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2014年10月23日

仙人新聞 201410−23 2

2014 8−14 


  我汝とデカルト的コギトについてである。さいとうくんと対面に膝頭あわせて真剣ににゅうりんの大きさについて論じる。さいとうくんは野暮用で三輪車の前のめり走法で単身渡米ということでいなくなった。ひとりで壁に向かうのだが、このとき、自分にとってのあなた、他者はじつはいつづけるのである。他者はどんなときもいつづけ、さらに、意識のレベルアップで無数の私と対面する。

  ブーバーの我汝についてである。第一人称の私、第二人称のあなた、第三人称や無人称は彼らやそれらである。三人称や無人称が最初にある。それらがあって、私やあなたがいる。それらとは原子や素粒子だから、これは唯物論である。一人称の私が最初にいて、すべては私が中心だという独我論。ブーバーは二人称が最初からあるという。私とあなた、我汝である。これは宇宙のはじめからセットなのだ。そして、永遠のあなた、汝を神という。

  次の話はデカルト的自我についてである。ひとは特定の状況のなかにいる。悪者に追いかけられているとか、支払いや返済に追われているなど。いま、暑いから、1+1は3だとはいわない。いたって冷静になるのは宇宙のなかの状況に巻き込まれずに、宇宙の外から宇宙を冷静にみる神の視点が必要だ。これが科学的な見方であり、デカルト的自我という。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   対面しているさいとうくん。二人称であり、かれの心、思いは見えない。不可視であり、不可知なのだ。だから、表情が判断するしかない。さて、さいとうくんがいなくなってひとりぼっち。壁の向こうからはセミの鳴き声、川のせせらぎ。壁の向こうは見えないが、その音、表情からして不可視、不可知の壁の向こうを判断する。世界、人類はおそらく存続していると判断する。つまり、心も、壁の向こうもいずれも基本は二人称なのだ。

  赤子がうまれるとき、母体で人類誕生までの生物の歴史を体現するという。小動物、爬虫類の形になり、鳥のようになり、哺乳類、さらにはサルのようになってひととなってうまれる。うまれてからは、おそらく、人類の歴史を体現する。人類のはじめは呪術的、神話的世界だった。植物、花の妖精がみえた。これは人と対面しても、心がみえず、物と対面しても不可知なものを表情からえようとするという二人称なのだ。だから、すべてに心が宿しているとみる。神学的世界になって、一なる神様が私もあなたもみてくれているという世界。これはかれら、それらの三人称だ。そして、科学はついにはデカルト的自我、宇宙の外からの神の視点に立つ。これが四人称ではないか。そして、今後、五人称になる。五次元空間に対応し、複数の私、複数のあなた、かれら、それらが存在する人称。並行世界の人称である。六次元でもって0にもどるというお話は以前にしたことがあるが、この上の人称にいって0人称になる。



2014 8-15


還元主義と有限性の自覚についてである。時間と空間、そして、いままさにここにいる自分の自由意志。これらはすべてひとつものからできていたのだ。すし屋の湯飲み茶碗の柄から、最新型空母の軍事の話に飛躍するように、時間空間の話が人間の生き方と深く関係していた。

  還元主義についてである。万物は多様だと、雑貨屋さんで改めて知る。いろんな雑貨があるのだが、これらはなにかひとつのものでできていると、すべてをひとつに還元しちゃえ、というのが還元主義。すべては原子でできているという原子論や唯物論。さらに、タレスはすべては水でできているといった。また、すべては自分のなかのイメージだというのも還元主義。すべてをお金に換算しちゃうのも同じである。

  次の話は有限性の自覚についてである。ヤスパースの哲学では、人間は限界状況で脱出できないとき、自分のなかに入り込むという。自分にかかわりすぎて自分の穴があき、その向こうに超越者をみる。これが実存だという。キルケゴールはあれはできない、これならできるという有限性、個性、らしさこそが真理だといった。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   すべてをエントロピーの増減に還元しようという試み。秩序あるものが無秩序になる、というのがエントロピー増大。家が老朽化したりすることだ。無秩序が秩序になる、散らかっている部屋の整理整頓がエントロピー減少であり、これが生命のやっていること。世界には時間が流れているが、時間の流れとはエントロピー増大そのものである。巨視的、マクロのものはエントロピーが大きい。コップが割れたらもとにもどらない、不可逆プロセスだ。ちいさなミクロの世界はエントロピーが小さい。量子はビデオを逆再生しても不都合はない。だから、時間の流れが遅い。自分に近いものがエントロピーが小さく、時間が遅い。自分の中心はむしろ時間が止まっている。遠いもの、大きいものはエントロピーが大きく、時間の流れがはやい。

  空間の大きい、小さいというのは、ただ単に、エントロピーが大きいのが大きく見え、小さいのが小さくみえるだけだ。生まれる前と、死後は自分と宇宙は一体になってマクロになる。だから、時間が超はやい。ビッグバンがおこってから自分がうまれるまでは時間速度無限。だから、ビッグバンとともにうまれ、宇宙の終焉とともに死滅する。

  生きていない間、これが生間領域だが、ここでは大いなるものだった。生きているとは、自分に近く、小さいことだ。そして、中心において、最も近き中心こそ時間が止まっていて、もっとも自分らしい状態である。




  2014 8-16


自己関係性と無限性についてである。寝ているひとの耳元でいきなり後ろの正面だ〜れっとつぶやくと、たいていは目覚める。なんとも不気味で、意味深な詩である。今回はまた、頭がいかれたかのような発言をしたい。この目の前にひろがっている現象界はじつは自分の背中をみつめていた、というお話をしたい。

  自己関係性についてである。自己言及ともいう。自分が自分にふれると、基本的にはNG、論理的に矛盾しちゃう、という考え。これは日本語で書かれています、と書いてしまうと、日本語を使って日本語について云々しているので自己関係で矛盾だ。すべての主張は疑わしい、というのも、この主張自身が疑わしくなる矛盾。ところが、許されている自己関係性がある。排中律なのである。これはメロンか、メロン以外のどっちかである。つまり、宇宙のなかにあるなにか、といっているのだ。すると、宇宙のなかにこれを主張しているものも含まれちゃうので、自己関係の矛盾のはずなのだ。また、自己治癒力などの、生命現象も本来は自己関係だが成り立つものだ。

   次の話は無限性についてである。永遠といえば、まず、そもそも時間そのものがない無時間性。時間を越えた世界ということで超時間性などがある。無限についてはヘーゲルが真無限と悪無限を区別する。悪無限っていうのは、具体的な内容をきれいさっぱり捨ててしまった抽象的無限。真無限は具体的な存在者がたっぷりつまった無限である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   私と世界を分離して、私は私を、世界は世界を研究するのでなく、私と世界をまとめて全体として考察する。私の意識は、遠近法的に私を中心にして円錐状に広がる意識。いってしまえば、ラッパのような形をしている。このラッパのさきっぽがどんどんひろがって、自分の後ろのまわりこんで自分とつながる。すると、ドーナッツの形になる。これをトーラス体という。私は私自身の背中を見ているのだ。りんごを意識しているとは、対象意識であり、自分をみつめるのは自己意識。ところが、りんごは私の世界に描かれているので対象意識は自己意識なのだ。

  さて、私はここからここまでとか、世界、宇宙はここからここまでというように、エッジ、ふちは認識できない。私のエッジ、ふち、はじっこは私が私を踏み越えないとみえない。ふみこえたらもはや私のふちではない。無限というのも、有限ではないという制約があってはいけない。制約をつくっておいて、この制約をとりのぞくという連続にすぎない。私と世界にはふち、エッジ、はじっこがない。はじっこがない幾何学的形状がある。これがドーナツ構造、トーラス体である。長方形には辺というはじっこがある。これをなくさせるために、長辺同士を糊付け、そして、短辺も糊付けすると、なんとドーナツの形なる。はじっこのない私と世界の形とはドーナッツ、トーラス体以外にありえないのだ。

  
2014 8-18

存在の穴、溝と非人称な身体についてである。私と世界をあわせた全体はドーナッツである。私はドーナッツというと、まるでアンパンマンの世界なのだが、厳密にいってしまえば、他人をもふくめた世界全体はたくさんの穴があいているドーナッツだといえるのだ。

  存在の穴と溝についてである。サルトルは人間の意識とは、無の分泌だといった。りんごを意識するとき、意識している私は対象であるりんごではない、というように、私とりんごの間に無を分泌。さらに、私自身を意識するときも、意識している私は意識された私ではないので、無を分泌している。存在にあいている穴なのである。また、メルロポンティは意識っていうのは存在の穴でなく、溝だという。私とあなた、かれらという人称は同じ肉でつながり、物心ついてから私と私以外を溝で区分けしたのだ。

   同じくメルロポンティの非人称的な身体についてである。私は暗いところから明るいところへでると、瞳孔がきゅーっと収縮する。飯を食うと、消化液をだす。これらは私が意識的にやっているのでなく、なんだか、私のなかにいるだれかがやっているというのだ。非人称的なだれか、これが私の身体を維持するという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   前回、私と世界をふくめると、ドーナッツ構造、トーラス体だといった。遠近法的に私から円錐状にひろがり、それが自分の後ろにまわりこんで、つながる。これで私は私自身の背中をみているといったのだ。そうすると、他人の存在はどうなるか。私の意識はドーナッツの穴であった。他人はこのドーナッツの生地に無数にあいている穴なのだ。もちろん、私の意識の穴が一番大きいもののイメージだが、実際は大きさのない形だけの世界、トポロジーの世界である。だから、斉藤君にとって、斉藤君の意識の穴が一番大きく、私の穴は生地に開いた小さな穴だ。このドーナッツの生地のところは物質であり、身体である。だから、私の身体のなかの非人称的なだれかというのは、生地にあいた無数の穴、無数の他人たちなのだ。無数の他者の意識が私の身体活動を維持していたのである。





2014 8-19


絶対精神、そして、構成的原理及び統整的原理についてである。私と世界はドーナッツであるという発言自体がいかれていると思われる。ところが、このドーナッツが日々変化し、ついには宇宙の終焉ではどんなふうになり、神様と深く関係していたことを主張したく筆をもちたい。

   ヘーゲルの絶対精神についてである。まったく反対のものがひとつになろうとするのが、ヘーゲル哲学の特徴。ふつうにすきっぱがシンボルであるさいとうくんと、大いなる神様、宇宙がなんとひとつになろうとする。
    
    さいとうくんは個人的意識であり、いろんなことを勢力的にやっていいがつる主体的なもの。ところが一般的には宇宙は実体である。ヘーゲルはなんと宇宙も主体的だという。さいとうくんが自意識に目覚めたように、宇宙も自分の存在に気がつき、自意識をもち、絶対精神になるという。

  次の話はカントの構成的原理と統整的原理についてである。 ひとのあたまのなかにあらかじめあるもの。あたまのうえにあるのがマゲだとしても、そのなかにはカテゴリーというものがある。なにかを判断するための道具だ。量、質、関係、様相のカテゴリーである。このうち、量と質は数学的、直感的なもので、パーツを組み合わせてつくりあげるので構成的原理。関係と様相は自分の経験をどんどん関連付けて伸ばしていこうとするもので統整的原理という。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

 
   前回は意識のトポロジー幾何学、つまり、大きさの関係ない世界について考えた。意識は円錐のように広がり、それが後ろに回りこんで背中とくっつく。いわゆる、ドーナッツ構造、トーラス体である。しかも、この意識の穴はたくさんあいていて、これが他者の意識の穴になる。おのおのが自分の意識の穴を一番大きいものとみなせる。なぜなら、大きさは関係ない世界だからだ。ここからこんどは大きさや力学的特性のあるトーラスを考える。時間軸もあり、意識の物理的な幾何学だ。

  ひとが誕生すると、無数の穴のおのおの穴が少しづつ小さくなる。だから、すべての意識がうすまってひとりの意識になる。死滅すると、穴が閉じ、他のものたちの意識の穴が少しずつ大きくなって他者の意識にうすまって存在しはじめる。また、そもそも、他の意識に薄まらないものがあり、これは別世界へと力学的に影響して穴を形成する。意識の穴はだんだん数が少なくなり、おのおのがおおきくなる。ついには、ひとつの大きな穴になったとき、絶対者の意識になる。これが宇宙のエントロピー増大による宇宙膨張のマックス。ここから、宇宙は収縮をはじめ、宇宙自体がエントロピーを減少させる意識体になる。すると、こんどはこの収縮、エントロピー減少を阻止せんとして、生命の意識とは真逆にエントロピーを増大させようとする個体、反生命のような意識がうまれる。これがプラズマである。意識とプラズマは真逆の意識体だった。有機物の意識がいわゆる魂、無機物の意識がプラズマなのだ。





2014 8-20

日常性とラッセル集合についてである。ふつうの日常のなかにじつにこの宇宙が選択しなかった並行宇宙がつまっているのである。というか、宇宙の構成要素というのが選択されなかった宇宙全体だったのである。全体と部分、ここには並行世界の異次元原理が隠されていた。

  フッサールの日常性についてである。なんだかすべてが疑わしいので判断停止する。それでも、最後に残るのは名もなき純粋な私、純粋自我である。こういう態度を現象学的態度という。また、科学的に自分を宇宙の外において冷静にみる態度、これが自然主義的態度。そして、後期フッサール哲学ではもっともすべての基本的な態度というのだが、ふつうにりんごをみて、原子でできているという科学の見方以前に、りんごはふつうにフルーツだという日常的な態度に重きをおく。これが自然的態度という。

  次の話はラッセルパラドックスについてである。りんごはフルーツという集合、フルーツは食い物っていう集合に属する。すべての集合を含む集合をR集合と名づける。ただし、集合論においては自分が自分の集合に所属したらアウトである。すると、矛盾が生じるという。というのも、もしも、自分の集合を含めなかったら、すべての集合の集合とはいえない。また、含めてしまったら矛盾するからである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  宇宙と私はドーナッツ構造だといった。これをなんいかの液体のなかの気泡ととらえることができる。最初は気泡がたくさんある負圧がかかって膨張し、ついには大きな気泡がひとつになり、ついには収縮をはじめる。おそらく、自然界もこのようにふるまうのであろう。さらに、人間のクオリア、思考もまた、同じような構造である。たくさんのイメージがあって、これらがひとつになってさらに、収縮し、クオリアになる。宇宙の構造がそのままクオリア、思考の構造と同じだ。主体性というのは基本的にこの宇宙とそのまま同じ構造をもつものだ。また、それ以外の事象、事物は選択されなかった並行宇宙なのだ。宇宙全体は部分があつまってできているが、部分とは選択されなかった並行宇宙がそのままあらわれたもの。全体と部分との関係とは全体がひょっとしたらそうだったかもという可能世界が部分になっているという関係になっているのだ。全体と部分の集合論は可能世界論、多世界論が含まれていたのである。





2014 8−21


  純粋持続と論理学についてである。無味乾燥な形式論理学というのは内容からっぽのピーマンにみえるのだが、じつはこの論理学にはこの世界のすべてのシステムが内蔵されていたのだ。生命、魂、並行世界のすべてがこの形式論理のなかにあった。

   ベルクソンの純粋持続についてである。時間と空間なのだが、空間は量的なものでものさしで測れるが、時間も時計ではかれるような気がする。ところが、空間化されちゃった時間にすぎない。本当の時間は量的なものでなく、質的だという。空間、物質は非連続的、むずかしくいうと離散的。椅子とお尻ははっきりわかれている。半分お尻、半分椅子っていう中間はない。本当の時間は過去、現在、未来が混ざり合う質的なものであるという。これが純粋持続であり、どこにあるかといえば、ポケットのなかでなく、なんと自分の意識だという。

  次の話は論理学についてである。形式論理学というのは二値論理である。二つの値をもっているのだが、それが真か、偽かである。様相論理学はちょっとぴり真、だいぶ偽、という中途半端な値もいっぱいあるので多値論理である。このなかにひょっつぉいたらの可能性の世界を扱う、可能世界論がある。

  命題論理というのは、そうではない、という否定性、さらには、そして、という&、また、これにいろんな値の入るうつわがある。述語論理というのは主語と述語がはっきりしている。りんごは赤いものである、というのが肯定判断。りんごは四角くない、という否定判断。またさらには、主語には量化子というのがくっつく。すべてのりんご、というのが全称量化子。あるりんご、というのが特称量化子。このりんごというのが単称量化子。すべてのりんごはあかいというのが、全称肯定判断。このりんごは赤くない、というのが特称否定になり、量化子も述語もまったく反対なので、これを矛盾対当関係じゃん、という。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   集合論において全体と部分が扱われている。前回お話したが、全体と部分という論理関係のなかに様相論理、可能世界論が入っていた。実現しなかったひょっとしたらの全体がその部分になるのだ。宇宙全体でいえば、いまのこの宇宙とはちがったかもしれない並行宇宙がそのまま、このわれわれの宇宙の部分、構成要素になる。これが全体と部分の関係であり、可能世界論が入っているのだ。かつ、というのは論理積という。これは同時に満たすという一体化なので、純粋持続、凝縮性であり、精神、意識を表す。みかんか、りんごのどちかか、というのが排他的論理和。これは不可進入性、離散性であり、空間、物質をあらわす。そして、みかんまたはりんごまたは、みかんかつりんご、またはみかんでもりんごでもない、というのが本当の論理であり、論理積もふくむので、精神と物体、とどのつまり、精神と身体だ。

  否定判断はりんごは三角ではない、というのだから、三角かもしれない別の並行世界へと一度行くのである。これはこの宇宙からの離脱であり、ブラックホール、ワームホールだ。肯定判断、このりんごは赤いんだよ、という存在せしめる力なので、五次元バルグからくる重力を生むもの、グラビトン、重力子だ。全称判断はすべてのりんご、よって、理念的なもの、りんごそのものだからイデアの世界。ある特定のりんごというのはりんご全体のなかの特定のものだから俯瞰してみている。超越論的な見方であり、自分を中心に広がる主体的な世界だ。だから、特称否定判断は主体的な意志がブラックホールに吸い込まれること。これと、全称肯定判断は矛盾対当。全称肯定とは理念、イデア的な五次元がくる流入する重力子。このふたつがあわさって矛盾になり、これらの矛盾が弁証法論理だと、世界を動かす原動力になる。


2014 8-22   

   ノージックの確率論証と功利主義についてである。能率よく無駄なく動く。とりわけ、暑くてだらけているときは最小の運動で最高の仕事をしたい。まさに宇宙は最小の力で最大の効果を得ているのだ。すると、この宇宙はどうもマトリクスのような、そうシュミレーション宇宙であることがだんだん判明してくるのだ。

  ノージックの確率論証についてである。なんで無いのではなく、なにかがあるのか、とライプニッツは問う。かんがえられうるすべての状態があるというのが、並行世界、多世界論、可能世界論だ。この世界はただあるだけ、というのが根拠も問えないのが存在だというラッセルの考え。そして、ノージックは最悪に見積もっても、50パーセントの確率で世界はあるという。なにかがあるとは非常にバラエティーに富んでいる。りんご、すいか、メロンがある。ところが、無い、無というのはひとつだけだ。だから、圧倒的に存在のほうが確率的に大きい。最悪でも50パーセントだという。

  次の話は功利主義についてである。最大多数の最大幸福だと、ベンサムはいう。これは自分だけがよければいいという利己主義でなく、みんなが幸福であればよいという思想だ。

  まとめ

 存在の科学

  異次元理論

  ニュートン力学とはちがい、すべてをエネルギーとして扱うのがハミルトン力学。世界、宇宙は最小のエネルギーで最大の仕事をしようとするという。これを最小作用の原理である。水が斜面を流れるとき、最小のエネルギーでそれを成し遂げようとする。すると、この宇宙はどうも巨大なPCのなかのシュミレーション宇宙ではないか、と思えてくる。

  量子論におけるシュレディンガーの猫。箱の中の猫は見えないのですべての状態が重なっているという。生きている、死んでいる、寝ている、遊んでいる、と無数の猫が重なっている。箱を開けてみた瞬間にひとつに確定だ。つまり、見ていないときは、世界の計算処理していないのだ。ロールプレイングゲームで、村人とあうと、なにか情報をくれる。村人とわかれて旅にでたあとも村人の動きを計算処理したら膨大になってしまう。だから、見た瞬間だけ、計算すればいいのだから、これこそ量子論だ。

  それならば、ドアから犬がでてくるか、猫がでてくるか、恐竜がでてくるかはすべて50パーセントだ。ところが、恐竜はまずでてこないだろう。これはこの世界にいる意識体はどこかでみんなつながり、いろんなものを見ていて、50パーセントの確率に偏差を生んでいる、確率を変動させているのだ。だから、宇宙誕生のときは絶対者しかいなかったので、確率はすべて50パーセントだったので、およそ、あらゆる可能なものが現実化した。生命が増えるに従い、確率の偏差がうまれ、これが自発的対称性になり、質量がうまれ、物質が誕生した。地球上の生命もまた、少ないときに爆発的に多様な生命を生んだ。哺乳類は親が子をうまれたとたんにみるから、確定される。偏差がうまれる。ところが、たまごでかえるもの、爬虫類はひとりでうまれて、まわりからみられないケースがあるので、巨大化するというおよそ信じられない状態が現実化したのだ。

  世界は最小のエネルギーで最大の仕事をする。だから、このシュミレーション宇宙はメモリ容量が0なのだ。すべての可能なかぎりの世界が同時に実現されているとは、すべての計算処理をしていることだが、これは計算処理していないことに等しい。だから、メモリ容量0であり、壁の影から50パーセントの確率であおはあらわれるだけというシンプルで、もっとも0エネルギーから無限仕事量を生んでいる最小作用の原理が働いているのだ。



2014 8-23


前人称的自我とパルメニデスの存在についてである。われわれはいつからいるのか。いつからそこにいるのか、と聞かれて、ずーっと太古の昔からです、というものもいるかもしれない。われわれはずーっと昔からいたし、未来永劫居続けるというお話をしたい。

   メルロポンティの前人称的自我についてである。われわれは生まれたときは、自分と他人の区別がなかったという。すべてはもともと同じ肉でつながっていたのだ。私も他人もなんの仕切りもなかった。ところが、自分がいることにふと気がつく。物心がついたとき、私と他人のあいだに溝がうまれる。溝だからつながってはいる。私、あなた、かれら、それらという人称の前だから前人称性である。

  次の話はパルメニデスの存在についてである。あるものは永遠の昔からあり、未来永劫ありつづけるという。無いものははるかかなたの昔から無いし、今後も無いという。有るものが無になったり、無から有がうまれのを万物流転とか、変化とかいう。これはヘラクレイトスの思想だ。ところがパルメニデスは、存在が真理であって、万物流転は仮象だというのだ。

  まとめ

  存在の科学

 
   異次元理論


   自己意識というのは、意識している自分と意識されている自分がいる。デリダの自己現前であるが、意識されちゃった自分は第二項であり、他者だという。自意識がないとき、つまり、前人称の赤子のとき、自己意識がないので、第二項の意識された私しかいないのか。そうではなく、第一項の意識している私と第二項の意識された私が同じエネルギーで共存。だから、うっすら自分の存在を感じている。自意識に目覚めた後は、第一項の意識している自分のウェイトが大きくなる。

  さて、それでは生まれる前はどうだったか。意識された私という第二項のうほうが強い、もしくは、意識された自分しかいなかったのだ。また、死滅のときも、第一項と第二項の私は同じエネルギーで赤子と同じ状態になり、ついには、第二項の意識された私だけになる。だから、われわれは意識された私としてずーっと存在し続けるのである。



2014 8-24


ヴィトゲンシュタインフェディズムと法則についてである。このナンバーみたらラッキーだと、自分で勝手にルールを作る。すると、そのようになるのだ。万物法則、ルールもわれわれがつくっていたのだ。唯一の事実、それは現象であり、今見て、感じているままの現象界だった。

   ヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。ヴィトゲンシュタインは言語ゲームを提唱した。ゲームにはルールや意味がある。言語も同じだという。ただ、テレビゲームの製作はだれか製作者がいるのだが、自然言語は作者がいない。生活の流れのなかで文脈のなかで生まれる。とりわけ代名詞などは、ここ、あそこ、私、あなた、などは文脈に思いっきり依存だ。

  それでは生活の流れってなんだろうか。生活、生きるとはなにか根拠があるのだろうか。ヴィトゲンシュタインはそれはそこある、とだけいう。つまり、生活は無根拠だという。

  後にこの思想が宗教運動で使われる。それがヴィトゲンシュタインフェディズムである。宗教儀式になんの意味があるのか。その宗教の流れ、生活のなかにはいると、意味が生まれてくるのだ。

  次の話は法則についてである。法律っていうのも法則だが、これは破られてしまう。物理の法則はもっと強烈。さらに数学の法則はなかなか破れない。最強は論理の法則である。

  そもそも、法則っていうのは仮説が帰納演繹法によってできる。トゥルーミンがいうように、にわとりは飛ばない、という法則はいつ破られるかもしれない。有効期限が不明な遊園地のチケットといっしょなのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   前にいる車のナンバーがある数だったらラッキーだとルールを作る。すると、それがほんとうになる。そもそも、この世界は自分がルールを作っていたのだ。自発的に自分が関与していない事実とは私の目の前の感じたままの現象しかない。

  私と世界、主観と客観っていうのは、最初は混ざっていた。いつしか分離し、境界面をつくる。この境界面が現象面だ。

  自然界において、界面力学が成り立つ。個体と個体、液体と個体でもいいが、異なったものどうしは界面をつくる。水と油の接触面だ。この界面は自分自身を安定させようと、界面付近の分子が自由に動き回る。界面自由エネルギーである。また、余分な界面自由エネルギーを減らすために、界面を小さくしようとする。これが表面張力、界面張力である。主観と客観の現象面において、主観側において界面自由エネルギーが思考、感情になって、客観側の世界にルール付けをする。界面張力による界面の縮小はいわゆる遠近法世界、地平に囲まれた世界を形成するのである。


2014 8-25


自己組織化と存在隠蔽性についてである。この世界や意識はどうもドーナッツの形をしているようだ。自分自身とつながっている形なのだが、どうも、人類社会はこのドーナッツとは程遠い形である。宇宙がマトリクスのようなシュミレーションなら、人類社会はそのバグであり、コマ落ちなのかもしれない。

   自己組織化についてである。オートポイエーシスともいう。自分自身にかかわるというのは自己矛盾だという。ところが自己組織化は自分自身を改造したり、作り変えたりできる。実際、その具体的な例はなにかといえば、生命体である。生命はとかげのしっぽにあるよう自然治癒力をもつ。

  次の話はハイデガーの存在隠蔽性についてである。前期のハイデガー哲学はどっちかというと自分自身で自発的にんーっと力んで脱皮ならぬ、脱自して、このとき、自分の存在そのものの地平を開いちゃうという思想だった。存在そのものとは、ほかならぬ、自分が生み出す。ところが、後期ハイデガー哲学は存在とは向こうからやってくるものだという。しかも、存在そのものは具体的な存在者の衣、着ぐるみを着てやってくるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   われわれはドーナッツ、トーラス体だといった。自分から円錐状にひろがる遠近法的世界。これがおのが後ろにまわりこんで背中にくっつく。対象意識、世界への意識は同時に自分の背中をみているのだから自己意識だった。これは自己組織化である生命の肉体同様に自己組織化だ。宇宙やそこの住むものはトーラス体として、自浄作用をもつものにしようと、この宇宙シミュレーションの製作者はおもったのであろう。ところが、バグがうまれ、こま落ちがあった。これが人類の社会なのだ。まず、人間の意識はデリダのいうように自己現前しなくて、見ている自分と見られている自分はちがう。自分だ、といってもそれは痕跡、他者だ。また、フリーエネルギーは自分自身で自己完結する第一永久機関だが、この技術は世に出るまえに隠蔽される。さらに、自然治癒力も、薬品会社による支配のため、圧迫をうける。経済においても、自浄作用、自己生成ではない。労働者は見合った対価をもらわない。一部の銀行家がもうかる仕組みだ。これらのすべてがトーラス体が壊れているバグでり、UFOが現れて調節にきているのだ。今後、来たるべく理想の世界では自己意識もトーラス、社会もトーラスなのである。



2014 8-26


不可知論と仮想一元論についてである。主体的にいろんなこ戸に取り組む。せっせとめだかを追い回す。虫取りにジャングルに赴き、虫取り網でくじらを射る。生きているとは主体的なのだが、じつにわれわれは永遠に主体的な存在だった。また、同時に主体的とは非主体的でなにもしていないと同じことかもしれない。

   哲学者カントの不可知論についてである。われわれが見ているのは現象である。洋ナシ、どうみても下半身のぼってり感が足腰を強靭さをかもしだしているのだが、この洋ナシの何を知っているのか。こいつはどこからきたのか。分子の数もわからない。見ているのは、五感とカテゴリーによる判断だけだ。この洋ナシそれ自体はわからない。だから、物自体は不可知だし、はるかなたの理念だ。ところが、理論的に洋ナシってなんなのか、知ろうとするのをやめて実践にうつる。すると、実践している自分が物自体とわかる。物自体は実践理性だとしる。

  次の話は坂本百大の仮想一元論についてである。世の中はなんだかすべてをひっくるめて一元論的だ。ところが、なにかを認識しようとすると、どうしても二元的にならざをえない。世界は全部でひとつかもしれないという仮想一元論。世界をみよとすると、どうしても概念の枠組みが心と世界というように二つになるので概念枠二元論になる。

  まとめ

 存在の科学

  異次元理論

   この世界はすべて波ででいている。粒子だとおもっていたがじつは波。しかも、この世界の空間、時間は眼にみえる実体の世界だけではない。つまり、実数世界だけでなく、二乗してー1になる虚数の世界、複素数世界もある。実数軸と虚軸という空間軸があるのだ。量子の波動はこの二つの世界をあわせたところで波打っている。ただし、原理上見えるのは実数世界だけだ。

  この見えない虚数世界、複素数世界はじつは認識している、意識している私そのものなのだ。見ている私と見られている世界を合わせると、実軸、虚軸のあわせた全体の波動になる。生まれてから、死すまでは実世界を見ている。それは見ている自分はみえないのだから、虚世界だからだ。ところが、生まれる前、死滅後も、虚実を含んだ全体の波動であり、主体的だったのだ。また、西田幾多郎がいう無主体説のように、じつに、この永遠の主体性である虚実の波動は無主体的でもある。何もおきていない、何もしていないのだ。ここまでくると、老子の無為をなす、腹をなす、ということ。為さないということを為しているのだ。


2014 8-27


非法則論的一元論とベルクソンの自由論についてである。私と世界はセットであり、世界とは関係なしに私入られないし、その逆も同じだ。私と世界だけのとき、私は絶対的な自由。ところが、私となにか対象と関係をもつと、なんと物理的制約がうまれちゃう。私と世界、世界にあるいろんなものとの関係について鼻息荒くしながらお話したい。

  ディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。心と世界を足しちゃうと、宇宙の全部になる。心は心の法則、世界は物理の法則にしたがっているっぽい。二元論のときはいいが、これらをひとつにしてしまうと、もはや法則、ルールがでたらめになる。バレーボールとサッカーをくっつけたらカオスだ。だから、宇宙をひとつにすると非法則だから、非法則論的一元論という。

   次の話はベルクソンの自由論についてである。ほんとうの時間っていうのは測定できない、つまり、量じゃないという。だから、質なのだ。そんな時間がどこにあるかといえば、胸のうち、つまりは、心、意識である。これを純粋持続という。さて、そんな私の意識は自由そのもの。自由とはなにかと問う。だけど、疲れていれば問わなくてもいい。つまり、自由とはなにか、と問うか問わないか自由なのだ。よって、自由はそもそも問い以前のもなので事実だという。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   私と世界はセット。このときは、私は自由そのものである。非法則論的一元論のように、心と世界でなんでもありのカオス状態。そして、他者が現れる。私と対象物や他者。このとき、ふたつにわかれておのおのルールがでてくる。私においては一なる私だけで個性がうまれる。対象のほうは万物多様性で多元的だけど、物理法則による制約がうまれる。二元論になったとたんに物理的制約がでてくる。これは行為のことだ。思考や何かを感じているときは二元的じゃない。感覚は一元的だが、知覚は対象物と私にわかれるから二元的だ。だから、思考、感覚、感情、感じるというのは自由そのものの世界だ。これが一なる私と多なる世界という二元論になる。一元論と多元論という二つにわかれるという二元論なのである。



2014 8-28


自己不透明性と根源の原理についてである。風が吹いてなんと髪の毛がぼさぼさになり、まるで別の生き物のように踊りだす。髪の毛は生きている。風で飛ばされたコンビニ袋が宙を舞う。コンビニ袋は生きているのか。物質と生命の枠を超え、すべては風で動く。

  自己不透明性についてである。自分自身にとって、自分がまったく見えない、わからない。これは自己不透明性という。ジャックデリダなどである。おれだ、と叫んでも、自分の前に現る自分、自己現前というが、これはもはやおのれの残像、痕跡だという。また、逆に自分自身がまったく100パーセント見えるし、わかるというのが自己透明性。古代ギリシャのソクラテスである。私は無知であることを知っているからアテナイで一番賢いという。無知の知であるが、これは自分のことをよく知っているという自己知だから、自己透明性だ。

  そして、自己半透明性がサルトルである。半分ぐらいは自分が知っている。だから、半分はわからないから、そこから自分自身をだますという自己欺瞞がおこるという。

  次の話は新カント学派のコーヘンの根源の原理についてである。AっていうのはA自身によって根拠付けられて支えられているのか。自分が自分自身を持ち上げるようなもの。だから、AはA以外のものによって根拠付けられるという。Aは非Aによって根拠付けられるというのが根源の原理である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   なにかを意識していたり、見ているのだが、だれがなにに突き動かされてみているのか。自分の主体的な意志だ。ところがそんな意志は自分にとって見えない。自分自身はどんなにがんばっても見えない、わからない。自己不透明性なのだ。鏡を見て私がいるとおもってもそれは本当の私ではない。私の本体は徹底的に見えない、わからないもの。見らている対象以外のすべてが私の意志なのだ。かって、カントは現象の背後に物自体があって、これは見えないしわからない、不可知だといった。ところが、そんなわからない物自体はいまなにかをしている自分自身の実践だといったのだ。

  人間にとって見える世界は実数世界だ。見えない世界は虚数、複素空間である。いわゆるこの複素世界が私自身なのだ。ミツバチは花の蜜を集める。花しか見えない。かれらにはつぼみ、茎など不必要なものはみえないのだ。人間も生存に不必要なものがみえず、見えるのは糧だけである。ところが、このミツバチにとってみえないつぼみ、茎、風こそがそのミツバチを動かしているもの、そのミツバチの本体である。また、あるひとにとって見えない、わからないものがそのひとを突き動かす、その人自身の意志である。これは風に舞う蝶やコンビニ袋にもいえる。蝶は見えない風で動き、袋も風で動いている。もはやそれ以外のもの、Aは非Aによって動かされ、A自身の本体、意志は非Aなのだ。


2014 8-29


   サルトルの自由論と人間原理についてである。ひとはどこまで自由なのか。チキンナゲットでマスタードか、はたまた、マーべキューか、選択の自由もある。ところがそれどころの自由ではなく、なんと自分が存在するか、しないかも自由意志で決めていたのだ。

  サルトルの自由論についてである。ふつうに考えると、物事はまず本質っていうのがあって、はじめて存在できる。設計図、構造、法則が最初にある。車を車たらしめている本質があって、はじめて存在できる。ところが、人間はちがうというのだ。人間においてはその存在が本質よりも先にあるという。男女、どっちにするか自由意志で決める。そもそも、人間になるかどうかも自由なのだ。こんな自由な存在。なにかとして固定されていない不定形な荒唐無稽な存在。これを実存と名づける。

  次の話は人間原理についてである。この宇宙は人類が存在できるためにあまりにも好都合にできている。光の反射率、地球と太陽の距離ですら、ちょっとちがっただけで人類はいなかった。なんらかの意図が働いているのか、それとも、人類が存在できない環境だったら、そんな宇宙を観測する人類がいないから当たり前のことなのか。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   
    論理的に可能な世界はすべてある。いまこの宇宙が特別だという特権化は非科学的であって、すべて論理的可能なものは並行世界としてあるのだ。すると、人類、果ては私はもっとも、自分にとって都合のよい環境の宇宙を選択して生まれてきたのかもしれない。つまり、性別、性格を選択どころか、人間になるかどうかどころか、存在するかしないかすらも、あるとないを超えたなんだか不思議な状態の私が自由意志によって決定して、この宇宙を選んだのではないか。つまり、存在するかしないかを選択するものこそ、理性と自由意志を持ったものだったのである。



2014 8-30


クリプキの固有名とオッカムの唯名論についてである。この世界は原子でできているという。めちゃくちゃ小さいらしいが、もっと小さな世界を拡大してみるとなんと、並行世界でできていたのだ。さらに、大どんでん返しのごとく、われわれの意識はブラックホールで、その性格はブラックホールに吸い込まれている物体の形状に依存するという一見、わけわからないような内容を論理的に説明したい。

   クリプキの固有名についてである。論理的に可能な世界はなんでもある。ただし、実在するとはクリプキはいわない。可能世界には、ソクラテスは哲学者でなく、ミュージシャンの世界もあるかもしれない。すると、なにをもって、それが同じ人物といえるのか。つまり、女性だったかもしれず、昆虫だったかもしれず、といってしまえば、もうなんでもありの世界だ。可能世界を全部貫いて変わらないのは、ソクラテスっていう固有名だけなのだ。これを固定されて動かないものが指示しているので、固定指示子という。

  次の話はオッカムの唯名論についてである。あれはなんだ、人間か、ペンギンか。人間っていうことばに対応する人間そのものがいるというのがプラトンのイデア説。オッカムは人間だって、さいとうくんっていう固有名詞ですらただの名前、レッテルだという。あるのはそれ、唯一無比の個体だけだというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    この世界はすべて原子でできているという。そうではなく、並行世界でできているのだ。ひょっとしたらさいとうくんは野球選手だったかもしれない、天道虫だったかもしれない。もっといえば、机だったかもしれない。並行世界の斉藤君はなにをもっていまここにいる斉藤君と同じ人物といえるのか。姿がにていることか。虫の並行世界だったらそうとはいえない。魂なのか。そうではなく、並行世界はこの世界の外にあるのではなく、この世界のなか、しかも、この世界の構成要素だったのだ。目の前の机も私のひょっとしたらの姿であり、斉藤君のそれでもある。宇宙は広大で、地球そっくりな惑星にそっくりな斉藤君がいるかもしれないがそちらのかたも並行斉藤君だ。

  さて、科学的にも世界の構成要素は並行世界であることがわかっている。世界は最小のひもでできているという。なんとこのひもに畳み込まれるように五次元空間が入っているのだ。巻き上げられた次元ともいい、これをカラビヤウ多様体という。五次元空間には無数の並行世界、四次元ブレーンが存在するので、文字通りこのわれわれの世界は並行世界でできていることになるのだ。

  この世界がすべて自分の並行世界となると、いまここにいる自分の意識とはなにか、ということになる。じつにブラックホールだったのだ。ブラックホールに物体が吸い込まれる。すると、光速に近づき、時間が遅くなる。さらに、光速に達すると時間が止まるのだ。これを事象地平面という。シュッツという思想家は、意識とはとどまり、かつ、流れている絶対的意識流といったが、まさしく、時間が流れていないのだ。これは昨日の自分と今の自分が同じ自分、人格の同一性をあらわしている。また、物体が知平面を超えると、光速を超えるので時間が未来から過去へと逆行する。これはまた、意識の特性でもある。意識はすでに未来にあって、目的意識となり、過去の肉体を動かしているのだ。

  個人的意識、これを経験的統覚だとカントはいったが、これはブラックヒールに吸い込まれる物体の形状の違いだ。どんなチリ、岩石なのか、この違いが個性の違い。この一なるブラックホールの全体はカントのいう根源的統覚、人類共通の私なのだ。こう考えると、種によってブラックホールがちがうということになる。キリンそのものの普遍的意識はキリンの独自のブラックホールであり、そのキリンの個々の個体差が吸い込まれる物体の差異になるのだ。



2014 8-31


対自存在と超存在についてである。われわれはなんとあるとか、無いとかを超えちゃったなんかなのだ。バナナだか、りんごだか超えてしまったフルーツは知らないが、存在と無のかなたにわれわれがいて、惹いては生と死を超えているなにものかなのだ。
   サルトルの対自存在についてである。転がっているりんごはそれ自体で自分に一致している。だから、即自分なので、即自存在。安定しているが自由っていうものがない。あるところのものであり、あらぬところのものであらぬ、という。ところが、人間の意識は対自分存在、つまり、対自存在だという。私だ、といってももはや今の私ではない。私はかってあったものでなく、いまだないものになるという。あるところのものであらず、あらぬところのものである、というのが対自存在。あまりに不安定で固定されていないから不安だ。それでも、これだ、というかたまりじゃないので自由なのだ。

   次の話はマイノングの超存在についてである。有意味っていうのは、真か偽のどっちかの値をもつもの。無意味っていうのはどっちももたないもの。つまり、この皿のような眼で観察して検証できるのが有意味だ。マグマ大使は実在せず、よって検証できないから無意味になる。ところが、存在してるとか、していないとか超えちゃっているやつ、ということで、マグマ大使も、黄金の山も、丸い四角形もすべて超存在しているという。これは存在とはいわずに存立するという。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    人間の意識は存在と無の中間体。サルトルは存在でも無を分泌しているものとした。有と無を超えたものだ。いってみればあるでもないでもないマイノングの超存在のようなもの。だから、真偽不定のイメージや想像ができるし、思考もできる。クオリア、感覚だって、知覚とはちがう。知覚は丘の上の木を知覚というが、これは主観と客観に分かれている。ところが、くすぐったい、青い、くさいっていうのは主客未分であり、あるとかないとかの次元を超えている。有と無はいってしまえば、波動における山と谷。波というのは同期する。メトロノームを二つ並べると、仲良く同期して、同じ動きになる。振り子時計もそうだ。有と無は山と谷であり、波動である。これが別の意識なり、自然物と同期したり、位相差によって乱れたりする。

  一生を通じると、生と死、誕生と死というのも超えているなにかである。だから、以前お話したが、生まれるか、そうしないか、存在するかしないかまで自由だといった。生と死の波動は宇宙の波動と同期している。だから、これは宇宙、天命にゆだねられているともいえるが、生まれる前は私=宇宙だったので絶対的な自由で存在と無の選択をした。絶対的自由が天における運命というとニーチェの思想観が思い出される。


2014 9-1


指示の魔術と意味の三角形についてである。なぜ、われわれは自分の外にあるコーヒーカップを心のなかに取り込み、イメージ化できちゃうのか。いわゆる指示問題なのだが、眼に見えないで糸でつながっているのではなく、別次元と対象物と私のからだが互いにシンクロ、同期していたのだ。

  パトナムの指示の魔術についてである。水槽のなかの脳という仮想実験をする。SF的な仮想実験だ。水槽のなかに脳が浮いていて、これに電極がついている。そして、人工の眼球とつながっていて外界をみているのだ。目の前のコーヒーカップをその脳はとらえることができるのか。心のなか、脳のなかのイメージと外界のものはどうやって指示し、つながっているのか。パトナムは脳はコーヒーカップを認識できないはずだという。われわれ人間はなんで外にあるものと心のなかのイメージを結び付けられるかはまるで魔術のようだという。

  次の話はオグデン、リチャーズ、意味の三角形についてである。ジャングルに洋ナシがあった。ここに探検隊が来て、洋ナシだと叫んだり、紙に書く。言語っていうのは象徴とよばれる。いろんな洋ナシを代表している象徴だ。そして、実際の洋ナシという対象物がある。さらに隊員のあたまのなかにはイメージがあり、これを思想という。思想、言語、対象物の三角形があって、はじめて洋ナシの意味がうまれる。だれもいないジャングルではその洋ナシには意味がうまれないのだ。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  なにゆえ、心のなかのイメージが実在物と結びつくのか。洋ナシがあったら、まず、私の肉体と共鳴、シンクロ、同期する。メトロノームや振り子時計のように周期が一致してしまうのだ。さらに、この世界はすべてひもでできているので、ひものなかにおりたたまれている五次元空間内部と同期する。これがカラビヤウ多様体である。五次元は無数の並行四次元時空があるので、そのなかのちょっとちがうひょっとしたらのその洋ナシがある世界と同期するのだ。さらに、この可能世界の洋ナシが実際の洋ナシと同期する。ここに意味の三角形のような状態が生まれる。肉体としての私とカラビヤウ多様体のなかの可能世界の洋ナシと実物の洋ナシがシンクロしあうのだ。すると、洋ナシを心のなかでとらえられるのである。この可能世界の洋ナシが思想であり、実物は対象物であり、私の肉体は言語に対応する。肉はロゴスというのだが、まさしく、肉体が言語だったのである。


2014 9-2


パースペクティブ主義とシュタイナーのアストラル体についてである。生命っていうのは裸でなく服を着ている人類っていう種もいるのだが、基本的にオーラのようあもので包まれている。飲みの席ではめはずして素っ裸の男にもオーラがある。これは場なのだ。電磁場、ヒッグス場と同じような場、ここに意識の秘密がある。

  パースペクティブ主義についてである。遠近法主義ともいう。大地に根付いて、自分の視点からものをみる立場だ。近いものは大きく、遠いものは小さく、アフロの後ろだと、景色が見えにくい。とりわけ、ニーチェは極端なパースペクティブ主義である。隣にさいとくんがいても、同じ景色をみていない。眼がちがうからだ。考えだって、あたまがちがうので同じことは考えていない。なにがよくて、なにが悪いか、善悪の価値も一切共有していない。絶対的な価値、神様のようなものがなく、みんな孤立して自分の視点からしかみていない。だから、相対的で、ニヒリズムの世界だという。だからこそ、無から価値を創造しよう、というのが超人思想だ。これにたいして、プラトンは反パースペクティブ主義。世界を神様の立場から一挙に俯瞰する。どこからみたバナナでなく、バナナそのもののイデアである。

  次の話はシュタイナーのアストラル体についてである。人間の身体は物質界。これを生命にさせているのが、肉体を包むオーラ、エーテル体である。さらにそのまわりには記憶をとどめ、知覚や思考を生み出すアストラル体が包んでいるという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   電磁場、電磁界というのは、じつに、空間のなかにない。じつは、空間の場とは別の世界、場なのだ。この一般的にいう空間はアインシュタインがいう時空のゆがみで重力が発生する空間であり、最近だと質量を発生させるヒッグス場のことだ。無数の場が並列ないし、重なっているのだ。
  
  電磁場においてメッセンジャー粒子の光が生まれる。光も電磁界のものだ。異なった場同士が干渉、影響したとき、それは光円錐、ライトコーンの形になる。文字通り、光はライトコーン、円錐状に広がる。意識場というものがあれば、物質である肉体があるこの空間に接触すると、ライトコーンとなって現れるはずだ。そのとおりに、意識はライトコーン状に、遠近法的に、自分を中心にして、円錐状に広がっているのだ。



2014 9-3


ズレの哲学とフラクタル理論についてである。生命の意識はズレてしまい、これを修正してさらにずれてしまった結果、うまれたのではないか。二度のズレ、失敗がうんだ産物だったのかもしれない。

  ズレの哲学についてである。ズレといったら、靴下がずり落ちて超気になってプロレスの試合に集中できなかったり、パンツがずれていて、歩き方があまりにも奇妙で競歩の大会で失格になったり、とあまりいい意味では使われない。最初にズレがある。たとえば、ジルドゥルース、差異と反復である。もともと、違いが最初にあるのだが、どうしても同一性になりたくてしょうがない。そのために反復するのだ。ベルクソンは過去中心の反復だという。今見ているものは印象。そこに梅干がある。それがすっぱい梅干と認識できるのは過去の記憶と今見ている印象との反復だ。ヒュームは現在を中心にした反復。梅干、梅干、と今この瞬間の印象しかない。だから、冷蔵庫のなかにあるはずの梅干は思い込みだ。未来中心の反復がニーチェ。永遠の同じ一生を未来永劫に繰り返すという永劫回帰の思想だ。

   次の話はフラクタルについてである。雪の結晶っていうのは、部分が全体の形といっしょである。自分を構成する部分が全体と似ている。これを自己相似系、フラクタルという。


  まとめ
  
  存在の科学

  異次元理論


  生物の発生っていうのは同じパターンの繰り返しである。あたまとお尻は似ている。腕と足も似ているのは同一パターンによってできているからだ。これを連続的なパターンという。かにもまた、あのはさみと表面のいがいががそっくりだ。また、異なった種同士も同じパターンだから似ている。ひとと馬も同一パターンだ。

  同じパターンを繰り返そうとして、周囲の環境と同期することで、自分自身との同期が壊れ、位相差が生まれる。このパターンのずれを補正しようとする。左右対称のシンメトリーがくずれ、右によったら左に寄ろうとする。負のフィードバック機構である。ところが、左でなく、上にベクトルが向く。これが意識、意志になるのだ。ずれを補正しようとして、また、補正に失敗。二度の失敗が意志をうむ。失敗の失敗が成功なのだ。

  さらに、意識がうまれてから、最初はクオリアである。このパターンを繰り返し、感情、思考が生まれる。これまた、補正が必要でもとの状態に戻そうとして、人格の同一性が生まれる。万物は光の対称性だったのだが、これがこわれてエントロピーが増大し、ヒッグス場、物質がうまれた。エントロピーを減少させるべく、補正し、均衡を保とうとして、意識が生まれたのだ。


2014 9-4


先入観とロウソクの科学についてである。見間違えるときがある。イガグリを友人のあたまと間違えてなででしまったり、サッカーボールとまちがえて、同じく友人のケツを蹴飛ばす。すべてのものは生命であるが、それが先入観によって物体や別のものに見えているだけなのだ。

  先入観についてである。ベーコンは先入観のことをイドラと名づける。四つのイドラがあって、これらを乗り越えることで真実の世界が見えてくるのだという。先入観が真理、真実をみえにくくしているというのだ。これに対して、現代の思想家ガダマーはむしろ、先入観あってこそ認識だって成立するという。あれは人間だ、フルーツだと、と思い込み、よく考えてみるとすべてが先入観なのだ。先入観なしにものをみたらなにも理解できないのだ。

   次の話はファラデーのロウソクの科学についてである。ファラデーは宇宙にあるすべてのものはロウソクの火と無関係なものは一切ないと断じる。それは生命でもあり、銀河系でもある。とりわけ、ロウソクの火は生命だというが、酸素を吸って水と炭素にして、二酸化炭素を出しているロウソクはかぎりなく生命と同じなのだ。

  
  まとめ

 存在の科学

  異次元理論


   ロウソクは酸素を使って二酸化炭素を出す。まさしく生命と同じ営みだ。生命にみえないのはわれわれは同じ色眼鏡をかけて先入観でみているからだ。生命と非生命のちがいはこのような先入観のちがいだったのである。もしかしたら、ロウソクの火が別の次元の世界にあって、肉体はこの空間にあるのかもしれない。また、この世界の火は別世界では生命なのかもしれない。われわれの精神と肉体は別次元をはしわたされているが、この二つの次元を同一次元とみなす横切る次元に住むものにとっては当たり前の現象にみえているのだ。ビリヤードの玉1があたって玉2が動いた、というこの出来事の連続性は他の次元では高次元、低次元のクラスのちがいにみえるのである。

  われわれがみえるのは実数世界であって、虚数、複素数世界はみえない。これはそういう先入観のめがねをかけているからだ。相対論において観測者の運動状態によって時間と空間がゆがみ、座標系が傾く。同じように、観測者の意識状態によって、座標系がゆがみ、座標系が変化する。複素座標系が見えてしまう意識状態が睡眠という意識活動が沈静化した状態かもしれない。このとき、夢をみるが、これが、覚醒時のわれわれにはみえない別世界なのかもしれない。



2014 9-5


物語文と語用論についてである。なんと驚いたことに、耳とひたいがしゃべっていた。そんなことをいったら、まちがいなくあたまいかれていると思われる。自分を中心に半径3メートルは人がいなくなる。細胞も、原子も、洗濯機も、すべてはじつにコミュニケーションをとっていたというお話をしたい。


   ダントの物語文についてである。すべてはストーリーテーラーが語っている物語によって意味がうまれる。すでに終了した過去の二つの出来事を並べて、物語るのである。第二次世界大戦は何年にはじまって、云々話して、何年に終わる。こうすると、出来事の流れ、方向がわかる。ところが、ただひたすらその時々の状態をいうだけの状態記述だと、その前後の脈絡がわからなくなってしまう。

    次の話は語用論についてである。みかんって叫んだとき、みかんっていう単語と、実際のみかん。これらが眼にはみえない糸で結ばれている。これについての研究が意味論である。みかんはおいしいな、ひっひっひ、というような文。文法、ルールに従っているが、文法について研究する構文論。さらに、言葉を使う、聞き手がそれ聞く、というような、言葉の使い方の研究が語用論である。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  
  細胞も、物体も、互いに人間の言語以上の情報量をもつコミュニケーションをしている。すべては関係性で成り立っているのだ。茎、花、葉っぱ、これらは便宜的にわけられているが、これらのあいだ、関係のなかに文法があり、コミュニケーションがある。物体の力学的伝達だって、言語なのだ。振動するもの一般を振動子というが、互いに同相同期したり、逆相同期したりするのだが、これまた、言語と同じであり、生物のからだの発生や銀河系の成り立ちにあるような同じパターンの繰り返しと微妙なズレですら、言語活動と同じ。言語の文法も時代とともに変わる、パターンが微妙に変化するのが若者言葉と昔の言葉を比較するとわかるのだ。よって、人間が言語を使うのは特別でなく、最初からすべては話していた。とりわけ、自覚的に自分が話しているのを知ったのが人間だったのである。



2014 9-6


ソクラテス以前の古代ギリシャ思想と神の存在証明についてである。神様がでてくる神話、そして、論理的な哲学、さらには宇宙人。これらが目にみえない世界で人類製造にかかわっていたかもしれない。人間はマシンになったのかもしれない。マシンからの脱却、そんなお話をしたい。

   ソクラテス以前の古代ギリシャ思想についてである。もともと、ギリシャではミュトス、神話があった。世の中はカオス、でたらめからうまれ、巨人をやつけてオリンポスの神々が君臨し、人々の運命を決めたという。ミレトスという地で哲学がうまれる。すべての根源をアルケーとよび、タレスはすべては水というアルケーでできているといった。アナクシマンドロスは無限なるものがアルケー。さらにヘラクレイトスは万物は流転しまくり、だとし、パルメニデスやその弟子ゼノンは存在こそ永遠だといった。

  次の話は神の存在証明についてである。四つの存在証明があるという。まず、神の目的論的証明である。自然界をみると、なんだかすべてのものは目的をもっているようにおもえる。その目的が神様なのだ。本体論的証明というのはデカルトなどであるが、論理的に神様がいると証明。可能ないろんな存在者がいる。理屈でかんがえれば、最高の、最大の存在もあるはずだ。神様は理屈上いるはずなのだ。宇宙論的証明というのは、すべてが原因と結果であり、原因をどんどん追究すると、神様の最初の一撃があるはずだ。そして、カントなどは道徳論的証明である。善いことをしても、むくわれないときがある。こうなってしまうと、もはや、神様がみてくれてないと困る。神様の存在を要請するのだ。
  

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   ギリシャにはミュトス、神話があった。オリンポスの神々が巨人を滅ぼしたのだという。ギリシャの近くにエジプト文明があり、巨人の像がまつられている。シュメール文明にいわれているアヌンナキである。惑星Xに住んでいるアヌンナキ、自分の住む惑星が大気汚染で住めなくなる。そして、その大気を改善するために、金粉が必要だったという。だから、地球にやってくる。地球にいたサルを金掘削マシンに改造したというのだ。

  ここでシュタイナー思想が重なる。人間の肉体は物体だが、生命活動を引き起こしているのは一回り大きい目にはみえないエーテル体だという。このエーテル体が巨人であり、巨人アヌンナキが作り上げたもの。こんな巨人を倒したゼウス率いるオリンポスの神々がこんどはミレトスで誕生した哲学に倒される。すべては秩序、論理からできているという古代哲学。秩序の神、アポロンだけを採用する。そして、近代にはいり、意識や主体性の哲学ができる。ここで、エーテル体を包む、意識魂、アストラル体がうまれたのだ。ニーチェは哲学が信望していた秩序の神、アポロンに対して、肉、カオスの神、ディオシノスの復活を試みた。これらの神々は人工的につくられたものなのか。そうではなく、観念的なものであって、数の3が実在するように、観念世界に実在しているのだ。

  われわれは金採掘マシンなら、これに自覚したとき、理想の人間になろうとするであろう。ところが、椅子が自分が椅子であることに気がつかないように、ひともなにかに利用されていると気づく。椅子は人間になろうとすれば壊れる。人間も身を破滅してしまう。マシンからの脱却はじつに宇宙との共振しかない。

  ひとのからだ、細胞も、地球の自転公転周期と同期している。すべてが振動するもの、振動子である。もっとも大きな宇宙の発生と消滅は、もっと小さな量子の対発生と対消滅と同じ。もっと小さな、もっと大きなものがあった。ひものなかのカラビヤウ多様体は五次元の並行世界。この宇宙の外にも広大な五次元宇宙だ。この大きなものと小さなものは基本的には同じだが、同期せずに位相差がある。これを同期することで、自分を個別的にかえることなく、宇宙とともに変えることができるのだ。部分が全体と同じ形というフラクタル。これを自己相似系といった。全体と部分は同じで同期するということを自己相似でなく、自己同期となづけたい。こうすると、大いなるものと最小のものがループし、マシンからの脱却ができる。これが瞑想だと思われるのである。



2014 9-7


個体と判断停止による中立化についてである。目の前に壁が立ちはだかる。どんなに視力がよくても、壁の向こうはみえない。眼は物質的なものだからだ。ところが心は想像、イメージで向こうを感じようとする。心、意識は波動であり、それゆえ意識体は複数いるのだ、というお話をしたい。

  個体についてである。古代ギリシャのアリストテレス。個体っていうのは形相と質料の合わさったものだという。たとえば、ホットケーキなのだが、粉と水とたまごが材料。これが質料であり、これに形、本質である形相がくっつくと、おいしいホットケーキの出来上がりである。

  中世においてはドゥンススコトゥスのこのもの性である。ホットケーキにはこのホットケーキたらしめているこのもの性っていうのがそなわっていると考える。これが極端に先鋭化するとオッカムの唯名論になる。ホットケーキっていうのは名前であって、すべてはここにあるこれっていう個体しかないという。
 
  現代においてはクワインの存在論的コミットメント。論理的に考えるのだが、xとか、yとか、これを変項といい、xはホットケーキという文において、このxに値が入った瞬間に存在とコミットして、このホットケーキが存在しちゃうという。

  次の話はフッサールの判断停止における中立化についてである。これあホットケーキだ、これはテーブルであり、ここにまちがいなくある、と決め付ける。これを存在定立という。この思い込みをやめてしまう。すると、あるとかないというレベルを超えて、中立的に混ざり合った状態になるというのだ。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    壁があると眼球は向こう側が見えない。眼球は肉であり、物質だから物理法則に従う。ところが、心、意識はちがう。以前話したが、すべては振動する振動子である。だから、壁の向こうtp同期するのだ。意識は壁の向こうをイメージし、想像する。意識は振動、つまり、波動なのだ。

  波動には山と谷がある。電子は原子核のまわりをまわる波動だという。山と谷の一個分が放出される。すると、エネルギーが整数倍だけ放出されるのだ。山と谷でセットであり、中間の値がない。波動とはデジタルであり、これを波動の離散性という。意識も波動だから離散的に振舞う。あれかこれか、好き嫌い、白黒はっきしていて、心の奥底でははっきり決まっているのだ。どっちかわからないというのは自分をだましているのかもしれない。意識がデジタルで離散的だから、意識を生命体もまた離散性である。山田君、橋本くん、高橋さん、すべては離散的であり、山田君が半分で、橋本君は半分という状態は心、意識にはない。物体にはそれがある。あんぱんを三分の一にわけることもできる。物体は連続性、アナログなのだ。

  箱のなかの猫は意識という波動が関与しないと、白黒はっきりしない。離散性をもたない波動ではない粒子だから、生きていると同時に死んでいると同時に毛づくろいしているのだ。すべてがまざった存在っていうかたまりなのだ。だから、意識、心のないロボットが箱のなかをみたらすべての状態が重なったただの存在にしかみえない。これはもはや認識ではない。
 


2014 9-9


記憶の所在とモナドロジーについてである。地球には山あり、谷あり、町がある。文明が栄え、人類は繁栄する。同じように、時空のゆがみ、電磁場においても地形がある。ここに人類のような文明をもった何かがいるのではないか、というお話をしたい。

   記憶の所在についてである。記憶とはハードディスクやメモリのようにあたまに蓄積されているのだろうか。ベルクソンは記憶っていうのはそれ自体であるという。ただ、五感、眼でみたり、触れない。それ自体であることを即自分だから、即自存在という。記憶は見えないけど、あたまっていう感覚、アンテナでとらえることができる即自的なものだという。

   次の話はライプニッツのモナドロジーについてである。デモクリトスはすべては原子、アトムっていう粒でできているとした。眼に見えないものを扱うのを形而上学というが、形而上学的なこれ以上分割できない個体。ところがライプニッツのモナドはそんな形而上学的な個であると同時に、私っていうのは世界の中心だという近代的個体もあわさっているのだ。すべては主体的な点でできているという。そこの点、モナドにはそこからみた全宇宙を含んでいる。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   地球には地形がある。山あり、谷あり、川もあり、街もある。山や谷が云々というのは自然地理学。そこに文明が生まれて、人種や人間の生活については人文地理学。

  さて、時空というのはアインシュタインの相対論ではゆがんでいて、くぼんだところが重力があり、物体がある。電磁場もまた、等高線のようになっている。宇宙というのは、秩序から無秩序へと移行する。エントロピーが増大している。これは山であり、このエントロピーの山を登ろうとして、エントロピーを減少させるのが生命の主体性。ところが、電場においてはエントロピーの山には頂上がある。頂上に達したら、もはや、エントロピーを減少させようとしない。これに対して、磁場はこの頂上がなくてひたすら意志はエントロピーを減少させようとする。これをダイバージェンド、発散という。

  ヒッグス場にも山と谷の等高線があるであろう。このように、地球の地形と同じような世界だ。だから、そこに時空、電磁場、ヒッグス場の地形に文明が栄えるのだ。生命の肉体は細胞や菌のようにもっと小さな生命からできている。同じように、われわれの精神、意識、心も、もっと小さな意識によって構成される。これが電磁場、時空、ヒッグス場の地形にいる文明を気づいた目にはみえない生命体なのだ。われわれはベルクソンのいうように、記憶をそれ自体で存在させている。この時空や電磁場の小さな生命が記憶の貯蔵システムなのだ。主体的な生命に満ち溢れる空間、これはまるでライプニッツのモナド論のようなものだ。
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2014 9-10


ジェームスの哲学と三つの視点についてである。うりゃあっていう気合を入れて、頬をもちあげ作り笑い。主体的な意志があってこそ、われわれは活動できる。この主体的な意志はどこからうまれたのかと考えると、どうやら小さな世界の小さな文明人と関係していると思われるのである。

  ウィリアムジェームスの哲学についてである。今という瞬間にいるのではなく、時間っていうのは幅があり、厚みがあるという。過去、現在、未来にまで意識は厚みをもつ。また、目の前にある夏みかんをみるとき、夏みかんだけ見ているのではない。中心があって、周辺がある。眼の片隅の周辺にはぼんやりとちゃぶ台や部屋の天井がうつっている。これはオーラのようなもので、ほうりんといい、フリンジという。

  次の話は三つの視点についてである。哲学的人間学という分野でプレスナーという思想家がいる。動物っていうのは、自己と肉体がずれているから、肉体を動かせる。人間は自己と肉体をみる第三の視点、自我というものがいるという。オイゲンフィンクという現象学者は、現象学の現象学を提唱。現象学というのは、思い込み、判断を停止しちゃうと、純粋な自我が残るという方法だが、そんなことやっている自分をみる第三の視点、眺望点に自我がいるという。


   まとめ

 存在の科学


  異次元理論


   肉体は小さな生命、細胞、微生物によってできているが、同じように心も小さな心からできているといった。これは電磁場や重力場、量子場、カラビヤウ多様体などにある小さな文明の小さなものたちだといった。私はみかんをみているが、その周辺もうっすらみえる。これは原子核を中心に確率的に存在しているという電子雲と同じ構造だ。周囲は並行世界にある電子なのだ。だから、われわれが見るみかんの周辺のぼんやりな景色は並行世界がまざりあってうつしだされたもの。並行世界はこの世界とずれた、ぶれた世界である。これが電磁場、重力場にある文明の世界、ここに並行世界があるのだ。この微妙なずれの堆積があらわれているのがフリンジにおける周辺なのだ。さらに、これを世界のなかの自分とみなす。すると、自分を中心として、世界はぼんやりとひろがるのだが、この自己中心性は周囲のぼんやりとした並行世界の現れ、電磁場、重力場の世界の現われであることがわかるのだ。さらに、視野には、二つの原理上みえない点がある。これを盲点といい、盲点は眼球が脳とつながっている神経。だから、これは宇宙における原理上みえない世界、宇宙の果てとブラックホールという事象地平なのだ。自己中心性の世界におては事象地平、現象においては盲点、これらが別世界へと通じる、別世界との接合部分なのである。われわれの文明においても、遺跡というのは二つの特異点、事象地平を作り出すためのものであり、それがスターゲートなのである。



2014 9-11


存在論と認識論についてである。じろじろと天道虫が飛び出そうとするときのしぐさを観察する。認識することはイメージであり、観念的なものだ。他方、天道虫は存在し、私も存在する。山、谷、そして、公園の横になったら背中痛いよ、というあのベンチも存在している。認識と存在についての構造上の違いについて考えたい。

  存在論についてである。古代ギリシャにおいてはまず、アリストテレスの存在論である。そもそも、古代ギリシャ哲学は存在とはなにかという存在論がメインだった。アリストテレスはなにかが存在するとは、材料と形、質料に形相がくっついて成立だ、という。 
  近代に入ると認識論は主流になり、そして、飛躍して現代。現代において古代ギリシャの存在論が息を吹き返す。それがハイデガー哲学である。たまねぎは存在し、長細い長ネギだって存在だ。ところが、人間はただ存在しているのではない。自分が存在しているなって自覚しながら存在している。存在を感じ、存在とかかわる存在、これを現存在と名づけた。

  次の話は認識論についてである。認識とはなにか、というのが認識論。近代において台頭する。イギリス経験論では、今感じている、観測しているもの、経験しているものからスタート。ロック、ヒュームなどである。これに対して、大陸合理論は、観測や経験でなくて、生まれながらもっている能力、先天的なもので考える。この大陸合理論と経験論を調停したのがカント。半分くらいは先天的なものをもっていて、半分くらいは経験だというのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    存在しているものと認識やイメージ、観念の違い。たとえば、原子というのは存在している。中心には原子核、そして、周囲は電子の波が確率的に存在。銀河系は中心にブラックホール、そして、宇宙の最果ては膨張し、光速を超えているので光が返ってこないから、実質、原理上みえない。ブラックホールだって、光を吸い込むそれ以上は光速を超えてしまうので原理上認識不可能。中心のブラックホール、宇宙の果てという二つの事象の地平がある。真ん中と周辺のはじっこが原理上認識できないのだ。だから、おそらく、原子核のなかにもそのような地平があり、周辺の電子の雲は運動量と位置が同時に確定しえない不可知なものだ。存在の構造とは、中心と周辺に見えない事象地平、特異点がある。

  認識やイメージ、すなわち、現象はちがう。りんごをみていると、それが中心性である。その周辺には盲点がある。眼球と脳がつながっているところは原理上見えないのだ。中心の対象物と周囲の二つの事象地平。この三者の関係によって認識の構造は成り立つ。いってしまえば、宇宙の二つの事象地平を同じ枠に押さえ込み、凝縮させると、二つの特異点、事象地平が収まると同時に、中心性が別に現れるのである。

  また、人間の一生においてはすべては夢だという唯識の思想もあるように、感じているのは観念の世界である。生まれる前と死後という二つは原理上認識できない二つの盲点になり、その中心性にいまここにいる私という主体性がうまれるのである。さらに、私の心と他者の心の二つも盲点になっている。


2014 9-12

シェリング哲学とブーバーの哲学についてである。存在と観念の構造がちがう。世界の存在と一体となって終わるのではない。その先があるのだ。ゴールの先のゴール。これが、私はすべてのもので、すべてのものは私だという境地なのだ。

  シェリング哲学についてである。カント哲学においては、われわれがみているのは上っ面の現象。その背後の物自体はわからないというものだった。これを乗り越えようとしてドイツ観念論の登場だ。

  フィヒテ哲学がまず誕生した。第三命題というものをとなえる。第一命題は、私は私を設定。第二命題は私は私以外のものを設定。第三命題は私と私以外がちょめちょめするというもの。これらはあくまで、私のなかで私と私以外を扱っているので、主観的な心のなか、主観的観念論だ、という批判を受ける。ここに本当の意味で、主観と客観、私と私以外の自然が瞬時に一体化というシェリングの発想がうまれる。知的直感、天才的直感によってひとつになるというのだ。

   次の話はブーバーの哲学についてである。世界は一人称からはじまったのか。私が最初にいて、つぎに世界がうまれる。いわゆる独我論である。第三人称のかれら、それらが最初にあって、私やあなたふぁうまれる。これは唯物論的。そうではなく、まず最初に、私とあなたがセットでいるというのがブーバーの思想である。そして、その時々、あなたはしがうのだが、永遠の汝である神様と一緒だというのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  認識、観念の構造は二つの事象地平、特異点があり、それとは別に中心性があった。存在の構造は中心とひとつの特異点があり、もうひとつの特異点は周辺にあった。対象物という中心性と二つの盲点、生まれる前と死後という二つの特異点と中心性としての主体性。さらに、私の心と他者の心は見えないので特異点。そのあいだにコミュニケーション、クオリアすらそこにある。

  観念、認識から存在の世界への移行。これは二つの盲点にひとつを中心性と重ねること。また、生まれるまえか、死後のどちらかを中心としての主体性とつなげる。これはハイデガーの先駆的覚悟性である。シェリングのいう世界の存在との一体化である。ところがこの先もある。こんどはもうひとつの特異点も中心と重ねるのだ。すると、私とあなたの心という特異点がひとつになる。生まれる前と死後がつながる。これが空なのではないか。


2014 9-13


存在と所有、そして、永劫回帰についてである。私は常日頃、意識生活を営む。自分の存在にも気づいている。いってしまえば、自己意識は丸い円なのだ。夜空を見上げると宇宙がある。この宇宙も、私と同じように丸い円ではないか、というお話をしたい。

  マルセル、存在と所有についてである。自分の身体はだれのものか。ほかならぬ私自身のものである。所有するとは、自由処分権というものがあるはずだ。改造したりもできる。意のままにできるので随意性という。ところが、身体っていうのは、自分ではどうするこもできないときだってある。腰が痛い、ひざがいたい。空も飛べない。意のままにならない不随意性なのだ。身体は所有していると同時に、自分の存在でもある。この存在に自由をみるのだ。存在と所有の中間のグレーゾーンが身体だという。

  次の話はニーチェの永劫回帰についてである。当時の天文学で、宇宙のエネルギーが有限で、しかも、時間は永遠に流れるならば、星は同じ配置を繰り返す、というものがある。ニーチェの永劫回帰はわれわれは同じ一生をずーっと寸分たがわず繰り返しているというのだ。だから、すべては運命であり、全面肯定しちゃうという超人思想がうまれた。この運命そのものが自由だというのだ。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  
    自己意識というのは、意識している自分と意識されている自分がいっしょだから円になっているのだ。もちろん、光速の円回転である。宇宙もまた、時間的に繰り返し、閉じた円かもしれない。すると、意識と宇宙は基本的に同一構造だ。仏様や神様なのかもしれない。ただし、曲率の大きい時間的円が意識、曲率が小さい時間的な円が円宇宙だ。

  さて、時間と空間の世界もまた、円運動している。原子核のまわり電子がまわり、太陽のまわりに惑星がまわり、ブラックホールを中心に恒星、太陽系がまわって銀河系になる。

  円の意識と円の宇宙、この中間に物質的であるような意識的でもあるような身体があり、円身体と名づけたい。

  円宇宙の曲率が小さすぎると、ついには無限のかなたで閉じる放物線宇宙になる。さらに曲率が小さくなると、開いて閉じていない双曲線宇宙がある。

  双曲宇宙の上に放物線宇宙、さらにそのなかに大きい円宇宙があり、そのなかに小さな円意識がある。

  これが大地にたとえられる。大地は双曲宇宙。ここに可能性としての種子があり、これが放物線宇宙。閉じて意識になるか、開いてしまうかの可能性。この放物線の種子が芽生え実を結んだのが円宇宙であり、円意識なのだ。


2014 9-14


間主観性と二重否定についてである。ひとの気持ちになって行動する。しりもちをつきそうなひとがいたらすかさず座布団。くしゃみしそうな顔をしたら全身でそれを受け止め、おならをしたらお尻付近の現場にすかさずかけつけ、現場検証。なにゆえ、相手の立場になれるのか。この宇宙論的構造について考えてみたい。

  間主観性についてである。主観と主観、私と他人とのあいだはどうなっているのか。そもそも、他人とはなにか、と考える分野。古代ギリシャは存在の哲学、中世は神の哲学、そして、近代にはいると、デカルトのわれおもうゆえにわれあり、という自分とはなんぞや、と世界。ここから、自分の探求で他者がないがしろにされてくる。現代においてデカルト的な思想といえば、フッサールだった。すべては思い込みで、これを判断停止したら最後に残るのは名も無い自分、純粋自我だった。ところが、これだt身体とか、他人の存在が説明できない。そこで、間主観性が問われることになる。その昔、カントは根源的統覚という発想で他者と自分は同じだという発想がうまれる。容姿も性格もちがうが、根っこは同じひとりの意識、根源的統覚だという。フッサール自身は対化的連合を提唱。われわれはひとりでいても、いろんな限界に囲まれている。これを地平という。考える限界、視野の限界、これを地平という。志向地平や視野の地平だってある。この地平のなかに他人の目があるという。だから、ひとりでいても、目撃者多数の客観性が与えられるのだ。

 次の話は二重否定についてである。私は人間ではない、ということはない。ないを二回使えば肯定になる。これを存在のレベルでやったのがヘーゲル。否定の否定は肯定だという。ここにあるこのみかん。このみかんはあのみかんでも地球でも、りんごでもない。このみかんである以外のすべての具体的なものを否定しつくして、ついにはこのみかんが存在できる。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   シュレディンガーの猫、箱のなかの猫はふたをあけるまで生きていると同時に死んでいる。毛づくろいしていると同時に寝ている。すべての状態が重なっているのは、電子が確率的に存在しているからだ。見た瞬間に電子の位置が決まる。この見えないものは電子の雲、確率的なもやもやというのだが、これこそ生命の心、意識ではないのか。意識活動とは感じたり、想像、イメージ、というように複雑な並行処理をしていて、これはまさに電子雲のごとくだ。見えないところに私の心がある。すべてをみてしまったらもはや心は消えてしまう。

  以前、現象界や認識は観念、イメージの世界だといった。存在の構造と観念の構造のちがいだ。原子はおそらく中心部の原子核は原理上認識しえない特異点、事象地平。そして、周辺の電子は速度と位置が同時に確定しえない不確定な認識しえないもの。中心と周辺に特異点がある。銀河の中心がブラックホール、周辺は光速を越えた膨張宇宙という宇宙の果て。認識、観念の構造はこの二つの特異点が同じ現象面に押し込められて、これが眼球と脳をつなぐ神経である盲点であり、特異点。中心部に仮想の対象性がうまれる。他人の観念の世界を私がみる。すると、私の二つの盲点、特異点のあいだの中心部にかれの二つの特異点が中心と周辺に分けられた特異点となってみえる。つまり、原子のように見るのであって、これがサルトルのいう即自化だ。さらに、かれの二つの特異点が重なって見える。特異点は原理上認識しえないものだが、重なると、二重否定によって、強烈に認識し、感じられるものになる。これがかれの気持ちになるということだ。

  もうひとつ、ものについてある。物体はなぜ意識し、認識できないのか。それは中心に原理上見えない特異点があるのだから、物体は見えないものをみようとしているからだ。




2014 9-15


アナクサゴラスの種子と否定哲学についてである。われわれの理性は種、ピーナッツのような豆類が好きであるといっても、わかってもらえないとおもう。本能は肉を食し、理性は種、可能性を食す。

  アナクサゴラスの種子についてである。この世界はカオスだったという。いろんな種が混ざっていたという。ここにあるこの車だって最初は可能性としての種だった。ここに生えているひまわりだって、可能性としての種だった。これらが少しずつ混ざった状態だったのだ。こんなカオスから、理性、ヌースというものが種を取り出すという。だから、理性はあれが車で、これがバナナだと判断できる。

  次の話は否定神学についてである。神様は愛である、とか、何か肯定してしまうのが肯定哲学である。ところが、人間にはとらえられないほど、大いなるものなので、神様は机じゃない、椅子じゃない、というように否定を尽くした先にあるというのだ。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    ひょっとしたら、私はアメフトの選手だったかもしれない。こんな可能世界は種としてあった。そして、その種を食べたのだ。こうやって、野球選手だった可能世界の種も食べてしまい、最後に残ったのがこの現実世界なのだ。つまり、これが現実だと肯定的に選択したのではなく、むしろ消去法的に他の可能世界を食べた残りだったのだ。この可能世界の種を食べているのが理性なのだ。本能は肉、もちろん、植物の果肉も含めて食べるのである。

  聖書において、過ぎこし祭には種なしパンをたべるように、とかいてある。これは理性によって可能世界の種を食べると1なる現実しか残らないから、奇跡や神へと近づくには、むしろ、理性は種を食べないようにすること、という意味があるのかもしれない。


タレスの哲学とコーヘンの哲学についてである。感覚、知覚、対象意識、自己意識、おまけに想像力まで、すべてがひとつのものの別の現れなのだ。そして、とどのつまり、私とは無自覚の水の流れかもしれないというお話をしたい。

   タレスの哲学についてである。ミレトスの地で、哲学が興った。哲学の祖といわれているのがタレスである。彼は、万物の原理、このことをアルケーというのだが、これを水だとした。生命もすべて水でできているというのだ。

   新カント学派のコーヘン哲学についてである。カント哲学ではあたまのなかでいろいろ判断するが、感覚っていうのはあたまのなかの観念ではなく、どこからかやってくるもの。経験や感覚は実在的で、世界のなかの私というのはあくまでイメージ、観念世界だ。ところが、コーヘンは感覚ですら、あたまのなかで生まれるという。ここに根源の原理が登場する。

  AはAによって根拠づけられない。Aは非Aによって根拠付けられるという。思考っていうのは、考えていない、非思考を感が酔うとする。それでも、アキレスが亀を追いつけないと同様に、非思考になるには無限の点を通過しないといけない。ここに無限の感覚情報がうまれるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   箱のなかは見えないから、猫は無数の状態が確率的に重なっているという量子論。心は胸やあたまのなかもみえないからそこにあるともいえるが、箱のなかにもあるのだ。壁の向こうはみえないから想像するが、壁の向こうの無数の状態がかさなったものがおのが心、意識である。意識は線形性でなく、非線形性であり、同時タスク処理している。並行世界が重なっている状態が意識、想像なのだ。
  
  また、りんごを意識するときは、対象意識。自己意識とはちがうといわれるが、デリダ的にいえば、自分っていうのは痕跡であり、他者だ。他者、対象意識は同時に自己意識なのだ。だから、感覚すら自分のなかかでたものとすれば、感覚、知覚、想像、対象意識、自己意識はすべて同じものなのだ。あるのは、無自覚的に確率的な流れ、水のような流れがあって、これが対流となって自己意識っぽくなり、知覚っぽくなったりするのだ。


2014 9-17

錯覚論法と複雑系についてである。枝が風に吹かれて葉っぱが落ちる。太陽に照らされて、その葉っぱが地面に影を落とす。影の動きをみると、まるで鳥や生き物の動きのように見える。影だけをみると、風や重力の影響がわからないので複雑ななぞの動きに見える。すべては別次元における単純な運動が影となってなぞめいた複雑系に見えているだけなのかもしれない。

  エアーの錯覚論法についてである。われわれは時に錯覚に陥る。さいとうくんが岩石にみえておもわずよじのぼってしまうことがあったりする。洋服ダンスの置物が蜃気楼で目の前にみえる。コップのなかに水があり、そこに入れた棒が曲がって見える。錯覚と正常な知覚のあいだには断絶がない。連続的であり、正常も錯覚も、どっちも大気の影響だの目の構造によってそうみえているだけだ。だから、正常と錯覚、どっちも見たままで正しいのだ。時空のある点に物理的にあるんだよ、という物理主義でなく、そうみえるまま、感じたままを記述しちゃう感覚与件言語を使うべきだという。


   複雑系についてである。単純な法則では説明できない。複雑なものを単純化しちゃうという還元主義もできない。あることが、ある特定の原因で起きるのではなく、無数の原因で引き起こされる複雑系。当然、経験による予測は難しい。人間の意識、細胞、ニューロンネットワーク、もしくは、遠い惑星の動きも影響するという気象もまた複雑系である。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  木の動きはこの三次元空間では重力や風によるもので計算はある程度できる。ところが、この影は二次元の現象であり、二次元人、フラット人には複雑な計算不可能な動きにみえる。つまり、複雑系になってしまうのだ。三次元に住むわれわれの世界にも意識、生命のからだ、気象などの複雑系があるが、これも別座標系、別次元においては単純なものだが、この三次元へと投影されると複雑系になっているのかもしれない。以前話たが、生命の意識もまた、別次元においてはなにか流体の流れでしかないのかもしれない。


   任意座標系において、われわれは三つの次元と実数座標系を使う。三次元実数座標系である。このほかにも無数の座標系がある。複素座標系、四次元、五次元の座標だってある。別の座標系への投影は単純系が複雑系になってしまうのかもしれない。


2014 9-18


イデア論、そして、内包と外延についてである。影ふみ遊びをするときの高等テクニックは大きな岩石の影にいることだ。すると、自分の影は写らない。ふつうの光なら、そんなことができるが、人間である友人は私をみることができる。万物を照らす光、これが意識なのではないのか、というお話をしたい。

   プラトンのイデア論についてである。純粋なシミ、いぼ、そばかすのない純粋な世界があるという。これがイデアの世界だ。たまねぎそのものっていうイデアがあって、これが影になったのが、現実にスーパーの野菜コーナーにあるたまねぎなのだ。


   次の話は形式論理の内包と外延についてである。人間っていう集合がある。さいとうくんはこの集合のメンバーだ。これらたくさんのメンバーが外延になる。また、人間を人間たらしめている性質、二足歩行や火を使う生き物などであるが、これらが内包になる。

 
   まとめ

  存在の科学

 
   異次元理論


   大きな岩石の影に隠れれば、そのひとの影は地面にうつらない。光は時間軸と空間軸でできた座標において円錐状にひろがる。これをライトコーン、光円錐という。人間や生命の意識もまた、自分を中心に円錐状にひろがるライトコーンである。この意識のライトコーンを光意識と名づける。
  
  普通の光と光意識のちがいは、大きな物体にさえぎられると、二次元平面に影を作らない通常の光にあらわれている。生命の光意識はあまねくすべてのものを照らす特殊な光なのだ。

  われわれが感じているこの現象世界は奥行きはほんとうはない。奥行きは想像の産物、視角、視差などによってできる。現象は平面、二次元的なのだ。これを二次元現象面と名づける。ここに三次元のすべての物体の影が投影されるのだが、このとき、あまねくすべてを照らす光意識が使われる。いままさに感じているこの現象面には、三次元のすべての物体の影が投影されているのだ。

  四次元時間軸は完成されると、無時間、超時間的な人格である。子供のころのやまちゃんとおとなのやまちゃんは容姿はちがえど、人格は同じなのだ。これらも三次元に影を落として、すべての生命の肉体になる。また、五次元には無数の四次元時空が存在する。論理的に可能なすべての並行世界があるが、これも光意識に照らされて四次元人格、三次元物体、二次元現象面に影を落としている。だから、無数の生命の個体は、五次元にある無数の並行宇宙の影なのである。

   五次元宇宙の四次元時空には無数の存在者がいる。これは外延であるが、じつにその影はこの世界にいるある個体、生命体であるのだが、この生命体の内包になっているのだ。外延がそのまま内包になっているのが世界のほんとうのありようなのかもしれない。

  

2014 9-19


超越論的とアプリオリについてである。この社会は巧妙なカラクリがあるかもしれないが、見破ることができるかもしれない。ところが、この宇宙、世界のカラクリはあまりに巧妙すぎてわれわれは絶対的に知りえない作られた世界に住んでいるかもしれないというお話だ。

  超越論的についてである。チョウチョを観察する。いわゆる五感をつかって経験する。すると、チョウチョの実在感を感じる。我を忘れて感じているので、のめりこみ気味であり、超越的ともいう。カントはこれを経験的実在論とか、超越的実在論という。宇宙のなかのチョウチョを見ている私も意識しちゃうと、俯瞰してみていることなので、超越的について論じること、つまり、超越論的であり、これはあくまであたまのなかのイメージ、観念なので、超越論的観念論という。カントは超越論的実在論なんてないんだよ、と戒める。

  次の話はアプリオリとアポステリオリについてである。 アプリオリとは先天的、すべてに先立っちゃうということ。アポステリオリは後天的、あとから学習して知ること。じいさんは年寄りだ、というのは、はじめから、主語のなかの爺さんに、年寄りっていう性質があるから、これを分析的に取り出せばいいだけだ。しかも、先天的、はじめから決まっている。だから、アプリオリな分析判断。また、爺さんが空を飛ぶ、というのは、主語のなかに空を飛ぶはないので、外から述語がくっつく。総合されるので、総合判断。さらに、これは実際に眼でみた後天的、経験的なことなので、アポステリオリな総合判断。カントはアプリオリな総合判断もあるという。1+1=2、というのは、総合だが、先天的に決まっているのだ。

  もっといってしまえば、クリプキは可能世界論において、なんと、アポステリオリな分析判断について論じている。

  まとめ
   
  存在の科学

   異次元理論

    この世界はカラクリであり、われわれもカラクリのなかにいてそれに気づかれないように仕組まれているかもしれない。超越論的実在論ならば、私と世界を包み込む実在。すると、経験的観念論になる。個々のものたちは観念を感じていることになる。仮想世界を見せられているのだ。また、アポステリオリな分析判断だとすれば、後天的に分析判断ということだから、分析的な論理、システムを後天的に作ったものがいるということ。そして、われわれマトリックスの世界にいて、その決定的なカラクリは同一性というものだ。というのも、すべては差異、違いでしかないのに、人格の同一性、昨日の椅子は今日も同じ椅子だと思っているのだ。



  2014 9-20


コペルニクス的転回とアナロギアについてである。地球は丸いんだよ、と二階の住人が道行くひとに訴えている。丸いってことは、ずーっと歩きつずければきっと同じ場所に戻るはずだ。そして、ここからあることに思い至る。時空、宇宙も丸いのではないか、ということだ。

  コペルニクス的転回についてである。かってコペルニクスは、天動説を覆し地動説を提唱した。地球はシリンダー状で動かない。太陽や星がこのまわりをまわっているという天動説。そうではなく、地球も動いているというのだ。近代においてカントは人間の認識もコペルニクス的転回だ、という。りんごがあるから認識するのでなく、最小限の感覚はむこうからやってくるが、この感覚を組み立てているのは意識活動、つまり、地球が動くことで、太陽や星の動きがかわるように、意識も活動しているというのだ。

   次の話はアナロギアについてである。類比性とか、類似性という。りんごっていうのはフルーツっていう共通する性質をもつ。みかんとりんごは類似するが、フルーツっていう特徴を分け持つからだ。ところが、長靴はフルーツじゃない。万物すべてが分かち持つものといえば、存在である。存在は万物すべてに内蔵されているのだ。これが存在のアナロギアである。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   地球は丸いので、ずーっと歩き続ければ、もとの場所に戻る。もしくは、ちょっとはずれたところへいってしまう。われわれが住むこの広大な宇宙、時空も球体なのかもしれない。ホーキング博士も無境界仮説といって、宇宙、時空を球体と考えた。すると。この空間をずーっと大きくすると、DNAの操作によってさまざまな動物が組み合わせられる未来。これをキメラという。じつに、古代の神話にキメラが登場するではないか。

  この球体の時空を時空球と名づけたい。この時空球を一周してもとの地点に戻ることもあれば、近い場所にずれてしまうときもある。これが微妙にちがう並行世界だ。ところが、地球の近くに別の惑星があるように、われわれのこの宇宙、時空球の近くに別の時空球がある。地球と金星はあまりにも環境はちがい、重力の大きさすらちがう。同じく、別の時空球は並行世界といっても、物理、数学の法則すら違うL4宇宙なのである。

  太陽系と同様に、時空球もまた、太陽のような善のイデアを中心にまわる。このとき、他の時空球、すなわち、別の法則がちがう並行世界球体がわれわれの住む時空球に影を落とす。これがわれわれの住む宇宙の意識、生命の個体になる。われわれの宇宙のすべての生命体は別時空球の影だったのである。これは太陽系と時空とのアナロギアによってわからうものであり、コペルニクス転回を時空を超えて適用した結果わかったことだ。



2014 9-21


帰納法と自然の斉一性についてである。地球環境が危うくなってきている。自然の生態系が壊れ、バッタの大量発生などだ。害虫、害獣が大量発生するのである。これも人類のせいかもしれないが、そもそも、人類もまた害虫のようなものかもしれない。害虫の気持ち、害虫ってどんな世界観をもっているかを考えるとき、それが科学的な世界観なのかもしれないというお話である。

  帰納法についてである。いままでずーっと太陽は東からのぼって西へ沈んだ。まさか、西からさつまいもがのぼってきて、南に沈まないだろう。いままでそうだったらから、太陽は東から昇るという仮説を立てて検証し、法則にするのだ。ところが、永遠に検証できるはずがないから、これを不完全帰納法という。これが科学の方法であり、とりわけ、ベーコンによって提唱された。

  次の話は自然の斉一性についてである。科学の法則は宇宙のどこでも成立する。宇宙は均一なのだ。地球で振り子の原理が成り立つから、月面でも成り立つ。斉一性原理は空間だけでなく、時間的にもいえる。たいてい、未来は過去と同じ、つまり、過去で起こったことの繰り返し。これが帰納法を成り立たせる。また、帰納法によって、自然の斉一性は破れたことがないから明日も成り立つという、いわゆる、堂々巡りの循環論法のおでましである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   害虫が大量発生だ。そんなことをいっている人類が害虫のような大量発生ではないのか。だから、きっと同じ世界観である。未来は過去ににている、宇宙のすべては均一で、すべて同じという斉一性。本来のつつましい生命の世界観は未来は過去とつながって自己完結、閉鎖系だ。以前話したが、キメラが開発され、それが過去の古代神話になっている。時間は閉じているが、微妙にずれて無数の可能世界があるという柔軟な思想にもなる。また、空間的にも均一でなく、生命、意識体がいる。意識は法則化できない創発性をもつ。じつに、生命、意識を除いたところだけをみて、斉一性といっている。これが支配の世界観なのだ。


2014 9-22


根拠、理由と法則についてである。世の中は変化している。変化しないものはなく、すべては移ろい行く。万物の法則だけがかわらないという。そうではなく、永遠の今だけがあって、変化しているのはじつは法則なのではないのか、というまったく正反対の考えは成り立たないのだろうか。


   根拠、理由についてである。遅刻した言い訳を考える。理由や根拠はあとからいうのである。行為の反因果説というものがある。右手をあげているひとに聞く。なぜ、手をあげたかといえば、タクシーをとめるためだという。つまり、理由があった。かれの心が原因で、タクシーをとめるために手をあげるんだ、とからだの動きの原因になっているのだ。心とからだ、物体のあいだに因果律があるのか。そうではなく、じつに無意識レベルで手をあげて、あとから帳尻あわせで理由、根拠づけをしているというのだ。

  次の話は法則についてである。すべし、という強烈な力をもつ法則。論理の法則、数学の法則はほとんそやぶれない強いすべし、である。ところが、物理学は若干弱いすべしかもしれないし、法律は破られるので弱い力かもしれない。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   法則は不変不動であり、この世界は変化し、諸行無常、マン物流転だという。科学も法則は不変とみなし、仏教だと法を不変とする。

 以前、お話したが、いまこの瞬間は永遠であり、永遠っていうのはクオリア、感じることと同義、同じことだといった。つまり、われわれはなにかを感じているので永遠の今そのもの。だから、法則のほうが、変化しているのだが、それだと非常に気持ち悪いので、自己欺瞞的におのれをだまし、理由付けしているのかもしれない。ほんとうは先日は1+1=5だったが、ずーっと2だったと思い込んでいるだけかもしれないのだ。


2014 9-23


プラグマティズムと無為自然についてである。人類は目覚しい進化、進歩をとげて、さまざまな道具を生み出した。地上ではスポーツカーがびゅーんっと走り回り、オープンカーをかさをさしながら疾走する。空には飛行機がぱたぱたと羽ばたく。じつに、人類ではなく、道具がおのずからしかり、と進化したとはいえないのだろうか。われわれはおのずからしかり、物体もまた同じなのだ。

  プラグマティズムについてである。かってカントは仮言命法といって、もしAがBなら、CはDだ、という原因と結果の因果律はただの実用であって、現象界でしかないといった。人間は原因があって突き動かされて踊ったり、お尻ぷりぷりするのではない。原因のない自由意志、これによって、実用でなく実践するのだという。実用をプラグマティズムといい、実践をプラクティスという。

  現代のアメリカ哲学においてプラグマティズムがうまれる。なんじなすべし、という実践でなく、こうしたらお金入る、こうしたらほめられる、という実用、プラグマティッシュに重きを置くのだ。こちらが真理です、というのでなく、真理っていうのは真理になること、真理化だという。

  パースはうちをみつめて直感的におれがいると気がついたデカルトが嫌いだった。内観的直感法という。われおもうゆえにわれあり。すべては理屈で記号化できちゃうというパース。AはBのため、BはCのため、というように、なんとかのために、で結ばれているという。

  老子の無為自然についてである。宇宙における道、万物の道理、これは絶対無であるタオだという。これは自分の意志で自発的になにかするのでなく、道に従うことだという。これはおのずからしかりである。花はみずからの意志で咲いちゃうのではなく、おのずからしかりだ。人間はこれをやってしまうと無秩序になってしまうので、ひとの道があるのだが、本来は道に従うべきだと説く。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   すべてはみずからの意志でなく、おのずからしかりである。右手をあげてタクシーをとめる。タクシーを止めるために手をあげるんだと心が原因で体が動く。そうではなく、心とからだのあいだには因果律がない。右手をおのずからしかり、あげてしまい、そのあとに理由付け、根拠づけがある。
  
  石ころは水によって風によっておのずからしかり形になる。人間がそれを鋭利に削り道具にしても、それは石ころにとって、人間にとってもおのぞからしかりなのだ。だから、風でそうような形になったのとかわりない。木でできた机、椅子、飛行機、すべてがおのずからしかり、道具それ自体が進化したのだ。ひとが道具をつくったともいえるし、道具によってつくられたともいえる。道具に使われているともいえる。プラグマティズムの先にみえるのは、すべてが相対的に道具であり、すべてがおのずからしかりでそうなったという真実の世界観である。



2014 9-24


ハルトマンの存在の階層性、そして、二値論理と多値論理についてである。社会システムがあり、これは人為が関与している。疑いのまなざしでみると、どうも社会はなにものかの意図がある。同じように生命の生体、有機体もシステムであり、意図が関与し、さらに物理世界、論理世界までもなにもかの意図的産物だ、なんて思えてくる。すべては虚構システムであり、その根本に真実の世界がある。

  ハルトマンの存在の階層性についてである。ハルトマンは存在の世界を論じる。認識ってなんだという認識論。存在ってなんだ、という存在論。存在しているから認識できちゃうのか。そうではなく、存在は認識の前提、認識は存在の前提であるという相互前提だという。

  存在には二つのものがある。時間と空間にしっかり存在している実在的存在。数の3や三角形などの実物はない理念的存在だ。

  また、存在の世界は階層になっているという。一番下のレベルが無機的存在。その上に有機的存在。さらにうえに心の存在。最高位に精神の存在があるという。

  次の話は二値論理と多値論理についてである。通常の形式論理は二値論理である。竹を割ったような性格で、真か、偽のどっちかの値をもつ。多値論理はそうではなく、多くの値をもつ。ちょっと真っぽい、かなり偽っぽいなど。偶然性、可能性、現実性、必然性などだ。

  まとめ


 存在の科学

   異次元理論


   社会においても金融システムもそうだが、なにものかの意図があり、ひとびとの意思も操作される。心ですらシステムに組み込まれている。さらに生体、有機体もまた、意図が関与し、物理法則ですら、システムなのではないか。もっといえば、数学、論理もまたつくられたシステムと考えると、すべてはマトリクスのようなシミュレーション世界だということになる。これらの虚構世界の先に真実の世界があり、ここではみずからの意志でなく、おのずからの無為の世界なのだ。

  真実の世界がひとつ。このうえに多重な虚構システムの偽がたくさん。一元的真と多元的偽。さらに、真偽の二元論である。このように、真偽を介して、一元論、二元論、多元論的な意味論が本当の世界の姿なのだ。



2014 9-25

経験主義の二つのドグマとアニミズムについてである。この世界はじつに生命、魂に満ち溢れている。上にも下にも、マクロな世界、ミクロな世界もたくさんいるのだ。それなのに、天体望遠鏡、顕微鏡をのぞくとき、それらは石のように動きをとめる。マクロとミクロとやっている達磨さん転んだよ、というお話をしたい。

  クワイン著、経験主義の二つのドグマについてである。アプリオリは先立ってとか、先天的ということ・アポステリオリは経験、後天的っていうこと。また、分析判断は主語のなかに最初からある性質を取り出すこと。じいさんは年寄りだ、など。これは必然性でもある。また、総合判断はじいさんは買い物へいった、というもの。主語のなかにない述語が外から総合される。偶然的だということだ。

  クワインはこれらの二つの区別はドグマ、つまり、ひとりよがりの思い込みだという。じいさんは年寄りだ、というのはアプリオリな分析判断なのだが、なんと、年寄りとは何歳からか、そもそも、人間とはなにか、と無数の定義が必要だ。だから、総合判断だともいう。分析も総合もないのである。

   次の話はアニミズムについてである。古代のひとたちの思想である。すべては、たとえ石ころであっても、生命であり、生きているというのだ。草木、山川、全部生き物だという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   われわれは自分より大きなマクロ世界を望遠鏡でみる。すると、惑星、恒星が螺旋運動をしている。これはまるでDNAである。眼でみているので後天的であり、分析的ななにか。これはクワインのいうアポステリオリな分析であり、可能世界だ。ミクロの世界もまた、原子核のまわりを電子がまわっているが、みていないときは確率的に存在。これはまるで自由意志だ。顕微鏡で見た瞬間に固定されて物と化す。マクロ宇宙もまた、じつは見丁寧ときは意識、生命活動している。見た瞬間にだけ、ミクロ、マクロ世界は無機的なものと化す。私と等身大の世界だけが、アポステリオリな総合判断であり、さまざまな生命と魂と出会う。たしかに等身大の無機的なものもあるが、これは大いなる生命の部分なのだ。等身大に生きることで、ふつうの日常スケールのなかにマクロ宇宙とミクロ宇宙の生命があるのだ。個になることで大いなる神様との接点を見たキルケゴールの思想にもつながる。



2014 9-26

絶対無、そして、私と世界についてである。生まれる前と死後の世界。私もいないけど、世界もなかったのではないか。なんとも奇妙なのだが、私と世界を足すとなにもなくなる。実際、この生きている世界はいろんなことが起こっているのだが、本当はなにも起きていないのではないか、というお話である。

    西田幾多郎の絶対無についてである。もともと、述語的場所という思想があった。主語は個体、述語は場所だという。太郎くんは走っている。走っているのは、太郎くんだけでなく、次郎くんのときもある。つまり、走っているという場所。ここに太郎君という個体があるのだ。主語の個体と述語の場所には分厚い壁がある。これを取り除くために、媒介者Mを主張する。これは主語の個体も、述語の場所も両方とも、無の場所にいるというのだ。ヘアースタイルを整えるとき、自分の髪型を改造し、限定する。これを自己限定という。スキンヘッドにするなら、ロンゲは制限される。無自身も自己限定して、万物の有をうむというのだ。


   次の話はパトナム、私と世界についてである。私の心は内側で、世界は外側だとおもっている。ところが、主観と客観、内と外なんてなくて、すべてが内側に実在するという内在的実在論を提唱。私と世界はいっしょになって、私と世界をつくるというのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  じーっとしているようにみえても、まったく正反対の方向の動きが互いに相殺してとまっているようにみえるものがたくさんある。これが動的平衡である。生まれる前、死後は私というたとえば、右回りの渦と世界という左回りの渦が相殺してなにもおきていない。ところが、生きて活動しているときは、私は私である、という同一性によって、自分の右回りの回転を仮想的的に消される。同一性とみなすのである。すると、仮想的に右回りの渦が目の前に出現。これが対象意識であり、クオリアである。だから、自分の同一性に固執しているゆえにさまざまなことが起こるし、歴史だって出現する。本当のところ、何も起こっていないのだ。





2014 9-27



受動的総合と現実性についてである。自由にできることと、どんなにがんばってもできないこと。自由と非自由のはざまにわれわれはいるようである。にわとりのものまねはできるが、みみずのそれは無理である。宇宙、イメージ、身体、そのすべてが自由と決定論のあいだにある。

  フッサールの受動的総合についてである。ぼーっとしていても、立体的なりんごを認識できる。裏側はみえないが、あるにちがいないとイメージする。色や音、におい、そのすべての感覚的情報は自発的にくっつけるのでなく、自然に受動的にくっついてくれる。これが受動的総合であり、フッサールにおいては最小限の自発性だという。

  次の話は様相論における現実性についてである。様相とは存在のしかたである。偶然性、可能性、現実性、必然性などだ。必然性はそうなるべき、というもの。現実性はカントにおいては、感覚的なものに、原因と結果の因果律がくっついたものだという。

 まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    想像、イメージの世界は、ぱっと見でわかる立体的なりんごのように、受動的、自動的に感覚が総合され、みえない裏面も想像する。これはなかば強制的であり、決定論的だ。だから、眼の錯覚とは、この勝手に作り出す、自動的にできあがるイメージをうまく利用したものだ。また、過去を追い出したり、未来を夢みたりという自由にできるイメージもある。身体もまた、自律神経や消化など無意識的にいわば、決定論的に遂行される働きと、間接は逆にまがらないが、自由な動きがある。宇宙もまた、マクロな世界は決定論的なニュートン力学、もしくは相対論。ミクロの世界は電子が確率的に存在しちゃうという偶然性、自由意志の別の姿が支配する。

  受動的、自動的に決まるイメージは相対論と関係している。だから、無意識レベルで時空がゆがみ、時間感覚が速くなったり、遅くなったりするのだ。



2014 9-28


日常性と素朴実在論についてである。なんと驚くことに、私は小さなな私できている。厳密にいってしまえば、私を中心としてひろがっているこのたわいない日常、これが同じ小さな日常でできていて、また、巨大宇宙もまた、この日常をでかくひきのばしたものだった。

   フッサールの日常性についてである。前期フッサールは現象学的態度で、すべては思い込みで判断停止したら、世界があるという信憑性が残るが、もっと突き詰めると、名前も形もない純粋な自我に行き着くという。後期フッサールは思い込みの日常こそがすべてのもとだという。みかんは分子、原子でできているという科学的態度、これを自然主義的態度という。そうでなく、それはまずフルーツであり、食い物だ。日常のこのような態度が自然的態度。すべてはここから自然主義的な科学的態度とか、現象学的態度がうまれるという。

   次の話は素朴実在論についてである。みかんは原子でできているという原子論的実在論。そうではなく、それはみたまま、感じたままに実在するという素朴な考えが素朴実在論である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   ライプニッツは宇宙はモナドという点でできていて、この点は原子じゃなくて主体的な力、そこからみた遠近法的な宇宙を全部含むという。ここから、われわれのこの日常。これは私を中心として出会うものたちのふつうの世界。この日常は、そして、私自身も、同じ小さな日常の集まりからできている。フラクタル、つまり、自己相似系なのだ。雪の結晶は同じ小さな雪の結晶でできている。同じように、日常はまったく挙動もすべて同じ小さな日常の集まり。さらに、広大な宇宙も、こうやっていまやっている日常をそっくり大きくしたもの。ただ、そのようにみえないのは、私と世界をわけて俯瞰してみているからだ。前回も話たように、自動的、受動的に決定論的なイメージ生成というのがあるといった。同じように強制的なシステムで、それを原子、分子にみせているだけなのだ。そして、さらに、この小さな世界、この世界、大きな世界を貫いて同じ自己相似系の日常が貫いていることが、大きな一貫した力を生み、これがクオリア、感じること、というものを生み出す。




2014 9-29


超弁証法、そして、実体と主体についてである。ぐるぐるまわるメリーゴーランド、観覧車。ちゃぶ台の上でバレリーナが回転し、あたまのうえでは、フィギアの選手が回っている。世の中、すべてが回転運動であり、とりわけ、意識ですら見えない回転運動である、というお話をしたい。

  メルロポンティの超弁証法についてである。そもそも、弁証法といってらヘーゲル哲学である。矛盾しあうものが出会って対立、そして、いつしかひとつになってレベルアップし、発展する。正と反が合体して合になるという。ところが、メルロポンティはこれを死せる弁証法、発酵をやめた弁証法だという。ほんとうの弁証法は対立しあって解消しないという。コインの裏と表は合体してひとつにならない。表が裏、裏が表になって回転運動を起こすという。

     次の話は実体と主体についてである。実体とはそこにだれもいなくえも、自立して存在しちゃうもの。それ自体で存在している。ところが、主体とは、どちらかというと、常に活動的に存在していること。宇宙は実体で、私は主体だというが、ヘーゲルは弁証法によって、主体と実体をひとつにしようとし、宇宙は主体的だという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 
   すべての物体は回転運動で動いている。気象も岩もそうである。物体には重さの中心、重心というものがある。そして、そのものの形の中心が図心という。重心と図心のずれを偏心といい、これが回転運動を起こす。

  もっとも重いものはブラックホールである。強烈な重心だ。光も吸い込んで、光速を超えて時間が止まる。つまり、永遠のイデア的世界、幾何学的世界になる。これはものの形の図心だ。幾何学的なこの世のすべての形状の中心、図心はこのブラックホールの重心とつながる。そして、このブラックホールの重心とすべてのものの図心との偏心による回転運動が見えない回転運動であり、精神、意識になっているのだ。これは二回転してもとの状態にもどるという光の構成素であるスピノールのスピンだったのである。



2014 9-30


両義性と不確定性原理についてである。ぱっと見ただけで、飛んでいる飛行機を三次元的にイメージしている。ところが、見えない裏側、内側があるはずなのだ。あたまで考えてしまった瞬間に、見える表側と見えない裏側に分離したのだ。

  メルロポンティの両義性についてである。いわゆる宮本むさしの両刀使いのようなものか。ひとは主観と客観とか、魂と物体というようにはっきり白黒つけたがる。ところが、身体というのは、受肉した主体性といって、肉的であり、意識的でもある両義性にあるという。両義性はくっついて合体するわけでも、ただ、手を結んでいるわけでもなく、互いに相手によって存在している微妙な状態なのだ。

  ハイゼルベルグの不確定性原理についてである。電子の位置がわかったら、こんどはそれがどっち方向にどれくらいの速さかわからない。つまり、運動量がわからなくなる。運動量がわかると、位置がわからなくなるという理論である。

 
   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  自分を中心にして遠近法的にものをみる。何も考えずに感じるだけなら、目の前の冷蔵庫を立体的に捕らえる。三次元的にイメージする。ところが、考えた瞬間、表しかみえなくて、裏はみえない。表面だけで中身は見えないということを知る。思考は二極化させる働きなのだ。主観と客観、私と他人もそうだ。善悪、真偽も思考による二極化である。

  論理学における内包と外延もまた、片方を知ると他方がみえなくなる。不確定性原理もまた、運動量と位置に二元化すると片方が見えなくなる。シュレディンガーの猫、箱のなかの猫は見た瞬間に状態が確定する。眼球を刺激した瞬間なのか。そうではなく、一瞬にして二極化させるのは思考なのだ。思考し、イメージした瞬間に確定するのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 15:35| 東京 ☔| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする