ブラックホールとはあたゆる物質を吸収し、収縮するといった。当然、光も吸収し、光吸収するゆえに目には見えない。つまり、光を吸収し、見えないといったら人間の心と同じなのだ。そこで、空間的な物質が一点に収縮すると空間が壊れ、空間やら法則、形式論理すらも崩壊する。一つのアンパンと一つのコロネパンは同時刻に同じ場所に存在できない。これが空間の法則だ。ところが、凝縮するブラックホールではこんなことはふつうにおこりうる。さらに、一つのアンパンとたくさんのアンパンもちがうはず。一と多は空間的な法則では両立できない。ところが、ブラックホールでは一であると同時、多であるという矛盾が成り立つ。人間の意識、心はブラックホールといったが、私がバナナを認識し、意識するとき、バナナの傷んでいるところがあるかをさまざまな視点にたって確認する。つまり、視点は多であり、無数にある。それなのに、たった一つのバナナを意識している。このように、人間の意識はまちがいなく、無数、たくさんの視点とたったひとつの対象というように、一と多が両立する。そして、こんな矛盾の成り立つ、空間の破壊されたブラックホールとは時間であり、意識でることが帰結する。
さて、ブラックホールに収縮、凝縮された物質はどこへゆくのか。ワームホールをとおって、ホワイトホールへと出て行くという。空間、形式論理が壊されて、ブラックホールにおいて時間、意識となる。ここで、私は自分自身を意識する。私は私を意識するが、意識された私はいまこの瞬間の私ではまはやない。フレッシュのいまの私はつねに逃げてしまう。ちょっとまえのワタししか意識できないのだ。こうやって、私は私のような私ではない私ダッシュをたくさんつくる。そして、ついにブラックホールの意識から脱け出して、ホワイトホールから物質として産出されるときがやってきた。もちろん、空間の法則、形式論理の支配する世界へと物質となって排出されるのだ。私はたくさんの私っぽい、私ダッシュをブラックホールの意識において作り出した。これが空間したものが、すなわち他人である。他人は物質的な肉体をもち、空間法則に従う。それなのに、なぜだか私の肉体と共通性をもつ。私ダッシュが空間化し、物質化したものなのだ。又逆にいうと、私の意識は空間的な他人の肉体が一手に時間化したものでもある。私は意識のなかに、自己意識において他人とともにいたのだ。






