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2008年07月18日

存在の科学  人間不死学説  意味の宇宙論

存在の科学  人間不死学説  意味の宇宙論

  意味とはなんだろうか。意味がうまれるには力が必要。これを意味の力と名づけたい。私はジャンプする。ひょっとしたらしゃがんでいたかもしれない。このしゃがんでいたかもしれない世界が平行して存在するというのが平行世界。だから、平行世界は微妙にこの世界とはちがう世界が乱立、ひしめきあう。じつに、ハンカチの意味はなにかといえば、それは岩石ではない。ひょっとしたら岩石だったかもしれないという平行世界を経由して意味がうまれる。モノの意味は並行性によるもの。しかも、これがハンカチであり、ハンカチの意味を知った、というのは、どんな力が必要か。ハンカチは岩石ではない、と自分の城を死守せねばならない。岩石だったかも、ティッシュだったかも、という平行世界がすぐお隣にある。これら平行世界が無数にひしめきあっているから、その圧縮力が力となっているのだ。これが食パンだ、と食パンの意味が出現。あんぱん、フランスパンだったかも、という平行世界がひしめきあって、おしくらまんじゅう状態。この力が食パンの意味を出現させた。

  ここで量子力学のお話。原子核の周りに電子がまわってっらー。電子は同時にあらゆる軌道上に存在する。ここにあるかもあそこにあるかもと平行世界である。そして、なにゆえ、電子が原子核の周りから飛び出して家出しないかといえば、どうやら、電子がここかもあそこかもと平行世界となってひしめきあっているその圧縮力でとどまっているからだというのだ。まさに、先ほどのお話である。意味もまた、こうやって、平行世界の圧縮する力でそこに止まる。


   
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2008年07月17日

存在の科学   人間不死学説  存在と感じること

存在の科学   人間不死学説  存在と感じること
  
  記述理論で登場するX,Yという変項。Xはネコのたまちゃんであり、かつ、オスである。正直、Xとは正体不明でからっぽの容器。からっぽだから、無だともいえる。しかも、なんでも入れられるから、パンツははいるが、宇宙船は入るとか、なんとも、事件、出来事まですっぽり収まる。聖徳太子がしゃもじであごひげをそるという出来事もXに入っちゃう。つまり、Xとは、平行世界、パラレルワールドなのだ。このXという変項はひょっとしらの世界がつまっているし、同時に無でもある。しかも、時間の流れすらない。つっぱりをされて押し飛ばされる。手と頬のあいだには無。ここに相互作用、作用、反作用がはさまっている。要するに、Xは相互性でもある。それでは、述語はどうだろうか。ネコのたちゃんと呼ぶ、とか、オスである、というXの説明文の束。これを確定記述束という。よくよく考えれば
わかるが、この確定記述、時系列になっているのだ。Xについての説明は順番で時系列になる。ああでこうでこうである、というふうに。つまり、確定記述は原因と結果の因果関係、時間によってなされるのだ。しかも、Xは不確定だから、量子論的なミクロの世界。確定記述束は確定的だからマクロな世界だ。要するに、Xを感じるとは、不確定なXを確定すること。量子論的な雲を位置確定してやることだ。また、別の言い方をすれば、時間と平行世界がここに同時に出現しているから、別宇宙どうしの接触とも考えられる。さらには、カントカテゴリー表では、関係のカテゴリーの実体、因果、相互性のうち、因果と相互性がでているので、この組み合わせによって残る実体性のカテゴリーが出現するとも解釈できる。実体、つまりは、それ自体存在しているものたちは、不確定な変項の確定。電子の確率的な波を粒子にすること、いわゆるなにかを感じることなのである。さらに、様相のカテゴリーにおける可能性、現実性、必然性。この順番でならんでいるのだが、可能性と必然性を合体させると偶然的であり、これこそが主体的な我の存在だといいたいのだ。可能性は関係のカテゴリーの相互性、現実性は同じく実体性、そして、必然性は因果的な連鎖を想起させるので因果性。いずれにしても、関係のカテゴリーと様相のカテゴリーを構成する要素、その順番がなにゆえずれているのか。このずれに秘密があるように思える。  
  
についてである。本日、何について考えようかと考えた。みけんにしわがよてくる。山あり谷ありのしわ。まるでロッキー山脈のようだ。みけんにむかって叫べば、山彦となってかえってくるかもしれない。考えたところ、人類最大といったらおおげさすぎるが、大問題にぶちあたった。あたるもはっけ、あたらぬもはっけ、とは、散歩中の犬が電柱にぶつかること。ずーっと、いままで根気よくはきつづけてきたパンツが、あたりだったとは。当たりと赤字でかかれている。もう一着くれるのだろうか。友人の背中にも当たり、という字。ひょっとしたら、一機アップかもしれない。大問題とは、こういうことだ。ひとはなにかを感じて生きている。かんじるぅーっとムンクの叫び。エクスタシーにエロティシズムについてたくわんを食いながら論じる場合ではない。なにかを感じ、しかも、なにかが存在しているのだ。単刀直入にいってしまえば、認識と存在とはどこがどう繋がっているのか。そんな通路をみつけたいと思ってやまない今日この頃だ。

  哲学者ラッセルの記述理論からぶち開けてみる。この宇宙、世界を解明するにあたってなにかとっかかりがないのか。とっかりをみつて、これに手をかけよじ登るセミ。生来のロッククライミングの血が騒ぐ。あたりを見まわすと、当たり前のように使っている言葉。この言葉ってひょっとしたら論理、理屈がいっぱいつまっているから、宇宙の構造かも、とおもったりする。文を研究してみよう。ビッグフッドのふんを分析するのはもうやめた。なんだか食欲減退、精神疲労がつのるばかり。文とは、たいてい真偽がくっついている。この文ははたして正しいことをいってるか、3年B組うそっぱち先生か。真か偽の値をもっている。醤油はしょっぱい、という文。正解の効果音が鳴り響く。つまり、真という値だ。醤油ビンは空を飛ぶ。ピーターパンじゃあるまいし、この文はうそ偽り、偽の値をもっている。ところが、そもそも、真でも偽でもない眼中にない文がある。お呼び出ない、そもそも、相手にならないような文。真偽すらもってない無意味な文だ。ヒップマンはイチゴがお好き。この文に登場したヒップマンとは、文字通り、お尻に手足はえている正義の化け物。こんな化け物は実在しない。実在しないやつをとやかくいっても、正しいもへったくれもない。つまり、真偽のない無意味な文だ。

  哲学者ラッセルはこんな無意味な文にたえられなかった。この世には無意味でナンセンスなものはない。全部に意味がある。靴下を裏返したときのでっぱった糸。これもまた必要不可欠三種の神器だ。それではどうしてヒップマンを云々できるのか。要するに、主語にお尻人間をもってきてはいけないのだ。もちろん、お尻人間はあるいているだけで、犬のおまわりさんによびとめられる。お尻人間を述語にしてしまえばよい。そして、その代わりに主語、主人公の座に踊り出るのがX,Yという変項といわれるものだ。変項とは、得たいの知れない正体不明なやつ。からっぽな容器であり、弁当もいれられる、大工道具も入れられる万能収納箱だ。Xはお尻人間と呼ばれるものであり、かつ、Xは足が速い。こうすれば、この文は真偽の値が立派にこびりつくことができる。こびりついてラッキーとはあまりきかないが、こびりついてくれてありがとう、と感謝したい。こうすれば、すべての文をXとはなんとかである、というように変形しちゃえば意味ある文に様変わりだ。そして、Xを説明するための、お尻人間と呼ばれる、とか、足が速い、といういわば説明文の束が確定記述束といわれるものだ。そもそも、Xは正体不明のからっぽの容器であり不確定。これに確定されている能書き軍団である確定記述束がくっつけばよい。


   つぎに、哲学者フッサール及び、メルロポンティの知覚論についてうんちくたれたい。身体とは何かとフッサールは考える。おっぱい、へそ、耳だってついている。割れた腹筋のすきまにはさまってしまう昆虫。レントゲン写真をとってみると、なんとも不思議だ。いろんな臓器が丸見え。ちょっとはずかしくて、お尻が赤くなってしまう。物理的にいろんなパーツでなりたっているんだな、と保健体育の教科書を改めて眺め見る。だんだん興奮してくる。性器の断面図をみてカルチャーショック。物としてのからだ、ここにヘアーを乗っかって、ここに盲腸が装着されている。これを物理学的身体と呼ぶ。ところが、人間はただの物体じゃないと叫びたくなる。スイカを丸ごと食ったり、鼻を興奮気味で匂ったり、いろんなものを感じて生きているのだ。生きている身体、これが知覚的身体だ。さらに、その背後にはおぼろげながらも太郎くんのやさしさが見えてくる。こうやって、段階的に心にたどり着いちゃう。しかも、胸はぴくぴく、フクラハギだって堅くなる生きている身体はただ光を感じ、そよ風をかんじているだけではない。それじゃリラックスしすぎだ。なんと驚くことに動くのである。プロレスラーだって、ロープにふって帰ってきたところ、屈伸運動。動くことが出来るからだ、しかも、そんなときは、よいっしょ、エイっという気合で足の裏のどろを縁せきにすりつけて落すのだ。意志の力でからだがうごくから、こんな身体を意志的身体という。

  こんどはメルロポンティの知覚論である。ゴブガリ少年のあたまをなでる。ちくちくして心地よいが、まるで芝生のようだ。キャディーさんを発見だ。小僧のあたまに隠れ潜んでいたとは、見上げた根性だ。手であたまをなでた。これは意志的身体だ。少年にとってはさわられたと感じる。つまりは知覚的身体だ。ここからが問題である。少年は高々に主張する。マイクをにぎりしめ頭部こすりつけてじゃりじゃり音を奏でるのではなく、なんと、頭が手をさわっていると主張するのだ。私はたまに自分のあごを触る。あごがあってよかった、とほっとする。あごが手をさわっているともいえる。さわるさわられる、見る見られるの関係は意図もたやすく入れ替わっちゃうのだ。意志的身体と知覚的身体が渾然一体になっているのだ。

  まとめ

  存在の科学   人間不死学説  存在と感じること
  
  記述理論で登場するX,Yという変項。Xはネコのたまちゃんであり、かつ、オスである。正直、Xとは正体不明でからっぽの容器。からっぽだから、無だともいえる。しかも、なんでも入れられるから、パンツははいるが、宇宙船は入るとか、なんとも、事件、出来事まですっぽり収まる。聖徳太子がしゃもじであごひげをそるという出来事もXに入っちゃう。つまり、Xとは、平行世界、パラレルワールドなのだ。このXという変項はひょっとしらの世界がつまっているし、同時に無でもある。しかも、時間の流れすらない。つっぱりをされて押し飛ばされる。手と頬のあいだには無。ここに相互作用、作用、反作用がはさまっている。要するに、Xは相互性でもある。それでは、述語はどうだろうか。ネコのたちゃんと呼ぶ、とか、オスである、というXの説明文の束。これを確定記述束という。よくよく考えれば
わかるが、この確定記述、時系列になっているのだ。Xについての説明は順番で時系列になる。ああでこうでこうである、というふうに。つまり、確定記述は原因と結果の因果関係、時間によってなされるのだ。しかも、Xは不確定だから、量子論的なミクロの世界。確定記述束は確定的だからマクロな世界だ。要するに、Xを感じるとは、不確定なXを確定すること。量子論的な雲を位置確定してやることだ。また、別の言い方をすれば、時間と平行世界がここに同時に出現しているから、別宇宙どうしの接触とも考えられる。さらには、カントカテゴリー表では、関係のカテゴリーの実体、因果、相互性のうち、因果と相互性がでているので、この組み合わせによって残る実体性のカテゴリーが出現するとも解釈できる。実体、つまりは、それ自体存在しているものたちは、不確定な変項の確定。電子の確率的な波を粒子にすること、いわゆるなにかを感じることなのである。さらに、様相のカテゴリーにおける可能性、現実性、必然性。この順番でならんでいるのだが、可能性と必然性を合体させると偶然的であり、これこそが主体的な我の存在だといいたいのだ。可能性は関係のカテゴリーの相互性、現実性は同じく実体性、そして、必然性は因果的な連鎖を想起させるので因果性。いずれにしても、関係のカテゴリーと様相のカテゴリーを構成する要素、その順番がなにゆえずれているのか。このずれに秘密があるように思える。  
  
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2008年07月16日

存在の科学   人間不死学説  心のふれあいは相互関係  どのカテゴリーが私なのか  物理宇宙も他人のひとり

存在の科学   人間不死学説  心のふれあいは相互関係  どのカテゴリーが私なのか  物理宇宙も他人のひとり

  カント哲学のカテゴリー。量、質、関係、様相の四つのカテゴリー。おのおの三つの内訳を披露すると、量は単一、数多、総体。質は肯定、否定、制限。関係は実体、因果、相互性。そして、様相のカテゴリーは可能性、現実性、必然性だ。ここで相互性に着目。押したら同じ力で押し返されるという作用反作用の法則。こうやって、力が伝達する。力には方向があるから、原因と結果の因果性になってしまう。ところが、極微の世界、瞬間の世界では押すと押されるがつりあっていてフェアである。クッションにこしかけると、クッションがくぼむ。座ったのが原因で、くぼんだのが結果だと鼻のきく刑事は叫ぶ。極微の瞬間の世界では、座ると同時にくぼんでいる。同時に相互作用しているのだ。原因も結果もそんな順序は糞食らえ状態。つまり、密着して直接感じ、ふれあう。近くのもので、細かいやつらはこんな相互作用であり、自分が直接体験したものも相互作用だ。ところが、ちょっと離れて遠めでみてみる。大きいもの、離れているものは、どうも原因と結果の因果関係に見えてしまう。そこに同時ではなく、時間が生じるのだ。だから、実体験は相互作用。あたまで知性的に考えたり、間接的に考えるのは因果作用だ。ひととひとのふれあい。私が他人と同じ目線で互いに人格として認め合う関係になると、この心と心の相互作用が発生。ところが、間合いをとって、ちょこっと客観的にみると、因果関係になってしまう。ややもすれば、こうすればこうなるという道具っぽい扱いになる。手段と目的に分離しちゃう。


  私の意識はブラックホールで、しかも、宇宙だといった。太郎君も太郎君ワールド、つまりは宇宙だ。そして、この広大無辺な物理宇宙もある。みんな私、他人、物理宇宙。みんな互いにことなった宇宙。とりわけ、この物理宇宙だけがちょっと異彩はなった他人である。だから、太郎くんとも相互関係になれるし、物理宇宙と相互関係になれる。因果関係にもなれる。基本的には以前お話したが、異なった宇宙が接すると、時間が発生。つまりは因果関係がうまれるのだ。これを相互関係にするには密着、細かく、近くないといけない。おそらく、太郎君と斎藤くんの宇宙が一体したとき、友情なり愛が芽生える。人間の死とは、物理宇宙との一体化、友情関係である。


  相互作用、作用と反作用とのあいだに平行世界があるとお話した。お尻とクッションの同時性には、方向性がない。つまり、一枚のスチール写真のように、時間的な推移がない。今後よりくぼむのか、くぼまないか、もどるのか、爆発するのか、まったくもって並行世界が立ち現われているのだ。

  相互作用とは生命の意識である。この物理宇宙という他人と接触で因果関係が生じ、相互性と因果関係があわさって、実体としての自分になれる。また、極微の近傍の世界、自分の意識そのものを意識しちゃえば、それが確率存在、量子の世界であることを知る。もちろん、他人の意識を意識しても、これが確率存在だと気がつく。これが様相における可能性だ。そして、物理宇宙をまえにしたとき、それが必然的な法則であることにきがつく。必然と可能がくっついて、ここに現実性がうまれるが、じつは、この現実性とは偶然性のことだ。ああかもこうかもしれない、という可能性。こうなったらああなるという必然性。このふたつの真ん中は、たまたまこうである、という偶然性だ。だから、関係のカテゴリーにおいては実体、様相においては現実性、または、偶然性として、私自身は存在しているのだ。
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2008年07月15日

存在の科学  人間不死学説  徹底的な無、さりげない無  平行世界はどこにあるのか 

存在の科学  人間不死学説  徹底的な無、さりげない無  平行世界はどこにあるのか  
 

  ここでいきなりだが、カントのいう関係のカテゴリーについてである。太郎くんと花子ちゃんはどんな関係なのかと疑いの眼差し。そんなときは関係のカテゴリーという道具をつかって考える。この関係のカテゴリーは関係の判断からみつかった。関係のカテゴリーは三つある。カタマリとしての実体のカテゴリー、原因と結果の因果関係。そして、押したら、同じ力ではねかえされるという相互関係。これらに対応する関係の判断も三つある。定言判断はなんとかはなんとかである、という断定。二つ目に仮言判断、これはもしなんとかならばなんとかだ。そして、三つ目は選言判断といわれるもので、AはBか、Cか、Dのいずれかだという選択肢。この3番目は1と2が合体してパワーアップしたものだという。

  ここで話は無のお話。無いといっても、強烈に無いか、さりげなく無いのか、二つの種類がある。時間と空間があって、さっきまでは七面鳥があったが、いまはたべてしまってりっぱなフンになって旅立ってしまったという。また、ここにあったゾウキンはどこか海外出張中で、いまはここには無い。これらの無いはさりげないソフトな無だ。この無に匹敵するのが、ヘーゲルの否定の否定は肯定の原理だ。ゾウキンはゾウキン以外のものを否定しまくって、ここにあるゾウキンになる。雑巾はふきんではない、おっぱいではない、などなど。あくまで、この物理宇宙に存在しているものを経由して自分に帰ってくる。ところが、徹底的な強烈な無とはちょっとちがう。とことん無いのだ。時間も空間も自然界の物理法則すら無い。逆にいうと、別の次元にあるくらいこの次元にはないもの。そんな徹底的な無が宇宙のどこに漂っているのか。ブラックホールである。時空間、物理法則が壊れている。その代わり、この宇宙にはない別の法則が支配する宇宙でもある。だから、徹底的な無なのだ。無とは一切のカタマリ、実体を排除した純度100パーセントの関係である。世界の中心でもあり、自己関係のきわまったやつ。これは私にほかならない。だから、私の意識とはブラックホールなのだ。有に邪魔しないし、有を邪魔しない。自由なのだが、これまた、私の自由意志と結びつく。ただの無ではなく徹底的な無が私という意識体だったのだ。無とは関係そのものであり、関係とは実体なきただの波。つまり、量子力学のいうミクロな世界の確率存在だ。電子の位置は確率的に存在している。何パーセントの確率で上にあり、何パーセントの確率で下にある。ひょっとしたら、上かも知れず、右かもしれない。これはパラレルワールド、平行世界だ。無は関係であり、実体なき波であり、平行世界だった。こんな平行世界は身の回りにうようよしている。あれかこれかの平行世界は判断でいえば、選言判断である。選言判断が形をかえて相互性のカテゴリーになった。つまり、相互作用の法則だ。力を加えると、微細な世界では相互作用によって、同じ力で跳ね返される。こんな微細なやり取りのなかに平行世界があるのだ。
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2008年07月14日

存在の科学   人間不死学説  どっちの宇宙が先か  夢の必要性

存在の科学   人間不死学説  どっちの宇宙が先か  夢の必要性

  高エネルギーの点が爆発を起こす。そして膨張し、この宇宙ができた。宇宙の最果ては私の目にその映像が届くまで時間がかかる。光の速度で何億光年。つまり、私が宇宙の果てをみているとしたら、それは宇宙誕生の爆発の瞬間かもしれない。最初の点があり、爆発をおこした。その点の内側から、爆発前から見ていたのだ。これがプレビッグバン、ビッグバン以前説だ。私はビッグバン以前の宇宙に住みつき、同時にビッグバン後の宇宙に住んでいる。要するに、ビッグバン、宇宙誕生の前後なんて関係ないのだ。

  世界でもっとも小さい長さはプランク長さだという。この長さに達した情報量は泡となって壊れる。ところが、最近の研究だと、どうやらプランク長さよりも小さな世界にこの宇宙の全情報量が含まれているらしい。極微の世界に、極大の宇宙丸ごと含む。モノが大きい小さいなんて関係ない。

  ブラックホールは質量が大きいくせに、体積が小さい。いわゆる、濃密なのだ。こんなブラックホールに迷い込んだら押しつぶされて、ぺちゃんこ。ぺこちゃん、ぽっこちゃん、ぺちゃんこちゃん。ところが、どうやら、われわれの見えない事象の地平線のなかに、その質量に比例した大きさの空間が広がるという。要するに、そこではおしつぶされないゆとりある空間ができている。これってただの宇宙だ。このわれわれの住む宇宙もブラックホールかもしれないのだ。

  生命の意識もブラックホールだといったが、それなら生命の意識は宇宙だということになる。この宇宙には突如ブラックが出現したり、ベビーユニバースが誕生するという。そしてまた、ブラックホールが消滅したりもする。われわれの住む物理宇宙のなかに赤ちゃん宇宙が誕生したというのだが、じつに、宇宙がブラックホールならば時間の前後関係もないはず。つまり、この赤ちゃん宇宙にとっては、われわれの物理宇宙が自分の内部に誕生したとみえるかもしれない。どっちがどっちの宇宙を包み、どっちが先で後なのかなんてない。よって、私という意識、さいとうさんの意識も物理宇宙と異なる法則をもつ別宇宙とするなら、この物理宇宙の内部であとから発生したと考える必要もない。もっとも、この考えがもっとも常識的ではある。

   個別的な私はこの物理宇宙に包まれる別宇宙である。このとき、互いに異なった法則、論理を調停するため、一元的な直線時間と、分岐するたくさんの平行時間がうまれる。時間と平行宇宙といってもよい。そして、私は覚醒時には、もっぱら、この物理宇宙に主導権を与え、直線宇宙を中心にそえる。この直線時間が公共空間をうみ、事務的手続きをうむ。これに対して、私は覚醒時に、ときに、平行宇宙を導入する。すると、そこには、ひょっとしたら私だったかも、と相手の気持ちになって考えるようになり、他人が出現する。ひとの気持ちを思いやったり、他人への温情の世界、これが平行世界が主導権をもった世界だ。さらに、夜はふとんに入って寝る。夢をみるのだが、夢はえてして脈絡なく、直線時間ではなく、どっちかというと、ひょっとしたらの平行世界が主導する世界だ。

  現代においては、その昔とちがって夜も明るい。つまり、昼のように活動する時代だ。だから、夜の夢の平行世界は少なく、そこにも直線時間が支配している。温情ではなく、事務的手続きの世界。夢ではなく、現実を重視せよという。夢はおまけなのか。無駄毛なのか。そもそも、無駄毛だって無駄ではない。この世には無駄なものが一切ない。夢もまた、私の宇宙とこの物理宇宙をむすびつけるのに必要な平行時間なのだ。そして、夢とはイメージであり。ひょっとしたら自分もああなっていたかも、という平行世界。これが温情を生み、テレビニュースの向こうの悲惨な現実をリアルにイメージする力なのだ。夜がなくなり、夢のなくなった世界。これが世界の元凶である。
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2008年07月13日

存在の科学  人間不死学説 夢と帳尻

存在の科学  人間不死学説 夢と帳尻

  宇宙論のお話から。プレビッグバン説というものがある。そもそも、ビッグバンとは、高エネルギーの点が突如爆発膨張し、いまだ、この宇宙は膨張しつづけているという説。プレビッグバンとは、それじゃビッグバンの前にはなにがあったのか考えるのだ。ビッグバンによって、いまだ宇宙は膨張しているなら、遠くの宇宙はあまりにも離れているので、光の速度で私の目に到達するまで数百億年かかったりする。宇宙の果てがみえるなら、おそらく、それはビッグバンしたその瞬間の映像だ。つまり、われわれの宇宙の果てはビッグバンの瞬間。いい方をかえれば、ビッグバンがおこる最初の点の内側から、その瞬間をわれわれは観察しようとしている。われわれはまだ、ビッグバンがおこる点の内側から眺めているともいえる。また、もうすでにビッグバンが起きて膨張しているともいえる。ビッグバンの先でも後でもどっちでもよいのだ。はじめも終わりもないない宇宙があるだけ。

  さらにもうひとつ。こんどはモノの大きさについてである。世界でもっとも小さい単位とはなにか。これをプランク長さという。プランク長さに達すると、情報は泡になってこわれるのだ。ところが、最近の研究だと、どうやら、このプランク長さ以下の世界では、この全宇宙の情報量が詰めこまれているという。ようするに、プランク長さになったときだけ、壊れるのだ。これは小さいもののなかに、大が入っているということ。世界最小に世界全部が入っていること。もはや、小は大につながっていたのだ。

  またまたもう一つ。ブラックホールは見えない。人間がどうやっても観察できない線を事象の地平線という。ブラックホールは質量は大きいくせに、体積が小さい。だから、濃縮されて押しつぶされていしまう。ところがこのわれわれが見えない事象の地平線の広さはブラックホールの質量に比例しているという。つまり、質量がおおきければそれなりのゆとりスペースがあるというのだ。これって要するに、ただの宇宙。われわれに住む宇宙となんらかわらない。だから、このわれわれの宇宙だってブラックホールだといえるし、また、ブラックホールを宇宙だといえる。

  以前から、生命の意識、意志は強大な重力であるブラックホールだといってきた。われわれの住むこの宇宙もブラックホール。言い方を変えれば、生命の意識は宇宙だし、ここも宇宙だ。異なった宇宙が共存し重なっているのである。宇宙には法則がある。この宇宙には物理の法則が支配する。幾何学的論理でもよい。ところが、やまちゃんという生命体の意識も宇宙だから、別の法則、ルールがある。やまちゃんはときに物理法則に反して動く。計算不可能な動きをする。そこで、ことなった法則、論理、ルールが重なる。このとき、たとえば、野球サッカーのルールを混ぜたとき、これを調和せんがために、時間をかけてこねくりまわす。時間が発生する。さらに、ああでもなこうでもないといろんなケースにわける。これが平行宇宙をつくる。この宇宙に生命意識という別の宇宙があるから、時間と平行宇宙を発生させているのだ。

  ハルトマンのいう理念的存在であるいろんな価値。このなかで幾何学論理や数の世界はこの宇宙の法則。精神だの、美しいという価値は別宇宙である意識体のもの。実在的存在はもちろん、この宇宙のことである。さらに、普通名詞はこの宇宙。指標詞、指示詞であるこれあれわたしなどは、どうもおかしい。こんな指標詞がうまれるのは、別宇宙同士がミックスし、その重なり合った部分があるからだ。又、定言命法は山田君のブラックホール宇宙の法則だ。仮言命法は、もしなんとかならばなんだとだろうという因果律の世界。つまり、時間的要素一杯であり、この物理宇宙と山田君ブラックホール宇宙がミックスしたところにある。これが欲求となってあらわれるのだ。

   生命ならば寝るし、覚醒する。寝ると夢を見るが、夢とはえてして、時間感覚がおかしいし、脈絡もない世界。じつは、覚醒時は山田君の意識、ブラックホール宇宙はこの物理ブラックホールと重なり、時間と平行世界を発生させている。ところが、睡眠時は、山田君のブラックホール宇宙は物理ブラックホールからちょっと離れて行く。だから、時間と平行世界のうち、時間が弱まって、平行世界が強まるのだ。この平行世界が強まった世界こそが夢である。ああかもしれなかった、という世界を見るのである。
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2008年07月12日

存在の科学  人間不死学説  なぜ、ワープできずに連続した 動きなのか

存在の科学  人間不死学説  なぜ、ワープできずに連続した

動きなのか

  なんでワープできないのか。これには宇宙的な理由がある。以前お話したが、人間を含めた一般的生命体の意識とか、感じることは強力な重力、つまりは、ブラックホールだといった。からだの神経には微弱な電気パルスが流れ思考する。意識とか、感じるということは、この微弱な電気パルスではない。微弱な電磁気力だから、これを増大させるためには時間領域を分厚くする。これはあたかも、惑星の重力が小さい。だから、重力が微弱だから質量を大きくさせてほどよい重力にし、宇宙の力のバランスを得るのといっしょ。電磁気力はそれ自体強いので、大きい惑星の表面であつまり、もっと強大な電磁気力、すなわち、プラズマをつくる。ただし、生命では真逆になる。つまり、電磁気力が微弱だから、強大な重力、すなわち、ブラックホールを作るのだ。このブラックホールは重力は無限大であり、相対性理論によって、時間が止まっている。

  さて、私はいつものように右手をあげる。いきなり上げた状態にこぶしはワープできない。そこにいくまでのプロセスを連続的に経過しないといけない。まず、右手をあげるまえの、肩のうえの空間。ここには、波が漂う。この波動関数を収縮させると粒になる。量子力学である。これがモノを感じることだったが、じつは、右手をあげるという実践もまた感じることによってなされる。右肩のうえの波をブラックホール意識体によって、無時間にさせて一枚のスチール写真にする。つまり、粒子の位置が確定する。波動を収縮させて粒にすると、そこに突如右のこぶしがあらわれるのだろうか。ところが、それはちがう。ブラックホール意識は無限大の重力だ。無限が関与しているのである。哲学者ラブジョイがいうように、動いているものと止まっているもの。無限に小さな動きが止まっているといった。つまり、無限をはさむと連続するのだ。だから、ブラックホールの無限性が関与しているゆえに、連続的なプロセスを歩まざるをえないのだ。よって、右のこぶしが持ちあがる連続的なプロセスを経るのである。
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2008年07月11日

存在の科学   人間不死学説  生命と宇宙生命はすべて真逆    あまりにも身近にいる宇宙生命体

存在の科学   人間不死学説  生命と宇宙生命はすべて真逆 

  あまりにも身近にいる宇宙生命体




  一時的に仮定することがある。とりあえず、これを昆虫ということにして、話を先に進めよう。なにかを一時的にも信じて固定することで、先へ進む。数学だって、最初に公理がある。大大前提のもので、ここからいろんな法則がうまれる。仮説、仮設、一時的、とりあえず、これがあってこそ、前進できるし、その先にまっているだろう真実、真理を追い求める。ところが、このとりあえず、一時的に仮定するというのがくみあわさったところで、真実、真理は永遠の先だ。じつは、絶対的な真実、真理はもうすでにあらわれていた。この一時的、とりあえず仮定したこと、そのことだったのである。灯台もとくらしというように、自分の先に真理ありではなく、真理は目の前にあった。これを昆虫ととりあえずみなそう、という一時的な定立。これは心からそう思う信念あってこそ。信念が存在を生み出す瞬間だ。たしかに、一時的なものは相対的である。ところが、ここに絶対的なものがある。だから、相対的絶対主義と名づけたい。

  ヴィトゲンシュタインのいう生活形式、さらには、フッサールのいうその時々のものを信じちゃう信憑定立。そもそも、知性、思考と意識、感じること、信じること、を区別すべきである。あたまで理屈で考えたり、イメージすること。これは脳の神経を流れる微弱な電気パルスによるもの。目の網膜刺激して電磁パルスに変換し、それを知性で大根と認識する。これで大根の存在を知ることになろうか。大根の存在感は脳の微弱な電磁パルスでは得られない。強力な重力、つまりは特異点であるブラックホールが関与している。そして、大根にだって、重力、引力があり、質量がある。これとダイレクトにつながるのが、私の意識の正体であるブラックホールによるものなのだ。

   さて、そんな意識、感じる強力な重力であるブラックホールと、考えるイメージするという微弱な電磁気力。この知性の原因である微弱な電磁力を載せている乗り物が、小さな引力、小さな質量である肉体である。これがいわゆる我々の知る生命体である。

  さてこんどは目をこの大宇宙にむけてみよう。なんで、大宇宙にはあまりにもデカイ物体がうようよしているのか。土星だって、太陽だって桁はずれにデカイ。じつは理由がある。そもそも、重力自体が微弱すぎるのだ。ブレーン理論によると、三次元空間は五次元空間に浮いている。お隣の三次元空間に重力素粒子グラビトンは逃げてしまう。だから、このわれわれの三次元空間にある重力はよわくなってしまう。弱い重力をカバーして力の均衡維持せんがために、大質量でそこそこの重力がないとこまる。だから、物体はでかくなるのだ。質量がでかくなって、体表面積もふえれば、もともと強烈な力である電磁気力がさらなるパワーをもって巨大惑星などなどに付着。これがプラズマになって、宇宙に強大な電磁気の場を作り出す。

  さて、ここでおきづきであろうか。巨大惑星、巨大宇宙は微弱な重力と強大な電磁気力、つまりはプラズマであった。われわれちっぽけな生命は微弱な電磁力と強大な重力であるブラックホールであった。なにもかも真逆なのだ。われわれ生命は微弱な電磁気力で思考し、強大な重力で意識する。もしも、大宇宙も宇宙生命体であるならば、こういうこと。微弱な重力で思考し、強大な電磁気力、つまりはプラズマで意識する生命体。そして、われわれ生命は微弱電磁気力を載せる小さな重力をもつ肉体がある。同じく、宇宙生命は微弱な重力を載せる小さな電磁気力をもつ肉体があるはず。これが小さなプラズマ発光体、いわゆるUFOであることにお気づきになろうか。ある意味、小さなプラズマはわれわれ生命以外のすべての物体だともいえる。だから、物体というのをいい方をかえれば宇宙生命といえよう。宇宙誕生のその瞬間、四次元宇宙は膨張、残り6次元はコンパクトにミクロ世界におさまっている。四次元がいわゆる物体、6次元が生命だといった。最初からみんなの共通する私がいた。そして、私以外の物質宇宙があった。この私と物体といういい方をかえる。私たち生命体と宇宙生命体とがあった。これが分裂しただけ。だから、私、あなた、かれらといういわば生命体の身の回りには、ふつうに宇宙生命体がいらっしゃる。そこにもあそこにここかしこに。人称代名詞が生命体ならば、非人称代名詞は宇宙生命体だ。私は宇宙生命体を呼吸し、食べている、または呼吸され食べられているとまでいってもよい。通常生命と宇宙生命以外にはなにもない、だから、すぐそこに宇宙人ならぬ宇宙生命体はいらっしゃる。
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2008年07月10日

存在の科学  人間不死学説  生命の意識と宇宙とは真逆       重力つながりで存在感を得ている

存在の科学  人間不死学説  生命の意識と宇宙とは真逆  

    重力つながりで存在感を得ている

   この世界、心と物があるという厳然とした事実を直視する。直視しすぎて目がつかれた、ギブアップ。ギブアップには早すぎる。しかも、心と物は真逆だといいたい。

  宇宙には四つの力あり、と現代物理学は主張。原子核をお握り状態にしてくれる強い力。原子の間も働く弱い力。びびびっという電磁気力。そして、最後に、引力だ。このなかで、最後の引力、重力だけがちょっと特殊。きわめて力が微弱なのだ。小さすぎて他の三つの力と比べ物にならない。地球はこんなに大きいのに、わずかな電磁力に負けちゃう。相当でかくないと、質量が大きくないと、ある程度の重力がうまれない。なんで重力だけ力が弱いのか。ここで相対性理論だと空間のゆがみが重力だと説明。さらに、現代においてはランダル博士の五次元理論である。五次元に膜のように三次元が浮いている。三次元を膜に喩えるが、五次元空間をサンドして、お隣に別の三次元空間という膜がある。このとき、重力はこの三次元の膜上からはみだして、五次元空間を通過、お隣の三次元の膜にたどり着く。この重力の素粒子がグラビトンといわれるもの。だから、力がわれわれの住んでいる三次元空間から逃げちゃうから弱いというのだ。しかも、われわれの住む三次元空間内でも力は互いにつりあってる必要がある。だから、弱い重力をふつうにするために、大きな質量の惑星、恒星がたくさんあるのだ。

  こんどは生命の意識について考察する。たとえば、人間は脳などの神経組織に電気パルスが走る。それでいぶかしげに思考できる。思考することと、なにかを意識し、感じることは別だ。思考は神経内の微弱な電気パルスによってなされる。ここで注意である。なんで微弱なのか。電磁気力が微弱な要因はどこかににげているからではないか。電磁気力はたとえば、友人を視覚的にとらえたときの光粒子、フォトンが、網膜を刺激、ここから電気パルスになって脳に伝わる。いかにも微弱な電磁力。それでは、この微弱さをある程度でかくするために、こんどは質量をおおきくするのでなく、三次元空間の物体をでかくするのでなく、時間領域を分厚するのだ。これが過去、現在、未来という厚みをもった時間意識、時間領域を作るのだ。そして、この生命の意識においては微弱な電磁力による思考だけでなく、強い重力が存在する。この強い重力こそが、特異点、つまりはブラックホールであり、意識の正体だ。ある意味、時間の分厚さという意識は、ブラックホールのことだ。

  話を元に戻し、大宇宙に漂う巨大質量の惑星。質量がでかいのは、重力が微弱だからこれを大きくするためだった。ところが、巨大質量の物体が三次元空間を占め、ある程度の重力をもつようになるが、依然、電磁気力は強い力を保っている。大質量の物体にけっこう強い力をもつ電磁気力が発生。こうやって、強力な電磁気力、つまりは、プラズマをつくる。おそらく、この大宇宙は強力な電磁気力、プラズマでみたされている。だから、この大宇宙を生命にみたてるなら、このプラズマが意識であり、微弱な重力が思考力ということになる。つまり、大宇宙と中くらいの生命体とは、ある意味真逆なのだ。

 ここで、大宇宙の意識体を膨張意識、中宇宙の意識体を収縮意識と名づけたい。

  ハイデガーのいう聴従という概念はまさにこのことを言い当てていたように思われる。存在そのものの沈黙の声に聞き従うことが思索することとかれはいう。存在とは質量ある物体、しかも、その最たるものが強い重力であるブラックホール。このブラックホールが時間の幅を作り、意識となって語り出す。微弱な電磁気力がこの情報を得て思索する。なにゆえ、網膜から入ってきた光が電磁パルスに変換されて外界の物体の存在感を得るのか。じつに、目の前の大根にも微弱な重力がある。私の意識は強い重力であるブラックホールだ。だから、重力間の関係であり、重力つながりで大根の存在感を私の意識は得ているのである。存在を感じるとは、ただの電磁パルスによる思考力ではない。
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2008年07月09日

存在の科学   人間不死学説  私の物自体と私以外の物自体   私以外の他人、動植物は宇宙膨張の歯止めのための収縮力  も のを立体的にみる必要性

存在の科学   人間不死学説  私の物自体と私以外の物自体

  私以外の他人、動植物は宇宙膨張の歯止めのための収縮力  も

のを立体的にみる必要性

  宇宙誕生の瞬間、最初は点のなかに10次元つまっていた。このうち、縦、横、高さ、時間の四つの次元が膨張。残り6次元はミクロの点におさまって膨張せず。これがビッグバンである。残りの6次元が私、膨張した四次元がいわゆる大宇宙になる。

  宇宙誕生のとき、すでに、私はいた。私という物自体と私以外の物自体。いまも私がいる。私自身が落ちこんでいるとき、宇宙のいろはブルーになる。うれしいときはバラ色だ。寝ているときも覚醒時も、生死を越えて私と宇宙という二つの物自体がある。

  宇宙誕生のときのたった一人の私。これがひょっとしったら右に左にいったかも、を繰り返し、平行宇宙を沢山つくった。これが欠陥的には個人的な私を大量生産したことになった。だから、ここにいる個人としての私と、他人とは宇宙の初期に分岐された別世界のものである。ただ同じ私のひょとしたらバージョンだ。

  私はいま生きている。以前お話したが、生命体の役割は宇宙膨張を収縮力によって防ぐこと。ミクロの世界は波であり、確率の世界。これを感じることで、波動は粒子になり、確率ではなく位置が確定する。量子論である。ところが、宇宙膨張を帳消しにする私の意識による収縮、つまり、感じる力が弱すぎるのだ。だから、お隣の平行世界の生命、つまりは、他人や動植物という生命体が一部現われて、世界をともに収縮してくれるのだ。初期に分岐した他人の収縮力がかなり役に立つ。

  そもそも、1度分岐した平行世界は独立した波でもう2度と干渉しないというのが力学の法則。ケータイの電波も周波数がちがうと干渉しない。なんで、こんな超確率の低い奇跡が起きるのか。ミクロの世界は確率的な存在、いわゆる可能性である。マクロの世界は以前お話したが、ニュートン力学に従う必然性の世界。それでは私と等身大の中くらいの世界はなにか。可能性と必然性の中間、つまりは、偶然性。いいかえると、奇跡の世界なのだ。だから、私と等身大の中の世界は奇跡の連続。だから、お隣の平行世界が容易に干渉するのである。その現われが他人の存在、動植物などの他の生命体の出現だ。
  
   さらに、私は目の前を銅像をみるとき、ダイレクトに感じている現在化と、後ろ側を想像する準現在化がくみあわさって、立体的な銅像を認識している。このとき、後ろ側にまわりこんで見たかもしれない並行世界の私が干渉しているのだ。そうすることで、その収縮力も頂く。こうやって、生命がなぜモノを立体的にみるかというと、ひょっとしったらの平行世界の自分を登場させて、この世界を収縮させるためである。こうやって、平行世界を巻き込んで、強大な収縮力で膨張宇宙に対抗するのだ。
  
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2008年07月08日

存在の科学  人間不死学説 私と私以外の宇宙ですべてである  他人や他の動物は別平行世界の残像であり、宇宙収縮の手助けである  

存在の科学  人間不死学説 私と私以外の宇宙ですべてである  他人や他の動物は別平行世界の残像であり、宇宙収縮の手助けである  

   私はどこにても、どんな状況でも私である。そして、私以外の世界が目の前に広がっている。私と私以外のあいだにはなにもない。いわゆる排中の原理だ。こちらは肉まんであるか、肉まん以外であるかのいずれかでございます。なにも間違っていない。寝ているとき、極度に無意識状態であっても、私のまえには世界がある。覚醒時、興奮しているときも、私のまえには世界だ。私と私以外の世界をあわせて全部である。これは生死を越えた真実である。私が小さくなっても、大きくなっても、それは私と私以外の世界との境界線がスライドしただけ。実際はこんなふうに直線状をスライドするような単純なものではない。量的ではなく質的なものだ。

  もともとこの宇宙が誕生したのはビッグバンによるもの。そのとき、10次元のすべてが一点に集約されていた。そのうち、縦、横、高さ、時間の次元だけが膨張。四つの次元だけが膨張し、残る6つの次元は膨張せずにミクロな世界に閉じ込められた状態だ。このビッグバン誕生時にすべてがあった。そのうち、四つの次元は私以外の宇宙になり、残る6つの次元が生命であり、しかも、私だったのである。生きとし生けるもの、生命はたったひとりの私だった。しかも、宇宙誕生のときに、私と私以外の世界があった。

  それではなぜ、昆虫、アメーバ、他人も含めて複数の固体として私がいるのか。これが宇宙誕生からいまにいたるまでの平行宇宙への分岐だったのだ。ひょっとしたらその私は右にいったかもしれない。ここで右と左に世界はわかれる。こうやって、宇宙と私だけだったが、ひょっとしたら、こうしていたかもしれない私がどんどん分岐して新しい平行宇宙を作った。ところが、その膨大な平行宇宙をつくり、そこにオリジナルな私がどんどん枝分かれしたのだが、なぜだか、そのんな複数の私がひとつの世界に投影されるようになった。もちろん、平行宇宙の増大と、その膨張。そこにいる生命そのものとしての私は収縮することに使命をもつ。平行宇宙に一人の私だとおそらく収縮力が少ない。だから、はじめは物体の引力となって投影されていたが、いつしか他人となって現われるようになったのだ。宇宙収縮力の不足ゆえに、別の平行宇宙が干渉する。これが個人としての私以外の他人やら動植物、さらには物体の引力である。

   



    
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2008年07月07日

存在の科学   人間不死学説   見ると行動はいずれも収縮          すべてを先取りして次に狙いうち  ぶれが立体視をうむ

存在の科学   人間不死学説   見ると行動はいずれも収縮      
   すべてを先取りして次に狙いうち  ぶれが立体視をうむ

  本の全体は、文があつまったもの。部分から作られた本全体。本を読み終えて、こんんどは細部を見てみる。主人公の言動を解釈だ。部分から全体、全体から部分。いったりきたりの堂々巡りの旅。これが解釈学的循環だ。これが認識だけでなく、存在そのものの構造だといったハイデガー。ここからが問題の核心だ。

   私はお尻をださなかった。お尻を出した自分の宇宙も、平行して存在している。平行宇宙論である。じつに、お尻出さないことを選択したのは賢明だが、出した世界、半分出した世界、選択しなかった並行世界は瞬時に経由して、その人生あゆんだ私は死滅して、いままさに戻ってきたのだ。こうやって、なにかを選択し行動するとは、選択しなかったものを瞬時に経由し、消滅させたことに等しい。目の前に紙切れが風で動く。宇宙全体を経由し、関係して、うごいた。これはあくまでも無機的な紙切れのお話。全宇宙関与であるが、生命の意識は全平行宇宙経由、関与なのだ。これが存在論的な解釈学的循環だといいたいのだ。すべての全体を瞬時に体現し、一つに絞ったからだ。

  つぎは西田幾多郎の行為的直感をからめたい。直感し、感じるとは、以前にお話したが、ミクロ世界の波、波動関数を収縮させて粒子にし、位置確定することだといった。量子論である。認識する、感じるとは収縮だ。それでは行為するとはどういうことか。これまた、収縮だといいたいのだ。お尻をださなかったという道、世界にいる私。お尻をだした私の平行世界を瞬時に経由し、消滅させたといったが、この自分の選択しなかった平行世界を瞬間消滅させてというのが、他ならぬ収縮だといいたいのだ。だから、ある意味、お隣の平行世界の意識体によって、私の住むこの世界は収縮されている。だからこそ、この世界は事実的に存在しているともいえる。行為と直感は同じ収縮現象だ。

   さて、メルロポンティのいう、ぶれ、を考えあわせたい。たしかにカメラのぶれと同様、私が感じた、知覚したものはぶれまくっている。ただこのぶれこそが新しい意味をうむ。友人の背中を見えない。ひょっとしたら、後ろに回りこんで背中をみたかもしれない。そんなひょっとしたらの平行世界があるのだが、そこにこの世界の私が食い込んでいる。つまりは、ぶれているのだ。だから、私は友人を立体的に見ることができる。ただ、想像しているだけなら、立体像にこんなリアリティがあるはずがない。実際に手元のぶれによって、平行世界に片足つっこんでいるのだ。
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2008年07月06日

存在の科学   人間不死学説   見ると行動はいずれも収縮          すべてを先取りして次に狙いうち  ぶれが立体視をうむ

存在の科学   人間不死学説   見ると行動はいずれも収縮      
   すべてを先取りして次に狙いうち  ぶれが立体視をうむ

  本の全体は、文があつまったもの。部分から作られた本全体。本を読み終えて、こんんどは細部を見てみる。主人公の言動を解釈だ。部分から全体、全体から部分。いったりきたりの堂々巡りの旅。これが解釈学的循環だ。これが認識だけでなく、存在そのものの構造だといったハイデガー。ここからが問題の核心だ。

   私はお尻をださなかった。お尻を出した自分の宇宙も、平行して存在している。平行宇宙論である。じつに、お尻出さないことを選択したのは賢明だが、出した世界、半分出した世界、選択しなかった並行世界は瞬時に経由して、その人生あゆんだ私は死滅して、いままさに戻ってきたのだ。こうやって、なにかを選択し行動するとは、選択しなかったものを瞬時に経由し、消滅させたことに等しい。目の前に紙切れが風で動く。宇宙全体を経由し、関係して、うごいた。これはあくまでも無機的な紙切れのお話。全宇宙関与であるが、生命の意識は全平行宇宙経由、関与なのだ。これが存在論的な解釈学的循環だといいたいのだ。すべての全体を瞬時に体現し、一つに絞ったからだ。

  つぎは西田幾多郎の行為的直感をからめたい。直感し、感じるとは、以前にお話したが、ミクロ世界の波、波動関数を収縮させて粒子にし、位置確定することだといった。量子論である。認識する、感じるとは収縮だ。それでは行為するとはどういうことか。これまた、収縮だといいたいのだ。お尻をださなかったという道、世界にいる私。お尻をだした私の平行世界を瞬時に経由し、消滅させたといったが、この自分の選択しなかった平行世界を瞬間消滅させてというのが、他ならぬ収縮だといいたいのだ。だから、ある意味、お隣の平行世界の意識体によって、私の住むこの世界は収縮されている。だからこそ、この世界は事実的に存在しているともいえる。行為と直感は同じ収縮現象だ。

   さて、メルロポンティのいう、ぶれ、を考えあわせたい。たしかにカメラのぶれと同様、私が感じた、知覚したものはぶれまくっている。ただこのぶれこそが新しい意味をうむ。友人の背中を見えない。ひょっとしたら、後ろに回りこんで背中をみたかもしれない。そんなひょっとしたらの平行世界があるのだが、そこにこの世界の私が食い込んでいる。つまりは、ぶれているのだ。だから、私は友人を立体的に見ることができる。ただ、想像しているだけなら、立体像にこんなリアリティがあるはずがない。実際に手元のぶれによって、平行世界に片足つっこんでいるのだ。




     一元論と排中律についてである。私は一体だれなのか、と自問自答してみる。名前もあるし、役所に行くと戸籍だってある。記憶喪失で名前も思い出せず、謎のくろずくめの男たちに追いかけられているのはSF映画の主人公。もちろん、黒ずくめの男たちは、虫眼鏡をもった昆虫採集中の少年には要注意である。黒いから太陽光でこがされてしまうかもしれない。スーツを虫に食われたのはいが、虫眼鏡でやかれたら上司に報告するときなんて弁明すればよいかだ。少なくとも、私はジェットコース−ターで肩を耳たぶにふれるほど、硬直し、ひきつっているといもあれば、無人島にてヤシノミを食っているときだってある。いろんな場面でいろんな私がいる。そんなときは、いろんな世界が目の前に広がっている。私と宇宙について考えて行きたい。


  まずは、一元論についてお話する。まさに世界とはこれなんだ、と歯切れよく威勢がよい。もごもごしていない。納豆食いながら、たちつてと、はちょこっと厳しいことは、特殊部隊の訓練を受けたものなら皆が知っていると思う。古くは古代ギリシャのパルメニデス。あるものはずーっとまえから今後もずーっとあるんだよ。無いものはずーっと前から今後の無い。単純明白、明朗会計。なんだか中国語のような雰囲気だ。パルメニデスのゼノンは、同じくあるものはあると主張。そして、あるはたった一つだという。コンビニにはいって、イレギュラーに靴下購入。それでも、いろんな靴下がある。たくさん、いろんなというのは見せかけの錯覚。この世界は存在しかない。また、動いているものはないという。もしそうなら、陸上選手困ってしまう。たしかに、ゴールまで動いている、否、走っているように見える。動くことや運動とはこういうことだ。沢ガニが動いている。いままさに、山を越え、険しい谷を超え、丸まった靴下を越える。沢ガニがここにいる、といった次の瞬間、もうすでにそこにはいない。ちょっと先に進んでやがる。つまり、そこにあると同時に無いというのが、運動であり動き。あると同時に無いとはなんたる矛盾か。あるものはある、をモットーに生きておりますということから、運動、動きは錯覚だろ結論する。

  近世に入ると哲学者ホッブス。唯物論的一元論である。すべては物体であり、あたかも、ビリヤードの玉が転がるごとくなんだか法則にしたがっているという。しかも、人間は利益追及を原動力としているという。損得感情で動いちゃう。こうやってできた国家を人工国家。サイボークのような国家だというのだ。哲学者スピノザは汎神論的一元論。たしかに、この世界を見まわすとどうやら物体と精神がある。精神とはいわば心である。ほんの気持ちだけ、ということ手ぶらでお歳暮。純度100パーセントの気持ちも珍しい。まずは宇宙は神様だという。しかも、この神様は見る角度によっていろいろに見えるのだが、人間はふたつの指定席からしか眺められない。ここからみると、精神だし、あそこから見ると物体にみえるのだ。

  ドイツ観念論においては哲学者フィヒテ。私は私だ、と授業中に叫んでみる。あくびしていたものは開いた口がふさがらず、おなら最中だったものはもちろん開いた穴がひらっきぱなしで非常事態。私は私であるというのはまったくもって確実。ごもっともである。こんどは私は私以外のものではない、という。疑いの眼差しでみるのだが、やっぱりその通り。そして、最後に、私は一部は私以外、私以外の一部は私だ、なんていいだす。つまり、私は私以外のものと一体しようとする。たしかに、路上で白馬と一体化しようと、お尻擦りつける王子様を見かけたり、郵便ポストとの一体化試みるハナタレ小僧だってみかける。ただ、私とアンチ私との融合には一に努力、ニに努力である。だから、フィヒテ哲学は私とバナナの一体化にはそれなりの努力がいるから努力の哲学といわれる。これに対して、哲学者シェリングは天才の哲学。一瞬で、直感的に宇宙と一体だ、とさりなく言う。しかも、絶対同一の哲学を標榜。すべては同じものだ、くそもみそも、おけらもあめんぼも、みんなみんな同じものだ、という哲学だ。

  現代においてはどちらかというと心とからだの問題にうつる。そして、心と肉体はひょっとしたら同じものというのが心身一元論である。一番最初、一発目には心とも物体ともいえないなにかがある。そして、時と場所によって、これが心のイメージになったり、かちこちの乾燥うんち風な物体になったりする。最初はどっちでもない中間的なものだから、中性的一元論という。また、哲学者フレーゲのいう意義と意味をはっきりわけてみる。水は液体である、といえば正解。真という値がくっつく。文が真だの偽だのいうのは、その文の意味だという。ところが、H2Oは液体だ、という。このとき格好つけてH2Oといったのだが、意味は同じだけど表現がちょっとクール。つまり、意義はちがうのだ。心と肉体、とりわけ、脳は意味はいっしょだけど、ただ意義がちがうだけという考え。これを心脳同一説というのだ。さらに、心は物理法則に従わない。山田さんの心の働きは計算できない。だから、非法則的だ。それでいて、肉体という物体を動かしたり、肉体からの影響でくすぐったく感じたりしちゃう。肉体と同じように物理的だ。これが非法則論的一元論だ。法則はないけど、心と肉体はなにかひとつのものだ、というのだ。


  さて、こんどは排中律についてである。排中律とはどんなことをしてもぜってい正しい文である。こちらはエスプレッソコーヒーか、エスプレッソコーヒー以外かのいずれかでございます、と店員が説明。たしかに間違ってはいない。エスプレッソコーヒーとそれ以外とのあいだには隙間がない。真ん中を排除するから排中律である。排中律はだれがなんといおうと正しい。胸をはって主張できるし、背中にシップも張っちゃう。貼ってもらうときは、もうちょっと右、と指図するのでなく、自分からからだをうごかしたほうがよい。排中律にもいろいろと種類がある。すべての文は真か、偽かのどっちかだ、というのが一つ目。二つ目は、すべての文は真でも偽でもないということはない、という回りくどいもの。急いでいるときは回りくどくいえ、とよくひとはいう。そして、三つ目は、すべての文はpであるかアンチpであるかのどっちかだ、というもの。一つ目は、真と偽の間にわけわからない変な値をかってに入り込ませてしまう危険性あり。真と、偽と、もじゃもじゃという三つの値だ。二番目は直感主義論理というが、なんといっても、真でも偽でもないやつなんて直感的にかんじたことがない、ということ。そして、三つ目の、この文はpかアンチpかのどっちかだ、という、まさにこれこそが正真正銘の排中律だったのだ。pとアンチpはなにものもはさまらない。

   まとめ

  存在の科学  人間不死学説 私と私以外の宇宙ですべてである  他人や他の動物は別平行世界の残像であり、宇宙収縮の手助けである  

   私はどこにても、どんな状況でも私である。そして、私以外の世界が目の前に広がっている。私と私以外のあいだにはなにもない。いわゆる排中の原理だ。こちらは肉まんであるか、肉まん以外であるかのいずれかでございます。なにも間違っていない。寝ているとき、極度に無意識状態であっても、私のまえには世界がある。覚醒時、興奮しているときも、私のまえには世界だ。私と私以外の世界をあわせて全部である。これは生死を越えた真実である。私が小さくなっても、大きくなっても、それは私と私以外の世界との境界線がスライドしただけ。実際はこんなふうに直線状をスライドするような単純なものではない。量的ではなく質的なものだ。

  もともとこの宇宙が誕生したのはビッグバンによるもの。そのとき、10次元のすべてが一点に集約されていた。そのうち、縦、横、高さ、時間の次元だけが膨張。四つの次元だけが膨張し、残る6つの次元は膨張せずにミクロな世界に閉じ込められた状態だ。このビッグバン誕生時にすべてがあった。そのうち、四つの次元は私以外の宇宙になり、残る6つの次元が生命であり、しかも、私だったのである。生きとし生けるもの、生命はたったひとりの私だった。しかも、宇宙誕生のときに、私と私以外の世界があった。

  それではなぜ、昆虫、アメーバ、他人も含めて複数の固体として私がいるのか。これが宇宙誕生からいまにいたるまでの平行宇宙への分岐だったのだ。ひょっとしたらその私は右にいったかもしれない。ここで右と左に世界はわかれる。こうやって、宇宙と私だけだったが、ひょっとしたら、こうしていたかもしれない私がどんどん分岐して新しい平行宇宙を作った。ところが、その膨大な平行宇宙をつくり、そこにオリジナルな私がどんどん枝分かれしたのだが、なぜだか、そのんな複数の私がひとつの世界に投影されるようになった。もちろん、平行宇宙の増大と、その膨張。そこにいる生命そのものとしての私は収縮することに使命をもつ。平行宇宙に一人の私だとおそらく収縮力が少ない。だから、はじめは物体の引力となって投影されていたが、いつしか他人となって現われるようになったのだ。宇宙収縮力の不足ゆえに、別の平行宇宙が干渉する。これが個人としての私以外の他人やら動植物、さらには物体の引力である。

   
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2008年07月05日

存在の科学   人間不死学説  ひとは死滅してどこへテレポートするのか  

存在の科学   人間不死学説  ひとは死滅してどこへテレポートするのか
 


  音楽を聴く。何のために聞いているのか。目的はない。なぜなら、聞いていること自体が目的だから。宇宙は音楽であるといった。それ自体が目的だから、外の世界は不必要。人生もまた、意識もまた、それ自体が目的である音楽だ。

  音楽は短音がただ集まってメロディになっているのではない。ある音を聞いたとき、以前聞いた音と重なってまたは、今後聞くであろう音を期待して、過去、現在、未来を融合させつつメロディが作られる。あるフレーズも、そのまえのさびの部分に戻って、関連させることで引き立つ。

  哲学者ベルクソンの純粋持続。ほんとうの時間は質が互いに内側に食いこみあってなりたつ純粋持続だといった。記憶が知覚にくいこんで、これが自分の自転車であると認識できる。過去が現在にくいこむ、現在が未来にくいこむ。過去、現在、未来がたがいに溶けこみあった状況。これは先ほどいった音楽も同様だ。それ自体が目的であるものの特徴らしい。ベルクソンもいうように、この純粋持続は人間の意識だけでなく、森羅万象のことだという。そこで、これを意識だけではなく、人生にあてはめる。これまた、互いに食いこみ、溶け込んでいる。ただ、過去、現在、未来のごった煮だけではない。時間を直線的表現し、過去、現在、未来。これらの混ぜご飯はただの無機的な物体だ。じつに生命、意識、人生はちがう。ひょっとしたら、大統領だったかも、ひょっとしたら左の道へいったかも、という可能世界、平行世界も食いこんで、溶けこんで、経由して成立する。私が右手をあげたのは、右手をあげていないほかの選択肢、その人生パターンを瞬時に経て、舞い戻ってくること。無機的物体の経由するパターンは高々この全宇宙。しかし、生命、意識体はひょっとしたらの平行世界経由なのだ。それ実現するのが量子パソコンであるが、おそらくそれは意識体であろう。人生もまた、未来が食い込み、過去も食いこむ。可能世界も入りこむ。だから、生命が死滅したとき、あたかも、音楽のメロディのごとく、さびの部分にもどって関連つけるように、意識体がその時点へと飛躍するのである。それでは人生のさび部分はどこにあるのか。

  哲学者ハイデガーは本来的実存、非本来的実存なる考えを提唱した。ほんとうの存在のしかた、本来的実存とは、自分の存在丸ごとつかむこと。そのためには、私の存在であらずの無、死に手をかける。これは死への覚悟であり、要するに、命がけの決断の瞬間である。そんな時点が人生のさび。ハイデガーもいうように、過去を全面的に受け入れ、未来を先駆け死を覚悟、そして、今をいきるという本来的実存。だから、人生を曲に喩えたとき、このときこそが、曲全体のメロディ、短音が関連づけられて集結する結節点となる。人間不滅学説における人生パターン終了者の任意点へと飛躍。じつに、この決断した瞬間に飛ぶのである。この本来的実存、真剣に命がけという瞬間がきわめて少ない世人。だから、なかなか任意点への飛躍ができないのだ。一箇所に集中的に戻ることもない。人生という曲のさびに戻ること。このさび部分が真剣な決断の瞬間、節目節目なのである。

   
posted by モノイイ ジョーカー at 14:55| 東京 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 存在の科学 サイエンス オブ ザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月04日

存在の科学   人間不死学説  道の選択とは選択しない道を瞬時に終えること  動植物は別ルートを選んだ私の瞬間的な生き様である

存在の科学   人間不死学説  道の選択とは選択しない道を瞬時に終えること  動植物は別ルートを選んだ私の瞬間的な生き様である

   私は右手をあげてタクシーをとめようとする。しかも、ドライバーの顔つきをみて、人当たりがよくないとだめだ。それでとうとう決意し、やってくるこのタクシーをとめるべく右手をあげる。ひょっとしたら左手をあげていたかもしれない。左手をあげた私は別の宇宙をつくってことなった周波数の宇宙で生きている。また、後続する別のタクシーをとめた私の世界もある。これがパラレルワールドだった。しかも、左手をあげた平行宇宙の私はいずれ死滅し、今回の宇宙、人生パターンをさかのぼった任意の時点に意識が飛ぶ。そうして、分岐するときの右手か左手かのどっちの手をあげようかと迷っていたときに戻るのだ。つまりどういうことかというと、私は右手をあげることを選択し、左手をあげた私の宇宙を消滅させた。選択し肯定するとは、選択しない否定したほうの道を死滅させる。そして、なんと、左手をあげた私の平行宇宙を瞬時に経由して、瞬時に死滅していままさに戻ってきたところだったのだ。足をあげたかもしれない別の平行宇宙も選択しなかったから、瞬時にその人生パターンを歩み、死滅し、いままさに戻ってきたところだ。つまり、無機的な岩、山、鋼鉄は宇宙全体を経由して自分に戻ってくる。一センチの距離進むためにも、あらゆる経路、山の手線経由、アンドロメダ経由など、無限の経路を経てゴールに到達するというのが数学の経路問題だった。ここが問題である。無機的なただの物体ではなく、人間、生命は有機体。有機体はひょっとしたら違う道にいっていたかもという平行宇宙のすべてを経由して分岐地点に戻ってくるのだ。この宇宙の全経由が無機物。この宇宙だけでなく、ひょっとしたらの平行宇宙を経由して戻ってきたのが有機物、生命体だ。Aさんは右に進んだんは、左、止まる、ジャンプするという選択しない別の平行宇宙を瞬時に経由、死滅してもどってきたから、右の道へ進めたのだ。

  さて、この瞬時に別の可能世界、平行世界を経由するというのがポイントだ。あっというまに人生パターンを終えて、いままさに戻ってきたが、その瞬間的な人生パターンがなぜだかこの選択した世界にかげとなってあられたものが、昆虫、動物、植物たちなのである。これらの生命体ははかなくも人間よりも極端に一生が短い。これは私の選択しなかった人生パターンの加速した姿があらわれたものだといいたいのだ。他人とは、ビッグバンと同時に誕生した私がいろんなパターンとなって現われたもの。つまり、同じひとりの私がいろんな平行世界を実現した別の私の姿だといいたい。宇宙誕生時にすでにいたのだが、ただ、肉体をもって誕生するまで待機していただけである。 



     全体性と無限、内包論理学についてである。この世界はなんで存在するのか、と超素朴な疑問をなげかけてみる。なんでそこにいるのか、と友人にいわれ、みもふたもないおもいをしたことがある。なんでうまれてきたのか、なんでパイ毛が一本しかはえていないのか。世の中は不思議いっぱいである。そのなかでもとりわけ不思議なのが、生命である。ゆで卵からかえったハンプテーダンプテー。だちょうのケツから卵出現。くじらの産卵に、さんごの産卵。テレビにくぎづけになって鼻息がちょっと荒い。生命誕生の神秘的な映像。さやからうまれでたえんどう豆も神秘。こうやって感動しすぎてカロリーを消費。あばらが浮き出てきて、ちょこっとるいそう気味。

  まずは哲学者レヴィナス著、全体性と無限、についてである。いきなり話が飛躍した。走り高飛びだったら世界新。飛びすぎてごめんなさいと、おじぎする。ひたいに風があたるのだが、エアロパーツなヒタイの形がうまく風をきっている。超高速おじぎは自他ともにみとめるまったく非実用的な荒業だ。全体と無限という言葉の違いについてここではっきりしておこう。すいかの全体を掴み取れ、と大佐に命令される。即座に敬礼し、すいかを拾うという任務遂行だ。敬礼に失敗、鼻かしらをぶつけて鼻血。すいかのはじっこに手をかけるんだ、とコーチは叫ぶ。はじっこに手をひっかければよい。ところが、無限はどうだろうか。はじっこがそもそも見当たらない。トイレットペーパーのはじっこが見つからず、妥協して、途中から切れ目を入れるひとなんて、嫌いだわ、と彼女にふられる。テープのはじっこも爪でさすって探し求めて5,6時間。無限ははっじこなしなだらつかめない。

  私は大根の全体をつかめる。自負する次第である。やまちゃんの肉体も持ち上げられる。容易にはじっこ発見だ。ところが、どうだろうか。やまちゃんの心まではつかめない。かれはなにを考え、今後どんな動きを予定しているかがわからない。僕であっても、心まで奴隷にできない。つまり、他人とは私にとってはじっこのない無限なのだ。

  それなのに、いままでの哲学のなかにはなんでもつかんでしまえ、吸収しちゃえ、という傲慢なやからがはびこっていたという。傲慢すぎるからそんなものたちを帝国主義的自我と名づけた。たとえば、哲学者フッサールのいう意識の志向性。なにものだ、と殿様は自分のマタ下を見る。天井から不敵な笑い声が聞こえる。畳をひっくりかえし、声の正体をつきとめようとする殿様。音、視覚情報、肌触り、これらの感覚情報をひとつにまとめて、殿様はイメージをする。意識はなにかにむかって、これをひっつにまとめたがる。なんでもかんでも吸収しようとするから帝国主義の総督のような意識だ。帝国軍司令部トイレ掃除係りではない。総督である。また、哲学者ヘーゲルも帝国主義的なやりかただという。宇宙を支配する弁証法という法則。矛盾しあうものがであって、こんにちは、一夜をすごし合体。話は桃色になりかけてきたが、ここでぐーっとこらえる。矛盾しあうものが融合して新しいものができる。こうやって、宇宙は進化発展し、無機物、有機物、動物、人間、社会、そして、その究極的なゴールに神様の精神があらわれるという。このようにヘーゲルにおいては宇宙の全体はこちらでございます、と差し出すのだ。

  他人の心は操れない。私を王様だと思え、と命令しても、心のなかではこのタコ野郎と叫んでいる。イカ野郎かもしれないが、それは読心術を身につけたものにしかわからない。つまり、他人の心には、はじっこがないから無限なのだ。いわゆるお客さまは神様というが、他人は神様だ。さらに、私自身をふりかえってみてみる、人間観察しすぎて、自分の顔にせみがたかっていたことにきがつかなかった。私はいままでの歴史の産物。どんなにがんばっても、日本語やら伝統にのっとっている。歴史に流されているのだろうか。じつに、私自身がその本体は歴史にくみこまれていないという。また、善良なる一国民なのだが、国家に組みこまれていると思いきや、やっぱり、ほんとうのところ独立しちゃっている。大地に根付いてジャンプせよ、というが、まずいわせ