インターネットコム株式会社 と 株式会社インフォプラントはID・パスワードを必要とするログインサービスに関する調査によると、ID、パスワードを「頻繁に忘れる」は9.3%、「たまに忘れる」は82.0%であるという。
さすがに自分の名前を忘れるものは少ない。年齢は故意に忘れるものもいる。10歳サバをよむのは、犯罪の匂いがする。朝、友人に合うとカレーの匂いがする。しかも、黄色いシミがYシャツについている。刑事ゴロンボはカレーを頭からかぶってきて、何かよからぬことをたくらんでいると言う。よからぬこと。桃太郎に登場するばあさんが大きな桃を食べてしまう。浦島太郎がウミガメの背中に落書き。中華料理の鼻ヒゲをはやしたおじさん。鼻ヒゲとテナガザルのしっぽを固く結んでしまう。
ワスレンボー将軍。白馬にまたがって満面の笑み。なんだか、高級羽毛布団でも売りつけられそうな予感。自分の乗っている白馬にエサをあげるのをすっかり忘れる。アバラがでてしまい、馬にのるときに思わず足を引っ掛ける。竪琴が得意な無精ひげのおじさんが現れて、アバラをさすり始める。
研究所に出入りする職員。映画では、パスワードやIDを入力して中に入る。警備室のモニターに映っている。本人に成りすまし、研究所に潜入。往々にして、よからぬ研究をしていたりする。モモヒキの遺伝子を操作して、腹巻と合体。世にも恐ろしい怪物を制作しているところ。制作ろいう言葉を使うとなんだか、安心である。納豆と靴下の遺伝的融合。じいさんのシワにはがきを挟む実験。
考える人。一生懸命、IDとパスワードを思い出している。薬局屋の前にいるカエルの名前や、ゾウの名前は思い出す。人の顔を見てなかなか名前が出てこないこともある。のどを通って、もう、口元まで来ている。ここまできているとよくいう。口から出てこないで、鼻から山田さんという名前が出てくる。予期せぬ出来事にノストラダムスもビックリ。口からベロが出てくる。ノドまできているといったあと、口から犬が顔を出す。遊星からの物体Yである。口から世界の国旗がでてきて、ポケットからは赤いバラ。マジシャンである。緊張しているのか、テレビに映った手が震えている。フラダンサーは恐怖のあまり、お尻を震わせ、ハエもカマキリもお尻にたかることが出来ない。
二階に行き自分の部屋に入る。間違えて二階の相撲部屋に入ってしまう。三階はテッコの部屋、そして、驚くべきことに四階はドレイモンの部屋。押入れに居候という身分がレベルアップ。落ちているキノコでも食べたのだろう。自分の部屋に入り、一人相撲やるもよし、営業マンのように両手を合わせて、一人腕相撲でもよい。ただ、ちびっこ相撲は年齢制限、座高の高さによりできない。自分一人になったとき、ふと、自分が何をしに二階に来たのか忘れてしまう。ベットの下にもぐりこんで久々に息を殺して世間の人にばれないようにつつましく生きよう、とでも思ったのか、ボールペンのキャップを取りに上がってきたのか、とにかく、ひたすら思い出すが、脳裏に浮かぶのはアクション大魔王の呼ばれて目ん玉飛び出てジャジャジャジャーン、というシーン。これがジャマしてどうしても思い出せない。おそらく、幼いころのトラウマなのだろう。
忘れるといえば、存在忘却という言葉がある。いろんなモノ、記憶を忘れる。顔をみただけで、名前が出てこない。ひよこ饅頭のかお、人形焼きの顔、面識はあるのだが、名前がわからない。存在を忘れるとはどういうことか。
西洋の歴史は存在忘却の歴史であるという。存在が現れるために必要なのは、高級座椅子でも、まな板の上でもない。無が存在が現れる場所であるという。ところが、いままでの歴史では、無とは存在の欠如だるという。たとえば、髪の毛という存在が無い。そんな遠まわしな言い方をするよりも、単刀直入にハゲっと言ったほうがよいかもしれない。ちんこという存在が無い。何かの欠落、否定こそが存在が現れる場所。財布が無い、とあわてながら自分の後ろポケットをさする。だんだん気持ちよくなってきて目がうつろ。おそらく、お尻が性感帯だったのだろう。財布という存在の欠如である。そうやって存在を探しもとめても、なかなかみつからない。価値そのものも無い、これがニヒリズムといわれるものであり、絶対的な価値はなく、すべて相対的であるというものの見方である。何かの否定なのだ。水戸黄門は正義の味方。うっかりはちべーは悪質なちゃっかりはちべーではない。完全懲悪の世界。ところが、悪代官にも言い分がある。ドッチが善で、ドッチが悪なのかは立場、状況で違うという。ニヒリズムの到来で人々はナニにすがって生きるべきかがわからなくなる。あまりにもヒマで金魚がナニをすればいいかわからず、思わず、水槽に唇をあてがいふざけた顔をしている。
ハイデガーは目の前に、自分に現れたままの現象を素直に受け入れるという現象学的態度でニヒリズムを克服しようとする。ありのままに無を捉える。それはなにかの欠如や、否定ではなく、論理的にも言葉をもってしても、方程式でも表現できない何か。それによって、無そのものをつかみ、存在そのものをあらわにしようと考えたのである。
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