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2005年09月25日

仙人養成講座 純粋理性批判 原文からアレンジ

 しかし、こんな普遍性と必然性をあごひげを触りながら考える場合、あごひげがなければ眉間のひげ、ちまたでは眉毛となずけられているものを触りながら考えるとき、偶然にパッと思いついて判断したもの、例えば、じいさんは入歯を落としそうになったら、べろが伸びてそれをキャッチするだろうと判断するよりも、むしろ、実際に経験したことをいかして、べろが伸びるじいさんをいまだかてみたことがないならば、経験的に考えたほうが楽であったり、絶対にそうならなければならないといぶかしげな顔で判断する必然性よりも、すべてのものに当てはまってしまうという普遍的な判断ををするほうが楽であり、眉間のしわをふやして、ひたいの三本しわと交差してじゃますることもないのだ。つまり、普遍性と必然性はつがいで仲良くおよぐスワンにたとえられるが、別々に切り離して考えたほうがよいのである。

  私たちはこんな必然性と普遍性、そうでなければいけないと、朝礼台の下にもぐってこえたかだかに育毛剤の効果を熱弁する校長先生と、みんなにあてはまる、どんな人のアナにもフィットする下剤のような普遍性、つまりは、経験を一切含まない純粋判断、一切毛がついていない純粋パンツ、純粋ヘッドを人間の認識のなかに簡単に見つけてしまうのだ。サハラ砂漠で馬場さんとかくれぼ。簡単にみつかるのは、手足があついため、交互に地面からはなして移動する特殊な動きをするためである。
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2005年09月23日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

  よってこのようなどんなちっぽけな大魔人から空気をすいすぎて巨大化してしまったノミのうんこが出したフケにいたるまで、あらゆるものにあてはまる普遍性。絶対にそうでなければならぬ、という歯をくいしばりすぎて、奥歯の上でかっていたゲンゴロウをかんでしまい、その悲しみにたえて、歯をくいしばり、今度は、前歯の上にかっていたシーモンキーをつぶしてしまいそうな鬼軍曹。かれはしなければならぬ、という命令口調でいつも堅く、柔軟体操をやっても依然堅いうんこを命令口調で出ろ、とこえたかだかに叫ぶ。そうでなければならないという必然性。これら普遍性と必然性がアプリオリな判断であるために必要な特徴であり、乳首にほられている特別なマークなのだ。そして、この普遍性と必然性は漂白剤を使っても、目玉しかうきでてこないぴょん吉のように、分離せずにかたくケツと割れ目と割れ目が歯車のようにかみあって結びついているのだ。つまり、みんなしなければならない、という言い方で表現することができ、ハエたちはおぼれて、いまにもお尻からごちそうがでかかっているものを目撃したとき、みんな助けなければならぬ、という掛け声とともにうんこにいっせいに飛びかかり、うんこのおまけである人間もそれにくっついて川岸に救出されるのである。みんなでしなければ、これが普遍性アンド必然性なのである。
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2005年06月15日

仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ

  これに対して、ある判断がすべての場合にあてはまってしまう普遍性をもっているとき、例えば、いろいろなサイズの相撲取りがいるが、L、M、Sにいたるまで、どんなちいさな力士であっても、一定の体積、つまり、広がりをもっているのだ。こんな絶対的に普遍性をもち、鼻くそヒゲをはやしている少年が神様にちかって絶対という言葉を使うくらい絶対的にすべてにあてはまる普遍性。これは感覚のように、目や鼻などの窓口を通ってやってきたものでなく、特別の窓口、秘密の通路からやってきたものによって知ることができるアプリオリな判断なのである。
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2005年04月25日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

 よって、経験的な普遍性は、何回やったり、見たりしても例外がなかったことを、すべてに関して当てはまる普遍性であると、勝手に高めてしまったものである。たばこ屋のばあさんのヒタイにとまっているサソリをハエたたきで追い払ってやると、いままで、例外なく、ライターをおまけにつけてくれたとする。それゆえ、絶対にサソリを追い払えば、間違い無くライターをゲットできると強く思い込むのだ。つまり、もし、じいさんとの夜の生活がうまくいってなかったり、ペットのたまちゃんがひざ小僧になかなかバランスをとって乗っていられなくなる病におかされていたら、キゲンをそこねて、ライターをおまけしてくれるどころか、寝グセで耳の後ろからつきでた導火線に火をつけられてしまうのだ。「物体はすべて重さを持つ」という命題がある。いままで、スーパーで手にした大根や鮮魚コーナーにいる力士を手にして、必ず重さを手に感じ取った。くさい靴下を指でつまんで洗濯機に投げ込むときも間違い無く、靴下には重さがあった。たまたま、靴下に命が宿っていたら、洗濯機から舞い戻ってくるかもしれないが、世の中にあるすべてのものには、重さがあると勝手にきめつけるのである。100キロの体重の力士がいて、かれは競馬のジョッキーと二足のわらじをはいているとしよう。かれが、マイナス150キロの減量に成功したら、重さはマイナス50キロであるとは、小学生の相撲の時間に習ったものである。つまり、重さがない人なりものが自分の股間の裏側から突然姿をあらわさない、という保証はないのである。
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2005年04月19日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

  さて、こうなると本当は次のように言えるだろう。わたしたちが今まで見たり、聞いたりしたことには、一切例外というものがなかったと。波へいさんのエッフェル塔もようにそびえたつ一本の毛を抜いたら、方向を見失ったがごとく周囲を一匹の迷える子羊のようにさまよいつづけた。しかも、わきの下からは、高価な羊毛が生えてきたというのである。よって、彼の一本の毛は触覚であると断定するのである。彼が砂場で砂団子に枝をさして遊んでいるときも、まーじゃんのパイの乳首をすすって至福の笑みをうかべているときにも、どんな状況においても毛を抜くと羊になるのだ。ところで、ある判断が一切の妥協を許さないほどの普遍性をもっている。この場合でいえば、毛を抜けば羊になるのは確実だとか、がちゃぽんに100円入れるところ、90円入れて指でがちゃぽんの太股をつねったところ、いままで間違い無くおもちゃがあの四角いケツのアナから出てきたなど、こうするとああなるという普遍性をもっているのだ。、一度も例外がなかったことは、目や耳というアンテナで得られた経験ではなく、生まれながらにして知っているアプリオリな判断であるといえるのだ。
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2005年04月09日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

まばたきする目、まばたきしたり、にらみつけたりする鼻の穴によって経験は成り立つが、この経験によっては本当の意味で普遍的な判断を作ることができない。帰納法によってものすごくソフトなままごとのような普遍性しかつくれないのだ。ママごとで借金苦に悩む家庭を砂場で演じる子供もいるだろうが、ママごとでじいさん役しか演じたことがないものは、ケツに割れ目が無いものよりも不幸である。帰納法とは、目や鼻で得た経験を繰り返して普遍性をつくること。太陽が東からのぼり西へ沈む。コニシキンも東から来て、西へと去り、途中、アナコンダが国技館のなかを暴れまわっていたら、非常口へと姿をけす。何回も見たり、経験しているが、ずっと、西からのぼって東へとアルマゲドンのように落下する。だから、次も同じであるに違いない、と考えるのが帰納法である。この帰納法によってつくられた普遍性は絶対ではないし、相対的である、というのである。
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2005年03月29日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

  また、二番目にいえることは、目や鼻で匂う経験によっては、判断に本当の普遍性を与えることができない。判断とは、主語と述語がいろんな組み合わせでくっついてできたもの。主語がおっぱい、述語が鼻をかむ、ならば、おっぱいは鼻をかむ、という判断が作られる。おっぱいに鼻のアナがあるかは、医学会で賛否両論、難しい問題だ。こんなあらゆる主語と述語が合体した判断というものに普遍性をあたえることが、経験では不可能なのだ。普遍性とは何か。普遍性とはさまざまなものの共通な性質だ。40人の学級で生徒のすべてが公衆便所でしゃがんだとき前面の壁にひざが触ってしまうしがない人間であれば、これらの生徒たちにとって人間という言葉は普遍的であるといえる。また、人間一般にとっては、何が普遍的だといえるのか。すべての人間に共通すること。毎朝、出勤前に山にセミとりにいき、川へはパンツの主要個所を洗濯にいく。合理的に汚いところだけを歯ブラシでこするのだが、こんなことは、一握りの人間がやっていることですべての人間がやっていることではない。よって、山にセミ取りにいくということは、人間にとって普遍的なことではない。ところが、どんな人間も動くものである。正座で足がしびれれば、足をくずしアタックNO2のように女の子座りになる。つまり、体を動かす。人間とは、動物でもあるのだ。これによって、動物とは人間にとって普遍的な言葉であるといえるのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 18:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月28日

純粋理性批判を原文からアレンジ

 だから、ある命題があって、これが必然性を持っていれば、アプリオリな判断ということができるのだ。命題とは、犬も歩けば自分のちんこを踏んでしまう、とか、ブタにカンチョウすれば、木にのぼる、など、一つの文章として成り立つものだ。ところが、今、例に出した犬やブタの命題は、木に上らねばとか、ちんこを踏んでしまう運命にある、など必然性はどこにも見当たらない。もし、そうでなければならぬ、と一徹とゴルゴ33の一人息子のような強烈な眉間のしわをもったうんこがかたそうな人間が居合わせ、そうでなければならぬ、と強い口調で言いきれる命題があったならば、それはアプリオリな判断と言えるのである。

  しかも、こんな必然的な命題が、同じ必然的な命題から生まれたものならば、これは絶対的にアプリオリな命題なのだ。蛙の子は蛙というが、ウミガメの子はウミガメの卵というならば、子供は丸顔のハンプティーダンプティーである。人間のお尻から出て、それが西に沈むのだが、人間からは、人間のうんこが顔をだすのは間違いない事実だ。
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2005年03月25日

純粋理性批判を原文からアレンジ

 純粋認識と経験的認識の違いを見分けるための印を探し出すことがここでは問題であり、新しくできたホクロを発見することが問題なのではないのだ。

   たしかに、経験によって、自分の目で見れば、目の前のものをはっきり知ることができる。暗闇に浮かぶパパイヤン鈴木。その輪郭がまちがいなく、パパイヤンでありスモールなもっこりヘアーの大木ボンドンでもないし、コニシキンのお尻から放射状に生えわたったケバがその正体でもないのだ。確かに、経験はパパイヤンの細部にいたるまで克明に認識することができる。頭がとれて宇宙人の助手とパパイヤン号の機長であるアムロレーイが姿をあらわすなど、彼の吹き出物がオスかメスかの細かいところまで判明に知ることができるのだ。ところが、経験においては、目の前のパパイヤンがなぜパパイヤンでなければいけないのか、という必然性まで知ることができないのである。パパイヤンがパパイヤンであること。コニシキンのケツを経験においてはっきりと認識することができる。ケツの割れ目にそってどんな乗り物がそのレールの上を行き来しているのかをはっきりわかる。ところが、なぜ、コニシキンのケツがわれているのか、その必然性は経験によってはわからないのである。
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2005年03月16日

仙人養成講座 純正理性批判を原文からアレンジ

 私たちはあるアプリオリな認識を心のポケットに持ち、しかも、常識といわれるものもこれをもっているのだ。


  ここでは、純粋認識、これはサラリーマンの肩に羽を休めているフケのような不純なものを含まない文字通り純粋なもの。経験から知ったものは一切、含まないし、口のなかには昨日、食べたトウモロコシが含まれていたりもしないのだ。こんな純粋認識に対して、経験によって知ったもの、例えば、先日、シモンまさとんの100円はげを発見したことなど、経験的認識というものがある。これら純粋認識と経験的認識を区別するためには、どっかに印がついていたり、名札がついていなければわからない。ニワトリの卵とダチョウの卵も割って、食べて見なければ素人目ではわからないが、オスメスヒナ判定士はヒナの体とフンを見分けるように、ダチョウとニワトリの卵の違いを見分ける方法をしっているのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 22:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月13日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

 そして、アプリオリな認識のなかでも、とりわけ経験を一切含まない認識を純粋認識という言い方をするのである。

  だから、「変化するものは原因を持つ」という命題はアプリオリであり、純粋認識ではないのだ。なぜなら、変化するもの、例えば、二宮金の助も脱皮すれば、動物園のなまけものとなってUFOキャッチャーをしようと並んでいるものをイライラさせ、大黒テンもアグラをかいているが、バレーボールでボールのつぶしかたを先生に聞いているときはさすがの大黒テンも体育座りで先生の鼻の中に潜む謎のUMAを見ているのである。おそらく、体育の先生はツムジからおならをこいてしまうという学校でも評判な怖い先生なのだろう。二宮さんしかり、大黒点しかり、すべて間違いなく時事刻々、変化するものであり、経験上、知っているものである。みみずもフィットネスクラブに通いつづければ、キョウキンがぴくぴく動く手品師になられるし、日夜、高級クラブに通いつめれば、きっと、目の下のくまがピクピク、けいれんするであろう。つまり、変化するもの、という言葉はすべて経験から見てしっているものである。一方、原因という言葉は、なんだかはじめから知っているような気がする。集合写真の友人の顔がなんだかお尻のように見えたら、謎の心霊写真かもしれない。半分は経験から得て、半分は生まれながらにして知っている。おぎゃーという言葉も生まれながらにして知っている。このハーフアンドハーフという、思わず、ピザでたのみたくなるような状態がアプリオリと呼ばれるものである。
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2005年03月12日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

  経験的な認識とは、アポステリオリなものであり、目の前の経験にほとんどをゆだねるものである。金魚すくいでも、ポイにそのほとんどをゆだねる。ポイが100パーセントの綿でできているかどうかは、背中にくっついている布着れでわかる。山下きよ子のパンツの一部からコウバのおばさんが丹精こめてつくったものならば、フンにお尻をかみつかれて暴れている金魚をも捕まえることができるかもしれない。経験的な認識は目の前の感覚的にとらえたものが大半を占めているのであり、電車の座席は下半身をコニシキから借りている名も知れないおばさんが大半の領土をしめているのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 22:58| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月05日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

  それだから、これからアプリオリな認識と、大声で叫んだり、ハンカチで涙と鼻水を交互に受け止めながら叫んでいるときなどは、一切、経験的なものを含めないことにする。以前、見たことが、聞いたことがある大仏の手にもっているファミゴンのコントローラー。これもまた、少しでも感覚や経験が混ざっているから、アプリオリとはいえないのだ。経験と関係をもったり、赤いふんどしで小指とお尻、そして経験がつながっていたりするものは、アプリオリとは呼ばず、絶対的に経験と関係を立ちきって、はじめからしっているもののみをアプリオリと命名するのである。アイスクリームのお尻に穴をあけてちゅーちゅーすっているような悪い友人と縁をきって、自販機のおつり口に毎日、キャットフードを食べさせてあげる心やさしい友人と結束をふかめることなのだ。アプリオリとは不純なものや経験的なものを一切、含まない。果汁100パーセントのジュースであり、おまけにつぶつぶやぐにゃぐにゃが入っているようなモ。100パーセントうんこでピーナッツが含まれていないのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 21:47| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月02日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ

  しかし、彼もすべてのことを生まれながらにアプリオリに知っているわけでもないのだ。鼻くそをかがみモチの上においてアブラカタブラと呪文をとなえたら、何がおこるかをあらかじめ知っているわけでもなく、波ぺいさんの毛をかづおくんの毛穴にいれたら世界が、宇宙がどう変化するのかも、やってみなければ知る由もないのだ。ここでいえば、物には重さがあるから、これを支えているテレビチャンピオンや二宮キンジロウさんが何かの用事で、例えば、注文していた本を本屋に取りに行く用事などで突然、ワープしたかのように消え去ったら、その物体が落ちることは、あらかじめ知っていなければならなかったことになろう。
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2005年02月23日

仙人養成講座 純粋理性批判を原文からアレンジ 

目、耳、などの五感から得られたもの、つまりは、経験的なものという意味である。
さて、このアプリオリという言葉はまだ、よくわかっていないので、あまり、
使いすぎると困難を招く。

  普段使っている言葉、親しみのあるものならば、よく熟知しているものだ。
おじいさんの背骨の数、孫のつむじの数、サランラップが少なくなったとき
のカラカラとした音。便所でないている鈴虫の音色。枚挙にいとまがないが、
身の回りのものはよく知っている。
 しかし、アプリオリという言葉は、盲人用信号機のボタンを押しても聞こえてこないし、あめー横のおじさんの魚よりも威勢のよい掛け声のなかにも登場しないのである。経験によって見たり、嗅いだり、なめたりする認識に関してもよく言われることがある。

 まず、犬のように、見知らぬ旅人のお尻を見たり、嗅いだり、食べてしまったりすれば、
当然、処罰に値する行為である。勝手に魚屋さんの店先にある目の充血した魚の目に
目薬をたらしてもいけないのは、道徳の授業で習った。
見たり、聞いたりと経験に基づいて奈良の大仏を観察するわけだが、
心の中の一般的規則によってはじめから生まれながらにして、
アプリオリに大仏のことを知っているというのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 23:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月20日

純粋理性批判 原文からアレンジ

 しかし、経験的認識はアポステリオリにたよっているのだ。
水没しそうになったら背中の骨がはしごのように浮き出てる老人に救いを求めるように、
アポステリオリなものにすがって生き、みんみんとイビキをかいてねるのである。
アポステリオリとは冷蔵庫の野菜室から発見された恐竜の化石についた名前ではない。
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2005年02月17日

仙人養成講座 純粋理性批判 アレンジ

こんな感覚なしの認識、ユリンゲラーが目隠しをして、
相撲取りがまわしの下に何色のパンツをはいているかを
あてるような能力はアプリオリな認識と呼ばれる。
アプリオリとはうまれながらにして、というほどの意味である。
生まれながらにしてヒョウガラのパンツをはいているならば、
アプリオリにパンツを持っているといえるし、
生まれながらにしてママンレモンで皿を磨く皿洗い職人ならば、
アプリオリに職人である、という言い方になる。
さすがに障害物競争のあんぱんをただ食いして、
皿洗いぐまになってしまったら、金髪の少年が身元引き受け人として
名乗り出ることは諦めたほうがよいだろう。生まれながらにして知っていることは
確かにあるが、初対面の営業マンにたいして、どこかで以前、
おめにかかったことありませんか、と軽くパチンコ玉でキャッチボールしたあと、
唐突に私はあなたを生まれながらのして知っていると豪語されたら、
細かいことをきにしない性格の営業マンも気になって仕事中や運転中に寝ることが
できなくなってしまうだろう。
ちなみに、細かいこととは、買ってきたばかりの爪楊枝の先にニンジンのカスが
くっついていたりすることだ。経験的な認識はアプリオリな認識ではなく、
はじめから知っていることではないのだ。
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2005年02月16日

仙人養成講座 純粋理性批判 アレンジ

 よって、私たちはながきにわたってレインポーマンと美しい虹をホースを
使って作ることにに専念し修行しなければ経験の中に潜む、
悟性つまり頭で作り上げたイメージとプッシュマンからプッシュプッシュと
外から攻撃をうけるような感覚的な印象を区別することができないのだ。
だから、経験を必要としない認識、目でみて耳でお尻のぷーという物音を聞き、
鼻で鼻糞をふきだすなどの感覚的印象を使わず、
ものを認識できるのか、という大問題はすぐに解決できるものではないのだ。
鼻毛を使わず、缶ジュースのフタを開けることはできる。
ところが、視覚や聴覚を使わずものを認識できるかは、より深い研究をまつしかないのだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 22:48| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月15日

仙人養成講座 純粋理性批判 原文からアレンジ

経験的認識とは目でぎょろぎょろと表情を変えず、
西郷タカムリ像の産卵シーンを見守るようなもので、
経験にたよって認識すること。この経験的認識は感覚的な印象、
直接的に目に飛び込んできた衝撃シーンに、
自分の心の中で作り上げた悟性概念というものを付け加えて、
足して2で割った合体されたものに他ならない。
足してバーバチョップで割ったものでもかまわないが、
目に飛び込んできたものは駆け込み寺とまちがえてしまった一級さんではない。
しかも、この一級さんは髪が中途半端にのびきった呪いの一級さん人形でもないのだ。
感覚的な印象は認識するためのきっかけであり、序曲にすぎない。道徳的な言い方をすれば、
第一ちんぽ汁にほかならない。
posted by モノイイ ジョーカー at 22:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月14日

仙人養成講座 純粋な理性を批判

よって、私たち何気なしに行っている認識、例えば、
たっしょんをするおじさんのどこからルルドの泉が流れるのか静観しているときや、
便所のドアを開けたとき、サラリーマンが名刺の角を使ってお尻を拭いているところを、
動物園のパンダをみるような微笑みで眺め見ているときなど、どんな認識でも、
経験をもってスタートするのだ。時間的には必ず、経験が先立って与えられるのである。
お金を支払って、おつりをもらうのも、
おしっこが出た直後にうんこや豆の木ジャックの木が顔を出すのであって、
順番はきまっているのだ。
   ところが、私たちの認識は経験と同時に成り立つのであって、
経験を出発点となってスタートするわけではないのだ。
スイカが八百屋さんの頭の上にあってから、それにがぶりつく。
間違えて八百屋のおじさんの顔にかぶりついてアンパンの味がしたり、
おまけに、店先で路上をはって歩く乾燥しきったウミガメに水をまいている
おばさんに水をかけられたとき、目がバッテンになってしまったら、
電気屋さんにいって、頭を取り替えてもらったほうがよい。
スイカがあってその上でこれを食べ、種を食べてしまって、
お尻がスイカ畑になってしまわないかと、一人ふとんで悩みこむ。
これが、ここでいう経験が目の前にころがっていて、これを調理し、
認識するということである。
しかし、本当の認識とは、スイカを食べながら、八百屋さんの店内を徘徊し、
もうすでに経験をしながら認識しているということだ。
posted by モノイイ ジョーカー at 22:12| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙人養成講座 純粋な理性を批判 原文からアレンジ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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