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2008年07月18日

仙人養成講座 哲風呂 意味と抵抗へ

意味と抵抗についである。足をあげて、自分の太ももを舐めてバンザイする。一体、なにをしているのか、その意味がさっぱりわからない。サッカー中にしこをふむ。相手チームを威嚇しているのか、はたまた、相撲界への転身か。意味不明が横行する世の中。怠惰な日常に飽き飽きし、心入れ替え、大胆なあくびでもしてみようと決意する。スーパーに買い物へゆき、いつものように、割引シールを探す日々。こんな同じことの繰り返しの日常になんの意味があるのかと自問する。早押しボタンをおして答えもする。そもそも、意味とはいったいなんなのか。これがわかれば一歩前進できるかも。私のこの一歩、人類の一歩だけど、運悪くふんをふんでしまった。月面にふんとはいかに。とにかく、意味の宇宙論についてお話したい。意味の意味についてかんがえていたら、おそらく、どんなに忙しいときでも動きとまる。そこを写真にとられるかもしれない。ラブホテルの窓から顔をだし、ピースしているところを写真にとられる。いわゆるスクープである。ただ、ときにじっくりと意味とはどんな意味なのと考えるのも美容と健康によさそうである。

   意味とはなにかと超基本的なことを考えてみる。チョーくせーと若者はいう。チョーのあとに、く、といいたいのをぐーっとこらえて、ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ、と歌って、周囲をなごませることができたら立派な大人だ。意味とはなにか。古代ギリシャのアリストテレスは意味とは心の中のイメージだといった。象さんをイメージし、キリンさんをイメージせよ、と命じられる。たしかの、すべてイメージだ。これに対してエピクロス。意味とはちゃんと単語に対応するブツがないといけないと考える。キリンさんという単語をつかったからには、そこらに歩いているキリンさんとビビビっと繋がっているのだ。

  中世に入ると、意味に関して激しい議論が交わされた。まずは単語は口から放たれる。マシンガントークと世にいうが、口からばばんばんと言葉がでてくる。声帯ふるわせ、お尻をぷるぷるさせて、言葉は語音となって出現。そして、ごきぶり、っと友人が叫べば、すかさず、私のなかでゴキブリが夜なべしてセーターを編んでいる姿が描かれ、ジャンプしてふりむく。つまり、話し手の口からでて語音が、聞い手である私の心にイメージを作ったのだ。おっぱい、足、お尻、といわれると、だんだん、頭の中はイメージいっぱい。思春期の少年ならば走りだし、およよっと太陽に向かって叫ぶだろう。これは語音の力だという。そして、さらには、語は意味をもつが、すごーく具体的なこの座布団についてのイメージか、はたまた、世の中にある座布団一般の普遍的なイメージなのかと普遍論争が巻き起こった。

  イギリス経験論では哲学者ロック。やはり、言葉の意味は話し手の心のイメージだという。ところが、意味がただの観念、イメージだというのはおかしいと異義をとなえたのが、ミルである。冷蔵庫に顔をつっこんだから寒いのだ。ここには原因と結果の因果関係がある。これを強引にお菓子の袋をあけて中身散乱のごとく、強引にイメージにしてみる。すると、冷蔵庫に顔をつっこむイメージは、寒いイメージの原因だとなってしまう。どこかがおかしい。そして、意味はイメージなんか軟弱なものではなく、ちゃんと存在しているものなんだ、という哲学がうまれる。

  まずは、ボルツァーノの哲学。主観的表象作用と客観的表象自体である。もちろん、表象とはイメージと考えてもよい。あたまのうえの雲のなかに、入浴シーンをイメージ。もちろん、教育的観点から、海がめの入浴シーンにさせてもらう。個人的にイメージしたもの、これが主観的表象作用だ。これに対する表象それ自体とはなにか。やまちゃんの髪の毛は何本あるか。主観的にイメージできねーっといって、不良は家出。それでも何本かは知らないが本数は実在するはず。地球の砂数はイメージできねーっと番長は砂場で泣いている。それでも、地球の砂粒の数は実在している。この実際にそれ自体で存在してやがる砂粒の意味、イメージ。これが客観的表象自体だ。

  現代においてはフレーゲ。意味と意義をちゃんと区別せよ、と忠告。水をくれ、と砂漠で声をかけられる。H2Oプリーズと声かけられる。これら水、H2Oは同じものを指差す単語だ。それなのに、どこかニュアンスがちがう。受け取りかたがちがう。H2Oといったほうがインテリっぽいし、スマートだ。意味はいっしょでも、意義がちがうというのだ。しかも、この意義はそれ自体で存在し、うそでもほんとでも、真偽なんてぶっとんでいるやつだという。

   哲学者フッサールは意味とは、体験じゃないんだよ、と主張。私の赤裸々な実体験。昼下がりの午後に団地妻は買い物へゆく。そんな体験談がかかれているが、体験とはきわめて具体的。厳密には、どんなス−パーでどれくらいの鮮度の刺身を購入したかは、ことばじゃ表現できない。ところが、言葉の意味をつかうと、相手に伝わる。意味とは、体験とは別に刺身それ自体、スーパーそれ自体として、どこかに準備されているのだ。次にヴィトゲンシュタインである。意味とは単語にこびりついている鼻くそではない。単語をどういう場面でどんな格好で使うのかという使い方だという。さらには、ウィーン学団は、意味とは検証方法だと言い放った。鶏は飛ばない、と断固うったえる。この文の意味とは、実際に鶏が飛ばないことをどうやって検証するのかということ。要するに、だんだん、意味を単語にこびりついているカタマリだとは考えなくなってきた。意味をカタマリ、だんごとかんがえるのが、意味の物象化だ。

  次に、哲学者ハイデガーである。ひとはいろんなものを理解する。アンダースタンドと直立不動で叫んでみたい。アメリカはニューヨークで忍者をしたいという願望を何枚のタンザクにかいてきたことか。タンザク代でアメリカへいけたではないか。理解するとは、なにかとして理解すること。これをとして構造という。やまちゃんをてんとう虫として理解する。ところが、として構造が出現するのは、ベース、土台が必要だ。これが投企といわれるもの。私は何かを投げ企てる。企画しちゃうのだ。そのとき、私はなにかに関わり、指で押してちょっかいをだす。スーパーのズワイガニ、生きているかどうか指でちょっかいだ。そんなときは、じつは、私自身の存在にもちょっかいだしているという。私は私の存在とかかわっちゃう。すると、わたしの存在を丸ごとつかめなくて、ぎりぎりの存在の地平線がみえるという。ここに意味があるというのだ。


  最後にがらっとかわって抵抗という概念についてお話だ。抵抗運動が世界で頻発。健康体操、太極拳とはわけがちがう。もっとカロリー消費量が多い。ぬるま湯につかっていると安泰で、抵抗感がない。のほほんとしすぎて疲れてしまう。人生、山あり谷あり、ショートケーキもある。いただきます、といいたいが、なんでロングケーキではにのかとだだをこねて、ちょっと挫折感味わう。恋人たちは語らう。耳をすまして会話を盗み聞きすると、どうやら、年金生活の話し、隠居生活についてあつく語る。いきなり年金生活ではなく、そこまで至難がある。抵抗感あってこそ、物を実在性ありき、これがディルタイの生の哲学だ。犬が走れば棒に激突。軽くノウシントウ。それで犬はその棒の実在感を感じる。

  まとめ

  存在の科学  人間不死学説  意味の宇宙論

  意味とはなんだろうか。意味がうまれるには力が必要。これを意味の力と名づけたい。私はジャンプする。ひょっとしたらしゃがんでいたかもしれない。このしゃがんでいたかもしれない世界が平行して存在するというのが平行世界。だから、平行世界は微妙にこの世界とはちがう世界が乱立、ひしめきあう。じつに、ハンカチの意味はなにかといえば、それは岩石ではない。ひょっとしたら岩石だったかもしれないという平行世界を経由して意味がうまれる。モノの意味は並行性によるもの。しかも、これがハンカチであり、ハンカチの意味を知った、というのは、どんな力が必要か。ハンカチは岩石ではない、と自分の城を死守せねばならない。岩石だったかも、ティッシュだったかも、という平行世界がすぐお隣にある。これら平行世界が無数にひしめきあっているから、その圧縮力が力となっているのだ。これが食パンだ、と食パンの意味が出現。あんぱん、フランスパンだったかも、という平行世界がひしめきあって、おしくらまんじゅう状態。この力が食パンの意味を出現させた。

  ここで量子力学のお話。原子核の周りに電子がまわってっらー。電子は同時にあらゆる軌道上に存在する。ここにあるかもあそこにあるかもと平行世界である。そして、なにゆえ、電子が原子核の周りから飛び出して家出しないかといえば、どうやら、電子がここかもあそこかもと平行世界となってひしめきあっているその圧縮力でとどまっているからだというのだ。まさに、先ほどのお話である。意味もまた、こうやって、平行世界の圧縮する力でそこに止まる。


   
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2008年07月17日

仙人養成講座 哲風呂 記述理論と知覚論へ 仙人養成講座 哲風呂 記述理論と知覚論へ

    記述理論と知覚論についてである。本日、何について考えようかと考えた。みけんにしわがよてくる。山あり谷ありのしわ。まるでロッキー山脈のようだ。みけんにむかって叫べば、山彦となってかえってくるかもしれない。考えたところ、人類最大といったらおおげさすぎるが、大問題にぶちあたった。あたるもはっけ、あたらぬもはっけ、とは、散歩中の犬が電柱にぶつかること。ずーっと、いままで根気よくはきつづけてきたパンツが、あたりだったとは。当たりと赤字でかかれている。もう一着くれるのだろうか。友人の背中にも当たり、という字。ひょっとしたら、一機アップかもしれない。大問題とは、こういうことだ。ひとはなにかを感じて生きている。かんじるぅーっとムンクの叫び。エクスタシーにエロティシズムについてたくわんを食いながら論じる場合ではない。なにかを感じ、しかも、なにかが存在しているのだ。単刀直入にいってしまえば、認識と存在とはどこがどう繋がっているのか。そんな通路をみつけたいと思ってやまない今日この頃だ。

  哲学者ラッセルの記述理論からぶち開けてみる。この宇宙、世界を解明するにあたってなにかとっかかりがないのか。とっかりをみつて、これに手をかけよじ登るセミ。生来のロッククライミングの血が騒ぐ。あたりを見まわすと、当たり前のように使っている言葉。この言葉ってひょっとしたら論理、理屈がいっぱいつまっているから、宇宙の構造かも、とおもったりする。文を研究してみよう。ビッグフッドのふんを分析するのはもうやめた。なんだか食欲減退、精神疲労がつのるばかり。文とは、たいてい真偽がくっついている。この文ははたして正しいことをいってるか、3年B組うそっぱち先生か。真か偽の値をもっている。醤油はしょっぱい、という文。正解の効果音が鳴り響く。つまり、真という値だ。醤油ビンは空を飛ぶ。ピーターパンじゃあるまいし、この文はうそ偽り、偽の値をもっている。ところが、そもそも、真でも偽でもない眼中にない文がある。お呼び出ない、そもそも、相手にならないような文。真偽すらもってない無意味な文だ。ヒップマンはイチゴがお好き。この文に登場したヒップマンとは、文字通り、お尻に手足はえている正義の化け物。こんな化け物は実在しない。実在しないやつをとやかくいっても、正しいもへったくれもない。つまり、真偽のない無意味な文だ。

  哲学者ラッセルはこんな無意味な文にたえられなかった。この世には無意味でナンセンスなものはない。全部に意味がある。靴下を裏返したときのでっぱった糸。これもまた必要不可欠三種の神器だ。それではどうしてヒップマンを云々できるのか。要するに、主語にお尻人間をもってきてはいけないのだ。もちろん、お尻人間はあるいているだけで、犬のおまわりさんによびとめられる。お尻人間を述語にしてしまえばよい。そして、その代わりに主語、主人公の座に踊り出るのがX,Yという変項といわれるものだ。変項とは、得たいの知れない正体不明なやつ。からっぽな容器であり、弁当もいれられる、大工道具も入れられる万能収納箱だ。Xはお尻人間と呼ばれるものであり、かつ、Xは足が速い。こうすれば、この文は真偽の値が立派にこびりつくことができる。こびりついてラッキーとはあまりきかないが、こびりついてくれてありがとう、と感謝したい。こうすれば、すべての文をXとはなんとかである、というように変形しちゃえば意味ある文に様変わりだ。そして、Xを説明するための、お尻人間と呼ばれる、とか、足が速い、といういわば説明文の束が確定記述束といわれるものだ。そもそも、Xは正体不明のからっぽの容器であり不確定。これに確定されている能書き軍団である確定記述束がくっつけばよい。


   つぎに、哲学者フッサール及び、メルロポンティの知覚論についてうんちくたれたい。身体とは何かとフッサールは考える。おっぱい、へそ、耳だってついている。割れた腹筋のすきまにはさまってしまう昆虫。レントゲン写真をとってみると、なんとも不思議だ。いろんな臓器が丸見え。ちょっとはずかしくて、お尻が赤くなってしまう。物理的にいろんなパーツでなりたっているんだな、と保健体育の教科書を改めて眺め見る。だんだん興奮してくる。性器の断面図をみてカルチャーショック。物としてのからだ、ここにヘアーを乗っかって、ここに盲腸が装着されている。これを物理学的身体と呼ぶ。ところが、人間はただの物体じゃないと叫びたくなる。スイカを丸ごと食ったり、鼻を興奮気味で匂ったり、いろんなものを感じて生きているのだ。生きている身体、これが知覚的身体だ。さらに、その背後にはおぼろげながらも太郎くんのやさしさが見えてくる。こうやって、段階的に心にたどり着いちゃう。しかも、胸はぴくぴく、フクラハギだって堅くなる生きている身体はただ光を感じ、そよ風をかんじているだけではない。それじゃリラックスしすぎだ。なんと驚くことに動くのである。プロレスラーだって、ロープにふって帰ってきたところ、屈伸運動。動くことが出来るからだ、しかも、そんなときは、よいっしょ、エイっという気合で足の裏のどろを縁せきにすりつけて落すのだ。意志の力でからだがうごくから、こんな身体を意志的身体という。

  こんどはメルロポンティの知覚論である。ゴブガリ少年のあたまをなでる。ちくちくして心地よいが、まるで芝生のようだ。キャディーさんを発見だ。小僧のあたまに隠れ潜んでいたとは、見上げた根性だ。手であたまをなでた。これは意志的身体だ。少年にとってはさわられたと感じる。つまりは知覚的身体だ。ここからが問題である。少年は高々に主張する。マイクをにぎりしめ頭部こすりつけてじゃりじゃり音を奏でるのではなく、なんと、頭が手をさわっていると主張するのだ。私はたまに自分のあごを触る。あごがあってよかった、とほっとする。あごが手をさわっているともいえる。さわるさわられる、見る見られるの関係は意図もたやすく入れ替わっちゃうのだ。意志的身体と知覚的身体が渾然一体になっているのだ。

  まとめ

  存在の科学   人間不死学説  存在と感じること
  
  記述理論で登場するX,Yという変項。Xはネコのたまちゃんであり、かつ、オスである。正直、Xとは正体不明でからっぽの容器。からっぽだから、無だともいえる。しかも、なんでも入れられるから、パンツははいるが、宇宙船は入るとか、なんとも、事件、出来事まですっぽり収まる。聖徳太子がしゃもじであごひげをそるという出来事もXに入っちゃう。つまり、Xとは、平行世界、パラレルワールドなのだ。このXという変項はひょっとしらの世界がつまっているし、同時に無でもある。しかも、時間の流れすらない。つっぱりをされて押し飛ばされる。手と頬のあいだには無。ここに相互作用、作用、反作用がはさまっている。要するに、Xは相互性でもある。それでは、述語はどうだろうか。ネコのたちゃんと呼ぶ、とか、オスである、というXの説明文の束。これを確定記述束という。よくよく考えれば
わかるが、この確定記述、時系列になっているのだ。Xについての説明は順番で時系列になる。ああでこうでこうである、というふうに。つまり、確定記述は原因と結果の因果関係、時間によってなされるのだ。しかも、Xは不確定だから、量子論的なミクロの世界。確定記述束は確定的だからマクロな世界だ。要するに、Xを感じるとは、不確定なXを確定すること。量子論的な雲を位置確定してやることだ。また、別の言い方をすれば、時間と平行世界がここに同時に出現しているから、別宇宙どうしの接触とも考えられる。さらには、カントカテゴリー表では、関係のカテゴリーの実体、因果、相互性のうち、因果と相互性がでているので、この組み合わせによって残る実体性のカテゴリーが出現するとも解釈できる。実体、つまりは、それ自体存在しているものたちは、不確定な変項の確定。電子の確率的な波を粒子にすること、いわゆるなにかを感じることなのである。さらに、様相のカテゴリーにおける可能性、現実性、必然性。この順番でならんでいるのだが、可能性と必然性を合体させると偶然的であり、これこそが主体的な我の存在だといいたいのだ。可能性は関係のカテゴリーの相互性、現実性は同じく実体性、そして、必然性は因果的な連鎖を想起させるので因果性。いずれにしても、関係のカテゴリーと様相のカテゴリーを構成する要素、その順番がなにゆえずれているのか。このずれに秘密があるように思える。  
  
についてである。本日、何について考えようかと考えた。みけんにしわがよてくる。山あり谷ありのしわ。まるでロッキー山脈のようだ。みけんにむかって叫べば、山彦となってかえってくるかもしれない。考えたところ、人類最大といったらおおげさすぎるが、大問題にぶちあたった。あたるもはっけ、あたらぬもはっけ、とは、散歩中の犬が電柱にぶつかること。ずーっと、いままで根気よくはきつづけてきたパンツが、あたりだったとは。当たりと赤字でかかれている。もう一着くれるのだろうか。友人の背中にも当たり、という字。ひょっとしたら、一機アップかもしれない。大問題とは、こういうことだ。ひとはなにかを感じて生きている。かんじるぅーっとムンクの叫び。エクスタシーにエロティシズムについてたくわんを食いながら論じる場合ではない。なにかを感じ、しかも、なにかが存在しているのだ。単刀直入にいってしまえば、認識と存在とはどこがどう繋がっているのか。そんな通路をみつけたいと思ってやまない今日この頃だ。

  哲学者ラッセルの記述理論からぶち開けてみる。この宇宙、世界を解明するにあたってなにかとっかかりがないのか。とっかりをみつて、これに手をかけよじ登るセミ。生来のロッククライミングの血が騒ぐ。あたりを見まわすと、当たり前のように使っている言葉。この言葉ってひょっとしたら論理、理屈がいっぱいつまっているから、宇宙の構造かも、とおもったりする。文を研究してみよう。ビッグフッドのふんを分析するのはもうやめた。なんだか食欲減退、精神疲労がつのるばかり。文とは、たいてい真偽がくっついている。この文ははたして正しいことをいってるか、3年B組うそっぱち先生か。真か偽の値をもっている。醤油はしょっぱい、という文。正解の効果音が鳴り響く。つまり、真という値だ。醤油ビンは空を飛ぶ。ピーターパンじゃあるまいし、この文はうそ偽り、偽の値をもっている。ところが、そもそも、真でも偽でもない眼中にない文がある。お呼び出ない、そもそも、相手にならないような文。真偽すらもってない無意味な文だ。ヒップマンはイチゴがお好き。この文に登場したヒップマンとは、文字通り、お尻に手足はえている正義の化け物。こんな化け物は実在しない。実在しないやつをとやかくいっても、正しいもへったくれもない。つまり、真偽のない無意味な文だ。

  哲学者ラッセルはこんな無意味な文にたえられなかった。この世には無意味でナンセンスなものはない。全部に意味がある。靴下を裏返したときのでっぱった糸。これもまた必要不可欠三種の神器だ。それではどうしてヒップマンを云々できるのか。要するに、主語にお尻人間をもってきてはいけないのだ。もちろん、お尻人間はあるいているだけで、犬のおまわりさんによびとめられる。お尻人間を述語にしてしまえばよい。そして、その代わりに主語、主人公の座に踊り出るのがX,Yという変項といわれるものだ。変項とは、得たいの知れない正体不明なやつ。からっぽな容器であり、弁当もいれられる、大工道具も入れられる万能収納箱だ。Xはお尻人間と呼ばれるものであり、かつ、Xは足が速い。こうすれば、この文は真偽の値が立派にこびりつくことができる。こびりついてラッキーとはあまりきかないが、こびりついてくれてありがとう、と感謝したい。こうすれば、すべての文をXとはなんとかである、というように変形しちゃえば意味ある文に様変わりだ。そして、Xを説明するための、お尻人間と呼ばれる、とか、足が速い、といういわば説明文の束が確定記述束といわれるものだ。そもそも、Xは正体不明のからっぽの容器であり不確定。これに確定されている能書き軍団である確定記述束がくっつけばよい。


   つぎに、哲学者フッサール及び、メルロポンティの知覚論についてうんちくたれたい。身体とは何かとフッサールは考える。おっぱい、へそ、耳だってついている。割れた腹筋のすきまにはさまってしまう昆虫。レントゲン写真をとってみると、なんとも不思議だ。いろんな臓器が丸見え。ちょっとはずかしくて、お尻が赤くなってしまう。物理的にいろんなパーツでなりたっているんだな、と保健体育の教科書を改めて眺め見る。だんだん興奮してくる。性器の断面図をみてカルチャーショック。物としてのからだ、ここにヘアーを乗っかって、ここに盲腸が装着されている。これを物理学的身体と呼ぶ。ところが、人間はただの物体じゃないと叫びたくなる。スイカを丸ごと食ったり、鼻を興奮気味で匂ったり、いろんなものを感じて生きているのだ。生きている身体、これが知覚的身体だ。さらに、その背後にはおぼろげながらも太郎くんのやさしさが見えてくる。こうやって、段階的に心にたどり着いちゃう。しかも、胸はぴくぴく、フクラハギだって堅くなる生きている身体はただ光を感じ、そよ風をかんじているだけではない。それじゃリラックスしすぎだ。なんと驚くことに動くのである。プロレスラーだって、ロープにふって帰ってきたところ、屈伸運動。動くことが出来るからだ、しかも、そんなときは、よいっしょ、エイっという気合で足の裏のどろを縁せきにすりつけて落すのだ。意志の力でからだがうごくから、こんな身体を意志的身体という。

  こんどはメルロポンティの知覚論である。ゴブガリ少年のあたまをなでる。ちくちくして心地よいが、まるで芝生のようだ。キャディーさんを発見だ。小僧のあたまに隠れ潜んでいたとは、見上げた根性だ。手であたまをなでた。これは意志的身体だ。少年にとってはさわられたと感じる。つまりは知覚的身体だ。ここからが問題である。少年は高々に主張する。マイクをにぎりしめ頭部こすりつけてじゃりじゃり音を奏でるのではなく、なんと、頭が手をさわっていると主張するのだ。私はたまに自分のあごを触る。あごがあってよかった、とほっとする。あごが手をさわっているともいえる。さわるさわられる、見る見られるの関係は意図もたやすく入れ替わっちゃうのだ。意志的身体と知覚的身体が渾然一体になっているのだ。

  まとめ

  存在の科学   人間不死学説  存在と感じること
  
  記述理論で登場するX,Yという変項。Xはネコのたまちゃんであり、かつ、オスである。正直、Xとは正体不明でからっぽの容器。からっぽだから、無だともいえる。しかも、なんでも入れられるから、パンツははいるが、宇宙船は入るとか、なんとも、事件、出来事まですっぽり収まる。聖徳太子がしゃもじであごひげをそるという出来事もXに入っちゃう。つまり、Xとは、平行世界、パラレルワールドなのだ。このXという変項はひょっとしらの世界がつまっているし、同時に無でもある。しかも、時間の流れすらない。つっぱりをされて押し飛ばされる。手と頬のあいだには無。ここに相互作用、作用、反作用がはさまっている。要するに、Xは相互性でもある。それでは、述語はどうだろうか。ネコのたちゃんと呼ぶ、とか、オスである、というXの説明文の束。これを確定記述束という。よくよく考えれば
わかるが、この確定記述、時系列になっているのだ。Xについての説明は順番で時系列になる。ああでこうでこうである、というふうに。つまり、確定記述は原因と結果の因果関係、時間によってなされるのだ。しかも、Xは不確定だから、量子論的なミクロの世界。確定記述束は確定的だからマクロな世界だ。要するに、Xを感じるとは、不確定なXを確定すること。量子論的な雲を位置確定してやることだ。また、別の言い方をすれば、時間と平行世界がここに同時に出現しているから、別宇宙どうしの接触とも考えられる。さらには、カントカテゴリー表では、関係のカテゴリーの実体、因果、相互性のうち、因果と相互性がでているので、この組み合わせによって残る実体性のカテゴリーが出現するとも解釈できる。実体、つまりは、それ自体存在しているものたちは、不確定な変項の確定。電子の確率的な波を粒子にすること、いわゆるなにかを感じることなのである。さらに、様相のカテゴリーにおける可能性、現実性、必然性。この順番でならんでいるのだが、可能性と必然性を合体させると偶然的であり、これこそが主体的な我の存在だといいたいのだ。可能性は関係のカテゴリーの相互性、現実性は同じく実体性、そして、必然性は因果的な連鎖を想起させるので因果性。いずれにしても、関係のカテゴリーと様相のカテゴリーを構成する要素、その順番がなにゆえずれているのか。このずれに秘密があるように思える。  
  
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2008年07月16日

仙人養成講座 哲風呂 相互行為論と因果性へ

相互行為論と因果性についてである。心と心のふれあいを体越にしよう。親子のふれあい、ストーブとのふれあいには注意必要。あっちっちである。心からの贈り物。胸のうちにハートがあり、ここからのどをつたって、贈り物が出てくる。エイリアン、ゾンビ、そんなたぐいのグロテクスなシーンだ。口から粘液ととも出て来るは、サラダオイルセットである。種もしかけもあると正直者のマジシャンは告白。口から卵をだし、その卵を温めて羽化させ、帽子のなかからハトぽっぽ。ぽっぽ、といってもあっぽというジャイアントパンダではない。心と心、そして、ときに心は目の前の冷蔵庫のまわしをとってうっちゃり。引越しの手伝いだが、そんなとkは、心と物とのふれあいだ。心と心、心と物との関係について、ねじり鉢巻を口にくわえてさるぐつわ状態で考えていきたいと思う。

  相互行為論からお話だ。かって、哲学者カントは認識するために必要なものを考えた。あっ危ない、スイカと衝突するところだった。スイカだとなぜ認識できたのか。目でその形と色をみる。耳でスイカの足音をきいちゃう。さらにはべろでぺろぺろと味わう。五感だけで認識しているだろうか。じつに、ひとはあたまをちゃんと使っている。あたまとはさみとお尻は使い様である。のれんをかきわけるとき、器用にあたまをつかう。重要なのはあたまのなかに用意されている枠組。つまりは、四つのカテゴリーだ。量のカテゴリー、質のカテゴリー、関係のカテゴリー、様相のカテゴリー。長々と申し訳無い候だが、このうち関係のカテゴリーの内訳は、実体と因果性と相互性である。実体とはただのカタマリ。何にもたよらず存在しているやつ。因果性はかの有名な原因があったら結果があるんだよの原則だ。上に座ったからつぶれてしまったアンパンだ。そして、相互性とは、尻相撲で相手をどついくと、同じ力で押し返される。尻どうしは4つに組、あいてのまわしをつかんで下手投げ。尻が本体の了承を得ずに、かってに戦っている。相互性とは、いわゆる作用があったら、反作用があるということ。がんとばせば、がんとばされるのだ。

  さて、ここで相互行為論であるが、私は友人の家のまえで拡声器で呼び寄せ、そして、友人の太郎君を一人前、否、30人前の男とみなす。かれは去年、丸坊主だったときの彼といっしょだ。これが太郎くんの人格の同一性。太郎くんを人格として、尊ぶことによって、太郎くんの私への目つきがかわる。私をも一個の人格として扱ってくれるのだ。ボロキレのように扱わないのである。身振り、手振り、場合によって、けつもぷりぷりさせて、言葉交えてお話だ。こうやって、私が太郎くんはタコ野郎ですよね、というと、太郎君が刺激をうけて、眉毛がケイレン、まもなく、イカにはいわれたくないと反応する。刺激と反応の繰り返しから、いつしか、愛のキャッチボールがはじまっている。否、愛のどっちボールといったほうが懸命だ。こうやって、互いに影響を与えて相互にやり取り。これが相互行為である。これは明らかに、一方的に金魚を投網で捕まえるのとは違う。ハンマーを扱うのともちがう。ひととして、一対一で早うちガンマンでなく、一対一で話し合うのだ。道具をつかったり、ジャイアントロボットを扱うときは相互行為ではなく、ボタンをおせばべろを出す、という因果関係だ。

  古くはドイツ観念論、哲学者フィヒテはすでにひととひとのふれあいについて考えていた。愛車のドアとのふれあい、それはまさに電撃が走るような出会いだった。そんなときは、地面に四つ足になり、一回転、という必殺技、アースをお勧めしたい。フィヒテの場合はもっか、相互承認という言い方をしていた。互いに相手を立派な人格とみなすことで、承認しあうことで人の輪ができる。

  こんどは因果性についてお話してみる。原因があって結果がある。おっぱいをもんだからのけぞって、乳牛を噴出。牧歌的なエロ話だが、原因と結果が鎖のようにむすびつき、この宇宙は着実に、おいっちにーの掛け声で進行しているように思えてならない。ところが、イギリス経験論者のヒュームは宇宙にはそんな因果律の法則なんてないと批判。おっぱいもむとミルクでる。もう一度、もんでも出てくる。いつしか、たかくくって、どうせでるんだろ、とふんづりがえって余裕ぶっこくことになる。つまり、良いことも悪いことも習慣的に予測できるようになる。ストーブを触ったからあっちっち。そのうち、足をくうで葉巻をくわえ、さわってもいないのに、触るのが原因であっちっちは結果だと言い出す。いわゆる、習慣によって原因と結果を結んでしまうのだ。因果律とは、高々、人間のつよーい信念、思い込みだというのだ。

  現代においては科学者たちの一部に、因果規約説をとなえるものがでてくる。でてくるでてくる脂肪にきびつぶしたときの快感だ。因果規約説とは、ヒュームに同じく、因果関係は自分がでっちあげた規約、約束事だというのだ。でっちあげとはいいすぎた。でっちあげという言い方がでっちあげだ。小心者は1度は大声で叫んでみたい。でっちあげだ、と。いろんなものに当てはまる文章を棒読みする。これが普遍的言明という。たとえば、医学的な言明があってこそ、おっぱいもみとミルクが因果関係になれる。うそをついたのが原因で太郎くんはぷんぷん怒った。ここには心理学的な普遍的言明がはさまっている。

  次に、反事実的条件法について一言。そもそも、白衣を着て回転寿司の公転周期を計算する科学者たちは、まちがいなく、目でみたもの、経験したものだけを信じている。しかも、こちらが原因で、あちらが結果がございます、と当たり前のように因果関係を主張。ところが、そんな原因結果の因果関係は果たして、この自然界において手にとるように見えるのか。足のゆびではさんで取るのが消しゴムだが、手にとってみれないのが因果関係。神様とか、宇宙の果て、みたこともないものにうんちくたれると、こいつは形而上学だと批判するが、その実、因果関係もまた目にみえない形而上学っぽいやつではないか。宗教と同じく科学教である。

  それでは、見たことも無い因果律をさけないといけない。そこで反事実的条件法なるうまいやり方をみつける。もし、おっぱいもんでなかったらミルクはでなかったのに。残念でいたしかたない、という表情はいらない。Aという出来事がおきなければ、Bはおきなかった。これは明らかに、因果関係ではない。事実に反することをいっているのだ。ところがこれにも重大な問題があった。どういう条件下でおっぱいをもまなかったのか、そして、どんな状況でミルクでなかったのか。こんな条件だの、状況を説明するには、およそ、そのときの宇宙のようすを全部いわないといけないのだ。これまた、形而上学っぽいのだ。

   まとめ

  存在の科学   人間不死学説  心のふれあいは相互関係  どのカテゴリーが私なのか  物理宇宙も他人のひとり

  カント哲学のカテゴリー。量、質、関係、様相の四つのカテゴリー。おのおの三つの内訳を披露すると、量は単一、数多、総体。質は肯定、否定、制限。関係は実体、因果、相互性。そして、様相のカテゴリーは可能性、現実性、必然性だ。ここで相互性に着目。押したら同じ力で押し返されるという作用反作用の法則。こうやって、力が伝達する。力には方向があるから、原因と結果の因果性になってしまう。ところが、極微の世界、瞬間の世界では押すと押されるがつりあっていてフェアである。クッションにこしかけると、クッションがくぼむ。座ったのが原因で、くぼんだのが結果だと鼻のきく刑事は叫ぶ。極微の瞬間の世界では、座ると同時にくぼんでいる。同時に相互作用しているのだ。原因も結果もそんな順序は糞食らえ状態。つまり、密着して直接感じ、ふれあう。近くのもので、細かいやつらはこんな相互作用であり、自分が直接体験したものも相互作用だ。ところが、ちょっと離れて遠めでみてみる。大きいもの、離れているものは、どうも原因と結果の因果関係に見えてしまう。そこに同時ではなく、時間が生じるのだ。だから、実体験は相互作用。あたまで知性的に考えたり、間接的に考えるのは因果作用だ。ひととひとのふれあい。私が他人と同じ目線で互いに人格として認め合う関係になると、この心と心の相互作用が発生。ところが、間合いをとって、ちょこっと客観的にみると、因果関係になってしまう。ややもすれば、こうすればこうなるという道具っぽい扱いになる。手段と目的に分離しちゃう。


  私の意識はブラックホールで、しかも、宇宙だといった。太郎君も太郎君ワールド、つまりは宇宙だ。そして、この広大無辺な物理宇宙もある。みんな私、他人、物理宇宙。みんな互いにことなった宇宙。とりわけ、この物理宇宙だけがちょっと異彩はなった他人である。だから、太郎くんとも相互関係になれるし、物理宇宙と相互関係になれる。因果関係にもなれる。基本的には以前お話したが、異なった宇宙が接すると、時間が発生。つまりは因果関係がうまれるのだ。これを相互関係にするには密着、細かく、近くないといけない。おそらく、太郎君と斎藤くんの宇宙が一体したとき、友情なり愛が芽生える。人間の死とは、物理宇宙との一体化、友情関係である。


  相互作用、作用と反作用とのあいだに平行世界があるとお話した。お尻とクッションの同時性には、方向性がない。つまり、一枚のスチール写真のように、時間的な推移がない。今後よりくぼむのか、くぼまないか、もどるのか、爆発するのか、まったくもって並行世界が立ち現われているのだ。

  相互作用とは生命の意識である。この物理宇宙という他人と接触で因果関係が生じ、相互性と因果関係があわさって、実体としての自分になれる。また、極微の近傍の世界、自分の意識そのものを意識しちゃえば、それが確率存在、量子の世界であることを知る。もちろん、他人の意識を意識しても、これが確率存在だと気がつく。これが様相における可能性だ。そして、物理宇宙をまえにしたとき、それが必然的な法則であることにきがつく。必然と可能がくっついて、ここに現実性がうまれるが、じつは、この現実性とは偶然性のことだ。ああかもこうかもしれない、という可能性。こうなったらああなるという必然性。このふたつの真ん中は、たまたまこうである、という偶然性だ。だから、関係のカテゴリーにおいては実体、様相においては現実性、または、偶然性として、私自身は存在しているのだ。
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2008年07月15日

仙人養成講座 哲風呂  無の論理、絶対矛盾的自己同一、そして、メルロポンティの否定性へ

無の論理、絶対矛盾的自己同一、そして、メルロポンティの否定性についてである。無いと叫んでも一体なにがないのか。金玉が行方不明なのか、財布がないのか、下半身をまさぐってなにやら探し物。自分のお尻をさわり、耳がないと涙目でうったえるネコ型ロボット。なにかが間違っている。どこかで歯車がくるったのか。お金がないからください、と見知らぬおじさんが近づいてくる。いつもお世話になっている見知らぬ住所不定の男にお金をあがることはまずない。見知らぬ住所不定の男性を信用し、お金を貸さない。歩行中にスリにあい、履いている靴を盗まれる。靴がない、と気がつき、すかさず、裸足で駆け出す。ない、ない、ない、というけれどなにがないのか。それとも、徹底的に無なのだろうか。無い袖はふれぬ、無い金玉もぶらぶらできないし、無い袖には焼肉のたれすらつかない。無いについての研究に突入する。


   哲学者西田幾多郎の、無の論理、についてである。雑貨屋さんにいくといろんな雑貨があり、目移りしてしまう。バナナnか見つかれているごりらの灰皿、どこの民芸品かはわからないが、田舎のおじいさんそっくりなお面。これらは間違いなく存在している。有の世界だ。当たり前のことを言うようだが、有は支配力をふるう。店員が品だしをしているとき、灰皿とお面のあいだにスペースなし。品数豊富すぎて、店内に置き場所がない。ところが、無は有をおしよけたりしない。なにも無いのだから、どこでも楽チン、ケツの割れ目にも滑りこめる。灰皿からも影響を受けずに自由、また、灰皿も無から邪魔されない。有と無は自由な関係だ。

  雑貨屋店内にはよくアジアン雑貨特有のお香の匂いぷんぷん。こうなったら、このお香の匂いにおならを混ぜてやろうともくろむ不届きものもいる。雑貨屋はいろんな雑貨がざっくばらんにおかれていて、その中央にはひときわ美しい宝石が置かれている。怪盗ルパンならば天井からぶらさがってこれを手にしてレジに並ぶ。部屋の真ん中があるのが、これは部屋の中心だ。地球にも中心がある。砂遊びをしている子供が地球の中心を見たと主張する。存在しているやつらには、中心があるが、絶対的な中心じゃない。ところが、有ではなく、無はどうか。無はそもそもなにもないのだから、いつも世界の中心だ。

  なんにもないから、そこに靴下をほおりこむことができる。無は有をおくための場所だ。しかも、それは関係でもある。恋愛関係にどろどろとした液状の肉体関係、友情関係などがあるが、これら関係はカタマリではなく、実体なきもの。太郎と花子の恋愛関係。太郎というカタマリと花子というカタマリのあいだには、恋愛関係というつかみ所の無いものがはさまっている。ところが、いかんせん、太郎のケツはよくバレーボールと見間違えられてアタックされるという実体だ。徹底的に関係だけのものはないのか。これが場所が場所に関係すること。なんにもない無が無をさわりまくる。これが無の自己限定だ。綿100パーセントならぬ関係100パーセントだ。これこそ私にほかならない。よーく考えてみよう。どんなに激しく縄跳びをしても、私が中心になって風景がかわる。私は世界の中心っぽい。また、私は私自身に関係して、私を発見だ。いわゆる自分の存在を自覚している。無となんらかわらない私と性質。私の正体は無だったのだ。

  同じく西田幾多郎の、絶対矛盾的自己同一である。絶対に矛盾しあっているのに、同じものだとはどういうことか。あたまに血がのぼいって怒らないで頂きたい。あたまにサルがのぼっても、落ちついてことの状況を見守ったほうがよい。私は無であり、無が無に100パーセント関係しまくっている。これが絶対に矛盾しているのに、私は私だ、という同じもの。つまりはちゃっかり絶対矛盾の自己同一性だ。時間と空間がこの宇宙にあると縁側でウェイトトレーニングするばあさんはくちずさむ。時間がなければ空間はない、空間がないと時間なし。つまり、互いに矛盾しているけど、相手がどうしても必要だ。ケツがあるから卵うまれるのだ。私は先日の私と同じです、というとき、これが私の人格である。他人の人格といっきうちだが、他人の人格認めて、私の人格もみとめられる。矛盾しているのに、互いに相手を必要にしている。なにかを感じること、つまり、直感する。そよ風、ビーフシチューの香り。同時に小鼻がひくひくと動く。小鼻は大胆な行動にでて、上下に動き出す。感じ、直感すると同時に動いちゃう。だから、行為と直感は矛盾しているけど、同時に相手を必要としている。これが行為的直感だ。


  最後に哲学者メルロポンティのいう否定性についてである。水虫を軟膏ぬりまくって解消したい、と願うように、否定を解消して肯定にしたい。ここにヘーゲル哲学の論法がある。すべてを最終的には丸く収めたい。ハッピーエンドは茶屋でお茶を飲む水戸黄門。うっかりはちべーが黄門にお湯ぶっかけた瞬間でエンディングだ。うっかりしすぎだ。ここにインロウがある。このインロウは土星ではない、地球ではない、お菓子ではない。こうやって、インロウではないあらゆるものを否定して、やっとのことで、インロウはインロウなんだ、という肯定にたどり着く。否定の否定は肯定だという。矛盾しあうものをくっつけて解消しちゃえ。ところが、メルロポンティは否定性の大切さをうったえる。私は美しい光景を見ている。なんて美しい足の裏なのだろうか。足の甲はここからだと見えない。まして、ケツもみえない。見えるものは見えぬものあってこそだ。自分の頬をさすって、ひげの伸び具合を調査する。そんなときは、自分のけつはさわっていない。触っているとは触っていないものがあってこそだ。こうやって、否定は肯定のために大事な役割があることをうったえるのだ。

   まとめ

  存在の科学  人間不死学説  徹底的な無、さりげない無  平行世界はどこにあるのか  
 

  ここでいきなりだが、カントのいう関係のカテゴリーについてである。太郎くんと花子ちゃんはどんな関係なのかと疑いの眼差し。そんなときは関係のカテゴリーという道具をつかって考える。この関係のカテゴリーは関係の判断からみつかった。関係のカテゴリーは三つある。カタマリとしての実体のカテゴリー、原因と結果の因果関係。そして、押したら、同じ力ではねかえされるという相互関係。これらに対応する関係の判断も三つある。定言判断はなんとかはなんとかである、という断定。二つ目に仮言判断、これはもしなんとかならばなんとかだ。そして、三つ目は選言判断といわれるもので、AはBか、Cか、Dのいずれかだという選択肢。この3番目は1と2が合体してパワーアップしたものだという。

  ここで話は無のお話。無いといっても、強烈に無いか、さりげなく無いのか、二つの種類がある。時間と空間があって、さっきまでは七面鳥があったが、いまはたべてしまってりっぱなフンになって旅立ってしまったという。また、ここにあったゾウキンはどこか海外出張中で、いまはここには無い。これらの無いはさりげないソフトな無だ。この無に匹敵するのが、ヘーゲルの否定の否定は肯定の原理だ。ゾウキンはゾウキン以外のものを否定しまくって、ここにあるゾウキンになる。雑巾はふきんではない、おっぱいではない、などなど。あくまで、この物理宇宙に存在しているものを経由して自分に帰ってくる。ところが、徹底的な強烈な無とはちょっとちがう。とことん無いのだ。時間も空間も自然界の物理法則すら無い。逆にいうと、別の次元にあるくらいこの次元にはないもの。そんな徹底的な無が宇宙のどこに漂っているのか。ブラックホールである。時空間、物理法則が壊れている。その代わり、この宇宙にはない別の法則が支配する宇宙でもある。だから、徹底的な無なのだ。無とは一切のカタマリ、実体を排除した純度100パーセントの関係である。世界の中心でもあり、自己関係のきわまったやつ。これは私にほかならない。だから、私の意識とはブラックホールなのだ。有に邪魔しないし、有を邪魔しない。自由なのだが、これまた、私の自由意志と結びつく。ただの無ではなく徹底的な無が私という意識体だったのだ。無とは関係そのものであり、関係とは実体なきただの波。つまり、量子力学のいうミクロな世界の確率存在だ。電子の位置は確率的に存在している。何パーセントの確率で上にあり、何パーセントの確率で下にある。ひょっとしたら、上かも知れず、右かもしれない。これはパラレルワールド、平行世界だ。無は関係であり、実体なき波であり、平行世界だった。こんな平行世界は身の回りにうようよしている。あれかこれかの平行世界は判断でいえば、選言判断である。選言判断が形をかえて相互性のカテゴリーになった。つまり、相互作用の法則だ。力を加えると、微細な世界では相互作用によって、同じ力で跳ね返される。こんな微細なやり取りのなかに平行世界があるのだ。
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2008年07月14日

仙人養成講座 哲風呂 主観主義と客観主義へ

主観主義と客観主義についてである。私と宇宙がある。ふつうに考えても、あたまひねって異常に考えても、やっぱり私と宇宙だ。私とその身の回りには場合によっては土人やら暴走族に囲まれ、ときには、ぬいぐるみに囲まれている。私と私以外のもの。当たり前すぎて疑問にももたない。この当たり前を解明したい。なんでテレビのなかにアナウンサーがいるのか。あんな小さな箱に閉じこもっているのか。テレビもいまとなっては当たり前、よくよく考えると不思議だ。なぜ、相撲取りは塩まいて、砂糖はまかないのか。アリが大量発生するからだといきなりあらわれたるは火山学者。手広くいろんな分野に顔をだす火山学者。うまれたての赤ちゃんはなんでおっぱんのありかを知っているのか。すみません、お尋ねしますがこのへんにおっぱいありますか、と道を尋ねない。当たり前のように知っている。

   主観主義について考える。考えるときはもちろん足をくんであごに手をあてる。おならするときは、からだ傾け、お尻の下にほどよいスペースを作る。古くは古代ギリシャのソフィストたち。世の中にはいろんなひとたちがいる。自分が世界でナンバーワンの漬物ばばあだと自称する傲慢なものもいれば、こよなく、チューリップの花弁を愛する花弁フェチだっているかもしれない。一人一人が個性的な私であり、そんなひとたちはマイ定規をもっているという。自分の定規をあてがって、コワモテおじさんのヒタイのしわの長さをはかったりする。善悪の基準も自分の定規ではかる。絶対的な基準になるような定規なんてありゃしない。これを相対主義といい、プロタゴラスのお言葉借りれば、万物の尺度は人間だ、となる。これとは逆に、宇宙のなかのちんけな私、具体的なしわがひたいに生息する私ではなく、そもそも、私は世界、宇宙の外側から涼しそうに眺めているだけと考えたのがかの有名なデカルトだ。世の中のすべてを疑う。犯人はおまえだ、とミミズのケツの割れ目を指差す。疑いをかけられたミミズは走って逃げ出す。すべてをうたがったつもりだが、疑っている自分の存在は確実だ。私がいないと疑えない。だから、私は世界の外でぜってい存在しているものだという。我疑うゆえに我あり。我お尻ゆえに割れ目あり、では断固ない。

  イギリス経験論の哲学者ロック。やっぱり同じく特徴的な世の中で一人しかいな個人がメインになる。やまちゃんは性別は男で、たまごを産み、無類のカレー好き。そんなやまちゃんを個別的主観性という。個別的な主観が、いろんな感覚的情報をかき集め、これをかれの心のなかでせっせとくみたてイメージをつくる。哲学者カントはうってかわって、個別的なやまちゃんの背後には名前も経歴もない住所不定の私そのものがいるという。おそらく、大企業の面接にはおちてしまうかもしれないが、その面接官の大本にも、宇宙でたった一人しかいな私がいる。世界、宇宙にはたったひとり自分がいて、これを普遍的自我と呼んじゃったりする。この普遍的自我がイメージを作っているのだ。さらには哲学者ヘーゲルである。そもそも、この宇宙の歴史はなんのためにあるのか。なんでキリンちゃんの首が伸びたのか。宇宙は神様の心のあらわれ。神様だって、人間とおなじく自分のおもいのたけを表現したい。ハワイアンダンスヘビー級チャンピオンは、ダンスで自分の内面を表現する。詩人ならば言葉で表現だ。宇宙は神様の精神があらわれるプロセスだというのだ。

  現代においてはショーペンハウワー。ショーペンハウワーはとうとういってしまう。世界、宇宙は私のイメージであると。だから、私が消えたら世界もきえちゃうというのだ。

  宇宙、世界の内側にちっぽけな私が金魚のかりんとううんこのように漂っている。謙虚な考えであるが、その実、世界の内側にちんけな私が泳いでいるのでなく、私とはこのたくましい体でも、ストイックな心でもないという。私とは、世界、宇宙の外でも内側でもなく、世界の限界だというのだ。


    こんどは主観主義の真裏に位置する客観主義について。客観主義といっても、どんなやつにとっての客観かのよって姿を変える。高慢ちきな態度であたまをなでれば、高慢ちきな態度でなでられる少年。1000円のお歳暮には1000円のお歳暮で復習させる。因果応報、おならをかければ、いつかはきっとおならかけられるときがやってくる。このとき、主観がたとえば個別的な名前あり、性別ありの個別的主観だったら、客観主義は経験主義になる。この黄ばんだTシャツを着ている私にとって、どんな客観世界かは、いわゆる、自分の目でみて、触ってみた経験的な世界だ。実証主義がこの部類にはいる。自分の目で見ないと信じない実証主義だ。そして、すべては時間と空間の一点に実在しているカタマリだ。これに対して、私は態度をあけてみる。個人情報一切ない、住所不定無職の普遍的自我に変身だ。宇宙でたったひとりのみんなの私。すると、そんな私のまえにたちはだかったのは、いわゆる、形相といわれるもの。カタカナでかいてしまうと、イデアといわれるものだ。このいわくつきの高級長靴が問題なのではない。いまここにあるこのえんどう豆の匂いする赤い長靴ではなく、長靴そのものの形相があらわれるのだ。いわゆる長靴のイデアだ。

  現代の客観主義といったら、哲学者フレーゲである。文には真偽がある。このTシャツは臭い。正しいか間違っているかを鼻のあなをかっぽじって嗅ぐしかない。文の真偽を文の意味という。ところが、およそ、最初に真とか偽なんか関係ねぇやつがいる。ピーターパンはパンツはいていない。こんな文はそもそも、真偽を越えている。つまり、文の表現である思想といわれるものだ。思想は真偽ぶっとんでいる。いくらでも思想は大量生産できる。おっぱいにはさまれた蚊が瀕死の重傷。事実関係はどうであれ、そういう思想がある。これを文の意義といい、いわゆる、真偽を越えた形相だ。


  まとめ

 存在の科学   人間不死学説  どっちの宇宙が先か  夢の必要性

  高エネルギーの点が爆発を起こす。そして膨張し、この宇宙ができた。宇宙の最果ては私の目にその映像が届くまで時間がかかる。光の速度で何億光年。つまり、私が宇宙の果てをみているとしたら、それは宇宙誕生の爆発の瞬間かもしれない。最初の点があり、爆発をおこした。その点の内側から、爆発前から見ていたのだ。これがプレビッグバン、ビッグバン以前説だ。私はビッグバン以前の宇宙に住みつき、同時にビッグバン後の宇宙に住んでいる。要するに、ビッグバン、宇宙誕生の前後なんて関係ないのだ。

  世界でもっとも小さい長さはプランク長さだという。この長さに達した情報量は泡となって壊れる。ところが、最近の研究だと、どうやらプランク長さよりも小さな世界にこの宇宙の全情報量が含まれているらしい。極微の世界に、極大の宇宙丸ごと含む。モノが大きい小さいなんて関係ない。

  ブラックホールは質量が大きいくせに、体積が小さい。いわゆる、濃密なのだ。こんなブラックホールに迷い込んだら押しつぶされて、ぺちゃんこ。ぺこちゃん、ぽっこちゃん、ぺちゃんこちゃん。ところが、どうやら、われわれの見えない事象の地平線のなかに、その質量に比例した大きさの空間が広がるという。要するに、そこではおしつぶされないゆとりある空間ができている。これってただの宇宙だ。このわれわれの住む宇宙もブラックホールかもしれないのだ。

  生命の意識もブラックホールだといったが、それなら生命の意識は宇宙だということになる。この宇宙には突如ブラックが出現したり、ベビーユニバースが誕生するという。そしてまた、ブラックホールが消滅したりもする。われわれの住む物理宇宙のなかに赤ちゃん宇宙が誕生したというのだが、じつに、宇宙がブラックホールならば時間の前後関係もないはず。つまり、この赤ちゃん宇宙にとっては、われわれの物理宇宙が自分の内部に誕生したとみえるかもしれない。どっちがどっちの宇宙を包み、どっちが先で後なのかなんてない。よって、私という意識、さいとうさんの意識も物理宇宙と異なる法則をもつ別宇宙とするなら、この物理宇宙の内部であとから発生したと考える必要もない。もっとも、この考えがもっとも常識的ではある。

   個別的な私はこの物理宇宙に包まれる別宇宙である。このとき、互いに異なった法則、論理を調停するため、一元的な直線時間と、分岐するたくさんの平行時間がうまれる。時間と平行宇宙といってもよい。そして、私は覚醒時には、もっぱら、この物理宇宙に主導権を与え、直線宇宙を中心にそえる。この直線時間が公共空間をうみ、事務的手続きをうむ。これに対して、私は覚醒時に、ときに、平行宇宙を導入する。すると、そこには、ひょっとしたら私だったかも、と相手の気持ちになって考えるようになり、他人が出現する。ひとの気持ちを思いやったり、他人への温情の世界、これが平行世界が主導権をもった世界だ。さらに、夜はふとんに入って寝る。夢をみるのだが、夢はえてして脈絡なく、直線時間ではなく、どっちかというと、ひょっとしたらの平行世界が主導する世界だ。

  現代においては、その昔とちがって夜も明るい。つまり、昼のように活動する時代だ。だから、夜の夢の平行世界は少なく、そこにも直線時間が支配している。温情ではなく、事務的手続きの世界。夢ではなく、現実を重視せよという。夢はおまけなのか。無駄毛なのか。そもそも、無駄毛だって無駄ではない。この世には無駄なものが一切ない。夢もまた、私の宇宙とこの物理宇宙をむすびつけるのに必要な平行時間なのだ。そして、夢とはイメージであり。ひょっとしたら自分もああなっていたかも、という平行世界。これが温情を生み、テレビニュースの向こうの悲惨な現実をリアルにイメージする力なのだ。夜がなくなり、夢のなくなった世界。これが世界の元凶である。
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2008年07月13日

仙人養成講座 哲風呂 ハルトマンの哲学、指標性、そして、定言命法へ

ハルトマンの哲学、指標性、そして、定言命法についてである。生命体であるもの、この指とまれ。すると、とんぼやチーターが止まる。人差し指は鼻をほじくるためにあるのではない、というのが、校長先生の朝礼台のうえでに独り言だった。ヒトサシ指はこの指止まれでも使えるのだ。生命は意識をもっているし、どんな高性能の電卓、そろばんをもってしても、その動きが計算できない。さらには時間のなかに生きている。宇宙のなかの生命あり。それとも、生命のなかの宇宙なのか。だんだんややこしくなってきて、むんくの叫びのポーズ。いまだ、かずよしくん、こんなむんくなポーズの僕を描いてくれ。きっと時価数億円の絵画をかいてもらい、いっちょ儲けようという魂胆丸見え。宇宙と生命、これが単刀直入に、本日のお題である。


  先頭バッターはニコラスハルトマンの哲学である。障害物競走のとき、タクシーを止めようと足をあげているサラリーマンや、正義の見方あんなしアンパンマンなどを乗り越え、ときは、漁業真っ最中のアミのしたをくぐって向かうはゴール。道を間違えてスタート地点にたどり着いてもそんなことでくよくよしちゃいけない。どうせ、くよくよするなら、それをダンスにアレンジして、くねくねくよくよダンスということで公衆の面前で踊り、不審者通報を受け、つかまるという道もある。障害物競走のとき、目の前の跳び箱を見て、果たして夢かうつつか、とひょっとしたらこの世界は幻覚か、なんていうことを考えているいとまなし。実際に、現実に、跳び箱が立ちはだかり、乗り越えないといけない。要するに、間違いなく跳び箱は実在するし、大地である地球だってある。足もとの地球にご注意してお乗りください、とはいわない。物はそれ自体で存在する。これがハルトマンの哲学、実在論である。当たり前すぎるが、それ自体で存在している湯のみ茶碗。おそらく、姿は見ないが食器棚の奥にあるはずだ。存在しているとそっけなくいう。足くんで、あごに手をあて格好うけながらいわない。存在にも二つのタイプがあるという。理念的存在と実在的存在だ。だんだん哲学的になってきた。理念的存在とは、カタマリとして、にぎりしめることができないやつ。実体なきもの。1,2,3という数。1は食べたためしがない。論理的なものや幾何学図形だって、つかまえられない。美しい、えらい、醜いという価値だって、鷲づかみにできない。ワシではなく、文鳥づかみだって無理。なんどいったらわかるんだ、無理って言ったら出来るんだ。最後のどんでがえし。理念的存在に対抗馬現る。対抗馬のロバ。なにかが違う。実在的存在だ。これこそ、まんじゅうにたまご、ホットケーキにらくだだ。要するに、実際にカタマリとして存在する実体あるもの。

  カテゴリーという言葉がある。カントはこれをじろじろ認識するために必要不可欠な論理的な道具だと考えた。ただひたすら、匂って、見て、聞いても認識にはならない。それらを論理的に整理するのにカテゴリーが必要。ところが、ハルトマンはこれを存在それ自体のために必要だと考えた。論理的なカテゴリーは実在しているまんじゅう、ゾウキン、フライパンたちの間を縦に横に貫く。そもそも、実在しているヤツラには、階級、階層があるという。もっともレベルの低いやつが無機物。順をおっていってみる。つぎに、有機物。たくましい筋肉質のアメーバ、これは有機体だ。そして、意識やら精神と続く。精神は気高きものだ。これらのレベルで横の結びつきのために必要なのが横のカテゴリー。階級貫く縦のカテゴリーもあるという。

  次に指標性という概念についてである。いぬのふんではなく、文というものがある。文文文、はちが飛ぶではなく、スクールゾーン。緑のおばんさんの民族大移動が見られる魔の三角地帯。文にはふつうのくるま、納豆、乳母車というようなふつうの名詞だけでなく、特別な名詞がある。なんていう愛しい納豆だろうか。納豆をおんぶしだっこして、いつしか、芽が出て、りっぱに育つことを望んでやまない。納豆という単語はふつうだが、世の中には指示詞、指標詞なるものがある。これがやっかいである。草履屋さんでビーチサンダルを買おうと命がけで決意する。あとからかかとがついてくるビーチサンダル。健康サンダル、便所サンダルよりも、なんだか清潔感あふれる体育会系。これください、と指差す。あれください、と草履屋店主にいう。これ、あれ、あそこ、かれ、こんなやからが指さすから指示詞だ。指示詞とは、これとはなにか、あれとはなにか、といっても固定されていない。時と場所によって、自在に変幻する。私とか、こことか、いう言葉。これまた、流れのなかで使うのだが、指標詞といわれるもの。指差したその先だ。

  普通名詞と指標詞、指示詞は断固違うといいたいが、クリプキという哲学者はこれを批判。なんと普通名詞も、じつは指差しているというのだ。ビーチサンダルがここになくとも、話題にはでてくる。先日、ビーチサンダルが飛んできて、ひたいにあたって怪我した。きたろうのしわざかいなか。そのビーチサンダルがここになくても、たとえば、通りすがりの歩行者初心者がはいているもので代用できる。これをサンプルという。さらに、どこをみわたしても、話題のビーチサンダルのサンプルがなくても、ビーチサンダルと命名された現場までさかのぼることができる。いつだれが名づけたかはしらない。いずれにしても、普通名詞も指差し機能ありというのだ。


  最後に定言命法についてである。判断のなかには定言判断と仮言判断がある。厳つい名前に耐えるしかない。定言判断とは、なんとはなんとかである、と強烈な断定。これはこれなんだ、というある意味当たり前。仮言命法は、もしなんとかならばなんとかだ、というやんわりしたもの。人間の道徳的実践について考える。なんで困っているひとを助けるのは道徳的な善なのか。善いといったらウムをいわさず善いのだ。つまり、説明なしでぎたすら断定。これが定言命法。これにたいして、快楽にふけって、後先考えずに、チョコレートケーキのケーキだけをぺろぺろと舐めているもの。寿司ねたで好きなものだけを食って、欲望おもむくまま状態のもの。いわゆる、人間の欲求とは、なんとかしたらなんとかになる、という条件付きだ。べろをのばせば、チョコレート舐めれる。人助けすれば金になる。これが仮言命法である。道徳的な実践は定言命法、欲求むらむらは仮言命法である。


   まとめ


  存在の科学  人間不死学説 夢と帳尻

  宇宙論のお話から。プレビッグバン説というものがある。そもそも、ビッグバンとは、高エネルギーの点が突如爆発膨張し、いまだ、この宇宙は膨張しつづけているという説。プレビッグバンとは、それじゃビッグバンの前にはなにがあったのか考えるのだ。ビッグバンによって、いまだ宇宙は膨張しているなら、遠くの宇宙はあまりにも離れているので、光の速度で私の目に到達するまで数百億年かかったりする。宇宙の果てがみえるなら、おそらく、それはビッグバンしたその瞬間の映像だ。つまり、われわれの宇宙の果てはビッグバンの瞬間。いい方をかえれば、ビッグバンがおこる最初の点の内側から、その瞬間をわれわれは観察しようとしている。われわれはまだ、ビッグバンがおこる点の内側から眺めているともいえる。また、もうすでにビッグバンが起きて膨張しているともいえる。ビッグバンの先でも後でもどっちでもよいのだ。はじめも終わりもないない宇宙があるだけ。

  さらにもうひとつ。こんどはモノの大きさについてである。世界でもっとも小さい単位とはなにか。これをプランク長さという。プランク長さに達すると、情報は泡になってこわれるのだ。ところが、最近の研究だと、どうやら、このプランク長さ以下の世界では、この全宇宙の情報量が詰めこまれているという。ようするに、プランク長さになったときだけ、壊れるのだ。これは小さいもののなかに、大が入っているということ。世界最小に世界全部が入っていること。もはや、小は大につながっていたのだ。

  またまたもう一つ。ブラックホールは見えない。人間がどうやっても観察できない線を事象の地平線という。ブラックホールは質量は大きいくせに、体積が小さい。だから、濃縮されて押しつぶされていしまう。ところがこのわれわれが見えない事象の地平線の広さはブラックホールの質量に比例しているという。つまり、質量がおおきければそれなりのゆとりスペースがあるというのだ。これって要するに、ただの宇宙。われわれに住む宇宙となんらかわらない。だから、このわれわれの宇宙だってブラックホールだといえるし、また、ブラックホールを宇宙だといえる。

  以前から、生命の意識、意志は強大な重力であるブラックホールだといってきた。われわれの住むこの宇宙もブラックホール。言い方を変えれば、生命の意識は宇宙だし、ここも宇宙だ。異なった宇宙が共存し重なっているのである。宇宙には法則がある。この宇宙には物理の法則が支配する。幾何学的論理でもよい。ところが、やまちゃんという生命体の意識も宇宙だから、別の法則、ルールがある。やまちゃんはときに物理法則に反して動く。計算不可能な動きをする。そこで、ことなった法則、論理、ルールが重なる。このとき、たとえば、野球とサッカーのルールを混ぜたとき、これを調和せんがために、時間をかけてこねくりまわす。時間が発生する。さらに、ああでもなこうでもないといろんなケースにわける。これが平行宇宙をつくる。この宇宙に生命意識という別の宇宙があるから、時間と平行宇宙を発生させているのだ。

  ハルトマンのいう理念的存在であるいろんな価値。このなかで幾何学論理や数の世界はこの宇宙の法則。精神だの、美しいという価値は別宇宙である意識体のもの。実在的存在はもちろん、この宇宙のことである。さらに、普通名詞はこの宇宙。指標詞、指示詞であるこれあれわたしなどは、どうもおかしい。こんな指標詞がうまれるのは、別宇宙同士がミックスし、その重なり合った部分があるからだ。又、定言命法は山田君のブラックホール宇宙の法則だ。仮言命法は、もしなんとかならばなんだとだろうという因果律の世界。つまり、時間的要素一杯であり、この物理宇宙と山田君ブラックホール宇宙がミックスしたところにある。これが欲求となってあらわれるのだ。

   生命ならば寝るし、覚醒する。寝ると夢を見るが、夢とはえてして、時間感覚がおかしいし、脈絡もない世界。じつは、覚醒時は山田君の意識、ブラックホール宇宙はこの物理ブラックホールと重なり、時間と平行世界を発生させている。ところが、睡眠時は、山田君のブラックホール宇宙は物理ブラックホールからちょっと離れて行く。だから、時間と平行世界のうち、時間が弱まって、平行世界が強まるのだ。この平行世界が強まった世界こそが夢である。ああかもしれなかった、という世界を見るのである。
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2008年07月12日

仙人養成講座 哲風呂 連合、連続性の原理へ

連合、連続性の原理についてである。散歩中、ポメラニアンのケツの穴を身ながらふと思う。なにゆえ、目的地のアリゾナ砂漠までワープできないのかと。ものぐさ太郎という異名をもつレスラー。とにかく、相手レスラーにタックルするのもかったるい。どうせながら、相手レスラーの懐にワープできないかと思案する。レスリング中に思案すると、あまりよろしくない。靴紐がほどけた。腰をまげて靴紐に手を伸ばす。歯をくいしばりあとちょっとで届くのだが、そんなときに、悪漢がむくっとおきあがって、私の靴紐を結んでしまう。もしも、手が靴までワープできらいいのに、と祈願してもそうたやすいことではない。卒業式で賞状を受け取るそのとき、なぜだか、ズボンのケツが破れて、おどろきのあまりうんちもらす。そんなときである。小声でワープとつぶやく。また、時間よ戻れと叫ぶ。なぜ、あわおどりは連続的なしなやかな動きなのか。たしかに、ワープできなくて挫折し、自己嫌悪に陥るときだってある。なぜ、突然、消えて出没しないのか。本日はあまりにもあったりめーよ、という連続的な動きを宇宙的規模から考えて行こうと思う。ワープできないのは、宇宙のすべてに関係している。

  まずは連合という哲学用語の解説から。連合政権を樹立しました、牛乳もってきて、とか、国際連合にでも加盟しろ、っと木造平屋建てからおやじの声が聞こえる。やせ細った犬と庭先の洗濯物のモモヒキ。ずーっと陰干しされていたから、久々のお天道様。モモヒキはなんだかうれしそうだ。連合というのは、なにか異質のものをくっつけちゃうこと。かって、イギリス経験論者ロックは考えた。目や鼻、べろから感覚情報を得る。これが印象となって心のなかへと入ってくる。ことき、まだ印象はばらばら。トコトコという革靴の音と黒尽くめの音男の映像がむすびつかない。心のなかでイメージを作るのだが、これが連合である。まず、自然的結合というもの。なにも力まなくて、口笛ふきながら自然に結合しちゃう印象だってある。もうひとつは習慣的結合である。おもわず、習慣的にくっつけてしまう印象。しゃがんでいる人の視覚情報。そして、ぷーっという音。習慣的にしゃがんでいる人がおならしたことイメージする。同じく、イギリス経験論の哲学者ヒューム。ことなった印象をいっしょくたにくっつけるのは、連合規則によるものだという。連合規則とは、類似性、時空的隣接性、そして、因果律だという。似ているものはおのずとくっつく。類は友をよぶ。ごりらにそっくりな友人を見て、ごりらとオーバーラップ。バナナを食わせたくてもう我慢できない。バナナ食っているところを見たい、という念願の夢がかなうのか。時空的隣接性とは、時間的にくっついているやつ。たとえば、はっといったときは眠そうな顔。くしょん、といったときは目をとじて苦渋に見ちゃた顔。くしゃみという一発芸はあまりにも時間的に短縮されているから、一連の動作にみえちゃう。空間的にくっついているじいさんのニコ金玉。一つ見えてしまう。そして、最後に因果律。原因があったら結果があるのが自然界の掟だと皆はいう。ところが、これまたただの習慣だというのだ。力んだから出た。原因と結果でございます。力むと間違いなくでる。これは4割3部3輪くらいの打率だ。今回も力んだからおそらくでるであろう、と習慣的に推理。こんな思いこみ、信念が因果律を作っているというのだ。

  時代は現代。哲学者フッサールの考える連合だ。なにも、すでに知っているやつをくっつけるのが連合じゃない。これはむしろ、能動的総合というものだ。ねじり鉢巻をして、一生懸命、ひたいに冷汗をかきながらくっつける。たとえば、太郎くんと花子さんの関係を考え、くっつける。フリン関係それとも、飼い主とペットの仲むつまじい関係か。はたまた、どろどろとしたトロロイモのような関係か。わっしょいという気合でむすびつけるのでなく、爪楊枝くわえて、ちーつーてーっと言いながらなんの苦労もなく結びつけること。これが受動的総合、連合である。ちーつーてー、という発音がモールス信号で敵機襲来ならば、地元の軍施設からスクランブル発進しかねない。爪楊枝に注意しよう。ふつうにぼーっとしていても、太郎くんのあたまとその背景の地中海をちゃんと結びつけている。被写体と背景であるが、これまた、いともたやすく、なにも気合もいれずに受身っぽくむすびつけちゃう。否、もうすでに合体した状態で目にとびこんでくるといってもよい。太郎君の後ろ姿を記憶にとどめ、こんどは正面をみる。あたまで処理して、がんばって、太郎君の立体像をつくっているだろうか。そんなのはがんばるひつようなし。簡単に、過去にみた背中の映像といまの正面の映像がくっつくのだ。


   こんどはアメリカの哲学者ラブジョイの連続性の原理についてのお話。存在の大いなる連鎖、という。こんな大胆な主張を縁側で爪きっているモモヒキオヤジが叫ぶだろうか。世界、宇宙は切れ目なく、みんな滑らかに連続しているというのだ。放物線と楕円という図形がある。たべちゃいけない。数学的にはなにやら焦点という点の微妙な位置関係で、あるときは放物線、またあるときは楕円になる。それでもあるときはシュチュワーデスにはならない。放物線と楕円は曲立がちがうだけでじつは連続している。また、世の中には動いているやつと、じーっと落ち着き払って止まっているものがいる。巧みなフットワークのボクサー。そして、縁側で巧みにじーっとしている日向ぼっこしている若者。止まっている、じーっとしているとは、無限に小さな運動、動きだというのだ。無限に小さな暴れんぼうは、おちつきはらったお年寄りだ。無限をはさむことで、なんと、まったく対立しているやつらも連続しちゃう。同一性と差異、ないし、同一性と違い、という概念がある。同じだっということは、無限に小さな違いだという。やっぱり、無限をはさむとつながっちゃう。

  まとめ

  存在の科学  人間不死学説  なぜ、ワープできずに連続した

動きなのか

  なんでワープできないのか。これには宇宙的な理由がある。以前お話したが、人間を含めた一般的生命体の意識とか、感じることは強力な重力、つまりは、ブラックホールだといった。からだの神経には微弱な電気パルスが流れ思考する。意識とか、感じるということは、この微弱な電気パルスではない。微弱な電磁気力だから、これを増大させるためには時間領域を分厚くする。これはあたかも、惑星の重力が小さい。だから、重力が微弱だから質量を大きくさせてほどよい重力にし、宇宙の力のバランスを得るのといっしょ。電磁気力はそれ自体強いので、大きい惑星の表面であつまり、もっと強大な電磁気力、すなわち、プラズマをつくる。ただし、生命では真逆になる。つまり、電磁気力が微弱だから、強大な重力、すなわち、ブラックホールを作るのだ。このブラックホールは重力は無限大であり、相対性理論によって、時間が止まっている。

  さて、私はいつものように右手をあげる。いきなり上げた状態にこぶしはワープできない。そこにいくまでのプロセスを連続的に経過しないといけない。まず、右手をあげるまえの、肩のうえの空間。ここには、波が漂う。この波動関数を収縮させると粒になる。量子力学である。これがモノを感じることだったが、じつは、右手をあげるという実践もまた感じることによってなされる。右肩のうえの波をブラックホール意識体によって、無時間にさせて一枚のスチール写真にする。つまり、粒子の位置が確定する。波動を収縮させて粒にすると、そこに突如右のこぶしがあらわれるのだろうか。ところが、それはちがう。ブラックホール意識は無限大の重力だ。無限が関与しているのである。哲学者ラブジョイがいうように、動いているものと止まっているもの。無限に小さな動きが止まっているといった。つまり、無限をはさむと連続するのだ。だから、ブラックホールの無限性が関与しているゆえに、連続的なプロセスを歩まざるをえないのだ。よって、右のこぶしが持ちあがる連続的なプロセスを経るのである。
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2008年07月11日

仙人養成講座 哲風呂 生活世界と定立へ

生活世界と定立についてである。本日のメニューはちょっと不気味かもしれない。鳥肌覚悟のお話。なんといっても、ふつうの生活、青空を背景に白いTシャツがベランダではためく。夜になると、そでが焼肉のたれにつきそうな友人を見守り、そして、手遅れ。そで、そで、と叫んであげれば良かったと後悔しても、もう過去にはもどれない。帰りにドラッグストアーでトイレットペーパーを買って家路につく。花の香りの高級トイレットペーパーをあり金はたいて、後先考えずに買ってしまった。どうしても、レジで並んでいるときに優越感にひたりたかった。経済苦をかくしたかったのだ。ふつうの生活と異常な非日常の世界。じつは、隣接していた、というお話。われわれは非日常空間を、さらにはUFO,宇宙人を呼吸して生きていたのだ。

  哲学のお話をする。まずはトップバッターは生活世界という概念から。言語ゲームという考え、哲学者ヴィトゲンシュタインである。言葉あそびではない。生麦生米ゆでたまご。ハンプティダンプティはゆで卵に反応に覚醒。なんか呼んだか、とすりよってくる。ずいぶん、角がとれて丸くなったハンプちゃん。尻取りやろうと、友人の尻を鷲づかみ。セクハラっと叫ばれる。ゲームといったらテレビゲーム。お姫さまを救出するためにパーティを組み、レベルアップする。レベルアップしてはじめてパンツをはく。靴下をはく。やっとのことでたどり着いたのが、ふつうの常識人。さて、これから剣術を磨き、お習字をならって、悪漢たちをぶちのめさないといけない。テレビゲームにもルールがある。スポーツもルールは絶対である。アウト、セーフ、よよいのよい。ピッチャーゴロ。一塁、二塁とかけめぐる青春劇はつかれるということで、目の前にあるホームベースをいきなり踏んで先制点。もちろん、アンパイヤには賄賂たっぷり濃厚スープを手渡さないといけない。サッカーも手をつかってはならぬ、という厳しいルール。なんで打ったら一塁にはしらねばならないのか、と根拠を聞かれる。そういうルールだから、と根拠ないことを主張。ルールには根拠がない。
  
  さて、私がこうやってつかっている日本語。これにもルールがある。凶器攻撃5秒まで、というプロレスルールではなく、なんといっても日本語文法というルールだ。スポーツのルールをつくった開祖みたいなやつはいる。ところが日本語のルールを作ったものはいるのか。じつは、成り行き上できちゃったのだ。なんだか惰性でできちゃったみたいないい加減なニュアンスだ。そうではなく、われわれは漬物をつけたり、大根ひっこぬいたり、ふつうの日常生活を営んでいる。こんな生活の流れから、ルールは自然とできあがる。これが生活形式といわれるもの。たとえば、建設現場の親方が、世界のなかで一人叫ぶ。かなづち、と叫んでいる。弟子たちは急いで、親方に金槌を届けないと、叱られる。つまり、金槌といっただけでは厳密には金槌をどうするのかがつたわらない。金槌を食えというのか、金槌を鑑賞しなさい、といっているかわからない。なのに、なぜ金槌をもってこい、という意味として弟子たちはうけとったのか。生活の流れで、どう考えても、もってこい、という意味だったからだ。生活形式が言語ゲームのルールの根拠になってやがる。しかも、生活形式はなんのためにあるかと、真剣に問うと、これには根拠がない。なんで食べるのか、生きるため。生きるのは食べるため。食べるのはよいうんこするためではない。こんな堂々めぐりになってしまうのも、生活には根拠ないからだ。

  こんどは哲学者フッサールの定立っていう概念について説明だ。定立とは正式名称、設定立。ビデオのタイマー予約を設定。マニュアル片手にリモコンいじくる。マニュアル両手の二刀流でもかまわない。あたまひねって頭皮傷める。このボタンだと押したが、扇風機がまわっただけ。これだ、と押してみると、エアコンがなにやらモビルスーツ出動のような機械音をならし、風向調節。なにもタイマー予約だけではなく、ひとはいつでもどこでも設定しまくっている。つまりは定立しまくり。ここにテーブルがあると設定する。これが椅子で、向こうにみえるのが巨大なビルだと定立だ。つまり、そうにちがいないと心のそこから信じる働きだ。そして、ついには、この世、この世界は存在しているのちがいねーっと強く信じ、思いこむ。これが一般定立である。ひょっとしたら、この世界はコンピューターが作り上げた幻想世界かも、なんて口先三寸、ひとには、5寸、6寸、いきなり、300ヤードと単位かえても、内心は信じきっている。口先でいうのと、心底信じているのは違う。ところが、この定立の働き、いつしか、変形してくる。銅像だって、いつしか風化し、酸性雨で溶けて、肉まんのような形になる。定立は様相になる。様相とは、疑わしい存在とか、ひょっとすたらそうかもという蓋然的な存在になっちゃうこと。これを懐疑様相、蓋然様相という。ここで注意、頭上、足元、全部注意。どんなに変形して、それを載せているおぼんは永久不滅だ。そのおぼんこそが信念定立、別名、信憑性定立だ。いつもの友人、突然、脱皮し木にしがみつきミーンミーンと鳴きはじめる。ひょっとしたら人間じゃなくて、セミかもしれないと様相定立。ところが、どうだろうか。セミかもしれないと思っているのは確実に信じている。最終的には信憑性様相によって一見落着、まるくおさまってしまう。あいつは疑わしいということは間違いなく信じている。最後はこの信念様相でくくられる。

  まとめ


  存在の科学   人間不死学説  生命と宇宙生命はすべて真逆 

  あまりにも身近にいる宇宙生命体




  一時的に仮定することがある。とりあえず、これを昆虫ということにして、話を先に進めよう。なにかを一時的にも信じて固定することで、先へ進む。数学だって、最初に公理がある。大大前提のもので、ここからいろんな法則がうまれる。仮説、仮設、一時的、とりあえず、これがあってこそ、前進できるし、その先にまっているだろう真実、真理を追い求める。ところが、このとりあえず、一時的に仮定するというのがくみあわさったところで、真実、真理は永遠の先だ。じつは、絶対的な真実、真理はもうすでにあらわれていた。この一時的、とりあえず仮定したこと、そのことだったのである。灯台もとくらしというように、自分の先に真理ありではなく、真理は目の前にあった。これを昆虫ととりあえずみなそう、という一時的な定立。これは心からそう思う信念あってこそ。信念が存在を生み出す瞬間だ。たしかに、一時的なものは相対的である。ところが、ここに絶対的なものがある。だから、相対的絶対主義と名づけたい。

  ヴィトゲンシュタインのいう生活形式、さらには、フッサールのいうその時々のものを信じちゃう信憑定立。そもそも、知性、思考と意識、感じること、信じること、を区別すべきである。あたまで理屈で考えたり、イメージすること。これは脳の神経を流れる微弱な電気パルスによるもの。目の網膜刺激して電磁パルスに変換し、それを知性で大根と認識する。これで大根の存在を知ることになろうか。大根の存在感は脳の微弱な電磁パルスでは得られない。強力な重力、つまりは特異点であるブラックホールが関与している。そして、大根にだって、重力、引力があり、質量がある。これとダイレクトにつながるのが、私の意識の正体であるブラックホールによるものなのだ。

   さて、そんな意識、感じる強力な重力であるブラックホールと、考えるイメージするという微弱な電磁気力。この知性の原因である微弱な電磁力を載せている乗り物が、小さな引力、小さな質量である肉体である。これがいわゆる我々の知る生命体である。

  さてこんどは目をこの大宇宙にむけてみよう。なんで、大宇宙にはあまりにもデカイ物体がうようよしているのか。土星だって、太陽だって桁はずれにデカイ。じつは理由がある。そもそも、重力自体が微弱すぎるのだ。ブレーン理論によると、三次元空間は五次元空間に浮いている。お隣の三次元空間に重力素粒子グラビトンは逃げてしまう。だから、このわれわれの三次元空間にある重力はよわくなってしまう。弱い重力をカバーして力の均衡維持せんがために、大質量でそこそこの重力がないとこまる。だから、物体はでかくなるのだ。質量がでかくなって、体表面積もふえれば、もともと強烈な力である電磁気力がさらなるパワーをもって巨大惑星などなどに付着。これがプラズマになって、宇宙に強大な電磁気の場を作り出す。

  さて、ここでおきづきであろうか。巨大惑星、巨大宇宙は微弱な重力と強大な電磁気力、つまりはプラズマであった。われわれちっぽけな生命は微弱な電磁力と強大な重力であるブラックホールであった。なにもかも真逆なのだ。われわれ生命は微弱な電磁気力で思考し、強大な重力で意識する。もしも、大宇宙も宇宙生命体であるならば、こういうこと。微弱な重力で思考し、強大な電磁気力、つまりはプラズマで意識する生命体。そして、われわれ生命は微弱電磁気力を載せる小さな重力をもつ肉体がある。同じく、宇宙生命は微弱な重力を載せる小さな電磁気力をもつ肉体があるはず。これが小さなプラズマ発光体、いわゆるUFOであることにお気づきになろうか。ある意味、小さなプラズマはわれわれ生命以外のすべての物体だともいえる。だから、物体というのをいい方をかえれば宇宙生命といえよう。宇宙誕生のその瞬間、四次元宇宙は膨張、残り6次元はコンパクトにミクロ世界におさまっている。四次元がいわゆる物体、6次元が生命だといった。最初からみんなの共通する私がいた。そして、私以外の物質宇宙があった。この私と物体といういい方をかえる。私たち生命体と宇宙生命体とがあった。これが分裂しただけ。だから、私、あなた、かれらといういわば生命体の身の回りには、ふつうに宇宙生命体がいらっしゃる。そこにもあそこにここかしこに。人称代名詞が生命体ならば、非人称代名詞は宇宙生命体だ。私は宇宙生命体を呼吸し、食べている、または呼吸され食べられているとまでいってもよい。通常生命と宇宙生命以外にはなにもない、だから、すぐそこに宇宙人ならぬ宇宙生命体はいらっしゃる。
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2008年07月10日

仙人養成講座 哲風呂 心身問題と聴従へ

心身問題と聴従についてである。アマさんもたまには、水面から顔をだし辺りを見渡す。サーフボードをしている犬を発見。豪華客船が座礁している。イカダには宇宙人が旗をふって救出を求める。宇宙人の高度な科学技術力で克服せよ、といってやりたかったが宇宙平和のために口を慎んだ。よくよく、観察すると、そこには生命と物体しかない。もっと的をケツのあなのようにぎゅーっと絞り込むと、そこには意識と物体しかない。この壮大な宇宙、じつに心と物体があるのだ。心と物体、これは程度の差あれ、じつは正体はいっしょ。そんな常識のような非常識について論じたいと思う。

  心身問題から考えてみる。心とからだとはどこがどうつながっているか、という問題。重要な問題だから、茶の間で家族会議である。そして、からだといっても、ただの物体。だから、心と物体ってどんな関係なのかという問題だ。関係といっても、恋愛関係、不倫関係、座布団とお尻との関係。これら知られている関係によっておそらく説明できないねばねばとした透明フィルムと納豆との関係だ。糸を伸ばして、すかさず、