでぼーっとすること。無を感じるのは感じないことではなく、それは不安という感情だという。自分がいるっていう存在、生まれる前、死後はいないので無。だから、無にはさまれた存在であり、無をさらに無にすることで覚悟して生きることができるという。

   ダントの物語文についてである。意味とは物語るしかないという。前後の文脈、流れがないという意味がうまれない。だから、汝何分右足をあげて、その二秒後に足をさげて、というようなその時々の今の状態記述を並べただけではない意味が生まれないという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   今とはなんだろうか。以前はなしたが、なんにもない無の場所。そこに有がある。つまり、物体があるのだが、それは惰性的でしか動かない。意志はもたない。ところが徹底的な無、無さすぎる場所では物体がうごくのだ。ここに究極無は意志ということにしよう。

恒星は爆発して消える。これはただの無だ。ところが、自分の重力に押しつぶされて重力無限になってしまうとブラックホール、特異点だ。無い以上に無い状態だ。ブラックホールの事象地平面はあらゆる物体が光速になるので時間が無い。時間すら無い世界。これが意志なのだ。銀河中心のブラックホールによってその重力の影響で銀河はまわる。銀河のなかの太陽なども、その影響下で惑星をまわす。こうやってすべてが螺旋の軌跡になる。これまた話たことだが、無数の螺旋をあわせたのが球体であり、これはあらゆる論理的に可能な世界が絡み合い集まったもの。論理空間球体と名づける。このなかのひとつの螺旋を浮き立たせるにはブラックホールが必要なのだ。ブラックホールが数ある螺旋宇宙のひとつに収束させているもの。並行世界はどんどん増殖し、エントロピー増大だ。これに対して、ブラックホールの内部もそうだが、エントロピーを減少させるものであり、エントロピー減少させるのは意志なのだ。主体的意志によって、ひとつの世界に住む私がいる。これを生んでいるのがブラックホールだったのである。


  物語文では状態記述には意味がないというが、今、今、という状態はそれ自体でブラックホールによる主体的意志が働いているので有意味性があるのだ。


  

  2014 6-28



  現前の形而上学と虚構についてである。われわれの住むこの世界の正体を突き止めようとする。真実を見るめがねがあるのか。赤青めがねがたしかに飛び出してみえる。真実の世界はじつはふつうにみえるものとすべてが正反対なのかもしれない。なにゆえ、われわれは虚構のなかにいるのか、考えてみたい。


   デリダの現前の形而上学についてである。この世界は二つのものがペアで対立しあっているものがたくさんある。これを二項対立という。音声言語と文字言語、主観と客観、私と他人、私と世界、男女、上下など。これらのうち、なぜだか一項目をひいきしているのが西洋形而上学だという。音声っていうのは自分の声を自分で聞き取れる。これを純粋自己触発という。私が私自身に現前だ。これに対して、文字言語は作者が不在だったり、他人だったりするうえ、紙という物質がないとかけない。デリダはじつのところ、第一項目に第二項が潜んでいるという。音声のなかに、文字や他人がいるのだ。私は私のまえに出現しないともいう。


   次の話はファイヒンガーの虚構についてである。先生が黒板に直線をひく。よーくみいると、直線でなくぎざぎざしている。直線かのようにみなすのだ。すべては原子でできているかのうようにみなす。ただ、顕微鏡使えばだいぶ確信をもてる。これに対して、どうやっても観測できない虚構があるという。神様、宇宙は必然か、自由があるのか。魂はどうなのか。これらは純粋虚構といい、もはや信じるしかないという。ファイヒンガーはすべてが虚構で唯一、真実なのが生きているという事実、生だというのだ。


   まとめ

  
  存在の科学


   異次元理論


 
   この世界の真実の姿はすべての二項対立がひっくり返っているのかもしれない。上は下で、下は上。主観は客観、内側は外側。精神が物質で、物質が精神。私は他人で、他人は私。ただし、ニーチェがいうように、真実を知ると種は保存されなくなる。すべてがひっくりかえったあべこべの虚構をみている。なぜ、そうなのか。すべてが虚構によって、真実の領域が一点に集中され、追いやられる。これが私が生きているというこの瞬間なのである。生の体験のみが真実になり、主体性が生まれるのは、虚偽、虚構による圧力がかからないといけないのだ。



2014 6-29



   様相論と決定論についてである。自由意志によって、こっちのスイカを選び取り買うのだ。ところが、これが同時にどうすることもできない運命でもあったのだ。自由と運命はどこでどう繋がっているのか。大宇宙がひとを動かしているのがわかってくるのだ。


    様相論についてである。歩き方にもいろいろある。ガニマタ歩き、カニ歩き、姿勢のいい歩き方。存在の仕方にもいろいろある。たまたまの偶然性やひょっとしたらの可能性。感覚的に見えるものは現実性。現実性に原因と結果の因果律が加わって必然性だ。

   形式論理学は真か、偽か、という二つの値。様相論理学は偶然とか必然っていう値をたくさんもつ。これらはどこでうまれるのか。並行世界のような可能世界だ。ソクラテスは哲学者だ。ひょっとしたら床屋だったかもしれないし、女性だったかもしれない。それなのにすべての可能世界でかわらないものがあるはずだ。可能世界で貫くので貫世界性という。クリプキはこれをソクラテスっていう高有名だという。これを固定指示子とよぶ。必然性とはすべての可能性で成り立っちゃう。可能性は少なくともひとつの世界で成り立つものだという。

   次の話は決定論についてである。原因があればかならず決まった結果がうまれる。人生だって、宇宙だって、すべて精密な機械のように何が起こるか決まっているという思想。デカルトは精神と物体の世界をはっきりわけた。精神は自由意志をもつが、物体は決定論的だという。ホッブスは意志っていうのはすべて決定論だという。ただ、意志に基づいて行動することに自由があるという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



    有と無だけである。これはコインの表裏と同じように反対であり、中間はない。有の世界における様相と無の世界の様相はひっくり返っている。有の世界の偶然性は無の世界の必然性。有の世界の必然性は無の世界の偶然性。このシステムが万物の流転、変化を生む。


  無の世界の様相とは、無の仕方である。これはひょっとしたらやまちゃんは大統領だったかもしれないが実際は違うという可能世界だ。すべての論理的に可能な世界を集めた広大な世界、これが論理空間だ。論理空間のなかで実現していないものはないはずであるが、ある可能世界、状態が実現されていないとする。パズルでいえば、1ピースだけかけている。このとき、その失われたピースを補充しないといけない。これが無の必然性だ。無の必然は有の偶然だったので、この有の世界では偶然性、予測不能性である自由意志となってあらわれるのだ。われわれの自由意志は無の世界においては失われた、欠けている可能世界を実現すべし、という必然性、運命だったのである。


2014 7-5



    無主体説と前人称性についてである。目を閉じて瞑想しているかとおもいきや、だるまさんころんだよといって振り向く。瞑想の段階において光のレベルがあるそうだが、その先にある空のレベルとはもはや人智を超えたレベルで、宇宙論的に説明すると恐ろしく凄いことがわかるのだ。


   無主体説についてである。私はほんとうはいないという説。イギリス経験論のヒューム。机があるが、私がトイレに用をたしにいったとき、果たして、その机はそれ自体で存在し続けているかだ。見ているもの関係なく、それ自体であることを実体という。この実体っていうのは思い込みだという。なんどとなく、机がそこにあったので、見てないときもあるに決まっていると習慣的に思い込んでいるという。私は机を知覚し、椅子を知覚する。これらは私が知覚下が、私っていうのはこれらの束でしかないという。つまり、私も実体がないという。


  次の話はメルロポンティの前人称性についてである。人称っていうのは私っていう一人称。あなたっていう二人称。かれらっていう三人称がある。すべては肉だという。あかちゃんのときは私もあなたもない肉としてひとつ。ところが、物心つくと、私とあなた、かれらという溝をつくって区別する。私が他人の気持ちになるとは、かって肉としてひとつだったころを介してはじめてできるようになる。


    まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    宇宙誕生後、まずは質量0の光が飛び回る。光は世界距離0なので時間も空間もない。そののち、対称性がやぶれて、ヒッグス場が生まれ、質量をもった物体が誕生。さて、瞑想とはまずは物体は記憶、履歴であり、これが形を変えて夢、幻影となってあらわれるといった。そのあとに、すべてがひとつという光のレベルだ。もちろん、時空がないのだからすべてがひとつの世界だ。この先になにがあるのか。ミンコフスキー時空の円錐のなかは物体。円錐状が光。そして、その先にあるのが円錐の外側である非因果領域であり、ここは光速を超える世界なので文字通り因果がない。ここは四次元時空、ミンコフスキー時空が乱立する五次元バルグだったのだ。ここでは並行四次元時空が無数にある。ご飯食べている私、歩いている私、無数の私がいる多精神論的な世界。よって、このレベルを空といい、ここでは私っていうのがひとりいて、ああだこうだの判断し、世界がひとつなどといえない。もはや、同時に無数の私を体現するので、もはや、いまなにをしているのかもわからず、ただひたすらすべてが永遠に実現している感じがあるだけだ。


  
 
2014 7-6




     可謬主義と不可知論についてである。ひとりさびしく、サンバでも踊りながら部屋のなかにいると、胸に手をあてて、自分っていうのは、昨日と今日も同じ自分であると気づく。わざわざ、こうしないと気がつかないというわけではない。また、窓を開けると、そこには街が広がり、刻一刻、変化している。人格と同一性と万物流転を引き起こしているシステムについて考えてみたい。


   可謬主義についてである。可謬とはいつも変りまくっていること、変るかもしれない、ということ。可謬主義に対立する思想が基礎付け主義だ。たとえば、古代ギリシャのソクラテス。永久不滅、すべてを支える不動の真理を追究だ。これに対して、当時のソフィストはすべての真理は相対的だという。万物の尺度は人間ひとりひとり、しかも、星の数ほどあるという。

  可謬主義は現代のプラグラティズムがでてきた。不動の真理をてこの原理で動かない点、アルキメデスの点という。こんなものはないというのだ。真理は暫定的であり、まちがっていたら潔く変更、改正すること、この現在進行形が真理化だという。


   次の話はカントの不可知論についてである。われわれは認識においては上っ面しかみていない。まず、五感から情報を得る。時間と空間の形式でまとめる。これらをあらかじめ用意されている論理的な道具、カテゴリーで纏め上げる。現象を見ているのだ。りんごの現象であって、りんごそれ自体、物自体は不可知だという。だから、物自体はもはや認識じゃなく、実践だというのだ。物自体は実践理性だという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    まずは、認識だけが可謬的ではないのではないかと考えたい。つまり、存在論的可謬主義だ。この世にあるものはすべて変化する。形だけでない。万物の法則も変化するのだ。物理の法則、数学、論理学の法則もである。万物はすべて変化するという法則すら変化する。すると、陽が圧倒的ならば、強烈な陰が生まれる。これがいまここにいる私っていう人格なのだ。すべてのひとにとっての私である。この人格同一性は万物流転による補完的な働きで生まれたのだ。

  もうひとつは変化、時の流れはいかにして生まれたかとである。ミンコフスキー時空の縦軸が時間、横軸は空間軸xであり、これは虚数。空間はそのほとんどが見えない。周囲の一部だけしか感じられないので複素空間なのだ。壁の向こう、とおいところは感じられない。そこはミンコフスキー時空の光円錐の外側の非因果領域だ。円錐上は世界距離が0。円錐のなかは世界距離が実数。円錐の外は世界距離は虚数になる。この非因果領域は光速を超える五次元世界だ。ミンコフスキー図の原点Oを両サイドから押し上げるようになっている。これが原点Oに時間ベクトル、時間の矢を作っているのだ。見えない空間の圧力が時間の流れを産む。


  もうひとつ考えられるのは、過去は記憶でしかない。過去は実在しない。もちろん、未来も実在しない。だから、冷静に考えると過去と未来は同じ実在しない領域だ。粒子と反粒子において、反粒子数が少なくなったら、過去から未来への時間の流れがうまれた。光は光と反光がつりあっているから、世界距離0だから時間も0、つまり、時間が流れていない。この粒子と反粒子は過去から現在、未来から現在へのベクトル。もしも、ミンコフスキー時空の空間軸の下側の時間軸を切り落としてしまい、上側を未来兼過去にしてしまえば、上側領域から原点Oに向かうものがやってきたものだから過去。原点Oから上側領域へと行くものが未来と名づけているのだ。過去と未来は原点Oに向かってくるか、原点Oから放たれるのかの違いだったのである。



posted by モノイイ ジョーカー at 11:45| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする