存在の科学 人間不死学説 見ると行動はいずれも収縮
すべてを先取りして次に狙いうち ぶれが立体視をうむ
本の全体は、文があつまったもの。部分から作られた本全体。本を読み終えて、こんんどは細部を見てみる。主人公の言動を解釈だ。部分から全体、全体から部分。いったりきたりの堂々巡りの旅。これが解釈学的循環だ。これが認識だけでなく、存在そのものの構造だといったハイデガー。ここからが問題の核心だ。
私はお尻をださなかった。お尻を出した自分の宇宙も、平行して存在している。平行宇宙論である。じつに、お尻出さないことを選択したのは賢明だが、出した世界、半分出した世界、選択しなかった並行世界は瞬時に経由して、その人生あゆんだ私は死滅して、いままさに戻ってきたのだ。こうやって、なにかを選択し行動するとは、選択しなかったものを瞬時に経由し、消滅させたことに等しい。目の前に紙切れが風で動く。宇宙全体を経由し、関係して、うごいた。これはあくまでも無機的な紙切れのお話。全宇宙関与であるが、生命の意識は全平行宇宙経由、関与なのだ。これが存在論的な解釈学的循環だといいたいのだ。すべての全体を瞬時に体現し、一つに絞ったからだ。
つぎは西田幾多郎の行為的直感をからめたい。直感し、感じるとは、以前にお話したが、ミクロ世界の波、波動関数を収縮させて粒子にし、位置確定することだといった。量子論である。認識する、感じるとは収縮だ。それでは行為するとはどういうことか。これまた、収縮だといいたいのだ。お尻をださなかったという道、世界にいる私。お尻をだした私の平行世界を瞬時に経由し、消滅させたといったが、この自分の選択しなかった平行世界を瞬間消滅させてというのが、他ならぬ収縮だといいたいのだ。だから、ある意味、お隣の平行世界の意識体によって、私の住むこの世界は収縮されている。だからこそ、この世界は事実的に存在しているともいえる。行為と直感は同じ収縮現象だ。
さて、メルロ
ポンティのいう、ぶれ、を考えあわせたい。たしかに
カメラのぶれと同様、私が感じた、知覚したものはぶれまくっている。ただこのぶれこそが新しい意味をうむ。友人の背中を見えない。ひょっとしたら、後ろに回りこんで背中をみたかもしれない。そんなひょっとしたらの平行世界があるのだが、そこにこの世界の私が食い込んでいる。つまりは、ぶれているのだ。だから、私は友人を立体的に見ることができる。ただ、想像しているだけなら、立体像にこんなリアリティがあるはずがない。実際に手元のぶれによって、平行世界に片足つっこんでいるのだ。
一元論と排中律についてである。私は一体だれなのか、と自問自答してみる。名前もあるし、役所に行くと戸籍だってある。記憶喪失で名前も思い出せず、謎のくろずくめの男たちに追いかけられているのはSF
映画の主人公。もちろん、黒ずくめの男たちは、虫眼鏡をもった昆虫採集中の少年には要注意である。黒いから太陽光でこがされてしまうかもしれない。
スーツを虫に食われたのはいが、虫眼鏡でやかれたら上司に報告するときなんて弁明すればよいかだ。少なくとも、私はジェットコース−ターで肩を耳たぶにふれるほど、硬直し、ひきつっているといもあれば、無人島にてヤシノミを食っているときだってある。いろんな場面でいろんな私がいる。そんなときは、いろんな世界が目の前に広がっている。私と宇宙について考えて行きたい。
まずは、一元論についてお話する。まさに世界とはこれなんだ、と歯切れよく威勢がよい。もごもごしていない。納豆食いながら、たちつてと、はちょこっと厳しいことは、特殊部隊の訓練を受けたものなら皆が知っていると思う。古くは古代
ギリシャのパルメニデス。あるものはずーっとまえから今後もずーっとあるんだよ。無いものはずーっと前から今後の無い。単純明白、明朗
会計。なんだか
中国語のような雰囲気だ。パルメニデスのゼノンは、同じくあるものはあると主張。そして、あるはたった一つだという。コンビニにはいって、イレギュラーに
靴下購入。それでも、いろんな靴下がある。たくさん、いろんなというのは見せかけの錯覚。この世界は存在しかない。また、動いているものはないという。もしそうなら、陸上選手困ってしまう。たしかに、ゴールまで動いている、否、走っているように見える。動くことや運動とはこういうことだ。沢ガニが動いている。いままさに、山を越え、険しい谷を超え、丸まった靴下を越える。沢ガニがここにいる、といった次の瞬間、もうすでにそこにはいない。ちょっと先に進んでやがる。つまり、そこにあると同時に無いというのが、運動であり動き。あると同時に無いとはなんたる矛盾か。あるものはある、をモットーに生きておりますということから、運動、動きは錯覚だろ結論する。
近世に入ると哲学者ホッブス。唯物論的一元論である。すべては物体であり、あたかも、ビリヤードの玉が転がるごとくなんだか法則にしたがっているという。しかも、人間は利益追及を原動力としているという。損得感情で動いちゃう。こうやってできた国家を人工国家。サイボークのような国家だというのだ。哲学者スピノザは汎神論的一元論。たしかに、この世界を見まわすとどうやら物体と精神がある。精神とはいわば心である。ほんの気持ちだけ、ということ手ぶらでお歳暮。純度100
パーセントの気持ちも珍しい。まずは宇宙は神様だという。しかも、この神様は見る角度によっていろいろに見えるのだが、人間はふたつの指定席からしか眺められない。ここからみると、精神だし、あそこから見ると物体にみえるのだ。
ドイツ観念論においては哲学者フィヒテ。私は私だ、と授業中に叫んでみる。あくびしていたものは開いた口がふさがらず、おなら最中だったものはもちろん開いた穴がひらっきぱなしで非常事態。私は私であるというのはまったくもって確実。ごもっともである。こんどは私は私以外のものではない、という。疑いの眼差しでみるのだが、やっぱりその通り。そして、最後に、私は一部は私以外、私以外の一部は私だ、なんていいだす。つまり、私は私以外のものと一体しようとする。たしかに、路上で白馬と一体化しようと、お尻擦りつける王子様を見かけたり、郵便ポストとの一体化試みるハナタレ小僧だってみかける。ただ、私とアンチ私との融合には一に努力、ニに努力である。だから、フィヒテ哲学は私とバナナの一体化にはそれなりの努力がいるから努力の哲学といわれる。これに対して、哲学者シェリングは天才の哲学。一瞬で、直感的に宇宙と一体だ、とさりなく言う。しかも、絶対同一の哲学を標榜。すべては同じものだ、くそもみそも、おけらもあめんぼも、みんなみんな同じものだ、という哲学だ。
現代においてはどちらかというと心とからだの問題にうつる。そして、心と肉体はひょっとしたら同じものというのが心身一元論である。一番最初、一発目には心とも物体ともいえないなにかがある。そして、時と場所によって、これが心のイメージになったり、かちこちの
乾燥うんち風な物体になったりする。最初はどっちでもない中間的なものだから、中性的一元論という。また、哲学者フレーゲのいう意義と意味をはっきりわけてみる。水は液体である、といえば正解。真という値がくっつく。文が真だの偽だのいうのは、その文の意味だという。ところが、H2Oは液体だ、という。このとき格好つけてH2Oといったのだが、意味は同じだけど表現がちょっとクール。つまり、意義はちがうのだ。心と肉体、とりわけ、脳は意味はいっしょだけど、ただ意義がちがうだけという考え。これを心脳同一説というのだ。さらに、心は物理法則に従わない。山田さんの心の働きは計算できない。だから、非法則的だ。それでいて、肉体という物体を動かしたり、肉体からの影響でくすぐったく感じたりしちゃう。肉体と同じように物理的だ。これが非法則論的一元論だ。法則はないけど、心と肉体はなにかひとつのものだ、というのだ。
さて、こんどは排中律についてである。排中律とはどんなことをしてもぜってい正しい文である。こちらはエスプレッソコーヒーか、エスプレッソコーヒー以外かのいずれかでございます、と店員が説明。たしかに間違ってはいない。エスプレッソコーヒーとそれ以外とのあいだには隙間がない。真ん中を排除するから排中律である。排中律はだれがなんといおうと正しい。胸をはって主張できるし、背中にシップも張っちゃう。貼ってもらうときは、もうちょっと右、と指図するのでなく、自分からからだをうごかしたほうがよい。排中律にもいろいろと種類がある。すべての文は真か、偽かのどっちかだ、というのが一つ目。二つ目は、すべての文は真でも偽でもないということはない、という回りくどいもの。急いでいるときは回りくどくいえ、とよくひとはいう。そして、三つ目は、すべての文はpであるかアンチpであるかのどっちかだ、というもの。一つ目は、真と偽の間にわけわからない変な値をかってに入り込ませてしまう危険性あり。真と、偽と、もじゃもじゃという三つの値だ。二番目は直感主義論理というが、なんといっても、真でも偽でもないやつなんて直感的にかんじたことがない、ということ。そして、三つ目の、この文はpかアンチpかのどっちかだ、という、まさにこれこそが正真正銘の排中律だったのだ。pとアンチpはなにものもはさまらない。
まとめ
存在の科学 人間不死学説 私と私以外の宇宙ですべてである 他人や他の動物は別平行世界の残像であり、宇宙収縮の手助けである
私はどこにても、どんな状況でも私である。そして、私以外の世界が目の前に広がっている。私と私以外のあいだにはなにもない。いわゆる排中の原理だ。こちらは肉まんであるか、肉まん以外であるかのいずれかでございます。なにも間違っていない。寝ているとき、極度に無意識状態であっても、私のまえには世界がある。覚醒時、興奮しているときも、私のまえには世界だ。私と私以外の世界をあわせて全部である。これは生死を越えた真実である。私が小さくなっても、大きくなっても、それは私と私以外の世界との境界線がスライドしただけ。実際はこんなふうに直線状をスライドするような単純なものではない。量的ではなく質的なものだ。
もともとこの宇宙が誕生したのはビッグバンによるもの。そのとき、10次元のすべてが一点に集約されていた。そのうち、縦、横、高さ、時間の次元だけが膨張。四つの次元だけが膨張し、残る6つの次元は膨張せずにミクロな世界に閉じ込められた状態だ。このビッグバン誕生時にすべてがあった。そのうち、四つの次元は私以外の宇宙になり、残る6つの次元が生命であり、しかも、私だったのである。生きとし生けるもの、生命はたったひとりの私だった。しかも、宇宙誕生のときに、私と私以外の世界があった。
それではなぜ、昆虫、アメーバ、他人も含めて複数の固体として私がいるのか。これが宇宙誕生からいまにいたるまでの平行宇宙への分岐だったのだ。ひょっとしたらその私は右にいったかもしれない。ここで右と左に世界はわかれる。こうやって、宇宙と私だけだったが、ひょっとしたら、こうしていたかもしれない私がどんどん分岐して新しい平行宇宙を作った。ところが、その膨大な平行宇宙をつくり、そこにオリジナルな私がどんどん枝分かれしたのだが、なぜだか、そのんな複数の私がひとつの世界に投影されるようになった。もちろん、平行宇宙の増大と、その膨張。そこにいる生命そのものとしての私は収縮することに使命をもつ。平行宇宙に一人の私だとおそらく収縮力が少ない。だから、はじめは物体の引力となって投影されていたが、いつしか他人となって現われるようになったのだ。宇宙収縮力の不足ゆえに、別の平行宇宙が干渉する。これが個人としての私以外の他人やら動植物、さらには物体の引力である。