youtube哲学漫談完成版(正式版?)を毎日アップします。ユーストは未加工版(一か月保存)ねとらじは音声のみで生で今まで通りやっていきたいと思います。こちらからです!!−−>新設!!大人の教育番組 ジョーカーの哲学漫談 youtube!!! すべて整理!ジョーカー情報はここに集合ーー>MJKワールド 哲学漫談生配信はここ! 哲学漫談録画はこちら! 熱帯雨林さん作のジョーカームービーはここ! 大人の教育番組3ちゃんねる生放送 ジョーカーによるネットテレビ放送!!
スティッカムで簡単ライブ動画配信
Live video chat by Ustream 哲学漫談視聴について    朝の哲学漫談は今まで通り一人演説にさせてもらいます。チャットがきても答えらないかもしれないけど、無視したり、嫌ったりしてるのではありません。あしからず。よるの哲学漫談はチャットをしながら、とくにこれといったルールなしでやっていきたいと思ってます。よるのまんだんは哲学の話とは限りません。ダンプ放送はひるのまんだんです。     よるの哲学漫談、したらば掲示板はこちらです。-->http://jbbs.livedoor.jp/music/23492/

2005年04月03日

仙人養成講座 マトリックスの哲学

  マトリックスがテレビで放映されていた。ネオは夢と現実の世界をさまよう。赤いピルと青いピル。どっちが下剤なのかは、サングラスが似合うモーフィーだけが知っていたりする。もしかしたら、花粉症に効く薬かもしれないと考える。オヘソからムシが出てくる。小川でも見たことがないし、ごきぶりホエホエで助けを求めていたこともない。もちろん、ぼっとん便所の中でうごめいていたら、とりあえず、ケツを拭くのは後回し、政治家は先送りという言葉を使って、逃げる。オヘソをいじくったがゴマしか出てこなかった。

 ネオは占い師と出会う。隣のおばさんにそっくり、スーパーに買い物に来ていたと心当たりがあるものはたくさんいるだろう。花瓶が割れる。ハクチョン大魔王がピチャピチャと生きがよさそうに跳ねている。ネオの考えていることをことごとく予言。ネオがおばさんのことをキモイと少しでも思ったら、頭に花瓶が降って来る。また、あのシーンでホットケーキをコゲしてしまったら信用できないおばさんに変身。

 運命は決まっているというおばさん。ネオは自由意志を信じる。指相撲で対決かと思いきや口げんかもしない。大いなる運命を受け入れる。ニーチェの超人思想である。人間は運命に逆らえないという。きゅうりを味噌なしで食べてしまい後悔する。もし、味噌をつけていたらと想像する。もし、というのがないのだ。すべては味噌なしキュウリを食べる運命。醤油ダンゴのタレがTシャツについてしまう運命だったのだ。しかも、ニーチェは考える。ニヒリズムの時代の到来であり、すべてを肯定的に受け入れろと。ニヒリズムとは、すがるべき絶対的な価値観がなくなって、いいことも嫌なことも肯定的に受け入れろという考え。そして、永劫回帰の思想。何度も、同じ人生を繰り返すという。また、味噌なしキュウリを食べる運命だ。よって、すべてを受け入れ、決まっているからといっても投げやりに人生を歩むのでなく、権力を強く意志する。人間として一番になろうとするのだ。パン食い競争で一番、自分がムシならば、洋服ダンスの中で虫食い競争、パンツ食い競争で一番だ。

 ネオは自由意志を信じる。サルトルの実存主義である。人間の意志は岩をも壊すという。空手家は瓦5枚割り、てんぷら屋の店主は、あぶらに指を入れても熱くない。

 人間とはいつでも自分を意識している。テニスをしているときも、自分の存在を意識する。足の裏の匂いをかぎながらテニスをしていたり、わきの下をかぎながら書初めをしているのではない。自分の心を意識している。そして、少なくとも、私は目の前のテニスボールではない、という否定的な意識があって、はじめてテニスボールを認識し、これをボクシングのグローブでジャブ、フックできるのだ。自分を意識している自分、自分に意識された自分も違う。見られている自分は、もはや、今見ている自分とは違うちょっと前の自分だ。つまり、私は私である、という完全に自分と一致しない。だから、自由であるという。

 また、モノには本質がある。フォークはスパゲッティーを突き刺すための道具、という本質。便器はうんこの滑走路、ビデは観賞用の噴水。モノは本質があって、次に存在する。ところが、人間には本質があるのか。人間とは時代によって本質が違う。手足の本数は変わらない。人間の意味がちがうのだ。まず、自分が存在し、そのあとで自分が何かになる。たとえば、勇ましいムキムキマンになるのか、ほかほかの肉まんになるのかは、自分が自由意志で決定する。自分の存在が先にあって、その次に、自分の意志で本質を決める。自分の存在のことを実存という。実存は本質に先立つのだ。

 ネオは現実の世界を見る。なぜだか頭はげている。いつ、床屋に行ったかは、そのシーンはカットしたのだろうか。ネオが寝ていて夢を見せられていた。ネロならば、天使が上から舞い降りてきてくれる。ネオである。カプセルに寝かされている液体づけの人間。ねっぺはおきていない。ねっぺが、あぶくになっていたら二倍の感動だ。

 ビスケットを食べながらテレビを見ている。映画館ならば、ポップコーンと相場で決まっているが、ビスケットを食べながら鑑賞だ。ビスケットを口に入れると、ネオは嘔吐。また、ビスケットを口に運ぶと、嘔吐。タイミングが悪すぎて、少し不機嫌となり、カタツムリの角が頭からはえている。ビスケットをやめ、ダンゴを食べる。

 ネオは1999年の仮想世界の中に仲間たちと入り込む。裏切り者が一人。魚屋のおじさんそっくりな鼻ヒゲ男性。寝首を襲う。そんなとき、突如、首の後ろが気になって触ってみた。穴が空いてなかったのでホッとする。お尻に手を当てると穴が空いている。動揺して、テレビを見ているどころでなく、親戚に電話をして確認。受話器に向かってしゃべろうとすると、口が中々空かないのだ。動揺のあまり、足はぷるぷる、腰はぷるぷる、なぜだか、お尻ぷるぷる。口が閉じてくるのかと思いきや口のなかにダンゴが入っていてうまくしゃべれない。

 無事、水戸黄門様のおかげで1件落着。

 マトリックスの世界は仮想現実である。かって、哲学者カントはモノのすべては認識できないと考えた。はだしのケンの足の裏にゴキブリの赤ちゃんがつぶれているかもわからず、犬のフンがついているかも知れない。犬のフンに踏みつけられる夢をみてしまいそうだ。モノの一面しか認識できず、そのすべてを知ることはできない。不可知論という。この世界は何のか。目の前のリンゴは本当に存在しているかの確信はない。
 論理実証主義の考えは、目の前のリンゴは感覚データの集まりであるという。しかも、それが頭の中のイメージといっているわけではない。自分の1メートル先に感覚データ、センスデータの塊があるという。よって、リンゴが実在するのか、幻覚なのかは問題ではない。今、見ている感覚データの塊が実在すると考える。相撲取りのお尻でも同じだ。丸くて、肌色の感覚データが一箇所に3メートル先にあるのだ。

 もし、ネオが夢なのか、現実なのかを迷っていたら、信じられるのは、自分の存在だけ。デカルトの我思うゆえに、我ありだ。どんなに疑っても、疑っている自分の存在は疑えないのだ。運命か、自由意志か、以前に自分だけが確実という心境。これが結果として、赤いピルを飲んだこと、自分の意志で決断だ。ところが、ネオは現実を知り、いままで仮想現実の中をいきていたことを知ると、自分の存在だけでなく、自分の運命を受け入れようとするのだ。
 
 
posted by モノイイ ジョーカー at 10:12| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 仙人養成講座 映画で見る哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月26日

ターミネーター3と哲学

  ターミネーチャン3という映画があるかは知らない。公衆浴場でピースをしながらもぐったら、怖そうな顔をしたおじいさんにどなられた、というパート2。

  T3は女ターミネーターが登場する。ターちゃんが女ターちゃんを後ろから抱く。イツノマニカ、背中が正面になって、後頭部が顔となる。バックかと思いきや、正上位になった。

 この映画に一貫しているのは運命ではないか。主人公は自分がレジスタンスを率いるカリスマになる、という運命を担って話は展開する。手相占いの人に手相を見てもらう。

運命線がうんこそっくりだーといきなり叫び出し、あんたは未来にうんこになる、と強く決め付けられる。

 哲学者スピノザは人間は運命にのっとって生きていると言う。スピノザは神様を無限の宇宙であると考える。望遠鏡をタシーロマサーシのように覗いても無限の宇宙の果てにこびりついているセミのふんなんかは見えるわけではない。唯一、無限の神様だけが自由であると考える。すると、人間には自由がなく、あらかじめ定められていると考えるのだ。

 ターミネーターはアンドロイドである。胸の皮を切り取るシーン。北京ダックの皮よりもうまい、という美食家は知らない。機械であり、彼の思考はカントのいう悟性能力である。悟性とは論理的に考える能力。
イメージを4つのカテゴリーによってまとめる。カテゴリーとは枠組みである。ターちゃんの前に一匹のあかちゃんゴキブリ。余裕の表情で見つめ、そのゴキブリの質量、座高の高さ、スリーサイズをピピピっという電子音とともに認識。これが四つのカテゴリーのうちの量のカテゴリーによって思考したことになる。
つぎに、ゴキブリのケヅヤの良さをピピピっとバーコードを通したように計算。質のカテゴリーである。ゴキブリの家系図まで考え出す。ピピピッとサラサーティーン、ソフィーサラサラ、と人間関係が明確になる。関係のカテゴリーだ。最後に様相のカテゴリーである。これは、自分にとって目の前の出来事は夢、現実、必然、と考える能力。ターちゃんは主人公の青年の鼻水がいかに気持ち悪くとも、任務をまっとうすべく、必然的に行動する。

 ところが、女ターちゃんからへんなモノを埋め込まれ、洗脳される。本来の自分を取り戻そうとするが、体に勝手に動いて、もぐら叩きゲームのモグラを叩きのめす。

 つまり、自由意志や感情が働いたのではないだろうか。カントの4つのカテゴリーとは、対照的にショーペンハウワーは感情のカテゴリーというものを考えた。ショーテーンの連中の頭がくるくる回るのを見て笑ってしまったり、泣いたり、怒ったりするカテゴリーである。人間とはロボットのように冷静ではなく、感情によって動いている。理屈や論理では解決できない不条理なこともおこる。寿司屋にはいったとたん、へーらっしゃい、という威勢のいい声。いきなり、客は寿司ネタのまぐろを店主のヒタイにぴたりとくっつけ、へーいっちょうあがりー、っと叫ぶ。不条理は感情のカテゴリーによってしか処理できない。

 ターちゃんは本来の使命と埋め込まれたデータとのハザマで悩む。主人公を殴るか、なでるか。頭をなでるか、お尻をなでるか、判断し実行にうつせない。結局一番つまらい鼻の下を触るだけで終わってしまうかもしれない。決断せずに、迷い、中間をとろうとする。これを哲学者フッサールは中立性変容と呼ぶ。中立化しようとするが、結局は真ん中が見つからなかったりする。ズボンの上からカンチョウをしても中々、真ん中に命中しない。そして、この究極が判断停止、エポケーである。判断停止とはフッサールいわく、電流がオフになること。ターちゃんはマネキンのように動きを止める。さすがにハエもたかろうとしない。ハエは動いているものにたかろうとするところにスリルを感じているからだ。

 最後、主人公は核シュルターの中。結局は運命には逆らえなかったのだが・・


ターミネーター2...


ターミネーター3名作映画完全セリフ集スクリ...



posted by モノイイ ジョーカー at 20:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(2) | 仙人養成講座 映画で見る哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月20日

フォレストガンプ ガンピズムと哲学

 フォレストガンプがテレビで放送された。何度見ても、目頭が熱くなる。目頭にヤカンが不時着したわけでもなく、ヒュウマのように目が燃えていたわけでもない。もし、燃えていたら、バックグラフトがオススメ。
 あの映画、放送後、人間を肩にかついで走る若者が急増すると思われたが、せいぜい、バーバ、バーバと叫んでいるものしか見当たらない。
 主人公ガンプは純粋無垢である。まっすぐで、裏表がない。ぴょン吉も基本は裏表なしである。例外的に腹八分目を超えると膨らんでくる。
 バカはバカなことをする人だ。もっともである。靴紐をお尻で結ぼうとしたり、針の穴に頭をつっこんだら、バカである。エスパーイトーなら出来るかもしれないと踊りながら、まさに、今、エスパーが脳裏を横切った。あなたにエスパーの声が聞こえたかどうかはどうでもいいことだ。
 人間の行動や思考でバカが決まる。よってこんなことを書いている私はバカである。バカという存在はただ、動かず、ただ居たり、あったりするものではない。哲学者フィヒテである。
彼は自発的に動いたり、行動することが、存在であるといった。実践こそが存在の証である。サドルにケツの裂け目が食い込む。ケツをずらした瞬間、かれは自分の意志で動いたことになる。何かを実践したから、これが彼の存在である。オナラをするときは、サドルからお尻が離陸する。そして、地上1メートルで空中オナラして、もとのサドルに着陸。これも実践だ。
 自分が知恵おくれであることを知っているガンプ。ソクラテスの無知の知である。しったかぶりをするのでなく、自分は本当は何も知らないんだ、ということを知る。こういう人が賢い人というらしい。カブトムシはあくびをするんだとしったかぶりするものも居る。
 ガンプは出会いと別れを繰り返す。一期一会である。たった一回かぎりの出会い。哲学者ディルタイは、人生とは不条理であると考える。科学は繰り返しをとく。実験ではげ頭にシロップをかけたらプリンとなった。何度、繰り返してもプリンになる。だから、これを法則と考える。これを反復可能性という。
 ところが、ディルタイのいう人生とは反復しない。何でも一回かぎりで、今度は前回のようにじょうずにカップラーメンを作れるとは限らない。ハエがお湯に落下するかも知れず、サンダルバードの人形が足突っ込むかもしれない。何がおこるかわからないし、たった一度の貴重な体験なのだ。
 ガンプはいう。僕らには皆、運命があるのか、それとも 、風に乗って ただ彷徨ってるのか、 たぶん その両方だろう。人間には運命というものがある、とするのがスピノザの哲学。
すべてがどうなるか、神様によって決まっていると考える。これに対して、人間は自分で自分を作っていく、と考えるサルトル。のっぽんさんは浴槽で照る照る坊主を作った。もぐると、細かいオナラを頭からする変な奴だ。自分が何をし、どんな風になるか、は自分が作っていくと考えたのだ。


 オススメ!!

ガンピズム―フォレスト・ガ...

 
posted by モノイイ ジョーカー at 16:25| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(2) | 仙人養成講座 映画で見る哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする