ネオは占い師と出会う。隣のおばさんにそっくり、スーパーに買い物に来ていたと心当たりがあるものはたくさんいるだろう。花瓶が割れる。ハクチョン大魔王がピチャピチャと生きがよさそうに跳ねている。ネオの考えていることをことごとく予言。ネオがおばさんのことをキモイと少しでも思ったら、頭に花瓶が降って来る。また、あのシーンでホットケーキをコゲしてしまったら信用できないおばさんに変身。
運命は決まっているというおばさん。ネオは自由意志を信じる。指相撲で対決かと思いきや口げんかもしない。大いなる運命を受け入れる。ニーチェの超人思想である。人間は運命に逆らえないという。きゅうりを味噌なしで食べてしまい後悔する。もし、味噌をつけていたらと想像する。もし、というのがないのだ。すべては味噌なしキュウリを食べる運命。醤油ダンゴのタレがTシャツについてしまう運命だったのだ。しかも、ニーチェは考える。ニヒリズムの時代の到来であり、すべてを肯定的に受け入れろと。ニヒリズムとは、すがるべき絶対的な価値観がなくなって、いいことも嫌なことも肯定的に受け入れろという考え。そして、永劫回帰の思想。何度も、同じ人生を繰り返すという。また、味噌なしキュウリを食べる運命だ。よって、すべてを受け入れ、決まっているからといっても投げやりに人生を歩むのでなく、権力を強く意志する。人間として一番になろうとするのだ。パン食い競争で一番、自分がムシならば、洋服ダンスの中で虫食い競争、パンツ食い競争で一番だ。
ネオは自由意志を信じる。サルトルの実存主義である。人間の意志は岩をも壊すという。空手家は瓦5枚割り、てんぷら屋の店主は、あぶらに指を入れても熱くない。
人間とはいつでも自分を意識している。テニスをしているときも、自分の存在を意識する。足の裏の匂いをかぎながらテニスをしていたり、わきの下をかぎながら書初めをしているのではない。自分の心を意識している。そして、少なくとも、私は目の前のテニスボールではない、という否定的な意識があって、はじめてテニスボールを認識し、これをボクシングのグローブでジャブ、フックできるのだ。自分を意識している自分、自分に意識された自分も違う。見られている自分は、もはや、今見ている自分とは違うちょっと前の自分だ。つまり、私は私である、という完全に自分と一致しない。だから、自由であるという。
また、モノには本質がある。フォークはスパゲッティーを突き刺すための道具、という本質。便器はうんこの滑走路、ビデは観賞用の噴水。モノは本質があって、次に存在する。ところが、人間には本質があるのか。人間とは時代によって本質が違う。手足の本数は変わらない。人間の意味がちがうのだ。まず、自分が存在し、そのあとで自分が何かになる。たとえば、勇ましいムキムキマンになるのか、ほかほかの肉まんになるのかは、自分が自由意志で決定する。自分の存在が先にあって、その次に、自分の意志で本質を決める。自分の存在のことを実存という。実存は本質に先立つのだ。
ネオは現実の世界を見る。なぜだか頭はげている。いつ、床屋に行ったかは、そのシーンはカットしたのだろうか。ネオが寝ていて夢を見せられていた。ネロならば、天使が上から舞い降りてきてくれる。ネオである。カプセルに寝かされている液体づけの人間。ねっぺはおきていない。ねっぺが、あぶくになっていたら二倍の感動だ。
ビスケットを食べながらテレビを見ている。映画館ならば、ポップコーンと相場で決まっているが、ビスケットを食べながら鑑賞だ。ビスケットを口に入れると、ネオは嘔吐。また、ビスケットを口に運ぶと、嘔吐。タイミングが悪すぎて、少し不機嫌となり、カタツムリの角が頭からはえている。ビスケットをやめ、ダンゴを食べる。
ネオは1999年の仮想世界の中に仲間たちと入り込む。裏切り者が一人。魚屋のおじさんそっくりな鼻ヒゲ男性。寝首を襲う。そんなとき、突如、首の後ろが気になって触ってみた。穴が空いてなかったのでホッとする。お尻に手を当てると穴が空いている。動揺して、テレビを見ているどころでなく、親戚に電話をして確認。受話器に向かってしゃべろうとすると、口が中々空かないのだ。動揺のあまり、足はぷるぷる、腰はぷるぷる、なぜだか、お尻ぷるぷる。口が閉じてくるのかと思いきや口のなかにダンゴが入っていてうまくしゃべれない。
無事、水戸黄門様のおかげで1件落着。
マトリックスの世界は仮想現実である。かって、哲学者カントはモノのすべては認識できないと考えた。はだしのケンの足の裏にゴキブリの赤ちゃんがつぶれているかもわからず、犬のフンがついているかも知れない。犬のフンに踏みつけられる夢をみてしまいそうだ。モノの一面しか認識できず、そのすべてを知ることはできない。不可知論という。この世界は何のか。目の前のリンゴは本当に存在しているかの確信はない。
論理実証主義の考えは、目の前のリンゴは感覚データの集まりであるという。しかも、それが頭の中のイメージといっているわけではない。自分の1メートル先に感覚データ、センスデータの塊があるという。よって、リンゴが実在するのか、幻覚なのかは問題ではない。今、見ている感覚データの塊が実在すると考える。相撲取りのお尻でも同じだ。丸くて、肌色の感覚データが一箇所に3メートル先にあるのだ。
もし、ネオが夢なのか、現実なのかを迷っていたら、信じられるのは、自分の存在だけ。デカルトの我思うゆえに、我ありだ。どんなに疑っても、疑っている自分の存在は疑えないのだ。運命か、自由意志か、以前に自分だけが確実という心境。これが結果として、赤いピルを飲んだこと、自分の意志で決断だ。ところが、ネオは現実を知り、いままで仮想現実の中をいきていたことを知ると、自分の存在だけでなく、自分の運命を受け入れようとするのだ。






