ヒュームの哲学についてである。ヒュームはすべてはイメージ、観念だと言い放つ。目を大きく見開いて、勢いあまってまつげが飛んで行くのだが、ひとは感覚的になにかをとらえ、知覚する。飛び出し注意、豆腐の角に気をつけろ、と交通標語に書かれている。ひとはこれらの危険を感覚し、知覚する。左右を見て、手をあげながら、クロコダイルなワニをまたぎましょう。一時停止し、左右確認、うつぼにちゅーでございます。知覚、感覚だけでなく、私は頭上に雲をつくって、ふしだらなことをイメージ、想像する。フンドシがアルカリに反応して変色。リトマスフンドシについて想像する。口にくわえた体温計。とんぼが興奮気味にケツをくっつけてくる。想像にしても、夢にしても、私自身が感じていることに違いない。感覚も知覚もイメージも、私が感じちゃっていること。フィーリングは大切、肌と肌のふれあい、これがプロレスのブレンバスターである。かつがれて宙に舞っている相手レスラーのあどけない純粋無垢な表情。リングに落ちていまにも泣きそうな顔つき。哲学者ヒュームは、知覚と観念はただ程度の違いだという。時速30キロのよちよち歩き、時速100キロのけんけん歩き、その違いは程度、スピードの違いだ。
私はあたまのなかでいろんなことをイメージする。その中でもとりわけ、実体性、因果律の観念は大切である。ふつうに考えると、これらは森羅万象に備わる法則だと、口をとがらせながら主張したくてたまらなくなる。ヒュームはちがう。因果律という法則は原因があったら必ず結果があるんだべ、という法則だ。ブレーキを踏んだら車は止まる。つまみを回しから、水洗便所の水が流れる。一瞬、濁流にもまれるカヌーが通過した。このことを友人に不敵な笑みを浮かべながら話してもだれも信じてくれない。たしかに、便器にカヌーが通過したんだ、と熱弁してもだめだった。原因があるから結果がある。これが自然界の法則だと科学者は寝言をいう。いびきがうるさくて獲物を逃がしてしまうと、隣で身構えている夜行性の妻は怒る。ヒュームは考える。因果律は高々、習慣によるものだと。繰り返し、マンネリ化によってなんとなく作られるもの。いつも、ブレーキをふむと止まる。だからきっと今回も停止するにちがいないと思いこむ。どうせ、友達の眉毛を食べればまたきっと、。怒り出すに違いないと思いこむ。さらに、実体性に関しても、これを習慣だと言い張る。実体性とは、私がそこに立ち会っていなくとも、それ自体でそいつは存在しているにちがいない、というもの。たしか、過去の記憶を思い起こし、走馬灯のようにパンツを履き替えている自分が脳裏をよぎる。パンツはいてきたような忘れたような。それでも、さっきはあったからきっといまもズボンに隠れて装着しているに違いないと思いこむ。なんどみてもシャイなパンツはそこにある。そのうち、いちいち確認しなくとも、パンツはそれ自体存在しているにちがいないと思いこみ、かたくなな信念ができあがる。これが実体性であり、習慣だという。
まったく驚くことに、自分自身の存在すら思いこみだという。私はいると信じている。たしかにふくらはぎがある。歩行中に自分のふくらはぎを捕まえる。逃げ惑うふくらはぎ。ナイル川に飛びこんで死闘を演じる。私はときに寒くて鼻水がどっぴゅーっと出る。鼻水の出方がおかしいとジャンボギョウザ風なジェット機に乗り合わせていた医者が手をあげて近寄ってくる。砂漠にワープしたときは、暑くてエアコンを抱きしめたくなる。暑い、寒い、悲しい、面白い、いろんなことをかんじっている何者かを感じる。きっと私というカタマリがいるんだろうと信じるようになる。
さて、次は現代の哲学者カルナップ著、世界の論理的構築、についてである。世界を作っているのはだれだ、とちょこっと叫んでみる。ベランダの脇のがけのうえから不敵な笑い声が聞こえる。はーい、私です、と腹から超えだしている青年だ。元気の良い返事なので、とりあえず、生活態度は満点マイナス0.5あげる。すると、青年はあとちょっとで満点だったのにと後悔の念にとらわれ思い悩む。若いころは悩んで悩んで笑いまくれ、と近所のおじさんは人生論を暗闇で語る。世界の作り方講座である。カルナップはまず、なによりも確実で、これは絶対だ、というものから出発する。これを基礎経験という。ぼーっとなにも考えずにありのままを感じる。すると、カレーライスだのカツどんだの、はっきりとしたカタマリではなく、被写体と背景が平面的に見えるだけ。白い皿があるのでなく、白いと周りの青いという輪郭だけ。これをゲシュタルトという。友人もぼーっと眺めるとどこから頭で背景なのか、立体的に捉えられない。友人が風景に見えてくる。山にすらみえてきて、思わず山登りを試み、青空に見えてロケットを打ちこんでしまいがち。最初はきわめて自分の心を扱う。心理的なのだ。ここから、他人の心だの、自分のそとの立体的なピーナッツだの、順番に認識してゆくのだ。こうやって、果てはいろんな価値、文化までも、論理的に作られて行くという。基礎経験から論理的にこねまわして、社会、文化をも作ってしまう。ここに一貫して流れているのは、ハゲタカの精神でも、ミミズの気高き精神でもない。論理であり、形式的なルールだ。すべては形式的なルールによって作られているんじゃないの、ということを証明しようとしたのだ。
まとめ
存在の科学 点的時間論 リアルとは信念によって作られたもの
われわれは現実のなかに生きている。現実を直視せよ、とシンデレラはいう。ピーターパンもこれにはもる。リアル、現実とはなんなのか。ヒュームはすべては繰り返し、習慣によって思いこみ信じているだけだという。りんごが消えたと叫ぶ。食べたのが原因で、消えたのは結果だ。これはなんどとなく繰り返し、習慣的に推測していること。因果律は習慣だという。つまり、現実とは、習慣であり、信じているということではないだろうか。超現実的な話をすれば、月末の支払い日である。銀行にゆくと、待ち構えているメルヘンチックな小鳥のキャラクターたち。これらを尻目にキャッシュドディスペンサーにむかって、手をはさまないようにお札を取り出す。スーパーで金を払い、そして、大好物のみりん、しょうゆを購入する。金を払えば、商品ゲットできると習慣的に信じている。金には価値があると信じ込む。これが現実となってゆくのだ。親子水入らず。親は子を信用し、子は親を信用する。けっして、野球中継を居間でみているとき、かみついたりはしないと信じている。現実とは信仰であり、信じるということだ。金も愛も信念であり、現実、リアルになりうるもの。
ひとの心は不可視であり、ブラックホールもまた光やあらゆる物質を吸いこみ収縮するゆえに不可視である。心はブラックホールだが、これらのブラックホールは互いに引き合うという引力が働く。そして、互いの力が均衡を保つとき、これが調和であり、論理的な形式となる。論理とは、ブラックホールの引力の調和によるもの。ブラックホール自体はもはや形式論理、時間の論理が壊れてしまう世界だという。すると、形式論理をつくりあげているものは、非形式論理、可視的なものを作っているものは不可視なものであるから、ブラックホールこそが形式論理作成の超本人である。論理とは引力の調和であり、これは空間概念をくつがえせば、ブラックホールが重なり合ったもの。見えないものは見えるものの繰り返し、反復によって推測され、信じられるようになる。論理や心もまたこうやって信じられたものだ。そもそも、見えないのだから、信じることしかない。われわれの周囲の世界、その99パーセントは信仰、信じることによって作られたものである。






