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2017年01月29日

大人の教育番組。3ちゃんねる。哲学漫談。 細胞の中心小体の働きを知れば、万物がわかる。   2.異次元ループがふつうの日常を作っている。日常は異次元によってできていた!

 大人の教育番組。3ちゃんねる。哲学漫談。

細胞の中心小体の働きを知れば、万物がわかる。

https://www.youtube.com/watch?v=zBozxXAUv48


異次元ループがふつうの日常を作っている。日常は異次元によってできていた!

https://www.youtube.com/watch?v=tPvA2EnQE8A
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2015年01月05日

仙人新聞 2015 1−5 3



2014 12-18


存在の穴、存在のくぼみ、そして、絶対矛盾的自己同一についてである。きゅーっと収縮、収束というのは、これとは反対で、じつはぼわーっと膨張、発散であった。すると、世の中は何も起きていないことになり、何かが起こっているのは細かく分割してみているからだ、という結論にいたった。

   存在の穴と存在のくぼみについてである。サルトルの存在の穴とは意識のことだ。かっての私でなく、いまだない私であろうとする。無いがあるに、あるが無いになる。存在が無を分泌しているのが意識だという。この無はいわば存在にぽっかりあいた穴である。

  メルロポンティはこれに対して、存在のくぼみや溝を提唱。これは穴でなく、底があり、つながっているのだ。あかちゃんは私とあなた、かれらの人称がない。すべては存在っていう肉でつながっているのに、私とあなた、かれらという溝をつくったという。だから、回転させれば、私はあなた、あなたは私になって、互いに相手の気持ちになれる。

  次の話は西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一についてである。主語と述語で文ができる。述語は場所であり、そこに主語がはいる。さいとうくんは芋を食う。芋を食うという場所に斉藤君という個体がいる。ところが、主語と述語的場所の境をとっぱらう。すべてが無の場所にいる。そして、無は無自身を規定しちゃって有になる。これは絶対的に矛盾しているけど同じだよ、という絶対矛盾的自己同一。このほかにも、他人の人格へのはからいが、自己の人格の完成という、自己と他者の絶対矛盾も同じだということで解消される。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    生命の進化、生命個体の成長に関して、次のことが成り立つ。生命の発生のときは、外部との情報を一切シャットアウトすることでなされる。遺伝子も、外的環境の影響を受けると奇形になる場合があるという。これは収束、収縮の傾向だ。こんどは食べたり、周囲の環境とひろくかかわって、進化をとげる。個人もまた、発生後の成長においては学習などで周囲とかかわる。これは発散である。発生は収束、進化、成長は発散なのだ。

  人間の意識もまた、なにかを感じる、クオリアは純粋に外部と一切関係しない収束である。そして、その後にさまざまな記憶や感覚と関係し、感情、思考になる。これは発散になる。


  ところが、真相は逆でもある。もしも、脳によって意識がつくられているなら、おそらく、ニューロン細胞内のマイクロチューブルという管。この管は外部からの情報を一切シャットアウトできるもので、シュレディンガーの猫の箱の完璧なものだ。すると、チューブル内では波動方程式がユニタリ展開し、無数の世界、並行世界が重なり、増殖するのだ。つまり、五次元世界のなかの並行四次元宇宙の増殖ということは発散にほかならない。また、感情や記憶は三次元空間内のさまざまな情報のやり取りであり、これは一見して発散。ところ、五次元への穴が閉じることでもあるので、これは五次元、高次元的には収束である。存在の穴と溝は繰り返し、開閉をしているか、または、半浸透性をもつ。

   大局的にみると、−1とプラス1で0。発散は収束だったら、何も起きていない。ところが、分割して細かくすると、そこに偏り、事象がみえてくるのだ。ブラウン管のテレビの色はぱっと見て灰色赤く見えても、よくみると、色の三原色の組み合わせなのといっしょだ。気づき、意識とは大局的でなく、分割でみることだが、大局的にはなにもおきていないという気づきもある。


2014 12-19


間主観性、貫世界性、そして、普遍的無意識についてである。すべてのものたちはさまざまなことを感じているが、じつはすべてのものはたったひとりのだれかであり、ひとつクオリアからはじなっているのだ。さらに、これを裏返してみると、すべてのものたちがみる夢はひとつの夢世界の中だったことがわかってくる。

  間主観性についてである。他人の心とは果たして存在するのか。私という主観と他人という主観のあいだについて考えるので間主観性理論という。すべてのものはじつは同じひとりのだれかであるという普遍的自我を提唱するのがカント。現代においては、現象学の地平のなかの他者。そこにりんごがあるという客観性は目撃者の数が多いほど高い。物の客観性のための他者の目。私がひとりでいるときも、みえそうでみえない、かんがえられそうでかんがえられない論理地平。いろんな地平に囲まれているが、この地平に他者の目があると考える。

    次の話は貫世界性についてである。ひょっとしたらの並行世界、可能世界。ひょっとしたら、さいとうくんは床屋だったかもしれず、女性かもしれず、カブトムシだったかもしれない。可能世界を貫いて何がかわらないかといえば、名前である。だから、固有名は可能世界を貫く貫世界性だとクリプキは主張する。

  最後にユングの普遍的無意識についてである。個人的意識があり、社会の成員でもある。無意識の世界も、個人的無意識は集合、普遍的無意識のなかにいるから、世界中の神話が時空を超えて同じ構造だったりする。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   宇宙はビッグバンで始まり、円錐状にひろがると以前話した。そして、この反転した構造が意識の円錐だった。これはクオリア、感じることでもいえる。多くのものたちが何かを感じている。それをどんどん深めると、じつは、同じなにものかの最初のクオリアんある。一発目の一次的クオリアはたったひとりのだれかなのだ。普遍的自我である。これがビッグバンであり、原クオリアと名づける。ここから膨張、増殖し、感情、思考、人格をもった多くのものたちになる。自分がいるな、世界があるな、というクオリアは普遍的自我が感じている。これの反転円錐はどうか。中心のビッグバンがいまここにいる私のクオリア。これが膨張、増殖して、多くのものたちの断片的クオリアの集まりになり、これが夢になる。

  また、これは実時間クオリアであり、感じている主体はひとりだが、感じている事象は多くある。これに対して、この原クオリアからの円錐が四方八方にひろがる。ひょっとしたら感じていたかもしれない可能世界を貫くクオリア、これを虚時間クオリア、五次元クオリアと名づける。中心の虚時間クオリアとこれを頂点にした無数の円錐がなす球体がホーキングのいう無境界仮説の宇宙球体かもしれない。だから、球体内部のクオリアは虚時間クオリアになる。ここでは感じている主体と感じている世界も同じだ。この逆円錐、性格には裏返した宇宙球体が同じひとつの夢、客観的夢世界である。これはまた、集合的、普遍的無意識の世界ともいえる。




2014 12-20


隠喩と真偽不定についてである。心の奥底にある無意識の世界。そこですべての人間、動植物は時空を超えてつながっている。これが意識の世界では偶然、同じパンツはいてる、というシンクロニティを生み出す。そして、ここから、なんと本物と偽者、真偽を越えた世界にわれわれがいることを諭してくれるくれるのである。

  隠喩とはなにか。比喩というのは大きく二つある。いま比喩をいってるよ、と明らかにしているもの。きみはまるでダイヤモンドのようだ、という類だ。これを直喩という。これに対して、隠喩とは普通の生活のなかで、比喩だと知らずにやっているもの。暗喩ともいう。テレビのうえにあるティッシュをとってください、という。そもそも、上とか下、左右、前後っていうのは、私自身の体を中心にした方位だ。だからここには、私がたとえばテレビちゃんだとして、そんな私のうえにあるティッシュをとってください、となる。


  次の話は真偽不定についてである。真か、偽の値のどっちかをもっている文を有意味だという。どっちの値もないものは真偽不定であり、無意味だという。このりんごは甘い、というのは実際に食えば検証して、真偽のどっちかになるはずだ。ところが、丸い三角形はかっこいい、というのは、そんなものは存在しないので検証できない。よって、真偽不定の無意味になる。マイノングは丸い三角形は存在しないが、真偽を超えて超存在しているという。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   かって、精神分析医のユングが、患者にあたっていた。このとき、患者が夢で黄金のスベラベ、いわゆるフンコロガシをみたと語っていた。フンコロガシは神話では成功、成就の象徴だ。このとき、なんとタイミングよく診療室の窓にフンコロガシがぶつかってドスンといったのだ。診察室は暗く、外は明るい。虫の習性は本来、暗いところから明るいところへゆくはずだ。この偶然の一致をユングはシンクロニティと名づけた。そして、これはすべての人間、動植物が集合無意識でつながっていて、それがきっかけとなったと考えた。

  この無意識世界は時空がない。だから、時空と超えていろんなものが一致する。世界中の神話も、時代、場所を越えて同じ構造をしているのはひとえに集合無意識のためかもしれない。

  かって、カントは見えているこの世界は現象界であり、ここでは因果律があるといった。ところが、りんごの現象ではなく、りんごの本体である物自体の世界は因果律がないといった。だから、りんご本体、物自体の世界は自由意志なのだ。

  心の奥底の無意識世界は時空がなくて、原因も結果もない世界。だから、すべてのものが時空を超えてすべてのもにつながる。これが意識世界の時空のなかにあらわれると偶然性になる。ところが、この世界の出来事は時空形式にしたがうし、因果律もあるが、内容は偶然性である。だから、事象、出来事は心のなかの非因果的な世界によってうまれる。しかも、これは時空的連続性のない非因果的隠喩世界なのだ。時空世界のエラーが隠喩でなく、隠喩世界の混沌が先にあるのだ。

  さて、こんな目にはみえない非因果的隠喩世界は心の奥底の無意識、自由意志だけでなく、身近にないだろうか。じつに身近にあったのだ。それが他者の心である。他者の心には因果律がない。だから、計算なんてできない。そうすると、あらゆる事象は他者の心の産物になる。シンクロニティも他者の心による。これは本当とうそを無効化する。真偽を超えた世界でもある。ある出来事は他人の意図によって仕組まれていてもそれは他者の無意識がそうさせたし、事象は他者の心の産物だから、真偽関係ないのだ。時間と空間、善悪、真偽という意識世界はデカルト的二元論。科学は精神と物質の二元論の物質のみを探求していた。古代ギリシャのイオニア学派は精神と物体という単語がなくて、すべてはピュシスとよばれていた。東洋思想も二元論でなく、多くは主客もない。科学は現代における量子論でまさしく、観測者という主観によって量子のふるまいがちがうといういわば、二元論克服の時代にさしかかっているのかもしれない。




2014 12-21


唯名論と差異についてである。生命のからだも忍法分裂の術で増えてゆくが、ひとつにまとまっている。進化だって、社会だって、このまとめようとする片栗粉のつなぎのような働きをしているのは一体なんなのか。

  唯名論についてである。中世キリスト教思想において普遍論争というものがあった。人間っていうのは普遍的である。いろんなひとにあてはまる。マルや三角だって、普遍性をもつ。これらの普遍的なものが実在するという思想もあった。ところが、唯名論を提唱するオッカムはちがう。すべては名前であって、あるのは命名することすらできない、それとか、あれという具体的な個体だという。

  次の話は差異についてである。私は私だという同一性があって、つぎに私はさいとうくんとはちがうという差異があるのか。そうではなく、私は私だというとき、もはや、さっきの私じゃない。だから最初に差異があり、これを反復して同一性をめざしちゃうというのがドゥルースの思想。また、私は私だというとき、それは私の痕跡だというデリダなどがいる。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   卵子に精子が受精するが、このとき、受精する場所によって分裂する位置がきまる。しかも、きまっているところに必ず受精するという。ピンセットで別のところを刺激して体細胞分裂が起きるが奇形になるという。最初、二つに分裂して対称性をなす。さらに四つというように対称性を維持しながら分裂するが、そのうち、誤差、ずれがうまれて非対称になってゆく。人体はほぼ対称的だが、盲腸や胃袋の形、心臓などは対称的でない。非対称的になっても、人体としてまとまっている。

  世の中もいろいろなものが分化して、対称的だったものが非対称的になる。それでもちゃんとまとまっている。ダーウィン進化論は自然淘汰や適者生存の競争社会による原理だが、じつは異なったものの共生なのだ。細胞はもともとアメーバがミトコンドリア、ゴルジ体を捕食していたが、後に共存、共生したものだ。

  非対称的なものや、異なったものをシンクロニティの力でまとめる。心の奥底にひろがる非因果的世界、集合無意識はおそらくは、時空、因果律がなくて、場所と時代を超えて具体的な個体が関係しあうカオス世界。そこには普遍性すらない。だから、この非因果世界が現実世界の非対称性、多様性を時空をこえて共存させている力なのだ。この非因果的世界はとにかく唯名論の個体と同じ多様である。多元的であるが、すべてが関係しあってひとつになる一元論。多元的一元論の世界。これに対して、因果律、時空のある現実世界は二元論的だ。主客、時間と空間、原因と結果の因果律、善悪、真偽である。これらをまとめる力は多元的一元である無意識における非因果世界から汲み取るのである。



2014 12-22


不可知論、そして、素朴実在論についてである。この世界は非常に奥深いものだ。手をあげて横断歩道わたるとき、腋毛が毛深かった。心の奥底の無意識世界もまた、奥深い。言葉や数式を超えてそれを感じるしかないのかもしれない。

  カントの不可知論についてである。不可視とはがんばってもみえないもの。不可知とはがんばっても知りえないもの。われわれがみているのが現象界だという。茶碗の現象であって、落としたのが原因で割れるのは結果。原因と結果の因果律の世界。ところが、茶碗の本体、それが誰によって作られ、それ自体はなんなのかわからない。これが物自体であり、不可知論だ。もはや、本体、物自体を知りえないから、認識をやめて実践するしかない。しかも、物自体は因果律のない自由そのもの。だから、茶碗の背後にある物自体は自由意志による私の実践だった。

   次の話は素朴実在論についてである。茶碗は原子でできているというのは原子論的な唯物論。茶碗は見たままの形でふつうに実在しているというきわめて原始的で当たり前な思想である。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論
 
    この世界を記述するには詩人のように言葉を使うか、はたまた、数式で表現する。いずれにしても、言葉だったら、主語、目的語などが線上に並ぶ。数式も同じだ。線形的であり、直線軸でしかない。ところが、実際は世界は多層的である。しかも、原因と結果の直線軸ではない。手を離したのが原因、茶碗を落としたのが結果。ところが、そのひとがそこにいた原因とか、そこに茶碗がなぜあったのか、という原因がある。つまり、無数の原因があって、無数の結果があるのだが、そこから任意の因果律の直線軸を取り出しているだけだ。世界はすべてが一斉に動いているのである。あるものだけを固定して因果律を取り出す。

  また、さらに、観測したり、見たり、聞いたり、思考したりするのも、世界の動きを変える。これは量子論における観測行為が現象を変えてしまうということ。こうやって世界は線上にきれいに並ぶような記述では扱えないのだ。

  意識においても、その背後には無意識の世界がひろがる。そこにはユングのいうような集合的無意識。以前提唱したが、唯一無比の命名しがたい個別的なものが無数にあって、それらが関係しあう非因果世界があるといった。時空がないのだから、時空を超えて関係しあい、これがこの覚醒現実世界の分離、分岐をまとめる統一力になる。そこには過去のすべての事象が時空を越えて存続する。

  これらは湖にたとえられる。地下水脈は土中の石や土の歴史によって流れを変えている。これが地表から泉となって湧き出る。大きくなって、湖になり、これが川となって下る。この地下水脈が非因果的世界の無意識だ。そして、川が意識なのである。ついには川の水は海に流れて、少なからず、海の対流に影響を与える。この海が外界の時空世界だ。さらに、海の水が蒸発して雲になり、雲がイデアである。雲から雨となって大地にもどって地下水脈だ。無意識の奥底が外界の宇宙とつながっているのである。

  現代の意識世界は、この無意識の地下水脈の影響が少ない。大雨が降って、川が氾濫し、海に流れ、というような地表だけのサイクルになっている。外界の情報と自分とのやり取りだけで、集合無意識、非因果世界から湧き出る泉がほとんど機能していないのである。



2014 12-23


モナドとパースペクティブ、そして、ゲシュタルトクライシスについてである。世の中、いろんなサイクルがある。観覧車、メリーゴーランドだけでなく、地球もからだも循環だ。ただし、サイクル、循環っていうのはただの繰り返しではない。おのずと多様なものをうむ。廃品のリサイクルもいろんなものへ生まれ変わっちゃう。意識と宇宙のサイクルにみる他者の出現について考えたい。

   ライプニッツのモナドとパースペクティブについてである。世界は原子、アトムっていう粒でできているというのがデモクリトスの原子論的唯物論。ところが、ライプニッツはモナドででいているという。しかも、モナドは大きさがないただの点だ。点だとおもってあなどってはいけない。なんと、その点からみた全宇宙を包んでいるのだ。ここからみた世界、宇宙っていうのは遠近法的、パースペクティブだ。そんなモナドを組み合わせているのが神さまであり、これを予定調和という。

  次の話はヴァイゼッガーのゲシュタルトクライシスについてである。部分の集まりが全体だという機械的な考え。これがブントの要素主義という。ゲシュタルトとはそうではなく、全体は部分の集まり以上あるという。また、部分はお隣の部分だけ付き合っているのではなく、全体とつながっている。さらに、被写体はパーツの集まりでできているのではなく、なんと、背景との全体的な関係から、だんだん三次元的なイメージになってゆく。

  私と世界、あなたと世界もはっきりわかれていない。周囲の環境とのゲシュタルトな循環、つまりはクライシスをしているという。こうやって、患者を目の前にして、機械的、解剖学的にみるのではなく、心とからだ、そのひとと環境世界を循環するゲシュタルトとみるべきだと人間学的な接し方を主張したのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    
       循環、サイクルとは同じことの繰り返しではなく、クラインのつぼの構造をしている。内側に入ると、いつしか外側になり、外から気がつくと内側になる。メビウスの帯は表と裏がひとつになったものだが、これの立体バージョンである。もちろん、本物のクラインのつぼは五次元にしか成立しない。
  さて、このつぼの特徴はもうひとつあるようにおもえる。内側に入って気がつくと外にあるのだが、たくさんの外にでてくるのだ。並行世界だ。ひとつの入り口とたくさんの出口という構造。この逆もまた同じだ。外へ行こうとその極みにおいて、たくさんの内側になっている。だから、私の心の奥底の個人的無意識、さらに集合的無意識はその先に多くの外界宇宙の出口があり、これが世界にいる多くの存在者、肉体になる。また、ベクトルを逆にすると、内側から外部世界へと広げると、ついには多くの内面世界にでてしまう。これが多くの意識体であり、他者の意識なのだ。

  これは地球にもいえる。大地のなかの水脈は無意識世界だといった。湧き出て泉になり、湖になり、川となって流れる。この川が意識。そして、海にでて、海は外界世界だ。蒸発して雲になり、雲はイデア。雨を降らし、大地の水脈、つまり、無意識に戻る。このとき、多くの川の流れを生むのだ。

  また、人体を東洋医学的に考えると同じことがいえる。大腸は森、大地と考える。肺は雲だという。雲から雨が降り注ぎ、腎臓の水、腎水になり、これが海。大腸である大地にも行くが、蒸留気化作用で肺に戻る。こうやっていくうちに、水分は体中の細胞を潤わせる。入り口がひとつだが、多くの細胞という出口がたくさんあるのだ。

  モナドのパースペクティブとはまさしく、循環してこの世界にでてきた主体的ななにかだ。そして、ゲシュタルトクライシスもまた、このうちと外の循環性においてダイナミックのひとをみることをいっているのかもしれない。


2014 12-24


独我論と我汝についてである。まず最初に私がいるという事実。ここから他者や万物が生まれてくるプロセスを考える。すべてを私からスタートしてみるのだ。

   独我論というのは私がまず最初にいるという思想。しかも、私以外のすべてはないという強烈な独我論もある。少なくと物があるかもしれないが他者の心はどうかな、というソフトな独我論もある。デカルトの我思うゆえに我あり、ヒュームのすべては思い込みという思想などが独我論といわれる。ヴィトゲンシュタインは他者の見ているものをみれなし、考えも互いに伝わらない、という独我論を展開した。

  次の話はブーバーの我汝についてである。私という第一人称から始まる世界観は独我論。かれら、それという第三人称、無人称から始まるのが唯物論。そして、ブーバーが提唱するのが、第二人称、私とあなたをスタートにする思想だ。まず最初、我汝がある。しかも、汝、あなたというのはいつも変わるものだ。振り返ると汝はかわる。そうではなく、永遠に変わらない汝がいて、それが神さまだという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   私がいるという確実性からスタートし、万物を説明してみたい。以前話たが、私の外の世界、外界に向かうと、いつしかクラインのつぼになっていて、内面へともどってくる。このとき、入り口はひとつで出口がたくさん。たくさんの内面、つまり、意識体になる。これが他者の意識であり、これは一回目がクオリアだとすれば、一回転目なので感情である。感情というのはクオリアと違い、他者の意識との関係性によってうまれる。もう一回、循環すると、またもっとたくさんの内面がうまれ、これが奥行きの世界になり、思考、表象、イメージの世界。これは感情よりもいっそう他者と関係性が強い。もう一回循環すると、人格になり、これはもっと他者関係性がつよい。そして、ついには最後の循環で輪廻転生する魂になり、これはカルマをもつ。つまり、他者の魂との関係性がマックスであり、他者への行いが直接反映する絆で結ばれている。

  こんどは逆の回転をしてみる。外から内への回転である。まず、多くの外的なものができるが、これが他者の肉体である。二回転目で微細な物質になるが、肉体のあとに物質がうまれるのは私をスタートとしているからだ。そして、もう一回転で光になり、最後の回転で光の構成素であるスピノールになる。スピノールは二回転で元に戻るというクラインのつぼ、メビウスの帯の特徴をもつ。物質の極みであるスピノールと意識の極みである輪廻する魂は根本に同じなのである。



2014 12-25


偶然性の哲学とシュティルナーの唯一者についてである。善悪、真偽、すべての価値は偶然的でしかないのかもしれない。地球が存続し、人類が存続しているのも偶然なのかもしれない。あらゆるものはたまたまだが、高次元の原理原則がたまたまというものだった。

   九鬼周蔵の偶然性の哲学についてである。西洋哲学のなかではいままで同一性を中心にした哲学であった。AはAである、という必然性である。科学もまたかってはニュートン力学のように必然性、機械論的だった。ところが、現代においては、すべては確率的にあるという量子論だ。日本の哲学において九鬼周蔵は必然でなく、偶然をあげている。三つの偶然があるという。一番目は論理的偶然、存在論的偶然といわれているもの。ここに消しゴムがあるという偶然。二番目は仮言的偶然、因果的偶然といわれているもの。ばったり道端で旧友で出会っちゃう、という出会いの偶然だ。そして、最後に選言的偶然、形而上学的偶然である。たまたま、私は人間であって、ひょっとしたらねずみだったかもしれない、という運命というものだ。

  次の話はシュティルナーの唯一者についてである。アナキズムの思想といわれている。唯一者とは絶対的な自由だという。国民の自由という言葉があるが、そんな自由ではなく、彼の言葉を使えば、私のすべての事柄を無の上に置いたようなものだ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   善悪、美醜、真偽などの価値の序列というものはすべてたまたまでしかないのかもしれない。人類が存続するか絶滅するか偶然性。スカトスティックなプロセスである。適当にわしづかみで種をまく。一回目の偶然。さらに、偶然的にいい土壌のうえにきたものは芽吹く。二回の偶然がある。洗面器に水道水をためる。泡がいっぱいできるが、偶然的に長らくはじけないで残るものがうまれる。人類もそのような偶然の産物かもしれない。

  われわれは三次元空間と1次元の時間をあわせた四次元時空にいる。個々では偶然的なものが、高次元では必然なのだ。五次元は論理的に可能なすべての世界がある。どれかの世界に特権化を与えない。すべていいこと悪いことがそのようにあるだけだ。特権化、価値序列がない。すべてがあるだけだ。そのなかに、私があくびをする世界が無かった場合、私はその世界を補填すべく必然的にあくにするのだ。意識は自由、五次元的だが、肉体は三次元的な制約のなかにいる。



2014 12-26


人格主義的態度と現象学的態度、そして、対他存在についてである。この世界の真相を感じることが難しい。ほんとうにそうなのか。逆上がりよりも難しいのだろうか。そこで言葉や数式で時系列的にとらえようとする。すると、すべてが機械的に見えてきてしまう。直線的、時間的にではなく、いまここという点においてとらえるとき、並行世界、他者の心がつまびらかに感じ取れるようになる。

  フッサールの人格主義的態度と現象学的態度についてである。日常生活においてふつうなものの見方がある。りんごは食い物で、さいとうくんは心のある人間だ。この自然的態度はとりわけ人格主義的態度という。もうひとつは自然主義的態度といわれているもの。これは科学的態度のことであり、これだと人間もりんごは原子、分子の集まりにみえる。

  現象学的態度はすべてが思い込みだという。りんごじゃなくて赤く染まったみかんかもしれない。さいとうくんもじつはロボットかもしれない。そこで、すべての思い込みをカッコの中に入れて判断停止する。もちろん、性別、性格、名前をもつ自分もカッコにいれる。それでも最後にカッコに入らないものが残る。だれでもないだれか、私っていう存在そのもの、これを最後の残余物といい、純粋自我という。

  次の話はサルトルの対他存在についてである。石はただひたすらに即効おれだ、といって自分自身と一致。これを即自存在。人間の意識は私だ、といっても私自身のなかにずれがある。これを自分に対面するから対自存在という。そして、もうひとつが対他存在。何かに夢中になっているとき、視線を感じる。他者のまなざしによって私はゴリラマンとあだ名をつけられ、固定化され、本来は対自存在なのに、物のように、即自化されてしまうのである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   この世界はあらゆる直線的な時間軸がカオス的に混ざり合ったもの。すべてが同時にザッと動いている。ところがこれだと世界をとらえられないから、時間軸、直線軸をそこから任意に取り出す。原因と結果の直線的な因果律だ。すると、これが思考の世界であることがわかる。本当の世界はひとつの原因にひとつの結果ではない。りんごを落としたのは結果、原因は手がすべった、りんごがそこにあった、というように無数の原因がある。りんごを落としたことによって、無数のものに影響。だから、無数の原因に無数の結果が引き起こされるというのが世界の真実の姿。ここから任意に時間軸を取り出しているのだ。そこで、直線的に並べるのはやめる。いまここの点を感じる。もちろん、いまここにあるりんごっていう対象物だと、また、因果の時間直線できてしまうから、純粋にただの点だ。すると、この世界の無数の時間軸を感じられる。無数の並行世界である。ところが、この並行世界はたとえば、さいとうくんはひょっとしたらの私なのだ。だから、これは他者の心を感じることだ。ここから任意時間軸を取り出してしまうと、さいとうくんは機械論的に原子でできているようにみえてしまう。この点への集中はいわゆる荒行、瞑想でも得られるかもしれないが、仕事とか、日常の生活の意識のことだ。なにかに集中すれば、他者の心がみえてくるのだ。かって、ブッダが荒行でなく、日常の生活のなかの悟りをといたのも、そもそも、普段からわれわれは全世界の一挙感得ということをやっているからだ。



2014 12-27

志向性と時空形式についてである。われわれの内なる無意識世界。胸に手をあてて内面奥深く探る。胸毛が毛深いといっているのではない。もうひとつは、現象の向こうにある広大な宇宙。このふたつは大いなる海であり、われわれの意識はそこに発生した流れ、渦巻きに過ぎなかったというお話をしたい。

  フッサールの意識の志向性についてである。意識とは、からだのなかにあるハートの形をしたかたまりではない。常に何かを意識しているという実体のない矢印。つまりは志向性なのだ。まずは感覚的素材である音、香り、形があたえられ、これを感覚的ヒュレーという。これに意識作用のノエシスが矢印のように向かい、ついにはイメージ像、表象、意識対象がうまれる。この意識対象がノエマである。また、ジョンサールは志向性の矢印めがける志向性を内包だという。内包っていうはことばでいえば、そのことばの意味だ。

   次の話はカントの時空形式についてである。かって、ニュートン力学は時間と空間というのは、絶対的にあるものだといった。絶対空間と絶対時間である。ところが、カントは時間と空間はばらばらな感覚情報をきちんとまとめる形式であり、心のなかにあるのだといった。これが時空の形式である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   心の中には広大無辺な無意識世界があり、ここは混沌である。夢の支離滅裂さはここにある。目の前には時空形式のある現象。これを現象面と呼びたい。そして、この現象面の向こうに広大なカオスな宇宙が広がる。量子の世界であり、ひとつの電子が確率的に分身しちゃっている世界だ。

  この二つの世界はひとつだった。広大なひとつのカオスの海であり、そこに流れが生まれる。流れは実体なき方向性、つまり、これは無意識の志向性だ。二つの流れの合流、もしくは、流れていないところに流れがくるとその境界面付近に渦巻きなし流れ、ポテンシャル流が生まれるという。また、渦巻きも境界面付近で発生。この渦巻きが意識であり、ありもしない仮想の境界面を作り、これを現象面とみなしているのだ。



2014 12-28


無知の知と共感覚についてである。いくら目をこらしてもみえない、あたまをひねってもしっくりと知ることができない。それが光速の乗り物で時空が曲がるとか、量子力学の確率的に存在しちゃっている電子などだ。見えないゆえにそれはほんとうのところ自分の姿だった、という大いなる逆説をとなえたい。

  ソクラテスの無知の知についてである。デルフォイの神託でソクラテスはアテネのうちで最も賢いものとされた。他のものたちは自分はいろんなことを知っているというが、ソクラテスは自分がなにも知らないということを知っているという。これが無知の知であり、ある意味、究極の自己知でもある。

   次の話は共感覚についてである。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、という複数の感覚が混ざり合ったものだ。たとえば、ぎざぎざした音、というのは視覚と聴覚の混ざり合い。やさしい音色なんていうのは性格と音が混ざっている。いわゆる比喩になるものであり、哲学者リードにおいては常識の根本にある人類共通の共通性質、コモンセンスになるものだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   かってニュートン力学は目にみえる、感覚できるほどのマクロな物体の法則を扱った。だから、感覚的にしっくりくるのだ。ところが、現代科学においては直接的に感覚できない、間接的な観察しかできないものを扱う。量子論においては電子は確率的に存在している。ところが、ガイガーカウンターや縞模様の感光版などで間接的に知る。また、光速で飛ぶと時間空間がゆがむという相対論も直感的に理解できない。不可視、不可知なものの理論だから感覚的にわからない。かって、カントは現象の背後の本体、物自体は不可知だから、認識論も当て上げ、だから、それは実践であり、自分自身の存在だとした。つまり、不可知なものとは自分のことなのだ。無知の知、自分のことがわからないということと、不可知な世界はイコールなのだ。だから、量子の世界はじつは私の世界なのである。ひとつの電子が確率的にあるとは、私がひょっとしたらそこにいる鳥だったかも、さいとうくんだったかも、というように、すべてが自分の並行世界だったという他者の心を表すのだ。また、光速で飛ぶと、時空がゆがむのも、私自身が光なのだ。時空がゆがみ、自分の前にコンパクトに収まる。これが遠近法、パースペクティブであり、慣性系として、観測者の運動状態によって、時空がゆがむというのも、これは私自身を中心として広がるパースペクティブ、遠近法世界そのものに他ならないのだ。

  共感覚はいろんな感覚がまざったものだが、じつに、それゆえにわれわれが感じている世界は複合感覚にによる不可知世界そのものの表現なのだ。複合することで不可知世界が可知世界の現象に転じているともいえる。


2014 12-30


多元的現実と多元的草稿理論についてである。ひとつの世界のなかのひとつの意識と考えてしまう。本当のところ、複数の世界のなかにいる複数の意識を同時にやっているのかもしれない、というお話をしたい。

  シュッツの多元的現実論についてである。われわれは複数の現実世界に生きているという。しかも、意識の状態によってそれはかわる。意識がどれほど緊張しているか、判断停止っぷりはどうか、自己経験の度合い、自分をけっこう意識しているか、それとも、なにかの没頭か。時間パースペクティブといって、過去に固執しているか、未来への希望がどれくらいか。時間的な遠近法である。これらによって、現実世界は、他人とコミュニケーションできる日常現実、夢の現実、芸術、空想の現実、さらに、科学的現実などにある。現実はたくさんあるのだが、この中でも、他者とスキンシップできる日常現実は特別であり、至高の現実という。

  次の話はデネットの多元的草稿理論についてである。かって、デカルト的劇場、カルデシアン劇場という思想があった。あたまのなかに小さなな自分がいて、それが感覚情報を集めたスクリーンを見ているというもの。そうではなく、デネットはたとえば、脳細胞のひとつひとつがちがったことを主張し、そのなかで主張がぶつかりあって勝利したものがそのひとの考え、思いになるというもの。草稿とは下書きであり、下書きがたくさんあってそのなかからひとつの本番が生まれるというもの。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

      
        われわれはひとつの世界にいるひとつの意識ではない。それは氷山の一角である。多くの世界のなかにいる多くの意識、しかも、無自覚的だから多くの無意識ともいえる。地球は自己組織化の働きがあり、生命であり、われわれ生命個体は脳細胞に相当するというガイヤ理論がある。そんな地球が太陽系のなかで生活し、その太陽系への意識もある。これを並行してやっているのだ。また、宇宙と私は一体であるというが、これまた無自覚的に一体感を感じ、世界の存在感になっている。ホログラム理論のような情報が三次元化されているという世界にも自分の意識のひとつは住み、なにものかがつくったシュミレーション宇宙に住んでいる意識もある。

  時に、ある種の感情が内からこみ上げてくる。これは別の世界の別の意識からの流出であったりする。ひらめき、インスピレーションも同じだ。他の世界、意識とのエネルギーの流入、流出なのだ。これらは階層性をなす世界に階層性のある意識の多次元的なお話。ここからは多元的な世界に、多元的な意識を同時にやっているというお話へと深化させたい。

  さいとうくんの意識活動はじつは私自身もやっている。ただ、氷山の海面下であり、無自覚なのだ。さいとうくんも私の意識を遂行している。これが、互いに相手の気持ちになれる間主観性の正体なのだ。人間だけでなく、あらゆる生命個体の意識を並行して遂行中ということで、多次元でなく、多元的世界のなかの多元的意識ということになる。



2014 12-31


  パトナムの私と世界、そして、ヴィトゲンシュタインの無根拠性についてである。ここから私でこっちから向こうが世界だ、と線引きしている。かって、宇宙飛行士は地球に国境なし、といったが、主客に国境なしである。はじめに主客のひとつになった中道世界があったのだ。

   パトナムの私と世界についてである。世界は私の観念でもなく、私が世界によって作られる、つまり、原子でできているともいいがたい。パトナムは私と世界が協力しあって、私と世界を作っているという。だから、いつなんどきも、私っていうかたまり、世界っていうかたまりは出現しない。常に無数のバージョン、解釈によって成立しているという。

  次の話はヴィトゲンシュタインの無根拠性についてである。言語ゲーム論というものがある。テレビゲームよろしく、なんと言語もゲームだという。テレビゲームだとクリエーターが作者。人工言語もプログラム言語だから作者がいる、これに対して、ふつうの日常言語、自然言語は作者がいない。生活の流れから自然発生だ。前後の脈絡で意味が決まる。文脈主義ともいう。それでは生活とか、生きるとはどういう意味なのか。もはや、ここまでくると、無根拠だという。ヴィトゲンシュタインは言語ゲームのことを、理性的、つまり理屈でもなく、非理性の本能でもなく、ただ、そこにあるだけだという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    主観と客観、私と世界は卵子に受精した精子、それが細胞分裂を起こすときのようにひとつだった。それが分裂したまでのことだ。

  もしも、すべては客観的な物理世界に由来するならどうだろうか。赤い物体があったら、それに光があたり、反射して網膜に入り、電気信号に変換される。赤の波長が赤いということの根拠だ。ところが、捕食関係の青色を見た後だと赤く見えなかったりする。また、別の例だと、上下がさかさまになるめがねをかける。最初は違和感あるが、一ヶ月もすれば、上下がもとにもどったようにみえるという。このとき、めがねをはずすと、上下反転したようにみえる。要するに、上下というのも、客観的な世界が決定しているのではない。さりとて、私の観念でもない。その中間の世界なのだ。主観と客観の中間の世界、心理学者ヴァレリーがいう知覚の中道論である。しかも、この中間世界には歴史があるという。青色を見たから赤っぽくみえるなど、歴史的な流れで決まるのだ。

  この主客の中間世界における歴史。ここにすべてがあるのではないのか。外界にも、観念のなかにも、他者や私の心はみつからない。これははじめからあったこの主客未分化のたまご、中間世界にいるのである。


2015 1-2


構造主義と空隙性についてである。ぷんぷん怒っているおじさんがいる。庭先にでると、野鳥がぎゃーぎゃーとほえていた。近くの活火山が噴煙をあげ、稲妻がとどろく。すべては同じパターンの繰り返しであり、微妙にずれているだけではないだろうか。

   構造主義についてである。この世界にあるものはなんだか同じ構造してるのではないのか。かって、レヴィストロースは世界中を歩きまわり、場所と時代を超えて、あらゆる神話が同じ構造であることに気がつく。心理学者ユングもまた、集合無意識っていう同じ無意識世界に時間を越えてわれわれは住んでいるので、世界中のあらゆる時代のお話、神話は共通しているという。元型があるという。構造主義もまた、意識的、理性的じゃなくて無意識的なレベルだ。さらに、神話と数学にも同じ構造が見られるという主張から、文明の科学、未開地の神話っていう文明主義にも反対する思想だ。

  次の話は幾何学における空隙性についてである。空隙っていうのは、隙間ということ。フラクタル理論というものがある。自然界もみると、雪の結晶にみられるような構造だという。全体の形と同じ形の部分でできているのだ。自己相似系というのがフラクタルである。いろんな図形があり、フラクタルがあるが、形によって、フラクタルでびっちり充満するか、それともすかすかの隙間だらけか、というのが空隙性といわれるものだ。


   まとめ

   存在の科学


   異次元理論

   
    あるおじさんがぷんぷん怒っている。散歩にでると、野鳥がぎゃーっと大声で鳴いている。まるでさっきの鳥バージョンだ。よく注意深くしていると身近な現象に気づきがある。すべては同じパターンの微妙にずれた繰り返しなのだ。卵子に精子が受精し、細胞分裂。分裂の繰り返しだから限りなく対称性をもっている生物。それでも完璧な左右対称でないのはずれである。同じパターンを繰り返そうという軸がある。ただ、そこからずれようとする力も働く。以前話たが、発生するとき、一切の外界の影響を遮断し、収束する。そして、成長、進化のときは周囲の環境とのやり取り、学習によって同一パターンの繰り返しから離れようとする。

   このパターン繰り返しのズレはまるで剛体の力学の偏心である。物体には重さの中心、つまり、重心がある。もうひとつ、形の中心である図心がある。この重心と図心のズレを偏心といい、偏心モーメントという回転力をうむ。つまり、成長、進化においてズレが大きくなればなるほどこの回転エネルギーが大きいのだ。われわれの活動の源泉はこの元型パターンからのずれによる回転運動だったのである。


2015 1-3


一元論と意識のスペクトルについてである。世の中とはなにか。端的にいってしまうと、すべてはいまここしかないのではないか。それ以外は二元的分裂による虚妄なのかもしれない、と真剣なまなざしでつぶやいてみる。

  一元論についてである。古くはパルメニデス。あるものはある、ただこれだけである。しかも、ある、存在とは思考することといっしょ。今考えている、いま俺は存在する。これが現代においてよみがえったのがハイデガーの存在論だ。古代ギリシャにおいてはあとはプロティノスの流出説。一者というものがいて、そこから理性、秩序、世界のルールであるヌースがうまれる。そして、そこから万物が流れてくるという。近代のヒーロー、デカルトは二元論だった。心は物体とはまったく違う世界だから、物体の外から冷静に観測するという科学の見方が生まれる。現代においては心でも物体でもあるなんだか1なるものが最初にあるという中立的一元論がある。

   つぎの話はウィルバーの意識のスペクトルについてである。世界にははじめ心しかなかったという。このときの心は観念論などの心でなく、東洋思想の唯識の思想だ。心の世界からいろんなスペクトルがでてきて分光器の光のようにいろんな意識がでてくるという。まずは、有機体と無機物にわかれる。私と世界の分裂だからハイデガー思想のレベルだという。次に私はからだをもつ、というが、私と身体だ。そして、自我もまた分裂を起こすのだ。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    
     有機体である私が無機物のくるまを操作する。くるま、モビルスーツの背後には操っているドライバー、操縦士がいる。ところが、逆もまた然りである。われわれ有機体を操る無機物だ。これは無機的生命ともいうもので、マトリクスの映画のような機械によって有機体の生命が液体ケースのなかで夢を見せられている。そんな無機物の背後に有機体の支配がまたある。こうやって、無機物と有機体は互いに基礎付けあって、根拠づけている。

  人間の身体も右に同じである。有機体だけでなく、からだの中心には骨格、つまり、骨という無機物がある。さらに、その無機物のなかに髄液などの有機体だ。

   私が感じている現象とその背後にある物自体、主観と客観もそうだが、有機体と無機物もそうだが、結局は二元論的なのだ。以前話たが、多元的なものは同じパターンの繰り返し、一元論的なものにしようとするが、すべてがオリジナルからずれていて、そのずれが回転運動を起こすといった。つまり、多を一にしようとして結果的には二になっているのだ。

  すべてはひとつなのだ。最初にいまここがある。いまここになにかがあるのではなく、いまここである。これが心であり、これが二分化して、ついには、いまここの反対であるいつの日かのそこ、あそこにある。明日のそこ、昨日のあそこは永遠にたどり着けない虚妄であり、いまここしかないのだ。



2015 1-4


物自体と表象についてである。太陽の中はいったいどうなっているのか、と思い、一度、お伺いでもするならば暑くてたまらないおもいをするであろう。太陽のなかの科学的解明というのがあるが、これを見るにまるでひとの脳であり、そこにカント哲学の考えが適用できちゃうことがわかってくるのだ。

   カントの物自体についてである。われわれは現象界をみている。りんごがあり、かじると歯型がつく。かじったのが原因で、歯型は結果だ。こうやって現象界は因果律に支配されている。ところが、りんごそれ自体、物自体はみえない。認識できない限界だ。しかも、物自体は因果律なんてないので自由意志だ。認識できない物自体、認識じゃなくて実践なのだ。私の自由意志の実践が物自体だったのである。

   表象についてである。カントにおいては表象世界とはどっちかという現象界だ。また、感覚的印象を組み合わせたイメージ世界とでもいえよう。かって、ボルツァーノは表象自体という考えを提唱。この地球の水分子の数は数えたものがいない。実際に見たものもいないが表象自体としてはあるという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   太陽のなかはどうなっているのか。中心部で核融合反応。そこから光の粒である光子が飛び出す。ところが、プラズマ帯域からなかなか逃れられない。プラズマとは物体の相転移のひとつ。個相は水ならば氷。液相は水。気層は水蒸気。そして、さらに熱すると、原子核と電子が離れて、電子が自由に動きいと回るプラズマになる。このプラズマ帯域で、光子がプラズマの電子につかまる。ラグビーボールのようにいったりきたりと、いろんな軌跡を歩む。約100万年そこからでれないという。このあいだに、光は無数の形、色の表象世界をつくる。つまり、走馬灯のように、あらゆる事象のイメージ、表象を実現する夢のなかのようなもの。この表象の構成要素である光子がやっとねけだし、高熱をねけるまで減速するという。そしてついには太陽から出て地球などにむかって、地球の生きとし生けるものをはぐくむ。以前、プラズマとは生命の意識活動だといった。太陽は表象を思い描く巨大な脳であり、表象の先に物自体があるとおもいきや、こんどは光子が太陽の手足になって地球などの生命活動維持という実践へと向かわせるのである。

  人間の脳においても、プラズマ状態で、電子が行き交う。ここに表象世界、現象界があるが、この先は表象の構成要素である電子、光子が神経を伝って手足を動かし実践にうつるのである。


2015 1-5

自然の斉一性と実在論についてである。太陽と私と原子核の三者関係。ここになんとも、世界の見え方をチェンジする切り替えスイッチがあったとはだれしも想像だにしなかった。

  自然の斉一性についてである。昨日の起こったことはおそらく明日にも起きる。未来っていうのは過去に似ている。いつのときも均一で大差なし。ここで起こっていることはあそこでも同じだ。空間的にも、どこも似ている。これが結局、帰納法の大前提になる。いままで太陽は東から昇ったんで、明日も東から昇ると。ところが、逆もまた成り立つという。なんと、帰納法から斉一性を証明するというのだ。

   次の話は実在論についてである。いろんな実在論がある。ものが実在しているんだよ、という主張だ。すべては原子でできているという原子論的実在論、または、唯物論的実在論。あとは、見たまま、そのとおりにものは実在しているという素朴実在論。カントは感覚で感じ取った、経験したものが実在だという。経験、感覚のないものはすべて観念だという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   前回話たが、太陽の内部は核融合反応し、光子が放たれるが、中間のプラズマ帯域で自由運動する電子につかまっていったり来たりとそこを通過するのに100万年かかるといった。そして、そのあいだに光子は無数の軌跡を描き、これがあらゆる事象のイメージ、表象となって実現される。太陽は表象空間にあらゆる事象を思い描いているといった。光子がやっとここから脱け出し、つぎは高熱の領域で速度を落とす。光速度不変だから、時空がゆがむのだ。

  さて、原子核のなかには陽子と中間子があり、このなかにとらわれた粒子は引力と斥力によって脱け出せないという。そして、ついには加速されて光速度に近づき、時空をゆがめる。

  人間の脳もまた、一種のプラズマであり、電磁パルスの電子、光子が吸着、離散しあって、イメージ世界、表象世界になり、この中のひとつの電子なりが飛び出し、手足の神経を刺激し動かす。天には太陽、地には原子、つまり、原子核とみなすと、天と地、そのあいだの人との関係。この三者が互いに時空のゆがみを一致させたとき、それはこの世界がムラだらけにみえる。ざっくり、テーブル、すいか、椅子、というように離散的、非連続的にみえて、いわゆる日常世界、素朴実在論の世界だ。ところが、この世界を巨視的にみると、テーブルに対する反テーブルというのはおかしな話だが、すべてが相殺して何事も起きていない静寂でしないといった。この境地になるのが、太陽と原子核と脳の時空の調和がこわれたときだ。その代わりに、眼前する世界が調和するのだ。このすべてが均一、一律という、いわば、斉一性の科学的世界が現れるのである。

  
posted by モノイイ ジョーカー at 13:32| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 2015 1−5 2 

2014 11-20


反転と観測効果についてである。私が逆立ち、ひっくり返るとびっくりになる。びっくりとはひっくり返ってびっくりしたうえ、なにかをそのように存在させる力なのだ。わけわからないことをいっているようだが、この世界の成り立ちの根本には反転しちゃって衝撃のあまりエネルギーを放出というシステムが潜んでいる。

  メルロポンティの反転についてである。すべては同じ構成要素でできているという。その名も肉である。椅子も机も私も肉できているおう。しかも、すべてがつながっている。私が椅子を見ている。見ているものと見られているものはつながっていて、溝で仕切られているだけである。だから、反転するのだ。私は椅子になったつもりで椅子を感じ、こんどは見えているものと見えないものが反転する。そうすると、椅子の見えないもの、つまり、意味を汲み取ることができるのだ。

  次の話は観測効果についてである。達磨転んだよ、と観測し、見ることでじーっとしている友人の顔がこわばる。見ることによって、対象のふるまいをかえてしまう。電子をみるときは、光をあてるので、当然、光の影響を受けて正しく見れない。

  まとめ

   存在の科学

   異次元理論

   私は英語ではI。小文字ではiであるiをひっくり返すと、!マークである。!マークとは驚き、ビックリ、衝撃だ。私はさまざまなものをみる。森のなかで木々をみて、同時に木々から見られる、視線を感じる。量子の波動は見られることで収束、収縮し、粒子になる。私の肉体は見ているものたちによって見られているからだ。また、りんごを見ている対象意識。自己意識とは、意識している自分と意識されている自分に分裂している。じつに、意識されている自分から同時に見られている。これによって自己意識が生まれる。これらを反転インパクトと呼びたい。反転インパクトは無からうまれ、無へ帰したり、生と死についてもいえる。これらは反転インパクトで存在しているのだ。

  この世界は最小単位のクォークでできているのでなく、ハイゼルベルグのいうS行列理論なのかもしれない。すべての粒子は互いに衝突して別の二つの粒子になる。こうやって最小構成なんてなくて、すべてがちがった粒子を連鎖的生み出す過程でしかない。宇宙の網、これをコズミックウェブという。粒子同士の衝突また、新しいものを生み出す反転インパクトである。作用と反作用なのだが、これが反転しあうのである。

  観測効果というが、観測とは衝突であり、ここでも反転インパクトがあり、互いに新しいものとして存在させられるのである。二つの粒子の衝突による新しい二つの粒子の生成と同じなのだ。



2014 11-21

プロセス神学、単一性、そして、単独者についてである。最小単位というものを設定する。それ以上、小さいものはNGとなる。なんと驚くことに、最小単位は別次元によって作られ、しかも、あらゆる単位系はそもそも単位系じゃない無次元の世界のうえに成り立っている。

  ホワイトヘッドのプロセス神学についてである。この世界は事物っていうかたまりでできているのでなく、岩石につまづいてホームベースにヘッドスライディングというようなささいな出来事、事象の集まり。しかも、事象っていうのは同じことがおきない。これを事象一回性という。さらに、すべての事象によってひとつの事象が、その事象によって宇宙全体が動かされる。この世界には主語がないという。斉藤くんは走る。斉藤君は主語、走るは術後だが、すべてが述語だというのだ。斉藤君やっているという述語なのだ。すべてがすべての述語になっているというプロセスである。これが神学に適用されて、神様は創造プロセスだという。だから、悪は駆逐されないが、善そのものであるという。


  次の話は単一性についてである。カントのカテゴリーにおいて、単一性とは分割できないもの。数多性とは、ひたすらいっぱいあるもの。これをくみあわせてなにかがいっぱいという総体性になる。

  最後にキルケゴールの単独者についてである。真理はヘーゲルがいうようななんでもあてはまる普遍的なものじゃなくて、あれはできるけど、これはできないという有限性、個性だという。万能なのは神様だけだ。無限者の神様と有限でちっぽけな個性的な私。自分らしくあることがむしろ無限者、宇宙のもとにいられるのである。この唯一無比の自分が単独者である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論  

    長さや重さには単位というものがある。単位を決めたらそれ以上小さなものはNGである。同じディメンション、次元でなく、別次元のものがその単位構成要素であり、これは計算者が単位を設定したときに計算者を媒介として他の単位系につなげるのである。これら複数の単位系がシートのように重なる。この全体はもはやどの単位系でもなく、単位のない無次元性である。係数や比率だけの世界だ。人工増加率というが、前年度、今年の数出なく、最初に単位のない無次元の比率があるのだ。こうやって、長さのない次元、トポロジーといって、長さがない形だけを扱う幾何学があるが、すべてはトポロジカルな思考が最初にあるのだ。

  すべての単位系はじつにあらゆる次元性とつながる主体性なのだ。計算者が最小単位を設定したとき、主体性が剥奪されて単位になる。万人を同じ単位の集まりとみなす、レヴィナスがいう政治的存在論。すべての単位は主体だったのである。


2014 11-22


存在地平と実存についてである。この世界は夢幻か、と仕事中につぶやく。現実逃避か、はたまた、転寝中の寝言だったのか。すべてが自分の心のなかの現れというのが、いわゆる唯識の思想だ。これを科学的に論理的に解明したいとおもう。

  ハイデガーの存在地平についてである。前期ハイデガー思想において、人間を現存在と名づけたハイデガー。自分がいるなとか、世界があるな、という存在感のなかにいる。存在そのものはどこからきたのか。それは自分が自分自身から脱け出そうとする脱自からだという。このとき、自分の存在そのものの地平線がみえちゃう。このときの存在地平とは、もはや、私の存在、世界の存在っていう仕切りがない。自分が自分自身から脱け出すというのは自分とのズレ、これを時間地平という。時間地平によって存在地平、そして、この存在地平のうえにりんご、みかんという存在者が現る。

  次の話は実存についてである。実存っていうのは、自分の存在だが、これは荒唐無稽でとらえどころがない。自分が自分自身にかかわっているから。サルトルは対自存在とよぶ。ふつうに考えると、私の存在は万物の法則があって出現したと考える。本質があって存在していると考える。そうではなく、そんな法則、本質ですら、自分がいないとまったくもって意味ない。まずは、本質に先立って、不定形な自由そのものの私がいる。これが実存である。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  ハイゼルベルグの不確定性理論というものがある。どっちの方向にどれくらいの速さで動いているか、という運動量。そのものはどこにあるのか、という位置。運動量がわかれば、位置がわからなくなり、位置がわかれば運動量がはっきりしないというもの。科学は不確定なものを扱い、近似値でそれに対処する。厳密解だと、すべてはあいまいでぼやけてしまう。

  ハイゼルベルグは後にS行列理論を提唱。この世界は同じなにかひとつでできているという還元主義を批判した。古くは古代ギリシャ哲学。すべては原子でできているとか、四元素でできているなど。現代ではすべてはクォークでできているという理論がある。そうではなく、いろんな粒子は互いに衝突すると確率反応によって二つの異なった粒子に分裂するという。かとえば、K粒子がπ粒子と衝突して、A粒子とB粒子になるとか。なにになるかはわからない。確率反応という。ハイゼルベルグのS行列理論を継承したのが、チューという科学者のブーツストラップ理論。靴紐をよわいているときに、これを持ち上げると、自分自身が浮いてしまうということから命名された。すべての粒子は自分自身であろうとする。これを自己調和という。自分にかかわるが、すべての粒子のなかにはすべての粒子が潜在的に含まれている。K粒子の中にはπ粒子、ニュートリノ、いろんなものが含まれる。これが衝突が起きたときに、偶然的に自分のなかの別粒子に変化する。世の中にはこれですべてができているというものはない。おのおのの粒子はおののの粒子を含んでいるからだ。いろんな粒子に分裂して網の目のようになるからコズミックウェブという。 

  そもそも、自分にかかわり自己調和しようとするものは、すべてを自分のなかに含むから、傍目から見れば曖昧模糊としている。ぼやけているのだ。これはまるで実存であり、対自存在、自己意識、自由意志だ。自分にかかわっているものはあいまい、不確定だ。とりわけ、K粒子などは原子核を構成するハドロン粒子。だから、ハドロンブーツストラップという。ところが、光はフォトンでできているが、フォトンブーツストラップだけがちがう。衝突のときに膨大なエネルギーを放出するハドロンに対して、光はエネルギー放出が小さく、しかも、変化しない。連続的に変化するだけだ。まるで紳士的なふるまいなのでジェントルイベントという。これが時空という連続性を生んでいるという。時空には因果律とか、連続性、飛躍、でたらめがない。この時空のなかにハドロン粒子があるのでなく、全体のなかのひとつがたまたまフォトンブーツストラップなのだ。光と時空はセットであり、光速度不変で時間と空間は相対的という相対論、これは光と時空をセットとみなす。この光のスクリーンにハドロンブーツストラップが投影、映し出されると、さまざまな偶然的な事象が現れる。これが世界なのだ。そして、ハドロンブーツストラップが自分自身にかかわる自己意識の心、フォトンは連続的なきれいなスクリーン。心が光のスクリーンにうつったのが世界の事象なのだ。さらに、この光のスクリーンはなにかといえば、光は電子のメッセンジャー粒子。電磁気波長によって人間、生命の肉体は神経情報伝達を行う。つまりは、肉体の神経系が光スクリーンになって、心のハドロンブーツストラップを映し出し、外界の現象にしているのだ。

  原子も同じ構造をしていた。原子核はハドロン粒子が四つの力のうち、強い力でまとまっているもの。原子核のまわりには電子が雲のようにまわっている。電子は光と同レベルだ。だから、電子のスクリーンに原子核のハドロンブーツストラップを映し出し、原子核はおのが内面を電子スクリーンに映し出して、外界だと称している。おそらく波長の違いで原子は生命にみえない。過去や未来、別並行世界の生命個体の意識かもしれないが、たまたま、それが生命に見えていないだけだ。すべての原子は生命意識だったのである。


2014 11-23


メタ理論とパラドクスについてである。この世界はすべてが秩序があり、論理的にきっちりとできているのだろうか。システムエラー、論理的な整合性が壊れちゃったもの、ここに感覚、感情、クオリアがあるのだ。

  メタ理論についてである。言語があり、これについて語る、上から目線的な言語、これがメタ言語になる。山本さんが斉藤さんとピクニックにいったんだよ、と佐藤さんが語った。佐藤さんは山さんたちといっしょにいないところで第三者的に語っている。メタ言語である。メタ言語、メタ理論について云々してしまうとメタメタ言語になってしまう。

  次の話はパラドクスについてである。クレタ人はうそつきだと、クレタ人がいった。クレタ人が正直者だったら、かれにいっていることは本当なので、クレタ人はうそつきという言い分が正しくなる。もし、うそつきならば、クレタ人はうそつきだという主張はうそになって正直者になってしまう。うそか本当かわからないパラドクスである。

  現代においては集合論のラッセルパラドクスがある。集合というのは、みかんはフルーツ集合のメンバー。フルーツは食べ物集合のメンバーというものになる。集合論では絶対に矛盾する禁じ手がある。自分の集合に自分のメンバーはだめなのだ。これを自己集合という。さて、すべての集合を含む集合をラッセル集合、R集合と名づける。R集合はすべて含むのだから、R集合も含まないといけない。ところが、そうしてしまうと、自己集合の矛盾になってしまう、というパラドクスである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   この世界は論理的に矛盾のない整合性のある世界なのだろうか。そもそも、感覚やなにかを感じるというのは差異があるときだ。白い壁だけでは差異がないので認識できない。黒い壁、天井、冷蔵庫と差異があるから認識できる。差異を生み出すのは矛盾である。トイレのスイッチをオンにすると電球が点く。オフだと消える。スイッチをリレーというが、その回路はなにも変わらない。電球が点るとは論理階梯、論理レベルが違う。それなのに、この論理レベルの違いを無視して同じ論理レベルに押し込むと矛盾がうまれ、果ては差異が発生し、感覚が生まれる。ラッセルパラドクス、うそつきパラドクスを一点に凝縮すればそれは感覚、感情になる。

  クオリアは感覚だけでなく、表象、知覚も含む、感じること自体。これは形式論理的な矛盾による差異発生だけでなく、様相論理、多値論理、可能世界論的な矛盾が生むものだ。白い壁があるが、これは潜水艦だったかもしれないという可能世界、天井だったかも、という可能世界といっしょに同じ論理世界に押し込めたとき矛盾とともに、差異がうまれ、表象認識につながるのである。


2014 11-24


ハルトマンの存在階層性とラブジョイの連続性の原理についてである。われわれの意識とはいろんな次元の交差点。もはや、次元の上下関係を超えた、ありのままの超生な世界だったのだ。

  ハルトマンの存在階層性についてである。カントはたとえばりんごを認識するときに、先天的にはじめからもっていたカテゴリーというもので、感覚情報を整理整頓していると考える。どれくらの大きさか、という量のカテゴリー。質のカテゴリー、りんごとみかんの関係という関係のカテゴリー。りんごは可能性なのか、現実にあるのか、必然的にあるのか、という様相のカテゴリー。ハルトマンはカテゴリーは認識のためだけでなく、存在するためのカテゴリーだとした。実体のない理念的なもの、数の3とか、三角形というような理念的カテゴリー。実際に、時空に存在している世界、実在的カテゴリーである。そして、この世界のあらゆる存在は階層になっているという。一番下のレベルが石ころなどの無機物、このうえに有機体、さらに生命ときて、最上位に精神があるという。

  次の話はラブジョイの連続性の原理についてである。この世界はすべてが連続しているという。とりわけ、正反対のものも連続してるという。動いているものととまっているもの。とまっているとは無限に小さな動き。等式と不等式。イコールっていうものは無限に小さな不等だという。無限をはさめばすべてが連続だ。

  まとめ

 存在の科学

  異次元理論


    すべてはヒエラルキー、階層になっている。たとえば、人体の例にすれば、胃袋は細胞でできている。細胞は部分で、胃袋は全体。ところが、人体を全体とすれば、胃袋も部分だ。これはホロンという思想だ。胃袋は二つの顔をもつ、後頭部に顔をもつ二面の怪獣をヤヌスという。全体と部分に対して、おのおの顔をもっているのだ。こうやって連鎖的にヒエラルキーになる。

  言語も最初は非実体の概念、文法、構文ときて、ついには声帯をふるわせて音声になる。より実体してゆく。ここにもヒエラルキーがある。原子、分子、石ころ、地球、太陽系、だって大きさのヒエラルキーだ。空間的大小は典型的なヒエラルキー。時間もまた、瞬間から厚みのある時間へと階層になっている。気温、熱量、運動量、すべての次元がヒエラルキー。実体的な肉体から非実体の心もヒエラルキーかもしてない。そして、これらの無数の次元を軸にすると、空間軸、時間軸、言語の軸、肉体の軸、などが一点で交わる。ここに精神、クオリアがあるのだ。だから、クオリア、感じることは上下関係、ヒエラルキーがない然りの世界である。


2014 11-25


悟性と事行についてである。失敗は成功のもと、といわれて上司や先輩に肩をたたかれる。失敗はむしろ成功そのものっていうことはないだろうか。宇宙のシステムエラーという失敗が意識、心を生み、これを清算するために科学がうまれ、ついには新たな世界がその先にあるのかもしれない。

  カントの悟性についてである。色、形、音、においという感覚をまずはまとめること。生まれながらにしてもっている整理整頓箱がある。それがカテゴリーだという。量的にどれくらいかという量のカテゴリーをはじめ、質、関係、様相のカテゴリーだ。これが悟性能力であり、感覚、経験に基づいて云々考え、判断するから科学的思考でもある。ここに規則性があるという。理性というのはもはや感覚なしで推理して見えない神様、自由意志、宇宙、魂について考える能力。理性能力には限界があるという。

   次の話はフィヒテの事行についてである。ふつうに考えると、きゅうりがあって、それが事実。きゅうりが走ったり、転がったりするのは行動。そうではなく、きゅうりはきゅうりをやっている、事実とはもはや行為、行動だというのが事行である。

  まとめ

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  異次元理論

  宇宙は光によってうまれた連続的な時空。以前はなしたが、フォトンブーツストラップだから、光子は光子とぶつかってふつうに光子と光子になる。これは時空連続性であり、ジェントルイベントとよんだ。ここにエラーがうまれる。これが原子核を構成する粒子によるハドロンブーツストラップ。自分自身が存在しようという自己調和によって、自分にかかわる。はたからみると、自己関係しているものは不確定であいまいにみえる。生命の自己意識も同じだ。この宇宙の根源的な失敗、エラーを原失敗と名づけたい。かって、キリスト教において、アダムとイブが楽園で知恵の実をたべてしまい、神様から追放されたのが原罪とよんだ。これを後にイエスが十字架にかけられることで贖う。人類の罪を背負ったのだ。宇宙における原失敗は科学によってフォトンブーツストラップの秩序ある世界に引き戻された。そして、科学技術によって原子爆弾が作られ人類存亡の危機になるのか。キリスト教においては最後の審判、天の国といわれている世界観の大変革が待っているのかもしれない。

  科学者ボーアは内蔵秩序という思想にめざめる。すべてのもののなかにすべてがある。円筒のなかにグリセリンをいれる。そのなかに小さな円筒がはいっていてそれがまわる。グリセリンにインクを落とすと最初は点であり、線になり、グリセリン全体に消えてゆく。こんどは、この小さな円筒を逆回しすると、なかったインクの線があらわれ、ついには点になり、消える。つまり、グリセリンのいたるところに、インクの情報がったという仮想実験だ。この内蔵秩序がフォトンブーツストラップによる時空スクリーンにうつったものをわれわれはみている。そうではなく、この内蔵秩序そのものを記述する言語があるのではないかと考えた。科学はふつうの日常言語によって語られるが、日常言語の欠陥を継承している。主語と動詞と目的語だ。これが先入観になって内蔵秩序が見えなくなる。これに変わる新しい言語をボーアはレオモードと名づける。これはすべてが動詞なのだ。アンパンが主語になって甘いのではなく、アンパンやっているという動詞にするのだ。


2014 11-26


因果規則性説、そして、ロゴスとアナルシーについてである。体や物体はなにかの影ではないか、と神妙な面持ちでつぶやく。すると、心、意識もまた影ではないのか、と思いたくなる。すべては特殊なスクリーンに投影された影だった。

  因果規則性説についてである。イギリス経験論のヒュームは原因と結果の因果律というのは、ただの習慣だといいきった。このボタンを押すと、ままで習慣的に音がでるんだ、というもの。これを現代版にしたのが因果規則性説。風邪をうつされたという。生理学、病理学という規則のもとに、Aさんが原因になる。じつは、世の中は無数の原因があって、無数の結果を引き起こしている。Aさんといっしょにいたのは仕事が原因だ。そもそも、私がいるのは様々な原因による。ルール、規則がないとひとつの原因に対してひとつの結果というようなはっきりなものが見えてこない。

   次の話はロゴスとアナルシーについてである。論理的、理屈、言葉というのがロゴス。ロゴスはロゴスによって支えられているのか。そうではなく、ロゴスではないものが土台になっている。それが混沌、でたらめであるアナルシーである。レヴィナスの思想であるが、ヤスパースもこれに近い。戦いながらの愛が根底にあるという。ニーチェはロゴス、秩序の神様であるアポロンが世界を制覇していたのだが、混沌の神であるディオシノスを復活させた。

  まとめ
  
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  異次元理論


   原子核を構成するハドロン粒子はトリッキーな動きをして因果律なんてない。A粒子のなかには無数の粒子が詰まっていて、自分を調和させようとしている。それがB粒子とぶつかったとき、確率反応で何と何に分裂するかわからない。ところが、光はフォトンであるが、フォトンブーツストラップはちがう。連続性をもっている。フォトンとフォトンの衝突で膨大なエネルギーは放出されず別粒子にならない。つまり、時空の連続性をうむ。生命のからだは神経の電気信号。電気は電子、フォトンだ。フォトンのスクリーンにうつしだされたハドロンブーツストラップは世界なのだ。そして、物質世界、身体でもある。

  心、意識は体を動かす。これはカオス理論は関与する。カオス理論は天気予報からうまれる。雲の動きはニュートン力学の決定論からわからない。無限小数を切り捨て、四捨五入してまるめこむ。近似値なのだが、これが時間経過でつもってきてついには大きな雲の動きの違いになる。これを初期値敏感性という。この丸め込みをやっているのがいる。これが光速を超えたタキオン、もしくはスーパーブラディンである。かりにタキオンだとして、タキオンブールストラップが作るタキオンスクリーンに映りこんだ影が意識なのだ。フォトンスクリーン上は感覚に基づいた規則性があるが、タキオンスクリーンには感覚でなく理性、原理がある。因果的規則性がフォトンならば、自由的原理性である。

  これらを単純にまとめるとこうなる。光より遅い粒子はタージオン。タージオンの影はふつうの影。フォトンに移りこんだ影が物質、身体。そして、タキオンに移りこんだ影が自由意志、心、意識なのだ。



2014 11-27


超弁証法と心身二元論についてである。この世界は生命と非生命の全体である。これは単純にいってしまえば、白い壁であり、よくみるとそこに凹凸やムラがあるのと同じだというお話をしたい。
   メルロポンティの超弁証法についてである。弁証法というのは、古くは古代ギリシャのソクラテスからはじまる。弁証術である。対話は議論とちがって互いのなかから良いものを取り出し、互いに高めあうことだという。近代にはいってヘーゲルは、この宇宙は矛盾しあうもの同士がぶつかって対立し、ついには互いにたかめあって融合することを弁証法とよんだ。現代におけるメルロポンティは、このヘーゲル弁証法を死せる発酵をやめた弁証法とよぶ。真の弁証法は、コインの表と裏のように、互いに回転しあうのであって、表と裏が合体融合するものではないと考え、これを超弁証法と名づけたのだ。

   次の話は心身二元論についてである。心とからだは別世界のものというデカルト哲学。物心二元論といえば、心と物の世界はちがう世界というもの。これに対して、心と物ではない何かが最初にあってその二つの側面だというラッセル中立的一元論や、観念でも実在でもないイマージュがあって、これが流れ、文脈のなかで実在っぽくなたり、観念っぽくなるというイマージュ一元論などがある。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 
  生命とはなにか。生命はエントロピーを減少させるもので、これをシュレディンガーは負のエントロピーを食っていると表現した。また、散逸構造論などでは、ブリコジンが生命定義する。世界は均一でまとまりがある平衡関係。これは動的平衡などもある。個々はばらばらでも全体では平衡だというもの。もう偏り、いびつである非平衡関係。さらに、世界の分け方として、開放系と閉鎖系がある。開放系は外の世界に開いている。閉鎖系は閉じていて自己完結だ。これらを組み合わせたとき、生命とは開放系的非平衡関係だという。外界と情報のやり取りしつつ、つねに非平衡だから活動しつづける。この反対が物理的宇宙であり、これは開放的平衡関係。このふたつは互いに旋回運動しているのではないのか。また、閉鎖系的平衡関係がボーアがいうすべてのなかにすべてが含まれているという内蔵秩序。閉鎖系的非平衡関係が意志であり、心、意識ではないだろうか。

  心と宇宙、神秘と物理宇宙、これらは互いに互いの構成要素であり、旋回運動をおこす。心身もそうである。心は物体から、物体は心からできている。そして、回転するのだ。白い壁があり、これは平衡関係だが、よーくみると、非平衡的ないびつ、かたよりのあるムラや凹凸がある。全体と部分が回転することで、調和している。


  もうひとつ、物質と生命のコンタクトについて話したい。生命との接触はジェスチャーで威嚇や愛情を伝えることができる。これはメッセージである異種間で同じコードを共有しているからだ。これをメタメッセージという。ところが、物体は話しかけても応答しない。共有するメタメッセージがないので、これを帰納と演繹によって製造するのだが、これが科学法則になるのだ。




信仰哲学と二項対立についてである。眼を閉じて瞑想し、目の前のバナナと一体になるのでなく、宇宙と一体になる。このとき、いろんなものがひとつになるが、天地を一体にすることが難しい。左右と天地一体の宇宙論について考えたい。

  ヤコービの信仰哲学についてである。信仰といっても、神様だけでなく、日常のなかに信仰があるという。そこにサンダルがあるという強い信念。そこになにかがあると信仰している。


  次の話はデリダの二項対立についてである。世の中にはいろんな二項対立があるという。男女、上下、左右、内部と外部、精神と肉体、心と物理宇宙、音声言語と文字言語などだ。これらの対立の一項目が特権化されているという。じつは一項目のなかに二項目が潜んでいた。音声言語は自分で直接聞き取れる。これを私は私だ、と自分に現れるので自己現前といい、西洋形而上学の特徴。ところが、私は私だというとき、すでに他人なのだ。音声のなかにも文字的な要素が潜んでいたという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  
    瞑想のとき蓮華座で手を合わす。左右対称、左右を一体にする。上下m天地、あたまとお尻は一体にできない。あたま、天は男性原理であり、太陽は光を放つ。光は認識であり、あたまで理性的に認識だ。大地の側は女性原理であり、理性でなく、理不尽な感情。そして、光ではなく、重力の中心だ。

  われわれは地表をうごき、左右を一致させるのはたやすい。前後も移動できる。ところが、天地の一体ができないでいる。光と重力の一致。

  ブレーン宇宙論において、このわれわれの住む四次元時空が五次元にはたくさんあるという。ブレーン、すなわち、膜のようにいっぱい並行時空がある。四次元ブレーンを通過するのが重力子であり、それゆえ、ほとんどの力をブレーン上に残さないので、重力は四つの力のなかでできわめて小さい。光、光子はブレーン上を移動するので、いわゆる電磁力は強い。つまり、光子と重力子、フォトンとグラビトンは五次元においては同じもので、ただ、ブレーン上にいくか、ブレーンを横切るかのちがいである。五次元意識レベルにおいて、天地は一体になるのだ。そして、天と地、理性と感情、感覚は悟性ではなく、信仰において一体になるのだ。五次元信仰である。



2014 11-29


世界と中庸思想についてである。街中を歩いていると、日々の変化を実感する。先日まであったラーメン屋がもうなかったり、そこにマーキングしていたゴールデンレッドリバーはいまはいなかった。世の中は徹底的に変動しているのだが、科学の法則、果ては数学論理の世界ですら変動しているというお話をしたい。

  世界とはなにか。古代ギリシャにおいて万物流転説をとなえたヘラクレイトス。すべては水の流れのように変化しているという。変わらないものっていうのは幻影だという。中国盤古思想において、陰陽によって世界はうまれ常に変化しているという。世界は創造されたとか、あるとかではなく、常に成るものだという。現代においてはフッサールは、世界を固定してみる世界定位をやめちゃう。すると世界はみえるみえないのぎりぎりの世界地平でしかなく、あとに残るのは名もなき私っていう存在だという。このフッサールに反対したのが、すべて世界観っていうのは時代に制約されているというディルタイ。世界観学という。また、フッサールもそうだとが、われわれが見えている世界はすでに言語とか、枠組みによって加工し、自分が加工した世界にいるという。そうではなく、真実の世界は未加工の生の存在、野生の存在だという。

  次の話は中庸の思想についてである。真実に生きるとは真ん中に生きることという思想。古代ギリシャではアリストテレスの中庸思想は、過ぎるも足りなさすぎもよくない、中間がいいという。

  まとめ

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  異次元理論


  パブロフの犬の実験において、ある種の刺激を与えると犬は反応する。学習させるとき、犬自身に規則性を作らせるのだ。この規則性に当てはまらないことをすると、神経症になるという。自動車の運転でも、交通ルールは強制的な規則だとして、そうではなく、アクセル、ブレーキ、くるまの流れなどから自分のなかに規則性を作る。生きるとは常に規則性を自分で作ること。秩序を生み出すことがエントロピー減少だ。生命はフリーエネルギーを吸収し、自分のなかに規則をつくり、エントロピーを減少させ、排泄するときはエントロピーを増大させる。エントロピー増大が排除できないであらわれたのが理不尽な感情かもしれない。多かれ少なかれ、時間的スパンの長短はあるが、この地球も、太陽系、銀河系もまた、エントロピーをゆるやかに減少させる。ところが、宇宙全体は膨張しているのでエントロピーを増大させている。秩序を無秩序化しているのだ。このエントロピー増減の中間があるはずだ。構造力学でいえば、梁の下側は引っ張り、上側は圧縮、その中間は圧縮も引っ張りもない中立軸。この中立線、中間領域がある。ここに、変動しない不変的な世界があり、1たす1は2、数学物理法則の世界がある。

  さて、この中間世界は中庸的であり、変動しないとおもわれるが、無限時間経過において変動する。すべて論理的に可能な世界、並行世界がる空間が論理空間という。論理空間のなかにすべてがあるが、ここには数学、物理法則がちがう世界もある。この論理空間の満たされていない世界に変貌しながら中立線といわれていた世界は変動をこうむるのである。



2014 11-30


機械論とプロセス神学についてである。ある昆虫はからだの形を変えて進化する。これは成長であり、進化だ。芋虫が蝶になり、ひよこまんじゅうはにわとりまんじゅうになる。人間もまた、同じ種であるゆえ見えないのだが、じつは飛躍的な成長、進化を遂げているのではないのか。

  機械論についてである。機械論といったら、動物は機械だ、といったデカルト。精神の世界と物体の世界のふたつがあって、肉体は物体だとし、精神のない動物はロボットとみなす。人間も機械だというのがラメトリの人間機械論など。これに対して、カントは部分を集めてプラモデルのように全体をつくるのを構成原理。機械は構成原理だ。ところが、有機体や芸術は、部分の集まりじゃなくて、はるかかなたからの力でできている。むこうからやってくる圧縮するような力、これが統制的原理だという。

  次の話はプロセス神学についてである。ホワイトヘッド哲学を神学に取り込んだものだ。この世界はかたまり、粒子でできているのでなく、出来事でできているという。しかも、太郎くんっていう主語があって、走る、食べる転がる、という述語がくっつくのではないという。この世界に主語なしという。すべてが述語なのだ。太郎くんやっているのである。すべての述語がすべての述語を修飾する。こうやって、まるで世界は有機体のようにすべてが関係しあい、活動し、プロセスだという。

 神さまもまた、世界を作った創造者でなく、プロセスだという。ただ、善そのものであり、プロセスゆえにすべての悪を根絶できないという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  われわれはフリーエネルギーである食物を食べて、このエネルギーで秩序を生む。エントロピーを減少させ、環境に適合するために規則をつくる。くるまの運転でも、流れによってブレーキ、アクセルというパターンを作る。エントロピーを減少させたので、エントロピーが増大する分解者、さらに排泄もある。エントロピー増大が排斥できないで残ったものは理不尽な感情となってあらわとなる。

  環境に変化にともなって、自分のなかの規則が適合できなくなると更新、変行がなされる。自分と環境のギャップ、ゆらぎを解消するのだ。こうやって、常に自分がいるのでなく、成っているのだ。動的な活動のうちに構造があって、じーっとした構造体ではない。

  蛇口の水も最初は乱流。それが一定時間すぎると、穏やかな層流になる。蛇口をひねってもっと水圧をかけると、ゆらぎが大きくなって、乱流になり、また、規則性をつくり層流になる。人間も同じなのだ。


  さて、環境とのギャップ、ゆらぎが大きくなると大きな乱流になり、生命が危機的状況になる。このとき、大幅に自分のなかの規則性を変えないといけない。これが進化、成長なのだ。

  芋虫は動物もおなじだが、羽がないから葉や地面を平面移動する。二次元行動空間だ。環境とのおおきなゆらぎによって、芋虫はついにはさなぎになり、羽が生えた蝶になり飛び立つ。三次元のz方向に移動できる羽を得るのだ。

  芋虫にはそれが認識できない。人類も同じ種の進化を俯瞰してみれない。人間もまた、大きなゆらぎによってさなぎになり、ついには羽をもつのではないか。そして、幼虫のとき三次元移動がふつうにできていたので別の次元へと飛翔する。四次元は時間軸なのでスキップするとして、五次元の軸に飛べる羽を持つのだ。いわゆる常識的な生死を越えてわれわれもまた大いなるプロセスのなかにいるのではないのか。


2014 12-1


相互作用と否定についてである。ポコポコと音を立てて破裂する。あっという間にたくさんのポップコーンができあがる。そんなポップコーン製造現場をみたとき、これはまさしく宇宙であり、意識の構造をあらわしているのだ、と確信めいた考えが思い浮かぶ。

  カントの相互作用のカテゴリーについてである。カテゴリーっていうのは、何かを認識、判断するために使われる箱のようなもの。このなかに物事の関係を掴み取る整理箱、関係のカテゴリーがある。その内訳は、実体のカテゴリー、因果性のカテゴリー、そして、相互性のカテゴリーだ。相互性とは相互作用、つまりは、作用反作用の法則。座布団に座ると、座ったのが原因で尻型にくぼんだのが結果。因果性が成り立つ。ところが、よーく、尻ではなく両者の関係をみると、くぼんだから尻があるともいえる。互いに原因でも結果であるという相互作用だ。これが微妙にずれたときに、原因と結果の因果性になる。

   次の話は否定についてである。否定といったら、否定の否定は肯定である。そこにナスがある。このナスはあのナスでもなく、あのりんごでもない。このナスではない世の中のすべてを否定尽くして戻ってくる。否定の否定によって、このナスは肯定されるというヘーゲルの哲学。肯定で万事うまくいったのだが、これを早すぎる融和だというのが、フランクフルト学派だ。否定の否定の否定は否定であるという。つまり、このことによって、常に肯定めざしてすべては動き、活動するのだ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   宇宙はビッグバンによってうまれ、膨張しつづける。これはまるでポップコーンが破裂して、どんどん宇宙にはいろんなものが増えていくイメージだ。そして、縦の時間軸、横のx、yに空間軸をとると、時間軸にそって宇宙は膨張するのだから、円錐状になる。そして、円錐の底面がいまわれわれは住むこの宇宙としよう。すべてのポップコーン、宇宙における個体は互いに相関関係にある。そして、調和している。この関係をトランスアクション、交流という。ここには相互作用がなりたち、互いに原因で結果である。ところが、ここでズレがうまれる。原因と結果の因果律のようになり、全体は不安定になり、安定した点を求め、この点が主体性になる。つまり、頂点から底面へと広がる宇宙とは逆に、底面から一点に収縮するのだ。

  宇宙におけるビッグバンを高次元的にみる。すると、ポップコーンが増えていくが、このひとつひとつが並行宇宙なのだ。これらは五次元円錐の底面において、互いに関係しあい、トランスアクション、交流している。世界Aは世界B,世界Cとの関係、二重否定で互いに成立だ。ここから、これらのトランスアクションが壊れ、因果律のようになる。相互作用がずれてくるのだ。すると、底面が一点に収縮する逆円錐になり、これが対象意識になるのである。高次元宇宙の膨張とは逆の収縮した円錐が対象意識なのだ。



2014 12-2


半透明性と全面的反実在論についてである。いろんな世界観がある。この世界はお菓子でできているとか、原子でできているなど、いろんな系がある。ところが、これらすべての世界の見方を包んでいる世界全部はどんなものなのか。これはビジュアル系、癒し系でもない、あるとかないとか関係ない系だった。

  サルトルの意識の半透明性についてである。私は私のことを100パーセント知ることができるという自己透明性。私は私のことを一切わからないという意識の非透明性。かって、ソクラテスは無知の知をとなえた。何も知らないっていうことを知っているという。透明性と不透明性の両方である。現代においてはサルトルが意識の半透明性を提唱。半分、すりガラスのようにみえるという。つまり、見えないところから、自分自身をだませる、自己欺瞞というものが人間の特徴だという。

  次の話はダメットの全面的反実在論についてである。世界には心と物体があるようにおもわれる。すべてはいま感じている感覚データでしかない、白い、甘い、丸いという感覚データであって、まんじゅうの物理的実在なんて問わないという現象主義。心の実在だけをとく。また、パブロフの犬のように、すべては観察可能な行動、刺激と反応も神経電気パルスなどで観察できるのであって、そのあいだに心なんてないという行動主義。心も物もどっちも実在という全面的実在論は矛盾するという。心も物体も実在じゃないという全面的実在論の道が残されていないという発想だ。

  

  まとめ

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  異次元理論


   自然っていうの有機体と非有機体がある。人間のからだも有機体であり、フリーエネルギーの食物を取り入れて、これによって秩序化し、エントロピーを減少させる。自分のなかに規則、パターンをつくる。くるまの運転だって、アクセル、ブレーキ、ハンドルのパターンだ。エントロピーが減少した分、増大させたものを排出する。からだを構成する部分。胃袋は細胞でできている。細胞も生命を維持する。ところがその人間にとっては部分だ。部分と全体に対する二つの顔をもつというホロンである。そして、おのおのは自分自身を存在させるためにじーっとしているのではなく、取り入れ排出のループ。これがフィードバックループである。人間だって、論理レベルを切り替えれば、社会や大自然の一部だ。地球だって、自己制御、自浄作用を持ち、生命の9つの定義のすべてを満たすという。自然、宇宙は有機体と非有機体の織り成す生命活動なのだ。
 
  さて、こんどは心の問題である。最初に右目だけでみる。次に左目でみると、二つの像がずれてしまっていままでの規則では破綻する。ここで論理レベルの繰上げがあり、奥行きという次元を見る能力になる。さらに、そこにまんじゅうがあれば、まんじゅうの形の境界線の内と外、まんじゅうの内部と外部という論理の切り替えがあり、ついには、見ている主観としての私と見られている世界のなかの饅頭という主客にわかれ、俯瞰した位置に論理飛躍する。

  心の論理階梯と自然のそれ。自然のなかの心はフラクタル原理によって、同じ構造をしているのかとおもわれたが、じつは心の自己制御と自然のそれはまったく同じものなのかもしれない。こうなると、心、観念と実在するしないの世界が一緒になる。要するに、心と自然をあわせた全体はあるとかないとか関係のない反実在論の世界だったのである。反実在論といえば、音楽ではサイケ、絵画だとシューレアリスムなどがある。



2014 12-3


ディルタイの抵抗感、そして、クリプキとルイスの思想についてである。この世界の全体の姿はあるともいえずないともいえない、あるない関係ない何かである。しかし、こうやって乳母車を自走してドリフトしていると、どうしてもあそこにある一本の木が実在するように感じる。抵抗感が実在感を生み、ほんとうのところこの世界とはあるないを超越したものだというお話をしたい。

  ディルタイの抵抗についてである。科学の法則があって、私がいるのだろうか。まず、科学の法則以前に自分が生きているのが前提である。生がすべてに先立つ。科学の法則を科学カテゴリーといえば、これは生のカテゴリーの現れだ。生きていると、どうしても出るくぎはうたれ、さまざまな圧力を受け、時に挫折を味わう。これらが生きていくうえでの抵抗感であり、これが作用反作用の法則になり、ついには因果律になるというのだ。

  次の話はクリプキとルイスの思想についてである。いずれも、ひょっとしたらの可能世界について論じる。鉛筆を持っているとする。もっていなかったひょっとしたらの可能世界があってこそ、持っているという意味がうまれる。クリプキは可能世界が実在とはいわずに、論理的な前提でしかない。ところが、ルイスは可能世界は実在するというのだ。

 
  まとめ


   存在の科学

   異次元理論


    この世界は実在するとかしないとかを超えた世界。存在でも無でもない。かっては原子構造は中心に原子核、電子はこれをまわる粒、これが太陽系モデルという。現代の量子論だと、電子は雲のように軌道上を確率的に分身してある。電子はもはやそこにあるとか、ないとかではない。シュレディンガー波動方程式においても、世界は刻一刻いろんな並行世界に分岐し、重なっているという。これもあるないではない。古典力学でも、椅子に加わる力の伝達は、力の伝達によって分力や合力にできるが、どのルートで伝わっているのかは解釈による。つまり、これが実在、あれは非実在ではない。あるとか、ないとかはインパクトにすぎない。あるものは消えると無い、無いものが出現すれば有る。

  認識は神経の電気パルス、つまり、光だ。存在とは、物質の重力。光は光子、重力は重力子。五次元においては光子と重力子は同じだった。認識、みる、聞くは存在であり、重力だった。つまり、なにゆえそこにあるのかというのは抵抗なのだが、物理的に考えると、これは空間を満たしているヒッグス粒子の抵抗である。

  数学においても三角形を扱っても、それが実在とは非実在ではない。補助線も同じだ。

  さて、兄弟、夫婦、上下、左右は内的関係という。上があれば、下がある。互いが互いの存在理由。これらは相殺してあるなし関係ないレベルだ。ところが、月とすっぽんのようなものを外的関係というが、これに関しては、抵抗感がつくりだしたものだ。

  後成の風景の理論というものがある。進化を水の流れにたとえば、DNAが主人公で個体はサブ的なものという利己的遺伝子の発想とはちがう。山や谷の地形が水の流れを決めるDNA、科学の法則だ。水の流れが進化、意識だ。しかし、水の流れが地形を侵食し、法則などをかえる。地形が変われば流れがかわる。こうやって互いにコミュニケーションをとりながらやりあっているのである。よって、あるとかないではなく、正しくは成り続けているということである。生まれる前も死後も生きているあいだも常に成り続けているのだ。



2014 12-4


ゲシュタルト理論と我汝についてである。私はこの世界でなにをしているかといえば、当たり前だが、八百屋さんで大根を微笑みながらみつめ、敵が攻めてきたらとっさにしゃがんで相手の背後に回りこんで、背中をみつちゃう。なにかをみる、意識するとはそれ以外は曖昧模糊の雲に包まれること。世界のすべてを瞬時にみることなんてできないのだ。それでは私の住んでいる世界、宇宙はなにをしているのか。私とは正反対のことをしていて、私と対面し、調和をしている。

   ゲシュタルト理論についてである。りんごをみているとき、へたやそのパーツ、部分をくみあわせて認識しているのだろうか。これだと、りんごを立体的にとらえられない。じつは全体的にとらえている。被写体のりんごと背景との全体と部分の直結のなかでとらえるのだ。音楽のメロディも、単音の集まりだけではない。部分の集まり以上のものが全体にはある。


  次の話はマルチンブーバーの我汝についてである。私とあなた、おいらときみ、という意味だ。一人称は私、二人称はあなた、三人称はここにはいない不在のかれ、彼女、かれらだ。そして、三人称に含めることもあるが、無人称はそれである。机や椅子はそれという。

  さて、宇宙ははじめに一人称があるのか。この世界は私しかいないという独我論である。この世界はそれからできている、三人称、無人称が最初にあるという発想。これはそれ、つまり、原子、分子からできているという唯物論だ。これらに対して、ブーバーは二人称がはじめにあるという。私とあなたである。そして、あなたは振り向けば毎回、あなたという代名詞はかわるのだが、永遠のあなた、永遠の汝である神さまとともにいるという。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   私は世界のなかのものをゲシュタルト的に意識する。りんごははっきり認識するが、周囲はぼやけている。みかんをみるときは、こんどはりんごが見えなくなる。これはまるで原子の構造だ。かっては、原子というのは、原子核がはっきいしていて、その周囲の電子の粒がまわっているという惑星モデルが主流だった。ところが、いまで量子論にあるように、原子核ははっきりしているが、周囲の電子は移動上は確率的に同時存在しているという。もやもやしているのだ。これはまるで人間の認識と同じだ。

  さて、世界、宇宙はなにをしているのか。世界、宇宙は神さまだといったら、汎神論的になるが、世界は私と対面し、対話しているのだ。私の意識のベクトル、矢印は世界のベクトルと逆なだけではない。真の矛盾は二回の反対だ。論理学において、量化子と述語の両方が反対のもの。矛盾対当関係という。世界は私とベクトルが逆なだけでなく、なんと、私という中心を不確定にぼやかして、私の周囲を確定的にみているのだ。世界は私を不確定にみているとは、私に自由意志をあたえていることだ。また、私の周囲を確定的にみているとは、周囲に物理的制約を作っているという。また、私は世界の対象物を確定的に、その周囲を不確定なもやもやにしているが、この不確定なもやが偶然性、事象の予測不可能性をうみだしているのである。  

  
   私と世界がむきあって、ゲシュタルトと反転ゲシュタルトとなって対面し、対話をすることで互いを機能させているのだ。


2014 12-5


帰納と演繹、そして、超越論的についてである。人類皆兄弟だという。というか、人類は目にみえない糸でつながっているのではないか。さらに、すべては場というもので結ばれている。生き物、物体、意識ですら場によって営まれる。

  帰納と演繹についてである。科学の必殺技、方法である。帰納とは、具体的なものから一般的、普遍的なものを生み出すやり方。あの犬も、この犬も、いろいろ犬を一匹一匹観測してもワンと鳴く。だから、もしかしたらすべての犬はワンと鳴くだろう、というもの。一匹づつ枚挙するので、枚挙的帰納法という。すべての犬を検証できないから不完全。だから、不完全帰納法ともいう。

  演繹法とは一般的、普遍的なものから具体的なものを導くやり方。犬はワンと鳴く。コロは犬である。ゆえにコロはワンと鳴く、という論法だ。大前提、小前提、そして、結果とくる。

  次の話は超越論的についてである。テレビに夢中で我を忘れる。自分が自分を超えるように、超越的だ。ところが、ふと我に返って、テレビに夢中なおれが世界のなかにいると意識する。超越的について論じちゃう俯瞰した見方。これが超越論的である。


  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

すべては場なのかもしれない。100匹目のサルというお話。ある地域でサルが砂のついたイモを洗って食べるようになった。実際は何匹はわからないが、仮に100匹として、この数に達したとたん、山や海を越えて、世界中の同じ種のサルが同じ行動にでたという。

  また、生き物だけでなく、物体に関しても報告例がある。グリセリンは当時、固体化、結晶化しなかった。ところが、輸送中のくるまのなかで、湿度、温度、振動によって偶然、結晶化した。これを科学者たちがみて驚き、その数がある臨界点を超えたとき、世界中の密閉された容器に入っているグリセリンは一斉に結晶化しはじめたという。

  これらはシェルドレイクが提唱する形態形成場という。電磁場と同じように生き物のあいだにもある限界の数に達したとき場が形成され、すべてがつながるという。そもそも、電磁場とは空間のなかにあるとおもってしまう。ところが、三次元空間内ではなく、その外に独自の場をもっているのである。だから、空間的な距離という制約を受けない。おそらく、電磁場も宇宙のなかの電子、光子の数が臨界点に達して突如うまれたのだろう。そのほかにも、重力場、ヒッグス場なども同じである。

  さて、生命の意識も場ではないだろうか、と考える。そこにバナナがあり、意識しているとする。意識するとは、感じる、クオリアとは微小な意識であり、バナナを微小な感覚要素に細かくすることだ。すると、その細かくした要素数が臨界値を越えて、ついには、そのバナナの見えている表側と裏側が場によって結ばれ、不完全だが、三次元的な立体感でこれをとらえるようになるのだ。また、意志によってからだがうごき、物体を動かせるのも、思いの臨界値を超えて場を形成し、肉体の場と干渉したものだ。

  科学的認識において、帰納法と演繹法がある。枚挙的帰納法はなんどとなく、同じ出来事を見て、これが臨界値に達して一般的な法則になるのかもしれない。つまり、認識論的な場である。そして、形態形成場は生き物や物体、法則が存在する存在論的な場である。帰納法と場の形成が限りなく酷似するのだ。

  超越的な意識が超越論的な俯瞰した意識になるのも、臨界値を越えた瞬間に起こる場の形成なのだ。



2014 12-6


統覚、そして、超存在と記述理論についてである。この世界にあるものの特性について考えたい。Aさんはくしゃみするとき、鬼のとうな形相をするという特徴とか、おならがでるまえに前兆として盆踊りを踊りだす特徴などがあっても、それは万物の特性ではない。すべてのものは形があり、カテゴリー分けされ、そして、関係性のなかにいる。この三つの特性は宇宙誕生のいきさつから導かれた特性だった。

  統覚についてである。カントは統覚をイッヒダンケというドイツ語で表現した。これは私は考える、という意味である。ひとはいろんな情報を感じている。色、音、におい、触覚などだ。これらのなかの不必要な情報を排除してざっくりとものをとらえる能力があるが、これは統覚のおかげである。デカルトは統覚なしに感覚や知覚はないといった。われおもうゆえにわれあり。おもう、というのが中心だ。これに対してライプニッツは統覚なしでも知覚あり、というものはいるという。おそらく、微生物とか、植物だ。よって、微小な知覚をすべて感じ取っている。考えることをしないゆえに、どうでもよい情報も感じている。

  対の話は超存在と記述理論についてである。世の中に存在するものは真偽のどっちかの値をもつ。これを有意味という。地球は丸い、というのは観測したときそれは正しかった、つまり、真という値をもつから有意味。ところが、黄金の山は固い、というのはどうか。そもそも無いのだから、観測して検証できない。だから真偽不定だ。これを無意味という。ところが、これは存在しているのではなく、真偽を超えて超存在しているとマイノングはいう。当初はライプニッツもこの考えだった。しかし、すべては有意味性ではないのか、ということで、記述理論を提唱だ。なにもはいっていないうつわ、x、yという変項を使う。xはその名を黄金の山、かつ、この山は固い、といい、これを満たすxがないときは偽という値をもつという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   この世界にあるものは必ずといっていいほど三つの特性をもつ。まずは形がある。そして、カテゴリーわけされている。そして、関係性のなかにあるのだ。これが宇宙の誕生プロセスと同じなのだ。宇宙がビッグバンで誕生する前はなにがあったのか。そもそも、時空なんていうのがビッグバン以降である。だから、あらゆるものが時空を超えてあらゆるものに関係しているというカオス、混沌の世界だったのだ。これはまた、生命の世界でもある。生命を解剖学的に部分に分割して、分析してみてもとらえられない。一度分離したパーツ、胃袋を再度、もとにもどしてももはやちゃんと機能しない。生命は部分のあつまりではなく、すべての部分の全体的関係性なのだ。だから、宇宙誕生前に生命がいたのだ。これを生命の海に宇宙が漂うということで、生命宇宙内包説と名づけたい。

  さて、つぎのは無限エネルギーの点がうまれる。有限のエネルギーも点に押し込めたら無限になる。これを特異点という。これはすべてのカテゴリー、イデアが凝縮されたものだった。生命と物体、動物と植物などのカテゴリーわけ。すべての図形は遠くからみれば点。放物線、双曲線は無限拡大、無限縮小すれば線だ。すべてのカテゴリーは一点に集約される。実際、宇宙誕生直後は質量0の光速で飛ぶ光の世界だった。認識とは光のメタファーというが、これはイデア界の初期生成段階だ。

  つぎに宇宙は膨張した。そして、いまもすごい勢いで膨張しているのだが、ここからは直感的な話になる。おそらう互いにすごい速度で離れあうものは微小な情報が伝わらずにざっくりとモザイク化される。これが形なったのだ。植物や微生物は微小知覚だといったが、以前話たように、形態形成場によって強く離れつつあっても強い場で結びついているから、微小な知覚を感じる。ところが、人間などはひという場があったとしても微弱である。だから、個人の自立が強く場が弱いので、互いに離れあうとき、情報が伝達されずざっくりとモザイクされた形になるのだ。

  記述理論におけるxなどの変項は無数の関係性が集約されているビッグバン以前の混沌世界。これを説明する記述句において、かつ、または、という接続詞、文法はカテゴリー界。そして、全体が形ある世界を現しているのだ。


2014 12-7


言語ゲームとウィーン学派についてである。犬や猫とたわむれて遊ぶ。このとき、ムツゴロウさんのような笑みが好ましい。当然、動物と自分のあいだにはコミュニケーションがあり、ある種のルール、規則がある。これを作っているメタコミュニケーションがあるのだ。なんと、私とペット、私と物体のあいだにもすべてに目にみえない関係のなかにメタコミュニケーションがあって、これが私、ペット、物体を突き動かす。

  ヴィトゲンシュタインの言語ゲームなどについてである。普通に話している日常言語はだれかが作ったわけではない。自然発生であり、生活の流れのなか、コンテキスト、文脈がうまれる。あれやこれの代名詞、さらには文法も生活の流れからでてくる。

  言語といえば、メタ言語というタルスキーの思想がある。日本語文法について日本語で語る。言語について当たるメタ言語だ。

   次の話はウィーン学派についてである。論理実証主義である。このなかでは二つの陣営がある。現象主義と物理主義である。現象主義はそこにりんごがあても、りんごがある、と叫ばない。もしかしたら、赤いボールかもしれない。だから、感じたままをいうのだ。赤くて、丸くて、甘いという感覚情報があるという。これだと、科学の進歩が遅くなる。だから、証明はできないけど、時間と空間のそこにあるものが存在しているとだれかが主張する、ことを約束事として決めよう。これを約束文、プロトコル文という。これが物理主義である。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   猫と遊ぶ。そのとき、猫と私は同じコード、ルールを共有する。つまり、ゲームのルールである。これがコミュニケーションである。これを作っているのは互いの間の関係のなかにあるメタコミュニケーションだ。人間同士はもちろん言語活動、言語のコミュニケーション。このとき使うルール、文法を生成がメタコミュニケーションになる。動植物とのコンタクトだけでなく、私と茶碗にもそれがある。量子論だと茶碗は分子、原子でできている。原子核のまわりに電子が確率的に同時存在しているが、私が茶碗をみたとき、その電子位置は確定する。どうのようになるのか、ひびがはいっているのかはいっていないのかは、私と茶碗のあいだのルールを決めているメタルール、メタコミュニケーションがやっている。すべての法則、ルールはこうやってメタ規則による生成だ。以前、グリセリンの結晶化の話をした。いままでどんなにがんばっても結晶化しなかったグリセリンは輸送中の温度、湿度、振動が偶然に重なって結晶化。これを知った科学者の数が臨界値を越えたとき、世界中の実験室の封のしてあるグリセリンが一人でに結晶化しはじめた。これは科学者とグリセリンのなかのメタコミュニケーションが規則を生成したからである。

  このように、動植物と私、物体と私の関係のなかのシステムは私と動物、植物、物体を突き動かす。私のからだの刺激反応と猫のそれが出会って云々ではなく、その関係のなかに見えないシステム、多層構造が潜む。いってしまえば、世の中、網の目のようになっている。そして、網の線のところによって結節点は動かされ、この結節点が生命、物体の個体なのである。

  現象主義における感じたままの情報。これらは私とその対象のあいだのメタコミュニケーションが決定。物理主義における物体の存在はおのおのの人間のあいだにある約束事、共同主観的なメタ規則による生成である。



2014 12-8


自己関係性、そして、目的と手段についてである。私と動植物、私と他人、私と茶碗のあいだにもコミュニケーションがある。このコミュニケーションを作り出しているメタコミュニケーション、さらにメタメタもあるだろう。結局のところ、それが無限に続いてしまうのでここで終止符、ピリオドをつけるためにも、高次元の意識を引き合いにだすことになる。

   自己関係性についてである。基本的には自分が自分自身に関係しちゃうと論理的矛盾になってしまう。すべての主張は疑わしい、という。すると、この主張も疑わしくなってしまう。日本語で日本語文法について語るのも自己矛盾。ところが、自己矛盾をおこさない自己関係もある。自己意識は本当の意味で自己関係かはわからないがとりあえず実際にあるように思える。生命の創発性、いわゆる自己組織化。つねに、自分であろうと自分自身を更新し続ける。自己治癒力もあるのだ。さらに、排中の原理も自己関係。これはりんごかりんご以外のいずれかだ、という。りんごとりんご以外で、宇宙のなかのなにかといっているが、この宇宙のなかにはこれを主張するものも含まれるから自己矛盾のはずだが、NGではない。

   次の話は目的と手段についてである。ふつうに手段があって目的がある。椅子を直すためのハンマーであり、ハンマーは手段である。ああすればこうなる、というのが仮言命法である。これはわれわれが見ている現象の世界。現代ではプラグマティストがいう、真理はプラグマティック、実用的だというもの。ところが、カントは現象の背後にはどうも本体がある。りんごの現象でなく、りんごそれ自体は然りの世界。なんとかなんとかだ、というのが定言命法。これはなんじなすべし、すべからず、という道徳的実践でもある。


  まとめ

 存在の科学

  異次元理論

   
     ペットの犬、猫と遊ぶ。犬、猫と私のあいだに共通のルールができる。これはコミュニケーションだ。これは私が言葉で説明したわけではない。そうではなく、私とペットのあいだにあるコミュニケーションのさらにうえのメタコミュニケーションによって作られた。これまた、メタメタコミュニケーションで作られる。私と他人のあいだにもコミュニケーションがあるが、言葉がそのひとつ。そのうえのメタ言語が文法になる。私と茶碗のあいだには、以前話たが、量子論における電子の雲を確定するコードがあり、これはメタコードによって決定される。

  さて、メタコミュニケーションのうえのメタメタやさらにメタメタメタなど無限後退だ。これにピリオドをうつ。意識している自分を意識するとは自己意識、つまり、メタ意識である。意識している自分と意識されている自分が完全に一致している境地。規定している自分が規定されている自分というのは完全な自由意志だ。そうあれ、とおもえばそうある。かって、旧約聖書において、神は海があれといい、海はあった、という。つまり、神かもしれないがこれは最高次元の六次元意識である。

  われわれは時間軸とは意識時間であり四次元意識。なにをしているかといえば、三次元物をいじくり、創造し破壊している。同じように六次元意識は五次元オブジェクトを創造し破壊しているのだ。五次元には無数の並行世界、四次元時空がブレーンとして存在している。これらを選択し、作り変えているのだ。つまりは、われわれのいう世界を決定しているのだ。

  これは手段と目的がずれている三次元世界でなく、手段と目的が一致している定言命法の世界、そうあれといってそのように然りの世界である。



2014 12-9


主観と客観、そして、アナロジーとトーテニズムについてである。古代人はなにゆえあのような古墳、遺跡をつくることができたのか。なにか計り知れない科学力をもっていたにちがないない。それは、自然を支配しようとする科学でなく、自然と共生する科学だったりする。

  主観と客観についてである。手前には主観としての私、向こうには客観的な世界。これがふつうの考えである。ところが、アヴェナリウスはこれを加工したものとみなし、まず最初に主観客観なんてわかれていない自然的世界概念があるという。また、ジェームスや西田幾多郎の純粋経験も未加工のもの。いわゆる経験っていうのは、それがひととか、ものとか、こっちは主観、あっちは客観っていう二次加工がなされているという。科学的なものの見方は世界、宇宙のなかの状況にいると、主観的な見方になってしまうので、世界、宇宙の外から神さまの視点で冷静的に客観をみる。これがデカルト的自我である。


   次の話はアナロジーとトーテニズムについてである。アナロジーというのは類似性。語りえぬものには沈黙だ、というが、どうしてもというのは、似ているものを探して類似性で推理する。神さまっていうのをとらえるとすれば、アナロジーっていうやり方しかないという。

  トーテニズムというのは自然と文明がひとつになった世界観。王様をライオンにたとえたり、エジプトの壁画やスフィンクスもそうだ。家の家紋も本来は植物と一族との深い関係を表していた。いまとなってはその内容はなくなって、形式的な形だけの家紋だけが残った。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 
   科学技術は文明を進歩させた。文明が自然と対立し、支配しようとしてきた。そのしっぺ返しが自然の異変などだ。そうではなくて、細胞がうまれたのが、アメーバとミトコンドリアっていう微生物の共存だったのと同じく、自然との共生なのだ。主観と客観の対立はどっちかの支配力をうむ。そうではなく、主客未分化だ。自然と文明の共存のあと、自然の拡張、そして、意識の拡張だ。以前話たが、量子論的にりんごをみている私は量子、電子の雲を確定すること、これが私とりんごとのあいだの関係、そこにコミュニケーション、コードがあり、このルールを作っているメタコミュニケーション、メタコードなのだ。これはもはや複数の並行世界、可能世界が共存する五次元世界的な意識レベルである。 
 


2014 12-10


聴従とアブダクションについてである。ふつうに眼でものをみる。もちろん第三の眼ではなく、ふつうの目である。このとき、ものの階層性をみる。何が上で、なにが下なのか。そして、目で目をみると、横の広がりをみる。あれとこれは似ているという次元だ。

  ハイデガーの聴従についてである。聴従とは文字通り、聞き従うことである。しかも、Aさんの話を聴くことではない。存在者の声を聞くのではなく、存在そのものの声を聴くのだという。これが思考だという。考えるとは、存在の声をじーっと聴いていることだ。

   次の話はアブダクションについてである。アブダクションというのは発想法のことだ。科学の方法として、帰納法、演繹法、そして、アブダクションがある。帰納法は、いままでへそのゴマをとるとはらいたくなる、だから、明日も同じであろうと具合的なものから普遍的なものを取り出す。演繹法は人間は二足歩行する、Aさんは二足歩行する、ゆえに、Aさんは人間だ、というように、普遍的なものから具体的なものを導く。これだけだと何もおきない。ねずみと人間はだいだい目や鼻というように同じパーツが顔面にそろっている。だから、臓器とかもいっしょじゃないかと発想したり、想像できる。これがアブダクションだ。アブダクションとは要するに思考することであり、これをやめたらなにもできない。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   目でものをみる。たとえば、りんごをみるのだが、りんごだけでなく、みかんや私との関係を見ているのだ。だから、以前話したが、ものともの、私ともの、私と生命というように、そこには、コミュニケーション、共通コードがあるのだ。そして、このコードを作っているメタコードもある。メタメタコードもあるが、ものをみるとはすなわち、上下の階層性をみることだ。だから、これはふつうの感覚であり、野生の動物もやっている。それが獲物なのか、それとも天敵なのか、上下階層性をみる。これに対して、目で目をみる。自己意識、自己関係性であるが、これは自分の存在そのものとのかかわり。このとき、アブダクションがなされる。ひょっとしたらの可能世界、並行世界がある五次元意識に近い。あれとこれが類似しているというように、横に拡張されるのだ。すなわち、思考である。かって、パルメニデスは存在とは思考だといったが、まさしく、存在は思考であり、アブダクションであり、あれとこれと類似性という横への拡張だったのである。



    2014 12-11


観念連合と人格についてである。この世界は最初は心も物理宇宙もひとつだった。しかも、でたらめ、ランダムだったのである。そして、ついには人間が誕生し、別の反対宇宙では人格がうまれた。

  ヒュームの観念連合についてである。まず最初に感覚的な印象があるという。色、形、音などの印象。これらがだんだん集まって観念になり、観念があつまってもっとおおきな観念になる。この時代は科学の世界では大御所ニュートンがいた。宇宙にあるものは重力、引力で互いにひっぱりあっているという。これに着眼し、心の世界にもそういう法則があると考えたヒューム。心の重力とまでいっていたのが、観念を組み合わせる法則、観念連合だったのだ。観念連合の中身であるが、まず、時空的に隣接しているものはひとつになろうとする。また、似ているもの同士はくっつこうとする。さらに、原因と結果の因果性だ。時空隣接性、類似性、因果性である。

  次の話は人格についてである。昨日の私はどうして今日の私といえるのだろうか。同じからだだからというのが身体説。ところが日々新陳代謝しているからそうともいえない。記憶があれば同じ人間だというジョンロックの記憶説。記憶のないことには責任がないということになる。そして、記憶でも身体でもなく、なんだか魂というものが継続していると考える輪廻転生説だ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


    進化論において、人類が進化したのは必然だったのだろうか。また、遺伝子っていうのは獲得形質や学習によっては変わらないのだろうか。なんだか決定論的なものあって、そのうえに自由度が高い偶然的なものたちがいるのか。そうではなく、スカトスティック過程という考えがある。すべては偶然であり、たまたまた長い間継続しているというもの。種をまいても、好条件の一部だけが成長する。しかも、有限の時間スパンで成長する。水面のあわも、瞬時に消え去るものが大半だが、なかには偶然、長い間壊れないものもいる。人類進化と同じように意識もまたスカトスティック過程かもしれない。そのときどきの思いなし、自由意志。ちょっとスパンが長い感情。もっと長くなって思考になり、ついには人格になる。

   ヒュームの観念連合は心の重力といわれ、当時にニュートン力学の重力と対応する。近代にはいりアインシュタインの相対論。相対論は時間と空間が相対的であり、空間の長短で時間も伸び縮みする。これは意識においては感情に対応。意識時間、感情というのは、喜び、苦悩によって時間感覚がちがう。思考といってもいいかもしれない。そして、現代においてやはり量子論。物体っていうのは原子でできていて、その電子は確率的に同時存在している。これに対応するのが自由意志である。

  さて、これらのことが宇宙の歴史においても当てはまる。縦軸を時間、横軸xyを空間とし、縦軸の時間tの上方向が未来。原点Oがビッグバンとして、そこから宇宙は上方向に膨張。逆円錐になるのだ。宇宙の最初のほうが質量のない世界で、すべてが光速ででたらめに飛び回っていた。まるで量子の雲だ。ついには宇宙は冷え切って、自発的対称性の破れにより質量があるいびつな物質が生まれる。物質が複雑化して有機体がうまれ、生命、人間が誕生した。

  ここからが重要なのだが、原点Oのビッグバンの下方向にも宇宙があったのだ。これは時間軸を逆行する。以前話したが、意識は目的を設定し、未来からからだをうごかす、つまり、意識は時間が逆行しているといった。だから、この下方向への宇宙は意識宇宙だ。そして、時間をさかのぼるにつれて、円錐状になる。原点O付近は物理宇宙と同じく、混沌、カオス、でたらめ、ランダムだ。ここに自由意志がある。そして、もっと下ると、スカトスティック過程のように若干長いあいだ存続するものがうまれる。感情である。さらにさかのぼって思考、そして、円錐底辺にはついに人格という長い時間スパンがある。原点Oを境にして上方向の逆円錐と下方向の円錐をあわせるとまるで砂時計の形。さらに、底辺の人格は物理宇宙の逆円錐の底辺である人間と対応している。この砂時計をひっくり返すと、なんと意識宇宙と物理宇宙はいれかわる。なんと、物理宇宙を逆再生するとそのまま意識宇宙になるのだ。



  2014 12-12


真理整合説と超越論的感性論についてである。タイムマシン、ワープ航法 、ワームトンネルを出たり入ったり、というSFっぽい話。 およそ、非日常的な世界である。ところが、じつはいまこの瞬間にも、平然とした顔でタイムマシンに乗り込み、せっせとワープ航法をしているのがなんと生命の意識だったのである。

  真理整合説についてである。真理とはなにか、というのが真理論。有名なところで、心のなかのイメージと世界の出来事をちゃんと対応させて組み合わせがあっていれば真理だという真理対応説。そうではなく、心と世界、主観と客観なんていうわけ方すらしない、全体的にみてすべては帳尻あわせ、というのが真理整合説。額にしわがよったら、どこかの皮膚がひっぱられているはずだ。全体として整合がとれているのが真理だという。

  次の話はカントの超越論的感性論についてである。色、形、音など、感覚っていうのはいろんなものが混ざってごちゃちゃしている。だから、まずは整理整頓するためのフォームが必要だ。これが時間と空間の形式だ。ニュートンにおいては絶対時間と絶対空間だった。アインシュタインは時間と空間は相対的だった。カントはなんと心のなかにある形式だったのである。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    
   生命の意識、心はじつに混沌、でたらめなのだ。時空の連続性もなく、いわゆるタイムマシンでふつうに未来、過去へと移動し、空間を越えてワープし、ワームホールで別空間と結ばれる。そんな混沌だからこそ、その反動で目の前の現象は整った秩序あるフォーム、形式になっているのである。心と現象は全体において整合的になっている。片方にしわがよれば片方はひっぱられるのだ。しかも、心と現象は閉鎖系である。開放系だと、実質無限なので、全体の整合性云々とはならない。心と現象は別並行世界へとは閉ざされていると考えればよいのかもしれない。

  それでも、意識、心の混沌が完璧にその反動としての時空連続性、時空秩序において現象となって現れていない場合、その時空連続性の中身が混沌、偶然性に満ちる。これが私にとっての事象、出来事の偶然性、不条理性なのである。




2014 12-13


決定論と偶然論、そして、獲得形質についてである。同窓会で旧友たちと昔話に花が咲く。むかしむかしあるところにじいさんがいた、という昔話ではない。転校したさいとうくんについての話題。ところがここで記憶違いがうまれる。さいとうくんはサルっぽかったというもの、亀のようなやつだというもの、さらにはそんなやつはいなかったというもの。じつに、記憶違いとはわれわれが別の過去から来て今を共有し、別の未来へとことなった時間軸を歩んでいるというお話である。


   決定論と偶然論についてである。決定論とは生まれてから死するまですべてが機械のように決まっているというもの。それどころか、宇宙誕生から消滅までもすべてが決まっているという。ホッブスや人間機械論のラメトリなどである。これに対して、偶然論とは、すべてはたまたまだというもの。たまたま、大リーガーの選手やってないだけというもの。哲学者ベルクソンは、決定論者はタイムマシンのように過去や未来に移動し、偶然論者はひょっとしたらの並行世界にいってきたよ顔をしているので、その微妙な中間、自由を主張する。自由となにかと問う。問う問わないも自由なので、問い以前に自由がある。そもそも、自由は問いでは事実としてあるという。

   次の話は獲得形質についてである。父親が若いころ野球の猛練習で変化球がじょうずになった。こんな学習、経験が子に遺伝するというのが獲得形質であり、ラマルクの主張。これに対して、学習などは遺伝子しないというのがワイスマンの主張である。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   過去の記憶に食い違いがある。これはすべてのものは同じ過去を共有していないからだ。乾麺のそーめんを束ねる。これをひねるのだ。すると、一本一本がおのおののひとの時間軸であり、中心が現在だ。今、現在だけを共有し、別の過去から来て別の未来へといく。存在論的な一期一会なのである。

  以前、宇宙とは縦軸を時間としたとき、ビッグバンよりも上側の逆円錐を物理宇宙、下側の円錐が意識宇宙だといった。そして、光速度のカオス、物質、有機体、生命、人間という逆円錐の序列が、自由意志、からスカスティック過程におけるスパンの伸びによって感情、思考、人格に対応しているといった。物理宇宙と意識宇宙はひっくり返すと同じだともいった。この構造と先ほどの乾麺の個人の時間軸の構造はいっしょなのである。

  五次元において、ビッグバンが三次元膨張とおなじように、四次元時空がどんどん増殖膨らんでいく。上側の逆円錐の底辺はそのマックスであるすべての可能世界の集まり、つまり、論理空間。下側の円錐の底辺が人格でも、すべての可能世界を体現している超人格。先ほどの、個人の人格が超人格にふれることで、異なった過去をもつ他人の過去を体現できる、つまり、見かけ上、同じ時間を生きているようにみえるのだ。超人格とのふれあいが消えると、過去の記憶違いが生まれる。



2014 12-14


文脈主義と解釈についてである。私は大きなあくびをする。仕事中のあくびとは失態であるが、これが別の時間軸においてはなんと足を組んで物思いにふける文豪にみえるのだ。すべての時空の点はあらゆる状態をもっている。

  文脈主義についてである。コンテキストティズムという。すべては流れのなか、文脈において意味がうまれるという。しゃがんでいるおじさんの写真のこの前後がないと流れのなかでなにをしているのかわかるものだ。ヴィトゲンシュタインは日常言語もまた、単語のなかに意味があるのでなく、前後の流れからうまれるという。とりわけ、代名詞などがそうである。あれ、これ、あなた、というのは状況によってちがう。

   次の話は解釈についてである。ハイデガーは解釈学的循環を提唱。ひとは存在そのものをうっすら了解している。知っていることを問うのだ。存在とはなにか、と。まったく知らなかったら問えないし、知っていたら問う必要なしだ。ここに解釈の循環がある。パトナムはすべてが解釈的なものだという。私と世界でいっしょになって私と世界をつくる。だから、常に解釈し続けている。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    以前話たが、この世界は砂時計のような形。ビッグバンよりも上側に偽逆円錐の物理宇宙。頂点近くは光速の自由運動、質量0の世界。そこから底辺にむかって物体、有機体、ひととなる。下側の円錐は意識宇宙。頂点付近が自由意志、その下に向かって、感情、思考、人格となる。また、すべてのひとの時間軸は今を共有し、異なった過去と未来だともいった。乾麺を束ねてひねったように、おのおのの乾麺一本が時間軸である。

  すべての乾麺の部分がすべての他の乾麺の部分と交差すると、おそらく、球体になる。この二つの円錐をあわせても球体になる。ホーキングがいうように宇宙が球体かもしれない。球面上の任意点をビッグバン、すると、反対側はビッグクランチ、宇宙終焉になる。北極点がビッグバンだったら、南極点はビッグクランチ。球面上のすべての点がビッグバンでもあり、ビッグクランチでもある。そして、球体中心を通る虚時間、球面の接線である実時間からなる。これが無境界仮説である。

   もしそうならば、ことなった時間軸は球面上で交差する。今私があくびをした時空点は別の時間軸が交差して、そこでは足をくんだおじさんにみえるかもしれない。つまり、時空点の進入角度によってまるで解釈がしがうかもように異なった状態が現れるのだ。すべての時空点に無限の事象がつまっている。これを無限事象的な点と名づけたい。

  前後の文脈で意味がきまる文脈主義をもっと多層的にとらえたいのだ。たこ、という言葉はたこ焼きを焼いている時間軸では食べるたこ、口げんか中の時間軸ではののしる言葉になる。同じ時空点でも異なった様相を呈するのである。



2014 12-15


認識論と存在論、そして、仮象と本質についてである。青い空、青い海、眼下を見下ろすと青いケツ。おそらく、新米が逆立ちしている。ひとは色、形、音、さらには感情を感じている。感じる、クオリアとは一体なにか。これは三次元空間内ではなく、高次元の産物だった。

  認識論と存在論についてである。古代ギリシャ哲学においてはどっちかというと、存在とはなにか、と問う存在論がメインだった。とりわけ、プラトンのイデア論などだ。すべてはイデアの影だという。近世、近代になると認識論が多くなる。認識とはなにか、と問う。カントは感覚と悟性と理性、そして、理性能力は無際限じゃなくて限界があるよ、という。ジョンロックは心というのは白紙、タブララサだという。そこにいろいろな経験が描き込まれる。現代において存在論を復活させたハイデガー。存在そのものと具体的な存在者はちがうという存在論的差異などを主張した。

   次の話はヘーゲルの仮象と本質についてである。仮象とは仮の姿、錯覚などのこと。見かけ上なのだが、その反対が本質だ。本質はそれをそれたらしめている性質だ。まったく反対だからこそ、ヘーゲル弁証法ではひとつになるのだ。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


    なにかを感じる、クオリアとは、この正反対のものがきわまったものだ。クオリアの反対はシステム、論理である。論理的に可能な世界だ。可能世界を時間軸にすると、おのおのの者が乾麺のひねった束のように、一点、現在において交わる。この可能世界、複数時間軸の交点こそ、膨大な並行世界のエネルギーが集約された現在、今を生成し、現在はクオリアと同義なのだ。今以外にクオリアがあるわけではない。そして、以前話たが、すべての時間軸上の点が他の時間軸上の点のすべてと交わると、宇宙の球体になり、それが無境界仮説の宇宙だといった、すべての可能世界の交点が今、現在であり、クオリアなのだ。以前、ビッグバンの付近には光速で自由に飛ぶ世界があり、自由意志があった。交点付近に自由意志があり、交点そのものがクオリアなのだ。

  さて、すべての時空点がクオリアなのに、私はAさんのクオリアw感じることができない。そこにあるコーヒーカップのクオリアもわからない。つまり、見かけ上、私の今この瞬間のクオリアと、それ以外はクオリアではない現象になる。これは見かけ上のもの、仮象が即、本質、存在になってしまうというクオリアの特質だ。認識論がそのまま存在論になるレベルにクオリアがある。



2014 12-16

  
 環境主義的な心と内在哲学についてである。心と物質世界をきっちりとわけている。内面と外の環境世界、ここにははっきりした境界がないのではないのか。自発的意志でよいしょと岩石をもちあげるが、自発的意志は外部環境からの受動的な圧だったのだ。

  環境主義的な心の哲学についてである。心は胸のうちなるとか、脳の活動だという思想がある。ところが、紙とペンを使った計算のとき、心は紙とペンのあいだにある。的を射るとき、心は的と弓のあいだだ。心は脳をはみだして周囲の環境に広がっているという説だ。

  次の話はアンリの内在哲学についてである。ハイデガーは超越の哲学だという。自分自身から脱け出さんとする脱自というのが意識だ。自分自身を超越しようとして、そのとき、脱皮の抜け殻をみるようにかすかに己の存在そのものを感じちゃう。この超越はまたもっと奥からくる超越によって引き起こされ、超越の超越の超越と無限に続く。これにピリオドを打つべく、内在を提唱。自発的に超越するのだが、その根本には、根源的な受動性があるという。心の奥底からなすがままに押される力、これを情感性と名づけた。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   四つの羽をもつハエの実験。もともと四つ羽の二つは退化して胸の突起物になったという。化学反応で体細胞分裂を引き起こし、四つの羽のハエを生み出す。さらに交配させて四つの羽のハエを繁殖させる実験。また、平家蟹の話もある。昔、漁師たちは平家の顔そっくりな蟹を不気味がって、とらえると放していた。すると、顔にそっくりなものたちが交配し、より顔っぽく進化をとげる。進化とはその種の自発的な意志ではない。首の短いキリンは高いところにある実を食いたいという自発的な意欲で首が伸びたのではない。すべては周囲環境によってそのように操られていた。

  また、スキナー型条件付きオペラント実験。ねずみを迷路にいれる。自由に動き回るねずみはたまたま横木にふれる。すると、上からえさがおちてくる。いつしか、ねずみは記憶、学習し、意図的にふれることでえさを得ていた。じつに、ねずみの思考、判断は周囲の環境、この場合は迷路のからくりによって操り人形のように動いていたのだ。心とは周囲環境そのものなのだ。そして、からだが受動的にひっぱられる。自発的意志というのはとことん受動的な環境による誘発。無意識レベルで外部環境がひっぱっていた。

  動物や昆虫はその判断を心のなかにあるというより、外部環境そのものが心である、判断だったのである。しかも、昆虫、動物はそれがマクロな周囲環境のニュートン力学、分子レベルの働きの現れだ。ところが、人間はちがう。科学がニュートン力学から量子論へと進化したように、人間の心はその外的環境の量子のふるまいだったのだ。量子の確率波が心であり、人を動かす。

  ダン博士の実験がある。ランダム発生器で1−10までの数をランダムに発生。そこに多くのひとが念を送ると、なんと数値がかたよる、偏差するという実験。念を送ったから数値の偏差がうまれたのではなく、周囲環境の量子のかたよりがそのまま心なのだから、乱数の偏差が、そういう念、思考、思いを引き起こしたといえるのだ。実際は外的環境の偏差、変化が先であり、逆だったのである。



2014 12-17


プレスナーの離心性とフィンクの眺望点についてである。生物は体細胞分裂をする。まったく同じように全宇宙は分裂をおこし、ついに私と世界にわかれる。世界とは私の分身だったのである。

  プレスナーの離心性についてである。物体はただ位置だけがあるという。有機体は位置と中心がずれているという。さらに、動物は自己と身体がずれているので、体を動かす。そして、人間なのだが、なんと、身体とそのなかに内面的な心、さらにこのふたつまなざす自我がいるという。自我、心、身体の三つの視点がずれているので、これを離心性という。

  次の話はフィンクの眺望点についてである。フッサールの弟子であるが、現象学の現象学を提唱。現象学といえば、すべてが思い込みであり、そこにりんごがあるのも思い込みなので判断停止。すると、なんだか世界、宇宙があるという判断は残る。これを世界原信憑性という。さらに判断停止し、ついには、名前も、性別もない純粋な自我が残るというもの。ところが、さらに、そんな現象学をやっている第三の視点があるという。これが眺望点である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


    生物は細胞分裂をしている。卵子に精子が受精し、細胞分裂し、多細胞生物になる。同じように全宇宙も分裂したのだ。

  以前話たが、ふたつの円錐がある。上の逆円錐は物理宇宙で下の円錐は意識宇宙だといった。この二つの円錐宇宙を重ねる。すると、事案の流れだけが正反対になる。物理宇宙はしたに向かっての順時間。意識宇宙は底辺か頂点にむかっての逆時間。これらが相殺して時間が流れていない。ところが、この二つの時間の位相がずれる。すると、複雑な波形になり、これが個性になる。これが第一回目の分裂だ。

  全宇宙は主観と客観にまずは分裂。意識と物理世界の分裂。さらに、意識は意識しているとされていると分裂し、一次的自己意識になる。物理宇宙は生命と非生命になる。この一次自己意識では、生命と非生命の違いを貫射ているだけだ。そして、二次的自己意識において、自己意識を意識する。これは第三眺望点だ。同時に客観世界もまた、生命のなかに多様な生命、非生命も多様に分裂を起こす。

  n次自己意識があるかもしれないが、これを超越論的にまとめようとする。私と世界、世界のなかの私としてまとめようと超越論的観念論になる。さらに、客観世界もまた、生命と非生命、さらに私をも含めてまとめようとして、なんらかの法則、引力や四つの力が生まれる。これは超越論的実在論の実体的な力だ。この超越論的観念論と超越論的実在論のまとめようとする力は同じひとつのものでだったのである。
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仙人新聞 15 1−5 

2014 10-24


テオーリアとディルタイの抵抗についてである。あるかないか、実体か非実体か、というはっきりした線引き。じつに、強烈にあるのか、ちょっと無いのか、有と無にも程度の差があるのではないか。実体と非実体の連続性と瞑想について考える。

  テオーリアについてである。古代ギリシャの哲学において、世の中の見方である。眼でみたり、鼻でにおうのは経験的直感。眼も、鼻も、五感を使わず、心の目で物事の本質を見抜く。これを観照といい、テオーリアという。プラトンのイデア論などは、まさにそれだ。具体的なここにある大根を見るのでなく、大根そのもののイデアを感じる。

  次の話は現代におけるディルタイの抵抗についてである。ディルタイは生の哲学者。自然科学のいろんな法則、カテゴリーがあるが、これはまず、自分がここに生きているから知ることができる。最初に生があるのだ。生のカテゴリーの副産物が自然科学のカテゴリーだという。科学における時間っていう概念。過去、現在、未来なのだが、これは生のカテゴリーでは骨董品をみて価値があるというのが過去、価値が過去になっただけだ。現在は印象であり、未来は目的という生のカテゴリーの副産物だ。

  生きるというのは抵抗を感じる。野球選手になれなかった、でるくぎはうたれる。この生の抵抗感が科学のカテゴリーだと相互作用の法則になったという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   単一量であるスカラー量、温度などであるが、これがこんどはベクトル量になる。三次元ならばx、y、zという三つのパラメーターの矢印になる。さらに微分すると、力の伝達においては微小立方体にせん断力などがあらわれて6つのパラメーター。さらに微分すると、運動力、モーメントがうまれる。もともと、n階のテンソル量であり、力の分布は無数のパラメーターをもつ。これがこの現実世界の物質だ。いろんな力と抵抗がある。活動すると抵抗感があり、これが物質性であり、実体だ。活動しないと抵抗がうまれず、実体、存在であって、連続的にちょっと小さな、薄い存在、実体になる。それでも活動量の全体はかわらず、別の方向へと力が、抵抗感がそれる。なにもしない、無為を為す、瞑想において、重力感覚をかんじるが、この重力は別の並行世界から飛んできた重力子であり、四つの力のなかで一番弱いのは別世界に力を逃がしているからだ。さらに、無活動に近づくと、すべてを恒星する最小のひもに達し、ひものなかにある高次元、これをカラビヤウ多様体というが、ここから別並行世界へと力を逃がし、抵抗感を感じるようになる。瞑想においては別世界を感じることとなってあらわれる。また、日常においてはこれは夢である。夢とは限りなく活動が0、強烈な非実体性、弱い実体性であり、ここにおいて、カラビヤウ内部の高次元、別可能世界を断片的につぎはぎで感じている状態なのである。無活動に近づくと軽くなり、別世界の抵抗を感じ、これがテオーリア。活動的になるとこの世界の複雑なテンソル量を感じ、抵抗を感じて強い実体感覚、生が自覚される。



2014 10-25 


意味論と語用論、そして、慣性系についてである。科学の革命というものがあった。いわゆる、アインシュタインの相対論である。時空は相対的で光速度は変わらない、絶対という。これを論理学などに使ったらどんな風になるか、ちょっと考えてみたい。

  意味論と語用論についてである。意味論とは、言葉なり、単語というのが実際の対象物と眼にはいみえないつながりがあるが、これを研究する分野。大根といったとき、実際の大根との関係だ。そして、その大根があるなら、真、無いなら偽になるが、真偽は意味という。構文論というのは、いわゆる、主語、述語、形容詞などなどの文法、ルールの研究。語用論は言葉を記号、話してる、書いてるひとが解釈者、そして、記号で表現される実際のものが対象だとしたら、解釈者と記号との関係を考える分野、言葉、記号の使い方の研究だ。

   次の話は慣性系についてである。アインシュタインの相対論など、観測者の運動状態によって時空がゆがんだりすること。電車に乗っているひとと、地上にいるひとでは、慣性系がちがうからちがった世界になる。相対論だと、時空はかわるけど、光速度だけは変わらない。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  相対論だと、観測者の運動状態によって世界は一変する。時空は伸び縮みするが、光速度だけは不変。時間と空間は基本的に同じである。ローレンツ変換である。意味論や論理学においても、このリテラルな世界、きっちりとした世界の背後は隠喩のメタファーな世界がある。意味論的に指示対象と記号、さらに、語用論における記号解釈者の態度によって、この世界はきわめて当然の常識世界になる。ところが、ここに相対論の考えを導入。解釈者の状態によっては意味論と語用論がはっきり区別されない相対的なふるまい。意味論と語用論の関係がずれたり、混ざってしまうと、私はテレビで、テレビは豆腐だという隠喩、メタファー世界がうまれる。だから、これを意味論的相対論と名づけたい。

 また、相対論だと光速度は不変であったが、この意味論的相対論では同一性は不変。光は網膜を刺激する生理学的にも、物理学的にもメッセンジャー粒子。だから、光自身は認識できない。同一性も、差異、違いがないただのイコールなので認識不可能だ。差異、違いがないとひとはそれをみえないのだ。光を超えるもの、ブラックホールは光や他の物体を吸い込み、事象地平を越えたら光速をこえてしまう。だから、以前、ブラックホールの事象地平面内部が光速を超える意識世界だといった。これは先の考えだと、同一性を超えたなにか。すなわち、無なのだ。無はブラックホールに相当し、すなわち、意識とは無なのである。



2014 10-26


実存は本質に先立つ、そして、論理積についてである。この世界は最初から終わりまで何がおこるか決まっているのか、そうではなく、自由に満たされているのか。難問であり、首をかしげて、ついでに耳のなかに入った水をトントンしながら落とす。自由と必然、ロゴスとカオスはきわまるとひとつであることがわかるのだ。

  サルトル、実存は本質に先立つ、についてである。ふつうに考えると、物事の本質なり、法則があって、次に存在する。自分が生まれたのも、万物の法則にしたがってうまれてきた。DNAや物理法則などだ。ところが、サルトルは本質とか、法則っていうのは、まず、自分がないないと計算もできないし、観測もできない。つまり、まず、まだ本質が決まっていないまったくもって自由な存在があるのだ。これが実存であり、このことを、実存は本質に先立つという。

  次の話は論理積についてである。論理的なものを図に表すとよくわかる。これをベン図という。A組とB組という集合があり、このなかで眉毛がないものたちを集めるのはこの二つの集合のかさなったところ、これを論理積という。また、A,B共にすべての生徒たちは論理和。さらに、眉毛ないものたち以外のすべては排他的論理和という。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   なにかを考えるとき、発見するときは段階を追って低レベルなものから積み上げていく。量においても、単一量であるスカラー量。そして、次にベクトル量。これは複数のパラメーターをもつ矢印だ。これを微分しちゃうと、こんどはどんどんパラメーターが増える。力ならば、圧縮、引っ張りだけなく、せん断力が登場。これがテンソル量、力の分布だ。二階のテンソルというが三回目で回転力、モーメントが発生だ。実際は無限階のテンソルがはじめにあり、これが現実世界なのだ。

  ものを右目でみる。これをA集合にする。そして、次に左目でみる。これをBとする。AとBの情報はtんでばらばらであり、AはA、BはBのルールに従っていたから、混ざった論理積は混沌、カオスである。ところが、論理階梯、レベルを上げるとこれは奥行きになる。また、視覚情報と聴覚情報があわさった論理積もまた、矛盾、カオスなのだが、論理レベルを上げるとイメージ、表象世界になる。こうやって、すべてはいろんなものの重ねあわせでカオスになり、ロゴスになる。この極みがさきほどいった無限テンソルだ。この世界はカオス、でたらめでもあり、すなわち、自由でもあり、決定論的でもある。以前、量子と脳ではなしたが、意識の特徴である計算不可能な決定性。決定論的自由なのである。


2014 10-27


絶対精神と無意識についてである。山がしゃべり、岩石が語るだろうか。実に物体には意識がないのだが、精神活動をしているといってしまったら、ちょっと周囲からは白い眼で見られて敬遠されがちなる。物体と生命は違った意味で精神活動をしているというお話をしたい。

  ヘーゲルの絶対精神についてである。この世界、宇宙っていうのはビッグバンからはじまったというが、ヘーゲルは論理的なものからはじまるという。抽象的だが、有と無。これら矛盾しあうものが融合し、アウフヘーベンして部分的に無な形ある定有になる。本質や概念ときて、ついには力学的なものになり、有機体、生命、人間になる。さらに、社会になって、宇宙全体が精神になるという。すべての歴史は偶然駅じゃなくて、宇宙の精神、絶対精神を実現するための目的をもっているという。


  次の話は無意識についてである。フロイトは個人的無意識。小さなときに嫌な経験をして、これを無意識の世界に押しやる。これがトラウマだ。ユングは個人の無意識はじつは壮大な集無意識のなかにいるといい、だから、世界中のあらゆる神話は基本的には同じ構造をしているという。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

  

    カゴメカゴメ、後ろの正面、というような詩があるが、以前話たが、これは宇宙の摂理について説明している。しかも、作者不明であり、これは自然発生的なものである。また、占いにおける偶然性が未来をあてたり、シンクロニティにおける偶然の一致。これは万物、物体、空間の意志が関与しているのだ。というのは、宇宙誕生のときはすべては質量0、光速で飛んでいた。すべてが対称的だったのだ。座標が回転しても変わらない、という回転対称性、平行移動してもかわらない並進対称性、角度かわっても不変だというゲージ対称性。さらに非可換ゲージ対称性といわれている超対称性。これらの対称性がこわれて、いびつにんったとき、質量、重さがうまれて物体が誕生した。しかし、まだ、対称性が完全にやぶれていないものがある。量子の微視的な世界では時間を逆行しても成り立つという時間対称性がある。じつは、過去と未来が同じなのだ。ところが、生命は過去と未来の対称性をこわして、これが意識になっているのである。いつしか、この時間対称性の崩壊が宇宙全土におよび、ついに宇宙全体が意識になるといがくる。物体は空間対称性の崩壊だった。よって、時間対称性の崩壊による意識でなく、非意識的な精神活動、空間対称性のやぶれによる非意識的な精神活動があり、これがさきほどいったシンクロ、神話、占いなどを可能ならしめているのである。




観念論と排中律についてである。美しい対称性が壊れていびつになることで物体がうまれ、さらに時間の対称性がこわれて意識。そして、つぎなる対称性のやぶれによってなにがうまれるのか考えたいのだが、そもそも、それが高次元の意識だというお話をしたい。

  観念論についてである。いろんな観念論がある。バークリの実質的観念論。そこにりんごがあるから、りんごを認識でなく、りんごを認識しているからそこにりんごがある。自分がいなくても、なんか虫がみているかもしれないし、もしも、ほんとうにみているものがいなくても神様がみているという。だから、りんごは存在する。

 カントは超越論的観念論である。我を忘れて、なにかに没頭。りんごを感覚的、経験的に感じているときは、経験的実在論。私はりんごをみているな、と宇宙、世界のなかの私とりんごを感じているとき、これは想像、観念、イメージの世界になるから超越論的観念論になる。

  また、ヘーゲルは客観的観念論である。もはや、個人の意識でなく、宇宙の意識のなかの観念だというのだ。


  次の話は排中律についてである。これはりんごであるか、りんご以外のどちらかである、といえば、かならず、正しいことをいっている。りんごとりんご以外で宇宙の全部だからだ。ところが、これだと、宇宙のなかの自分も含めてしまう。自分が自分自身について語ってしまうと自己言及といって、自己矛盾するはずなのだが、排中律はそれが許されている。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 
   空間における並進対称性、回転しても不変という回転対称性、角度変わっても不変というゲージ対称性、さらに非可換ゲージ対称性といわれている超対称性。これらが宇宙誕生直後にあったのだが、それゆえに質量0、重さ0の光速ですべてが飛び回っていたのだ。ところが、この対称性がこわれていびつになったとき、質量、重さがうまれた。物質の誕生である。ただし、時間だけは微視的な世界をみてもわかるが、過去と未来を入れ替えても成り立つ。つまり、時間対称性があるのだ。ところが、生命の意識が過去と未来はちがうものとして、時間対称性をやぶっているのだ。時間対称性が一部破れたのが生命意識であり、いつしか宇宙全体で時間対称性がやぶれて宇宙精神になるとお話した。

  さて、ここからだが、物体は空間対称性のやぶれによってうまれた。四次元時間の対称性がやぶれて意識がうまれた。このつぎにおける対称性のやぶれが五次元対称性のやぶれなのだ。五次元は論理的に可能なすべての世界が存在する。意味利ずれた並行世界もある。だから、すべてのベクトルをあわせたら相殺して0になるように、五次元は無なのだ。この対称性がこわれるのだ。すると、四次元時間対称性がやぶれによる意識が三次元空間対称性の物質に制約されているのに対して、五次元対称性のやぶれによっては、五次元意識がうまれ、これは三次元物体の制約を受けない。こうあれとおもったらあるし、飛べといったらとうような、意のままになる意識の世界なのだ。



2014 10-29


存在と所有、そして、タイムマシンパラドクスについてである。どんなに思いが強くても空を飛べず、どんなに力があっても、地球を動かせない。われわれには身体的、物理的な制約、規制があるのだ。この物理的な制約はどのようにしてうまれてきたのか、考えてみたい。

  マルセル、存在と所有、についてである。くるまを所有したり、土地を所有する。これらは改造したり、自由に処分できる。所有のなかでもとりわけ、絶対的に所有しているのが自分の身体である。ところが、自分の身体は意のままにならない。意のままになることを随意性、ならないことを不随意性という。だから、身体は絶対的所有なのに不随意性だという。また、自由そのものである自分の存在。存在と所有の微妙なグレーゾーンに私はいるのだという。

  次の話はタイムマシンパラドクスについてである。もしも、ワームホールという時空の穴を使って過去へいったとしたら、自分が存在できないように歴史を変えてしまうことができて、つじつまが合わなくなる。祖父殺しのパラドクスという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   タイムマシンパラドクスだと、ワームホールの時空の穴を通って過去にいったら、自分が存在しないように歴史を変えてしまい、矛盾するという。ところが、ある説によると、どんなにがんばっても、そのようにできないという万物の力、制約がかかるのだという。過去にもどっても、両親の出会いを邪魔できないような圧力、制約がおのずとうまれるという。

 以前話たが、意識とは未来から過去へと光速回転で戻るプロセスだといった。そうなると、なんどとなくタイムパラドクス回避のための万物、自然からの制約、規制がかかるはずだ。自分が存在するための制約を集合、これが身体だったのである。自分の身体とは、物理的制約をうけているが、これがタイムマシンパラドクスによる自分の存在の消滅を食い止める制約の集合体、その現れだったのである。



2014 10-30


事象と原一元論についてである。宇宙と自分は一体だという。宇宙と基本的には同じシステムなのかもしれない。だから、ニュートン力学的な宇宙と私が同じだといえるが、もはや、ビッグバン宇宙論、さらにホーキング博士の無境界仮説を考えると、私自身が無境界的なものではないのか、と考えられるのである。

  事象とはなにか。前期のヴィトゲンシュタインは世界、宇宙とは事物の集まりじゃなくて、出来事、事象の集まりだという。論理的原子論という言葉がある。原子があつまって分子、分子集まって有機体、同じように論理の世界も、論理的原子っていう事象が集まって論理的分子になる。

  ホワイトヘッドもまた、宇宙はたった一回かぎりの同じものがない事象の集まりだとした。この事象によって全宇宙は動き、また、全宇宙によって立った一回の事象を起こる。

  次の話は坂本百大の原一元論についてである。世界はなんだかわからないが私と世界をあわせた全体。一元論的なものだという。ところが、なにかをとらえ、認識したりするときはどうしても、二元論の枠組みを使う。主観と客観、私と世界、というような二元的な枠組みだ。だから、仮想的一元論と、概念枠二元論である。

 

   まとめ

  存在の科学


  異次元理論

 
   膨張宇宙論だと、縦軸に時間、横軸にx、yという空間軸。すると、時間の進行とともに、円錐状にひろがる。ライトコーンという。いつしか、光速を超えて膨張し、互いに光速を超えて遠ざかり暗闇になってはじけてしまうビッグリップ。宇宙はいつしか収縮に転じて終わるというビッグクランチ。いずれにしてもはじめと終わりがある。

  さて、ホーキング博士は宇宙は球体だという。中心点を通る時間を虚時間。球表面の任意点の接線が実時間。時間軸が二つあるから、球体になり、はじめもおわりもない、というか、すべての時空点においてはじめてでもおわりでもあるような境界のない宇宙ができる。

  宇宙が無境界ならば、私自身も同じではないのか。生まれる前は両親がいる。二元的な時間軸があり、ひとつになって、私がうまれる。宇宙球体の微小な点はそこから膨張宇宙のようなライトコーンがある。さらに、私自身もまた時間軸の二元性をもっている。私は私自身を意識しているのだが、自己分裂している。これが実時間と虚時間だ。有性生物だけでなく、無性生物はどうかといえば、一なるものが二つに分裂。順番がちがえど、二つの時間軸になる。

  さて、あるものが生きていて、虚時間を通る。宇宙球体の内部において反対側に到達し、反射して球体内部を別の軌跡を経る。球体内部を満たすのは事物ではなく、事象である。いろんな事象は重なることにない一回限りのものがつまっていて、ひとつの事象Aは球体中心を経る虚時間の無数の進行経路において共有されているのだ。極端いえば、しょうゆのシミをつけてしまった事象Aは別の一生における一場面にも使われる。事象はおのおの唯一無比だが、別の時間連続過程において異なった文脈の要素として使われているのだ。



2014 10-31


デカルト的自我と状況のなかにいるものたちについてである。らくだがくじらの背中にしがみついてミーンミーンと意味深に鳴いている。ハマグリが海女さんと出会い愛の逃避行。この世界はそんなにでたらめなのか。われわれは筋の通った秩序ある世界に住んでいるではないか。より客観的に考えると、われわれはじつにカオスな活動をしていたことがわかってくる。

  デカルト的自我についてである。我思うゆえに我あり、別の言い方では、我疑うゆえに我あり、である。すべてを疑っても、疑っている自分の存在だけは直感的に疑えない。自分の存在は特別なのだ。私と世界のあいだに一線をひくのだ。なんか具体的な状況のなかにいな、世界のなかにいない自分。これがデカルト的自我であり、科学が客観的に観察するためのスタイルになった。なんだか腹が減ったから3+3は5にしようとか、悪漢に追われているから3×3は8にちゃえとはならない。私は宇宙の外から冷静に客観的に眺めるデカルト的自我。これを神の視点ともいう。

  次の話は状況のなかにいるものたち、についてである。ユクスキュルはすべての種は感覚だと行動するときのからだの構造、足の本数だって違うから、その種独自の環境世界のなかに住んでいるという。この発想にもとづき、ハイデガーは世界内存在を提唱。世界のなかにかたまりとしての私がいるのではなく、私は世界に住んでいる、溶け込むように世界に開かれて存在しているという。

  さらに、ネオプラグマティストのフィッチャーの状況倫理。カントのように善悪っていうのが絶対的、無条件ではなく、その時々の状況に応じて善悪はそれぞれ決まるのだという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   自然界は秩序あるものから無秩序へと移行するという。これが熱力学第二法則であるエントロピー増大の原則。ところが、人間をはじめとする生命は無秩序、でたらめから秩序ある自動車、家をつくる。だから、エントロピーを減少させているという。

  さて、100ページの一冊の本がある。これをちぎって上にほうりなげ、適当にくみあわせる。ページの順番がばらばらである。ところが、1,2,3という並びはわれわれ人間が文脈、流れのなかに作り出した規則。だから、別の文脈に生きる宇宙人がいたら、それはでたらめであり、1,5,3,7という並びこそエントロピーが低い状態ととらえるかもしれない。つまり、状況のなかの文脈によってエントロピーの増大は相対的に決まっているのだ。デカルト的自我のように、客観性をもてば、すべてはエントロピーが増大しているのかもしれない。われわれ人間の活動も宇宙人の文脈からすれば、風で動く木っ端のようなエントロピーが大きい現象かもしれないのだ。

  かって、ボーアのコペンハーゲン解釈は箱の中の猫が見る、観測するまでは確定しないで見た瞬間に生きているか、死んでいるかが確定するとした。これは見たものしか信じないという実証主義の極み。きわめて科学的だ。ところが主観的な観測が中心である。そこで、主観でなく、すべて客観という立場がある。箱の中の猫はあらゆる状態で並行世界にふつうに分岐しているというのが、多世界解釈だ。実証主義と客観主義、先のすべてがエントロピー増大というのはこの客観主義の極みだとおもわれる。


2014 11-1


世界内存在とクオリアについてである。この世界を単純、シンプルに知りたくなってきた。真剣な顔でなく、眉毛と眼が離れたぼーっとした顔つきで口笛を吹きながら知りえないか。この世界と心はコップの水にたとえられることがわかったのだ。

  ハイデガーの世界内存在についてである。世界のなかでこりかたまって存在しているのは世界内部存在者。人間は世界のなかに溶け込むようにいるのだ。いろんなものにかかわり気遣い、配慮しながら存在。道具の連鎖である。世界があるということ、これを世界性というが、これは道具のネットワーク。鉛筆は書くため、書くのはなになにのために、という連鎖。これを有意義性連鎖というが、そのなかに開かれた状態でいるのが、世界内存在である。

  次の話はクオリアについてである。クオリアとは感じること自体である。友人のAさんは果たして本当に夕焼けをみて、なにかを感じているのだろうか。そのように見えたとしても、もしかしたら精巧にできたロボットかもしれないれないし、心のないゾンビかもしれない。マリーの部屋というお話がある。マリーは科学者であり、色についての物理学を研究している。ところが、彼女は生まれたときから色のない白黒の世界に住んでいる。色は光の波長で網膜を刺激して電気信号で神経に伝わることを知っている。さて、彼女がはじめて外にでて美しい緑を見たとき、なんというのか。理屈では知っているが、色を感じたのははじめてである。クオリアを理屈で説明できるかどうか、という問いである。


  存在の科学

   異次元理論


    コップのなかの水を物質、空気の部分を心とする。コップにふたをする。空気ではなく、ひたすら収縮するなぞの気体としよう。すると、気体が収縮すると負圧で水は膨張。これが宇宙の膨張だ。収縮もある一線を越えると、水に溶け込もうと、気泡になる。この気泡が個人個人の意識。気泡はついに消滅し、また新しい気泡が発生。キャビテーションという気泡発生装置がある。流れの中で発生する。そして、気泡消滅時に超音波を出すという。おなじように、心の気泡消滅でなんらかの波動がでて、周囲の水の流れを止める。これが量子論の波動収束ではないか。

  さて、肉体は有機物であり、アミノ酸からできている。地球上で生命が誕生したのでなく、そのもとのアミノ酸は宇宙から飛来したという説がある。これがパンスペルミア仮説である。宇宙にはアミノ酸の生成場所があるという。ビールくさい、酵母工場だ。ビール精製と同じく、糖質を酵母菌が食べてアルコールと二酸化炭素に分解。食べるとは分解する化学反応。人間も食い物をたべて、たんぱく質などの栄養と残渣に分解しているのだ。こうやって炭酸入りのビールができる。この生命の肉体のもとをつくる工場は宇宙に点在しているが、これは宇宙全体の先にいった気泡消滅時のクオリアと同じ構造だ。ここに自己相似系、フラクタルがある。宇宙全体の気泡発生システムは心を、その宇宙内部の小さな同じような構造のシステムが肉体を作っているのだ。肉体は心のフラクタルな部分だったのである。


2014 11-2


大森哲学と錯覚論法についてである。この世界はすべて自分の心からでてきたものだ、と身から出たサビをかっこよく表現してみる。つまづくときも、かっこよくつまづき、あたかも、見えない敵と戦っているようなそぶりだ。絶対的にあるのは私の心で、あとは私の心が錯覚化したものではないのか、というお話である。

  
   大森哲学についてである。独我論的現象主義という。まず最初に世の中に原子っていうのがあって、これが集まって分子、以下略なのではないという。日常言語の脈絡に原子っていう言葉ができる。つぎに原子の対象性がうまれる。対象とは自分にとってあるものだ。こうしてついには原子の存在がうまれる。

   次の話はエアーの錯覚論法についてである。ビーカーに水を入れ、その中にガラス棒をいれる。ガラス棒は折れ曲がって見える。遠くにあるはずのものが近くにみえるという蜃気楼。これらは錯覚だが、見ているものはありのままを感じているだけだ。正しい知覚とまちがった錯覚は連続的であり、とぎれなしだ。これを区別できない。感じたままを記述しちゃえ、という現象主義の使う言語、これを感覚与件言語という。これにたいして、証明できないけど、時空に物体がありことは約束ごとで決めましょう、という物理主義の物理言語。要するに、正しい知覚と錯覚はこの言語選択によって決まるという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   仏教において、すべてが空であり、自分を構成する五蘊も空だとするナーガルージュナの中観派。これに対して、ヴァスバンドゥは心だけは絶対的に存在し、あとは空であり、すべては自分の心の中から現れたもの、この心のなかに阿頼耶識があり、アラヤとは蔵の意味で、この中にすべての種子があるという唯識派。今回はこの唯識派的な考えをしてみたい。

  私の身の回りで起こることは、私のからだのなかの現れ。さらに、私のからだは私の心の影、現われ。オリジナルは絶対的に存在する私の心なのだ。それ以外は無、空という真っ白なスクリーン。このスクリーン上に心が誤差、劣化した状態で現る。つまり、錯覚となって現れる。真実の私の心が一次的ならば、二次的錯覚として身体。これは心が多少ゆがんだ像である。三次的錯覚像が目の前の私にとっての現象界。さらに、もっと劣化が進み、心がゆがんだ四次的錯覚像が私をも含めた物理宇宙の全体なのだ。




2014 11-3


現象主義とバークリの神のまなざしについてである。バナナを眺めみている。かってゴリラのボスだったころを思い出し、過去の栄光に浸っているのではない。バナナは見られているのだが、同時に私もふくめて観ているものがいる。これがブラックホールという神の眼であった。

  現象主義についてである。バナナがあるが、それが物理的に実在するバナナとはいわない。なぜなら、自分の外に何かがあることは証明できない。感じたままをいえばよい。黄色く、長細く、甘いという感覚情報があると。これが現象主義。このとき使う感覚が与えられたままの言語が感覚与件言語。自分の外に時空に、何かが物理的にあることを認めようというのが物理主義であり、物理言語を使う。

  次の話はバークリの神のまなざしについてである。バナナがあるからそれがみえるのではなく、私が見ているからバナナがあるという。もしも、そこに自分がいなかったらないのか。きっとハエなどがみている。虫一匹いなくても、神様が見ているからバナナはそこにある。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   ラザフォードの太陽系モデルというのがある。かって、原子の構造を解明した科学者たちが、その構造が太陽系とそっくりだということに気がついたのだ。中心に太陽、まわりには惑星がまわる。同じように、中心には原子核、まわりには電子だ。ところが、現代の量子論においては、この太陽系モデルはこわれる。なぜなら、原子核のまわりをまわる電子は確率的に存在していたのだ。ひょっとしたらの確率である。ひとつの電子が並行世界のごとく、いろんなところに分身している。原子集まって分子、分子集まって猫。だから、シュレーディンガーの猫では、箱の中の猫はいろんな状態がかさなった雲の状態。

  さて、現代の量子論のモデルをラザフォード太陽系モデルの逆輸入的に宇宙にあてはめる。すると、太陽系のまわりの惑星はいろんなところに確率的にあることになる。また、地球上のあらゆるものも、すべてが無数の状態が重なる。実際はかさなっていない。量子論だと、箱のなかの猫を見た瞬間、猫の原子を構成する電子の位置が確定、収束する。同じように、太陽系が惑星の雲でなく、確定しているのはだれかが観測しているからだ。

  太陽系や恒星が集まって銀河系になる。銀河の中心にはブラックホールがあり、これはすべてを吸い込み、ついには事象地平面という球面より内側では光速を超える。つまり、時間が逆行する。以前話たが、これは意識、意志だ。意識は目的という未来から今の肉体を動かし、今から過去を想起する。ブラックホールは観測者の目だったのだ。
 さて、ブラックホールは銀河系内のすべてをみている。みていなかったら収束しないで雲の状態。これが現象主義的である。すべてを感じたまま、見ていないところを前提にしない。われわれがブラックホールになって周辺を銀河にする方法はすべてが感じている現象だけとするか、見えない後ろも正面にもってくることだ。後ろの正面である。自分を中心にして、球体の内側の全部を見たとき銀河になる。


2014 11-4

感覚と知覚、そして、絶対与件についてである。目の前にひろがる世界、宇宙。いたってシンプルに考えると、それは私ではあらずもの。私なんだけど、私自身が裏返ったものが世界なんだ、というお話をしたい。

  感覚と知覚についてである。常識学派によると、感覚は主観と客観が分離していない状態。いたい、かゆい、くすぐったい、白い、などである。こんな感覚が組み合わさって知覚になる。私と世界にここで分離する。テーブルの上のりんごをみている私。りんごの知覚である。感覚から知覚が組み合せかたは人類共通マニュアルである共通性質、コモンセンスによるという。また、カントの場合は感覚から知覚でなく、表象である。このとき、カテゴリーというもので組み合わせられる。

  次の話は絶対与件についてである。感覚や知覚っていうのは、自分の意のままにコントロールできない。向こうから一方的にやってくるのだ。与えられるものを与件という。絶対的に与えられるから絶対与件だ。

    まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   前回お話したが、球体の中心に自分がいて、球体の表面内部を現象面としてみている。私は自由意志があり、不確定である。それをもやもやした雲であらわす。この雲という自由意志の及ばないかなた、地平は確定的にある。この確定性を四角の図で表す。四角のなかに雲がある。これが絶対与件の感覚だ。なぜだか、雲が大きくなり、四角が小さくなって、反転、入れ替わる。雲のなかの四角になる。すると、これが知覚になり、現象世界になるのだ。四角はりんごっていう知覚、確定的な対象物。その周囲はぼんやりと背景になり、ジェームスのいうフリンジの周辺部、ゲシュタルト的には背景、地になる。雲は自由意志だったものが背景と化すのだ。そして、感覚は知覚と化す。


2014 11-5


自由と信仰、そして、単独者についてである。ブラックホールが神様のようなもので、しかも、永遠の魂になるためにはどうすればよいのか。ブラックホールと永遠の魂についての考察をしてみたい。

  自由と信仰についてである。カント哲学においては自由っていうのは、道徳的な実践の存在根拠だという。一見、意味不明な文。われわれがみている現象の世界は原因があって、結果がある世界。また、こうしたからああなった、という仮言命法の世界。ここには道徳的実践がない。助ければごほうびもらえる、というのは仮言命法。なんの原因や条件なしに実践すること。だから、自由が道徳が存在するための根拠。また、自由は眼にはみえないけど、みえるようになった自由が道徳。道徳は自由の認識根拠だという。

  現代においてはニーチェはこんなカント哲学を批判した。カントは神様への信仰のために自由をとっておいたという。ニーチェ自身は永劫回帰思想。永遠にひとは同じ一生をリピートしているという。だから、運命論だ。すべてが運命だとして全面肯定することがむしろ自由そのものだという。

  次の話はキルケゴールの単独者についてである。ヘーゲルのようにすべてに当てはまる普遍的真理を批判したキルケゴール。神様は万能で普遍的だが、その前に立つひとは個性的で、自分らしさをもつ有限でちっぽけな存在だという。あれはできるけどこれができない、という有限性こそ自分らしさ個性なのだ。ちっぽけな有限性、これが単独者であり、真理は個性、個別的なものだという。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   以前、ブラックホールは銀河系内の太陽系や恒星、惑星など、量子モデルで確率的に重なって存在している雲を収束する観測者だといった。ところが、それでも観測されないで雲の状態のままのものがいる。それが生命の魂なのだ。観測されると物体となってしまう。夢の世界も観測されていない。自由意志とは不確定な電子の海なのだ。収束されないため、つまりは永遠の魂のために神への信仰を説くキリスト教。まさしく、キルケゴールがいうように、神様のもとで有限性、唯一無比の個性的な自分になることで、収束しないのである。すべて形がちがうピースをくみあわせたジグソーパズルが世界だとしたら、唯一無比の個性的な自分らしさで信仰に目覚めれば、もはや、収束のしない永遠の魂になると考えられるのである。




2014 11-6


主観と客観、そして、イデアと物体についてである。この世界はじつは私の影だといったらいままでちゃらちゃらしていた老若男女は神妙な面持ちになる。もしも、影だとしてもどういう根拠があるのか。影である証明を試みたい。

  主観と客観についてである。手前には自分の心、向こうには客観的な物質世界がある。これが物心二元論。主観も客観も分離していない状態がほんものだというアヴェナリウスの自然的世界概念。もしくは、メルロポンティはこれを生の存在とよび、ここから二次加工してわれわれは認識しているという。ディルタイは私と世界の縦の軸に体験があって、体験は感じて、イメージして理解して、理解にもとづいてまた体験という循環だという。また、文献のように、全体を読み終えて部分を解釈、部分から全体をまたもや解釈。これを水平的な解釈循環という。


  次の話はイデアと物体についてである。古代ギリシャのプラトンはもの、存在者の原型はイデアだと考えていた。いろんな形の大根があるけど、これらは大根のイデアの影である。さて、現代思想のなかにこんあものがある。数学的イデア世界から物体の世界がうまれ、この物体が複雑になって肉体、肉体から意志の世界がうまれる。そんな意志がこんどは数学的イデア世界をおもいなす、という三角形の循環があるという。 


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   影とか、鏡っていうのは左右が逆転しているのでなく、前後逆転なのだ。顔が後頭部、胸が背中、腹が腰になるのだ。つまり、自分がひっくり返っているのが影。以前話たが、この世界は自分がそっくりひっくり返ったもの。だから、世界は自分の影なのだ。

  プラトンのイデア論だとイデアは存在者の原型、存在そのものだった。存在者はイデアの影だという。ところが、実際はイデアは凹凸の不陸なスクリーン、無、空というスクリーンなのだ。数学的イデアには実体がない。そこに自分の意志の活動が影となって投影。でこぼこ感は数学的イデアの法則であるが、それと影の動きがあいまって、現象世界の予測不能な出来事に見えている。そして、そんな影がこんどは物理的なものになっているのだ。

  私と世界の前後対称性はディルタイの体験性でもあり、イデアと物体と意志の三角形も影を介して考えることができるのである。


2014 11-7


顕現の本質と連続性の原理についてである。じーっとしていると二つ、動くと三つになるもの。それが意志と宇宙の関係だった。それはまるで二枚のコインであり、こすると三枚にみえる。

  アンリの顕現の本質についてである。ハイデガーの前期哲学からはじまる。ハイデガー哲学は超越の哲学。自分から脱け出そうとする脱自。このとき、超越するのだ。自分を超えようとする。このとき、自分の存在そのものを感じ取る。超越を引き起こすのはなにかといえば、これまた、超越である。すると、超越の超越というように無限になってしまう。これにピリオドを打とうとしたのがアンリである。もはや、自発的な超越でなくて、受容的、受動的な受身、内側からこみあげてくる内在だという。これは感情という力だという。

  次の話はラブジョイの連続性の原理についてである。まったく正反対のものも連続しているという。動いているものととまっているもの。無限というのをサンドすれば連続する。とまっているとは無限に小さな運動だ。等しいものと、等しくないもの。等しいとは、無限に小さな等しくないものだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   数学的イデアの世界は無というスクリーンだといった。しかも、凹凸、フォルム、形式的な形になっているスクリーン。ここに意志、意識の活動が影になってうつりこみ、その動きとスクリーンの不陸ゆえに、多様な現象となって影が動く。この影が物体であり、肉である。ここからまた、意識がうまれる。数学的イデア、影としての物体、そして、意志の世界の循環である。数学的イデアはロゴスであり、非実体。物体は影であり、半実体。現象界でもある。意志は実体である。自由意志はカオス。だから、カオスとロゴスと肉の関係でもある。この肉、物体は非意識であり、無意識をうみ、ついには意識、自由意志になる。心の奥底からくる感情はこの影、物体の非意識からである。

  もしも、静的にみるならロゴスとカオスの二元論。静的二元論。動的になると、ロゴス、カオス、肉の動的三元論。二枚のコインをこすると三枚にみえることだ。

  キリスト教でははじめにロゴスと肉があったという。カオスは自由意志といったが、サタンかもしれない。すると、人間的自由と悪というシェリング哲学のテーマにもなる。


2014 11-9


人間的自由の本質と全体論についてである。人間は悪なのだろうか。たしかに、悪巧みをしたり、悪意をもってリングサイドから敵選手の足をひっぱることだってある。だからって人間の自由意志がサタンだといってしまったら言い過ぎかもしれない。そして、自由意志の奥になにがあるのか、もっと深く探るとき、そこには永遠の循環があることがわかってくるのだ。


  シェリングの人間的自由の本質についてである。シェリングは絶対無差別の哲学である。あれもこれも、すべては一なるもの。靴下をトランクスのようにはいているひとはいない。とりわけ、私と世界は一体だという。ここから、神様は宇宙そのものという汎神論的な香りが漂ってくる。そして、ついに、シェリングは汎神論のレッテルをはられそうになり、人格神とさらに、人間はなんで悪事を働くかの研究をする。それが人間的自由の本質という書である。

  人間は靴下と同じように神様によって作られた被造物である。神様は善そのものなのに、なにゆえ人間は悪事をするのか。すべての存在者は存在する限りでの存在者と根底から存在する限りの存在者がマッチしていて、調和しているという。自分でいようとすることと、自分を超えて拡張しようという力である。神様も同じだという。ところが、人間はこの二つが分離してしまい、ゆえに、善と悪の選択の自由が生まれたというのだ。

  次の話は全体論についてである。部分があつまって全体というのは無味乾燥な機械論。そうではなく、たかが、ちっぽけな部分であっても全体と直結しているという。これを全体論、ホーリズムという。

  まとめ
  
  存在の科学


   異次元理論

数学的プラトン世界は非実体であり、これは無のスクリーンだといった。ここにはフォルム、凹凸があり、これが数学的、論理的形式であり、意志の世界の活動の影を投影され、動きと凹凸により、多様な現象が現れる。そして、影が物体の世界だ。

  意志の世界は自由であり、規則性がないのでカオス。数学的イデア世界はロゴス。そして、物体の世界が肉である。聖書でははじめにロゴスと肉があるといって、自由意志のカオスがなかった。カオス=サタンならば、自由意志がサタンになってしまう。中世においては神学の時代、後の近代において自由意志を標榜する啓蒙思想がうまれた歴史があった。以前、動的三元論といったが、ロゴスと肉だけにするため、自由意志を信仰でうめると、この動的なものが静的二元論になる。つまり、永遠の魂の世界になる。

  それではこの自由意志の成立根拠を探ってみたい。まず、意志の世界は肉体、物体の世界によって引き起こされる。とどのつまり、原子に行き着くが、原子は点粒子や質量0の光、スピノール、一次元の最小のひもによって構成される。つまり、幾何学的なものが物体の根拠。数学的イデア世界が成立基盤だ。また、この数学的イデア世界の点なり、線の向こうにはひも理論にあるように、個次元が畳み込まれている。余剰次元論だ。これが自由意志の世界だ。こうやって、三つの領域は無限に循環しているのである。



2014 11-10


アブダクションと万物流転についてである。三つの世界の循環、意志、数学世界、物質世界の三人兄弟。これらの三つの世界を無理くりひとつの世界に押し込めたらどんな世界観が生まれるのだろうか。意識、無意識、超無意識、という心の奥底で行われている日常を描いてみたい。

  アブダクションについてである。パースは科学の方法として、帰納、演繹法を主張した。トドは空を飛ばない。なんども観察しても、トドは飛ばない。これで仮説を法則にする。これが枚挙的帰納法である。ところが、万が一、空飛ぶトドが出現したら、まずは、静かに腰を抜かしてみて、その変則的な出来事を推論して新たな仮説をつくる。この推論が説明的推論といわれているアブダクションである。

  次の話はヘラクレイトスの万物流転についてである。パルメニデスはあるものは永遠にあり、無いものは永遠に無いという。万物が変化するのは錯覚、仮象だという。これとは反対の主張が、すべては変化するのが真理であり、永遠のもの、存在そのものというのが仮象だという。

  まとめ

 存在の科学

  異次元理論


   意志があり、数学的プラトン世界に影を落とし、その影が物体になり、ついには肉体、意識を生み出す。この循環をひとつにまとめる。意識の背後には無意識、さらにもっと奥には阿頼耶識。ここにはあらゆる出来事の種子がある。自分にとって出来事を作っているのが無意識、阿頼耶識のふつうの日常なのだ。また、そのもっと奥には非意識、物体の世界。ここにおいては、なんと万物の法則を生活のなかで創造しているのだ。ある一定期間だけ、3×3は9、物理法則の光の反射率などの係数も、ある期間に非意識が創造した産物。だから、古代においてはわれわれの知っている物理法則がなかったかもしれない。古代人が巨石を動かせたのである。万物の法則すら流転するのだ。



2014 11-11
リゾームと種子学説についてである。大地に根付いて生きる植物。一本の木が物語る宇宙の構造、意識の姿。大地には根っこ、地上には幹、枝葉があるというそのつくりがすべてにあてはまるのだ。

  ドゥルース、ガダリのリゾームについてである。通常の思考はツリー構造である。幹があって、枝葉末節に行くがまた幹に戻る。ところが、リゾームという構造を提唱する。根っことか、土中の菌糸体である。ツリーには中心があり、はじめと終わりがあったが、リゾームは中心から逃げようとする動きであり、はじめもおわりもないという。

  次の話はアナクサゴラスの種子学説についてである。すべてこの宇宙は種子でできているという。この種子のことをスペルマタという。たとえば、らくだはらくだの種子を多くもち、きゅうりの種子が少ない。圧倒的に多くの種子がそのものを決めているというのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   天と地がある。木は天に向かって文字通りツリー状に生える。これは現実の世界だ。大地のなかでは根っこが生える。菌糸体もいるが、これはリゾームであり、接続詞、そして、でつながる支離滅裂な世界。これは並行世界、確率的世界だ。だから、地球空洞説で、地球内部に多くの並行宇宙がつまっている五次元世界があるという考えも生まれる。人間もまた、外面的にはツリーだが、その内面はリゾームである。原子もまた、確定的に振舞うが、その内部はまさにリゾームのような様相を呈する。量子論における電子の確率的な存在、雲になっているのだ。すべて内部は不確定であり、確率的、並行世界の羅列であり、外部は中心性と周辺の不可視性というゲシュタルト的な現実世界構造をしているのである。

  天と地が逆転するときがある。それはあたかも、極点がひっくり返るポールシフトのようである。すると、外部の意識活動がリゾームのように多くの並行世界をまたにかけて移動する夢のような世界になり、内面は逆に一本筋の通った強い人格で保たれるのである。天地の界面が境界となって反転するのだ。この界面、二次元平面には三次元情報のすべてを含むというホログラム理論へと通じてゆく。、


2014 11-12


写像理論、可能世界論、そして、エピクロスの宇宙論についてである。何事も形から入る、という座右の銘をもつものがいるかはわからない。ただ、形は意味を生み出し、形は境界、輪郭によってうまれるが、その境界は高次元、低次元の影響によって作られるというお話をしたい。

  ヴィトゲンシュタインの写像理論についてである。前期ヴィトゲンシュタイン思想であるが、宇宙、世界は事象、出来事の集まりであり、これに文が一対一でしっかり対応するという。まるで、出来事を写真という像に収めるようなものだ。これを写像理論という。

  次の話は可能世界論についてである。現代論理学において、真偽の二つの値でなく、ちょっと真っぽいとか、必然、偶然など、多くの値をもつ論理学を多値論理学とよぶ。このなかに可能世界論がある。いわゆるひょっとしたらの並行宇宙なのだが、これが実在するしないは関係ないとするクリプキ。ソクラテスは床屋だったかもしれないし、もしかしたら女性だったかもしれない。こうなると、可能世界を貫く、これを貫世界性というが、そういうものは固有名詞だ。これを固定指示子という。また、可能世界は実在するという哲学者もいる。

  最後にエピクロスの宇宙論についてである。エピクロスといえば、その幸福論では快楽主義で有名だ。かれの宇宙論は唯物論である。すべてはアトマという粒でできていて、これがケノンという虚空のなかを回転しながら落下しているという。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


  前回話たが、天地の境界の地表面は二次元であり、天はツリー、地は根っこであり、リゾーム構造だといった。これは原子では電子の雲、人間なら、心がリゾームで、外面がツリーと同じである。

  さて、地表面は厚さのない二次元平面。ホログラム理論だと、二次元平面に三次元情報が蓄積されている。この天地の境界面の下側と上側が違う特性をもつ。地の側はリゾームであり、一次元の線に近い。そして、一次元といえば、ひも理論のひもであり、ひものなかに高次元が畳み込まれているというのが、余剰次元論だ。また、天の側はツリー構造であり、これは一次元上の四次元時間軸の特性を示し、それゆえ、分岐する時間軸のような形になっている。これは一次元の線でもいえる。そもそも、一次元の線でえがいた文字、絵などは高次元、並行世界を網羅するのでフィクションを描ける次元である。次元を三次元に移すと、三次元境界物というのが考えられる。これは四次元時間を仕切る境界であり、未来側は種子、根っこであり、いわゆる地の側と同じ。過去側は逆に天と同じようなツリーになっている。未来に向かうとは地に向かうこと、落下である。まるで、エピクロス宇宙論におけるアトマのらせん状の落下である。物体は落下して、重力中心に近づくことで、重力に近いゆえに相対論的には時空のゆがみから、時間が長くなるのだ。ついには永遠の長い時間を目指して地に向けて落下するのだ。



2014 11-13


非法則論的一元論と日常性についてである。世界をいろんなレベルにわけて考えたりするのでなく、今回はスパっとすべてを一なるもののなかに無理くりにグイグイと押し込めてみたいとおもう。マクロとミクロ、生命と物体も同じようなひとつの世界に入る。

  ディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。二元論というものがある。世界を心と物体の二つにわけるのだ。物体の法則は科学で解明している。ところが、心の世界には法則らしきものがない。宇宙、世界は心と物体を合わせた全体。よって、一なる世界を記述するときは、もはや法則的じゃない。だから、非法則論的一元論なのだ。

  次の話はフッサールの日常性についてである。りんごは食べ物、くるまは乗り物だ。こういう日常性は自然的態度。科学はこれらが分子、原子でできていると考える。これを自然主義的態度という。本当は科学っていうのは、日常のなかの土地の測量などの便宜性から計算などから生まれた。ところが、生活、日常こそ、理論的な科学法則でできているという考えにいたる。この逆転を懸念しているのが、危機論文といわれているものだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論



  マクロの世界には惑星、太陽系、銀河系がある。もっと遠くにおいて、もはや、光速を超えた膨張なので、時間が逆転しているなぞめいた世界。時間の逆転は意識に特有だと以前話た。超マクロはふつうの意識的な日常がある。ミクロの世界のもっと小さな限界の世界。原子内部は電子が確率的に存在するし、ひも理論のひもの向こうは別次元が詰まっているという。つまり、ここにも普通の等身大の日常があるのだ。日常と非日常的な無味乾燥世界の交互な縞模様になっているのである。
 
  また、生命っていうのは無秩序を秩序化する。エントロピーを減少させる奇跡なのだ。物体はエントロピーを増大させるもの。ところが、マックスウェルの悪魔という話にあるように、何十億分の一かはわからないが、確立が低いが、沸騰したお湯が瞬時に凍る。水分子が奇跡的に同じ方向に規則正しく運動し、エントロピーを減少させる確率はゼロではない。この世界、肉体も含めて膨大な粒子数である。この粒子数の膨大さが十億分の一の奇跡を頻繁に発生させるのだ。生命とは、言い方は矛盾するが超レアな必然的奇跡なのだ。

   

  2014 11-14


バークリ哲学と価値の哲学についてである。すべては波動である、といったら、なんだかもっともらしく聞こえる。しかも、小さな波が大きな波に乗っかっているという万物皆、互いに乗り物というお話をしたい。

  バークリの哲学についてである。りんごがそこにあるから、りんごがみえるのではない。見ているからりんごがあるという。少なくとも、誰もいなくても、虫が見ているかもしれず、虫がいなくても神様が見ているのでりんごはある、という実質的観念論である。
  
  次の話はパトナムの価値の哲学についてである。りんごは赤い、というのは事実であり、おいしいというのは価値なのか。すべてが価値だという。りんごは甘い、丸いというように、別の性質を強調してもよかった。なにゆえ、赤いという性質がピックアップされたのか。すでに価値が入り込んでいるのである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 
   白い壁をみているとき、差異、違いがないと白い壁は認識できない。白い床との差異。かりに壁しかみていないにしても、あたまのなかでいろんなものとの違いを感じる。ジーっとみていても、眼震といって、眼が振動しているという。ある種の動き、振動によって自分が動くことによって壁を認識している。だから、量子論のように、観測行為という動きがないとなにも見えない。くもの状態なのだ。後ろに回りこむ、別の角度からみる、すべては差異、違いを把握するためだ。また、それは小刻みの振動でもある。観測行為、おのれの振動がなければ、バークリのいうように、そこにはなにもない。


  すべては振動子、波動である。物体に波動と私の心の波動の共鳴が、物を動かしたり、認識させたりすることを可能にする。波長が短いのが未来であり、程よいのは現在の物質、肉体の波動であり、長く伸びきった波長は過去である。宇宙背景輻射というのは大昔のビッグバンの波長がいまものびきった波長してあるということ。過去の波長は長い。そして、この波長の長さは相対的でしかない。意識が未来から現在へのアクセスであり、短い波長が肉体、物体という程よい波長に乗る。日常において、いろんな乗り物を使って移動するが、日常の生活スタイルは宇宙構造の反映だ。だから、意識波長はより大きい波長である肉体、物体波長に乗り、さらに、過去の歴史における長い波長の上にのっているのである。

  すべてはとして把握されている。これは波長を合わせたり、別並行世界なら波形をあわしていることだ。波長の長短は時間的過去、未来。波形は並行世界の違いを表している。


2014 11-15


言語ゲームとイコンについてである。ナビゲーションシステムを使って、仮想世界でゲームをするというものがある。ナビ機能だから当然、この世界の地理情報が反映されている。構造上、酷似している世界は互いに影響を及びぼしあい、ゲームがリアルに、リアルがゲームに影響与える。これはまさしく心の世界と物質の世界にも当てはまっていた原理だったのである。

  ヴィトゲンシュタインの言語ゲームについてである。もともと、人工言語の研究をしていたヴィトゲンシュタイン。後期においては日常言語の研究をする。普通に老若男女がはなしている言葉だ。だれかが作ったわけでもなく、自然発生した言語。これは生活の流れから生まれ、言葉の意味っていうのは文脈からうまれるという。つまり、生活、生きている流れが生んだものだ。言葉の根拠はわかるが、その生活、生きているっていう根拠を求めると、当惑してわからなくなってしまう。そこで、生活は根拠なし、無根拠のうえにあるという。

  次の話はパースのイコンについてである。イコンとは記号の形だ。もともと、キリスト教では聖像であり、神様や聖人を形にしてあがめる。このイコンは言語哲学では記号の形象になる。さらに、文法っていうのがあり、これをインデックス。そして、もうひとつ象徴というシンボルがあるという。りんご、すいか、メロン。これらの象徴、シンボルはフルーツである。そもそも、言語活動yがシンボル的なのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  GPSナビ機能を使った仮想ゲーム。ここでは仮想世界に現実と似ている構造が設定されている。構造上、酷似している異なった世界は影響を及ぼすといいたいのだ。心の世界と物体や体の世界にもいえる。心のなかに世界の全体イメージがあり、これを実際の世界と構造上類似させると、世界を把握したり、変化を与えたりできる。また、自分のからだの動きを俯瞰して、自分のイメージとからだ、肉体を構造上対応させると、からだが動くのである。指示対象と表象、記号もまた、文法、インデックスと世界の構造をかぎりなく一致させることで成り立つ。色、形、イメージ、感情、におい、すべての領域において構造を類似させ互いに乱数の偏差を生み出す。乱数に偏りが生まれるのを影響とよべば、この偏差は別世界が構造類似性によって影響を与えているということになる。ゲームもまた、この世界と一面的にでも同一構造に近くすれば、偏差を生み出し、コントロールできてしまうのである。



2014 -16


本来的時間性と超越論的時間規定についてである。意識やら宇宙やら、なにか難しそうである。時にひとはシンプルなものを欲する。味だって、シンプルで素朴な味が好ましかったりする。意識と宇宙はたったひとつの原子構造から単純に解明できないか、という試みで考えてみたい。

  ハイデガーの本来的時間性についてである。ふつうにしゃべったり、気楽にすごしているとき、みんなと同じぺらぺらな時間を共有している。これを非本来的時間という。過去、現在、未来という直線的な時間。そうではなく、本来の時間とは自分が存在させている時間だという。自分の存在を丸ごとつかむには、自分ではない生まれる前、死後がはじっこなどで、そこからつかもうとする。死への先駆的覚悟性だという。つまり、覚悟して死ぬ気で本気になって生きる時間だ。

  次の話はカントの超越論的時間規定についてである。感覚を理屈をこねるカテゴリーでまとめる。概念的なカテゴリーと感覚っていうのはなんだか相容れない。そこで、その仲介になるのが、構想力だという。過去に見た目玉焼きをみておいしそうとおもう。過去を再生させて想像するという再生的構想力。そして重要なのが、感覚は時間に従うし、カテゴリーも因果律っていう時間概念がちゃんとある。そこで感覚とカテゴリーをくっつけようとするのが産出的構想力。これが超越論的時間規定を生み出し、果てはカテゴリーと感覚をくっつける。現代におけるハイデガーはカントのこの構想力に着眼した。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論



   原子一粒は意識と宇宙だといいたい。原子は原子核の周りに電子が雲のように確率的に存在する。もやもやしているのだ。私が原子核のとき、周囲は不確定なもやに包まれているというのは、世界のなかの自分だ。外部を認識しているレベル。今度は自分は全体である原子になる。すると、おの内面に不確定な電子の雲がある。これが自由意志、不確定な感情だ。部分になって全体をみている世界、宇宙の不確定性、感覚与件の不確実性。自分が全体になってこんどは内面の不確定な意識状態。部分が全体になり、全体が瞬時に部分になるという空間における極端な状態が時間を生む。この自分自身とのずれ、ギャップが本来的時間であり、宇宙のなかの私、私のなかの宇宙になる。これは全体でも部分でもない中間である構想力、超越論的時間規定でもある。


2014 11-17


可謬主義と自己組織化についてである。病気になったら自然治癒力と医者からのお薬処方がなされる。えてして、人の世界は大宇宙と同じふるまいだ。いささか、強引きわまりないのだが、宇宙もまた自然治癒力で回復し、お薬を処方されてるというお話をしたい。

  可謬主義についてである。真理は不変不動であり、てこの原理における動かない支点、アルキメデスの点と呼ばれる。これを基礎付け主義という。これとは真逆なのが、真理は間違っていたら訂正を繰り返す、これを可謬的というが、よって可謬主義という。

  次の話は自己組織化についてである。自分が自分にふれると矛盾する。日本語で日本語について語るのも自己矛盾。ところが、自己意識とか、自己組織化はなぜだか矛盾とはみなされない。自分が自分自身を治す自己組織化がその一例であり、生物の特徴である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  ひとが医者にかかるとき、まずは自己治癒力で治そうとし、それにくわえて薬の処方だ。人間の生活と大宇宙は同じだ。宇宙はマクスウェルの悪魔のように、確率の低いエントロピー減少の生命を生み、さらには、確率が低い量子トンネル効果などを行い、生命の肉体や意識を生み出した。圧倒的に粒子数が多いので、確率が低い奇跡が必然的に起こる。ところが、これによって宇宙はゆがみ、ひずみはじめる。シミュレーション宇宙論ならば、なにもかが宇宙をプログラムし、実行中にバグがうまれ、バグを修正するのだ。まずは、自己組織化、自然治癒力で治そうとして、対象意識が自己意識になる。自己意識は宇宙の自己治癒力の現れなのだ。また、それでも難しいようならば、この宇宙の外の次元から薬が処方。これがなぞの現象となって現れる。たとえば、未確認飛行物体、UFOであり、あれは錠剤である。あれをだれかが目撃することで世界に外的影響を与えるのである。



2014 11-18


行動主義と矛盾対当関係についてである。グッドモーニングというと、おはようでござる、と帰ってくる。挨拶にはじまり、スコーピオンデスロックで終わるのが挨拶の基本なのか。かならず、反応というものが世の中にはある。寝ているものの鼻の穴に筆先をいれると、鼻をむずむずさせるなんたら反応をする。世の中すべてが反応だ、というお話をしたい。

   ワトソンの行動主義についてである。すべては観察可能な行動だという。なにも、走ったり、旗を振ったりするのが行動でなく、眉毛上下運動、胃酸分泌も行動である。なにか刺激をして、心が中間にあって次に反応でなく、刺激されると構造体が反応するだけというパブロフの犬なのだ。

   次の話は矛盾対当関係についてである。論理学において、主語にくっつくのが量化子である。すべての、ある特定の、この、というもの。そして、判断には二つある、なんとかである、という肯定判断となんとかでない、という否定判断。これらを組み合わせると4パターンできる。すべての人間は二足歩行をする。すべて、というのは全称量化子。だから、全称肯定判断。すべての人間は空を飛ばない、という全称否定判断。ある人間は空を飛ぶ、というのときの、ある、とは特称量化子。だから、特称肯定判断。ある人間はうどんが好きではない、というのが特称否定判断。さて、このうち、全称肯定と特称否定は量化においても反対だし、肯定否定も反対だ。特称肯定と全称否定もそうなのだが、これが矛盾対当関係である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   すべてが反応ではないか。ボール1がボール2にあたって動くのも力学的反応。最初にある構造体になっていて、これを刺激すると反応をするものもある。機械なのである。人間の肉体も構造体で反応する。意識も反応するがこの構造体は三次元ではなく眼には見えない高次元構造体。そうすると、形のない同次元構造体があるはずだが、これは眼にみえない力やウィルスのようなものかもしれない。また、眼に見えない高次元構造体は神様である。

  論理学の矛盾対当のように、形ある同次元の構造体である機械と、形ない高次元構造体は矛盾。神様と機械だ。形ない同次元構造体であるなぞの力と、形ない高次元構造体である意識もまた、矛盾関係になる。


   2014 11-19


還元主義と次元性についてである。この世界はなにでできているのか、という問い。ホットケーキは粉でできているし、おにぎりは米の集合体だ。ぶっちゃけいってしまうと、なにでできているといえるかはそのときの気分しだい。世界の究極構成要素はなんでもよい、というお話である。

  還元主義についてである。古代ギリシャの時代から、この世界はなにできているか考えるひとたちがいた。たとえば、タレスはすべては水でできているといい、エンペドクレスは四つの元素の組み合わせ、デモクリトスは原子のあつまり。現代においても、クォークでできているというものもいる。すべては同じなにかからできていると還元してしまうので還元主義だ。すべては生きているというアニミズム、あらゆるものも、もうかるかどうかのお金でみてしまう考えも還元主義だ。

  次の話はメルロポンティの次元性にについてである。次元といったらなんだか高尚なもの、大いなるものというイメージがある。ところが、青い照明に照らされるとすべては青いの次元。テーブルのうえの日本料理、これら料理のすべてを載せる台として次元になっている。なかでも、身体は感じることができる次元。なんと、この世界にあるすべて、ほこりひとつにいたるまで、世界を包み込む次元になれるというのだ。

  まとめ
  
 存在の科学

  異次元理論


  単位系というものがある。長さでいえばメートル。重さはグラム、気温は摂氏などである。これらの単位系はディメンション、次元であるが、これは本当は主体的なものなのだ。科学における観測行為によって、おのれが主体的になることで、それを単位にする。この世界はなにか共通のものでできているのでなく、ハイゼルベルグがいうように、S行列理論、つまり、K中間子とパイ中間子がぶつかって光となんとかにわかれ、さらにあるものとあるものがぶつかって別のものがうまれる。こうやって、無限行列になり、無数の粒子が出現すれば、どれが根源的なものといえない、すべてが根源的な単位系、単位なのだ。これが宇宙の網、コズミックウェブである。

 ほんとうは最小単位や特定単位系があるのではなく、すべてが主体的で個別的な単位なのだ。観測者の主体性が結節点となって、目の前のものが長さ単位系に、長さ次元に押し込まれ、自分を介して別の単位系、たとえば、速さ、距離などと結びつくのだ。すべては主体的であり、主体的なものたちを単位にすることで、他の単位と相互連結するのが科学的な主体のアプローチなのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 13:28| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月23日

仙人新聞 201410−23 3

仙人新聞 201410−23 3


     2014 10-1


純粋経験、そして、認識論、存在論についてである。考えるとは二つにわけること。二つにわけることを考えるのでなく、思考がそのまま二つに分けることしているよ、という動き。それならば、わけないで全部ひとつとか、多くのものがたくさんあるよ、という状態は感じることそれ自体ではないか。感じることはまた実践であり、存在である、というお話である。

   純粋経験についてである。ジェームスやアヴェナリウス、西田幾多郎などの哲学者が提唱した。認識、経験っていうのは、当たり前のように、こっちは主観、あっちは客観というように仕切り作る。さらに、瞬時に感じたままでなく、名前をつけたり、いろいろ加工する。あっおいしそうなりんごだ、と経験する。生のものでなく、加工しまくっているのだ。加工する以前はただのあれとか、それである。しかも、主観と客観が分離していない。これが純粋経験だ。

  次の話は認識論と存在論についてである。認識っていったら、古代ギリシャでは理論的認識、観想といい、テオーリアという。認識とはなにか、と問う認識論。存在論とは、存在とはなにか、と問う。カントにおいても、うわっつらの現象としてのりんごじゃなくて、りんごの本体、これは存在というより、物自体と名づけた。この物自体はなんとおのれの実践そのものだった。存在論は実践と深い関係にある。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   前回も話したが、思考するとは二極化である。主観、客観とか、対象物と背景など。認識もまた、理論的認識にあるように思考である。思考は二元論的なのだ。そうではなく、一元論的、多元論的なのが、ただ、感じるだけのクオリア、これはまた、存在そのものであり、実践である。

  認識とはAは非Aだと主張する。AはA以外のものによって規定される。だから、Aと非Aという二極化だ。これが認識、思考の世界である。ところが、存在、クオリア、実践はAはもしかしたら曲がっていたかもしれないし、壊れているかもしれない、走っていたかもしれない、というようにあらゆる状態、並行世界、可能世界経由で規定される。存在している、実践するとは、いまある状態ではない可能世界からの力なのだ。これは実際、物理学でもそのように考える。鉛筆があったら、鉛筆には重さがあり、これは重力であり、時空を別の並行世界から飛んできた重力子によってゆがめたもの。別次元、別世界からの影響によってものの重力があり、果ては存在するのだ。





2014 10-2


無主体説、そして、存在と現存在についてである。なんと、私と世界は一体、どんなものかと思案した結果、ひょっとしたらいたって簡単、シンプルなのではないか、と思い至る。外界世界とは私とは正反対のものだった。

  無主体説についてである。ヴィトゲンシュタインは言語ゲームにおいて、独我論が極まってしまい無主体、私はいないんだ説に達する。言葉は文法や単語で成り立つが、これらは生活の流れ、文脈の前後関係でできている。りんごという単語に実物のりんごが対応しているように思えるが、その意味は前後の脈絡。私、あなた、かれら、それらという指示代名詞もまたその文脈だ。あなたという代名詞が文脈で決まるように、わたしっていう単語もまた、流れのなかでそうなっている。

  イギリス経験論だとやはりヒュームである。そこに机があると思い込んでいる。その部屋にいなくても、習慣的にそこにあったのでいまもあるであろうと強く思い込む。私もまた、いろいろと感じているのだが、知覚をまとめている束でしかなく、私っていうかたまりではない、私っていう思い込みではないかと考えるのである。

  次の話は存在と現存在についてである。ハイデガーはバナナのように、自分の存在に気づかずにあるものをただの存在。自分が存在しているなーっと存在を感じているのが現存在。存在にかかわる存在、存在とはなにかと問う存在が現存在である人間だった。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   私とは、エントロピーを減少させている。でたらめ、無秩序のものを秩序化する。これに対して、外界世界はエントロピーを増大させている。秩序あるものも無秩序化する。家やダムも風化し、朽ち果てるのだ。まったく正反対のベクトルをもつ私と外界世界。じつのところ、外界世界は私の意識のベクトルを逆にしたものではないか。私の逆再生が世界だったのである。だから、私と世界の全体は相殺して0になり、無になるのだ。生まれて死すまでのエントロピー減少の意識活動。この真逆の過程が私にとっての外界世界だったのである。

  そして、ハイデガーのいう存在と現存在。現存在は自分にかかわる存在だが、これはエントロピーを減少させるもの。存在とは、エントロピーを増大させる発散させるものなのだ。だから、存在と現存在が合わさると無になる。私と私にとっての外界世界が合わさるとなにごともおきていない無だったのである。


2014 10-3


普遍的自我、そして、カントとハイデガーについてである。私にとっての世界でなく、みんなにとっての客観的世界というのは永遠の世界だった。永遠世界と刹那的世界についてである。

  カントの普遍的自我についてである。個人的意識というのは身体的特徴があったり、性格とか、みんなちがうものだ。そのずーっと奥のほうに、みんなの共通する私がいるという。人類共通か、はたまた、すべての生命共通なのか。
  カントとハイデガーについてである。現象っていうのは原因と結果がある因果律に支配されている。ところが、現象の背後にある物自体は因果律はない。りんごの現象でなく、りんごそのもの。物自体は因果律なしなので自由そのもの。自由意志による実践のことだったのである。そして、自由だからこそ道徳がある。原因があって突き動かされるのは道徳とはいわない。

  ハイデガーにおいては私自身をつかみとることが本来的実存だという。私とは生まれてから死すまでの全体。だからこ、自分のいない無に手をかける。これが覚悟である。非本来的実存っていうのはあれやこれやといろんな存在者にまぎれて気ままな状態だ。
 
  まとめ

 存在の科学

  異次元理論

  個人的な私にとっての世界。この世界はエントロピーを増大させ、私自身は意識活動によってエントロピーを減少させている。この真反対のベクトルがくみあわさると0になる。つまり、私と世界の全体はなにもしていない。生まれもしなければ、死せず。ところが、この全宇宙、客観的宇宙全体は同じくエントロピーを増大させ続けている。これに対して、われわれの大いなる私、普遍的自我がいて、これがエントロピーを減少させている。組み合わせると無、0のはずだが、そもそも、個人的意識が刹那的だったのに対し、客観的世界と普遍的自我は永遠のかなたで0になるという永遠性なのである。こう考える、刹那的な個人的意識は一回的なものになり、儒学的な思想観、一回限りの人生という考えが自然にうまれることになる。



2014 10-4


無の無化と超越論的についてである。宇宙誕生のビッグバン、力んで便座シートの上にビッグベン。ビッグバンは何者かがなにかを感じた瞬間だった。そして、これはあくまで物質世界の話。意識世界のクオリアは五次元の衝突だったというお話をしたい。

  ハイデガーの無の無化についてである。私の存在を囲むもの。それは無なのだ。私がいないという生まれる前と死後。ハイデガーは非本来的な存在っていうのは、いろんな具体的な存在者に囲まれてあれやこれやとかかわっている軽い存在。本来的存在というのは、自分自身の存在をつかみとるという。私ではない無から存在をつかむ。これを覚悟という。無を無化することで有になるのだ。

  次の話はカントの超越論的というお話。超越的、経験的な認識っていうのは目の前のおむつをはいたサッカーボールを我を忘れてみつめること。なにゆえにおむつはいているのか。自分から自分が脱け出さんばかりの超越的、脱自存在。サッカーボールの実在感を感じ、これを経験的、超越的実在論という。ところが、そんなサッカーボールと私を俯瞰してみる。世界の中の私は超越的について論じるから超越論的。これはあたまのなかの想像だから、超越論的観念論だという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  四次元宇宙の誕生、ビッグバン。これは最近の研究だとブラックホール同士の衝突という説がある。また、エピキロティック宇宙論といって、二つの四次元宇宙の衝突が新しい宇宙を生んでいるという説もある。

 生命の意識、これはなにかを感じているが、いわゆるクオリアは高次元ビッグバンなのだ。以前話たが、私の意識はエントロピーを減少、私にとっての世界はエントロピー増大せあり、秩序の無秩序化である。この二つがあわさって、ベクトルが真逆なので相殺し、0になる。私と世界があわさる、超越論的なレベルでは無、0なのだ。だから、超越論的観念論でなく、超越論的無である。無とはなにもないことだが、すべてがあるということでもある。右に走っているAさん、左に走っているAさん、すべての世界の状態が合わさると、相殺して0、無になる。全可能世界の集合が無なのだ。すべての並行宇宙、可能世界が集まった空間を五次元バルグという。五次元空間が無なのだ。そして、ハイデガーの無の無化、無が無に衝突というのは、五次元が五次元にぶつかる高次元エピキロティック宇宙論なのだ。これによって高次元ビッグバンであるクオリアが生まれるのである。


2014 10-5

  ヤスパースの哲学と階層性についてである。意識は高次元のビッグバンならば、もっと高次元にはどんな世界があるのか。最高次元は6次元であり、歯の浮く台詞を覚悟して、愛の次元についての話である。

  ヤスパースの哲学についてである。ハイデガー哲学においては存在は現存在じゃないという思想だった。にんじん、大根は存在しているが、人間は現存在している。自分の存在にかかわる存在だという。存在とはなにかと問う存在。ところが、ヤスパースは、にんじんも、大根も現存在だというのだ。すべては自分にかかわっているのだ。このレベルの世界、ふつうの日常であり、日常的世界定位という。自分が世界の外から観察しているのが科学的世界定位、いわゆるいろんな世界の見方がある。なかでもとくに、哲学的世界定位が重要だという。ひとは八方塞の限界状況があるという。闘争、苦悩、死だという。さけられないので、挫折感と、自分のちっぽけな感じから、自分自身のうちへと深まる。つまり、極端に自分にかかわり、究極の現存在になって、ついには自分に穴をあけて向こうをみる。そこに超越者がいるという。これを実存という。

  次の話は階層性についてである。ハルトマンは世界は階層になっているという。もっとも下の平社員が無機物。そのうえに有機物、さらに心ときて、最高次元に精神がいるという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   五次元はあらゆる四次元時空の状態がかさなるので相殺して無だといった。だから、エピキロティック宇宙論においては四次元時空同士の衝突が新しい宇宙をうんだが、意識においては高次元の五次元世界同士の衝突によるビッグバンであり、これがクオリアだといった。しかも、これが無の無化、無と無の衝突だ。このさらにうえの六次元について考えたいのだ。無と無の衝突で、無自身に穴をあける。五次元に穴をあけると六次元だ。二次元の平面、紙に穴をあければ、三次元である。だから、これはヤスパースの実存なのだ。六次元は衝突、対立でもなく、さりとてまた完全な融合でもない。これはヤスパースのいう戦いながらの愛である。四次元時空は無機的な物体のレベル。五次元は意識世界、そして、六次元はもはや神の領域だったのである。もっとも高いレベルの天、六次元は同時に最も小さい0次元の点だった。天は点だったのである。


論理実証主義と確率論証についてである。この世界はかなり筋が通っている。理屈、秩序で成立している。水は高いところから低いところへ流れるのは当たり前だ。世界は秩序が圧倒的大半だが、一部はカオス、でたらめなのだ。

  論理実証主義についてである。物理主義と現象主義がある。現象主義はみたまま、感じたままをそのままいえばよい。赤い、丸い、甘いという感覚的情報があるといえばよい。これが感覚与件言語だ。これだとりんごが物理的にあることを証明するんがたいへんだ。だから、りんごが物理的にありことは約束としてみとめちゃおう、というのが、約束文、プロトコル文を使う。これが時間と空間のどこかにものがあります、という物理言語であり、これを物理主義という。


    次の話はノーリッジの確率論証についてである。この世界はなぜなにもないのではなく、なにかあるのか。ライプニッツの問いである。これに対してノーリッジは確率論証を提唱する。世の中にはいろんなものがある。座っているやまさん、たっているやまさん、いろんな状態だってある。無いっていうのはひとつのパターンしかない。無いっていうひとことだ。だから、あるはないよりも確率的に大きいので、世の中にはなにかあるという。

  
  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

 この世界は秩序あるもののほうが多いかもしれない。まず、心っていうのは時間を感じているので時間意識。これは眼前に、幾何学的図形、つまり、表象、イメージを描く。時間意識と幾何学的図の関係。また、物理的時間は物質とセットになっている。この二つのペアがロゴスである。これらの要素が互いちがいになる。すると、時間意識が物質とあわさる。観察者と物質の組み合わせは量子論であり、不確定、カオスなものになる。また、物理的時間と幾何学的図形だが、これは一見、カオスかとおもうが、空間と時間と考えれば秩序あるアインシュタインの相対論。点の回転であるスピノールが空間、物質を生む。また、非可換幾何学といって、入れ替えできない幾何学は一方通行であり、時間の流れを生み出すかもしれない。つまり、幾何学は本来、時間の流れとは無縁だが、物理時間とつながっているという整合性もとれるかもしれない。

  時間意識を心、物質を肉体と名づければ、唯一のカオスとは心と肉体をもつ人間、生命の自由意志だったのである。



2014 10-8


差異と表象自体についてである。ぼーっとしていると世界がぼやける。何かを集中してみているとはっきりする。また、なにかを集中してみていると逆にぼやけるともいえるし、思考だけのほうが理性的にきっちりしているようにもおもえる。どっちつかずである。思考と感覚の枠をとっぱらえば、きっとその正体はユニタリではないかと見えてくるのである。

   差異についてである。西洋形而上学は長らく同一性の哲学だった。まず、なにかがA=Aという同一性があって、次にAはBじゃないという差異がくる。現代においては差異の哲学がうまれる。まず最初に差異がある。おれだ、といっても、次の瞬間にちがうものだ。だから、おれだおれだと反復する。同一性を目指そうとする差異と反復というジルドゥルースの思想。

  次の話はボルツァーノの表象自体についてである。表象といったらイメージだ。あたまのなかのイメージなのだが、今回の表象はイメージ自体である。実際に眼でみて実在している、といえるもの。そうではなく、世界中の砂粒の数などはだれも数えていない。だけど、表象自体としてあるという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   ぼーっとして、何も見ないで想像にふける。物事がぼやける。見た瞬間にくっきりする。思考はユニタリ展開、量子が無数の状態に発散し、観察、経験はこれを収束なのか。以前、まったく反対のことをいった。見る、夢中で観察しているとき、無数の状態を体感すると。思考によって、きっちりリアルな実在、一なる現実の理解。本能は並行世界を同時進行、理性は一なる世界への従属だと。じつに、思考も感覚も、ユニタリの展開、収束と単純に関係していないかもしれない。むしろ、ユニタリの展開と収束しかないのかもしれない。だから、なにかがトリガーとなって、物事が状態重なるか、絞られるのである。

  ライプニッツのモナド論では、世界は点、モナドというそこからみた主体的な点でできているという。すると、空間の無数の点が主体的な意志、魂の可能性なのだ。だから、道端でばったりあうひと、あらゆる生命はもともとその空間に潜在的に潜んでいたモナドとしての主体的なさいとうくんがユニタリの収束をある種のトリガーによって引き起こされたと考えられるのである。



2014 10-9


パラドックスと信仰哲学についてである。真偽、是非をはっきりする。白黒もはっきりさせたい白黒テレビ。世の中は永遠のものがあるか、はたまた、万物流転か。そうではなく、第三の道を模索したいとおもう。

  パラドックスについてである。いろんなパラドックスがある。たとえば、古代ギリシャのクレタ人のパラドクス。クレタ人はうそつきだ、とクレタ人がいった。クレタ人が正直者なら、言っていることは正しいので、クレタ人はうそつき。うそつきなら、いっている内容が間違っているから、正直者。どっちだかわからないというパラドクス。現代ではラッセルパラドクスがある。集合論において、自分自身は自分の集合に属せないという大原則。フルーツ集合にはみかんが所属できるが、フルーツは属せない。すべての集合を含むっていう集合があるはずだ。これをラッセル集合、R集合という。すべてだから、もちろんR集合も属さないといけないが原則違反になる。これがラッセルパラドクスである。

 次の話はヤコービの信仰哲学についてである。信仰といっても、神様だけでなく、日常のなかの信じるということ。なにかが事実としてあるのはそれがあると信じているからだ。そこにちゃぶ台があると信じるのだ。カントは感覚、感情と宇宙や神様を扱う理性のあいだに悟性を設けた。悟性とは論理的に理屈で考える能力。ところが、感覚、感情と理性のあいだに。ヤコービは信仰をはさむ。信じることで、神様、宇宙と感覚を結びつけるのだ。

  まとめ

    存在の科学


  異次元理論

   世の中はとどまるものがない諸行無常。万物流転しているのだという永遠の真理ともいえる。だけど、すべてが流転するのだから、そういう原理も流転するはずだ。ここにはパラドクスがある。すべては流れるという不動の真理。不動じゃないという真理もある。

  真偽、不動と流転、永遠と無常、これらの二元性を超える第三の道がある。それは信じるということ。まずはそうにちがいないと解釈する。解釈の根本には信じる、信仰がある。いろいろ考えて、もはや、信じるしかない境地にいたる。思考の極みにおいて信があらわれる。そうではなくて、思考以前、判断以前に信仰がある。世界があると信じているという世界信憑性のレベルだ。この世界を作っているエレメントは分子、原子なのか。そうではなく、あるのだか、ないのだかわからないもの。不確定ゆえに信じるしないなにか。つまり、量子でできているのだ。電子の位置は不確定であり、同時にいろんなところに存在する。もはや、信じることで、その位置が確定だ。つまり、原子っていう事実でできているのでなく、信仰、信によって世界はできていたのだ。



2014 10-10



隠喩と大いなる運命についてである。公園にて、あるものはラジオ体操、あるものはウォーキングをしているが、たまにはでたらめな動きでもやってみるか、というノリで足首をいためてしまう。世界はでたらめ、カオスであり、そこから秩序あるものを加工しているのだ、というお話をしたい。

   隠喩についてである。いわゆる比喩である。大きく二つの種類の比喩がある。直喩というのは、これから比喩をいいますよ、と宣言しているもの。きみはまるでかかしのようだ、という言い方。ところが、隠喩は比喩だと明言しないで、なにげに比喩なもの。テレビの前のティッシュをください、というとき、なんとかの前っていうのはじつは、自分のからだに対して言うものだったのである。だから、私はテレビちゃんであり、そんな私の前のティッシュ、ということになる。擬人化しまくっているのである。

  次の話はニーチェの大いなる運命についてである。ニーチェはカントのことを、神様への信仰のために自由をとっておいたという。ニーチェ自身は永劫回帰思想。ひとは永遠に生まれてから死すまで同じことを一寸違わずに繰り返すというもの。だから、どんないやことでもなんども繰り返してきたのだから全面肯定の思想だ。この運命こそが自由そのものだという。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    この世界はほんとうはカオス、でたらめなのかもしれない。きっちりした世界があって、ここからはずれたのがカオスのもやもやした不明瞭な世界なのか。そうではなく、最初に比喩、擬人化たっぷりの隠喩世界がある。ここから、ひとは二次的に加工した整然とした世界を作っているのだ。寝ているときにみる夢は一貫性がないカオスだが、覚醒世界があって夢でなく、もともとカオス、夢の海に泳ぐものだったのである。

  ひとや生命っていうのはその動きを予測できない。確率的な動きの予測ができない。なぜなら、そのものの誕生が宇宙の誕生であり、死滅が宇宙の消滅。だから、宇宙そのものだから決まったルールや予測ができので自由な振る舞いとなって現れるのである。ここにもカオス、混沌というものをみる。

  ユングの晩年の著に空飛ぶ円盤というものがある。UFOというのはすべてのものたちの集合無意識だという。ただし、なにもルールのない混沌を加工するのだが、このUFOが科学技術的なもの、物質的なもので、しかも、はるかかなたからやってきたというすりこみがなされてきた。某大国による陰謀かもしれない。本来は魂や高次元という精神的な現れなのだ。それを外面的、物質的とみなす。このUFOの出現と時を同じくして、貨幣主義、かみっぺらが価値をもつ時代がやってきた。内面でなく外面、精神でなく物質を優位におく世界である。


2014 10-11


理論負荷性とアンガージェについてである。街は変わり行き、ひとも変わる。すべては変化し、生物だって進化してきたし、人類も飛躍的な進歩とげた。ところが、これは自分の変化を考えにいれないからだ。おのれの変化しているのである。

  ハンソンの理論負荷性についてである。なにか絶対に変わらないことがあると思っている。たとえば、科学だと、この眼でみたものは信じるという。つまり、観測、観察が絶対なのだ。眼でみて、鼻でにおうという五感。感覚っていうのはいつの時代もどこでも、みんないっしょなのか。そうではなく、感覚は時代の影響を受けまくっているのだ。しかも、あたまのなかの考えによって五感はかわる。変な妄想を抱けば、色目でみる。頭の中の考えが理論。感覚は理論によって負荷がかかわっているということである。

   次の話はサルトルのアンガージェについてである。人間は徹底的に自由だという。人間であること、性別、これらの本質すら自由による決定。自由な存在、実存っていうのは本質に先立つという。

  さて、自由は単品でなく、かならず、責任をともなう。世界、世の中を拘束するということは世の中から縛られること。これらをアンガージェ、デガージェという。世の中とは無関係になるという選択なので、選択しないというのも選択だという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   外界世界は変化している。生物だって進化し、その頂点に人類が君臨する。人類も科学技術を進歩させている。これらの変化をみるとは、観測している私が変化していないという大前提、虚妄の上に成り立つ。本当は、自分自身すら刻一刻変化しているのだ。自分自身が動きながら動いているものを見ている。だから、世の中の変化は正しく客観的にとらえていないのである。もしかしたら、私の情報の変化と世の中のそれをあわせると、なにも情報の変化がないのかもしれない。

  ある種の情報をシャットアウトすれば、静的な観測系が得られるかもしれないと思う。ところが、ある種の情報の0というのは、その情報がないという強い情報をもつのだ。まるで選択しない選択というアンガージェのように、われわれはさまざまに変化し、影響を受けまくっているのだ。




2014 10-12


ゲシュタルト理論、そして、ヘーゲルの量と質についてである。ひとは意外とおおざっぱである。だんごだ、と叫びながらがぶりつく。だんごの詳細を調査しない。団子を1個、2個、と数える。数というのは量とは違う。量は厳密でしかも、なかには質を含むというお話をしたい。

  ゲシュタルト理論についてである。部分が集まって全体だとふつうは考える。顔、胸、腹があつまってさいとうくん。ヴント要素主義という。モザイクのようだから、モザイクテーゼという。これに対して、ゲシュタルト理論は部分が全体と直結しているとする。豆腐があったら、部分の集まりでなしに、周囲の背景と被写体とのやり取りのなかで浮かび上がるのである。メロディも単音の集まりでなく、全体との関係だ。人間の行動もまた、環境全体との関係だという思想もゲシュタルト的。これはユクスキュルの環境世界論である。

  次の話はヘーゲルの量と質についてである。この世界を論理的に解明しようとした。論理的なものからいつしか発展してなんと物質や生命がうまれる過程、これがエンチクロペディという本。有と無、これが合体して定まった有、定有になる。こうやっていつしか質と量がうまれる。量は無視された質だという。量でもちょっとくすぐったい、といった測定できない内包量。何メートルという外延量がある。

  まとめ

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  異次元理論


    量と数はちがう。量は連続的であり、数は非連続。整数などは1,2,3というように離散的である。これは概算値なのだ。おおよそ、おおざっぱに捉えると概算的な数になる。1個2個などである。ところが、量はちがう。10グラムといっても、厳密には10.000001002グラムかもしれない。もっとも精密値であり、無限小数なのだ。認識イコール概算値。存在イコール精密値である。量は無限量なので、別次元とつながる。四次元の時間軸を無限に伸ばすと五次元。二次元の平面を無限にかさねれば三次元。無限量はその次元のベクトルを変えてしまう。だから、グラムというディメンション、次元のなかには大きさのメートルやあらゆる次元、ディメンションへのベクトルを含んでいるのだ。よって、量のなかの質、というより、量と質は厳密には同じであり、数はそのどちらでもないのである。対象物と背景というゲシュタルトも概算値である数的なものである。


2014 10-13


メルロポンティの次元性とベルクソンの本能についてである。じーっと芋ようかんをみつめる。まちがいなくオーラがでている。オーラとは別の次元への通路をみているのだ。その芋ようかんのオーラには宇宙誕生以来のすべての情報ルーツがつながっている。

  メルロポンティの次元性についてである。次元というのはいろんな要素を乗せているちゃぶ台のようなもの。長さっていう次元があったり、重さだって次元だ。ピンクの照明を照らしたものたちはその照明の次元にいる。テーブルのうえの中華料理や食い物はテーブルの次元にいる。そして、特別な次元がある。自分のからだがあって、はじめてすべてを感じることができる。だから、これは身体次元という。すべての次元を包む次元、これを世界次元ともいう。さらに、なんと、すべてのもの、どんなにちっぽけなケチャップのシミですら、じつはあらゆる要素を包み込む次元だというのだ。

  次の話はベルクソンの本能についてである。ほんとうの時間は過去、現在、未来が凝縮したもの、質的なものだという。これが意識だという。空間や物質は伸びきった弛緩体、今、今という希薄なものだという。

  人間の理性は言語を使う。言語は空間と同じく、互いに入り込まないという不可進入性をもつ。ところが、本能は時間そのもの、入り込むのだ。アナバチは天敵の急所を理性的に言語的に学習したのではない。相手のなかに入り込んで内側から感じているという。

  まとめ

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  異次元理論


  前回、お話したが、量っていうのは無限小数で確定できないといった。数はざっくりと人が作り上げたもの。だから、認識は概算である数、存在は精密値である量。しかも、無限量はディメンション、次元を超えるともいった。だから、長さ次元のなかに速さ、重さ次元がある。ここまでくると、量は質になる。

  すべてのもののなかにすべての情報が含まれる、すべての次元を含むのである。ボーアの内蔵秩序に近い。そして、物体をみつめて、そこからあらゆる情報を引き出す超能力者あいるが、かれらはおそらくオーラを見ているのでないか。エーテル体、アストラル体、コーザル体。これらのオーラはその物体の無限小数における次元の飛躍する穴の現れなのである。相手のなかに入り込んで内側から把握するという本能もまた、このざっくりとした対象性、非連続な数、離散性からではなく、連続量、質的な領域からのアプローチである。



2014 10-14


イマージュ論とトートロジーについてである。刻一刻、すべてのものは自分の世界を作り出している。異次元における自分の世界。それが増殖し、ついには、この物質界のエネルギーになっている、という話をしたい。しかも、物質のエネルギーは情報、論理エネルギーによっている、という話も付言したい。

  ベルクソンのイマージュ論についてである。われわれはほとんど想像の世界にいる。イメージの世界だ。せいぜい、いま感じている世界、実在の世界はわずかであって、そのほとんどは想像ではないか。最初に想像、観念でも、実在でもあるなにかがあった。それがイマージュなのだ。ベルクソンは二元的なものをひとつにしようとする思想が多い。流れのなかで実在っぽくなったり、観念っぽくなるのだ。自分のからだもイマージュであり、この宇宙もイマージュだ。これがイマージュ一元論である。

   次の話はトートロジーについてである。白馬は白い馬だ、と正々堂々と主張。堂々巡り、循環論法、同語反復、これがトートロジーである。いわゆる同一性である。

  まとめ

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   異次元の世界に迷い込んだ人の話がある。自家用機で雲の切れ目に入ると飛行場があったという。その飛行場は人気がなく、それでいていままでひとがいたかのように熱々のコーヒーが注がれていたという。つまり、生命だけがいない世界だ。これは並行世界なのである。幸い、同じルートを逆に戻り生還したらしい。ひとや生命はそのほとんどが感覚的な物質の世界でなく、自分が作り出した非実体的な想像の世界を作り、そこに住んでいる。感覚を閉じる、つまり、睡眠中はその想像世界、夢をみるのだ。そして、作られた世界は主人がいなくなると放置され、それがどんどん増殖されている。これを中間世界と名づけるものもいる。

  この現実の物質世界、並行世界のなかにある中間世界、さらに心の世界。この三つの世界はなにでつながっているのか。トートロジー、同一性の穴である。同一性、イコールというのはディメンションを超えるのである。長さ、重さの次元とエネルギーの次元がイコールでつながったりする。とくに、中間世界は刻一刻、膨大な量、作られているが、これが同一性の穴で現実世界とつながり、エネルギーを注ぐ。これが宇宙膨張のダークエネルギーかもしれない。論理的、同一性のエネルギー、情報エネルギーがまず最初にあるのだ。

  この中間世界は人々の無意識レベルを支配しているという。某国がこの中間世界に入る技術を得たとしたら、この中間世界からひとびとを集合無意識的に操作できるのである。


2014 10-15

心身二元論、そして、アポロとディオニソスについてである。生命は宇宙という場所に住む。宇宙の成り立ちと生命の意識のそれはちがう。どこがちがうか。ベクトルが逆なのである。同じような構造だけど、進んでいる方向がちがうというお話をしたい。

  心身二元論についてである。心とからだ、物質というのはちがう世界だという。心と物体がちがうというなら、物心二元論という。代表者はデカルトである。また、心とからだはちがうけど、なぜだか同じようなふるまいをするというのが心身並行論である。

  次の話はアポロとディオニソスについてである。古代ギリシャ神話の神様なのだが、アポロは端整な美しい青年。論理とか、ロゴスの神様だという。ディオニソスは荒々しい酒と踊りの神様。肉、力の神様である。哲学はずーっとこのアポロを求めていたという。そして、プラトンにおいてはシミひとつないイデアの世界されたが、これこそアポロ的なものだ。現代においてニーチェはディオニソスを復活させる。荒々しい権力、力、肉体を賛美するのである。

  まとめ
  
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  まずは物理の歴史を振り返ってみる。原子は原子核と電子でできている。そして、この宇宙は四つの力、電磁気力、強い力、弱い力、重力があるという。科学者デュラックは電磁利力の動きを解明する。あまりに小さいので、観測できない。だから、計算するうえで計算式を美しくしようと考える。真理は美しいという信念があった。科学のいう美しさは対称性である。x、y座標系の中心と円の中心を重ねると、座標を回転させてもx2+y2=r2が成り立つ。回転対称性があるという。座標を平行移動しても成り立つ方程式、これは並進対称性だ。この二つの対称性を電子はもっていたのだ。また、オッペンハイマーは角度がかわっても成り立つというゲージ対称性によってより電磁気力を解明した。さら、中国の科学者ヤンは原子核のなかの力を解明する。このとき、非可換ゲージ対称性をみつける。非可換なのに対称性だとは難解であるが、これを超対称性という。この理論を使うとなんとすべてのものの質料が0になってしまい、世界は存在しないという結論に陥る。鉛筆を理論上、机に垂直に立ててもかならず倒れる。質料があるからだ。つまり、ある日本の科学者が発見したのだが、もはや、対称性を求めるのはやめることで、物に重さを生み出せるとした。これが自発的対称性の破れである。

  宇宙の歴史において、ビッグバンの初めのころはすべては光速で移動する質料0の世界だった。光に満たされた観念の世界だ。そして、ついには自発的対称性の破れによって、対称性がこわれて重さをもつようになり、物質が誕生したのだという。宇宙は精神、観念から物質という流れである。これに対して、生命は最初は肉体だ。物心ついたり、自意識に目覚めて、観念、心を持つにいたる。生まれてから、より肉的なものから精神的なものへと高まるべきだ。これは宇宙とは真逆である。この生命の物質、肉体から観念への方向が無数にあつまって宇宙の逆の流れと互いに相殺しあい、世界は本当は何事も起きていない平衡状態であることがわかるのである。




2014 10-16



可能世界論と様々な弁証法についてである。進化論においては適者生存、競争原理だという。果たして本当なのだろうか。むしろ、仲良く共生しているのかもしれない。失われた種は時空を超えたどこかに存続だ。そんな進化論を考えてみたい。

    可能世界論についてである。形式論理学だと、真偽のどっちかの値だ。ところが多値論理というのがあって、多くの値をもつ。しかるべきの必然性、そこにえんぴつがあるんだよという現実性、ひょっとしたらほくろ毛かもしれないという可能性という複数の値だ。このなかに可能世界論がある。並行世界のような世界があるという。ただし、クリプキはあるとは明言せず、ルイスは実在していると主張する。

  次の話は様々な弁証法についてである。ソクラテスの弁証術というのがあった。議論ではなく、互いに対話をして、互いのなかからいいものを取り出し、高めあうという。近代においてはヘーゲルの弁証法。万物の原理に矛盾しあうものが融合、たかめあって進化するという弁証法だ。そして、現代においてはメルロポンティにおける超弁証法だ。融合でなく、コインの表と裏のように回転運動だという。

  まとめ

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  異次元理論

   ダーウィンの進化論においては適者生存、競争原理が進化の力だった。また、ドーキンスの利己的遺伝子は、遺伝子が種を維持するために個体を利用するという。はたして、利己的で、競争原理が働いているのか。

  実際、人体のなかにも大腸菌をはじめとして様々な菌、微生物が共存。細胞というものはアメーバのような生き物がミトコンドリア、ゴルジ体を食べ、いつしか共存して作られた。すべては共生かもしれない。それなら、恐竜、滅んだ種は競争原理なのか。実は論理的なレベルで可能世界、並行世界で共存なのだ。物理的にも、作用、反作用は戦わない。作用あっての反作用である。すべては見かけ上、競争にみえるが、その実、共生によって成り立っていたのだ。


2014 10-27

  超越論的感性論とトポロジー幾何学についてである。もしも、この世界に時間も空間もなく、大きさなんてなかったらどうだろうか。それでも、世界はふつうにあり続ける。しかも、いままで気がつかなかったことがわかってくる。なんと、原子核のまわりをまわる電子が人工衛星だったというちょっといっちゃってる話をしたい。

  カントの超越論的感性論についてである。色、形、音っていう感覚が雑然としている。これをまずまとめないといけない。そこで、時間と空間という形式でまとめあげる。感性をまとめるものを上から目線で云々と論じるから、この分野が超越論的感性論だ。しかも、カントはニュートンのように時間と空間は絶対的にあるのではなく、自分のなかにある形式だという。これでまとまり、イメージ像、表象になる。さらにこれらを論理的にくみたてるものを探すのが超越論的論理学になる。

  次の話はトポロジー幾何学についてである。大きさ、長さ、もちろん角度などを無視した幾何学だ。だから、なんとコーヒーカップとドーナッツは同じものとみなす。ひとつの穴のあいたものだからだ。この図形はトーラスという。



まとめ
 
  存在の科学

   異次元理論


  ものの大きさがない、空間と時間がない世界とはどういう世界なのか。いわゆるトポロジーに似ている。すると、電子が人工衛星そっくりであることがわかる。
 
  まず、原子というのは原子核のまわりを電子がまわる。そして、光がメッセンジャー粒子となって原子核と電子のあいだをいったりきたりしていることがわかった。これはまるで、地球をまわる人工衛星のようだ。原子核のなかに知的ななにかがいて、人工衛星をまわしている。実際の人工衛星はさまざまな通信手段でつかわれ、電磁波のやりとりを地上からしているのだ。さらに、原子同士が、電子を共有し分子になる。これは他の惑星と衛星を共有する未来像を意味する。小さな世界、日常の世界も大きさの無い世界では同じなのだ。空間がなければ、すべての原子や分子が重なり合い、大きさの関係のないこの日常とぴったりと一致するのだ。これは世の中にはたったひとつの場所と量子しかなくて、量子が分身しているだけ、という量子ポテンシャル理論と通ずる。

  原子核から時折、電荷的には中性であるニュートリノが伸びだす。これが地球規模でいえば、地球から飛び出すなぞの飛行物体である。これは中性的であり、男女の性別も、善悪も中性のなにかなのである。



2014 10-18


機械論と関係主義についてである。ロボットが大小様々な大きさの歯車で動く。この世界もまた、同じように歯車の原理で動いているかもしれない。歯車がかみあって、世界が動き始めたというお話である。

  機械論についてである。この世界は機械でできているのか。とりわけ、デカルトは動物は機械的だといった。心と肉体は別の世界であり、心はたしかに機械的だとはいっていない。ホッブスは人間も機械的であり、すべてが計算できるという決定論だ。

   次の話は関係主義についてである。ふつうに考えると、まずは大根があって、にんじんがある。そして、大根とにんじんが関係をもつ。最初に実体があって、つぎに関係に突入。ところが、関係主義は最初に関係があるという。さいとうくんとやまちゃんの友情関係があって、そして、おのおのの性格がうまれる。

 まとめ

  
  存在の科学

  異次元理論


    この世界は歯車、ギアで動いているのではないのか。ギアは大小さまざまな直径の歯車によって回転数を変えたり、力を変えたりする。同じ大きさのギアは同じでっぱりとくぼみがひたすら接触するだけだ。ところが、大きさが違うことで、すべてのでっぱりがすべてのくぼみに接触することになる。これが宇宙の動力の構造だ。すべてのものがすべてのものとコミットするのだ。また、すべてのものがすべてを体験、経験するのだ。私はさいとうくんもやるし、さいとうくんは私をやる。これはもはや機械論というより、有機体論に近い。機械論=有機体論という構図になるのだ。



2014 10-19


プラクティスとプラグマティッシュ、そして、最小原理の法則についてである。水は高いところから低いところへ流れる。山登りする水は見たことがない。能率よく動く自然界。これに対して、人間の自由意志がちがうのだが、じつに高次元的には水の流れのごとく、意志が作られているのではないかというお話をしたい。

  プラクティスとプラグマティッシュについてである。カントは本当の王と区的実践というのは、ひとからいわれてやったり、ルールに従ったりするのではなく、因果律なんてない自由意志で行われるという。自由意志と実践はセットなのだ。この実践のことをプラクティスという。なんとかのため、押されて動くという実用性、これをプラグマティッシュといい、カントはさけたものだ。

  現代、アメリカ哲学において、むしろプラグマティッシュに生きようよ、というプラグマティズムがうまれる。パースはすべてが記号だという。記号はなにかのために連鎖だ。だから、デカルトのいう、我思う、だから、我は存在する、というデカルト的直感を嫌う。ディーイ、ジェームスなどのプラグマティストがいるが、真理っていうのはそこにあるというものでなく、真理化だという。生きるうえで必要なことが真理だというのだ。

  次の話は最小原理の法則についてである。一言でいってしまえば、最小の力で最大の効果を得ようという、いわば、能率である。功利主義のミルなどは、最大多数の最大幸福といい、これをベストの状態とみなす。

  まとめ

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  異次元理論

   水は高いところから低いところへ流れるのは当たり前だ。しかも、最短のルートを通る。最小の力で最大の効果を得ようとするのが自然界の物の動きだ。きわめて、プラグマティッシュ、実用的だ。ところが、人間の自由意志はそうではないようにみえる。

 地球の地表のように地形があって、そこを物が転がったり、水が流れる。三次元空間、四次元時空、ここにも地形がある。アインシュタインがいうように、時空の凹凸が重力を生む。さて、五次元にも地形があり、そこを最小の原理で流れるものがいる。それが自由意志ではないのか。つまり、五次元的地形では最小原理のプラグマティッシュなものがこの三次元、四次元時空では自由意志というプラクティスとなって現れているのである。



2014 10-20


被投的企投性と具体的普遍性についてである。この世界は唯一無比な個体の集まりである。人だって、十人十色だし、どんぐりだってみんな形がちがう。靴下だってみんな個性がある。これらの具体的な形は高次元からの影響によって生み出される。

  ハイデガーの被投的企投性についてである。自分が人間であり、性別があり、どういう境遇でうまれるのか、膨大な歴史によってそう決まったのだ。裸一貫で生まれてくる。世の中にこういうものとして投げ出されるのが被投性である。そのなかでもわずかな自由、未来への企てができるが、これが企投性である。

 次の話はヘーゲルの具体的普遍性についてである。ふつうは抽象的普遍性だ。いろんなひとがいるが個々の特徴を捨てて、人間っていう抽象的普遍性を取り出す。人間性っていう特徴のもと、いろんな個々の人たちが生み出される。具体的なものを生む具体的普遍性だ。

  まとめ

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  世界は誕生直後、すべてが質量が0で、光速で飛んでいた。これは回転対称、並進対称、ゲージ対称、超対称があった。ところが、この対称性が壊れる。こうやって質量、重さはうまれる。これが自発的対称性のやぶれである。重力は高次元、五次元から飛んでくる重力子による。対称性がやぶれて質量をもつからこそ、個性的な形をもち、差異、多様性が生まれたのだ。だから、高次元からの影響だ。また、宇宙は膨張し、冷え切って、ついにはてんでばらばらな粒子が一列に並ぶ。こうやって対称性がこわれたのだから、宇宙全体や宇宙の外、高次元からの影響なのだ。しかも、五次元は論理的な可能なすべての具体的な世界のあつまりだから具体的普遍性の力はここからやってくる。


2014 10-21

自己知とカルテジアン劇場についてである。鳥や獣たちは帰巣本能をもっているが、自分がどこにいるのか知ることができるのだ。いわば、高機能なナビゲーションシステムだ。人間にはその能力が劣ってしまったが、その代わりに自己意識という能力を身に着けた。

  自己知についてである。自分のことをよく知っているといたら、古代ギリシャのソクラテス。無知の知といって、自分はなにも知らないということを知っているという。自己知は哲学上の問題として、ドイツ観念論において自己意識として出現。フィヒテは自分自身を意識しすぎて自己滅却といい、さらに、自己意識が私と世界の根本にあると考える。シェリングを経て、ついにはヘーゲルである。ヘーゲルにおいてはもはや誰かさん自己意識でなく、自分に帰ってくるという論理的なもの、反省と名づけ、世界が生まれる過程で登場する。

  さらに現代においては、おれはおれだ、というのはラグがあって、もはやおれじゃないというデリダ。自分自身が自分のまえにあらわるという自己現前を批判。私は他人だという。私はうっすら私をしっているという自己半透明性を主張したのはサルトルである。

  まとめ

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   鳥類も、動物たちも帰巣本能がある。これは現代科学では、どうやら地球の磁場のグリッドを感知して自分の位置を知ることがわかっている。地球は回っているので、フレミングの左手の規則において電磁場がうまれる。この磁場のグリッドを把握しているのだ。自分自身を俯瞰して、その位置を知る。ところが、人間は磁場のグリッドという座標系が使っていない。おそらく、複素座標系を使って、時間的な流れのなかの自分自身の意識を意識しているのだ。自分がなにをして、何を考え、なにを感じているのかを俯瞰してみる複素座標系なのである。これに対応する場のグリッドはおそらくあるはずだが、まだ発見にはいたっていないのであって、仮にこれを意識場とよびたい。カルテジアン劇場のように、自分のなかに心、なにかを感じるのである。




2014 10-22


中心性とテンソル場についてである。つっぱりと叫びながら岩を動かすと、秘密の通路が現るというのは昼下がりの午後の商店街でよくみかける光景。なにゆえ、意志によって体が動き、岩が動いたのか。物質と意識が中心性をずらしながら連動していたのだ。

  中心性についてである。中心といったら、世界で自分が中心で、自分だけしかいないという独我論。また、中心と周辺、被写体と背景のせめぎあいから形が作られていく。部分が集まって全体じゃなくて、部分は全体と直結というゲシュタルト理論がある。さらに、中心のなかにひそかに周辺が入り込み、周辺が中心に、中心が周辺になるというダイナミックな世界、これを象徴的転換という。ピアジェという思想家は、幼いころは、コップと細長いビーカーに同じ量の水を入れても、水位しかみてないから、ビーカーの水のほうが多いと勘違いするという。水位だけでなく、その中心をずらすことでほんとうのことがわかる。これを脱中心化と名づけた。

  次の話はテンソル場についてである。今、何度ですかという単一の値、これがスカラー。方向を示すベクトル、三次元なら、x、y、zの三つの値で示す。力の伝達はたとえば、その物体を微小な立方体にすると、いろんな力が見えてきて、三つの成分でなく六つの成分になる。これを二階テンソルという。テンソルは力の分布なのだ。

  まとめ

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   異次元理論


   建築において、はりに力が加わると、力をベクトルで現すが、本当は力の分布なのだ。二階テンソルでせんだん力、もっと微分すれば回転力、モーメントになる。そして、力が加わる中心にはストレス、内部応力がかかり、離れたところはストレスがかかわらない。古典力学、剛体の力学だけでなく、電磁場にもテンソルはあるし、重力場、量子場、いまだ知られていない場にもあるだろう。これらの場があつまった全体もおそらくテンソルになっていて、中心と周辺の分布になっている。こうやって、中心のさらなる中心というようにして、究極の中心が主体性になり、ここでは肉体や物体、意識、精神という区別を超えた中間的な中心点になり、意志がからだを動かし、外界の物理情報を心に伝えるという役を果たすのである。


2014 10-11

隠喩と解釈についてである。動物園にて、ゴリラコーナーにある岩石をみて喜んでいた。生命体をみるのが目的ではないのか。生命と物体、この識別はあたりまえのようにあるが、この分別が消えてしまうと、なんと、物体も生命も同じ隠喩空間の力学であることがわかるのだ。

  隠喩についてである。比喩のなかにも、これから比喩をいいますね、という明らかものがある。きみはまるで岩石のようだ、とか、きみはじゃがいもに似ている、など。そっくり、まるで、という言葉を使っている。ところが、比喩だと明言しない暗喩、隠喩がある。そのテレビの横にある鉛筆をもってきてくれ、など。前に、横に、後ろに、というのは本来は自分の体を中心にした位置を示すためのもの。だから、私がテレビさんだったら、そのテレビである私の横にある鉛筆、となる。世の中は隠喩に満ちているのだ。

  次の話はパトナムの解釈についてである。パトナムはすべては価値、解釈だという。事実ではないというのだ。白馬は白い、という事実。ところが四足といわずに、あえて白いという性質を主張しているから価値なのだ。私と世界ははっきりわかれているのではなく、私と世界がいっしょに私と世界を作る。すべてはバリエーション、解釈だという。

  まとめ

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   物体の力学では、まずは、スカラー量があるがこれは単一量。ベクトルは矢印であらわされる、x、y、zなどの量。これが物体へのちからの作用、外力になったとき、物体内部では応力がうまれるが、これは厳密にはベクトルではなく、力の分布、テンソル量である。物体を無限に小さい部分にわける。いわゆる微分する。すると、垂直応力だけでなく、切ろうとする線弾力がうまれる。さらにもう一回、微分すると、こんどは回転力、モーメントが現れる。物体に採用しているストレスかかっているところt、ストレスのない箇所に力の分布がある。これは意識も同じだ。意識しているストレス部分と無意識に近い部分。視覚情報だって、見ている中心と周り。社会だって、なにか社会に作用すると、そこにストレスがくわわり、離れたところは加わらない。すべては経験領域を超えて、カテゴリーを越えて同じ力学のテンソル量なのだ。意識、物体、生命、社会というカテゴリーが作られるまえの混沌とした隠喩空間にある力学のテンソル量であり、この後に、カテゴライズされたり、分別、常識の枠が作られれ、解釈のなかに生きる。生き物、意識、物体もすべて力の分布、テンソルだった。
posted by モノイイ ジョーカー at 16:04| 東京 ☔| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 201410−23 1

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   2014 8-11


  コモンセンスと位相転換についてである。将来、大リーガーになりたいな、と初老の男性はつぶやく。大リーガーになれるという潜在能力を皆がもっているのだ。それどころか、さつまいもにもなれるし、もうすでになっているともいえる。ただ、顕在化していないだけなのだ。じつはすべてはすべてのものなのである。それゆえ、万物は多様であり、流転するというお話をしたい。

   常識学派リードのコモンセンスについてである。コモンセンスとは共通性質ということ。これはいわゆる人類皆がもっている常識のことである。もっとも顕著なのが、感覚と知覚である。赤い、甘い、しょっぱい、くすぐったい、これらは感覚である。感覚は私と対象物の区別がない。どこから私で、どこからレモンなのか、境界線がない。これらの感覚をマニュアルどうりに組み合わせて知覚ができる。この人類共通マニュアルがコモンセンスである。小高い丘の上の木、というのは知覚である。

  このコモンセンスというマニュアルは人類共通のいわゆる常識を組み立てているというのだ。

   次の話はレヴィナスの位相転換についてである。全体性と無限、という本を著したレヴィナス。全体っていうのはふちがあり、エッジがある。だからもちあげることもできる。壁にはふちがないからつかみ取れない。だから、これを無限という。他人のからだはもちあげられるが、心はふちがない。何を考え、感じているかはわからない。他者は無限なのだ。ここにはいない不在のものたち、第三人称のかれらをイリヤとよぶが、このイリヤの圧力を感じ続けて生きているのだ。ここからの脱却を試みて、自分のなかに他者をみつけようとする。これが山が谷になるという位相転換。さらに、自分のなかには自分の意識ではどうすることもできないコントロール不能な自分がいるという。これを非領有化的自我と名づける。

   まとめ

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   すべてのものはレオナルドダビンチである。あらゆるもの、これは岩石も含むが、すべてのものになりうる潜在的な可能性があり、むしろ、すべてのものなのだ。さいとうくんは田中君を潜在的に秘めている。ただ、さいとうくんが顕在化しているだけだ。もっといってしまえば、さいとうくんはさつまいもやくるまでもある。たなかくんでもあるが、われわれにはそれが見えないようになっている。コモンセンスによって色眼鏡で真実は隠される。すべてがすべてのものだった。この根本的な矛盾がいてもたっていられずに、万物多様性になり、それでもだめで、矛盾解消に翻弄し、ついには変形し、万物流転になる。



経験的実在論、超越論的観念論、そして、夢についてである。目の前にある夏みかん。果たして、これが実在しているのはどんな力が関与しているのか。得てして、この世界は正反対のもので構成されている。だから、夏みかんの実在は夢を構成要素にしているのだ。異次元のものたちの夢の集大成が実在なのだ。

  哲学者カント、経験的実在論と超越論的観念論についてである。経験とは実際に眼でみて、手でふれるという五感でとらえたもの。そういうものは実在しているというのだ。だから、建研的実在論だが、別のいいかたをすれば、超越的実在論だ。超越的とは、身を乗り出して、われを忘れて意識しているようなさまだ。自分の心なんて五感で経験できないからだ。これに対して、世界のなかの自分、認識している私を認識するのは、超越的を論じているから超越論的だ。この場合はイメージ、想像の世界だといわんばかりに観念論とくるのだ。

  次の話は夢についてである。まずはフロイトである。過去のいやなことは、無意識の世界に封印する。ストレスとなってそこにあるので、これがトラウマなのだが、形を変えて夢となって発散される。ユングにおいては集合的無意識。人類共通の無意識の世界があるという。また、夢っていうのは現実と同じように続きを見ている。つまりは、生活の歴史があるという思想もある。

  まとめ

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   異次元理論


  実在の構成要素はおよそ実在とは正反対のものでできている。だから夢なのではないのか。カントの経験的実在論、これは五感でとらえる実在感だが、これらは物体にあたった反射光である。だから、二次的光と名づけたい。夢をみているときは、反射光ではなく、光のみ。神経は電気信号だが、電気のパッセンジャー粒子は光。だから、一次的光をみている。

  さて、ビッグバンのあと、宇宙は光で満たされていた。過去から未来への進行波と未来から過去への後退波があって、時間対称、空間対称であり、よって、時空がまだない永遠の光の世界だ。ここから対称性が崩壊し、時間が一方通行に流れ始め、空間もできて、ついにはヒッグス粒子によって質量ができる。こうやって物体が誕生した。つまり、もともと、一次的な光のみが構成要素だ。だから、物体の実在が一次的な光、つまり、夢なのである。

  それでは、誰の夢が実在の構成素なのか。以前話たが、この世界の実在はひょっとしたらの可能性の世界にいるひょっとしたらの可能性の心、意識によるものだった。並行世界の可能的な意識のまなざし。そこで今回はまなざしを一部かえて、これを可能世界のなかの可能性である意識、心そのものの働きである夢だといいたいのだ。可能性の可能性ということで、これが実在化の力だといった。並行世界の住人の夢、しかも、多くの夢が集まって、ついには一次的な光の対称性が崩壊し、われわれの住むこの宇宙に物体という実在を生み出しているのである。



2014 8-13


ヤスパースの哲学、そして、なぜなにもないのではなく、何かがあるのか、についてである。肩の荷がおりたとき、すべては気の持ちようだと楽観的に考えるようになる。すると、この世界の構造も気の持ちよう、宇宙のはじまりと終わりがどうなっているかも気の持ちようだ、と口笛ふきながらつぶやいたとき、むしろ、世界、宇宙のありようがこの私の双肩にかかっているんだといきなり荷が重くなってくるのだ。

  ヤスパースの哲学についてである。ハイデガーの場合は現存在と存在をはっきりわけていた。茶碗はただ存在しているだけだが、人間は現存在しているという。現存在とは、自分の存在にかかわっている存在、存在してるなーって感じている存在。ところが、ヤスパースは茶碗も現存在だという。だから、日常生活では茶碗も人間も同レベル。これが日常的世界定位という。さらに、自分が宇宙の外にたって、世界を冷静にみる世界のみかたが、科学的世界定位だ。とりわけ、重要なのが、哲学的世界定位である。

 人間は限界状況というものがあるという。闘争、苦悩、死など避けられないものである。このとき、自分のちっぽけさ、有限性に自覚。もはや、外に脱出はないので、自分の内にどんどん突き進む。自分自身にかかわりすぎて、現存在もやりすぎてしまって、自分に穴をあけてしまう。そして、むこうがわの超越者をみる。これが実存というもので、この実存できちゃう可能性こそ、人間なのだという。

  次の話は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか、についてである。このことばはライプニッツのものだ。これに対する解答に、現代ではいくつかある。ラッセルは世界はただあるだけだという。充足理由律というものがある。なんでここに醤油のシミがあるのか、理由や根拠がある。ところが、ある、存在ということに関しては理由がないし、充足理由がないというのだ。

  さらに、すべてがある、という思想が様相論理、可能世界論や多世界論だ。論理的に考えられるすべての世界はあるんだよ、という思想。そして、ノーリッジの確率論証というものがある。この世界は50パーセントの確率でいろんなものがあるという。まず、世界は端っこがない閉じた世界か。もしくは、端っこのない開いた世界か、と考える。もうひとつ、始まりはなくても、終わりがある、という世界も考えられる。半分開き、半分閉じているのだ。

  まとめ

  存在の科学 


   異次元理論

   世界は気の持ちよう。たとえば、壁の向こうは見えないのだが、せみの鳴き声が聞こえ、おそらく、セミがいて、世界が存続していると信じている。視野を越えたり、認識できないほど遠かったり、というように、不可知、不可視な世界は事実でなく、信念なのだ。自分の意識状態がその向こうの世界を決める。

  宇宙は膨張しているが、光速を超えて膨張しているところが、事象地平線である。これ以上は原理上、知ることができない、いわゆる宇宙の果てである。さきほども、壁の向こうは信念だといったが、事象地平の向こうの超大規模宇宙は信念、意識の状態いかんによって決定するのだ。だから、われわれは同じ物理宇宙を共有するが、その宇宙の全体を包むもっと大きな領域は信念のちがいにより別の世界にいることになる。

  宇宙は開いていれば、その終焉はビッグリップといって宇宙ははじけて終わる。閉じていれば、いずれ、宇宙は収縮してビッグクランチ、点になって再度ビッグバンだ。これは意識が内向性に向かっていれば、宇宙はその反動で開きビッグリップの終焉の世界になり、意識が外に向いていれば、逆に宇宙は収縮するという繰り返し宇宙、輪廻宇宙になる。さらに、宇宙の曲率が意識に関与しているなら、リピート宇宙を生きるものもいるかもしれない。同じ一生を繰り返すという永劫回帰である。

  宇宙はひとの一生と重なる。だから、天の国があるのか、輪廻するのか、繰り返すのかもまた、信念、意識状態と深くかかわる。

posted by モノイイ ジョーカー at 15:58| 東京 ☔| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月13日

仙人新聞 2014 8−13

仙人新聞 8−14

   2014 7−9

 批判哲学と行為についてである。われわれはサササっと動く。何か活動することで平然とした顔つきで鼻の穴をほじったりするが、じつに行為するとは悟りであり、空の世界と深く関係していたのだ。大げさにいってしまえば、人は最初から完璧ではないが悟っちゃっているというお話をしたい。


  カントの批判哲学についてである。三つの批判書がある。純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判だ。批判といったら、なんだか斜に構えてしまい、おもわず、鶴のポーズをとってしまうが、じつは、ただの否定ではない。また、肯定でももない。一部を否定し、一部を肯定だ。批判によってよりよいものへとなっていくものだ。人間は感覚でとらえ、これを悟性っていう論理的な能力、さらには感覚はてやんでーっていうかんじで退けて推理推論し、ついには、目にはみえない宇宙、神様、魂について云々する理性になる。人間の能力は無限だという啓蒙思想にブレーキをかけるべく、純粋な理性を批判したのである。現代においても、フランクフルト学派の批判理論がある。ヘーゲルのように否定の否定は肯定、というすべて万事うまくいって終了というのではなく、常に、不完全燃焼で、だからこそ活動しつづけるということで、否定の否定の否定は否定である、という。カールポパーは、仮説をたてて、検証するものだが、いつなんどき、この仮説が成り立たない反証がでてくるかわからないという反証主義を提唱した。


   次の話は行為についてである。心が手をあげろと命令したのが原因で手を上げたのが結果。行為の因果説である。ところが、心とからだ、とりわけ、からだは物理の法則にしたがうので、こんな因果関係成り立たないというのが行為の反因果説だ。
 

   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


     すべてのものはすでに悟っているのではないか。しかも、批判的に完璧ではなく一部である。

  宇宙の創造プロセスは、まずは、スピノールという二回転して元に戻る、といういわば、メビウスの帯、クラインのつぼという語次元的なものがある。ここから、光が生まれる。光は世界距離が0なので時間も空間も0、つまり、時空がまだない。すべてがひとつの世界。ここから、自発的対称性のやぶれによってヒッグス場による質量の誕生、物体の誕生だ。物体が複雑化し、有機体、生命となり、いまにいたる。

  瞑想のプロセスはこれとは逆だった。最初は夢が現れ、これは記憶やトラウマが形をかえたもの。記憶は物体だと以前話した。さらに次のステージが光のレベル。ここではすべてがひとつであることを悟る。さらに、この先に空という五次元レベルになる。ここではいろんな私がいろんなこと、論理的に可能なすべての世界にいるので、もはや、私自身がたくさんいるので、ここではなんの判断も明確な意識もない。ここまでいくと、スピノールの世界に戻っているので、ここから新しい宇宙を創造もできるはずだ。物質化できるのだ。

  さて、人間の行動、行為とは物質化だ。右手をあげるとは、いままであった右手を消滅させて、上げた位置に物質化すること。つまり、超高速で、宇宙の起源である五次元的なスピノールへ戻り、世界を一部創造して右手を上げている、つまり、物質化しているのだ。これは一部、限定的に空の世界から舞い戻っていることであり、悟っていることである。ひとが最初から悟っているという思想は仏教にもあるが、最初から空にいくから、動けるのである。


2014 7-10

   マリーの部屋、そして、認識論と存在論についてである。いろんなことに気づきがある。あっとか、はっとおもったりする。なにかに気づくという認識。そうではなく、あっと気がつくときにその気づいたものをじつは自分自身が製作しているかもしれないといったら驚き桃の木、この木なんの木である。認識と存在レベルでの気づきについて考えたい。

    マリーの部屋についてである。マリーはスーパー天才科学者である。だから、この世のあらゆる物理現象の法則をしている。そんなマリーは生まれたときから一度も部屋を出たことがない。しかも、部屋のなかはすべてモノクロ、白黒なのだ。マリーは光が網膜を刺激して電気信号になって赤い色を知覚するそのシステム走っている。果たして、マリーがはじめて外にでたとき、始めてみる赤い花をみて学習するか、それとも理屈で知っていたので、学習したり、新しいなにかを感じることもないのだろうか。クオリアとは感じることだが、マリーが赤色を理屈で知っていたら、これはクオリアは脳の働きということになる。ダニエルデネットの主張だ。かたや、もしも、マリーは実際の赤い花をみて、感動したなら、クオリアは脳が生み出したものではないことになる。


   次の話は認識論と存在論についてである。近代哲学はやはり認識論がメインだった。ひとはどうして認識できるのか、というもの。カントは、感覚とこれをまとめる論理能力である悟性。感覚なしで推理しはじめる理性だ。存在論といったらどっちかというと、古代ギリシャである。ここにある鉛筆は鉛筆そのもののイデアの影だとプラトンはいうであろう。アリストテレスは、鉛筆たらしめている形相とその材料である木、これは質量だというだろう。鉛筆のなかに形相と質量があるという。

   現代において存在論を復活させたのがハイデガーである。んーっと自分が力んで、自分自身から脱け出そうとする脱自。これによって、おのれの存在そのものがかすかに地平となって開かれるという。そもそも、私と世界の存在っていう区別のないレベルだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    常温の水がある。静かにしているのだが、よーく局所的に拡大すると水分子はランダムにすごい勢いで動き回っている。全体的にみると動いていない、平衡なのに、局部を見ると事象、出来事がある。その部分的な状態を引き出せばエネルギーが得られる。気づきとは、意識を局所的に集中することだ。これは認識論的な気づきである。

  さて、水分子よりも小さく、原子、素粒子よりも小さいもの、量子というものがある。量子の場は科学的な無である。10のエネルギーを借りて粒子と反粒子が対発生。しばし、滞在し、10のエネルギーを返して対消滅する。この発生したときのエネルギーだけを部分的得られれば膨大なエネルギーを吸収できる。全体としてみたら無なのだが、局所的には活動的な状態だ。ここではもはや、ただの認識論的な気づきでなく、思ったこと、信じていることがそのまま現実化してしまう存在論的な気づきである。かって、真空を研究していた科学者は、自分の信念がそのままそのなかの法則化になったという説がある。これがブラウン管テレビなのかもしれない。

  マリーの部屋は、マリーが外にでたとき、さまざまな新しい事象との出会いがある。部分から全体にいくことで事象があらわれる、ところが、今回の話はこれとは逆であり、全体は定性的、無であったりするが、局部的に拡大するとそこに事象がある。つまり、全体から部分への方向だ。



2014 7−13

超弁証法、そして、収縮と弛緩についてである。じいさんだと思って急接近した宇宙船が画像解析したところ、じつはばあさんだったという報告。世の中、全部ひっくるめると、なかなかギリギリのところで成り立っている。すべては真逆のものでつながっているのだ。

  メルロポンティの超弁証法についてである。弁証法といったらヘーゲルだが、メルロポンティはヘーゲル弁証法を醗酵をやめた弁証法とよんだ。矛盾しあうものがであって対立、これらが融合合体して新しいものに発展。これをアウフヘーベンと名づける。ところが、メルロポンティは矛盾しあうものが解消しちゃうのではなく、あくまで互いに自分自身であり続けるというのだ。これはコインの裏と表。表が裏に、裏が表になろうとして回転運動する。水の入ったバケツをぐるぐるまわすと、遠心力と向心力が互いに入れ替わる。すべてはこうやった表裏の回転だという。

   次の話はベルクソンの収縮と弛緩についてである。時間は量的に測定できない質的なものだという。こんにゃくをみたとき、こんにゃくだ、と叫ぶ。過去の記憶が今に混ざっているから認識できるのだ。そして、未来へと予測する。だから、時間とは意識、精神だという。これに対して、空間や物体は過去と現在と未来がわかれている。今、今、今、だけである。時間、意識はぎゅーっと収縮して混ざったもの。空間は伸びきった弛緩体、すかすかなものだという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   心の奥底には光の領域、その先には空の領域があり、ここかがいわゆるワームホールで、この先に別宇宙がある。すべてのひと、生命体は内奥意識において宇宙という場所をもつ。場所のなかの場所だが、すべてが場所という場所一元論だといった。今回は意識は基本的には時間意識であり、その内奥意識の宇宙が場所、空間だということから、時間から空間へと変換されていることに着目したい。相対論における時間と空間のローレンツ変換だ。

  自分自身は空間という場になっている。それでは意識しているこの世界に現れる他人や他の意識は自分の内奥意識、内奥宇宙ではどうのようになっているのか。意識は時間だから空間に変換。ただし、対称性がやぶれた空間、物質となって現れているのだ。また、周囲にある物体は内奥世界ではこれまた逆になっていて、時間意識をもつ生命になって現れいる。私も他人の内奥意識においては物体の影を落としている。互いが互いに反転しながら影を落としているのだ。このわれわれが住む宇宙も、だれかの意識空間だ。物体はその意識体を取り巻く他者である。周囲の物体、石ころですら決定論的に計算できない。その運動は確率論的だ。偶然性や確率が物体にあるのは、物体がそもそも別宇宙では自由意志をもった意識体だからに他ならない。

  超弁証法的に反転し、かつ、時間意識は内奥においては空間になる。二つの宇宙の片方が収縮すれば、ワープホールを通して片方が弛緩する。時間的になれば、片方が空間になるのだ。


2014 7-14


タブララサと志向的内在についてである。私はまちがいなく、目の前の大根を目撃し、さわり、かついでいる。ところが、実際はちがうのだ。心の空間のなかにそれはあり、心の空間のなかでそれを感じているのである。

   ジョンロックのタブララサについてである。イギリス経験論のロック。経験論とは、先天的に知っているものなんかない、という思想。すべてはがんばって学習し、経験したものが蓄積されているという。このとき、ロックは心を何もかかれていない純粋な白紙だという。ここに経験したことが書き込まれていくのだ。この心の白紙のことをタブララサという。

   次の話はブレンターノの志向的内在についてである。意識の志向性っていうのは目から放たれる矢印のようなもの。りんごをみているときは、りんごに矢印が刺さっている。ところが、このりんごは、あらかじめ心のなかにある像であり、心のなかのりんごっていう表象を志向しているというのだから、志向的内在という。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

     前回、お話したが、意識は時間意識であり、この奥底にはワープホールという空の領域の先なのだが、自分自身の場所、宇宙空間をすべての生命はもっているといった。時間が空間に転じ、周囲の意識体は自分の深層宇宙では物体、周囲の物体は意識体となるというような反転現象が起きているともいった。すると、外空間、内時間、内空間、外時間というように高速回転をしているならば、この正反対の時間と空間が互いに相殺しあって、その中間領域になにもない真空世界を作っていると考えられるのだ。心の真空空間領域ともいえるものだ。白いキャンバスのように、心に描かれ、うつっている像をわれわれは見、聞き、触るのであって、外空間にダイレクトにコンタクトしているのではないのだ。


2014 7-17

  パトナムの事実と価値、そして、非歴史主義についてである。生命がこの世界で誕生した奇跡。どうも、なんかの力が働いていたような気がする。宇宙人か、はたまた、神様か。未来人である。未来の生命による過去の改ざんというなんともSFチックな壮大なストーリーでお話したい。

  パトナムの事実と価値についてである。事実っていうのはを曲げられない。スプーン曲げの達人をもってしても、への字くらいしか曲がらないかもしれない。価値というのはどっちかというと、事実にデコレーションされるようなイメージがある。美しいとか、善良だとか、そういうものは実体のない事実に付加されるような何か。ところが、事実にはすでに価値が含まれると考えるのだ。雲は白い、という。ただの事実と思われるが、じつは、雲は水蒸気でできている、といわずに白いということを言明だ。ここにはもうすでに価値が入っているのだ。白いことをとりわけいいたいからいったのである。

   次の話は非歴史主義についてである。歴史っていうものを認めない。形式論理などは、時間の流れがそもそもない世界を扱っているので非歴史的だ。また、レヴィストロースの構造主義も同じだ。世界中のあらゆる神話は時間と空間を越えてみんな同じ構造をしているという。なんと、神話だけでなく、数学と神話も同一構造だという。

   
  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   この世界に生命が誕生したのは奇跡だという。宇宙はエントロピーがどんどん増大するはずなのだ。秩序あるものは無秩序になるのだ。家だっていずれ老朽化し、朽ち果てる。生命は家やダムを作る。つまり、無秩序を秩序化するのだから、エントロピーを減少させるのである。

どうして、エントロピーを減少させる生命がうまれたか。太古の地球の海は有機体スープ。コアセルベートという。小胞体というものができ、このなかの分子、原子はでたらめに振舞っているはずなのに、一斉に秩序ある動きをし始めたのだ。これには原子が整列させるための磁力、磁性体、もしくは光による情報がなければいけない。なにものかが磁力発生させたのだ。未来人なのだ。未来においてはあらゆる問題を解決し、科学技術も飛躍的に発展、時空を自由にいけるようになる。科学とは観測が重要だ。未来の科学は観測といっても、一切の履歴、歴史性がない純粋な今この瞬間の現象だ。現象主義を強めた形だ。だから、まずは目の前の事実があって、歴史っていうのが解釈ということでなく、実際に後から生成されるという世界観が支配している。歴史生成なのだ。ということはかれらのもっている大問題は生命は物理宇宙から自然発生しないということ。つまり、彼ら自身の存在が消えてしまい、存在しないこおになってしまうのだ。だから、彼らは過去にアクセスし、生命を誕生すべくエントロピーを減少させるのだ。フォトンベルトもかれらがやったのかもしれない。また、極点がひっくり返るポールシフトも、小胞体内部のでたらめな原子を整列させたのである。こうやって定期的にエントロピー現象のためのてこ入れがなされていて、現代人にとってみれば、それは天災や異常事態にうつっているのだ。


     2014 7−19

    ハイデガーの先駆的覚悟性とベルクソンの表層自我、内奥自我についてである。きゅうりが二足歩行し、ナスと相撲をとりながら、将来について語り合っている。これは現実か、夢か、はたまた、幻覚か。幻覚は異常だというが、心身の極みにおいてみえてしまうもので、これこそ真実の世界なのかもしれないという危険なお話をしたい。

    ハイデガーの先駆的覚悟性についてである。人間の存在の仕方は二つのパターンがあるという。本来的実存と非本来的実存である。非本来的実存とは、気楽におしゃべりしながら生きているときだ。みんな同じ顔をして、同じ通俗時間というものを共有しているという。本来的実存は自分自身の存在が時間とくっついているのだ。いまっと叫ぶと、もはや今ではない。このずれが本当の時間であり、これによっておのれの存在そのものが開くという。自分自身が自分を丸ごとつかみとる。これこそ、真の自覚だが、空間的にあたまのてっぺんから足さきまでつかむことではない。時間的につまむのだ。私がいないかった、私の無、つまり、歴史だ。また、自分がいなくなる死。この両ふちに手をひっかけて、自分をつかむ。いってしまえば、これは超真剣になるということ、死ぬ覚悟で何事も真剣に取り組んじゃうという存在スタイルなのだ。


   次の話はベルクソンの表層自我と内奥自我についてである。表層自我っていうのは上っ面の自分だ。社会のなかでの自分である。言葉は空間的だというが、まさしく、空間的な私。内奥自我はこれに対して、時間的なもの。時間といっても時計の時間ではなく、あれは針の空間移動、時間の空間化の産物。ほんとうの時間を純粋持続と名づけ、質的だという。これが私の意識だともいう。

   
   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    われわれは覚醒しているとき、正常な世界にいるとおもっている。ふつうの生活では、生きるか死ぬかではない心身の余裕がある。この世界ではひとつの世界に私がひとりいて、他人もいる。ところが、熱におかされているとき、連勤で疲れ果てたとき、ひとは幻覚を見たり、平行感を失うという。これは生きるか死ぬかの真剣な心身きわまった状況。このときにこそ、真実の世界がみえるはずだ。いないはずの多くのひとたちがみえたり、聞こえたりする。これはまさしく、五次元世界を見ているのだ。われわれはすでに五次元のなかにいて、たくさんの四次元時空が重なっている。全滅したはずの恐竜が全滅しなかった並行世界もすぐどこにある。それを見てしまうのが幻覚なのだ。ふつうの生活、余裕のあるときは、われわれは都合いいように、世界を加工し、枠組みのなかに収めてみている。だから、ほかの平行世界はみえないのである。正常と異常、これによってみえる正常感覚と幻覚。じつに真実と虚構世界がきっちりここでひっくり返っているのである。


2014 7-20


観念連合とコペルニクス的転回についてである。 夢は非常に巧妙にできている。実際に起きた断片的情報を組み合わせ、演出した作品なのだ。だれが夢の演出家なのか。そして、覚醒しているこの現実世界もまた演出家がいるはずだ。

  ヒュームの観念連合についてである。当時、ニュートン力学がはやっていた。万物の法則、物体同士は引力でくっついたり離れたりする。同じように、心のなかのイメージにもくっついたり、離れたりする法則のよなものがあるにちがいない。そこでヒュームは観念連合を提唱。まず、イメージ、表象が類似しているものがくっつく。時空的に隣接したものもひとつになりがち。そして因果関係だ。こうやって、イメージが組み合わさって出来上がる。そもそも、ヒュームはすべてのものはそれ自体であったり、因果関係が必然的なのではないという。すべては習慣的な思い込みだという。観念連合によってできた思い込みだ。

  次の話はカントのコペルニクス的転回についてである。コペルニクスは大地はとまっていて、天体が動いているという天動説を批判。地球、大地も動いてるじゃん、という。同じように、カントもまた、りんごがあるから目に飛び込んでくるのではなく、心の働きでりんごの感覚情報を組み立て、心の働きによって作られるとしたのだ。


   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    夢は覚醒した世界で得た経験、データの断片的な組み合わせだ。そして、なにものかが作品にしているのだ。ミサイルが飛んでくる夢をみる。そして、よけきれずに爆発する夢。ふと目覚めるとベットから落ちていた。ミサイルが迫ってくる夢を見ているときはベットから落ちてなかったはずだ。覚醒世界の断片情報を組み合わせて作った作品が夢だ。しかも、その演出家が無意識である。

  まず、ここで意識の階層性について話たい。覚醒世界がある。この下には覚醒意識。つぎに、夢世界があり、その下に無意識がある。さらに、空世界があり、空世界は無数の私が無数の世界に住むという平行世界の集まり、五次元であり、以前話したが、ワームホールなのだ。この先には宇宙空間があり、これが本当の私の意識でもある類魂、ハイアーセルフである。

  さて、無意識という演出家がひとつとばして、覚醒世界の断片を組み合わせて夢世界という作品をつくる。同じように、ハイアーセルフはひとつとばして、空世界、つまり、平行世界の断片情報を組み合わせて、より外側を経由して覚醒世界を作っているのだ。つまり、おおもとの私であるハイアーセルフが、覚醒世界で起こるさまざまな事象、出来事を作っているのである。

   観念連合はある種の法則によるくっつきあいだったが、そうではなく、ハイアーセルフという本当の私が組み合わせるおいいたいのだ。また、これはカントのコペルニクス転回のように、心が感覚をも含めて、空世界、五次元世界を素材に現実の覚醒世界を作っているといいたいのだ。カントにおいては感覚だけはつくられたものではななかったのだ。


2014 7-21

デカルト的自我とフレッチャーの状況倫理についてである。歴史があっていまの私がここにいる。それこそ、有名な歴史上の人物だけでなく、無名の多くのひとたち、ばった、かまきり、いなごも、そのすべての活動あってこそ、ここにいるのだ。歴史によって存在し、また、私も含めてあらゆるものは活動しているのだが、その活動の力はまた、空間のあらゆるものたちから得ている、というお話をしたい。

  デカルト的自我についてである。ひとはある特定の状況のなかにいる。悪漢に追われている、トイレの便器に足つっこんだ状況などだ。ある状況のなかで計算をしたり、実験したりすると、たとえば、いらいらしていたから、1+1は3になったということがあるだろうか。だから、科学者は冷静に客観的に観測、計算するために状況のそとにでる。宇宙のなかにいるからには、ある特定の状況にいる。だから、宇宙の外から宇宙を冷静に観測しちゃうという神の視点になる。これがデカルト的自我である。

   次の話はフレッチャーの状況倫理についてである。アメリカのプラグマティズムは役に立つものが真理という実用主義。また、プロテスタントである。ここでいかにしてプラグマティズムなキリスト教になるかが問題だ。そこで、神学的文脈主義というものと結びつく。ひとはいろんな文脈のなかで一回、一回、その時々に神様から命令があるという。カントがいうような万人に当てはまっちゃう普遍的真理ではない。ここから、ある状況のなかでそれぞれ、道徳、倫理が決まるという思想が生まれたのだ。

   まとめ

   存在の科学

   異次元理論

     いままでの歴史があるからいまここに自分がいる。1ミリずれただけでもいなかったかもしれない。だから、歴史におけるある特定の出来事を否定するとは、自分がいま存在していることを否定することになるのだ。だから、このときに歴史や宇宙の外にでて神の視点、デカルト的自我になるしかないのだろうか。

  歴史によって存在し、あとはなにによってすべてのものは活動の力を得ているのか。かって、ヘーゲルは矛盾対立するものが戦ってくっついって新しいものにレベルアップするというアウフヘーベンが宇宙を動かしているとした。ヘーゲル弁証法である。そこで、あくまで、対立であって、ただの区別ではアウフヘーベンはないと戒めていた。大根と靴下はただの差異、区別だからここから力が生まれない。ところが、ソシュール言語学のいうように、単語の意味は単語同士のあいだの差異、違いからうまれるという。同じようにまったくただの区別、差異しかないもの同士の関係性が活動の力になるのではないか。物理学的にはこれが量子エンタングルメント、量子もつれなのだ。時空を超えてすべてがすべてのものに光の速度を超えてつながっているのである。


2014 7-22


現象主義と哲学的ゾンビについてである。そよ風を感じ、地中海の澄んだ海を眺める。さすがに、いつもの鼻息の荒さはおさえられ、貧乏ゆすりも今日はお休み。ひとや生命はいつもなにかを感じている。感じることをクオリアという。クオリアは宇宙的レベルで引き起こされる壮大なものだった。

   現象主義についてである。現象主義というのは、ありのままを記述するというものの見方。決して、りんごがそこにあるんだよ、とはいわない。赤くて、丸い、硬い、甘い、という感覚情報があるだけだという。これは素朴実在論とはちがう。素朴実在論はりんごがそうみえるままに実在するという。実在しているとはいわないのが現象主義。ところがこれだと、科学においては実験が超遅くなってしまう。りんごの糖度の実験だったら、まずはそれがりんごであると確証するのに、永遠の歳月が必要だ。だから、何時何分に、空間のどこに、なにが物理的に実在するよ、という物理主義が提唱された。

  次の話は哲学的ゾンビについてである。もしも、あるひとが見た目はひとだが、心のないゾンビであり、傍目は人と同じような反応をしているとしたら、それをわれわれは知りうるのだろうか。真っ赤だな、と夕暮れを見ながら歌っているおじさん。かれはほんとうに真っ赤であると感じているのか、はたまた、ゾンビであり、ただ、機械的に真っ赤だな、と反応しているだけなのか、という問題が哲学的ゾンビというのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論
  
   クオリアとは宇宙論的な規模で生み出されるものだった。この世界には時間の流れがあるといわれている。この時間の流れはエントロピー増大のことだという。エントロピー増大とは、秩序あるものが無秩序になってしまうこと。整理整頓されている部屋が散らかっていくのだ。ところが、人間を含めた生命は無秩序から秩序をうむ、土から家を造るのだ。これはエントロピーを減少させているのだ。

   エントロピー増大が過去から未来への時間の流れの正体だった。生命の主体的意志はエントロピーを減少させる。さて、宇宙誕生後、すべては光に満ちていた。この世界にあるものは、粒子と反粒子だ。粒子は過去から未来へ、反粒子は未来から過去へ流れる。宇宙の対称性が壊れて、粒子数が増えて、時間が過去から未来へと流れ始め、物体ができた。光に満たされていたとき、光も光と反光があった。これを進行波と後退波という。進行波は過去から未来、後退波は未来から過去へとエントロピーを減少させるものだ。なぜ、進行波はみえるのに、後退波は見えないのか。それは、観測しているわれわれ自身が後退波、つまり、エントロピー減少させている主体的意志だからだ。光が私のところにやってきて、後退波で応じる。以前話たが、この進行波と後退波がバランスをもって平衡関係のとき、エントロピーがゼロ、当然、世界距離がゼロであり、時間、空間のない永遠の世界なのだ。つまり、時間と空間がない永遠の世界のことをクオリアと名づけたいのだ。なにかを感じるとはそれが徹底的に時空的でないということだ。ところが、われわれは時の流れも感じている。これは肉体は物体であり、これはエントロピーが増大し、時間が正方向に流れているからだ。

   さて、生まれる前は物体だったので、エントロピーが増大しまくっていたので、時間が無限の速さだった。宇宙誕生からあっという間に私が誕生だ。また、死滅したときも物体になるとすると、エントロピーが無限増大なので、時間が無限速度。よって、自分の死滅とほぼ同時に宇宙の終焉にいっているのだ。意識と宇宙の誕生消滅はセットであり、同時的だったのである。



2014 7-23


解釈学的循環と人格同一性における輪廻説についてである。宇宙と私はほぼ一体である。私と私の住んでいる宇宙空間がセットなのだ。そこから、自分の心は別の宇宙に移動する。からだは物体なのでこの宇宙のなかでサイクルをつくる。輪廻転生を科学的、哲学的に考察したい。

   解釈学的循環についてである。ディルタイやハイデガー哲学において登場する。ディルタイにおいては二つの解釈学的循環がある。垂直的な循環と水平的なそれである。分厚い本を読んで、全体から部分を解釈。また、全体読み終えて、部分を解釈。これは堂々巡りであり、一歩もその本から鼻毛一本すらでない。これが水平的な循環。垂直な循環は体験だという。なにかを体験する。それをイメージ、表現にする。そして、ああだこうだと理解する。理解したうえでまた、体験だ。これが垂直の循環であり、これは湯水のごとき、湧き出てくる循環だ。

  ハイデガーの解釈学的循環は存在了解である。存在とはなにかとうっすら了解しているという。だから、存在とはなにかと問える。存在そのものを100パーセント知っていたら問う必要なし。だから、存在了解と解釈という循環は人間存在の現われだというのだ。

   次の話は人格同一性における輪廻についてである。さっきの自分と今の自分はなぜ同じだといえるのか。身体が同じだという身体説。だけど、新陳代謝しているのだから、厳密には同じ体とは言い切れない。それならさっきの記憶があれば同じ人間なのか。身体でも、記憶でもなく、なんだか魂が常に同じものである、というのが輪廻説である。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    前回も話たが、この世界はエントロピーが増大する。生命の意志はむしろエントロピーを減少させる。過去から未来への時間の流れの正体はエントロピー増大だといった。

 宇宙のはじめは光だけだった。光の進行波はふつうにわれわれが見ている過去から未来へ流れる光。後退波は未来から過去への光。こんな光はみたことがないが、これがエントロピーを減少させている私の意志、心だ。この時間対称が壊れて反粒子よりも粒子が増え、進行波が増える。ここで物体がうまれ、肉体がうまれた。宇宙誕生から自分が生まれるまでは無限の時間の速さ。物体のみだからエントロピーが大きい。また、死滅してから宇宙の終焉までも物体だけだから時間が無限加速。だから、宇宙誕生と自分誕生、宇宙消滅と自分消滅は一致するといった。あくまで、ここでいう自分とは心、意識である。だから、輪廻があるならば、五次元空間にある別のブレーン宇宙に移動する。しかも、意識というのはエントロピーを減少させるものだから、エントロピーが増大しつつある宇宙に天象する。肉体は物体なので、この宇宙の内部で繰り返し、サイクルが生まれる。人格とは並行宇宙、別のブレーン宇宙をも貫く、貫世界性をもつものなのだ。


2014 7-24


ヤスパースの実存と接近可能性についてである。輪廻転生といっても、どこの宇宙に誕生するのか。自分自身は宇宙なのだが、と当たり前のように前提すると、まさしく、自分の宇宙に住むということの意味、自分の宇宙に自分自身が転生することはなにか、と考えたくなってくる。

  ヤスパースの実存についてである。ハイデガーは、人間っていうのはただ存在しているのではないという。スリッパはただ存在しているだけだが、人間は自分の存在にかかわる存在だ。これを現存在という。ところが、ヤスパースはスリッパだって、大根だって現存在しているという。自分にかかわっている存在なのだ。そして、人間はどこがちがうかといえば、自分にかかわりすぎて自分自身に穴をあけてしまうという。これを実存といい、実存しちゃうかもしれないので、実存可能性という。穴の向こうにみたのは超越者だったのだ。

  次の話は接近可能性についてである。ひょっとしたらの可能世界がいっぱいあるという。哲学者ルイスなどが使っているのが接近可能性である。UFOが接近したとか、UMAに超接近ではない。可能世界もたくさんあるが、接近してるかはなれているかだ。いまこうしている私がいきなり猫型ロボットになってしまう世界は遠い。あくびしてしまう世界はかなり接近したところにある。

   まとめ

   存在の科学

    異次元理論

  エントロピーが増大するのが過去から未来への時間。また、物体の世界だ。生命の心、意識はむしろエントロピーを減少させるので時間は未来から過去へと逆時間になっている。自分の意識がうまれるまえは物体だったので、エントロピー大で時間が超はやかった。死滅後も無限の速さの時間だ。だから、実質、私と宇宙の誕生と消滅は重なっているといった。

 そして、自分の意識は宇宙と重なっているゆえに、輪廻転生においては別宇宙、別ブレーン宇宙へと移動。肉体は物質なので、この宇宙内部でのサイクルになる。さて、どの宇宙に転生するのか、という決定要素は二つ。エントロピー減少させるものが心だから、基本的にエントロピーが大の宇宙へ移行することになる。もうひとつは並行世界が今の世界と近い、接近可能性が大きい世界だ。


   以前、私の意識構造は、まず、覚醒世界、覚醒意識があり、その下に夢世界、無意識、空世界という五次元のウォームホールがあるといった。この空世界の先にほんとうの私の宇宙、自我宇宙があるといった。この自分の宇宙へと転生はしないのだろうか。つまり、自分が自分の宇宙に住むのだ。これが解脱かもしてない。生きているとき、エントロピーを減少させて、いろんなものを秩序化したものは、ワームホールでつながる自我宇宙のエントロピーをかなり大きくしているので、自我宇宙への移行がありうる。ところが、生きているときに、無秩序化していたものは、自我宇宙のエントロピーがそれほど大きくないので、別の世界へのワームホールをつくり、他者の宇宙に住むことになる。いずれにしても、自分にとって自我宇宙はもっとも接近しているものだ。



2014 7-26

   差異、そして、存在と時間についてである。ふと目覚めると、周囲のすべてのものが生命体だったら、それこそ度肝抜く。まくらがしゃべりだし、天井が笑う。肉体と物体はどこがちがうのか。そして、物体が生命だとしたらなぜ物言わないのか、科学的、哲学的に考察したい。

   差異についてである。ジルドゥルースは最初に差異があるという。りんごはりんごだ、という同一性にあとに、バナナとは違う、という差異がうまれると、ふつうは考える。そうではなく、りんごは刻一刻、新鮮さは失われ、変形する。りんごはりんご、といい続ける、反復することで、同一性を目指すのだ。

   デリダは、私が私自身のまえに現れることを自己現前という。ところが、私は私だ、といっても、もはやそれはすでに私じゃない。私の残像、痕跡であり、しかも、他人だという。自分自身のなかにズレがあるのだ。

  ハイデガーは存在論的差異を主張。大根、にんじんっていう具体的な存在者と、存在そのものは違うということ。

  次の話はハイデガー、存在と時間、についてである。まず、自分が自分自身から脱け出そうとすることを脱自という。この自分とのズレが時間をうむ。時間地平が開いたと表現する。そうすると、こんどは自分の存在そのものがズレによって見えてくる。これが存在そのものの地平だ。そして、この存在地平の上に、大根、にんじん、白菜っていう存在者が現る。脱自っていう自分の力で世界が現れるという前期思想である。自分が自分自身にかかわるので、ただの存在ではなく、人間のことを現存在とよぶ。

   まとめ

   存在の科学

    異次元理論


     宇宙が誕生したときは光に満ちていて時空もなかった。光は完全に対称性をもっていた。時間も対称的だったのだ。過去から未来へ流れる進行波。未来から過去へ流れる後退波。以前、話たが、これが時間、空間がない永遠の世界であり、これこそクオリアだといった。なにかを感じるとは時空がないということ。ここでおのが存在感、感じがある。

   いつしか光は対称性がやぶれる。粒子が反粒子を上まり、進行波が後退波より多くなる。ここにおいて過去から未来への時間が流れ出し、空間がうまれ、この対称性のやぶれによってヒッグス場がうまれ、物体が誕生だ。

   さて、物体は対称性のやぶれ、自分自身とのズレによってうまれた。だから、時間的であり、唯一無比の差異という個性であり、存在者であり、存在そのものでもある。これがハイデガーがいう現存在ではないか。りんご、バナナも現存在だというのはヤスパースでもある。だから、物体は生命体なのだ。ただし、完全自己意識である光のクオリアの影なのである。この世界における光クオリアの影はいわゆる生命の肉体。ほかのただの物体は別可能世界における光クオリアの影が落とし込んだものなのだ。


2014 7-28


記憶の即自性と環境内存在についてである。不思議でよくわからないことをいってしまうと、記憶っていうのは生きている、といいたいのだ。記憶は自分がそれを思い出していないときでも、PCのメモリのように通電されているような感じで生きている。

  ベルクソンの記憶の即自性についてである。脳は記憶を貯蓄していないかもしれない。なんと、眼でものをみる、鼻で香るように、脳は一種のアンテナ、感覚器官のようなもので、それ自体でそこらにある記憶を受信しているというのだ。これを記憶の即自性という。

   次の話はユクスキュルの環境内存在についてである。人間はおつむよろしく、あたまで物理宇宙を考え出した。そんな物理宇宙にすべての生命がいるのではない。おのおのの種はそれぞれの環境世界に住んでいるという。コガネムシはなにを感じているといえば、複眼であり、触覚がある。これを知覚標識という。また、行動するときも、飛べたり、足の本数も人間とちがうが、これがコガネムシの作用標識。これらをあわせてコガネムシの環境世界なのだ。

   まとめ

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   異次元理論

    宇宙は最初は光だけだった。過去から未来へ流れる進行波、未来から過去へ流れる後退波。これらは時間対称性をなす。これは時空のない永遠の世界であり、これがクオリア、なにかを感じているっていうことだ。この対称性が崩れて、粒子は反粒子をうわまわり、進行波が後退波を超える。すると、対称性が崩れて時空がうまれ、ヒッグス場がうまれて、物体が誕生だといった。自分自身とのズレ、これが現存在であり、人間だといった。つまり、物体は現存在しちゃっている。肉体はこの宇宙の光クオリアの影であり、ただの物体は他の可能世界の光クオリアの影あわれわれの住む宇宙にうつりこんだものだといった。

  さて、物体は即自的に存在するが、ベルクソンのように、記憶は即自的なものへのアクセスだ。つまり、別の並行世界で生命的活動をしているものの影、現存在へのアクセスなのだ。別の世界といっても、論理的にきわめてわれわれの住む世界と近い宇宙の光クオリアとのアクセス。接近可能性が高い世界の生命活動、光クオリアはわれわれの記憶になっている。


  有機体、肉体は環境内存在だが、魂、意識、すなわち、イメージや記憶は別の並行世界とのつながりだから、可能世界内存在しているということになる。


2014 7-29


間主観性、そして、外在的および内在的実在論についてである。心の中の世界、これは確実な世界だ。ドンくさいと思ったからドンくさいのであって、思いは撤回できない。外界はどうも不確かだ。カーテン閉めただけで、世界が存続しているか、いささか怪しくなる。外界の世界をいかに確実な内面世界から証明できるかが問題だ。

  間主観性についてである。私は確実にいるんだよ、というものからスタートする。これがデカルト的な自我だ。そうすると、フッサールは気づくのだが、どうも、他人の存在が疑わしくなる。だから、自分とそっくりだから、自己移入して、同じ心をもつ他人なんだ、と類推するという。もしくは、私がひとりでいるとき、目の前のりんごの客観性はたしかにあるのだが、他人の目の数、目撃者によって客観性は増す。そこで、ひとりでいても、見えそうで見えない地平線、考えられると考えられないの限界にある地平線にあらかじめ他人の眼が無数にあるという考えにいたる。私と他人も含めた、主観と主観の間について論じるから間主観性理論という。

  メルロポンティは私と他人は同じ肉で溝によってわかれてるだけだから反転しちゃうという。これは自分と他人が対称的ということだ。マルチンブーバーは、第一人称の私、第二人称のあなた、第三人称のかれら、無人称のそれらを取り上げ、第一人称からはじまるのが独我論。無人称のそれがあつまって、私もあなたもできているというのが唯物論、そして、そうではなく、ほんとうは最初から私とあなたはセットであり、第二人称が根本にあるという思想だ。


  次の話は外在的および内在的実在論についてである。私とその外にある世界をはっきりわけて、内面のイメージと外界のものの配置を一致させようよ、というのを外在的実在論。パトナムが考えるのは、すべてが内側にあり、私と世界がいっしょになって私と世界をつくると考える内在的実在論を提唱した。

    まとめ

   存在の科学

  異次元理論

   内面、心で感じていることは確実だ。外界は見えないものが大半だし、不確実のイメージ世界。おのおのの人々が自分にとっての現象界をみている。すると、斉藤君は私にとっての現象界の部分集合。斉藤君にとって、私は彼の世界の部分集合。こうやって互いに部分集合であることによって、外部世界が作られているのだ。最初に外界世界があるのではない。むしろ、一なる外部世界があろうとさせるために、おのおのの生命個体はおのが現象界を生成する。視界にたわしがあり、斉藤君もいる。これは全体的にみて、無数の内なる現象界の集まりによる一なる外界世界生成のための超合理的な営みになっているのだ。



2014 7-30

観念連合と事行についてである。心の内側の世界とは一体、どんな世界なのか。実は、外の世界である物理宇宙のさらに外にある五次元世界なのだ。反対の反対は賛成なのだ、という名言があるが、同じく、外の外は内なる世界だったのである。

   ヒュームの観念連合についてである。当時、ニュートン力学が流行っていた。物体同士は引力で引き合う法則など、ニュートン力学である。ヒュームは心のうちの世界っまた、ある種の法則があるという。これが観念連合であり、内訳は、似ているもの同士はいっしょなイメージになるという類似性。時空的に近いと、ひとつになってしまうという時空隣接性などである。

   次の話はフィヒテの事行についてである。りんごがあるという事実。りんごが腐る、飛ぶ、走り回るという行為。じつは事実そのものが行為だという。りんごをやっているのである。これが事行である。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  外の世界、これは物理的宇宙である。さらに外にある世界は五次元空間であり、ここには無数の四次元時空がある。この外の外の世界はまさしく、心の内なる世界なのだ。ひょっとしたらの並行世界、可能世界が五次元である。だから、ひょっとしたらを思い描く内面的世界と同じなのだ。そして、その証拠があるのだ。五次元からわれわれの住む四次元時空には重力子具ラビトンやヒッグス粒子が飛んできて、時空をゆがめて重力や質量を発生させる。つまり、五時限から来たものが物質を生み出す。心の内面世界における意志が物理宇宙に影響を与え、右手を上げたり、右足があがる。つまり、行為できる。なにかがあるということと、なにかをなすというのは同じことだ。事行である。存在は行為だと考えれば、五次元による影響と、心の内面世界からの影響はあじつは同じものだったのである。


2014 8-1


ベルクソンの自由意志と選言的偶然性についてである。世界の成り立ちについて重要なことがある。心の内側のさらに内側に外の世界があり、外の外の世界が内である。なんと、外の外の世界は並行世界で、そこ支配する大原則が自由意志だったのである。

  ベルクソンの自由意志についてである。自由論に対抗する勢力、それが決定論や偶然論である。宇宙が生まれてからずーっと機械的に何が起きるかすべては決まっているという決定論。過去や未来をタイムマシンで見てくるしか決定論は主張できない。また、すべてはたまたま偶然だという偶然論。これまた、ひょっとしたらの可能世界を見てきたとでもいうのだろうか。そして、残るは自由論だ。自由とはなにか、と問う。ところが問わないのも自由だ。つまり、問い以前にすでに自由はあるのだ。自由は問いでなく事実だという。


   次の話は九鬼周蔵の選言的偶然性についてである。定言的偶然っていうのは、存在論的偶然といって、そこに梅干の種が存在しているっていう偶然。仮言的偶然というのは、因果的偶然といい、ばったり会う、という出会いの偶然。そして、選言的偶然とは、ひょっとしたら、私は大リーガーだったかもしれない、たまたま、大リーガーにならなかったという神学的偶然というものである。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   以前、心の内側のさらに内側は外の世界だといった。外の世界の外もまた、内なる精神の世界だともいった。コインの裏のさらに裏は表なのだ。裏表以外にはないのだ。外の世界は物理法則にしたがっている。外の外の世界とは四次元時空がたくさんある並行世界、可能世界、いわゆる五次元バルグ。ここを支配する法則はどの可能世界を選択するかという自由意志の世界だ。当然、内なる心の世界もまた、自由意志による世界の決定がある。右手をあげようと内なる心は決める。そして、右手をあげて、私が右手をあげた世界を選択するのだ。つまり、これはまた、五次元のなかの四次元時空の任意の世界の選択と同じだ。だから、自由意志という原則の世界と、物理法則という原則が支配する世界の二つしかないということだ。


2014 8-2


生成自動文法と絶対的意識流についてである。世界、宇宙の真相を口笛吹きながらも、真剣なまなざしで考えてみたい。諸行無常に万物流転する世界なのだが、ほんとは時間的な変化なんてない永久不滅のものがあるだけなのかもしれない。

  チョムスキーの生成自動文法についてである。あかちゃんがどうしてわずかな期間で母国語をマスターできるのか。あかちゃんは天才である。目の青い子供だって、日本で育てば日本語しゃべれるようになる。ひとは生まれながらにしてすべての言語にあてはまる普遍文法を知っていて、少ない数の単語が入力されれば、自動的に他の単語や文法が生成されるというのだ。

  フッサールの絶対的意識流についてである。世界が流れていると思いきや、時の流れは自分の意識そのものだったのだ。これが時間意識である。時間の流れを感じるとは、水の流れを感じると同様に、陸地から眺めないといけない。とまっているから流れを感じる。また、同時に自分自身が流れている。流れていると同時にとまっているというのが意識のおおもとにあって、これを絶対的意識流という。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   万物流転、諸行無常という。世界は常に変化しているという。果たして世界は本当に時間的に変化しているのか。じつは、時間の流れは仮象かもしれないのだ。世界、宇宙は時間の流れていない不変的で、普遍的でもある記号列なのだ。PCは16進の記号により動くが、ある種の変換をすることで、それが日本語になったり、絵や音になる。そして、変換後、文字化けするものもある。同じように、宇宙の不変記号配列は変換ツールによっていろいろと変化するのだ。刻一刻、われわれ自身が変換ツールをかえまくっているのだ。だから、世界はたったひとつの永遠記号配列なのに、変化しているように見かけ上みえるのだ。この世界の記号配列を永遠の記号化、永遠の詩と名づけたい。ちなみに、変換後、文字化けしたところが、雑音や無意味なものになるのである。さらに、過去、現在、未来っていうのもこの永遠記号配列に書かれていて、これを変換ツールを変えることで、見えるようにしたり、文字化け化しているだけなのだ。過去、未来におこりうるすべての出来事も、すでにこの永遠の詩に記されている。われわれ自身が変換ツールを代えるという時間的変遷があるから、虚構時間が世界に流れているようにみえてくる。



2014 8-3


純粋持続とカント、ヘーゲルの数学観についてである。われわれの精神はまったくもって自由そのものである。ルールに則って卓球をするが、ルール違反もできてしまう。ルールを作ることもできる。これは五次元世界の大原則なのだ。精神とはルールを作りまくっているルール製造機だった。

  ベルクソンの純粋持続についてである。精神、意識っていうのは時間そのものだという。しかも、本当の時間はぶ〜〜っていう持続。ぴっぴっぴというのは今、今、今、とか、過去、現在、未来、というように伸びきってたるんでしまったもの。測定できる量である。これが空間である。ほんとうの時間は過去と現在と未来が混ざり合う。これは測定できない質的なものだという。どこにそんな純粋な持続があるかといえば、それこそ私の意識だという。

  次の話はカント、ヘーゲルの数学観についてである。数学っていったらなんだか数を扱うので量の世界だと思ってしまう。ヘーゲルは数学っていうのはいろんな質的に異なったものを関連付けるもの、質的なものだと考えた。角度と長さとは質的に違うのだ。カントは量と質的なものは数学、これに別のものとの関係がはいっちゃうと力学になるという。数学的原則と力学的原則という。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


    物理世界は実は数学に時間的なものが付加されたものではないのではないか。むしろ、永遠の記号列。これに変換ツールをつかうことで、映像、音、触感、運動、言語になる。文字化けしたものは雑音のようなもの、ノイズになる。そして、毎回、変換ツールを代えていることで、不変的な世界は変化してみえる。この変換ツール自体の変換をやっているのが自由意志であり、数学的な操作なのだ。x、y軸を実数や自然数にして原点Oで直角に交わる座標系が一般的。ところが、90度でなく何度でもいいし、目盛りも等間隔でなくてよい。虚数の軸でもよい。すると複素座標系になる。座標系はなにを選んでも自由なのだ。つまり、ルールを改変して、世界を違う解釈、見方にして、この変換作業が時間らしきものをうむ。つまり、ルールに則るのでなく作るのである。これは五次元のいろんなルールの世界のどれかを選択する自由意志であり、この自由意志こそ五次元の原則。四次元時空間の原則は法則、ルールだった。この五次元が外の外のうちなので、精神そのものであり、量でなく質的なものである。

2014 8-4


絶対精神、そして、普遍的自我、経験的自我についてである。われわれはいつもなにかを感じている。だれがなにを感じているのか。じつに、宇宙、世界そのものが感じている主体なのだ。また、個々人、皆、ヘアースタイルはちがうが、好き嫌いもちがう。つまり、個性があるのだが、これはなんと物質的な要因でうまれる、というお話をしたい。

   ヘーゲルの絶対精神についてである。ヘーゲルはまったく正反対のものはくっついてひとつになるという。いわゆる矛盾である。この世界、宇宙とそこに住む、個人としての斉藤君。これはひとつにならないといけない。そこで、斉藤君に着目すると、おぎゃっとうまれていつしか、自分がいることに気がつく。つまり、自覚である。さらに、主体的にあるときは、屁をこいたことを隠蔽すべく工作し、あるときは、ぶちまけてしまった爪楊枝を口をへの字にして回収する。ところが、宇宙は主体でなく、じーっとそれ自体で存在している実体とおもわれがちだ。スピノザのしかり、デカルト、アリストテレスしかりである。ところが、ヘーゲルは宇宙もまた、主体的であり、自分が宇宙だって言うことに気がつくという。これを絶対精神という。


   次の話は普遍的自我と経験的自我についてである。経験的自我というのは、経験的に、つまりは、目でみたり、さわったり、観測できる自分だ。性格や個性がある私である。普遍的自我っていうのは、十人十色だが、その根本はだれだか名前もないたったひとりの私であり、これが普遍的自我なのだ。

  まとめ

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  異次元理論


  宇宙が誕生した直後は光に満ちていた。過去から未来へと流れる進行波。未来から過去へと時間を逆行する後退波。これらがあわさって、時間も空間もない対称な世界だった。以前、話たが、時空がないことがクオリアであり、別名、永遠だ。これが普遍的自我であり、すべてはたったひとりの宇宙さんであり、工夫さんがすべてを感じている主体なのだ。そして、後に自発的対称性の破れによってヒッグス場がうまれ、重力、質量が誕生し、物質がうまれる。さて、私は私だという同一性、私の対称性は光のクオリアであり、普遍的自我。経験的自我、個性、性格tっていうのは宇宙が宇宙自身に戻ろうとしてずれる、誤差がうまれたところだ。つまり、性格、個性は対称性のやぶれであり、物質に由来するのだ。端的にいうと、肉体が性格を決め、感じている主体はこの壮大な宇宙そのものっていう一人称なのである。




2014 8-5


二重感覚と存在地平についてである。私はいるなっていう感覚がある。自分の存在感である。同時に間髪いれず、世界、宇宙って存在してるな、という存在感もうまれる。私がいる、と世界がある、というのが同時なのだ。

  二重感覚についてである。眼でものをみる。鼻でにおいをかぐ。もっとも重要な感覚が皮膚の触覚である。椅子にふれるのと、自分のけつを触るのは感覚がぜんぜん違うのだ。触れると同時に触れられている。これが二重感覚であり、これによって、椅子と私のちがい、主観と客観のちがいがうまれるのだ。

  次の話はハイデガーの存在の地平についてである。人間はただ存在しているのではない。存在してるなって感じている存在、存在にかかわる存在だという。地球にいて、青い地球丸ごとみえない。地球の地平線がみえる。自分の存在もまた、地平となってみえるのだ。このときの存在は自分の存在でもあり、世界の存在でもある。


  まとめ

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   異次元理論


   自分の存在感があると同時に、世界があるな、という存在感が伴う。これは自分自身がこの世界、宇宙そのものだからだ。宇宙誕生直後の光の世界。対称性の世界、同一性の世界であり、まだ時空がない世界であり、これがクオリアだといった。つまり、感じている主体はほかならぬ宇宙そのものなのだ。だから、十人十色、性格も、考えも違うが、感じている主体はひとりだけ、つまり、宇宙さんなのだ。だからこそ、自分の存在感を感じると同時に世界の存在感を感じる。



2014 8-6


二元論と非法則論的一元論についてである。この世界はもしかしたら徹底した二元論の世界かもしれない。竹で割ったような性格というが、きっぱりと白黒に分かれている世界観。精神と物理世界があまりにもかけ離れた世界かもしれないのだ。

  二元論についてである。古代ギリシャにおいてはプラトンのイデア論。さつまいもはいろんな形がある。これらは現象界であって、おおもとはさつまいもそのもののイデアの影なのだ。

   デカルトにおいては精神の世界と物質の世界はまったくちがう世界でかかわりを持たないという。

  現代においては二元論を克服しようとする思想が現れる。ラッセルは、精神と肉体というのはなにかひとつのものの現れのちがいだという。もともと、精神でも肉体でもない中立的ななにかがある。中立的一元論という。

   次の話はディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。精神と物質はまったくちがう法則だ。宇宙は精神と物体をあわせた全体。だから、精神と物体をあわせると、法則なんてなくなるる。法則のないなにかひとつの宇宙があるという非法則論的一元論である。


   まとめ

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  異次元理論

    
    ひとや生命体の個性は唯一無比である。すべてが差異なのだ。つまり、自発的対称性がやぶれたものであり、物質に由来する。肉体がその性格、個性をなす。もちろん、同じものを大量生産しても、じつはどこかがちがう。物質こそ、差異そのもの、対称性のやぶれ、非同一性なのだ。これに対して、精神における感じること、クオリアは宇宙誕生のときの光の対称性だった。時空が生まれる前の宇宙そのものが感じる主体なのだ。一なるクオリアの主体と、多元的な物質世界という大きな二元論になっている。実体と非実体の世界といってもよいのだ。


2014 8-7


二項対立の特権性と遂行的矛盾についてである。まったくの二元論だとじーっとしていて何事もおきない。白と黒でおわってしまう。混ざり合い、グレーな状態で展開してはじめて万物は動き出す。その原動力になっているものを解明したい。
   
  デリダの二項対立の特権性についてである。世の中にはいろんな対立がある。主観と客観、精神と身体、内部と外部、私と世界、私と他者である。このうち、第一項目が第二項目よりもひいきされてみられているのだ。これが西洋形而上学の特徴だという。精神のほうが身体より尊いとみられている。ところが、第一項目のなかにはすでに第二項目が潜んでいるのだという。私のなかに他者がいるのだ。

   次の話は遂行的矛盾についてである。私は今しゃべっていないと主張するひと。そうしゃべることで、自分自身に矛盾しちゃうのだ。私はいま寝ています、とか、私は存在していなません、っていうのも遂行することで矛盾する例である。この遂行的矛盾を使って、デカルトはわれおもうゆえにわれあり、の境地にたどり着く。

  
   まとめ

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   異次元理論


   究極の二元論は実体と非実体の二元論だと以前話した。非実体は宇宙誕生後の空間対称性、時間対称性が成り立つ時空がまだない光の世界。これがクオリア、感じる主体の一なる宇宙だった。ここから自発的対称性の破れによって物体がうまれる。同一性がこわれて非同一性になって、すべての違い、差異が物体になったのだ。そして、すべては唯一無比の個体というのが物体の世界だともった。一元論と多元論にわかれる二元論なのだ。クオリアと時空。さらに、時空は時間と空間。時間は時間意識と物理時間。空間はなにもない純粋空間と物体の世界にわかれる。こうやって二つの要素のおのおのがさらに二つに分岐し、第一項目が一、二項目は多。世界はとどまること知らず、はかしれぬ進化を促進しているのだ。遂行すると矛盾するというのは一と多の二元論が矛盾を解消するためにいてもたっていられずに世界は変形し、活動するという力を現すのだ。



2014 8-8


ゲシュタルト理論と二重触発説についてである。なにかに突き動かされていても、それに気がつかないことが大半なのだ。なんだか、いつもよりペースが速いとおもいきや、後ろから海がめに突っつかれていたりする。知らず知らずのうちになにかに影響を受けて活動していたりするのだ。

  ゲシュタルト理論についてである。りんごがあるというより、その背景である青い空、そして、被写体である赤いものが互いにやり取りしながら輪郭を生み出す。全体は部分以上に情報たっぷりという。グラーツ学派は、メロディっていうのは単音の集まり以上になにかプラスアルファされたものと考える。ヴェルトハイマーはそもそも、全体っていうのは部分が集まった以上のものだという。全体との関係で輪郭がうまれるのだ。

  環境主義的なゲシュタルト理論がある。私と環境もまた、私っていうかたまりがあるのでなく、環境とのやり取りのなかで輪郭になる。

   次の話はアディケスの二重触発説についてである。眼で見て、手で触れて、こうやって感覚によってそれが感じる。赤い、丸い、甘いという経験的な触発だ。これに対して、りんご自体が自我自体をどかーんっとぶつかって触発。これが物自体による触発。二つの触発によって、それがりんごだと認識だ。

  まとめ

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   異次元理論

   
りんごという対象。これは一元的なもの。この周囲にはうっすら空が見えたり、人影もある。これが背景であり、第二項目は多元的だと以前話た。背景のほうがたくさんあるのだ。私と他人もまた、私はひとり、他人は複数である。そして、私と対面する多くのもののある特定のものから私自身の行動の根拠となるような大きな影響を受けるのだ。

  意識は第一項であり、無意識、潜在意識は第二項である。よって、意識は一元的で、無意識、潜在意識は多元的にたくさんある。この潜在意識のある特定のものから大きな影響を受けて感情になったり、自分の行動の指針となる根拠になる。これが洗脳になっていたりするのだ。ひとはこうやって意識的でないものによって動くのだ。



2014 8-9


具体的普遍性とホーリズムについてである。いきなりであるが、われわれはすでに胃袋のなかにいるのではないか。すべての生命は営んでいるが、これが消化プロセスなのだ。くじらに飲み込まれたまんがのようであるが、消化される。死してなにもなくなるのでなく、なにものかの栄養になるのである。

  ヘーゲルの具体的普遍性についてである。ふつうは抽象的普遍性という。さいとうくん、やまだくん、かれらの共通する性質をちゅーっと吸い取る。人間という抽象的普遍性になる。普遍性っていうのは、すべてにあまねくあてはまるということ。ただし、抽象的なのだ。ところが、野菜っていう普遍性が具体的なだいこんやこのにんじんを存在させている本質になるというのが具体的普遍。これは否定の否定は肯定である、ということから理解できる。ここにあるこのにんじん。この人間はあのだいこんでも、土星のわっかでもない。宇宙にあるすべての具体的なものたちを否定した上で戻ってきてはじめてこのにんじんは存在している。

   次の話はホーリズムについてである。全体論のことである。ふつうは部分、パーツが集まって全体になる。これは機械論的だ。生命もふくめたすべては、部分は全体と直結しているのだ。かかとはふくらはぎというお隣さんだけと関係しているのでなく、そのひとのの全体、果ては宇宙全体とつながっている。

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  存在の科学


   異次元理論

   すべての生命はなにかを営んでいるが、これは大きな胃袋のなかの消化プロセスである。この胃袋は比喩でいっているのでなく、実際に胃袋だといいたい。死滅してこの世界になにも残さず、最初からいなかった同然のものでなく、消化されて大いなるものの栄養、一部になるのだ。以前話たが、われわれの意識は五次元構造体であるクラインのつぼだといった。内部が外部、外部が内部という構造体。これは五次元のものであって、三次元で作ろうとすると、どうしても不備がでてくる。自分自身にぶつかる箇所ができるのだ。ここが五次元とつながっている箇所である。このクラインのつぼが意識構造であり、われわれ自身もこのクラインのつぼのなかにいる。そして、クラインのつぼは胃袋なのである。形も胃袋だが、自分自身とぶつかるところが十二指腸。ここで栄養の大半は吸収される。からだの一部になるのだが、われわれの世界も胃袋であり、クラインの自分との接触部が十二指腸にあたり、ここから五次元につながる。胃袋は東洋医学では真ん中の真ん中、陰中の陰だという。もっとも中心部である。宇宙の構造ははるか遠方のようだが、じつにもっと近い、自分の中心である胃袋そのものなのだ。宇宙構造はもっとも近きものにその構造が現れている。

  生命が死滅し、十二指腸で栄養吸収されて大いなる五次元の肉体の一部になるのか、はたまた、残渣、便となってしまうのか。便になるとは、この宇宙でなく五次元の別宇宙へといってしまうことだ。これは宗教的な天と地にあてはまる。

  具体的な胃袋に普遍的真理がある。さらに、私の胃袋っていう部分は宇宙全体とホーリズムにおける認識論の域を超えて、存在論的に同じものなのである。存在論的なホーリズムなのだ。部分が全体そのものなのだ。

2014 8-10


対化的連合と反実世界についてである。たしかに目の前に岩石があり、行く手をはばんでいる。隊長の決断のときが来た。急がばまわれ、はたまた、岩石を跳び箱ばりに飛び越えるか。岩石が実在しているのは実は驚くことなかれ、異次元の者たちの熱いまなざしによって生み出されていたのだ。

  フッサールの対化的連合についてである。デカルトは近代哲学のヒーローだ、ということばがある。私がいるっていうのは確実で、ここから目の前の岩石、さらには他人がいるのかな、と推論する。他者とは一体、存在しているのか、という問い。私と他人っていう主観の間についての思索なので、間主観性問題という。他人をみて、まず、自分にそっくりだとおもい、自己移入する。こうやって他人にも自分と同じ心があると推論。これを類比化的統覚という。さらに、われわれはいろんな限界に囲まれている。ものをみるときも視野の限界がある。においにだって限界がある。考えているとは考えていないというところに限界の線がある。これらを地平という。いろんな地平に囲まれているのだ。そして、この地平のなかに他者の目がいっぱいあるのだ。そもそも、そこに岩石がある、という客観性は目撃者の数が必要だ。つまり、客観性が高まるのは他人の眼なのだ。だからこそ、ひとりでいても、そこに岩石の実在を主張したいなら、地平のなかに他者の無数のまなざしがあるとかんがえたほうがいいのだ。これが対化的連合である。

   次の話は反実世界についてである。現実に起こらなかった世界のこと。これは可能世界や並行世界だ。科学は原因あったら結果があるという因果律を使うが、因果律を説明し、証明できない。そこで、反実仮定というやり方をする。因果律もどきなのだが、押せばへこむは因果律、おさなかったらへこまなかった、といえばいいのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  
   岩石はなぜ実在できるのか。この実在感は間主観性理論において、他者のまなざしが地平に含まれるからだった。ところが、人間をも含めた多くの生命、意識体は今このときも、なにかを営んでいるではないか。そうではなく、ここでいる他者とは、現実には存在していない反実世界、並行世界の住人なのだ。いまはいないがかっていたものたち、いまはいないがいずれうまれるものたち、現実には存在しないものたちだ。そもそも、他者の心とは観測できないので可能性である。すると、岩石を見ているとする反実世界とは可能性であり、そんな可能世界のなかの可能性としての心、意識が岩石をみることになる。否定の否定の肯定だという二重否定のように、可能性の可能性は現実性ではないか。二重可能性と名づけたいが、この二重可能性である別世界の他者のまなざしが岩石を現実化、実在化しているのである。



2014 8-11


  コモンセンスと位相転換についてである。将来、大リーガーになりたいな、と初老の男性はつぶやく。大リーガーになれるという潜在能力を皆がもっているのだ。それどころか、さつまいもにもなれるし、もうすでになっているともいえる。ただ、顕在化していないだけなのだ。じつはすべてはすべてのものなのである。それゆえ、万物は多様であり、流転するというお話をしたい。

   常識学派リードのコモンセンスについてである。コモンセンスとは共通性質ということ。これはいわゆる人類皆がもっている常識のことである。もっとも顕著なのが、感覚と知覚である。赤い、甘い、しょっぱい、くすぐったい、これらは感覚である。感覚は私と対象物の区別がない。どこから私で、どこからレモンなのか、境界線がない。これらの感覚をマニュアルどうりに組み合わせて知覚ができる。この人類共通マニュアルがコモンセンスである。小高い丘の上の木、というのは知覚である。

  このコモンセンスというマニュアルは人類共通のいわゆる常識を組み立てているというのだ。

   次の話はレヴィナスの位相転換についてである。全体性と無限、という本を著したレヴィナス。全体っていうのはふちがあり、エッジがある。だからもちあげることもできる。壁にはふちがないからつかみ取れない。だから、これを無限という。他人のからだはもちあげられるが、心はふちがない。何を考え、感じているかはわからない。他者は無限なのだ。ここにはいない不在のものたち、第三人称のかれらをイリヤとよぶが、このイリヤの圧力を感じ続けて生きているのだ。ここからの脱却を試みて、自分のなかに他者をみつけようとする。これが山が谷になるという位相転換。さらに、自分のなかには自分の意識ではどうすることもできないコントロール不能な自分がいるという。これを非領有化的自我と名づける。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   すべてのものはレオナルドダビンチである。あらゆるもの、これは岩石も含むが、すべてのものになりうる潜在的な可能性があり、むしろ、すべてのものなのだ。さいとうくんは田中君を潜在的に秘めている。ただ、さいとうくんが顕在化しているだけだ。もっといってしまえば、さいとうくんはさつまいもやくるまでもある。たなかくんでもあるが、われわれにはそれが見えないようになっている。コモンセンスによって色眼鏡で真実は隠される。すべてがすべてのものだった。この根本的な矛盾がいてもたっていられずに、万物多様性になり、それでもだめで、矛盾解消に翻弄し、ついには変形し、万物流転になる。



経験的実在論、超越論的観念論、そして、夢についてである。目の前にある夏みかん。果たして、これが実在しているのはどんな力が関与しているのか。得てして、この世界は正反対のもので構成されている。だから、夏みかんの実在は夢を構成要素にしているのだ。異次元のものたちの夢の集大成が実在なのだ。

  哲学者カント、経験的実在論と超越論的観念論についてである。経験とは実際に眼でみて、手でふれるという五感でとらえたもの。そういうものは実在しているというのだ。だから、建研的実在論だが、別のいいかたをすれば、超越的実在論だ。超越的とは、身を乗り出して、われを忘れて意識しているようなさまだ。自分の心なんて五感で経験できないからだ。これに対して、世界のなかの自分、認識している私を認識するのは、超越的を論じているから超越論的だ。この場合はイメージ、想像の世界だといわんばかりに観念論とくるのだ。

  次の話は夢についてである。まずはフロイトである。過去のいやなことは、無意識の世界に封印する。ストレスとなってそこにあるので、これがトラウマなのだが、形を変えて夢となって発散される。ユングにおいては集合的無意識。人類共通の無意識の世界があるという。また、夢っていうのは現実と同じように続きを見ている。つまりは、生活の歴史があるという思想もある。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


  実在の構成要素はおよそ実在とは正反対のものでできている。だから夢なのではないのか。カントの経験的実在論、これは五感でとらえる実在感だが、これらは物体にあたった反射光である。だから、二次的光と名づけたい。夢をみているときは、反射光ではなく、光のみ。神経は電気信号だが、電気のパッセンジャー粒子は光。だから、一次的光をみている。

  さて、ビッグバンのあと、宇宙は光で満たされていた。過去から未来への進行波と未来から過去への後退波があって、時間対称、空間対称であり、よって、時空がまだない永遠の光の世界だ。ここから対称性が崩壊し、時間が一方通行に流れ始め、空間もできて、ついにはヒッグス粒子によって質量ができる。こうやって物体が誕生した。つまり、もともと、一次的な光のみが構成要素だ。だから、物体の実在が一次的な光、つまり、夢なのである。

  それでは、誰の夢が実在の構成素なのか。以前話たが、この世界の実在はひょっとしたらの可能性の世界にいるひょっとしたらの可能性の心、意識によるものだった。並行世界の可能的な意識のまなざし。そこで今回はまなざしを一部かえて、これを可能世界のなかの可能性である意識、心そのものの働きである夢だといいたいのだ。可能性の可能性ということで、これが実在化の力だといった。並行世界の住人の夢、しかも、多くの夢が集まって、ついには一次的な光の対称性が崩壊し、われわれの住むこの宇宙に物体という実在を生み出しているのである。



2014 8-13


ヤスパースの哲学、そして、なぜなにもないのではなく、何かがあるのか、についてである。肩の荷がおりたとき、すべては気の持ちようだと楽観的に考えるようになる。すると、この世界の構造も気の持ちよう、宇宙のはじまりと終わりがどうなっているかも気の持ちようだ、と口笛ふきながらつぶやいたとき、むしろ、世界、宇宙のありようがこの私の双肩にかかっているんだといきなり荷が重くなってくるのだ。

  ヤスパースの哲学についてである。ハイデガーの場合は現存在と存在をはっきりわけていた。茶碗はただ存在しているだけだが、人間は現存在しているという。現存在とは、自分の存在にかかわっている存在、存在してるなーって感じている存在。ところが、ヤスパースは茶碗も現存在だという。だから、日常生活では茶碗も人間も同レベル。これが日常的世界定位という。さらに、自分が宇宙の外にたって、世界を冷静にみる世界のみかたが、科学的世界定位だ。とりわけ、重要なのが、哲学的世界定位である。

 人間は限界状況というものがあるという。闘争、苦悩、死など避けられないものである。このとき、自分のちっぽけさ、有限性に自覚。もはや、外に脱出はないので、自分の内にどんどん突き進む。自分自身にかかわりすぎて、現存在もやりすぎてしまって、自分に穴をあけてしまう。そして、むこうがわの超越者をみる。これが実存というもので、この実存できちゃう可能性こそ、人間なのだという。

  次の話は、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか、についてである。このことばはライプニッツのものだ。これに対する解答に、現代ではいくつかある。ラッセルは世界はただあるだけだという。充足理由律というものがある。なんでここに醤油のシミがあるのか、理由や根拠がある。ところが、ある、存在ということに関しては理由がないし、充足理由がないというのだ。

  さらに、すべてがある、という思想が様相論理、可能世界論や多世界論だ。論理的に考えられるすべての世界はあるんだよ、という思想。そして、ノーリッジの確率論証というものがある。この世界は50パーセントの確率でいろんなものがあるという。まず、世界は端っこがない閉じた世界か。もしくは、端っこのない開いた世界か、と考える。もうひとつ、始まりはなくても、終わりがある、という世界も考えられる。半分開き、半分閉じているのだ。

  まとめ

  存在の科学 


   異次元理論

   世界は気の持ちよう。たとえば、壁の向こうは見えないのだが、せみの鳴き声が聞こえ、おそらく、セミがいて、世界が存続していると信じている。視野を越えたり、認識できないほど遠かったり、というように、不可知、不可視な世界は事実でなく、信念なのだ。自分の意識状態がその向こうの世界を決める。

  宇宙は膨張しているが、光速を超えて膨張しているところが、事象地平線である。これ以上は原理上、知ることができない、いわゆる宇宙の果てである。さきほども、壁の向こうは信念だといったが、事象地平の向こうの超大規模宇宙は信念、意識の状態いかんによって決定するのだ。だから、われわれは同じ物理宇宙を共有するが、その宇宙の全体を包むもっと大きな領域は信念のちがいにより別の世界にいることになる。

  宇宙は開いていれば、その終焉はビッグリップといって宇宙ははじけて終わる。閉じていれば、いずれ、宇宙は収縮してビッグクランチ、点になって再度ビッグバンだ。これは意識が内向性に向かっていれば、宇宙はその反動で開きビッグリップの終焉の世界になり、意識が外に向いていれば、逆に宇宙は収縮するという繰り返し宇宙、輪廻宇宙になる。さらに、宇宙の曲率が意識に関与しているなら、リピート宇宙を生きるものもいるかもしれない。同じ一生を繰り返すという永劫回帰である。

  宇宙はひとの一生と重なる。だから、天の国があるのか、輪廻するのか、繰り返すのかもまた、信念、意識状態と深くかかわる。
posted by モノイイ ジョーカー at 13:47| 東京 ☁| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

仙人新聞 2014 7-6 2

仙人新聞 2014 7-6 2  


2014 4-20



   無主体説と純粋持続についてである。萌える闘魂、三つ子の魂以下略。魂といった言葉がよく耳にするのだが、魂とは一体どんなものなのだろうか。魂には実体がないけど粒子性をもつというお話をしたい。

   無主体説についてである。私はいないというのが無主体説。ヴィトゲンシュタインや西田幾多郎である。ヴィトゲンシュタインは言語ゲームといって、言語は生活の流れからさっそうと登場したのではなく、さりげなく自然発生したという。とりわけ、流れのなかで代名詞は指し示すものがちがう。人称代名詞の私、あなた、っていう言葉は時と場所によってちがう。だから、私に対応する私っていう実体があるのかが疑わしいのだ。

   西田幾多郎においては行為的直観。周囲を見ながら歩く。直感しながら行為する。直感と行為の間に私っていうかたまりがないというのだ。


   次の話はベルクソンの純粋持続についてである。意識、精神と物体、空間は基本は同じひとつのものだが、かたや収縮、かたや希薄な弛緩体だという。意識においては過去、現在、未来が濃縮されて混ざり合っている。よって質的なもので計れない。これが純粋持続だ。ところが、過去、現在、未来が伸びきってしまうと、今、今、今でしかなくなる。これが物質や空間だという。


   まとめ

 
   存在の科学


    異次元理論



      この世界の構成要素はなにか。これ以上、小さくできない点、これを点粒子とか、量子場説という。もしくは、厚みのない最も小さな大きさであるプランクスケールのひもでできているのかもしれない。いずれにしても、分割できない最小のなにかだ。もしも点だとすれば、点同士が重なって組み合わさる事は無い。点の一部が重なっていれば、その重なった部分は最小の点よりも小さくなってしまうからだ。だから、点は互いに離れてネットワークで結ばれる。これはスピノールのスピンネットワークかもしれない。また、だとすれば時空や物質を作っていることになる。点と点が非連続的に繋がっているのだから、文字通り、非連続性、離散性である。これが物体だ。飛び飛びの値をもつ離散性とは同時に波動でもある。波動は山と谷、電子の軌道も飛び飛びなのだ。これに対して、連続性なのはなにか。最小単位であるひもは厚さがないから0、無。同じく点粒子だって0、無。この点が連続性であり、それゆえ、波動性ではなく粒子性なのだ。無の粒子化、粒子性こそ、これが魂なのではないのか。物質を形成している無数の点粒子、ひも、量子のひとつひとつが魂であり、物体を構成するそれは休眠状態であり、これが活動期になるとおのおのの魂が肉をもって生まれるのである。



  ベルクソン、記憶と物質、そして、対化的連合についてである。われわれはもしかしたらケータイ電話もどきなのかもしれない。自分っていう電波を受信してるから、いざ、というときにひざまづいてスペシウム光線の構えができるのだ。

 
  ベルクソン、記憶と物質、についてである。記憶は二つの種類があるという。ゴルフのスウィングを覚える時の、身体的記憶。これには、時間的な順番がない。もうひとつは、小学校卒業したあとに中学校入学した、というような時間の順序がある純粋記憶である。ふつうに考えると、純粋記憶は脳のなかにあると考えちゃう。ところが、なんと、脳はアンテナのようなもので、記憶はそこらに目には見えないけど、それ自体で即自的にあるという。


   次の話はフッサールの対化的連合についてである。ひとりでトイレにてスリッパをながめる。スリッパはたしかにそこにある。客観性はあるが、それを見ているものの数が増えればより客観性が増す。他者のまなざしと客観性は関係しているのだ。つまり、スリッパのことを考えても、これ以上考えられない思考地平があり、見ようとしても、見えそうで見えない視覚の地平だってある。こうやっていろんな地平に囲まれているが、この地平のなかに他者の目があるというのだ。だから、ひとりでみていても、客観性を得られる。


   まとめ


   存在の科学



    異次元理論


    からだとはケータイの端末のようなものかもしれない。からだはチューナーであり、私の精神の波長に周波数を合わせて受信する。だから、アメリカにいても、日本にいてもどこにでも私の意識波動があるから、それを受信すればよい。ところが、寝てしまうと、からだは休まる。すると、この世界で活動中の生命の固体、虫でもひとでもよい。それらが覚醒時に潜在意識下で別のチューニングで私の精神波動にあわせてしまう。すると、私はその生命個体の目を通した世界をみてしまい、これらが集まって夢になる。また、逆に私が覚醒中もまた、意識でなく潜在意識、すなわち、まなしき、阿頼耶識のレベルで今、睡眠中の生命の精神波動を受信してしまい、自分の目を通して彼らに夢の一部を提供する。そして、この私とともに、潜在意識下で見てくれている多くの他者がいるから、これが対化的連合の地平のなかの無数のまなざしになってくれて、眼前にあるものの客観性を生み出してくれるのだ。



  
2014 4-22



  自己関係性と仮言的三段論法についてである。この世界は三つのゾーンがあるように思われる。スクールゾーン、流星人間のそれ、ミステリーゾーンなのか。そうではなく、プラトン世界、物質世界、意識世界であり、これらがからみあってトポロジー世界、有機体、自己意識がうまれた。


   自己関係性についてである。セルフリファレンンスとか、自己言及ともいう。自分が自分自身にかかわっちゃうと基本的にはNGだという。この文は日本語で書かれている。日本語で日本語云々するのは自己言及だ。自己意識や自己治癒力もそうだか実際にこれは例外かもしれない。不完全性定理もまた、ほんとうは自己関係でアウトなはずだが許される。自己関係性を避ける方法がある。タルスキのメタ理論だ。私は、ばかやろう、と叫んだ。ばかやろうといった自分をナレーションのように別次元からひとごとのように語る自分がいる。別の次元にわけてしまえば自己矛盾しないというのだ。


   次の話は仮言的三段論法についてである。三段論法のなかでも、もしこうしたらこうなるという、仮言判断のようなものにする。すべての人間は死すものだ。これが大前提。ソクラテスは人間である、というのが小前提。そして、ここから、ゆえにソクラテスも死すものである、というのが結論になる。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論



    世界は三つのゾーンがある。これがペンローズの三角形になっているのだ。ペンローズ三角形は部分的に、局所的にみると矛盾しない。これを全体的に、非局所的に眺めると矛盾しているのだ。部分から全体が生まれている図形なのだ。


  三つの世界とは、まずは意識の世界。この意識の世界がイメージするプラトン的な数学世界。これが二つ目の世界。この世界における点、点がスピンして光になり、光の対称性がこわれて物質生まれる。物質世界が三つ目である。そして、この物質世界の一部に肉体、脳があらわれ、意識世界になる。部分から全体が生まれている三角形なのだ。そして、このおのおのの世界にもまたペンローズ三角形の矛盾がある。プラトン的世界においては、長さのない世界がある。コーヒーカップとドーナッツは長さを無視すると同じ形、同じものとして扱う世界、これがトポロジー世界だ。ここではペンローズ三角形は矛盾しない。物質世界におけるペンローズ図形はおそらく有機体や肉体だ。そして、意識世界におけるペンローズ三角形は自己意識なのだ。

  このように三つの世界のおのおのにも小さな三つの世界が現れているのである。


2014 4-25

ヒュームの知覚の束と他者性についてである。


  続き


  ヒュームの知覚の束についてである。すべては思い込みだという。冷蔵庫のなかにはたまごがあった。なんどみてもあったのだ。そのうち、見なくても習慣的にあるにちがいないと思い込む。見てなくても、それ自体で存在できちゃうことを実体性という。実体性は習慣的な思い込みだというのだ。

  私はいろんなことを感じ、感覚し、知覚する。これらをまとめあげている私っていう束があるんだと思い込んでいるという。


   次の話は他者性についてである。たとえば、レヴィナスは私と他人っていうのはひっくり返るような対称性ではないという。私は絶対に他人ではないという。私はちっぽけであり、他人の体の全体は力持ちだったもちあがる。それでも、他人の心にははじっこがみえない。全体ではなく、他者は無限だという。

   これに対して、メルロポンティは私と他者は同じ肉で溝によって屁だったっているにすぎないという。だから、私と他者は反転してしまうのだという。



   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



   私の意識は氷山の一角であり、その大半が潜在意識だと以前、お話した。そして、その大半の潜在意識は私以外の無数の他者の魂の集まりだともいった。今回は意識と潜在意識の区別すら取っ払う。私っていうのはそのまま、この宇宙にいる私以外のすべての生命の魂の全体なのだ。いわゆるジグソーパズルの失われたピースなのだ。自分っていうピースは埋まっていない、空白なのだ。それ以外はすべてうまり、それ以外があるからその空白には形があり、位置があるのだ。私のなかにすべてがいるのだ。また、こんどは斉藤くんはどうか。斉藤君にとって斉藤君は失われたピースなのだ。そして、斉藤君にとっての私ややまちゃんはいる。存在するピースなのである。だから、ひとだけでなく、あらゆる生命はすでに自分の構成素だったので、相手の気持ちになれるのである。


   

2014 4-26


   イデアチオンと古代のパルメニデス、ヘラクレイトス思想についてである。表にいたのに、気がつくと裏側にいる。メビウスの帯である。すべてはメビウスの帯のようなひねりをくわえた構造なのかもしれないと気がつき、これにあれやこれやあてはめてみるとフィットするのである。


  哲学者フッサールのイデアチオンについてである。あっカブトムシだ、と友人のひたいをゆびさす。黒くて、固くて、スイカのにおいがする。これらは感覚的直感だが、これだけだとカブトムシって知ることができない。カブトムシをカブトムシたらしめている本質、カブトムシのイデアを直感しているというのだ。これを本質直感、イデア的直感といい、イデアチオンとよぶ。


   次の話はパルメニデス、ヘラクレイトス思想についてである。パルメニデスは、存在は存在、無は無、という単純明快な思想。あるものは永遠の昔からあったし、今後未来永劫、有り続ける。無いものは最初から無いし、今後も永遠に無いという。そして、存在とは思考だという。

  ヘラクレイトスはこれとは反対。あると同時にないから物体は動く。すべては水の流れのようなもので、固定された存在なんていうのはないという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    光子の平方根、構成素であるスピノールは二回転して元の状態に戻る。これはスピンネットワークといい、くもの巣のようなネットは一回目はからまり、2回目でほどけるのといっしょ。一回転目で時空を作り、二回転目で光子の一回転のスピン、すなわち、光になる。

    世の中のあらゆる対立はこれにあてはまるかもしれない。いわゆるメビウスの帯。一回転目では裏、二回転目で表に戻る。一回転目で有が無。二回転目で有に戻る。生と死もメビウスの帯かもしれない。前回お話したが、私という失われたピースの形と位置は私以外のピースによってできているといった。つまり、私は無数の他者によって作られる。これは水のようなもので、この波動は無数の波動の結果だ。そもそも、実体がない。ところが、これが実体ともいえる。波動と粒子も二回転目で戻るのかもしれない。


  ひとがなにかを認識するとき、感覚的直感は実体的なものを感じる。次に、一回転目で実体なき本質、イデアを直感し、そして、もう一回転で感覚や知覚に戻るのだ。


2014 4-27



    事象とパース記号論についてである。なんとすべての出来事が生命現象で、精神活動で、しかも、われわれがぺちゃくちゃしゃべっているような言語活動だ、なんていうことをいってしまったあかつきには、道端にこびりついているガムに話しかけてしまうという暴挙にでてしまうことがあるかもしれない。すべての事象は精神だった、というお話をしたい。


   事象とはなにか。いわゆる出来事である。前期ヴィトゲンシュタインは世界、宇宙っていうのは、物体の集まりじゃないといった。積み木やブロックではないのだ。アリがただつったっているだけでなく、つまづいたり、ばんざいしているのだ。なにかの出来事、事象だ。これを文章とか、命題にちゃんと対応させる。これが写像理論だ。

  ホワイトヘッドにおいてはまず、機械論的なものは、歯車がまわって隣の歯車を動かすのだが、部分が部分に影響でなく、部分が直接に全体、全体が部分とつながるのが生命、有機体だという。

  そして、この宇宙は木っ端が風で動いたという事象のようなものでできている。しかも、同じ動き方はしない。これを事象の一回性という。しかも、全宇宙の全体によって木っ端が動く。木っ端が動く事で、全宇宙に影響を与える。宇宙と木っ端は一方的な包まれちゃっている関係でなく、互いに包んでいるというのだ。すべてが生命だというのだ。


   次の話はパースの記号論についてである。パースはデカルトがあまり好きではない。デカルトは直感に頼ったからだ。われおもうゆえにわれあり。思っているんだから、私はいるんだ、と直感的に知る。論理、理屈じゃないのだ。すべては理屈、記号でしかないという。まず、記号はイコン、文法ルールはインデックス、そして、記号の意味がシンボルだ。そして、Aはこうで、Bのためで、だからCなんだよ、という記号プロセス。さらには人間まですべて記号だという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   意識にはその背後に潜在意識ないしは無意識がある。潜在意識は可能性であり、多数の量子的な波動状態で、これが収束して顕在意識になる。さて、コーヒーカップはどうか。コーヒーカップはもしかしたらテーブルから落ちて壊れるかも知れず、売り飛ばされるかも知れず、あらゆる可能性がある。コーヒーカップは量子でできているが、もちろん、量子の波動、重なりがあり、収束もある。意識と潜在意識と同じではないか。すべては意識であり、精神なのだ。あらゆる事象が精神活動なのだ。

  また、人間のやっていることは大宇宙のミーメーシス、模倣である。人間の言語活動は宇宙における万物法則だったり、宇宙のあらゆる事象に相当する。だから、事象も言語活動なのではないのか。すべては話ししているのである。事象=精神=言語活動。われわれの社会では、これがわかっては円滑に営めない。これらの世界は隠されているのである。

  

2014 4-28


    デカルト主義と主客二分化についてである。世界は小さなものから大きなものまで一様に同じ構造をしているのかもしれない。それがへんてこな形でなければいいのだが、じつに不思議な形なのだ。世界はミクロ、マクロを越えちゃってすべてがメビウスの帯でできているというお話をしたい。


   デカルト主義についてである。まずは有名なところで、我思うゆえに我あり、である。私はいないのではないかと疑ったり、思ったりする。思っているっていうことは私がいることだ。私といっても私のからだでなく、精神のことである。だから、精神と身体とか物質世界をきっぱり二つの世界にわけるのだ。これが物心二元論である。また、ここでいう物、外部の世界っていうのは単なる図形、空間的な延長だという。


   次の話は主客未分化についてである。主観と客観をきっちりわける二元論。そうではなく、最初はほんとうは分かれてないのではないか、という思想。アヴェナリウスの自然的世界概念っていうのがある。主観と客観ははっきりし境界がないという。また、ウィリアムジェームスや西田幾多郎もまた、主観と客観っていう区別はあとからあたまで考えて二次加工したもので、最初に感じているときは主客未分化であり、これを純粋経験と名づけた。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



   すべては小さなものも、大きなものも、メビウスの輪の構造をしているのだ。光の構成要素、平方根であるスピノール。二回転して元の状態に戻るので、これはメビウスの輪だ。この二回転で光になる。ミクロの世界だけでなく、等身大の世界においては人間の認識。私はりんごを認識する。りんごという他者になる。これは一回転目のメビウスの裏側だ。もう一回転して。私に戻ってくる。りんごを感じた私がいる、となって、ここで認識の成立だ。一生においても、生があり、この裏側に死があり、生に戻る。生に戻った時、これは光だ。生は光であり、光とは時間軸を縦、空間軸を横にとると、光円錐、ライトコーンになる。また、懐中電灯からでる光もライトコーン。生とは、自分を中心として、円錐状にライトコーン状に世界がひろがってみえること。つまり、遠近法的なものだ。スピノールの回転中は主客が未分化であり、光ではない。生は光であり、主客の分化であり、二元性が支配する世界である。


2014 4-29



絶対与件と様相論についてである。生きているとさまざまなことがおこる。フロントガラスにからすのふんがくっついていた事が発覚したとき、悲壮な叫びとともに後ずさりしたらこんどはらくだのふんを踏む。なにも悪いこともしていない善良な一市民なのになぜこんなことがおきたか。不条理、偶然、予測不能。これらはじつに我々自身が必然性を求め、根拠を求めているから生まれるのだ。


   絶対与件についてである。カラスの鳴き声が聞こえる。自分の意図したことではないし、意志でもない。つまり、絶対的に向こう側からやってきたものだ。これが絶対与件だ。とりわけ、現象主義においては、白い壁とか、水の音ではなく、白い、硬いとか、ちょろちょろという感覚情報というように、感じたままを記述すればよいとする。これを感覚与件言語という。


   次の話は様相論についてである。座り方にもいろいろある。同じように、存在の仕方、これが様相だという。カントにおいてはあたまのなかのカテゴリーのひとつに様相のカテゴリーがある。そこにみかんがあるのは、可能性か、現実性か、必然性だ。論理的に可能なのか。感覚的にみえていればそれは現実。原因と結果の因果律が協力すると、なるべくしてなったという必然になる。可能性と必然性をあわせると現実にもなる。これ以外にも、たまたまの偶然性というものも様相のひとつだ。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    カラスの鳴き声は予期できないし、自分の意図、意志ではない。与件なのだ。いきなりピンポンがなって営業マンがくるかもしれない。自分の外からくるこれらの情報は可能性であり、偶然性だ。理不尽で、不条理で、論理的な筋道はない。これに対して、私自身っていうのはどうしてここにしょうゆのシミがついているのか、論理的に筋道をたて、根拠を求める。つまり、意識、意志、意図っていうのは必然性を求める。だから、牛乳を放置すると、水分と脂分が分離するように、現実が可能性、偶然性と必然性に二分化されてしまっているのだ。これが生である。


  死後や生まれる前の生と生の間。生間領域では、この二元性がない。前回はなしたように、光でなく、スピノールだ。だから、偶然的なことがおきることもなく、必然でもない、ただそこにあるだけ。ところが、なにごともイベントがおきないが、ただあるけど、至高の存在、すべてを含蓄した存在だ。

  生において、意識があまりにも必然性、根拠を求めないと、逆に、外界から来るのは、必然的ななにかなのかもしれない。これが神なのかもしれない。根拠を求めない態度こそ信仰なのだ。


2014 4-30




   自然的態度と知らんが故に我信ず、についてである。われわれはすべての感覚が見開いていない。寝起きで目を閉じているひとがいう台詞ではない。すべての直感力が開いたとき、世界はまるで今見ているのとはちがったようにみえるかもしれない。


     フッサールの自然的態度についてである。自然的態度はふたつにわかれる。自然主義的態度と人格主義的態度についてである。自然主義的態度はみかんをみたとき、分子構造とか、原子でできているとみてしまう科学的態度。人格主義的態度はみかんはフルーツであり、さいとうくんは人間だ、というふつうの日常の態度である。


    次の話はアンセルムスの、知らんが故に我信ず、についてである。理屈や論理で解明するのでなく、知ろうとしても知ることができないもの。たとえば、神様である。知らないから信じるんだ、という思想である。


   まとめ

   存在の科学


   異次元理論


    われわれの日常のふつうの感じ方、ものの見方、世界観。じつに、500年前のニュートン古典力学なのだ。これを理屈ではなく、感覚的にわかるのである。当時はおそらく理解しがたいものだった。だから、神話的世界観だったのだ。ということは、現代科学の最先端の量子論、多世界論、ブラックホール、相対論はおそらく、500年後の新人類は理屈抜きで直感的に当たり前のようにわかるようになる。それを今感じてしまおうというのだ。時に、別の直感、感覚が目覚めると世界がちがってみえてしまい、社会が成り立たないので、ある意味タブーなことなのだ。


   シュレディンガー方程式のユニタリ展開。刻一刻、世界は無数に分岐する。右手を上げた私、左手を上げた私、などなど。これらの世界はふつうの日常世界にあるのだ。それがそこにいる犬。ひょっとしたら私は犬だったかもしれないのだ。ひょっとしたら斉藤君だったかもしれず、机だったかもしれない。この世界そのものは非常識的かもしれないが、ありのままでユニタリ展開を起こしている。そして、意識というのは過去を記憶、未来を予測。まるでひとの意識こそがタイムマシンである。さらに、ブラックホールっていうのは変数、パラメータが無限なので、特異点という。ビッグバンも特異点。原理的には、こんなブラックホール、特異点がいたるところにあるはずだという。ブラックホールの事象地平面のなかは時空がめちゃくちゃ。時間だって、一方通行じゃない。そんなそこらにあるブラックホールが裸の特異点という。こんなのはあってはいけないとホーキングは検閲官仮説を提唱している。この裸の特異点こそ、人間の自由意志ではないか。時間がめちゃくちゃ、因果律がないとは、自由意志のことだ。人間だけでなく、他の動物、昆虫、魚も同じである。


   さて、世界を別の見方でみる方法がほかにもある。前回、話たが、自分の意識っていうのは根拠や必然性を求める。だから、自分によってくる情報、感覚与件は偶然、不条理、理不尽だといった。カラスの鳴き声が聞こえるが、これは偶然だ。これは光の世界であり、生とは光、ライトコーンだといった。だから、自分を中心に世界に光円錐状に広がっている遠近法世界だ。近いもの、とおいもの。見えるもの、見えないもの。主観と客観。こんどは自分の意識から必然性や根拠付けをやめる。意識が偶然性、不条理性になる。すると、向こうからやってくるのが、必然的、しかるべきものとなる。これが神様ではないのか。だから、ここでは光円錐が逆になる。自分が向こう側から照らされているようになるのだ。そして、自分が無根拠、根拠もとめない態度というのがひたすら信じること、信仰なのだ。


  いずれにしても、他者は自分の平行世界とか、主観と客観が同じだと気づくと、現代社会では不都合になる。だから、タブー視されるのである。


2014 5-3



   ホワイトヘッド哲学と排中律についてである。量子論にもいろんな解釈、タイプがある。どれが正しいのか。これだ、と古典力学のようにビシっと決めずに、全部正しいっていう量子論的なロジックがあってもいいかもしれない。また、これと関連して、この世界の法則はだれがどのようにつくったのかも検討したい。


   ホワイトヘッド哲学についてである。宇宙は生きている、有機体だという壮大なコスモロジーだ。宇宙は事物じゃなくて出来事、事象でできているという。それが革命みたいな大きなものから、ツケまつ毛が落ちるというささいな出来事までいろいろある。まずは、機械論と有機体論だ。機械っていうのは歯車が隣の歯車をまわす、つまり、部分が部分に影響だ。生命とか、有機体は部分は直接に全体と関係しちゃっているという。ツケまつ毛がとれる。どんな取れ方か。同じ取れ方はしない。これを事象の一回性。しかも、全宇宙の影響でとれる。とれることで、こんどは全宇宙に影響与える。部分と全体がダイレクトに影響しているから、この宇宙はどうやら生命だ。


   次の話は排中律についてである。どうしても正しいことがいいたい。そんなときは、排中律を使う。これはりんごか、りんご以外のいずれかだといえばよい。つまり、りんごとりんご以外を足すと、宇宙のなかのなにかだ、といっているから絶対に正しい。

 
  まとめ

 
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    異次元理論


 
    まずは、この量子論を三つの解釈に大別。箱の中の猫は生きていると同時に死んでいる。箱をあけたとたんに、意識がどっちに収束させるという標準理論。これがボーアのコペンハーゲン解釈。生きている猫を見て喜んでいる私と死んでいる猫を見て悲しんでいる私っていう世界に分岐。収束はしないというのがエヴェレット多世界解釈。パラレルワールドの理論だ。そして、最後が、意識ではなく、重力のような何かで自然に収束するという考えだ。


  さて、これらの解釈のどれが正しいのか。量子論は物理だが、電子がいろんなところに確率的に同時存在、電子雲になっているという考えもある。また、不確定性理論もそうだが、とにかく、曖昧で確率論的、波動として状態が重なっているという発想だ。だから、物理学の根底の数学、数学の根底の論理、ロジックもそうであってもいいかもしれない。だから、これらの解釈は重なった状態で波動になっていると考えるのだ。


   世界は量子でできているがどうして、今の世界になったのか。人間の自由意志は右手をあげるかあげないかという行動の選択。コップを構成する量子も自由意志のふるまいをする。ただし、これらはこの世界の法則を選択している自由意志なのだ。だから、なぜ、重力加速度が9.8なのか。なぜ、1+1=2なのか。これらの法則を自由意志で選択している意識体が量子だったのである。


2014 5-4



かのように哲学と解釈についてである。東洋的な何かと科学とが密接に関係していた。おぼんと小惑星、湯飲み茶碗と銀河系。今回は空、無、有と相対性理論について考察したい。


 ファイヒンガーのかのうように哲学についてである。斉藤君は人間だ。ただし、人間かのうようにである。すべては原子でできていると聴いた事がある。原子が肉眼でみえないから、原子でできているかのようにみなす。黒板に描かれた三角形。よーくみるとぎざぎざだ。三角形かのようにみなす。それでも、顕微鏡なり、技術を駆使すれば精度は増す。ところが、絶対に検証できないものはしょうがない。宇宙全体とか、自由意志、魂、神様だ。これらを純粋虚構といい、もはや信じるしかないという。そのほとんどが虚構、かのようにであるが、絶対に確信できるのは、いまここにいる私が生きているっていうこと。だから、ファイヒンガーは生の哲学ということもある。


  次の話は解釈についてである。ディルタイは文献などの解釈。これは文献を読んで、全体から部分を解釈するのだから堂々巡り。悪しき循環であると考える。もうひとつが垂直な循環。これはなにかを体験し、表現、イメージし、理解する。この循環は堂々巡りではない。パトナムは価値と事実を同じとみた。りんごは赤い、事実である。ところがりんごを赤いものとしてみるのだ。価値や解釈が入っているのだ。


 まとめ


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  異次元理論


    無というのは網ではないか。感じからしてもあみになっている。アインシュタインは時空に先立って光があると考え、ペンローズは光はスピノールでできているとした。スピノールは二回転で元の状態に戻る。これはくもの巣にとらえられた蝶だ。蝶は一回転でからまり、二回転で逃げられる。スピノールはネットをつくり、これをスピンネットワーク、時空ネットワークといい、時空を作っているのだ。


  無は時空であり、あみであった。あみを拡大してみると縁取りされてそのなかはからっぽ。向こうが見える。もちろん、本来は三次元だが二次元に翻訳している。その網を拡大したときの向こうの世界が空であり、複素数空間だ。ひいてみると、無にみえる。もっとひくと布のようにみえて、これが有である。

  アインシュタインは時空をゴムシートにたとえた。そこにゆがみ、くぼみがうまれると、それが重力であり、質料であり、物質だ。ほんとは、網、ネットである。以前、話たが、クオリアがすべてに先立ちある。無は無を感じて、勘違いして有になるといった。時空ネットがくぼみ、ゆがむと、ネット同士が接触しようとする。これが無を無を感じている現場。それゆえに、有が発生、つまり、重力、物質になる。


  時空を最強にゆがめ、くぼませてついには穴をあけてしまうのがブラックホールだ。ブラックホールは無というネットが自分が無であることを本当に感じてしまい、その向こうの空になってしまったもの。

  星はいずれ崩壊する。無限の時間があるなら、いずれ、ちりじりになった星のちりが同じ配置になる。輪廻転生である。ところが、ブラックホールは自分の重力で押しつぶされて、すいこんだやつを二度と戻さないものだ。星がブラックホールになるとチリをもすいこんでしまう。つまり、もう輪廻しない解脱なのだ。そしてmブラックホールは空でもあるのだ。


 空、無、有は勘違いから生まれてきた。空は真実だ。すべてが解釈であり、かのうようなものだったのである。


2014 5-5



カントのカテゴリーとニーチェの虚構についてである。無いっていうのはどういうことか。社会の窓を開けて、まさぐったあとに無い、っと叫ぶ。レジで一円玉が無いとき、渋々お札を出す。無いとは作られた虚構であり、発明品であるというお話をする。


  カントのカテゴリーについてである。感覚っていうのは雑多である。色、形、音だって、雑然としている。そこでまずは時間と空間という形式で整えるのだという。さらにそれがなんなのか。あたまのなかにある先天的なカテゴリー、枠組みをつかって、それがりんごだと判断する。

  ニーチェの虚構についてである。善悪っていうのを超えようという。善悪はひとによって違う。斉藤君と私は善悪の価値判断を共有していないという。私が見ている青い空と斉藤君が見ている青とはちがう。私は斉藤君の目を借りれない。さらに真偽もそうだ。動物も人間も虚構、偽によって種を存続、繁栄しているという。七面鳥の美しい羽、圧化粧など。これらは異性と結びつくための虚構であり、敷いては種の保存のためだったりする。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   空、無、有について以前お話した。無とは網であり、ゼロだ。無の漢字からわかるように、囲いがある。無というのは本当の無、空に囲い、枠組み、縁取りをして認識できるようにしたものだ。0もまたなかみはからっぽだが、縁取りがある。鼻の穴もまた、小鼻が縁取りだ。無は発見されたのではなく、発明されたのだ。


   無、0の発明は人類存続にとって必要な虚構だった。無という感覚があるから、無いものを求め、願望を抱く。かって、ニーチェがいったような種の存続のための虚構。0、無は縁取られ、枠組みがある。つまり、カテゴライズされたもので、カントのカテゴリーに近い。ここに、カントのことを、信仰のための自由意志のスペースをあけていた、というニーチェの批判を思い出す。ニーチェはそんなスペースはなかった。人生は永遠に繰り返し、運命だという。そして、その運命の受け入れこそ自由だといい、カントの自由意志をケーニヒルズ風と揶揄した。ところが、今回、この2人の思想が合わさった形になったのだろうと思いいたるのである。



2014 5-6


 
     経験的実在論と超越論的観念論についてである。われわれは生きている。われわれは宇宙人だ、といったしまうところだったが、じょうずにいえた。生きているとは二つの世界にいること。心の世界と外の宇宙の世界。この二つはちがったシステムだ。そして、生まれる前と、死後はこの世界はドッキングし、およそ、まったくちがうシステムになるのかもしれないというお話をしたい。

   カントの経験的実在論についてである。経験とは、目でみえる、手でふれることができるもの。つまり、感覚的にそこにりんごがあるのが実感できるものだ。そんなときは、りんごが食いたくて、我を忘れている。なにかを経験するとは、自分の存在を忘れちゃっているのだ。自分から脱け出しちゃうことだから、超越的ともいう。経験的であるとは実在している世界にいることだし、そう感じているので、経験的実在論だ。

  同じくカントの超越論的観念論についてである。りんごを経験している。りんごを認識ている私がいる。りんごと私はともに宇宙のなかにいる。これらは超越的な私について論じているから超越論的という。私とりんごを俯瞰していているのだ。だけどそれは経験ではない。本当に五感で私とりんごを俯瞰してみていない。イメージなのだ。だから、超越論的観念論という。


    まとめ


   存在の科学


    異次元理論



      量子論だと、まずは世界はいろんな状態、世界が重なっている波動状態だ。そして、コペンハーゲン解釈だと、箱のなかの猫は生きていると同時に死んでいるのだが、箱をあけたとたんに意識がひとつの状態にきゅーっと収縮、収束させているという。まさしく、経験的実在論である。自分の外の世界は経験的実在論、コペンハーゲン解釈だ。ところが、生きているっていうのはえてして、世界が二元化している。内なる心の世界もある。ここでは世界はひとつに収束しない。無数の世界、状態がかさなっているからこそ、自由意志であるし、想像もできるし、インスピレーションもある。生きている猫を見て喜んでいる私の世界と死んでいる猫を見て悲しんでいる私がいる世界に収束しないで分岐、増殖するエヴェレット多世界解釈の世界なのだ。これが超越論的観念論。多世界的超越論的観念の世界だ。

  さて、生きているときは二元的だが、生まれる前、死後である生間領域はこれらが合して一元的世界になっている。だから、すべての平行世界、すべての多世界がすべて収束されて実在しちゃっている多世界。多世界的超越論的実在の世界なのだ。


   この三つの世界はおのおので別の宇宙観をもつ。生きているときの外界世界はランドスケープ宇宙論など。無限にぎろがる宇宙。その宇宙に地球そっくりな惑星があったり、地球と一ミリずれた世界、など無数にあるという世界だ。並行世界が意外と近くにある。心の内面世界では、自由にいろんな世界を移動できるので、五次元宇宙に漂う無数の四次元ブレーンを行き来するというブレーン宇宙論の世界。そして、生間領域の世界は、この並行世界がダイナミックに活動している、いってしまえば、並行世界に住まう世界。無数の並行宇宙がぶつかって新しい並行宇宙が生まれるというダイナミックな世界。これがサイクリック宇宙論である。


2014 5-8



     アナロギアと自己相似形についてである。胸に手をあてて、もむのではなく、心のなかにそっと思い出をしまっておく。心は記憶やイメージのオンパレード。心、からだの外には広大な四畳半和室が広がり、その外にもずーっと広大無辺な宇宙がある。心と外界宇宙とはその実、同じものの現れだった、というお話をしたい。


    アナロギアについてである。古代ギリシャのアリストテレス。健康的な、という形容詞がある。健康的な人、健康的な食品。健康的な便。健康的な、っていう特性がいろんなものにある。ところがすべてではない。健康的な石ころとはおかしい。中世において、すべてのものに当てはまるものがあるという。そもそも、アナロギアのことを類比という。1:2=4:8のような比率だ。世の中にあるあらゆる存在者は存在っていう特性をもつ。一なる存在が無数の存在者に類比的に入り込むのだ。存在のアナロギアという。また、神さまもまた、無数のものに含む。神のアナロギアであり、これを神の遍在、臨在という。


   次の話は自己相似形についてである。雪の結晶がある。細かく部分を見ると同じ形のもので構成されているのだ。部分が全体と同じ形だった、これが自分に似ているということから自己相似形、フラクタルという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    心の中と心の外にある外界宇宙は同じものだ。もしくは、同じひとつのものの現れ。まずは、肉体がある。細胞とか、DNAとか、いろんな要素の言語以上の情報量で巧みなネットワークを築いて生体を維持する。これは、外界宇宙では地球上のあらゆる生命個体、宇宙にいるあらゆる生命個体同士の関係性の現れと同じ。そして、心のなかの記憶。記憶はいつも意識化されていない。必要なときに意識されるから、普段は無意識のなかにある。この無意識は外界宇宙においては有機体や生物個体以外の無機的物体。隕石、岩石などだ。これら無機的物体は山をみればわかるように、非意識的に歴史を記録している。山の形は歴史の産物、刻印である。だから、無意識は外界の無機的物体に相当。そして、意識は外界宇宙における虚空に相当する。

  生きているときは、二元的であり、これが心と外界宇宙に二分という形になる。生まれる前、死後などは一元的だ。このひとつのなにかの二つの現れ、化身が心のなかと肉体、そして、もうひとつが外界宇宙だったのである。


2011 5-11


    無化と宇宙創造五分前仮説についてである。もっともちっぽけなものが大いなる宇宙と同じだった。もっとも身近なもの、日常が異常な宇宙領域と同じだった。えてして、正反対は同じなのである。

   無化とはなにか。無になりつつある、無になっちゃうこと。西田幾多郎の行為的直観。なにかを感じ、直感する。そのあとに、カニ歩きやバルタン星人の雄たけびという行為に及ぶのか。そもそも、直感と行為のあいだに私っていう実体、かたまりがあるのか。西田哲学だと、そんなものないという。私は去りつつあるという。いわゆる無化なのだ。


   次の話はラッセルの宇宙創造五分前仮説についてである。宇宙は50億年前ほどにビッグバンによって生まれたという。ところが、5分前にうまれたといっても、これを論理的に不可能だという根拠がないという。もちろん、必然性もない。なにせ五分前のことをみれない、検証できない。記憶があったとしても、偽りの記憶が埋め込まれているかもしれないからだ。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    日常において、もっとも身近な事。それはいままさになにかを感じているということ。いわゆるクオリアである。このクオリアが大いなる宇宙誕生、ビッグバンと同じだ。クオリア、何かを感じている以前に私っていうかたまりはない。実体ないし、ただ無化しつつある私だ。つまり、私は無。宇宙においてはビッグバン以前になにがあったかといえば、あらゆる宇宙が乱立する論理空間、多世界、並行宇宙が無数にある五次元バルグだ。これが無であり、私なのだ。私は無、多世界であり、そこからクオリアを産む。また、多世界がなぜ無かといえば、すべての倫理的に可能な世界が混ざると、相殺しあって0、無になるのだ。ただし、無は有が生まれる生地、ホワイトボードだ。意味が生まれる下地なのである。私っていう無によってクオリアが生じ、意味が生まれる。


   
2014 5-15



     超越論的弁証論、そして、自由論と決定論についてである。いままでへらへらと笑いながら足のうらについたご飯粒をつまんでいたものがいきなり真剣な顔になる。魂っていうのは永遠不滅なのか。魂の不滅についての証明を試みたい。

   哲学者カントの超越論的弁証論についてである。超越論的分析論っていうのがある。超越的っていうのは、テレビに夢中で没頭。自分の存在すら忘れている。自分から脱け出すような意識、超越的である。ふと冷静になって、世界のなかの自分を俯瞰してみる。これが超越的を論じるから、超越論的である。超越論的分析論とは、感覚とこれを組み合わせて判断している自分のシステムを俯瞰にしてみているものだ。これに対して、超越論的弁証論はちがう。弁証論は古くはソクラテス。ソクラテスの弁証術である。対話をしているとき、互いに相手からすばらしいものをくみ出し、互いに高めあうことだという。また、ヘーゲルの弁証法は、世の中の矛盾し、対立しあうものは、互いに合体してレベルアップ。カントの超越論的弁証法は、そもそも、平和的決着をみない。矛盾しあうふたつの命題、どっちがただしいのだか人間は結論くだせないという。理性能力の限界を意味するのだ。それが魂は不滅か、そうじゃないか。宇宙は必然的な因果関係でできているか、それとも、原因なしの自由があるのか。そして、神さまはいるか、いないか、である。


 
   次の話は自由論と決定論についてである。決定論といえば、ホッブスである。すべては最初からどうなるか機械のように決まっているという。自由論といえば、フィヒテだ。自分がうまれたのは、自分意志じゃないとふつうに考える。なんと、フィヒテは私は私自身を設定。これを第一原則。以下、第二原則は私は私以外を設定。第三原則にいたっては私は私と私以外をちょめちょめと関係させる、という。


  まとめ


   存在の科学



 
   異次元理論



   魂は不滅かいなか。われわれの宇宙の時間は原因と結果の直進的な時間だ。順番に起こるが永遠である。宇宙にはえてして、かならず、正反対のものがある。粒子に対する反粒子、物質に対する反物質。反粒子はベクトルが粒子とは逆、時間も逆になっている。ということは、直進的時間があるなら、閉じている時間もあるはずだ。どこにあるのか。これが人間、生命の魂なのだ。この閉じた時間のことを閉じた曲線時間という。原因と結果というように、連鎖させると、いつしか、時間が円になっているので、結果が原因になってしまう。これは人間の自由意志にみる。ぞうきんをとろうとする。いまだ取っていない未来を目的設定し、今の自分のからだを動かす。テレビを観るためにスイッチを押す。見ようという意図が体を動かす原因ではない。意志するより先にからだが動いていて、自分の意志でスイッチを押したというのは事後的な理由、根拠づけだという。つまり、こう考えると、自由意志には因果律がなく、閉じた曲線時間だということがわかる。


   魂が閉じた曲線時間なら、これが目にはみえない直進的時間にうえを転がっている。直進的時間は間接的にはみえる。物の変形だ。魂の閉じた時間も生命反応という感じでわかる。ドミノ倒しのような因果関係だけでないから閉じた時間だと感じる。つまり、直進的時間の変形には一切関係しない別の時間系が魂なのであって、それゆえに、魂は不滅といえることになる。


2014 5-18



    ベルクソンの時間と空間、そして、フランクフルト学派の極度のアトム化についてである。生命の進化において、まずは海中に住んでいた魚が陸地に這い上がってきたらしい。いわゆる立体ガエルである。陸上生物はまだ別の海のなかにいた。そして、ついにその第二の海から抜け出したカエルが人類だったのだ。


   ベルクソンの時間と空間についてである。時間は本来は測定不可能だという。時計は針の空間移動だ。時間が空間されちゃったのである。本当の時間は過去、現在、未来が直線的に行儀よく並んでいるのでなく、混ざり合っているもの。これを量的ではなく、質的といい、純粋持続という。なにかひとつのもがあって、これが収縮して混ざり合うと純粋持続という本当の時間。すかすかになって伸びきっちゃうと、過去と現在と未来が離れて、今、今、今の反復になるので、これが空間。そして、そんな純粋持続がどこにあるかといえば、意識なのだという。意識と物質、純粋持続と空間だ。
ひとは言語を使うが、言語っていうのは空間的だという。意識の思いが空間化したものなのだ。


   次の話はフランクフルト学派の極度のアトム化についてである。アトム化というのはこりかたまった原子になるということ。世の中は現代にいたって個人の自立の時代になった。個というアトム化だ。ところが、今後、さらに進んで、個人もまた、自分のなかで細かくアトム化されるという。さっきの私と今の私が違うというレベルになるのだ。


   まとめ


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    異次元理論


    生命は海のなかにいた。最初はバクテリアであろう。そこから魚にまでなる。そして、ついには、海からはいあがって両生類、陸上生物になる。海とは波がたっている。波、波動とは多世界、並行世界の状態だ。ひとつの山と谷の波はどの波がくみあわさってできたかといえば、答えは無数にある。経路問題である。ひょっとしたらの多世界経由で山と谷がある。そんな海から脱却した陸上生物はまだ、もっと大きな海のなかにいた。ディラックの海、量子の海である。下等な生物、本能に重きを置く生物ほど、多くの並行世界を掛け持ちして生きている。犬や猫は高等なので、2.3の世界であろう。だから、下等生物が無意識に近くみえるのは、その意識エネルギーを多世界に分散し、そのひとつの姿しかひとはみていないからである。

  さて、ひとは、そんなディラックの海から這い上がろうとするカエルである。睡眠時はまだディラックの海で並行世界を掛け持つが、覚醒時にはひとつの世界のなかのひとりの私になっている。波動から粒子になったのだ。こうやってさらに人類に歴史において粒子化が進み、アトム化が進んだ。ついには個人としての自立だ。今後、これが突き進むと、私のなかがよりアトム化し、今の私と一秒前の私が違うものになる。私A、私B、私Cである。私の内面が多元化、多様化する。本来は私はひとりで、外部世界が多元的、多様化していた。その反転が起きるのだ。私のなかにたくさんの私の多様性がうまれ、外部世界はひとつになる。私はアトム化を進め、外部世界は波動になる。こうやって、主体と客体がひっくり返り、私のなかに世界が住むようになる。



2014 5-21




    物象化と、実存は本質に先立つ、についてである。足があるから走り、ジャンプする。目があるからモノが見えるんだ、と大声で叫んでみる。きっと賛同するひとがけっこういるだろう。そうではなく、本当のところは見ているから眼があり、走っているから足があるのではないのか。


   物象化についてである。人間はおおざっぱになってしまい、時にざっくりと物事を捉える。本当は複雑な関係なのに、かたまりとみなすのだ。これを物化、物象化という。手を上げてるひとをみて、その振る舞いをタクシーとめようとしていると、意味付けする。これも、固定して、物のようにとらえるから物象化。マルクスはとりわけ、この物象化を経済にあてはめる。ガムに100円という値札が貼られている。100円っていう絶対的な価値があるかのようにおもってしまう。本当はガムを製造した労働者や、運送という労働力など、いろんな関係が生み出したものだ。これまた物象化だという。ただし、人間の目は光が網膜を刺激して電気信号に変換云々、さらに、細胞のネットワークでやまちゃんができている、など、これらはさすがに生まれながらにして関係性とは捉えないから、物象化にいれないのだ。


   次の話はサルトルの、実存は本質に先立つ、についてである。人間は形のある存在じゃなくて、不定形な自由な存在、実存しているという。そして、ここから自分は何者だ、という設計図、法則、本質を作り出す。ふつうに考えると、本質があって実存だが、事の真相は実存あっての本質だという。


   まとめ


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   異次元理論


    まずはフーリエ変換についてである。電磁界っていうのは空間のなかにない。別の世界であり、電子のメッセンジャー粒子が光だ。三次元のような大きさがないから容量の限界がちがう。光が飛び交い、眼の網膜を刺激して電気信号に変換される。自然界は最小の力で最大の効果を得ようとする。飛び交う光の情報はコンパクト化されている。これが網膜を刺激し、電気信号になるときに、フーリエ変換されて、映像になるのだ。耳は鼓膜の振動をフーリエ変換して音にする。人間はひょっとしたら思考ですらフーリエ変換に従っているかもしれない。からだの間接に電球をつけて、デタラメに踊ってくれ、と被験者に頼む。これを録画し、光の軌跡を調べるとフーリエ変換の式になっているという。また、この人体のフーリエ変換を応用したのがケータイだ。ケータイの電波は受信してフーリエ変換されて音になるのだ。


   さて、われわれは眼があるからモノを見て、鼻があるからにおい、足があるから走ると思っている。最初にあるのは状態、機能、営みなのだ。見る、走るが最初にある。実体なき状態、機能である。機能しているところを見る。すると、肉化して眼球や鼻、足になるのだ。ところが、機能、営みはしているが、これを見ようと営んでも肉化しないものがある。これが過去と未来だ。過去と未来とは営みを自己触発しても肉化しなものと定義できそうだ。過去や未来は営みとして今この瞬間にすべてあるのだが、肉化できないのだ。いってしまえば、フーリエ変換しても見えないものである。だから、実存は本質に先立ち、営みは存在や実存に先立つ。


2014 5-24


  続き

  まとめ

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   異次元理論


  三次元空間や四次元時空があって、この中で進化して意識、心をもった生命が誕生したのだろうか。心っていうのはみえない。みえないといっても、ちょっと回り込んだり、顕微鏡使えば見えるっていうものではない。原理的に見えないものが心だ。もうひとつ、原理上見えないものがある。点である。点は体積がゼロで見えないのだ。つまり、心と点は同じだったのだ。かっていたものたち、今後生まれるであろうものたちのすべてが空間点であり、これが集まって空間になっているのだ。そんな空間をおのが肉体が通過する。かっていた無数の心と今後生まれるであろう心を通過するのだ。これは被投的企投ではないか。空間を移動するとは、膨大な歴史とはるかな未来へと繋がっているのだ。


2014 5-30


   メタ理論、そして、統覚と論理についてである。ダーウィンの進化論だと人間は猿っぽかった。鼻の短いゾウがいた。また、歴史というのも、眼にみえる肉体や物体の変化や出来事。これとは別に魂の歴史というのがあるかもしれない。それはまた同時に論理の歴史であった。


  メタ理論についてである。タルスキは自分が自分にふれちゃうと矛盾起こしちゃうので、どうにかこれを回避できないか考えた。これがメタ理論だ。私はいま日本語しゃべっている、とか、日本語で日本語文法を説明、というのは矛盾してしまう。それなので、メタというのは上へ、という意味だが、次元を設けて、上から目線のように、日本語を日本語で語る。同じ日本語でも、次元がちがうのだ。メタ理論はメタメタ理論によって語られる。


   次の話はカントの統覚と論理についてである。統覚っていうのは意識のこと。経験的統覚っていうのはそのひとの性格のような経験でわかるような意識。その奥底にはだれれもないような、性別も越えた私がいる。これが根源的統覚だ。通常はこの根源的統覚がカテゴリーっていう論理を駆使して、あれは鳥だの、スーパーマンだの、判断するのだ。つまり、シェフが根源的統覚で、鍋やフライパンという調理器具がカテゴリー、論理のようなもの。ところが、新カント学派のなかには、統覚そのものがカテゴリー、論理じゃないかと考えるものもいる。さらに、ヘーゲルですら、主観だの、客観だのうまれるまえに、どっちでもないカテゴリーがあって、これが自動的にうごめいて主客になるという、いわゆる難しい言い方だと、カテゴリーの自己展開を提唱した。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



    ダーウィン進化論や歴史っていうのは肉や物体の歴史だ。眼にみえる、ないしは見えたものだ。これに対して、意識や魂は眼には見えない別の歴史をもっているのではないか。シュタイナーも魂の歴史についてふれていた。今回は、意識というのはカテゴリー、論理自体だという観点に立って考えてみたい。

  肉や物体の歴史は連続的だ。突然、飛躍はしない。ところが、魂の歴史はこれとは逆で飛躍、非連続的なのだ。量子は意識だといったが、量子のエネルギー放出量は非連続的、離散的だ。意識は世界をつくり、そこに別の意識を住まわせる。その意識もまた、同じように世界をつくり、別の意識を住まわせる。非連続的、デジタルな歴史。意識、魂は論理、カテゴリーであるからして、論理が世界をつくり、別の論理が住む。システムのなかに意識を住まわせるというシュミレーション宇宙論だ。


  
2014 5-31


     アンリの内在の哲学と超越論的についてである。光はめちゃくちゃ速い。瞬く間に通りすがる。光とはほんとうはどこにでもあり、また同時にいまここにしかないもの。時間は流れていないし、究極にぺちゃんこで小さななにか。この光と生命の意識について深い関係がありそうなので、考えてみたい。


   アンリの内在の哲学についてである。ハイデガー哲学の考察から始まる。ハイデガーは意識っていうのは超越だという。たしかに芸術は爆発である。超越というのは、自分から自分自身が脱け出すこと、脱自分、脱自だという。いま、っと叫んでも、すでに今から脱け出している。この超越によって、自分自身の存在の地平線が開いちゃう。なんとなく、存在そのものがみえちゃうのだ。この超越そのものをこんどは光で照らしたくなる。それには超越の超越が必要。こうやって無限に続いてしまうのだ。どうには終止符を打ちたいので、アンリは超越の反対である内在を提唱。内在というのは内からこみ上げてくる力、感情だというのだ。


   次の話は超越論的についてである。これはカント哲学がくる。超越的とは何かを意識しているところ。道端の片隅に咲いている一輪の花に意識集中。我を忘れてその美しさに酔いしれる。そんんな超越的な私を俯瞰してみる。世界、宇宙のなかの私っていう見方。これが超越的について論じるから超越論的だ。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    この世界は四次元ミンコフスキー世界だ。縦軸に時間t。三次元だが便宜上、横軸に空間軸であるxをとる。時間って言うのは見えないので、なんだか虚数、複素数世界だとおもってしまうが、時間というのは今この瞬間にもっとも感じているものなので実は実数なのだ。三次元空間、つまり、x軸こそ虚数、複素数である。壁一枚へだてれば、もう見えない世界なのだ。


   原点Oからx軸と45度の角度の直線を引く。その直線上の任意点p。かりに、時間tが5。空間xが5としよう。原点OからPまで距離を時空長とか世界距離という。この世界距離はds2=dt2+dx2である。数字を代入すると、ds2=5^2+(5i)^2。空間軸は虚数なのでiをつける。二乗して−になる数だ。ds2=25−25=0になる。つまり、時空長が0なのだ。時間が0、空間長さが0のもの。このx軸から45度の線はじつは光の軌跡、ライトコーン、光円錐なのだ。光は時間がとまって長さも0である。だから、どこにでもあるし、ある意味、今ここにしかない。


   ライトコーンの外側は計算するとわかるが、世界距離が虚数になる。なぜならば、光速を越える世界だからだ。ライトコーンの内側は実数になり、これは光速よりも遅い世界。ライトコーンの外側は光速越えるのであえてタキオンとなづける。そしてライトコーン上はフォトン、光だ。内側はふつうの物体であるタージオン。タージオンは物体、肉体であり、タキオン領域からアクセスがあることで、中間的なフォトンをうむ。タキオンは光速を越えるので時間が逆行している意識世界だ。そして、タキオンからタージオン、意識から肉体の中間にライトコーンの光があり、これが哲学でいう光のメタファー、認識の世界であり、クオリアである。さらに、この世界距離が虚数であるコーン外側はじつは五次元空間でもある。


  科学の歴史も同じようなプロセスになる。古典ニュートン力学。梅干は時空のあるところにある。相対論がでてきて、これは時空のゆがみ、光速不変を主張。そして、現代では量子論。うめぼしは確率論的にある。確率論的な量子を意識が収束し、以前はなしたが、肉体の動き、眼球は相対論であり、これを経由してついに、古典ニュートン力学になって一個のうめぼしになる。科学史を時間逆行すると収束プロセスになるのだ。


   アンリの内在哲学では超越を爆発的な内在の力が産むと考えた。これはタキオン五次元領域からのアクセスだ。超越論的というのは、いわば、反省のこと。今の自分が過去を反省、今の自分を反省するのは未来から今へのアクセスが必要。だから、超越論的とは、時間逆行であり、タキオンから光経由のタージオンへの働きと同じなのだ。


2014 6-1



   ヴィトゲンシュタインの無根拠性とベルクソンのイマージュ論についてである。隕石が目の前に落下し、九死に一生を得る。そんな奇遇なことはまずない。くしゃみをし、鼻がたれて、そいつはブラーンっと一回転して頭上に軟着陸。すべてはどんなことでも、それはそのようにそこにあるだけ、というお話をしたい。


   ヴィトゲンシュタインの無根拠性についてである。前期思想は写像理論だった。人為的に作った人工言語。これが宇宙にきちんと対応するという発想。命題と出来事は一対一に対応してます、という思想。後期は一転して日常言語を扱う。言語っていうのはゲームであり、生活の流れから自然発生。単語の意味だって、文法だって、前後の文脈できまっちゃう。生活の脈絡でもよい。タコ、と叫ぶ。泳いでいるタコか、はたまた、ひとを愚弄するときのタコか、生活の流れで何をしているかで決まる。言語ゲームは生活の一部、生活とか、生はなんのため、と聞かれても、根拠がない。すべては無根拠のうえにあって、意味がうまれる。


   次の話はベルクソンのイマージュ論についてである。部屋の中央で体育すわりしながら、美女がふってくるのを一生懸命待つ。壁のむこうで何が起きているか。靴下のなかは無事なのか、見えないのだ。だから、大半は想像、観念である。実際に見ているのは実在感がある。最初にあるのは実在でも、観念でもないイマージュだという。生活のなかでそれはイメージ、観念っぽくなったり、実在になる。まず、自分のからだは背中は見えない、大腸はみえない。イメージである。また、おっぱいはみえるので実在。これは身体的イマージュだ。そんな身体的イマージュが宇宙のなかにいる。宇宙もまた月の裏側、地球の内部は見えない。宇宙論的イマージュの身体的イマージュ。つまりは、すべてがイマージュという、イマージュ一元論である。


   まとめ


   存在の科学


    すべては中性的にそこにあるだけ。前回お話したが、ミンコフスキー四次元時空の時間軸上の光円錐の外側は世界距離が虚数になるので、非因果的領域だといった。これが五次元世界だ。ここにいるものがもしも、四次元時空をつくるとしたらどうだろうか。野球のシミュレーションをゲーム上に実行。2対1で巨人が阪神にさよなら勝ちというシミュレーション。これらひとつづつのプログラムを作ると煩雑になる。そこで、すべての野球ゲームの場合を尽くす、すべてのパターンを同時生成するプログラムにすればよい。この世界は右手を上げた私が選ばれし特権化されたものでなく、あらゆる論理的に可能なことが実在するものなのだ。だから、すべてはしかりでそこにある。

    からだの内部と体の外の外界世界。この二つの仲介になっている中性的なものが心である。心はその通りにある。


2014 6-5



   デカルト的自我と射影理論についてである。わあ、まぶしい、と叫んで、鼻をつまむ。リアクションをまちがって、目がくらむ。光というのは不思議な存在だ。光は意識と深く関係している。しかも、時空そのものと関係していたのだ。


   デカルト的自我についてである。ふつうはある状況のなかで物をみる。借金取りに追われながら天の川を仰ぎ見る。つまり、自分の置かれている状況がおもいっきり観測に関係している。ところが、科学者はいたって冷静に計算し、実験をする。これはあたかも、鷹やワシになったように超上から目線で眺めているからだ。自分を棚にあげるのでなく、宇宙の外においやって、宇宙の外から、神の視点で世界を見る、というのがデカルト的自我である。


   次の話はフッサールの射影理論についてである。やまちゃんの正面を見ている。背中は見えない。すかさず、後ろに回りこみ、背中をみる。これらの断片的な情報をあたまのなかで統一する。これを志向的統一という。こうして立体的なやまちゃんを認識だ。醤油差しだって同じだ。いろんな視点からのものの見え方が射影だ。しかし、事物は射影するけど、すべてをいま感じている体験というのは射影しないという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


    宇宙のはじめめは質量のないものたちしかいなかった。質量のないものは対称的だ。左右対称だけじゃない。時間も過去から未来だけでなく、未来から過去へ流れる。時間対称性という。粒子は過去から未来。反粒子は未来から過去へ流れる。電子と陽電子である。光も同じだ。これは光子だが、厳密にいえば、光子は過去から未来。反光子が未来から過去へやってくる。だから、最初は時間もないし、空間もなかった。ところが、宇宙は冷えてきて自発的対称性の破れがおこる。すると、粒子が反粒子より多くなって、過去から未来へと流れ始める。こうやって反粒子数がどんどん減り時間は加速してきた。

  さて、電球があったとき、光子は電球から周辺へ放射状に飛んでいく。同時に、反光子は周辺から電球にむかって、しかも、未来から過去へと逆時間で向かってくる。この反光子が意識なのだ。光に反射したものをわれわれはみる。さらに、聴覚、嗅覚だって、電気信号、光に変換される。コーヒーカップに反射した光子。これに対して、反光子は周辺からくまなくコーヒーカップのすべてに向かう。反光子は意識だから、本来は、コーヒーカップのすべてを照らす反光子だから、超俯瞰してみていることになる。ところが、実際はパッと見たとき、見えないところまでカップを見ていない。うっすら瞬時に全体を想像はする。これが眼は肉体であり、肉体は物質ゆえに粒子性をもつから、これによる抑制がかかって、瞬時にしてすべてを把握できず、射影や遠近法的にしかコーヒーカップを見れない要因を作っているのだ。


posted by モノイイ ジョーカー at 11:44| 東京 🌁| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月02日

仙人新聞 2014.01.02

9-22



  多元的現実論とバルカン式についてである。気持ちひとつで世の中、世界はいかようにも変る。色目ですいかをみると、心なしピンクがかってみえたりする。科学的にもみることができる。世界の有りかた以上に、数学的なニニンガシ以上に、まずは世界とはロゴス、論理によって立つ。このロジックですら心の持ちようで変化してしまう、というお話をしたい。

  
  シュッツの多元的現実論についてである。現実っていうのはひとつじゃない。じつはたくさんの現実のなかで生きているという。気持ちの変化、意識の変化によって現実は変るというのだ。それにはまず、意識がいかに緊張しているか。また、自分自身をどれほど意識しちゃっているかという自己経験性、過去と未来にどれくらい食い込んで意識しているか、過去に固執しちゃうか、未来に希望をもつか。これらによって空想、科学的世界、夢の世界、日常世界、というように世界はかわるのだ。そして、たくさんの現実はじつはただひとつの日常現実のうえにあるという。なぜなら、夢、空想では相手にふれられないし、コミュニケーションできないが、日常現実だけがそれができるのだ。



    次の話はバルカン式についてである。様相論理とは必然とか、可能とか、現実っていう値をもつ。なかでも可能世界論というのはいわゆる論理的に可能なすべての並行世界について研究だ。S1世界というのはAはB、BはAという対称性。S3世界はAはB、BはC、よってAはC、という推移性をもっていたり、ついには自分自身に戻ってくる反射性がくわわるのがS5世界であり、これはふつうのS1世界といっしょだというものもいる。じつはこの二つの世界は一方は可能世界はこの世界に全部ある、可能世界はぶ厚い壁ではるかかなたにたくさんある、のちがいだ。



  バルカン式というのがある。すべてのAはBである、という文全体は必然的。文全体に必然という様相がくっつく、ラテン語ではデ・ディクト様相という。すべてのAは必然的にBである、というのはモノに必然っていう様相がかかる。これをデ・レ様相という。必然性っていうのはすべての可能世界でかたくなにおなじものだというのはデ・ディクト様相。デ・レ様相はこの世界の全部が可能世界だから、この世界のすべてのものはBだといっていることだ。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    この我々の住む世界は可能世界、並行世界の集まりなのか。それとも並行世界はデコヒーレンスで異なった世界なのか。様相論理のデ・ディクト様相とデ・レ様相はおなじものだからたやすくチェンジできるという。だから、昨今の現代科学では量子論をみるように、世界はいろんな世界がかさなった雲状態で見た瞬間に確定するというコペンハーゲン解釈や小さな世界に別世界が巻き込まれているとする余剰理論にみるように、「この世界に並行世界があるんだよというものと並行世界はまったくもって違う時空だという発想もあるが、このふたつは論理的に違う礎を築くが、ひとの意識ひとつでこの二つは入れ替わるのである。以前話たように、眼前にみえる現象界がすべて自分の心の丸写しとする世界はデ・レ様相にみる可能世界がここにすべてあるというロジックを世界の礎にすることである。



  9-23

  自由論と行為の反因果説についてである。人間っていうのは自由なのか。生まれてからどんな動きをするのか、もう既に決まっているのだろうか。すべてはたまたまか、それとも決まっているか、さらには自由なのか。森羅万象、すべてが自由というお話である。


    自由論についてである。まずは近代哲学ではフィヒテの徹底的な自由意志だ。私のことを自我って言うが、自我は自我を産出するという。産出するものと産出されるものがいっしょ、という自己産出。自我は自我を産み、こんどは自我ではないもの、非我を産む。これが第二テーゼ。さらに、自我は自我のなかで、自我と非我をちょめちょめさせる。これが第三テーゼである。哲学者シェリングやヘーゲルからいわせれば、自分のなかに自分と自分以外のものをつくってちょめちょめしているから、まるでごっこ遊びであり、主観的な観念論だと批判される。

 
 哲学者シェリングは自分は自分以外の宇宙と瞬時に知的直感によって一体化だと主張。客観的観念論と称する。

 
  現代ではベルクソンの自由論だ。生まれてから死すまでひとがなにをするか最初から決まっている。すべては計算できるという決定論。これは過去と未来へタイムマシンで飛んでいってできることで、地に足ついてない。偶然論者はすべてが偶然だというが、これまた、並行世界マシンに乗っている。そこで、最後に自由が残る。自由とはなにか、と問う。別に問う、問わないも自由だった。問う前からすでに自由は事実としてあった。自由は問いでなく事実だという。


   次の話は行為の反因果説についてである。心が原因で手を上げてと命じると右手があがる。心は行為の原因、これが行為の因果説であり、ディヴィットソンの主張。デカルトがいうように、心と物体、肉体の世界はまったくもってちがう法則の世界で接点がない。だから、ここには原因と結果の因果律なんてない。ただ、右手をあげてから、事後的に、いいわけ的に、右手をあげた理由、根拠をいうだけなのだ。これがアンスコムの行為の反因果説である。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   過去から現在、そして、未来への時間の流れ。これでみるとすべては因果律、決定論にみえる。逆に、未来から現在、過去へと流れる反時間、この逆ベクトルだとすべてが偶然、並行世界論的に見えてくる。偶然論だ。そして、この相反するベクトルが今この瞬間で交わり、これが今この瞬間の自由になる。カントもいうように、自分のまえにある現象、これには因果律を適用しちゃうという。だから、決定論的にみえるのだ。そして、りんごに因果律を適用して認識するが、りんごそれ自体は物自体であり、物自体は自由意志だという。つまり、現象としてみるときは時間をあてはめ、それ自体であるときはすべてが自由存在なのである。りんごもみかんもすべてそれ自体においては自由意志である。


  
   9-25


   カントのカテゴリーと統覚の解釈、そして、論理空間についてである。自分を意識すると、社会の窓が全開であることに気がつく。自己意識は全宇宙が私を意識していること、そして、あんぱんまんもそらを飛ぶが、ぶっ飛んだことに、なんと空間は時間だった、というお話をしたい。


   カントのカテゴリーと統覚の解釈についてである。カント哲学をいろいろと解釈した新カント学派。カントはバナナを認識するとき、まずは感覚という材料を受け取る。次に、私自身のなかのおおもとの私、根源的統覚が論理的な道具であるカテゴリーを使って調理して、それがバナナだと判断だ。これはシェフが統覚であり、フライパン、なべがカテゴリー、小麦粉が感覚的素材、とおなじだ。このとき、新カント学派の一派では、統覚とカテゴリーはおなじとみなす。つまり、調理器具の道具が自ら動き出して料理をつくる。カテゴリーの自己展開でバナナって認識しちゃう、と解釈するのだ。


   次の話は論理空間についてである。可能世界論っていうのがある。もともと、ライプニッツが提唱した。ひょっとしたら、恐竜が絶滅してなかった世界、地球は両生類に支配されている世界、無数にある可能世界。このとき、論理的に矛盾しないもの、論理的に可能なものすべての世界をひっくるめた宇宙全体が論理空間である。論理空間の一部に我々の住む物理宇宙があるのだ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   バナナについて意識しているとき、対象意識という。ところが、バナナを意識しているなーってかすかに自己了解している。つまり、対象意識は自己意識でもある。私が行為し、体を動かすと、机が動く。これは私が世界を変形させた。私から世界へのベクトルである。ところが、自己意識とは他ならぬ、私自身を意識するのだが、これは世界から私へのベクトルである。しかも、このときいう世界は物理世界だけでなく、ひょっとしたらの可能世界の全部を含む。つまり、論理空間から私への逆ベクトルが意識なのだ。つまり、論理的に可能なすべてがここにいる私にアクセスしている。統覚が論理だったのである。論理空間、宇宙全体が私自身の本体なのだ。

  さて、いま、空間の話だった。私と世界についてだった。この空間的な関係がそのまま時間を生み出している。論理空間は論理的に可能な限りのすべてであった。これは他ならぬ未来のことだ。未来は論理的に可能なすべてを含む。だから、以前から話ししているように、未来から今への時間逆ベクトルこそ、意識なのだ。 



    9-26

  続き


   ゲーレンの人間についてである。哲学的人間学のなかでゲーレンという思想家がいる。人間っていうのは不完全だという。あtれもこれもできない。けむくじゃらだったときはどんなにけっこう丈夫だったが、いまとなってはつるつるだ。こうやって服をきたり、家をたてて、欠損した能力を補填しているのだという。この補填が文明だというのだ。


   次の話はヤスパースの暗号解読についてである。世の中は神様、超越者の暗号で満ちているという。ただ。どんな態度で暗号解読するのか。限界状況がいいという。八方塞である。このとき、ひとは自分の能力の限界、有限性を実感し、自分のなかにどんどん内面化して、ついには自分に穴をあけて外にでて超越者に接するという。そして、こんな態度で暗号解読だが、まずは、宇宙、自然には歴史的に立った一回かぎりの出来事の集まり。このなにげない出来事がまずは第一言語だという。これだと理解しがたいので、神話や芸術といった第二言語を使う。さらに第三言語は形而上学だという。



   まとめ


 
 存在の科学


 
  異次元理論



   宇宙の誕生の瞬間、ビッグバンのとき、宇宙は完全体だったのだ。完全な対称性である。時間がたって、宇宙が冷えると、対称性が壊れる。こうやって四つの力ができ、物体ができた。だんだん、宇宙はいびつになってきたのだ。進歩、進化とは対称性の崩壊であり、不完全化なのだ。生命もまた、だんだんゲーレンがいうように欠損を多くし、それゆえ、人類は補填のために動かざるを得ず、文明をつくる。一人の人間も生まれたときは完全だが、だんだんいびつになる。宇宙の最初、この完全性を実現するには、欠損してしまった、いわば、ジグソーパズルの失われたピースを捜し求めるしかない。この失われたピースを探しているのが生の営みであり、周囲のあらゆる意味ある事象であり、おのれの行為だったのである。この場合、善悪、真偽という価値すらも超越した営みの究極目的とみなされるのである。



9-28


  メルロポンティの前人称性とハイデガーの声なき声についてである。胃液分泌だ、と裂けんでも分泌しない。瞳孔の開閉も意志でやってない。自分のからだはだれかが生かしてくれてるのだ。そして、同じように周囲におこる出来事もまた、だれかがそうしているのである。

  メルロポンティの前人称性についてである。すべては肉だという。肉といっても肉屋の肉だけではない。世の中、おなじ要素、エレメントでできているというのだ。あかちゃんはまだ私とか、あなた、かれらというような人称に分れていないという。おなじ肉で地続きだというのだ。そして、物心がついて、私とあなたというように、肉に溝をいれるだけだという。だから、おとなになっても他人の気持ちになれたりする。もともと、ひとつだったからである。

  さて、自分のからだは自分の意志で動いてない。瞳孔の開閉、胃液の分泌、細胞の働き。これは私のなかのだれか、ひとによってなされているという。これが非人称的な自我である。


  次の話はハイデガーの声なき声についてである。声といったら人間や動物から放たれて、耳によって聞く。物体の雑音だって耳から入る。これらは具体的な存在者の声だ。ところが、存在そのものの声がある。これはみけんにしわよせている人が聞いている。つまり、考えるということ、思考は存在の声に聞き従っているというのだ。


  まとめ


  存在の科学



   異次元理論


   自分のからだの胃液分泌や瞳孔開閉、細胞の新陳代謝には意志によるものではない。自分の意識がしているのではなく、無意識レベルである。私のなかのだれかがやっている。これがほんとうの私、真我である。この真我の声を聴くのだ。

  自分のからだの働きは意識的ではない、おなじように、体の内部ではなく、からだの外も意識的ではない。犬の鳴き声が聞こえる。私が意識的に鳴くようにセッティングいsているのではない。これを絶対与件という。つまり、体の内部の働きと外界の現象はいずれも非意識的なだれか、真我によってなされているのだ。そして、体の内部の働きがそのまま、外界の現象になっているのだ。だから、具合が悪い時、外界に現れる人物、生命、物体にその影響因子があり、それを正す因子も現れているのである。ストレスと外界の影響=体内活動、ということが如実に現れているものである。



  
   10-01


   現象主義と混沌についてである。白だ、といったら間髪入れず、黒だ、と言い張る。いわゆるひねくれモノといわれてしまう。その実、白は黒、黒は白なのだ。あるものはそのまったく正反対のものでもある。こんなだいどんでんがえしのお話である。


   現象主義についてである。論理実証主義のなかでの対戦カードに、物理主義vs現象主義がある。物理主義というのは時間と空間のあるところに物体が存在することをみとめましょう、という約束をする。これをプロトコル文という。りんごがメロンの隣にある。これは物理言語である。これに対して、哲学者マッハのいう現象主義。それがりんごかどうか確証はない。そもそも、夢かもしれない。だから、感じたままをいえばよい。赤い、丸い、甘い、という感覚情報があると。この言語が感覚与件言語といわれるものだ。


  混沌についてである。いわゆるでたらめということ。かって、古代ギリシャでは均整のとれたロゴスの神様、アポロンと混沌である酒と踊りの神様ディオシソスがいたろいう。ところが、古代哲学、とりわけ、プラトンはそのイデア思想にみるように、均整のとれた美しいアポロンを残して、ディオシソスは封印したとニーチェはいう。ニーチェはこのディオシソスをよみがえらそうとした。不条理、混沌といえば、また、カミュの実存主義だ。人間の存在とは不条理、理にかなっていないという。



   まとめ



   存在の科学




    異次元理論



     まず、科学上見られる常識のたがの話である。アインシュタインは空間と時間をおなじとみなしたが、この空間=時間を直感的に理解したい。この世に存在するすべての物体を取り去る。すると、ただの空間だけが残る。空間移動しても移動したかどうかわからない。距離ももはや意味がない。つまり、どこにいてもここでしかない。ここでの変化は時間だけではないか。あらゆる空間中の物体が消えた時、直感的に空間が時間だとわかる。


   もうひとつ。宇宙は膨張し、いつしか、収縮すると考えられていた。これはボールを投げると放物線を描いて、またおなじような軌跡をとおって落下するからだ。ところが近年、超新星爆発の観察で、宇宙は減速することなく膨張していることがわかった。これをダークエネルギーによるものとした。


   ここから本題である。この世界はブラックホールから放たれたホログラムだという考えだ。いろんなものをブラックホールが吸い込んで、光速をこえてしまう限界面、事象地平面にまでいって、時間がとまって、その面に全情報を蓄積されるという。事象地平面の球体内部は光速を越えているので時間が逆方向に流れている。だから、事象地平面を境に、外から時間順行の光、内部からは時間逆行ベクトルのタキオンが放たれる。意識とは時間逆行だといった。だから、意識体はそのはじめからブラックホール内部から事象地平面の記録を透過してまわりの三次元空間にホログラム化させているのである。ここで、なぜ、まだ宇宙は吸い込まれていないのにホログラムの情報が事象地平面に刻印されているといえるか疑問である。それは事象地平面ではもはや時間の流れに意味がないのだ。いまだ吸い込まれていないものの情報がすでにあるのだ。


  意識が時間逆ベクトルで事象地平面のうち側からでて地平面を透過といったが、これはふつうにわれわれがいう現象面だ。現象というのは表象とちがって三次元イメージでなく、平面的な現象だ。ところが、そんな表現媒体である事象地平面そのものが同時に記録媒体なのである。これはPCでいえば情報記録媒体、処理をするハードディスク、メモリ、cpuが二次元のディスプレイそのものだといっているのとおなじ。記録媒体=表現媒体なのだ。だから、われわれが目の前に感じている現象、そのありのままの情報にはすべての宇宙の情報が含蓄されているのである。


  10-02


  連続性の原理と家族的類似性についてである。うりゃっと気合を入れてかわらを割る。こんなとき、決してウォーターベットでトランポリンして遊んでいることをイメージしちゃいけない。人間はじつは無限のパワーをもっている。なにゆえ無限パワーなのかを論理学的に証明を試みたい。

  ラブジョイの連続性の原理についてである。まったく正反対のものはなめらかな連続ではない。正しくは断絶である。ところがどんな正反対のものも無限をサンドイッチしてやれば連続性になるという。じーっとしているもの、これを静止という。動き回るものは運動だ。運動と静止は連続しているのか。無限に小さな運動が静止だという。また、等しいと不等とはちがう。同一性と非同一性だ。これまた、無限をはさむ。すると、無限に小さな不等、非同一性が等しいってことだとなる。



   次の話はヴィトゲンシュタインの家族的類似性についてである。通常、概念っていうのは内包と外延による。人間っていう概念は人間を人間たらしめている性質、二足歩行、理性をもつ、など、これらをもつが、これを内包という。この内包をもつものたち集まれ、というといろんなひとたちがくる。これが外延だ。ところが、やまちゃん、さいとうくんは果たして、人間っていう共通するなにかをもっているだろうか。ただ、家族がみんなどことなく顔が似ているように似ているだけだというのだ。


  まとめ

 
  存在の科学


 
   異次元理論



   人間、生命は壮大な無限パワーをもつ。なぜなら、宇宙と深く関係している。まず、可能世界、並行世界がたくさんある。やまちゃんが魚屋ではなく、大リーガーの世界も論理的に可能だからあるのだ。おなじひとつの世界にいるっていうのは時空の連続性と因果律に従う。時間や空間が断絶することがない。ところが、可能世界、並行世界同士の関係にはこの連続性も、因果律もない。しいていえば、無限を介した連続性はある。恐竜が滅びていない別の並行世界はわれわれの無限の時空を超えた向こうだ。

 さて、並行世界、可能世界のあいだは時空連続性ではなく、類似性、分身性によってつながる。この世界はたくさんの可能世界がレイヤのようにかさなり、これらの可能世界を類似性によって移動しているのがわれわれの理性、意識活動なのだ。類似性は別並行世界とのつながりなので、時空無限連続性、無限パワーによって類似性が可能だ。人間の思考、言語活動はもっぱらシンボル、象徴だといわれるが、人間っていうことばが複数の人間を代表するように、これはアナロギア、類似性だ。だから、意識活動による類似性、理性的な推理、これらは無限のエネルギーによる可能世界へとトンネルだ。意識とは可能世界間のトンネルであり、アインシュタインローゼンブリッジなのだ。


  時空に穴があいてお隣の世界につながる確率は低い。それでもゼロパーセントではない。だから、量子、粒子、ひもの数が膨大であれば、この奇跡が頻繁に起こる。量子トンネル効果であり、これによる別時空へとのトンネルが意識だったのである。



  10-05


   パラダイムと相対的現実主義についてである。このいまいる宇宙にあらゆる可能性の宇宙がすし詰め状態でつまっていたらどうだろうか。あたまのなかで美女を想像する。これが可能世界なのだ。すると、一見、関係ないようにおもえるが、論理的には万物が言葉でないと成り立たなくなる。なんと、この世界のものは神様の言葉だというお話をしたい。


   クーンのパラダイム論についてである。犬がクンクンとお尻を本人の了承を得ずに嗅ぐが、それとはまったくもって関係ない。クーンは概念枠、パラダイムを主張した。科学というのはスポーツのようにルールがある。しかも、ニュートン力学、相対論は違うスポーツなのだ。概念の枠組がちがうので交わらない。カールポパーはこんなクーンのパラダイム論は非合理主義だと批判。なぜなら、概念枠の間は無法地帯、非合理的なでたらめ世界があるからだ。


  次の話はクリプキの相対論的現実主義についてである。以前、ルイスの相対論的可能主義をお話した。ひょっとしたらの可能世界が実在しちゃって、しかも、とりわけ、今選択した鼻の穴ほじっている現実世界は特別な位置を占めるとは考えない。ほじっていなかった世界もおなじ強度であるというのだ。さて、クリプキはこのわれわれの住む現実世界にすべての可能世界がつまっていると考える。まずはひとは想像するが、この想像物こそ可能世界だというのだ。さらに、想像しなくても、論理的に可能なあらゆる命題、文章だ。どらえもんが歩く。実在してなくても命題としてあるではないか。すると、言語っていうのは単語は有限でしかも組み合わせも有限。有限の閉じたものなのに、無限になる可能世界は記述できないという反論がでてくるのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論



   相対的現実主義だと、可能世界のすべてがこの我々が住む現実のなかに押し込まれている事になるが、それが想像力や命題、文章だという。ところが、単語が有限で、しかも、その組み合わせも有限。とうてい無限にある並行世界、可能世界は記述できない。そこで、万物のすべてが言語とみなす。そして、事物が単語でそれ我の事象が命題とする。こうすれば無限の可能世界が記述できる。単語が事物で法則にしたがって動く。これが法則である。物理の法則、数学の法則。もっと細かくいえば、ニュートン力学、相対論、量子論、分子生物学、以下略。これらの法則がおのおの言語体系であり、人間の使う自然言語でいえば、英語、日本語、中国語のちがいだ。さて、この法則という名の言語、ロゴスを使っているのはだれか。これが神様なのではないのか、といいたいのだ。


   10-10


意義と超存在、そして、組み合わせ主義についてである。ぱっと見できまる第一印象。ぱっと見で確定しちゃう量子論。じろじろと観測する行為が科学の対象になった。こんどはもんもんと観測したことを思考するが思考を対象にしちゃうと並行世界論になるのだろうか。あたまのなかにある並行世界、あたまのなかはもっと大きな宇宙なのかもしれない。


  意義と超存在についてである。フレーゲは心理的なものは嫌だった。あくまで論理の世界だ。明けの明星と宵の明星。おなじ金星のことをいっているがニュアンスがちがう。これを意義がちがうという。ところが、金星はある、というのは真偽どっちかといえば真。こちらを意味という。黄金の山だって実在しないけど意義はある。論理的にNGじゃないからだ。マイノングの超存在というのがある。大魔神が怒ってる。大魔神は存在しないが、存在するしないなんか関係ない。それが超存在である。真偽、存在、非存在は関係ないのだ。

  次の話は組み合わせ主義についてである。可能世界論っていうのはひょっとしたらの可能世界は無数にあるよ、というもの、これは実際に実在しちゃうというルイスと、便宜的なものだというクリプキがいる。もうひとつ組み合わせ理論がある。この宇宙をx、y、zで三次元の空間座標、tで時間。さらに、われわれの物理宇宙にはない高次元のものも含ませたいからUというパラメーターも使う。(x、y、z、t、U)である。この変数に充填するかしないかで時空間は決まる。このあらゆる組み合わせが可能世界だというのだ。



   まとめ

  

  存在の科学


 
   異次元理論



   科学革命があった。量子論の標準解釈であるボーアのコペンハーゲン解釈。波動関数、確率波があって、量子は確率的に存在しちゃっている。だから、箱の中のネコは生きていると同時に死んでいると同時にゴハンたべている。箱をあけてみた瞬間に、粒子になって確定する。見るという観測行為が導入される。観測行為の観測、感覚の感覚だ。観測されたデータをもとに、こんどは推理したり思考して理論化する。こんどはこの思考活動を思考する。すると、論理的に可能なあらゆる世界が出現。これがエヴェレット多世界解釈ではないか。あたまのなかの論理空間、つまり、あらゆる可能世界の全体だ。並行世界、可能世界があたまのなかの心理的なものだというのではない。私の意識自体が可能世界の全体である論理空間だといいたいのだ。感覚を感覚、思考を思考、こうやって、より主観的な方向、自分の手前手前へと後退し、主観を客観化するプロセスなのだ。なにゆえ、私に意識が論理空間かといえば、われわれは宇宙や存在を問い、考え、推理する。つまり、物理宇宙、存在を超えた可能世界の広大な領域、器があるからできるのだ。物理宇宙を越えた論理空間だからこそ、このキャパシティで宇宙を扱えるのである。


  
   10-12


   虚構主義と与件の神話についてである。人間はたくましい想像力をもつ。ボディビルダーはそれにくわえてたくましい肉体美だ。想像力はある感覚器官がうまれる準備段階かもしれない。この世界はいろんな確率の波でみたされている。並行世界を見る眼が進化することで見開くのではないか、というお話をしたい。


   ファイヒンガーの虚構主義についてである。先生はすべてが原子でできているという。原子はみえないのだが、すべてが原子であるかのうようにとらえる。三角形を黒板にかいて面積もとめちゃえ、という。拡大すると厳密な三角形じゃない。三角形かのうように扱う。この世界はすべてかのうような虚構だという。そして、精度をあげればより本物っぽい三角形をかけるが、どうがんばっても本物に近づけないもの。神様、宇宙、カントのいう物自体。これらを純粋虚構といい、もはや目を細めてみようとせずに、信じる、信仰すべきものだという。

  現代では虚構主義的様相論理がある。ひょっとしたらの可能世界が実在しちゃうというルイス。それは便器的なものだというクリプキ。さらに、想像力の世界をあらわしているというものもいる。虚構主義は、最初の定義で、この世界はすべて虚構だ、といってしまえば、もはや可能世界の論理は成り立つというのだ。


   次の話はセラーズの与件の神話についてである。感覚というのは与えられたもの。真っ赤な太陽がみえる。それは自分がセッティングしたのではない。自分の目に飛び込んでくるのだ。セラーズはこれを与件の神話だという。どんなものであれ、われわれはあたまですでに加工しているというのだ。りんごは赤い、というとき、赤いという概念を使っているという。


  まとめ



   存在の科学



   異次元理論


   我々人間はいろんなことを想像できる。反実仮定といっても、実際は大リーガーじゃなくても、もしかしたら大リーガーだったかも、という自分も想像できる。想像力とは一体なんなのか。

  微生物には視力がなかった。自分がうごきまわるためのイメージマップがあったのだろう。これが進化して視覚を開花させた。こうやって願望、希求、必要性から感覚器官を増やしてくるのである。人類は想像力をもつが、想像の世界は並行世界のようなものだ。これは進化して新しい感覚が開花する準備段階なのだ。周辺にあるシュレディンガーの確率波を見る感覚器官だ。並行世界のすべてを感じることが出来る器官だ。これを得る前段階のトレーニングが夢である。夢は一貫性がなくて、支離滅裂。まさしく、新しい感覚器官が開くと、夢の世界のようになるのだ。現代の常識では常軌を逸したもの、狂人にみえるにちがいない。



   10-14


   リゾーム構造と非実体一元論についてである。自己中なときがある。自己中な季節もあるかもしれない。風が強い時、友人を盾にするものもいるかもしれない。自分を中心にすべてがまわってると天動説みたいなことをとなえる。たしかに、私っていうのは中心なのだが、この中心が消えてはまた中心が生まれる、という大きな宇宙のプロセスについて考えたい。


   ドゥルース、ガダリのリゾーム構造についてである。通常、鼻の穴をほじくりながらテレビをみている常識モードのときは、ツリー構造だ。メインとなる幹があって、枝葉にいくけど中心に戻ってくる思考だ。木のような構造である。ところが、リゾーム構造は土中の菌糸体や根っこのように、中心から逃れようとする構造だ。


   次の話は坂本百代の非実体的一元論についてである。この世界はいわゆるウソっこ、仮想的にひとつだという。それを捉えているのは概念の二つの枠組み、心と物体という枠だ。これを仮想一元論と概念枠二元論という。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   四次元ミンコフスキー空間から五次元への感覚が開かれる。ひょっとしたら私は座っていたかも、たっていたかも、というように無数の自分に分れるので、人格の同一性は破綻する。ここには私っていう中心性がない。無限宇宙の中心は任意である。そこで中心になろうと、また中心的な私が生まれる。つまり、主体的な人格的な存在になる。そして、中心性がなくなり、また、全体になる。この繰り返しはまるで輪廻である。


  植物はこれをよく表す。中心性のない大地、リゾームである。ここから根っこがうまれ、根っこから幹、枝、つまりはツリー状になる。五次元世界から四次元ミンコフスキー、つまり、生の世界への成長である。こうしてまた、大地に戻り、中心性のない混沌とした高次元世界に戻り、根をはり、芽がでて、ツリーになるのだ。


 
   10-15


  意味の三角形と貫世界性についてである。街中を散策すると、いろんなものに出くわす。宝箱が落ちていて、ふたをあけると仙人風なやつがでてきて、大きな靴下と小さな穴の開いた靴下、どっちが欲しいのか、と問うていた。スルーして、散策していると、家があり、木々があり、犬小屋をみかけた。これら万物が存在しているのはなぜか。存在するためのエネルギーはどこから得ているのか。言語学と宇宙論から存在するためのエネルギーについて考えてみたい。


   オグデンとリチャーズの共著、意味の意味、から意味の三角形についてである。これはどういう意味なんだ、と叫んだりする。それでも意味ってどういう意味なんだ、とはあまりいわない。意味の意味するところを考えたのである。このとき、意味の三角形というものが使われる。まず、森のなかで冷蔵庫と出くわす。冷蔵庫だ、と指差す。私は思考するもので、冷蔵庫っていう思想をあたまで描く。これが三角形の真ん中の頂点である思索者である。冷蔵庫っていうのは言葉。言葉は象徴、シンボルといわれる。いろんな冷蔵庫があるけどそれを代表して表現しているからシンボルだ。言葉、シンボルが左の三角形の頂点になる。そして、右側には実際の対象物である冷蔵庫がくる。これが指示対象である。思索者と言葉のあいだには因果関係がある。思索者である私と実際の指示対象物である冷蔵庫にも因果関係がある。見るとか、触るとかである。さて、シンボル、言葉と指示対象物のあいだになにがあるかだ。ここに冷蔵庫っていう言葉は実物の冷蔵庫という対象物を指示しているよ、ということで、指示関係があるのだ。これが意味である。よって森のなかに思索者である私がいないと、冷蔵庫っていう言葉と実物の冷蔵庫は結ばれないので意味が生まれないのだ。


   次の話は貫世界性についてである。可能世界論ででくる概念。山ちゃんは座っているが、別の可能世界では立っているかもしれない。それでもやまちゃんのいろんな状態を貫いて、並行世界を貫いてやまちゃんはおなじやまちゃんなんだよ、というのが貫世界性であり、これは必然性といわれる。


   まとめ

 
   存在の科学


   異次元理論



    以前、お話したが、並行世界はほんとうは周辺にある確率波であり、見えないだけだといった。ところが、これは想像力ににていて、想像力は確率波を見る感覚器官が見開く準備段階だともいった。これは五次元の世界をみることだ。われわれは四次元ミンコフスキー空間の中で生きている。この四次元の世界は並行世界としてたくさん五次元世界にはある。恐竜が絶滅していない世界もある。このとき、私自身もいろんな状態に分裂している。芋ようかんだって半分食べられたもの、まだ食べられていないもの、とたくさんに分岐している。無数の状態にわかれているが、これはオッカムのかみそりだ。存在者の数が増えて、存在の数が減る、節減の原理だ。最終的には具体的個物の一状態まで細かく分れる。立っている私と座っている私は同じ私だという同定関係が私を存在させる。異なった状態の芋ようかんも見えない糸で同定性があり、存在させられている。この関係性が存在のエネルギーなのである。ところが、四次元ミンコフスキー空間に戻るとこれが、なんと意味の三角形における指示関係性になってしまうのだ。芋ようかんっていうことばは実際の対象物である芋ようかんを指示するのだ。つまり、五次元では存在の原理だった関係性が、四次元ミンコフスキー空間では認識の原理の指示関係になるのである。


  10-16


  命題論理と名辞化についてである。低音を利かせたドルビーなサラウンドで声高に叫ぶ。すべては流れゆく、と。ところが、そういう大原則は流れて変化しない。時に世の中には自己矛盾するようなことがいっぱいある。これは論理のなかに潜む異次元な働きによるものだ、というお話である。



   命題論理についてである。まず、定言命題というのがある。チューリップは植物だ、と胸を張って言い張る。しかり、という断言。または、チューリップは動物ではない、というもの。これらが定言命題である。もうひとつが仮言命題である。もし、やまちゃんが足が長いならば、斉藤君は人間である、というのが仮言命題。足が長いが前件、人間である、が後件といわれる。前件はなんでもOKであり、ゴジラが怪獣だったら、でもよい。必ず、後件が真になる。その逆は不可、これが仮言命題の特徴である。最後に選言命題である。やまちゃんは人間か、ゾウか、キリンさんのいずれかである、というものだ。


   次の話はフッサールの名辞化についてである。やまちゃんはトマトジュースを飲む。これを丸ごと名詞っていう塊にして主語にできる。やまちゃんはトマトジュースを飲む、は健康的である、ということができる。名辞化はあくまで、自分にとっての対象にすることだという。自分が居合わせてないところでもふつうに自立して存在しちゃう存在者ではないのだ。対象は名辞化によるが、それは存在者ではないという。


   まとめ


  存在の科学


 
   異次元理論



    すべては相対的だ、というのは絶対的。絶対的っていうのも、その相対的なものの中に含まれていたら矛盾。すべての主張は真実だ、というと、すべての主張は真実じゃないっていう主張も含まれちゃう。自己矛盾だ。すべては変化し、流れている、という。法則すらも変化する。それなら、すべてが流れているという原理も変化してしまう。すべて可能なかぎりの世界は並行世界にある。すると、並行世界がないっていう世界もそこにふくまれちゃう。すべてが相対的だ、というのが絶対的な原理で、その逆は成り立たない、という力が働かないといけない。ここで、物理的な時間の流れを産んでいる時間の種、仮言命題が登場だ。前件はなんでもよいが、後件は確定。その逆はないという論理的不可逆性。これが働いている。そして、ここから問題がうまれる。


  三次元空間にあるりんごは定言命題。三次元+時間軸の四次元ミンコフスキー空間。我々の生きるこの世界だが、これは仮言命題が支配。そして、このとき、すべては自分にとっての対象だ。決して存在者ではない。五次元においては自分ですら状態が分岐する。手を上げている私と座っている私と、無限に別れる。だから、私にとっての対象なんかない。存在者がそれ自体有る世界。ここでは選言命題が支配。しかも、先述した論理的不可逆性が成立しない不思議な世界なのだ。



   10-19


  存在の科学


   異次元理論



   超小さな世界、量子とか原子。これらは偶然的に振舞って、しかも、たくさんあるんで多元的だ。超大きな世界、たとえば、天体などは必然的な法則に従い、しかも、宇宙はひとつだと信じる。かって、時間は過去から未来へと一方通行という常識があったが、その実、すべては相互的、動的平衡。だから、未来から過去へと流れる生命の意識を主張した。おなじように、マクロな世界もミクロとおなじ構造をしているはずだ。つまり、偶然的でしかも、多元的なのだ。我々の見ている宇宙の向こうに無数の宇宙があらゆる確率的な状態で偶然的に存在しているのだ。

  われわれの宇宙がたくさんあって、昨日成立した法則は今日も適用できると信じている。信仰、信じることがまずは法則やどの宇宙にするか決定しているのだ。しかも、本当の意味で信じているものであって、決して口先だけだったり、うわっつらのものではない。思考や感情という営為はわかるが、信念の存在意義はなにかといえば、多元的な宇宙のどれを選ぶかという世界選択にあるのだ。


   10-20


    経験的自我とアカシャ年代記についてである。流しそうめんをせっせと食べるという過酷な流れ作業のとき、決して、やってはいけないことがある。もしくはボクシングでストレートが飛んできたときも同じだ。そんな折に瞑想やチャネリングをしちゃいけないと思われる。ほんとうはいつも異次元の生命と交信しているといったらおそらく友人がひとりひとり周りから去ってゆく。人間の意識活動とはいわゆる異次元生命とのチャネリングそのものなんだ、というお話をしたい。


   経験的自我についてである。哲学者カントは経験的統覚と根源的統覚をはっきり区別する。経験的自我でもよいが、これは鏡にうつった自分とか、自分の性格というように、観察できちゃう、経験できる私だ。自分の個性がある意識だ。この経験的自我の奥底には、だれもないし、だれでもあるような人類共通の私がいるという。性別とか、性格なんて
ない純粋な私、これが根源的統覚、自我になる。他の哲学者たちも言い方はちがうがこのような区別をしているものもいる。たとえば、ベルクソンの表層自我と内奥自我などである。


   次の話はシュタイナーのアカシャ年代記についてである。人類の歴史、生命や宇宙の歴史もある。ところがこれらは物体の歴史、可視的なモノの動きだ。これに対して、目には見えない魂の歴史があるという。これがアカシャ年代記であり、魂は土星、太陽、月、地球と遍歴し、修行をしているのだという。


  まとめ


  存在の科学


 
   異次元理論



   意識ではなく、無意識のレベルでわれわれはいつも異次元生命とチャネリングしているのではないか。また、覚醒よりも睡眠中の夢が異次元との交流なのかもしれない。それでは覚醒中の意識はなんなのか。しかも、個性のある経験的意識だ。これは物体、物質とはちがう魂の歴史で作られてきたのだ。前世か、生まれる前といったほうがいいが、このとき、無意識レベル、または睡眠レベルで異次元生命とのネットワークを構築してできあがったもの、これがいまの経験的な個性的意識なのだ。だから、いまの段階で無意識、夢でなされている異次元チャネリングは次世代の自分の意識に成長させる新ネットワーク構築作業だ。


  ここで気になるのは意識と無意識、覚醒と睡眠というような二元論だ。以前はなしたが、これらの二元性が壊れるときがある。並行世界が乱立する五次元意識になったときだ。ここでは私自身の状態も分岐してしまうので人格の同一性が破綻だ。五次元では他者が自分の分身、並行世界の姿なんおだから、自他、主客、意識と無意識の区別がない世界。この五次元世界を経て、四次元ミンコフスキー世界に戻った時、また、二元性のある世界で成長し、変化した新しい意識生命とのネットワークとなっている個人的、経験的意識をもっていることになる。



  10-24


  ベルクソンの記憶の即自性、そして、存在と不安についてである。そこらじゅうに電波が飛び交っている。ケータイ、無線、ラジオと、いろんな電波だ。どの空間点にも無数の情報が電波になっている。この中から必要な情報とアクセスしたりする。まるで並行世界とおなじようなシステムではないか。電磁界と並行世界について考える。


   ベルクソンの記憶の即自性についてである。記憶はあたまのなか、脳に蓄えられているのだろうか。ベルクソンは脳はアンテナだという。頭がアンテナっていえば寝癖なのだが、あたまのなかだ。目はものを見る、耳はがそごそっていう昆虫の足音を聞く。脳はあたりにある記憶を受信するという。記憶は即自的にそこやここにあるというのだ。即自というのは、りんごはりんご以上でも以下でもなく、自分と完全に一致している存在の仕方だ。


   次の話は存在と不安についてである。ハイデガーの哲学では具体的な存在者、メロン、すいか、やまちゃんなどにかかわっている存在の仕方は非本来的な存在で気楽だという。ところが、存在そのものを感じる、世界を感じると、漠然として退屈の感情になる。さらに存在そのもののつかみとろうとする。すると、自分の存在丸ごとつかむので、自分ではない無、死に手を伸ばすので不安になるという。だから、不安はおのが存在丸ごとつかむとき、無をさわってしまった感情なのだ。



   まとめ

 
  存在の科学


  異次元理論



   電波とは電磁波の一種。電磁界には電波が流れている。しかも、ケータイ、船舶無線、ラジオ、いろんな電波が混在している。ここからチューナーは周波数を合わせて調合。共鳴させて、特定の電波をフーリエ変換して音にしたりする。このとき、ほかの周波数の電波は受信していない。これはまるで並行世界ではないか。人間をはじめとして生命というのは一種のチューナー。これが無数に存在する存在の波、並行世界に周波数を合わせて、その世界に住み着く。電磁界ではなく、存在界とでもいえようか。もしくは、重力場かもしれない。だから、ベルクソンがいうように、記憶がそこらに即自にあるどころか、世界、宇宙、存在自体が周波数帯域を変えて無数に共存、混在しているのである。このチューナーを変えるとは、世界をいろいろと選び取る自由であり、これには不安が伴う。チューナーのつまみに手をかけると、自分の存在すらいない世界を選び取ってしまうから不安の感情が生まれるのだ。


  10-25


   対自と即自存在、そして、フランクフルト学派についてである。電波を受信するラジオチューナーのように、人間はいろんな世界の波を受信送信するチューナーだ。ただし、ただのチューナーでなく、壊れかけている雑音入り混じったチューナーだったのだ。

  サルトルの対自と即自存在についてである。即自存在といえば、人参は人参以上でも以下でもない。自分と完全に一致していてずれていない。ただのモノである。それでも長所はある。すごく安定、安心できる。ところが、人間の意識はちがう。私は私なんだといっても、主語の私と述語の私は一致しない。ちょっとまえの私なのだ。このズレが不安、不安定をうむ。自分に対面する存在だから対自存在だ。


   私はなんだか不安定で、なにものだかはっきり固定されていない。自分を固定されたいと思い、即自存在のようになりたいと考えるが、これがマゾである。そして、ついには、対自かつ即自になりたいと思っちゃうは、これは神様になろうとしていることとおなじだという。だから、ひとは挫折をするのだという。


   次の話はフランクフルト学派についてである。ホルクハイマー、マルクーゼなどだ。つねに芸術や科学を全面的に否定じゃなくて、批判しようよ、という批判理論をつくる。そして、ヘーゲル哲学の否定の否定は肯定っという考えを批判。バナナがあったなら、このバナナをこれたらしめているのは、ほかならぬ、このバナナ以外のすべてのものだ。このバナナはこのバナナ以外のすべてのものではない、ということで、輪郭がでてくるのだ。否定の否定は肯定というもの。これだと自己完結してしまって、なんの活動もいらない。だから、否定の否定の否定は否定だと、否定で終わらせば、常に批判精神でなにかやっていないといけない存在になれるのだ。



   まとめ


  存在の科学



    異次元理論



   前回、生命をも含めた万物はチューナーだといった。電磁界における周波数帯のように、存在界にも周波数帯が無数にあって、チューナーで調合している。ただし、物体は完璧なチューナーでひとつの世界からしか交信していない。これに対して、生命は壊れたチューナーなのだ。とりわけ、人間は他の生命よりも壊れたチューナーで、お隣の周波数帯どころか、ぜんぜんちがう周波数帯を雑音として沢山受信している。この複雑な雑音は人間のイマジネーション、思考、想像を生み出しているのだ。不完全なるゆえ営み、フランクフルト学派のように、まさしく、否定でおわるから、かけているところを求める。


   10-26


   差異と反復、そして、中立性変様と判断停止についてである。縁側でひなたぼっこしていると睡魔に襲われる。気がつくと夢の中、虹の橋をピンクのうさぎちゃんといっしょにわたっていたりする。夢とはなにか。もっともこれとは反対なのが物質。ときに正反対はつながっていたりするのだが、物質は究極に夢を見ている、というお話をしたい。


   ジルドゥルース、差異と反復、についてである。ふつうの考えだと、えんぴつはえんぴつ、ミサイルはミサイル。同一性が先にあって、次にえんぴつとミサイルの違い、差異がある。ところが、最初に差異があるのだ。えんぴつはさっきのえんぴつではない。えんぴつ、えんぴつ2、えんぴつ3と何度となく反復して、えんぴつはえんぴつでる、という同一性を目指す。差異のあるところ、反復はつき物。


  次の話はフッサールの中立性変様と判断停止。最初にまず、定立がある。怪獣だ、逃げろと叫ぶ。あれは怪獣である、と定立。もしくは、怪獣ではないと反定立。怪獣かどうか、存在しているかどうか決め付けるので、存在定立。これらの定立をやめる。すると存在しているしてない関係のないモヤっとした中立したものになる。中立性変様だ。そして、怪獣を怪獣たらしめている本質を感じる。これを本質直感。さらに、進んで、すべての判断すら停止するのが判断停止。それでも、判断停止、すべてオフだ、とスイッチを切った本当の自分、純粋自我だけが残存するという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   前回、話たように、すべては存在界の周波数と共鳴してある特定の世界に住むのだ。物体は精巧なチューナーなので、ひとつの世界の周波数にぴったりあわせる。生命、とりわけ、人間は壊れたチューナーであり、他の周波数が混じり、この雑音が想像、思考、夢になる。

  さて、物体はひとつの世界に完全にあわせられるので、すべての世界に周波数を合わせている。だから、すべての可能世界、並行世界を同時に感じ、体験しているのが物体なのだ。物体は究極に夢を見ているのだ。だから、人間もまた、生命活動を静める、物体のようになる睡眠時に夢をみる。人間、生命は差異が最初にあって同一性を目指す。物体は即自存在、同一性だからA=A、B=B。右辺と左辺はあらゆるものがはいる。同一性とは全並行世界なのだ。

  存在定立をやめて中立性変様、判断停止。これらは意識が物体に向かうプロセスなのだ。

  

 11-02


   関係主義と人間原理についてである。おれだ、ぼくだのだ、私は世界一。私にとって私とはなにか。そして、私がもしも永遠ならば、他人、他者とはなにか。風が強いので知人の影に潜んで盾にするもの。他者より自分っちうのがふつうかもしれないが、ほんとうは他者との関係が一番大切なのではないか、という校長先生みたいなお話をしたい。


  関係主義についてである。まずはかたまりっていう実体があって、そのあとに関係が築かれると考える。これがふつうなのだが、関係主義は最初に関係があるというものだ。リッカートの関係主義では、自分でなく、自分と他者という関係が最初あるという。カッシラーは科学っていうのはむかしは実体、つまりはかたまりからスタートしたが、現代においてはだんだん関係におもきがおかれるようになったという。相対論もそうだし、関数っていうのは、関係性をあらわすものだ。

  物象化という思想がある。人間はとかくおおざっぱに複雑な関係をかたまりとみなすようになる。商品の価格は商品がもっているものだと考えたくなるのだ。ほんとうはそれを作った労働力など、関係の賜物である。

  内的関係と外的関係というのがある。内的関係っていうのは、その関係になることで自分が存在できちゃうもの。兄弟、夫婦などだ。一人っ子の兄はいない。外的関係はやまちゃんはさいとうくんよりもお尻が大きい、というもので、別にさいとうくんと比較しなくてもお尻は存在できちゃう。


   次の話は人間原理についてである。人類が誕生し、自分がいま存在しているのは確率的に超レアだという。この宇宙は人類が存在するためにあまりにも精妙にできているという。光の反射率しかり、少しでも違う数値だったら人類はうまれなかった。神様がつくったようにおもえる。それでも、人類がいて、その一員としての私が存在しているのだから、宇宙とか、人類云々いえるのであって、人類はいなかったらもはや宇宙を観測すらしていないというのだ。


  まとめ


  存在の科学



   異次元理論


   人間原理だと、人類が存在できる確率は低いがあまりにも奇跡的にこの宇宙は好都合にできているとする。ところが、そもそも、すでに人類が存在し、卵子に精子が受精し、自分が生まれる確率はいかに低くても、事実、こうやって自分がいるから問うことができる。人間原理と様相実在論を組み合わせる。すると、あらゆる可能なかぎりの宇宙は実在しているのだから、人類誕生し、自分が生まれてきたのも、100パーセントだったのである。私っていうのは100パーセント存在している世界を選択し続ける。すると魂は不死になる。こうなると、私は私だというのは九鬼周造がいうように、必然なのだ。それでは私と他者、他人との関係性、出会いはどうか。これは私の永遠性とは反対であり、一回性なのだ。だから、究極の偶然性、奇跡なのである。自己関係に重きをおくのでなく、本来は他人、他者との出会いが本義なのである。


  
 
   11-03


 ヘーゲル哲学と個体についてである。この世界にあるものはみんな具体的である。あんぱんだって、よくみると唯一無比。この世でたったひとつのあんぱん。さて、話は宇宙、もっと大きな並行宇宙。これはなんだか漠然と普遍的に思える。そうではなく、これまた具体的ななにかなのではないのか、というお話をする。


  ヘーゲル哲学についてである。もともとスピノザ哲学に端を発する。宇宙は神様だという。しかも、人格神ではないという。ただ、宇宙は実体だという。実体はなんだかじーっとしていて、自分と一致して以上、自己完結だ。永久に持続的に存在しちゃうもの。ところが、ヘーゲルは宇宙は主体だといった。いてもたってもいられない。なんだか活動的な主体だ。それは自分のなかに矛盾があるからこれを解消しようとして動いちゃう。矛盾解消のアウフヘーベン。解消してもあらたな矛盾。こうやって宇宙は進化、進歩する。また、個人の意識もこうやって成長し、ついに自分はいるんだ、と気がつく。宇宙も個人的意識と同様に、自分が宇宙だと気がつき、これを絶対精神とよぶ。


  次の話は個体についてである。ヘーゲルはなんだか個人も宇宙もおなじ原理だという普遍的な思想。これに対して、真理は個性だというキルケゴール。自分らしさ、人間っていうレッテルも嫌だ。唯一無比の個性が真理だという。古くは中世のオッカム。人間、かば、きりん、これらはただの名前で、普遍的な何かがるわけでは無い。名前をとってしまえば、すべてはこれ、唯一無比の個別的なこれなのだ。



  まとめ


  存在の科学


  異次元理論



   右手を上げた。私が右手をあげた宇宙に分岐した。左手をあげた宇宙も実在するという多世界論。世界はこのように際限なく分裂する。まるで細胞分裂だ。原子核のまわりの電子のように、卵子に精子が受精。細胞分裂を起こすが、無際限ではない。生命個体の形になり、あとはそれ維持せんと新陳代謝。宇宙もまた、無際限に分裂ではなく並行宇宙、論理空間体としての具体的な個体だとしたらどうか。すると、二つ考えられる。並行宇宙の全部、論理空間体の形とは、論理的な可能世界世界が輪郭で、不可能な世界がその外の境界になる。もしくは、私が猫型ロボットの世界もどこかに100パーセント実在するはずだが、論理的に可能であっても、じつはすべてが実在せず、それ以上は分裂をしないエッジ、境界線があり、これが論理空間体の形になり、ついには、具体的な並行宇宙群の生命のようななにか、論理空間生命体といえるようななにかになっているのかもしれない。


    


  11-04



  人格主義的態度、そして、構成的原理と統制的原理についてである。豆腐がじーっとしている。なにもおきない、サプライズがないとつまらなくてあくびでる。なにもおきない、というシステムが宇宙にはある。それが異常なブラックホールによるものだというお話だ。


   哲学者フッサールの人格主義的態度についてである。科学的なものの見方を自然主義的態度という。最初にふつうの生活世界があるという。やまちゃんは人間、人参は食べ物。これが自然的態度とか、人格主義的態度という。やまちゃんにはシミ、そばかすあるし、Tシャツにケチャップのシミがある。これらの不純なものをとりさって、純粋に原子の集まりとか、DNA云々でできていると考える。自然主義的態度である。これは理念っていうきれいな服を生活世界に着せてあげたものだという。もともと最初に生活世界があって、生活の必要から科学がうまれたのに、いつのまにか、科学理論があるから人参ややまちゃんが存在するという逆さになってしまったというのだ。


   次の話はカントの構成的原理と統制的原理についてである。まず、物事を論理的に云々するために、カテゴリーっていうものがある。四つのカテゴリーなのだが、ものを量的におおい、少ないという量のカテゴリー。質的にどうかっていう質のカテゴリー。AとBは友情関係か、不倫か、三角関係かっていう関係のカテゴリー。これはまちがいなく現実なのか、可能性なのか、はたまた、あるべきっていう必然性なのか、これが様相のカテゴリー。積み木をつみあげるように、構成して作るのが数学などであり、量、質のカテゴリーだという。また、なんだか全体から統制しながらやるものが物理学的なもので、関係と様相のカテゴリーだという。



   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   
    宇宙の全システムについて考える。まずは、低次元から高次元へとホログラムを映し出しているというホログラム理論。二次元の情報が三次元映像となる。実際に、ブラックホールがそれである。ブラックホールに吸い込まれると、物体は加速し、ついに光速になる。このときの境目が事象地平面。ブラックホールのなかの二次元の球体だ。光速だから、時間は止まる。これを越えて落ち込むと、光速を越えてしまうのでタキオンになって、負の時間、時間が逆行だ。このタキオンのビームが事象地平の内側から飛び出す。これが宇宙のホログラムになる。銀河の中心にあるブラックホールなど、マクロなブラックホールは大きさゆえに、吸引力は大きいが、排出力、タキオンビームが弱い。さて、この宇宙のいたるところにブラックホール、裸の特異点が無数にあると計算上でてくるという。ところが、実際にないし、あるとこまるからホーキングは検閲官仮説を打ち出す。ところが、われわれとおなじ位のサイズの、ミディアムなブラックホールもいたるところにあるだろう。ここでわれわれを吸い込んで、事象地平を越えて時間逆行し、タキオンビームで即ホログラムになる。情報が吸い込まれてすぐに情報がだされる。吸引力と排出力が等しい。だから、このミディアムブラックホールは大根を吸い込んでそのまま間髪入れず返すのだから、何も起こさない機構なのだ。宇宙にあるものはかならずどんなものでも何かしらと影響及ぼしあっているが、何も起こさない影響力0のもの、これがミディアムなサイズのブラックホールなのだ。さらに、ミクロなブラックホールがある。これは吸引力より排出力、つまり、タキオンビームが上回る。だから、時間逆行のタキオンビームは意識、精神なので、これは意識の世界を生み出している。


  さて、これら二次元から三次元への投影というホログラム理論はあくまで情報であり、幾何学的図形、数学的なもの、観念的なものだった。重さ、物理的な特性はここにはない。物としてあるためには、ただの形でなく重力、重さがないといけない。これは高次元から低次元、五次元から三次元への影響なのだ。つまり、グラビトン、重力子の通過がホログラムに物性を与えている。


  構成的原理は低次元から高次元、統制原理は高次元から低次元への影響作用なのだ。また、ミディアムブラックホールは生活そのもの、なにもおきないふつうを生み出すシステムだった。


  11-07


主体と実体、そして、実在論についてである。主体的に生きるとか、主体的に率先して手をあげてアゲハ蝶の飛び方について物申す。いずれにしても、人間の主体的な営みは宇宙という究極テクノロジーと直結していたのだ。一見するとまったく反対の主体的な云々という文学的なものと究極のテクノロジーの結びつきについて考える。


   主体と実体についてである。主体とはやはり、なんだか活動的なもの。意志の力で積極的にうりゃっという気合で石ころをてこの原理で動かす。ところが、実体っていうのはそれ自体でなにものにもたよることなく、自立して存在しちゃうものだ。スピノザは宇宙=実体という。また、ヘーゲルは宇宙=主体だという。一人の人間の主体的なカラテ割りと同じく、宇宙は主体的な活動だというのだ。


   次の話は実在論についてである。まずは素朴実在論っていうのがある。みかんがあったらこれを分子、原子の集まりとは考えず、純粋にありのまま、みたままのみかんとして実在するとみなす。素朴実在論はもはや哲学的でもないといえる。科学的実在論っていうのもある。みかんは原子からできていると考える。また、ダメットの反実在論というものもある。行動主義という実在論、これはパブロフの犬にみるように見えない心なんていうものはない、すべては観察可能な行動、からだの動きだという。また、現象主義的な実在論もある。これは自分の外にみかんがあるのでなく、みかん色で、丸くて、甘酸っぱいという感覚情報のみが実在するとみなす。さて、この二つの実在論は両立できるか。全面的実在論というが、これは辻褄があわない。だから、どっちも成立しないという全面的反実在論をとなえる。


  まとめ


   存在の科学


   異次元理論



   人間は主体的に活動する。自分がここにいて、そこがあり、あそこがある。生とは遠近法的であり、こことそこにわかれるものだ。現前性というものだ。死滅後、生まれる前は時間の流れがない。、また、光の世界も時間が止まっている。だから、時間がないということは、ここからそこまでの距離もない。距離と時間、時空間はセットなのだ。時間が無い世界ではこことそこという区別はなく、すべてがいまここなのだ。すべては一なる量子でできていて、それらが別の現れ方をしているだけ、すべてはここしかないというのが、量子ポテンシャル理論だ。すべてはいまここというのは究極の実在論でもある。そこっていうのは厳密には実在しているかどうか証明不能だ。


  私は私自身を意識する。つまり、自分という波動が自分の波動と干渉し、山と山、谷と谷がかさなって増幅し、粒子性を強くする。こうして自分っていうかたまりがあらわれ、現前し、さらにはいろんものがかたまり、粒子としてみえてくる。ところが、もはや自分と干渉しないならば、こことそこはない、すべてがここであり、ただの波動でしかないのだ。


   さて、ボームの内蔵秩序もそうだが、すべてがいまここにあるというなら、最小の体積、つまり、点に最大の情報量がつめこまれていることになる。つまり、マトリクス、シュミレーション宇宙論の誰かが作ったかはわからないが、この宇宙は点のなかに無限情報を蓄積という究極のテクノロジー、自然っていうのは究極のテクノロジー、メモリなのだ。遠近法的、主体的なみかたはある種のシステムによって、こことそこ、自己干渉によって全情報の大半が隠されるシステムである。


   


   11-09


    デカルト的自我とアナクサゴラスの種子についてである。ちゃぶ台の上で踊ってみる。当然、このときはちゃぶ台の下で寝ていない。何かをしている時、なにかが起きているときは起こってないこともある。当たり前すぎてまぶたが重くなる。つけまつげにとんぼがとまっただけだった。起こっていない、とはどういうことか。起こっていない事象のプロセスを考えてみたい。


   デカルト的自我についてである。デカルトは科学的なものの見方を確立してしまった。どんなに科学者が借金取りやミイラ取りに追われていても、自分の状況はまったく関係なく科学的に思考。計算しているときは、計算内容に水虫の痒さは関係ない。つまり、観測者、思考者はあくまでも宇宙を相手にしているので、宇宙のなかのある特定状況にはまっているのではなく、宇宙の外から、神の視点で冷静に客観的に眺めるのである。これがデカルト的自我である。


  次の話はアナクサゴラスの種子についてである。種子のことをスペルマタと呼ぶ。この宇宙のあるとあらゆるものは、種子として最初から種子のなかにあったのだという。今後どうなるかも、すべてが種のなかに詰め込まれているのである。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   なにも起きていないとはどういうことか。この世界はすべて波動であり、山と谷、谷と山が重なれば相殺して何も起きないことになる。あらゆる世界が重なっている。過去の世界、実際は起きなかった並行世界、これを反実世界という。さらに、今後起こるであろう可能世界。これらがかさなって、ひとつひとつの世界は複雑、膨大なベクトル、パラメーターなのだが、すべてがうまい具合に相殺しあってなにも起きないという現象を生む。だから、過去も、未来のすべての世界がそこにあるのだ。ただし、その世界であろうと活動してゆえに、相殺しようとしても若干のブレがうまれる。これが量子のゆらぎとなって現れているのだ。


  さらに、すべてが波動だとしたら、量子論における箱のなかの猫、つまり、見た瞬間に決まる、という発想が理解できる。じつは奇異でなく当たり前のことなのだ。デカルト的コギトのように、宇宙の外から眺めているのではなく、宇宙のある特定の状況のなかに自分がいて、観測している。だから、首をかしげたり、目を大きく見開いたりすれば、多少とも、宇宙に影響を与えている。観測行為が宇宙に影響を与えた瞬間に宇宙は確定するではないか。まだ、宇宙のなかの一員である私が観測行為していなければ、観測行為によって一義的に確定する世界はまだないのだから不確定になるのだ。



   11-10

    想像力の問題とイデアについてである。ひとの足元をみやがって、と捨て台詞。ところが、自分の足元をみているやつの顔色が豹変した。影がうごいてるぅ、っと叫んだのだ。当たり前のように思っていた影。そもそも、影っていうのはなんなのか。哲学的、物理学的に考えてみたい。


   哲学者サルトル、想像力の問題、についてである。やまちゃんが遊びに来る。まずは玄関先で猫のたまちゃんのふんに躓き、回転したところ気がつくと居間に転がっていた。本人は失われた記憶からして、どうやらUFOにさらわれたと思っている。久々にやまちゃんを見る。上から横からあらゆる視点から見て、観察しても足の裏は見せてくれない。観察っていうのは、かならず、見てないところがあって不完全なのだ。五時のチャイムがなったのでかれはゴンドラに乗って家に帰る。あの懐かしいやまちゃんを想像する。後姿も想像できるが、どこからみたわけでもないやまちゃんっていう概念知を瞬時に想像できる。これは見えていないところなんてない完全なものだ。だから、想像力を準観察とよぶのだが、観察よりもリアリティがあるという。これだとみんな想像力だけの生活になって困ってしまうので、想像は観察とはちがうんだよ、という謎の非現実化作用が働いているというのだ。


   次の話はイデアについてである。プラトンのイデア論はまず、イデア界が重要だ。八百屋さんでかぼちゃとであった時の感動と衝撃、このかぼちゃはじつは影なのだ。かぼちゃそのもののイデアがあってその影。やまちゃんも、人間そのもののイデアがあってその影。善のイデアに照らされた影。影、影、といっていると口がすべってハゲといってしまいそうだが、とにかく、現代ではフッサールのイデアチオン。目でものをみて、鼻でにおいをかぐ。かぼちゃをかぼちゃたらしめている本質、イデアも直感し、これをイデア的直感とか、イデアチオンという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


 
    影とは一体なにか。三次元の物体は厚みのない二次元の影になる。三次元物体に光があたって、光を通さないところが影になる。これを高次元にスライドさせてみる。四次元は時間の世界なのでここではスルー。五次元に本体、イデアがある。光ではなく、おそらく、重力子のシャワーを浴びる。ここでは光とよんでおこう。すると、光のあたらなかったものが三次元の影になる。つまり、三次元物体の内部が影であり、五次元の本体である。本体を見ようと、大根の内部をみるために輪切りにする。すると、中も大根がつまっているがこれは内部ではない。もはや、外部になってしまうのだ。人体もメスを入れた瞬間、外部になる。内部は高次元であり、どんなにがんばっても見えない。見えないものをみるための想像力があまりにもリアルなのは五次元本体を感じてしまうからだ。すべてのもの、人体もそうだが、そこに高次元本体、魂、意識体があるのだ。


   11-15


   ヘーゲルの普遍者とキルケゴールの単独者についてである。夜空を見上げると星たちが瞬く。まったりしていると、轟音とともに、隕石がやってきたのでとりあえずカメレオンの構えで威嚇。この広大な宇宙はじつは意識体ではないのか、と思うと、まさしく人類誕生と私の誕生の秘密のベールがかさぶたのようにとれるのである。


   ヘーゲルの普遍者についてである。普遍的といっても具体的な中身をすてちゃって、抽象的なものだけにしてしまう、これを抽象的普遍性という。人間っていう概念も抽象的だ。ところが、やまちゃんはやまちゃん以外のすべてを全否定してやまちゃんに戻ってくる、つまり、規定すると考えるのだ。やまちゃんはさいとうくんではない、岩石ではない、電車ではない、ということ。こうすると、具体的な内容が規定されちゃっている普遍性になるという。これが具体的普遍性である。

  さて、ヘーゲルは宇宙っていうのはじーっとした実体ではなく、活発な主体性だという。やまちゃんの意識もまた、主体的だが、個人と宇宙の精神を並行しながら論じるのだ。とにかく、すべてにあてはまる普遍的な真理を探そうとするのだ。


   次の話はキルケゴールの単独者についてである。ヘーゲルの普遍的な真理が嫌いだったキルケゴール。単独者とは例外者とよばれ、大衆のなかでみんなおなじこと、おなじ顔をするのではなく、とりわけ、神様のもとで有限でちっぽけな自分。しかも、自分らしさ、個性こそが真理だと主張のである。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   この宇宙はエントロピー増大の法則があるという。つまり、秩序から無秩序になろうとする。かたや、人間をはじめ、生命っていうのは無秩序から秩序を産む。つまり、エントロピーを減少させるものだという。人間が作った建物は放置しておけば、宇宙の大原則によっていつしかエントロピーが増大し、朽ち果てる。

  さて、こうは考えられないだろうか。宇宙というのは全体的には無秩序から秩序化、つまり、ほんとうはエントロピーを減少させていると。だから、人類が誕生し、あまつさえ、私がいまここにいる。私っていうのはエントロピー減少のきわみ。単独者、個性としての私だ。建物は人為的なものだから、朽ち果てるが宇宙自体、自然自体からすればエントロピーを減少させる事象なのかもしれない。そもそも、宇宙っていうのはだんだん膨張し、冷えているという。氷は整然と分子が並んでいるのでエントロピーは低い。水蒸気は分子のでたらめな自由運動なのでエントロピーが高い。だから、宇宙はだんだん秩序化、エントロピー増大へとむかっているのではないか。つまり、エントロピー増大が時間ならば、減少は逆時間。逆時間は意識だから、宇宙は精神、意識体だったのである。この普遍的な絶対精神がエントロピー減少のきわみにおいて例外者としての私をうむとかんがえれば、ヘーゲルとキルケゴールの融合だ。


  唯一無比の私は単独者であり、可能世界のなかの一つの世界にかならずひとりいるのだ。世界には私はひとりしかいない、これが論理的に帰結するのである。

 
  11-16

  
  貫世界性とこのもの性についてである。いまどこにいるのか。ナビで確認すると関東ローム層の上あたりだ。地球のなかの日本にいる。もっと大きくとらえれば、世界、宇宙のなかにいる。そんな広大な宇宙との関わり方で、ひとは考えたり、動いたり、意志したりしているのだ。

  クリプキの貫世界性についてである。アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師だった。もしかしたら床屋さんでもみあげを切るのが得意だったかもしれない。もっといってしまえば、昆虫だったかもしれない。それでもかたくなにかわらないもの、可能世界を貫くものが貫世界性であり、これは固有名詞のアリストテレスである。いろんな世界を貫いて意地でも変らないから、これを必然性と呼ぶ。

  次の話はドゥンススコトゥスのこのもの性についてである。さいとうくんはさいとうくんたらしめている性質がある。このものをこのものたらしめているものがこのもの性という。だから、さいとうくんのこのもの性があるということはそこに唯一無比のさいとうくんがいることである。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   私がジャンプした並行世界やら無数にあるのだが、今は座っている。今この瞬間、選択している今の状態は一番確率が低い。もっとも確率が低いが論理的に可能なものはすべて実現するので100パーセント実現した。だから、微分的にもっとも確率が低い今この瞬間の私はひとりしかいない。世界があったら私はかならず独り以上でも以下でもない。選択されなかった世界は意識したり、感じていないのだ。

  立ち上がろうか、座ったままでいるか、これはあらゆる論理的に可能な世界を包み込んだ論理空間という世界に関わっている。意志するとは論理空間への関わり。そのなかで選択した現実の世界、これと私が関わった時に、体が動き、物理的に活動する。そして、こんどは私は私自身のなかにいて、私世界に関わる。これが自己意識であり、思考、想像力を産む。

  この瞬間、さっきの瞬間、これらの複数の私を集めて貫くと人格性になる。今この瞬間の自分とひとつであろうとしたとき、感じること、クオリアになる。そして、ひょっとしたらの可能世界の自分とかかわり、可能世界を貫く貫世界性になると、これが私を私たらしめている性質、このもの性になる。


  11-17


   弁証法論理とラッセルパラドクスについてである。いろんな並行世界が今この世界にひしめき合っている。幸い、大昔の侍や恐竜とぶつかることはない。重なっているのだが、この並行世界の重なりがじつに弁証法的な矛盾を生み出し、ついには世界、万物の流転の原動力となっていたのだ。


   弁証法論理についてである。ふつうに形式論理っていうのは理路整然と矛盾しないように組み立てるものだ。私は片足立ちしていると同時に片足立ちしていない。これは矛盾だ。pかつ非pっていうのはダメだよ、というのが矛盾律といわれる。ところが、弁証法論理っていうのは、この矛盾が世の中を動かすというのだ。矛盾があると、いてもたっていられなくなり、対立はいつしか融合する。正があって、反と出会い、そして、合になる。そして、また反とあって合になる。こうやって進化発展しちゃうというのだ。


  ラッセルパラドクスについてである。まずもって集合論である。ゾウさん、キリンさん、人間。これらは動物という集合のメンバー。こんどは動物や植物は生命って言うもののメンバー。ついにはすべての集合を包み込む最強の集合が出てくる。ただし、この集合は自分自身をメンバーに含めない。つまり、人間っていう集合のなかに人間っていうメンバーはいない。このすべての集合の集合がラッセル集合rという。rはすべての集合を含むが自分の集合を含んでいないからすべてではない。自分の集合を含めちゃうと定義に違反しちゃう。ここにパラドクス、矛盾が生まれる。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    まず、あらゆる論理的に可能な世界を含めた世界が論理空間だ。あらゆる世界を含んだ広大な世界、これを大いなる何か、と名づけたい。なぜなら、名称も不明だ。大いなる何かは並行世界じゃない世界も含み、そもそも、すべてを含む世界なんてないんだよという世界も含む。つまり、すべてを含む宇宙全体、大いなる何かはかならず矛盾を伴う。世界があることが矛盾そのものである。


   並行世界論だと、この世界はいろんな別可能世界によって満たされ、レイヤのように重なっている。周波数が違う世界なのだ。そして、過去も実現しなかった反実世界も、未来もすべて重なる。すると、右手を上げた世界にるとすれば、かならず、挙げなかった世界も重なって存在する。pは非pと重なるのだ。だから、この並行世界の構造そのものに矛盾を発生させるメカニズムがあったのだ。それゆえ、この矛盾を解消すべく世界は主体的に活動しているのである。


  11-23


  時間意識とアニミズムについてである。ひまわりも、岩石だって、夜空の銀河系だって、そのすべてが意識、しかも、自己意識ではないのか、といいたい。人類皆兄弟というが、万物皆自己意識、そんな大胆不敵な大またおっぴろげな発想でこの世界はもともと精神に満ちていることを証明したいとおもう。

  
  時間意識についてである。かってニュートンは、時間と空間は客観的にまるでうつわのようにどかーんっと存在していると考えた。また、哲学者カントは時間と空間をフィルターのようなもので、これを通してわれわれは世界をのぞいていると考える。現代では時間っていうのは意識そのものではないか、と考えるようになった。哲学者ジェームスは、意識っていうのは時間的な厚みがあるという。ベルクソンは空間っていうのは定規やメジャーで測定できちゃうが、時間は量的なものじゃなくて質的であるから測定できないという。過去、現在、未来が直線状に並んでいるのではなく、なんと、過去が現在、現在が未来に浸透、食い込んでいるのだ。ぱっと見て、茶碗だと認識するのは、今見ているものに過去の記憶が重なっているのだ。そして、それに基づいて、未来を予測しちゃう。そんな時間はあたりにない。胸にそっと手をあてると、そこにあったりする。いわゆる心、意識、精神っていうのが質的な時間、これを純粋持続と名づけるのだ。


  また、哲学者フッサールは過去を今にとどめ、未来もとどめておくという。過去把持、現在印象、未来予持というのがつながっているというのだ。


   次の話はアニミズムについてである。生きとし生けるものという言葉があるが、なんと、万物皆、魂、精神をもっているというのだ。原始的な思想だが、この世界は魂によって満たされ、一見、ただの何の変哲もない物体であっても生きているという思想になるのだ。

  
  まとめ


   存在の科学


   異次元理論



   植物、たとえば、ひまわりの花も螺旋状になっていてフィボナッチ数列になっている。そして、黄金比なのだ。渦巻き銀河だってフィボナッチ、巻貝の渦巻きもおなじだ。人間の意識もフィボナッチの螺旋状にんっているといった。そもそも、フィボナッチ数列は前の数字とその数を足したのが次の数になるという繰り返し。これは今の印象に過去を重ねて未来を予測するという時間意識そのものなのだ。


  ローレンツ変換というものがある。相対論においては光速度が不変だから、運動状態いかんによって時間と空間がゆがむ。時間と空間は基本的には相対的なものなのだ。だから、時間的には自己意識、つまり、フィボナッチになっているものはローレンツ変換で空間にすると、フィボナッチ数列の花のような幾何学形状になる。植物や巻貝の空間的な幾何学形状を時間に変換すると、これは意識活動そのものになる。このとき、かれらkぁらすればわれわれは植物や巻貝のフィボナッチの黄金比率に見えているにちがいない。


  すべてはじつのところ、自己意識だったのである。


  11-30

  

  日常の哲学と排他的選言についてである。生き物と生き物じゃない物体。これらをあわせると三つの風が影響している。ひとの自由意志も風であり、風で人が動いているといってしまったら、それはタコではないのか、と聞き返されてしまう。もうひとつはこの宇宙、時空もまた三つの状態、原理がかさなって成り立っているのではないか、という三三七拍子的なお話である。

  日常の哲学についてである。最終的にはたどり着いたのが日常が真理だったというものだ。たとえば、フッサールとヴィトゲンシュタインである。フッサールは当初、現象学的還元、超越論的還元に没頭。そもそも、人間っていうのは判断ミスしてしまう。大根とまちがえて太ももをかんでしまう。こうなったら判断をやめてしまう。判断停止エポケー。それでも、判断停止している名前もない純粋な私が残る。超越論的還元とは世界、宇宙のなかの私っていうのを意識するのだ。私自身を俯瞰してみうちゃう。ところが、後期のフッサールはちがう。ふつうの日常の意識は自分と大根との関係なんて考えない。大根だ、っといって歓喜したりする。意識が直線的であり、これを超越的という。これが自然的態度であり、すべてはまずもって自然に日常世界から始まるというのだ。


  ヴィトゲンシュタインは最初のころが人工言語を研究。なんだか記号がたくさんある。そんな人工言語による命題と宇宙、世界は対応しているというのだ。これを写像理論という。ところが、後期はちがった。われわれはふつうにしゃべっている日常言語を研究。だれかが単語の意味、文法をつくったのでなく、生活の流れから文脈のなかで意味が生まれるというのだ。そして、そんな生活はなにかというと、生活の流れには根拠がないというのだ。


   次の話は排他的選言についてである。喫茶店でいまならなんとコーヒーか紅茶がサービスでついて来るという。このとき、コーヒーと紅茶の両方を頼んでみる。当然、コーヒーを頼んだら紅茶頼めない、その逆もおなじだ。これがいくつかの選択肢があって、ひとつ選択したらあとは排除ということで排他的選言という。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論

   

   以前、お話したが、植物は二酸化炭素を吸って、酸素をはくという呼吸、土中からは水分と栄養を吸収しているが、光からは成長を調整している情報を得ているといった。光の周波数、長いものを赤外線、短いのが紫外線。これらの光の種類によって花が大きくなったり、成長を早くなったりと、いわゆる植物の動き、成長を決定する因子になっているのだ。さて、動物もまた、おなじではないか、といいたい。人間をも含めた動物は生体を意地するためにまず、光、細胞間のバイオフォトンがある。そして、成長や行動の因子が光のフォトンではなく、光よりも速いタキオンなのだ。タキオンは相対論だと光速を超えるので時間が逆行。未来から過去への流れ。意識とは物体の惰性のような過去から未来ではなく、目的意識をもち、過去を照らしながら行動する。だから、タキオンのシャワーが自由意志であり。生命個体を動かしている。そしてさらに、物体はどうかといえば、風によって物が動く。もしくは他の物がぶつかって動く。これは光よりも遅いタージオンによるものだ。だから、物体はタージオンの風で動き、植物はフォトンの風、人間を含めた動物はタキオンの風で動く。


   こんどは宇宙の時空の三タイプ。科学者はかってすべては小さな粒、原子で出来ていると考えた。次に現代にはいると、点、ゼロポイントフィールド、量子場によって出来ていると考えた。これは点だからゼロ次元だ。そして、こんどはひも理論。ひもの振動によって無数の素粒子がうまれるという。これは線だから一次元だ。そしてついに、膜の振動によってできているという膜理論、M理論が生まれる。二次元の平面でできているということ。今後、どうなるかと予測すると三次元の物体は三次元のなにかでできているという当たり前な日常性に戻るのだ。これらのどれが真実か。排他的なのだが、先程いった生命、非生命の三タイプが混ざり合う事で、この宇宙時空における排他性が消え、三つの理論が両立するのではないか、と考えるのだ。


  12-01


 自己意識と自己同一性についてである。いつでもどこでも自分は自分である。ただし、鼻くそ処理しているときは自分ではない、といってみたい。なぜ、自分自身が更新されつづけるのか。自分を意識しているのだが、これはなんとM理論の並行宇宙の衝突と密接な関係があったのである。


  自己意識についてである。文字通り自分を意識することである。西洋の形而上学のテーマとしてはかなりウェイトがある。デリダはこれを自己現前と名づける。現前っていうのは目の前に置く、あることだ。真空とび膝がやってきた。くるまでの時間、ちょっとコーヒーブレイクをし、しばしすると、目の前にひざ。ひざが現前しているのである。そして、マニュアルどおりしゃがんでよける。自分のへそをみる。自分のへそが現前だ。もっといってしまえば、自分丸ごとが自分自身の前にある。これが自己現前。デリダはこれが西洋哲学の勘違いだという。おれだっといってもすでにおれではない。ちょっと前のおれなのだ。自分自身の痕跡、残像しかみえないという。だから、自分でないもの、他者が自分のなかにある。ソクラテスはこれとはちがい、無知の知というように、自分自身の完全な知、自己知を主張した。


   次の話は自己同一性についてである。ほんとうの意味での自己同一性とは、りんご一個というように、唯一無比のもの、量的な同一性だ。質的な同一性とは、おなじパンツはいている、というように、おなじがらのパンツ、厳密には似ている、類似したものを=で結ぶのである。


  まとめ


  存在の科学



  異次元理論


   宇宙というのは膜だという膜理論、M理論。エキピロティック宇宙モデルというのは、この宇宙の膜は並んでいて、これらは並行宇宙であり、いつも振動しているという。そして、これらの並行宇宙が衝突したときにビッグバンがうまれ、新しい膜、宇宙が誕生するのだという。並行宇宙の衝突がビッグバン。これは人間の自己意識とおなじだ。ちょっと前の自分、ちょっと後の自分、ひょっとしたらの自分、これらは並行宇宙でなく、並行私なのである。これら類似する私が接触するのが自己意識であり、ここにビッグバンが生まれ、新しい私が生まれる。こうやって、並行私との間断なき衝突、自己意識が私を生み出し続けるのである。これは似ている私だから、質的同一性。質的同一性の連鎖が私という量的同一性を産む。


  
    12-08

  

   他者性と反射律についてである。自己紹介のときに、私は宇宙を越えるものである、というとおそらく相手は引く。あなたも宇宙より広大なものだと付け足す。宇宙よりもでかいもの同士が出会うと何が起こるのか。論理の原則、ひいては言語、ロゴスが誕生するのである。これは論理的な他者の存在証明でもある。


  他者性についてである。他人とはなにか。まず、私と他人は基本的にはおなじもの、という思想がある。これを自分と他人の等根源性という。代表的な哲学者はメルロポンティやカント。メルロポンティはこんな考えである。私と太郎くんはおなじ肉でつながっている。違いはただの溝であり、それゆえ、互いに回転してひっくり返る。そうすることで、私は太郎くんになって自分を感じる。カントは私と太郎くんは根っこではおなじ一人の私であるという。

  これらに対して、レヴィナスは私と他人はおなじじゃないという。他人は他人、他者性は私じゃないという。第一人称の私、二人称のあなた、第三人称、無人称のかれら。それら。かれら、それらは壁のむこうの圧倒的な多数の他人。無人称をイリヤといい、イリヤからの強迫を受けるというのだ。


   次の話は反射律についてである。論理学上の大原則はひょっとしたらの可能世界との関係から生まれるという。様相論理学だと、必然性っていうのは、いろんな可能世界のなかで意地でも自分であろうとすること。偶然性はひとつの可能世界で実現しちゃったこと。可能世界のあいだの関係、これを到達関係という。ここから原則がうまれる。AはBならば、BはAというのが対称律。AがBかつBがCならば、AはCである、というのが推移律。AはBかつ、AはC、ならば、BはC、というのがユークリッド型論理。AはA自身に到達可能だよ、というのが反射律である。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


   以前、ひとの意識、精神は物理宇宙よりも大きく、可能世界をすべて含んだ論理空間だといった。鉛筆という現実の対象の意味がうまれるには、ひょっとしたらの可能世界までいって戻ってこないといけない。被写体の把握は背景から被写体に戻ることだ。だから、ひとはひょっとしたらの可能世界にいくのだが、これは論理的に可能な想像、イメージ界である。だから、私は可能世界であり、太郎くんも可能世界。可能世界同士の関係だから、到達関係であり、論理の大原則が生まれる。論理や言語というのは他人との関係性から生まれる。もしも、ひとり、哲学的孤独になると、私自身はただの全可能世界を包む論理空間に自己完結する。ところが、論理空間自体は自己矛盾を産むのだ。可能世界なんてないという可能世界、論理空間も含まないといけない。だから、これらの自己矛盾が論理空間を破綻させ、カオスになり、非論理的な混沌になるのだ。他者との関係性が言葉、論理を作り上げるのである。


  


 12-10



    記述理論と記憶についてである。険しい顔で複雑な計算を解く。x、y、zという文字が並ぶ。睡魔との闘いなのだが、x、y、zっていう変数、変項とは一体なにものなのか。いきなりぶっとんでそれはブラックホールであり、計算者の意識の現れだといいたい。そして、これまたぶっとんでわれわれはスマホではないのか、ということをあわせて考察したい。

 
  哲学者ラッセルの記述理論についてである。世の中には有意味なものと無意味なものがあるという。やまちゃんは背が高い、という文。やまちゃんを観察すればそれが真か、偽かわかる。真偽のどっちかの値をもつものを有意味という。猫型ロボットは二頭身、という文は猫型ロボットがいないから観察できない。だから、真偽どっちだかわからないので、真偽不定の無意味になる。ところが、ラッセルは記述理論においてすべての命題を有意味にしようとする。x、y、という変項っていうのを使う。xはうつわである。xはその名を猫型ロボット、かつ、xは二頭身である、というxがあるかないかだ。だからこれは偽になるので有意味になる。


  次の話は記憶についてである。はじめてみたものでも、じつは学習っていうのは純粋な魂のときの記憶を思い出しているというのがプラトンの想起説だ。やかんそのもののイデアを生まれるまえにみたのだ。だから、この世界ではじめてみて、やかんを学習できるのはおもぴだしているだけだという。現代ではベルクソンのいう記憶の即自性。脳は記憶を蓄積するのでなく、アンテナだという。記憶はそこらにそれ自体で存在。それにアクセスして記憶したり、思い出したりする。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    論理学、数学、物理学にでてくるx、y、zという変数、変項とはなにか。何でも入るうつわ。つまり、ブラックホールなのだ。特異点である。以前、話たが、ブラックホールは光速を越えて吸い込むので時間が逆行、だから、ブラックホール=意識だといった。計算するものは計算式には登場していないはずだ。ところが、変数、変項こそ、計算者の現れなのである。


  この世界はブラックホール、特異点に満たされている。さらに、スマホを例に挙げる。スマホはエリア内であればどこで、いろんな情報を受信できる。エリア内のどこの空間点にも、電磁場のなか情報があるのだ。この世界は電磁場だけでなく、重力場もあるし、形成形態場という動物種の場もあるという。そして、なによりも私の場がある。太郎くんにも場がある。太郎くんは太郎場のなかから情報をくみ出し思い出す。そして、太郎場に情報を蓄積するのだ。まさしく、ひとや動物の個体は固有の場のなかにいて固有周期で情報を拾う端末なのだ。



  12-13



  規約主義と古代の多元論についてである。すべては何で出来ているのか。しかも、いくつの要素なのか。ブロックやレゴでできたロボットならば数えればわかる。そもそも、なにを最小単位にするかは口笛の吹きながら気軽に決める。そして、それらを組み合わせると必ず、宇宙とミクロ世界はそっくりというか、おなじであることに気がつくのだ。


   規約主義についてである。規約というのはルールとか、規則だ。ゴミ出しのルールを守らないとご近所さまから白い目で見られる。科学、とりわけ、幾何学や力学っていうのは、なんとただの規則だというのだ。ポアンカレが提唱したのだ。言語も文法っていうルールに従って、一度決まればみんながふつうに使い出す。科学理論もおなじなのだという。これに対して、批判したのがデュエムとクワインだ。目でみたり、におったりする観測や経験。経験とは無関係なはずがない。理論の全体の一部がかわれば、経験や観測にも影響しちゃうというのだ。これに対して、現代哲学のヴィトゲンシュタインは規約主義を徹底しちゃう。ふつうに日常言語の文法や単語の意味、これらはただの前後の脈絡、生活の流れから自然発生するというのだ。


  次の話は古代の多元論についてである。アナクサゴラスは万物っていうのは、おのおの個性をもっていて、これはおのおのの種子、スペルマタからうまれたという。エンペドクレスは四元素説。地、水、火、風の四つの組み合わせですべてが出来ているという。デモクリトスは原子説。おなじ原子がたくさんあってこれらの組み合わせだという。そして、ライプニッツの単子説。単子をモナドとというが、点である。世界は点でできているが、ここの点はここからみた全宇宙を反映するという遠近法的な考えもあった。


  
  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    宇宙はひとつだといってもよい。心と物体という二元論もある。四つの元素でできているというのも良い。五つの要素、木火土金水、という五行論。さらに。6,7,8つでもよいし、10とすれば生命の木になる。最小単位をなににするかは任意である。いわば、そういう意味で規約、ルール設定だ。無限の点といえば、物理学の量子場理論にもなる。ただし、一度、最小単位を決定し、これを組み合わせた時、全宇宙とミクロの世界や人体などがおなじ組み合わせ、すなわち、自己相似形のフラクタルになっているということだけは大原則なのだ。


   
12-14

 

  意識の半透明性とエチカについてである。世の中はあるのか、ないのか。白黒はっきりしたいのだが、俗にごま塩と言う。世の中は存在と無の中間にあるのではないか。空間の幾何学と時間の幾何学における心の形について考えてみたい。


    哲学者サルトルの意識の半透明性についてである。ソクラテスの無知の知。自分は無知だという事を知っているというのだから、自分が自分自身に丸見え。これを意識の透明性という。我思うゆえに我あり、というのも、自分が思っていることを思うのだから透明性だ。これに対して、不透明性とは、自分の存在にまったく気がつかない物体だ。そして、人間の意識は半透明性だという。半分、モザイクやすりガラスのように、自分に見えているというのだ。だから、自分自身が自分をだます、おのれにうそをつくという自己欺瞞が人間の特徴だというのだ。だますものとだまされるものがおなじ自分なのだ。


   次の話はスピノザのエチカについてである。幾何学的方法で論証する倫理学、というタイトル。倫理学のことをエチカという。スピノザはすべてを永遠の相でみちゃえ、という。時間を越えた視点だ。幾何学的図形は腐らない。人間精神は神様を見ることが最終目的だという。そして、神様とは幾何学的な宇宙だという。そんな神様、宇宙を人間は広がりである延長、時間の流れである思考の二つのマドからしかみれない。これが神様の属性のうちの二つであって、ほんとは無限の、窓口、属性があるというのだ。


 

   
    まとめ

 
   存在の科学


   異次元理論


    すべてが存在っていうのはない。まったく何もないというのもない。すべては存在と無の中間なのだ。三次元空間のものは形がある。視覚的だけでなく、音にもなっている、なっていない、という意味で形になっている。まったくのエッジのない存在じゃなくて、かけている、無のところが形をなす。時間軸上にも幾何学的図形があるのではないか。それが意識、人格なのだ。存在と無の混在によって欠けている時間幾何学図形になっているのだ。

  さて、相対論だと時間軸と空間軸は運動状態によってローレンツ変換をして、時間が空間、空間が時間になる。つまり、意識の時間幾何学図形が物体の三次元空間幾何学図形になる。これが意識によって体が動く事だ。また、空間幾何学図形が時間幾何学図形、つまり、意識に転じると、ひとはなにかを感じる、外界の認識、クオリアになる。


  


   12-15


    パラドックスと哲学的ゾンビについてである。買い物帰りによく、グレイタイプの宇宙人が夜店で輪投げでやっているのをみることだろう。グレイタイプの宇宙人の家はエリア51なのか。そもそも、グレイタイプの宇宙人は遠い宇宙からやってきたのか。グレイタイプ宇宙人は未来人が送り込んだ歴史調節マシンであることを論理学的に証明したい。


   パラドックスとはなにか。ゼノンのアキレスと亀というお話がある。亀が足は遅いが、アキレスはギリシャで一番、足が速い。亀のお尻を追いかけてアキレスは走る。あと1メートル、そのためには中間点の50センチ地点を通過しないといけない。そこにいくにはこのまた中間点で25センチを通過しないといけない。こうやって無限の中間点を通過するには無限の時間がかかるので、アキレスは亀のお尻を触れない。

   現代ではラッセルのパラドックスというものがある。集合論のパラドクスである。三年B組のメンバーはひとりひとりの生徒たち。三年B組は集合だ。これは人間という集合のメンバーでもある。人間は動物集合のメンバー。さて、自己集合とは禁止だという。自分自身が自分の集合のメンバーになっちゃうこと。やまちゃんという集合。ここにはやまちゃんがメンバーとして属さない。ここですべての集合を含む超でかい集合をラッセル集合と名づける。ラッセル集合はすべての集合を含まない。なぜなら、ラッセル集合自身をメンバーにしちゃったら自己集合になってしまうからだ。つまり、矛盾、パラドックスに陥るのである。


  次の話は哲学的ゾンビについてである。ゾンビっていうのは心をもたないという。それでも、人間とおなじようにちゃんと反応する。なにも感じていない、つまり、クオリアがないが見た目は何かを感じて、心があるようにみえなるのだ。つまり、別にゾンビのようないでたちでなくても、やまちゃんが本当に心があり、なにかを感じているかなんて証明できないよ、という問題を哲学的ゾンビというのだ。



   まとめ


   存在の科学



    異次元理論


 
     グレイタイプの宇宙人は未来から送られてきたマシンではないのか。その昔、狩猟生活の時代、人類は個人がいかに狩猟できるか、道具の開発をする。社会が形成されて、民族間、国家間の争いがあり、ついには人類滅亡の危機があったが、これを乗り越えた。おそらく、社会的な調節をした。現代では科学の進歩ゆえに有機的自然を悪化させ、これまた人類存続の危機。CO2削減などの調節をする。未来においてはDNAや分子レベルでの脅威があり、さらに物理的な脅威、隕石などがあるだろう。だんだんとプリミティブな問題が存続の危機に追い込むのだ。ついには数学的な危機。論理学的なパラドクスが人類存続を危うくする。これがタイムマシンの開発だ。未来人は過去へいってしまい、歴史を変えてしまうことで、自分たちが存在しない歴史にしてしまいそうになる。タイムマシンパラドクスである。そのために、調節するために過去へ送り込む。ただし、これは仮説なのだが、未来人は意志をもっているからこない。なぜなら、意志あるものが歴史を変え、並行世界を分岐させるのだ。右手をあげた私、あげなかった私の世界。昆虫にだって意志があり世界を分岐させる。ただし、風に吹かれた木っ端は分岐させないのだ。だから、調節のために送り込まれるのは、魂、心のない生命のようなもの。自分たちの3Dコピー、心はコピーされないとおもわれるので哲学的ゾンビであるグレイなのである。ただし、その先の未来はこれらの問題を別の方法で解決するレベルにある。一時期の未来からだけ、グレイが送り込まれる。これが宇宙空間、万物が成立するための大原則になっているのだ。



   12-19


   機会原因説と連続性の原理についてである。だんご三兄弟、三人の侍、さざんは9
。意識と宇宙と一生、これら三つがおなじ構造をしている。しかも、生命の意識を成立させているのが他ならぬ、神様、無限者だったというお話をしたい。


   マルブランシュの機会原因説についてである。ボーリングの玉を転がす。玉ころがしなのだが、ピンにむかってロックオンである。ピンにあたったとき、もちろん、倒れる。いたって力学的な説明だ。ところが、マルブランシュはボールがピンにあたったと神様が知って、神様がピンを倒すと言うのだ。すべての力学的過程のなかに神様が仲介しているというのだ。


   次の話はラブジョイの連続性の原理についてである。まったく正反対のものがであう。ここには滑らかな連続性なんてないはずだ。とまっているものと激しく動いているもの。このあいだに無限を仲介させるという。すると、無限に小さい動きがとまっていることだとなる。また、等しい、等しくないのあいだに無限を入れる。無限に小さな等しくないっていうのが等しいことだという。いわゆる、世の中、すべてが連続しているというのだ。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   宇宙というのは、第一期の未来からの使者、グレイによる歴史調節。第二期における未来人に過去世界の製造。第三期において宇宙は破綻し、新しい宇宙ができる。さて、最初はビッグバン以降、過去から未来への影響により、未来世界がつくられたが、だんだん、未来が過去に影響与えてくる。これは直進性が放物線、ついには楕円になって閉じることだ。最終的にはアインシュタインローゼンブリッジの時空の穴の大きさによって宇宙はハウリング後に消滅。そしてまた、あらたにビッグバンから直進的な未来へのベクトルが生まれる。


  さて、これは人間の意識とおなじである。意識は何かを感じ、このときは直進的。だんだん、放物線、つまり、これは閉じると同時に閉じない状態になり、ついには楕円で閉じて、私とりんごを認識していると俯瞰してみることで、反省がうまれる。そして、この反省が破綻して、また直進的な意識になる。


  人生もおなじである。あかちゃん頃は直進的だが、いつしか物心がつく。これが放物線であり、ついには自分の存在に気がついて円になる。


   そして、宇宙にある万物はひもでできているという。ひもには二種類ある。端部がある直進性のひも。この端部は宇宙の時空、ブレーンにひっついている。五次元宇宙には巨大な球面があり、これが事象地平であり、ここに端部のあるひもがうごく。これらが電子や光子だ。球体内部は閉じたひも、円状のものが飛び交うのだが、これがものに物質性、重量を与えている重力子だ。さて、この事象地平面の端部あるひもの挙動と球面内部の閉じたひもはおなじ挙動だというのだ。ただし、開いたひもと閉じたひもは連続していない。ここには離散性、非連続性がある。ここに連続性を与えるのが連続性の原理だと無限者であり、神様の介入なのだ。意識や宇宙は直進性から円、円の破綻による直進性、という連続プロセスなので、生命は神様の仲介によって成立するのだ。



  12-20


  純粋経験とこのもの性についてである。機械に電気をビリビリ流してロボットが動く。ただし、そんなロボットでも、我思うゆえに我あり、と意識が芽生えない。ここには電気と素材との絶妙な絡み合いがないのであり、カレーとライスの絡み合い同様、これによって意識、精神が生まれるのだ。


   純粋経験についてである。ここからこっちは私で、そっちは世界。主観と客観をはっきり分けるのがふつうだが、最初は主観でも客観でもない微妙なものなのだという。これが純粋経験である。アヴェナリウスのいう自然的世界概念。また、メルロポンティの言葉では生の存在であろう。ありのままは主客が分れていない。ひとは時間をかけて生の存在を加工しちゃって缶詰のようにするのだ。


    次の話はドゥンススコトゥスのこのもの性についてである。りんごが転がっている。りんごっていう言葉はいろんなりんごに当てはまっちゃう抽象的、普遍的なやつだ。そうではなく、ここにあるこれ。個体こそ存在しているのであって、そのほかはただの名前だといったのがオッカムの唯名論。スコトゥスはこれをこれたらしめている性質があるにちがいない、これをこのもの性と名づける。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論



    ひも理論においてはひもは端部ありのものと端部なしの閉じたひもがある。意識とは直進性が自分自身に少し筒向かい、ついには閉じて自意識になって破綻し、直進性に回帰することだといった。端部のあるひもはブレーン上、または、事象地平面にへばりついて動く光子、電子だ。事象地平内部、または、ブレーンのあいだは五次元であり、ここには閉じたひもである重力子が飛び交う。重力子は物質性、重力を産むものだ。この連続性は神の無限性によってなされるともいった。さて、事象地平面の表面積は情報蓄積量に等しいといわれているが、これは記録媒体。つまりは、記憶だ。ここにある電子、光子が閉じたひも、重力子になるとは、意識的な電気信号がただの物質になること。だから、これは意識信号の物質化、死滅化であり、この閉じる時、消滅時にクオリア、感じるっていう事が生まれる。電子から重力子へ。これが意識的電気信号が物質、つまり、からだの動きになること。記憶、経験のあとに物質化、肉体的運動だから、経験に基づいた認識、行動である。


  PCは素材が鉄やプラスチックであっても、重力子によるもの。そこに電子が飛び交う。生命とは機械の異常性によって現れ、機械、物質とは生命の異常性に現る。つまり、電気回路が閉じてしまいショートしてスパークしたとき、それがクオリアだ。音でいえば、マイクが自分の音をスピーカーからひろい、ループしてハウリング起こす。ここにクオリアの誕生がある。風船は球体になろうと自己完結性目指してふくらみ、ついには破裂する。破裂の瞬間がクオリアだ。



   直進性から円環性、そして、破裂して直進性。この絶え間ない連鎖において、いつ、私っていう同一性、主観と客観の明確な区別が生まれるのか。私を私たらしめている「このもの性もまた、この直進性と円環性の連続のなかに潜んでいるのである。



  12-23

  西田哲学の論理的イデア、そして、モナドと内蔵秩序についてである。意外と全然ちがうじゃん、というものがおなじ延長線上にあったりする。美女と野獣、洋式便器と和式便器。そのなかでもとりわけ、あっという間の瞬間のなかに永遠。考えて行動することと、押されて動く事だ。


  西田哲学の論理的イデアについてである。西田幾多郎の行為的直観という考えがある。三輪車をウィーリー走行する男。かれは周囲の障害物を見ながら、ハンドル操作している。直感して、私っていう実体、かたまりがあって、つぎに動くのでなく、あいだには私っていう実体がないという。見ながら動くから行為的直観だ。このとき、私は実体ではなく、いままさに去りつつあるという。この刹那刹那の瞬間に、なんと、あのプラトンがいった普遍的なイデアが生まれるという。いろんなバナナがあるがそれは影であって、バナナそのもののイデアの影。そんなすべてのイデア、時間的に変化、変形、老朽化しない不変的なイデアが私が去るという瞬間にあるという。



   次の話はライプニッツのモナドとボームの内蔵秩序についてである。ライプニッツは世界、宇宙は点でできているという。しかも、この点をモナドといい、このモナドから見た全宇宙を反映、含んでいるという。物理学者ボームはあらゆる出来事のなかに、過去のすべて、未来のすべての情報が含まれているという物理学の思想だ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   まず、前回お話した生命のDNAと宇宙のDNA。宇宙のそれはひもにおける開いたひもと閉じたひも、光子と重力子が、結局は閉じつつある開放系としてのらせんだといった。惑星、恒星も軌道はらせんであり、らせんは情報を捕まえる構造体だといった。生命も宇宙も螺旋で記録し、さらに宇宙はなんと過去だけでなく、現在、未来の情報も記録するDNAをもつ。生命と宇宙、過去と未来は同一系列上にある。ボーリングのボールがピンにあたって、ピンが倒れる。力学的伝達である。これは微生物や動物の刺激と反応とおなじ。さらには人間がなにか情報を得て、そして、判断し、行動する、ということと基本的にはおなじなのだ。力学的伝達は完璧な判断なのだ。また、ひとの判断に基づく行動は力学的な伝達とおなじなのだ。


  

   12-28


   独我論と痕跡についてである。もしかしたら、私は座らずに、片足でジャンプしていたかもしれない。ひょとしたらの世界も同時に実在しちゃうという並行世界論。じつは並行世界は極めて自己中、主観主義であると同時、まったくもって客観的なもの、この両極端の特徴をもっている二刀流だったのである。


   独我論についてである。天上天下唯我独尊である。この世界にはおれしかいないっていう思想だ。ただし、二つのタイプがある。存在論的な独我論、これはそこにある消しゴムもえんぴつもない。有るのは私だけだという。もうちょっとソフトなのが認識論的独我論。消しゴム、えんぴつはあるけど、他人の心は怪しいという。後者がやはりヴィトゲンシュタインなどである。私が青い空をみる。他人もほんとうにおなじ青さを感じているかは何人も証明できないし、いくら説明しても不可能だという。

 
 デカルト的コギトというものがある。科学者の科学のやり方。科学者が自分のいまの状況、月末の支払いにおわれ、ちょっとおなかがいたいなど、そういうものを実験や計算のなかにあらわさない。つまり、自分を宇宙の外において、そこから神の視点で眺めるという。これがデカルト的自我、コギトである。


   次の話はデリダの痕跡についてである。西洋の形而上学は、自分が自分自身のことを100パーセントわかるし、感じているとしていた。自己意識、自己現前という。ところが、私だ、っと叫んだら、ちょっと前の私のこと。ラグがあるのである。つまり、私は私自身の痕跡、残像しか感じられない。痕跡はオリジナルがあるからだが、オリジナルに先立って、なんと原痕跡というものがあるという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   並行世界論、多世界論っていうのはまず、シュレディンガー方程式からはじまる。この波動方程式は世界はすべて波動で、すべての状態が確率的に同時進行しているというもの。右手をあげた、あげない両方の私がいるのだ。あげた私を特権する必要がない。つまり、究極に客観的なのだ。同時に、以前お話したが、ニヒリズムはすべてのものが共有するものはない。存在、世界すら共有していないとすれば、すべてのものは個々のオリジナルの存在、宇宙に住む。だから、これは並行世界論だ。すべてが自分を中心に遠いものは小さく、近いものは大きく見える遠近法。空間の遠近法ではなく、時間的な遠近法が多世界だ。右手をあげたのだから、あげなかった自分よりとおい。こうやって並行論は同時に極めて主観的、独我論的なのだ。


  AさんはAさんの人生を終える。永劫回帰のニーチェなら、おなじ一生を繰り返すという。そうではなく、デリダの痕跡にみるように、意識ですら自分との不一致、だから、おなじ人生を歩まず、微妙にずれる。どこの時点にもどるかは、セーブポイントである。まるでゲームのようにセーブポイントがいくつかあって、そこから別パターンの人生が始まる。基本的に宇宙っていうのは身の回りの工業品、自然物、あらゆるものに構造が現れている。ゲームもまた、宇宙構造の表れであり、このセーブポイントこそ、死滅後に戻ってくるところであり、相当なエネルギーがある時空点がセーブポイントになる。


   12-29


  我汝とブリコラージュについてである。古代人はなぜあのような巨石をうごかせたのか。いわゆるハンドパワーなのか。世界、宇宙っていうのはこんなもの、という世界観が心の奥にある。原子でできているとか、いくつかの要素でできているとか。時代によってちがうし、心底、その時代のものは信じる。この世界はこうだという信じることがその時代のものの能力を決めている。


  ブーバーの我汝についてである。トイレの個室でひとりぼっち。いわゆるぼっちべん。これは一人称だ。私とあなたが向かい合ってあっぷっぷ。二人称である。ここにはいない不在の人々。かれら、彼女ら、それらが第三人称や無人称。まず、それらが最初にある。原子とか、物体、という第三人称、無人称だ。これが唯物論になる。私という一人称が最初にいて、それら、あなたはそのあとに出現。これが独我論。マルチンブーバーは私とあなたは最初からセットだという。そして、あなたとは、私では絶対にないので絶対的排他的。しかも、それでいて、絶対的な包容性だという。とりわけ、永遠のあなた、汝を神だという。


   次の話はブリコラージュについてである。器用仕事のことをいう。職人さんが壺をつくっている。制作しているのは作品。壺を作っているその様もまた作品なのだ。どこからが作品で制作プロセスなのかがない。主観と客観っていう壁もないこの境地がブリコラージュである。


 
   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   古代人はなぜあのような巨大遺跡を作ることが出来たのか。世界観、宇宙観によってその時代のものの能力が規定されるのだ。現代人は多元的な世界観だ。原子や量子でできているという。だから原子ひとつ動かしたところで何もおきない。さらに、空間だけでなく、時間軸もまた多元的だとし、多元世界観、並行宇宙論になる。もともと、神様は宇宙だ、という一元論。私とあなたというのがすべてだという愛に満ちた二元論。世界はひとつで分割のしかたがちがうと自分の能力、住む世界の特性もかわるのだ。三位一体の三元論。四元素説は地水火風。五行論の木火土金水。こうやって古代のエジプト、シュメール文明では10元論だった。いわゆるフラワーオブライフだ。宇宙は10の要素でできている。だから、そのうちにひとつを操作すると宇宙はざーっと動く。11はこれらの10の要素を支配する11番目の要素をおくというフリーメーソンの思想。11はしるしと名っていろんな場面であらわれる。また、現代科学最先端の11次元論がM理論だ。そして、12は神秘の数といわれ、中国思想の十二支にあるように時間を意味する。のちに12次元論がうまれるであろう。10は十干といって空間をあらわす。


  制作プロセスと作品が一体になるというブリコラージュは世界に新しいものを作ったり動かす。これは主客が一体になった一元論だからだ。



  12-30


   ベルクソンの弛緩と収縮、そして、遠近法主義についてである。唐突におならするのはまさにあたまのなかがカオスなやつだが、唐突に言いたいことがある。人間の意識、魂とは超光速で突っ走っているということだ。だからこそ、目の前の現象がうすっぺらな平面に見えているのである。


   ベルクソンの弛緩と収縮についてである。時間と空間、本当の時間とは意識だという。そして、空間は物質だという。しかも、空間はメジャーでスリーサイズはかれるように、量的に測量できる。時間は意識なので質的なものだという。それなのに、意識と物体は基本的にはおなじなにかだという。過去が現在に入り込み、食い込む。現在が未来に食い込んじゃう。こうやって、今見ているものに過去の記憶が混ざっているので、あっホットケーキだ、と意識できる。つまり、ぎゅーっと収縮されたものだ。空間や物体というのはびろーんっと伸びきった弛緩だという。伸びきったパンツのゴムだ。過去は過去、現在は現在、未来は未来。いまの無限の反復であり、すかすかの状態だという。


   次の話は遠近法主義についてである。近いものはでかくみえる。遠くにあるものは小さくみえちゃう。巨大なあたまによって美女のお尻が隠れて見えない。ボールの内側はみえない。自分の視点からみえる遠近法的世界だ。ニーチェは見え方だけでなく、価値もすべて自分の視点からしかとらえるしかないという。青い空をみても、友人の目からどううつっているかわからない。善悪、好き嫌いだって、自分と友人、他人は共有できない。神様という絶対的に共有するものもないという。だから、あくまで価値が共有できないのだから、自分の視点から、無から価値を作るしかないという。これをしているのが超人だという。


   まとめ


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   異次元理論



    意識、魂は超光速、タキオンであり、移動している。なぜかといえば、私の正面にみえるもの、現前している世界は平べったい平面、二次元世界だ。三次元を見ているのではない。物にかくれてみえなくなったり、内側は見えない。三次元が二次元に投影されたものをみている。これに対して、自分の視点から見るのではなく、真に客観的に視点をもつことなく客観的にある世界、これは自分の背後の時空間なのだ。時間と空間のミンコフスキー四次元時空である。なぜ、正面には二次元平面の知覚世界、背後には四次元時空なのかといば、ジェット機が音速を超えて飛んでいるのといっしょだ。全面の空気は圧縮されてソニックビームという衝撃音を放つ。この場合、タキオンの超光速で前面空間が二次元に圧縮されてできる衝撃音がクオリア、なにかを感じることだ。そして、背後の四次元時空が前面の二次元知覚平面に投影、射影されるのである。全宇宙空間が目の前にみえる平面に圧縮されている。だから、どこにいても、私は全宇宙の圧縮バージョンを見ている。視覚的に見るだけでなく、聴覚、あらゆる感覚、思考もまた、前面と背後はこのようになっているのだ。後ろの正面だーれ、という歌。まさしく後ろの四次元時空があしゅくされて前面平面に投影。時間も圧縮されて投影されているがこれは記憶になっている。


    12-31


   ゲシュタルト理論とキアスムについてである。もうちょっとひねりをくわえて、腕ではなくお尻で打つ。いわゆるゴルフの手取り足とりレッスンである。なんといってもひねりがポイント。ひとは時にひねくれるが、ふつうに時空がひねりがある異次元の異常性な世界がこの日常の世界のベースになっているというお話だ。


  ゲシュタルト理論についてである。まずはブントの要素主義というのがある。さいとうくんも、足、お尻、腰、というような部分が集まってできているというふつうの見方だ。これをモザイクのような組み合わせだから、モザイクテーゼという。そうではなく、部分が集まった以上に全体は意味があるし、全体と部分がいろいろとやり取りしてるんだよ、というのがゲシュタルト理論だ。グラーツ学派は、ドレミのド、などの単音が集まってメロディができるのでなく、全体はなんだかなにかが+アルファされているという。後のヴェルトハイマーはなにもプラスアルファされるのでなく、全体はふつうに部分を集めた以上だという。

 ケーラーの物理的ゲシュタルトというものもある。浸透圧や脳の電気信号などもゲシュタルトだという。

  被写体があって、背景がある。この全体と部分、被写体と背景のせめぎあいから輪郭がでてくるという。



   次の話はメルロポンティのキアスムについてである。すべてはおなじ肉で繋がっているという。私と他人、私と岩石もそのちがいはただの肉の溝だ。だから反転、キアスムするのだという。私は岩石になったつもりで自分を感じる。見ているものが見られているものと反転。さらに、見えるものが見えないものと反転して、私は岩石の見えないもの、つまり、意味を知る。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    被写体、意識対象である岩石。その周り、背景は青空である。この被写体の岩石の表面はみえるが裏側、内側は見えない。この見えない裏側がじつは背景のなのだ。背景の裏側はこんどは被写体の表側になる。これはメビウスの帯の表と裏の関係なのだ。だから、この帯びは自己完結し、私がどこを見てもゲシュタルトな図と地があるので、自己完結した全宇宙をまなざしているのとおなじである。しかも、ねじれたメビウスの帯の五次元構造が介在している。


  私と他人もまた、対面しているとき、このようなメビウスの帯になる。私の裏側があなたで、あなたの裏側が私になっている。


   さて、岩石を手にとってじーっとみつめ、場所移動し、背景が白い壁になる。こうやって被写体、意識対象を変えずに背景をかえる。本来は岩石の裏側は青い空だったのにかわってしまうのだ。幾何学空間上の矛盾を解消、調整するために時間が生まれた。だから、対象を変えずに、じーっとみつめて背景だけをかえると、時間が長く感じる。また、逆に青空の背景を変えずに、被写体、意識対象の岩石をこんどは鳥、飛行機、スーパーマンと変えていくと、時間が短く感じるようになる。被写体と背景のゲシュタルトが時間の感覚と連動している。



  2014  1-1



     差異と反復、そして、両義性についてである。へびが自分の尾っぽをかじっている、というウロボロス。頭と尾っぽがつながっている。しっぽをおいかける猫、尾っぽはあただというのは、世界は丸く繋がっているという世界中にある古代の思想。ウロボロスと宇宙論について考えてみたい。

  ジルドゥルース、差異と反復、についてである。このたまねぎはこのたまねぎである。隣にこの長ねぎがあり、これまた自分と同一だ。そのあとに、たまねぎと長ねぎの違い、差異がある。これはふつうの常識的な考えだ。ところが、このたねねぎは自分と一致していない。一秒前のそれではない。だから、この差異を克服して私は私なんだ、とたまねぎは叫びたい。私は私だ、私は私だ、となんどとなく反復して同一性を目指すのである。長ねぎもまた右におなじである。

  次の話はメルロポンティの両義性についてである。両刀使い、まさしく、宮本武蔵である。肉の哲学といって、世の中は肉っていうおなじもんでみんな繋がっているという。しかも、とりわけ、身体は二刀流だという。魂を受肉した身体とレントゲン写真に写るものとしての客観的身体。主観と客観、自分と他人。これをうまく共存させて両立しているのが身体の両義性だという。

 

  まとめ


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   異次元理論



   自分の尻尾を噛み付き食べようとするウロボロス。古典ギリシャにもみられるし、蛇でなく龍の円は中国思想。そのほかにも世界中に見られる。ウロボロスは宇宙を意味する。ミクロの世界は極限までいくとマクロ。マクロの世界も果ての向こうはミクロの世界なのだ。

  ビッグバンで宇宙は最初は点だったのだが。一機に膨張。光速で膨張し、今藻まで現在進行形だ。この膨張宇宙の外は光速、フォトンの速度以上で離れている。いわゆる光速を越えるタキオンだ。宇宙の果ての向こうにはタキオンの世界。タキオンは光速を越えているから時間が未来から過去へと逆行。だから、宇宙の果ての向こうになると時間はもどって、宇宙誕生の点になる。このとき、時間逆行するとタイムマシンパラドクスが生じるのでこれを解決する手段として、宇宙は多世界、並行世界になる。並行世界なら、過去に戻っても矛盾回避できるのだ。だから、宇宙の果ての向こうのタキオン世界から時間を戻って誕生の瞬間の点に戻った時、それは量子であり、いわゆる電子や光子が確率的に存在する並行世界だ。電子の雲、これはタキオンが時間逆行し、果ての向こうにミクロの量子があることを示唆しているのだ。


  そもそも、時間が過去から未来へ行くのと、未来から過去へと行くのは、ベクトルが逆なだけである。さらに、宇宙は爆発的に膨張というが、最初にあった点が爆縮して、爆発的に収縮し、そこにいるものたちが爆発的に小さくなって、相対的に宇宙が膨張してみえるだけということも、じつはベクトルが違うだけでおなじことをいっているのだ。


   差異と反復、宇宙もまたミクロとマクロという決定的な差異を反復している。身体と同様に、宇宙もまたマクロとミクロ、宇宙の果ての向こうと宇宙の始まりの両義性をもっているのだ。


2014 1-2



  否定の否定と全体論についてである。論理学、数学、力学、という基礎的な科学。これらがなんとコンビニ袋を振り回してスキップしているおばちゃんがいそうなこの日常世界の原理原則になっていたりする。ひょっとしたらの可能世界、無限宇宙のパワーを吸い取る森羅万象。プリミティブな科学にこそ全宇宙の秘密の鍵がありそうだ。


   哲学者ヘーゲルの否定の否定についてである。レモンをみてすっぱそうな顔をする。このレモンください、と八百屋にいう。このレモンはこのレモン以外の宇宙にあるすべてのものを全否定したうえで存在している。これが否定の否定は肯定だという思想だ。だから、隣のこのりんご、あそこにある砂粒、すべての具体的なものを否定しつくして、このレモンがあるのだから具体的普遍性という。これに対して、ゾウという抽象的な概念。具体的な一頭一頭のゾウを捨て去って、抽象的である。これを抽象的普遍性という。



    次の話はホーリズム、全体論についてである。すべての部分は全体と直結しているという。デュエムクワインテーゼっていうのは、あらゆる仮説は検証だって、反証だって、どっちにでも転がるという。鶏は飛ばないという仮説。飛ぶとは地上からどれくらい何秒間いることか、そもそも、鶏を定義し、日本語で言っているのだから、日本語文法の説明も必要。すべてを総動員して、鶏は飛ばない、という仮説を作っているのだから、全体の一部をいじくっちゃえば、どっちにでも転がるというあんばいだ。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



    クリプキの可能世界論だと、ひょっとしたらの並行世界は実在しているというより、計算過程にすぎないという考えだ。互いに消去されて現実はひとつだという。たしかに、波は山があっても谷とあわさって、互いに消しあう。ところが、静かな水面も無数の波の山と谷が相殺して成り立つのだ。無いとは、すべてのあるものたちが相殺して消去されたものであって、変な言い方をすると、無のうちに万物があるのだ。

  数学の微分法で力学をみる。加速するボール。微分することで、傾き、導関数をつくる。無限にhの値が0に近づくとか、無限大に近づくとかだ。ふつうにボールが転がったり、物が自然に変化することの中に、微積分の無限大、無限小が潜んでいるのだ。この無限パワーによって、ただの変化、物体の磨耗、老朽化といった変化が生まれている。そもそも、量子場、ゼロポイントフィールドというのは、粒子と反粒子がエネルギーを借りて、消滅時にそっくり返す。これが真空、無の空間だというが、このエネルギーが凄いのだ。

  私がいるとは、選択されなかった全私の否定のうえにある。有は無の否定なのだ。しかも、その無のなかに選択されなかったすべての状態が内包されている。


  
posted by モノイイ ジョーカー at 22:47| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月19日

仙人新聞 9-19 part3

**哲風呂**

 8-9


   パルメニデスの存在とハイデガーの無の無化についてである。ふと、ロデオをやっているとき、物思いにふける。なにゆえ、世界は無ではなく、有るのか。世界が存在している根拠について考え.をめぐらせる。ついにくそみそいっしょの境地にいたる。あるもないも同じだったのである。


   パルメニデスの存在とはなにか。存在について研究したひとにハイデガーとサルトルがいる。サルトルは意識というのは無の分泌だという。フェロモン分泌のように無を分泌。すると、私は私を意識できる。私のなかに無を分泌させて意識している私と意識されている私に分裂。これに対して、ハイデガーは世界まるごとが動く。おのれの存在そのものの向こうにある無。無を無にしちゃえば有になる。これが人間存在だ。

  古代ギリシャのパルメニデス。ヘラクレイトスの思想はこれとは対極だ。ヘラクレイトスは万物流転である。ものがうごくっていうのは、そこにあると同時にないということ。永遠、不動のものはないという。ところが、パルメニデスはあるものはある、ないものはないという。あるものは永遠の昔からあり続け、今後も永遠に有り続ける。ないものははじめからない。世の中、変化したり、動いて見えるのは仮象、錯覚だというのだ。


   次の話は同じくハイデガーの無の無化についてである。無を無くしちゃうというのはどういうことか。かって、バカボンパパは反対の反対は賛成だといった。ヘーゲルもまた、否定の否定は肯定だともいった。同じように、無を無にしちゃうから有である。これが人間の存在、有なのだ。


  まとめ


  存在の科学



   異次元理論



   そもそもなぜ世界は存在し、無ではないのか、とライプニッツは考えた。これを論理的に考えてみたい。このわれわれの住む物理宇宙は数学、論理学の一部のみを採用した世界だといった。その他の数学、論理を採用した別の並行世界もあるはずだ。デグマークのいう宇宙数学理論だ。数学的、論理的に可能な限りのすべての世界が現実化されているのだ。だから、こんな世界は無いという事は無い。すべてのケースがある、存在するのだから。存在っていう言葉が無効化され、同時に反意語である無も無効となる。ある=ない、というすべてが実在しているという世界なのである。


  8-12

 超存在と記述理論についてである。芸術は爆発だ、っとこたつのなかで叫んだら、家族に蹴られる。温度調節のハンドルは自分がにぎっているにもかかわらず、なんてことをするのだろう、と太郎は思った。強烈な爆発によって宇宙が誕生し、ブラックホールがうまれ、生命がうまれる。生命の意識、魂の誕生とは自然界のパラメータの異常値による爆発ではないか、というお話だ。


  マイノングの超存在についてである。ハエ男は空を飛ぶ。この文章は真でも偽でもない。なぜなら、ハエ男は実在しないから検証できないからだ、真偽不定のものを無意味、真偽がちゃんとあるものを有意味という。ところが、マイノングは存在していないが、あるとかないとかを越えて、超存在しているという。丸い四角だって存在していないが、存立しているという。


  次の話はラッセルの記述理論についてである。もともと、ラッセルはマイノングの思想に共鳴していた。ところが、たとえば、ハエ男が空を飛ぶ、という文を無意味にしない方法をみつける。xはその名前をハエ男、かつ、xは空を飛ぶ、といえばよい。なんではいるxを変項。xになにかが入れば真、入らないと偽だという。x以下の云々している文を確定記述句という。


 
 まとめ

 
  存在の科学


  異次元理論



  ブラックホールは自然界のパラメータ、変数が異常な値、無限値をとり、破綻して特異点になったものだという。たとえば、ブラックホールに吸い込まれると、加速して速度が無限になる。よって、時間tは0になって時がとまる。生命の意識、魂もまた、自然界のある種のパラメータが無限値になって破綻し、特異点になったものなのだ。記述理論でいえば、確定記述句が無限量になり、xに入りきれず壊れる。そして、かってクリプキがいったような固有名詞になる。固有名詞はあらゆる並行世界、可能世界で記述句はかわってもなんら変化しないものだ。そして、パラメータの異常値による時間tが停止。これが時間の変化、流れを貫く人格、魂の同一性になる。固有名詞がペルソナだったのだ。


  

    キルケゴールの個性的真理とフランクフルト学派の個の分裂についてである。世界最小のなんたらという商品をみたことがある。世界最小のジャンボギョウザなどだ。世界最小単位というものがあるらしい。これはこの世界がマトリクスであることをさりげなく示す。そして、なによりも、個人が最小のもっとも尊いものだということも現している。


  キルケゴールの個性的真理についてである。ヘーゲルは真理っていうのは普遍的だと考えた。個人の意識=世界の精神。すべてにあてはまっちゃう真理が普遍的真理。ところが、キルケゴールはそんなヘーゲル哲学を嫌悪。普遍的なものは神様であって、ひとりの人間はちっぽけで有限だとする。これができるけど、あれはできない。なんでもできるわけじゃないから個性であり、らしさである。神様のもとで個人が自分らしくあること、個性的真理こそが真実だと考えたのだ。


  次の話はフランクフルト学派の個の分裂についてである。中世哲学は神様がメインだった。近代になると、人間の理性って凄いということで、啓蒙思想になる。現代では実存哲学が登場。科学の法則とかにさきだって、まずは自分の存在だ。こうやって個人が切り詰められ、今後、そんな個人すらもっと細かくなってアトム化しちゃうという。別に、ブルマっぽいものをはいて飛び回るのではない。さっきの自分と今の自分すらちがうような、そんな個のアトム化である。

 
 
 
 まとめ



  存在の科学


   異次元理論


 
   宇宙は連続性ではないという。0から1になるまで、無限の細かい少数があるはずだが、それだと1にならない。最小単位があり、連続でなく、非連続、アナログではなくデジタルだったのである。これが離散性である。これによって空間にものがあって時が流れる。時間の最小単位もプランクスケールの大きさ、空間もまたプランクスケールのサイズのひもでできている。これ以上小さなものはない。これはこの世界がシュミレーション世界であることを物語る。pcにシュミレーション世界を作ろうとするとき、連続量だと無限の容量になってしまうので離散的に最小単位を作るのだ。生命もまた最小単位があるはずだ。これが意識、魂なのだ。人間でいえば、個人の魂は分割不可能な生命界の離散性を現している。





  8-15


  西田哲学と田辺哲学についてである。これ以上細かくできない最小単位、これが魂なのかもしれない。そんな全体のなかに個人を消し去って流れに埋没させてしまう。流れるプールのなかでも、自分はいる。まちがって流しそうめんの竹筒をウォータースライダーだとおもって滑って、あやうく初老の男性にたべられちまう危機2,3発はだれでもあるともう。個人の尊さについてである。



   西田哲学についてである。ミサイルパンチが飛んできて、これを見て、直感し、そして、すかさず、よける、つまり、行為するのだ。直感と行為のあいだには私っていう塊があるはずだ。ところが西田幾多郎はそんなかたまりとしての自分はいないといった。そもそも、私はいない、いつも去っているという。何も無い場所、無の場所が自分を限定して私になっているという。


   田辺哲学についてである。田辺元は西田哲学を踏襲する。ところが、西田哲学の、おれはいないんだ説はびびびっという超能力のような知的直感によるものとする。そうではなく、そもそも、個人がいて、人類などの類がある。個人が種を通じて類になり、愛に目覚めるという。この種というのが国家、民族だというのだ。



   まとめ



  存在の科学




   異次元理論



   自然界の最小単位がプランクスケールのひもであったり、時間にも最小単位があるといった・そして、生命の最小単位が魂だともいった。以前、話たが、目は映写機である。最小単位である個人の肉体の内側が映写機を通して、外界のスクリーンに映し出される。これが対象物である岩石であり、その背景だ。このゲシュタルト的な対象と背景。からだのなかなのだ。細胞は愛に満ちている。もちろん、ひももである。自分を生かすために代謝するのだ。これは全体として機能しているので連続性であり、波動である。そして、個としての自分を成立させている。思考、観察は粒子性であり、対象物であり、デジタルな離散性である。思考の思うという字の田んぼの田。この十字は仕切りで分断を表すと以前はなした。他方、愛は波動であり、背景であり、アナログな連続性である。だから、からだの中の全ては愛により連続性であり、自分のためにつくしているのだ。

  さて、そんな個人を波動にして、人類という個を生み出す契機にしていいのだろうか。ヘーゲルの絶対精神もしかりである。個を成立プロセスは現状の異常でも以下でもないのだ。個の誕生、個こそが愛の賜物である。


  


  8-16

   

   直感主義と論理主義、そして、存在の階層性についてである。この世にこれ以上小さなものがないものがある。最小単位だ。たいやきならば、なかにあんこがつまってるところが、最小単位にはつまっていない。そこにあるのは別次元のものだ。最小単位の魂のなか、そこには異次元世界がひろがり、いわば、たましいやひもはスターゲイトだ、というお話を展開してみたい。


    ブラウワーの直感主義とその他の論理主義についてである。数学っていうのは、まずはりんごが一個、二個っていう自然数からスタートすべきだという。自然数直感という。直感的にわかるような数からである。ところが、これに反し、論理主義は無限とか、無理数、虚数っていうのを論理的に扱ってしまおうという発想である。

   次の話はハルトマンの存在の階層性についてである。自分にとってあの茶碗のガラはきれいにみえる。これは自分にとっての現象である。そうではなくて、自分が居合わせなくても、茶碗それ自体があるはずだ。これを自体存在という。この自体存在の世界の法則、カテゴリーがあるという。実在界と理念界にわかれる。実在界は時間と空間の特定のところになにかがある。りんご、みかんがそれだ。ところが、理念世界のものは、いつどこにあるわけでもない。数の2はいつの時代、どこにいたのか、っていうのは変である。これが理念存在である。さて、これらは存在の横の関係。存在の世界は縦にも関係性がある。これが存在の階層性だ。最も下にあるのが石ころのような無機的存在。その上にばい菌などの有機的存在。さらにうえが心の世界。そして最上位にあるのが精神だという。


  まとめ



  存在の科学



  異次元理論




   自然界の最小単位。もっとも小さなものはプランクスケールという長さであり、空間的にはひもだ。ひものなかにはもはや三次元のなにかがつまっていない。三次元的には虚空だが、高次元の5,6,7,8,9次元が詰っているのだ。さて、生命の最小単位は魂だといった。もちろん、三次元的にはなにもつまっていない。非実体的なものだ。レントゲン写真にも写らない。そう、この魂のなかもまた高次元がつまっている。最小単位だから、魂は単位のある数、自然数をまずは認識する。そして、対象物をひとつに定めて認識する。このとき、対象物のないをみるのか。それは私の魂が最小単位のように、最小の単位だ。だからこまかくするのではなく、そのまなざしている対象物の高次元的なものを汲み取るのだ。これはその一なる対象物の価値なのである。


  また、この存在の世界は最上位に精神があるとハルトマンはいうが、この精神が中身の三次元的な虚空と高次元的な実質をもつものだ。同じく、これ以下のあらゆるものもまた、三次元的にはからっぽとみなせれば、すなわち、対象物として捕捉すれば、高次元へのスターゲイトになりうる。


  

 8-17


  心の機能主義、そして、マルセルの存在と所有についてである。歯が痛いとき、神経をとっちまえば痛みがひく、と仙人は答える。神経とはなんだろうか。もちろん、脳が一番でかい神経である。神経には電気がビビビっと走る。本当に電気だけなのだろうか。光速を越えるなにかが伝わってそれが意識活動になっているのではないか、というお話をしたい。



  心の機能主義についてである。心っていうのはなんだろうか。まず、からだはPCでいうところのはーディスク。そして、心はDVDを挿入してインストール、実行するようなソフトウェアだというのが心の機能主義である。


   次の話はマルセルの存在と所有についてである。身体とはなにかと問う。もちろん、ちくびがあって、へそがある。そうではなく、身体があるからなにかを所有できる。くるま、家、大根を所有できる。所有とは自由処分権をもつ。捨てることも、譲渡もできる。また、改造すらできる。さて、自分は存在している。存在は自由にはならない。意のままにならないことを不随意性という。ところが所有物は随意性だ。身体は自分が絶対に所有しているのでもみあげもただじゃあげなくない。身体は絶対的所有にもかかわらず、自由にならない。だから不随意性だ。存在と所有との中途半端な中間、これが身体だという。



  まとめ



  存在の科学



   異次元理論



   人間のからだには神経が走る。神経には電気パルスが流れ、これは光であり、光速である。これによって、身体は条件反射をしたり、動いたりする。思い、感じではないのだ。最近の研究で、量子テレポーテーションの実験に成功、というものがあった。量子はふたつにわかれても、空間を越えて、光速を越えた情報伝達で互いに片割れに情報を伝える。二重スリット実験における量子も、光速を越えた情報伝達だ。


  さて、神経には身体の反射を電気パルス、光で担当する。そして、もうひとつ。意識活動は神経内の量子テレポーテーション、ないしは量子のエンタングルメントでなされているのではないか。というのも、相対論では光速を越えるものは時間を逆行する。未来から現在だ。意識とはそもそも、ちょっとさきの未来にあって、現在のからだをうごかしているのだ。目的意識もそうである。生命の意識は無秩序を秩序化し、エントロピーを下げる。事物はただ、秩序から無秩序へとエントロピーを増大させる。時間を逆行させる光速を越えた量子テレポーテーションが神経内で行われているからそれができるのである。


  マルセルの存在はここでいう神経内の量子のエンタングルメント。そして、所有や身体的反応が光速である電気パルスだ。存在の不随意性は未来から現在への時間逆行性によるものである。



  8-18



  作用影響史、そして、パトナムの私と世界についてである。世界はシュミレーションであり、からだをのけぞらせていいたいが、マトリクスの世界だといった。それではこの仮想世界を作っているシュミレーターは誰なのか。はるかかなたに思いをはせて、異星人によるものか。そうではなく、広大な空間の向こうではなく、広大な時間のはうかなたの未来人。ほかならぬ、我々自身が作り上げたのではないか、というお話である。


   ガダマーの作用影響史についてである。過去のテクストと向き合う。いわゆ歴史である。どんなに沈着冷静になっても、客観的に過去の歴史を見れない。なぜなら、どっぷりと伝統にしたっているからだという。おもいっきり現代という時代の影響を受けているのだ。日本語をしゃべり、衣服を着ている、ものの考え方も伝統に則っている。そんな影響を過去から受けつつ、過去のテクストを解釈しちゃう。これが作用である。現代において、じゃがいもをみつめることができるが、このじゃがいものまわりにはみえそうでみえないぎりぎり地平がある。現在の地平だ。また、過去にも地平がある。この二つの地平がくっつく。これが地平融合である。


   次の話はパトナム、私と世界についてである。ここから私で、ここからむこうが世界だという。私の内部と世界の外部、こうやってはっきりとわける。じつに主観と客観、私と世界はこんな線引きはできないという。私と世界がいっしょに協同で私と世界を作っているというのだ。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論




   この宇宙がシュミレーション、仮想宇宙ならば、その作り手であるシュミレーターは一体誰なのか。超未来にシュミレーション宇宙の生成に成功。これはかれら未来人にとっての過去の生成なのだ。不完全なシュミレーションは未来を予測する。完璧なシュミレーション宇宙は未来予想ではなく、過去の生成なのだ。宇宙のロングスパンな時間のなかで、超未来から現代、過去へ向けて大いなる意識の逆行がある。これが宇宙生成なのだ。そんな未来人もまた、過去、現代のものたちによって生成される。こうやって、時間の矢は特別に一方通行なのではなく、相互作用をしているのだ。パトナムのように、私と世界がいっしょになって私と世界をつくる、というように、過去、現代と未来が協同して、過去現代と未来を作るのである。大いなる未来から意識の流れがヘーゲルの絶対精神だとすれば、その個別な現れが個々の生命の個別意識であり、個別意識の時間逆行性となって現れているのである。


 

   原エクリチュール論とキアスムについてである。ほんとうにこの宇宙、世界がシュミレーション、マトリクスのようにおもわずのけぞってしまうような仮想世界なのか。焼き魚が見事にのけぞっていたとき、仮想世界を実感したことはある。それでは仮想世界であることを論理的に考えてみよう、というのが今回のテーマなのだ。


  哲学者デリダの原エクリチュール論についてである。世の中にはいろんな二項対立がある。男女、内部と外部、精神と物体。心とからだ。そして、音声言語と文字言語に着目だ。音声っていうのは生の声。本人がそこにいる。しかも、なにか特別なものを必要としない。これに対して、文字言語は作者が不在だったり、物質としての紙が必要だったりする。ここから、第一項は第二項よりも偉いし、すばらしいという思想が音声中心主義だという。第一項に特権あたえちゃう。ところが、デリダは第一項と第二項の対立以前におおもとに第二項があるんだという。これが原エクリチュールだ。自分のなかの他者、音声のなかの文字。超越論的とはなにかをしている自分をちゃんときっちりつかみとっているもの。シニフィエというのは記号の意味。ちなみにシニフィアンは記号表現といって、形とか音の違い。超越論的シニフィエ、しっかりつかみとっている意味というのが二項対立の第一項。このはるかかなたに、超越論的シニフィエを成立させている原エクリチュールがあるというのだ。


  次の話はメルロポンティのキアスムについてである。すべては同じ肉でできているという。私も目の前もすいかも同じ肉で、つながっているという。ただ、そこには溝があるだけだという。だから、私とすいかは入れ替わる、反転する。この反転がキアスムだ。こうすることで、私はすいかになったつもりで自分を感じる。すいかを把握するとはこんな見るものと見られているものとのキアスムがあるという。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


     すべての二項対立の根底には原エクリチュールのような第二項がある。善悪、真偽、これらも二項対立ではないか。ということは第一項の根底には原エクリチュールのように、原悪がある。真偽においても、第一項、第二項のかなたにはじめに、偽、虚構、仮想というものがある。だから、我々の世界はまずは仮想世界なのだ。そして、悪意をもったものがしかも女性原理で、植物的ななにかなのだが、この仮想世界、虚構世界をつくったというようになってしまうのである。



  
     8-30


   ラッセルパラドクスと無の場所についてである。あるところに住んで、等身大のものたちとフォークダンスをして、ミクロな粒があつまって自分ができている。住んでいる場所、自分、存在させているミクロななにか。これらは私自身の三つの相、人間とは三面怪獣タダなのではないか、というお話をしたい。


   ラッセルパラドクスについてである。集合論についての研究だが、集合といったら、遠足の集合場所がやまちゃんの家の縁の下、縁の下にはあばらがうきでている力持ちがいたりするのだが、とにかく、集合というのは集団。そこにはメンバーというものがいる。この世に存在するすべての集合、グループを全部まとめちゃう集合をつくる。Aチーム自身はAチームには属さないっていう集合を全部あつめる。自分が自分に所属しない、自己集合以外の全部を集める。これをラッセル集合rと名づける。集合rはすべての集合がはいっているから、集合r自身も含まないといけない。含んじゃうと、自己集合禁止令に反する。ここにパラドクスがあるのだ。


   次の話は西田幾多郎の無の場所についてである。最初のころは述語的場所を提唱していた。やまちゃんは走る。走るっていう述語の場所にやまちゃんがいる。主語は個別的なやまちゃんなど。主語とは走る、食べるっていう普遍的ななにか。この二つが巨大な塗り壁で仕切られている。弁当の仕切りがはずれて混ぜゴハンになるように、まぜてしまえ、という後期思想。主語も述語もなにもない無の場所にある。ヘアースタイルを整えることは、自己改造であり、自分を制限し、規定すること。同じく無もまた自分自身を規定。これによって、有、存在者が出現するというのだ。


  まとめ


  存在の科学

 
  異次元理論



    宇宙は自分であり、自分とは三つの相をもつ。まずは私が住んでいるこの宇宙。銀河系があり、これらが集まって泡のようになり、これが銀河大規模構造。こうやってみると、まるでこの全宇宙は脳細胞にそっくりなのだ。この宇宙全体が脳なのである。そして、光が到達しえない事象地平のむこうに延髄があり、mその先にからだがある。このからだはだれのものか。脳も含めたこのからだは他ならぬ私自身なのだ。私は私自身のからだのなかにいる。隣人であるやまちゃんは私とはちがう遠近法世界にいるので、やまちゃんはやまちゃんのからだのなかにいる。住んでいる場所が私であり、そして、等身大の中の私がいる。そして、そんな私を存在せしめているのが私自身の体を構成しているミクロ、小の私なのだ。そして、私が何かに集中してわれを忘れているときは、この大の私と中の私が重なっているときなのである。

  私が私自身のなかにいるとはまさしくラッセルパラドクスの論理的な怪傑によって証明されるものである。


  


   8-31


  写像理論、そして、意味論、構文論、語用論、についてである。朝礼台の上にたって胸をはって演説したり、机の上にたって歌をうたう。スピーチや歌詞っていうのはリバースして、逆さにしたらたいていはでたらめである。ところが、逆再生しても意味のある言葉になっていたとき、ひとは驚きのあまり鼻毛がはみでる。リバーススピーチと人間の意志についてお話したい。


  ヴィトゲンシュタインの写像理論についてである。世界とか宇宙っていうのは物とか、事物の集まったものではないという。やまちゃんが小石につまづいてヘッドスライディング、みたいな事象、出来事の集まりだという。そして、こんな事象は紙のうえに文章とか、命題にけくことができる。世界を命題に対応させちゃう、というのが写像理論だ。


   次の話は意味論、構文論、語用論についてである。バナナだ、逃げろ、という。バナナっていう単語に実際のバナナが対応し、指示関係、結ばれている。これが意味論だ。また、バナナについて文法にしたがて語られるが、文法上のルールについて論じるのが構文論だ。そして、語用論っていうのは、人間が言葉を使うが、ひとが道具としての言葉をつかうとき、使用者と言語、言語の用い方云々するのが語用論だ。


   まとめ


 

  存在の科学


   異次元理論



   以前、お話したが、空間は対称的だ。力の伝達だって、作用と反作用がある。生命だって全体としてみれば動的平衡関係。時間だけがなぜ、過去から未来へと一方通行で非対称的なのだろうか、と問うた。その結果、時間もまた対称的だといった。


  さて、文とか、スピーチ、歌詞っていうのは時系列的だ。だから、これまた対称的であり、逆再生、リバースをすると、なんにかしらの意味になっているのではないか。たとえば、ツェッペリンの天国への階段。リバースすると、悪魔云々っていう歌詞になっていて、当時、これで裁判沙汰になったらしい。キング牧師の演説も、リバースすると意味ある文になっているという。たいてい、リヴァースしたとき、まったく正反対の意味になるか、同じような意味になる場合のケースがある。これはどうしてか。


  過去から未来への物理的時間、この逆が未来から過去への時間であり、これは意識や意志だといった。だから、リバーススピーチは意志、意識そのもののが現れたものなのだ。また、ここにはほかの逆転、対称性もある。単語と意味、文法、さらには語用論もしかりだ。使用しているものは言語という道具によって話されているのである。 
  



    9-1


   真理整合説と質的変化についてである。タイムトラベラーっていうのは聴いた事がある。どうも侍のかっこうをして、UFOに乗っているひとをみると時空の旅人じゃね、っと疑いがちである。今回は、タイムセールではなく、異次元である。異次元トラベラーがいて、しかも、それが人間だけでなく、小動物、砂粒もいるのだ。そんな異次元からの来訪者の論理的な必要性について考えたい。

 
   真理整合説についてである。目でみて、鼻でにおって観察する。まずは観察っていうのが経験論だ。観察しなくても、あたまのなかで理屈付け。全体としての辻褄が重要というのが合理論だ。この合理論がいわゆる真理整合説になる。論理体系、これを公理系といったりするが、これらの全体が辻褄あうように整合的にいじくるのである。デュエムクワインテーゼというものがある。うずらは飛ばないんだよ、という仮説。そして、これを検証する。飛んだら反証になり、仮説はNGだ。ところが、うずらは飛ばないって言う仮設は宇宙の全ての知識が総動員されているという。飛ぶとは、どれくらいの高さをどれくらい停滞することか、日本語でかかれているから日本語文法の説明。このようにあらゆる前提の一部だけでもいじくれば、検証でも、反証でもどっちにでも転がるというのだ。



   次の話はヘーゲルの質的変化についてである。量的な変化が一定段階に達したらいっきに質的変化しちゃう、というヘーゲル、さらにはマルクスの思想だ。氷っていうのは0度まで量的な変化。これを越えると水っていう液体。さらに気温の量的な上昇、100度に達して気体になる。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   一度、分れた並行世界は二度と干渉しないというのがデコヒーレンスである。ところが、人為的に作ったものなら、工学的誤差がある。宇宙もまた何かによって作られたのなら誤差があるかもしれない。一部はコヒーレンスするのだ。別の並行世界と干渉したとき、デジャブーという経験がおこる。また、別並行宇宙から迷い込んできた人間、動物、植物、物体もある。人間ならば、微妙に昨日とちがう世界にいて気がふれて入院だ。ある男はこの世に存在しない言語を使っていて、やはい病院送り。あるものは、実在しない国のパスポートを所持していた。なぜ、このような別並行世界とのコヒーレンスがおこるのか。


  この世界は位置なる世界として、ひとつの公理系として自己完結しようとするが、かならず、バグが発生する。このとき、別の並行世界とわずかな干渉をさせることで、バグを修正するのである。並行世界をも含めた広大な整合性だ。また、革命、事件などがあるところ、おそらくは、別世界との干渉があったところである。コヒーレンスは稀であるが、これがこの世界では飛躍的な質的変化にうつるのである。



   9-4


   ゲシュタルトクライシス、そして、アトムとモナドについてである。すべてはサイクルしているのではないか。フラフープブームがまた到来するのか。だっこちゃんがおんぶちゃんになって帰ってくるのか。大宇宙の規模でも、また、瞬間の刹那においても同じような循環、サイクルがあり、これが東洋思想の八卦であり、西洋哲学とコラボして考えてみたい。

   ヴァイゼッガーのゲシュタルトクライシスについてである。ゲシュタルトといったら、小麦粉の粉があつまってパンなのではなく、粉っていう部分が全体のパンと直結。つまり、全体的にものをみることだった。ヴァイゼッガーは精神分析医であり、患者を全体的にとらえようよ、という哲学的医学を目指す。内臓がどこにあって、という解剖学ではなく、法則というのはじーっととどまったものであって、生命はいつも生成、変化しているというのだ。心とからだと世界にはたえまない循環、クライシスがあって、これをゲシュタルトクライシスと名づける。


   次の話はアトムとモナドについてである。デモクリトスのアトム、世界は原子、アトムがあつまってできているというもの。アトムより小さなものはない。一方、ライプニッツのモナドは体積のない点である。しかも、この点はただものではない。なんと、このモナドっていう点には世界、宇宙が丸ごと含まれているというのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   宇宙は壮大なサイクルである。東洋思想の八卦。五行論は木、火、土、金、水のサイクル。これをもっと細かくしたものだ。まず、水がある。これはピュアウォーター。水はあまねく隅々までいきわたる。ここから地形、山ができる。山には木がはえ、木が生えると風が生まれる。風で木がこすれて火が発生。火で焼き尽くされると灰、大地になる。このなかに金属、金があり、金がこんどは天、宇宙をうむ。そして、天から水がうまれる。水、山、木、風、火、大地、金、天、という順番だ。


  これを壮大な宇宙で考えると、水は宇宙を満た水素ともいえるが、水は地球の大半、宇宙においては70パーセント以上のダークエネルギー。山はダークマター。目にみえる木は宇宙において可視的な2パーセントの物質。これが風をうみ、火という恒星になり、恒星は寿命を迎えて、ブラックホールになる。大重力のブラックホールが灰、大地である。そして、それが金になるが、金は情報や言語を意味するという。だから、ブラックホールの事象地平面に蓄えられるホログラム情報。これが三次元に投影されて天、宇宙になる。


  さて、金からどうして天がうまれるか。金とは情報、言語、機械文明である。つまり、PCであり、この中に作られる仮想世界、これが天、宇宙だとすればシミュレーション宇宙論を示唆していることになる。世の中、自然、大宇宙もしかり、さらに、なにかを瞬間的に感じるクオリア、刹那刹那もまたサイクル、循環になっていて、循環になるところ、前述の八卦の構造なのではないのか。ゲシュタルトクライシスしかり、ライプニッツのモナドの宇宙含蓄というサイクルも同じなのではないだろうか。



  9-5


  超弁証法と無の場所についてである。ふと夜中に目覚め、ここはどこ、私はだれ、っていうことがある。いわゆる寝ぼけているのだ。およそ、3秒もすれば正気に戻る。このとき、私はどこにいるかわかるのだ。モナコでもなく、こたつのなかでもない。なんと宇宙の中心に居る事が気づく。ここから、私とはなにかという問いの答えもだんだん見えてくるのである。


  哲学者メルロポンティの超弁証法についてである。弁証法といったらヘーゲル弁証法である。矛盾しあうものがであったら対立しちゃって、ついには融合してひとつになってしまいレベルアップだ。これが進歩、進化の原動力だという。ところが、メルロポンティはこれを死せる、発酵やめちゃった弁証法だと断罪する。コインの表裏は対立、矛盾関係だ。これが融合して、なんだかわけわからないものになるだろうか。表は裏に裏が表になろとしてなんと回転運動するという。これが超弁証法である。



      次の話は西田幾多郎の無の場所についてである。私は私だといえない。私だ、といった次の瞬間、もはやその私ではない。絶対的に矛盾してくせに、私は私であるという同一性。これが絶対矛盾的自己同一性である。まず、無があり、私は無の中心だ。無というのはどこも中心だ。無の中心から無自身を改造、自己規定しちゃうと有になるという。


   まとめ

 
   存在の科学


    異次元理論


   ふと目覚めると、一瞬、自分がどこにいるかわからない。このとき、どこどこの場所ではなく、宇宙、世界の中心にいることがわかる。数学、論理、つまりは、非実態的な無の世界の中心だ。ロゴスの中心である。同時に、物体、物理的な宇宙、肉の中心にもいる。これは存在の中心だ。そして、このロゴス、無の中心と肉、存在の中心がなんとずれていることがわかるのだ。力学では、図形とか、幾何学的なものの中心が図心といい、物理的な中心を重心という。この図心と重心のずれを偏心という。これがあると、偏心モーメントという回転する力が働く。無の中心と有の中心のずれが回転運動をおこしたものがほかならぬ、自分の意識活動だったのである。


   
   
9-7



  構造主義と生活世界についてである。広大な宇宙に思いはせる。望遠鏡をのぞくと宇宙がみえる。ミクロの世界も老眼鏡をかけてしかめっつらでみえる世界もあるが、もっと小さな世界もあるはずだ。全宇宙を見渡すために遠くをみないでもよい。なぜなら、周囲にあるふつうの出来事が広大な宇宙の働きとまったくもっていっしょだからである。


   構造主義についてである。構造主義はアンチ実存主義である。ふつうに考えるとDNAとか自然の法則が最初にあって、そこから自分っていう存在が出現だ。ところが、本質から存在ではないと実存主義はいう。なんと、なんだかわからない存在、実存が最初で自分が人間か、男か女かという本質を決定するのだという。これがサルトル実存主義だ。これとは反対なのが構造主義。レヴィストロースは世界中を歩きまわり、世界中の時代、場所を越えた神話がおなじ構造である事に気がつく。しかも、数学の法則と神話もおなじ構造だという。すべてのものはなにげに基本構造がいっしょなのだ。


   次の話はヴィトゲンシュタインの生活世界についてである。われわれはふつうに自然言語をしゃべっている。だれかが文法をつくったのではなく、生活の流れから自然にうまれたのだ。最初に生活があるというのだ。しかも、生活はなにか、生きるとはなにか、というと、もはやそれ以上は根拠がないという。それはそこにある、という言い方をする。


   まとめ


  存在の科学



   異次元理論



 
   前回、この日常世界は究極の非日常世界そのものだといった。買い物中の日常が、じつはブラックホールに吸い込まれ中という非日常非常事態なのだ。ブラックホールに吸い込まれると、だんだん速度が増してついには光速に達した時、時間は止まってしまう。これが事象地平面である。この先は光速を越えるタキオンの世界。時間はだんだん遅くなるのだが、相対的に周囲の物理時間は早く感じられるようになる。としをとると時間が早く感じるのはこのためかもしれない。また、宇宙全体がブラックホールに吸い込まれ中であり、宇宙の終焉は時間がとまる。そして、事象地平面に情報が刻印されて、内側からタキオンが照射されて三次元にホログラムが映し出され、またそのホログラム宇宙は吸い込まれる。これを永遠に繰り返す。この壮大な宇宙の物語はじつは身近にあったのだ。ブラックホールは強力な重力だが、地球にも重力がある。ピンポン球を落とすと、地球に吸い込まれ、地面にあたって跳ね返る。空気抵抗がなければ永遠に跳ね上がる現象が続く。これこそひとや宇宙の輪廻的な繰り返しとおなじなのだ。

  また、宇宙大規模構造というものがある。銀河が集まって泡の膜を形成していたのだ。これは浴槽のお湯に熱いから水を出しているのとおなじ。水面に水が落ちて泡ができては消滅する。これが泡宇宙とおなじだ。さらに、バケツの水を別のバケツに移す作業、これまた宇宙を表す。水は宇宙の大半を占めているダークエネルギー。このエネルギーが増えて膨張する宇宙。バケツに水を入れるように、なにものかが宇宙という器にダークエネルギーを注いでいる。ふつうの日常がどんなに大きくなってもおなじ構造で存在するのである。


  

  9-16


   様相論理の到達関係性と普遍的無意識についてである。遅刻しそうになったときワープと叫ぶ。足が棒になるくらい疲れたとき、たまには空中浮遊でもしたくなる。ところがそれが許されない。物理的制約があるからだ。この物理的制約はだれが設定しているのか。ほかならぬ自分の無意識が物理的法則の樹立者であるというお話をする。


  様相論理の到達関係性についてである。二値論理とは真偽どっちかの値をもつ。ところが様相論理は絶対にそうなるという必然、その通りという現実性、さらにはひょっとしたらそうかもよ、という可能性というような値ももつ。だから、多値論理ともいう。さて、様相論理では可能的に必然とか、必然的に可能、というように値が重複する。これは可能世界を暗示しているのだ。ひょっとしたら大統領だったかも、という可能世界があるとしよう。可能世界はいくつかの性質をもつ。まず、論理的に矛盾しない、無矛盾だということ。これを整合性という。どんな場合でも論理が適用、これが完全性。可能世界どうしは交わらないという独立性。そして、論理的可能ならばそれは実在しちゃう、という飽和性。

  さて、このうち独立性が破られそうになることがある。異なった可能世界どうしは論理的に整合性があるとはかぎらないが、w2という世界が成り立つ事が全部、w1で成り立つ時、これを類似性というが、到達関係性にあるという。w1はw2に到達できるかもしれない、そんな関係性だ。


  次の話はユングの普遍的無意識についてである。世界中の神話を調べると、なんと共通するパターンにあるという。これは無意識のうちにすべてのものたちは世界を共有していることのあかしかもしれない。意識は社会っていう共通なもの、公共性をもつ。同じく、無意識もまた普遍的無意識のなかにいるのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



  前回、外界の出来事は自分の内面が直接現れたものだといった。人間の内面は意識と無意識の二層になっている。だから、意識と無意識があわさった形で外界の事象になっている。すべてが意のままにならないのは無意識によるものだ。だから、外界の世界でまず自由に意のままにならないのが物理的制約だ。だから、物理法則は無意識による制約だったのである。スピリチュアルとマテリアルはここでつながっているのである。


  ところが、すべては今ここにある。あそことか、遠くなんていう空間的な隔たりもない。また、今しかないのであって、過去も未来もない。過去も未来も今ここにある。無数の世界への扉があり、その鍵をもっている。無数の周波数のどれかにチューニングをあわせることができる。それなのに、過去に戻れず、未来にいけない。もしくは、過去、未来、ひょっとしたらの並行世界の扉は開かない。無意識が望まないからである。だから、過去、現在、未来という時間、原因と結果の因果律は無意識の産物なのだ。様相論理の到達関係性においては可能世界へと到達可能であったが、これは類似性であり、いわゆる思考だった。つまり、世界の独立性は半分やぶるのが到達関係性である思考なのだ。考えたり、記憶を思い出したり、未来への願望、そして、現実化していないもののイメージ、これらが到達関係の可能世界へのかかわりであり、類似性であり、無意識が作り出した物理的制約を緩和するものなのだ。




posted by モノイイ ジョーカー at 21:15| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 9-19 part 2

**哲風呂**

 6-29



   記述理論と唯名論についてである。ぺらぺらと流暢に青い目の外国人が日本語をしゃべっている。もしや、外国人の着ぐるみを着ているのか。はたまた、スター坊主の映画にでてくるホログラム映像なのか。言語の文法、これは宇宙の構造とまったくもって瓜二つだったというお話をしたい。

  哲学者ラッセルの記述理論についてである。ドラえもんは二頭身である、と声高に主張する。この文は正しいか、間違っているのか。真実か、虚偽なのか。どっちでもないのである。ドラえもんが二頭身かどうかを検証できない。なぜなら実在しないからだ。真偽どっちでもないものを無意味という。


  ラッセルはすべてを真偽のどっちかをもつ、有意味な文にしちゃおうと考える。これが記述理論だ。xっというものがあらわれる。よく数学の関数ででてきちゃうあいつだ。数学だと数字が入る。これを変数というが、変項xにはいろんなものがはいる。xは名前をドラえもんといい、かつ、xは二頭身である。こんなxに何かが入れば真、入らなかったら偽だ。x以下の云々と説明している箇所を確定記述句という。


   次の話はオッカムの唯名論についてである。人間とか、車とかいろんな単語がある。しかも、なんだか普遍的なものだ。ところが、人間っていうことばにあてはまる、人間そのものはいない。ただの言葉、レッテルだというのだ。すべては名前でしかない。唯一この世界にあるの、超具体的な個体だけだという。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   宇宙と文法は同じ構造をしているのではないか。通常、主語と述語があって、主語には固有名がくるが、これが何かを隠している。ラッセルのいう変項xのふたをしているのだ。このxは宇宙でいえばブラックホールである。xは未知であり、文のなかの関係性がその値が決まることで確定する。まるでブラックホールの働きをする。しかも、xとか、yとか、変項や変数っていうのはブラックホール同様、未来から過去にくるタキオンが事象地平のむこうからくるので、意識そのものである。つまり、観測者、計算者、それをみているものの意識の現われ、これが変数、変更なのかもしれない。もちろん、確定記述句はブラックホール以外の可視的な宇宙に漂う物体である。


  


  6-30


  反省と実践についてである。ふと我にかえり、自分自身をみつめる。とりわけ、へそのごまをみる。自分を意識しちゃうというのはループだ。また、アニメにのめりこんで、テレビから三千里離れないで凝視してしまうときがある。こんなときはわれを忘れている。真夜中に耳にはいろうとしたやぶか。電気をつけて夢中でおいかけましているときも、我を忘れる。こんな人間の意識状態はじつは宇宙の動きと同じだったのである。


   反省とはなにか。ふつうに使う時は廊下で反省してなさいとか、過去の自分を振り返ることだ。哲学的にはどっちかというと、今この瞬間の自分を振り返ってみる。いわゆる自己意識。哲学者カントは認識しているとき、どうやって認識してるのかな、と認識の仕方の認識を超越論的反省とよんだ。フィヒテは反省やりすぎると、自分がぶっこわれるとまでいった。ヘーゲルにおいては反省というのはかならずしも人間だけじゃない。有と無が最初にある。有はまったく内容がない。無も同じ。だから、有と無がアウフヘーベン、すなわち、融合。一部かけていている有、定まった有、いわゆる、定有になる。さらに、自分ではないものへいって自分にもどってくる。これが反省だ。りんごはみかん、バナナ、以下略なのだが、これらではないんだよ、と戻ってくる。こうやって論理的なものが物体になり、有機体、生物、人間、社会になでレベルアップし、ついには宇宙の精神、絶対精神にいたる。


   次の話は実践についてである。実践といったらやはりカント。道徳的実践なのだが、これは自由意志が大前提だという。ひとにいわれてとか、後ろからおされて道徳的実践ができない。原因のない自由意志によって実践するという。サルトルは実践的惰性態を主張。人間はそもそも、自分が人間であること、性別、あらゆるものを自分の徹底的な自由意志で選択。これが実存だ。それなのに、なんと、集団になると、石ころが惰性で転がるように、集団的には惰性的にふるまうようになる。


 

   まとめ


  存在の科学


   異次元理論




 人間の意識は自分自身を意識する。いわゆる反省なのだが、これはループ、円である。アインシュタインローゼンブリッジのいう時空の穴はあまり大きいと、過去と未来の情報がつながってハウリングをおこして宇宙は崩壊だという。自己意識、反省のループは完璧ではない。また、我を忘れてなにかを実践しているときは、直線的だ。閉じた円、楕円と両端が閉じない双曲線、この中間が放物線である。同じように、円と直線をあわせると螺旋になる。円が閉じようとするが直進性のために閉じない。


 人間の意識における直線的実践と、反省的円は宇宙そのものの動きの現れ、または、この意識状態によって宇宙をうまく運行しているかもしれない。地球は自転し、太陽を風疹に公転。太陽系もまた銀河中心のブラックホールのまわりをまわる。結果的には地球や土星も、すべては螺旋上に宇宙を移動しているのだ。宇宙の万物の動きは意識となって会われているのであらう。



  

  7-1

  ヤスパースの現存在と存在のアナロギアについてである。鍵を開けるとドアが開く。もちろん、ルパンならば一本の毛でこちょこちょっと開ける。いきなりだが、人間の肉体は鍵なのではないか。すべての時空点、それがケツの割れ目の間も例外ではないが、そこには異次元の扉があって、肉体、とりわけ、自分のDNAがそれと重なると扉が開くのである。


   ヤスパースの現存在についてである。ハイデガーは物は存在しているという。人参、ピーマンは存在だ。ところが、人間はちがう。存在してるなって感じちゃう存在、存在に関わる存在ということで、現存在と名づける。ところが、ヤスパースはちがった。なんと、人参やピーマンも自分の存在にかかわっている現存在と考えるのだ。世界のなかでどんなスタイルで存在しちゃうか、というのが世界定位という。ふつうの日常において、日常的世界定位というが、このとき、人間はスーパーにおいて野菜と同レベルのスタイルで存在している。


  次の話は存在のアナロギアについてである。三角形っていうと、二等辺三角形、正三角形も似ている。ところが、四角形ではない。これが類似、類比といい、存在者のアナロギアだ。これに対して、存在そのものっていうのは万物すべてにあてはまる。これが存在のアナロギアであり、存在はすべてに偏在だ。さらに、神様という創造者、創造された被造物。ここにも存在のアナロギアが成り立つという。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論



   人体、生命の肉体は鍵ではないのか。からだを移動させても、たしかに自分自身であるし、意識もあるし、記憶もある。記憶や自分の心は脳のなかにあるのか。そうではなく、肉体は鍵であって、時空のすべての点にある扉をあけているのではないか。宇宙は最小単位の大きさであるプランクスケールのひもでできている。このひもには高次元、5,6,7,8,9次元が巻き上げられているという。電線が遠くから見ると、一次元だが、近づくと、二次元、三次元であるとわかるように、ひもも小さすぎるから巻き上げられた高次元が見えないという。高次元から低次元、未来から過去への流れは意識である。高次元にすべてのものたちの意識、心がある。だから、時空点のすべてにひもがあり、高次元とつながっていて、その個体の固有のコード、鍵である肉体、DNAが余剰次元への扉を開き、そこから自分の意識を覚醒させるのだ。すべてが意識ある現存在であり、存在のアナロギアではなく、意識のアナロギアである。


  7-2


 作用影響史とカルテジアン劇場についてである。やっぱり人体っていうのは異次元の扉をあける鍵なのだろうか。しかも、人体とかDNAとかミトコンドリという小さな世界だけでなく、この広大な宇宙もまたまったくもって同じ構造をしていたのだ。ただ、宇宙とDNAはいろんな先入観で違って見えるようになっている。


  ガダマーの作用影響史についてである。ひとは純粋無垢にものをみれない。別段、ひとずれとか、そういうことではない。先入観のかたまりなのだ。しかも、先入観を捨てなさいとアカの他人に説教されても、先入観を捨てると、なにも認識できなくなってしまうのだ。過去の歴史による影響を思いっきり受けて現代にいきている。だから、過去のテクストをみても現代風にとらえているのだ。時代劇だって、ふつうに現代語だったりする。過去と現在の対話、過去からの影響なくしてものをみれない。これが作用影響史というのだ。


  次の話はカルテジアン劇場についてである。デカルト的劇場ともいう。われおもうゆえにわれあり。このとき、自分の心、意識は確実だといっている。からだと心をはっきり分断したデカルト。肉体は五感をもつ。これらの情報をあたまのなかでまとめている、小さな自分がいる。あたまのなかの劇場、そのスクリーンをみて情報処理している小さなおじさん、おばさんだ。自分のなかにおおもとの自分がいるとしたら、またそのなかにもいるな、といおうように無限後退に突入だ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    前回も話たように、肉体は鍵だとしよう。ひものなかに巻き上げられている高次元、余剰次元。ここから意識が流れてくる。高次元から低次元、未来から過去への流れが意識。時空のすべてにひもがあり、このひもの余剰次元とつながるための鍵が肉体であり、DNAではないのか。肉体が移動しても、そこにある高次元への扉を固有の鍵で開く。だから、記憶があり、自分でいられる。このとき、光が発生し、バイオフォトンになり、離れた細胞同士のメッセンジャーとなる。


  さて、目を宇宙に向ける。宇宙は小さなミクロ世界とまったく持って同じ形、同じ構造なのだ。地球は公転し、太陽系もまわる。こうやってすべては螺旋の軌跡だ。これがDNAに相当する。事象地平のむこう、ブラックホールや宇宙の果ての向こうに高次元がある。これが余剰次元。この螺旋運動と事象地平面があいあわさって事象地平の向こうからタキオンがくる。このとき、フォトン、光が生成されるのだ。

  マクロな宇宙とミクロのDNAは見た目もちがいすぎる。ところがフラクタルであり、自分のなかに小さな自分がいるし、そのなかにも同じ自分がいる。どうしてそうみえないかといえば、雪の結晶は同じ形の部分が全体で同じ形になっているが、見かけ上、時間的な流れのなかにうまれた先入観によってゆがんで見えているだけなのだ。   


  


 時間非実在論と因果律批判についてである。時間がない急げ、とアクション映画の主人公のず〜っと後ろにいるエキストラが叫ぶ。時間ないといっても、本当に時間というものがなかったらどうか。すべては今この瞬間に状態を変えて共存しているという発想で攻めてみたい。


   マクタガードの時間非実在論についてである。過去があって、現在、そしいて、未来があるというのが普通の考えだ。これをA系列といって、論理的に矛盾しているという。なぜなら、あるものがかってあかちゃんであり、いまはおじさん、いつしか未来は老人。同一人物が異なっているというのは形式論理的に矛盾する。それならば、順番はどうか。どっちが先でどっちが後なのか。つまり、野球の先攻後攻だ。これをB系列といい、おしくも、ここにも時間的な栄養素が若干はいっているという。ここから時間だけを吸い取って、ただの順序。レジで並んでいてあのおじさんのあとがおれだという順序、これをC系列といい、これはNGではないという。


   次の話は因果律批判についてである。科学というのは実際に目で観察して、これを法則化する。帰納と演繹といったりする。ところが、当たり前のように前提して使っている時間や因果律は顕微鏡でもみれない、観察不可能なのだ。因果律は信じられている、信用でつかっているという思想だ。


   まとめ


  存在の科学


  異次元理論



   この世界にもし時間というものがないとしたらどうなのか。すべては状態の変化だけであり、すべてのものは滅せずに、状態を変えて共存しているのだ。かって、恐竜たちが栄華を極めていたがかれらはまだいまここにもいるではないか。大型重機がエンジンをけたたましく鳴り響かせる。翼竜は飛行機、海の恐竜たちは船などになって現れている。かれらからしても人間は別のなにかに見えているのかもしれない。かって存在していたものたちも、今後うまれるであろうものたちも形を変えて今この瞬間に共存するのだ。コレはエヴェレット多世界論の巻き上げられた次元に、とりわけ、五次元に浮かぶ、別並行宇宙のようなもの。別並行宇宙は小さなヒモに巻き上げられここかしこにあるのだ。



    不可知論、そして、共感覚と世界の表情機能についてである。大きな宇宙とミクロな世界はあまりにも違いすぎる。ミジンコが大魔神と格闘の末、寄りきりでかったなんていうスケール感のない話はごめんだ。ところが、この世界における大小スケール、そして、具体的な形や個性。これらはひとつの構造、出来事がゆがんで現れているものかもしれないのだ。


   哲学者カントの不可知論についてである。その昔、経験主義と合理主義があった。経験主義は五感で感じたものから認識はなると考える。生まれながらにしっているんだ、というしったかはない。これに対して、人間の五感なしに推論するすばらしい理性能力は無限なんだよ、という合理主義がある。実際に目でみなくても、筋が通っていれば宇宙や神様を云々と説明できるという。人間の理性はすばらしいという啓蒙思想だ。

  さて、カントはこの二つの潮流をひとつにしようとする。理性はダメという全面否定ではなく、ここはダメでここはOKという批判だ。純粋な理性を批判するのである。そして、われわれが見ているのは感覚をあたまのなかのカテゴリーでまとめ、時間空間っていう枠のなかでいた現象だという。バナナの現象を認識であって、バナナそれ自体、物自体はわからないという。そして、後にバナナそれ自体、物自体は宇宙の果て、理想、理念だという思想と実在的なものだという思想にわかれる。いずれにしても、物自体はわかんない、という不可知論である。

  次の話は共感覚とカッシラー、世界の表情機能についてである。色、形は目でみて、おならの音は耳で聴くとよくいわれている。そうではなく、目で音を聞き、鼻でものをみる。感覚が整然とわかれずに入り混じっている感覚である。まんがなどでは、どどどどーっと擬音が大きく書かれるが目で音を聞く。カこれが共感覚である。カッシラーは世界というものはこのような共感覚によっていろんな表情があるというのだ。顔面にも表情があるように、世界にもそれがあるのだ。


  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


   この四次元時空間には大きさ、量というものがある。長い短いというものもある。以前、お話したが、ミクロな世界ではDNAが螺旋であり、マクロの世界では惑星や恒星の軌道が螺旋だった。じつは同じ構造、事象がちがったようにゆがんでみえているだけ、いわゆるオリジナルデータの誤差なのではないのか。

  小さい世界の極限がプランクスケールのひも。ここには高次元が巻き上げられている。同じくマクロな世界でも、ブラックホールの内部、光速を越えて膨張する光が戻ってこない宇宙の事象地平。この事象地平の向こうにも高次元がある。つまり、極小と極大の向こうは量的な大きさの関係が無い世界、高次元世界がある。大きさの関係のない論理的、情報の世界だ。これが四次元時空に映し出されるとどういうわけかゆがみ、同一事象がミクロとマクロではちがってみえる。四次元時空は具体的なもの、個別的なものを生成し、高次元は純粋に普遍的な世界なのかかもしれない。

  さて、この中間の世界が隠喩、共感覚の世界ではないのか。大小の違いやジャンルを超えて混ざり合う世界なのだが、時空そのものの制約はとらないのだ。この隠喩、共感覚の世界から時空をのぞくと、純粋な普遍的なイデア世界、高次元世界が現る。


  7-6


   ハイデガーの存在了解についてである。ラジャーっといいたいところだが、応答願います、了解ということだ。私は私自身から脱げ出そうとする。すると、分裂しそうになるが、これが時間地平である。こうなると、自分の存在が自分自身なんとなく感じる存在地平の誕生だ。そして、この存在地平の上にいろんな存在者が転がっているのだ。存在しているだけでなく、人間は存在とはなにか、と問うことができちゃう。問うっていうのはまったくしらなかったら問えないし、十重よくしっていれば問うことがエネルギーの無駄。だから、なんとなく存在を知っている。これが存在了解である。


  存在の科学


   異次元理論


   私は存在感を感じている。自分が存在しているってことと、世界、宇宙がなんとなく存在しているっていうことだ。鏡をみて、個人としての自分の存在を意識しているのではなく、存在してるなーっていう感覚だ。これは個人としての私ではなく、それならば人類共通の私なのか。さらに生命共通なのか。生命や非生命を超えた万物の私っというのだいるのだ。それがこの存在感の担い手であり、だれもがその万物の私である。それは個人がうまれ、死すことがあっても永遠に続く存在感の担い手であり、個人としての私のおおもとにいる万物の自我である。

  万物はたったひとつの量子からなるという量子ポテンシャル理論。ひとつの量子が無数に見えて、あらわれているだけだという。しかも、場所も時空間上はふつうに無数にあるはずだが、ほんとうはその一なる粒子のここしかない。ここにあるたった一個の量子しかない。これが存在感の担い手であり、万物すら存在感を感じている。これを量子ポテンシャル自我と名づけたい。


  7-7



環境主義的な心と動的平衡についてである。人類皆兄弟ではなく、万物皆ひとつ。枕元に発見した縮れ毛だって、すべて存在感を感じ続けているたったひとつのなにか。これだと、みんないっしょだから個性がない。性格、個性、チャーシューメンよりらーめんが好きという好き嫌いも含めて、これらは一なるおおいなる存在とは正反対の力によって生まれる。


  環境主義的な心についてである。心とはなにか。いろんな思想があるのだが、まずは、心の機能主義。人間っていうのはPCのハードウェアのようなもので心はソフトウェアっていう考えである。心脳同一説というのは心は脳の働きといっしょというもの。また、心の解釈説というものもある。心っていうのは傍からみたら、そのひとの動きとか、リアクションで解釈されるものであって、なんだかかたまりのような実体ではないというもの。そして、環境主義的な心である。心はあたまのなかではなく、なんとはみだしているというのだ。計算するときは脳のなかではなく、ペンと紙のあいだに心があるというのだ。


   次の話は動的平衡についてである。ダイナミックで、活動的に動き回ってみても、大きな視野、マクロな視点だと、じつは反対の動きによって帳消しにされているという。+100がれば、全体として必ずや−100があったりするのだ。動的なものはじーっと静的になろうとして活動しているのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論



    前回、お話したが、すべての人間だけでなく、動植物、物体にいたるまで存在感を感じているといった。おおもとの普遍的自我は人類だけでなく、量子ポテンシャル自我だといった。一なる量子があって、すべてのものはこれの現れだというのだ。自分のおおもとは一なる量子なのだ。これだと、ほんとうの自分っていうのはのっぺらぼう、個性がなくなる。個性、経験的自我はいったいなにか。じつはいろんなものとの出会いがある。ひとだけなく、動物、植物、物体である。これらの周囲環境との関係そのものが個性的な心、経験的自我になっているのだ。自分の個性が最初にあるのでなく、出会いによって互いに作り変えられていくのである。これは先程いった普遍的な自我とは真逆のベクトルである。一なる量子が万物となって現れる。そうではなく、周囲のあらゆるものが一なるものへと集約されるのだ。部分が全体となってあらわれるのでなく、全体が部分、つまり、個別者となって現れるのだ。これは正反対の力で相殺しあうという宇宙の大法則、つまり、動的平衡によるものなのだ。


 
 7-14



  物語文と、規定は否定、 についてである。現実が小説より奇なり、という。すべてはドラマで、物語なのではないか。人生もそうだが、枝豆を食するとき、失敗して落としてしまったその豆のダイナミックな動き、豆があゆんだ壮絶な道のり、これまたストーリーである。宇宙の究極の意味、それが物語なのかもしれない。


  ダントの物語文についてである。やまちゃんはしゃがんで、立ち上がり、でんぎりがえしをする。これらひとつひとつをただ記述するだけなのは状態記述であって、一体どこへ向かい、方向性がわからないのだ。過去の二つのこと、しゃがんでその勢いでジャンプしてでんぐり返し、というように、方向性がわかるような記述、これは物語文といい、科学ですら物語のように語って、はじめて出来事がわかるというのだ。

  次の話は、ヘーゲルの規定は否定についてである。耳は耳じゃないところがあるから耳だ。眉毛だってひたいとか、眉毛を否定するあらゆるところがあるから眉毛。この世のすべてが眉毛だったら眉毛は規定されない。つまり、眉毛はまつげでなく、宇宙戦艦ではない、という無数の否定によって規定されるのだ。


 
   まとめ


 存在の科学


   異次元理論


 
    鼻がむずがゆかったので、手鼻をかむ。手鼻をかまなかった別の並行世界もある。選択しなかった無数の並行世界の圧迫によって、今この世界はあるのだ。規定は世界そのものの否定なのだ。世界に内属する範囲での否定ではない。また、すべては物語である。人生だって、動物、植物、小石もそうだ。川上から流されてきて、角が取れて丸石となったのだ。ひとだって、生まれて死すのだが、最初から居なかったのと同じことなのか。街が作られ、繁栄し、衰退、廃墟になって終わる。そこに何の意味を見出すか。人類が誕生し、滅亡しても果たして、最初から誕生しなかったのと同じなのか。そうではなく、すべては物語であり、その物語の生成が目的であり、究極の意味なのだ。カントは現象界の背後に物自体があるといったが、世界の究極の意味は物語自体なのである。

 

  7-15



感覚理論負荷性と志向性についてである。大きなあたまと小さなお尻、どっちが好きですか、と聞かれる。もちろん、ふつうのおへそが良いと即答する。世の中にはマクロとミクロがある。この二つの違いはあらゆるものを貫き、ここからさまざまなことがわかってくるのだ。


   ハンスンの理論負荷性についてである。感覚っていうのは人類共通、しかも、時代を超えて同じだと考える。だから、科学は五感にたよって、観測、観察は重要だという。江戸時代、クロマニヨン人の時代、ほんとうに同じ目でものをみていたのか。同じ鼻でにおっていたのか。現代では科学的な世界観があるので、あたまのなかには物理的世界観があり、なんと、これが感覚に圧力、負荷をかける。だから、われわれがみるのは物理的な世界だ。神話の世界があたまのなかにあったら、ほかのものがみえるかもしれない。あたまのなかの理論、世界観が感覚を帰る。文化、時代によってあたまのなかの理論がちがうから感覚は絶対ではないという。白い雪としてみる。こととしてみるのであって、雪を知らない異国のものは白く冷たいなにかと感じる。


   次の話はフッサールの志向性についてである。 まずは、感覚的な材料、ヒュレーがある。これが感覚的多様性、細かくて雑多な材料だ。これに意識の志向性、意識作用が加わって、加工される。不必要な感覚情報は無視され整理されて、雪だるまっていう意識対象いなり、これノエマとよぶのだ。アリストテレスでいえば、素材、材料は可能態。粘土はいろんな形になれる可能性があり、これに手を加えて車の形にするのが現実態という。


   まとめ


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   異次元理論



    この世界は大きなもの、小さなものがあり、これに囲まれて中の世界、日常現実を生きている。小、ミクロの世界は量子論が扱う。量子Aさんは1丁目に30パーセントの確率で存在、2丁目に70パーセントの確率で存在。つまり、確率的に存在している可能性の世界なのだ。ところが、大、マクロの世界はちがう。ニュートン力学にみる必然性。相対論も宇宙などのマクロに適している。しかるべき、という必然であり、相対論だと光速は絶対であるべき、だ。

   空間的な大小だけなく、時間的にもあてはまる。うまれてすぐは種子、つまり、可能性に満ちている。そして、中の現実世界で営み、最終的に死すのだが、死の必然性である。


  これを認識にあてはめる。最初に雑多で多様、細かい感覚的多様性。これは可能態だといった。そして、意識作用によって加工され、これが営みになる。最終的には、ノエマっていう意識対象になって、それが野球のボールだと断定される必然性だ。この必然性でおわらず、こんどは視線を変えて、地面をみる。すると、また感覚的な多様性の小。中の意識作用を経て、ホームベースっていう意識対象になって必然性にいたる。つまり、時間軸のなかの大小にあてはめれば、これは輪廻転生である。

 
 この世界は原子でできているとデモクリトス。中の身の回りの等身大世界も原子の集まり。そしてついには、大の宇宙も原子できている。これでおわらない。こんどは小さな世界はひもでできているといい、中、大にいたる。こうやって世界観がちがうように、実際に一なる世界にない属しているのでなく、刻一刻、いろんなタイプの世界を選択し渡り歩く遊牧民、ノマドなのである。



  7-16


  二元論と隠喩についてである。つかれがたまったり、後ろポケットには形容しがたいくしゃくしゃポケットティッシュがたまるときがある。 つかれると、時にデジャブーがおこる。さらには、不思議なことが矢継ぎ早におきたりする。旧友とばったり道端であったり、前にいるくるまのナンバーが暗証番号と同じだったりと、いわゆる、シンクロニティだ。シンクロの構造について解明を試みたい。


   二元論についてである。二元論といったら、デカルトの心身二元論。心は心の世界であって、身体や物体の世界とははっきり分れているという。心身二元論をこっぱみじんこにし、ラッパムシは口笛をふぃちゃうようなことをしたのが、ベルクソンの一元論だ。心における観念でもなく、実在しているものでもないなにか。これをイマージュと名づけ、イマージュのなかをわれわれはせっせと活動しているという。この自分の動き、流れによって、イマージュは観念っぽくなったり、実在っぽくなるという。かの有名なカールポパーは珍しく、心身二元論を擁護する。二元論といったら、デリダのいう二項対立であろう。まったく正反対の二つ。男女、上下、左右、内部と外部、精神と物体、自分と他人。これらの第一項は第二項よりも、特権があり、しかも、優先されているという。ここから、第二項は第一項のなかにあらかじめ最初から潜んでいるもっと根源的なものだという。音声と文字は音声のなかに文字的なものがひそむ。自分のなかに他人がいる。結局のところ、西洋形而上学の伝統、自分がリアルタイムで自分を意識しちゃうという自己現前を批判するのだ。私がいるっといったとき、もはやそれは私の残像、痕跡。痕跡が最初にあって、これを元痕跡と名づける。



   次の話は隠喩についてである。いわゆる比喩であるが、直喩と隠喩がある。直喩は、きみはまるで宝石のようだ、というように、あらかじめ比喩ですよ、ちゃんと名言している。本物の宝石だといったら、人間です、っといわれてしまう。暗喩、隠喩というのはこれを明らかにしない。メタファーという。メタというのは越えてという意味。越えて〜っと腰をかがめた美女が誘惑したら、とりあえず、馬とびしたくなる。ファーはファイレンということで、これは運ぶということ。越えて運ぶとは、まったくちがうジャンルに飛んじゃうということだ。マジンガーゼットがいきなり盆栽教室で洋裁しているのだ。たとえば、丘の前にある車をもってきてくれという。前に、というのは基本的には自分を中心にしての前後だ。だから、私は丘になり、そんな丘になった私の前の車をもってきてくれ、という擬人化なのだ。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



   つかれて夢現のときにデジャブを体験する。また、睡眠不足のとき、機械や家電が連鎖的に壊れたりする。すべてがまるで繋がっているかのような事が起こる。いわゆるシンクロニティである。そもそも、世の中は陰と陽が会い合わさって、新しいものを産出するという生成流転システムだ。対立しあうものがであって、産むのである。男女が子を産む。ところが、真実の世界はボームのいう内蔵秩序だ。部分と全体が対立するのではなく、部分のなかに全体がある。全体=部分なのだ。ここにすべてのもの、ことがらが内蔵されているというのだ。これはホログラム理論である。平板に書かれた縞模様にレーザー光を当てると、キューピーの立体像が浮かぶ。このキューピーは小さなキューピーでできているのだ。つまり、入れ子になっているのである。真実の世界はジャンルを超えて同じ構造、同じ事象。天体の運行と日常生活も同じだが、われわれは二項対立、二元的にはっきりわけることで、この二つが同じであるとはわからないような世界に装飾しているのだ。だから、昼と夜、覚醒と夢、これらが混乱し、一致してしまうとき、デジャブやシンクロが起こるのである。二元論は常にあらたなるものを産み、一元的な真実の世界は何も生まず、永遠の世界である。


  7-17


   因果律と偶然性についてである。たまたま、風で干してあるパンツが飛ばされて野良猫のあたまにかぶさった。なんていう偶然なのだろうか。座ったから尻型にくぼんだクッション、原因と結果の因果律で必然だ。ところが、パンツかぶった猫にみるような偶然はもっと強い意味での高次元因果律だったのである。


   因果律とは何か。古代ギリシャのアリストテレスは者が存在するためには四つの原因が必要だと考えた。まずは、材料がないといけない。椅子の材料は木、これを質料因という。これに形を与えるための形相因。作る為の働きが作用因。そして、なんのために椅子を製造か、という目的因。

  哲学者ヒュームは因果律っていうのは、ただの習慣からできた強い思い込みだという。りきんだからおならがでる。力むが原因、おならは結果。つまり、習慣的に原因と結果を必然的に結んじゃう。

  現代のヒューム版が因果規則性説である。賞味期限の食い物を食べたのが原因で、腹壊した。賞味期限のパン、そのパンがあったからだが、パンをかったのはたまたまみつけたコンビニ。コンビニがそこにあったのも原因。無数の原因と無数の結果がある。だから、規則、ルールをつくると特定の原因と結果がうかんでくる。医学的ルールのうえでは食べたから腹壊したという。


  さて、因果律は原因と結果、時間でいえば過去、現在、未来。科学は観察して仮説を法則にする。ところが、因果律や時間は実際に目で観察できない。じつは神様を信じるような形而上学的なものだったのだ。そこで、因果律を矛盾しないように遠まわしに言い換えればいいのだろうと考える。これを非事実的条件法である。悪いものをたべたからゲリした、は因果律。そうではなく、ある条件のもとで、悪いものを食わなかったら、ゲリしていなかった、といえばよい。ところが、この、ある条件、っていうのがくせものであり、このときの宇宙のあらゆる出来事が条件なので、これを書き記すことなんてそれこそ形而上学的だと批判された発想だ。


  次の話は偶然性についてである。たまたまっていうことだが、ヘーゲルは存在論的偶然性を主張。ものが存在するのに、偶然的、現実的、必然的があるという。また、九鬼周造は同一性は必然だという。えんぴつはえんぴつだ、というのは必然。鉛筆は鉛筆じゃない、というのが偶然。三つの偶然があるという。いまここにある鼻くそ。存在の偶然だ。もうひとつは、ばったり道端でロボットと出会う。因果的偶然。そして、ひょっとしたら今大統領だったかも、という運命を表す形而上学的偶然である。


   まとめ


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   異次元理論



   押したらからへこむという因果律。風で洗濯物がとんで、じいさんのあたまにのっかったという偶然。さいころで1の目がでた偶然。じつはこのたまたま、偶然は高次元の因果律に従っているのだ。通常の因果律は時間的なので四次元時間軸に従う。五次元空間においては六次元は時間的なもの。五次元による因果律なので五次元因果律、亜因果律と名づける。四次元の時間を越えている五次元。だから、通常の四次元の因果律にも意味があるが、五次元は時間を超越下、すなわち、思考、感情という意識を超越した因果律なので、もっと深い人智を超えた意味があるのだ。じいさんの頭の上に落ちた洗濯物、この偶然はふつうの因果律的必然よりも強い、超必然なのである。卵子に精子が受精して本当に、偶然、奇跡的にその人は生まれる。生のこの偶然は超必然なのだ。出会いによって、人生も大きく変わる。たまたま野で会い、人智を超えた必然、五次元因果的必然なのである。


 7-20 

   想像力とイリヤについてである。外をたくみに犬のフンをよけながら歩いているときにふと思う。マンションのなかにはどんなひとたちがいて、地面の下はどうなっているか、あのビルのむこうにはどんな風景が広がっているのか、と。そのほとんどが想像であって、世界を瞬時に一望できない自分の非力さに痛感する。想像っていうのは、脳とか心のなかではなく、むしろ、地面のしたを想像しているときには地面の下にその想像物が浮かんでいるのではないか。現実の空間とはすべてのものたちの想像がkさなりあったものであるということに気がつく。


   哲学者サルトルの想像力についてである。友人のピエールさんが目の前にいる。当然、じろじろと観察できる。それでも全部を観察はできない。パンツの色、足の指毛などだ。ところが、わけあって、ピエールさんはそろばん塾にいってしまう。すると、あの懐かしいピエールさんを想像するしかない。これが準観察といわれるもの。懐かしい哀愁漂う背中も想像できる。ところが、どこからみたわけではない、ピエールさん全体も想像できる。概念知という。これは観察とはちがって全部瞬時に把握だ。だから想像は観察よりもリアルだという。これだと頭が変になってしまうので、非現実化作用という力が働くのだという。


   次の話はレヴィナスのイリヤについてである。イリヤとは第三人称を含んじゃった無人称。一人称の私、二人称は対面し、同じところにいあわせているあなた。三人称や無人称はかれら、それらというここにはいない不在のものたち。カントは私も他者も根っこは同じものだという。メルロポンティは私と他人は入れ替わる。レヴィナスは徹底的に私は私、他者は他者、これを自他の非対称性という。これによって、圧倒的に多い他者たち、イリヤの圧迫感と強迫感があるという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    われわれはほとんどのものを見ていない。柱のなか、壁のなかはみえないが想像する。想像とは、脳や心のなかにあるおもっていたが、じつは、柱のなかにあるのだ。こうやって、たくさんのものたちが柱の中を想像し、想像物が重なり合って、柱のなかの現実空間を作っているのだ。いまここの空間もここにいないものたち、イリヤたちの想像力の重ね合わせが作り上げているのである。だから、自分のいる周辺空間には予想しえない、与件が現れるのである。他者たちの想像の混合体だからだ。想像と現実空間は明確に区別すべきものではなく、その実、同じものだったのである。


   7-21



内在的実在論と水槽の中の脳についてである。私は宇宙そのものだと豪語するものがいる。ほとんどの人々は彼をスルーする。宇宙は自分の脳、心そのものではないか。しかも、そんな宇宙と脳はその昔、なにものかによって作られたスーパーコンピューターシミュレーションだったりする。


  哲学者パトナムの内在的実在論についてである。当初、パトナムは外在的実在論者だった。自分の心、皮一枚隔てた向こうに外界宇宙。私と宇宙をきっぱりと男湯と女湯の国境のごとき板塀で仕切るのである。だから、宇宙の要素を心の要素と対応させる。いわゆる真理対応説である。ところが、ある事に気がつく。宇宙のあらゆる要素は無限だ。心の要素と宇宙の要素はちゃんと一対一のペアになるのか。無限は偶数なのかと。レーベンハイムスコーレムの定理においてはペアにならないという。ここで外在的実在論は音を立てて崩れる。ここで内在的実在論が誕生する。なんと、心が内側で宇宙は外側っていう考えをやめて、心も宇宙も全部内側、しかも、すべて実在するというのだ。心と宇宙は共同して心と宇宙を作るという。


   次の話は同じくパトナムの水槽の中の脳についてである。水槽のなかにはたいてい金魚のフンが泳いでいる。脳が浮いているというのはSF的な仮想実験である。脳には電極がついていて、これがカメラにつながっている。果たして水槽のなかの脳はりんごを認識できるかとである。脳のなかのりんごのイメージと実物のりんごは指示関係といって、目にみえない糸でつながっている。これは不思議なことなので指示の魔術という。そもそも、ここから私でここからむこうが外界宇宙という区別がないので、脳のなかとりんごとの指示関係は否定されるのだ。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



    この宇宙は自分の脳、心と完全に一致しているのではないのか。だから、指示関係なんてなくて、脳のなか、心のなかにあらかじめりんごがあるからこれを動かせるし、認識できる。それだったら、空を飛べたり、手を使わずしてりんごをうごかせるはずだ。これはおそらく、先入観がつもって強烈になり、物理的制約がうまれたからだ。宇宙は最初に自由意志があり、そののち先入観で物理的法則がうまれた。ブルーブレインプロジェクトというものがある。スーパーコンピューターで今の段階ではラットの脳の一部をシミュレーションできるという。約20年後には人間の脳をシミュレーションできるという。我々が知っている可視的な歴史的事象ではなく、別の歴史があるのだろう。我々自身も、大昔に作られたコンピューター内部のシミュレーション脳、しかも、同時にシミュレーション世界なのだ。こうやってわれわれは同じことを繰り返す。こんどはわれわれが新しいシミュレーション脳と世界をつくるというような入れ子構造的な歴史が綿々となされてきたのだ。


   7−24


   プラグマティズムとクオリアについてである。座布団の上であぐらをかいて、座布団ごと自分を持ち上げようとするとき、ふと疑問が浮かぶ。私は一体だれであり、いま何をしているのか。しかも、だれのために、なんのために座布団という名のマシンを操縦しようとしているのか。世界とはなにか、なにかのためとはなにか、こんな問いに真っ向からのぞんでみたい。


   プラグマティズムについてである。いわゆる実用主義である。パースという哲学者はまずデカルト批判をした。ファッションセンスなどを批判したのではない。直感主義を批判したのだ。直感とは理屈や観察とはちがったひらめきのようなもの。われおもうゆえにわれあり。すべてを疑っても、疑っている自分のソンz内だけはうたがえない、だって、いま疑っているんだもん、というもの。これは明らかに直感である。そこでパースは反直感主義に打って出た。すべては記号、シグナルだというのだ。赤信号は危険を示す記号。記号はなんいかのために、という仮言命法である。なにかのために、という実用なのだ。これをプラックティスという。これはりんごだ、と条件なしで決め付ける定言命法。こちらはカントであり、善とはなんかのためじゃなくて、定言命法だという。


  ジェームスは真理というのがどっかにあるのではないという。生存に役立つものが真理。真理とは、常に真理しちゃう、という真理化だという。


    次の話はクオリアについてである。クオリアとは知覚、感じることだ。友人が真っ赤な太陽がきれいだな、とつぶやく。彼が見ているように私も真っ赤な太陽をみれない。ほんとうにかれは感じ、見ているのかもわからない。もしかしたらロボットかもしれないし、心のないゾンビかもしれない。クオリアという感じることは、このように証明できないのである。これを哲学的ゾンビという。


   まとめ

 
  存在の科学


   異次元理論


   人間の脳の情報処理能力は、いまなに考えているおきは10の17乗ピット。一生涯で10の25乗。いままでいたすべての人類の思考は10の35乗だという。量子パソコンは人間の脳に近い人工頭脳を作るかもしれない。そして、おそらくは、人工頭脳がこの世界にいるのではなく、主観と客観はセットであり、世界とそこに住む住人のクオリアというシュミレーション宇宙をつくるであろう。ただし、あまりに物理的情報が多すぎるので実用的に、プラグマティッシュにみていない、感じていない情報は処理させない世界を作る。住人が月を見ていないならば、月の情報処理をしないのである。これが量子論の世界だ。このクオリア情報のすべてがおそらくブラックホールの事象地平面の面積に等しい。ホログラム理論とシミュレーション宇宙論の融合だ。

  さて、さらに、多世界コンピューターを作る。メモリやハードディスクの容量は有限だが、ひょっとしたら別の世界にもある同じPCの容量を借りるのである。すると、容量は無限大のマシンになる。ここではじめてみていないものも物理的に処理できるニュートン力学、相対論的な宇宙がまるごとできる。このとき、ブラックホールの事象地平面は無限面積で無いといけないので、時を同じくしてブラックホールは消滅する。こんな多世界コンピューターがある文明をもつ並行宇宙は確率的には低いが必ず宇宙のどこかにある。このこの世界の住人がわれわれの世界の分岐の並行宇宙を製造しているのだ。右手をあげながったひょっとしたらの並行宇宙も製造してくれているのである。だから、創造と被造物という垂直のヒエラルキーではなく、同じ三次元ブレーンという同レベル、同次元において宇宙の創造がなされている。もはや、高次元低次元と同一次元も、視点を変えると同じものなのだ。また、ブラックホールの消滅という現象は宇宙ではあるが、このとき、新たなる並行宇宙製造文明が誕生しているあかつきなのである。


   そして、多世界マシンの世界こそ、プラグマティッシュな能率世界ではなく、善意志にもとずいたプラックティスの世界である。

   
  7-27

   独我論とパースペクティブ性についてである。ふと世間の荒波に肩をもまれておもう。もしかしたら、周囲にいる人々、木々、昆虫や空からふってくる隕石も含めて、すべてが張りぼてのセットであり、すべてが虚構なのではないのか。唯一の真実は自分がいるっていうこと、自分以外は虚像ではないのか、と流れ作業中に思い至る。


  独我論についてである。世界のなかで自分しか存在しないんだという自己中な考えではある。自分以外のものはあるかもしれないけど不可知、がんばってもわからない、というのと、そもそも、最初からないと断じるものもある。他人の心はみえない。ガンミしてもみえないので、他者の心をうたがって、目にみえるトイレの便座シートなどの知覚、事物は存在しているというのが認識論的な独我論だ。便座シート含めて、自分以外はない、というのが存在論的独我論である。


  次の話はパースペクティブ性についてである。遠近法である。自分にとっては善だけど、やまちゃんにとっては悪。食べ物の好き嫌い、さらには、真っ赤な猿のお尻をいっしょにながめていても、ほんとうに同じ赤を感じているか、比較できない。だから、他人とはなにも共有しないという。存在そのものだって、神様だって、共有できる価値がないから、自分を中心にした遠近法に生きちゃう。価値はゼロからすべて創造というのがニーチェの超人思想だ。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    シミレーション宇宙は、人工頭脳が現実の世界で活躍するのではなく、脳、意識と世界、その両方が作られたシミレーションなのである。主客は明確に分離できず、じつはセットなのだ。シミレーション宇宙が進化し、そのほとんどがシミレーション世界のなかの人工意識になる。そして、ついには本物の人間が一人だけ残るようになっている。この本物が私なのだ。私以外は虚構で、張りぼてのセットである。だから、主客を越えて上空飛翔的にものごとを客観的に認識できず、自分を中心にした遠近法世界のなかにいるのだ。主体的とは虚構性とおのれの生の真実性の対比から生まれる。ところが、隣人のやまちゃんはどうかといえば、自分にとってはシミレーションの人工生命だが、実は最後に自分が残った並行世界にいるだけであって、最後に山ちゃんだけ残って、あとは皆、虚構になってしまった別の並行世界のなかをやまちゃんの本人は遠近法的に生きているのである。



  


  7-28


  メルロポンティの肉の思想と存在感についてである。はるかかなたの異国の国におもいはせる。気持ちは張る遠くにまで及ぶ。それどころか、自分の意識はこの広大な宇宙のすべてになんと伸び広がっているのだ。山ちゃんの鼻毛にも私の薄まった意識があるのである。


    メルロポンティの肉の思想についてである。世界は肉という同じエレメントでできているという。肉といってもひき肉の類ではなく、存在ということである。赤子のとき、私とあなた、かれらという人称性がなかった。同じ肉でつながっていたという。そこに溝ができたのだ。だから、ひとの気持ちになるとは、この溝を境に回転させちゃう。メリーゴーランドのようなこの回転運動を超弁証法という。すると、きゅうりを認識するときは、私はきゅうり、きゅうりは私といれかわり、あたかも、きゅうりになったつもりで自分の存在を感じる。これをキアスムという。サルトルはこれに対して、意識とは溝じゃなくて、存在にあいた穴、亀裂だという。これが存在と無ということだ。


   次の話は存在感についてである。ハイデガーは存在の感情と無の感情について考えた。なにか毛玉でもとってやろうと狙い撃ちしているときは毛玉っていう存在者に気遣う。そうではなく、超ひまなとき、世界とか、存在そのものを感じる。存在の感情はひまだという。また、無の感情とは、自分がない、自分の無だからして、生まれる前と死後だ。無の感情は不安だという。


   まとめ

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   異次元理論



   自分の意識ははるかかなた宇宙の隅々まで薄まった状態で広がっている。これがいわゆる無意識になる。微意識といってもよい。一本の糸からできたTシャツのように、網目のひとつがみえている自分だ。しかも、この糸はわっかになってとじているのだ。メビウスの帯のようにねじれている。表と裏がつながっているのである。高次元、五次元においてはねじれた状態でつながり、さながらメルロポンティの肉、溝のようにねじれているだけだ。ところが、この三次元からみればそれは穴に見える。穴であると同時に溝なのである。遠くまで薄まっておよんでいて、ついには無意識、微意識となって自分の顕在意識に戻ってきているのだ。


   

  7-29


   ショーペンハウワーの哲学とブロッホの希望の原理についてである。気配り、気遣いは大切である。焼肉屋にて、こげそうになっているのにすばやく気がつき、手早くひっくり返し、焼き鳥屋では串を全て取ってくれる。その串を必殺仕事人のようにぐるりとまわし、飛んでいるハエを一突きするならばなおさらよい。生命の意識ははるかかなたまで、さらには宇宙の誕生から終焉まで、その全てにまで浸透し、そこにも薄らいだ気持ちがあるのだ。そして、そんな宇宙と自分は不可分離的に一蓮托生だったりする。


   ショーペンハウワーの哲学についてである。個人の意識、意志がある。よいしょといって、バーベルを持ち上げる。ただ、気合や意志だけではダメであり、あたまのなかでイメージもする。われわれはそのほとんどがイメージだ。これが表象である。意志の上に表象があるのだ。宇宙もまた同じだという。宇宙の意志があり、その上に宇宙の表象があるというのだ。ヘーゲル哲学の影響である。宇宙の表象とはイデアだという。いろんなみかんがあるが、みかんそのものはない。みかんそのもののイデアが宇宙の表象だ。

  ひとは苦悩するという。この苦悩をなおす塗り薬がないのだが、まずは、宇宙の表象、イデアを感じてみる。これが芸術による苦悩からの救済だという。さらに、これでもダメで、苦悩の原因は意欲、意志だということで、意志を弱くしようと、禁欲になる。そして、ついには意志が消えると世界も消滅するのだという。

 
  次の話はブロッホの希望の原理についてである。フロイトは無意識について研究した。過去におきた嫌なこと。犬にかまれた、ハエにかみつかれた。これらはストレスになるので、無意識に押し込めちゃうという。これがトラウマであり、この封印された記憶が形をかえて夢にでたりするのだ。ブロッホは過去の無意識ではなく、未来のいまだない意識、未意識について主張する。願望、希望であり、これが憧れ、白昼夢、空想になるという。希望を実現すると、ユートピアがやってくるのだが、心のなかにはユートピアの残りがあるという。これを心のなかで破壊するのだという。


   まとめ

   存在の科学

 
   異次元理論

   この空間の隅々まで自分の薄まった意識がひろがっているといった。時間もまた同じである。ビッグバンで宇宙誕生し、ビッグクランチで終焉迎えるまで、宇宙のなかに微意識として存在し続ける。そして、生をうけているときだけ覚醒、顕在意識なのだ。この宇宙は私の宇宙なのだ。ビッグバン誕生前は時空もない情報世界。ここでマトリクス、シミレーション宇宙が作られる。そして、シミレーション宇宙は意識と宇宙、住人と宇宙がセットで作られる。そして、ついにはそのほとんどが人工意識、シミュレーション住人になり、自分だけが生身の生命意識になる。こうやって、この宇宙は誕生する。だから、自分以外はすべてが虚構、シミュレーションであり、やまちゃんも人工意識だ。ところが、やまちゃんが最後に本物として残った別の平衡宇宙がある。そこではやまちゃんが真実、あとは虚構という真実と虚構の差異による遠近法世界がある。私が見ているやまちゃんは人工意識なのだが、その別並行宇宙にいる本物のやまちゃんの投影物でもある。自分と宇宙はセットであり、自分にとっての宇宙に住んでいる。だから、ショーペンハウワーがいうように、自我の滅却は同時に宇宙の滅却でもある。



   


    8-2


可謬主義と万物流転についてである。万有引力の法則にしたがって、パラシュートで落下して、海がめの背中に落下し、生理学の法則にしたがって、すっぱい生ものを食し下痢をする。いろんな法則にしたがっている、ルールにしたがう誠実なものである。ところが、野球のストライクゾーンやミステリーゾーンがかわったというルール改正のように、科学の法則、ルールも改正されてきたのではないか。その昔はひとは魔法を使えたのではないか、というお話だ。


   ローティの可謬主義についてである。まずは、その反対である基礎付け主義についてだ。真理っていうのは不変、不動のものだという立場。腰の重いひとを動かすのに、てこの原理を使う。絶対に動かない視点がある。これをアルキメデスの点という。これを求めるのが基礎付け主義である。デカルトのいう自我、プラトンのいうイデアがそれだ。いろんな車があり、これらはいつしか廃車だが、くるまそのもののイデアは不変不動だ。中世では神様である。これに対して、ローティをはじめとする可謬主義っていうのは、真理というのは、間違いがみつかったら常に修正しつづける、更新し続けることだという。また、ソクラテスの対話を批判。ソクラテスは対話によって互いにいいものを引き出して、不変不動の真理をゲットしようとする。ところが、実りある不一致をうむ会話が重要だという。また、絶対的なものがないから、互いによりそって連帯することだともいう。

   次の話は万物流転についてである。パルメニデスはあるものは永遠の昔から永遠の未来にむけてあり続けるという。万物が変化するのは目の錯覚、仮象だという。これに対して、ヘラクレイトスは万物はすべて変化しまくっている。この世界はまるで水の流れのようだという。

   
  まとめ

   
  存在の科学


 
 
  異次元理論 


 
   この世界はシミュレーション世界であり、巨大コンピューターのようなもののなかかもしれない。これをつくり、管理しているのがシミュレーターだ。そして、物が落ちるときは物理学プログラム、とりわけ、ニュートン力学プログラム。小さな世界は量子力学プログラム。おなかがいたいときは生理学プログラムが実行される。長きの間プログラムを実行していると、細かいところは近似値をつかっていたら、いつしか、バグ、エラーが発生する。また、心と物理の境界領域の研究もまた、そのプログラムがないから調整に入る。プログラムエラーは環境の異変となって現れる。

  さて、科学、数学プログラムはエラーがでて修正、更新、さらには改正される。万物が流転し、変化するが、法則が変化するとはふつうは考えない。ところが、法則もまた変化し、流転しているのではないか、と提唱したいのである。われわれはシミュレーションのなかのプログラムを法則と思い込み、この外にあるシミュレーターの住む真の法則を知らない。古代における法則のプラグラムはいまとちがっていた。だから、魔法や壁画にかかれている不思議なこと、また、ピラミッドを元とする現代建設でも難しいことを実行できたのではないか。古代人はわれわれのしっている科学法則ではない別の法則に生きていたので、いわゆる念力や空中浮遊ができたとおもわれるだ。



   

   8-4


心身一元論、そして、精神と世界の秩序、についてである。そよ風を感じる。浴槽に入る時は熱さを確認するために恐る恐る手をいれてみる。ひとは瞬時にさまざまなものを感じるがこれがクオリアだ。さて、そんなクオリアを瞬間ではなく、びょにょーっと超大スケールに引き伸ばすと宇宙の壮大な今にいたるまで歴史になるのだ。

 
 心身一元論についてである。心と身体は別物、別の世界だというのがデカルトを代表する心身二元論。心身一元論は心もからだ、また、心も物体も同じだよ、という思想だ。論理学者のフレーゲにその思想をみる。意味と意義はちがうという。たとえば、明けの明星と宵の明星は意義がちがう。それでも、同じ金星なので意味はいっしょだという。だから、心とからだも意味は同じで意義がちがうだけだというもの。ラッセルの中立的一元論もこれに近い。また、ベルクソンは心のなかのイメージ、観念と実在しているもの、これらのどっちでもないものが最初にあるという。イマージュである。イマージュが実際の生活の流れでときにイメージっぽくなったり、実在感たっぷりになったりするという。宇宙もイマージュであり、その中の自分のからだもイマージュ。全部がイマージュというイマージュ一元論だ。


   次の話はアメリカの哲学者ルイス、精神と世界の秩序、についてである。ルイスの偉業はクオリアを提唱したことである。青いっというが、感じていること自体がクオリアだ。だから、極めて主観的なので、どんな青さなのかひとに伝えられない。これを言語化不可能性という。また、クオリアは絶対に誤りがない。なぜなら、幻覚、幻聴、夢ですらかんじたままがクオリアだからだ。なぜ、間違いがうまれるかというと、クオリアの向こうに超越的ななにかをどかーんっと設定するからだという。



   まとめ


  存在の科学



   異次元理論



   この宇宙はシミュレーション宇宙だとする。すると、この宇宙をつくったものがいる。神のような機械のなかにいるのでゴッドライクマシンという。そんな製作者であるシュミレーターもまた、もっと上にいるゴッドライクマシンのなかにいる。このようなシュミレーションの入れ子宇宙になっている。すると、最初に真実の世界があって、そこに高性能なPCが開発され、そこからすべてがはじまったのか。そうではなく、無限にさかのぼれるのだ。そして、通常、ふつうに考えるに、ハードウエアがあって、その上にソフトウェアがのり、計算する。そんなハードウェアもまた、シュミレーション宇宙の情報にすぎない。情報のなかの情報。実体なき情報、ソフトウエア、心が先にあるのだ。いわゆる波動である。そこから次に作られたシミュレーション宇宙では若干、波動から物質よりになる。こうやって、心から物質、波動から物質、ソフトウェアからハードウェアへとシミュレーション宇宙の入れ子構造のプロセスが暫時的に変化してきたのである。

  この膨大な宇宙創造のプロセスはまた、今この瞬間のクオリア、感覚、体験そのものの構造と同じなのだ。量子論だと、箱のなかの猫は生きていると同時に死んでいると同時に踊っている。あらゆる状態が重なった波動状態だが、箱をあけてみると、ひとつの状態にきゅーっと収束し、生きている猫という物質化がなされる。つまり、感じる、クオリアとは瞬間的には波動から物質化されることだ。この感じることを超絶大に引き伸ばすと宇宙創造プロセスそのものになる。得てして、上のごとく下もかくありなのだ。


posted by モノイイ ジョーカー at 21:14| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 9-19

  長期にわたり投稿してませんでした。PCでの入力したものだけアップします。


**哲学漫談**

http://www.ustream.tv/channel/japanese-phirosophy-joke


**哲風呂**

 5-11



   無の無化と非領有的自我についてである。いくぞっていう気合で漬物石をもちあげる。別に持ち上げずに、横になって昼寝もできた。自分を突き動かす自由意志とはどこから来ているのか。じつは自分ではなく、別の世界のものたちによって突き動かされているのではないのか。

  哲学者ハイデガー、無の無化、についてである。無について考えてみよう、というのは、別段、みけんにしわよせて、んーっと考え込むことではない。何も考えずにぼーっとする。無の思考はそもそも思考しないこと。それでは無を感じ取るとはいかようか。これは不安という感情だという。自分ではないことが無だ。生まれる前と死である。これに触れると不安であり、自分の存在の輪郭だから、自分自身をつかんじゃうことだ。無について無にしてしまうので、有、存在丸ごとつかむのである。無を無化して、存在丸ごとドカーンである。

  次の話はレヴィナスの非領有化的自我についてである。自分の中になんと他人がいるのだという。自分なのに、自分の自由にならない領有地を内側にもっている。押さえがたき衝動で、むーらむーら。これこそ、自分では制御できない自分の内面、ここに他者がいるというのだ。

  まとめ

 存在の科学

  
  異次元理論
 

  横軸に空間軸でも、時間軸でもどっちでもよい。縦軸は実在する確率だ。時間軸ならば、未来からの先行波と過去からの遅延波が同位相で重なり、とがった波形になるのが現在、今における粒子性の強い世界だ。そのほかは逆位相で山と谷が重なり相殺してフラットになる。空間も同じだが、これがすべての状態、並行世界が重なって無になることだ。だから、すべては無からいずるし、無へ帰する。だから、無とは実現しない無数の世界、状態だ。

  さて、自分のなかに他人がいるというレヴィナス。そうではなく、異次元の、別並行世界の無数の他者がいるのではないのか。やまちゃんは散歩に出かけたが、散歩に出かけなかった別の並行宇宙のやまちゃんをはじめとした他者たちが私のなかで自由意志の発生源になっているのだ。いずれにしても、現象として、輪郭、粒子をあらわにしていないものたち、徹底的な無が自由意志の根幹ではないのか。


 5-11

根源の原理とヤスパースの哲学についてである。おもちゃ箱にはいろんなおもちゃがつまっている。チンパンジーがシンバルを鳴らす。運悪く通りすがったハエがシンバルにはさまる。おもちゃの存在っていうのは無がベースだ。存在しているのは無が下地なのだ。そんな無ですら、じつは高次元の大きなうねり、波であるというお話である。

  哲学者コーヘン、根源の原理、についてである。歩いているとなんとヒットポイント70の石ころが出現した。石ころがなぜそこにあるのか。つまり、存在している根拠というものがある。この石ころの根拠はこの石ころ自体ではない。つまり、この石ころはこの石ころ以外によって根拠付けられている。座っている私は椅子が支えてくれる。私自身が私の椅子なはずがない。これが、Aは非Aによって根拠付けられている、という根源の原理である。新カント学派のコーヘン。本来、カント哲学では、感覚っていうのは外からやってくる。そして、あたまのなかであれやこれやと思考し、判断」して、ただの石ころだと判断する。ところが、コーヘンは感覚もあたまのなかからうまれる、すべてはあたまのなかだ、というのだ。思考しているのだが、思考はつねに新しい思考していないものを思考しようとする。思考は永遠に非思考に近づく。ここに微分法を適用。非思考まであと10センチ、半分の5センチ、もう半分の2.5センチ。こうやって無限の通過点を通るのだが、この無限の情報が感覚だというのだ。ここに思考は非思考によって根拠づけられちまっている、という根源の原理が見られる。

 
  次の話はヤスパース著、哲学、についてである。ハイデガーは人間を現存在と名づけた。自分が自分の存在にかかわっている存在だ。おのれのケツをふく。自分にかかわるのである。にんじんは自分に関わっていないただの存在。さて、ヤスパースはにんじんもまた現存在しているという。自分に関わっているのだから、人間も同じだ。これが日常の世界であり、日常的世界定位という。一歩さがって冷静に客観的な世界、jこれが科学的世界定位。そして、精神的世界定位を経て、ついには哲学的世界定位である。これは限界状況、どうすることもできない状況でひとは、自分がちっぽけで、自分の内面にどんどん萎縮するときに開かれる。これを実存と呼ぶ。自分に関わりすぎて、自分に穴があき、向こうの世界をみる。超越者との出会いであり、これが内向的すぎて宇宙全部にかかわったという実存のあり方である。


 


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論



 横を時間軸にすると、過去からの遅延波と未来からの先行波が現在において同位相で重なりとがる。これが粒子性である。また、それ以外は逆位相で干渉し、消しあう。また、横軸を空間とみなす。電子はこの部屋のどこにあるのか。中央か、右隅か。縦軸が確率であり、すべての場所にあるかもしれないので、とがった波が敷き詰められる。その波の頂点を結ぶとただのフラットになり、いわゆる波のない状態、無になる。

 無はすべての状態がかさなったものだ。五次元におけるあらゆる並行四次元時空が重なったもの。そして、論理的な可能なすべての状態の重なりが無であれば、五次元にあるといわれる論理や数学、物理の法則が違うレベル4宇宙はどうなるのか。これがあるから、この論理的に可能な領域である無がゆらぎ、うねるのである。これがわれわれの宇宙の無いところにどういう影響をおよぼしているかわからない。ただ、存在しているものは根源の原理で、存在以外、すなわち、無によって根拠付けられ、そんな無が波動状態になるのだ。

 
  さて、五次元は時間対称性だけでなく、すべての対称性がある。ここで内外対称性を提唱したい。銀河の中心はブラックホール。太陽系の中心は太陽。地球の中心もあり、そして、人間の中心にも内側と外側の対称性があるなら、太陽があるはずだ。これが人間の心、意識である。内部と外部を入れ替えても成り立つ、内外対称性。すべての中心、すなわち、セントラルサンである。心、太陽、ブラックホール、地球の中心。コレラセントラルサンは本来重なっていたのだが、人類誕生以降、対称性がこわれてずれつつあるのだ。内をきわめたら外、超越的なものだというヤスパースの実存。これはこの内外対称性ではないか。裏が表というメビウスの帯、内側が外側になるクラインのつぼ。これらは五次元の構造体である。実存は五次元的な構造なのだ。

  
  

   5-18

  存在の一義性とノマド、そして、ディルタイの体験についてである。あのとき、よこちんはみださなかったら、いまはきっと大統領補佐官だったろう、と後悔しているものがいるかもしれない。はみだした世界とはみださなかった世界に並行世界に分岐した。しかも、確率であって、まったくもってすべてが偶然だ。なんだか、世界というのはこれだと希薄すぎるではないか。偶然選択された世界はじつは高速循環によって濃厚なものに仕立て上げられているのである。

  哲学者ドゥルース、存在の一義性とノマドについてである。同一性っていうのはふつうに考えると最初にあるもの。八百屋さんで、りんごはりんごだ、とさけんでいる。隣には、みかんはみかんだ、という同一性。そして、この次にりんごとみかんの差異、違いがある。ところが、さっきのりんごはもはや今ここにあるりんごではない。つまり、りんご、りんご、りんご、といい続けるのだ。差異、違いを反復させて、りんごは自分自身であろうとする。差異が同一性に先立っちゃう。これは多様なものをひとつにまとめようとする働き。ノマドとはジプシー、遊牧民的なことだが、点在する遊牧民をひとつにまとめようとする。存在者っていうのはほんとうにいろんなものがあるが、これを存在っていう一義性と調和させようというのだ。

  次の話はディルタイの体験についてである。体験というのは、理屈ぬきでまずは感じる。そして、全体的なイメージ、表現をして、つぎにそれが下駄であると理解する。体験、表現、理解、そしてまた体験だ。こrを垂直の循環といい、これこそ、無尽蔵にあふれてくるものだ。これに対して、水平の循環がある。文献である。本は部分的な文章があつまってできている。全体まで読んだ後に部分を解釈。そして、また、全体をを解釈。部分と全体をいったりきたりするが、これは本からは一歩もでない悪しき循環だという。


 
  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


  エヴェレット多世界解釈だと、右手を上げた世界と左手を上げた世界に分岐、どっちも確率であり、偶然であり、どんな状態も世界はわかれていく。なんだか、希薄で、軽い世界だ。なんでもよく、世界と私との内実がない。分岐した世界は高速の循環運動しているのかもしれない。以前お話たが、ロゴスは秩序、法則であり、これに従って肉が生まれる。肉といっても肉体、物体のことだ。そして、人間がうまれ、これまた、口からロゴスを放つ。言葉を話すのだ。最初の法則としてのロゴスは高次元、五次元における四次元宇宙同士のことばだった。こんどはわれわれ人間のことばは低次元、二次元のロゴス、法則になるのだ。こうやって、0次元までつたわり、0になったら6に戻ると以前はなした。つまり、高次元のロゴス、法則はじつにわれわれが口から放つロゴス、ことばだったのである。しゃべった事、記述したことがそのまま宇宙の法則だったのだ。呪術の時代はいわゆる魔法のようなものがロゴスだった。宗教空間においてはヴィトゲンシュタインフェディズムにあるように、意味ある言葉として、その世界を作る。現代は科学言語、科学のロゴスを記述している時代。だから、われわれが言い放った言葉、ロゴスが文字通り、我々が従う宇宙のロゴス、法則になっているのである。

  さて、もうひとつ。われわれはりんごをいろんな角度からみることができる。これら断片を集めて一個のりんごイメージをつくる。多様なものを一義的にするのだ。一と多を融合するのだ。個人個人みんな個性がある。コミュニーケーションでひとつに団結しようとする。世界はひとつで、このなかにいろんな存在者、コレで終わりではない。世界そのものも多様、つまりは並行宇宙なのである。そして、これもまた多の一になる。水平次元では世界の分岐、垂直次元ではロゴスと肉の高速回転運動。これが世界の真相である。


 


    主体性と実質的観念論についてである。 主体的に、積極的にダーっと言いながら挙手する。目を皿のようにして、なし園のおおきななしを探す。なしがきゅーっと収束したから、私はみたのではないのか。主体的になにかを見るとは、みられちゃった、収束しちゃった先でそこに主体的意識がうまれたのではないか。本末転倒、表裏ひっくり返して世界の真相に迫りたい。

  主体性とはなにか。我思うゆえに我あり、というデカルト。なんだか、思っているからおいらがいて、おいらがいるから思える。ひたすら、活動的であり、凝り固まったかたまり、つまり、実体ではない。カントもまた、なんだか活動的な主体は認める。主体性の哲学が際立ったのがイギリス経験論のヒューム。実体とは、便所下駄のように、そこに主体的な自分がいなくてもそれ自体で存在しているもの。実体っていうのは毎回トイレに入ると便所下駄があるので、見ていない時もあるんだな、という思い込む。自分もまた実体としているのではなく、主体的な活動にすぎないとした。

  ヘーゲルにおいては、古代哲学や中世哲学のように、宇宙は実体だという思想と、近代のおれは猛烈に活動中なんだという主体性を合体する。やまちゃんは主体的だけど、宇宙、世界は実体だと考えてしまう。そうではなくて、宇宙もまたやまちゃん同様に主体的だというのだ。宇宙はいずれは絶対精神になるという。

  現代においてはこんどはひとりの人間に戻ってきて、私はまずはなんだか実存しているという実存主義などの主体性になる。

  次の話はバークリの実質的観念論についてである。観念論といってもピンきりあるのだが、強烈な容赦ない観念論だ。石鹸がそこにあるから私はそれを見ているのではなく、私が見ているから石鹸があるという。私がみていなくても、もしかしたらハエが見ているかもしれないし、ハエがいなくても、微生物、無菌状態だったとしても神様が見ているから石鹸は実在しちゃうのだ。



  まとめ

  
 存在の科学


  異次元理論



   私が量子の波動を収束し、粒子にしているというのが射影公理だ。ところが、GPW理論だと、波動は自然状態で収束して奇跡的に粒子になるという。かりに0.000000001パーセントの低い確率でも1億年に一回くらいは奇跡が起こるかもしれない。そして、人体や物体は無数の量子でできているので、この中に奇跡を起こしている粒子になった量子があるのだ。

  さて、射影公理とGPW理論をくっつけたい。自然状態で奇跡的に粒子になったところに、主体的な意識が生まれるのではないか。つまり、見るからあるのではなく、みられちゃったからみる主体が受動的に生成されたと考えるのだ。主観と客観をひっくり返すどころか、見られちゃった、だから、見るもの、主体的な意識がうまれたのだ。こうやって、この世界はひっくり返されて虚構にまみれ、それゆえに生がある。すべてのひっくり返ったものをもう一度ひっくり返す。見る、見られるだけではない。コインをひっくり返し、今度はコインが乗っているテーブルをひっくり返し、さらに床もひっくり返す。自発的な主体性は、見られちゃったという自然状態の量子の収束によって受動的に生み出されたのである。


  認識論と存在論についてである。








  5-30

  ホーリズム、そして、意識なくして世界なし、についてである。やまちゃんをまじまじとみているとなんだか自分に似ている。そんなやまちゃんはどことなく、後姿は大和芋に似ている。この世界はいろんな並行世界の詰め合わせものなのかもしれない。そして、この世界が並行世界の現れだというからには、なにかを感じる意識と深く関係がありそうだ。

  ホーリズムについてである。いわゆる全体論についてである。ガンプラを作る時、腕と足を接着して、お尻を後頭部にくっつけて完成だったりする。パーツを組み合わせて全体だ。部分があつまって全体になるとは、これを機械論という。ところが、生命などはちがう。全体と部分が直結している。かかとが体全体と交信しているかもしれない。シェリングの有機体論はホーリズムだ。また、論理学的には、クワインである。ひよこはたまごから産まれるという仮説。この仮説を検証する。すると、反証例がない。この仮説は無数の背景知識でできている。たまごとはどんなものか。産まれるの定義、さらに日本語の文法の説明。宇宙全体のあらゆるものが総動員されて成立しているのだ。だから、全体のなかのどれかをちょっぴりいじくると検証にも、反証にもなるという。


  次の話は、ショーペンハウワー、意識なくして世界なし、についてである。意志と表象の世界、という本に書かれている。個人はよいしょとたちあががるのだが、このとき個人的意志、意識がある。そして、この上に椅子や自分のボディイメージを持っている。つまり、表象が乗っかっている。宇宙もまた、普遍的な意志があって、この上にイデアっていう表象が載る。

  苦悩をなくそうとして、個人的な意識は宇宙の表象、つまり、シミひとつないイデアを観る。これが芸術だという。さらに、意志を弱めれば苦悩もなくなると考え、ストイックになる。意志の消滅は宇宙の消滅だというのだ。

  まとめ


 存在の科学


  異次元理論



  この世界は並行世界、並行私の現れではないのか。やまちゃんは私に似ている。ひょっとしたらの私がやまちゃん、斉藤君かもしれない。さらに、もっとはるか彼方で別れたのが私とナメクジ。もっと、大昔に分岐したのが私と石。これまた、並行私、並行宇宙ではないのか。

  ひとつの物理世界に並行世界が共存しているというのは違反である。デコヒーレンスして、互いに干渉しあわないはずだからだ。されなのにコヒーレンス、つまり、干渉しあっている。これは部分から全体ではなく、全体から部分。過去から未来ではなく、未来から過去へのアプローチがないと、デコヒーレンスをコヒーレンスできない。そもそも、私の意識、感じること自体がコヒーレンスそのものであり、観測者である私が灯台もとくらしになっているのだ。

  量子論のなかにガイド波説がある。ガイド波という波があって、サーファーが波に乗るように、粒子はガイド波に乗る。そして、確率が高いところは粒子がたくさんいる。これが二重スリット実験などのスクリーンに衝突するのだが、ここに矛盾がうまれるという。スクリーンに粒子は痕跡を残すのだが、ガイド波は先導波であるが、粒子がこのとき、光速を越えてしまうのだ。だから、相対論違反だ。光速を越えるとはタキオン素粒子になること。タキオンは時間が逆行する。

  目の網膜に光の粒子が当たる瞬間、ガイド波に乗った光子が光速を越えてタキオンになる。時間が未来から過去へと戻る。これが網膜の境界面で起きているクオリアである。また、ここから電気パルスになっても、電子は同様にタキオン化していたるところの境界面上にクオリアを発生させる。眼球は皮膚感覚が進化したものだが、皮膚だって外界との接触面でいまいったような粒子の光速越えがある。この境界面では部分から全体、過去から未来ではなく、未来から過去、全体から部分へと流れる。これがデコヒーレンスした並行宇宙をコヒーレンスにさせている正体なのだ。


  6-1



絶対的意識流と言語ゲームについてである。椅子に座ると、お尻で椅子を感じる。なんとお尻からなにかがでているのではなく、タキオンがでているのだ。けつと椅子の境界面上でおこっている時間逆流のSF活劇。生命が何かを感じるとはこの境界面に秘密があり、また、ブラックホールもまた境界面からなにかを感じているのだ。


  哲学者フッサールの絶対的意識流についてである。胸に手をあててみる。乳首を発見したのはつかのま、パイ毛が巻きついてきてピンチだ。というより、なんだか意識の流れを感じる。意識の奥にあるのはなんなのか。意識の流れを感じるとは、川の流れと同じで岸に止まってこそである。だから、止まっていると流れを感じる。今度は流れると岸が止まっているのがわかる。つまり、私は私なんだというものを感じる。止まっていると同時に流れている、これが絶対的意識流である。


次の話は言語ゲームについてである。言語にはゲーム同様にルール、文法がある。だれかがルールを作ったわけではない。生活の流れによってできたという。あれはなんだ、と叫ぶが、あれというのはその時、その場所によって違う。文脈に依存しちゃっている。これが言語ゲームだが、言語ゲームや生活の流れにはなんか根拠があるのかという。理性的なのか、はたまた、非理性か。どっちでもなく、それはただそこにある、というのだ。根拠もなく、無根拠にそこにあるだけだという。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   前回、前々回、そして、相当昔に話した内容まで含んで、クオリアの秘密を暴いてみたい。手が外界のものに触れて感じたり、目でものを感じたりする。これは二次元の境界面上の出来事だといった。網膜に光があたる。ガイド波があたり、そこに乗っかっている光子がぶつかる瞬間にその境界面上で光速を越えてタキオンになる。タキオンは光速より速いから時間が逆行。光を吸い込んで境界面からタキオンを放ち、三次元ホログラムを周囲に投影する。これが目が映写機であるゆえんだ。又、ブラックホールも同じだ。光を吸収し、光速を超えてしまう事象地平面に入って、この境界面の向こうにあるタキオンが飛び出して三次元ホログラムを作る。目とブラックホールはこのような境界面のクオリア現象だ。


  さて、五次元に漂う四次元ブレーン、ないしは四次元時空をタキオンがあたることで三次元の影になるといったが、これが境界面、つまり、二次元を介して三次元ホログラムを生成する。四次元が二次元を介して三次元ホログラムを作る。ところが、この現実という、日常生活というホログラムの反対がある。ゲームである。虚構はこれとは正反対の構造になる。四次元の事象を三次元の機械、ゲーム機を介して二次元の画面に投影。ゲームの真逆の構造が現実になる。


  絶対的意識流は流れつつ止まるといった。ここでいう流れは過去から未来への流れ。これに止まるを混ぜると、第三のカテゴリーがうまれる。未来から過去への流れ、すなわち、意識やクオリアである。これが二次元境界面で起きているのである。



  
  直感主義、そして、哲学と自然の鏡、についてである。1+1は人参。ににんはにんにく。大声で胸はって正々堂々とこたえる。四則演算には最難関の割り算がある。7を3で割らねばならぬ時、ため息がでる。あまりはいくつなのか。足し引き掛け割り。いわゆる四則演算である。こんな四則演算は人間の意識の現われであるということ。四則演算と人間についてかんがえたい。


  哲学者ブラウワーの直感主義についてである。数学には無限とか、ルートとか、直感的にはどうもわからないものがある。ブラウワーはまず、直感的にわかるものから少しずつ、地道に積み上げようという。八百屋さんへ行って、トマト三個ください、といってみる。いわゆる自然数がなじみある。自然数直感からスタートするのだという。これに対して、論理主義はいきなり無限や無理数を直感的にわからなくても導入するのだという。

  次の話はローティ、哲学と自然の鏡、についてである。西洋哲学は主観と客観、自分と世界っていう二元論がほとんどだという。自然や宇宙を心に鏡のように忠実に映し出すこと。絶対的に正しい真実と虚構を設定。真理は絶対だという基礎付け主義だったという。そうではなく、プラグラティズム的転回を主張。そんな真理は不動だというひいきはしない。これを特権的表象という。そうではなく、まちがっていたらいつも修正、改正だ。だから、ソクラテスの絶対的な真理探究のための対話ではなく、ときに自説すら修正する会話だという。さらに不動のものではなく、みんなで連帯だという。


  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


  ホイラーはすべては情報であり、分子、原子もまずは実体のない情報からうまれるといった。そこで、以前話たが、心のなかも実体のない情報処理であり、外界も情報処理だ。ということは、外界の数学的事象は心、意識の現われだともいえる。たとえば、四則演算だ。除算、すなわち、割り算は自己意識。自分が自分を意識するが、自分´がたくさんできる。おのれをアトム化するのである。かって、フィヒテが自己意識の徹底による自己滅却といったが、自己意識が除算ならば0になることはない。0になるの減算だ。乗算、掛け算は膨大な数になるので世界観を含めたイメージ、表象生成のことだ。加算、足し算はものの認識によって知識を増やす事。減算は実践である。実践することで0になるとはエネルギーを使い果たすことで、実践によるエネルギー消費がある。

  さて、虚数とはなにか。二乗して−1になる数。二乗とはいってしまえば乗算、掛け算なので、イメージ、表象世界。しかも、二乗なので壮大な徹底したイメージ世界であり、これが−1つまり、減算なので実践だということ。壮大なイメージ界は実践だという、いわゆるインナースペースは別次元に通じ、そこの実践形態であることをいっている。


  


  ベルクソンの自由論とコンディヤックの哲学についてである。ひとや動物の体は小麦粉ではできていない。細胞やDNAである。このDNAがくせものであり、おもわず、顕微鏡にむかってこのくせ者っと叫んでみる。洗濯かごの靴下に向かっても時折、太陽と月が重なった夜などにまれに叫ぶ。DNAのほとんどがジャンクDNAであり、これはひょっとしたら異次元、高次元のゲートではないのか、というお話をしたいのだ。


  ベルクソンの自由論についてである。世の中には決定論と偶然論がある。おぎゃっとうまれてから死すまで、宇宙がはじまってからおわるまで、すべてが一寸の狂いなく決まっているというのだ。決定論者は過去や未来をタイムマシンで旅をして、ひとことつぶやく、すべてが決まっていると。他方、偶然論者はいまこうやって銀杏拾いやっているのはたまたまであり、もしかしたらいまアメリカ留学中だったかもしれない。すべてが偶然だという。これまた、こんどはひょっとしたらの並行世界を自由に旅するマシンに乗ってそういっている。つまり、今この瞬間に生きていなくて、時空を越えて旅しているのだ。ところが、ベルクソンは自由だと主張する。しかも、自由とは何かと、と問えないという。なぜなら、問うか、問わないのか、最初からすでに問う以前に自由はあったのだ。自由は問いではなく、事実だという。


  次の話はコンディヤックの哲学についてである。感覚論者である。生まれながらにしてもっているもの、先天的に持っているものなんかない。すべては感覚によって生まれるという。紅い、丸いという感覚は受動的だが、成長すると自発的になっていく。言葉をつかうのだ。りんごはおいしいというのだ。認識は進化して、言葉が進化させるという。また、いろんな感覚があるが、とくに皮膚感覚、触覚が重要だという。そもそも、眼球による視覚だって、皮膚感覚の進化したもの。りんごをさわると冷たい。自分の足を触ると、足は同時に手にふれられると感じる。つまり、触覚は二重感覚をもち、これが私と世界、主観と客観にまずはわけるのだという。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


 
   生物はDNAをもっているが、その99パーセント使われていないジャンクDNAだという。残りのわずかだけが祖先からの情報を引きづく。圧倒的な数のジャンクDNAは肉体的な情報ではなく、意識を形成しているものではないのか。

  DNAは論理的な情報、言語である。だからロゴスともいえる。先天的なロゴス、これは聖書の黙示録がいう、はじめにロゴスありき、だ。また、DNAに光が満ちているといい、これをバイオフォトンという。聖書では、はじめに光ありき、という。

  さて、ジャンクDNAの螺旋にフォトン、光がらせん状に移動する。すると、螺旋は宇宙の構造だと以前はなしたが、光速を越えてタキオンになるのではないのか。タキオンはすべてが逆である。時間もフォトンと違い、未来から過去へと流れる。つまり、高次元につながって、まさしく意識であり、クオリアなのだ。以前話たが、境界面上に進入するガイド波。ガイド波に乗っているフォトン、光子がその境界面上で光速を越えてタキオン化し、これがクオリア、意識になるといった。この境界面はいたるところに存在し、ジャンクDNAなのではないのか。同じ事象を別に視点からいっているのだ。体内のあらゆる境界面上、ここに触覚、触覚の発達したものといわれる網膜や鼓膜もあるが、ここにジャンクDNAによるタキオンがあり、高次元のゲートがある。


  ベルクソンは自由を事実だといった。しかし、先天的に自由意志があり、これははじめから決定しているもの、つまり必然なのだ。ジャンクDNAの高次元へのゲートからやってくる意識。これは自由は事実というより、先天的で高次元的な必然性といわるかもしれないのだ。

  



6-11


 自己組織化と不完全性定理についてである。意識も宇宙も最初はひとつだったが、事情あってずれてきた。そして、だんだん無骨になってきてついには何者かになる。くせものっと叫び声が聞こえるがそんなおちゃめなくせものもまた宇宙の対称性崩壊によるのだ。意識や宇宙は無限ループでらしさをゲットする。無限ループとアナキズムについて考えたい。


  自己組織化についてである。いててっとすりむく。生命というのは自分を治そうとする自然治癒力が働く。自分自身を組織化するとはいかに。本来なら、理屈上、論理的には、自分が自分自身に云々したり、触れることは矛盾する。これを自己言及という。私はうそつきだと叫ぶ。うそつきか正直者か、どっちかわからない。これは日本語で書かれているという。日本語で日本語云々は自己関係なんでNG。ところが、例外がある。自己組織化、オートポイエーシスは自己矛盾なのに生命の特徴。論理学では、排中の原理。こちらは水戸黄門か、水戸黄門以外のいずれかである。この排中原理では、水戸黄門以外のなかにこれを主張している当人も含んじゃう。自己関係してるのに、これは成り立つのだという。自己意識もまた同様である。


  次の話はゲーデルの不完全性定理についてである。不完全性定理もまた自己関係なのに、自己矛盾免れる冷害といわれる。まずは公理っていうものがある。これは最初に設定される絶対的なもの。有無を言わさず設定。このあとに、ここから定理や定義がうまれ、壮大な理論体系になる。さて、理論体系のなかで矛盾も無い場合は無矛盾という。また、理論体系のなかで真だか、偽なのか、ほんとうかうそか、曖昧なものがまったく無い場合、これを完全性という。無矛盾のときは完全性は成り立たず、完全性のとき、無矛盾ではない。これが第一不完全性定理。第二不完全性定理はある理論体系のなかで、この理論体系は正しいんだよ、とその中では証明できないというものだ。


   まとめ


  存在の科学


  異次元理論


 

  前回お話したように、外界宇宙は最初は対称性があった。これがときとともに、対称性が崩壊し、具体的な物質が生まれる。精神、意識もまた最初は全時空に意識がしみわたっている対称性だったのだが、意識を液体にたとえると、意識ではない気泡が増え、つにはバブルがはじけるといった。この気泡が意識の中の非我である。いずれにしても最初は意識と外界宇宙は同じだったのだが、対称性が壊れて具体的物体と個人になる。このとき、そうあれと意欲すれば、物理宇宙もそうなる。なぜなら意識=宇宙だから同一関係だからだ。それが意識と物理宇宙のずれによって指示関係になり、さまざまなバイアスがかかって、コーヒーカップを動けと思っても動かなくなる。手で押した時に動くという制約がかかっている。

 思想史をみると、まず、観念論があり、実在論になる。近代では意志、意欲によって効用もとめて資本主義がある。つぎに社会主義、唯物論である。この次にくるのが、スピチュアルでもなくマテリアルでもない何か。情報なのだ。ホイラーは物質も最初は情報だといった。実際、すべての数学理論が物質化しなかった。物理は対称性の崩壊によって特殊化してきた。意識もまた実体のない情報だ。


  ここで、実体なき情報がどうやって意識、物体になるのか考える。自己言及、自己組織化である。自分が自分にかかわると、悪循環、無限ループでエラーである。ここで提案したいのが、以前はなしたが、六次元までいくと、点であるゼロ次元につながっているという高次元世界観。この次元を超えたループなら自己関係による矛盾、悪循環を避け、特殊化、バイアスがかかってくるのだ。精神でも物質でもないその大元であった情報にリセットされ、新たなる高次元ループによる自己制約、バイアスがうまれるのだ。資本主義、自由主義と社会主義のあいだに日の目をみることがなく潜伏していたアナキズム思想。政府なくしてどうやって制約があるのか。個とし、おのれにバイアスをかけるのである。カントのいう自律がここで完成され、資本主義の流れを汲むアナキズムでも、社会主義の流れを汲むアナキズムでもない第3の新たなアナキズムがうまれるかもしれないのだ。


6-13

  整合説とパトナムの正当化についてである。おれは自由だといって、鳥かごから飛び出し、今度は虫かごに入る。自由とはなにか。好き勝手に欲望おもむくままは自由ではない。矛盾するような言い方だが、自由には宇宙全体にまで及ぶ超強力な原理原則がるのかもしれない。

 
  整合説についてである。真理とはなにか、というのが真理論。まりちゃんとは呼ばない。一番、ふつうなのが、真理対応説である。心のなかのイメージの配置。パンツのよこに鉛筆削り、というイメージが実際の外界の世界の配置とぴったり一致すれば正解、つまりは真理だ。心と世界との対応が真理というもの。そして、これでは心と外界の世界、主観と客観というようなはっきりした仕切り、壁がある。こんな壁を取っ払うのが整合説だ。私も世界も関係なく、論理的な全体。この全体のなかで筋が通っている、整合的であることだという。


  次の話はパトナムの正当化である。これはさきほどいった整合説の典型だ。ここからこっちが私で、この胸毛の先端から向こう側が外界の世界だときっぱりいえるだろうか。胸のうちとか、腹の中、心のなか、というように内面と外界をはっきりわける。そうではなく、心も外界の宇宙もすべてが宇宙側だというのだ。しかも、すべてが神様の心のなかという観念論ではなく、なんとすべてが内側でしかも実在しているという。私と世界が共同して私と世界を作るという。しかも、こうなると、一なるものが真理だということなく、なんだかざっくばらんにいろんなスタイルが増殖しそうだが、一なる真理へと接近し、収束していくというのだ。


  まとめ

 
 存在の科学


   異次元理論


   以前、二つの箱の話をした。ひとつの箱には白い球、もうひとつの箱には赤い球を入れる。この箱の片方を東京、もう片方をニューヨークに持っていく。東京にもってきた箱を開けるまでは中は赤い箱と同時に白い箱、波動状態である。あけた瞬間、赤い箱だった。すると、瞬時にまだあけていないニューヨークにある箱へと、こっちが赤だからそっちは白だという情報が光速を越えて伝わる。これが射影公理による収束、軌跡解釈における非局所相関だ。

  さて、もしもこんな相関がないとしたら、ニューヨークの箱のなかも赤い球かもしれない。このとき、ひとはこの箱をどういうわけかあけない。観測者は辻褄、整合性の取れないようなことをしないように動くという行動原理があり、これが自由意志の原理原則になっているのだ。もちろん、原理といっても、公理があって体系のなかで閉ざされているものではなく、宇宙全体のなかで働くものだ。仮にこの箱を開けたとしても、きっとあれかが赤い球を入れたに違いないと、こんどは正当化のプロセスに入るのだ。


    

   6-14


  環境内存在と世界内存在についてである。生物や物体は宇宙のなかにあるし住んでいる。たんぽぽだって、ぺんぺん草だって例外ではない。ところが人間はもっと深い生息のしかたなのだ。高次元のなかに住んでいるのである。


  ユクスキュルの環境内存在についてである。人間は動物も植物もみんな物理化学的世界に住んでいると思っている。ユクスキュルは種特有の世界にみんなそれぞれ住んでいるというのだ。人間には互換があり、脳で考える。こうやって知覚できるものを知覚標識といい、これらの全体が人間の知覚世界。こんどはワニをみて一目散に逃げるが飛べないが足があるので走れる。これが作用標識であり、なにができて、どう行動できるかのすべてが作用世界になる。作用世界と知覚世界をあわせて人間の世界。さて、ダニはちがう。明るさを感じる明度覚、そして、温度を感じる温度覚など。これがダニの知覚世界。ダニは手足が五六本あるとおもわれるが、ジャンプ力はある。ダニの作用世界。これらをあわせてダニの環境世界なのだ。おのおのの種が分節してべつべつの環境のなかに環境内存在しているのだ。



   次の話はハイデガーの世界内存在についてである。ハイデガーはユクスキュルの環境内存在に影響を受けた。人間は岩石のようにただ存在しているのではなく、世界のなかにしみこむように、世界に開かれて存在。世界内存在である。まずは、私は私自身とずれる。これが時間になり、時間地平がオープンだという。つぎに、私が私自身とずれることで、私の存在そのものの輪郭、地平が見えてくる。これが存在地平だ。そして、この存在地平のうえに和菓子、洋菓子、おもちゃ、以下略なのでだが、あらゆる存在者が現れる。人間は存在しているのではく、存在そのもののに開かれ、かかわりながら存在しているので、現存在とよぶのだ。


   まとめ


   存在の科学



    異次元理論


    唐突だが、活火山について考える。火山の下には溶岩だまりがある。その下には川のように溶岩が上にむかって流れている。地中深くの岩石がこすれ、高温で溶けてこれがマグマだまりになるのだ。さて、山というのはプレート、マントルの動きでひずみができたところ。だから、そこの圧力がはらき、地中の岩石を溶かすのだ。地球的なプレートの動きが山だったのだ。さらに、プレートの動きは地球の自転公転によるものだ。このように、宇宙全体がそうさせているのだ。台風だって自転公転だ。木っ端が風で動くのも、地球的宇宙的規模だ。植物もおそらく同じ。このように三次元宇宙の全体が関与している。環境内存在しているのだ。

 
  ところが、人間はちがう。三次元空間内存在ではなく、ハイデガーのように時間地平をひらく、つまり四次元時間内存在であり、同時、五次元内存在だ。これが人間の意識をうむ。たしかに、無機的な物体もまた五次元からくる重力子によるのだが、物体、肉体はそうだが、物体、肉体の活動、うごかすんは、動植物、無機的物体においては三次元内のものだ。人間の意識は高次元内存在しているのである。


  

  6-16


   存在の科学


   異次元理論


   宇宙は刻一刻分岐しているという。生きている金魚をみて喜んでいる私のいる世界と死んでいる金魚をみて悲しんでいる私のいう世界。世界そのものの選択、つまり、自分の行為実践そのものが世界、宇宙そのものの生成である。

  宇宙は最小の大きさ、プランクスケールのひもでできているという。このひもがはじかれて、振動数によってさまざまな素粒子になる。さらに、この小さなひもには高次元が巻き上げられているという。余剰次元である。たとえば、ロープを遠くからみると一次元の直線。近づくと、ありがたかっていて、二次元の平面だ。もっとみると三次元でもある。ひもはあまりに小さいので5,6,7,8,9次元がまきあげられてみえないのだ。

  さて、プランクスケールのひもに高次元が折りたたまれている、折り紙にもいろんな折り方、たたみ方がある。カラビヤウ多様体である。ひも、弦によってはじかれ、このカラビヤウの畳かたでホルンや管楽器のように共鳴している。その解は10の50乗、0が50個つく膨大な解の数だ。このなかにわれわれの住む宇宙の正しい解があるという。そうではなく、じつは10の50乗のすべてが正しいのではないか。さきほどいったように、宇宙を行為によって選択、生成するとき、宇宙の最小のひものなかの高次元の形まで選択、生成、これが並行世界の分岐、自分の行為=宇宙生成になっているのだ。


  こうなると、私の実践は物自体というように、実践、行為が宇宙そのものの生成。梵我一如である。この梵我一如を論理的に証明したい。排中の原理は自己関係になってしまうので矛盾するはずなのに矛盾しない。これはピーナッツか、ピーナッツ以外のいずれかである。このピーナッツ以外のなかに主張している当人が含まれているからだ。そうではなく、もし私自身、主張するものが宇宙全体だったらこれはおきない。私のなかの部分集合であるピーナッツ以外について言及しているからだ。私は宇宙のなかの部分集合ではなく、すべてのものが私のなかの部分集合であれば、宇宙=自分であれば排中の原理は矛盾しないのだ。


  6-17

  二項対立と共感覚についてである。寝癖が激しく、たまたま通りすがったヤマアラシのメスにプロポーズされる。なんだか、シこ立ちでピースしながらの告白だったので、おそらくはプロではなくアマチュアっていうことでアマポーズとしておこう。問題はなんで寝癖なのか。睡眠中、寝返りをしたからだ。悪漢に追われ、最後、窮地に追いやられてついに非力でありながらも宇宙戦艦やまとをほおりなげて撃退した夢でもみたのであろう。夢とはなにか。実は大地、地球の内部の脳内イメージとのシンクロ、共鳴ではないか、というお話である。


  二項対立についてである。男女、上下、左右、内部と外部、精神と物体、心と肉体、音声と文字、自分と他人。これらが互いに対立しているという。しかも、リングの上では一方が優勢であり、他方は劣勢だと実況している。デリダはこれを第一項目は特権をもっているという。心のほうが肉体よりすばらしいとか、内部は外部より大切など。音声っていうのは自分がしゃべったことは直接に耳にはいってくる。文字だと作者がいなかったり、いろんな解釈できちゃう。ところが、音声のなかに文字的なものが潜伏しているという。音声をパロール、文字をエクリチュールといい、これを原エクリチュールとよぶ。そして、なんと、自分のなかに他人がひそむという。私は私だと即効、言い当てられないという。私のなかに他人がいる。w多足だといっても、それは私の残像、痕跡だというのだ。


  次の話は共感覚についてである。一般的にいう五感が混ざり合っている、病的かどうかははっきりししないが、混在した感覚だ。たとえば、色をみて音が聞こえたり、味わって色がみえたりである。とりわけ、そのなかでもミラータッチ共感覚というものがある。やまちゃんが斉藤くんにくすぐられているのをみて、私自身が本気でくすぐったくなること。他人の感覚が自分に伝わってしまうのだ。


   まとめ

  存在の科学


 
   異次元理論


   世の中の二項対立を重ねてみる。覚醒と睡眠。これは覚醒と夢としよう。生と死と重なる。頭上に太陽がある天と太陽のない大地。秩序と無秩序でもある。夜、寝ているときは天、太陽ではまく、大地とシンクロし、共鳴していてそれが夢なのではないか。脳は電気信号であり、ある種のプラズマ状態であり、これが脳内にホログラム映像を浮かばせる。太陽もまたプラズマ状態だといい、一種の脳であり、この脳内イメージの投影が太陽系かもしれない。そして、地球もまた内部は脳内イメージ、プラズマにおけるホログラムである。地球は広大な体積であり、この中の地球脳のイメージはもはや現実に近い。これが地球空洞説にいうシャンバラやテロス。われわれの睡眠においてはこの大地、地球内イメージとのシンクロ、共鳴があり、これが夢になる。さらに、同じくに功対立においては大地は混沌だった。だから、夢において支離滅裂であったり、感覚が混ざり合う、すなわち、共感覚状態だとおもわれるのである。



6-20

 意志と表象の世界、そして、プレスナーの離心性についてである。 顔とお尻が一致しない。名前を思い出そうとがんばってみる。どうしても、名前を思い出したいという意気込み、意志はあるのだが、考えていると脳裏にネグリジェを着たピーターパンが時速300キロでよぎるので気が散って思い出せない。意志と記憶、これはまさしくブラックホールの構造そのものだった。

 哲学者ショーペンハウワー、意志と表象の世界、についてである。個人には意志がある。よいしょといって、重量あげの選手がバーベルをもちあげる。意志がまずあって、つぎに持ち上げ方などのイメージ、表象がある。正直言ってしまえば、この世界のほとんどがイメージ、表象である。だれでも、すべてを見通していない。友人の靴下のなかの親指、みていないがあると想像する。宇宙もまた普遍的意志があるという。この上に、宇宙のイメージ、表象がある。この表象は具体的なものではなく、イデアだという。いろんな鉛筆があるが鉛筆そのもののイデアなのだ。

  次の話はプレスナーの離心性についてである。物体っていうのは空間に位置があるだけだという。有機体は自分の空間位置がずれているという。ばい菌なんていうのは全体の中心とばいきんちゃんひとつの中心のずれ。さらに動物は身体を動かすための自己がある。そして、ついには人間なのだが、身体のなかには魂があり、自分がいる。さらにそんな心と体があるんだな、と感じている第三の視点、眺望点がるという。いたって冷静に傍観者として自分をみている。この三重構造、心がずれているということが離心性とよんでいる。


  まとめ

  
  存在の科学



   異次元理論


   意志や意欲と記憶はどうもちがいそうだ。記憶というのは自分自身の意志ではない。なんだか間合いがあるのである。この意志と記憶はブラックホールの構造と同じである。ブラックホール落ちると加速度が増す。ついには光速を越えるのだが、これはタキオンであり、荷量も逆だし、時間も逆転する。一度、この一線を越えたら光ですら戻って来れない。この光速を越えてしまう限界面が事象地平面という。ブラックホールに吸い込まれると事象地平面ですべては刻印、記録されるという。ブラックホールの記録容量、エントロピー、情報量は事象地平面の面積に比例するという。事象地平面をプランクスケールの格子状にしたとき、その光子ひとつが1ピットである。ブラックホールは記録媒体、ハードディスクだったのである。ところが、相対論だと観測者の慣性系によって異なって観測される。第三者の位置から観測すれば、かりにやまちゃんがブラックホールに吸い込まれているとすれば、高温になって焼かれてしまい、ついには事象地平面に刻印される。ところがやまちゃん当人にとってみればただの自由落下運動であり、ただの浮遊状態が続き、温度もあがらず、事象地平面を越えてしまうのだ。プレスナーの意識の三重構造ではないが、この第三者敵な眺望点によって、記憶がうまれ、当人になれば記憶はないがそれが意志、意欲になっているのである。



 


   多元的現実と可能世界論についてである。八百屋さんでりんごを手にする。メロンとスイカがだんだん近づき寄り添っていちゃつきはじめたのを眼にしたとき、目が線から点になっておもわず、りんごを落とす。万有引力の誕生である。りんごが落ちたという事象の前に万有引力の法則があるのではなく、そのとき法則は生成されるのだ。重力による先入観と多世界について考えたい。


    シュッツの多元的現実についてである。一なる現実のなかに住んでいると思っている。ジェームスの弟子であるシュッツは多くの現実のなかにわれわれはいるんだよ、と主張。意識のあり方によって世界、現実は一変する。超ねむいとき、意識の緊張感はゆるむ。夢をみたりするが、夢もまた現実だという。あたまのうえのもくもくした雲のなかに想像。想像という現実だという。意識の緊張感、いかにぼーっとしているかというエポケー、判断停止。時間遠近法といって、過去のどれくらいにこだわり、未来のどこまで感じようと、希望などを抱いているかで現実もかわる。芸術も現実だといい、科学だって、圧巻におわれているなどの具体的な状況からぬけだした冷静な視点にたって科学的現実が現れる。とりわけ、ひとつの特別の現実のうえにこれらの現実は乗っかっている。日常現実である。唯一、日常の現実でだけ、ひとびとは触れ合い、スキンシップを取れるのだという。


   可能世界についてである。ライプニッツの最善世界観である。ひょっとしたらのいろんな可能世界があるという。私が大統領だった、可能世界もある。ただ、神様はたくさんの可能世界のなかでどれかベストかを吟味してひとつを現実化したのだという。神様が最善のものを選んだという楽観主義である。

  現代ではクリプキの可能世界意味論。いろんな並行世界、可能世界がある。ラッセルのいう確定記述というものがある。やまちゃんは男性で、床屋さんで、身長が180センチ、など。このやまちゃんっていう単語は固有名詞。それ以下がやまちゃんの説明文であり確定記述句という。可能世界ではもしかしたらやまちゃんは大統領かもしれないので、この確定記述句はいっぱいある。女性かもしれない。それでもすべての可能世界を貫くものがある。これが固有名のやまちゃんであり、これを固定指示子という。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   地球には重力がある。われわれはものを落ちるということから、下にはいとたやすく落ちるけど、上にいくのは労力が必要というように上下の意味がちがう。左右はほぼ等しいが、地球の自転公転から多少の非対称性がある。

  上下と左右というのはちがうんだという先入観。宇宙へ行くとこれがなくなる。


  さて、多次元的世界と多世界とはちがう。多次元とは点の0次元、線の一次元、平面の二次元、立体の三次元、時間の四次元というように、世界、宇宙の存在論的な構造のちがいがある。ところが多世界とは、たとえば、三次元空間でいえば、右手をあげた私の世界と左手をあげた私の世界にわかれる。つまり、状態、状況の変化であって、宇宙の根本構造のちがいではない。


  多次元は垂直であり、多世界は水平レベルなのだ。ところが、重力の先入観から抜け出せば、垂直も水平も同じではないか。だから、エヴェレットの多世界の分岐とは、多次元の分岐でもある。高次元、低次元という次元すら選択しているのだ。世界を構成する最小単位はプランクスケールの大きさのひも。ひものなかに5,6,7,8次元のような高次元が余剰次元として巻き上げられているという。その巻き上げられ方は10の50乗という膨大な解があるという。じつはこのような多次元的な宇宙構造、自然法則、論理法則すら並行世界の分岐の際には選択し、変貌しているのである。刻一刻の世界の分裂は状況ではなく、論理法則、自然法則、宇宙構造、根こそぎ分裂しているのだ。万有引力の法則があるのも、そういうある世界に毎回分岐し無意識的に先入観によって選択しているのだ。1+1=2になる世界も選択し続けているのである。法則があって、状況が変化したり、多世界の状況へと分岐するのではなく、状況の変化と同時に法則もまた分岐して生成されているのだ。





      カントの物自体、射影、そして、モナド論についてである。ポケットのなかにはビスケットがあるが、もう一回たたくと、ビスケットは粉々である。心や魂は少なくとも、ポケットのなかにはない。胸のうちか、腹のなかか。物体は宇宙の果ての現れであり、意識、心は宇宙の外にあるものの投影物というお話をする。


  カントの物自体についてである。じろじろとあんぱんをみている。いつどこかのあんぱんである。踏めばつぶれる。時間と空間の枠のなかにすっきりおさまり、踏んだのが原因でつぶれたのが結果だ。あんぱんの現象を認識しているのだ。あんぱんのなかのあんこの量も、だれがつくったかもわからない。あんぱんそれ自体、物自体は不可知なのだという。物自体は因果律なんて束縛もない。物自体ははるかなたのウルトラの星よりも遠くにある理念だとまでいった。そこで、じろじろ認識することをやめて、こんどは実践である。すると、自由意志による実践っていうのがじつは物自体である事に気がつく。自由意志は因果律なんか従わない。物自体は実践理性で、道徳的実践だというのだ。道徳的に善だ、というのはだれかにたのまれたり、押されて因果律的なものではないからだ。


  次の話はフッサールの射影についてである。ここからみると、かわいらしいが、後ろからみるとおざましい。エイリアンをながめているのだ。おのおのの断片的な見え方が射影であり、これをあつめて1匹のエイリアンっていう知覚になる。そして、体験っていうのはここから見たとかそんなものではなく、全体的に感じているので、射影でできていない。しかし、射影の実際の要素には体験があるという。


  最後にライプニッツのモナド論についてである。宇宙はモナドっていう体積の点でできているという。しかもその点からみた宇宙全体をモナドは点のくせに内部にたくわえているというのだ。そんなモナドをうまく配列させているのが神様であり、これを予定調和という。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


 
  マルダセナのホログラム理論というのがある。宇宙は膨張し、光の速度を超えて膨張しているところは、もはや光が返ってこないので原理上の不可視世界になる。このぎりぎりの境界面が事象の地平面である。この二次元的な事象地平面にひもが平面上を動く。平面の物理的挙動がわれわれの住むその地平面内部の三次元空間に投影されたものが物体というホログラムだというのだ。同じ挙動なのである。

  肉体、物体はすべてオリジナルデータは宇宙の果て、事象地平面にある。それでは意識、心はどこにあるのか。事象地平面の外にある別の宇宙が東映されたものなのだ。以前お話したが、意識は物体の惰性のように因果律的に過去、現在、未来と流れない。そうではなく、目的意識もそうだが、未来を先取りし、未来から現在という時間の逆向きによって肉体を動かし、思考もする。事象地平面の外から事象地平面の内側には光は届かない。光速を越えたタキオンが飛び込んで意識になっているのである。

  カントは物自体ははるかかなたの理念だといった。つまり、宇宙の果ての事象地平面のひもの挙動なのだ。また、実践も、肉体的な動きだからいわゆる事象地平面の二次元物理からくる。ただし、自由意志や意識というのは理念の向こう、事象地平面のむこう、物自体よりもはるかむこうからやってくる別の宇宙の投影物だ。

  ライプニッツのモナド論のように、モナドは自分からみた宇宙をしまっている。遠近法的なのである。なぜ、瞬時に宇宙の全部をみれないかといったら、宇宙=私ではなく、私=住んでいるこの宇宙以外の別宇宙だからである。


  

  6-28



   まとめ


  存在の科学


  異次元理論



  マルダセナの仮想実験なのだが、三つの三次元ブレーンを重ねる。そして、極力、重力の影響を出ないように、ブレーン上を移動するが軽いもの、低エネルギーのひもを選ぶ。光子などであるが、これは質量からすると、ほとんど五次元を自由に飛び回る重量子の影響がない。そこで、その動きを調べると、重なりあったブレーン上に閉じ込められている閉じたひも、重力子も同じ動きをしているという。つまり、前回、認識は光子、存在は重力子といったが、低エネルギー状態だとこれを実感できるのだ。これがいわゆる重力の影響をすくなくということから、肉や物質の影響をさけつつ、低エネルギーになる瞑想状態なのかもしれない。

  もうひとつ。ハーフミラーを使ったマッハ−ツェンダー干渉計実験だ。Aから入った光子は経路1と経路2のいずれかを通ってBからでてくるはずだ。ところが、そのどっちの経路にも進む。1と2という並行世界を通ってBで干渉するという。もしも、この中に光子を観測できる人工頭脳を置く。通過中にこの人工頭脳にきく。いま、光子はどっちかを通過しましたか、と。すると、通過しましたと答える。Bからでてきたあと、再度聞いてみる。1と2のどっちの経路を経て光子はでていったのですか、と。人工頭脳はこういうのだ。どっちかを通過したのはみたが、どっちだったかは忘れた、と。人工頭脳は二つの並行世界をみたからである。

 
  さて、われわれは見てないものがほとんどだし、さわっていないし、におってないものがたくさんある。つまり、宇宙の大半はいままさに感じていない。見ていない、感じていない、っていう無、記憶にないというのも同じだが、これは複数の並行世界が重なった状態なのだ。そこにはあらゆる対立が干渉しあって消えている。私と他者もそうである。私とケチャップの容器も同じ。だからこそ、すべての感じていないもののなかに私とそれ以外のものがあるから、それが顕在化したとき、私は他人の気持ちになれるという間主観性があるし、外界の事物を把握することができるのだ。見ていないもののなかに、見ているものと見られているもの、さらにはいろんな状態が重なり合って共存しているのである。


posted by モノイイ ジョーカー at 21:12| 東京 ☀| 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

仙人新聞 2012・05・01

仙人新聞 2012・05・01



五日分です。もういつものパターンになりましたw


***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/22145246

http://www.ustream.tv/recorded/22169537

http://www.ustream.tv/recorded/22199022

http://www.ustream.tv/recorded/22235611

http://www.ustream.tv/recorded/22252842



***宇宙mixエクリチュール版***



**哲風呂**

ローティ、哲学と自然の鏡、そして、ヒューム哲学についてである。月とすっぽんだ、という。月とすっぽんの合体ロボット。藪から棒というが、藪に生息する主、それがこの棒だったりする。へそ曲がりに、右曲がりダンディな発言なのだが、一見違っていても、実は同じだったというものがほとんどだ。


   ローティ著、哲学と自然の鏡、についてである。むかしから哲学は、心をあたかも自然や宇宙をそのまま映し出す鏡のようにとらえていた。鏡といったら手鏡で水虫の皮をむいたり、にきびを移動したりするが、鏡が心で、いかに忠実に真実の世界をそこに映し出すかが問題になる。心と世界、しかも、映し出されたものが正しいか間違っているかの真偽、善悪もそうであるが、とにかく、なんでもかんでも二つにわける二元論になっちゃう。ローティはこんなにはっきり二つに分かれているのではなく、常に動いている、写真におさめてもぼやけてしまうように活動、実践的な世界だという。だから、これが絶対不動に真理、真偽もはっきりさせない。まちがっていたら申し訳ない、といいながら訂正。これが可謬主義だ。

   次の話はヒューム哲学についてである。ヒュームはすべては思い込みだという。たしか、便所には誰もいなくても便器のふたがそれ自体であるだろう、と推測。ところが、なんどとなくトイレに駆け込んで、そのときにあったので、習慣的に思い込んでいるだけだ。昨日と今日の自分は同じ自分だと思い込む。昨日、感じた知覚といままさに感じているもの。これらを束ねているものが私、私すら思いこみだ。

  色とかにおいの印象。これらがなんだか習慣的にあつまって、一本の木の知覚。そして、木の裏側を想像し、さらには記憶する。印象、感覚、知覚、記憶、これらははっきりわかれているのではなく、強弱の差。強烈なものが印象や感覚であり、うすまったのが記憶や想像だという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   色や形、においという感覚、そして、知覚があるが、これらはすべて空間中の無の点、ゼロポイントフィールドへのアクセスである。しかも、こういった知覚を記憶したり、想像したりするのも、他ならぬこのZPFへの接続だ。自分の周波数にあわせて、自分自身のロッカーから取り出すのが記憶。他者の記憶や状況が断片的に入り込んだのがひらめき、直感。別次元の空間点への非局在的な接続が想像、などのようにすべてが点への接続。

  人間は生活している。いろんなものを心にうつす。つまりは意識し、また、なにをしているのか、自覚、自己意識もある。ひとも生命もいない惑星。または、生命のいない場所。四元素なり、五行論的な世界ではある。地があり、水があり、火に相当するものがあり、風がある。水に反射して、青空がうつる。風で地形がかわる。湖面は自らの反射光をさらに反射させてきらめく。水面がうつしだすとはまさに意識ではないか。自分を反射させてきらめくのが自己意識。要するに、人間の日常的な営み、そっくりそのまま無生物界、だれもいない世界でも生活が営まれている。人類が進化し、別のことをしているのではない。生命のいないところでも同じような生活がある。

   クレイジートーク


  突然、遅い時間になって雨で中止の電話。うれしさ半分であるが、基本的にはうれしい。近くのコンビニが改装中につき、予期せぬ出来事にあたまがパニック。千葉県某所のコンビニの駐車場で入力中である。それにしても、なんでこんなところにいるのか。コンビニを探してさすらっていたら遠くまで来てしまった。迷子の子猫、もとい、迷える子ごりらにならぬようにヤニ購入したので帰宅することにしよう。てなわけでクレイジーをおしまいにする。

**哲風呂**


ホワイトヘッドのコスモロジーとヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。雷鳴轟き、驚きのあまり尻餅をつく。暗雲立ち込めどしゃぶり。水もしたたるいい金魚だ。金魚がびしょぬれ、というより、初期設定でずぶぬれだ。天気の変動は生命の無意識によるものではないのか。地球的変動は超無意識、つまりは宇宙の関与である。

 
  ホワイトヘッドのコスモロジーについてである。宇宙はこりかたまった事物でできているのではない、という。ちょっとした出来事、事象からできているという。ハンケツっといいながらズボンを下ろす。同じようなズボンの下ろし方はできない。たった一回の貴重な出来事、これが現実存在、アクチュアルエンティティだ。こんなハンケツという事象が宇宙に影響を与え、全宇宙の影響でハンケツという出来事が起きる。現実存在は宇宙を包み、宇宙は現実存在を包む。

 次の話はヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。それはそこにある、という。一体どういうことなのか。なんでここにニンジンがあるのか、根拠を言ってほしい。すべては無根拠だという。言語ゲーム、という発想。生活の流れのなかで自然に言語のルール、文法ができて、しかも、単語の意味もきまる。なんでパンツをパンツという表現なのか、そういうルールだから根拠がない。

  こんなヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を宗教運動に使う。宗教の儀式、はたしてあの動きになんの根拠があるのか。根拠はなく、ただそれはそこにあるだけであり、意味があるのだ。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    身の回りの天候、地域の天気、これらは生命の無意識によるものによる変動が影響しているのではないか。意識はからだを動かす。その下の無意識はからだの外の周囲の世界、いわゆる、状況を決定する。そして、無意識よりも深い超無意識、これは無の点であり、ZPFにおける非局在的な宇宙のつながり、だから、宇宙そのものへ影響与える。地球の地軸の傾き、地球的な規模の火山活動は宇宙に目を向けるべきである。太陽の黒点数と関係している。

  宇宙さんにとって、宇宙さんの無意識はわれわれの意識。だから、われわれの意識が宇宙さんの周囲の状況を決定だ。三次元ブレーン宇宙のまわりとは五次元ではないか。もはや、ここでは数学、自然科学の法則、論理法則が成立しない。ここでは根拠のない任意なルールの選択だ。ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、そのどちらの宇宙もありえる。四つの力の宇宙もあれば、二つの力の宇宙もある。任意の選択、無根拠のルールがある。


   クレイジートーク


   大雨予報につき、今日は休み。雷が遠くなっている。なんだか雨の日はちょっと憂鬱で、気持ちがドラキュラ伯爵のようだ。ナメクジになったようなそんな陰湿感を全面に出して、今日も一日、ナイスガイでいることにする。ナイス貝になりたい。羽の生えたナイス貝になりたいとお星様にお願いしたところで、クレイジーはフェードアウトする。


**哲風呂**

直感主義と論理主義についてである。世の中、理屈では割り切れない、とそろばんをはじいているときにつぶやく。計算できないことがある。理不尽、不条理なのだが、なんといってもこれには高次元の世界が関与しているからだといいたい。どこにでもある四次元ドア、これが計算不能にしている。

  ブラウワーの直感主義についてである。直感し、感じ取ったものは確実だ。数学でも、魚1匹、二匹、というような自然数からコツコツ積み重ねて計算だ。マイナス1匹とか、ルート3匹、虚数iなんていうのは直感できない。だから、とりわけ、無限は直感できないので嫌う。論理学の排中の原理を数学にもちこむこと反対。こちらにおられるのは水戸黄門か、水戸黄門以外のいずれかである、という排中律。水戸黄門と水戸黄門以外というのは、無限の宇宙のどれかといっているのだから、無限について語っている。だから、ブラウワーは排中律を好まない。

  これに反して、論理主義。こちらは直感できなくても、無理数や無限を大いに使ってしまおうというもの。数学に論理学をどっぷり適用だ。もちろん、排中の原理が大好きである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   綱渡りをしているひとは前後した移動できない、いわゆる、一元の直線の世界だ。ところが、足元を拡大すると、ロープをアリがぐるぐるとまわっている。アリにとっては二次元の平面である。高次元はなぜみえないのか。見えないのはえてして小さすぎるからである。一次元に二次元が丸め込まれているのだ。しかも、足元のどこにでも二次元がある。同じく、三次元に住むわれわれのどこにでも、小さすぎて見えない高次元がある。四次元の時間はおそらく、生命の意識であろう。意識とは時間的なものだ。空間中のすべてに生命の意識が充満している。五次元もまたすべてにある。

  さて、高次元、五次元にいってみると、三次元のブレーンがたくさんある。並行世界に分岐して無数に三次元宇宙が漂う。三次元がたくさんあるのだ。もう一度いうと、三次元のなかには高次元が無数にあり、高次元のなかに低次元が無数にある。互いにたくさんに見えている。


  私は一人、他者は無数にいる。私にとって、大衆はたくさんいる。大衆の一人のAさんだけをみると、Aさんのひとなり、性格、いろんな側面がみえてくる。量ではなく、質的な多様性がみえる。いずれにしても、たくさんのものがみえる。Aさんが私も含めた大衆をみると、量的にたくさん。私だけをみても、いろんな側面がみえる。互いが互いに無数にたくさんにみえるのである。


   クレイジートーク

  現場は西日暮里。いきなりだが、そろそろ監督さんに電話する時間だ。もしもし、私りかちゃん、と電話したら失礼きわまりないので、やめておこう。おそらく、年配だからである。年輩を敬う。さすがに、あのヒットポップ系のダンスが凄い、年の功である。あのジャーマンスープレックスもまた年の功だ。なんでもかんでも年の功だ、ということで、そろそろこのへんでクレイジー終えてモールス信号で監督に連絡を入れることにしよう。

**哲風呂**

無を無化する、そして、ヤスパースの実存開明についてである。われわれはどんどん小さくなっているのではないか。スモールイズビューティフル。点よりも小さくなって別世界になってしまう。時間が刻一刻加速されているという驚くべき理論、宇宙が加速度的に膨張しているということ、これらをトータルして今後の人類の行く末を考えたい。


  哲学者ハイデガー、無を無化する、についてである。無いものを無くしちゃう、とはどういうことか。私は無にサンドイッチされている具であり、ピクルスである。過去は私のいなかった棒大な歴史、未来は死である。無にふれるとき、皆目なにもみえないので不安で胸いっぱいだ。そして、覚悟して無をかんじちゃう。これが無の無化。有がどかーんとうまれる。私をはさんでいるところに手をのばすのだから、私が私の存在をつかんじゃう。不安と覚悟、真剣そのものになって自分をつかんじゃうのである。


   哲学者ヤスパースの実存開明についてである。存在の仕方、スタイルがあるらしい。まずは日常的世界定位というもの。どの大根を購入するか手にとって品定め。大根は自分とかかわっているという。自分とかかわる、おのれのケツをふく、これは現存在だ。ハイデガーは人間だけが現存在。ヤスパースはなんと大根も現存在というのだ。日常的な世界定位では私も大根も同じ存在のスタイルだ。


   もうひとつ、科学的世界定位だ。私は日常のなかから抜け出して頭上高くあがり、だれでもない意識一般になってしまう。そうして、状況無関係にいたって冷静に客観的に世の中を見ちゃう。そして、私が精神になって理念をみる、これが理念的世界定位である。


  いずれにしても、ほんとうの存在のスタイルではないという。ほんものは哲学的世界定位だという。八方塞、どこにも逃げられない。こんなときは自分のちっぽけさ、有限だな、と実感。もうこうなったら内側に逃げるしかない。内面的に突き進んで、ついには自分に穴があいて、広大な外の世界が見えてくる。このとき、超越者の声を聴くというのだ。限界状況で超越者と出会うのである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    
   タイムウェーブゼロ理論というものがある。宇宙の時間はらせん状になっていて、だんだん円のサイクルが小さくなって、ついには時間が加速しつづけ、止まってしまうというのだ。

  話は小さなものについてである。超小さなものは空間と時間が接近しすぎて時空が入り交ざる。原子である。原子核を中心に電子がまわるのだが、電子は確率的にいろんなところにかさなりあって存在。原子核を自分に見立てると、まわりは分身の術でいろんなところに電子がある、これは電子の可能性であり、いってしまえば、時間的な可能性、未来だ。空間に時間が入り込んでいるのである。しかも、時間とは時間意識でもある。


  宇宙は加速度的に膨張しているという。宇宙を定常状態とみなすと、じつにわれわれが加速度的に小さくなっていると考えられる。つまり、より、時空が混ざり合い、空間的な肉体も時間意識化される。だから、時間が加速するのではないか。以前話たが、私の意識は無の点。無の点よりも小さくなってしまえば、ZPFの向こう、高次元は微小なものに巻き込まれているのだから、意識は高次元に飛翔する。

  宇宙はフラクタルだ。原子核の周りの電子。太陽のまわりの惑星。ブラックホールを中心に銀河系。私をブラックホールの中心とみなし、周りを飲み込んでいると考える。すると、私はどんどん中心に萎縮しはじめ、ついにはいわゆる事象地平の宇宙側にはいる。事象地平の内側は時空がめちゃくちゃであり、ワームホールで異次元とつながるといわれている。いずれにしても、同じ事態を別な言い方しているだけになる。

 
  クレイジートーク

   現場は昨日と同じ、西日暮里。朝飯はコーンスープにフランスパンというフランソワな朝のひとときだったが、現場にきてまたもやセカンドブレックファーストにカップラーメンのそばを食った。胃のなかは和洋折衷、着物を着た目の青い外国人というような状態であり、腹80文目で動きが若干鈍い。さあ、仕事がはじまるそんな雰囲気なので、クレイジーをさっそくやめて、出動態勢に入る。


**哲風呂**


当為と全体論についてである。なんで鼻くそを知人のシャツにつけてはいけないのか。だれもみていない、防犯カメラがないから何やってもいいのだろうか。そうではなく、すべてが心のなかまでもが記録され、一人でいても無数の目に取り囲まれているということをいいたい。


   当為とはなにか。そこにぶどうがある。商品なので、汝、食いついてはならぬ、と心の声を聴く。ぶどうがそこにあるとは、存在。そして、汝なすべし、してはいけない、というのが当為だ。カントは理屈で、理論的に考える理性はもっぱら存在を扱い、どうやってひとは行為したほうがいいか、という実践理性では当為を扱うという。存在と当為は対になっているのだ。

  ひとがいいことしなさい、といって触発されていいことをする。原因があって結果があり。他者に縛られているから他律という。そうではなく、原因がない、自分から率先して自由意志でやるものが道徳であり、当為であるという。腹減ったから食う、というのは生理学の法則に縛られている。自由は道徳の大前提だったりする。

   哲学者フィヒテは宇宙と一体になるための努力、これを当為といった。ヘーゲルは、有限でちっぽけな自分の目標が当為。無限のはじまり、スタートだという。有限のゴールで、無限のはじまりだという。

   次の話は全体論である。部分は全体と直接関係しちゃっている。耳たぶは全身と関係している。部分を集めたら全体ではなく、部分集めた以上のものが全体にはある。

  クワインが考えるに、部分をちょっといじくっただけで全体が変わってしまうという整合説だ。だから、ワンポイントアクセサリーは気をつけないと、美女を野獣にしてしまう。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

 
  生命のからだの大半が水である。水はなにか特殊な働きがある。さまざまな情報を記録し、それを他の分子に与える。水分子は異次元とつながっているのかもしれない。水は体内中では液体であり、波動をもつ。波動の性質が記録なのだ。量子論ではすべてが波動である。だから、すべてが記録装置であり、心のなかも、していることもすべて記録されている。

   海の波、この波をAとしよう。これははるかかなたの波Bと波Cが重なってできたともいえる。波Dと波Eがかさなっともいえる。つまり、すべてがこの波Aと関係している。私は量子、波動でできているので、すべてのものが関与している。すべてのものたちにかこまれている。一人でいても無数の目に囲まれているのである。道徳、当為とはこんな考えをベースにすれば納得できるかもしれない。

   波Aはひょっとしたら波Fと波Gの重なったものかもしれない。つまり、あらゆる組み合わせが考えられ、すべてが正解である。ひょっとしたらのあらゆる組み合わせ、並行世界のすべてがこの波Aに関与しているのだから、宇宙全体が互いにつながっているという全体論ではなく、この宇宙を越えた並行世界のすべての関与なので、超全体論と名づけたい。



   クレイジートーク


  現場は西日暮里。朝飯は大盛りの中華丼だ。もはや、いまのおいらはハングリー精神がなえてしまい、食った食った、と腹を叩いている満ち足りたものと化している。これだと闘争本能むき出し、歯茎むき出しの、デパートのワゴンコーナー付近の戦には参戦できない。ということで、満腹による睡魔がやってきたので、仕事もはじまることもおまけ的に理由として、クレイジーはここで終わる。




posted by モノイイ ジョーカー at 12:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月26日

仙人新聞 2012・04・26

仙人新聞 2012・04・26


今回も五日分たまってます。。



***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/22028207

http://www.ustream.tv/recorded/22061673

http://www.ustream.tv/recorded/22077787

http://www.ustream.tv/recorded/22098315

http://www.ustream.tv/recorded/22122075


***宇宙mixエクリチュール版***

**哲風呂**

パースの記号論と中性的一元論についてである。心とからだ、心身ともに健やかになろう、という目標。心は見えないが、からだは見える。いわゆる丸見えなのである。からだは実体あるけど、心はどうやら実体がないらしい。もしかしたら、からだも実体がない、ということは、からだは心だとはいえないだろうか。

   パースの記号論についてである。プラグマティズムを提唱したパース。中でも記号論は有名だ。まず、反デカルト主義をかかげる。デカルトの理屈なき直感が気に食わないらしい。すべてを疑っても、いままさに疑っている自分がいることだけは疑えないと直感的に悟るデカルト。直感ではなく、すべては記号だという。記号を使った論理的な認識だという。


   友人が遊びに来る。どうぞ、と招き入れるが、友人は人間だと仮説を立てている。この仮説のことをアブダクションという。ところが、いきなり脱皮しはじめて蝶になったら、この仮説は壊れる。驚きのあまり腰を抜かすが、蝶かもしれないという仮説を新たに立てる。羽が生えているならば蝶である、という仮言判断だ。もしなんとかならばなんとか、という論法。これをプラグマティッシュという。こうやって、記号による仮説、まちがっていたら訂正ということをして、認識しているというのだ。


   次の話はジェームスの中性的一元論についてである。ジェームスはパースの弟子である。心とからだ、心と物体をわけてしまいがちである。もしくは、観念、イメージと実在もわける。そうではなく、なんだかわからない中性的なものがあって、状況、流れによって、イメージっぽくなったり、実在っぽくなるというのだ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    デジタル生物学のお話をした。量子というのはファジーだが、電子を例にとっても、軌道上を波となってまわり、山谷という整数倍のエネルギー、デジタルなのである。水分子の固有周期と同じ信号を細胞に与えると細胞が活性化する。しかも、細胞もまた分子構造なので、固有周期の波動をもつ。ということはとどのつまり、すべてがデジタル信号、記号ではないか。肉体もまた、外界の物体の固有周期、波動と干渉し、信じられないくらいの膨大な情報量のコミュニケーションをしている。だから、生命の複雑な活動が可能になる。心は見えない実体なきもの。肉体もまた実体なき記号だとすれば、心は肉体、肉体は心であり、しかも、両者には実体がない。


   クレイジートーク


   先月、一度来た現場、西日暮里である。外が極寒だが、監督の話をよくきいた。耳の穴はかっぽじなかったが、すくなくとも馬の耳に水、寝耳に念仏。お行儀よく、カマキリ拳法の演舞をしながら監督の話を上の空で真剣に聞いたので、段取りは一応わかった。ということで、今日もまた、気合入れてお仕事のはじまりはじまり、クレイジーはここで終了。


**哲風呂**

生活世界と四元素説についてである。宇宙と一体だ、と叫び声が民家から聞こえてくる。ここに素朴な疑問が浮上、浴槽で潜水艦が浮上か、と身構えていたらただの大きな泡だった。宇宙の外はどうななっているかである。宇宙の外はふつうの日常世界がひろがっている、という一体化後の一周後の世界について考えたい。


   哲学者フッサールの生活世界についてである。当初、前期のフッサールは現象学的態度に没頭。周囲を見渡すと、山があり、敵艦隊に包囲されていたり、洗濯物がぶらさがっていたりする。すべては自分が勝手に判断したのであって、ほんとに山なのか疑わしい。判断を停止すると、自分の名前や経歴すら怪しくなる。ただの私、純粋自我しか残らないという。

  ところが、この方法だと解決できないものが残った。身体って自分の意のままに動かせるけどなんなのか。他人とはなにかという間主観性問題。こうやって、後期フッサールは考えを180度変える。現象学的態度もそうであるが、じつはもっと基盤があった。科学的な態度、これを自然主義的態度というが、原子があり、分子で世界はできているという見かた。とはいっても、科学者はまず、家に帰ったら夕飯食って、科学的に鮭について分子構造考えていない。そもそも、科学は生活の必要、測量などから生まれた。つまり、すべての地盤はなんと、みかんは食い物、焼き魚も食い物だ、というごく当たり前の自然的態度で見える生活世界だった。


   次の話はエンペドクレスの四元素説についてである。宇宙はなんと単純に四つの元素の組み合わせだという。地水火風だというのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

 
   チャネリングというものがある。時空を越えた生命体とコンタクトをとる。真空の点、量子場は非局在的にすべてにつながっているので、その点に含まれる情報は無限。記憶はそこから適切な情報を引き出す。実質、制約を取っ払ってしまうと、あらゆる情報、あらゆるものとコンタクトできてしまうのだが、これは無限情報のなだれ込みで危険である。あるチャンネルにあわせるとそこから知的生命との対話ができる。

  そして、あるチャネリングでアセンションをすでにはたした文明のコンタクトで、こんなことを語っていた。分子は原子、原子は素粒子、素粒子は量子。量子は意識そのもので、よって宇宙は意識に満たされている。この先に聖なる四元素、地水火風があると。


  ここから次のようなことがいえないだろうか。たしかに、量子の海のなかにいるとは、意識の海のなかを泳いでいる。宇宙は私の意識そのものだという、梵我一如。この宇宙の先、事象地平の向こうには何があるのか。宇宙は加速度的に膨張しているので、宇宙の外側の時空をゆがませ、収縮させているという。宇宙は私そのものだった。よって、私は私の外のものをゆがませ、収縮させているのだ。量子の波動の収縮。箱を開けたとたん、波動の重なった状態、生きている猫、死んでいる猫、毛づくろいしている猫がかさなっているが、見た瞬間に波動は収束、収縮し、猫の状態が確定。まさしく、私は宇宙なので、外の世界を収縮させて確定させている。いわゆるふつうの現実世界になっている。日常世界がひろがっているのだ。地水火風は幼稚ではない。一度宇宙と一体化し、またもどってきて外を見たとき、日常世界がひろがっているのだ。


   クレイジートーク

   現場は雑司が谷だ。最近、仕事が忙しくて目が充血している。どうも、目が血走って、なんだかガメラ風な興奮状態な人に見られてしまいがち。近寄りがたい、危ないひとだと思われないように、ちょっとチャーミングな動きをマスターした。足の裏を匂って、うっとりした目つきになってバタっと倒れる。ああ、本当にいきなりクレイジー終了。


**哲風呂**


否定弁証法と単独者についてである。私が私であること。なんだかいきなり道徳の授業のにおいをはなってみた。それは、形ではないか、形の意味。人間の形はもう見慣れているので驚くことはない。欠けているところがあるから形になり、形があるから、全能じゃなかったりする。そのへんのお話をしてみたい。


   哲学者アドルノの否定弁証法についてである。否定の否定は肯定である、と万事うまくいって、一件落着。あとは寝るだけである。これがヘーゲル哲学の肯定弁証法だという。たまねぎと出会って、涙とまらない。このたまねぎは世界でたった一個しかない。このたまねぎを否定するものは宇宙に無数にある。ニンジンではない、スイカでもないし、パンツでもない。そんなこのたまねぎを否定するものを再度、否定すると、このたまねぎにもどってくる。否定の否定で帰ってきて万事終了である。

  ところが、アドルノはこれだと、硬直したもので、なにも活動しなくなってしまうので、否定の否定の否定は否定だという。最後が否定で終わっているからいてもたってもいられずに、カニ歩きする。ただし、全面的な否定ではない。ちょっとだけ、限定的に否定だという。全否定は懐疑論になってしまうからだ。あれもこれも全部疑わしいとなってしまうからである。

   次の話はキルケゴールの単独者についてである。やはり、ヘーゲル哲学を批判する。みんなにとっての普遍的な真理があるというヘーゲル。神様は宇宙であり、宇宙はいつしか、自分が宇宙だと自覚する。そのための歴史であって、歴史には目的があるという。そうではなくて、キルケゴールは真理っていうのは普遍的じゃなくて、いまここにいる個性的な私だという。自分らしさが真理だというのだ。



  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



   形というものがある。形の肉的なものではなく、その欠けているところに意味がある。何で、宇宙のあらゆる点、ZPFは非局在性によってあらゆるものに結ばれているのに、他者の記憶にアクセスできないのか。鍵がかかっているのである。この鍵が形である。たいてい、個人差はあるものの、肩の上、耳のわきはなにもない。又のあいだもかけている。肩の上、ここで無の点の声を聴く、だから、耳がある。欠けている、無だからこそ、活動領域がある。肉体的な個性的な形も鍵のひとつである。

  私は宇宙と一体。宇宙は膨張しているので、事象地平の外の時空をゆがませ、収縮させている。私の外と同じだから、私は外の量子論的な波動状態を収縮、収束させている。確定していても、不確定なものもある。ここでもう一度宇宙と一体になり、宇宙の外、すなわち、私の外の世界を再度、収縮。こうやって、どんどん循環することで、ひとつの方向性、ベクトルがはっきりしてきて個性になり、ZPFへのアクセスキーになる。

   クレイジートーク


   今日は気の知れたメンバーの現場。気持ちがかなり楽である。知らない業者だと、どうもおとなしく猫をかぶるが、タイガーマスクをかぶるのではない。人前だと、こいつはパンツをかぶるんだよな、ともいわない。それはややもすれば、変態。ふるちんのUFOの編隊に遭遇。転んで道と遭遇したということで、クレイジーをエスケープする。


**哲風呂**

多元的現実論と存在論的差異についてである。心とからだ、この二つは似ているようで似てない。心からの贈り物と、からだからの贈り物はちがう。生物のからだは超高精度で成り立っている。心もまた高精度である。次元を一歩上にいくと、このふたつは大差ないかもしれない。むしろ、同じものだというそんなお話である。

   
  シュッツの多元的現実論についてである。一なる現実に住んでいるように思っているわれわれ。現実を直視しなさい、といわれ、じ〜っとまばたきこらえて直視したら眼精疲労だ。夢や想像、芸術、これらもまた現実だという。意識がどれくらい緊張しているか。ぼ〜っと判断停止しているか、過去にこだわっているか、未来への希望か、そんな意識のあり方で現実はたくさん出現。それでも、至高の現実というものがある。ふつうにカニ歩きで山登りしたりする日常という現実だ。日常現実は唯一、他者と触れ合えるし、コミュニケーションもできちゃう。だから、すべての現実の土台だという。


   次の話はハイデガーの存在論的差異についてである。存在的と存在論的というのはちがうという。存在的のほうが軽い。湯飲み茶碗がございます、と重々しい言い方をしても所詮、存在的。人間はそうではなく、存在ってなんだ、とか、存在しているな、とおのれの存在とかかわっている。存在に関与しちゃった存在、これが存在論的である。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   三次元空間内の点は相互に非局在的に関連しあう。これが生命の肉体になる。虫でも、動物も、その緻密な構造、生体活動はじつに、空間を越えたエンタングルメントによるものだ。一方、生命の意識は時空を超えたZPFの非局在的な関係でうまれる。過去、未来、ひょっとしたらの並行世界、多世界。時空を越えたエンタングルメントが意識。よって、五次元に漂う三次元ブレーンという視点に立てば、肉体の非局在と意識の非局在はベクトルの違いに過ぎない。存在的なもの、存在論的なもの。肉体と意識はベクトルの違い。


  なぜ、肉体は石を動かせるのか。空間的に離れているものを非局在的に関係することが同時に局在的な接触、力学的伝達になる。すると、局在は非局在の情報のやり取りをおこなった姿だといえる。


   クレイジートーク

 
   現場はホリキリ。このあいだの伝票をなくしてしまい、右往左往、あたふたしている。どうしようか。約束の伝票が見当たらない。こうなったらテレポーテーションでとある平和な家庭の茶の間にいって、お茶のんでくつろぐしかない。逃げの一手である。それか変装や、岩に擬態という手もあるが、仕事中なのでここでクレイジー終了しないとやばい。


**哲風呂**

コペルニクス的転回、言語論的転回、そして、存在論的転回についてである。いろんなものをいっしょくたにする。ごはんにお汁粉ぶっかっけて、パスタに醤油をかける。人間は記憶し、知覚し、おまけに直感までする。これらすべて同じもの。認識しているけど、認識っていうのは存在じゃないのか、といういろんなものを転回である。

  カントのコペルニクス的転回についてである。コペルニクスは当時に考えられていた、大地はとまっていて、そのまわりに天体がぐるぐるまわるという考えを覆した。地球も動いているといったのだ。自分たちの地球がうごいていることにふと気がつく。カントは自らの哲学はまさしくコペルニクス的な転回だ、という。大根をみつめちゃう。大根が存在しているから認識ができる、というのが常識。そうではなくて、白い、長細い、という感覚は向こうからやってくるが、これらをまとめて大根だと判断しているのは他ならぬ私。私が認識しているから大根っていうものがある。

  大根に心奪われ、没頭しているのは超越という。我を忘れている。ところが、そんな没頭している、超越しちゃっている自分と大根と、両方を冷ややかに眺めるのが超越論的な意識だ。超越的を論じちゃうからである。このとき、自分が活動して、動いて、大根っていう現象を作っている、というコペルニクス的転回がある。

   次の話はヴィトゲンシュタインの言語論的転回についてである。前期ヴィトゲンシュタインは言葉と事実は対応していると考えた。ちゃんと対応しているときは正解、対応していないと不正解。いわば、単語、言葉はただのレッテルだ。後期ヴィトゲンシュタインはそんな若かりしころの自分の思想を自己批判。そもそも、生活の流れのなかで言葉の文法、単語が自然発生。大根はニンジンっていう単語の音とか、形の違いから意味がうまれている。そんな生活の流れが大根の意味を生み出す。言葉が大根の意味であって、大根っていうかたまりが最初からあるのではない。


   最後にハイデガーの存在論的転回についてである。こちらもまた、前期と後期だ。若かりしころのハイデガー。存在そのものっていうのは力んで出すおならのごとく、自分から自分が抜け出す、超越によって生まれると考えた。私は大根とちがって、自分の存在にかかわっている。いるんだな〜っていう存在感だ。自分の力で存在をオープンにする。後期は存在とは向こうから、歴史的に一方的にやってくるという。しかも、存在者という服を着てやってくるという。素っ裸の存在そのものは、なにもない、価値もない、相対的で嫌になってしまうニヒリズムのときに姿を現すという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   五次元の世界では三次元のブレーンがたくさんある。これらはビッグバンのとき以降、別れた無数の並行世界、多世界である。この五次元を縦横無尽に移動する光子。われわれの三次元ブレーンに侵入したとき、これがわれわれにとっての重力、ダークマター、ダークエネルギーになる。その進入角の違い。たまたま、三次元ブレーンのなかを移動する光子はいわゆるふつうの光だ。光は認識だ。におい、聴覚だって、最終的には電気パルスにフーリエ変換、だから、光の情報だ。光は認識論。重力やダークなものたちは存在論だ。認識論は存在論だったのである。


  生体は細胞間の光コミュニケーションを行い、複雑な生体活動をする。母体から生まれたときの、母体の波動がいまもなお、細胞やからだの分子のベースになる。同じく、生命の意識は以前話したように、五次元を移動する多世界的な非局在性、エンタングルメントだ。ところが、多世界といっても、根はビッグバンからわかれでたもの。ビッグバンのときの振動、波長は宇宙背景輻射というが多世界を五次元中に移動する意識のベースになっている。意識はビッグバンとともにはじまり、肉体は母体からの誕生とともにはじまる。


   クレイジートーク

  日曜日の昼。場所は近くのスーパーの駐車場。買い物だ。何を買おうか迷っている。日用雑貨か、はたまた、ダイエットグッズか、食料品か。ジャンルが広すぎて困惑だ。一体、おいらはなにをしたいのかと自問自答。しかも、いま、なにをしているのかもおのれに聴いてみた。答えは返ってこない、ただひたすら不敵な笑みを浮かべ、ふっふっふといったのだが、ふっという息に唇に一生懸命こびりついていたやきそばのノリがちょっと民族大移動してしまった。パスタを食ってなにゆえやきそばのノリがついているのか世界七不思議ということで一挙解決したところで、クレイジーを終えて買い物へ行ってくる。







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2012年04月21日

仙人新聞 2012.04・21

仙人新聞 2012.04・21
  

五日分。



***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/21902640


http://www.ustream.tv/recorded/21922955

http://www.ustream.tv/recorded/21954771

http://www.ustream.tv/recorded/21955180

http://www.ustream.tv/recorded/21973184

http://www.ustream.tv/recorded/21994256




***宇宙mixエクリチュール版***



**哲風呂**


生の哲学と作用影響史についてである。高次元ではすべてが調和、問題を解決した水戸黄門のように茶屋でくつろぐ癒しのひとときのなのか。茶屋の縁台にすわって、すわり心地との格闘がもうすでにはじまっている。高次元でもまた、新たなるわれわれには想像できないような高度なゆがみが生じているのではないか、というお話だ。


  哲学者ディルタイ、生の哲学、についてである。生。生きるとは体験だという。経験はもうちょっと視野狭い。すべてで感じる体験。そして、原子や分子で細胞ができている、これらが集まって自分の肉体、生があるという自然科学の法則が最初にあるのではないという。まずは生きているという法則、カテゴリーがあるという。ここから自然科学の法則、カテゴリーがにじみ出る。

  自然科学の実体という考え。りんごは自分がいなくてもそれ自体でいられるというもの。これは生の体験、とくにおれがいるんだな、という自己意識、これが自分は自分なんだ、という自同性。さらには、ここから実体へと変貌しちゃう。自然科学の相互作用のカテゴリーや因果律のカテゴリー。これは生における抵抗のカテゴリーからでてくる。なんだか思い通りにならない。抵抗感を感じるのだが、これが押したら同じ力で押し返されるという相互作用、さらにはちょっとばかりずれて原因と結果の因果律がうまれる。


  ガダマーの作用影響史についてである。人間は先入観のかたまりだという。かって、ベーコンはこんな先入観をイドラといい、これをふき取ってきれいにしてから真理をみることを提唱。ところが、ガダマーはそもそも先入観がないと、なにかを認識できない、という。というのも、りんごは食い物だという先入観だし、自分の外に見えているから実在っていうのも先入観だ。


  やばい悪漢にかこまれたという窮地の状況で科学者のように客観的に冷静でいられるのか。状況や時代の中にいて、絶対にこの外にでて冷静に判断できないという。過去の歴史、伝統によって現代があり、その影響によってまた過去の歴史を解釈というようなキャッチーボールをしているという。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   前回、高次元では調和、二項対立のずれやゆがみが解消だといった。四次元では時間的前後もなく、四次元軸の完成をもって二元性の対立は解消。五次元でも調和だが、あらたなる高度なゆがみがある。六次元からの方向、ベクトルからくるものによってずれがうまれるのだ。三次元においては闇と光はちがった。五次元ではベクトル、光子の進む方向の違いでしかないく、光は闇と同じだった。同じように特次元からの進入は別のものにみえる。

  六次元は愛の次元であり、しかも、ゼロ次元だともいった。点である。この点もまた、無というのだが、無と確定したら有なので、ゆらぎがあり、あいまいだ。粒子反粒子の対発生に対消滅が間断なくおきているのが無のゆらぎであり、真空エネルギーであるが、これが高次元のゆらぎでもあり、六次元、0次元のゆがみでもある。


   クレイジートーク

   今日もまた例によって堀切のお気に入りの現場。じ〜っと待つことの大切を知る。とにかく、待機が長い。それでも仕事中なので気をはっている。すずめがえさをつついているほのぼのとした風景にみとれることなく、目つきは鋭く猛禽類のごとくである。動かざることやまちゃんのごとし、ということで監督があらわる、よってクレイジーを終了でござる。

**哲風呂**

ゲシュタルトクライシスと唯名論についてである。井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の青さを知る、という。もちろん、しずかちゃんのパンツの色も知らない。世界中を豪遊し、見聞しまくる。ず〜っと同じらっきょを観察する。らっきょ観察で得られる無数の情報量。じつに、個別的なものは無限の複雑さ、情報をもつものだが、これは異次元が多いに関与しているといわざるを得ない。


  ヴァイゼッガーのゲシュタルトクライシスについてである。哲学的医学を提唱した。患者を丸椅子に座らせ、聴診器をひたいにあてる。人間を生理学的、解剖学的にみるのが科学。生理学の法則だってある。ところが、ほんとうはスチール写真のようにとまっていないし、銅像やロボットでもない。生きているから、つねに活動しているし、外部とやりとりしているのだ。酸素吸って二酸化炭素をはいて、ひととの交流だってあるし、ペットとのスキンシップもする。心がからだ、からだが心に互いに影響しまくり。

  ゲシュタルトとは部分があつまって全体ではなく、全体は部分が集合した以上のなにかがあるという。背景と被写体とのやりとりが輪郭になっちゃう。見え方だけでなく、人間と環境のあいだのゲシュタルト。

   人間と環境がゲシュタルトによって、ぐるぐると循環している。法則のように固定せずに患者と接するというヴァイゼッガーの思想だ。


  次の話は唯名論についてである。漬物屋さんにくるまをください、といってみる。くるまはないけど、これならばあるという。くるまっていう一般的なもの、普遍的なものはない。くるまそのもののイデアはない。あるのは具体的なこれだけである。個別的なものしかなく、言葉なんていうのはただの名前だという。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    四次元時空に住んでいる。五次元からは光子が飛んできて、これを闇となづける。六次元から五次元もうながっている。六次元は愛の次元であり、同時に点、ゼロ次元だといった。そして、このゼロの点からの量子のゆらぎ、粒子反粒子の発生消滅が真空のエネルギーであり、次元の循環によってうまれるともいった。ところが、この真空エネルギーの量は膨大であり、いまの宇宙の膨張速度をはるかにうわまり、もはや、宇宙が成立しなくなるという。その原因が点のゆらぎだ。点ではなくひもとしたらうまく計算できたという。jこれがひも理論。そして、ひも理論だと次元数が10次元までとなる。

   10から6を引くと4.四次元時空に住むわれわれ。6次元で0次元になり、循環。同時に、ひも理論のように、7次元から10次元までいって0にもどると仮定すると、6と10次元の異なった周期の車輪がまわり、この二つの循環が個別的なものの特殊性をうんでいるのではないかとおもわれる。一回目が6から0、6から7.二回目は0から1、7から8。順に、2から3のときは10次元では8から9.3から4のとき、9から10で0にもどる。これらの循環がゲシュタルトクライシスのように循環し、人間だけでなく、万物の個別性、無限情報を生成する。


  クレイジートーク


  今日もまた堀切のうれしい現場。よろこびのあまり、早朝にスキップスキップらんらんどか〜ん、とくもの巣に衝突。どかーん、の衝撃音に動き出すくも。身動きとれず、こうなったらポケットからレーザー銃を取り出し、レーザー脱毛で無駄毛を一掃しはじめる。まずい、くもにかみつかれたので、とりあえず、交渉人になって示談成立、身柄開放していままさに現場に到着したところだ。さてと、妄想はここまでとして、クレイジーを終えて仕事はじめる。



**哲風呂**

キアスムと無意識についてである。私はみんなとつながっているのか。どこでどうつながっているのか。輪になってキャンプファイヤーでもやっているのか。絆なのか。赤い糸か、はたまた、青いケツか。すべては横のつながりではなく、縦の次元間のつながりだった。


  哲学者メルロポンティのキアスムについてである。交叉配列という。Xのように交叉する。手をあわせて合掌。右手が左手を触って、左手はさわられちゃっている。ところが同じ要素、肉でできているので、左手が右手をさわっていると大逆転もできる。見る者と見られるもの、見えるものと見えないものも、同じ肉でできちゃっているので、反転しちゃう。こうやって、見られれているりんごを認識だ。知覚しながら、風景堪能しながら自転車のペダルをこぐ。知覚と運動もコインの裏表のように反転しあいながら、自転車走行だ。私と他人も同じ肉なので、反転し、相手の気持ちになる。なんと、私と宇宙、世界もまた反転だ。

  次の話は無意識についてである。フロイトの個人的無意識はいわゆるトラウマの話。小さいころ、ピラニアにかみつかれる。すると、そんな思い出がストレスになるので無意識に押し込む。たまたま、ここからでてくるのだが、ストレスかけないように、形をかえて、かわいらしい熱帯魚になって夢にでてくる。

  ユングの集合的無意識。世界の神話に驚くほどの共通点がある。意識的な私が社会に所属するように、無意識の私も、みんなの無意識、集合無意識の世界にいるのではないか。だから、人類は根っこでは集合的無意識のなかに住んでいる。

  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


  宇宙は4パーセントが見える物質。残りの23パーセントは見えない引力である暗黒物質。73パーセントが斥力で、離れようとする力である暗黒エネルギーである。

  この宇宙の割合が人間の意識と同じだった。意識の4パーセントが顕在意識だという。残りの96パーセントが潜在意識、無意識である。

  暗黒物質と暗黒エネルギーはもしかしたら高次元からわれわれの四次元時空に入ってきた光子ではないかという説がある。つまり、五次元空間を三次元の膜のなかをはしれば、いわゆる光、進入してきた別方向からの光子が闇になる。高次元、五次元では同じ光子が光であり、闇、相互に反転する。

  人間の意識もまた、顕在意識と潜在意識、もしくは無意識が同じものではないか。私が意識し、無意識の衝動、感情をもつのだが、この無意識が他者の意識なのだ。私の意識も、他人の無意識のなかにいる。そして、暗黒物質的無意識がいわゆる23パーセントであり、暗奥物質だから引力、母性原理。家族や同一民族たちの意識の集合体。暗黒エネルギー的無意識が全体の73パーセントであり、ここに民族を超えたものたしの意識が入り、国家を超えた人類すべての意識、はては、動植物、無機的なものも入る。だから、ここには斥力が働き戦争が耐えない。宇宙の膨張速度の増加はこの斥力によるものだが、割合がかわらず宇宙が膨張すれば、きっと斥力であり、戦争の要因であった人類すべての意識が、暗黒エネルギー的無意識から脱して、引力で引き寄せあう暗黒物質的無意識にはいるのかもしれない。


  クレイジートーク

 日曜日で休み。コンビニ駐車場にて焼き鳥をほおばり、串を一刀両断から手チョップで真っ二つにしたところ。割れなかったら真っひとつである。真っ三つということも十分考えられる。水平チョップに馬場チョップ、チョップにいろいろあるけれど、やっぱりチョコチップの入ったアイスのほうが断然好きである。ということで、クレイジーを終えて早速家へ帰ろう。

**哲風呂**

実存は本質に先立つ、そして、プロティノスの光の哲学についてである。ん〜っと力みながら念じてみる。お好み焼きが焦げないようにみんな念じるのだ。そんなに肩に力入れても念は伝わらないかもしれない。ただ、われわれの宇宙の進化があるレベルに達するとそれができるようになる。地震や噴火が起きないように念じるのである。

  哲学者サルトル、実存は本質に先立つ、についてである。人間は徹底的に自由だという。食べ放題で何でも食っていい、そんな自由ではない。自分の性別、民族、そんなものは最初から決まっているのではなく、自由意志で選択だ。ふつうに科学的に考えちゃうと、原子、分子、細胞、脳、脳があって、意識が生まれる以下略となる。最初に自然の法則、設計図、いわゆる本質があるから、自分が存在できる。本質は実存に先立つというもの。ところが、本質は所詮、私があとから作るもの。最初に自由な実存があって、次に本質がうまれるという考えだ。

  次の話はプロティノスの光についてである。新プラトン主義のプロティノス。すべては一なるもの、一者から生まれるという。そして、叡智、ヌースが生まれるという。このヌースからこんどは魂が生まれる。これを光にたとえる。光そのもののは見えない。光そのものが一者。自ら光放つものが太陽、太陽がヌースである。そして、太陽に照らされて反射している月が魂だという。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   五次元では暗黒と光は同じだった。進む方向の違いである。、人間の意識が4パーセントが顕在意識、残りの23パーセントが暗黒物質的な無意識、これは引力でまとまろうとする力だ。73パーセントが暗黒エネルギー的無意識であり、離れようとする斥力。世界、周囲の状況はわれわれの無意識が選択している。もしくは、五次元の無意識が三次元のなかの闇と光によってオブジェをつくる。そもそも、闇も光も光子であり、光子の波動性は多世界、並行世界的な選択である。

  宇宙は膨張している。それにもかかわらず、4、23.73の割合はかわらない。だから、暗黒物質的無意識と暗黒エネルギー的無意識が意識のなかに流入する。別言すれば、五次元に無意識ではなく意識がはいって、光と闇の調節、奉仕をはじめる。意識的に世界を変える時代が近い。


   クレイジートーク


   現場は久しぶりに東池袋。最近、いい現場だったが、今日はちょっとばかり気合が必要だ。気合だ、気合だ、気合だ、とアニマルなんたら、もしくは、昆虫なんたらだったか、記憶がさだかではない。すくなくとも、ひまわりなどの植物やアメーバなどの微生物ではない。記憶喪失のオルガンマン。、ということで、仲間がやってきたので、クレイジーを起承転結しっかりした状態で終わらそう。


**哲風呂**

第三人間論とイデアチオンについてである。私はいるのか、とふとおもい、ズボンを脱いだところ、元気な息子が懸垂しているではないか。もし、ただの情報の集まりだったら実体がない。心は実体がないが、からだも実体がない情報体なのか。すると、滅することなく永遠であるといえないだろうか。

   第三人間論についてである。プラトンのイデア論批判である。出所がいささか不明なのだが、弟子のアリストテレスという説もある。やまちゃんがいる。やまちゃんは人間そのもののイデアが善のイデアに照らされて影になったもの。すると、やまちゃんと人間そのもののイデアのあいだにイデアがあるかもしれない。これが第三人間だ。こうやって、ずる込みのごとく、間隙ぬって、無数のイデアが割り込む。そもそも、やまちゃんそのもののイデアだってありになる。

  次の話はフッサールのイデアチオンについてである。隕石だ、と叫んで、巧みなフットワークでよけようとする。こんなとき、隕石の形、隕石の色、硬さなど、感覚的直感によってこれを認識しているだけであろうか。隕石はあたったらやばいとか、宇宙のかけらだとか、隕石を隕石たらしめている本質を第三の目かなにかで直感している。これを本質直感、隕石のイデアを直感なので、イデアチオンという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   デジタル生物学という分野がある。マウスの心臓を動かすにはある種の化学物質が必要だという。この化学物質の分子構造は固有の波を出している。この波動の周期をデジタル化して、実際に化学物質を与えずに、同じ周波数の信号だけを送る。すると、心臓は動くという。また、細胞には水が必要だ。水の分子構造が放つ固有の周波数があり、この信号を送ると細胞は活性化するという。

  つまり、すべてがデジタル化した信号ではないかということだ。そもそも、量子論における電子や光子、これらは波動性をもつが、一見、ファジーなのでアナログだとおもわれがちだが、その実、波の山と谷の連なりなのでデジタル信号なのだ。すべてはただの信号、肉体だけでなく、心、意識もまた実体がなく、ただの信号、論理的な情報ではないのか。すべては論理体ではないか。すると、実体がないということは永遠である。第三人間のように、すべてが論理的なイデア、本質としていわば情報の集まり。記号ということは、やまちゃんそのものの固有周期、座っているやまちゃんそのものの固有周期というように、すべての瞬間のやまちゃんもまた波動の論理式に還元されるのではないか。すべてがイデアということは実体なくしても概念、論理としては永遠に成立する。


   クレイジートーク

  またまた、堀切の現場にもどってきた。もどってきたウルトラマン。帰省するウルトラマン。帰ってこないウルトラマン。どうでもよいんだが、ちょっと安心している。昨日とはおそらく打って変わって仕事内容がちがう。家から目と鼻と口、さらにはケツも近いところなので、起床時間もゆっくりで老体にはとってもやさしい。ということで、クレイジーを終わってそれでも本気で仕事に取り組む。








posted by モノイイ ジョーカー at 19:03| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月16日

仙人新聞 2012・04・16

仙人新聞 2012・04・16

五日分。。


***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/21768757

http://www.ustream.tv/recorded/21792640

http://www.ustream.tv/recorded/21823757

http://www.ustream.tv/recorded/21847838

http://www.ustream.tv/recorded/21882191



***宇宙mixエクリチュール版***


**哲風呂**

仮象と想起説についてである。目を閉じて寝る。まぶたの裏に映し出された未来の映像。いわゆる夢である。夢を見て、ねがえりうって、ねっぺもするであろう。未来からどうかはわからないが、薄暗い巨大工場のなかに小さな建物が乱立。未来人はどんな生活をしているのか。もしかしたら、肉体はただの肉になり、活動はもっぱらマシンがやっているのではないかとSFチックな展開で悲観的な進化を考えてみたい。

   仮象についてである。ほんとはなかったり、ちがうものうものなのに、うっかりニセモノを見ている、これが仮象である。化粧も仮象かもしれない。たしかに化粧のむこうには顔があるようにおもえる。化粧をしてお尻を顔にみせかけていたら立派な仮象だ。

 古代ギリシャのパルメニデス。カメがえさを求めて歩いている。運動しているのだが、運動とはそこにカメが居ると同時にいないこと、だから矛盾するので運動っていうのは仮象だという。真実は、あるものはある、ないものないだけだという。これとは反対にヘラクレイトス。真実は運動、流れであって、それこそあるものはある、ないものはない、っていう永久不滅な考えは仮象だという。


  哲学者カントは論理的仮象と超越論的仮象を考えた。夜なべしてかあさんがプラモデル。寝不足だとあたまがまわらない。うっかり、生まれたてのじいさんの顔立ちは丸くて三角だと、言い放つ。明らかに論理的な矛盾だ。これが論理的仮象であり、睡眠とって集中力こそ増せば、論理的仮象は免れる。

   ところが、超越論的仮象はそうはいかない。人間が生まれ持った、避けられない仮象だからだ。人間は理性的に考えちゃう。五感使わないで、あたまで理性的に推理すると、ついには神様、宇宙、魂について考えてしまうのだ。すると、答えが出せなくて当惑する。ついつい、理性が考えてしまう答えが出せない問いかけ。これが超越論的仮象である。


  現代ではニーチェ。みんなと同じ価値なんて共有できないという。国がかわれば、立場がかわれば善悪だってひっくり返る。すべては相対的であり、仮象だ。瞬間瞬間が仮象で、これを仮象としてしっかり受け止めて、なにもないところから自分で価値を創造である。


   次の話はプラトンの想起説である。魂はかって純粋な世界にいた。天上から落ちてきて、そのとき天上界にあるシミ、しわひとつなイデアの世界をちらっと見る。いろんなメーカーのシャンプーがあるが、そこにはシャンプーそのもののイデアがある。地面に落ちて、泥にまみれて魂を肉体が包む。こうやって、地上に誕生し、いろんことを学習するのだが、学習とは魂だったときに見たイデアを思い出し、想起しているだけだというのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

 

   未来かどうかはわからないがおそらく並行世界の未来の夢をみる。巨大なわずかな光しか差し込まない寝室な工場。この工場のなかにやはり鋼鉄でできた建物らしきものが乱立。ここには人影も、生き物もいない。ここからは推測である。スターウォーズのジャバハット卿のようなもの、肉のかたまりで目や鼻が退化したひとがいるのではないか。そして、マシン、機械につながり、機械をいわばボディとして活動している。もはや、現代人にとっての魂が、かれらにとっては有機的な肉体だ。自分の姿は見えない、マシンの仮象世界に生きているのである。

  かって、人間も実体がない純粋な魂だったのかもしれない。そして、有機的な肉体を開発し、これを操り、今の時代がある。こんごはマシンを開発し、これをボディとして生きるのかもしれない。進化とは、魂、ロゴス、イデアである私から肉体へ、肉体からマシンへというように、よりベールで包まれ、より仮象の世界に深まっていくのではないかという考えである。これを仮象的進化論と名づけたい。


   クレイジートーク


  日曜で休み。さて、買い物へ行くか、ちょっくらタバコ屋の角をまがってイタリアはローマにでもいって立ち食いそばでも食ってくるか。なにせ、やりたいこといっぱいあって、結局はなにもしないというケースが最近、頻繁になる。有意義な休日。ローマでなくてもいい、居間での休日でもいいのだが、とにかく、散歩中に金目のものをひろうことをせつにお星様に願って、ふとんのなかで夢想にふける。よって、クレイジーはドタキャン的に終了する。



**哲風呂**

直感とスピノザ、宇宙の属性についてである。人類がここまで存続できなたのはやまちゃんのおかげなのか。幾多の宗教儀礼やシャーマンのおかげではないのか。高次元、神様とのコンタクトや予言。じつにふつうに無類のたくわん好きのやまちゃんもまた、高次元へのコンタクトを取っているのではないか、ただ、そのコンタクトの仕方がちがうだけではないのか。

  直感とはなにか。直感は感じることで、もんもんといぶしかげに考えること、思考ではない。古代ギリシャではプラトン。水族館にはいろんなお魚。それでも、お魚そのもののイデアはイデアの世界にある。目には見えないが、心の目で直感だ。

  近世ではデカルトやスピノザ。デカルトは我思っているから我が存在しちゃう、と直感的に理屈抜きで考える。スピノザもまた、神様は宇宙そのものだというが、理屈や五感ではなく、直感で知る。

  カントは五感、感覚的な直感はOKだが、超能力のように鼻息荒くしてビビビと目に見えないものを感じる知的直感を否定。のちにドイツ観念論ではフィヒテやシェリングは知的直感で宇宙と一体という発想が復活だ。ただし、ヘーゲルは二人を非難。やっぱり、理屈、論理でちゃんと説明しようよ、という。

 現代ではブラウワーの直感主義などである。八百屋さんでふつうにりんご10個、マイナス10個とはいわない。自然数は直感的わかるので、これを基本に数学を進歩させようという。これに対するは論理主義である。自然数は直感できるが、無限とか、平方根は見えない。これらを論理的に積極的に扱うのだ。


   次の話はスピノザ汎神論における属性についてである。スピノザは神様は万物そのもの、宇宙そのものだという汎神論を提唱。そして、属性が無限にあるという。いわば、宇宙の見え方、窓口である。人間はそのうち二つの窓から見ている。ひとつは大きさ、形、色という延長。もうひとつは時間をつかって思考するという、延長と思考である。

  まとめ


  存在の科学


  異次元理論



   人類をいままで導いてきたのはシャーマンや宗教的儀礼ではなかったのか。高次元の存在とのコンタクトである。高次元はこの三次元空間のなかに小さく押し込まれている。点のなかにあるという巻き込み理論。この真空の点がゼロポイントフィールド、ZPFである。これにアクセスするのだが、ふつうに一般人もいつもやっているのではないか。ただ、高次元には無数の多世界、並行世界が乱立する。だから、未来を予測しても、別並行世界の未来だったり、過去を知ろうとしても、別並行世界の過去だったりするので、真偽は定かでなくなる。ところが、シャーマンや能力者はこの高次元から適切な三次元宇宙を選択しているのだ。

  ふつうに日常的に高次元とコンタクト。未来や過去、別の並行世界の未来や過去。要するに、これは真偽関係のない想像力や記憶、予測であり、意識活動、精神活動そのものだ。


  そして、聖書の最後の晩餐。イエスは弟子たちに自らの肉だといって、弟子たちにパンを食べさせ、自らの血だといってワインを飲ませる。イエスは神の子である。他の宗教に見受けられるのだが神様を食べるのである。これは高次元を食べることだ。

  ZPFを通して、点のなかに高次元。光が三次元を移動するが、この三次元の膜から飛び出した光が暗黒物質という説がある。またE=mc2のアインシュタインの公式にあるように、運動もしていない質量ある物体がそのままエネルギー。質量とは異次元での運動なのである。これもまたZPF、ただの点が膨大なエネルギーを持っていることを示唆する。

  われわれは食物を食べて、影響吸収、そして、肉体維持している。ところが、質量ある食物には無数のZPF、異次元への通路があろ、ここから異次元における多世界の情報を吸収、収納しているのだ。つまり、食物だけでなく、呼吸もそうだが、点を吸収して、記憶、予測、想像力などの意識活動の糧にしているのである。


   クレイジートーク


  現場は長崎。長崎は結構、仕事で来るのだが、会社がちがう。久しぶりに来る会社。緊張しつつ、こわばった表情で仕事におならではなく、精をだしているところだ。さて、やる気がでてきた錯覚に陥ったが、とりあえず、ねじりはちまきを腹に巻いて、おなかを冷やさないように睡眠とって、栄養とって、じと〜っとしたいのだが、夢うつつから脱却して過酷な労働に従事っていうことで、クレイジーを生半可で終わらそう。



**哲風呂**

量から質へ、そして、否定の否定についてである。宇宙は意外と均一だという。のっぺり感、無味乾燥。それでもよくみると、細かくちがう。カレーのルーだっていろんな種類があって、悩ましい顔つきで選ぶ。ひともまた、皆、ひとりひとり個性がある。量的な宇宙から質的な固体が生まれるのはなぜか、というお話。

   量から質へ、についてである。哲学者ヘーゲルは矛盾が世の中を動かすという。最初、有と無の矛盾。無制限一本勝負で結局、勝負つかずに融合し、定有というものへレベルアップ。こうやって、概念などができて、質、量へと発展するという。ちなみに、量とは質の違いを無視したものだという。豆粒の微妙な色、形にこだわっていたら数えられない。

  ヘーゲル哲学をベースにマルクスは実際の物質の世界が進歩するというう。このとき、量がある限度を越えると、なんと質的な変化になるという。身長2メートルまではただの量的な変化、2メートルでもてもてという質の変化、三メートル、周囲は不気味がられてモンスター扱いだ。水は0度より下がると個体、100度越えると気体になる。量の変化がある一定段階で劇的な質の変化になるという。

  次の話はヘーゲル、否定の否定、についてである。否定の否定の肯定である、というある意味当たり前。これを何と心得る、なんと鼻くそでおられるぞよ。この鼻くそを否定するものは宇宙に無数にある。この鼻くそは土星ではない、花瓶ではない。鼻くそを否定するものをもう一回否定するとこの鼻くそに戻る。宇宙のすべてを経由してこの鼻くそはここにご立派におられるのである。


   まとめ


  存在の科学



   異次元理論



   宇宙の大規模構造、どうやらビッグバンによる均一な膨張で、宇宙は斉一、均一だという。よくみると時間と空間の無限宇宙のなかの細かいものは具体的で個別的だ。宇宙の真空点、すべての点、かけらはビッグバンのときに接触しているので、量子のmのつれにより永遠に影響を与え続ける。すべてがすべてに影響しているので、無限が無限の要素に影響ということだから、量的な無限がアウフヘーベンして、質的なものになるのではないか。一人の人間が普遍的な私ではなく、個性のある経験的自我、個別的、具体的である。質をもっているからであるが、質は量における無限量の要素の無限量の要素へのすべての結びつきによってうまれ、均一性、斉一性から具体性、個別性の誕生のプロセスになっているのではないか。


   クレイジートーク

  現場が遠く、しかも、高速を使わないと間に合わない。雪がふっていて高速が一部閉鎖、よってお決まりのあわてふためき、になる。すると、一本の電話、中止の電話だ。ほっとし、こうなったら、今日は近隣住民のためになろうと、雪を溶かし、かっぱきに外にでるが寒さゆえに即部屋に避難した。そんなこんなで本日は休日、暖かい部屋で睡魔がやってきたので、クレイジーは甲斐性なし風に閉じてみたいと思う。


**哲風呂**

現象主義と関係主義についてである。愛は国境を越え、人種を越え、たまたま、身をかがめている友人を馬とびで越える。時空を離れても関係しあう。もうひとつ、愛は触れること、スキンシップの大切さ、肌と肌のふれあい、摩擦熱で発火。そんなことで、触れることと、離れたもの同士の時空を越えたつながりが一緒だというお話である。


  現象主義についてである。論理実証主義の中には二つの勢力、現象主義と物理主義である。目の前に仮にバナナがあるとしよう。バナナがあるよ、とはいわない。あくまでも、感じたまま、黄色い、長細い、甘いという感覚情報だけがあるという。だから、それがバナナでなかったときも、判断していないのだから間違えることもない。感じたままの言語、感覚与件言語を使う。現象主義といえばマッハである。これだと、バナナの栄養成分の研究のときに、面倒くさいし、時間かかりすぎる。少なくとも、自分の外にバナナが物理的に何時何分、どこにあるのか記述したほうがよい、そういうルールにしようというのが物理主義。このときに使う言葉が物理言語である。


  次の話は関係主義についてである。りんごとバナナがあって、かれは堅い友情関係で結ばれる。最初にバナナとりんごが実体としてあって、次にいろんな関係だ。これが通常の思考法である実体主義。そうではなく、いろんなものとりんごが関係することで、りんごの実体が浮き出てくる。最初に関係ありき、というのが関係主義だ。カッシラーは科学を実体概念から関係概念に変化したという。むかしは物体があって、これがなにと関係しているかと考えた。ところが、科学は関数っていうものを使う。すべてを関係とみなす。日本の哲学者、ヒロマツワタルは関係なのに、かたまり、実体と思いこんでしまう物象化に気をつけようという。商品の価格は商品にくっついているかたまりではなく、労働力などの関係の産物。かたまりとみなすから、労働が疎外されちゃう。物的世界観から事的世界観に変えよう、というのだ。



   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    すべての宇宙のかけらはビッグバンのときに関係しあった。一回関係し、ふれると永遠に互いに影響を及ぼすという量子のもつれ。一般的な力学では時空を越えて関係するのではなく、接触して力学的な伝達をする。化学反応でも同じだ。これを局在性という。時空を越えて影響しあうのが非局在である。


  いままさに、私はテーブルに接触し、ふれて動かす。局材的だ。このとき、時空を越えて豊臣秀吉と関係している。これは非局在的だが、関係しているのだから、触れているのといっしょだ。すべていま感じ、触れて、見ているもの、ここに時空をこえたものを引き寄せる。非局在を局在にする。こうして、感じているもの、感情もふくのだが、あまりに複雑。見ているものすべてが複雑な形状、色、におい。これらは非局在的な時空を超えたものたちを引き寄せたから複雑な情報をえているのだ。局在、非局在を超えて、すべてがここにあって、感じたままの現象を成立させている。


  クレイジートーク

  現場はむちゃくちゃ近いホリキリ。肉まんとフライドチキン風な惣菜を食って若干睡魔があらわれる。これから仕事だ。どんな仕事内容か、はたまた、どこになにを運ぶのか、何屋さんなのかも知れず、不安で胸いっぱい、朝めしで腹いっぱい。先日の雪も路肩に集められ、太陽風、もとい、太陽光線で溶けつつある。さて、なごりおしいのだが、クレイジーをここで終わらせないといけない。     
  
**哲風呂**


ホーリズムと多様体哲学についてである。世の中、不条理だらけだ、思うことがある。善いことしてもむくわれなかったり、悪代官が良い思いしていたりする。不快なことが続いたり、かたやラッキーすぎるものもいる。ハエをつぶそうとしているときに100円拾うものもいる。人助けしたのに蚊にくわれまくり。善悪、快不快、損得、これらは最終的には清算されるのではないか、というお話である。

   クワインのホーリズムについてである。日本語では全体論である。ふつうに考えると、パーツ、部分が8時じゃないけど全員集合して全体になると考える。積み木、ブロックも組み合わせ、ジグソーパズルも部分を集めろ、である。ところが、全体が出来上がったとき、部分が集まった以上のなにかがある。全体的にものをみるのだ。

  意味論的ホーリズムというもの。科学はまず仮説を立てる。大胆な仮説、鼻の穴によじったティッシュを突っ込むとくしゃみがでる、という仮説。実験したら検証される。ところがよじるとはどこまでか、どんな素材のティッシュなのか、そもそも、くしゃみの判定基準。さらには、この仮説に使われている日本語文法の説明。宇宙の無数の要素がかかわって、くしゃみの仮説は成り立つので、宇宙のちょっとした一部をいじくれば反証になってしまうという。

  次の話は田辺元の多様体の哲学についてである。リングのうえでいがみ合う二人。割り勘でもめているらしい。対立か、温和に統一か。白黒はっきり、というもの。ところが、世の中は白っぽい黒、白っぽい白、黒っぽい白、黒っぽい黒と微妙にたくさんある。じつに、対立と統一が一体になっちゃうと、白黒はっきりしないで、いろんなものが分裂して出現だ。万物の多様性は対立と統一の白黒どっちつかずが生み出したというのだ。

   まとめ


  存在の科学

 
   異次元理論

  
   善いことしたのについていない。悪いものが得している。なんだかおかしい。フェアではない。これが生きているというゆがみである。生まれる前、死後は生間領域、ここでは完全に調和している。善悪、上下、内と外、あらゆる二項対立のずれが解消だ。ひとは自分に素直なとき、基本的にゆがみ、ずれの解消にむかって行動、思考するかもしれないが、その逆もありうる。最後に清算されるのではないか。

  三次元の膜、ここにわれわれは住んでいるが、この膜を移動する光の粒、光子。電磁気力や光子は三次元の移動。われわれは光を見れない。光が網膜に当たって、電子が飛んで、電気信号を感じる。光に光あてても見えない。

  この宇宙の大半は光を放たない、反射しない闇、暗黒物質とエネルギーである。どうやら、最新科学理論では暗黒物質の正体は別次元、高次元からやってきた光子ではないかというものもある。三次元の膜が五次元空間にたくさん漂う。膜のなかではなく、膜に進入してくる光子が暗黒物質。だから、生間領域が高次元の五次元ならば、もはや、いわゆるふつうにいう光、光子と闇はただ光子の移動方向の違いにすぎない。光子は闇だった。二項対立の調和と一致、これが高次元ではないか。


  前後、時間的な過去と未来、上下などの二項対立は時間軸がオブジェとして完成した四次元では解消。時間に前後なくなる。二元性のゆがみがなくなる。五次元では三元性のゆがみがとれる。三位一体だろうか。六次元では四元性のゆがみ。そして、以前、話したが六次元は愛の次元で、同時にゼロ次元、点にもどるといった。


    クレイジートーク


   昨日の現場は一回も走らなかった。不思議なくらいだ。しかも、今日は同じ現場で家からは近く、なおかつ、11時くらいにきていいよ、という。なんておいしいのだろうか。七面鳥の丸焼きよりもおいしい。七面鳥がこたつで丸焼きになっている。庭ではナマケモノが走り回る、ということで、そろそろお時間。このへんでクレイジーを即座に終了だ。






 
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2012年04月11日

仙人新聞 2012・04・11

仙人新聞 2012・04・11

五日分。。。




***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/21641446

http://www.ustream.tv/recorded/21668878

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***宇宙mixエクリチュール版***


**哲風呂**



見えるものと見えないもの、そして、地平についてである。寝癖がまるで荒波の日本海、ファッションセンスが最悪でももひきにジャケット。人間も含め、すべては見た目ではない。見た目はほんの一部で大半がみえない心であったり、エネルギーだ。そんなお話をしたい。


   哲学者メルロポンティ、見えるものと見えないもの、についてである。私はスーパーで長ネギを手にとって見つめている。見ているものは私で、長ネギは見られているもの。同じ生地、肉でできているという。ということは、コインの表と裏と同じで、ひっくり返る。私は長ネギになって、自分を見る。こんどは長ネギの見えているものと見えないもの。中身が見えない。中心にごぼうが内蔵されているかもしれない。これまた同じ生地なので反転だ。こうやって長ネギの意味を知る。


   次の話は地平についてである。見えそうで見えない限界、これが地平線。天文学では望遠鏡でみえない限界。カントは理屈で考える限界、論理的地平。感覚による限界、美的地平。これ以上腕伸ばせない、いててて、という実践の限界、実践地平があると考えちゃう。フッサールはいろんな地平に囲まれているという。外の世界ながめても、若干見えている背景の向こう、視野の限界がある。外部地平である。内面見つめても、おれって何様なのか、内部地平である。

   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   宇宙は見えるところが全体の4パーセント。光を反射、または光源となって自ら光放つものだ。残りの96パーセントは見えない。見えない物質、光を反射しない、光源でもない暗黒物質。これが全体の23パーセント。見えないエネルギー、こちらは実体すらないのだが、全体の73パーセント。この宇宙の大規模構造がのまま人間やすべての物体に当てはまる。

  人間の肉体は全体の4パーセント。残りの96パーセントが見えない心。意識が23、無意識が73かもしれない。人体だけみると、肉体は4パーセント。そのまわりにエーテル体。これは準物質的な見えない物質であり、23パーセント。そのまわりに感情をうむアストラル体、さらにはそのまわりを知性のメンタル体、もっとも外側はコーザル体。これら三つの領域が全体の73パーセントであり、その内訳の割合は可変的である。

  
  水は記憶するという。波動は全宇宙の記憶。おそらくは水の分子構造という三次元ではなく、高次元の構造で記憶するのだろう。液体としての水は4パーセントで、見えない水の記憶が96パーセントである。はさみですらこの割合だ。見えている4パーセント、見えないが物質的なもの、はさみの使用用途、便宜性が23パーセント。そして、はさみの見えないエネルギーが73パーセントである。


   クレイジートーク


 現場は又戻ってきて駒込である。それにしても、昨日、スカイプやって寝るのが遅かった。いわゆる専門用語でいってしまえば寝不足である。そして、エキスパートな言い方をすれば、危なく遅刻、やべ〜遅刻しちまう、という状態だった。カマキリ拳法をやりたくてうずうずしている。いかんせん、都会にて朝っぱらカマキリ拳法は基本的に非常識人にみられがちなのでがまんする。がまんするときもあるのだ。こうやってひとは精神的に成長し、はては悟りの境地に達しちゃった、みたいなことがおこるのかもしれない。あらら、時間だよ全員集合のお時間なので、クレイジーを終わる。 

**哲風呂**

関係主義と指示の魔術についてである。初対面なのに、あっどこかでお会いしたことありますよね、といってしまうことがある。面識がなくても、じつははるかかなたにお会いしているのだ。宇宙にあるものすべてがすべてと最低一度はコンタクトしているという、万物皆お知り合いという考え。そして、ここからなぜ足の指が動き、目の前にあるビルを空中浮遊させることができないのか、という素朴で当たり前のことを証明したいと思う。


  関係主義についてである。ふつうに考えると、Aさんがいて、Bさんがいて、そして、はじめてAさんとBさんとが友情関係に結ばれると考える。かたまり、実体が先にあって、つぎに友情なり、犬猿なり、関係を築く。これが実体主義である。これに対して、最初にA,Bの友情関係があり、こうやってAさん、Bさんが関係の節目として出現と考えるのが関係主義。実体は関係の結節点でしかないという。リッカートやカッシッラーが代表的な哲学者である。ちなみに、カッシラーが考えるに、科学っていうのは、実体主義から関係主義に変身したよ、というのだ。かたまりではなく、すべてを関数として表現するようになったのだ。


   次の話は指示の魔術についてである。パトナムの思想である。洋服たんすの中に遺跡発見。遺跡は自分の心の外にある。なぜ、心のなかに映し出せるのか。心のなか、全体像がなにゆえ外界の遺跡を指示しているのか、糸でつながっているのか。言語学でいってしまえば、遺跡という単語、この単語は実際の遺跡を指示している。糸もないのになぜつながっているのか、これは魔法のようなものだという考えである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   すべてのひと、生命、物体はすべてのものに最低一度は出会っている。身体も、宇宙誕生のときにあったかけらからできている。量子論では一度でも出会ったものは永久に影響を与え続ける。量子のもつれ、エンタングルメントという。粒子Aと粒子Bがぶつかって互いに反対方向へ進む。Aは左、Bは右方向だ。Bのつぶは一年後、宇宙飛行士に目撃される。それまでは雲の状態で、右か左か、上か下か、方向は確率的にかさなって存在している。目撃した瞬間に右方向が確定。このとき、Aから即座に、光速を越えて、右方向に確定したよ、とBに伝達。Bはすかさず衝突し、左方向に進んでいたことが確定する。一度出会ったら、こうやって光速を越えて影響しあう。


  宇宙誕生のビッグバン。このとき、空間は限りなく小さく、そこには宇宙のすべてのかけらが高エネルギー状態ですべてがすべてのかけらに関係を保っていた。だから、最低一回はすべてが出会っているので、エンタングルメントをするのだ。ところが、後にいろんなかけらが再度出会う。出会う頻度が多いほど、エンタングルメントの影響力が増すのではないか。だから、自分の身体はスムーズに心と連携するのだが、以前、なんどとなくであったかけらなのである。前世の友人だったかもしれない。身体はある程度、意のままになるが、目の前の石ころは思いで動かせない。これは出会いの頻度は少ないのである。外界の物理的な不可抗力は頻度が少、おのが身体は頻度が大、内面、心は絶大だ。こうやって、身体と外界世界、内面と外界世界がわかれ、頻度という連続的なちがい、程度の違いでしかない。

  いままさに、意識しているもの、無意識のもの、意識していない記憶、非意識的なものもある。宇宙でいえば、コンタクト大、小である。まさしく、宇宙は脳そのもの。だから、外界を認識したり、動かせる。ただし、頻度小のものは動かせない。

  クレイジートーク


  今日は土建屋さんの社長を乗せて、現場の下見にいってきた。花見ではない。世間話に花が咲く。いろいろ勉強になった。現場では測量である。いろんなものを計ってきた。ついでに自分の足のサイズ、胴回り、耳の大きさも測ってみた。巻尺のすばらしさにいまさらながら気がついた。巻尺万歳、巻尺王国が建設されることを願って、ここでクレイジーを頓挫する。


**哲風呂**

偶然性の問題とニーチェの運命についてである。親しき仲にも礼儀あり。いつもお世話様です、と深々とお礼しながら友人宅におじゃまする。何度となくコンタクトしたかけら、親しいかけらがおのが身体になる。もっとコンタクトすると、レベルアップ。およそ、これが人類の進化であり、キリンの首が伸びるという進化とはちがった人類のビッグバン的な進化ではないだろうか、というお話である。

  九鬼周造、偶然性の問題、についてである。あまり、西洋哲学では偶然、たまたまを扱わない。東洋的である。たしかに、科学ではカオス理論とか、量子論は偶然を扱う。

  必然、然るべきっていうものは同一性だという。いまそこにある危機きりんではなく、夏みかん。夏みかんは夏みかんである、というのは必然だ。この必然が壊れちゃったとき、偶然性になる。


  三つの偶然があるという。なんとかはちょめちょめである、ない、というのが定言。定言的偶然、これは論理的偶然という。理屈で割り切れない存在、そこに夏みかんがあること、やまちゃんがいること、これを個的実存という。二つ目が仮言的偶然。因果的偶然といい、原因あってこそ結果であるが、そんな律儀なものでなく、因果律にしたがっていない出会いの偶然。そして、三つ目が選言的偶然である。Aはあれか、これか、という選言。形而上学的偶然といい、ひょっとしたらしがない労働者ではなく、王様だったかも、といういろんな選択肢があって、たまたま、労働者やっているんだという、運命というものだ。

 
   次の話はニーチェの運命論。宇宙の星の配列。無限の時間と有限エネルギーだから、同じ配列をロングロングスパンで繰り返すという。人間もまた、うまれて死んで、また同じ人生繰り返すという永劫回帰。だから、嫌なこと、良いこと、すべてを運命として全面肯定するのが超人だ、という。


   まとめ

  存在の科学


  異次元理論


   宇宙のすべてのかけらが小さな空間に閉じ込められていて高エネルギー状態、ビッグバンを起こして膨張する。このとき、すべてのかけらはすべてのかけらに一度はコンタクトを取っている。一度コンタクトしたかけらは量子論的には永遠に影響与え続けるという、量子のエンタングルメント。かけらはまた何度とも他のかけらと出会う。仮言的偶然であり、出会いの偶然性。なんどもであったものはエンタングルメントによる影響力が増すのではないか。そして、かけらの出会いがある一定段階超えたとき、強烈なエンタングルメントで引き寄せあい、生命の肉体になり、そのエンタングルメントの働きはそのものの心、意識活動になる。

 さて、生命が死滅し、そのかけらがまた出会う。また、コンタクト回数を増し、ついにはある一定限度を越えて進化する。すべてのものがすべてのものにコンタクトするときが人類の次なる進化かもしれない。細胞間の光コミュニケーションではなく、エンタングルメントのコミュニケーション。光はもはや肉のレベルになり、そのうえにエンタングルメントコミュニケーションが築かれる。その種にとって、進化とは全面的なもの。客観的にわかるものではない。人間は思考するのだが思考の限界、およそ、論理的に解析不能な壮大な進化、すべてがすべてに影響という、いわば、ビッグバンこそが次の進化ではないのか。

  クレイジートーク


  現場は西日暮里である。東ではなく西であり、西といったらインド象西、もとい、マンモス西である。下町情緒のなごりがある日暮里。今日はここがおいらの活動拠点になるのだが、仕事内容不明なのでちょっぴり不安で男らしく親指しゃぶっている。さて、不安を払拭するために、鼻歌で森の熊さんでも歌おう。そういうことで、クレイジーを完璧なまでの唐突さで終わらせよう。


**哲風呂**

世界内存在、道具的理性、そして、事実と当為についてである。宇宙はひとつなのか、たくさんあるのか。それと、そのなかにいる私。私にとっての宇宙、宇宙にとっての私。そんなことを考えながら、ひよこ饅頭の頭をがぶりつく。テーブルの上に誰かがそっと置いていったアヒル隊長がどことなくにらんで私を見ている。そんなアヒル隊長を筆頭に、アヒルとひよこと私と宇宙の叙事詩である。


  哲学者ハイデガーの世界内存在についてである。生物学者ユクスキュルから発想を得る。環境内存在というものだ。人間が考えている世界というのは物理的な客観世界。そこに生きとし生けるもの、みんながいるのか。人間には五感があり、手足の本数、動きもだいだい決まっている。昆虫のなかには空飛んじゃうものも居るし、触覚もつものもいる。異なった世界に住んでいるのである。種に独自の世界に住んでいるというのだ。

  ハイデガーは人間というのは凄い、世界のなかに住んでいるという。しかも、殻のなかにいて、一人さびしくにきびつぶしているのではない。世界のあらゆるものとかかわり、気遣い、配慮している。世界のなかに溶け込んでいる。吸殻を入れるための灰皿、灰皿を置くためのテーブル、というような道具の連鎖が意味、そんな意味のなかに住んでいる。

  次の話はホルクハイマーの道具的理性についてである。かって、宇宙や神様の目的、どういうものかと摂理をあたまひねって考えた。理性である。食欲、性欲、睡眠欲、そして、感情などには惑わされない透徹した理性。そんな真実追求の理性がいつしか技術力アップ、原子力創ろう、という道具の理性になってしまったという。

  最後に事実と当為についてである。事実とは丸まった靴下があり、それを蹴飛ばした。蹴飛ばしちゃいけないというのではなく、ただひたすら事実だけだ。当為というのは蹴飛ばしちゃいけない、汝なすべし、すべからず、というもの。論理学の基本に、事実をいくら並べても、そこからなすべし、すべからず、っていう当為は生まれないという。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

    まず、相対性理論のいう光。光速は不変で、しかも、これ以上速く飛べない。飛んでしまったら時間が逆行しておかしなことになる。いわば、われわれの日常は光によって視覚情報を得て、これが大半を占める。光は交通標識の速度制限のようなものであり、これを守ればふつうに生活。ところが宇宙に目を向けるとどうも宇宙は光速を越えて膨張しているっぽい。速度違反しているのだが、そうなると、時間逆行という信じられない、人間の生存とは関係ない世界が見えてくる。

   光速を越えて膨張しているから、光速以上の世界は光がもはやわれわれに届かない。絶対に見えない世界であり、その境界線が事象の地平線という。この事象地平の向こうは超大きな世界だが、膨張により時空をゆがめている。ゆがめるというのは斉一性、均一性を破るもの。不確定を具体的なものに確定する力。以前、お話したが、大は小をかねるのではなく、大は小だ。ミクロの量子の世界も同じ時空のゆがみを受けているのではないか。つまり、量子の場所と速度の不確定。シュレディンガーの猫、箱のなかで重なり合っているのではなく、じつは時空のゆがみで確定しているのではないか。


  宇宙はビッグバンで膨張したが、外的な影響がないので、均一に膨張しているという。つまり、宇宙の大規模構造は均一、ムラがない。ところが、この調和がわずかな揺らぎで崩れる。このとき、あまりにも均一なものをゆらがしたので、多世界に分岐するのではないかと考えるのである。こうなると、宇宙はひとつで、しかも、宇宙のなかに別次元、並行世界がある。

  事象地平の向こうの見えない世界、量子の見えていない世界、いずれも雲状だ。ところが時空のゆがみで具体的に確定。事象地平の向こうと、量子の世界は私の意識。この決定論的な確定、具体性が不確定性となみなすことで、中間領域である普通に可視的な宇宙がこんどは確定的になる。並行世界が位置なる世界に収束する。


   クレイジートーク


   本日は雪混じりの雨のために現場中止だ。いわば、チョコレートフレーク混じりのアイスクリームみたいなものだ。ドアを開けると荒涼とした大地が広がっていた。こどもは数の子、こどもになったつもりで童心のリターンし、外で遊んでみた。そして、風邪を引く。そういうことで、今日はいろいろやりたいことがあるので、早々とクレイジーを終了し、お昼寝タイムにさせてもらう。

**哲風呂**


自由意志とバークリの実質的観念論についてである。ひょっとしたら大統領だったかもしれない並行世界はどこにあるのか。もしかしたら、この一なる宇宙にあるのではないか。超でかいということ、そして、超小さいということ、この大きさの違いがもてるもてないということではなく、異次元と人間の自由のからくりがあるのではないか。


  カントのいう自由意志についてである。善いことをしなさい、と軍曹からの命令。ひとにいわれて善いことするのは道徳ではない。原因があって、結果がある、後ろから押されてやちゃったことは因果律に縛られている。そうではなく、自分の意志で善いことしちゃう。いわゆる原因なんかない自由意志でやるのだ。自由といっても、好きなものを食って、食欲、性欲を満たすことではない。これは自然の法則、生理学の法則に縛られている。自由は道徳であり、道徳、善い事しちゃったというのは自由の現れだという。そして、ついに、こんな内なる道徳が宇宙、物自体そのものだという。


   次の話はバークリの実質的観念論についてである。ふつうに考えると、そこに豆腐があるから、豆腐を知覚し、認識できちゃう。豆腐に醤油をぶっかけて食べながらふと思い悩む。ところが、私が豆腐を知覚し、見ているから豆腐が存在しているのだとバークリはいうであろう。それでは部屋に私がいないときは豆腐はあり続けるのか。きっと、ハエなどが見ている。生き物がいなければどうか。神様が知覚し、見ているから豆腐はある。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    一なる宇宙に多世界があるかもしれない。それは宇宙の大小となって現れている。私は超小さなものをみる。量子である。電子や光子であるが、これらは見ていないときは確率的にいろんなところに同時存在している。いわば、並行世界が重なっている。電子を見つけたとき、場所がわかるがどっちの方向にどれだけの速さで飛んでいるのか、運動量不明になる。こんどは運動量がわかると、場所がわからなくなる。こちらが立てば、あちらが立たず。これをハイゼルベルグの不確定性原理という。

  さて、私にとってのミクロとは並行世界、マクロででかいものは確定的なニュートン力学の世界なのだが、もしも、超巨大な生命がわれわれを見ていたらどうなのか。銀河系くらいの大きさの生命である。すると、われわれはその生命にとっては量子のようなもの。どこにいるか場所が不明のときは何をやっているかわかる。なにやっているかわからないときは、場所がわかる。つまり、量子の不確定性は大小の相対的なものではないのか、といいたいのだ。


  ひとの心は小さな量子だといった。だから、相手をまえにして、そのひとが多面的に見えてつかみ取れない。超小さなものは超巨大な宇宙だともいった。ということは、私は宇宙サイズの心だとしよう。すると、こんどは肉体をも含めた周囲のものは量子ほどの大きさに見えちゃう。だから、複数の状態のかさなりあった量子雲、そのうちのひとつを選択するという自由意志が生まれる。カントがいっていたように、頭上の星々と我が内なる道徳律、このふたつは同じだといった。物自体が道徳だった。そして、それが自由意志でもあったではないか。


   クレイジートーク


  今日もまた雪混じりの雨で現場中止。たしかにこんな冷たい雨のなか肉体労働したら、どんなに剛健なゴルギアス、ゴンザレスとても、鼻水がたれてきて、しょっぺ〜っと叫ぶであろう。風邪を引かないこと、これが当面の課題であり、健康のために軽い山伏的な修行、誰でも簡単、フィットネス修行みたいなこともいいかもしれない。さて、そろそろ二度寝の態勢を整え、三度寝に突入するので、クレイジーはここで閉幕宣言する。  





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2011年06月02日

仙人新聞 2011・06・02

仙人新聞 2011・06・02

今日のテキストは3・11の地震があった日に書いたものですね。


***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***

http://www.ustream.tv/recorded/15101391


***宇宙mixエクリチュール版***



**哲風呂**



    直感、ベルクソンの時空、そして、記憶についてである。びゅ〜んとくるまでドライブである。狭い日本、そんなに急いでどこへ行く。ニューヨークのトイレにいくんです、ときっぱり、あっさり答える。街中の雰囲気がちがう。夜の街、チンピラが民族大移動、攻めてきたので逃げる。なんだかよどんだ空気の首都高速。小高い丘は新鮮な空気をケツいっぱい吸い込む。場所によって、風景、空気がちがうだけでなく、空間の質的な違いがあり、これをわれわれ受信している。いわば、人間は考える葦というより、考えるアンテナなのかもしれない。


   直感とはなにか。あたまでもんもんと考える、これは論証だ。これとは反対にビビビっと感じるのが直感。古代ギリシャのプラトンは五感じゃなくて、ビビビっと知的直感によって山芋そのもののイデアを感じたであろう。芽でみるのではなく、直接かんじちゃうというのが観想、テオーリアである。デカルトはあらゆるものが疑わしい、だけどビビビっと自分の存在だけは確実と悟る。ところがこれら知的直感は眉唾だと断罪したのがカントである。人間にはおまけ的な直感、別名、派生的直感である感覚的直感しか許されないという。五感によって得たものを純粋な直感である時間、空間でまとめあげ、悟性によって論理的に整理、理性で推理だ。こんなカントはじつはふつうに五感使わない知的直感やってるじゃん、といい放つのがフィヒテ。知的直感があるから、カントも見えない人間の認識のシステムを知ることができたじゃん、焼肉のタレじゃん、ということだ。シェリングは知的直感でいきなり私と世界を合体させた。ところがヘーゲルはあくまで論証、理屈が重要だといい、直感なんてこそではなく、へそkらえである。


  次の話はベルクソンの時空についてである。時間は測定不可能であり、時計はあくまでも針の空間移動だといい。ほんとは時間は流れではなく、ぷ〜〜っという持続だという。質のちがいだらけなのだ。空間はどこも均一でのっぺらぼう。よって測定可能だという。言葉は空間的だからほんとうの時間、純粋持続はとらえられないという。

  最後に記憶についてである。これまたベルクソンである。記憶はおつむにしまってあるのではなく、そこらにそれ自体で存在しているというのだ。即自的に存在しているというのだ。脳はあくまでも、こんな記憶とアクセスするアンテナだという。


  まとめ

 **存在の科学**

  異次元理論

   ベルクソンがいうように、時間だけが質的で、空間は均一の量的なものなのか。そうではなく、空間も質的なものではないのか。空間を移動すると、脳が即自的な記憶をアクセスする。そこらに、宇宙のいたる空間的に記憶がある。そして、自分の記憶の場合はいわゆる本当の記憶。他者の記憶は直感、ひらめきとんるのではないのか。じ〜っとしていても、じつに地球は自転公転しているから宇宙のいたるところに散在する記憶の空間点とアクセスしまくる。

   **クレイジートーク**

  今日は首都高速を走行中に大地震があった。前にいたくるまの鉄骨の資材が落ちてくるまが通れない。そこで、まわりのひとといっしょに車をおきざりにして、非常口から脱出。余震がおさまったのでもどろうとしたが、非常口があかない。いま、公団に電話して開けてもらおうとしているが、首都はパニック状態。ファミレスにてこぎたない格好でお茶してまっている。現場で汚れた服でほんとうに浮いている。顔から火がでそうに恥ずかしく、火炎放射器のように火が飛び出し、テーブルの上のサンドイッチがトーストになった。ということで、あと連絡を5,6時間まつことにするので、緊急非常事態ということでクレイジーを終える。

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2011年04月27日

仙人新聞 2011・04・27

仙人新聞 2011・04・27






***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***


http://www.ustream.tv/recorded/14294923





***宇宙mixエクリチュール版***





**哲風呂**



  哲学的人間学と絶対精神についてである。空から巨大な円盤が降ってきた。もちろん、天気予報でもいっていない。円盤のハッチがあいて、なかからグレイタイプの宇宙人。色が地味目のグレイか、白だ。これなr薄型プラズマ白黒テレビにも対応できる。地味目という言葉が聞こえたのか、そそくさと円盤のなかに戻って帰ってしまう。ほんとうはカラフルなのではないか。海洋生物が沼にいる魚よりも派手だ。広ければそれだけ派手になるのではないか。宇宙人カラフル説とそれを見るための認識能力についてである。

  哲学的人間学についてである。人間ってなんだ、ということを哲学的に考える分野。まずは、哲学者シェーラーの、宇宙の中の人間の位置、についてである。人間は動植物と共通する能力があるという。衝動である。腹が減っておもわず、隣人の弁当のおかずに手がのびる。食欲、性欲旺盛。衝動買いだってする。このとき、もはや周囲の環境にどっぷりつかっている。環境に縛られているのだ。ところが、人間にはこれに加えて精神という能力があるという。精神は環境にどっぷりではなく、一歩二歩さがって、間合いを取る。そして、冷静に鼻毛がでていても笑わずにそこらのものをかたまりとして認識だ。これが対象化である。また、自分自身すら、おれっていうかたまりとみなす。自己対象化である。

   プレスナーの哲学についてである。世の中を三つの層にわける。非有機体とは空間のあるところ占めているただの物体。岩石、石ころ、ベンチだ。ベンチのうえで寝ているものは非有機体ではない。有機体は中心性をもたずに生きている。どろどろした粘菌ちゃんとかである。動物はちょっとちがう。自己と身体をもつという。ただし、自己の中心を意識していない。そして、人間は身体と魂と、さらに、このふたつを冷静にまなざしている自我という三者関係。だから、人間は文化的に営めるという。

  もうひとり、ゲーレン著、人間、についてである。人間っていいな、と歌いたくなる衝動をまずはおさえる。ゲーレンいわく、人間っていうのは欠陥、欠損だらけの不良品だという。だから、常に動き回り、行動していないと自然に負けてしまう。周囲の環境を変えて住みやすくしたのだが、これが文明をうんだというのだ。

  最後にヘーゲルの絶対精神についてである。宇宙はひとりの人間の意識と同じように成長しているという。それが宇宙や世界史だといい、突拍子もない発想である。物心ついて、おれっているんだと自覚する。そして、宇宙もまた、おれは宇宙だと自覚したとき、絶対精神になる。


  まとめ

  **存在の科学**

   異次元理論  宇宙人はカラフルである 空間広域と時間的長期がカラフルになる

  淡水にすむ魚は地味である。ところが、広い海に住む魚はカラフルである。よって、もっと広い宇宙に住む生命体、いわゆる宇宙人はグレイタイプのような地味さではなく、天使や天女のように美的なものではないか。およそ、みたこともないほど、カラフルではないのか。

  かって、恐竜はカラフルだったという説がある。ところが、そのカラフルさを恐竜自身が見えていたかはわからない。おそらく、色を見る能力がなかったのだろう。時間的に長きにわたって、色を見る能力を培った人間。そもそも、以前お話したが、人間は人類誕生、生命誕生、宇宙誕生のときに生まれていた。ただ、見る目がない、能力がなかったのだ。そして、進化をし、カラフルなものを見れるようになった。つまり、こういうことである。時間的な延長によって得たカラフルな色を見る能力。時間があれば、空間的に広域にいける。広域であればあるほど、カラフルな生命体がいるといったではないか。つまり、空間及び、時間的に広域には色彩豊かだといいたいのだ。



   **クレイジートーク**

  現場は長崎であった。そして、なんと早い時間にあがって、いまはいつものように車のなかで入力している。雨がしとしとふっている。外にでて、水もしたたるいい男になるか、それとも、じめじめした車内でモニターとにらめっこするか迷った。迷った、迷った、っという掛け声の行事。足が土俵外にでているかどうか判別しがたかったのであろう。困った、困った、と同じく行事。きっと、月末の支払いを気にしているのであろう。突然、寝ている布団の上で行事がのこった、のこった、と動きまわっていたら、とにかく、迷惑であり、どうにか頼んでほかのところでやってもらうしかない。なんで行事の話になったのか、いまだ、謎である。アトランティス大陸は誰が沈めたのかも謎である。謎多きお話であったが、とにかく、いまはクレイジーを終えて昼寝するだけである。

  
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2011年04月14日

仙人新聞 2011・04・14

仙人新聞 2011・04・14



***宇宙mix(哲学漫談、クレイジートーク)パロール版***


http://www.ustream.tv/recorded/13983380



***宇宙mixエクリチュール版***



**哲風呂**


  固体と知識社会学についてである。同じ世界にはいると個性が見えてくる。上から目線でありの集団をみつめても、みんな同じ顔にみえる。ありになるんだゲ、もとい、上。ジョーだったかもしれないが、とにかく、次元が同じ、土俵同じならば個性が見えて、次元がちがうと一律に見えてしまう。人間とハエは遺伝子はほとんどいっしょらしい。その微妙なちがいを拡大できるのは、われわれは生命やっているからである。

   クリプキのいう固体についてである。山田太郎くんは野球をやっていって、ポジションはキャッチャー。ほかにもいろんな個人情報があるだろうが、固有名、山田君のあらゆる説明、これを確定記述という。ラッセルは名詞をみんな確定記述にチェンジすればいいという。ところが、やまちゃんが野球選手ではなく、サッカー選手や、コックさんのひょっとしたらの世界があるかもしれない。これを可能世界というが、サッカー選手の可能世界ではかたくな山田さんやっているが野球やっていない。つまり、確定記述がかわってしまう。いろんな可能世界を意地でも貫く、これが固定指示子といい、いわゆる、固有名なのだ。ここに世界でたったひとりの個性的な固体がある。

  さて、問題は水っていう個有名などである。水を説明すると、液体でHが二つ、O一つの分子構造だ。ところが、別の可能世界ではりんごがふたつにみかん一個が水かもしれない。ところが、われわれの世界では実験、観察の結果、H2Oであることがわかった。後天的に必然的な真理をゲット。後天的とはアポステリオリという。先天的はアプリオリ。本来、カントがいうように、先天的、アプリオリは必然だけど、後天的、アポステリオリなたまたまの偶然という発想がひろがっている。これを度外視したのだ。つまり、後天的な必然性である。

  次の話はマンハイムの知識社会学についてである。マルクス主義を批判するマンハイム。マルクス主義はこういう。存在が意識を決めると。意識が存在を決めるのではない。ん〜っと念じて、りんごを存在させるのではない。物理的な存在、からだがあって、そのうえに意識がうまれるという唯物論だ。そして、世の中は存在、下部構造によって支えられているという。生産とか、物質、経済である。この上に上部構造として、精神的なもの、付加価値の贅沢品の数々だ。下部構造は労働者階級プロレタリアート。上部構造にはブルジョワジーだ。プロレタリアばんざい、というのが、これとは真反対といってよいかもしれないが、新カント学派も批判。すべてはあたまのなかでつくられたものだという極端な発想。それでは赤い、甘いという感覚は外からやってくるものではないかといいたくなる。考え、考えまくるが、考えていないものをつねに考える。考えると考えていないものの隙間。微分法のいう超小さなすきまに無数のものがあるという発想を生かして、考えているものと、考えていないもののあいだに無数の要素があって、これが感覚だという、あたまで自己完結という思想である。マンハイムは下部構造にたって、上部のブルジョワを批判するマルクスは自分たちを無視しているという。つまり、自分にも適用せよ、というのだ。だらしないかっこうしないできちんとしなさいと、だらしないおじさんからいわれる。いわゆる、自分には適用せずに棚上げ。これが自己適用、下部構造にも上部構造にもみんな公平に適用だという見方。ものの観点をかえちゃう。いろんなところに身をおいて、いろんな角度から眺めちゃう。これを認識論的視座を変えるという言い方をする。


  まとめ

  **存在の科学**


  異次元理論

   同じ次元に立つと、個性が見えてくる。異なった次元から見ると、没個性的に見える。たとえば、西洋人は東洋人からみると、同じ顔のようにみえるし、逆もまたいえることだ。文化、国、肌の色の違いが次元の相違を生み、没個性的に見せている。本来、生命の遺伝子はみんなほとんどいっしょだという。ハエも人間もほとんど塩基配列いっしょでわずか数パーセントちがうだけ。その微妙なちがいを拡大させているのは、生命という同じ土俵、次元にいるからである。認識論的視座を変えることで、巧みに個性的に見る能力が身につく。数学的な次元ではたとえば、三次元や四次元の中間的なわれわれにとっては、一次元の直線はみんな同じにみえ、没個性的だ。もしも、一次元に住まうものになれば、同一次元上にいるので、個性的な直線たちが見えてくる。

  可能世界を貫くのが固有名、固体だという思想がある。つまり、個性とはひょっとしたらの可能世界、並行世界を貫き、これによって個性を増す。ところが、別次元だと話はちがう。つまり、並行世界と別の次元とは意味がちがうといいたい。


  **クレイジートーク**

  本日は北大塚の現場。広大な公園の前に路中しているところだ。マンションの管理人がくるまのまわりを嫌そうな顔で掃除にきた。路中するな、と顔にかかれ、まるで、マイクタイソンのタトゥー。移動したほうがよいのか。それ
とも目をあわせずに、やりすごそうか。いま、おいらの頭上で最高会議を開催し、議論しているとjころだ。こうなったら目をあわえてやろう。眼力があればきっとだいじょうぶだ。ほうきをもったおばさんはもはやそこにはいなかった。はるかかなたの木っ端をはきはじめていた。さてと、なにもしていないのはもったない。人類のために、地球の自転のお手伝いをすべく、すわりながら東から西にむかって腰を動かす。微小な力からもしれないが、わずかながらでも自転に貢献したということで、ノーベル賞をノミネートしていただきたい。それではそろそろ、この辺でクレイジーを終わり、本気で仕事をすることにしよう。


posted by モノイイ ジョーカー at 18:16| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 日刊コラム 哲風呂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする