われわれは現実のなかに生きている。現実を直視せよ、とシンデレラはいう。ピーターパンもこれにはもる。リアル、現実とはなんなのか。ヒュームはすべては繰り返し、習慣によって思いこみ信じているだけだという。りんごが消えたと叫ぶ。食べたのが原因で、消えたのは結果だ。これはなんどとなく繰り返し、習慣的に推測していること。因果律は習慣だという。つまり、現実とは、習慣であり、信じているということではないだろうか。超現実的な話をすれば、月末の支払い日である。銀行にゆくと、待ち構えているメルヘンチックな小鳥のキャラクターたち。これらを尻目にキャッシュドディスペンサーにむかって、手をはさまないようにお札を取り出す。スーパーで金を払い、そして、大好物のみりん、しょうゆを購入する。金を払えば、商品ゲットできると習慣的に信じている。金には価値があると信じ込む。これが現実となってゆくのだ。親子水入らず。親は子を信用し、子は親を信用する。けっして、野球中継を居間でみているとき、かみついたりはしないと信じている。現実とは信仰であり、信じるということだ。金も愛も信念であり、現実、リアルになりうるもの。
ひとの心は不可視であり、ブラックホールもまた光やあらゆる物質を吸いこみ収縮するゆえに不可視である。心はブラックホールだが、これらのブラックホールは互いに引き合うという引力が働く。そして、互いの力が均衡を保つとき、これが調和であり、論理的な形式となる。論理とは、ブラックホールの引力の調和によるもの。ブラックホール自体はもはや形式論理、時間の論理が壊れてしまう世界だという。すると、形式論理をつくりあげているものは、非形式論理、可視的なものを作っているものは不可視なものであるから、ブラックホールこそが形式論理作成の超本人である。論理とは引力の調和であり、これは空間概念をくつがえせば、ブラックホールが重なり合ったもの。見えないものは見えるものの繰り返し、反復によって推測され、信じられるようになる。論理や心もまたこうやって信じられたものだ。そもそも、見えないのだから、信じることしかない。われわれの周囲の世界、その99パーセントは信仰、信じることによって作られたものである。






