記述理論と知覚論についてである。本日、何について考えようかと考えた。みけんにしわがよてくる。山あり谷ありのしわ。まるでロッキー山脈のようだ。みけんにむかって叫べば、山彦となってかえってくるかもしれない。考えたところ、人類最大といったらおおげさすぎるが、大問題にぶちあたった。あたるもはっけ、あたらぬもはっけ、とは、散歩中の犬が電柱にぶつかること。ずーっと、いままで根気よくはきつづけてきた
パンツが、あたりだったとは。当たりと赤字でかかれている。もう一着くれるのだろうか。友人の背中にも当たり、という字。ひょっとしたら、一機アップかもしれない。大問題とは、こういうことだ。ひとはなにかを感じて生きている。かんじるぅーっとムンクの叫び。エクスタシーにエロティシズムについてたくわんを食いながら論じる場合ではない。なにかを感じ、しかも、なにかが存在しているのだ。単刀直入にいってしまえば、認識と存在とはどこがどう繋がっているのか。そんな通路をみつけたいと思ってやまない今日この頃だ。
哲学者ラッセルの記述理論からぶち開けてみる。この宇宙、世界を解明するにあたってなにかとっかかりがないのか。とっかりをみつて、これに手をかけよじ登るセミ。生来のロッククライミングの血が騒ぐ。あたりを見まわすと、当たり前のように使っている言葉。この言葉ってひょっとしたら論理、理屈がいっぱいつまっているから、宇宙の構造かも、とおもったりする。文を研究してみよう。ビッグフッドのふんを分析するのはもうやめた。なんだか食欲減退、精神
疲労がつのるばかり。文とは、たいてい真偽がくっついている。この文ははたして正しいことをいってるか、3年B組うそっぱち先生か。真か偽の値をもっている。醤油はしょっぱい、という文。正解の効果音が鳴り響く。つまり、真という値だ。醤油ビンは空を飛ぶ。ピーターパンじゃあるまいし、この文はうそ偽り、偽の値をもっている。ところが、そもそも、真でも偽でもない眼中にない文がある。お呼び出ない、そもそも、相手にならないような文。真偽すらもってない無意味な文だ。
ヒップマンはイチゴがお好き。この文に登場したヒップマンとは、文字通り、お尻に手足はえている正義の化け物。こんな化け物は実在しない。実在しないやつをとやかくいっても、正しいもへったくれもない。つまり、真偽のない無意味な文だ。
哲学者ラッセルはこんな無意味な文にたえられなかった。この世には無意味でナンセンスなものはない。全部に意味がある。
靴下を裏返したときのでっぱった糸。これもまた必要不可欠三種の神器だ。それではどうしてヒップマンを云々できるのか。要するに、主語にお尻人間をもってきてはいけないのだ。もちろん、お尻人間はあるいているだけで、犬のおまわりさんによびとめられる。お尻人間を述語にしてしまえばよい。そして、その代わりに主語、主人公の座に踊り出るのがX,Yという変項といわれるものだ。変項とは、得たいの知れない正体不明なやつ。からっぽな容器であり、弁当もいれられる、大工道具も入れられる万能収納箱だ。Xはお尻人間と呼ばれるものであり、かつ、Xは足が速い。こうすれば、この文は真偽の値が立派にこびりつくことができる。こびりついて
ラッキーとはあまりきかないが、こびりついてくれてありがとう、と感謝したい。こうすれば、すべての文をXとはなんとかである、というように変形しちゃえば意味ある文に様変わりだ。そして、Xを説明するための、お尻人間と呼ばれる、とか、足が速い、といういわば説明文の束が確定記述束といわれるものだ。そもそも、Xは正体不明のからっぽの容器であり不確定。これに確定されている能書き軍団である確定記述束がくっつけばよい。
つぎに、哲学者フッサール及び、メルロ
ポンティの知覚論についてうんちくたれたい。身体とは何かとフッサールは考える。おっぱい、へそ、耳だってついている。割れた腹筋のすきまにはさまってしまう昆虫。レントゲン
写真をとってみると、なんとも不思議だ。いろんな臓器が丸見え。ちょっとはずかしくて、お尻が赤くなってしまう。物理的にいろんなパーツでなりたっているんだな、と保健体育の教科書を改めて眺め見る。だんだん興奮してくる。性器の断面図をみて
カルチャーショック。物としてのからだ、ここにヘアーを乗っかって、ここに盲腸が装着されている。これを物理学的身体と呼ぶ。ところが、人間はただの物体じゃないと叫びたくなる。スイカを丸ごと食ったり、鼻を興奮気味で匂ったり、いろんなものを感じて生きているのだ。生きている身体、これが知覚的身体だ。さらに、その背後にはおぼろげながらも太郎くんのやさしさが見えてくる。こうやって、段階的に心にたどり着いちゃう。しかも、胸はぴくぴく、フクラハギだって堅くなる生きている身体はただ光を感じ、そよ風をかんじているだけではない。それじゃ
リラックスしすぎだ。なんと驚くことに動くのである。プロレスラーだって、ロープにふって帰ってきたところ、屈伸運動。動くことが出来るからだ、しかも、そんなときは、よいっしょ、エイっという気合で足の裏のどろを縁せきにすりつけて落すのだ。意志の力でからだがうごくから、こんな身体を意志的身体という。
こんどはメルロポンティの知覚論である。ゴブガリ少年のあたまをなでる。ちくちくして心地よいが、まるで芝生のようだ。キャディーさんを発見だ。小僧のあたまに隠れ潜んでいたとは、見上げた根性だ。手であたまをなでた。これは意志的身体だ。少年にとってはさわられたと感じる。つまりは知覚的身体だ。ここからが問題である。少年は高々に主張する。マイクをにぎりしめ頭部こすりつけてじゃりじゃり音を奏でるのではなく、なんと、頭が手をさわっていると主張するのだ。私はたまに自分のあごを触る。あごがあってよかった、とほっとする。あごが手をさわっているともいえる。さわるさわられる、見る見られるの関係は意図もたやすく入れ替わっちゃうのだ。意志的身体と知覚的身体が渾然一体になっているのだ。
まとめ
存在の科学 人間不死学説 存在と感じること
記述理論で登場するX,Yという変項。Xはネコのたまちゃんであり、かつ、オスである。正直、Xとは正体不明でからっぽの容器。からっぽだから、無だともいえる。しかも、なんでも入れられるから、パンツははいるが、宇宙船は入るとか、なんとも、事件、出来事まですっぽり収まる。聖徳太子がしゃもじであごひげをそるという出来事もXに入っちゃう。つまり、Xとは、平行世界、パラレルワールドなのだ。このXという変項はひょっとしらの世界がつまっているし、同時に無でもある。しかも、時間の流れすらない。つっぱりをされて押し飛ばされる。手と頬のあいだには無。ここに相互作用、作用、反作用がはさまっている。要するに、Xは相互性でもある。それでは、述語はどうだろうか。ネコのたちゃんと呼ぶ、とか、オスである、というXの説明文の束。これを確定記述束という。よくよく考えれば
わかるが、この確定記述、時系列になっているのだ。Xについての説明は順番で時系列になる。ああでこうでこうである、というふうに。つまり、確定記述は原因と結果の因果関係、時間によってなされるのだ。しかも、Xは不確定だから、量子論的なミクロの世界。確定記述束は確定的だからマクロな世界だ。要するに、Xを感じるとは、不確定なXを確定すること。量子論的な雲を位置確定してやることだ。また、別の言い方をすれば、時間と平行世界がここに同時に出現しているから、別宇宙どうしの接触とも考えられる。さらには、カントカテゴリー表では、関係のカテゴリーの実体、因果、相互性のうち、因果と相互性がでているので、この組み合わせによって残る実体性のカテゴリーが出現するとも解釈できる。実体、つまりは、それ自体存在しているものたちは、不確定な変項の確定。電子の確率的な波を粒子にすること、いわゆるなにかを感じることなのである。さらに、様相のカテゴリーにおける可能性、現実性、必然性。この順番でならんでいるのだが、可能性と必然性を合体させると偶然的であり、これこそが主体的な我の存在だといいたいのだ。可能性は関係のカテゴリーの相互性、現実性は同じく実体性、そして、必然性は因果的な連鎖を想起させるので因果性。いずれにしても、関係のカテゴリーと様相のカテゴリーを構成する要素、その順番がなにゆえずれているのか。このずれに秘密があるように思える。
についてである。本日、何について考えようかと考えた。みけんにしわがよてくる。山あり谷ありのしわ。まるでロッキー山脈のようだ。みけんにむかって叫べば、山彦となってかえってくるかもしれない。考えたところ、人類最大といったらおおげさすぎるが、大問題にぶちあたった。あたるもはっけ、あたらぬもはっけ、とは、散歩中の犬が電柱にぶつかること。ずーっと、いままで根気よくはきつづけてきたパンツが、あたりだったとは。当たりと赤字でかかれている。もう一着くれるのだろうか。友人の背中にも当たり、という字。ひょっとしたら、一機アップかもしれない。大問題とは、こういうことだ。ひとはなにかを感じて生きている。かんじるぅーっとムンクの叫び。エクスタシーにエロティシズムについてたくわんを食いながら論じる場合ではない。なにかを感じ、しかも、なにかが存在しているのだ。単刀直入にいってしまえば、認識と存在とはどこがどう繋がっているのか。そんな通路をみつけたいと思ってやまない今日この頃だ。
哲学者ラッセルの記述理論からぶち開けてみる。この宇宙、世界を解明するにあたってなにかとっかかりがないのか。とっかりをみつて、これに手をかけよじ登るセミ。生来のロッククライミングの血が騒ぐ。あたりを見まわすと、当たり前のように使っている言葉。この言葉ってひょっとしたら論理、理屈がいっぱいつまっているから、宇宙の構造かも、とおもったりする。文を研究してみよう。ビッグフッドのふんを分析するのはもうやめた。なんだか食欲減退、精神疲労がつのるばかり。文とは、たいてい真偽がくっついている。この文ははたして正しいことをいってるか、3年B組うそっぱち先生か。真か偽の値をもっている。醤油はしょっぱい、という文。正解の効果音が鳴り響く。つまり、真という値だ。醤油ビンは空を飛ぶ。ピーターパンじゃあるまいし、この文はうそ偽り、偽の値をもっている。ところが、そもそも、真でも偽でもない眼中にない文がある。お呼び出ない、そもそも、相手にならないような文。真偽すらもってない無意味な文だ。ヒップマンはイチゴがお好き。この文に登場したヒップマンとは、文字通り、お尻に手足はえている正義の化け物。こんな化け物は実在しない。実在しないやつをとやかくいっても、正しいもへったくれもない。つまり、真偽のない無意味な文だ。
哲学者ラッセルはこんな無意味な文にたえられなかった。この世には無意味でナンセンスなものはない。全部に意味がある。靴下を裏返したときのでっぱった糸。これもまた必要不可欠三種の神器だ。それではどうしてヒップマンを云々できるのか。要するに、主語にお尻人間をもってきてはいけないのだ。もちろん、お尻人間はあるいているだけで、犬のおまわりさんによびとめられる。お尻人間を述語にしてしまえばよい。そして、その代わりに主語、主人公の座に踊り出るのがX,Yという変項といわれるものだ。変項とは、得たいの知れない正体不明なやつ。からっぽな容器であり、弁当もいれられる、大工道具も入れられる万能収納箱だ。Xはお尻人間と呼ばれるものであり、かつ、Xは足が速い。こうすれば、この文は真偽の値が立派にこびりつくことができる。こびりついてラッキーとはあまりきかないが、こびりついてくれてありがとう、と感謝したい。こうすれば、すべての文をXとはなんとかである、というように変形しちゃえば意味ある文に様変わりだ。そして、Xを説明するための、お尻人間と呼ばれる、とか、足が速い、といういわば説明文の束が確定記述束といわれるものだ。そもそも、Xは正体不明のからっぽの容器であり不確定。これに確定されている能書き軍団である確定記述束がくっつけばよい。
つぎに、哲学者フッサール及び、メルロポンティの知覚論についてうんちくたれたい。身体とは何かとフッサールは考える。おっぱい、へそ、耳だってついている。割れた腹筋のすきまにはさまってしまう昆虫。レントゲン写真をとってみると、なんとも不思議だ。いろんな臓器が丸見え。ちょっとはずかしくて、お尻が赤くなってしまう。物理的にいろんなパーツでなりたっているんだな、と保健体育の教科書を改めて眺め見る。だんだん興奮してくる。性器の断面図をみてカルチャーショック。物としてのからだ、ここにヘアーを乗っかって、ここに盲腸が装着されている。これを物理学的身体と呼ぶ。ところが、人間はただの物体じゃないと叫びたくなる。スイカを丸ごと食ったり、鼻を興奮気味で匂ったり、いろんなものを感じて生きているのだ。生きている身体、これが知覚的身体だ。さらに、その背後にはおぼろげながらも太郎くんのやさしさが見えてくる。こうやって、段階的に心にたどり着いちゃう。しかも、胸はぴくぴく、フクラハギだって堅くなる生きている身体はただ光を感じ、そよ風をかんじているだけではない。それじゃリラックスしすぎだ。なんと驚くことに動くのである。プロレスラーだって、ロープにふって帰ってきたところ、屈伸運動。動くことが出来るからだ、しかも、そんなときは、よいっしょ、エイっという気合で足の裏のどろを縁せきにすりつけて落すのだ。意志の力でからだがうごくから、こんな身体を意志的身体という。
こんどはメルロポンティの知覚論である。ゴブガリ少年のあたまをなでる。ちくちくして心地よいが、まるで芝生のようだ。キャディーさんを発見だ。小僧のあたまに隠れ潜んでいたとは、見上げた根性だ。手であたまをなでた。これは意志的身体だ。少年にとってはさわられたと感じる。つまりは知覚的身体だ。ここからが問題である。少年は高々に主張する。マイクをにぎりしめ頭部こすりつけてじゃりじゃり音を奏でるのではなく、なんと、頭が手をさわっていると主張するのだ。私はたまに自分のあごを触る。あごがあってよかった、とほっとする。あごが手をさわっているともいえる。さわるさわられる、見る見られるの関係は意図もたやすく入れ替わっちゃうのだ。意志的身体と知覚的身体が渾然一体になっているのだ。
まとめ
存在の科学 人間不死学説 存在と感じること
記述理論で登場するX,Yという変項。Xはネコのたまちゃんであり、かつ、オスである。正直、Xとは正体不明でからっぽの容器。からっぽだから、無だともいえる。しかも、なんでも入れられるから、パンツははいるが、宇宙船は入るとか、なんとも、事件、出来事まですっぽり収まる。聖徳太子がしゃもじであごひげをそるという出来事もXに入っちゃう。つまり、Xとは、平行世界、パラレルワールドなのだ。このXという変項はひょっとしらの世界がつまっているし、同時に無でもある。しかも、時間の流れすらない。つっぱりをされて押し飛ばされる。手と頬のあいだには無。ここに相互作用、作用、反作用がはさまっている。要するに、Xは相互性でもある。それでは、述語はどうだろうか。ネコのたちゃんと呼ぶ、とか、オスである、というXの説明文の束。これを確定記述束という。よくよく考えれば
わかるが、この確定記述、時系列になっているのだ。Xについての説明は順番で時系列になる。ああでこうでこうである、というふうに。つまり、確定記述は原因と結果の因果関係、時間によってなされるのだ。しかも、Xは不確定だから、量子論的なミクロの世界。確定記述束は確定的だからマクロな世界だ。要するに、Xを感じるとは、不確定なXを確定すること。量子論的な雲を位置確定してやることだ。また、別の言い方をすれば、時間と平行世界がここに同時に出現しているから、別宇宙どうしの接触とも考えられる。さらには、カントカテゴリー表では、関係のカテゴリーの実体、因果、相互性のうち、因果と相互性がでているので、この組み合わせによって残る実体性のカテゴリーが出現するとも解釈できる。実体、つまりは、それ自体存在しているものたちは、不確定な変項の確定。電子の確率的な波を粒子にすること、いわゆるなにかを感じることなのである。さらに、様相のカテゴリーにおける可能性、現実性、必然性。この順番でならんでいるのだが、可能性と必然性を合体させると偶然的であり、これこそが主体的な我の存在だといいたいのだ。可能性は関係のカテゴリーの相互性、現実性は同じく実体性、そして、必然性は因果的な連鎖を想起させるので因果性。いずれにしても、関係のカテゴリーと様相のカテゴリーを構成する要素、その順番がなにゆえずれているのか。このずれに秘密があるように思える。