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2008年06月22日
2008年05月11日
モデム異常によりネットできず 地震の前ぶれ情報を求む
2008年05月02日
本日、チャットルーム開設
いつもご愛読ありがとうございます。本日、スティッカムのわいわいチャットにてみなさまとチャットルームでのお話会でもやりたいと思います。ご参加されるかたは下記のページにて、仙人養成学校というルームにパスワード8787でお入りください。http://www.stickam.jp/chatRoom
2008年01月07日
1月30日、火星に小惑星2007 WD5が衝突!?
今月の1月30日、火星に小惑星2007 WD5が衝突する可能性があるそうです。当初、NASAの発表によると衝突の可能性が1/75だったそうですが、現時点では1/25の確率にあがったそうです。小惑星衝突で地球になんらかの影響があるかはわかりませんが、とりあえず、私はそのとき机の下にもぐってミカンでも食べていようと思います。
2007年12月23日
放送中の謎の映像 マツリダゴッホが通り過ぎた!?
謎の映像 黒い帽子のジョッキーはマツリダゴッホだった!!
謎の映像 有馬記念 ダイワメジャー
私はいつものようにマッシュTVを放送しました。その放送中に不思議な現象をカメラはとらえました。しゃべっている私の目の前を馬が走り去ったのです。ひょっとしたら、カメラの異常かもしれませんが、ジョッキーの着ている服の色は黒、黒の帽子です。ジョッキーの顔はなぜだか緑色でした。あくまでも、かってな解釈ですが、今日の有馬記念、もしかしたら二枠の黒、ダイワメジャーかもしれませんね。しかも、ジョッキーの顔は緑だったので、コスモバルクもいいかもしれません。そして、中央には白いもやもやがかかっています。こうなると、メイショウサムソンか?一番左端にはオレンジの光が。これはデルタブルースでございます。トータルで考えると、やっぱりダイワメジャーが怪しい。ちなみに私の予想は信用しないほうがいいです。ただ、カメラの前を横切っただけなのですから。その謎の映像は後日、公開いたします。
2007年11月13日
2007年10月28日
2007年07月10日
愛を感じること
掲示板の返事
愛とはなんでしょうか。まず、愛し愛されるにはまずは他人が必要です。他人はどこにいるのでしょうか。私の体の外。だから、私は他人に接し、他人を求めるときは、外に求めるんです。皮を一枚隔てたむこう側です。人間の体は肉です。他人も肉に見えます。ここで肉はロゴスであり、ロゴスは肉である、という新約聖書の言葉があります。人が人を愛するとき、たしかに、肉として触れ合ったり、ロゴス、つまり、言葉をつかってコミュニケーションを取ります。ところが、他人との真の結びつきは私の外ではないと思うんです。つまり、肉を捨てる、ロゴスつまりは言葉を捨てるんです。肉を捨てるとは、命がけになること、相手を思うということです。相手の痛み、苦しみを自分の身を滅ぼしてまで救おうとする気持ち。死ぬ気で助けようとすることです。だから、肉とロゴス、言葉を経由していては愛したり、愛されたりできないと思います。
肉とロゴスを滅却してまで、その人を救ってやるという気持ち。すると、なにが残るか。私の肉体でなく、自我なんです。私は二人います。なにかをしてる私。それを静観してる私。私は私を意識しながら歩き、食べ、踊るんです。自分がなにをしてるかをたいてい意識してます。この二人の私を見ている私、見られてる私と名づけます。見られてる私はかがみに映っている形があり、性格のある私なんです。見ている私は一体なにものか。じつは、世界、宇宙でたったひとりしかいない自我なんです。世界、宇宙にはたくさんの人、生き物がおります。それでも、この見ている私、自我はたった独りなんです。ですから、そこでは私も他人も一緒なんです。いわゆる利己主義というのは、この見られてる私に固執してること。ひどい場合は、見られてる私に見られてる私、というように、私が何重にもたくさんいるんです。ところが、本当に見ている私は、自我であり、宇宙には独りしかいないんです。この自我は他人も私もいっしょです。ですから、ともに災害などで苦境に追いやられ生命存続が危ういとき、人はロゴス(言葉)や肉体ではなく、意識の奥底にいる自我でつながるんです。これが連帯であり、愛です。ですから、共に苦しみ、共に恐怖に直面し、絶望したとき、人は愛し愛されるんです。ですから、愛されていると感じる瞬間とは苦楽をともにし、絶望や危機や危険に直面することではないでしょうか。なんだかおおげさではありますが、とにかく、何気ない生活苦の中にもじつは愛がかんじられるんです。
愛とはなんでしょうか。まず、愛し愛されるにはまずは他人が必要です。他人はどこにいるのでしょうか。私の体の外。だから、私は他人に接し、他人を求めるときは、外に求めるんです。皮を一枚隔てたむこう側です。人間の体は肉です。他人も肉に見えます。ここで肉はロゴスであり、ロゴスは肉である、という新約聖書の言葉があります。人が人を愛するとき、たしかに、肉として触れ合ったり、ロゴス、つまり、言葉をつかってコミュニケーションを取ります。ところが、他人との真の結びつきは私の外ではないと思うんです。つまり、肉を捨てる、ロゴスつまりは言葉を捨てるんです。肉を捨てるとは、命がけになること、相手を思うということです。相手の痛み、苦しみを自分の身を滅ぼしてまで救おうとする気持ち。死ぬ気で助けようとすることです。だから、肉とロゴス、言葉を経由していては愛したり、愛されたりできないと思います。
肉とロゴスを滅却してまで、その人を救ってやるという気持ち。すると、なにが残るか。私の肉体でなく、自我なんです。私は二人います。なにかをしてる私。それを静観してる私。私は私を意識しながら歩き、食べ、踊るんです。自分がなにをしてるかをたいてい意識してます。この二人の私を見ている私、見られてる私と名づけます。見られてる私はかがみに映っている形があり、性格のある私なんです。見ている私は一体なにものか。じつは、世界、宇宙でたったひとりしかいない自我なんです。世界、宇宙にはたくさんの人、生き物がおります。それでも、この見ている私、自我はたった独りなんです。ですから、そこでは私も他人も一緒なんです。いわゆる利己主義というのは、この見られてる私に固執してること。ひどい場合は、見られてる私に見られてる私、というように、私が何重にもたくさんいるんです。ところが、本当に見ている私は、自我であり、宇宙には独りしかいないんです。この自我は他人も私もいっしょです。ですから、ともに災害などで苦境に追いやられ生命存続が危ういとき、人はロゴス(言葉)や肉体ではなく、意識の奥底にいる自我でつながるんです。これが連帯であり、愛です。ですから、共に苦しみ、共に恐怖に直面し、絶望したとき、人は愛し愛されるんです。ですから、愛されていると感じる瞬間とは苦楽をともにし、絶望や危機や危険に直面することではないでしょうか。なんだかおおげさではありますが、とにかく、何気ない生活苦の中にもじつは愛がかんじられるんです。






