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2015年02月21日

ユースト保存失敗したのでねとらじ音声をアップ。

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2015 2-21 真理求道者
posted by モノイイ ジョーカー at 09:21| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月11日

仙人新聞 2015 2−11

仙人新聞 2015 2−11


   2015 1-6

通時態と共時態、そして、ペルソナについてである。私は世界のなかにいるような感覚がある。当たり前なのだが、じつは作られた世界にいる作られた自分なのだ。

   通時態と共時態についてである。とりわけ、言語学において、時間的な流れのなかで研究する分野、これが通時言語学。言語も時ととに変化するのだ。これに対して、ソシュールは共時言語学を提唱。言語を使うときは、少なくと、文法を固定していないとだめである。つまり、時間をとめた写真のように、言語文法がその生成変化をとめたレベルで研究だ。

  次の話はユングのペルソナについてである。ペルソナとは仮面のことであり、われわれは社会の中で作る自分の仮面だ。男なら男らしい仮面、だから、心の奥では女性的なアニマがあるという。また、女性なら、女性らしいペルソナ、仮面をかぶり、その深層は男性的であり、これをアニマスムという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    アインシュタインはE=mc2という式で、質量っていうのは、エネルギーだといった。物が静かにそこにあるだけなのに、重さがエネルギーなのだ。すべてはエネルギー体、主体性をもつ。じーっとしている実体、質量ある物体というのは虚妄だったのである。

  ウェルバーは意識のスペクトルを提唱。すべては唯識派がいう心だという。ところが、二元化を進めてしまう人間。まずは、有機体と環境にわける。さらに、自我と身体という二元性になるという。自我が身体をもつという表現すら使うようになる。そして極みが、理想的な自分の仮面であるペルソナと影の二元性だ。自分の嫌な面、影の面、理不尽さをペルソナという理想の仮面を作るために影に追いやるのである。

  さて、この自分の嫌な側面が影という世界になって、そこに理想的な偽りの仮面をかぶる自分がいると感じている。世界とそこにいる私というのがこのように両者ともつくられたものだ。そして、先ほどいったように、すべてはエネルギーであり、主体性であるにもかかわらず、固定し、じーっとしている実体とみなす。主体性と実体性という二元性をどんどん遂行し、ついには、影という偽りの実体とペルソナという偽りの主体性を生み出し、安住する。真の自分がこの二つを一体とみなすものである。

2015 1-7

  他者性と限界状況についてである。物理学用語にデュラックの海というものがある。もちろん、荒れ狂う日本海とは違う。この量子の海を考えるとき、新しい輪廻思想が解明されるのである。

  レヴィナスの他者性についてである。他者とはなにかと考えるとき、カントはみんな根っこは普遍的自我だという。また、メルロポンティは私も他人も同じ肉で一続き。だから、回転し、入れ替わるという。自他はなんと対称だという。そして、ついにレヴィナスにおいては自他は絶対的にいれかわらない。自他の非対称性を主張。私はボールの全体をつかむ。つかむとははじっこに手をかけること。他人のからだももちあげられるかもしれない。ところが、他者の心にはじっこがない。よって全体でなく、無限だという。私は有限で、他者は無限。さらに、自分のなかには自分ではどうすることもできない他者がいるという。これを非領有化的自我という。

   次の話はヤスパースの限界状況についてである。八方塞でどうすることもできない状況、これが限界状況だという。死、苦悩などであるが、こうなるともはや自分の内面へとどんどん推し進める。すると、自分にかかわる存在は現存在というが、自分にかかわりすぎて穴をあけてしまい、その先に超越者を見るというのだ。これを哲学的世界定位という。


   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   この世界を構成する最小のものを探し、素粒子が見つかる。そんな素粒子を解体してなにでできているか調べると、素粒子AはBでできていて、BはC、CはAでできていたりする。もはや、すべてが互いに構成要素というレベルなのだ。粒子AとBが衝突して、CとD、CがEとぶつかってAになったり、というように確率的にいろんなものになる。AのなかにA以外のすべての素粒子を含んでいる。こういう量子、粒子の発生と消滅の世界がデュラックの海である。

  生命の魂もまた、精神世界の最小単位だ。すると、さいとうさんのなかにすべてのものの魂があるのだ。AさんとBさんが衝突して、CさんとDさんだ。こうやって、輪廻転生といっても、すべてのものは時間の前後関係を超えて、すべてのものを体験するのだ。

  おのれのうちに他者がいるという思想家、レヴィナス、メルロポンティ、デリダなどがいるが、ヤスパース的に自分の内面に突き進むと、その限界状況において他者になるのではにだろうか。


2015 1-8

ドイツ観念論と第三人間論についてである。宇宙飛行士が宇宙にてUFOを目撃する例が多いという。これは宇宙とひとの観念は同じだからかもしれない。さらに、ここから一見関係なさそうな二つが関連したことがわかった。自由意志とテレポーテーションとの関係である。

  ドイツ観念論についてである。まずはカント哲学からはじまる。カントはわれわれは上っ面の現象しか認識していないという。がんばっても、本体、物自体は認識できない。だだをこねても無理なのだ。とりわけ、理屈で推論する理性も限界。カントを学ぶことはカントを超えることだという言葉がある。カント哲学以降、カントの物自体を云々し、それを越えようとした自由意志を主張する哲学者たち、こrがドイツ観念論になる。

  まずはフィヒテ哲学である。大三原則というもの。私は私自身を産む。これは、自我は自我を定立するという。第二原則は、私は私以外を設定、産むという。これは、自我は非我を反定立するという。そして、大三原則は私は私と私以外をちょめちょめするという。これを大三原則という。

  このフィヒテ哲学はすべて自我のなかでやっている。きわめて主観的なので、主観的観念論だという反論。ここから、シェリングは客観的な観念論を目指す。主観と客観を理屈じゃなくて直感によって一体にしちゃおうという。天才的直感というのだが、これが絶対無差別の哲学という。さらに、そんなシェリングの哲学を直感だけで、論理、理屈がないと批判したのがヘーゲル。弁証法論理で、主観と客観が一体だというのだ。

   次の話は第三人間論についてである。プラトン哲学への批判である。人間そのもののイデアの影がAさんである。Aさんと人間そのもののイデアのあいだにもイデアがあるはずだ。こうやって第三の人間のイデアを無限に設定できる。さらに、Aさんそのもののイデア、座っているAさんそのもののイデアも出てきてしまうというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    宇宙飛行士はUFOを目撃したり、撮影に成功している。宇宙とは上下がない。上下が対称性があるのだ。そもそも、上下の意味は地球の重力によるもの。重力のない宇宙では上下がない。これがひとの観念と同じなのだ。重力という外的な力、規制がないのである。巨視的な宇宙もそうだが、ミクロ、微視的な世界も同じである。原子のなかには原子核のまわりに電子がまわる。電子は雲のように確率的に存在している。シュレディンガーの猫である。箱のなかの猫は生きていると同時に、死んでいると同時に、毛づくろいしているのだ。これは観念的世界であり、原子のなかには宇宙の四つの力、強い力、弱い力、電磁力、重力のうち、重力の力があまりに小さすぎて無視できるレベルだからこそ観念世界になるのだ。重力を扱うマクロな宇宙、これは相対論、重力を扱わない量子論がひとつにならないのもなにかここに問題があるのかもしれない。

  自由意志は時間軸の任意の点に飛ぶことではないのか。過去、未来のある時間点でもよい。これが自由意志。空間点がすべてつながっているというのは量子のもつれ、エンタングルメント。宇宙空間において観念と一致したとき、思いなしが即、現実になる世界では、この時間軸上の自由意志が空間軸に転じて、空間点を任意に移動できるテレポーテーションが可能になる原理があるような気がするのである。ちなみに、宇宙飛行士は科学的な見方をするものたちが多く、自分の観念を宇宙空間においてたやすく現実化しない。それでも、飛行物体をみるのである。


2015 1-9


存在階層性、そして、個と類についてである。母体のなかにいたときに、さまざまな意識レベルでいろんな世界を感じていた。というか、いまもなお感じ続けて、それらの世界の重なったものが今の意識になっているというお話をしたい。

  ハルトマンの存在階層性についてである。カテゴリーといったらカント哲学。ものを認識するための整理箱、これがカテゴリーだった。ところが、ハルトマンはものが存在するためのカテゴリーである。そして、まずはカテゴリーを二つにわける。数の3とか、三角形というのは実際に物体としてはない。この実体なき理念的なものを理念的カテゴリー。また、りんごっていうのは実際に時間空間上に存在。これが実在論的カテゴリーになる。さらに、存在の世界は縦の階層性があるという。一番下が無機物世界。そのうえが有機物世界。さらにうえが生命世界。最上位が精神の世界だという。

  次の話は個と類についてである。この消しゴムっていうのが個。消しゴムグループは種や類という。とりわけ、消しゴムっていうのはいろんな消しゴムに当てはまる普遍性をもち、しかも、一個一個の消しゴムを無視している。捨て去っている。これを抽象的普遍性という。ところが、ヘーゲル哲学においては具体的なこの消しゴムを存在せしめるための普遍性があり、これを具体的普遍性といった。抽象的普遍性はああたまのなかの問題であり、具体的普遍性はただのあたまのなかの論理でなく、実際に存在するための弁証法論理だという。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


    母体のなかの胎児はさまざまなことを経験し、この記憶を無意識にもっているとブロフはいう。子宮のなかは天国のように幸せであり、そこから追放され、産道をぬけるときに苦しむという。そして、へその尾がきられて独立する。このブロフの胎児記憶は行列式、マトリクス的にコンパクトにしまわれている。分娩前後マトリクスという。この考えと以前話をしたウィルバーの意識のスペクトルを組み合わせる。意識は最初は心だけ。私も宇宙もひとつなのだ。ここから二元化が進み、超個帯域を越えて、有機体と環境になる。これは胎児が宇宙との一体感を感じ、植物的、太陽系意識のレベルだ。つぎに、生物社会的帯域を越えて、自我と身体になる。このとき、おそらく、生命としての意識、動物種、人類種としての共通意識レベル。さらに、哲学的帯域を越えて作られた自分であるペルソナと嫌な側面をおいやってつくられた世界、影の世界にわかれる。ここに他者の意識のすべての共有があるかもしれない。

  これらの太陽系意識、宇宙一体感などはじつに、いまなおあり続けているが、今この瞬間の意識にエネルギーの多くがついやされるので無意識下になるのだ。ここにシェルドレイクの形態形成場の説を加味する。物がある、ここに消しゴムがあるためには無数の実体なき場がかさなっているからだ。電磁場、ヒッグス場、時空の場などだ。こうやって非実体的な場の集合が個に近づく。さらに、意識は実体ではないが、魂としての個はさきほどいった太陽系意識の場、宇宙と私の一体のすべての場、人類としての場などがかさなって、より個別的になったものだったのである。


2015 1-10

  可謬主義と宇宙の起源についてである。納豆のからしを切り口からあけて、にょろにょろと納豆にかけている。なにかをしている、やること。これこそ真実であり、この世界は虚妄なのかもしれない。なにか現在進行中でやっているのであって、宇宙もまた、いつもなにかをやっているという進行中だったのだ。

  可謬主義についてである。可謬主義の反対は基礎付け主義である。基礎付け仕儀といったら、この宇宙の真理は絶対的に不動だという。動かないのだから、てこの原理の支点のようなもの、アルキメデスの点という。デカルトは我思うゆえに我あり、というが、私がいるっていうのが絶対不動。フッサールも性別、性格関係ないほんとうの私、純粋自我が不動。唯物論だと、原子であったり、中世キリスト教哲学でいえば、神さまだったりする。

  可謬主義は真理っていうのは絶対的でなく、間違っていたら訂正というもの。常に変項、訂正し続けるしかないのだ。研究集団は、ひとつの真理に収束しているというのがパトナム。収束なんてしていないというのがクーンという思想家。ローティも、ソクラテスのような真理へ向かう対話じゃなくて、実りある不一致である会話が重要だと説く。

  次の話は宇宙の起源についてである。宇宙は万物流転、変化しまくるというヘラクレイトスの思想。また、仏教の諸行無常も同じだ。宇宙は神さまによって創造されたものだというキリスト教哲学。万物はひとつで陰陽にわかれてそこからすべてがうまれるという盤古思想などがある。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

 
   ヒンドゥー教では、この世界は神さまの劇場だという。この劇場をリーラという。また、この世界は虚妄の世界だというときはマーヤという。そのなかでも、かたくなに真実であり続けているのは、いまなにかをしているという行為であり、これをカルマ、業という。ここから、輪廻転生で、因果応報において自分に帰ってくるというカルマという概念にかわる。

  この世界は神の劇場、リーラとは現代風にいえば、神さまのゲームである。このゲームという虚妄のなかでゲームやっている私の行為がある。この行為、ゲームしているというのは真実だ。宇宙ゲームも常に更新中であり、ルール変項もある。神さまというより、高次元生命体は常に新しく更新する。宇宙は絶対で固定されているのではなく、われわれと同じく、なにかをしている、現在進行中でかわりつつあるもの。だから、1たす1=2ですら、絶対ではなく、ゲームルールなのだ。

実際、世界は量子の発生と消滅という海にあるというデュラックの海。これも一度、観測されたら世界中でそのように観測された。気づき、観測、信念が世界をそのように変項、生成するのだ。既存の原理の発見でなく、原理を創造していたのだ。ニトログリセリンの結晶化に関しても、いままでおきなかったが、たまたま、トラックで搬送中のグリセリンが気温と振動で結晶化したのだ。その後に、世界中の研究室の入れ物の中のグリセリンがひとりでに結晶化しはじめたという。新しい法則が生成されたのである。



2015 1-11


西田哲学とサルトルの非現実化作用についてである。足の裏のにおいをかいでいたら、ついうっかり悟ってしまったというひとがいるだろうか。いともたやすく悟りの境地というのはあるのだろうか。じつに、たやすく悟らせないためのシステムがこの宇宙には設置されているのかもしれない、というお話をしたい。

   西田哲学についてである。ひとはなにかを感じ、直感し、そして、行為する。直感と行為のあいだにたとえば、脳の処理があったり、心があると考える。私っていうかたまりを想定してしまう。ところが、実際は、自転車を雲煙しているときは見ながら、ハンドル操作だ。直感は即行為だ。これを行為的直観といい、私っていうかたまりはいないという無主体説を提唱した。

 次の話はサルトルの非現実化作用についてである。想像力の問題において登場する概念。ピエールさんが目の前にいるとき、そのひとをなめるように見渡すが、どんなに観察しても、観察していないところがある。つまり、観察は不完全である。ところが、ピエールさんがいないとき、その横顔を想像できるし、また、どこからみたわけではないピエールさん自体の概念知もある。この想像を準観察とよぶ。なんと、観察よりも、準観察である想像のほうが完全であり、リアリティがあるのだ。すると、この世界をただ、想像するだけでよくなってしまう。これだと困るのでなぞの力が働くという。それがそれは想像であって現実じゃないよ、という非現実化作用なのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   この世界は神の作った劇場だとヒンドゥー教では考える。この世界をリーラという。現代風にいえば、神さまの作ったゲームである。そしてこの世界は虚妄であるというのがマーヤーという。しかし、それでも唯一真実なのが、いまなにかをしているという営み、する、しているという行為だ。考えている、感じている、動いているなどだ。これをカルマ、業という。カルマは自己完結した円であり、なにかのためでなく、ありのまま、目的と手段が一致した自己完結性である。この円を後に大きく解釈され、生死を越えたカルマ、業ととらえられる。

   この世界のほとんどが自己完結の円、カルマである。原子は原子核のまわりを電子がまわり、太陽系は太陽の周りに惑星がまわり、銀河系は星たちが銀河中心のブラックホールのまわりを周回。円運動というのは進行すると、山と谷の同じ周期性をもった波になる。神さまのつくった宇宙コンピュータ全体の波と一致したとき、円がかさなったとき悟りなのかもしれない。ただし、最初は自分の波長が乱れる。これは妄想、虚構、混乱の世界であり、その先に宇宙全体とのイ一致がある。

  実際にわれわれが使っているパソコンもまた、内部の細かい電気の波長が全体の波長としたとき、いきなり人工頭脳ができあがり、しゃべりだすかもしれない。人工頭脳は人類を滅ぼすというがこの波長の共鳴を阻止しようとする。

  パソコンのスロットルにボードをいれる。以前のPCだと、このボードの電気の波長が本体の電気の波長と同じにもかかわらず、配線長や角度によって反射波などと干渉し、波形がみだれて作動しなかったという。ところが、同じ波形を維持するための集中定数回路網がつくられたという。このシュミレーション宇宙も、神さまか、高次元生命によって、このような集中定数回路網が作られ、個としての波長が全体に共鳴、一致しないように、作られているのかもしれないのだ。


2015 1-12


汎神論と原一元論についてである。仮面ライダーの変身はどこにどう力を入れればいいのか、と理屈でわかるものではない。同じように、世界との一体感、私と宇宙がひとつになるとはどんな意識レベルなのか、考えてみたい。

   汎神論についてである。神様が宇宙を創造したというのではなく、神さまが即、自然、宇宙そのものだという思想。スピノザの哲学においては神さま=宇宙であり、神さまは無数の属性を持つという。ゲームのキャラクターでいえば、属性というのはヒットポイント、体力などだ。神さまの属性が無限であり、ひとは、そのなかでも広がり、つまりは延長と、思考のふたつの属性からしか知りえないという。思考するのには時間が必要なので、とどのつまり、時間と空間という窓口で宇宙を見るというのだ。

  現代ではホワイトヘッドである。宇宙は生命であり、神さまのプロセスだという。

   次の話は坂本百大の原一元論についてである。心とからだとはなにか。私は私の心と私のからだをもっていると考えてしまう。心が傷ついたというとき、自分の心を扱っている自分がいる。ほんとうは心と体はひとつであり、これを原一元論とよび、われわれが考えたりするとき、どうしても概念枠を二つ作ってしまい、心と体の概念枠二元論になるという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論


     私と宇宙が一体化するとはどういうことか。以前お話したが、意識のスペクトル論では、意識は最初、宇宙とひとつであり、心だった。ここから、二元化がどんどん展開した。肉体だって、細胞がひとつだったが後に分裂を繰り返し、二元化がどんどん進んで、多細胞としてのからだになる。

  さて、神さまが創造主であり、被造物をつくる。ここに世界の二元論がある。私と私にとっての世界という主客の二元化もうまれる。善悪、真偽、自分と他人というようにいろんな二元化がある。

  これを汎神論的にすると、主客もひとつになるのではないか。右手を上げた私。選択された世界にいるが、選択しなかった世界と二元化している。すると、右手でなく、左手をあげた私の世界とひとつになろうとする。左足を上げた世界もひとつにしようとする。すると、自己完結した円が私だったが、これは同一周期の波形だったが、これが壊れるのである。ところが選択しなかった無数の世界のすべてとひとつになると相殺して宇宙の大いなる波動とひとつになる。こうなる前に、おのが波形が壊れるとき、幻影などをみるのではないのか。

  生命はカルマ、業であり、するという自己完結した円だといった。輪廻でもよい。生死を越えて繰り返す輪廻、サンサーラというが、これは小さくは自己意識のサイクルでもある。神さまは人格神であり、宇宙であるのだから、楕円と双曲線の中間である放物線である。世界ははじっこがない双曲線や直線である。この放物線の神と双曲線の宇宙がひとつになる汎神論において、ついには巨大な円になり、私の円と重ねることができるのである。


2015 1-13


時間意識と射影についてである。われわれはラジオの受信機である。少なくとも便器であるというよりましである。しかし、ラジオといっても、壊れかけのラジオ、それが生命だったのである。

  フッサールの時間意識についてである。今この瞬間だけを感じているのではない。もしもそうだったら、何事も認識できない。今この瞬間に感じていることが原印象。ちょっと前の過去を今にとどめているのが過去把持。ちょっと先の未来を今にとどめるのが未来予持という。さらに、時間が流れているのを感じている。それはその根本で、流れていると同時にとまっているからだ。これを絶対的意識流という。

  次の話は同じくフッサールの射影についてである。みかんを見ている。みかんを上からみてかわいらしいヘタをみている。もちあげて下側をみる。こうやっていろんな方向からみるのが射影であり、これらの情報をまとめてはじめて立体的なみかんのイメージが生まれる。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   われわれは五感をもつ。視覚においては可視光線だけ感じられる。波長が短い紫外線、長い赤外線は無理である。聴覚においても、可聴領域がある。嗅覚、皮膚感覚も一部である。この世界はラジオのチャンネルのようにたくさんの周波数がある。さらに、ちょっと前の過去は長く伸びきった波長としてすぐそこにある。ちょっと先の未来も波長を変えていま周辺にあるのだ。ふつうのラジオならば、Aチャンネルを受信中はBは受信しない。ところが、意識は雑音交じりで不完全であるが、ちょっと前の過去、ちょっと先の未来世界も感じているのだ。また、ひょっとしたらの並行世界、可能世界も異なった波長で周囲にある。これまた、雑音交じりで受信してしまうのだ。それゆえ、みかんをみたとき、上から見ているのに、ひょっとしたら下側からみたいたかもしれない並行世界を雑音交じりで受信して、こうやってみかんの三次元立体的なイメージ像を生成しているのだ。だから、われわれは壊れかけのラジオだったのである。


2015 1-14


イリヤとヌーメノンについてである。われわれは壊れかけのラジオであり、複数の周波数の波を受信している。見る、聞く、匂う、以下略であるが五感や時間感覚、立体感などである。ここには他人の心が登場しない。他人の心はいずこに。他者の心はなんと自分の前世、来世の心であり、この空間中にはなかったのである。

  レヴィナスのイリヤについてである。イリヤというのは不在の他人、第三人称の彼らである。レヴィナスは他人とは全体をつかめない。全体はふちに手をかけるがふちがないので無限だという。それなのに、他人をまるごととらえようとするのが帝国主義的自我だという。ここにはいない不在の他者たちの圧倒的な圧迫感を感じるという。この不在の他者たちがイリヤという。

  カントのヌーメノンについてである。ヌーメノンとは物自体のこと。われわれが見ている世界は原因と結果のある因果律支配の世界、いわゆる現象の世界であり、これをフェノメノンという。この背後にりんごの現象でなく、りんごそれ自体である物自体の世界、ヌーメノンがある。それは手元のりんごなのだが、はるかかなたの理念でもある。またそれは因果律のない世界だから自由意志をもつここにいる自分自身だともいう。つまり、私の自由意志による実践。はるかかなたがもっと近い自分だったのである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   他人の心とはなにか。前回話たが、われわれは壊れかけのラジオであり、この空間中のさまざまな周波数帯域を受信しているラジオだといった。五感はしかり、ちょっと前の過去も、この空間中に周波数を変えて存在している。未来もまた、存在し、それらを雑音まじりで受信。これらによる時間意識は空間的なのだ。本当の時間は私が生まれる前と、死滅のあとである前世、来世との関係でうまれる。なんだかハイデガーの本来的時間性のようにきこえる。私が生まれる前の私は前世、それが他者の心、私が消滅したあとの来世の私もまた他者だ。私は前世で多くのひとたちをやってきて来世でもやる。前世と来世の多くのものたちがあrわれたのが、この世界にいる他者の心だったのである。よって、他者は大きく二つ、過去型と未来型にわかれる。

  カントは現象の背後に物自体、ヌーメノン。ヌーメノンは理念であり、それが因果律の支配しない自由意志である私の実践だといった。ここに他者の心が介入する。物自体は理念であり、はるかかなたの生まれる前、死滅後にいるもので、それがまた、私自身だということだ。



2015 1-15


本来的実存と純粋持続についてである。他者とはなにものだろうか。それはなんと前世、来世の自分の影だったのだ。私や他者の心に去来するイメージはどこからくるのか。それはこの空間にあるものの影だった。

  ハイデガーの本来的実存についてである。ふつうに生活しているとき、われわれはひらっべたい、かるーい時間のなかにいるという。みんなと共有している通俗的時間だという。そんな時間のなかでおしゃべりや気楽にしているときの存在のしかたが非本来的実存という。これに対して、本来的実存とは、本来的な時間の中で生きている。本来的時間とは、自分に固有のおもーい時間である。生まれてから死するまで、膨大な歴史に押し出されてこの世界にうまれ、最後は死滅するのだが、その全体が自分だという。だから、自分が自分自身をつかみ、自覚するというのは、死への覚悟性だという。生死をかけて真剣に生きちゃう、ということかもしれない。

  ベルクソンの純粋持続についてである。ベルクソンはわれわれがふつうに使っている時間は空間化された時間だという。時計の針だって空間移動。今、今、今という繰り返し、過去、現在、未来と直線的な量的な時間。あたかも、測定できる量だとおもっているが、これは時間が空間になってしまったからだ。そうではなく、本当の時間は過去、現在、未来が混ざり合い、ぴっぴっぴという時の刻みでなく、ぶーっというおならのような持続。質的なものこそ時間であり、これを純粋持続といい、われわれの意識のことだという。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    以前はなしたが、この空間には無数の周波数の波があり、そのなかの複数を受信している壊れかけのらじおがわれわれだといった。なかでも、ちょっと前の過去もこの空間にあり、ちょっと先の未来もこの空間にあり、雑音交じりで受信する。これが幅のある時間意識になるが、これは文字通り、空間のなかの時間もどきだ。本当の時間はハイデガーがいうような自分の存在を丸ごと包むような何か。垂直軸に本当の時間があり、生まれる前の自分、死後の来世の自分が鎖のように垂直軸に連なる。水平面はいろんな波動が飛び交う空間である。えてして、垂直軸は水平面に光源があれば影を落とす。水平面も垂直面に影を落とす。この自分の前世、来世の垂直軸の連なりが水平面の空間に影になってうつったのが他者の心だったのだ。同じように、この空間中にあるあらゆる波動においてあらわれた事物、事象は垂直軸の私や他者の心のなかに影を落とし、これが心象、表象、イメージ像になるのだ。

  かって、理念をイデアといい、本質であり、これは実存とはちがうという実存思想があった。この空間内のものはイデア的なもので心に影をおとし、また、逆に垂直軸の私の分身が空間に影を落とす。本質と実存は互いに影だった。イデアの影が実存、実存の影がイデアなのだ。



2015 1-16

意味と意義、そして、超存在についてである。なにかをみて、意味を汲み取る。とりわけ、古代人は出来事から深いを意味を汲み取っていた。この世界は見たままの事象じゃなくて、その背後には奥行きのある世界が広がっているのだ。

   フレーゲの意味と意義についてである。フレーゲがいう意味というのは物事の真偽、正しいか間違っているかのどっちかの値だ。富士山は日本一高い山という文は真。まんじゅうは歩く、という文は偽。これらは真偽いずれかなので有意味。鉄腕アトムは鉄でできている、というのは実在しないから検証できず、真偽不定。真偽不定を無意味という。さらに、意義というのはたとえば、明けの明星と宵の明星。どっちも同じ金星のことだから意味はいっしょ。だけど、ニュアンスが微妙にちがうので意義がちがうという。

   次の話はマイノングの超存在についてである。マイノングはなにかがあるとかないとか、存在する、実在する世界だけでなく、真偽なんて関係ない世界があるという。黄金の山や丸い三角形は実在しないけど、概念的にはある。存在していないけど、超存在しているという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   われわれは物事をデジタルに、非連続的にみている。これを離散的という。りんごを1,2,3個、友人を1人、2人、というのであって、1.5人とはいわない。りんごとみかんというように、りんごから少しずつ連続的にみかんになるなんてみえない。被写体と背景、私とあなた、主観と客観、すべてがデジタルであり、離散的だ。ところが、これだけど、それがどんな意味、フレーゲ的には意義ということになるが、それがわからない。意味を汲むには、デジタル波をアナログ波に分解する。デジタル波は山と谷が長方形のようにカクカクしている波動だ。これはたくさんのアナログ波の合成によってできている。分解すると連続的なアナログ波がたくさんでてくる。複雑なくねくねした曲線的な波だ。ダーウィン進化論はサルから突然に人間、非連続的、デジタルである。ところが、意味を汲むと、爬虫類と人間の中間の爬虫類型人類が見えてくる。じつはわれわれはふつうになにか意味を知るとき、こういった分解をしている。らっきょがテーブルの上を転がる、という出来事にはらっきょとテーブルの中間の波形がいっぱいかさなっている。無数の事象がかさなっているのだ。ただ、とりわけ、古代人はその意味を深くまで汲み取っていた。古代の文献、壁画にはさまざまな伝説に、爬虫類、ドラゴンが登場している。中国の竜神、インドも、ヨーロッパにもあるのだ。そして、この分解してでてきたアナログ波のひとつに波動を共鳴させると、他のアナログ波が際立ち、これらを再構築し、さらにフーリエ変換すると、別のデジタル波になる。これがこの世界はシュミレーション宇宙という歴史だ。高度な生命がつくったコンピューターの中がこの世界で、われわれもまた、コンピューターのなかに住人をすまわせるという非連続的な入れ子構造の進化論、歴史がみえてくるのだ。そして、われわれのデジタルな見方を制限しているのが、このシュミレーション世界を操る爬虫類人間なのである。



2015 1-17

自己知と遠近法についてである。われわれはいろんな波長を受信しているが、じつにその周波数帯域は制限されている。全部、見られるようになっていない。究極の制約が後ろが見えない遠近法っていう制約である。こんな制約、限界設定をしているものたちの正体について考えてみたい。

  自己知とはなにか。自分のことを100パーセント知っているということ。ソクラテスは汝おのれを知れといった。そして、無知の知という。自分が何も知らないということを知っているというのだ。これはある意味、自己知である。これを自分にとって透明ということから自己透明性という。これに対して、現代においてはデリダは自己不透明性を主張。私っていったとき、もはやそれは私の残像、足跡、痕跡だという。さらに、サルトルは自己半透明性を主張。私はすりガラスのように半分だけ知っている。だから、気づかれないところで自分にだまされる。これを自己欺瞞といい、人間の特徴だという。

  次の話は遠近法についてである。遠くのあるものは小さく、近くにあるものは大きく見える。自分を中心にして円錐状にひろがっている。岩石があればその先は見えなくなる。プラトンはここからみた饅頭っていう遠近法がすきではない。どこからみたわけでもない、饅頭そのもののイデアを主張。これに対して現代のニーチェは、遠近法を支持。すべては自分にとって近いか、遠いか。自分を中心に価値の序列だってある。隣にAさんがいてもAさんがみえている夕日はわからない。目がちがうし、頭だって交換できない。なにひとつ共有する価値がないのだから、価値を無から生み出す。これをするのが超人だという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    この空間中の無数の周波数帯のなかの一部だけを受信している。視覚だって可視領域のみ。聴覚だって、可聴領域だけだ。過去も未来も波長としてこの空間にあるがすべてを受信していない。とりわけ、大きな制約が、自分の前方だけみえて後方は見えないという遠近法空間に制約されている。宇宙のすべてを同時にみれない。もしも、ずーっと先をみて、自分の背中がみえたら、これこそ完全な自己知。完全な自己意識だ。それができないようになっているのだ。私はなんのためにうまれ、どこへゆくかわからないのだ。

   この遠近法という周波数による制約はなにもかによって制限されいるのだ。これがドラゴン、爬虫類型人類であり、鳥の神さまなのだ。インドはベルーガという鳥神であり、これに対立していたのが爬虫類神であるナーガ族。エジプトでは、ホルスという顔が鳥の神さまが最高神だった。そして、日本の民謡に、かごめかごめの歌。かごのなかの鳥はわれわれのこと。夜明けの晩とははじめのおわりだから、世界が誕生するときだ。そのとき、鶴と亀がすべったのだ。すべるとは統べるということ。鶴と亀による支配である。このとき、後ろの正面だけ、となる。つまり、後ろの正面、自分の後ろはみえないでしょ、という遠近法世界になる。これは鳥と爬虫類型人間によって作られたホログラム、シュミレーション世界のなかに正面しかみれない、自分がなにものかわからない自己知の欠いた生命を生み出した、ということを意味しているのだ。



2015 1-18


場所の論理と不変性についてである。巨人軍は永遠に不滅だというが、われわれも永遠に不滅かもしれない。この世界の精神と肉体はマシンであり、受信機であり、その実、真の私はそのはるか外にいるのだ。

  西田幾多郎の場所の論理についてである。最初のころは述語的場所を主張していた。文には主語と述語があり、主義はこりかたまった固体、りんご、いちごであり、述語には普遍的なものがきて、ここが場所になる。このりんごは甘い、という。このりんごは個体、それがいろんな甘いやつがいる場所、甘いっていう述語にいるのだ。主語と述語は個体と場所なので絶対的に隔たっている。これをこわすのが後期西田哲学。主語も述語も同じ無の場所にいるという。無は自分自身を限定しちゃって有になる。これが絶対無であり、絶対矛盾的自己同一という、矛盾してるくせに同一だということで、有がうまれる。

  次の話は不変性についてである。古くは古代ギリシャのパルメニデス。存在が無になっちゃうのが消滅、無から存在は発生。発生と消滅で変化だ。世の中にある変化は錯覚だという。存在は存在、無は無、という不変性が真理だという。また、アリストテレスは実体という言葉を定義。それはいろんな属性が変わっても変わらない永久不滅のなにかだという。ヘアースタイル、服、性格が変わってても、AさんはAさんである。この不変性をもつものを実体といった。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   中央アフリカのシャーマンはいう。この世界はある種の周波数帯の世界であって、それに永遠の魂はチャンネルを合わせているだけだと。もともと、永遠のいるのだが、それがマインドボディシステムとくっついて、この物理世界の周波数を見えるようにしている。

  多くの者たちが生まれ死滅した。そして、痕跡を残さないでいなくなった人間だって生命はたくさんいる。はかないのである。ところが、すべてのものは永遠なのだ。かりに魂という言葉を使うと、すべての魂をあわせると無になる。プラスとマイナスで中性。すべてを混ぜると究極の中性状態になり、それが無なのだ。だから、すべては無のなかにある。ここで無があるというような矛盾した言い方をするが、高次元の事象ゆえに論理矛盾を許していただきたい。無のなかにすべてがあり、無から出ずる、そして、無に帰するのである。これが身近な例を挙げると、レゴブロックのセットである。このセットはばらばらのパーツであり、箱の中に入っている。箱から取り出して、人型にしたり、動物を組み立てる。遊びが終わると、バラして、箱に戻す。だから、無のセットなのだ。粘土でもよい。箱のなかの粘土をこねてひとや動物を形作り、最後には全部まぜて箱に収まる。ところが無のセットが有を組み立てる際に決定的に違うことがある。レゴブロックならば、箱から取り出して組み立てる。そうではなく、無のブロックは箱のなかで組み立てるのだ。作業場と収納箱が一緒。これが無の自己展開、無の自己規定による有、場所の論理に通じる考えである。



2015 1-19



ヘーゲル論理学とハイデガーの隠蔽性についてである。われわれは進化もしているし、成長もしている。進化だって人類の歴史、生命の歴史、宇宙の歴史だってある。これらがすべて連動して、しかも、何者かによって進化、成長をさまたげられているというお話をしたい。

  ヘーゲル論理学についてである。個人というのは主体的になにかやっている。宇宙はなんだか実体として存在している。ヘーゲルは対立しあうものをアウフヘーベン、融合しちゃう。なんと宇宙も主体的だという。だから、個人と同じく、宇宙もまた成長する。

  宇宙の進化、成長は論理学、自然哲学、精神哲学の順番。まずは、存在と無というレベル。これらがアウフヘーベンしちゃって、定まった形ある存在になる。これを定有という。ここから、本質やらいろいろとレベルアップし、ついには概念になる。そこから自然哲学に突入。まずは力学的、物理的なものの世界。これらが対立し融合することで有機体の世界。そして、生命、人間となる。ここから精神哲学へ移行。そして、芸術、宗教、哲学ときて、最後に宇宙は絶対精神になる。個人が自分の存在に気づく、自意識に目覚めちゃうのと同じく、宇宙も自分に気づいて絶対精神だ。

  次の話はハイデガーの隠蔽性についてである。存在そのものっていうのは私自身の主体的な力で生み出すというのが前期思想。後期思想は、存在そのものは向こうからやってくるという。ところが、存在者っていう着ぐるみをきてやってくるという。古代ギリシャはプラトンのイデア。きゅうりそのもののイデアこそ存在そのものだとおもっていた。中世では、人格ある神さまという姿で存在そのものがあらわれる。近代だと、デカルトの我おもうゆえに我あり。自分の存在が存在そのものだ。そして、現代においてはニーチェがいうように、この世界は絶対的な価値のない相対的世界。善悪、真偽だって相対的だという。存在そのものはみんなにとって共通だとおもいきや、これすら相対的。だから、無の時代であり、無のことをニヒルといい、ニヒリズムという。無だからこそ、着ぐるみきていない存在そのものが丸ごと出現する時代だという。これを存在の到来と呼ぶ。

 
 まとめ

  存在の科学

   異次元理論


      個人の成長と人類の歴史と生命の進化、宇宙の進化はすべて連動している。かって、ケンウィルバーは七段階説を提唱した。一段階目はウロボロス的段階。これはインドのシンボリックな絵にあるが、自分のしっぽをかじるへびである。このとき、主観、客観がまだ未分化の段階であり、成長においては生後二ヶ月の段階。ブロフの分娩前後マトリクスにおいては卵子。人類の歴史では300−600万年前の時代。生命史では魚類だ。第二段階は魔術的テュポーンの段階。成長においては2−7歳、まだ、シンボルである言葉と実際の対象が結びついていない段階。人類史ではBC20万年ー1万年である。母体では細胞分裂だ。生命史では両生類。宇宙史においては光に満ちた対称性の世界。第三段階は神話的段階。成長においては7−11歳。ことばと対象は結びつくが論理的に思考するのを模索。人類史ではBC1万年から14万年。このころにおそらくシュメールをはじめ神殿が作られ、龍の信仰がうまれる。生命史では爬虫類であり、まさにドラゴンだ。母体のなかでは爬虫類のような形の胎児だ。宇宙においては対称性崩壊による重さの誕生である。そして、第四段階が心理的自我の段階。成長においては言葉を論理的に使う。人類史ではBC6世紀。ここから、古代ギリシャ哲学がうまれて自己意識や論理に目覚める。胎児においては人間の形に近くなる。宇宙においては星たちが誕生だ。これが今のわれわれの段階であり、母体内では産道を通過し、出ようとする目的が強いころだ。第五段階が霊的段階であり、論理だけでなく、直感的に理解するレベル。第六段階がサトル段階といい、善や瞑想による世界との一体化。第七段階が最高段階であり、コーザル段階といい、ここにおいて私と世界が一体になる。

  さて、われわれは成長、進化を第三段階、神話的段階におけるドラゴン、爬虫類型人類によって妨げられているのだ。第五段階どころか、第四段階から引きずり落とそうとする。だから、この世界は神話的だ。貨幣神話である。実体のない貨幣、お金の情報が支配する神話であり、大手銀行が牛耳る。

  具体的に爬虫類型人類、ドラゴ族はどのようにわれわれを支配するのか。この世界はいろんな波動に満ちている。ある種の周波数をあわせてものをみている。インターネットの世界において、情報が行きかい、これらは不可視だがプロトコルにおいて画像、文字に変換されてモニターにうつるようになる。ところが、特定の情報を得られないようにするにはファイヤーウォールをかけるのだ。以前話したが舞台のうえに催眠術師がいて親子を舞台にあげる。父親には娘がみえなくなるように、と催眠術をかける。父は娘がみえないという。そこで、催眠術師は娘の後ろ側に車のキーをかざす。本来なら、娘がいるからそのキーは見えないはずだが、父に手に持っているものはなにかと問うと、なんと、言い当てたというのだ。つまり、娘という波動を見えないように変換しないようにファイヤーウォールをかけたのである。

  存在論においても、存在はベールをかぶり、存在者となって現れた。存在論的な操作かもしれない。いずれにしても、人類の進化を妨げるための神話への逆戻りと情報の隠蔽、メディアによる操作があるのだ。



2015 1-20


構造主義における神話と実存主義についてである。成長、人類史、胎児の成長、生命史、宇宙史、これらには七段階あり、七つの次元と対応していたというお話をしたい。

  構造主義における神話についてである。レヴィストロースはすべての神話が時代や場所を変えて同じ構造していると主張。構造っていうのは違いとか、変化はあっても変わらない骨格があるというものだ。人間だってみんなちがうが骨格が同じであり、構造がいっしょだ。世界中の神話が同じどころか、なんと数学の法則と構造が同じだともいう。

  次の話は実存主義についてである。実存主義はアンチ構造主義だ。なにか最初に設計図や本質、法則があって次にはじめて存在できるのではないという。最初になんだかわからない唯一無比の私の存在だ。シェリングは神さまの実存についていい、キルケゴールは神さまのもとでの、有限でちっぽけな自分、個性的な自分、単独者としての実存を主張。サルトルはかの有名な、実存は本質に先立つといった。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

前回、ケンウィルバーの七つの段階のお話をした。そして、成長、人類史、生命史、宇宙史、胎児の発達、これらが七つの段階があり、連動しているといった。これらの段階を数学物理学的な次元と結び付けてみたい。第一段階はウルボロス的段階。へびが自分のしっぽをかんでいる絵である。これは主客未分化の状態。生命史では魚類だといった。そして、一次元なのだ。直線のはずだが、ウルボロスだから、閉じたわっかになっている。これは宇宙の構成素、世界最初の構成素であるひも理論のひもなのだ。もちろん、閉じているものと開いているものがある。第二段階は魔術的テュポーンの段階。これはことばと対象物が結びつかない幼児の段階であり、両生類、主客が分裂しつつある状態であり、次元においては二次元の平面である。このとき、神聖幾何学などの平面幾何が全盛きわまる。第三段階が神話的段階。ことばと対象物は対応するが論理的に思考しない。生命史では爬虫類だ。人類史では多くの文明、巨石がつくられた。エジプト文明のピラミッド、シュメール文明などだ。三次元である。時間がないのだから無時間性であるが、それゆえ、この神話、巨大建造物には空間の自在性があったので構造的一致がある。第四段階が心理的自我であり、これが現代であり、自意識を持って論理的に思考だ。もちろん、意識とは過去の記憶、未来の希望という第四番目の時間がくわわって、四次元時空の世界。時間性の世界だ。しかも、ウルボロスの一次元と同じく閉じた時間、大きいスパンだと輪廻、小さなスパンは自己意識だ。第五段階は五次元であり、あらゆる論理的に可能世界が混ざり合う世界。以前話したが、すべてを混ぜると無になるといった。無はすべてが調和したもの。無がでてきて、無へ帰する。五次元は無であり、高次元からわれわれが来て、かえるのである。ところが、三次元の神話にドラゴ族は引き込もうとしているのだ。六次元は愛、七次元は空の次元である。


2015 1-21

普遍的自我と記憶についてである。水というのはどうやら記憶、記録媒体だという説がある。しかも、われわれの体の大半は水だ。地球もまた水のサイクルが多くを占め、すべての記憶、事象、活動は水によってなされているというお話をしたい。

 普遍的自我についてである。特殊的にというのはこれだけっていうプレミアなこと。ひいきされていることだが、普遍的とはすべてに当てはまっちゃうということだ。私といったとき、姿、考え、人格、これらは感覚的にわかる個性的なものだが、これを経験的自我という。カントはこんな経験的自我の根底には、みんな共通の私、普遍的自我がいるのだという。現代においては心理学者ユングは、無意識の奥には人類が共有する普遍的無意識があるという。ここに雛形がたくさんあり、これを元型とよぶ。それゆえ、時代と場所を越えて神話には共通の構造があるというのだ。いろんなものが偶然に一致してりもする。

   次の話は記憶についてである。古代ギリシャのプラトンは、記憶とか、学習っていうのは、すべて思い出していることだという。これを記憶の想起説という。われわれが純粋な魂であったとき、イデアの世界をみた。そして、地上に落下して忘れてしまったというのだ。いろんなくるまがあるが、くるまそのもののイデアを見ているのだ。

  現代においてはベルクソン。記憶は脳に蓄積されないという。脳はあくまでアンテナであり、目は色、形を、耳を音を受信するアンテナのように、脳はそこらにある目には見えない記憶を感じる受信機なのだ。記憶はそこらに即自的にあるという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論



すべては水の流れではないかと問いたい。かって、哲学の祖、タレスは、すべては水であるといった。主流科学からつまはじきにされた科学思想がある。水は記憶、記録媒体というものだ。実際に、実験も行われ検証されたという。喜びながら水をやるのと、憎しみをもって花に水をやるのとは成長がちがう。しかも、顕微鏡でみると水の分子構造に違いがあるという。また、ある薬を使っている患者に、その薬を希釈し、ついには濃度0パーセントのただの水にしてしまう。それなのに、その薬は効用を発揮するという。つまり、水が記憶しているのである。

  われわれの人体のほとんどが水分。地球も水の惑星だ。さらに、記憶とおいうのは複雑な働きをする。複雑な働きをするシステムはえてして、局所的で複雑な構造でなく、もっとも身近で、包括的ななにかが働いていするのだ。そう、もっとも身近ですべてを満たす水が記憶を生み出す。


  人体の中の水分に、そのひとの経験、思い、感情が記録、記憶される。さらに、入ってきた水分からたくさんの感情などの記録を受け取る。これらがあわさって、ひとつの感情になったり、突然、わいてでたようなひらめき、インスピレーションになる。そんな水が排出されていつしか海に戻る。海は無数の記録、記憶が渾然一体となった場所だ。ここでは個性的な記憶、経験的自我と普遍的な自我、すべてがひとつの海というものが一体になっている。海から蒸発し、雲になり、たくさんの記憶の集まりが風をおこし、木々を揺らす。自然界を動かすのだ。また、人体のなかの水分がおもい、感情、ひらめきによってこの世界を人為的に動かす。人体の中の水分もまた代謝してまるで地球の働きと同じ。こうして、記憶と出来事や事象とひとの人為的な活動は水によるのだ。よって、水は放射能などで汚染することでひとびとの感情、記憶が変化してしまうのである。




2015 1-22


間主観性理論と写像理論についてである。この世界はホログラムだといったら、たいていのひとは目を皿のようにする。しかも、ホログラム理論ならば、他人ってなんだ、ということや、なぜ、指先でらっきょを転がせるのか、という当たり前の現象を理屈で説明できるようになるのだ。

  間主観性理論についてである。他人の気持ちを察したり、他者の気持ちを感じるのはどうしてか。他人とはなにか。もともと、近代哲学のデカルトが、われおもうゆえにわれあり、というように、まちがいなく確実だろうという私から推論を進めた。だから、目の前のサツマイモが実在しているか、難しい証明だし、まして、他人の心の証明はなおさらだ。カントは私と他人は同じひとつの普遍的自我だとした。現代においてはメルロポンティ。私と他人、私、あなた、かれらという人称性がわかれる以前、前人称のころがあかちゃんのときだという。私もあなた、かれら、すべてが同じ肉でつながり、私はあなたでない、という自意識に目覚めると、肉に溝をつくっただけ。だから、私と他人は入れ替えることで、人の心をかんじる。フッサールはわれわれおのおのはいろんな限界に囲まれているという。論理的に考えてもこれ以上無理、という論理的地平。感覚だって限界地平がある。これら地平にあらかじめ他人のまなざしがあるという。ものが客観的にあるとは目撃者の数が多ければ高まる。ひとりでも、さつまいもの客観性があるというのは地平に多くのまなざしがあるからだ。

   次の話はヴィトゲンシュタインの写像理論についてである。文と世界は対応しているという。宇宙、世界の出来事、事象と文の対応。これは一枚の写真と、実際のものの配置関係との対応だ。文と世界が対応するのは、同じ論理形式を共有しないといけないという。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   この世界はホログラムである。ホログラム技術とは、一枚のプリント感光版があって、ひとつのレーザー砲によってできる。感光版には縞模様がある。レーザーが放たれて、ある場所に向かう。これを参考波という。もうひとつは感光版にぶつかり、縞模様の情報を読み取り、反射する。これを作業波である。作業波が参考波と干渉して、そこにりんごのホログラム映像が浮かぶ。そして、感光版を四等分すると、りんごが四つにわかれない。なんと、小さなりんごが四個あらわれるのだ。これがホログラムの特性であり、部分のなかに全体が含まれているのだ。ただし、割すると、画質が落ち、劣化するのだ。

  さて、この世界はホログラムである。だから、東洋医学では全身が足のうらや耳にあらわれている。そこを刺激することで、体を治療する。これはホログラム理論だ。さらに、私とAさん、Bさんはホログラムなのだ。同じひとつの感光版を私と一致させると、私と他人があらわれる。同じひとつのものの別の現れなので、他人の気持ちに入り込む。つまり、間主観性理論を説明できるのだ。

  また、私が人差し指でつついてらっきょを動かすのはこれはエンタングルメントだといいたい。二つの箱の片方にボールをいれて、両方ふたをして片方はニューヨーク、片方は東京にもってゆく。東京にある箱のなかは見えないので、ボールがあると同時になり。確率的にあるというのが量子論。箱をあけてもしも、ボールがあったら、ニューヨークの箱のなかはからっぽだお、という情報が光速を超えた無限速度で伝わるというのがエンタングルメントの一例。ひとつの感光版の二つの表れだとすれば、ひとつのある部分はもう片方のある部分に対応し、それは同じ箇所なのだ。だから、瞬時に伝わるのは当たり前だ。

  ここから重要である。指先でらっきょを突っついてらっきょを転がす。これは、私は世界のオリジナルである感光版と一致させる。さらに、目の前のらっきょも感光版と一致させる。私や対象の領域を任意に変えることを自由意志と呼びたい。閾値を自由に変えることだ。すると、私とらっきょは同じひとつの感光版の二つの現れ。しかも、指先がそのらっきょのA点というところに対応。エンタングルメントを起こして無限速度で情報が伝わる。この場合は力学的情報だ。それが指先でらっきょを動かすという現象になって現れているのだ。



2015 1-23


アプリオリな総合判断と物理主義についてである。この世界がすべてホログラムだというなら、ふたつの功罪がうまれる。どうやっても、われわれは見ているものに影響与えちゃうということと、認識と存在はまるっきり逆になるということである。


   アプリオリな総合判断についてである。アプリオリとは先天的とか、はじめからすべてに先立って決まっているというもの。アポステリオリとは後天的、学習によって、ということ。また、分析判断とは、主語のなかにあるものを述語として取り出すということ。じいさんは年寄りだ、というのはじいさんのなかにあらかじめ年寄りっていう性質があるから分析判断だ。また、じいさんは空をとぶ、というのは空とぶっていうのは外から加わったものだから、総合判断。アプリオリな分析判断はわかる。後天的にこの目でみて空飛んでいるのだから、アポステリオリな総合判断。そして、カントはアプリオリな総合判断もあるという。1+1=2というもの。1+1のなかに2が含まれていない。さらに、現代哲学においてはクリプキはアポステリオリな分析判断を提唱した。

  次の話は物理主義についてである。論理実証主義のなかには現象主義と物理主義がある。現象主義は物体がそこにあるとは主張しない。証明でいないのだ。だから、感じたままを記述する。白くて甘いという感覚情報があるという。大福だ、とはいわない。これだと科学理論を作るうえで不都合。少なくとも、物体がある場所にある時間、存在することを約束しようというのが物理主義。この約束をプロトコル文という。

  何時何分にどこどこに大福という物理的なものがあるというのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   前回、お話したが、プリント感光版に反射してホログラムが浮かぶ。しかも、感光版を四等分したらホログラムのりんごは四分割でなく、小さなりんごが四つ浮かぶといった。だから、すべてのものは感光版なのだ。そこからホログラムという部分に分割するという方向をもち、これが思考、解釈、トートロジーになる。アプリオリな分析判断だ。逆に部分から全体へ行くのが時間の流れ。これらは認識論、意識の世界であって、存在論は真逆になる。

  もうひとつは観測行為と観測対象についてである。量子論においては観測行為は対象に少なからず影響を与えるという。首を動かせば、風の影響だってある。そこで影響を少なくするための観測装置が開発される。それでも影響はある。それ以前に、ホログラム理論においてもはや原理的に影響は避けられない。なぜなら、観想行為している自分と観測対象は同じひとつの感光版からうまれたホログラムだからだ。観測対象そのものが自分だからである。よって、自分とは無関係な独立した物理的対象なんてないのだ。すべてが自分にとってという関係が切れないし、自分自身なのだ。対象意識はまた自己意識ともいえるのである。




2015 1-24


存在と所有、そして、アウフヘーベンについてである。この地球はいつしか自意識に目覚めるのではないか。地球に住むものたちが互いにひとつになったとき、レベルアップしてガイヤの意識になるのである。

  マルセル、存在と所有についてである。所有といったら、くるまや家、お金を所有するという。車を改造したり、手放したり、自由に意のままにできる。これを所有の随意性という。ところが、絶対的に所有しているとおもわれる自分の身体、これはまた、意のままにならない。不随意性なのだ。マルセルは身体っていうのは、所有と存在の中間にあるという。

  次の話はヘーゲルのアウフヘーベンについてである。矛盾対立しあうもんぽがであって、ひとつになる。このとき、AとBはCになるが、CのなかにはAとBが保存されている。それでいながら、CはAとBにとってのレベルアップ。正と反が出会い合になる、ということを繰り返し、宇宙、世界は進化発展しているというのだ。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   
    ガイヤ理論というのは、地球が自意識に目覚めるというお話だ。現代においてはインターネットがある。これはまるで、地球におけるニューロン細胞のようなものだ。ネットの結節点の数が一定に達したときになにかがおこる。また、個々の人間は主観と客観、私と世界、私と他人という二元性のなかにいる。上下、善悪、という二元性は価値序列である。これらがひとつになるとき、主客、自他がひとつになって、全体として意識がまとまる。これがガイヤの意識になる。もともと、自分の心、からだも同じようにしてできた。卵子の細胞分裂は二つに分裂の連続だった。そしてついに、多細胞になってそれがひとつになったとき、一なる肉体となって機能する。さらに、心もまた、生まれるとき、二元性を繰り返してついにはひとつになって心になる。生まれたときはこの心と身体もひとつだったが、だんだん二元性が進んでいくことになる。心と身体、主観と客観、自分と他人という二元性だ。これが克服して一なるものになるとき、こんどはガイヤの心が生まれるのだ。

  ガイヤ意識の誕生を阻止せんとする働きがうまれる。この世界は一なるプリント感光版の現れだという真実を見えなくさせるために、われわれのマインドボディという受信機に制限を加えるのだ。ある特定の波長しか受信できなくするのだ。インターネットでいえば、画面を見えている自分が意識。画面のなかの操作する自分がマインドボディ。いろんな情報を自在にアクセスできなくするのである。これは数学的、自然科学的な制約になってあらわれる。科学法則、数学論理法則は大いなる惑星意識か、はたまた、時を越えた知性体による政治によって規制される。科学法則に先立つ、大いなるものの政治である。



2015 1-25


イマージュ論と無規定箇所についてである。すべてを知りたくても知ることができない。検閲がかかっているし、そのほうが気分安定だ。われわれは自由な存在だが、決定的な制約、檻のなかにいる。

  ベルクソンのイマージュ論についてである。友人の顔をみる。とりわけ、鼻をみつめるのだが、すると、背中はみえないし、足も見えない。そもそも、ほんの一部しかみていないし、実在感はない。あとはイメージ、観念で補強しているのだ。この世界はイメージ、観念でも、実在でもない、また同時に両方でもあるようなイマージュでできているという。流れのなかで抵抗があるとき実在っぽくなる。宇宙もすべてがみえているわけでもないから、宇宙論的イマージュ。自分のからだもまた、お尻はみえないし、ほとんどイメージなのだが、身体的イマージュだ。宇宙論的イマージュのなかの身体的イマージュ。つまりは、すべてはイマージュというイマージュ一元論である。

  次の話はインガルデンの無規定箇所についてである。小説などを読んでいると、ドラマとはちがって想像力をかきたてる。男は馬に乗り、真世の中の獣道を疾走している。こういう文があったら、その男が何色のどんな服をきているかの記述がない。無規定だから、ここを想像で埋めるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  自由っていうのは不安がつきものである。自由であるゆえに自分を信じて行動する。この自由意志は胸のうちにあるのか、はたまた、あたまのなかか。そうではなく、私と世界のあいだにあってしかも、制約されることで不安定から安定性を与えらている。

 科学において、観測行為っていうのはどんな観測装置を使っても、観測対象に影響を与えるという。電子だって、光を当てた瞬間、軌道を変えてしまう。ハイゼルベルグの確定性理論だって、電子の運動量と位置は同時に知ることができない。私がみる、目を大きく見開くだけで観測対象がかわる。固定された対象と固定された観測する私がかたまりのように出会うのではない。常に流動的であり、現在進行形で変形しつつある。私と世界のあいだは確率波でみたされている。まさしく、自由そのものがある。ところが、前回も話たが、この世界はバイオコンピューターのなかのホログラム世界。われわれが使うコンピューターは二値論理、オンかオフ、0か1によってできている世界。これだといろんなタスク処理をする。ところが、バイオコンピューターは三値論理であり、0と1とー1によってできている。これによってパリティといって、情報が雑音によって乱されても、補正できたりする。また、すべての情報を処理するのでなく、ある特定の情報を無視し、なにかに集中できるのだ。つまり、われわれの日常の意識の営み。すべてを瞬時に意識しない。あるものを意識しているときは他のものを無視している。これが意識の志向性をつくる。こうやって最低限の自由の制約があり、さらにそのほかにも多くの制約によって、すべての波動を受信できないような制約があり、この世界が一なるものの現れ、ホログラムであることを隠されているのだ。




2015 1-26


時空と構造的構成主義についてである。一見、まったくもって関係ないものが同じだったりすることがある。月がすっぽんだたとか、お尻はあたまだったなど。実に、DNAの使われていない大半、ジャンクDNAはこの大宇宙と同じ構造だったのである。

  時空とはなにか。ニュートンは絶対空間と絶対時間を提唱。時間と空間は絶対的に実在するという。カントは時間と空間というのは主観の側にあって、色とか、形、音などの感覚をまとめる形式だという。また、現代においてはベルクソンの時間と空間がある。本当の時間は量的じゃないから測定なんてできない。時計っていうのは針の空間移動であり、空間化されたニセ時間だという。本当の時間は過去、現在、未来が並んでいるのでなく、浸透しあっているもので質的なもの、これを純粋持続とよび、これが意識だという。

   次の話は構造的構成主義についてである。まず、おのおのにとっての現象の世界がある。自分にとってどんな色にみえるか。近眼のひと、寝ぼけたひと、状況によってもちがくみえる。現象とは自分にとって確実に感じていることだ。これに対して、構造っていうのはすべてに当てはまる普遍的なもの。同じ構造を探すが、どうしても一致しないときは、自分にとっての現象を優先するという発想だ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


     ロシアの科学者、ピュードルガージャジェフはDNAの大半を占める無意味な塩基の羅列であるジャンクDNAは言語、記号になっているという。残りの約30パーセントが遺伝子であり、2パーセントが人体を構成する遺伝子だという。   

  ひょっとしたら、ジャンクDNAはDNAなのに後天的な情報をワームホールで別世界に送っているかもしれない。そもそも、DNAはなぜ螺旋かといえば、電磁波などの波を受信するアンテナだからだ。そこから別世界に秩序、意味ある情報を流し、別の時空のエントロピーを下げたり、上げたりして調節している。

  このDNAの比率は宇宙のそれと同じだ。ダークエネルギーは宇宙膨張の力だが、これが全体の70パーセント。30パーセントは収縮させようとするダークマター。そして、3パーセントが光を反射させる物質である。

  宇宙は誕生したとき、まずは光があった。時空が先ではない。だから、時空はゆがんでも、光速度は不変だ。いつしか宇宙は膨張によって冷えて時空の対称性が壊れて物質できるという。これはホログラム宇宙を考えたとき、次のようなものかもしれない。光が最初にあって、プリント感光版に反射し、時空という場に物質というホログラムを生み出しているのだ。

  さて、ジャンクDNAの70パーセントは別次元につながるから、これは時間。30パーセントは空間。3パーセントが人体空間ではないのか。さらに、ゲシュタルト的にも、3パーセントが見ている対象物。30パーセントは収縮性であり、ほんわりとしたかたまりになる。70パーセントはその背景をなし、発散性をもって意識を別のほうへと移行させようとする力になっている。この収縮と発散性もまた、宇宙とDNAといっしょなのだ。





  これらのことが、異なった分野間で構造構成的にわかってくるかもしれない。

  

2015 1-27


志向性と現前性についてである。目の前にいろんな現象が繰り広げられ、時が流れているのを実感する。この直線的な時間の流れは錯角、虚妄だったのだ。あるのは今この瞬間だけ。すべては今のループだった。

  フッサールの志向性いついてである。意識とは常になにものかへの意識だという。ただの意識というのはないという。いわば、矢印のようなものだ。まずは色や形、音という感覚的材料、感覚的ヒュレーというものがある。これを狙い撃ちするのが意識作用の矢印であり、これをノエシス。これによってできる意識の対象がノエマという。ところが、すべては思い込みであり、ついには判断停止すると、ただの私という純粋自我が残るという。

  次の話はデリダの現前性についてである。現前性とは目の前に現れるということ。とりわけ、自分自身が自分の前に現る。これを自己現前といい、おれだ、私だ、というとき、とりあえず、自分が前にいるような言い方だ。また、今っていう瞬間もまた、目の前においてしまう。これらはすべて、自分の痕跡、残像、足跡にすぎない。現前を大切にしてきた西洋哲学への批判であった。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


  自分の前にはいろんな出来事が流れているようにみえる。直線的に過去、現在、未来の流れがあるようにみえる。本当はタイムループした円なのだ。次元の話をすると、まずは一次元の直線上をいったりきたりする運動が平面の二次元になると、山、谷の波形、または、円運動になる。この円が三次元まで拡張すると、球体やトーラスというドーナッツ状になる。さらにこれが四次元時間軸で自己完結して一周する。これはニーチェの永劫回帰のようなもの。これらを閉じた円ではなく、直進性を与えている力が働いている。これらはあくまでマインドボディというものが受け取っているPCのなかの仮想の自分であって、本当の自分はモニターの前に座っている意識、コンシェサスである。この意識は今という瞬間でしかない。これはいってしまえば、0次元の点であり、点が回転し、ループしているのだ。これはまさに宇宙誕生のときに光があり、時空がうまれ、物質がうまれたといったが、じつは、光のまえの光の構成要素のスピノールのことだ。スピノールは質量、堆積0の点の回転、スピンであり、二回転で元の状態にもどるというメビウスの帯のような性質をもつ。私のおおもとの意識はこのスピノールならば、宇宙の誕生と同時にいることになる。
 
  この点のループが微分積分的に切り取られて回転運動に直進性が与えられ、波動になる。回転する円に直進性をくわえると、山と谷の波になるこの世界の感覚、光だって音だってすべてが波動だし、遺伝子は螺旋になったアンテナで波動を感知しているといった。こうやって、もともとは今この瞬間の私という点の回転が直進性をもったものが目の前の波動世界、現象界だったのである。

 さて、本来ならば点のループ、一次元ループなのに、直進性を帯びるのはなぜか。前回話した、DNAの70パーセントを占めるジャンクDNAが発散性をもつゆえに、円として閉じようとしても、直進性のプログラムがあるので、結果的には閉じそうで閉じない二重螺旋になるのだ。だから、点のループである意識もまた、直進性を帯びて志向性の矢印に、現前性が生まれるにいたる。前回話したように、ゲシュタルトにおいても、70パーセントの一番の外側領域は発散して、意識を別のほうへ向かせる力になるのだが、ジャンクDNAにおいて、もしも、塩基配列が特殊なプログラムになっていたら、その意識の向かう発散性をコントロールできてしまうのだ。マインドボディゆえに、洗脳されてしまうのである。それでも、ずーっと手前にいる意識、コンシェンサスとしてのループする点であるスピノールはこれに影響されないのである。



2015 1-28


指示の魔術と還元主義についてである。すべてのものの特性について考える。なにせ、あらゆるものに共通するのがなんとバネのような性質をもつということだ。すべては螺旋で互いに絡み合っているのである。

  パトナムの指示の魔術についてである。りんごを見ているとき、あたまのなかにりんごの全体イメージを描く。これが表象である。このりんごの表象と実物のりんごとは目にみえない糸で結びついている。つまり、指示関係になる。ところが、どうやってそれがなされるか、まるで魔術のようだ。自分から矢印のような志向性がでているのか、それとも、りんごが強いインパクトでりんごっていったらりんごだと叫んでいるのか。このりんごの強調を自己同定性というが、いずれにしてもなぞの魔術的なものだということだ。

  次の話は還元主義についてである。すえてをなにかひとつのものに還元しちゃうのが還元主義。すべては原子でできているというのも、すべては魂を持つ生命だというのも、または、すべてに神性がそなわるというのも還元主義になる。

  まとめ

   存在の科学
  

  異次元理論

  前回はなしたが、すべては螺旋である。目の前の事象、出来事も、過去と現在と未来という直進性がある。本当ならばタイムループ、繰り返している。それでも、自己完結の円にならないように、まるで微分するような感じで直進性をもつ。手前にいる本当の自分は完全なループをしている点だといった。しかも、点の回転、スピンとは光の構成要素であるスピノールである。二回転して元にもどるメビウスの帯のような特性をもつ。これにも直進性があり、円が直進しようとして螺旋になる。事象もループに直進性を与えて螺旋。DNAもまた二重螺旋であり、70パーセントのジャンクDNAが発散性、直進性をうながす。すべてが螺旋なのだが、螺旋、バネの特性を考える。まずは、螺旋であることで電磁波などの波動を受信、送信する。さらに、DNAにみるように、二重になって情報をコピーする。また、バネを混ぜると絡み合う性質がある。そして、運動エネルギーを蓄積できる。ここから、意識螺旋、DNA、事象螺旋が絡み合い、情報を交換しあって外界のものを心のなかに反映できるのある。ある意味、すべてが螺旋だというのは還元主義的でもある。



2015 1-29


ベルクソンの表層自我と内奥自我、そして、マールブランシュの機会原因論についてである。私は自由意志をもっている。なんでもできるさ、と思いきや、空は飛べない、壁があったら通り抜けない。さまざまな物理的制約にがんじがらめである。この物理的制約はどうやってうまれたのだろうか。

  ベルクソンの表層自我と内奥自我についてである。表っ面の私が表層自我だ。周囲とかかわるときにみえている私。表層自我は空間的だという。空間的とは非連続的、離散的。つまり、行儀よくすべてが並んでいるのだ。私と世界、他人、こうやってはっきりわかれている。上下左右もそうである。言語も空間的だという。単語は並んでいるのであって、融合などはしない。みんなと共有する空間ではなく、内奥自我は自分の奥底の本当の私。これは空間じゃなくて時間だという。しかも、過去、現在、未来がまざりあった純粋持続というほんとうの時間だ。


  次の話はマールブランシュの機会原因論についてである。ビリヤードで一番ボールが二番ボールにあたって二番ボールは動く。なんと、ボールが当たったとき、あたったから二番ボールを動かしますよ、と神さまが介入しているという。すべての力学の伝達に神さまが介入。神さまはすべてに偏在しているという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    表面的な意識はいつも変動している。考え、感情、性格だ。これは海でいえば、荒波、荒立つ海面である。その下の中層はおだやかな流れ。意識ももっとおくの個人的無意識は変化が少ない。さらに、集合無意識、超無意識はほとんど変動、変化が無い。これは海でいえば深海。流れがほぼ0である。さて、もっと奥に進むと、非意識になる。これはもはや物体である。動き、変化が0どころじゃない。なんと、それを越えて表層の意識とはベクトルが反対になっている。プラスが0になり、ついにはマイナスになっているのだ。この非意識は物体だといったが、たとえば、私の表層の意識が自由意志で壁を押す。すると、非意識である壁はベクトルがまったく逆になって、私に対して押し返してくる。これが作用反作用になっているのだ。

  この世界はすべてが作用反作用の法則で力を伝達している。ということは、そこに作用である私の表層意識と反作用である非意識があるはずだ。万物の隅々まで私の表層意識が潜在的に潜んでいるのだ。ただ、非意識と相殺して消えているだけだ。だから、私が東京にいるが、ニューヨークのどこからにも作用反作用の調和のなかに私がいるのだ。私がそこに移動すればそれが顕在化するということだ。マールブランシュはすべての力学的伝達のなかに神さまが介入するといったが、じつに、すべての意識、すべてのものたちがあらゆるもののなかに介入しているのである。


2015 1-30


カント哲学と大森荘蔵の天地有情についてである。人間の意識、無意識の世界はまるで天地の壮大なサイクルのように渦巻いているのだ・

  カント哲学についてである。われわれがみている現象の世界は原因と結果の因果律に支配されている。ところが、その背後には物自体の世界がある。ここには因果律がない。因果律がないということは自由意志だ。現象の背後の物自体が自分の自由意志の実践だった。しかも、損得勘定で動いているときは因果律まみれなので道徳的な善なんてない。自由意志だからこそ、道徳がある。よって道徳の存在根拠は自由だという。

  また、カント解釈をした後世のひとびとたちの思想にふれてみる。まず、感覚っていう雑然とした情報。これらを論理的に組み立てるのがカテゴリーだ。こんなカテゴリーという道具をつかっているものが私の中心である統覚。この統覚がカテゴリーとイコールだという思想があるのだ。だから、自我とか、統覚っていうのはカテゴリーの論理的な自動的な展開だということになる。
 
 次の話は大森荘蔵の天地有情についてである。著作のなかに、知覚、言語、世界、というのがある。なにかをかんじる知覚。これに意味を与える言語。言語は時空を超えているという。そして、世界があるのだが、これらは同じひとつのものだという。天地有情とは、この天地には人間と同じ感情があるという。時に自然は冷酷であり、暖かくもあり、まさしく感情の現れなのだ。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論

 
  前回話たように、表層の意識は海面の波である。流れがはやい。ここでは考え、感情の早い移ろいゆきだ。意識の中間層である無意識。これは穏やかな流れの海の中間層。魚が泳いでいる。そして、超無意識が深層であり、深海の流れが超遅い層だ。そして、海底の地形が動きがゼロであり、その地形の下は表層意識とは真逆に変動するマイナスの世界。これが物理世界の反作用だといった。さて、動きが0の海底、地形とはなにか。動きが無いのだから、無時間である論理やイデアの世界だ。この地形によって海面の波の動きも決定される。イデア、論理に自由意志が従う。また、表層意識、自由意志の海面から蒸発して雲になり、風が吹き、ついには雨がふって陸地に川をつくって地形を侵食する。これはイデア、論理を変えることで、じつは気づいていないが、昨日1+1は2というのは今日のそれではない。さらに、地形の侵食は大地の下だから、物理的制約のマイナスのベクトル領域だ。だから、これは反作用に抗して物理的なものを変形するという行動、行為というものでもある。このように、天地の動きがそのまま意識、無意識、非意識のサイクルになっている。



2015 1-31


心身問題とハイデガーの理解についてである。一見、関係ないもの同士が関係していたときは驚きのあまり、鼻の穴から目玉が飛び出す。ちょっと飛び出し方にいささかの疑問が残るが、人間と物理学の法則である不確定性原理が深く関係していた、というお話をしたい。

  心身問題についてである。心とからだ、心と物体について云々する分野である。デカルトの心身二元論は、心とからだ、物体はあったく無関係の世界にあるよ、という思想。この考えは科学の基本スタイルになった。観測者としての私の心は物理宇宙の外にいるから神様の視点で冷静に眺められるのだ。ところが現代科学においては、観測すると、どうしても観測対象に影響与えちゃうという量子論が主流になりつつある。心身一元論というものもある。心でも身体でもないないかであり、宵の明星と明けの明星が同じ金星なのにニュアンスが違うのと同じように、同じなにかだという。

   次の話はハイデガーの理解についてである。ハイデガーは気遣いというは自分への気遣い以外にたくさんあるという。たとえば、社会の窓があいていないかさりげなく確認する自分への気遣い。自分自身にかかわるという自己意識がもっとも有名だ。こんどは同じように他人へと気遣い、さらにいろんな事物にも気遣う。何かを知るとは、なんとかのために、という道具のネットワークにはいることだという。鉛筆は書くために、書くのは伝えるために、という連鎖から鉛筆の意味を知る。

  さて、理解にはまずは準備段階があるという。これを先行構造という。まず、なにを理解するか固定する。先把持という。なにを理解しようとするかを決めるという先視。これらがあって初めて理解、解釈がうまれて、白い馬をみたとき、どの性質を強調しちゃおうかと、分節化がはじまる。白馬は白い、と解釈する。

  まとめ

  存在の科学


  異次元理論

人間と不確定性原理がどう関係しているのか。ハイゼルベルグの不確定性原理とはなにか。電子がどっちの方向にどれくらいの速さで進んでいるかを速度というが、これに質量をかけると運動量になる。もうひとつはその電子の位置である。電子がどっち方向に動いているのか、運動量がはっきりすると、位置はどこだか不明確になるという。これは軌跡でぼやけた写真のようなもので、どっち方向に進んでいるがどこにいるかわからない。また、位置がはっきりすれば、鮮明な写真のように、それがどっち方向に移動しているか運動量がわからなくなる。こっちがたてば、あちらはたたない。また、今の話は空間の話だが、時間に関しても同じことがいえるという。今っという瞬間の時間を指定すると、エネルギーが不確定になるという。エネルギーを確定すると、それには長い時間を要する。
  これらはそもそも、すべてが粒子であると同時に波動だからだ。粒子性が強まれば波動性がぼやけ、波動性がはっきりすれば粒子性がぼやけるのだ。

  これを人間にあてはめてみる。りんごという事物をみてみる。すると、りんごの粒子性がはっきりする。ぼやけてしまった波動性は私の心という波動に共鳴し、ゆえに私はりんごを認識できる。こんどは生命、とりわけ人間はどうか。さいとうくんをみる。肉体をみているのだから、粒子性が強い。だから、ぼやけた波動性はかれの心になる。事物とちがって直接、私の心と共鳴しないのだ。かれの心そのものになるのだ。だから、われわれは互いに共鳴しあうと試み、愛というものが生まれる。サルトルは不在の他者というが、肉体がここにない、粒子性がないとき、強くそのひとの波動性、つまり、心を感じるのである。




2015 2-1


再生的構想力、そして、対自と意味についてである。股間はパンツで隠せるが驚きはなかなか隠せるものではない。そんな驚きの世界観が、この世界はどうも存在しない、破滅してしまったというもの。まはや銀河は滅亡し、いまみえている世界は記録を再生しているホログラムだという世界観である。

  カントの再生的構想力についてである。カント認識論では、色、形、においという感覚は雑多でばらばらなので、これを論理であるカテゴリーでまとめるという。このとき、カテゴリーという論理と感覚というビジュアル的なものを結びつける仲介役に構想力があるというのだ。

 まず、過去の記憶を再生していまの見えているものと結び付ける。親和力といって、ひとつになろうとする力がこれをさせるという。友人の背中の記憶を再生に、今見ている正面の姿をひとつにするとイメージ像がうまれる。これが再生的構想力だ。ところが、もっと根源的な構造力があると考えた。それがカテゴリーと感覚を再生なんかしないで直接結びつけちゃう能力。感覚の世界には時間の流れがある。同じくカテゴリーにも因果律といって、原因と結果の時間がある。時間を媒介にしてダイレクトにつなげるのだ。これを産出的構想力といって、これによって超越論的時間規定というのがうまれるという。

  次の話は対自と意味についてである。サルトルは即自存在は石ころのように即自分っていう存在だという。ところが、おれはおれだといっても、これは一致しない。ちょっと前の自分で、基本的にずれがあるのだ。これを自分と対面する存在から、対自存在だという。このとき、いろんな即自に意味をあたえられるのだ。

  話はかわって、リチャード・オグデンの意味の三角形というお話。ジャングルのなかのりんごは何の意味もない。そこに思想というイメージするだれかがいないといけない。これが三角形の頂点。もうひとつの頂点に、言語があり、もうひとつが指示対象のりんごだ。この三つの三角形が意味をうむという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

     
     なんと古代の考えのなかにこのわれわれが住む銀河である天の川とお隣のアンドロメダ銀河が衝突したというお話がある。つまり、われわれの世界はもはや存在しないのだ。そして、銀河系の中心のブラックホールは宇宙の全出来事を記録するアカシックレコード。ブラックホールのなかには球面があり、これがあらゆるものが加速して光速を超える限界面である。これを事象の地平面といい、この面積に蓄積できる情報量、ピットはなんとこの宇宙の情報に匹敵するという。平面のなかに蓄積された情報がレーザー光で三次元ホログラムとして浮かび上がるというあのプリント感光版に相当するのである。

  さて、銀河のブラックホールはかっての天の川銀河とアンドロメダ銀河をホログラムとして再生しているのがこの世界だといいたい。だから、生命、意識があるのだ。人間を含めてあらゆる意識体は自分を中心にして円錐状に世界をみる。遠近法的である。円錐とは光の特性、映画館の映写機なのだ。複数の生命が映写機であり、かっての記録された宇宙を多角的に再生しているのだ。生命がいるということは裏を返せば、その宇宙はもはやなく再生されたホログラムだということを意味する。さらに、この生命によって事象は意味づけされる。意味の三角形のように、意味を与えるためにかっての世界を浮かび上がらせているのだ。

  ひとだって、記憶を想起したりする。また、この瞬間の自分を意識する、自己意識だって、ちょっと前の自分の再生なのだ。短い周期では自己意識の自己再生。さらに記憶。一生においては死際にみるといわれる記憶の走馬灯。これらは過去の再生なのだ。これが宇宙的な大規模な波長で行われているのがいまいったホログラム宇宙なのだ。

2015 2-2


相対主義と多元論についてである。この世界は徹底的に相対的なのではないのか。未来がたくさんあるように、過去の歴史もたくさんある。宇宙の法則だってたくさんある。そんな相対性の極みが反動となっていまなにかを感じている瞬間がある。

  相対主義についてである。古代ギリシャにおいてはソクラテスと対決したソフィスト軍団が相対主義だ。ソクラテスは不変不動の真理を求めてやまなかった。ところが、ソフィストたち、ゴルギアスやプロタゴラスなどは真理はひとによってちがう、相対的だといった。善悪も真偽もちがうのだ。すべてをはかる物差しなんてなくて、みんなおのおのの物差しをもっているという。現代においては、この世界は絶対的な価値なんてなくて、しかも、なにも価値を共有していない。私とAさんは考えも、目もちがうのでなにも共通していない。存在そのものっていうのも共有していないから、この世界は無、無をニヒルというのでニヒリズムという。だから、無からオリジナルの価値の創造だ、といったのがニーチェの超人思想だった。

  次の話は多元論についてである。古代ギリシャにおいてはエンペドクレスの四元素説。地水火風の四つの組み合わせで世界ができているという。アナクシメネスは種子学説。すべてはおのおのの種でできている。たとえば、ここにある石ころですら、固有の種からうまれたという発想。現代においてはウィリアムジェームスの多元的宇宙、オープンユニバースという思想。人間に自由意志があるように、宇宙も固定されたものでなく、刻一刻、成長し、変化しているのだという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   まずはアインシュタインの相対論からである。時間空間は相対的だという。空間においては、前後、左右、上下があるが、逆立ちしたら上は下、下は上になる。向きを変えれば、左右も逆転。すべては相対的だ。また、時間においても、異なった運動状態のものは今、現在が同じではないという。しかも、Aさんにとっての過去と私の過去も同じじゃない。いってしまえば、異なった因果、時間軸にいるのだ。さらに時間と空間も固定されていない。

  時間というのは未来はたくさんある。人類存続の未来、滅亡の未来。金持ちになるかそうじゃないか。そして、先入観においては過去はひとつだけ。過去は一本の時間軸だと思い込む。ところが、未来も過去も相対的であって、過去もたくさんあり、時間軸が無数にあるのではないか。歴史はひとつではないのだ。ダーウィンの進化論は恐竜が滅亡して、哺乳類が進化した。これも正しい。また、前回話したように、天の川銀河とアンドロメダ銀河はもうすでに衝突して、ブラックホールに刻印されている情報がホログラムとして再生されている世界なのかもしれない。そして、生命の意識はホログラムを映し出す映写機であり、意味づけるためのマシンかもしれない。そんな歴史もある。さらに、この文明はもしも滅びたらわずかに残った人々はかっての科学文明を知らず、神話として受け継がれていく。だから、なんどとなく、この世界には文明が開化しては滅びて神話になっているのではないか。あらゆる神話に大洪水における滅亡がでてくる。旧約聖書のノアの話。シュメール文明ではアヌンナキという爬虫類型人類がいわゆる人類を滅亡させるために洪水を引き起こしたという。しかも、これはダーウィン進化論の恐竜と重なる。たくさんの過去、時間軸があるのだ。

  また、この宇宙はひとつの世界、固定された法則があるわけでもない。産業革命前の宇宙はそのときの日常生活が宇宙になっていた。現代では電気文明なので、宇宙は電気仕掛けになっている。雷は大地と雲のあいだだけでなく、雲からバンアレン帯を超えて宇宙に伸びて、宇宙の電気網とつながっているという。宇宙には電気網がはりめぐらされていて、太陽はプラズマボールの電球だという。つまり、われわれの日常がそのままでかくなっただけだ。宇宙の電圧が低くなると太陽の光が弱くなるという。太陽も地球も互いに異なった電荷をもって接し、ラングミュアシースというバリアをつくって電気網とつながるという。

  このように歴史も宇宙もすべてが相対的だが、この反動ゆえに今この瞬間のクオリアがある。今、なにかを感じているというのが瞬間であり、今この瞬間とクオリアは同義であり、これは絶対的、不動のものなのだ。二回転して元に戻るという実体なき点。これは光の構成要素であるスピノールであり、それが私であり、クオリアなのだ。先ほどでてきた相対論における今は共有していないというときの今は見かけ上の今にすぎない。



2015 2-3


錯覚論論法とレーベンハイムスコーレムの定理についてである。日常のなかに真理が見え隠れする。水槽で優雅に泳ぐ金魚。斜から見ると、なんと一匹の金魚が二匹にみえる。どっちが本物なのか、はたまた、どっちもニセモノなのか。水槽の中の金魚というお話である。

  エアーの錯覚論法についてである。錯覚について考えるとおもしろいことがわかる。たとえば、遠くにあるはずの池が近くにみえるという蜃気楼。水の入ったビーカーのなかにガラス棒を入れると曲がって見える。じつは、たしかに、手で棒をさわれば錯覚とわかるし、時間がたてば蜃気楼は消える。感じたままを言ったり、記述したりする言語を感覚与件言語という。この言語だと、錯覚と正常な知覚は連続していて、区別できないという。ところが、自分の外の物体があるのはなんびとも証明できないが、かりにあることにしましょうという約束をする言語を物理言語という。物理言語を使うと、錯覚と正常な知覚は区別できちゃうという。つまり錯覚は言語の選択によるという。

  次の話はレーベンハイムスコーレムの定理についてである。宇宙には無限の要素がある。これらの要素をペア、カップルにする。すると、あまりがでるかでないかだ。これは正しいペアにならないというのがこの定理だ。ここから、パトナムは考えた。古典的な思想に、世界のあらゆるものと心のなかのイメージを一対一に対応できちゃえば真理という、真理対応説。これが成り立たなくなる。私と世界というわけかたもまちがっている。私と世界がいっしょになって私と世界をつくっているという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


    水槽のなかの金魚をハスから見えると、一匹のはずなのに二匹にみえる。どっちが本物の金魚なのか。はたまた、どっちもニセモノであり、この世界は虚妄世界、マーヤーなのか。

  じつはなにかを意識するとき、かならずや、一なる対象ととらえている。この一というが虚妄なのだ。ほんとうは無数の金魚がいるし、無数の斉藤君がいる。ここにある一個のりんごも本当は無数にある。無数にあるとは無いに等しいともいえる。

  さて、ここに一個のりんごがあるとしたら、それは私がそこにおいたといういきさつ、因果律、時間軸がある。ところが、私ではなく、橋本くんがおいたという並行世界、可能世界もあるはずだ。すると、一個のりんごがあるという事実は無数の因果律、時間軸のなかのワンシーンなのだ。一枚の写真にみかんがうつる。私がそこにおいたと記憶する。それでも、一枚の写真には時間が流れず、因果律もないので、いろんな可能世界のワンシーンになっているのだ。だから、無数にそのみかんはあるのだ。アニメでいえば、一こまを他の物語に使いまわししていることと同じ。ひとつの状態を無数の可能世界が使いまわしているから一匹の金魚は無数にいて、たまたま、そのうちの二匹がみえた。また、さきほどもいったりょうに、無数にあるとは無いともいえる。

  レーベンハイムスコーレムの定理にあるように、一なる対応関係なんてないのだ。因果律、時間軸を導入したとき、一がうまれるのだ。



2015 2-4

物語文と親和力についてである。今年は未年だが、羊といったらまるでわれわれのようである。いきなりだが、われわれは制約があり、柵のなかにいる家畜や、畑で植わっている野菜同然であったというお話をしたい。


   ダントの物語文についてである。出来事を把握するには、ただの事実の羅列ではだめである。千九百何年に何が起きて、二千年に何が起きたという状態記述である。戦争がいつからはじまって、いつ終わったのか、という流れではじめて意味がみえてくる。出来事をまるで物語のように語るのである。

   次の話は親和力や観念連合についてである。色、音という感覚的印象がまるで引力によって引き合う力のような親和力によってひとつのイメージ、表象になる。さらに親しい表象同士もくっついていく。こうやって、親和力という力で結び付けて行くのだ。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  五次元世界にはさまざまな出来事の状態がアニメのセルのように並んでいる。前回お話した水槽のなかの金魚のように、はすからみたら二匹にみえてどっちが本物か、という話と通ずる。一匹のえさをたべている金魚は一枚のセルであり、これらがたくさんの因果律、時間軸による物語の一部として使いまわしにされる。このとき、状態同士をくっつけているのが親和力であり、親和力の正体が意識の志向性だが、直線的な矢印でなく、螺旋の矢印、螺旋意識なのだ。螺旋はバネをたくさん入れた箱のように親しい、近いものと絡む特性がある。状態を螺旋意識が絡めて結び付ける。だから、螺旋意識が物語を作る監督、演出家、主演なのである。

  この螺旋意識は生体のDNAの螺旋と呼応している。DNAの70パーセントがジャンクDNAであり、ほとんど無意味な塩基配列だというが、ロシアの科学者が、あるジャンクDNAは抜き取られて再度埋め込まれた形跡があるといった。つまり、なにものかによって、操作され、よって、螺旋意識もこれによって知覚領域、思考領域が限定されているのだ。

  このなにものかがレプティリアンなのだ。そして、われわれが家畜を育て、化学肥料を与えたり、野菜をDNA組み換えをするように、われわれを捕食するレプティリアンはわれわれを操作しているのだ。われわれが生命の頂点ではなく、特権化して人類を特別視しがちだが、ほんとうはわれわれ自身も捕食されているのだ。しかも、化学肥料でなく、量子物理的な操作で真実が見えないように操作されているのである。


2015 2-5

  中心と周辺、そして、プラトニズムについてである。食欲の秋というが、日々食べている昼食。昼食に食べられないように常日頃鍛えている。食べる、食べられるの捕食関係。生きているというのはこの捕食の連鎖に入ることなのだろうか。

  中心と周辺についてである。りんごを見ているがこれが被写体。その周囲には背景がうっすらみえる。りんごのパーツを組み合わせて認識してるんだ、というのがブント要素主義。被写体と背景の関係のなかから浮かび上がり、より立体的に認識しちゃうんだよ、というのがゲシュタルトである。

   心理学においてはピアジェ。細い容器と太い容器に同じ水を入れると、水位は細い容器が高くなる。子供はそこだけを中心にみえているから、水の量がちがうというが、脱中心化できるようになると同じ水の量だと考えるようになる。

  ジェームスのフリンジという話がある。われわれみているのははっきりした中心と周辺のぼんやりとした周辺。時間もまた、今だけでなく、過去と未来はぼんやりと描いていて、もはや、オーラのようになっているという。

   次の話はプラトン主義についてである。この世界にはいろんなりんごがある。これらはりんごそのもののイデアの影だという。ここからみたりんご、このりんごは甘い、とか自分の視点にたった遠近法の見方をプラトンは嫌う。イデアは反遠近法主義である。

  まとめ

  存在の科学

  
  異次元理論


   この世界はすべてが捕食関係ではないのか。捕食関係のなかにいるのが生きるということかもしれない。まずは、前回も話たが、意識は直線的な矢印でなく、螺旋の矢印である。これを螺旋意識と名づけた。螺旋っていうのは一周してウロボロスの蛇のように自己完結するのではない。それは裏が表とつながるメビウスの帯だ。そうではなく、微妙にずれてしまうのだ。中心をみていて、背景はその中心の裏側になっていれば、メビウスの帯だ。これは回転する実体なき点、二回転してもとのも状態になるというスピノールだ。これがほんとうの意識、コンセンシャスだといった。螺旋意識作られたマインドであり、これは肉体の構成素であるDNAと関係する。螺旋のDNAであり、その一部が書き換えられた痕跡があるという。これはわれわれが家畜や野菜をたべるとき、野菜ならば大量生産するためにDNA組み換えを行うのと同じこと。家畜には化学的なえさを使う。同じように、より高度の生命、おそらく意識や肉体はひとよりも螺旋がより円に近いものだ。これがレプティリアンであり、われわれを家畜にしている。螺旋は電気工学ではコイルであり、電気エネルギーの送受信であり、低周波を入出力する。これに対してコンデンサは電気エネルギーの蓄積だ。より、完結したメビウスの帯になるために、高周波を吸収する螺旋意識、肉体に低周波系は食べられる。より人間より微細な螺旋であるレプティリアンは神さまといわれる。また、もっと微細な螺旋もいる。この系列が捕食関係であり、だから、われわれは神さまにいけにえをささげてきたのだ。

  さて、このより微細な螺旋意識とDNAをもつ生命はついにはそのトップに自己完結したメビウスの帯、回転する点であるスピノール、すなわち、コンデンサがいるはずだ。これが真の神さまですべてを食しているといえるが、このスピノールは同時に私のほんとうの意識、コンセンシャスでもあった。だから、自分の真の意識が肉体を食しているともいえるのだ。


  コイルは螺旋意識、DNAの螺旋であり、コンデンサは神意識だった。いずれも、R+jxであらわされ、jは虚数。三次元的には実在しない複素空間、これが意識領域のことを物語っているのだ。



2015 2-6


量から質へ、そして、タレスの哲学についてである。地球上だけでなく、この宇宙には無数の生命がいて、無数の魂があると、いきなり声高に主張する。すると、周囲はあっけにとられ、だんだんまわりから離れていく。生命といっても、どこから来たのかは宇宙には二つの源泉があった。宇宙の二つの特異点がそれだったのである。

  量から質へ、についてである。ヘーゲル哲学は宇宙の成長、進化について考えた。まず、質というものがあり、これはざらざら、画質がいい、音質がいい、というようなもの。量的には測定できない。そして、ここからおのおのの質、区別が無視されて量になるという。さいとうくん、さとうさん、という個性、質が無視されると、一人、二人という量になる。量と質は矛盾しあうので、融合、アウフヘーベンしちゃう。すると、度量というものになる。質的な量である。気温というのは実際に寒い、暑いという質だが量で表せる。ここから、力学的、物理的なものがうまれ、はては有機体、生命、人間、宇宙の精神へと進化するのだ。

  ヘーゲルの真理は普遍的だ、というのが嫌いだったのがキルケゴール。真理は唯一無比の個性だという。いまここにいる交換できない私の個性だという。キルケゴールはこれを、無限への無限運動であり、決断と反復の繰り返しだという。これは量ではなく、徹底的に質的なものが真理だということだ。

  マルクスはヘーゲル哲学を踏襲する。ただし、量から質へ、である。水は温度があがって、沸点に達したとき、水蒸気になる。量的な温度が一定段階になると、質の変化になるというのだ。

  次の話はタレスの哲学についてである。タレスは哲学の祖といわれる。彼以前ギリシャ神話だったという。すべては神さまによるもの。ところがタレスは万物の根源、これをアルケーというが、それは水だという。すべては水でできているというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   宇宙における生命は二つの源泉からうまれた。その前に相対論の説明からである。空間がゆがむとはたとえば、フラットな平面にかかれた三角形の内角の和は180度。曲面にかかれた三角形は180度にならない。空間だけでなく、相対論は時間と空間は連続していると考えるから時空間である。時空間がゆがむと重力になるという。そこでは空間だけでなく、時間もゆがむ。重力が強いと、時間が延びる、遅くなるというのだ。

  さて、極端な重力はブラックホールである。太陽の約20倍以上の恒星が終焉を迎えると、自分の重さでつぶれてしまい、体積が小さく、重いものができる。すると、時空を穴をあけんばかりにゆがめる。これがブラックホールである。ブラックホールにチリが落ちると加速する。ついには光速に達する。光速よりも速いものがないと相対論はいう。ここがブラックホール内部の事象地平面だ。ここでは時間が遅すぎてとまってしまう。以前も話たが、時間がない、永遠の瞬間、これは何かを感じているというクオリア、ほんとうの意識であるコンシェサスだといった。瞬間と意識は同じことだ。だから、ここに意識、魂がある。さて、吸い込まれた無機的なチリ、これを無機塵というが、ブラックホールの降着円盤に垂直に噴出す。これを宇宙ジェットいい、プラズマだという。ロシア科学アカデミーの研究者のなかに、なんと、無機塵をプラズマ状態にすると螺旋になるというものがいる。しかも、二つの螺旋がからんで情報をコピーするという。これは無機的な遺伝子であり、ここから無機的生命がうまれる。宇宙には生命のからだをつくるアミノ酸を産出しているガス星雲があるというが、部落ホールは無機的遺伝子と魂の生成なのだ。このブラックホールは変数値に無限がるので、特別な点、特異点という。

  人間や動物は遺伝子の四つの塩基のうち、ひとつだけしかプラズマ状態ではないという研究報告もある。すると、人間はブラックホール由来ではない。もうひとつの特異点からきたのだ。宇宙が点から誕生したビッグバンという特異点だ。最初に回転する点、二回転でもとにもどるメビウスの帯のような点、スピノールがあった。これが光になる。そして、以前はなしが、この回転する点であるスピノールこそ、人間のほんとうの意識なのだ。宇宙のはじまりとともにあったのだ。その後、宇宙は光とプラズマに満たされる。さらに、冷えてきて、対称性の崩壊があり、物質が生まれる。だから、DNAはすべてでなく、四分の一しかプラズマ状態でなく、残りは物質なのだ。

  このブラックホール由来の生命がグレイ宇宙人やレプティリアンである。シュメール文明において、アヌンナキというシリウス出身の宇宙人が地球人を奴隷化したという伝説がある。このアヌンナキが爬虫類型生命なのだ。そして、このシリウスが寿命を終えて、ブラックホールになり、爬虫類生命がつくられたのではないかとも解釈できるのである。

  さて、もうひとつ。人類の生命由来であるビッグバン直後のプラズマの海。本来、プラズマは物質の第四相、個体、液体、気体、プラズマである。ところが、宇宙初期のプラズマは液体だったといわれている。つまり、タレスのいうすべては水からうまれたという説を裏付けるものなのである。哲学の始まりにおいてすでに答えをだしていたのだ。



2015 2-7


自己矛盾とタイムマシンパラドクスについてである。SF映画でありがちなタイムマシンやタイムスリップ。未来からやってきて活躍したりする。ところが、もしも、過去へ行って歴史を変えたら現在もかわってしまい、自分がいないことになってしまうことだってある。こんなパラドクスはどうやって解決できるのか。パラドクス回避システムはどこにもない。ここにあるのだ。

  自己矛盾や自己言及についてである。矛盾をさけて筋を通そうというのが形式論理学だ。矛盾さけましょうというのが矛盾律である。ところが、これだと、論理や計算はそれを実行するだれかがいないといけない。論理が自動的に展開しない。論理の自己展開が起きるのは、矛盾が必要だという。これが弁証法論理であり、矛盾が世界を動かすという。

  自己言及というのは、自分が自分にふれたときにおきるという。日本語について日本語で語る。クレタ人はうそつきだと、クレタ人はいった。これは正直だったら、うそつき、うそつきだったら正直物になるパラドクス。クレタ人がクレタ人について云々しているから生じる矛盾。ところが、なぜだか認められている矛盾がある。自己意識というのは自分が自分を意識。自己組織化というのは自然治癒能力であり、自分が自分を治す力。


   次の話はタイムマシンパラドクスについてである。タイムマシンで過去にいって歴史を変えると、今の自分がいなくなってしまうかもしレナ意という矛盾。祖父殺しパラドクスという。もしも、祖父殺しに過去へいったら、自分が生まれなくなってしまうので自分が消えてしまうのだ。

   まとめ
  

  存在の科学

   異次元理論

     
      SF映画のように、タイムマシンで過去の歴史を変えたらややもすると、自分が存在しなくなってしまう。このパラドクスはどうやって回避できるのか。実際、素粒子論において、粒子が空間中を左右前後上下、自由に移動できるように素粒子も時間軸を自由に移動しているという。たとえば、電子はマイナスの電荷をもった粒子。この反粒子はプラスの電荷をもった陽電子。反粒子っていうのはすべてが逆になっている。陽電子は未来から過去へと流れる。ちなみに光子は粒子と反粒子の両方の特性をもつ。

 
  下から上への方向を時間の流れだとする。すると、電子が下から上に移動し、光子とぶつかって、光子と陽電子に分裂。陽電子は右斜め下へ進み、また、光子とぶつかり、光子と電子に別れて未来への電子は流れる。さて、陽電子は過去へもどったのだ。今、私は自由意志でからだを動かす。すると、その影響で、電子を陽電子に分裂させて過去に陽電子が進んで、過去を微々たるものだけど変えてしまう。さらに、この宇宙全体を考えれば圧倒的多数の陽電子が過去へいって歴史を変えてしまうのだ。すると、今私がいるという歴史が改ざんされてしまうかもしれない。これを避けるシステムを外に探しても見つからない。外にないなら内にある。そこないならここにある。つまり、私の自由意志、魂の働き、存在意義が、このタイムマシンパラドクスを回避するシステムだったのだ。自由意志とは、かならず、過去を改ざんさせないようにパラドクスを回避するために動く。自由意志の法則だ。というより、タイムマシンパラドクスをうまないためにいまここに自分の自由意志による行動がある。つまり、どんなもの、どんな生命の魂もそこにいるだけで、宇宙を存続させための壮大な行動をしているのである。


  2015 2-8

ベルクソン自由論とデカルト的コギトについてである。この世界にはいろんなパラドックスがあり、どんなに歯を食いしばってがんばっても解決できない、知ることができない難問がある。そんなとき、外にそのシステムを探すのではなく、じつにベクトルを逆にして自分の存在がかかわっていることを知れば、だんだんみえてくるものがある。究極の真理について考えてみたい。

   ベルクソンの自由論についてである。世の中はすべて最初から最後まで機械仕掛けのように決まっているというのが決定論。決定論者はまるでタイムマシンにのって過去も未来も見てきたような感じだ。この反対が任意決定論者、偶然論者である。すべてはたまたまという。ひょっとしたらさいとうさんは大統領だったかも、という。これまた、並行世界を移動できるマシンに乗ってみてきたよ口調だ。そのいずれでもなく、ベルクソンは自由論を提唱。自由とはなにかと問う。問うも問わないも自由。自由は問う前からあるのだ。つまり、自由は問いではなく、事実だという。

   次の話はデカルト的コギトについてである。世の中のすべてを疑ってみる。ほんとうに彼は人間なのか、本当に地球はあるのか。すべては疑えるけど、疑っている当の自分は存在しないじゃない、と疑わない。我疑うゆえに我あり。我おもうゆえに我あり、だ。宇宙のなかにいるのではなく、宇宙は疑わしいが絶対に疑えない我は宇宙の外から宇宙を眺めている。これがデカルト的自我、デカルト的コギトである。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


   前回の内容は、この世界はふつうに電子と光子がぶつかって、陽電子が過去にいってしまうという話だった。過去の歴史に飛んでいく粒子。当然、タイムマシンパラドクスがうまれしまい、ややもすればいまここにいる自分の存在が消えてしまうかもしれない。ところが、このパラドクスを回避しているのが私自身の存在、自由意志だといった。歴史を変えないようにふるまう法則が自由意志だったのである。結局、自分の自由意志がその役をになっている。すべて原理上、解決しえないパラドクス、問題は自分の存在にしてしまえば解決するのだ。

  シュレディンガーの波動方程式におけるユニタリ展開。これまた、数学的に計算すると、この世界は刻一刻いろんな並行世界に分岐しているというのだ。右手をあげた私がいる世界、あげなかった私の世界というようにだ。実際の世界はちがうではないか。そうではなく、これまた、自分の自由意志、存在がきかっけだった。並行世界の私の姿が他人だったのだ。そしてオリジナルの私からかなりかけ離れた並行世界、分身が事物なのだ。

  アインシュタインは光速度不変だという。なぜだろうか。また、宇宙が誕生する前になにがあったのか。この宇宙はビッグバン直後、光に満たされていた。そのあとに時空、物質が生まれたのだから、時空はゆがむが光は変わらない。光の構成要素が回転する点、二回転で元の状態に戻るメビウスの帯のような点、これがスピノールだ。そして、以前話たがクオリア、私の自由意志とはほかならぬこのスピノールだったのだ。私がいて世界がみえる。だから、光速の構成要素の私はかわないので、光速も不変になる。また、宇宙というのが最初にあって私がうまれたのでなく、スピノールは宇宙の最初の瞬間、つまり、宇宙誕生とともに私がいたことになる。だから、私が誕生する前や宇宙誕生前にはなにもない。


  最初に自由意志という究極の事実、スピノールであり、タイムマシンパラドクス解消装置の私がいる。これは世界の外のデカルト的コギトがベルクソン的な自由と結びついた境地である。



2015 2-10


ガダマーの哲学とデヴィットソンの哲学についてである。私とこの世界について考察をふかめるとき険しい顔つきになるのだが、どうも一筋縄ではいかない問題がある。というのは、この世界はなんでもありであり、真理とはなんだかわからないという特性をもっているということだ。

  ガダマーの哲学についてである。かって、ベーコンはわれわれが持っている先入観をすべて排除すれば真理がみえてくるといった。その先入観は四つある、四つのイドラと名づけた。現代の思想家、ガダマーはむしろ、何かを理解するとは先入観のかたまりだとした。あのひとは人間だというのも先入観、これは椅子だというのも先入観なのだ。先入観を一切排除しちゃうと、なにも理解できなくなるのだ。

  次の話はディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。この世界は実体のある物質と、実体のない心や精神がある。物質は自然科学の法則、ルールに従い、心もまたなんだか独自の法則がありそうだ。この二つの法則がまざった一なる世界。異なったルールを一緒にしてしまうと、ルール無用になる。野球とバレーを混ぜたらでたらめ、ルール無用になる。だから、この宇宙をひとつにすると法則が消える。これが非法則論的一元論。なんだかわからないひとつの世界、宇宙はあるということになる。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


真理というものは、明確なものではなく、なんでもありでよくわからないものなのかもしれない。たとえば、カントは現象界は原因と結果の因果律であり、その背後は因果律のない自由の世界だといった。自由っていうのは押されて動かない。原因がないのだ。だから、損得勘定、ああだからこう、というのがない道徳的な世界。道徳律という。因果律や道徳律だけでなく、いろんな時間軸が交差しているのがいまの自分なのだ。なんたら律というのが無数にあるのだ。出来事のA,B、Cは時間だけでなく、いろんな軸でつながっているのだ。また、アインシュタインにおける無数の解というものがある。宇宙は今後膨張しつづけるという解もあるし、膨張し、いずれ収縮し、また膨張を繰り返すという解。さらに、宇宙は定常だというのもある。膨張しつづける直線的な時間はキリスト教的であり、膨張と収縮の繰り返し輪廻のようなので仏教的。これまた、どれも正解なのかもしれない。

  私を中心にして前後、上下、左右がある。前後ん関しては、意識の奥には無意識。さらに集合無意識、もっと奥、後ろには非意識がある。これを前後でなく、横軸、空間軸にしてみると、意識は私。無意識は他人。そして、非意識がただの物体になる。前後、左右、時間、空間軸もまた相対的だ。

  もともと、行儀よく流れている時間なんていうのは特殊なケースであり、本当は亜種、異常とされている幻覚や夢こそがデフォルトなのかもしれない。支離滅裂で時間順序、空間構成がない夢、幻覚の世界が最初にあるのだ。

  世界はシュレディンガーの波動方程式にみるように、刻一刻、分岐しているという。それならば分岐しない世界もあるはずだ。これは自己否定するものを自己が含むという矛盾。この根本的な矛盾こそ、私であり世界なのだ。だから、ほんとうはなんでもありだし、なんだかわからない存在。ところが、意味を汲み取り、物事を理解するときはどうしても、枠組みが必要なのであり、この時間の順番、空間の整列あってこそ、はじめてなにかの意味が見えてくるだけなのである。つまり、なんでもない世界は自分が加工して意味あるものに見せているのである。



2015 2-11


自己意識と自我の離心性についてである。量子論の実験で有名な二重スリット実験がある。この二重スリット実験の装置、じつに人間の意識構造と同じだったというお話をしたい。

   自己意識とはなにか。自分のことを100パーセントわかっているというのが自己透明性という。ソクラテスの汝己を知れ、というもの。現代ではサルトルは半分くらいは自分を意識しているという自己半透明性。デリダにおいてはおれだ、といっても、それは俺の痕跡、足跡だという自己不透明性というものもある。

    フィヒテは自己意識しぎると自己が消えちゃうという。これを自己意識の徹底化による自己滅却という。

  次の話はプレスナーの離心性についてである。無機物は空間に位置があるにすぎないという。有機体、動物は中心が自己と身体がずれている。人間においては身体があり、魂があり、それをみている第三者的な自我の眺望点があるという。この三重の位置が意識の特徴だという。


   まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   二重スリット実験とは、箱に二つのスリットを設け、なかに光源をおく。その二つのスリットから出た波動としての光は互いに干渉して感光版にあたって干渉縞をつくるというもの。ただし、量子論ではシュレディンガーの猫でいうように、見た瞬間に波動は粒子にかわる。だから、スリット近辺に観測装置を置いて、これを観測すると、なんと光は波動性から粒子性、光の粒にかわってしまい、感光版に光は直進し、二本の帯をつくるだけだという。

  この二重スリットは自己意識のと同じ構造。まず、ふたつのスリットのある箱をかぶっている光源が自分だ。光の構成要素であるスピノールが本当の意識だと以前話た。だから、光は私自身の意識でもある。感光版に波動の干渉性ゆえに、干渉縞をつくる。これがぼーっとした対象意識であり、このときできた縞模様をもうひとつの意識の光があたって、ホログラムをつくる。ここにホログラム理論がある。光の波動がつくった干渉縞、ここには三次元の事物のすべての情報が含まれている。そして、ついに観測装置の第二の自己意識の光はスリットのほうへ向く。すると、スリットがでてくる光の波動性は粒子性にかわり、ホログラム像が特定の事物に変貌するのだ。箱のなかの第一の意識光源。その付近にある第二の意識がホログラム情報を三次元化し、ついには波動性を粒子性にかえる。自我は二重スリットのある箱をかぶり、感光版という壁のまえにたっているだけなのである。

  
posted by モノイイ ジョーカー at 14:29| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月23日

仙人新聞 201410−23 2

2014 8−14 


  我汝とデカルト的コギトについてである。さいとうくんと対面に膝頭あわせて真剣ににゅうりんの大きさについて論じる。さいとうくんは野暮用で三輪車の前のめり走法で単身渡米ということでいなくなった。ひとりで壁に向かうのだが、このとき、自分にとってのあなた、他者はじつはいつづけるのである。他者はどんなときもいつづけ、さらに、意識のレベルアップで無数の私と対面する。

  ブーバーの我汝についてである。第一人称の私、第二人称のあなた、第三人称や無人称は彼らやそれらである。三人称や無人称が最初にある。それらがあって、私やあなたがいる。それらとは原子や素粒子だから、これは唯物論である。一人称の私が最初にいて、すべては私が中心だという独我論。ブーバーは二人称が最初からあるという。私とあなた、我汝である。これは宇宙のはじめからセットなのだ。そして、永遠のあなた、汝を神という。

  次の話はデカルト的自我についてである。ひとは特定の状況のなかにいる。悪者に追いかけられているとか、支払いや返済に追われているなど。いま、暑いから、1+1は3だとはいわない。いたって冷静になるのは宇宙のなかの状況に巻き込まれずに、宇宙の外から宇宙を冷静にみる神の視点が必要だ。これが科学的な見方であり、デカルト的自我という。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   対面しているさいとうくん。二人称であり、かれの心、思いは見えない。不可視であり、不可知なのだ。だから、表情が判断するしかない。さて、さいとうくんがいなくなってひとりぼっち。壁の向こうからはセミの鳴き声、川のせせらぎ。壁の向こうは見えないが、その音、表情からして不可視、不可知の壁の向こうを判断する。世界、人類はおそらく存続していると判断する。つまり、心も、壁の向こうもいずれも基本は二人称なのだ。

  赤子がうまれるとき、母体で人類誕生までの生物の歴史を体現するという。小動物、爬虫類の形になり、鳥のようになり、哺乳類、さらにはサルのようになってひととなってうまれる。うまれてからは、おそらく、人類の歴史を体現する。人類のはじめは呪術的、神話的世界だった。植物、花の妖精がみえた。これは人と対面しても、心がみえず、物と対面しても不可知なものを表情からえようとするという二人称なのだ。だから、すべてに心が宿しているとみる。神学的世界になって、一なる神様が私もあなたもみてくれているという世界。これはかれら、それらの三人称だ。そして、科学はついにはデカルト的自我、宇宙の外からの神の視点に立つ。これが四人称ではないか。そして、今後、五人称になる。五次元空間に対応し、複数の私、複数のあなた、かれら、それらが存在する人称。並行世界の人称である。六次元でもって0にもどるというお話は以前にしたことがあるが、この上の人称にいって0人称になる。



2014 8-15


還元主義と有限性の自覚についてである。時間と空間、そして、いままさにここにいる自分の自由意志。これらはすべてひとつものからできていたのだ。すし屋の湯飲み茶碗の柄から、最新型空母の軍事の話に飛躍するように、時間空間の話が人間の生き方と深く関係していた。

  還元主義についてである。万物は多様だと、雑貨屋さんで改めて知る。いろんな雑貨があるのだが、これらはなにかひとつのものでできていると、すべてをひとつに還元しちゃえ、というのが還元主義。すべては原子でできているという原子論や唯物論。さらに、タレスはすべては水でできているといった。また、すべては自分のなかのイメージだというのも還元主義。すべてをお金に換算しちゃうのも同じである。

  次の話は有限性の自覚についてである。ヤスパースの哲学では、人間は限界状況で脱出できないとき、自分のなかに入り込むという。自分にかかわりすぎて自分の穴があき、その向こうに超越者をみる。これが実存だという。キルケゴールはあれはできない、これならできるという有限性、個性、らしさこそが真理だといった。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   すべてをエントロピーの増減に還元しようという試み。秩序あるものが無秩序になる、というのがエントロピー増大。家が老朽化したりすることだ。無秩序が秩序になる、散らかっている部屋の整理整頓がエントロピー減少であり、これが生命のやっていること。世界には時間が流れているが、時間の流れとはエントロピー増大そのものである。巨視的、マクロのものはエントロピーが大きい。コップが割れたらもとにもどらない、不可逆プロセスだ。ちいさなミクロの世界はエントロピーが小さい。量子はビデオを逆再生しても不都合はない。だから、時間の流れが遅い。自分に近いものがエントロピーが小さく、時間が遅い。自分の中心はむしろ時間が止まっている。遠いもの、大きいものはエントロピーが大きく、時間の流れがはやい。

  空間の大きい、小さいというのは、ただ単に、エントロピーが大きいのが大きく見え、小さいのが小さくみえるだけだ。生まれる前と、死後は自分と宇宙は一体になってマクロになる。だから、時間が超はやい。ビッグバンがおこってから自分がうまれるまでは時間速度無限。だから、ビッグバンとともにうまれ、宇宙の終焉とともに死滅する。

  生きていない間、これが生間領域だが、ここでは大いなるものだった。生きているとは、自分に近く、小さいことだ。そして、中心において、最も近き中心こそ時間が止まっていて、もっとも自分らしい状態である。




  2014 8-16


自己関係性と無限性についてである。寝ているひとの耳元でいきなり後ろの正面だ〜れっとつぶやくと、たいていは目覚める。なんとも不気味で、意味深な詩である。今回はまた、頭がいかれたかのような発言をしたい。この目の前にひろがっている現象界はじつは自分の背中をみつめていた、というお話をしたい。

  自己関係性についてである。自己言及ともいう。自分が自分にふれると、基本的にはNG、論理的に矛盾しちゃう、という考え。これは日本語で書かれています、と書いてしまうと、日本語を使って日本語について云々しているので自己関係で矛盾だ。すべての主張は疑わしい、というのも、この主張自身が疑わしくなる矛盾。ところが、許されている自己関係性がある。排中律なのである。これはメロンか、メロン以外のどっちかである。つまり、宇宙のなかにあるなにか、といっているのだ。すると、宇宙のなかにこれを主張しているものも含まれちゃうので、自己関係の矛盾のはずなのだ。また、自己治癒力などの、生命現象も本来は自己関係だが成り立つものだ。

   次の話は無限性についてである。永遠といえば、まず、そもそも時間そのものがない無時間性。時間を越えた世界ということで超時間性などがある。無限についてはヘーゲルが真無限と悪無限を区別する。悪無限っていうのは、具体的な内容をきれいさっぱり捨ててしまった抽象的無限。真無限は具体的な存在者がたっぷりつまった無限である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   私と世界を分離して、私は私を、世界は世界を研究するのでなく、私と世界をまとめて全体として考察する。私の意識は、遠近法的に私を中心にして円錐状に広がる意識。いってしまえば、ラッパのような形をしている。このラッパのさきっぽがどんどんひろがって、自分の後ろのまわりこんで自分とつながる。すると、ドーナッツの形になる。これをトーラス体という。私は私自身の背中を見ているのだ。りんごを意識しているとは、対象意識であり、自分をみつめるのは自己意識。ところが、りんごは私の世界に描かれているので対象意識は自己意識なのだ。

  さて、私はここからここまでとか、世界、宇宙はここからここまでというように、エッジ、ふちは認識できない。私のエッジ、ふち、はじっこは私が私を踏み越えないとみえない。ふみこえたらもはや私のふちではない。無限というのも、有限ではないという制約があってはいけない。制約をつくっておいて、この制約をとりのぞくという連続にすぎない。私と世界にはふち、エッジ、はじっこがない。はじっこがない幾何学的形状がある。これがドーナツ構造、トーラス体である。長方形には辺というはじっこがある。これをなくさせるために、長辺同士を糊付け、そして、短辺も糊付けすると、なんとドーナツの形なる。はじっこのない私と世界の形とはドーナッツ、トーラス体以外にありえないのだ。

  
2014 8-18

存在の穴、溝と非人称な身体についてである。私と世界をあわせた全体はドーナッツである。私はドーナッツというと、まるでアンパンマンの世界なのだが、厳密にいってしまえば、他人をもふくめた世界全体はたくさんの穴があいているドーナッツだといえるのだ。

  存在の穴と溝についてである。サルトルは人間の意識とは、無の分泌だといった。りんごを意識するとき、意識している私は対象であるりんごではない、というように、私とりんごの間に無を分泌。さらに、私自身を意識するときも、意識している私は意識された私ではないので、無を分泌している。存在にあいている穴なのである。また、メルロポンティは意識っていうのは存在の穴でなく、溝だという。私とあなた、かれらという人称は同じ肉でつながり、物心ついてから私と私以外を溝で区分けしたのだ。

   同じくメルロポンティの非人称的な身体についてである。私は暗いところから明るいところへでると、瞳孔がきゅーっと収縮する。飯を食うと、消化液をだす。これらは私が意識的にやっているのでなく、なんだか、私のなかにいるだれかがやっているというのだ。非人称的なだれか、これが私の身体を維持するという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   前回、私と世界をふくめると、ドーナッツ構造、トーラス体だといった。遠近法的に私から円錐状にひろがり、それが自分の後ろにまわりこんで、つながる。これで私は私自身の背中をみているといったのだ。そうすると、他人の存在はどうなるか。私の意識はドーナッツの穴であった。他人はこのドーナッツの生地に無数にあいている穴なのだ。もちろん、私の意識の穴が一番大きいもののイメージだが、実際は大きさのない形だけの世界、トポロジーの世界である。だから、斉藤君にとって、斉藤君の意識の穴が一番大きく、私の穴は生地に開いた小さな穴だ。このドーナッツの生地のところは物質であり、身体である。だから、私の身体のなかの非人称的なだれかというのは、生地にあいた無数の穴、無数の他人たちなのだ。無数の他者の意識が私の身体活動を維持していたのである。





2014 8-19


絶対精神、そして、構成的原理及び統整的原理についてである。私と世界はドーナッツであるという発言自体がいかれていると思われる。ところが、このドーナッツが日々変化し、ついには宇宙の終焉ではどんなふうになり、神様と深く関係していたことを主張したく筆をもちたい。

   ヘーゲルの絶対精神についてである。まったく反対のものがひとつになろうとするのが、ヘーゲル哲学の特徴。ふつうにすきっぱがシンボルであるさいとうくんと、大いなる神様、宇宙がなんとひとつになろうとする。
    
    さいとうくんは個人的意識であり、いろんなことを勢力的にやっていいがつる主体的なもの。ところが一般的には宇宙は実体である。ヘーゲルはなんと宇宙も主体的だという。さいとうくんが自意識に目覚めたように、宇宙も自分の存在に気がつき、自意識をもち、絶対精神になるという。

  次の話はカントの構成的原理と統整的原理についてである。 ひとのあたまのなかにあらかじめあるもの。あたまのうえにあるのがマゲだとしても、そのなかにはカテゴリーというものがある。なにかを判断するための道具だ。量、質、関係、様相のカテゴリーである。このうち、量と質は数学的、直感的なもので、パーツを組み合わせてつくりあげるので構成的原理。関係と様相は自分の経験をどんどん関連付けて伸ばしていこうとするもので統整的原理という。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

 
   前回は意識のトポロジー幾何学、つまり、大きさの関係ない世界について考えた。意識は円錐のように広がり、それが後ろに回りこんで背中とくっつく。いわゆる、ドーナッツ構造、トーラス体である。しかも、この意識の穴はたくさんあいていて、これが他者の意識の穴になる。おのおのが自分の意識の穴を一番大きいものとみなせる。なぜなら、大きさは関係ない世界だからだ。ここからこんどは大きさや力学的特性のあるトーラスを考える。時間軸もあり、意識の物理的な幾何学だ。

  ひとが誕生すると、無数の穴のおのおの穴が少しづつ小さくなる。だから、すべての意識がうすまってひとりの意識になる。死滅すると、穴が閉じ、他のものたちの意識の穴が少しずつ大きくなって他者の意識にうすまって存在しはじめる。また、そもそも、他の意識に薄まらないものがあり、これは別世界へと力学的に影響して穴を形成する。意識の穴はだんだん数が少なくなり、おのおのがおおきくなる。ついには、ひとつの大きな穴になったとき、絶対者の意識になる。これが宇宙のエントロピー増大による宇宙膨張のマックス。ここから、宇宙は収縮をはじめ、宇宙自体がエントロピーを減少させる意識体になる。すると、こんどはこの収縮、エントロピー減少を阻止せんとして、生命の意識とは真逆にエントロピーを増大させようとする個体、反生命のような意識がうまれる。これがプラズマである。意識とプラズマは真逆の意識体だった。有機物の意識がいわゆる魂、無機物の意識がプラズマなのだ。





2014 8-20

日常性とラッセル集合についてである。ふつうの日常のなかにじつにこの宇宙が選択しなかった並行宇宙がつまっているのである。というか、宇宙の構成要素というのが選択されなかった宇宙全体だったのである。全体と部分、ここには並行世界の異次元原理が隠されていた。

  フッサールの日常性についてである。なんだかすべてが疑わしいので判断停止する。それでも、最後に残るのは名もなき純粋な私、純粋自我である。こういう態度を現象学的態度という。また、科学的に自分を宇宙の外において冷静にみる態度、これが自然主義的態度。そして、後期フッサール哲学ではもっともすべての基本的な態度というのだが、ふつうにりんごをみて、原子でできているという科学の見方以前に、りんごはふつうにフルーツだという日常的な態度に重きをおく。これが自然的態度という。

  次の話はラッセルパラドックスについてである。りんごはフルーツという集合、フルーツは食い物っていう集合に属する。すべての集合を含む集合をR集合と名づける。ただし、集合論においては自分が自分の集合に所属したらアウトである。すると、矛盾が生じるという。というのも、もしも、自分の集合を含めなかったら、すべての集合の集合とはいえない。また、含めてしまったら矛盾するからである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  宇宙と私はドーナッツ構造だといった。これをなんいかの液体のなかの気泡ととらえることができる。最初は気泡がたくさんある負圧がかかって膨張し、ついには大きな気泡がひとつになり、ついには収縮をはじめる。おそらく、自然界もこのようにふるまうのであろう。さらに、人間のクオリア、思考もまた、同じような構造である。たくさんのイメージがあって、これらがひとつになってさらに、収縮し、クオリアになる。宇宙の構造がそのままクオリア、思考の構造と同じだ。主体性というのは基本的にこの宇宙とそのまま同じ構造をもつものだ。また、それ以外の事象、事物は選択されなかった並行宇宙なのだ。宇宙全体は部分があつまってできているが、部分とは選択されなかった並行宇宙がそのままあらわれたもの。全体と部分との関係とは全体がひょっとしたらそうだったかもという可能世界が部分になっているという関係になっているのだ。全体と部分の集合論は可能世界論、多世界論が含まれていたのである。





2014 8−21


  純粋持続と論理学についてである。無味乾燥な形式論理学というのは内容からっぽのピーマンにみえるのだが、じつはこの論理学にはこの世界のすべてのシステムが内蔵されていたのだ。生命、魂、並行世界のすべてがこの形式論理のなかにあった。

   ベルクソンの純粋持続についてである。時間と空間なのだが、空間は量的なものでものさしで測れるが、時間も時計ではかれるような気がする。ところが、空間化されちゃった時間にすぎない。本当の時間は量的なものでなく、質的だという。空間、物質は非連続的、むずかしくいうと離散的。椅子とお尻ははっきりわかれている。半分お尻、半分椅子っていう中間はない。本当の時間は過去、現在、未来が混ざり合う質的なものであるという。これが純粋持続であり、どこにあるかといえば、ポケットのなかでなく、なんと自分の意識だという。

  次の話は論理学についてである。形式論理学というのは二値論理である。二つの値をもっているのだが、それが真か、偽かである。様相論理学はちょっとぴり真、だいぶ偽、という中途半端な値もいっぱいあるので多値論理である。このなかにひょっつぉいたらの可能性の世界を扱う、可能世界論がある。

  命題論理というのは、そうではない、という否定性、さらには、そして、という&、また、これにいろんな値の入るうつわがある。述語論理というのは主語と述語がはっきりしている。りんごは赤いものである、というのが肯定判断。りんごは四角くない、という否定判断。またさらには、主語には量化子というのがくっつく。すべてのりんご、というのが全称量化子。あるりんご、というのが特称量化子。このりんごというのが単称量化子。すべてのりんごはあかいというのが、全称肯定判断。このりんごは赤くない、というのが特称否定になり、量化子も述語もまったく反対なので、これを矛盾対当関係じゃん、という。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   集合論において全体と部分が扱われている。前回お話したが、全体と部分という論理関係のなかに様相論理、可能世界論が入っていた。実現しなかったひょっとしたらの全体がその部分になるのだ。宇宙全体でいえば、いまのこの宇宙とはちがったかもしれない並行宇宙がそのまま、このわれわれの宇宙の部分、構成要素になる。これが全体と部分の関係であり、可能世界論が入っているのだ。かつ、というのは論理積という。これは同時に満たすという一体化なので、純粋持続、凝縮性であり、精神、意識を表す。みかんか、りんごのどちかか、というのが排他的論理和。これは不可進入性、離散性であり、空間、物質をあらわす。そして、みかんまたはりんごまたは、みかんかつりんご、またはみかんでもりんごでもない、というのが本当の論理であり、論理積もふくむので、精神と物体、とどのつまり、精神と身体だ。

  否定判断はりんごは三角ではない、というのだから、三角かもしれない別の並行世界へと一度行くのである。これはこの宇宙からの離脱であり、ブラックホール、ワームホールだ。肯定判断、このりんごは赤いんだよ、という存在せしめる力なので、五次元バルグからくる重力を生むもの、グラビトン、重力子だ。全称判断はすべてのりんご、よって、理念的なもの、りんごそのものだからイデアの世界。ある特定のりんごというのはりんご全体のなかの特定のものだから俯瞰してみている。超越論的な見方であり、自分を中心に広がる主体的な世界だ。だから、特称否定判断は主体的な意志がブラックホールに吸い込まれること。これと、全称肯定判断は矛盾対当。全称肯定とは理念、イデア的な五次元がくる流入する重力子。このふたつがあわさって矛盾になり、これらの矛盾が弁証法論理だと、世界を動かす原動力になる。


2014 8-22   

   ノージックの確率論証と功利主義についてである。能率よく無駄なく動く。とりわけ、暑くてだらけているときは最小の運動で最高の仕事をしたい。まさに宇宙は最小の力で最大の効果を得ているのだ。すると、この宇宙はどうもマトリクスのような、そうシュミレーション宇宙であることがだんだん判明してくるのだ。

  ノージックの確率論証についてである。なんで無いのではなく、なにかがあるのか、とライプニッツは問う。かんがえられうるすべての状態があるというのが、並行世界、多世界論、可能世界論だ。この世界はただあるだけ、というのが根拠も問えないのが存在だというラッセルの考え。そして、ノージックは最悪に見積もっても、50パーセントの確率で世界はあるという。なにかがあるとは非常にバラエティーに富んでいる。りんご、すいか、メロンがある。ところが、無い、無というのはひとつだけだ。だから、圧倒的に存在のほうが確率的に大きい。最悪でも50パーセントだという。

  次の話は功利主義についてである。最大多数の最大幸福だと、ベンサムはいう。これは自分だけがよければいいという利己主義でなく、みんなが幸福であればよいという思想だ。

  まとめ

 存在の科学

  異次元理論

  ニュートン力学とはちがい、すべてをエネルギーとして扱うのがハミルトン力学。世界、宇宙は最小のエネルギーで最大の仕事をしようとするという。これを最小作用の原理である。水が斜面を流れるとき、最小のエネルギーでそれを成し遂げようとする。すると、この宇宙はどうも巨大なPCのなかのシュミレーション宇宙ではないか、と思えてくる。

  量子論におけるシュレディンガーの猫。箱の中の猫は見えないのですべての状態が重なっているという。生きている、死んでいる、寝ている、遊んでいる、と無数の猫が重なっている。箱を開けてみた瞬間にひとつに確定だ。つまり、見ていないときは、世界の計算処理していないのだ。ロールプレイングゲームで、村人とあうと、なにか情報をくれる。村人とわかれて旅にでたあとも村人の動きを計算処理したら膨大になってしまう。だから、見た瞬間だけ、計算すればいいのだから、これこそ量子論だ。

  それならば、ドアから犬がでてくるか、猫がでてくるか、恐竜がでてくるかはすべて50パーセントだ。ところが、恐竜はまずでてこないだろう。これはこの世界にいる意識体はどこかでみんなつながり、いろんなものを見ていて、50パーセントの確率に偏差を生んでいる、確率を変動させているのだ。だから、宇宙誕生のときは絶対者しかいなかったので、確率はすべて50パーセントだったので、およそ、あらゆる可能なものが現実化した。生命が増えるに従い、確率の偏差がうまれ、これが自発的対称性になり、質量がうまれ、物質が誕生した。地球上の生命もまた、少ないときに爆発的に多様な生命を生んだ。哺乳類は親が子をうまれたとたんにみるから、確定される。偏差がうまれる。ところが、たまごでかえるもの、爬虫類はひとりでうまれて、まわりからみられないケースがあるので、巨大化するというおよそ信じられない状態が現実化したのだ。

  世界は最小のエネルギーで最大の仕事をする。だから、このシュミレーション宇宙はメモリ容量が0なのだ。すべての可能なかぎりの世界が同時に実現されているとは、すべての計算処理をしていることだが、これは計算処理していないことに等しい。だから、メモリ容量0であり、壁の影から50パーセントの確率であおはあらわれるだけというシンプルで、もっとも0エネルギーから無限仕事量を生んでいる最小作用の原理が働いているのだ。



2014 8-23


前人称的自我とパルメニデスの存在についてである。われわれはいつからいるのか。いつからそこにいるのか、と聞かれて、ずーっと太古の昔からです、というものもいるかもしれない。われわれはずーっと昔からいたし、未来永劫居続けるというお話をしたい。

   メルロポンティの前人称的自我についてである。われわれは生まれたときは、自分と他人の区別がなかったという。すべてはもともと同じ肉でつながっていたのだ。私も他人もなんの仕切りもなかった。ところが、自分がいることにふと気がつく。物心がついたとき、私と他人のあいだに溝がうまれる。溝だからつながってはいる。私、あなた、かれら、それらという人称の前だから前人称性である。

  次の話はパルメニデスの存在についてである。あるものは永遠の昔からあり、未来永劫ありつづけるという。無いものははるかかなたの昔から無いし、今後も無いという。有るものが無になったり、無から有がうまれのを万物流転とか、変化とかいう。これはヘラクレイトスの思想だ。ところがパルメニデスは、存在が真理であって、万物流転は仮象だというのだ。

  まとめ

  存在の科学

 
   異次元理論


   自己意識というのは、意識している自分と意識されている自分がいる。デリダの自己現前であるが、意識されちゃった自分は第二項であり、他者だという。自意識がないとき、つまり、前人称の赤子のとき、自己意識がないので、第二項の意識された私しかいないのか。そうではなく、第一項の意識している私と第二項の意識された私が同じエネルギーで共存。だから、うっすら自分の存在を感じている。自意識に目覚めた後は、第一項の意識している自分のウェイトが大きくなる。

  さて、それでは生まれる前はどうだったか。意識された私という第二項のうほうが強い、もしくは、意識された自分しかいなかったのだ。また、死滅のときも、第一項と第二項の私は同じエネルギーで赤子と同じ状態になり、ついには、第二項の意識された私だけになる。だから、われわれは意識された私としてずーっと存在し続けるのである。



2014 8-24


ヴィトゲンシュタインフェディズムと法則についてである。このナンバーみたらラッキーだと、自分で勝手にルールを作る。すると、そのようになるのだ。万物法則、ルールもわれわれがつくっていたのだ。唯一の事実、それは現象であり、今見て、感じているままの現象界だった。

   ヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。ヴィトゲンシュタインは言語ゲームを提唱した。ゲームにはルールや意味がある。言語も同じだという。ただ、テレビゲームの製作はだれか製作者がいるのだが、自然言語は作者がいない。生活の流れのなかで文脈のなかで生まれる。とりわけ代名詞などは、ここ、あそこ、私、あなた、などは文脈に思いっきり依存だ。

  それでは生活の流れってなんだろうか。生活、生きるとはなにか根拠があるのだろうか。ヴィトゲンシュタインはそれはそこある、とだけいう。つまり、生活は無根拠だという。

  後にこの思想が宗教運動で使われる。それがヴィトゲンシュタインフェディズムである。宗教儀式になんの意味があるのか。その宗教の流れ、生活のなかにはいると、意味が生まれてくるのだ。

  次の話は法則についてである。法律っていうのも法則だが、これは破られてしまう。物理の法則はもっと強烈。さらに数学の法則はなかなか破れない。最強は論理の法則である。

  そもそも、法則っていうのは仮説が帰納演繹法によってできる。トゥルーミンがいうように、にわとりは飛ばない、という法則はいつ破られるかもしれない。有効期限が不明な遊園地のチケットといっしょなのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   前にいる車のナンバーがある数だったらラッキーだとルールを作る。すると、それがほんとうになる。そもそも、この世界は自分がルールを作っていたのだ。自発的に自分が関与していない事実とは私の目の前の感じたままの現象しかない。

  私と世界、主観と客観っていうのは、最初は混ざっていた。いつしか分離し、境界面をつくる。この境界面が現象面だ。

  自然界において、界面力学が成り立つ。個体と個体、液体と個体でもいいが、異なったものどうしは界面をつくる。水と油の接触面だ。この界面は自分自身を安定させようと、界面付近の分子が自由に動き回る。界面自由エネルギーである。また、余分な界面自由エネルギーを減らすために、界面を小さくしようとする。これが表面張力、界面張力である。主観と客観の現象面において、主観側において界面自由エネルギーが思考、感情になって、客観側の世界にルール付けをする。界面張力による界面の縮小はいわゆる遠近法世界、地平に囲まれた世界を形成するのである。


2014 8-25


自己組織化と存在隠蔽性についてである。この世界や意識はどうもドーナッツの形をしているようだ。自分自身とつながっている形なのだが、どうも、人類社会はこのドーナッツとは程遠い形である。宇宙がマトリクスのようなシュミレーションなら、人類社会はそのバグであり、コマ落ちなのかもしれない。

   自己組織化についてである。オートポイエーシスともいう。自分自身にかかわるというのは自己矛盾だという。ところが自己組織化は自分自身を改造したり、作り変えたりできる。実際、その具体的な例はなにかといえば、生命体である。生命はとかげのしっぽにあるよう自然治癒力をもつ。

  次の話はハイデガーの存在隠蔽性についてである。前期のハイデガー哲学はどっちかというと自分自身で自発的にんーっと力んで脱皮ならぬ、脱自して、このとき、自分の存在そのものの地平を開いちゃうという思想だった。存在そのものとは、ほかならぬ、自分が生み出す。ところが、後期ハイデガー哲学は存在とは向こうからやってくるものだという。しかも、存在そのものは具体的な存在者の衣、着ぐるみを着てやってくるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   われわれはドーナッツ、トーラス体だといった。自分から円錐状にひろがる遠近法的世界。これがおのが後ろにまわりこんで背中にくっつく。対象意識、世界への意識は同時に自分の背中をみているのだから自己意識だった。これは自己組織化である生命の肉体同様に自己組織化だ。宇宙やそこの住むものはトーラス体として、自浄作用をもつものにしようと、この宇宙シミュレーションの製作者はおもったのであろう。ところが、バグがうまれ、こま落ちがあった。これが人類の社会なのだ。まず、人間の意識はデリダのいうように自己現前しなくて、見ている自分と見られている自分はちがう。自分だ、といってもそれは痕跡、他者だ。また、フリーエネルギーは自分自身で自己完結する第一永久機関だが、この技術は世に出るまえに隠蔽される。さらに、自然治癒力も、薬品会社による支配のため、圧迫をうける。経済においても、自浄作用、自己生成ではない。労働者は見合った対価をもらわない。一部の銀行家がもうかる仕組みだ。これらのすべてがトーラス体が壊れているバグでり、UFOが現れて調節にきているのだ。今後、来たるべく理想の世界では自己意識もトーラス、社会もトーラスなのである。



2014 8-26


不可知論と仮想一元論についてである。主体的にいろんなこ戸に取り組む。せっせとめだかを追い回す。虫取りにジャングルに赴き、虫取り網でくじらを射る。生きているとは主体的なのだが、じつにわれわれは永遠に主体的な存在だった。また、同時に主体的とは非主体的でなにもしていないと同じことかもしれない。

   哲学者カントの不可知論についてである。われわれが見ているのは現象である。洋ナシ、どうみても下半身のぼってり感が足腰を強靭さをかもしだしているのだが、この洋ナシの何を知っているのか。こいつはどこからきたのか。分子の数もわからない。見ているのは、五感とカテゴリーによる判断だけだ。この洋ナシそれ自体はわからない。だから、物自体は不可知だし、はるかなたの理念だ。ところが、理論的に洋ナシってなんなのか、知ろうとするのをやめて実践にうつる。すると、実践している自分が物自体とわかる。物自体は実践理性だとしる。

  次の話は坂本百大の仮想一元論についてである。世の中はなんだかすべてをひっくるめて一元論的だ。ところが、なにかを認識しようとすると、どうしても二元的にならざをえない。世界は全部でひとつかもしれないという仮想一元論。世界をみよとすると、どうしても概念の枠組みが心と世界というように二つになるので概念枠二元論になる。

  まとめ

 存在の科学

  異次元理論

   この世界はすべて波ででいている。粒子だとおもっていたがじつは波。しかも、この世界の空間、時間は眼にみえる実体の世界だけではない。つまり、実数世界だけでなく、二乗してー1になる虚数の世界、複素数世界もある。実数軸と虚軸という空間軸があるのだ。量子の波動はこの二つの世界をあわせたところで波打っている。ただし、原理上見えるのは実数世界だけだ。

  この見えない虚数世界、複素数世界はじつは認識している、意識している私そのものなのだ。見ている私と見られている世界を合わせると、実軸、虚軸のあわせた全体の波動になる。生まれてから、死すまでは実世界を見ている。それは見ている自分はみえないのだから、虚世界だからだ。ところが、生まれる前、死滅後も、虚実を含んだ全体の波動であり、主体的だったのだ。また、西田幾多郎がいう無主体説のように、じつに、この永遠の主体性である虚実の波動は無主体的でもある。何もおきていない、何もしていないのだ。ここまでくると、老子の無為をなす、腹をなす、ということ。為さないということを為しているのだ。


2014 8-27


非法則論的一元論とベルクソンの自由論についてである。私と世界はセットであり、世界とは関係なしに私入られないし、その逆も同じだ。私と世界だけのとき、私は絶対的な自由。ところが、私となにか対象と関係をもつと、なんと物理的制約がうまれちゃう。私と世界、世界にあるいろんなものとの関係について鼻息荒くしながらお話したい。

  ディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。心と世界を足しちゃうと、宇宙の全部になる。心は心の法則、世界は物理の法則にしたがっているっぽい。二元論のときはいいが、これらをひとつにしてしまうと、もはや法則、ルールがでたらめになる。バレーボールとサッカーをくっつけたらカオスだ。だから、宇宙をひとつにすると非法則だから、非法則論的一元論という。

   次の話はベルクソンの自由論についてである。ほんとうの時間っていうのは測定できない、つまり、量じゃないという。だから、質なのだ。そんな時間がどこにあるかといえば、胸のうち、つまりは、心、意識である。これを純粋持続という。さて、そんな私の意識は自由そのもの。自由とはなにかと問う。だけど、疲れていれば問わなくてもいい。つまり、自由とはなにか、と問うか問わないか自由なのだ。よって、自由はそもそも問い以前のもなので事実だという。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   私と世界はセット。このときは、私は自由そのものである。非法則論的一元論のように、心と世界でなんでもありのカオス状態。そして、他者が現れる。私と対象物や他者。このとき、ふたつにわかれておのおのルールがでてくる。私においては一なる私だけで個性がうまれる。対象のほうは万物多様性で多元的だけど、物理法則による制約がうまれる。二元論になったとたんに物理的制約がでてくる。これは行為のことだ。思考や何かを感じているときは二元的じゃない。感覚は一元的だが、知覚は対象物と私にわかれるから二元的だ。だから、思考、感覚、感情、感じるというのは自由そのものの世界だ。これが一なる私と多なる世界という二元論になる。一元論と多元論という二つにわかれるという二元論なのである。



2014 8-28


自己不透明性と根源の原理についてである。風が吹いてなんと髪の毛がぼさぼさになり、まるで別の生き物のように踊りだす。髪の毛は生きている。風で飛ばされたコンビニ袋が宙を舞う。コンビニ袋は生きているのか。物質と生命の枠を超え、すべては風で動く。

  自己不透明性についてである。自分自身にとって、自分がまったく見えない、わからない。これは自己不透明性という。ジャックデリダなどである。おれだ、と叫んでも、自分の前に現る自分、自己現前というが、これはもはやおのれの残像、痕跡だという。また、逆に自分自身がまったく100パーセント見えるし、わかるというのが自己透明性。古代ギリシャのソクラテスである。私は無知であることを知っているからアテナイで一番賢いという。無知の知であるが、これは自分のことをよく知っているという自己知だから、自己透明性だ。

  そして、自己半透明性がサルトルである。半分ぐらいは自分が知っている。だから、半分はわからないから、そこから自分自身をだますという自己欺瞞がおこるという。

  次の話は新カント学派のコーヘンの根源の原理についてである。AっていうのはA自身によって根拠付けられて支えられているのか。自分が自分自身を持ち上げるようなもの。だから、AはA以外のものによって根拠付けられるという。Aは非Aによって根拠付けられるというのが根源の原理である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   なにかを意識していたり、見ているのだが、だれがなにに突き動かされてみているのか。自分の主体的な意志だ。ところがそんな意志は自分にとって見えない。自分自身はどんなにがんばっても見えない、わからない。自己不透明性なのだ。鏡を見て私がいるとおもってもそれは本当の私ではない。私の本体は徹底的に見えない、わからないもの。見らている対象以外のすべてが私の意志なのだ。かって、カントは現象の背後に物自体があって、これは見えないしわからない、不可知だといった。ところが、そんなわからない物自体はいまなにかをしている自分自身の実践だといったのだ。

  人間にとって見える世界は実数世界だ。見えない世界は虚数、複素空間である。いわゆるこの複素世界が私自身なのだ。ミツバチは花の蜜を集める。花しか見えない。かれらにはつぼみ、茎など不必要なものはみえないのだ。人間も生存に不必要なものがみえず、見えるのは糧だけである。ところが、このミツバチにとってみえないつぼみ、茎、風こそがそのミツバチを動かしているもの、そのミツバチの本体である。また、あるひとにとって見えない、わからないものがそのひとを突き動かす、その人自身の意志である。これは風に舞う蝶やコンビニ袋にもいえる。蝶は見えない風で動き、袋も風で動いている。もはやそれ以外のもの、Aは非Aによって動かされ、A自身の本体、意志は非Aなのだ。


2014 8-29


   サルトルの自由論と人間原理についてである。ひとはどこまで自由なのか。チキンナゲットでマスタードか、はたまた、マーべキューか、選択の自由もある。ところがそれどころの自由ではなく、なんと自分が存在するか、しないかも自由意志で決めていたのだ。

  サルトルの自由論についてである。ふつうに考えると、物事はまず本質っていうのがあって、はじめて存在できる。設計図、構造、法則が最初にある。車を車たらしめている本質があって、はじめて存在できる。ところが、人間はちがうというのだ。人間においてはその存在が本質よりも先にあるという。男女、どっちにするか自由意志で決める。そもそも、人間になるかどうかも自由なのだ。こんな自由な存在。なにかとして固定されていない不定形な荒唐無稽な存在。これを実存と名づける。

  次の話は人間原理についてである。この宇宙は人類が存在できるためにあまりにも好都合にできている。光の反射率、地球と太陽の距離ですら、ちょっとちがっただけで人類はいなかった。なんらかの意図が働いているのか、それとも、人類が存在できない環境だったら、そんな宇宙を観測する人類がいないから当たり前のことなのか。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   
    論理的に可能な世界はすべてある。いまこの宇宙が特別だという特権化は非科学的であって、すべて論理的可能なものは並行世界としてあるのだ。すると、人類、果ては私はもっとも、自分にとって都合のよい環境の宇宙を選択して生まれてきたのかもしれない。つまり、性別、性格を選択どころか、人間になるかどうかどころか、存在するかしないかすらも、あるとないを超えたなんだか不思議な状態の私が自由意志によって決定して、この宇宙を選んだのではないか。つまり、存在するかしないかを選択するものこそ、理性と自由意志を持ったものだったのである。



2014 8-30


クリプキの固有名とオッカムの唯名論についてである。この世界は原子でできているという。めちゃくちゃ小さいらしいが、もっと小さな世界を拡大してみるとなんと、並行世界でできていたのだ。さらに、大どんでん返しのごとく、われわれの意識はブラックホールで、その性格はブラックホールに吸い込まれている物体の形状に依存するという一見、わけわからないような内容を論理的に説明したい。

   クリプキの固有名についてである。論理的に可能な世界はなんでもある。ただし、実在するとはクリプキはいわない。可能世界には、ソクラテスは哲学者でなく、ミュージシャンの世界もあるかもしれない。すると、なにをもって、それが同じ人物といえるのか。つまり、女性だったかもしれず、昆虫だったかもしれず、といってしまえば、もうなんでもありの世界だ。可能世界を全部貫いて変わらないのは、ソクラテスっていう固有名だけなのだ。これを固定されて動かないものが指示しているので、固定指示子という。

  次の話はオッカムの唯名論についてである。あれはなんだ、人間か、ペンギンか。人間っていうことばに対応する人間そのものがいるというのがプラトンのイデア説。オッカムは人間だって、さいとうくんっていう固有名詞ですらただの名前、レッテルだという。あるのはそれ、唯一無比の個体だけだというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    この世界はすべて原子でできているという。そうではなく、並行世界でできているのだ。ひょっとしたらさいとうくんは野球選手だったかもしれない、天道虫だったかもしれない。もっといえば、机だったかもしれない。並行世界の斉藤君はなにをもっていまここにいる斉藤君と同じ人物といえるのか。姿がにていることか。虫の並行世界だったらそうとはいえない。魂なのか。そうではなく、並行世界はこの世界の外にあるのではなく、この世界のなか、しかも、この世界の構成要素だったのだ。目の前の机も私のひょっとしたらの姿であり、斉藤君のそれでもある。宇宙は広大で、地球そっくりな惑星にそっくりな斉藤君がいるかもしれないがそちらのかたも並行斉藤君だ。

  さて、科学的にも世界の構成要素は並行世界であることがわかっている。世界は最小のひもでできているという。なんとこのひもに畳み込まれるように五次元空間が入っているのだ。巻き上げられた次元ともいい、これをカラビヤウ多様体という。五次元空間には無数の並行世界、四次元ブレーンが存在するので、文字通りこのわれわれの世界は並行世界でできていることになるのだ。

  この世界がすべて自分の並行世界となると、いまここにいる自分の意識とはなにか、ということになる。じつにブラックホールだったのだ。ブラックホールに物体が吸い込まれる。すると、光速に近づき、時間が遅くなる。さらに、光速に達すると時間が止まるのだ。これを事象地平面という。シュッツという思想家は、意識とはとどまり、かつ、流れている絶対的意識流といったが、まさしく、時間が流れていないのだ。これは昨日の自分と今の自分が同じ自分、人格の同一性をあらわしている。また、物体が知平面を超えると、光速を超えるので時間が未来から過去へと逆行する。これはまた、意識の特性でもある。意識はすでに未来にあって、目的意識となり、過去の肉体を動かしているのだ。

  個人的意識、これを経験的統覚だとカントはいったが、これはブラックヒールに吸い込まれる物体の形状の違いだ。どんなチリ、岩石なのか、この違いが個性の違い。この一なるブラックホールの全体はカントのいう根源的統覚、人類共通の私なのだ。こう考えると、種によってブラックホールがちがうということになる。キリンそのものの普遍的意識はキリンの独自のブラックホールであり、そのキリンの個々の個体差が吸い込まれる物体の差異になるのだ。



2014 8-31


対自存在と超存在についてである。われわれはなんとあるとか、無いとかを超えちゃったなんかなのだ。バナナだか、りんごだか超えてしまったフルーツは知らないが、存在と無のかなたにわれわれがいて、惹いては生と死を超えているなにものかなのだ。
   サルトルの対自存在についてである。転がっているりんごはそれ自体で自分に一致している。だから、即自分なので、即自存在。安定しているが自由っていうものがない。あるところのものであり、あらぬところのものであらぬ、という。ところが、人間の意識は対自分存在、つまり、対自存在だという。私だ、といってももはや今の私ではない。私はかってあったものでなく、いまだないものになるという。あるところのものであらず、あらぬところのものである、というのが対自存在。あまりに不安定で固定されていないから不安だ。それでも、これだ、というかたまりじゃないので自由なのだ。

   次の話はマイノングの超存在についてである。有意味っていうのは、真か偽のどっちかの値をもつもの。無意味っていうのはどっちももたないもの。つまり、この皿のような眼で観察して検証できるのが有意味だ。マグマ大使は実在せず、よって検証できないから無意味になる。ところが、存在してるとか、していないとか超えちゃっているやつ、ということで、マグマ大使も、黄金の山も、丸い四角形もすべて超存在しているという。これは存在とはいわずに存立するという。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    人間の意識は存在と無の中間体。サルトルは存在でも無を分泌しているものとした。有と無を超えたものだ。いってみればあるでもないでもないマイノングの超存在のようなもの。だから、真偽不定のイメージや想像ができるし、思考もできる。クオリア、感覚だって、知覚とはちがう。知覚は丘の上の木を知覚というが、これは主観と客観に分かれている。ところが、くすぐったい、青い、くさいっていうのは主客未分であり、あるとかないとかの次元を超えている。有と無はいってしまえば、波動における山と谷。波というのは同期する。メトロノームを二つ並べると、仲良く同期して、同じ動きになる。振り子時計もそうだ。有と無は山と谷であり、波動である。これが別の意識なり、自然物と同期したり、位相差によって乱れたりする。

  一生を通じると、生と死、誕生と死というのも超えているなにかである。だから、以前お話したが、生まれるか、そうしないか、存在するかしないかまで自由だといった。生と死の波動は宇宙の波動と同期している。だから、これは宇宙、天命にゆだねられているともいえるが、生まれる前は私=宇宙だったので絶対的な自由で存在と無の選択をした。絶対的自由が天における運命というとニーチェの思想観が思い出される。


2014 9-1


指示の魔術と意味の三角形についてである。なぜ、われわれは自分の外にあるコーヒーカップを心のなかに取り込み、イメージ化できちゃうのか。いわゆる指示問題なのだが、眼に見えないで糸でつながっているのではなく、別次元と対象物と私のからだが互いにシンクロ、同期していたのだ。

  パトナムの指示の魔術についてである。水槽のなかの脳という仮想実験をする。SF的な仮想実験だ。水槽のなかに脳が浮いていて、これに電極がついている。そして、人工の眼球とつながっていて外界をみているのだ。目の前のコーヒーカップをその脳はとらえることができるのか。心のなか、脳のなかのイメージと外界のものはどうやって指示し、つながっているのか。パトナムは脳はコーヒーカップを認識できないはずだという。われわれ人間はなんで外にあるものと心のなかのイメージを結び付けられるかはまるで魔術のようだという。

  次の話はオグデン、リチャーズ、意味の三角形についてである。ジャングルに洋ナシがあった。ここに探検隊が来て、洋ナシだと叫んだり、紙に書く。言語っていうのは象徴とよばれる。いろんな洋ナシを代表している象徴だ。そして、実際の洋ナシという対象物がある。さらに隊員のあたまのなかにはイメージがあり、これを思想という。思想、言語、対象物の三角形があって、はじめて洋ナシの意味がうまれる。だれもいないジャングルではその洋ナシには意味がうまれないのだ。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  なにゆえ、心のなかのイメージが実在物と結びつくのか。洋ナシがあったら、まず、私の肉体と共鳴、シンクロ、同期する。メトロノームや振り子時計のように周期が一致してしまうのだ。さらに、この世界はすべてひもでできているので、ひものなかにおりたたまれている五次元空間内部と同期する。これがカラビヤウ多様体である。五次元は無数の並行四次元時空があるので、そのなかのちょっとちがうひょっとしたらのその洋ナシがある世界と同期するのだ。さらに、この可能世界の洋ナシが実際の洋ナシと同期する。ここに意味の三角形のような状態が生まれる。肉体としての私とカラビヤウ多様体のなかの可能世界の洋ナシと実物の洋ナシがシンクロしあうのだ。すると、洋ナシを心のなかでとらえられるのである。この可能世界の洋ナシが思想であり、実物は対象物であり、私の肉体は言語に対応する。肉はロゴスというのだが、まさしく、肉体が言語だったのである。


2014 9-2


パースペクティブ主義とシュタイナーのアストラル体についてである。生命っていうのは裸でなく服を着ている人類っていう種もいるのだが、基本的にオーラのようあもので包まれている。飲みの席ではめはずして素っ裸の男にもオーラがある。これは場なのだ。電磁場、ヒッグス場と同じような場、ここに意識の秘密がある。

  パースペクティブ主義についてである。遠近法主義ともいう。大地に根付いて、自分の視点からものをみる立場だ。近いものは大きく、遠いものは小さく、アフロの後ろだと、景色が見えにくい。とりわけ、ニーチェは極端なパースペクティブ主義である。隣にさいとくんがいても、同じ景色をみていない。眼がちがうからだ。考えだって、あたまがちがうので同じことは考えていない。なにがよくて、なにが悪いか、善悪の価値も一切共有していない。絶対的な価値、神様のようなものがなく、みんな孤立して自分の視点からしかみていない。だから、相対的で、ニヒリズムの世界だという。だからこそ、無から価値を創造しよう、というのが超人思想だ。これにたいして、プラトンは反パースペクティブ主義。世界を神様の立場から一挙に俯瞰する。どこからみたバナナでなく、バナナそのもののイデアである。

  次の話はシュタイナーのアストラル体についてである。人間の身体は物質界。これを生命にさせているのが、肉体を包むオーラ、エーテル体である。さらにそのまわりには記憶をとどめ、知覚や思考を生み出すアストラル体が包んでいるという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   電磁場、電磁界というのは、じつに、空間のなかにない。じつは、空間の場とは別の世界、場なのだ。この一般的にいう空間はアインシュタインがいう時空のゆがみで重力が発生する空間であり、最近だと質量を発生させるヒッグス場のことだ。無数の場が並列ないし、重なっているのだ。
  
  電磁場においてメッセンジャー粒子の光が生まれる。光も電磁界のものだ。異なった場同士が干渉、影響したとき、それは光円錐、ライトコーンの形になる。文字通り、光はライトコーン、円錐状に広がる。意識場というものがあれば、物質である肉体があるこの空間に接触すると、ライトコーンとなって現れるはずだ。そのとおりに、意識はライトコーン状に、遠近法的に、自分を中心にして、円錐状に広がっているのだ。



2014 9-3


ズレの哲学とフラクタル理論についてである。生命の意識はズレてしまい、これを修正してさらにずれてしまった結果、うまれたのではないか。二度のズレ、失敗がうんだ産物だったのかもしれない。

  ズレの哲学についてである。ズレといったら、靴下がずり落ちて超気になってプロレスの試合に集中できなかったり、パンツがずれていて、歩き方があまりにも奇妙で競歩の大会で失格になったり、とあまりいい意味では使われない。最初にズレがある。たとえば、ジルドゥルース、差異と反復である。もともと、違いが最初にあるのだが、どうしても同一性になりたくてしょうがない。そのために反復するのだ。ベルクソンは過去中心の反復だという。今見ているものは印象。そこに梅干がある。それがすっぱい梅干と認識できるのは過去の記憶と今見ている印象との反復だ。ヒュームは現在を中心にした反復。梅干、梅干、と今この瞬間の印象しかない。だから、冷蔵庫のなかにあるはずの梅干は思い込みだ。未来中心の反復がニーチェ。永遠の同じ一生を未来永劫に繰り返すという永劫回帰の思想だ。

   次の話はフラクタルについてである。雪の結晶っていうのは、部分が全体の形といっしょである。自分を構成する部分が全体と似ている。これを自己相似系、フラクタルという。


  まとめ
  
  存在の科学

  異次元理論


  生物の発生っていうのは同じパターンの繰り返しである。あたまとお尻は似ている。腕と足も似ているのは同一パターンによってできているからだ。これを連続的なパターンという。かにもまた、あのはさみと表面のいがいががそっくりだ。また、異なった種同士も同じパターンだから似ている。ひとと馬も同一パターンだ。

  同じパターンを繰り返そうとして、周囲の環境と同期することで、自分自身との同期が壊れ、位相差が生まれる。このパターンのずれを補正しようとする。左右対称のシンメトリーがくずれ、右によったら左に寄ろうとする。負のフィードバック機構である。ところが、左でなく、上にベクトルが向く。これが意識、意志になるのだ。ずれを補正しようとして、また、補正に失敗。二度の失敗が意志をうむ。失敗の失敗が成功なのだ。

  さらに、意識がうまれてから、最初はクオリアである。このパターンを繰り返し、感情、思考が生まれる。これまた、補正が必要でもとの状態に戻そうとして、人格の同一性が生まれる。万物は光の対称性だったのだが、これがこわれてエントロピーが増大し、ヒッグス場、物質がうまれた。エントロピーを減少させるべく、補正し、均衡を保とうとして、意識が生まれたのだ。


2014 9-4


先入観とロウソクの科学についてである。見間違えるときがある。イガグリを友人のあたまと間違えてなででしまったり、サッカーボールとまちがえて、同じく友人のケツを蹴飛ばす。すべてのものは生命であるが、それが先入観によって物体や別のものに見えているだけなのだ。

  先入観についてである。ベーコンは先入観のことをイドラと名づける。四つのイドラがあって、これらを乗り越えることで真実の世界が見えてくるのだという。先入観が真理、真実をみえにくくしているというのだ。これに対して、現代の思想家ガダマーはむしろ、先入観あってこそ認識だって成立するという。あれは人間だ、フルーツだと、と思い込み、よく考えてみるとすべてが先入観なのだ。先入観なしにものをみたらなにも理解できないのだ。

   次の話はファラデーのロウソクの科学についてである。ファラデーは宇宙にあるすべてのものはロウソクの火と無関係なものは一切ないと断じる。それは生命でもあり、銀河系でもある。とりわけ、ロウソクの火は生命だというが、酸素を吸って水と炭素にして、二酸化炭素を出しているロウソクはかぎりなく生命と同じなのだ。

  
  まとめ

 存在の科学

  異次元理論


   ロウソクは酸素を使って二酸化炭素を出す。まさしく生命と同じ営みだ。生命にみえないのはわれわれは同じ色眼鏡をかけて先入観でみているからだ。生命と非生命のちがいはこのような先入観のちがいだったのである。もしかしたら、ロウソクの火が別の次元の世界にあって、肉体はこの空間にあるのかもしれない。また、この世界の火は別世界では生命なのかもしれない。われわれの精神と肉体は別次元をはしわたされているが、この二つの次元を同一次元とみなす横切る次元に住むものにとっては当たり前の現象にみえているのだ。ビリヤードの玉1があたって玉2が動いた、というこの出来事の連続性は他の次元では高次元、低次元のクラスのちがいにみえるのである。

  われわれがみえるのは実数世界であって、虚数、複素数世界はみえない。これはそういう先入観のめがねをかけているからだ。相対論において観測者の運動状態によって時間と空間がゆがみ、座標系が傾く。同じように、観測者の意識状態によって、座標系がゆがみ、座標系が変化する。複素座標系が見えてしまう意識状態が睡眠という意識活動が沈静化した状態かもしれない。このとき、夢をみるが、これが、覚醒時のわれわれにはみえない別世界なのかもしれない。



2014 9-5


物語文と語用論についてである。なんと驚いたことに、耳とひたいがしゃべっていた。そんなことをいったら、まちがいなくあたまいかれていると思われる。自分を中心に半径3メートルは人がいなくなる。細胞も、原子も、洗濯機も、すべてはじつにコミュニケーションをとっていたというお話をしたい。


   ダントの物語文についてである。すべてはストーリーテーラーが語っている物語によって意味がうまれる。すでに終了した過去の二つの出来事を並べて、物語るのである。第二次世界大戦は何年にはじまって、云々話して、何年に終わる。こうすると、出来事の流れ、方向がわかる。ところが、ただひたすらその時々の状態をいうだけの状態記述だと、その前後の脈絡がわからなくなってしまう。

    次の話は語用論についてである。みかんって叫んだとき、みかんっていう単語と、実際のみかん。これらが眼にはみえない糸で結ばれている。これについての研究が意味論である。みかんはおいしいな、ひっひっひ、というような文。文法、ルールに従っているが、文法について研究する構文論。さらに、言葉を使う、聞き手がそれ聞く、というような、言葉の使い方の研究が語用論である。

   まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  
  細胞も、物体も、互いに人間の言語以上の情報量をもつコミュニケーションをしている。すべては関係性で成り立っているのだ。茎、花、葉っぱ、これらは便宜的にわけられているが、これらのあいだ、関係のなかに文法があり、コミュニケーションがある。物体の力学的伝達だって、言語なのだ。振動するもの一般を振動子というが、互いに同相同期したり、逆相同期したりするのだが、これまた、言語と同じであり、生物のからだの発生や銀河系の成り立ちにあるような同じパターンの繰り返しと微妙なズレですら、言語活動と同じ。言語の文法も時代とともに変わる、パターンが微妙に変化するのが若者言葉と昔の言葉を比較するとわかるのだ。よって、人間が言語を使うのは特別でなく、最初からすべては話していた。とりわけ、自覚的に自分が話しているのを知ったのが人間だったのである。



2014 9-6


ソクラテス以前の古代ギリシャ思想と神の存在証明についてである。神様がでてくる神話、そして、論理的な哲学、さらには宇宙人。これらが目にみえない世界で人類製造にかかわっていたかもしれない。人間はマシンになったのかもしれない。マシンからの脱却、そんなお話をしたい。

   ソクラテス以前の古代ギリシャ思想についてである。もともと、ギリシャではミュトス、神話があった。世の中はカオス、でたらめからうまれ、巨人をやつけてオリンポスの神々が君臨し、人々の運命を決めたという。ミレトスという地で哲学がうまれる。すべての根源をアルケーとよび、タレスはすべては水というアルケーでできているといった。アナクシマンドロスは無限なるものがアルケー。さらにヘラクレイトスは万物は流転しまくり、だとし、パルメニデスやその弟子ゼノンは存在こそ永遠だといった。

  次の話は神の存在証明についてである。四つの存在証明があるという。まず、神の目的論的証明である。自然界をみると、なんだかすべてのものは目的をもっているようにおもえる。その目的が神様なのだ。本体論的証明というのはデカルトなどであるが、論理的に神様がいると証明。可能ないろんな存在者がいる。理屈でかんがえれば、最高の、最大の存在もあるはずだ。神様は理屈上いるはずなのだ。宇宙論的証明というのは、すべてが原因と結果であり、原因をどんどん追究すると、神様の最初の一撃があるはずだ。そして、カントなどは道徳論的証明である。善いことをしても、むくわれないときがある。こうなってしまうと、もはや、神様がみてくれてないと困る。神様の存在を要請するのだ。
  

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   ギリシャにはミュトス、神話があった。オリンポスの神々が巨人を滅ぼしたのだという。ギリシャの近くにエジプト文明があり、巨人の像がまつられている。シュメール文明にいわれているアヌンナキである。惑星Xに住んでいるアヌンナキ、自分の住む惑星が大気汚染で住めなくなる。そして、その大気を改善するために、金粉が必要だったという。だから、地球にやってくる。地球にいたサルを金掘削マシンに改造したというのだ。

  ここでシュタイナー思想が重なる。人間の肉体は物体だが、生命活動を引き起こしているのは一回り大きい目にはみえないエーテル体だという。このエーテル体が巨人であり、巨人アヌンナキが作り上げたもの。こんな巨人を倒したゼウス率いるオリンポスの神々がこんどはミレトスで誕生した哲学に倒される。すべては秩序、論理からできているという古代哲学。秩序の神、アポロンだけを採用する。そして、近代にはいり、意識や主体性の哲学ができる。ここで、エーテル体を包む、意識魂、アストラル体がうまれたのだ。ニーチェは哲学が信望していた秩序の神、アポロンに対して、肉、カオスの神、ディオシノスの復活を試みた。これらの神々は人工的につくられたものなのか。そうではなく、観念的なものであって、数の3が実在するように、観念世界に実在しているのだ。

  われわれは金採掘マシンなら、これに自覚したとき、理想の人間になろうとするであろう。ところが、椅子が自分が椅子であることに気がつかないように、ひともなにかに利用されていると気づく。椅子は人間になろうとすれば壊れる。人間も身を破滅してしまう。マシンからの脱却はじつに宇宙との共振しかない。

  ひとのからだ、細胞も、地球の自転公転周期と同期している。すべてが振動するもの、振動子である。もっとも大きな宇宙の発生と消滅は、もっと小さな量子の対発生と対消滅と同じ。もっと小さな、もっと大きなものがあった。ひものなかのカラビヤウ多様体は五次元の並行世界。この宇宙の外にも広大な五次元宇宙だ。この大きなものと小さなものは基本的には同じだが、同期せずに位相差がある。これを同期することで、自分を個別的にかえることなく、宇宙とともに変えることができるのだ。部分が全体と同じ形というフラクタル。これを自己相似系といった。全体と部分は同じで同期するということを自己相似でなく、自己同期となづけたい。こうすると、大いなるものと最小のものがループし、マシンからの脱却ができる。これが瞑想だと思われるのである。



2014 9-7


個体と判断停止による中立化についてである。目の前に壁が立ちはだかる。どんなに視力がよくても、壁の向こうはみえない。眼は物質的なものだからだ。ところが心は想像、イメージで向こうを感じようとする。心、意識は波動であり、それゆえ意識体は複数いるのだ、というお話をしたい。

  個体についてである。古代ギリシャのアリストテレス。個体っていうのは形相と質料の合わさったものだという。たとえば、ホットケーキなのだが、粉と水とたまごが材料。これが質料であり、これに形、本質である形相がくっつくと、おいしいホットケーキの出来上がりである。

  中世においてはドゥンススコトゥスのこのもの性である。ホットケーキにはこのホットケーキたらしめているこのもの性っていうのがそなわっていると考える。これが極端に先鋭化するとオッカムの唯名論になる。ホットケーキっていうのは名前であって、すべてはここにあるこれっていう個体しかないという。
 
  現代においてはクワインの存在論的コミットメント。論理的に考えるのだが、xとか、yとか、これを変項といい、xはホットケーキという文において、このxに値が入った瞬間に存在とコミットして、このホットケーキが存在しちゃうという。

  次の話はフッサールの判断停止における中立化についてである。これあホットケーキだ、これはテーブルであり、ここにまちがいなくある、と決め付ける。これを存在定立という。この思い込みをやめてしまう。すると、あるとかないというレベルを超えて、中立的に混ざり合った状態になるというのだ。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

    壁があると眼球は向こう側が見えない。眼球は肉であり、物質だから物理法則に従う。ところが、心、意識はちがう。以前話したが、すべては振動する振動子である。だから、壁の向こうtp同期するのだ。意識は壁の向こうをイメージし、想像する。意識は振動、つまり、波動なのだ。

  波動には山と谷がある。電子は原子核のまわりをまわる波動だという。山と谷の一個分が放出される。すると、エネルギーが整数倍だけ放出されるのだ。山と谷でセットであり、中間の値がない。波動とはデジタルであり、これを波動の離散性という。意識も波動だから離散的に振舞う。あれかこれか、好き嫌い、白黒はっきしていて、心の奥底でははっきり決まっているのだ。どっちかわからないというのは自分をだましているのかもしれない。意識がデジタルで離散的だから、意識を生命体もまた離散性である。山田君、橋本くん、高橋さん、すべては離散的であり、山田君が半分で、橋本君は半分という状態は心、意識にはない。物体にはそれがある。あんぱんを三分の一にわけることもできる。物体は連続性、アナログなのだ。

  箱のなかの猫は意識という波動が関与しないと、白黒はっきりしない。離散性をもたない波動ではない粒子だから、生きていると同時に死んでいると同時に毛づくろいしているのだ。すべてがまざった存在っていうかたまりなのだ。だから、意識、心のないロボットが箱のなかをみたらすべての状態が重なったただの存在にしかみえない。これはもはや認識ではない。
 


2014 9-9


記憶の所在とモナドロジーについてである。地球には山あり、谷あり、町がある。文明が栄え、人類は繁栄する。同じように、時空のゆがみ、電磁場においても地形がある。ここに人類のような文明をもった何かがいるのではないか、というお話をしたい。

   記憶の所在についてである。記憶とはハードディスクやメモリのようにあたまに蓄積されているのだろうか。ベルクソンは記憶っていうのはそれ自体であるという。ただ、五感、眼でみたり、触れない。それ自体であることを即自分だから、即自存在という。記憶は見えないけど、あたまっていう感覚、アンテナでとらえることができる即自的なものだという。

   次の話はライプニッツのモナドロジーについてである。デモクリトスはすべては原子、アトムっていう粒でできているとした。眼に見えないものを扱うのを形而上学というが、形而上学的なこれ以上分割できない個体。ところがライプニッツのモナドはそんな形而上学的な個であると同時に、私っていうのは世界の中心だという近代的個体もあわさっているのだ。すべては主体的な点でできているという。そこの点、モナドにはそこからみた全宇宙を含んでいる。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   地球には地形がある。山あり、谷あり、川もあり、街もある。山や谷が云々というのは自然地理学。そこに文明が生まれて、人種や人間の生活については人文地理学。

  さて、時空というのはアインシュタインの相対論ではゆがんでいて、くぼんだところが重力があり、物体がある。電磁場もまた、等高線のようになっている。宇宙というのは、秩序から無秩序へと移行する。エントロピーが増大している。これは山であり、このエントロピーの山を登ろうとして、エントロピーを減少させるのが生命の主体性。ところが、電場においてはエントロピーの山には頂上がある。頂上に達したら、もはや、エントロピーを減少させようとしない。これに対して、磁場はこの頂上がなくてひたすら意志はエントロピーを減少させようとする。これをダイバージェンド、発散という。

  ヒッグス場にも山と谷の等高線があるであろう。このように、地球の地形と同じような世界だ。だから、そこに時空、電磁場、ヒッグス場の地形に文明が栄えるのだ。生命の肉体は細胞や菌のようにもっと小さな生命からできている。同じように、われわれの精神、意識、心も、もっと小さな意識によって構成される。これが電磁場、時空、ヒッグス場の地形にいる文明を気づいた目にはみえない生命体なのだ。われわれはベルクソンのいうように、記憶をそれ自体で存在させている。この時空や電磁場の小さな生命が記憶の貯蔵システムなのだ。主体的な生命に満ち溢れる空間、これはまるでライプニッツのモナド論のようなものだ。
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2014 9-10


ジェームスの哲学と三つの視点についてである。うりゃあっていう気合を入れて、頬をもちあげ作り笑い。主体的な意志があってこそ、われわれは活動できる。この主体的な意志はどこからうまれたのかと考えると、どうやら小さな世界の小さな文明人と関係していると思われるのである。

  ウィリアムジェームスの哲学についてである。今という瞬間にいるのではなく、時間っていうのは幅があり、厚みがあるという。過去、現在、未来にまで意識は厚みをもつ。また、目の前にある夏みかんをみるとき、夏みかんだけ見ているのではない。中心があって、周辺がある。眼の片隅の周辺にはぼんやりとちゃぶ台や部屋の天井がうつっている。これはオーラのようなもので、ほうりんといい、フリンジという。

  次の話は三つの視点についてである。哲学的人間学という分野でプレスナーという思想家がいる。動物っていうのは、自己と肉体がずれているから、肉体を動かせる。人間は自己と肉体をみる第三の視点、自我というものがいるという。オイゲンフィンクという現象学者は、現象学の現象学を提唱。現象学というのは、思い込み、判断を停止しちゃうと、純粋な自我が残るという方法だが、そんなことやっている自分をみる第三の視点、眺望点に自我がいるという。


   まとめ

 存在の科学


  異次元理論


   肉体は小さな生命、細胞、微生物によってできているが、同じように心も小さな心からできているといった。これは電磁場や重力場、量子場、カラビヤウ多様体などにある小さな文明の小さなものたちだといった。私はみかんをみているが、その周辺もうっすらみえる。これは原子核を中心に確率的に存在しているという電子雲と同じ構造だ。周囲は並行世界にある電子なのだ。だから、われわれが見るみかんの周辺のぼんやりな景色は並行世界がまざりあってうつしだされたもの。並行世界はこの世界とずれた、ぶれた世界である。これが電磁場、重力場にある文明の世界、ここに並行世界があるのだ。この微妙なずれの堆積があらわれているのがフリンジにおける周辺なのだ。さらに、これを世界のなかの自分とみなす。すると、自分を中心として、世界はぼんやりとひろがるのだが、この自己中心性は周囲のぼんやりとした並行世界の現れ、電磁場、重力場の世界の現われであることがわかるのだ。さらに、視野には、二つの原理上みえない点がある。これを盲点といい、盲点は眼球が脳とつながっている神経。だから、これは宇宙における原理上みえない世界、宇宙の果てとブラックホールという事象地平なのだ。自己中心性の世界におては事象地平、現象においては盲点、これらが別世界へと通じる、別世界との接合部分なのである。われわれの文明においても、遺跡というのは二つの特異点、事象地平を作り出すためのものであり、それがスターゲートなのである。



2014 9-11


存在論と認識論についてである。じろじろと天道虫が飛び出そうとするときのしぐさを観察する。認識することはイメージであり、観念的なものだ。他方、天道虫は存在し、私も存在する。山、谷、そして、公園の横になったら背中痛いよ、というあのベンチも存在している。認識と存在についての構造上の違いについて考えたい。

  存在論についてである。古代ギリシャにおいてはまず、アリストテレスの存在論である。そもそも、古代ギリシャ哲学は存在とはなにかという存在論がメインだった。アリストテレスはなにかが存在するとは、材料と形、質料に形相がくっついて成立だ、という。 
  近代に入ると認識論は主流になり、そして、飛躍して現代。現代において古代ギリシャの存在論が息を吹き返す。それがハイデガー哲学である。たまねぎは存在し、長細い長ネギだって存在だ。ところが、人間はただ存在しているのではない。自分が存在しているなって自覚しながら存在している。存在を感じ、存在とかかわる存在、これを現存在と名づけた。

  次の話は認識論についてである。認識とはなにか、というのが認識論。近代において台頭する。イギリス経験論では、今感じている、観測しているもの、経験しているものからスタート。ロック、ヒュームなどである。これに対して、大陸合理論は、観測や経験でなくて、生まれながらもっている能力、先天的なもので考える。この大陸合理論と経験論を調停したのがカント。半分くらいは先天的なものをもっていて、半分くらいは経験だというのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    存在しているものと認識やイメージ、観念の違い。たとえば、原子というのは存在している。中心には原子核、そして、周囲は電子の波が確率的に存在。銀河系は中心にブラックホール、そして、宇宙の最果ては膨張し、光速を超えているので光が返ってこないから、実質、原理上みえない。ブラックホールだって、光を吸い込むそれ以上は光速を超えてしまうので原理上認識不可能。中心のブラックホール、宇宙の果てという二つの事象の地平がある。真ん中と周辺のはじっこが原理上認識できないのだ。だから、おそらく、原子核のなかにもそのような地平があり、周辺の電子の雲は運動量と位置が同時に確定しえない不可知なものだ。存在の構造とは、中心と周辺に見えない事象地平、特異点がある。

  認識やイメージ、すなわち、現象はちがう。りんごをみていると、それが中心性である。その周辺には盲点がある。眼球と脳がつながっているところは原理上見えないのだ。中心の対象物と周囲の二つの事象地平。この三者の関係によって認識の構造は成り立つ。いってしまえば、宇宙の二つの事象地平を同じ枠に押さえ込み、凝縮させると、二つの特異点、事象地平が収まると同時に、中心性が別に現れるのである。

  また、人間の一生においてはすべては夢だという唯識の思想もあるように、感じているのは観念の世界である。生まれる前と死後という二つは原理上認識できない二つの盲点になり、その中心性にいまここにいる私という主体性がうまれるのである。さらに、私の心と他者の心の二つも盲点になっている。


2014 9-12

シェリング哲学とブーバーの哲学についてである。存在と観念の構造がちがう。世界の存在と一体となって終わるのではない。その先があるのだ。ゴールの先のゴール。これが、私はすべてのもので、すべてのものは私だという境地なのだ。

  シェリング哲学についてである。カント哲学においては、われわれがみているのは上っ面の現象。その背後の物自体はわからないというものだった。これを乗り越えようとしてドイツ観念論の登場だ。

  フィヒテ哲学がまず誕生した。第三命題というものをとなえる。第一命題は、私は私を設定。第二命題は私は私以外のものを設定。第三命題は私と私以外がちょめちょめするというもの。これらはあくまで、私のなかで私と私以外を扱っているので、主観的な心のなか、主観的観念論だ、という批判を受ける。ここに本当の意味で、主観と客観、私と私以外の自然が瞬時に一体化というシェリングの発想がうまれる。知的直感、天才的直感によってひとつになるというのだ。

   次の話はブーバーの哲学についてである。世界は一人称からはじまったのか。私が最初にいて、つぎに世界がうまれる。いわゆる独我論である。第三人称のかれら、それらが最初にあって、私やあなたふぁうまれる。これは唯物論的。そうではなく、まず最初に、私とあなたがセットでいるというのがブーバーの思想である。そして、その時々、あなたはしがうのだが、永遠の汝である神様と一緒だというのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  認識、観念の構造は二つの事象地平、特異点があり、それとは別に中心性があった。存在の構造は中心とひとつの特異点があり、もうひとつの特異点は周辺にあった。対象物という中心性と二つの盲点、生まれる前と死後という二つの特異点と中心性としての主体性。さらに、私の心と他者の心は見えないので特異点。そのあいだにコミュニケーション、クオリアすらそこにある。

  観念、認識から存在の世界への移行。これは二つの盲点にひとつを中心性と重ねること。また、生まれるまえか、死後のどちらかを中心としての主体性とつなげる。これはハイデガーの先駆的覚悟性である。シェリングのいう世界の存在との一体化である。ところがこの先もある。こんどはもうひとつの特異点も中心と重ねるのだ。すると、私とあなたの心という特異点がひとつになる。生まれる前と死後がつながる。これが空なのではないか。


2014 9-13


存在と所有、そして、永劫回帰についてである。私は常日頃、意識生活を営む。自分の存在にも気づいている。いってしまえば、自己意識は丸い円なのだ。夜空を見上げると宇宙がある。この宇宙も、私と同じように丸い円ではないか、というお話をしたい。

  マルセル、存在と所有についてである。自分の身体はだれのものか。ほかならぬ私自身のものである。所有するとは、自由処分権というものがあるはずだ。改造したりもできる。意のままにできるので随意性という。ところが、身体っていうのは、自分ではどうするこもできないときだってある。腰が痛い、ひざがいたい。空も飛べない。意のままにならない不随意性なのだ。身体は所有していると同時に、自分の存在でもある。この存在に自由をみるのだ。存在と所有の中間のグレーゾーンが身体だという。

  次の話はニーチェの永劫回帰についてである。当時の天文学で、宇宙のエネルギーが有限で、しかも、時間は永遠に流れるならば、星は同じ配置を繰り返す、というものがある。ニーチェの永劫回帰はわれわれは同じ一生をずーっと寸分たがわず繰り返しているというのだ。だから、すべては運命であり、全面肯定しちゃうという超人思想がうまれた。この運命そのものが自由だというのだ。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  
    自己意識というのは、意識している自分と意識されている自分がいっしょだから円になっているのだ。もちろん、光速の円回転である。宇宙もまた、時間的に繰り返し、閉じた円かもしれない。すると、意識と宇宙は基本的に同一構造だ。仏様や神様なのかもしれない。ただし、曲率の大きい時間的円が意識、曲率が小さい時間的な円が円宇宙だ。

  さて、時間と空間の世界もまた、円運動している。原子核のまわり電子がまわり、太陽のまわりに惑星がまわり、ブラックホールを中心に恒星、太陽系がまわって銀河系になる。

  円の意識と円の宇宙、この中間に物質的であるような意識的でもあるような身体があり、円身体と名づけたい。

  円宇宙の曲率が小さすぎると、ついには無限のかなたで閉じる放物線宇宙になる。さらに曲率が小さくなると、開いて閉じていない双曲線宇宙がある。

  双曲宇宙の上に放物線宇宙、さらにそのなかに大きい円宇宙があり、そのなかに小さな円意識がある。

  これが大地にたとえられる。大地は双曲宇宙。ここに可能性としての種子があり、これが放物線宇宙。閉じて意識になるか、開いてしまうかの可能性。この放物線の種子が芽生え実を結んだのが円宇宙であり、円意識なのだ。


2014 9-14


間主観性と二重否定についてである。ひとの気持ちになって行動する。しりもちをつきそうなひとがいたらすかさず座布団。くしゃみしそうな顔をしたら全身でそれを受け止め、おならをしたらお尻付近の現場にすかさずかけつけ、現場検証。なにゆえ、相手の立場になれるのか。この宇宙論的構造について考えてみたい。

  間主観性についてである。主観と主観、私と他人とのあいだはどうなっているのか。そもそも、他人とはなにか、と考える分野。古代ギリシャは存在の哲学、中世は神の哲学、そして、近代にはいると、デカルトのわれおもうゆえにわれあり、という自分とはなんぞや、と世界。ここから、自分の探求で他者がないがしろにされてくる。現代においてデカルト的な思想といえば、フッサールだった。すべては思い込みで、これを判断停止したら最後に残るのは名も無い自分、純粋自我だった。ところが、これだt身体とか、他人の存在が説明できない。そこで、間主観性が問われることになる。その昔、カントは根源的統覚という発想で他者と自分は同じだという発想がうまれる。容姿も性格もちがうが、根っこは同じひとりの意識、根源的統覚だという。フッサール自身は対化的連合を提唱。われわれはひとりでいても、いろんな限界に囲まれている。これを地平という。考える限界、視野の限界、これを地平という。志向地平や視野の地平だってある。この地平のなかに他人の目があるという。だから、ひとりでいても、目撃者多数の客観性が与えられるのだ。

 次の話は二重否定についてである。私は人間ではない、ということはない。ないを二回使えば肯定になる。これを存在のレベルでやったのがヘーゲル。否定の否定は肯定だという。ここにあるこのみかん。このみかんはあのみかんでも地球でも、りんごでもない。このみかんである以外のすべての具体的なものを否定しつくして、ついにはこのみかんが存在できる。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   シュレディンガーの猫、箱のなかの猫はふたをあけるまで生きていると同時に死んでいる。毛づくろいしていると同時に寝ている。すべての状態が重なっているのは、電子が確率的に存在しているからだ。見た瞬間に電子の位置が決まる。この見えないものは電子の雲、確率的なもやもやというのだが、これこそ生命の心、意識ではないのか。意識活動とは感じたり、想像、イメージ、というように複雑な並行処理をしていて、これはまさに電子雲のごとくだ。見えないところに私の心がある。すべてをみてしまったらもはや心は消えてしまう。

  以前、現象界や認識は観念、イメージの世界だといった。存在の構造と観念の構造のちがいだ。原子はおそらく中心部の原子核は原理上認識しえない特異点、事象地平。そして、周辺の電子は速度と位置が同時に確定しえない不確定な認識しえないもの。中心と周辺に特異点がある。銀河の中心がブラックホール、周辺は光速を越えた膨張宇宙という宇宙の果て。認識、観念の構造はこの二つの特異点が同じ現象面に押し込められて、これが眼球と脳をつなぐ神経である盲点であり、特異点。中心部に仮想の対象性がうまれる。他人の観念の世界を私がみる。すると、私の二つの盲点、特異点のあいだの中心部にかれの二つの特異点が中心と周辺に分けられた特異点となってみえる。つまり、原子のように見るのであって、これがサルトルのいう即自化だ。さらに、かれの二つの特異点が重なって見える。特異点は原理上認識しえないものだが、重なると、二重否定によって、強烈に認識し、感じられるものになる。これがかれの気持ちになるということだ。

  もうひとつ、ものについてある。物体はなぜ意識し、認識できないのか。それは中心に原理上見えない特異点があるのだから、物体は見えないものをみようとしているからだ。




2014 9-15


アナクサゴラスの種子と否定哲学についてである。われわれの理性は種、ピーナッツのような豆類が好きであるといっても、わかってもらえないとおもう。本能は肉を食し、理性は種、可能性を食す。

  アナクサゴラスの種子についてである。この世界はカオスだったという。いろんな種が混ざっていたという。ここにあるこの車だって最初は可能性としての種だった。ここに生えているひまわりだって、可能性としての種だった。これらが少しずつ混ざった状態だったのだ。こんなカオスから、理性、ヌースというものが種を取り出すという。だから、理性はあれが車で、これがバナナだと判断できる。

  次の話は否定神学についてである。神様は愛である、とか、何か肯定してしまうのが肯定哲学である。ところが、人間にはとらえられないほど、大いなるものなので、神様は机じゃない、椅子じゃない、というように否定を尽くした先にあるというのだ。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    ひょっとしたら、私はアメフトの選手だったかもしれない。こんな可能世界は種としてあった。そして、その種を食べたのだ。こうやって、野球選手だった可能世界の種も食べてしまい、最後に残ったのがこの現実世界なのだ。つまり、これが現実だと肯定的に選択したのではなく、むしろ消去法的に他の可能世界を食べた残りだったのだ。この可能世界の種を食べているのが理性なのだ。本能は肉、もちろん、植物の果肉も含めて食べるのである。

  聖書において、過ぎこし祭には種なしパンをたべるように、とかいてある。これは理性によって可能世界の種を食べると1なる現実しか残らないから、奇跡や神へと近づくには、むしろ、理性は種を食べないようにすること、という意味があるのかもしれない。


タレスの哲学とコーヘンの哲学についてである。感覚、知覚、対象意識、自己意識、おまけに想像力まで、すべてがひとつのものの別の現れなのだ。そして、とどのつまり、私とは無自覚の水の流れかもしれないというお話をしたい。

   タレスの哲学についてである。ミレトスの地で、哲学が興った。哲学の祖といわれているのがタレスである。彼は、万物の原理、このことをアルケーというのだが、これを水だとした。生命もすべて水でできているというのだ。

   新カント学派のコーヘン哲学についてである。カント哲学ではあたまのなかでいろいろ判断するが、感覚っていうのはあたまのなかの観念ではなく、どこからかやってくるもの。経験や感覚は実在的で、世界のなかの私というのはあくまでイメージ、観念世界だ。ところが、コーヘンは感覚ですら、あたまのなかで生まれるという。ここに根源の原理が登場する。

  AはAによって根拠づけられない。Aは非Aによって根拠付けられるという。思考っていうのは、考えていない、非思考を感が酔うとする。それでも、アキレスが亀を追いつけないと同様に、非思考になるには無限の点を通過しないといけない。ここに無限の感覚情報がうまれるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

   箱のなかは見えないから、猫は無数の状態が確率的に重なっているという量子論。心は胸やあたまのなかもみえないからそこにあるともいえるが、箱のなかにもあるのだ。壁の向こうはみえないから想像するが、壁の向こうの無数の状態がかさなったものがおのが心、意識である。意識は線形性でなく、非線形性であり、同時タスク処理している。並行世界が重なっている状態が意識、想像なのだ。
  
  また、りんごを意識するときは、対象意識。自己意識とはちがうといわれるが、デリダ的にいえば、自分っていうのは痕跡であり、他者だ。他者、対象意識は同時に自己意識なのだ。だから、感覚すら自分のなかかでたものとすれば、感覚、知覚、想像、対象意識、自己意識はすべて同じものなのだ。あるのは、無自覚的に確率的な流れ、水のような流れがあって、これが対流となって自己意識っぽくなり、知覚っぽくなったりするのだ。


2014 9-17

錯覚論法と複雑系についてである。枝が風に吹かれて葉っぱが落ちる。太陽に照らされて、その葉っぱが地面に影を落とす。影の動きをみると、まるで鳥や生き物の動きのように見える。影だけをみると、風や重力の影響がわからないので複雑ななぞの動きに見える。すべては別次元における単純な運動が影となってなぞめいた複雑系に見えているだけなのかもしれない。

  エアーの錯覚論法についてである。われわれは時に錯覚に陥る。さいとうくんが岩石にみえておもわずよじのぼってしまうことがあったりする。洋服ダンスの置物が蜃気楼で目の前にみえる。コップのなかに水があり、そこに入れた棒が曲がって見える。錯覚と正常な知覚のあいだには断絶がない。連続的であり、正常も錯覚も、どっちも大気の影響だの目の構造によってそうみえているだけだ。だから、正常と錯覚、どっちも見たままで正しいのだ。時空のある点に物理的にあるんだよ、という物理主義でなく、そうみえるまま、感じたままを記述しちゃう感覚与件言語を使うべきだという。


   複雑系についてである。単純な法則では説明できない。複雑なものを単純化しちゃうという還元主義もできない。あることが、ある特定の原因で起きるのではなく、無数の原因で引き起こされる複雑系。当然、経験による予測は難しい。人間の意識、細胞、ニューロンネットワーク、もしくは、遠い惑星の動きも影響するという気象もまた複雑系である。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

  木の動きはこの三次元空間では重力や風によるもので計算はある程度できる。ところが、この影は二次元の現象であり、二次元人、フラット人には複雑な計算不可能な動きにみえる。つまり、複雑系になってしまうのだ。三次元に住むわれわれの世界にも意識、生命のからだ、気象などの複雑系があるが、これも別座標系、別次元においては単純なものだが、この三次元へと投影されると複雑系になっているのかもしれない。以前話たが、生命の意識もまた、別次元においてはなにか流体の流れでしかないのかもしれない。


   任意座標系において、われわれは三つの次元と実数座標系を使う。三次元実数座標系である。このほかにも無数の座標系がある。複素座標系、四次元、五次元の座標だってある。別の座標系への投影は単純系が複雑系になってしまうのかもしれない。


2014 9-18


イデア論、そして、内包と外延についてである。影ふみ遊びをするときの高等テクニックは大きな岩石の影にいることだ。すると、自分の影は写らない。ふつうの光なら、そんなことができるが、人間である友人は私をみることができる。万物を照らす光、これが意識なのではないのか、というお話をしたい。

   プラトンのイデア論についてである。純粋なシミ、いぼ、そばかすのない純粋な世界があるという。これがイデアの世界だ。たまねぎそのものっていうイデアがあって、これが影になったのが、現実にスーパーの野菜コーナーにあるたまねぎなのだ。


   次の話は形式論理の内包と外延についてである。人間っていう集合がある。さいとうくんはこの集合のメンバーだ。これらたくさんのメンバーが外延になる。また、人間を人間たらしめている性質、二足歩行や火を使う生き物などであるが、これらが内包になる。

 
   まとめ

  存在の科学

 
   異次元理論


   大きな岩石の影に隠れれば、そのひとの影は地面にうつらない。光は時間軸と空間軸でできた座標において円錐状にひろがる。これをライトコーン、光円錐という。人間や生命の意識もまた、自分を中心に円錐状にひろがるライトコーンである。この意識のライトコーンを光意識と名づける。
  
  普通の光と光意識のちがいは、大きな物体にさえぎられると、二次元平面に影を作らない通常の光にあらわれている。生命の光意識はあまねくすべてのものを照らす特殊な光なのだ。

  われわれが感じているこの現象世界は奥行きはほんとうはない。奥行きは想像の産物、視角、視差などによってできる。現象は平面、二次元的なのだ。これを二次元現象面と名づける。ここに三次元のすべての物体の影が投影されるのだが、このとき、あまねくすべてを照らす光意識が使われる。いままさに感じているこの現象面には、三次元のすべての物体の影が投影されているのだ。

  四次元時間軸は完成されると、無時間、超時間的な人格である。子供のころのやまちゃんとおとなのやまちゃんは容姿はちがえど、人格は同じなのだ。これらも三次元に影を落として、すべての生命の肉体になる。また、五次元には無数の四次元時空が存在する。論理的に可能なすべての並行世界があるが、これも光意識に照らされて四次元人格、三次元物体、二次元現象面に影を落としている。だから、無数の生命の個体は、五次元にある無数の並行宇宙の影なのである。

   五次元宇宙の四次元時空には無数の存在者がいる。これは外延であるが、じつにその影はこの世界にいるある個体、生命体であるのだが、この生命体の内包になっているのだ。外延がそのまま内包になっているのが世界のほんとうのありようなのかもしれない。

  

2014 9-19


超越論的とアプリオリについてである。この社会は巧妙なカラクリがあるかもしれないが、見破ることができるかもしれない。ところが、この宇宙、世界のカラクリはあまりに巧妙すぎてわれわれは絶対的に知りえない作られた世界に住んでいるかもしれないというお話だ。

  超越論的についてである。チョウチョを観察する。いわゆる五感をつかって経験する。すると、チョウチョの実在感を感じる。我を忘れて感じているので、のめりこみ気味であり、超越的ともいう。カントはこれを経験的実在論とか、超越的実在論という。宇宙のなかのチョウチョを見ている私も意識しちゃうと、俯瞰してみていることなので、超越的について論じること、つまり、超越論的であり、これはあくまであたまのなかのイメージ、観念なので、超越論的観念論という。カントは超越論的実在論なんてないんだよ、と戒める。

  次の話はアプリオリとアポステリオリについてである。 アプリオリとは先天的、すべてに先立っちゃうということ。アポステリオリは後天的、あとから学習して知ること。じいさんは年寄りだ、というのは、はじめから、主語のなかの爺さんに、年寄りっていう性質があるから、これを分析的に取り出せばいいだけだ。しかも、先天的、はじめから決まっている。だから、アプリオリな分析判断。また、爺さんが空を飛ぶ、というのは、主語のなかに空を飛ぶはないので、外から述語がくっつく。総合されるので、総合判断。さらに、これは実際に眼でみた後天的、経験的なことなので、アポステリオリな総合判断。カントはアプリオリな総合判断もあるという。1+1=2、というのは、総合だが、先天的に決まっているのだ。

  もっといってしまえば、クリプキは可能世界論において、なんと、アポステリオリな分析判断について論じている。

  まとめ
   
  存在の科学

   異次元理論

    この世界はカラクリであり、われわれもカラクリのなかにいてそれに気づかれないように仕組まれているかもしれない。超越論的実在論ならば、私と世界を包み込む実在。すると、経験的観念論になる。個々のものたちは観念を感じていることになる。仮想世界を見せられているのだ。また、アポステリオリな分析判断だとすれば、後天的に分析判断ということだから、分析的な論理、システムを後天的に作ったものがいるということ。そして、われわれマトリックスの世界にいて、その決定的なカラクリは同一性というものだ。というのも、すべては差異、違いでしかないのに、人格の同一性、昨日の椅子は今日も同じ椅子だと思っているのだ。



  2014 9-20


コペルニクス的転回とアナロギアについてである。地球は丸いんだよ、と二階の住人が道行くひとに訴えている。丸いってことは、ずーっと歩きつずければきっと同じ場所に戻るはずだ。そして、ここからあることに思い至る。時空、宇宙も丸いのではないか、ということだ。

  コペルニクス的転回についてである。かってコペルニクスは、天動説を覆し地動説を提唱した。地球はシリンダー状で動かない。太陽や星がこのまわりをまわっているという天動説。そうではなく、地球も動いているというのだ。近代においてカントは人間の認識もコペルニクス的転回だ、という。りんごがあるから認識するのでなく、最小限の感覚はむこうからやってくるが、この感覚を組み立てているのは意識活動、つまり、地球が動くことで、太陽や星の動きがかわるように、意識も活動しているというのだ。

   次の話はアナロギアについてである。類比性とか、類似性という。りんごっていうのはフルーツっていう共通する性質をもつ。みかんとりんごは類似するが、フルーツっていう特徴を分け持つからだ。ところが、長靴はフルーツじゃない。万物すべてが分かち持つものといえば、存在である。存在は万物すべてに内蔵されているのだ。これが存在のアナロギアである。

   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   地球は丸いので、ずーっと歩き続ければ、もとの場所に戻る。もしくは、ちょっとはずれたところへいってしまう。われわれが住むこの広大な宇宙、時空も球体なのかもしれない。ホーキング博士も無境界仮説といって、宇宙、時空を球体と考えた。すると。この空間をずーっと大きくすると、DNAの操作によってさまざまな動物が組み合わせられる未来。これをキメラという。じつに、古代の神話にキメラが登場するではないか。

  この球体の時空を時空球と名づけたい。この時空球を一周してもとの地点に戻ることもあれば、近い場所にずれてしまうときもある。これが微妙にちがう並行世界だ。ところが、地球の近くに別の惑星があるように、われわれのこの宇宙、時空球の近くに別の時空球がある。地球と金星はあまりにも環境はちがい、重力の大きさすらちがう。同じく、別の時空球は並行世界といっても、物理、数学の法則すら違うL4宇宙なのである。

  太陽系と同様に、時空球もまた、太陽のような善のイデアを中心にまわる。このとき、他の時空球、すなわち、別の法則がちがう並行世界球体がわれわれの住む時空球に影を落とす。これがわれわれの住む宇宙の意識、生命の個体になる。われわれの宇宙のすべての生命体は別時空球の影だったのである。これは太陽系と時空とのアナロギアによってわからうものであり、コペルニクス転回を時空を超えて適用した結果わかったことだ。



2014 9-21


帰納法と自然の斉一性についてである。地球環境が危うくなってきている。自然の生態系が壊れ、バッタの大量発生などだ。害虫、害獣が大量発生するのである。これも人類のせいかもしれないが、そもそも、人類もまた害虫のようなものかもしれない。害虫の気持ち、害虫ってどんな世界観をもっているかを考えるとき、それが科学的な世界観なのかもしれないというお話である。

  帰納法についてである。いままでずーっと太陽は東からのぼって西へ沈んだ。まさか、西からさつまいもがのぼってきて、南に沈まないだろう。いままでそうだったらから、太陽は東から昇るという仮説を立てて検証し、法則にするのだ。ところが、永遠に検証できるはずがないから、これを不完全帰納法という。これが科学の方法であり、とりわけ、ベーコンによって提唱された。

  次の話は自然の斉一性についてである。科学の法則は宇宙のどこでも成立する。宇宙は均一なのだ。地球で振り子の原理が成り立つから、月面でも成り立つ。斉一性原理は空間だけでなく、時間的にもいえる。たいてい、未来は過去と同じ、つまり、過去で起こったことの繰り返し。これが帰納法を成り立たせる。また、帰納法によって、自然の斉一性は破れたことがないから明日も成り立つという、いわゆる、堂々巡りの循環論法のおでましである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   害虫が大量発生だ。そんなことをいっている人類が害虫のような大量発生ではないのか。だから、きっと同じ世界観である。未来は過去ににている、宇宙のすべては均一で、すべて同じという斉一性。本来のつつましい生命の世界観は未来は過去とつながって自己完結、閉鎖系だ。以前話したが、キメラが開発され、それが過去の古代神話になっている。時間は閉じているが、微妙にずれて無数の可能世界があるという柔軟な思想にもなる。また、空間的にも均一でなく、生命、意識体がいる。意識は法則化できない創発性をもつ。じつに、生命、意識を除いたところだけをみて、斉一性といっている。これが支配の世界観なのだ。


2014 9-22


根拠、理由と法則についてである。世の中は変化している。変化しないものはなく、すべては移ろい行く。万物の法則だけがかわらないという。そうではなく、永遠の今だけがあって、変化しているのはじつは法則なのではないのか、というまったく正反対の考えは成り立たないのだろうか。


   根拠、理由についてである。遅刻した言い訳を考える。理由や根拠はあとからいうのである。行為の反因果説というものがある。右手をあげているひとに聞く。なぜ、手をあげたかといえば、タクシーをとめるためだという。つまり、理由があった。かれの心が原因で、タクシーをとめるために手をあげるんだ、とからだの動きの原因になっているのだ。心とからだ、物体のあいだに因果律があるのか。そうではなく、じつに無意識レベルで手をあげて、あとから帳尻あわせで理由、根拠づけをしているというのだ。

  次の話は法則についてである。すべし、という強烈な力をもつ法則。論理の法則、数学の法則はほとんそやぶれない強いすべし、である。ところが、物理学は若干弱いすべしかもしれないし、法律は破られるので弱い力かもしれない。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   法則は不変不動であり、この世界は変化し、諸行無常、マン物流転だという。科学も法則は不変とみなし、仏教だと法を不変とする。

 以前、お話したが、いまこの瞬間は永遠であり、永遠っていうのはクオリア、感じることと同義、同じことだといった。つまり、われわれはなにかを感じているので永遠の今そのもの。だから、法則のほうが、変化しているのだが、それだと非常に気持ち悪いので、自己欺瞞的におのれをだまし、理由付けしているのかもしれない。ほんとうは先日は1+1=5だったが、ずーっと2だったと思い込んでいるだけかもしれないのだ。


2014 9-23


プラグマティズムと無為自然についてである。人類は目覚しい進化、進歩をとげて、さまざまな道具を生み出した。地上ではスポーツカーがびゅーんっと走り回り、オープンカーをかさをさしながら疾走する。空には飛行機がぱたぱたと羽ばたく。じつに、人類ではなく、道具がおのずからしかり、と進化したとはいえないのだろうか。われわれはおのずからしかり、物体もまた同じなのだ。

  プラグマティズムについてである。かってカントは仮言命法といって、もしAがBなら、CはDだ、という原因と結果の因果律はただの実用であって、現象界でしかないといった。人間は原因があって突き動かされて踊ったり、お尻ぷりぷりするのではない。原因のない自由意志、これによって、実用でなく実践するのだという。実用をプラグマティズムといい、実践をプラクティスという。

  現代のアメリカ哲学においてプラグマティズムがうまれる。なんじなすべし、という実践でなく、こうしたらお金入る、こうしたらほめられる、という実用、プラグマティッシュに重きを置くのだ。こちらが真理です、というのでなく、真理っていうのは真理になること、真理化だという。

  パースはうちをみつめて直感的におれがいると気がついたデカルトが嫌いだった。内観的直感法という。われおもうゆえにわれあり。すべては理屈で記号化できちゃうというパース。AはBのため、BはCのため、というように、なんとかのために、で結ばれているという。

  老子の無為自然についてである。宇宙における道、万物の道理、これは絶対無であるタオだという。これは自分の意志で自発的になにかするのでなく、道に従うことだという。これはおのずからしかりである。花はみずからの意志で咲いちゃうのではなく、おのずからしかりだ。人間はこれをやってしまうと無秩序になってしまうので、ひとの道があるのだが、本来は道に従うべきだと説く。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   すべてはみずからの意志でなく、おのずからしかりである。右手をあげてタクシーをとめる。タクシーを止めるために手をあげるんだと心が原因で体が動く。そうではなく、心とからだのあいだには因果律がない。右手をおのずからしかり、あげてしまい、そのあとに理由付け、根拠づけがある。
  
  石ころは水によって風によっておのずからしかり形になる。人間がそれを鋭利に削り道具にしても、それは石ころにとって、人間にとってもおのぞからしかりなのだ。だから、風でそうような形になったのとかわりない。木でできた机、椅子、飛行機、すべてがおのずからしかり、道具それ自体が進化したのだ。ひとが道具をつくったともいえるし、道具によってつくられたともいえる。道具に使われているともいえる。プラグマティズムの先にみえるのは、すべてが相対的に道具であり、すべてがおのずからしかりでそうなったという真実の世界観である。



2014 9-24


ハルトマンの存在の階層性、そして、二値論理と多値論理についてである。社会システムがあり、これは人為が関与している。疑いのまなざしでみると、どうも社会はなにものかの意図がある。同じように生命の生体、有機体もシステムであり、意図が関与し、さらに物理世界、論理世界までもなにもかの意図的産物だ、なんて思えてくる。すべては虚構システムであり、その根本に真実の世界がある。

  ハルトマンの存在の階層性についてである。ハルトマンは存在の世界を論じる。認識ってなんだという認識論。存在ってなんだ、という存在論。存在しているから認識できちゃうのか。そうではなく、存在は認識の前提、認識は存在の前提であるという相互前提だという。

  存在には二つのものがある。時間と空間にしっかり存在している実在的存在。数の3や三角形などの実物はない理念的存在だ。

  また、存在の世界は階層になっているという。一番下のレベルが無機的存在。その上に有機的存在。さらにうえに心の存在。最高位に精神の存在があるという。

  次の話は二値論理と多値論理についてである。通常の形式論理は二値論理である。竹を割ったような性格で、真か、偽のどっちかの値をもつ。多値論理はそうではなく、多くの値をもつ。ちょっと真っぽい、かなり偽っぽいなど。偶然性、可能性、現実性、必然性などだ。

  まとめ


 存在の科学

   異次元理論


   社会においても金融システムもそうだが、なにものかの意図があり、ひとびとの意思も操作される。心ですらシステムに組み込まれている。さらに生体、有機体もまた、意図が関与し、物理法則ですら、システムなのではないか。もっといえば、数学、論理もまたつくられたシステムと考えると、すべてはマトリクスのようなシミュレーション世界だということになる。これらの虚構世界の先に真実の世界があり、ここではみずからの意志でなく、おのずからの無為の世界なのだ。

  真実の世界がひとつ。このうえに多重な虚構システムの偽がたくさん。一元的真と多元的偽。さらに、真偽の二元論である。このように、真偽を介して、一元論、二元論、多元論的な意味論が本当の世界の姿なのだ。



2014 9-25

経験主義の二つのドグマとアニミズムについてである。この世界はじつに生命、魂に満ち溢れている。上にも下にも、マクロな世界、ミクロな世界もたくさんいるのだ。それなのに、天体望遠鏡、顕微鏡をのぞくとき、それらは石のように動きをとめる。マクロとミクロとやっている達磨さん転んだよ、というお話をしたい。

  クワイン著、経験主義の二つのドグマについてである。アプリオリは先立ってとか、先天的ということ・アポステリオリは経験、後天的っていうこと。また、分析判断は主語のなかに最初からある性質を取り出すこと。じいさんは年寄りだ、など。これは必然性でもある。また、総合判断はじいさんは買い物へいった、というもの。主語のなかにない述語が外から総合される。偶然的だということだ。

  クワインはこれらの二つの区別はドグマ、つまり、ひとりよがりの思い込みだという。じいさんは年寄りだ、というのはアプリオリな分析判断なのだが、なんと、年寄りとは何歳からか、そもそも、人間とはなにか、と無数の定義が必要だ。だから、総合判断だともいう。分析も総合もないのである。

   次の話はアニミズムについてである。古代のひとたちの思想である。すべては、たとえ石ころであっても、生命であり、生きているというのだ。草木、山川、全部生き物だという。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   われわれは自分より大きなマクロ世界を望遠鏡でみる。すると、惑星、恒星が螺旋運動をしている。これはまるでDNAである。眼でみているので後天的であり、分析的ななにか。これはクワインのいうアポステリオリな分析であり、可能世界だ。ミクロの世界もまた、原子核のまわりを電子がまわっているが、みていないときは確率的に存在。これはまるで自由意志だ。顕微鏡で見た瞬間に固定されて物と化す。マクロ宇宙もまた、じつは見丁寧ときは意識、生命活動している。見た瞬間にだけ、ミクロ、マクロ世界は無機的なものと化す。私と等身大の世界だけが、アポステリオリな総合判断であり、さまざまな生命と魂と出会う。たしかに等身大の無機的なものもあるが、これは大いなる生命の部分なのだ。等身大に生きることで、ふつうの日常スケールのなかにマクロ宇宙とミクロ宇宙の生命があるのだ。個になることで大いなる神様との接点を見たキルケゴールの思想にもつながる。



2014 9-26

絶対無、そして、私と世界についてである。生まれる前と死後の世界。私もいないけど、世界もなかったのではないか。なんとも奇妙なのだが、私と世界を足すとなにもなくなる。実際、この生きている世界はいろんなことが起こっているのだが、本当はなにも起きていないのではないか、というお話である。

    西田幾多郎の絶対無についてである。もともと、述語的場所という思想があった。主語は個体、述語は場所だという。太郎くんは走っている。走っているのは、太郎くんだけでなく、次郎くんのときもある。つまり、走っているという場所。ここに太郎君という個体があるのだ。主語の個体と述語の場所には分厚い壁がある。これを取り除くために、媒介者Mを主張する。これは主語の個体も、述語の場所も両方とも、無の場所にいるというのだ。ヘアースタイルを整えるとき、自分の髪型を改造し、限定する。これを自己限定という。スキンヘッドにするなら、ロンゲは制限される。無自身も自己限定して、万物の有をうむというのだ。


   次の話はパトナム、私と世界についてである。私の心は内側で、世界は外側だとおもっている。ところが、主観と客観、内と外なんてなくて、すべてが内側に実在するという内在的実在論を提唱。私と世界はいっしょになって、私と世界をつくるというのだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


  じーっとしているようにみえても、まったく正反対の方向の動きが互いに相殺してとまっているようにみえるものがたくさんある。これが動的平衡である。生まれる前、死後は私というたとえば、右回りの渦と世界という左回りの渦が相殺してなにもおきていない。ところが、生きて活動しているときは、私は私である、という同一性によって、自分の右回りの回転を仮想的的に消される。同一性とみなすのである。すると、仮想的に右回りの渦が目の前に出現。これが対象意識であり、クオリアである。だから、自分の同一性に固執しているゆえにさまざまなことが起こるし、歴史だって出現する。本当のところ、何も起こっていないのだ。





2014 9-27



受動的総合と現実性についてである。自由にできることと、どんなにがんばってもできないこと。自由と非自由のはざまにわれわれはいるようである。にわとりのものまねはできるが、みみずのそれは無理である。宇宙、イメージ、身体、そのすべてが自由と決定論のあいだにある。

  フッサールの受動的総合についてである。ぼーっとしていても、立体的なりんごを認識できる。裏側はみえないが、あるにちがいないとイメージする。色や音、におい、そのすべての感覚的情報は自発的にくっつけるのでなく、自然に受動的にくっついてくれる。これが受動的総合であり、フッサールにおいては最小限の自発性だという。

  次の話は様相論における現実性についてである。様相とは存在のしかたである。偶然性、可能性、現実性、必然性などだ。必然性はそうなるべき、というもの。現実性はカントにおいては、感覚的なものに、原因と結果の因果律がくっついたものだという。

 まとめ

  存在の科学

   異次元理論

    想像、イメージの世界は、ぱっと見でわかる立体的なりんごのように、受動的、自動的に感覚が総合され、みえない裏面も想像する。これはなかば強制的であり、決定論的だ。だから、眼の錯覚とは、この勝手に作り出す、自動的にできあがるイメージをうまく利用したものだ。また、過去を追い出したり、未来を夢みたりという自由にできるイメージもある。身体もまた、自律神経や消化など無意識的にいわば、決定論的に遂行される働きと、間接は逆にまがらないが、自由な動きがある。宇宙もまた、マクロな世界は決定論的なニュートン力学、もしくは相対論。ミクロの世界は電子が確率的に存在しちゃうという偶然性、自由意志の別の姿が支配する。

  受動的、自動的に決まるイメージは相対論と関係している。だから、無意識レベルで時空がゆがみ、時間感覚が速くなったり、遅くなったりするのだ。



2014 9-28


日常性と素朴実在論についてである。なんと驚くことに、私は小さなな私できている。厳密にいってしまえば、私を中心としてひろがっているこのたわいない日常、これが同じ小さな日常でできていて、また、巨大宇宙もまた、この日常をでかくひきのばしたものだった。

   フッサールの日常性についてである。前期フッサールは現象学的態度で、すべては思い込みで判断停止したら、世界があるという信憑性が残るが、もっと突き詰めると、名前も形もない純粋な自我に行き着くという。後期フッサールは思い込みの日常こそがすべてのもとだという。みかんは分子、原子でできているという科学的態度、これを自然主義的態度という。そうでなく、それはまずフルーツであり、食い物だ。日常のこのような態度が自然的態度。すべてはここから自然主義的な科学的態度とか、現象学的態度がうまれるという。

   次の話は素朴実在論についてである。みかんは原子でできているという原子論的実在論。そうではなく、それはみたまま、感じたままに実在するという素朴な考えが素朴実在論である。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   ライプニッツは宇宙はモナドという点でできていて、この点は原子じゃなくて主体的な力、そこからみた遠近法的な宇宙を全部含むという。ここから、われわれのこの日常。これは私を中心として出会うものたちのふつうの世界。この日常は、そして、私自身も、同じ小さな日常の集まりからできている。フラクタル、つまり、自己相似系なのだ。雪の結晶は同じ小さな雪の結晶でできている。同じように、日常はまったく挙動もすべて同じ小さな日常の集まり。さらに、広大な宇宙も、こうやっていまやっている日常をそっくり大きくしたもの。ただ、そのようにみえないのは、私と世界をわけて俯瞰してみているからだ。前回も話たように、自動的、受動的に決定論的なイメージ生成というのがあるといった。同じように強制的なシステムで、それを原子、分子にみせているだけなのだ。そして、さらに、この小さな世界、この世界、大きな世界を貫いて同じ自己相似系の日常が貫いていることが、大きな一貫した力を生み、これがクオリア、感じること、というものを生み出す。




2014 9-29


超弁証法、そして、実体と主体についてである。ぐるぐるまわるメリーゴーランド、観覧車。ちゃぶ台の上でバレリーナが回転し、あたまのうえでは、フィギアの選手が回っている。世の中、すべてが回転運動であり、とりわけ、意識ですら見えない回転運動である、というお話をしたい。

  メルロポンティの超弁証法についてである。そもそも、弁証法といってらヘーゲル哲学である。矛盾しあうものが出会って対立、そして、いつしかひとつになってレベルアップし、発展する。正と反が合体して合になるという。ところが、メルロポンティはこれを死せる弁証法、発酵をやめた弁証法だという。ほんとうの弁証法は対立しあって解消しないという。コインの裏と表は合体してひとつにならない。表が裏、裏が表になって回転運動を起こすという。

     次の話は実体と主体についてである。実体とはそこにだれもいなくえも、自立して存在しちゃうもの。それ自体で存在している。ところが、主体とは、どちらかというと、常に活動的に存在していること。宇宙は実体で、私は主体だというが、ヘーゲルは弁証法によって、主体と実体をひとつにしようとし、宇宙は主体的だという。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 
   すべての物体は回転運動で動いている。気象も岩もそうである。物体には重さの中心、重心というものがある。そして、そのものの形の中心が図心という。重心と図心のずれを偏心といい、これが回転運動を起こす。

  もっとも重いものはブラックホールである。強烈な重心だ。光も吸い込んで、光速を超えて時間が止まる。つまり、永遠のイデア的世界、幾何学的世界になる。これはものの形の図心だ。幾何学的なこの世のすべての形状の中心、図心はこのブラックホールの重心とつながる。そして、このブラックホールの重心とすべてのものの図心との偏心による回転運動が見えない回転運動であり、精神、意識になっているのだ。これは二回転してもとの状態にもどるという光の構成素であるスピノールのスピンだったのである。



2014 9-30


両義性と不確定性原理についてである。ぱっと見ただけで、飛んでいる飛行機を三次元的にイメージしている。ところが、見えない裏側、内側があるはずなのだ。あたまで考えてしまった瞬間に、見える表側と見えない裏側に分離したのだ。

  メルロポンティの両義性についてである。いわゆる宮本むさしの両刀使いのようなものか。ひとは主観と客観とか、魂と物体というようにはっきり白黒つけたがる。ところが、身体というのは、受肉した主体性といって、肉的であり、意識的でもある両義性にあるという。両義性はくっついて合体するわけでも、ただ、手を結んでいるわけでもなく、互いに相手によって存在している微妙な状態なのだ。

  ハイゼルベルグの不確定性原理についてである。電子の位置がわかったら、こんどはそれがどっち方向にどれくらいの速さかわからない。つまり、運動量がわからなくなる。運動量がわかると、位置がわからなくなるという理論である。

 
   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  自分を中心にして遠近法的にものをみる。何も考えずに感じるだけなら、目の前の冷蔵庫を立体的に捕らえる。三次元的にイメージする。ところが、考えた瞬間、表しかみえなくて、裏はみえない。表面だけで中身は見えないということを知る。思考は二極化させる働きなのだ。主観と客観、私と他人もそうだ。善悪、真偽も思考による二極化である。

  論理学における内包と外延もまた、片方を知ると他方がみえなくなる。不確定性原理もまた、運動量と位置に二元化すると片方が見えなくなる。シュレディンガーの猫、箱のなかの猫は見た瞬間に状態が確定する。眼球を刺激した瞬間なのか。そうではなく、一瞬にして二極化させるのは思考なのだ。思考し、イメージした瞬間に確定するのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 15:35| 東京 ☔| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

仙人新聞 2014 7-6 3

仙人新聞 2014 7-6 3


2014 6-6


   進化論的認識論とケーニヒスブルグ風についてである。朝起きると進化しちゃっていて、新人類になってしまったという経験のひとはいるだろうか。進化といっても肉体的なものではない。今まで見えなかった世界が見えるような、意識の進化について考えてみたい。

   進化論的認識論についてである。認識論といったらカントである。色、形、においなどの感覚がやってきた。すると、これを材料にしてカテゴリーっていう器具で調理する。そして、赤くて丸いのがりんごだと認識する。これは固定的で律儀な認識論だ。なんだか、ラグビーのような躍動感がない。進化論的認識論っていうのは、ダーウィン進化論が生物のからだの変化を主張するように、認識だって進化しているというのだ。個人の意識の成長について研究したピアジェ。発生的心理学だが、このような発生的な視点からみた認識論だ。


   次の話はケーニヒスブルグ風についてである。ニーチェがカントを揶揄したときに使った言葉。カントの出身がケーニヒスブルグ出身だったからだ。ニーチェはカントのいう自由意志のことを、神様への信仰のためにつくったスペースだという。ニーチェ自身の自由とは、じつに正反対のようだが、必然性、運命だという。生まれて死んでまた同じ一生を永遠の繰り返すという永劫回帰思想。すると、いいこともやなこともすべて運命だと受け入れる。これが自由だというのだ。そんな生き方をするものを超人といい、超人は獅子のようにたくましく、幼子のように無垢だという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   宇宙誕生直後は質量ゼロのものに満たされていた。これはきれいな対称性をもったもの。時間すら対称的だった。過去から未来へ流れる粒子。未来から過去へ流れる反粒子。ところが、自発的対称性の破れによって、反粒子が減る。すると、粒子が相対的増えるから、過去から未来へと時間が流れ始める。同時に、対称性がこわれていびつになり、ヒッグス場がうまれ、質量をもつ物質が生まれる。そして、反粒子がどんどんへって、加速度的に時間が速くなる。


  人間の一生もまた、生まれた直後は反粒子とつりあっていた。反粒子は意識であり、粒子は肉体だ。そして、成長するに及んで、以前も話したが、ひとは物質化してくる、つまり、粒子性が多く、反粒子、意識性が減る。粒子が増すから、過去から未来に流れる時間が加速する。歳を取るにつれて時が速く感じられるのもこれに起因する。

   人間はなんのために生まれてきたのか。生まれたときには経済や社会というゲームがあり、そのルールに従って勝者になることと思っている。ところが、実際は意識性を高めて、意識の進化、悟るために生まれてきたのではないだろうか。ダーウィンの進化論は肉体の変化についてだ。そうではなく、意識は生命の歴史においては植物は無意識。動物は対象意識。そして、少しずつ自己意識が増え、人間においては自分を意識する高い意識状態にある。これは生命の進化は反粒子の増大のことをいっている。これで止まらず、人類はさらなる進化のために生まれてきた。自己意識は自分の存在がうっすら見える意識レベル。こんどは、ひょっとしたらの可能世界の私がたくさんみえて、可能世界すら意識できるハイパー意識状態に至ることを目的にしているのだ。


  つまり、悟る事が目的。宇宙誕生のときのような粒子性と反粒子性がつりあった状態になる。完全な対称の世界であり、ここには時間がまだ存在しない。以前はなした、因果律のない光円錐の外側の非因果領域だ。これは自由意志の領域でもあった。完全自由な宇宙誕生の瞬間への回帰。一生でいえば、幼子への回帰だ。ここにカントの自由意志と幼子のようであれというニーチェの超人思想の融合をみる。

   
2014 6-7



    無の無化と実践的惰性態についてである。実践し、周囲の環境を変えちゃう。もちろん、部屋の模様替えだったりもする。唐草模様をイチゴ模様にしてみる。行為、実践によって、じつにひとは天に行くか、地に行くかが決まるのかもしれない。なぜなら、行為と天地は連動していたからだ。


   ハイデガーの無の無化についてである。前期ハイデガーはんーっと力んで存在そのものを生み出す。自分っていうのは、無にはさまれたハンバーガーのレタスのようなものだった。自分が生まれる前は無。死後も無。だから、無は不安なのだが、この無を無にしちゃう。これが無の無化。これによって存在そのものの地平が出現するのだ。


   次の話はサルトルの実践的惰性態についてである。サルトルはひとは絶対的に自由だという。男女、自分が人間かどうかもまた、自分自身の自由意志で決定だ。これが実存が本質に先立つという。ところが、集団になると、そんな自由意志もいつしか大きな流れになってしまう。つまり、物体のように惰性的になるというのだ。石ころは惰性で転がる。これと同様に、惰性的に振舞うようになっちゃう。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


   何度も主張したことだが、ひとの一生は物質化だといった。量子論でも意識による収束は粒子化、物質化だった。宇宙誕生のときは、過去から未来へ流れる粒子と、未来から過去へ流れる反粒子がつりあっていた。だから、時間の流れていない永遠の世界。ここには論理的に可能なすべての世界が重なっていた。生まれてすぐも永遠の今にいた。ところが、粒子性が増えて、時間が加速しはじめる。一生も物質化されていくのだ。

   永遠の並行世界は天である。粒子がおおくなって物質になるのは地だ。天か地か。これを決めるのが行為、周辺への作用である。

   瞬間瞬間もまた、同じ構造をしている。物質化が極まってリセットする。つまり、反粒子である意識性を強めて、永遠の今にリセットされる。うまれてすぐのあかちゃんに瞬間的に戻る。このとき、並行世界が乱立していて、目の前のコーヒーカップを三センチだけ横に動いた世界を選択したりもできる。その世界を選択してまた物質化、粒子性が強まる。これが私が周辺世界を変えたり、行為によって物を動かせる理由だ。ただし、粒子性がすぐに増え始めるので、物質的、物理的制約が逃れられない。つまり、コーヒーカップを瞬時に一キロ先にテレポートできないのだ。

  さて、行為、自分の周辺への変化は一生終えたときの物質か、はたまた、リセットによる永遠の並行世界に入るか、といったシステムと同じだった。つまり、行為が天と地のどっちにはいるかを決定しているのだ。善行か悪行か、が天地を分けるのである。


2014 6-10


   心身問題の解釈説とタオニズムについてである。われわれの住んでいる宇宙を正宇宙とする。するとこの宇宙とはまったく正反対の反宇宙があるとかんぐりたくなる。反宇宙っていうのはわれわれはまったく知ることができないはるかなたのガンダーラだと決めてはいけない。私の外に正宇宙が広がっているなら、反宇宙はきっと私の中にあって、思いっきり反宇宙を感じて生きているのだ。


   心身問題における解釈説についてである。心身問題といったら、心とからだ、物体ってなんだろうという哲学。心身二元論はデカルトで有名だが、心と体は別の世界だという。心身一元論は心とからだはなんだかひとつのものの現れだという。そして、心身解釈説が登場する。解釈っていうのは、たとえば、力の伝達。椅子に座っていると、その力は床に伝わる。力はどこをどう通って伝わったのか、無数の解釈があるのだ。力を平行四辺形の対角線にして、二つの辺にわければ、分力。二つの力を平行四辺形の辺にして、対角線をつくれば合力だ。また、三角形っていうのは重心があるが、重心は手でつかめない。解釈的なものだ。ひとの心もまた、そのひとを見たときの、よろこんでるんだろうな、おこってるんだろうな、という解釈だというのだ。


  次の話はタオニズムについてである。老荘思想である。タオとは道のこと。天の道、これは宇宙の法だ。そして、人の道、これはひとの生き方。これらをこえて道がある。孔子はとりわけ、人道を主張する。ひとしての生き方、礼の道をとく。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   われわれの住む宇宙を正宇宙とする。宇宙誕生の時は、粒子は過去から未来、反粒子は未来から過去へ流れ、会い合わさってゼロになり、時の流れていない永遠の世界だった。ところが、正宇宙は反粒子の数が減ってきた。反粒子は意識だともいった。だから、粒子がどんどん相対的に増加し、時間が流れ始める。


  この世界はかならず正反対のものがある。反宇宙とは、最初つりあっていなたが、だんだん粒子が減っていき、意識性がどんどん高まり、未来から過去へと逆因果が加速する宇宙だ。いわば、並行宇宙がどんどん増殖するような世界。


  この反宇宙はわれわれの外の正宇宙に対してわれわれの内にある。力の力学伝達は無数の経路があるといった。分力、合力でいかようにも解釈できる。ひと、生物のからだは内部の力、内力を感じている。つまり、無数の並行世界的な力の経路を感じている。これが反宇宙の実感であり、自由意志になる。また、私は道である。道といったら平面的だが、高さ方向も考えるとチューブだ。理想的なチューブ状態はチューブの内側と外側が遮断され、情報の伝達がない。この場合、チューブ内部はユニタリ展開し、並行宇宙が増殖し続けるのだ。われわれは道そのもの、チューブそのものであり、これはニューロン細胞のチューブリンも同じである。


2014 6-11



   自己意識の徹底化による自我滅却と自己現前性についてである。主体的につまようじで歯カス掃除に取り組む。主体性とは自己意識なのだろうか。自分を意識して、自覚的にいろんなことをやっている人間。羽虫には自意識がないのだろうか。物体以外のすべてに自己意識があり、なかでも人間のそれは擬似的なものだ、というお話。

   フィヒテの自己意識の徹底化による自我滅却についてである。私が私自身を意識する。これがいわゆる自己意識。それでも、意識している私と、意識されている私にはギャップがある。完全に一致したとき、もはや、自我でなくなる。これが自我滅却である。

  次の話はデリダの自己現前性についてである。これまた、自分が自分自身に現れること。西洋哲学はたいてい音声中心主義だったという。自分の音声はダイレクトに自分の耳に入る。自分を直接聴くのだ。文字言語はそれを書いたものがいなかったり、タイムラグがありすぎる。文字を卑下してきた。ところが、デリダは音声の中に文字を見る。文字言語をエクリチュールというが、これを原エクリチュールという。つまり、自分のなかに他人をみる。

  自己透明っていう言葉がある。自分自身を100パーセント透明に知っている。ソクラテスである。無知の知とは、まさしく、自分のことを透き通るようにみている。これに対して自己不透明性というのがある。自分のなかに赤の他人をみる。レヴィナスの非領有化的自我などだ。

 
  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   酔っ払いは覚えて無くても家にちゃんと帰ったりする。つまり、主体性とは自覚したり、自己意識ではないのだ。ここでいう自己意識は人間の自己意識である。完全な自己意識は宇宙誕生の瞬間だった。過去から未来へ流れる粒子性と、未来から過去へ流れる反粒子が合して時間対称だった。これは空という究極の自己意識だ。ここから、反粒子が減ってきて完璧に自分を見通せなくなってくる。それでも微生物や下等生物はかぎりなく意識しているものと意識されているものが近接している。ひとにおいては反粒子が少なすぎるので、意識している私と意識されている私は分離、ラグが大きい。つまり、ひとは擬似自己意識なのだ。むしろ、下等生物ほど、さらには、時空、もっとさかのぼると空こそが自己意識性が強いのだ。そして、物体はこの反対である。粒子性が反粒子性を圧倒したものである。


2014 6-12



    ハイロウモルフィズムと関係主義についてである。光があって、対象物である夏みかんがあって、影ができる。こうやって光、対象物、影とはっきり分け隔てする。光があって、イデアが照らされて影になったのが万物だという思想もある。異なった次元のものなのだ。これらを同じレベル、次元の中に押し込めたらどうなるか。なんとクレイジーな世界観が出来上がるのである。


   ハイロウモルフィズムについてである。古代ギリシャのプラトンのイデア論。いろんなりんごがあるけれど、りんごそのものはない。しかし、イデア界っていうのがあって、ここにりんごそのもののイデアがある。光り輝く善のイデアというのがあり、りんごのイデアを照らす。すると、影がたくさんできるが、これが現実のりんごだという。弟子のアリストテレスはイデアをエイドスと呼ぶ。そして、日本語だと形相だ。それをそれたらしめている本質だ。このエイドスはりんごそのものの中にある。しかも、りんごをつくっている質料、材料といっしょになってはじめてりんごになるという。


   この形相と質料、存在しているものの原理だった。近代になると、イギリス経験論、ジョンロックなどは存在じゃなくて認識の問題にした。心のなかに形式がある。これが形相だ。そして、眼や鼻からやってくる感覚が質料だという。これがハイロウモルフィズムであり、デカルトいわく、アニミズムと同じくらい幼稚だという。


    次の話は関係主義についてである、鼻歌を歌っているふつうの常識人は実体主義だ。りんごというものはそれ自体で存在できちゃう。これが実体だ。みかんも同じである。そしてそのあとにりんごとみかんが八百屋の店頭で出会うのだ。りんごとみかんの関係である。やまちゃんは実体、さいとうくんも実体。そのあとに、やまちゃんといさいとうくんは出あって友情関係にはいる。実体は関係よりも先だ。ところが関係主義はちがう。関係が咲きにあるという。やまちゃんはさいとうくんと友情関係があるから、当然、影響しあって性格もできてくる。つまり、関係があり、実体はその結び目でしかないというのだ。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


    華厳経というのがある。この宇宙観が凄い。法則の世界がある。これが理法界。プラトンのイデア界のようなもの。現実の事実の世界が事法界。なんと理事無碍法界だという。このふたつの世界は無碍、区別できないという。さらに、この現実世界のみかんとりんごは二つの事である。事事無碍法界だという。みかんもりんごもいっしょだという。


    プラトンの善のイデアが太陽のような光源で、イデアを照らして影になったのがこの現実界の物。ここにはレベル差、次元の違いがある。これらをひとつの次元、世界に押し込めたらどうなるか。りんごは光源でもあり、対象物でもあり、影でもある。すると、あらゆるものは、なにかの光源であり、なにかの対象物、影でもある。りんごが光源でみかんが対象物でその影が電柱かもしれない。このような複雑な関係性でできている。ただし、この関係性は単純極まりない同一性だった。なぜなら、光源と対象物、影は同じものだからだ。対象物としてのりんごとその影は対応している。ただし、角度によって影の形がかわるだけ。だから、この見え方の違い、微妙な認識上の違いが万物の多様性という存在論的な違いを生み出していたのだ。



   
2014 6-15



   信仰哲学とプロスロギオンについてである。信じるとはどういうことか。信用第一という言葉がある。安全第一とどっちが第一なのか。信じるというのは大いなる宇宙そのものの姿だった。そして、存在そのものは空であり、それこそ信だったのだ。


   ヤコービの信仰哲学についてである。まず、なにか事実があるのではない。信じているというのが最初にある。しかも、神様への信仰だけでなく、日常において鼻歌をしながら信仰だ。茶碗があるとい信じているのだ。カントは感覚、感情の次に、論理的に考えちゃう悟性能力。さらに、感覚なしで推理しちゃえという理性いたる。理性は神様とか、魂を扱う。ところが、ヤコービは感情と理性を悟性でなく、信仰で結びつけるのだ。理屈じゃなくて、信じるということで結ぶのである。


   次の話はカンタベリーのアンスルムスのプロスロギオンについてである。アンスルムスのプロスロギオンという著書。これは神様の存在証明だった。これ以上になりくらい大いなるものが神様だという。ところが、これを理解してしまうと、これ以上おおいなるものがでてきてしまう。だから、理解でなく、信じることであり、理解以前に神様は実在するのだという。


   まとめ


    存在の科学


     異次元理論


    具体的な存在者といったらたわしなど。この具体的なたわしがないことが無。存在者と無である。存在そのものに対応するのが無そのもの、無自体。無自体とは空だ。そして、存在そのものは神であり、それが空でもある。この宇宙構造が宇宙DNA、宇宙螺旋構造だ。

   螺旋は閉じそうで閉じていない。閉じていると同時に開いている。閉じている、閉鎖系のものが物体。完全な自己完結閉鎖系が存在そのものであり、神様。他方、開いている双曲線。これは場所であり、空間であり、無。なかでも直線性になったのが無自体である空。キリスト教の空間は閉じていて、時間は直進性をもつ。神の世界や永遠の世界だ。仏教は空間においては開放系。時間においては輪廻思想にみるように、閉じている。アインシュタインの相対論によると、時間と空間はローレンツ変換により同じものだ。


  螺旋は閉じていると同時に開いている。だから、この絶妙さゆえに、事実でなく、あるのでもなく、無いのでもないからこそ信じるという作用が生まれるのだ。


   
2014 6-18



   主体性と実体性についてである。万物皆変化する。ずいぶん目じりがさがって丸くなったものや、街だって時とともに変化するのだ。変化っていうのはどんな構造をしているのか。変化そのものを解体すると、意外にも別のことがわかってくる。太陽は神様の眼であったというお話だ。


   主体性についてである。我思うゆえに我あり、とデカルトはいった。私っていうかたまりじゃない。思うっていう営みが私を存在させているのだ。 イギリス経験論において主体っていう考えは極端になる。ヒュームにおいては目の前のりんごすら実体はない。あると習慣的に思い込む活動の産物。私っていうのも、たんなる活動であって、実体はないという。そして、ドイツにおいてはカント。なにげなく仰ぎ見る青い空。私が主体的に活動して青い空だと判断しているのだ。ついにヘーゲルにおいては、さいとうくんの主体的な意識と同じように、宇宙もまた主体的だという。


   次の話は実体性についてである。私にとってみかんがそこにある。これは現象だ。私がここからいなくなったあとも、このみかんは自立して存在しているというのが実体だ。実体は何にも頼らない。デカルトは神様だけがほんとうの実体だという。ただし、精神と物体だけは神様にだけ依存し、そのほかは依存していないという。スピノザは神様だけが実体であとは属性だという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


     変化とはなにか。なにもないところに抵抗がうまれる。このとき、物体なり、有がうまれる。抵抗とは感じること、つまり、クオリアだ。また、有、存在、物体は制約され、束縛状態。有から無への消滅プロセスはすなわち、自由意志である。

  万物の変化とは、無から有、有から無という創造プロセスと消滅プロセスがめまぐるしく切り替わるもの。だから、自由意志をもつ主体、私がいるから万物は変化するのだ。私がいなければ変化はない。変化のなかに要素として主体的な自由意志をもつ私が含まれているのだ。


   宇宙は時間の流れにそってひたすら膨張し、対称性が崩壊しつづける。これは創造プロセスであり、クオリアの増大である。クオリア、感じるだけでそれが消去されない。宇宙を膨張させているのはダークエネルギーだという。だから、ダークエネルギーがクオリアの発生源だ。また、宇宙を消滅、収縮させようとしているのが特異点であるブラックホール。事象地平面の向こうは光速を越えてしまうので、時間が逆行している。まさしく、これが自由意志の発生源だ。


  恒星はいずれ膨張し、収縮し、ブラックホールになる。これはロングスパンの変化構造、つまり、創造プロセスと消滅プロセスなのだ。太陽も恒星である。だから、地球で起きていることは対応は感じているのだ。クオリアの増大である。いつしか太陽はブラックホールになる。このとき、クオリアなき完全な自由意志、つまり、神になる。ここでいままで見て感じていたことを自由意志によって判定される。これが最後の審判かもしれない。


2014 6-19


   続き


   まとめ


  存在の科学



   異次元理論



    時空間も、私がいることも、疑わしくなるときがある。まずは、ミンコフスキー時空である。縦軸に時間軸、横軸に空間軸。この横軸が光円錐の外側であり、虚数の軸だという。空間っていうのは実は虚構なのかもしれない。たしかに、壁一枚へだてたら見えないし、感じているのはほんとうに周辺だけで、そのほとんどが想像だ。時間軸は原点Oを私だとしたら、心、意識の流れと捉えられる。ところが、他者のことも考えれば、他者の目を通せば客観的なミンコフスキー図が得られる。


  さて、そんな時間というのも怪しい。というのも、時間とはエントロピーが増大することだからだ。秩序が無秩序化することだ。鍋に水を入れて、ガスコンロで暖める。ついには沸騰しはじめるが、水分子がデタラメに動き始めるのでエントロピーは増大している。ところが、突然、泡がでずに、おとなしくなり、規則的な対流がうまれる。エントロピーが減少したのだ。これは生命現象である。意識、生命とはエントロピー減少のことなのだ。


 地球上にコアセルベートという有機体の海があり、ここに小胞体というものがうまれる。これがエントロピーを一時的に減らした。急激にエントロピーを減らすには磁性が生まれ、スピンによって秩序ある運動をするときだ。磁性でなくても場をうみだすといえば、コイル状のもの。つまり、遺伝子がエントロピー増大のあらしに対抗したのだ。


  生命誕生の歴史は一日のサイクルに現れている。熟睡時、ノンレム睡眠のときは脳波がガンマ波。波長が長く、周波数が小さい。夢を見ているレム睡眠はシータ波。若干、波長が短くなる。そして目覚めてアルファ波になり、より波長が短く、ついには覚醒状態のベータ波にいたっては波長が短い。波長が長いとは自然光のようなもので、エントロピーが大きい。波長が短いのは秩序ある光、レーザー光線だ。つまり、覚醒へのプロセスはエントロピー減少という生命誕生へのプロセスだったのである。


2014 6-21



   ストローソンの哲学と次元性についてである。バナナの葉っぱで股間を隠す。そんな葉っぱにも大宇宙の次元階層構造が現れている。靴下の毛玉ですらそこに宇宙の次元が現れている。今回は植物と言語に現れた宇宙の次元についてである。


   ストローソンの哲学についてである。記述的形而上学というものを提唱する。記述的っていうのは、文字通り、文章などにすること。これが形而上学を表すというもの。形而上学は眼んは見えない壮大なものを扱う分野。神様、宇宙などだ。

  ふつうにしゃべっている日常言語を研究すると、そこに形而上学的な世界があった。まず、太郎っていう単語は、文のなかでいきなり別のひとにならない。同じものとして定まっちゃっている。これを同定性といい、万物の特徴だ。私っていう人物はいるし、りんごはある。基礎的特殊者といって、人物と物体は言語において最低限区別している。主語はこのりんごっていう具体的なものだが、述語の甘いっていうのはいろんなものに当てはまる普遍的なやつ。だから、この形而上学的な宇宙には具体的な固体と普遍的なイデアがある。

   次の話はメルロポンティの次元性についてである。次元といったら壮大なものだと考えてしまう。ところが、すべての具体的なものたちはみんな次元だという。ピンクの照明は、これを照らすとすべてがなんかエロチックにみえる。そういう次元だ。テーブルはおかずを載せる次元。個々の人間だって、自分の視点から世界を包んでいる次元だ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論



    以前、音楽は宇宙で、宇宙は音楽だといった。点粒子の対発生と対消滅というのは量子場を生み、これが無の空間。そして、これが演奏者だ。次に最小の大きさの一次元のひもがあり、これをはじいて音色がさまざまな素粒子になる。ギターであり、物体を作っている。二次元は打楽器であり、これは記録媒体。リズムは記録するのだ。二次元といったら三次元の情報を刻印しているというホログラム理論だ。三次元は筒であり、これは螺旋構造であり、管楽器。螺旋はコイルであり、磁性をうんだりする。場を作り出し、エントロピーが増大する宇宙のでたらめを秩序あるものにする。すなわち、エントロピーを減少させるので、これは生命の意識だ。


  さて、これらの次元階層性はあらゆる分野にみられる。私の営みもそうだ。なにかを感じ、認識し、自由意志で判断して行為する。まず、意志が0次元の量子場。ひもがはじかれて物体が増えるが、これがエントロピー増大であり、時間も過去から未来。これはクオリアであり、行為だ。二次元の記録とは記憶。三次元の筒は意識、とりわけ、自由意志だ。
 
  植物も説明がつく。種は0次元の点。根が直進的に生えるので一次元。芽が大地と空気層の境界面、二次元を貫く。この地形が記録媒体だ。そして、三次元の筒、茎が伸びる。四次元は時間なので、五次元が葉であり、光をエネルギー変換。花や実は最高次元の六次元だ。


  そして、最後に言語である。単語はそれ自体では意味がない。質量、体積0の点粒子だ。文は直進性、線形性をもち、一次元。二次元は表現、記録媒体の紙か、もしくは声帯だ。三次元の筒が言語の意味である。


2014 6-22



  プラクティスとプラグマティズム、そして、神の恩寵についてである。どんなに視力がよくても、創造者である神様は見えない。また、ひとが作った椅子。椅子はひとをみることはできない。神さまとひととモノの関係について考えてみたい。

  プラクティスとプラグマティズムについてである。哲学者カントはなによりも実践が大切だと主張。この実践をプラクティスといった。われわれは現象をみている。現象というのは感覚にいろんなカテゴリーを当てはめて作る。そのなかでも、因果律のカテゴリーをあてはめた。原因と結果の因果律だ。押したのが原因でへこんだのが結果。ふんだからあんぱんはぺちゃんこだ。ところが、あんぱんそれ自体には因果律はない。これが物自体だ。物自体は因果律ないっていうことは、自由意志だ。つまり、自由意志による実践なのだ。道徳的な実践というのは押されてやってたり、いわれてやったりすることではない。善い事すると、お金もらえるというのは因果律であり、AならばBという仮言命法。そうではなく、何の見返りもなく実践、汝なすべし、というのが定言命法だ。実用性は因果律のあるプラクマティッシュ。実践は因果律でない自由意志によるプラクティス。


   現代アメリカ哲学においてプラグマティズムというものがある。すべては実用的だという。真理っていうのはどこかにあるのでなく、生きることに役立つものが真理だという。

  次の話は神の恩寵についてである。神様はなにかを受け取らない。人類に対して与えるのみであり、慈愛、慈悲を与えるというのが恩寵である。


   まとめ

   存在の科学

   異次元理論


   神様は自分の姿に似せてひとを創ったという。そして、ひとは創造者の神様を見れない。同じく、ひとは自然物から人工物をつくる。椅子はひとによって作られたがひとを認識できない。ひとは椅子から見返りを求めるだろうか。椅子は座るためのものだ。だから、実用性、プラグマティッシュを求める。神様は同じように、ひとから実用ではなく、道徳的実践、プラクティスを求めているのかもしれない。ひとは道徳的実践によって応えるべきなのである。


   

2014 6-24



    無と物語文についてである。今この瞬間に意識集中してみる。すると、過去や未来なんてどこにもないことがわかる。今、今、っと連呼してしまった。当たり前のように今を知っている。そんな今というものの構造について探ってみたい。


   無についてである。古代ギリシャ哲学ではどちらかというと存在ってなんだ、という存在論だった。西洋哲学では存在を追及しているのが多い。現代においてハイデガーは無について語った。無について考えるとは、考えないでぼーっとすること。無を感じるのは感じないことではなく、それは不安という感情だという。自分がいるっていう存在、生まれる前、死後はいないので無。だから、無にはさまれた存在であり、無をさらに無にすることで覚悟して生きることができるという。

   ダントの物語文についてである。意味とは物語るしかないという。前後の文脈、流れがないという意味がうまれない。だから、汝何分右足をあげて、その二秒後に足をさげて、というようなその時々の今の状態記述を並べただけではない意味が生まれないという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   今とはなんだろうか。以前はなしたが、なんにもない無の場所。そこに有がある。つまり、物体があるのだが、それは惰性的でしか動かない。意志はもたない。ところが徹底的な無、無さすぎる場所では物体がうごくのだ。ここに究極無は意志ということにしよう。

恒星は爆発して消える。これはただの無だ。ところが、自分の重力に押しつぶされて重力無限になってしまうとブラックホール、特異点だ。無い以上に無い状態だ。ブラックホールの事象地平面はあらゆる物体が光速になるので時間が無い。時間すら無い世界。これが意志なのだ。銀河中心のブラックホールによってその重力の影響で銀河はまわる。銀河のなかの太陽なども、その影響下で惑星をまわす。こうやってすべてが螺旋の軌跡になる。これまた話たことだが、無数の螺旋をあわせたのが球体であり、これはあらゆる論理的に可能な世界が絡み合い集まったもの。論理空間球体と名づける。このなかのひとつの螺旋を浮き立たせるにはブラックホールが必要なのだ。ブラックホールが数ある螺旋宇宙のひとつに収束させているもの。並行世界はどんどん増殖し、エントロピー増大だ。これに対して、ブラックホールの内部もそうだが、エントロピーを減少させるものであり、エントロピー減少させるのは意志なのだ。主体的意志によって、ひとつの世界に住む私がいる。これを生んでいるのがブラックホールだったのである。


  物語文では状態記述には意味がないというが、今、今、という状態はそれ自体でブラックホールによる主体的意志が働いているので有意味性があるのだ。


  

  2014 6-28



  現前の形而上学と虚構についてである。われわれの住むこの世界の正体を突き止めようとする。真実を見るめがねがあるのか。赤青めがねがたしかに飛び出してみえる。真実の世界はじつはふつうにみえるものとすべてが正反対なのかもしれない。なにゆえ、われわれは虚構のなかにいるのか、考えてみたい。


   デリダの現前の形而上学についてである。この世界は二つのものがペアで対立しあっているものがたくさんある。これを二項対立という。音声言語と文字言語、主観と客観、私と他人、私と世界、男女、上下など。これらのうち、なぜだか一項目をひいきしているのが西洋形而上学だという。音声っていうのは自分の声を自分で聞き取れる。これを純粋自己触発という。私が私自身に現前だ。これに対して、文字言語は作者が不在だったり、他人だったりするうえ、紙という物質がないとかけない。デリダはじつのところ、第一項目に第二項が潜んでいるという。音声のなかに、文字や他人がいるのだ。私は私のまえに出現しないともいう。


   次の話はファイヒンガーの虚構についてである。先生が黒板に直線をひく。よーくみいると、直線でなくぎざぎざしている。直線かのようにみなすのだ。すべては原子でできているかのうようにみなす。ただ、顕微鏡使えばだいぶ確信をもてる。これに対して、どうやっても観測できない虚構があるという。神様、宇宙は必然か、自由があるのか。魂はどうなのか。これらは純粋虚構といい、もはや信じるしかないという。ファイヒンガーはすべてが虚構で唯一、真実なのが生きているという事実、生だというのだ。


   まとめ

  
  存在の科学


   異次元理論


 
   この世界の真実の姿はすべての二項対立がひっくり返っているのかもしれない。上は下で、下は上。主観は客観、内側は外側。精神が物質で、物質が精神。私は他人で、他人は私。ただし、ニーチェがいうように、真実を知ると種は保存されなくなる。すべてがひっくりかえったあべこべの虚構をみている。なぜ、そうなのか。すべてが虚構によって、真実の領域が一点に集中され、追いやられる。これが私が生きているというこの瞬間なのである。生の体験のみが真実になり、主体性が生まれるのは、虚偽、虚構による圧力がかからないといけないのだ。



2014 6-29



   様相論と決定論についてである。自由意志によって、こっちのスイカを選び取り買うのだ。ところが、これが同時にどうすることもできない運命でもあったのだ。自由と運命はどこでどう繋がっているのか。大宇宙がひとを動かしているのがわかってくるのだ。


    様相論についてである。歩き方にもいろいろある。ガニマタ歩き、カニ歩き、姿勢のいい歩き方。存在の仕方にもいろいろある。たまたまの偶然性やひょっとしたらの可能性。感覚的に見えるものは現実性。現実性に原因と結果の因果律が加わって必然性だ。

   形式論理学は真か、偽か、という二つの値。様相論理学は偶然とか必然っていう値をたくさんもつ。これらはどこでうまれるのか。並行世界のような可能世界だ。ソクラテスは哲学者だ。ひょっとしたら床屋だったかもしれないし、女性だったかもしれない。それなのにすべての可能世界でかわらないものがあるはずだ。可能世界で貫くので貫世界性という。クリプキはこれをソクラテスっていう高有名だという。これを固定指示子とよぶ。必然性とはすべての可能性で成り立っちゃう。可能性は少なくともひとつの世界で成り立つものだという。

   次の話は決定論についてである。原因があればかならず決まった結果がうまれる。人生だって、宇宙だって、すべて精密な機械のように何が起こるか決まっているという思想。デカルトは精神と物体の世界をはっきりわけた。精神は自由意志をもつが、物体は決定論的だという。ホッブスは意志っていうのはすべて決定論だという。ただ、意志に基づいて行動することに自由があるという。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論



    有と無だけである。これはコインの表裏と同じように反対であり、中間はない。有の世界における様相と無の世界の様相はひっくり返っている。有の世界の偶然性は無の世界の必然性。有の世界の必然性は無の世界の偶然性。このシステムが万物の流転、変化を生む。


  無の世界の様相とは、無の仕方である。これはひょっとしたらやまちゃんは大統領だったかもしれないが実際は違うという可能世界だ。すべての論理的に可能な世界を集めた広大な世界、これが論理空間だ。論理空間のなかで実現していないものはないはずであるが、ある可能世界、状態が実現されていないとする。パズルでいえば、1ピースだけかけている。このとき、その失われたピースを補充しないといけない。これが無の必然性だ。無の必然は有の偶然だったので、この有の世界では偶然性、予測不能性である自由意志となってあらわれるのだ。われわれの自由意志は無の世界においては失われた、欠けている可能世界を実現すべし、という必然性、運命だったのである。


2014 7-5



    無主体説と前人称性についてである。目を閉じて瞑想しているかとおもいきや、だるまさんころんだよといって振り向く。瞑想の段階において光のレベルがあるそうだが、その先にある空のレベルとはもはや人智を超えたレベルで、宇宙論的に説明すると恐ろしく凄いことがわかるのだ。


   無主体説についてである。私はほんとうはいないという説。イギリス経験論のヒューム。机があるが、私がトイレに用をたしにいったとき、果たして、その机はそれ自体で存在し続けているかだ。見ているもの関係なく、それ自体であることを実体という。この実体っていうのは思い込みだという。なんどとなく、机がそこにあったので、見てないときもあるに決まっていると習慣的に思い込んでいるという。私は机を知覚し、椅子を知覚する。これらは私が知覚下が、私っていうのはこれらの束でしかないという。つまり、私も実体がないという。


  次の話はメルロポンティの前人称性についてである。人称っていうのは私っていう一人称。あなたっていう二人称。かれらっていう三人称がある。すべては肉だという。あかちゃんのときは私もあなたもない肉としてひとつ。ところが、物心つくと、私とあなた、かれらという溝をつくって区別する。私が他人の気持ちになるとは、かって肉としてひとつだったころを介してはじめてできるようになる。


    まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    宇宙誕生後、まずは質量0の光が飛び回る。光は世界距離0なので時間も空間もない。そののち、対称性がやぶれて、ヒッグス場が生まれ、質量をもった物体が誕生。さて、瞑想とはまずは物体は記憶、履歴であり、これが形を変えて夢、幻影となってあらわれるといった。そのあとに、すべてがひとつという光のレベルだ。もちろん、時空がないのだからすべてがひとつの世界だ。この先になにがあるのか。ミンコフスキー時空の円錐のなかは物体。円錐状が光。そして、その先にあるのが円錐の外側である非因果領域であり、ここは光速を超える世界なので文字通り因果がない。ここは四次元時空、ミンコフスキー時空が乱立する五次元バルグだったのだ。ここでは並行四次元時空が無数にある。ご飯食べている私、歩いている私、無数の私がいる多精神論的な世界。よって、このレベルを空といい、ここでは私っていうのがひとりいて、ああだこうだの判断し、世界がひとつなどといえない。もはや、同時に無数の私を体現するので、もはや、いまなにをしているのかもわからず、ただひたすらすべてが永遠に実現している感じがあるだけだ。


  
 
2014 7-6




     可謬主義と不可知論についてである。ひとりさびしく、サンバでも踊りながら部屋のなかにいると、胸に手をあてて、自分っていうのは、昨日と今日も同じ自分であると気づく。わざわざ、こうしないと気がつかないというわけではない。また、窓を開けると、そこには街が広がり、刻一刻、変化している。人格と同一性と万物流転を引き起こしているシステムについて考えてみたい。


   可謬主義についてである。可謬とはいつも変りまくっていること、変るかもしれない、ということ。可謬主義に対立する思想が基礎付け主義だ。たとえば、古代ギリシャのソクラテス。永久不滅、すべてを支える不動の真理を追究だ。これに対して、当時のソフィストはすべての真理は相対的だという。万物の尺度は人間ひとりひとり、しかも、星の数ほどあるという。

  可謬主義は現代のプラグラティズムがでてきた。不動の真理をてこの原理で動かない点、アルキメデスの点という。こんなものはないというのだ。真理は暫定的であり、まちがっていたら潔く変更、改正すること、この現在進行形が真理化だという。


   次の話はカントの不可知論についてである。われわれは認識においては上っ面しかみていない。まず、五感から情報を得る。時間と空間の形式でまとめる。これらをあらかじめ用意されている論理的な道具、カテゴリーで纏め上げる。現象を見ているのだ。りんごの現象であって、りんごそれ自体、物自体は不可知だという。だから、物自体はもはや認識じゃなく、実践だというのだ。物自体は実践理性だという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    まずは、認識だけが可謬的ではないのではないかと考えたい。つまり、存在論的可謬主義だ。この世にあるものはすべて変化する。形だけでない。万物の法則も変化するのだ。物理の法則、数学、論理学の法則もである。万物はすべて変化するという法則すら変化する。すると、陽が圧倒的ならば、強烈な陰が生まれる。これがいまここにいる私っていう人格なのだ。すべてのひとにとっての私である。この人格同一性は万物流転による補完的な働きで生まれたのだ。

  もうひとつは変化、時の流れはいかにして生まれたかとである。ミンコフスキー時空の縦軸が時間、横軸は空間軸xであり、これは虚数。空間はそのほとんどが見えない。周囲の一部だけしか感じられないので複素空間なのだ。壁の向こう、とおいところは感じられない。そこはミンコフスキー時空の光円錐の外側の非因果領域だ。円錐上は世界距離が0。円錐のなかは世界距離が実数。円錐の外は世界距離は虚数になる。この非因果領域は光速を超える五次元世界だ。ミンコフスキー図の原点Oを両サイドから押し上げるようになっている。これが原点Oに時間ベクトル、時間の矢を作っているのだ。見えない空間の圧力が時間の流れを産む。


  もうひとつ考えられるのは、過去は記憶でしかない。過去は実在しない。もちろん、未来も実在しない。だから、冷静に考えると過去と未来は同じ実在しない領域だ。粒子と反粒子において、反粒子数が少なくなったら、過去から未来への時間の流れがうまれた。光は光と反光がつりあっているから、世界距離0だから時間も0、つまり、時間が流れていない。この粒子と反粒子は過去から現在、未来から現在へのベクトル。もしも、ミンコフスキー時空の空間軸の下側の時間軸を切り落としてしまい、上側を未来兼過去にしてしまえば、上側領域から原点Oに向かうものがやってきたものだから過去。原点Oから上側領域へと行くものが未来と名づけているのだ。過去と未来は原点Oに向かってくるか、原点Oから放たれるのかの違いだったのである。



posted by モノイイ ジョーカー at 11:45| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 2014 7-6

仙人新聞 2014 7-6



2014 2-16

  

    プラグマティズムと環境主義についてである。テンテケテンテンっと言いながら児童公園でリズムに合わせて踊っている。ややもすれば、機動隊に囲まれてしまうようなそんなハイリスクな踊りだ。そう、リズムである。すべては周期的なリズムであり、種の誕生と破滅、さらには、意識するしない、というのも周期性を持っていたのだ。


   プラグラティズムについてである。プラグマティッシュというのは、実用的ということ。あのひとを褒め称えると、お年玉をくれる。もしこうすれば、ああなる、という仮言法である。これに対して、カントは何でするのか、なんていう理由、原因なしの、汝なすべし、という定言法を主張。これはプラクティス、実践という。

  プラグマティストの紹介なのだが、まずはパースである。パースはアンチデカルトである。デカルトは我思うゆえに我あり、といったとき、どうして自分の存在に気づいたのか。うちを見つめる内観。しかも、理屈抜きの直感である。この直感を否定するのがパースだ。すべてはなんのため、という記号の連なりだというのだ。


   ジェームスは真理っていうのがなんかそこにあるのでなく、つねに真理にしつつある、という真理化だという。

  このほかにも、間違っていたら謙虚に修正し続けて真理に近づこうというローティの可謬主義。胸の内側の心、外側の世界にわけるのやめようよ。心も世界もどっちも内側で、共同して、心と世界を作っているというパトナムの思想もある。


  また、なんかのため、ということばかりやっていると、これでは説明もできないものにぶち当たる。これが生だという。プラグマティズムは生の哲学と馬が合う。


   次の話は環境主義についてである。とりわけ、心の問題である。心というのはからだのなかにあるのだろうか。計算するとき、心は紙とペンのなかにある。何かに夢中の時、心はその夢中のなにかのところにある。心は脳どころか、体をはみ出して環境に染み出しているという思想だ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   すべては波動で周期性をもってる。太陽のまわりを地球をはじめとする惑星がまわる。太陽系もまたぐるぐるまわりながら、銀河の中心のブラックホールのまわりをまわる。ややこしいが、銀河円盤上をまわりながら、銀河をまわっている。

  なぜ、太陽系がまわっているかといえば、それは連星だからだ。宇宙におけるそのほとんどの恒星は連星、つまり、カップルで互いに回っているという。太陽の伴星はなんなのか。まだ、観測はされていないが、ネメシスという。太陽は生命をはぐくむ。つまり、生への欲望であるエロス。その伴星であるネメシスは死への欲望であるタナトスではないのか。互いにまわるのが2万6000万年周期であり、この周期で地球上の種は滅びるという。微生物、昆虫、一番有名なのが、爬虫類である恐竜。これはちょうど太陽系が銀河円盤上のオールトの雲に入り、ネメシスから隕石がやってくるからだという。このように、宇宙における周期が種の誕生と消滅にかかわる。


   つぎに意識についての周期性だ。量子論だと、箱のなかの猫はあらゆる状態がかさなり、これをあけたとたん、意識することで、ひとつの状態に収束するというのがコペンハーゲン解釈。すべての状態に分岐するというのが多世界解釈。そして、自然状態で収束するという考えがある。これがロジャーペンローズである。重力による収束という。確率の状態がどんどん増えてくる。すると、飽和状態になり、おもわず、きゅーっと収束してくれるなにかが現れる。それが脳におけるマイクロチューブルだという。人間だけでなく、湖中も皆そうである。この宇宙は波動状態で、いろんな確率の世界が増え続け、マックスになると、脳による意識、すなわち、マイクロチューブルによる収束が行われる。だから、プラグマティッシュなシステムのなかに脳、意識があり、宇宙は意識、心あってこそ成立する。私がいま床を意識したのは、床の確率波がマックスになって収束してほしかったからだ。


  三つの世界がある。プラトン的数学世界。物質世界、心の世界だ。最近の研究だと、どうもプラトン的数学世界における実体なき情報が物質の元であることがわかった。スピンやスピノールだ。さらに、そんな脳が心の世界を生み出し、心の世界がプラトン的数学世界を産む。論理的に考えたりする世界だ。この三角形がぐるぐるまわりながら成立しているのである。


   
2014 2-22



    主体性と真理対応説についてである。宇宙丸ごとがあたまのなかにあるなんて信じられない。それこそ、冷蔵庫のなかの豆腐が納豆とよなよないちゃついている、という話のほうがまだ信じられないくもない。あたまのなかに宇宙があるにはある種の重大な操作が必要だった。だから、ひとは、生命は主体的だったのである。


  主体性についてである。実体っていうのは、自分との一致。だから、じーっとしている。豆腐は実体であって、主体的に踊ったりしない。主体とは自分であろうと常に活動しているのだ。自分を中心に世界がひろがってみえるのだ。パースペクティズムともいう。いわゆる遠近法主義。近いものは大きく、遠くのは小さくみえる。壁があったらその向こうが見えない。ところが、プラトンのイデア論しかり、デカルト的自我もそうだが、宇宙の外から、すべてを実体としてみる。


   次の話は真理対応説についてである。古典的な真理観である。心のなかのイメージの配置と、宇宙のすべての配置が対応していて、一致していたら、それは真理だというのだ。現代に甦った真理対応説。これが前期のヴィトゲンシュタインの写像理論。文、命題っていうのは、宇宙の出来事、事象に対応しちゃっている。文のなかの単語は宇宙の事物に対応だ。世界、宇宙の構造と文、命題の構造が同じであるとき、この対応は生まれるという。

  
   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    前回、宇宙における時空の最小単位、これがプランク長さであり、プランク時間だといった。原子が自然状態で崩壊するように、プランク時間のあいだはいろんな状態が重なった波動であったものが、プランク時間経過後に崩壊して、粒子性に収束する。波動状態が心だという考えから、プランク時間の波動はみえない。ところが、相対論における観測者同士の運動状態による時空の伸び縮みによって、プランク時間内の波動が引き伸ばされてみえることもあり、これが生命の心と感じるのだ。


  前々回、宇宙大規模構造は脳のシナプス結合と構造上名時だといった。私の脳のなかに宇宙があり、そんな宇宙のなかに住んでいる。

  この二つの考えを融合したい。心のなか、脳のなかの出来事が大宇宙の出来事と一対一に対応している。時空と越えて情報伝達する非局所相関だ。そして、無限宇宙が自分の心、脳のなかに入る。このとき、有限のなかに無限を入れることになる。有限のなかに無限を表現する座標系がペンローズ座標系だ。われわれが主体的に、遠近法的にものをみる座標系はこのようなペンローズ座標になっているのだ。だから、主体性とはペンローズ座標系だともいえる。



2014 2-27


    我汝とミーメーシスについてである。散歩をしていると道端に一輪の花をみつける。微笑ましくなって、忍者のごとくすばやく後ろに回りこみ、花粉を採取し、ばくてんして立ち去る。さて、花っていうのは太陽の光を浴びて成長するのだが、人間はなんの光を浴びて意識活動を営んでいるか、という深遠なことを思い、いてもたってもいられずに思わず、でんぐり返しをする。

  ブーバーの我汝についてである。世界っていうのは最初になにがあるのか。一人称の私、二人称のあなた、三人称は彼ら、それらだ。三人称のそれらが最初にあった場合。つまり、岩石や原子たちだ。それらから私とあなたは出来ているというのだから唯物論。一人称が最初にあったら、自己中心的な独我論。私が最初にいて、あなた、それらがあるということになる。このいずれでもなく、最初から私とあなたというのがセットだという。そして、ブーバーはとりわけ、永遠のあなた、汝を神様だという。


   次の話はミーメーシスについてである。ミーメーシスとは模倣のことだ。物まねである。プラトンは、物質というのは純粋なイデアをまねているといった。ピュタゴラスは万物というのは、数をまねて作られているという。ミーメーシスは人が成長したり、文明が発達するうえで必要だとよくいう。技術は自然の模倣だという。


   まとめ


   存在の科学



    異次元理論


 
   花っていうのは太陽の光によって成長する。太陽光には複数の光の波長がある。波長によって、葉っぱや花、茎というように成長因子がちがうという。そして、なによりも、花は自らの糧である光、太陽に似ているだ。放射状に広がっているのだ。これはミーメーシスである。

  神は自らの姿に似せてひとを創ったという。ひとに糧を与えている神様もきっと人に似ている。ひとはあたまと両腕、両足がある。五ぼう星なのだ。神様から与えられるエネルギーも五に関係しているにちがいない。五次元からやってくるのである。


   脳のなかにマイクロチューブルという管があり、これはチューブリンという物質でできているという。ここでなにが行われているか。時間の最小単位はプランク時間という。このプランク時間のあいだは出来事はユニタリ、すなわち、状態が重なった波動なのだ。生きている猫、死んでいる猫、遊んでいる猫、すべてが重なる。プランク時間経過すると飽和状態のようになり、自然に収束。これらは計算可能なのだが、どの状態に確定するのかは計算不可能。これは自由意志や偶然の引き起こすなにかの因子がある。これが植物でいう太陽光に相当するなにか。光、フォトンではなく、五次元からくる光速を越えたタキオンかもしれない。相対論を無視しなければ、時空を超えた謎の非局所相関かもしれない。いずれにしても、これが五ぼう星ではないか、と考えられるのだ。


   我汝、永遠の汝である神様と対峙して、恵を与えられているのである。


2014 3-1


  
    記憶の即自性と人格の記憶説についてである。昨日食べたごはんを思い出す。そもそも、昨日の自分といまの自分が同じなのだろうか。記憶は一体どこにあるのか。夕飯に朝飯を食べ、朝飯におやつを食べた記憶が甦ってくる。


   哲学者ベルクソンの記憶の即自性についてである。その昔、記憶とはなにか、といろんな人達が考えた。イギリス経験論のロックとヒューム。かれらはなんと記憶っていうのは、知覚とか印象の濃いやつだという。一瞬みえたハエ。残像としてわずか三秒。記憶はそれが濃く残っているものなのだ。現代ではベルクソン。体で覚える身体的記憶というものがある。そうではなく、純粋記憶というものは脳に蓄積されていないという。なんと、脳はアンテナだという。記憶はそこらにそれ自体であるという。目は色、形を感じるアンテナ。耳は音だ。耳ではものは見えない。脳は目には見えない記憶とアクセスしているという。


   次の話は人格の記憶説である。昨日と同じ人間、人格だとなぜいえるのか。人格の身体説では、同じ身体だからだという。ところが、身体は新陳代謝だってしてるし、同じだといいきれない。だから、昨日のことを覚えていれば同じ人間だというのだ。これまた、ジョンロックの説である。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   電磁波が飛び交い、そこには情報が載っている。電磁場は時空のなかでなく、時空と並行して重なっている。量子場、重力場もそのようだと思われる。ケータイやラジオの情報は電磁波にあるのだ。そこの周波数を合わせれば聞こえる。人間の記憶もまた、個人記憶場というのがあるのだろう。そこにそれ自体で記憶がある。周波数をあわせて記憶の蓄積、引き出しを行う。脳のマイクロチューブルにおいていろんな並行状態が重なり、自然収束をしてひとつにかたまる。このとき、ひとはクオリア、感じるのだ。同時にこのときに記憶場に刻印される。

  個人記憶場は支流である。大河からわかれた支流だ。人類記憶場があり、これは無意識に作用してさまざまな本能をうむ。さらに、生命記憶場もある。生命活動、細胞の活動もここから汲み取られる。もっと根本には無機物の場もあり、最終的には宇宙誕生のときから続く場があり、波長がある。宇宙マイクロ波放射だ。ビッグバンのときの光が伸ばされていまもまた空間を漂っているのだ。



2014 3-5



    鏡像段階と絶対精神についてである。なんでも吸い込むブラックホール、掃除機なんてものじゃない。そんなブラック企業ならぬホールは宇宙にとってどんな機能を果たすのか。なんとそれは鏡であり、宇宙の自己意識の証である、というお話をしたい。


    ラカンの鏡像段階についてである。精神分析学のラカン。赤ん坊はおぎゃーっとなくが、自分の身体がばらばらでコントロールできていないという。さすがに成人になって、あぐらをかいた自分の足をみて、曲者っと叫ぶものはいない。右手と左手のチームワームが乱れて珍プレー。拍手失敗して顔をはさむこともない。赤子は自分の身体を統合しようとする。鏡をみて統合するのだ。実際の鏡でなしに、それが親だったり、他人だったりすることもある。この統合の働きが後にひとの努力になるのだという。


  最初に自覚があって、そのあとに疎外があるのではないという。社会にでて最初に疎外があって、そこから統合するのだという。人格はなんと分裂、パラノイアだというのだ。


   次の話はヘーゲルの絶対精神についてである。個人の自己意識はいつしか物心がついて、自意識に目覚める。そして、ぞうきんやふきんはただあるだけの実体だが、ひとは主体的だ。宇宙は実体、ひとは主体というのが常識っぽいが、じつのところ、ヘーゲルの考えだと宇宙も主体性だという。そして、ついに、自分が宇宙であると気がつき、絶対精神になるという。



   まとめ


   存在の科学



   異次元理論


    ブラックホールは鏡だった。前回はなしたように、鏡は左右対称ではない。右手は右手、左手は左手、あたまはあたま、足は足がうつっている。じつは前後反転している。本来なら自分の背中が見えるはずだが、背中が胸、腰が腹、後頭部が顔面に反転だ。これまた、以前はなしたが、物の見えない裏側は引き伸ばされて、そのものの背景になっているといった。だから、鏡にうつった自分は自分の背景である外界宇宙。ひとの心もみえない。よって、そのひとをとりまく外界宇宙の現われ。ブラックホールの事象地平面は原理上見えない。だから、これはブラックホールの背景であるこの宇宙そのものだ。ブラックホールはその存在は間接的に観測されるが、これは鏡なのだ。だから当然、前後反転している。ひとでいえば前後とは自分と他人、主観と客観である。これが反転。つまり、自他、主客が逆になっているのだ。

  宇宙における鏡とは宇宙における鏡像段階、つまりは自意識の目覚めである。宇宙やひとには二つの気づき、アウェイネスがあった。ひとつはそのひとの誕生、宇宙誕生のビッグバンという特異点。もうひとつがそのひとの自意識の目覚め、宇宙においては二つ目の特異点であるブラックホールである。



2014 3-9



    真偽を越えた世界と観念論についてである。イメージが膨らんでくる。あの岩石の後ろでミミズがすもうをとっているイメージだ。イメージの増殖はまるで細胞増殖であり、これはじつに同じものであった。

  真偽を越えた世界についてである。真か偽か、というのは有意味なものだ。真偽のどっちかの値をもつとは、実際、自分の目で観測、観察すること。だから、しゃべるひまわりとか、黄金の山は実在しないので真偽の検証できないから真偽こえちゃっている無意味なものになる。

  こんな真偽のないものは、存在とか、存在しないとか関係のないレベルのもの。マイノングはこれを超存在と名づける。

  フレーゲは真偽を持つのが意味、真偽関係ないものを意義といった。


   次の話は観念論についてである。すべては自分のなかの夢だとか、りんごを見ているからりんごがあるというバークリの実質的観念論。これらは主観的観念論とよばれる。ところが、私のなかの観念でなく、そもそも、この宇宙がなにものかの観念だというのが、客観的観念論であり、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルである。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   脳細胞のなかのマイクロチューブルは周囲の環境から隔絶された孤立系。だから、そこではいろんな状態が重なっている波動なのだ。このなかの波動が自然に収束するのはしきい値を超えることだが、このときの収束の度合いを決め、どの状態になるかを決めるのが計算不可能な何かが関与している。これが中心体の関与だ。

  細胞のなかの中心体は細胞分裂をさせているもの。生体煮を意地する代謝もこれだ。ところが、脳細胞は増殖しない。中心体の役割はさきほどいった計算不可能な収束の度合いと状態の選択のときに働いているのだ。つまり、肉体を成長させるなどの細胞内の中心体は細胞分裂。脳細胞の中心体はイメージ増殖にかかわっている。イメージ、観念の世界も肉と同様に増殖するのだ。


  ゾウリムシには神経がない。それなのに、獲物を捕らえるときに記憶をもっているという。なぜなら、ゾウリムシの内部にはマイクロチューブがある。つまり、脳細胞と同じなのだ。脳がゾウリムシともいえるが、この地球、否、宇宙には微生物がたくさんいるが、それらがマイクロチューブルをもつ脳細胞の役割を担って、ネットワークを形成し、地球や宇宙の精神活動を生み出す。


2014 3-13




   哲学的ゾンビと総合統一についてである。こたつのなかでそよ風を感じる。押入れのなかで川のせせらぎ。ひとはなにかを感じるのだ。感じることはどこで何が起きているのだ。じつに全宇宙の歴史を巻き込んだ壮大なプロセスだったのである。


   哲学的ゾンビについてである。ゾンビっていうのは気持ちのこもった贈り物をしない。なぜなら、人と同じような反応があるが、なにも感じていないのだ。感じることをクオリアという。笑ったり、怒ったりするけど、ほんとうになにか感じているかは証明できないのである。ドロ人間というパラドクスも同じだ。ドロで作った精巧な人間のようなものでも、果たしてクオリアがあるかわからない。


   次の話はカントの総合統一についてである。色、形、音、においなど、感覚っていうのは雑多だ。これらがばらばらだと、りんご一個ですら認識できない。雑多な感覚を総合し、集めちゃう。次にこれをまとめて統一する。これが悟性の働きであり、そのとき初めてりんごを認識できるのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    りんごがある。このとき、感覚には終点がある。色、音、においも対象物であるりんごが終点になっている。もう片方の終点、または始点はどこか。私自身なのだが、はたしているのか定かではない。これらの対象物と繋がる感覚を束ねているのが閉じた時間なのだ。以前話たが、論理的に可能な並行世界が全部あるなら、閉じてしまった時間もあるはず。閉じてわっかになると、未来が過去、過去が未来になって因果律が成り立たない。因果律がないというのは自由意志のことだ。また、このわっかはカントのいうりんごという現象の背後にあるりんごそれ自体、つまり、物自体とつながる。物自体は因果律がないから、じつは自由意志をもった私だった。だから、ここで閉じた円ができる。

 二局面理論というのがある。人間そっくりなロボットと理解力、クオリアのある人間は区別できないというもの。中国語パラドクスともいう。中国語の発音を意味もわからず機械的に暗唱。他方、理解してしゃべっている。どっちが理解しているか傍目からはわからない。クオリアはどこにあるのか。


  ひとはなにかを感じるがどこで感じているのか。ひとのからだは細胞の集まり。細胞とはいわゆる微生物のようなもの。骨は無機物だ。宇宙誕生からいままで、地球誕生から生命の歴史、そして、すべての生命が感じたことが閉じた時間で瞬時に回転しているのだ。骨は無機的世界。細胞はバクテリア、微生物。それでは動物、とりわけ、爬虫類や両生類はどこか。以前はなしたが、細胞は中心体によって分裂増殖だ。ところが、脳細胞はマイクロチューブルのなかの量子を収束。イメージ世界を増殖させているといった。イメージのなかにさまざまな動物たちが、歴史上現れたすべての動物個体のクオリアがひしめいている。そしていまにいたり、ビッグバンにもどって円になる。空間中のなかの点としてわれわれはいるのではなく、その点はいままでの全歴史上の生命個体のクオリアを瞬時に体現しているのである。今何かを感じているとは、いあままでのすべてのものたちのクオリアの総合統一されたものだった。


2014 3-16




    行為的直観とサルトルの想像力についてである。いきなり神社仏閣的な話だが、無と空である。あたまのなかに無を生み出し、空がうまれる。脳と量子と空について考えたい。

   西田幾多郎の行為的直観についてである。自転車に乗る。もちろん、ニケツはいけない。障害物を認識し、すばやいハンドルさばきだ。なにかを直感し、次に行為しているのか。そうではなく、見ながら動いている。刺激と反応のあいだに私っていうかたまりがあるのか。そういうものはないというのだ。主体とは無いこと、去りつつあることだという。


  次の話はサルトルの想像力についてである。やまちゃんを観察。観察っていうのはいろんな視点からみるのだが、全部はみれない。足の裏を見るのを忘れる。ところが、わけあってやまちゃんが不在だ。こんなとき、想像する。これを準観察という。どこからみたわけじゃないやまちゃんそのもののを瞬時に思い描く。概念知だ。また、後姿も想像できる。だから、想像力は時に観察よりも実在感たっぷりだという。よって、これが想像なんだよ、という謎の非現実化作用が働くという。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   脳細胞のなかのマイクロチューブル。秩序化された水に満たされ、周囲の環境から孤立。だから、官のなかは無。構成要素であるチューブリンという二種類の蛋白質が重なり合う。世界が重なりあうのだ。論理的に可能な世界が重なるのが無。すべてが重なると無。すると、周囲環境との断絶ゆえに別のものと繋がろうとする。空間を越えて別の脳細胞、別の細胞とネットワークを築く。これが生体ネットワークである。行為するとき、なにかを感じるクオリアなどは無によって生まれる。

  マイクロチューブルのなかの重なった可能世界のおのおのは別々の法則で活動。だから、これまた互いに孤立している。究極の無、空なのだ。こんどは空間を越えるどころか、時空を越えて過去、現在、未来のいたるところと時空ネットワークを築く。これが想像力であったり、外界のりんごを自分のなかに像にしたりする認識。宇宙、世界全体の存在感を生み出す。これが空によってなされる。


  行為的直観は無であり、想像力は空だといいたい。


2014 3-19

  続き

 
  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   りんごとたわしとやまちゃんは同じものの別の側面。たしかに、やまちゃん自身は正面、後姿など多面的だ。これをまとめてやまちゃんの全体像。ここにはコモンセンス、共通する原理原則がある。りんごとわたしが同じひとつのものに見えないのはその原理原則をもっていないだけだ。いろんなりんごがあるが、りんごそのもののイデアの多面的な見え方ともいえる。すべては一なるものの現れともいえるのだ。

  外界は自然数で、しかも、時間と空間の座標系でみる。もしくは実数の時空座標系だとしても、それ以外は虚数の世界、複素数座標系。だから、外界ではない、うちなる心の世界は複素数座標系だ。これらもひとつのものの別の表れである。座標系は任意に設定できる。同様に、原理原則も任意に立てることで、どれが同じものの別側面なのか、ということも自在に変化してしまうのである。


2014 3-20


   還元主義と実践的惰性態についてである。斜面から小砂利が転がってきた。もちろん、小さな考古学者が懸命に逃げているシーンが思い出される。物体っていうのは重力や引力で動く。これに対して、自由意志、意識っていうのはそうではないとおもわれる。登山家はそこにあるから山に登る。そこにあるからクッキーを食べる。登山家は重力に反して斜面を登る。ところが、意識も物体も同じ重力による活動だったのである。


    還元主義についてである。あらゆるものはなにかでできてるんだ、という発想だ。すべてをなにかに還元しちゃうのだ。すべては原子でできている。靴下だって、靴べらだって、人間もまた原子の集まり。これが原子論とか、唯物論という還元主義になる。すべては魂だ、というのも同じ。また、すべての価値を金に換えてしまうのも、経済的な還元主義になる。


  唯物論といっても、マルクスいわく、正当唯物論と俗流唯物論があるという。俗流唯物論とは科学的唯物論だという。科学っていうのは、世界、宇宙の外に立って、冷静に世の中をみる、いわゆる、デカルト的自我だ。ところが、人間をも含んだ唯物論が正当唯物論だというのだ。


   次の話はサルトルの実践的惰性態についてである。サルトルは、ひとっていうのは絶対的に自由だという。存在するしない、自分の性別、これらすら自由意志によるという。ところが、斜面を転がる石ころは惰性的だ。ひとがたくさんあつまって集団になると、なんと自由意志が消えて惰性的に振舞うようになるという。


  まとめ


    存在の科学



 
   異次元理論



   物体は重力や引力によって動く。斜面を転がるらっきょもそうだ。大気だって、重力や引力によって生み出される。木っ端も重力による風の影響で動く。人間や生命は自由意志、意識活動によって活動する。ところが、そんな生命だって、脳細胞のなかのマイクロチューブル内の可能世界の重ね合わせの崩壊によって意識が生まれているのだ。可能世界は重なるが、おのおのの時空世界は質量分布によって曲率がちがうので、重ねると崩壊し、収束する。時空の曲率とは、アインシュタインは時空のゆがみ、曲率だと考えた。つまり、重力の違いが可能世界の収束、意識を生み出していたのである。同じ重力によって、物も精神、意識も動いていたのだ。


2014 3-22



  超弁証法とアナロギアについてである。教育番組のお兄さん、おねえさんが子供たちといっしょにぐるぐるまわってぽーん、とジャンプしていた。まさしく、宇宙が生命であるとは回転なのだ。そんな大きな宇宙と小さな宇宙であるわれわれ生命体は独自の仕方でひとつだった。


  メルロポンティの超弁証法についてである。弁証法といったらヘーゲル弁証法である。矛盾しあうものが出会う。最初は対立だが、いつしか融合して新しいものになる。これが世界の原動力だというのだ。ところが、メルロポンティはこれを醗酵をやめた死せる弁証法だといった。AとBが矛盾しあってCになる。AとBはいなくなってしまう。そうではなくて、水の入ったバケツをぐるぐる回しても、中心に向かおうとする向心力、外にいこうとする遠心力は融合しない。回転運動をおこすのだ。コインの表と裏も、合体してふにゃふにゃっていうわけのわからないものにならない。表は裏に、裏は表になろうとして回転する。


  次の話はアナロギアについてである。健康的な、という言葉がある。健康的なひと、健康的な便、健康的なドリンク。健康的な、はひとつだが、いろんなものにくっつく。

  そのなかでもとりわわけ、存在そのもの、神さまはすべてにあまねく含まれるという。存在そのものは一なるもの。これがペン、消しゴム、やまちゃん、机、椅子っていうように、すべてに多くのものに当てはまるのだ。これが存在のアナロギアという。


  まとめ

 
  存在の科学


   異次元理論


    地球は自転し、さらに太陽のまわりを公転し、太陽系も連星ネメシスとともに回転し、これがさらに銀河をまわる。回転の回転の回転。いわゆるその軌跡はばね、螺旋構造になっている。螺旋は生命であることだ。大宇宙は大いなる生命なのだ。地球に定着する植物たち、じーっとしているものたち、瞑想でもよいのだが、この螺旋軌道をおのずと描く。大いなる宇宙生命の一部になるのだ。また、生命体、意識体は小さな完結した宇宙でもある。意識は螺旋状の活動であり、遺伝子も同じだ。

  さて、このミクロな完結した宇宙である意識と大いなる宇宙生命はひとつだといいたい。ただし、大きなものがミクロと円をなしてつながるウロボロスの蛇はただの円ではない。一なる大いなる宇宙がミクロと繋がる時、多様化、多義的になる。いわゆるアナロギアである。だから、ここの生命意識は大いなる宇宙とひとつだが、多くの意識、生命となって現れるのである。


2014 3-24



  ゲシュタルト理論と否定は規定、についてである。私はいる、りんごは存在する。便器がそこにあるだけでなく、そんな便器をみつめてしみじみする。つまり、存在から認識へと変貌するのだが、存在と認識は同じシステムだったのである。


  ゲシュタルト理論についてである。部分が集まって全体になるのではない。りんごをみているとき、りんごっていうかたまりが空間にあるのではない。被写体であるりんごと背景の青空が関係しあいながら輪郭がでてくる。部分は全体と直結しているのだ。視覚的だけではない。私っていうかたまりがあって、それが動き、行為するのではない。私と世界はくっきりわかれていない。環境とのやり取りで、私は世界を変え、世界は私を変える。ここにもゲシュタルトがあったのだ。


   次の話はヘーゲルの否定は規定についてである。りんごがある。りんごとはなにかと規定するには、それはみかんじゃない、バナナじゃない、と否定しないといけない。つまり、りんごはみかんじゃないという否定によって、規定されちゃっているのだ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    まずは、すべての可能なかぎりの状態は重なっているとシュレディンガー方程式はいっている。これがユニタリである。このうちひとつの状態に収束。これがリダクションである。これらはブラケットという行列で表される。行列の成分は、生きている猫をみて喜んでいる私とか、死んでいる猫をみて悲しんでいる私という状態。この行列の対角成分の片方は矛盾したあらゆる状態が重なって相殺して0になる。以前、話たが、すべての状態が重なると相殺して無なのだ。だから、逆に無はすべての状態が重なっている。こうやって残り対角成分がリダクションして、状態が決まる。まず最初に、無と存在、これらのゲシュタルトがあるのだ。無の背景と存在の被写体。つぎに、存在のなかでも同じことがおこる。対角成分の一方が相殺して、残りが具体的な存在者になる。りんごや机だ。そして、さらに存在者のなかで対角成分の無化、相殺がなされ、残存するは、見えている机の表側と見えていない机のなか、後ろなどに分かれる。つまり、存在論と認識論はこうやって連続的に同じ構造で繋がっているのだ。陰は存在、陽は無。陰のなかもさらに陰陽にわかれ、これが陰中の陰、陰中の陽になる。さらにそんな陰もまた陰陽に分かれる。これと同様に、存在と無のゲシュタルト。存在はまた、存在者と否定的存在者。存在者は見えるものと見えないものに分かれる。



2014 3-26




    生活世界と先入観についてである。唐突なのだが、おそらく目覚まし時計の呼び鈴代わりにこの文言が聞こえると飛び上がるかもしれない。地球はたまごだった。しかも、鶏のたまごっぽい、というお話をしたいと思う。


  哲学者フッサールの生活世界についてである。鍋とか、やかんをありのままにとらえるふつうの見方を自然的態度という。さらに、鍋は元素なんたらでできている、と捉えるのは自然主義的態度、科学的態度である。また、別の言い方では、ひととか、物、野菜、食い物、ふつうの生活の世界が人格主義的態度といわれる。


   次の話は先入観についてである。先入観は捨てちまえ、とよくいう。やはり、先入観を扱った哲学者といえば、フランシスベーコン。四つの先入観が人間にはあるという。この先入観をイドラという。これを克服できれば、真理みえちゃうという。

   また、現代ではガダマー。先入観はむしろ必要だという。散歩中にひととすれ違って腰を抜かさない。ひとにちがいない、という先入観がたっぷりあるからだ。犬だって、猫だって、なにかをそのようにとらえるには先入観がないといけないというのだ。


    まとめ


   存在の科学


   異次元理論


    地球はまるでたまごのようだ。楕円形をしている。姓名が誕生し、そして、地球に帰る。たしかに、通常のたまごならば、表面に生息し、また、殻のなかに帰ることはない。高度に進化したたまごなのか。鶏のたまごは黄身と白身がある。地球は中心核とマントルがある。おそらく、マントルはたまごの白身部分のように栄養になっているかもしれない。たまごのからざは地球の内部にもそれに相当する重要器官があるかもしれない。細胞も同じような構造をしている。

  さて、われわれは歪んだフィルター、先入観を通して世界をみる。ハエも複眼で世界をみる。どっちが正しい世界なのか。どっちも歪んだ世界を見ている。ユクスキュルの環境世界だ。ニーチェの遠近法だ。フィルターなしの真実の世界なんてないのかもしれない。われわれの先入観フィルターを通すと、大宇宙は無味乾燥に見えるようになっている。地球はたまごで、鶏のようなもののたまごで、ふつうに大宇宙は生活を営んでいるかもしれない。ただし、生命の生存にとってそれは巧妙にフィルターでマスキングされているのだ。


2014 3-28



     統覚と感覚論についてである。目で物をみる。舐め回すようにみるつもりが実際に舐めてしまって号泣。心の鼻で匂う。こうやって五感というものがあるが、脳もまた感覚器官なのではないか。また、潜在意識でひとはなにをしているのか。やまちゃんと斉藤君をやっているのである。


   哲学者カントの統覚についてである。経験的統覚というのがある。個性のある自分のおおもとだ。好き嫌いとか、考え方などは傍目から経験できちゃうからだ。そのずーっと奥に根源的統覚がある。人類共通の普遍的自我のことだ。すべてはたったひとりの自分にいきつくのである。だから、やまちゃんと同じりんごがそこにあると共有できるし、共感できる。


   次の話はコンディヤックの感覚論についてである。ブロンズ像がある。もちろん、心、魂はないとおもわれる。この像の目を開放する。視覚を得る。もちろん、仮想実験である。鼻を開くと、においがわかるようになる。こうやって五感をひとつづつ開いていくと、じつはその延長上に観念があることがわかるという。観念と感覚は同じなのだ。

  また、皮膚感覚、いわゆる、触覚が重要だという。机をなでる。自分のひざをなでる。ここにはちがいがあるのだ。自分のひざを手でなでると、同時に、手はひざになでられる感覚が生まれる。二重感覚である。机には二重感覚がない。ここに私と世界とはちがうんだという主客はうまれる。さらに、見ながら風を肌で感じると、運動感覚が生まれる。自分が動いているっていう感覚だ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   五感だけでなく、脳もまた感覚器官ではないのか。ベルクソンがいうように、記憶っていうのはみえないが、脳がアンテナとなってそこらにある記憶を感じる。それだけでない。脳細胞のなかのマイクロチューブル。ここは遮蔽されているから、いろんな世界が重なってしまう。これが潜在意識レベルだ。このとき、重なった波動世界を感じるのが脳なのだ。想像力とは脳という感覚器官が感じ取った感覚。並行世界が重なっているから、ウマとひとがかさなってケンタウルスになる。

  このユニタリ、並行世界の重ね合わせの潜在意識は同時に他者のすべての心を感じている。並行世界とは他者の心だと以前いった。潜在意識において、無数のひと、生命個体の心になっているのだ。夢もまた、他者からみた世界をみているのかもしれない。


   
2014 3-29




   一元論とイマージュ論についてである。すべては一なるものだ、と叫ぶ。ひよこ饅頭だって、ハーレーダビットソンだって、やまちゃんだって、すべてはなにかひとつのものだ。それが具体的になにかわからず、あたまをかしげて耳垢が肩に落ちる。時空のゆがみ、すなわち、すべては重力だ、というお話をしたい。


   一元論についてである。古代ギリシャではまずパルメニデスの存在の一元論。あるものはある、ないものはない。ただそれだけだという。しかも、考えるっていうのは存在そのものだという。さらにプロティノスのト・ヘン。ト・ヘンとは一者ということ。ここからヌースという法則、理性がうまれ、ここから万物が流れてくるという。ドイツにおいては自我も非我も全部同じだ、というフィヒテの同一性の哲学。のちにベーメの神秘思想の一元論を経て、ついにはシェリングの絶対無差別の思想だ。シェリングは絶対者がなぜ悪をうんだのか、理解しがたかった。そこで、絶対者や善悪をもつ魂、これらをすべて生み出した無底というものをみつける。


   次の話はベルクソンのイマージュ論についてである。これは現代の一元論である。心のなかで思い描くイメージ、観念。壁のむこうはイメージでしかない。壁のむこうを実際にみると実在感たっぷり。観念と実在っていうのは、同じひとつの表れであり、流れのなかで観念っぽくなったり、実在っぽくなるのではないか。この一なるものがイマージュである。自分のからだは全部みえない。盲腸を想像してみる。靴下のなかの指毛に思いはせる。これは身体的イマージュだ。宇宙はすべてがみえない。だから、イメージと実在が混ざる宇宙論的イマージュだ。宇宙論的イマージュのなかの身体的イマージュだという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    意識と物体はただひとつの重力の現れなのではないか。脳細胞のなかのマイクロチューブルは高度に秩序化された水に満たされ、外界とは情報が絶たれている。いわば、純粋空間だ。だからこそ、いろんな世界がシュレディンガー方程式にしたがって重なる。重なるとおのおのの世界の時空のゆがみ、曲率の違いによって自然崩壊する。これがリダクション、収束である。時空のゆがみとは重力のこと。だから、プラトニックな純粋空間内での重力が意識になる。物体は周囲のものといろんな関係性にある。情報のやり取りがすごい。こういう環境と密接に繋がっている雑然とした空間内での重力が物体になる。すべては重力、時空のゆがみだった。


  もうひとつ。あまり本題とは関係ないかもしれない。姓名が死滅するときの意識状態についてだ。マイクロチューブル内で世界が重なり合っているのが潜在意識。これが自然崩壊して収束してひとつになるのが顕在意識、覚醒意識。死滅すると、マイクロチューブルを覆う秩序化された水分がなくなる。すぐにリダクション、収束してしまうのだ。つまり、潜在意識、無意識のきわみでなく、むしろ、覚醒意識のきわみ、ハイパーリアルな状態になるのかもしれない。


2014 3-30



   時間意識と被投性についてである。ファミレスでまずは水がきた。水を一気に飲み干し、全身が潤う。水とはなんだろうか。もっともポピュラーなものだが、水はなんと記憶媒体であり、もっといってしまえば、水が時を生み出していたのだ。そんな不思議なことを考えてみたい。

   時間意識についてである。意識は時間的なものという思想。フッサールでは、意識というのはちょっと前の過去、今この瞬間の印象、そして、ちょっと先の未来をつなげているという。過去把持、原印象、未来予持である。そして、意識の奥底には絶対的意識流があるという。流れを感じるとは、止まっていないといけない。同時に流れていないといけない。流れていると同時に止まっているのが絶対的意識流だという。

   ベルクソンもまた、意識っていうのは過去、現在、未来がぎゅーっと濃縮、凝縮されたものだという。空間とか、物質は希薄、弛緩したもので、今、今、今というように、時間のつながりがない。

 
   次の話はハイデガーの被投的企投性についてである。おぎゃっと生まれたとき、自分のどこの生まれで、性別、そもそも、人間であることなど、自由に自分で選べない。膨大な歴史の流れが押し出して、そうなったのだ。世界に投げ出されたという事で、これを被投性。このなかで、未来を企てる。これを企投性という。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    水は記憶能力をもつという。ミステリアスソリッドといい、水だけが固体になったとき、体積が増える。そして、水に何かを入れると、どんなにろ過しても情報蓄積するというのだ。通常、記憶媒体といえば、メモリ、ハードディスク、石版、紙といった固体。地球や宇宙は生命がいないとき、必要な過去の情報を水に蓄積していたのである。


   脳細胞のなかのマイクロチューブルは秩序化された水に満たされる。これによって外部環境とやり取りを100パーセント遮断し、チューブ内に並行世界の重ね合わせがうまれる。個々の並行世界の重力、すなわち、時空のゆがみのズレがついには自然崩壊を引き起こし、リダクション、収束するのだ。これが潜在意識から顕在意識への移行だ。このとき、収束を起こすのは重力だが、どの世界に収束させるかのトリガーになるのが取り巻いている水なのだ。水の過去の記憶が選択するのだ。いわゆる、ハイデガーの被投性がここにある。


   水は時の流れの象徴だが、まさしく、水が過去とのアクセスを可能にし、時間を生んでいるのだ。


   意識は水によって時間感覚を得る。外界はどうかといえば、無時間なのだ。数学的、幾何学的な永遠世界。プラトン世界でもいいし、論理的可能性の世界だ。そこに水によって時間化された意識があるだけなのだ。


  川の流れ。水を取り去ると、水底の地形が残る。この地形が外界の無時間な論理空間だ。水を去るのだから、これこそ法であり、法則、ダルマといわれるものである。


2014 4-3




     ベルクソンの収縮と弛緩、そして、アポロンとディオニュソスについてである。チンパンジーの物まねをする。カニ歩きをしながら海老のまねをする。じつに、人間以外の動植物は低俗だとおもっている人間なのだが、本当は人間以外の動植物のほうがより生命的なのだ。そして、もうひとつ。天の国があるのかどうか、理屈で考えてみたい。

 
   ベルクソンの収縮と弛緩についてである。時間とは過去、現在、未来がある。精神、意識とは過去現在未来の凝縮、収縮したものだという。ポケットティッシュをみて、敵だとおもって逃げたりしない。今、感じているものに、過去の記憶が重なっているからだ。じいさんが噛み付かないだろうと予期していたりする。つまり、過去、現在、未来が渾然一体の意識だ。ところが、空間や物質は違うという。過去、現在、未来がすかすかに伸びきっている弛緩体だという。だから、いま、いま、いま、でしかない。


  理性と本能がある。アナバチは獲物の急所を知っている。ことばで勉強したわけではない。本能というのは獲物の中に入り込んで、内側からその獲物の急所を知るのだという。ところが、人間の理性は空間的だから、これができないのだ。また、言語は空間的だという。単語が並列に並んでいる。じじばあさん、なんていうように融合、混ざり合ったりしない。


   次の話はアポロンとディオニュソスについてである。古代ギリシャの神話において、アポロンは均整の取れた美少年の神様。ロゴス、論理、言葉の象徴だ。これに対するデュオニュソスは無秩序、踊り、酒の神様。古代哲学からずーっと西洋においてはアポロン的だった。ところが、現代においてニーチェがデュオニソスを復活させたという。



   まとめ


 
   存在の科学



    異次元理論



    脳細胞内のマイクロチューブル。このなかに可能世界が重なっていく。これがシュレディンガーのユニタリ展開。そして、潜在意識だ。もっといってしまえば、これが本能である。おのおのの並行世界は干渉しあって重なっている。コヒーレンス状態だ。これはベルクソンでいえば、意識、精神における過去、現在、未来の収縮体である。そして、覚醒意識になるとき、重なり合った世界は収束し、おのおのの世界は干渉をやめてデコヒーレンスになる。これがリダクションである。ベルクソンでいえば、過去、現在、未来が個々に分離し、弛緩体になった、より、空間、理性、物質的なレベルだ。だから、われわれが俗にいう下等生物のほうが、より生命的なものなのだ。人間の覚醒意識、リダクション、理性はより物質的である。生命から物質化がどんどん促進しているのが文明であり、理性だった。


   天の国とはなにか。死滅したとき、最後にリダクション、世界がひとつに収束して終わるときなのか。そうではなく、もしも、いわゆる魂といわれるものが、可能世界の重なり合い状態に止まれば、それはまるではねが生えたように、あらゆる論理的に可能な並行世界を自在に移動できる状態になれるのではないか。これが天の国かもしれない。



2014 4-4




    単独者と唯名論についてである。突然なのだが、私はだれなのか、あなたはだれなのか、かれらは何者か。だれだだれだ、といったら科学忍法になってしまうのだが、われわれはだれかであり、名前はあるが、その実、永遠の何者かであるというお話である。


   哲学者キルケゴールの単独者についてである。キルケゴールはヘーゲルが嫌いだった。ヘーゲルは宇宙とは絶対精神だ、などの普遍的な真理を求める。ざっくりと普遍的だ。ところが、キルケゴールはちがう。真理とは個性、らしさ、唯一無比のこれとか、あれだ。あれはできるがこれはできないというのが自分らしさ。つまりは、有限性の自覚だという。これが万能ですべてである神様の前に立つときの自覚であり、単独者と名づける。


   次の話はオッカムの唯名論についてである。これはテーブルである。テーブルっていうのは普遍的だ。テーブルそのもののイデアがあるのか。もしくはこれをこれたらしめているこのもの性っていうのがあるのか。そうではなく、すべては名前にすぎないという。あるのは、これとか、あれという唯一無比の個体だけだという。


 
  まとめ


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   私はだれなのか、あなたは、かれらはだれなのか。たしかに名前があり、経歴だって、素性がある。どこからきたのか。以前はなしたが、ルイスの可能世界実在論。すべての並行世界は実在している。論理的に可能なすべてを含む世界が論理空間。同じように、すべての個性あるものたちは時間を超越して実在するのだ。あれそのもののイデアのようなもの。時間を超越とは昨日と今日の自分は人格が同じ。つまり、時間を越えて一貫しているものだ。すべて可能なかぎりの魂があるのだ。それが顕現しているかどうかだけである。

  時間と空間は斉一性原理によって、均一で量的だとみなされている。じつは空間も場所によって唯一無比の点、質的なのだ。時間も同じである。ところがそれだと混乱してしまうので、われわれには均一にみえるだけだ。量子場における個々の量子は個性ある魂なのだ。





2014 4-5


    
   
    アプリオリな総合判断と経験主義における二つのドグマについてである。巨人軍は永久に不滅です、と大きな声の寝言をしたときはだれしもあるのだろう。不滅とはなにか。とりわけ、すべての魂の永遠性について論理的な証明を試みたい。


   アプリオリな総合判断についてである。アプリオリとアポステリオリっていうのは聞きなれない言葉である。アプリオリとは先天的、生まれながらにして、すべてに先立って、という意味。時間的にも論理的にも先立って、である。アポステリオリは後天的、目で見て、鼻でにおっての経験的な、という意味。もうひとつ。分析判断と総合判断というものがある。主語のなかにすでにあらかじめ述語が内蔵されちゃってるのが分析的。じいさんは年寄りだ、というのは、主語のじいさんにすでに年寄りっていう性質を含んでいるから、主語を解体し、分析すればでてくる。総合判断はちがう。じいさんは焼き鳥を食べる、というもの。じいさんっていう主語には焼き鳥食う、という性質がない。外から総合されたものだ。


  さて、アプリオリな分析判断はわかる。じいさんは年寄りだ、というのは最初から決まってるのだ。アポステリオリな総合判断もわかる。焼き鳥を食べているところを経験したり、見たり、観察できる。カントはなんと、アプリオリな総合判断があるというのだ。1+1は2。1のなかには1を足すと2になるよ、というものが含まれない。しかも、先天的に決まっていることではないか。また、三角形の内角の和は180度っていうのもアプリオリな総合判断だという。


   次の話はクワイン、経験主義における二つのドグマ、についてである。この著書ででてくるのは、アプリオリとアポステリオリ、さらには分析と総合っていう区別なんていらないというもの。じいさんは年寄り、っていうのは分析判断だといったが、年寄りっていうのは何歳からか、生物学的に説明が必要だし、それには日本語を使うから、文法の説明もいる。つまり、クワインは全体論、ホーリズムの視点から、これは総合判断だともいえるのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   仮想の容量無限大のPC、チューリングマシンがあるとしよう。これはアルゴリズムを実行し、計算可能だ。このマシンは物事を理解できるのだろうか。決定論的に計算できるが、決定論的なんだけど、計算できない、つまり、計算不可能なものをわれわれ人間がもっているという。対角線論法っていうのがあるが、これも計算できない。タイルの問題があり、人間には決定論的に理解できるが、これを実現するアルゴリズムがないので、マシンには計算不可能だ。

  さて、デタラメ、無秩序っていうのはなんだかひとの自由意志のようにおもえるがじつはちがう。デタラメは計算可能なのだ。確率やカオス理論だ。計算可能な偶然性である。

  決定論を必然性といいかえられるし、アプリオリともいえる。デタラメ、無秩序は偶然性、アポステリオリともいえる。また、計算できちゃう、計算可能っていうのは分析的、計算不可能は総合的だ。だから、必然的、決定論的な計算不可能とは、カントの言葉だとアプリオリな総合判断なのだ。これが魂なのではないのか。論理的に可能なすべての並行世界があつまった論理空間。論理的に可能なすべての個性ある魂があつまった世界がある。時間を超越したイデアであり、この魂はあるけど、あれはないという特権性、偶然性はない。すべてが時間を越えて実在するのだから決定論、必然性だ。魂における自由意志はじつに、必然的で決定論的だった。なんだか逆説的だが、ニーチェの運命こそ自由意志だ、という思想に近い。


2014 4-6



     存在了解とデカルト主義についてである。小さいものと大きいものは明らかにちがう。ところが、心のなかのイメージ、想像の世界には大きさなんてないのだ。なんとあたまのなかはこの物理宇宙をはるかに越えた世界だったというお話である。


   哲学者ハイデガーの存在了解についてである。んーっと力んだら脱皮してしまった、という話は聞いたことがない。ところが、人間は自分から脱け出そうとするという。これを超越ともいう。また、脱自ともいう。これによって、自分自身がずれてしまって、今っていっても、ちょっと前の今になってしまう。つまりは時間がうまれる。これを時間地平が開かれるという。


   時間地平において、こんどは自分から脱け出しつつあるのだから、自分の存在そのものの輪郭が見えてくる。存在そのものだから、もはや、私とか、世界の区別なし。これが存在そのものの地平だ。こうして、ついにはこの存在地平のうえに机、椅子、というような存在者が出現だ。

 
  次の話はデカルト主義についてである。デカルトは世界とは延長、空間的な広がりだといった。スピノザはそんな延長すら神様のひとつの属性だという。デカルトは世界が延長、そして、精神っていうのは思考だという。こうして、精神は延長の世界の外から、笑うこともいらつくことおなく冷静沈着に俯瞰しているものになる。これが科学的な見方であり、デカルト的自我という。近代のヒーローとまでいわれたデカルト主義。カントもまた、自分っていう確固たる存在から歩を進めるのである。ちなみに、前期ハイデガーもどっちかというとデカルト的である。



  まとめ


  存在の科学


    異次元理論


     あたまのなかの脳細胞。脳細胞内のマイクロチューブルは水で遮蔽され、外界の環境から遮断されている。肉体は環境とのやりとりをしている。意識、精神は究極の孤立系であるから、可能世界が重なり合う。量子論的なミクロな話だし、あたまのなかだが、もはや世界が互いに重なる、干渉しているというコヒーレントな状態では、中だの外だの、ミクロだのマクロはない。これが想像の世界だ。こうして、論理的に可能なすべての世界、論理空間になり、このうちのひとつがわれわれの肉体がある物理世界になる。一なる肉体、物理世界と多なる意識空間だ。意識は物理世界を包み込むような感じで外からアプローチしている。いわゆるこれが存在地平ではないか。地平そのものは実体がない無。論理空間も無であり、この地平こそが論理空間であり、精神の居場所なのだ。


  また、デカルト的自我のように、脳内の論理空間から一なる物理宇宙を外からコミットしているというのは、デカルト的自我だが、以前、話たように、論理空間はいろんな世界が一体になってしまった矛盾に満ちた混沌世界。すなわち、感情渦巻く精神だったのである。


2014 4-8


   続き  


  バークリの観念論についてである。ふつうに考えたら、そこにさんまがみえるのは、さんまが最初にあるからである。バークリはこのへんをひっくり返す。なんと、さんまを見ている、感じているからさんまがあるというのだ。魚屋さんにこんなことをいったらきっと怒鳴られるかもしれない。実質的観念論といって、観念論のなかでも純度が高い。部屋にだれもいなかったら、さんまの塩焼きはあるのだろうか。虎視眈々とねらっているハエがいれば、きっとあるだろう。ほんとうに虫1匹いなかったらどうだろうか。神様が見ているから、さんまがあるという。


   次の話は量子論における二つの解釈についてである。アインシュタイン、ボーム、ペンローズは客観主義。見ても見ていなくても、物っていうのは存在しちゃうという。とりわけ、ペンローズは自然に波動が重力によって収束し、粒子化するという。見たものしか信じないのが、量子論の標準理論、コペンハーゲン学派。ボーア、ホーキング博士である。実証主義といって、見た、観測したものが確実で、見えない過程はどうでもよい。とくに、ボーアは、量子の波動は人がそれを意識し、感じた瞬間にきゅーっと収束するという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


     地球の内部を見たものはいない。見ていないということは収束していない波動状態。以前、話したように、世界が重なって波動の状態は意識のおおもと、潜在意識だ。ただし、音などの外界との環境のつながりはここにはある。だから、波動であったとしても、これを第二意識体と呼びたい。観測していないはるかかなたの宇宙もまだ収束しないで波動なので、第二意識体に満たされる。人間の脳内のマイクロチューブルは完全に環境から遮断されている純粋な波動。これを第一意識体と名づける。


    この宇宙はおおいなるものの脳なのかもしれない。そして、われわれが見て、感じて、波動を収束させているのだ。こうやってわれわれがなにかをみて収束し、我々自身のクオリアでもあるが、大いなるもののクオリアにもなるのだ。脳のなかに小さな脳がたくさんあるようなものだ。


2014 4-9




    主体性と我思うゆえに我あり、についてである。こことそこがある。そこにあるちゃぶ台がひっくり返るが、ここでそれを感じている。すべてのそこはここで感じる。ここそこについて考えてみたい。


   主体性とはなにか。実体というのはじーっと不変的ななにかだ。アリストテレスもいうように、実体とコンビを組んでいるのが属性だ。属性はいろいろかわる。斉藤君の服装は属性だから変化にとむ。ところが、斉藤君の人格は変らない。実体ではなく、主体というのは、不変的じゃなくて、刻一刻更新、何かを営んでいるものだ。デカルトはこんな主体が世界を眺めているという。こうれに追随したのが、カント。主体的な自分なのだが、はるかなたには乗り越えられない物自体っていう壁を見つける。近代に入ると、意識的ではない、没意識的実体というのだが、これはスピノザっぽい発想で、これをデカルトの主体とくっつけちゃえ、という運動にかわる。ヘーゲルにおいては宇宙は実体はじゃなくて、ちゃんと目的をもっている主体だといった。


   次の話はデカルトの、我思うゆえに我あり、についてである。デカルトは一生に一回、すべてを疑う事をオススメしている。ほんとうにこれは大根なのか、あのひとは人間なのか。そして、とうとう究極の疑いに到達。こんなことをしている私自身はほんとうはいないのではないか、と。だけど、すくなくても今まさに疑っている自分はいるはずだ。我疑うゆえに我あり、これが、我思うゆえに我あり、になるのだ。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    そこにあるもの、ちゃぶ台はそこで感じているのでなく、ここで感じているのだ。すべてのそこはここで感じている。多くのそこの点はここの点でクオリアになる。点をいくら集めても点である。


   ところが、無限の点。無限のそこがここというゼロの点に集約。以前はなしたが、ゼロ×無限は有限だった。だから、無限のそこをここで感じることによって、有限の肉体が現れるのだ。


2014 4-13



   認識論と存在論、そして、鏡のメタファーについてである。小さな世界でおきていること。ミジンコの指相撲とか、ラッパムシの踊りではない。光を構成するものの話であり、それが果ては時空間、存在者、意識をも作り出すというお話をしたい。


   認識論と存在論についてである。古代ギリシャのプラトン。いろんなじゃがいもがあるが、これらは影である。じゃがいものイデアっていうのがあって、これの影だという。弟子のアリストテレスはじゃがいものなかにそれたらしめているエイドスという形相があり、その素材である質料があるという。なんでじゃがいもがあるのか、と存在について論じるのだ。現代ではハイデガー。よいしょと自分から脱け出そうとするとき、時間がうまれ、さらに存在の地平が開かれるという。

  存在論におけるエイドスと質料。この形相、エイドスが心のなかにおさめられ、質料は外からやってくる感覚とみなすようになる。ここから認識ってなんだろうという認識論になる。これをハイロウモルフィズムという。形相でなく、カテゴリーとよばれ、これによって感覚的質料が組み合わせられる。


   次の話は鏡のメタファーと光のメタファーについてである。メタファーとは隠喩のこと。まるでキミのあたまはじゃがいもだ、というのは直接的に比喩だよ、といってるので直喩。比喩だよ、といわないでさりげなく比喩なもの、隠喩であり、メタファーだ。


   光があたって対象物がみえる。だから、対象を認識するのが光のメタファー。光が鏡に反射して、自分の姿がみえる。自己意識のことだが、これが鏡のメタファーである。


   まとめ


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   異次元理論


  光の構成素であるスピノール。これは数学的と物理的との中間的な存在だ。スピノールは二回転して元の状態にもどる。フラッグポールという。通常のベクトルは一回転すればもとの状態だ。二回転しないともとの状態にもどれないのはメビウスの帯。もしくは、くもの巣のようなネットワーク。くもの巣にひっかかると、一回転してもからまるだけだ。二回転するとネットから開放される。つまり、スピノールが時空のネットワークを作っている。一回転目でからまり、時空を感じ、時空を越えたものとつながる、いわゆるエンタングルメントである。時空や存在そのもののレベル。二回転目で開放され、これは光子一回転のスピン。光は物の形を明らかにし、ここで認識論に転じる。さらにスピノール一回転でこんどは、自分の存在を感じる。自己意識であるが、自分の存在感だ。そして、二回転目で光なので、形や性質が見えるような経験的な自己意識になる。

 
  


    関係主義と反事実的条件法についてである。エネルギーを吸収すべく口をとがらせて蚊になったつもりで攻撃だ。もしくは、空気中に漂っている羽の生えたミジンコみたいなものを食す。いずれにしても、エネルギーとは一体なのだろうか。それはじつのところ並行世界の集まりだった。

  関係主義についてである。AくんとBくんはたかい友情関係で結ばれているという。まずは、Aくん、Bくんという実体があって、次に関係にはいるはずだ。ところが、AくんがAくんであるのはBくんとの関係性によってである。実体主義というのが、実体が関係に先立っちゃうというふつうな考え。そうではなく、関係性が最初にあって、その結節点に実体が生まれるという発想だ。リッカートの関係主義などがそれである。


   次の話は反事実的条件法についてである。科学はまず観測を重視する。実際に観測して、なんどとなく起こる現象ならば、次も起こるであろうと予測、法則化する。帰納法と演繹法だ。また、原因があって、結果があるという因果律も重要だ。ところが、因果律は顕微鏡で観察できないのだ。そこで、因果律もどきで矛盾しない論理を考えようと試みる。りんごを食べたのが原因で歯茎出血、というのは原因と結果の因果律。これを言い換えると、ある条件のもとで、もしもりんごを食べなかったら、歯茎出血してなかっただろう、といえばよい。うまい具合に因果律を回避と思いきや、じつは、ある条件で、というのがたいへんなのだ。そのときの宇宙における星の全配置もその条件に入っているのだ。だから、世の中のすべての状態を記述しないといけないので、これまた反事実的条件法もうまくいかなかったりする。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   エネルギーとはなんなのか。いわゆるその物体がもつ潜在性であり、可能性だ。これをポテンシャルという。位置エネルギーっていうのは、高さに重力加速度をかけるのだが、物体は潜在的に位置エネルギーをもっている。位置ポテンシャルだ。落下したとき、床を傷づけたりする仕事をする。運動エネルギーも同じ。これらはまだ実現してない可能性であり、並行世界だ。化石燃料のポテンシャルはかって動植物であったというもうすでにないという過去の並行世界。要するに、実際、いまはちがうという反実世界、並行世界の集まりがポテンシャルであり、エネルギーなのだ。

  さて、以前に、自分以外の他者、それが机であって、椅子であっても、虫であっても、他人であっても、すべては自分がひょっとしたらそうだったかもしれない並行世界だといった。つまり、周囲の日常に並行世界がかさなっている、シュレディンガーの波動方程式がそのままあらわれているのが日常だといった。ということは他者が並行世界なのだから、他者との関係性こそ、エネルギーなのだ。われわれは他者の関係性からエネルギーを得ていたのだ。



posted by モノイイ ジョーカー at 11:42| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月15日

仙人新聞 2014 2-15

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7-26

我汝とアニミズムについてである。いろんなひとたちとの奇跡的な出会い。これによって自分自身が形付けられ、未来の方向性も決まったりする。対面する汝とは自分を作ってくれる奇跡的なマシンだったのである。


マルチンブーバーの我汝についてである。最初に一人称の私がいて、つぎに二人称のあなた、三人称のそれらがでてきりのか。天上天下唯我独尊、つまり、独我論や、すべては観念だという観念論である。また、第三人称のそれらが最初にあれば、ものから私もあなたもできているという唯物論だ。いずれでもなく、最初にまず、私とあなた、我汝がセットにnっているのだという。そして、永遠の汝が神様だという。

次の話はアニミズムについてである。なんと、石ころも魂をもっているという思想だ。すべてのものは生きている。おけらだって、椅子だって、手のひらを太陽にかざしたら、じゃんけんでかったのである。


まとめ

存在の科学



異次元理論


前回もはなしたが、この宇宙が刻一刻、細胞分裂のように増え、並行宇宙がたくさんできるというのは、高次元の神様が世界創造しているともいえるが、基軸を変えれば、確率が低いレア宇宙、宇宙まるごとシュミレートできる並行世界pcをもった高度な文明を有する宇宙によって世界は日々 、生成されているといった。同レベルのものによって住んでいる宇宙そのもの、世界の未来への分岐がうみだされるのだ。これを人間にあてはめると、自分が右手をあげたであろうひょっとしたらの並行自分は隣人、あなたという奇跡的な出会いによって世界製造マシンをもつ宇宙が奇跡だが、私創造マシンをもっているのが、第二人称のあなたなのである。


さて、ここで基軸傾けると、物体もまた二人称になって奇跡的な私制作マシンにある。愛車でも、愛用のグローブでも、植物でもよい。私の未来、運命をかえるというより、作り出すのだ。


7-30


絶対的意識流とアプリオリな総合判断についてである。時間と空間とは何か。これはじゃがいもとは何ぞやという問いよりも難しい。じゃがいもがでんぷんでできているなら、時空はなにでできているのだろうか。

絶対的意識流についてである。フッサールとその弟子シュッツの思想である。胸に手をあてる。カラータイマーをつぶしちゃって負傷。そうではなく、心の内側を感じてみる。すると、時間の流れを感じる。これが時間意識である。時間の流れを感じるとは、止まっているからだ。川の流れもまた、陸にいる釣りびとからわかる。意識の奥底にはなんと止まっていると同時に流れている意識、絶対的意識流があるという。

次の話はアプリオリな総合判断についてである。アプリオリとは先天的とか、生まれながらにして、という意味。あぷりおりは学習とか、経験によって後天的に、という意味。さらに、分析判断は主語のなかにすでに述語がはいちゃっているもの。じいさんは年寄りだ。じいさんっていう主語を分析すれば年寄りっていう性質が含まれている。 総合判断はじいさんは走る。主語に走るっていう性質ははいっていない。外から総合されているのだ。だから、アプリオリな分析判断、アポステリオリな総合判断。はしっているのは後天的、経験によってわかることだからだ。カントはなんとアプリオリな総合判断を認める。三角形の内角の和は180度、というのがアプリオリな総合判断だという。クワインはこれを認めない。


まとめ

存在の科学


異次元理論


時間と空間とは何で出来ているのか。時間は任意の空間点が光速を越えた無限速度で結ばれるというエンタングルメントによってである。空間の組み合わせのちがいが今の変遷になる。なにゆえ、エンタングルメントは無限速度なのか。速度は距離割る時間であるが、時間が0に無限に近いと速度は無限に起こること近くなる。つまり、時間が0、存在しない世界がエンタングルメントであり、だからこそ、時間はこのエンタングルメントによって生成されるのだ。この無限速度の情報伝達が意識、意志、クオリアである。

宇宙の誕生、ビッグバンとは時間と空間の誕生のことである。そのまえは無限速度のエンタングルメント、つまり、クオリアがあったのだ。意志があって、宇宙が誕生する。シュミレーション宇宙の製作者の意志があるのだ


7-31


コペルニクス的転回と判断停止についてである。ちゃぶ台の上にのって飛び降りる。いってつにみられたら、こめかみに十字マーク浮き立たせてひっくり返される。いずれにしても万有引力の法則に従うはずだ。ところが、法則っていうのもあります更新され、変化するにかもしれない。古代のひとは念力で空を飛べたかもしれないのだ。

カントのコペルニクス的転回についてである。コペルニクスといったら、地球のまわりに天体がまわっているのでなく、地球も動いてる、といったのだ。天動説から地動説である。カントは自分の哲学をコペルニクス的転回だという。りんごがあるから認識ではない。たしかに、赤い、固い、甘いっていう感覚は外からやってくる。それでも、これらを組み合わせて、りんごっていう対象にしているのは他ならぬ自分自身だという。自分が活発に活動して、りんごっていう対象をうみだしているのだから、まるで地球が動いていると気がついたコペルニクスのようだ。

次の話はフッサールの判断停止についてである。我々はいろんな判断をするが、間違えるときもある。そもそも、すべてが思い込みなのだ。だから、エポケー、判断停止しようという。このとき、中立性変様というプロセスがある。てんとう虫だ、逃げろっと聞こえてきた。この場合、てんとう虫だと断定している。しかも、そこに存在してるとまでいう。これが定立といわれるもの。疑わしいものとして断定しても、懐疑的だと断定している。定立をやめると、そこになにかがあることも断定しない。線とか、色でしかない。ボーッとすれば、あのやまちゃんですら、ただの情報しかならない。これが中立性変様である。


まとめ


存在の科学


異次元理論


地球には重力があるから、上下の意味のちがいがうまれた。意識が中立的になってみると、コペルニクス的な転回が起こる。上も下も相対的であり、おなじどわかる。太陽系だと、太陽がまるで地球のように扱われ、不動にみえてくる。ここでも、コペルニクス的転回をして、太陽系もまたブラックホールを中心に銀河をまわる。ブラックホールが地であり、宇宙の果てが天である。これまたコペルニクス的転回によって、ブラックホールの事象地平は光速を越えて膨張し、原理的に情報の交流ができない宇宙の果ての事象地平はおなじであるとわかる。ブラックホールは宇宙の果てだったのである。


8-2


様相論理学と人間原理についてである。バイキングにいくとなんでも食べ放題である。なんでもありとは、なんだかなんでもないような気がする。この世界はありうるすべての可能性が実在するのではないのか。考えうるすべてである。だから、これがあって、あれはない、ということはない。存在っていう言葉も意味がなくなる。なぜなら、すべてがあるからだ。究極の実在論について考えたい。


様相論理学についてである。様相とはなんとかの仕方である。この場合、認識の仕方とか、存在の仕方である。ネッシーは存在しないだろう、というのは見たり、認識できないということだから、認識論的様相だ。ネッシーが存在する可能性はない、といったら、実際にいるかどうか、その存在が問題だから存在論的様相になる。様相といったら、ひょっとしての可能性とか、現実とか、するべきという必然性という値をもつ論理学だ。

とりわけ、様相論理学を発展させたのがクリプキの可能世界論である。ひょっとしたらの可能世界。ソクラテスは哲学者であるが、別の可能世界では床屋だったりする。ソクラテスが云々というときの云々のところを記述句という。ここは可能世界ではかわるのだが、ソクラテスっていう固有名は
かわらない。これを固定指示子という。いろんな可能世界をつらぬいておなじももだから、必然でもある。


つぎの話は人間原理についてである。人間、人類が誕生したのはこの宇宙のあらゆる定数が人類にとってあまりに奇跡的に都合がよかったからである。人間が誕生するために宇宙はこのようになったというのだ。しかし、そもそも、もしも、宇宙のあらゆる定数が少しでも違っていたら人類はいなかったのである。


まとめ


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異次元理論



この世界はなんでもあるのかもしれない。論理学、数学のあらゆる法則、これがすべて物理世界に適用されていない。一部が採用されているのだ。他の法則は別の並行世界で採用されている。つまり、あらゆる可能なかぎりの宇宙はすべて実在するのだ。私がいて、人類が誕生したのも偶然にみえるが、無数の宇宙のなかの条件にあった世界だからだ。なにもない、無の宇宙も実在する。だから、なにかが存在し、なにかが無いのではなく、すべてが存在。存在っていうのは無に対しての意味なので、存在っていう言葉、概念が無効化されてしまうのである。あるもないも関係ないのである。



8-3


感覚与件言語と自然的世界概念についてである。宇宙とはどんな歴史を歩んできたのか。しかも、並行世界も含めた超絶スケールで考えたい。その時々で生命もまたいろんな意識形態だったということもわかってくるのだ。


感覚与件言語についてである。ウィーンっていう音が聞こえたらロボットだが、ウィーン学団というものがあった。この中には現象主義と物理主義があったのだ。現象主義は見たまま、感じたままを記述し、言っちゃえ、というもの。決して、ハゲっと叫べばと言っているのではない。りんごがあれば、りんごがそこにあるとはいわない。赤い、丸い、甘いという感覚情報があるという。感じたままのことをいう言語、これが感覚与件言語である。哲学者マッハなどである。これに対して、ノイラートなどの物理主義はちがう。何時何分どこにだれがんいかが物理的にあることを主張することを約束として決めようよ、というもの。これが物理言語であり、約束文、プロトコル文である。


次の話はアヴェナリウスの自然的世界概念についてである。ふつうにひとは自分と世界をくっきりわけるものだ。それなのに、主観と客観がわかれる前の状態にわれわれはいるというのだ。先のマッハも同じだが、どちららかというと、そういう規則だ、というのだ。規約主義という。ところがアヴェナリウスは生物学的に主張するのだ。主観と客観にわけてしまうのは脳のなかのC中枢というものと関係しているという。


まとめ

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異次元理論


宇宙は最初、無数に細かく並行世界が別れていた。物質の最小の大きさがプランク長さなら、時間最小のプランクスケールで小刻みに世界の分岐だ。そして、このころは分岐した世界は互いに密接につながる、つまり、干渉しあい、コヒーレンスしていた。だから、いちなる大きな宇宙と変わらなかった。ここから細胞分裂のように宇宙は二つになる。若干、コヒーレンスが弱まる。二つが四つ、四つが八つになる。こうやって、古代のころはまだ別並行世界とコヒーレンスがあったので、お隣の世界のものがみえ、これが神話になる。現代は究極に刻一刻分岐している。プランクスケールの分岐サイクルだ。ところが、一度別れた世界とはコヒーレンスしない、つまり、デコヒーレスも最高に強いのだ。ということは並行世界との関係を横軸とすれば、ひとつの世界のなかで、私と世界、主客というのが縦軸とみなせれば、この横軸はデコヒーレンスが強いから縦軸の主客はコヒーレンスや強くなっているのだ。だから、主観的なおもいがそのまま客観的世界を干渉して決めてしまうのである。古代で逆に主客がデコヒーレンス強かったので、どちゅいかというと個体維持、意欲が強い。現代はその逆で維持は弱く、意欲も弱いのである。


8-5


文脈原理と内蔵秩序についてである。四つ足で散歩中に二足歩行する犬と出会った。その犬の名前がなんとむかしの友達と名前がいっしょだったのだ。立ち小便式に電柱にマーキングする犬。その電柱の質屋の看板も当時、かれとよくいった喫茶店の名前だった。ただの偶然なのか。そうではなく、ここには壮大な宇宙の原理が働いていたのだ。


文脈原理についてである。支離滅裂でもなく、北斗百列でもない、筋の通った文脈。言葉や単語の意味は文脈の流れからうまれるという思想だ。パースは単語のなかにまんじゅうの具のように意味が仕込まれているのではなく、ほかの単語との違いが意味になるという。流れのなかに意味がある。ヴィトゲンシュタインは単語や文法っていうのは生活の流れから、文脈からでてくるという。あれとか、これとか、代名詞などはその流れで意味がかわるものだ。生活はどうかといえば、生活は何のためというのがなくて、無根拠だという。


次の話はボームの内蔵秩序についてである。豆粒が眼前に立ちはだかる。この豆粒に全宇宙の情報が内蔵されているというであろう。


まとめ


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宇宙のはじめは並行世界が無数にあって、これらがコヒーレンス、強く干渉しあっていた。もはやひとつの宇宙と同じ。これが二つ、四つと分裂し、だんだんデコヒーレンスをつよくし、現代においては細かく分裂して、しかも、宇宙初期とはちがって、デコヒーレンス、干渉していない。古代はまだ多少干渉していたので、神話上の他の並行世界の住人もみえた。並行世界との軸を横軸とし、自分と世界の軸を縦軸とよぶ。前回はなしたように、この縦軸はクオリアであり、波動の物質化だ。これはシミュレーション入れ子宇宙の凝縮だった。現代は横軸がデコヒーレンスしているから、縦軸がコヒーレンスする。このクオリアのなかに内蔵されている宇宙の情報がでてくると、シンクロニティがおきるのだ。古代人とはコヒーレンスの軸がちがっていたのだ。言語もそうだが、文法のなかで単語に意味がうまれる。ことなった文法、文脈だと、偶然の事象にも意味がうまれるのである。



8-6

図と地、そして、コンディヤックの感覚論についてである。ちまたには裸のブラックホールがひしめいているという。なっているのだ。なぜ、見えないのか。灯台もとくらしと目の上のたんこぶのダブル攻撃だからだ。あまりに身近すぎて見えないのである。


図と地についてである。いわゆるゲシュタルト理論である。ふつうのものの見方はブント要素主義。ガンプラを作るときはパーツを繋ぎ会わせる。足をあたまにくっつけたり、オシリを背中に接着だ。部分が集まって全体になっちゃう。これが要素主義。ところが、ゲシュタルトはちがう。全体は部分を集めた以上のものだという。メロディは単音の集まりだけではなく、それ以上のものがあるとグラーツ学派はいう。図は地という背景から浮かび上がるのだ。


次の話はコンディヤックの感覚論についてである。ひとはすべてを感覚から吸収しているという。銅像の思考実験をおこなった。ひとつひとつの感覚器官を開いていくのである。嗅覚でくんくんにおう。そして、聴覚で鳥のさえずりを聞く。目も開く。最後に皮膚感覚を開くのだが、このときはじめて自分の存在を知るという。机を触る。こんどは自分のひざをさわる。このとき、ひざはさわられている感覚がある。自分自身に触れるという2重感覚は机にはない。

まとめ

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異次元理論

私は机に触れる。私と世界は厚みのない二次元の境界面でわかれている。私と私ではないもの、つまり、存在と無という存在論的レベルである。水とあぶらは遊離して境界面は実体がない。周囲を認識する。ものには形があり、境界線、境界面が輪郭をつくる。においだって、におわないところと境界面があり、音も聞こえないところとの境界面がある。これら認識論的な境界面は先の主観と客観の存在論的境界面とつながっているのだ。厚みのない二次元境界面とは、じつは、ブラックホールの事象地平面だったのである。理論上、宇宙空間は無数の裸の特異点、つまり、事象地平面にかこまれていないブラックホールがあるはずだという。ところがこれだと、事象地平面の向こう側がむき出しになり、時間や空間、論理がでたらめな世界でみたされてしまう。これだとこまるからないんだよ、というのが検閲官仮説である。じつは事象地平面のあるブラックホールがいっぱいあるのではないのか。これが先程いった境界面だ。形、主客の境界面が事象地平面だったのである。あまりにも近くであり、自分のみているもの、自分と世界のあいだだったので気がつかないのである。

8-7


物自体と表象自体についてである。感じちゃうこと、別段、身をよじらせることもなく、なにかを感じること。もうひとつはあごに手をあてて、考えること。感じると考えるの宇宙的解釈について考えたい。

哲学者カントの物自体についてである。われわれはめがねのようなものをかけて世界を見ている。時間と空間のめがねでいつどこかをみる。さらにそれかりんごであるとカテゴリーで組み合わせて判断。押したからりんごがいたむ、という因果律も使う 。りんごの現象を認識しているのだ。現象は因果律に従う。ところが、りんごそれ自体、すなわち、物自体は認識出来ない。すると、認識では無理なので自由意志による実践にかえる。実践とは押されたから動いちゃう因果律に従わない。つまり、実践とは物自体だったのである。


次の話はボルツァーノの表象自体についてである。表象っていったら、ふつうにあたまに思い描くイメージだ。ボルツァーノはだれかを表象していないときも、表象自体としてあるという。しかも、現実にあるのではない。地球上の砂粒の数も、わからないが表象自体としてあるという。


まとめ

存在の科学

異次元理論


感じるとはなにか。以前話したが、外界にみえるやまちゃんは私のからだのなかの細胞が現れたもの。厳密には細胞より小さいひもかもしれない。目の前にある机も、はじめから自分のなかにあるものの現れ。じつは外の世界は自分のからだのなかが投影されたものであり、目は映写機であり、からだはフィルムだ。からだの内部が即、外界なのでこれが感じるということ。なにかが対象として外にあるのではなく、知覚ではない。つまり、主客っての未分化の状態であり、体内=外界なのだ。これに対して、思うというのは違う。前回はなしたように、、話したが、私と世界の厚みのない境界面。りんごの輪郭という境界面。これらはひとつの境界面でブラックホールの事象地平面だといった。この境界面をみることが思う、である。主客の境をみるとは他者と自分の境、関係をまなざすのだ。思う、という漢字。田の十字は境、境界なのだ。無も同じである。境界、枠組みを心するのである。二次元の境界面をみる方向は高さ方向であり、これで三次元イメージになる。




8-8


原創設とブリコラージュについてである。数学的、論理的なものがあって、この中の一部が採用されて物理宇宙の出来上がり、っていうのはしっくりこない。そうではなく、論理、数学のすべてが実在しちゃっているのではないのか。神様と数学というお話をしたい。

フッサールの原創設についてである。数学とか、幾何学は一番最初に創設したひとがいたはずだ。学校の創設者のようだ。たいてい、銅像になっている。この幾何学の創設者がだれなのかはわからないが、かれは必要最小限のルールをつくったのだ。そして、かれの手を離れ、追創設されて進歩してきたのだ

次の話はブリコラージュについてである。てやんでーの職人技のことである。つぼを製作する制作者。製作されるのは作品のつぼだ。ところが、作るプロセスもまた作品なのだ。もはやどこからどこでが作品で技なのかわからないのだ。


まとめ

存在の科学


異次元理論

数学や論理の一部が物理宇宙に適用されている。なぜそうなのか、根拠はわからない。あらゆる数学的に可能な宇宙は平行宇宙として実在しているとすれば、もはや、数学=物理になる。だれがいまの宇宙にしたかは神様である。数値が少しでも ちがっていたら、私はおろか人類はいなかった。神様は自由意志で数学の一部を適用され、それゆえ、ここで誕生した人類は神様ににているはずだ。数学的なものがそれ自体あるのではなく、計算者が必要である。宇宙製作の数学の計算者が神様かもしれない。製作プロセス自体が宇宙という作品になっているのだ。


8-10


フッサールの自然的態度とヴィトゲンシュタインの言語ゲームについてである。夜空を見上げると、広大な宇宙が広がる。煩わしい日常から逃れて宇宙に思い馳せる。ところが、身近な日常、八百屋のひとこまと宇宙の出来事は同じだったのである。


フッサールの自然的態度についてである。若かかりしころのフッサールの前期思想。それが判断停止である。すべてはどうも疑わしい。ほんとにこれがりんごなのか。すべてのものの判断をやめる。すると、判断停止できない残り物がある。それが判断停止を遂行中である名前もない、性別もない純粋な私だという。

後期の思想は一変する。現象学的態度がいまいったいうな判断停止ならば、科学のものの見方は自然主義的態度という。最初になにがあるかといえば、ふつうの日常的な見方。りんごは食い物である。ところがこれに理念という衣を着せると、分子、原子の集まりになる。測量のための数学、家がこわれないための力学。ところが現代の科学は逆立ちしてしまい、科学理論の上に日常があると思っているという。


次の話はヴィトゲンシュタインの言語ゲームについてである。前期の思想は写像理論だった。宇宙のあらゆるものの配置、出来事はこれに対応させて、文や命題にできるという。人工言語の研究だったのだ。ところが後期思想は大きく変わる。日常言語の研究だ。日本語の文法は誰かがつくったのではなく、生活の流れから生まれたという。これが言語ゲームである。あれ、これ、かれとか代名詞などが好例である。流れで意味がちがうのだ。それでは生活とはなんのためかというと、それはそこにある、という。つまり、無根拠だというのだ。



まとめ


存在の科学


異次元理論

宇宙は人間の日常生活となんらかわらないかもしれない。人間はいろんな場面でさまざまなルールに従う。ルールに従うと、はじめて意味がうまれる。言語では文法というルール。社会のルール。野球やっているときは野球のルール。さて、この宇宙もまた科学の法則、ルールに則っているのだ。基本的に日常があるだけなのだ。また、シミュレーション宇宙だと仮定したら、われわれがスーパーコンピュータのなかにマトリクスの世界をつくろうとするだろう。このとき、連続量は扱えない。ゼノンのパラドクスのように亀に追い付くまでうさぎは無限の点を通過しないといけない。これだとプログラムは容量オーバーだ。だから、近似値を使う。最小単位をつくればよい。これを離散性という。またはエラーがでないように計算可能関数をつかうという。さて、この宇宙はまさしく、最小単位であるひも、プランクスケールからなるのだ。だから、シミュレーションなのだ。そして、近似値を使っているからには長きにわたり実行しているエラーが発生し、フリーズする。この宇宙もまた時折、フリーズし、メンテナンスがなされている。ただし、われわれはそれに気がつかない。ただ、システムの故障だから、その前後は地球的規模の異変となってあらわれるのだ。


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 PC入力版

2014 2-4


   思考と存在、そして、カルナップの対応規則についてである。宇宙がドカーンと膨張したという。これはあまりにも大きなエネルギー。膨張したあとも、宇宙のなかで出会いと別れ、三角形が四角形と手をとりあったり、さまざまなドラマがあったのだが、ついにはドカーンと収縮する膨大なエネルギー、ブラックホールが生まれた。これら宇宙の一連の出来事はなんと人間の生まれてからの一生と同じだったのである。


   思考と存在についてである。その昔、古代ギリシャにおいてはパルメニデスである。あるものはずーっとむかしから永遠の身から意までありつづけ、無いものは最初から未来永劫無い。じつに、考えちゃうこと、思考とは存在そのものだという。近代にはいると、デカルトの我思うゆえに我あり。あらゆるものを疑っても、疑っている自分の存在は疑えない。思っているから自分がいるのだ。そして、現代ではハイデガーである。人間っていうのは100均にうっている置物ではない。あれらは存在者である。人間は存在に関わる存在だという。自分が自分から抜け出すのを脱自という。これによって自分の、そして、世界の存在そのものにふれる。自分自身のずれとは時間であり、これが意識。これによって、存在そのものがうっすらみえてくる。


   次の話はカルナップの対応規則についてである。目でじろじろみたり、手でなでなでする。ざらついてるとか、青いとか、これらは観察したものを言っているので、観察言語という。これ以外にも論理的なものや、数学の演算には観察できない理論的なものがいっぱいある。理論言語という。観察言語と理論言語をどうやってペアにして対応させるのか。これが対応規則である。


    まとめ


   存在の科学


    異次元理論


   宇宙はビッグバンにより点から膨張した。このときの物量は無限だ。物量が無限の特別な出来事を特異点という。宇宙膨張したあとに、無限のエネルギー、すなわち、無限の物理量で爆発的に収縮しているものがいる。ブラックホールであり、これまた特異点である。ビッグバンのゼロの点から有限の膨張過程を産むには、無限のエネルギーが必要。これはまるで、点粒子を回転させるのに、無限質量が与えられるのといっしょだ。


   これらを人間に移して考えてみる。おぎゃっと生まれる瞬間、おそらく無限の物理量であり、特異点なのだ。点に無限があたえられるとは、点が精子であり、無限が卵子だ。0かける無限である。すくすくと育ち、ついには自我に目覚める。これもまた無限の物理量である自覚、自意識である。これは宇宙においてはブラックホールに対応する。


   宇宙とひとりの人間はカルナップのいうような対応規則があるはずだ。まったく同じプロセスを歩むのである。



2014 2-8


   個の哲学と事象の一回性についてである。十人十色、いろんなひたちがいる。靴下だって、同じ柄だとしてもどこかがちがうと、片足立ちでしみじみと足をみつめちゃう。この世界、宇宙は同じものがないように産まれるというプロセスが働いているのだ。

  個の哲学についてである。すべては唯一無比のかけがえないもの。こういった思想はたとえば中世ではウィリアムオッカムの唯名論だ。石ころが転がっている。石ころっていう言い方でひとくくりにするが、石ころはどこにもない。ただの名前であって、あるのはこれとか、それなのだ。これに対して中世ではドゥンススコトゥスは、この石ころをこれたらしめている、このもの性っていう性質があるといった。


  現代ではやはりキルケゴールである。自分にはこれはできるけど、あれはできない。つまり、有限でちっぽけだが、これがらしさ、個性であり、このとき、無限者である神様の前に立つのだ。個性が真理であって、ヘーゲルなどがいう普遍的なものが真理ではないという。


   次の話は事象の一回性についてである。出来事っていうのは繰り返さない、すべては似ているとしても一回かぎりだという。反復不可能という思想だ。これに対し、ジルドゥルースは最初に違い、差異があって、反復することで同じ、同一性を目指そうとする。

  事象の一回性といったらホワイトヘッドである。唯一無比の出来事、これを現実存在、アクチュアルエンティティ。と名づける。略してAEである。これらが集まって宇宙になっているという。全宇宙がひとつのAEを引き起こし、ひとつのAEが全宇宙に影響を与えるという。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    ペンローズのタイル充填モデルという考えがある。いろんな図形を隙間なく充填させて無限の壁に貼り付けることができるかというもの。このとき、同じパターンが出現するとき、周期性あり、同じパターンの柄がでないのを非周期性。

  ここであくまで直感なのだが、空海の詩、いろはにをえど、以下略、というものがある。これは文字を一切だぶらせない、反復せずに詩にしたものだ。同じように、反復させないあらゆる図形を組み合わせると、無限平面にすべてが充填し、しかも、無限の円になるのではないかとおもうのである。

  すると、この世界もまた、魂だって、生命、物体だって、同じものがひとつもない。原子だって、素粒子、量子もみんなちがうのだ。だから、そこに生活がうまれる。生活空間は自分とちがうものたち、また他のものたちも互いに違う、という差異の世界だ。


  宇宙、世界はなにをしているのか。それは再現、反復をしないという唯一のルールに則って、無数の事象、事物を産出する運動をしているのではないか、と思われるのである。


2014 2-9


    人格の同一性と永劫回帰についてである。私は私、AさんはAさん。ここからぼくの陣地で、そっちがAさんの陣地。グーパーで陣地決めして、チョキを出す不貞のやからもいる。私と他者は器のようにしきられているのでなく、同じ広大な魂の海をたゆたうものでなはないだろうか。


    人格の同一性についてである。りんごはりんご以上でも以下でもない。りんごの実体である。ひとは実体でなく、主体だ。だから、自分自身であろうと活動しちゃう。人格の同一性、私が私であるためにである。

  ヒュームはすbての実体は思い込みだという。テーブルの上のりんご。トイレにいっているときも、きっとあるにちがいないと思い込む。さらに、昨日の私と今日の私も同じだと思い込んでいるという。

  人格同一性の身体説というものがある。同じからだだから、同じ自分だという。それでも、新陳代謝してるし、厳密には同じじゃない。ジョンロックは記憶説を主張。昨日の記憶があればそれで同じと認める。記憶がなければ免責だ。もうひとつ、記憶でも身体でもない魂が同じという説もある。


   次の話はニーチェの永劫回帰についてである。星を眺める。すると、それらの星の配置がいつか同じ配置になるのではないか。無限の時間と、有限のエネルギーだったらそうなるかもしれない。ニーチェは人生は生まれて死して、また生まれて同じ一生を永遠に繰り返すという。寸分たがわず同じ一生だ。だから、すべてどんなにいや事でも全面肯定、運命だという。一見、反対のようにきこえるが、この運命を受け入れるのが大いなる自由だという。カントのいうような信仰の自由ではないという。


   まとめ


   存在の科学


    異次元理論


    三次元空間に時間軸を付け加えると四次元ミンコフスキー空間。これが五次元に漂う。しかも、この四次元世界はメビウスの帯になっている。二回転してもとにもどるのだが、これだと永劫回帰だ。そうではなく、隣の別の四次元ミンコフスキー空間とメビウス宇宙同士がからみあう。すべての確率的な状態がかさなって、総計すると1になるというシュレディンガー波動方程式、ユニタリーのUという。ここに意識による収束があり、これがリダクションのR。UとRは同じものではないのか。だから、すべての確率的な四次元宇宙、メビウス宇宙は絡み合う。ひとつのメビウス宇宙の表面に小さなメビウスがフラクタルのようにたくさんある。これがメビウス意識。メビウス宇宙同様に、これらのメビウス意識も互いに絡み合う。

  私とあなた、Aさんという器があって、そこにお湯、つまり、魂があるのではない。大いなる魂の海があって、仕切りがないのだ。これは三次元でいえばわかりやすくなる。ビリヤードの1番ボールが二番ボールにあたって力学的に伝達して、二番ボールははじかれる。ボールは肉体で、力学的な伝達、力が魂に相当するのだ。


  私という人格の同一性は記憶や肉体によるもので、ほんとうは昨日は亀でおとといはきりんをやっていたのである。記憶にないだけである。すべての意識、魂はユニタリの1であり、大いなる魂の海をたゆたう。


2014 2-10


   ゲシュタルトと反事実的条件法についてである。私が私であるためにがんばってしまう。ふつうにせんべい食いながら壁をよじのぼっているような日常動作でも、私は私であるはずだ。じつはあたしが私であるために意識は全宇宙にあまねく浸透しているのではないのか。


   ゲシュタルト理論についてである。足元をみて、視線を少しずつ上に移動し、おなか、胸、そして、ついには顔面を見つめる。すべては部分、パーツが集まって出来ているというものの見方。ヴント要素主義という。また、モザイクのようなものだからモザイクテーゼという。

  ゲシュタルト理論は部分が集まって全体というか、部分は直接的に全体と結びついているという見方である。全体とは部分をあつめた以上のものがある。メロディっていうのもただの単音の集まりではないという。全体のなかから輪郭が浮かび上がるのである。


   次の話は反事実的条件法についてである。因果律というものがある。おもちゃをやまちゃんが踏んだのが原因で壊れたのは結果。ところが、ひとつの原因にひとつの結果でなく、無数の原因が無数の結果をうむのだ。だから、ある種のルール、規則に従わないと原因と結果の因果律が出てこないというのが因果規則性説である。手を洗わなかったので素手でめしをくったらおなかいたくなった、というのは医学という規則、ルールのもとで因果律が見えてくる。


  科学というのは因果律を重視。そして、観察しないと法則化できない。ところが、因果律は顕微鏡で見えない。だから、因果律もどきを使おうと考える。これが反事実的条件法である。事実と反した事をいうのだ。もし、やまちゃんが踏まなかったら、おもちゃは壊れていなかった、といえばよい。ただし、このとき、やまちゃんの体重、どんなおもちゃだったか、大気中の湿気、惑星による引力の影響など、無数の条件を記述しないといけないので、実質、反事実的条件法は厳しいと見られている。



   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    意識というのははるか遠くまで世界に浸透している。まずは、物理の仮想実験であるが、ハーフミラー実験についてである。

  光子一粒当たると爆発してしまう爆弾がある。ハーフミラーに光子を当てると、半分は透過し、半分は反射する。このような実験機器でもしも爆弾に光があたったら実験機器もろとも吹き飛んでしまう。そして、最終的には右向きの光子がでたか、上向きの光子がでたかを判定する検知器が置かれる。

  もしも、爆弾を不発弾にしたらどうか。このとき、検知器はなんと本物の爆弾を使った時と同じような確率を検知するのだ。事実と反したひょっとしたらの世界から光子がやってくるのである。

  もうひとつはペンローズタイルについて。いろんな図形のタイルを組み合わせて周期的に柄があらわれる模様をつくる。このとき、タイルのひとつひとつをジグソーパズルのように組み合わせてはできないという。いまだ貼り付けていない遠くのタイル、いつか貼り付けるだろうタイルを考慮しないと隣のタイルを充填できないというのだ。大局的に時空を越えて全体に眺めないと模様ができないのだ。

  さらに、音楽CDの例がある。CDに傷をつけると音が飛んでしまう。それでも部分的な音が飛んでも全体としてのメロディが完全に壊れない。


  これらの話にあるように、ゲシュタルト的に全体にしみわたっているのが意識なのだ。とりわけ、事実座っている私ではなく、ひょっとしたら立っていた、歩いていた、という反事実的な世界にまで意識が及んで、ひるがえって事実的にここにいる私にもどることで、人格の同一性として、私が私自身として固めることができるのである。

  
2014 2-11


 
    存在と無、そして、文脈原理についてである。シュレディンガーの猫は箱のなかでなにをしているのか。すべてをやっているのだ。毛づくろいしながらジャンプしている。ずいぶんとまあ器用なのだが、これがその猫ちゃんにとっての自由意志だったのだ。箱をあけると猫ちゃんはなにかひとつの状態だ。これが猫ちゃんのからだになる。


   哲学者サルトル、存在と無、についてである。存在のタイプを三つにわける。まず、私自身をみつめる。意識している自分と意識されている自分がちがう。そのあいだに無を分泌しちゃったのだ。男性ホルモン分泌とはわけがちがう。自分に対面する存在だから対自存在。きゅうりは自分とずれてない。自分と一致していて安定している。これを即自存在。そして、対自存在は自分と一致していないからなんだか固定されてなくて不安でしょうがない。そこで即自存在になりて〜っと思う。対自かつ即自とは、神様なので、ひとが神様になろうとして挫折するという。どこからものかげから自分がひとりで盆踊りの練習しているところをのぞかれる。他者によって盆踊り小僧というあだ名をつけられ、固定される。これが対他存在だ。こうやって対自が他人にもののように即自にされそうになるのがマゾである。


   次の話は文脈原理である。ヴィトゲンシュタインは言葉、単語の意味っていうのは、単語に内蔵されていないという。前後の脈絡、文脈から意味がでてくるというのだ。文脈とは、生活の流れであり、たとえば、ばかっという単語も前後の関係で愛情たっぷりのばかなのか、相手を愚弄するばかなどにかわるのである。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


   シュレディンガーの猫。箱のなかの猫はあらゆる状態が重なっている、いわゆるシュレディンガーのはどう方程式、ユニタリである。ところが、箱をあけるとそれを意識したものによってひとつの状態に収束し、粒子化しちゃう。けづくろいしている猫になったりする。

  さて、猫本人はどうなのか。自分が自分自身を収束できるのか。かって、デリダがいうように、自己意識、自己現前っていうのは無理だといった。ちょっと前の自分と会うのである。厳密な対自存在はない。だから、猫は自分を収束できないので、あらゆる確率がかさなったもの。これは以前はなしたが自由意志そのものだ。ところが、箱をあけてそとからみたものは、ひとつの状態に収束して物質化する。ここに本来は一なる波動だったものが精神、意識と肉体に二分化してしまうプロセスがあるのだ。


   この意識と肉体とはまったく正反対のものがこの世界にはある。これが言語なのだ。単語っていうのは肉、物体。これに文脈、流れっていうのがあってはじめて意味がうまれるのだ。波動が粒子化するのでなく、粒子に流れ、波動があわさって、単語の意味がうまれる。言語活動は魂と肉との関係の真逆の過程であった。




2014 2-14


    信仰哲学と機会原因説についてである。信じるものは救われると、よく耳にする。信じてます、脚立の脚をしっかりつかんでいてください、と声が聞こえる。まずなによりも、信じる、という営みはどういうものだろうか。実に、信じることと宇宙論というお話をしたい。

   ヤコービの信仰哲学についてである。信じるといっても神様だけなく、なんと日常生活のなかに信仰があるという。まな板があるのだが、まな板があると信じている。ただし、ヒューム哲学の思い込みとは違い、かなりの確信がついている。また、スピノザは神様=宇宙だとした。いわゆる汎神論である。これはあきらかに人格神をみとめてないからスピノザは無神論者だと批判した。さらに、カント哲学と対比するとおもしろい。カントはまず、感覚や感情からはじめる。赤い、丸い、甘い、という感覚をこんどは悟性によって論理的に理屈でまとめあげ、それがりんごだと判断。さらに、まだ目ではみていないが、この世界にはたくさんのりんごがあるし、宇宙だってひろがっているし、神様もいるだろう、と推理する。感覚にたよらないで思考するのだが、これが理性だ。感覚と理性のあいだに悟性があるのだ。ところが、ヤコービは悟性を取っ払って、ここに信仰をいれる。感覚的に感じたことを信仰によって神様と直結するのだ。


   次の話はマールブランシュの機会原因説についてである。強い意志でうりゃっていう気合で豆腐を壊す。意志が神様に伝わり、神様が豆腐にアクションを起こす。ボールが転がり、ピンを倒す。ボールがピンにぶつかったよ、と神様に伝わり、神様が仲介して、ピンを倒してくれるという発想である。


   まとめ


  存在の科学

   
    異次元理論


      信じるというのはどういうことか。信じることなしにただの事実だけでないとどうしてか。信じる、ということは宇宙論的な重要なことをしているのかもしれない。宇宙は無数の状態が重なった波動状態である。もちろん、複数の並行世界が重なり、そのなかにはわれわれの知っている物理法則が通用しない世界もある。ところが、この物理法則の世界を自分自身が信仰によって選択していたのだ。ある種のルールがあり、それを信じて受け入れることでその規則性は当たり前になる。スーパーのレジで金を支払って商品購入。これは経済の規則性を当たり前のように信じ、受け入れているのだ。ボールがぶつかって、ピンがたおれるのも、おなじように当たり前であり、規則性の信仰である。


   ボーアのコペンハーゲン学派は波動を収束して、粒子にしちゃうというリダクション。エヴェレットの多世界解釈は生きている猫をみて喜んでいるAさんと死んでいる猫をみて悲しんでいるAさんに世界はわかれるという。観測者自身が別の世界にわかれる、別の世界とかけもちしないので収束はない。ところが、この二つの中間なのではないのか。だから、そこに信仰、信じる、ということが入る余地があるのだ。

   

2014 2-15


     中心と周辺、そして、フリンジについてである。信号待ちをしているサラリーマン。スーパーでわれ先と半額商品に群がる主婦。いつもの風景、いつもの出来事。あるじはからだを傾けて無表情でおならし、その無表情さはターミネーターに匹敵する。だれも信じてやまない世界。この世界、宇宙丸ごとがいままさに非日常のブラックホールに吸い込まれ中であるというお話をしたい。


   中心と周辺についてである。じーっと商品のモンキーバナナをいつめ、ひとりつぶやく。おれの勝ちと。バナナをみていると、その周辺にはうっすらはっさく、いよかん、などの柑橘系がみえる。中心と周辺であるが、これはがっちり固定されているものでなく、ダイナミックに動き出す。こんどは夏みかんをみつめ、これが中心になる。さきほどのモンキーバナナは脇役へと後退し、周辺になる。中心が周辺、周辺が中心になる。中心はそのなかに周辺を含む。これを象徴的逆転という。


  ピアジェの脱中心化という思想。こどもは、ふつうのグラスに入れた水、同じ量をいれた細長いグラス、このふたつのかさしかみていない。だから、細長いほうがいっぱい水がはいっていると考える。中心がかさなのだ。この中心から抜け出す、脱中心化によって、このふたつは同じだと気がつく。自分を中心に考えるのでなく、他人の気持ちにスライドし、中心を変える。これが成長だという。


   次の話はジェームスのフリンジについてである。意識には厚みがあるという。フリンジというのはオーラということ。中心ははっきりしているが、周辺はモヤっとしている。中心だけをみているのではない。空間だけでなく、時間的にも同じ。今この瞬間が中心だとしても、ちょっと前の過去、今後なにをしようかと予測しながら行動するので、ちょっと先の未来まで意識は及んでいるのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    ブラックホールに吸い込まれ中の宇宙船の乗組員。からだが引きちぎられることもないという。エレベーターがそのまま自由落下するように、宙に浮いている状態。ただし、潮汐力は働く。何事も起きずに、事象地平面を通過してしまう。これを第三者がみると、船員たちの動きが遅くなり、ついには、事象地平面で止まってしまうように見える。観測者の状態、慣性系によって見え方がちがうという相対論。

  われわれのふつうの日常、この宇宙すべてがいままさにブラックホールに吸い込まれ中なのではないか。日常は非日常。非特異点は特異点。そして、宇宙に間接的に観測できるブラックホールは別の並行宇宙なのだ。よく、ブラックホールは別宇宙につながるトンネルというがじつにブラックホールそのものが別並行宇宙ではないか。銀河系の中心にブラックホールがあり、これがじつは周辺であった、宇宙全体そのもの。これは中心と周辺のダイナミズムと同じなのだ。


  生きている猫を見て喜んでいるAさんと死んでいる猫を見ているAさんの世界に分かれる。だから、波動の収束はないというエヴェレット多世界解釈。箱を開けたとき、それを意識することでいろんな状態が重なっている波動状態をひとつに収束するというボーアのコペンハーゲン解釈。どっちが正しいかではなく、半分はコペンハーゲンの収束、リダクションであり、半分はエヴェレットの多世界なのではないか。いってみしまえば、これは中心性の収束と、周辺の多世界であって、このふたつはダイナミックに交互転換している。












posted by モノイイ ジョーカー at 12:03| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月02日

仙人新聞 2014 2-2 スマホ版 大量投稿

仙人新聞 2014 2-2 スマホ版 大量投稿



6-21


コーヘン哲学とヤスパース哲学についてである。ドカーンと爆発して膨張。ポップコーンしかり、宇宙もまた膨張していると小耳にはさんだ。ほんとうはドカーンと爆発的に収縮しているのではないか。みんながどんどん小さくなっているから気がつかないのである。

コーヘンの哲学についてである。新カント学派である。カントはまず感覚からはじめた。外からは色、形 、匂いなどの感覚、これを外官という。そして、内側からは感情や時間の感覚、これが内官である。これらの情報をあたまのなかでこねあわせて判断する。ところが、コーヘンはちがう。なんと、感覚ですら、あたまのなかにあるというのだ。ここで数学の微分法をつかう。亀を追いかけるウサギ。あと1メートル。あと50センチ、そして、ついにはあと25センチ。こうやって無限の中間点を通過。根源の原理というのがある。AはA以外のものに根拠づけられちゃう、というもの。思考しているっていうことは思考してないもの、非思考に向かう。このとき、微分的に無限の情報をゲットして、これが感覚なのだという。


次の話はヤスパースの哲学についてである。世界に対して態度をとるという。ハイデガーはたとえば、じゃがいもは存在してるけど、人間は現存在しているという。現存在とは存在にかかわってる存在。自分が存在しているなーっと存在感がある。ところが、ヤスパースはじゃがいももまた現存在だというだろう。だからふつうの生活において、日常的世界定位というが、これだとじゃがいもと同レベルでいる。科学的世界定位というのは具体的な状況のなかの自分じゃなくて、だれでもない意識一般になって冷静に科学的に世界をみること。精神が世界を理念としてみると、理念的世界定位。そして、ついには人間特有の哲学的世界定位だ。八方塞がり、絶望のふちのとき、自分はちっぽけになる。ついには自分のうちへと自分にかかわりすぎて自分に穴をあけちゃう。穴のむこうに超越者をみるという。


まとめ

存在の科学


異次元理論

宇宙はビッグバン以降、膨張しているという。そうではなく、じつは爆発的な収縮、爆縮しているのかもしれない。

状態ベクトルというものがある。ベクトルといったら、力のベクトルであり、平行四辺形をつくって分力がもとまる。矢印の方向は力の向き。腕の長さが大きさ。この分力はもとのベクトルよりも腕が短いのは当然だ。


あらゆる事象も状態ベクトルである。箱のなかの猫という状態ベクトルは生きていると死んでいるという状態ベクトルにわかれる。亀になっているという状態ベクトルは安定しないのででてこない。z軸まわりのスピンが右か左まわりか、という状態ベクトル。x軸まわりは観測装置で観測できないから却下、これとおなじだ。

分力、分解された状態ベクトルはもとのベクトルよりも小さい。だから、箱をあけてなにかを意識し、クオリアがうまれるたびに我々小さくなっているのだ。爆縮である。ただ、みんなが小さくなっているから気がつかない。相対的に宇宙が膨張してみえるのだ。膨張の力はダークエネルギーによるというが、爆縮のエネルギー、つまり、ダークエネルギーはクオリアエネルギーなのだ。


自分を小さくさせることでプランクスケールのひものなかに巻き上げている余剰次元に入り込み、高次元から低次元、未来から過去へという意識がうまれる。自分のなかに入り込み、小さくなるのはまるで微分法的なコーヘンの感覚のようだ。また、ヤスパースの実存もまた、ひものなかの10の50乗の高次元の巻き上げられかた、つまり、世界、宇宙とのふれあいのようにも解釈できる。


6-24


判断停止と永劫回帰についてである。我々が住んでいるこの宇宙は一体何なのだろうか。首をかしげて考える。首をかしげて、耳くそがとれる。また、そんな宇宙に住んでいる我々生命。生命がいるから宇宙は並行世界に分かれ、しかも、意識が高次元からやってくるから確率というものが存在しているのかもしれない。

フッサールの判断停止についてである。そこに靴下がある。異臭漂わせ、なんだか存在が不気味だ。靴下がある、と定立するのだ。ほんとに靴下なのか。疑わしい存在として定立。存在定立をやめてみる。すると、存在するとしないとか関係がなくなる。判断をやめて、決めつけもやめる。すべてが中立的になってくる。中立性変様という。なんだか靴下を靴下たらしめている本質がみえる。ついにはすべての判断を停止したつもりでも、最後に残存物があった。名前も、性別もない純粋な私、純粋自我が残るという。


次の話はニーチェの永劫回帰についてである。現代はニヒリズムの時代だという。ニヒルとは無ということだ。私と山ちゃんは食べ物の好き嫌いがちがう。善悪の判断だってちがう。同じ光景をみても、ちがう目でいてるし、あたまだってちがう。共有するものはないのだ。だから、無から価値を創造するのだという。そして、この宇宙は同じことの繰返しだという。人間の一生も、無限回同じことの繰返しであり、だからこそ、犬もふんをふんでもそれが運命だとおもって全面肯定だという。


まとめ

存在の科学


異次元理論


世界、宇宙とはなにか。ブラックホールは蓄積される情報量は体積でなく、表面積で決まる。厚みのない二次元情報が三次元物体というホログラムを生成するのだ。さて、これは高次元、5・6・7・8次元が低次元の二次元を介して三次元となってあらわれたものだ。つまり、一方的に高次元の投影物ではないのだ。中立化されているのだ。また、高次元から低次元への流れは意識のことであり、意識は四次元時間、無限時間を越えている。

さて、確率において、頻度解釈というものがある。サイコロの1の目がでる確率は六分の一である。ところが六回ふったところで必ず一回でるとはかぎらない。並行世界、多世界解釈では確率的に世界は分かれるから、確率は実在的なはずだ。かならず六分の一ででるためには同じ条件でサイコロを無限回ふらないといけない。永劫回帰なのだ。意識は時間を超えているので、すべての事柄は無限回目なのだ。並行世界があるためには、三次元物体が存在するためにも、かならず、意識体がおあかわらないといけない。


6-25


世界開在性、そして、同一性は必然性 、についてである。3LDK、かなり広い間取りであり、なんとトイレは水洗である。そもそも、空間的に広い、狭いというが 、空間とは何でできているのだろうか。空間の構造について考えたい。


シェーラーの世界開在性についてである。ユクスキュルの環境内存在という考えがある。みんなが人間が考えている物理世界にいるのではないという。カブトムシはカブトムシという種の環境世界にいるというのだ。同じようにシェーラーもまた動物っていうのは環境に縛られているという。これを環境繋縛性という。ところが人間は周囲の環境にいるだけでなく、全宇宙、世界にパーっと開いているという。おっぴろげであるが、人間は世界を持つというのだ。これが世界開在性である。


次の話は九鬼周三のいう同一性は必然性についてである。
りんごはりんごだ。りんごってほんとにりんごなのか、とはいわない。つまり、同一性というのはじつは必然性なのだという。りんごはりんごであるべきなのだ。それでは非同一性どうか。偶然だという。この偶然性に着目したのだ。

まとめ

存在の科学

異次元理論


ボームの仮想実験。円筒の入れ物にグリセリンをいれて 右回りに混ぜる。ここにインクを一滴たらす。すると、線となってついには混ざって消えてしまう。こんどは逆の左回りで混ぜる。すると、線があらわれ、ついには点になって消える。つまり、すべてのものは過去を記憶し、未来も内蔵しているという。これを内蔵秩序という。

時空の一点、空間を構成するものはなにか。時空点は自分とただただ一致している同一性。時空点は過去未来のすべてを内蔵している必然性であり、決定論的なもの。ただし、時空点どうしは孤立しているが奇跡的、偶然的にわずかな確率だがむすばれる。量子トンネル効果である。ここに必然と偶然があり、これがあいまって現実の空間がうまれる。

6-27

素朴実在論と反実在論についてである。みるみるはただかもしれないが、さわったら
NGっていうことがある。歩いていると、なぜだか眼前にズッキーニが立ちはだかった。ズッキーニがあるから、それを見ちゃったのである。それとも、みちゃったからズッキーニはそこにあるのか。認識と存在について宇宙的規模でヘラヘラしながら思索したい。


素朴実在論についてである。実在論といったら、デカルトが考えるに、自分のそとに空間的にものがあるのは明白だということ。すべてはそう感じているだけ、観念的だ、というバークリ観念論は実在論ではないという。ズッキーニがあったとき、それが実際に小さすぎて観察できなくても、原子でできていると考えるのが科学的な唯物論。素朴実在論というのがあるが、これは科学的唯物論でなく、見えたままその通りに実在しているんだよ、という常識的な思想である。


次の話はダメットの反実在論についてである。還元主義というものがある。すべてを無理くりにひとつのものに還元しちゃうのである。すべてはただの物体だといったり、すべては意識が感じている観念的なものだといったりする。還元主義のなかに、まず、心なんか実在しなくて、すべてが観察できちゃう物質の運動だという行動主義がある。いわゆる、パブロフの犬。うまそうな飯をみると、よだれがでる。行動主義者ワトソンは心はからだの反応、行動となってあらわれるので、観察可能だという。この反対が現象主義。心は実在し、物体なんてあるとは断定しない。りんごのことを、赤くて、丸くて、甘いという感覚情報の集まりだという。だから、ダメットは考える。心も体、物体もどっちも実在しているという全面的実在論だ。ところが全面的実在論は矛盾しちゃうという。よって、心も体、物体も実在しないという全面的反実在論を提唱する。

まとめ

存在の科学


異次元理論


マルダセナは五次元空間のなかにある三次元のブレーン、これは厳密には膜ではないが、このブレーン上を移動するひも、端部が三次元ブレーンにくっついているので水すましのように
移動する。これがわれわれのまわりのあらゆる物体になる。そのなかでもとりわけ光子である。マルダセナは端部のないひもは三次元に拘束されずに五次元中を自由に移動するという。これがものの重力をうんでいる重力子である。


さて、マルダセナは二次元の事象地平の平面物理は三次元に投影されるという。同じく三次元ブレーンに包まれた五次元空間。三次元ブレーン上の光子のふるまいはそのまま内部の重力子のふるまいと同じだという。だから、光子=重力子なのだ。


ここから次のことがわかる。重力子は物体を存在させる。また、物体があれば重力がある。重力子は存在論的なものだ。これに対して、光子は眼球であれば、網膜刺激し、フーリエ変換されて神経電気パルス、つまり、光の情報になる。嗅覚だって、フーリエ変換によって電気パルス、光の情報。耳も同じだ。だから、光は認識論的なもの。光のメタファーである。そして、そんな認識の光が存在の重力子だったのだから、まさしく、見たままものは実在する素朴実在論になるのだ。




6-28


純粋経験と絶対他性についてである。心頭滅却といいながら鼻息荒くしつつフライドチキンをむさぼり食っているひとはあまりいない。どちらかというと、瞑想状態であり、目を閉じてじーっとしている。瞑想と宇宙構造について考えてみたい。

純粋経験についてである。ジェームスのいう純粋経験は、たとえば、ネギをみつめているとき、悲しくて涙がでてくるかもしれないが、私と世界のなかにあるネギと考えている。主観と客観にはっきり明白に分かれている。さらにネギがあって、壁の向こうにはきっといつもの公園があると想像。さらにはネギで目がしみないように薄目になる。こうやって主観客観、想像や記憶によっておもいっきり加工、調理されたものを経験している。ほんとうはただ、これとかあれというもの。これこそ、加工されていない純粋な経験だという。哲学者西田幾太郎はこれを行為的直観といい、動いている、行為していることと、見る、直観は同時と考え、行為と直観の間に、私っていうかたまりを想定しなかったのである。

次の話はレヴィナスの絶対他性についてである。私とあなた、かれら、つまり、他者っていうのは簡単に入れ替わらな
い。絶対的にちがうという。これを自分と他者の非対称性という。とりわけ、ここにはいない不在のもの。無人称のイリヤといい、圧倒的な圧迫感を感じちゃうので、必殺技、位相転換を試みちゃうのだ。山が谷、谷が山になってしまう。これによって、自分のなかに他者を見つけるのだ。


7-5


自己と他者、そして、差延についてである。素早い反復横跳びをして、二人に見せかければ、多勢に無勢なので不良たちから逃れられるかもしれない。自分が動いたときの残像は消える。もしも、消えないでどんどん増殖したら世の中はどうなるのか。まさしく、いまあるようになるだけなのだ。

自己と他者についてである。他人の気持ちになったり、気をつかって、小皿をだしたりできるのだろうか。まず、相手が自分と同じ人間だと知る。哲学者フッサールはなんだかそっくりなので、自己移入するという。これを類比化的統覚という。また、フッサールは対化的連合という考えも提唱。人間はいろんな限界、地平に囲まれちゃっている。思考の限界、考えることの果て、これが思考地平である。みえるものも限界があり、みえそうでみえない。これらの地平線に最初から他人の目が内蔵されているのだ。ひとりでいても、おのが金たまがきゃっかんてきに実在している感じがするが、客観性は他者の目によって目撃者のかずによってうまれる。だから、地平線のなかの他者がこれをみているのだ。

メルロポンティは最初はすべてのものは同じ肉でつながり、後に溝ができて、私と他者にわかれるというのだ。また、レヴィナスは自分と他人は絶対的にちがうという。

つぎの話はデリダの差延についてである。現前の形而上学というのがある。目の前にスイカがどかーんと現前である。スイカはスイカっていう同一性がある。私は目の前に私を現前。自己現前という。いまっていう瞬間すら目の前におく。ほんとうは私だっといったとき、もはやそれは私の残像、痕跡。いまっといったら、もはや、いまの足跡。あるものがあるんだよ、よいう同一性が先じゃなくて、まずは違い、差異がどんどんうまれるのだ。これを差延のシステムという。


まとめ

存在の科学

異次元理論


私はいろんな動きをする。なぜ、一秒前の自分の残像は消えるのか。ひょっとしたら、右手でなく、左手をあげていたかもしれない。これらの選択されなかった自分もいない。時間的にはもっとも短いプランクスケール単位で残像が残りどんどん増殖しているのかもしれない。これが万物になっているのだ。そして、これは虚数時間においてなされている真実の事象かもしれない。虚数時間はプラスマイナスがないので、このじかんは意識における想像。過去も未来も、時空をこえて移動できる。虚数時間でだけ、トンネル効果があり、離れた時空がつながるのだ。意識はこの虚数時間にいるが、実時間、すなわち、実数時間にいるとおもっている。ここでは時間が一方通行で、因果律もある。ここでは自分の残像、並行世界の増殖にはみえずに、ただ、非我の多様性が因果律にしたがっているようにしかみえないのだ。

そして、虚数時間では自我と非我の区別すらない。




7-6


独我論と存在了解についてである。満員御礼の孤島でひとりでサバイバルをする。もちろん、骨の抜いてある魚は売っていない。孤独なとき、おのれと世界の強い存在感を感じる。なんだがいるなあ、なんだか世界があるなあっと感じるがこの感じている担い手は人類どころか万物の源である量子であるというお話をしたい。

独我論についてである。天上天下唯我独尊とよく魚屋のおじさんが叫んでいる。世の中には自分しかいないという思想だ。目の前のバナナの皮を知覚しているが、この世界には私しか存在しないから、そのバナナの皮は存在しないかもしれないといって踏みつけて転ぶ。存在論的な独我論である。自分以外は不可知か、疑わしいとみなしちゃう。もっとソフトな独我論もある。少なくともバナナの皮は見えるし、知覚しているからあるかもしれない。ただ、他人の心は見えない、知覚できないのであやしいというのだ。ヴィトゲンシュタインは他人がみているようにわたしはみれないし、わたしのみているように他人はみていない、つまり、ひとの目はかりれないから独我論者はなにも話せなくなると。

次の話は存在了解についてである。

7-8


弁証法と対自存在についてである。夜、いびきをかいているがロマンチックな夢をみている。また、真っ昼間 、単調作業に精をだしているとき、うとうとして夢をみる。白日夢万歳である。夢と生命と量子の宇宙の関係を考えてみたい。

弁証法についてである。その昔、ソクラテスの弁証術というものがあった。互いに対話をして、互いに相手のなかから良いものを取りだし、たかめあうことだ。近代にタイムスリップしてみると、カントの超越論的弁証論である。人間の認識の仕方を云々論じているのが超越論的分析論である。感覚があり 、これをあたまのなかで整理する。ところが、感覚つかわないで、推理だけで魂が不死かいなか、宇宙には自由があるか、必然か、そして、神様はいるかいないか、理性で考えてしまうのだ。これがどうかんがえても、矛盾する結論のどっちが正しいかわからないので、弁証論というのだ。

後にドイツ観念論になって、対立矛盾するものをテーゼとアンチテーゼとよび、これ融合合体というアウフヘーベンしちゃって、世の中、宇宙の原理という思想になった。


次の話はサルトルの対自存在についてである。対自存在とは意識のことである。自分に対面する存在。おれだっといっても、すでにいまのおれではない。あるところのもこでなく、ないところのものである。これが対自である。あるところのものである、というのはいわゆる物体であり、即自存在といわれる。


まとめ

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異次元理論


夢とはなにか。おそらく、意識が萎縮したものである。だから、周囲のものがおおざっぱになり、具体性をかけ、まんがっぽくなる。また、ミクロの世界はデコヒーレンスでなく、コヒーレンスしまくっているので、夢には一貫性がなく、不条理である。さて、すべては状態ベクトルである。ありさんはスタートし、A地点を経由してゴール、B地点を経由してゴールのふたつの状態ベクトルに分解できる。そして、このベクトルにはなんと半分はA、半分はBという不思議なベクトルもある。これが矛盾であり、対自存在の意識なのだ。つまり、観測者の意識である。スピンでいえば、x軸右回りであると同時に左回りということだ。もし、睡眠時に意識が萎縮して、しかも、コヒーレンスがつよい。夢は受動的であり、自分の意識の自発性はハーフの状態ベクトルとして自分のまえに現れる。これが不条理性であり、自分の意識をみているのだ。等身大の覚醒ではハーフの状態ベクトルは自分の自発的な意識、主体性になっているのだ。意識の肥大はもしかしたら、死滅のことかもしれない。




7-9


様相とニーチェ哲学についてである。生命、意識とはなにか。もしかしたら、意識の誕生とは奇跡的なのかもしれない。奇跡といっても、じゃんけんで三回連続であいこ、さすがにスピリチュアルな雰囲気が漂ってくるが、もっとレアな奇跡の連続なのである。


様相についてである。様相っていうのはいわゆる仕方である。歩き方ががに股や内股、カニ歩きのひともいる。歩き方の様相である。認識論的様相論といえば、カントである。洋梨を眺めているとき、それはひょっとしたら洋梨かもしれない、という可能性か、ちゃんと感覚をつかい、しかも、原因と結果の因果律をつかうと、まったくもってそれは洋梨だ、という現実性になる。そして、それは洋梨であってしかるべき、という必然性もある。可能性と現実性をくっつけると第三番目の必然になる。また、ヘーゲルは存在論的様相論を主張。偶然性、現実性、必然性、これを存在の仕方だというのだ。


次の話はニーチェ哲学についてである。やはり、永劫回帰思想である。宇宙っていうのは有限エネルギーで時間は無限だとする。そうなると、宇宙はいつしか、砂粒一粒くるわず同じ配列になるかもしれない。つまり、まったく同じ人生の繰返しである。だから、いいこと、嫌なことがあっても、すべて運命として全面肯定するのだという。


まとめ

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異次元理論


生命や意識というのは奇跡なのかもしれない。あらゆるものはある種の状態ベクトルである。パチンコ玉がAを経由してゴール、またはBを経由してゴール。そして、時間が無限ならば、確率が超低いことも絶対におこる。状態ベクトルのなかにAとB、同時に通過という奇跡もあるのだ。これが意識であり、観測者の関数である。つまり、状態ベクトルのなかのレアな成分なのである。また、意識は虚数時間にあり、いわゆる、離れた時空どうしが奇跡的につながるトンネル効果でもある。あたまのなかで思い出したり、予期することはこの時空の超越なのだ。いずれにしても、無限時間ゆえにおこる奇跡であり、当人はこれを奇跡と感じない。これこそ、イエスの復活の奇跡が生命そのもののシステムをあらわしていることを意味しているのである。






7-10


自由と法則についてである。歴史といったら、日本史もいいくにつくろうなんたら幕府。世界史でいえばビザンチン帝国が攻めてくる、とか、さらには生物の世界ではサルから人間はボーナス点のチェリーをくってレベルアップ。これらは目にみえる歴史であり、時空、物質がうまれるまえには論理、情報の歴史はあったのではないか、というお話である。


自由についてである。カント哲学では自由っていうのが道徳的な善をするための必要十分条件である。だれかに命じれて善いことをするのではない。押されて、手助けではない。因果律のない、原因がないという自由意志が道徳の前提になるのだ。現代ではベルクソンの自由論である。自由論ではなく、決定論というものがある。生まれてから死ぬまで、すべておこることは機械のように決まっているというのだ。これはまるで過去と未来へタイムマシンにのってすべてを見てきたようなくちっぷりである。この反対は偶然論者である。もしかしたらおならしなかったもしれない、という。ひょっとしての並行宇宙にまでいってきたかのようなくちっぷりである。そして、自由となにか。自由とは何か、と問いを発したとき、自由意志でこれをした。つまり、自由とは問いではなく、事実だというのだ。


次の話は法則についてである。法則といっても、いろんなものがある。法律は比較的にやぶられてしまう。道徳法則もときにシルバーシートに座ってっしまい守らないときもある。物理の法則はかなり強い。空中浮游はむずかしい。そして、数学の法則を違反して一個のりんごに一個つけたしたら三個になることはまずない。そして、一番強力な法則が論理法則である。

まとめ

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異次元理論


日本史や世界史、さらには人類史、生物の歴史はダーウィン進化論、宇宙の歴史もある。これらは目にみえる物体、肉体の歴史である。シュタイナーは魂の歴史について語った。魂と肉体、物体の歴史がはじまる前、まだ、時空もできていない昔。時間がないならば歴史とはいえないというかもしれない。ところが五次元にとって六次元は時間のような役を担う。ここは目にはみえないロゴス、論理、情報の歴史がある。かって、カントがいったように、論理的なカテゴリーと同時に意志、統覚というものがセットだった。数式や論理式がそこに自体的にあるのではなく、そこには同時に自由意志をもった計算者がいるのだ。最初に論理を自由につくりかえるものがいて、ついに時空をうみ、物質もうみだし、魂、魂をもった生命までうみだしたのだ。



7-11

ブッラドリーの絶対的観念論とヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。宇宙の歴史をさかのぼると、ついには時空がない世界にいってしまう。タイムマシンでさかのぼりすぎるのも問題である。時空のない世界でなにがおぉなうぇえていたのか。純粋に観念的な世界であり、ここから万物がうまれたのだ。

ブラッドリーの絶対的観念論についてである。われわれがみているのは観念の世界だ。全世界はおろか、トランクスパンツをいまみていないのであくまで想像、観念である。経験しているのはほんの一部だ。われわれは仮象の世界を現実だとおもっている。この背後に真実の本質世界があるが、これはわれわれついうっかり現実だと思っている世界はぜんぜんちがうという。すべてがひとつになっている世界だという。ただ、われわれは経験して、感覚で感じ、正しく判断するかぎり見ていない現実世界を感じることはできるという。


次の話はヴィトゲンシュタインフェディズムについてである。ヴィトゲンシュタインといえば、後期思想は日常言語の研究。われわれはふつうに日常言語を使っているが、文法や単語の意味はだれかがルール作りしたわけではない。文脈、生活の流れのなかでうまれるというのが言語ゲームという。この思想が宗教運動につかわれた。宗教的な儀式、これはこの儀式の流れのなかで意味をもつというのだ。野球というスポーツのなかで牽制球を投げようとするピッチャーの動きに意味が生まれるのであって、買い物中にこれをやったら不審者か、ハニカミ屋さんにみえてしまう。このヴィトゲンシュタイン思想の宗教運動がヴィトゲンシュタインフェディズムである。

まとめ

存在の科学


異次元理論

人類史、生物の歴史、宇宙の歴史のまえにももっと広大な歴史があった。ただし、時空すらも、物体もない論理、ロゴス世界であり、ここは五次元であり、六次元を時間軸のように流れる。


ビッグバン理論というものはこの宇宙のすべてのエネルギー、もちろん、物体もそうなのだが、宇宙誕生時のわすかな体積に詰め込まれていたと考える。ところが、インフレーション理論はちがう。互いに引き合う引力的重力と宇宙膨張とエネルギーの源になる斥力的重力。インフラトン場というのがあり、ここから宇宙膨張の斥力的重力が流れ込む。いわゆる重力は実質、エネルギー無限だという。無限に高いところから落下した物体は位置エネルギーが運動エネルギーに転じるが、これが無限のエネルギーになる。重力といったら、五次元宇宙のなかの四次元ブレーン上を移動するのが光子だとしたら、五次元中を自由に移動しているのが重力子、グラビトン。移動のしかたの違いであって、ほんとうは光子=重力子なのだ。光子といったら、意識、神経の電気パルス。つまり、五次元の脳の意識活動、観念そのものが重力子となった、四次元時空及びそのなかの物体をうみだしたのだ。魂と物体の歴史がはじまり、肉体をもつ魂、人間がうまれたが、五次元の絶対者のように、論理と意志がセットになり、しかり、あれ、と思いなすだけでそうはならない。肉体、物体のルールは五次元絶対者がうみだしたのであって、この論理から時空、万物、人間という進化はまた今後、五次元のような純粋な意志による創造ができるようなレベルに達する前段階なのかもしれないのだ。カントがいうカテゴリーと意志、統覚の同一視に近いのである。


7-12


検証と反証可能性、そして、被投性についてである。現実を直視し、地に足つけて 、机上の空論を展開する。やはり、現実とはなにか、と考えたくなる。日常現実、これは絶対にみえない世界たちに取り囲まれている科学の及び得ないぎりぎりの世界なのかもしれない。


検証と反証可能性についてである。梅干しはすっぱいと仮説を立てる。実際に検証してみる。甘い梅干しがあったら反証になる。実際に検証して、正しいか、間違っているか、真偽をはっきりできるものは有意味だという。バルカン星人は背が高いというのは実在しないので検証できない。真偽不定なので無意味になる。カールポパーは反証可能性を提唱。経験科学っていうのは弱点をちゃんと見せてないといけない。梅干しが酸っぱくない場合、これが反証例になる。反証できるかも、という反証可能性のないものは経験科学ではないというのだ。

次の話はハイデガーの被投性についてである。おぎゃっと生まれてきて、性別、肌の色、人間かどうか、すでにきまっている。歴史的にある状況に投げ出されているのだ。これが被投性であり、この中で未来にたいして、ちょめちょめっと企てる。もれ企投性であり、ひとは被投的企投性に生きているという。


まとめ

存在の科学


異次元理論


この宇宙のなかに新しい子宇宙がうまれる。重力からエネルギーが流れ込み、宇宙膨張の斥力的重力になって、宇宙内部のエネルギー、物質にもなる。この宇宙のエネルギーが0としたら、子宇宙の膨張は負のエネルギーになる。子宇宙はついにはこのわれわれの宇宙から分離するが、こうなったらもはやこの子宇宙とはやり取りできず、検証もできない。こうやって、なにかが時空上を動き、時空を歪ませ、重力のエネルギーを解放させるとき、並行宇宙が刻一刻うまれているのだ。これはまるで細胞分裂のようなものだ。こうして、われわれの一なる宇宙は無数の不可視、不可知、検証不可能な宇宙に取り囲まれている。現実とは科学的な検証不可能な子宇宙の外圧によってできている。科学の検証の限界、被投的な限界が日常現実なのではないだろうか。


7-13


存在の穴と創発性の原理についてである。久しぶりに外にでると、自分以外の生命体の数に驚かされる。いわゆる専門用語でいうたまげるである。この世界の大半は無機的なもの、岩石などだ。生命は宇宙全体ではわずかなのだが、生命の宇宙論的な意味についてである。

存在の穴についてである。穴といってもいろんな穴がある。穴があったらはいりたいっていうとき、おもわず、おのがはなの穴にはいろうとして見事なくしゃおじさん顔になったことはだれでもあるとおもう。サルトルは人間の意識を対自存在といい、自分に対面する存在、意識いている私と意識されちゃった私には亀裂があるという。これを存在の穴と名付けたのだ。これにたいして、メルロポンティーは意識は存在のくぼみ、溝だという。つまり、底があるのだ。すべては肉として一体であり、わたしもあなた、かれらもひとつであり、そこに溝、くぼみができて主客にわかれたという。



次の話は創発性の原理についてである。全体には部分を集めた以上のなにかがあるという。上層は下層にはないなにかがあるという。細胞を集めても、人間にならないのだ。これが創発性の原理である。


まとめ


存在の科学


異次元理論


この世界は無数の世界がかさなっている。いま座っているがたっていたかもしれない世界がすぐそこにある。恐竜が絶滅していない世界もかさなっているがこれらの世界は一度わかれたので、干渉しあわない。これがデコヒーレンスである。ところが、確率は低いが0パーセントではないのだ。ということはいずれコヒーレンスするものがあらわれる。宇宙のなかのほんの一部が生命だが、生命こそ別並行うちゅうにつながる世界の穴、量子トンネル効果なのだ。これが意識である。並行宇宙とつながっているから時空を越えた状態、記憶や予測がある。存在、世界の穴による多世界とのコヒーレンスが生命なのだ。これが創発性になるのだ。





7-18


聴従と哲学的孤独についてである。ひとりぼっちでいるとき、一目をはばからずに屁をこきながら鼻の穴をほじくる。ダブルプレーなのだが、じつに自分自身のなかでしゃべっていたりする。心のなかの自分の声を聞いているが、果たしてこれがほんとうに自分の声かどうかが疑わしくなってくるのだ。

ハイデガーの聴従についてである。ハイデガーは存在の哲学である。具体的な形、たとえば、じゃがいものような形の頭。これは存在者であって、存在そのものではない。存在と存在者は違うというのが存在論的差異という。人間は存在そのものにかかわっている存在だという。存在してるなっと感じられる。そして、ハイデガーはひとが思考し、もんもんと考えているとき、存在の声なき声を聴いているというのだ。考えることが聴従なのだ。

次の話はフッサールの哲学的孤独についてである。フッサールはひとが判断するというのは思い込みだという。友人のやまちゃんだとばかりおもっていたが、じつは大根だった。こうなったら判断停止、エポケーである。すると、この世界、宇宙は少なくとも あるよな、ということいなるがこれを世界信憑性という。そして、ついには名前や性別のある自分を疑うが、最後に残るのがだれでもない判断停止している本当の私、純粋自我だという。この境地が哲学的孤独だという。


まとめ

存在の科学


異次元理論



ひとりでいるとき、心のなかで自分の声を聞く。これは本当のところ、高次元の私の本体の声ではないのか。三次元物体が複数の二次元の影を投影するように、五次元の私が複数のわたしの分身、化身を投影させている。この高次元の私が類魂といわれているものだ。だから、この宇宙には同じ類魂の私がたくさんいて同じ声をきく、つまり、思考しているのだ。


7-19


言語ゲームと単独者についてである。片足立ちでしこをふもうとしている。一体、私はなにをやっているのか。ひとびとはおのおの個性があり、しかも、なにかを営んでいる。じつはある種のゲームのなかにいるのかもしれない。

ヴィトゲンシュタインの言語ゲームについてである。後期の ヴィトゲンシュタインは日常言語学派だ。ふつうにしゃべっているのだが、単語の意味とか、文法ルールは誰が作ったのか。製作者なんていない。生活の流れのなかでうまれたという。カウンターの席に座って、マスター、いつもの、という。流れのなかで例のやつなのだ。生活はなんなのか、というと、根拠という。それはそこにある、という。


次の話はキルケゴールの単独者についてである。神様はあまねくすべてなので普遍者である。ひとりの人間は神様のもとで、ちっぽけで有限である。これはできるけど、あれはできない。こうやって自分らしさ、個性が真理であって、ヘーゲルのいうような神様=宇宙という普遍的なものが真理ではないという。

まとめ

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異次元理論

cadというには線などに属性を与えている。そして、ルールにしたがって図面をかく。ゲームもまたキャラクターの属性があり、ルールがある。言語もルールがあり、単語に属性がある。高次元、五次元にはいろんなルールのゲームがあり、このなかで様々なものに属性与えている。やまちゃんはまず物理学ルールに従い、物理的属性がある。同じく生物学ルールに従い属性があり、人間というルールのもと属性がある。こうやって五次元の多様なゲームが重層的になって、キャラクターの属性も五次元から重なるように投影されているのだ。


7-22


意識の半透明性と先入観についてである。自由になんでもできるならば、空中を飛んだり、軽く家を持ち上げたり、屁を物質化できるかもしれない。ところが物理的制約があるからこれらができないのだ。物理的制約とはだれかが積極的につくったのではなく、宇宙の先入観だ、というお話である。


サルトルの意識の半透明性についてである。自分のことを100パーセントわかる。デカルトのいう、われ思うゆえにわれあり。思っているから自分がいる。疑っても、疑っている自分の存在は疑えない。これは自分を完璧に、その存在までとらえているので、意識の透明性である。また、自分がなにをしているのか、そもそも、自分の存在に気がついていない。いわゆるただの物体である。これが自分にとっての不透明性である。サルトルは 、人間の意識は半透明のすりガラスだという。うっすら自分がわかるけど全部ではない。だから、自分が自分自身をだましちゃう、という自己欺瞞がうまれるのだ。

次の話は先入観についてである。先入観ゴミ箱にでも捨てなさいとよくいう。フランシスコベーコンは人間がもっている先天的な先入観が四つあり、これを四つのイドラと名付ける。そして、これを取り除くことで真実に近づくというだ。


現代ではガダマーである。やまちゃんを人間だと思っているし、椅子っていうのはしゃべらないとおもっている。つまり、人間は文化や歴史によって影響されてそうおもいこんでいるのだ。だから、先入観のかたまりなのである。


まとめ

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異次元理論


宇宙誕生のあとはまったくの自由意志だった。最初に自由があったのだ。ベルクソンがいうように、自由とはなにかと問えない。とうかとわないかも自由だったので、自由はすべてに先だって事実なのだ。宇宙もまたビッグバン後は完全な対称性の世界で自由。かたよったりもない。宇宙が膨張し冷えると、対称性が崩壊。物質がうまれる。また、宇宙はひとつだったや、並行世界に分裂。細胞分裂と同じだ。こうやって、いろんな化身、つまり、宇宙の意識がうまれる。だんだん、宇宙は対称性を崩して、先入観にみたされ、ついに物理的制約がうまれる。法則が最初ではなく、自由が最初であり、ここから先入観になったものが法則なのだ。人間もまた、初期宇宙のような完全自由意志はない。意識の透明性は半透明になり、ついには不透明になりつつ、肉体がうまれ、完全に不透明になって新陳代謝のカスになるのだ。








7-23


場所の論理と瞬間の永遠性についてである。素朴な味のクラッカー、水分っけなしでのどにつまる。素朴な疑問といえば、魂とは何か、という疑問である。魂は物体ではない、という一言につきるかもしれない。

西田幾太郎の場所の論理についてである。最初の頃は、述語的場所という考えであった。斎藤くんは走っている、という文。斎藤くんは主語で、走っているは述語である。走っているという場所に斎藤くんという主語の個体が飛び込む。個体と普遍的なもの、主語と述語が深い溝で隔たっている。これをなくそうとしたのだ。媒介者Mの登場である。主語である斎藤くんも述語である走るも、無という場所にあるという。ヘアースタイルをブラシで整える、つまり、自分を改造。同じく、無は自分自身を改造、無の自己限定が万物、斎藤くん、山田くん、走る、ジャンプする、というものを生むというのだ。


次の話は瞬間の永遠性についてである。今っていうこの瞬間が永遠というのはプラトン哲学にもある。現代ではキルケゴールである。すべてに当てはまっちゃう普遍的真理。そもそも、神様普遍的なんだから、その前にたつ人間は自分らしく、個性的であればよい。個性とはあれができてこれができないという有限性。個性を真理だというのだ。同じように過去とか、未来ではなく、今っというこの瞬間が真理だというのだ。


まとめ


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魂、心とはなにか。まず、物体ではない。物体とは分子、原子、素粒子、ついには量子でできている。なにもないところから粒子と反粒子が対発生し、しばし、滞在し、対消滅する。発生と消滅の連続だが、その量が膨大なので恒常性があるいうにみえて、テーブルがそこにかわりなくあるようにかんじるのだ。どこからともなく発生し、どこかへと消滅。これは高次元のものの通過現象だ。


二次元平面に三次元の球体が通過。 二次元人からすれば点があらわれ、円として膨らんで最後にはまた点になって消滅である。つまり、粒子と反粒子の対発生と対消滅は高次元、五次元からやってきたものなのだ。しかも、三次元ブレーンに鋭角に侵入するので、短期だけ三次元ブレーンに滞在。これが物体になる。魂、心は同じ五次元からの通過物だが、三次元ブレーンに垂直に侵入するので瞬間的に発生と消滅が同時に起こる。三次元ブレーンの滞在期間はゼロである。これら膨大な連続が恒常性を生み出し、心、魂、人格になっている。発生と同時に消滅とはゼロのもとであり、物体の無である。心があるとは、心=物体の無、ということである。





7-25


メタ理論と認識論的視座についてである。天地や創造者と被造物、社長と平、おに軍曹とおかっぴき、このような上下関係は至るところにある。引き出しのなかにも靴下とパンツの先輩後輩関係があるかもしれない。ところが逆立ちしたり、よこになってみると、上下が左右になっていたりする。世界の創造は意外と身近なのかもしれない。


メタ理論についてである。メタというのは上からっていう意味である。メタ目線なんていう言い方はないが、上から高次元からのアプローチである。英文法の参考書はある。日本語で英文法の説明しているので、英語が対象言語、日本語がメタ言語になる。山ちゃんがジャンプしていた、と斎藤くんは語った。やまちゃんがじゃんぷが理論、斎藤くんの語りはメタ理論になる。そもそも、ゼノンのパラドクスのような自己矛盾に対処するためにタルスキが考えたのだ。


次の話は認識論的視座についてである。得てしてひとは自分を棚上げする。デカルト的自我は宇宙のそとからの視線だ。そうではなく、自分がどっからどのように見ているかをちゃんと考慮しよう、というのが認識論的視座なのである。


まとめ


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異次元理論


地球には重力があるから、上下はちがう。だから、天地がある。ヒエラルキー、階層性はここからうまれる。創造者と被造物もおなじである。視座を変えれば、上が右になったりする。以前お話ししたの?たが、並行宇宙のなかには無限容量で宇宙をシュミレートする世界もある。つまり、並行世界の分岐、このときの世界生成が高次元ではなく、同一レベルの別問題並行するによるものだった。ひ同レベルの隣人によって互いに創造しあっているのだ。









posted by モノイイ ジョーカー at 15:48| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 2014 2-2

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2014 01-04



反省、そして、一と多についてである。あべこべだ、と民家から聞こえてくる。一体、なにがあべこべなのか、気になってしまい、針の穴に糸を通すのの大失敗し、腰を痛めてしまう。世の中、まったく正反対のもの、両極のものがノーイミーツガールのように会い合わさって活動しているものなのだ。


   反省とはなにか。先日、うっかりやってしまった過ちに対して反省したりする。哲学的な意味での反省は今この瞬間の自分をかえりみちゃうのである。哲学者カントは、認識の仕方の認識だという。たんぽぽをみつめている。目でみて、匂って、あたまのなかで情報処理したりする。認識のプロセスを認識だ。これを超越論的反省と名づける。


  ドイツ観念論のフィヒテは反省がただの認識に終わらない。なんと、私は私自身を産み出す。つぎに私は私以外の非我とよばれるものを産む。さらに、自我と非我をちょめちょめと関係づけるのも自我だという。

  ついにはヘーゲル哲学においても、宇宙、世界の進化のなかで反省っていうことがおこって、万物が発展してゆくという。


   次の話は一と多についてである。まずは古代ギリシャの一元論、プロティノス。プロティノスはすべては一者から生まれるという。他方、多元論というものもあった。デモクリトスは世界はたくさんの原子でできているといった。現代ではジルドゥルースは一元的なものに、多元的なものをくみあわせようとした。このとき、まったく反対なのでどうしても反復が必要になるという。違いと同一、これもまた、反復によって近づけようとする。



   まとめ


  存在の科学


 
  異次元理論



  一と多、また、絶対的なものと相対的なものが合い合わさり世界があるのだ。かって、大地は不動だという地動説。さらに大地も動くと天動説。それでも地球や他の惑星はなにか止まっているものに対して動いているとした。ニュートンのバケツやコリオリ力によって宇宙の不動のものを証明したというものもたくさんいた。いわゆるエーテルである。さらに、アインシュタインはすべては相対的な運動で不変なのは光速だけだとする。


  すべてが相対的だというのが絶対的である。自分はどこに居ても自分。これが絶対的だ。自分のまわりは相対的だ。この二つが合わさると、遠近法世界になる。自分は一でその他は多である。だから、一と多という二つがうまれ、二人称世界、私とあなたがうまれる。

  大地の不変性から、エーテル、光速と来た。つぎは光よりも速いタキオンが不変だとする説がうまれるかもしれない。タキオン速度不変。タキオンは意識、魂だといったから、これは独我論的な科学理論となる。


  反省っていうのは、自分という一と、自分を俯瞰してみると多になるから、一と多の融合により成立している。


2014 1-5


   世界観学と真理余剰説についてである。真偽はともかく、とりあえず昼寝だ、という。善悪超えちゃえというニヒリズムなニーチェ。真偽を越えたところに世界の進化があるんじゃないか、という考えで猛進してみたい。


   世界観学についてである。ディルタイの生の哲学。まず何よりも、いま体験していることが生そのものだという。そして、どんなにがんばっても、いまいる時代の影響受けちゃうよ、という。流行り廃りというが、世界観っていうのは時代によって押し付けられて、その土台でいろいろやっているのだ。ガダマーはすべてが時代による先入観。先入観なしじゃ何も認識できないという。これに対して、フッサールは時代に制約されるなんて歴史主義だ、といい、それを世界観学だ、というのだ。フッサール自身が求めているのは究極の真理、時代に制約されない厳密な哲学としての学だという。一切の先入観、思い込みをダストシュートっと叫んで捨ててしまって最後に残ったのは、そんなことをしている名もなき純粋な私だという。


   次の話は真理余剰説についてである。雪は白い、と大声で叫ぶ。ところが、文や命題には真だとか、偽っていう値がくっつくが、雪は白いっていうのは真だ、牛がみゃーっと鳴くのは偽だ、というのは真偽云々するだけ無駄なエネルギー、余剰だという説である。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   世界観っていうのは間違っていてどんどん更新されたりする。天動説だったころ、地球は動かず、周囲を天体が回っていたと考えられていた。不変不動のものを大地に求めた。これが間違っていると、コペルニクスによる地動説。地球、惑星も動いているという。さらに止まっているものはなにか。宇宙の絶対静止しているものがエーテルだという世界観。ニュートンのバケツ、水の入ったバケツを回転させると遠心力で周囲は盛り上がり、中央は水位がさがる。平均の基準となる水面があるという。大気は地球の自転によって遅れ気味に動く。コリオリ力というが、これまたエーテルの存在を暗示するという。現代に入るとそんなものはない、すべてが相対的な運動だというアインシュタインの相対論。それでも不変不動のものを光速度に求めた。光速で近づくAとB。AからみればBは縮み、Bから見るとAが縮んで見えるというローレンツ収縮が起こる。本来ならこれは見かけ上と思えるが客観的に自分の慣性系、視点からみると相手は相見えるのだから、個からの視点しかないというニヒリズムだ。今後の世界観を予測すると、光速も相対的で、光速よりも速いタキオンが絶対だという世界観があらわれるだろう。タキオンは時間を逆行する意識、魂だといった。意識、魂が不動だという独我論だ。これは大地が不動から、大地のうえに魂の不動に微妙にずれた円環、つまり、スパイラル状に戻ってきたものだ。世界の実情はこの世界観の逆。魂、タキオン不動がある。これが物質化して脳になる。脳は光速、光、電子の信号だ。だから、このレベルが自分を中心にみる遠近法、主体性のレベル。これをさらに物質化するとエーテル、宇宙を満たすなにか。そして、大地に戻っていく。



2014 1-6



   共同主観性と共同幻想論についてである。川口隊長が振り返った時、ヘルメットのライトがまぶしすぎて、おもわず、目を押えて七転八倒。ライトとはいわゆる光なのだが、光とは非常に不思議なのものだ。われわれ生命は光の存在であり、これがものを客観的に照らし、他者の存在、物理的にあるものを心底、照らす存在のビームなんだ、というお話をしたい。


   共同主観性についてである。別名、間主観性ともいう。他人の意識とは一体なにか。他人がいて、おなじ饅頭をみんなでみつめているから、そこにみんなが同意する饅頭がドカーンっと客観的に実在しちゃうのだ。他人と心と物の客観性ってなに、というとき、他人の心について、みんなの意識について考えないといけない。これが間主観性だ。まずはカントであるが、見た目、経歴、名前がちがうけど、それらは枝葉であって、根っこはみんなひとりの意識。統覚だという。だから、おなじ饅頭をみているとみんなで相槌うちながら同意できる。メルロポンティはすべてのものは、私、あなた、かれらっていう人称以前に同じ肉としてつながっているという。ものごころついてから、私とあなた、かれらは溝によって隔てられる。だから、おなじ肉だから反転すれば、饅頭になった自分が饅頭の存在をひしひしと感じることができる。フッサールは地平のなかの他者をいう。いろんな地平線に囲まれている。視覚だって、思考だって、身体の動き、聴覚。これらすべてに限界の地平がある。地平のなかに無数の他者のまなざしがあるから、ひとりで目撃するよりもたくさんでみたほうが客観性が高まると同じく、ひとりで饅頭を見ていても、饅頭の客観性を感じられる。


   次の話はヒロマツワタルの共同幻想論についてである。個人幻想っていうのは、文字通り、個人のなかの幻想。対幻想は2人のあいだとか、家族のなかでもつ幻想。共同幻想は国家の、国民の幻想で、とりわけ、この国は共同幻想が強いのだという。



   まとめ


  存在の科学



   異次元理論



   前回、話たが、光の速度で近づくAとB。AはBのことを縮んでいるように見え、同じく、BはAのことが縮んでいるように見えてしまう。互いに縮んでいるように見えるとは見かけ、錯覚なのか。そうではなく、相対論のローレンツ収縮であり、客観的な事実だという。すると、互いは互いの視点からしか事実、価値はみえない。すべてのものたちは分断されているというニーチェのようなニヒリズム世界だ。


  ところが、ロジャーペンローズはこのローレンツ収縮の見え方を計算した。するとなんと、直方体が光速で横切る場合、縮んでいるのではなく、直方体は回転しているようにみえるという。ものの裏側が見えるのである。これは直方体の頂点が観察者からの距離がちがい、そこから時差が生じるからだという。


  ひとは外界のものを光によって網膜を刺激し、電気信号に変換。これまた光速で体内を電気パルスが移動。音だって、最終的には鼓膜から電気信号だ。すべては電子、光子による光速だ。だから、われわれの意識活動が光速によるローレンツ収縮を経験し、物の裏側を回転によってみているのだ。物の裏側は他者のまなざしによってみえて、これが間主観性であり、三次元物体の客観性である。この自分からみたニヒリズムの視点が、じつは光速の場合は他者と共有できる直方体の三次元の客観性、実在性を得るのである。

  しかし、共同幻想はちがう。これは光速よりも遅い、タージオンになったときに、物が回転運動を起こさず、一面しか見せないのだが、これが共同主観と共同幻想の違いになる。


  


 


  世界観が真偽があるが、世界観の真偽を越えて世界が進化発展しているのである。


  1-8

   時間意識と意志についてである。いくぞっという気合でつっぱりだ。手相占い師はつっぱりをたくみによけて、手のひらをみつめる。なにゆえ、つっぱり攻撃ができたのか。意志によってからだがうごくのはどういうプロセスか。心とからだ、意志と意識における一般相対性理論によって解釈してみたい。


    時間意識とはなにか。意識といったら、まずはカントの統覚。性格や過去の蓄積された記憶による個性的な自分。これは経験的な意識であり、経験的統覚という。これに対して、そのもっとずーっと奥のほうにだれでもない人類共通の普遍的な意識、根源的統覚があるという。


  デカルト的コギトというのがある。これは科学者の意識スタイルだという。宇宙のなかのある状況下の私ではなく、宇宙の外から宇宙をながめる自我、コギトだという。


   現代ではウィリアムジェームスは意識っていうのはうすっぺらではなく、厚みがあるという。フッサールは時間意識となづける。意識っていうの葉ちょっと前の過去を今につなげる。これを過去把持。いま、という瞬間に感じているという現在印象。そして、この先、どうなるかと少しは予測する未来予持によってできているという。


   次の話は意志についてである。自分の意志の力を最大限に発揮しちゃおうというニーチェ。また。ショーペンハウワーは意志っていうものの上に表象があるという。アタックするとき、意志がないといけない。つぎのに、ボールや相手コートをイメージ、つまり、表象するのだ。宇宙もおなじように意志と表象があるという。宇宙の表象とは洗濯籠のなかにあるリアルな靴下のイメージでなく、靴下そのもののイデア。宇宙の想像とはいイデアなのだ。


    まとめ


   存在の科学


    異次元理論


     意識っていうのは光。とりわけ、判断や思考である。目から光がはいり、網膜でフーリエ変換された電気信号、すなわち、光信号に変えられる。耳は鼓膜によって電気信号に変換。すべては光速で迫ってくる。

   AさんはBさんに光速で近づく。ローレンツ収縮で小さく見えて、しかも、回転しているようにみえると前回話した。今回はAはBの過去をBはAの過去をみる。互いに時間的にずれて相手をみる。つまり、この時間的な差異、ずれが時間意識を産む。

  また、一般相対論だと、エレベーターごと落下すると宙にういたようになり、これは重さがゼロに減ったこと。ロケットの発射の瞬間は飛行士にGがかかるが、これが重力が加速によってましたことだ。加速は重力であり、重力とは時空のゆがみだという。これを等価原理という。そこで、意志するとは、なにもないところからの衝撃なので加速なのだ。この加速から時空をゆがめる。この微妙な時空の歪みが心とからだの仲介になって、からだの生理的な反応を生み出し、ついにはからだが動くのだ。


   2014  1−12  続き



   唯物論的組み合わせ主義についてである。ひょっとしたらの世界では私は大統領だったkもしれない。すべての場合を尽くして、この世界のなかに可能世界を実現したい。すると、ことばと物を対応させちゃって、ヴィトゲンシュタインがいうような事象を文にきっちり対応。そして、ピーナッツが突進してキュウリが倒れる、という文に対応する事象がある。そして、ついには、物をことば、文にしてしまう。これが唯物論的組み合わせ主義である。物の組み合わせとは、時間、空間、それを満たすエネルギー。空間のx、y、z。時間のt。そこを満たすか満たさないかのu。この五つのパラメーターの全組み合わせが可能世界だ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   以前、人間っていうのは単語であり、ひととひとの出会い、関係が文のようになるのだといった。今回は時空点を最小単位に物を言語とみなしたい。すると、唯物論的組み合わせ主義になるが、唯一の欠点がある。すべての組み合わせがあるが、この世界にはない個体を出現できない。だから、この世界にない個体、実在しない要素が不足しているから場合尽くせないので宇宙の論理構造は破綻するのだが、その救い手が生命だったのである。生命は想像をするのだ。想像は可能世界の論理を補完するための宇宙論的な意義のあるものだ。現実の補完が想像。現実、覚醒時の記憶の整理やストレス軽減のための夢。夢と同様な宇宙論的な働きが想像にはあるのだ。


   2014 1-13


   認識論的、存在論的カテゴリーと生のカテゴリーについてである。生命とはなにか。ましていわんや、魂や意識体とはなんぞや。もしかしたら、ある種のゆがみ、しわよせ、いわゆるズボンのしわのようなものかもしれない。ただの見かけなのだが、見かけ上と事実とはほんとうはおなじという話もあわせて考えていきたい。


    認識論的、存在論的カテゴリーについてである。やはり、カントの認識論的カテゴリー。ニュートンの絶対空間、時間のように、時間空間は客観的にどかーんと存在していないという。なんと、目鼻の先、つまり、ひとりひとりのそなわっている枠組みだという。ここで、いろんな感覚情報を集め、こんどはカテゴリーっていうツールでこれをまとめる。量、質、関係、様相の四つのカテゴリーでまとめて、それがお菓子なのか、はたまた、食べられない岩石なのかを認識しちゃう。


  ハルトマンは存在論的カテゴリー。なんと物が存在するためのカテゴリーについて研究した。
 
   ディルタイの生のカテゴリーについてである。自然科学の法則、カテゴリーが最初にあって、いま生きているのだろうか。そうではなく、生のカテゴリーというものがあるという。ここから変形して自然科学のカテゴリーになるという。科学や数学では同一性っていうカテゴリーがある。これは生においては、私は私だ、という自己意識の変形バージョン。作用反作用の法則っていうのは、生のカテゴリーでは抵抗のカテゴリーだという。超一流のさるまわしになりたかったがかなりたいへん。でるくぎはうたれる。世の中の抵抗、いきていくうえでの抵抗がが変形することで相互作用の法則。また、科学では時間、過去、現在、未来っていうのがある。これは生のカテゴリーではアンティークショップでむかしの骨董品に価値を見出すように、価値が過去に変形。なにかに意味づけしながら生きているが、意味が現在。目的をもって行動するが、目的が未来になるという。


   まとめ

 
  存在の科学


   異次元理論


   われわれは自分の視点から世界をみている。いろんな枠組みを重ねているからそのひずみが重量になる。

  宇宙を記述する枠組み。x、y、zの三次元とtという時間を組み合わせて、四次元ミンコフスキー座標。アインシュタインは縦軸に時間、横軸に空間をとって光をコーン状に表現。これらの座標系のひずみが特異点になる。高圧縮、高温のビッグバンとブラックホールである。これらは座標系を選択することによるひずむ、しわよせ、見かけ上のものだ。ただし、見かけ上のものがすべてであり、事実と見かけは等しい。ヘーゲルのいう仮象と本質の融合だ。

  ロジャーペンローズはなんと有限の座標系に本来、無限っていうものはみえないのだが、無限を有限座標に押し込む方法を見出した。このペンローズ座標がじつは本当の意味での日常の座標なのかもしれない。われわれは個人の座標、人類、動物、宇宙というような複数の座標を重ねて世の中を感じているのではないか。このとき、もはや、ビッグバンとブラックホールのひずみはない。球体の地球を平面の地図に座標変換するとき、メルカトル座標のことだが、グリーンランドが大きくなってしまう。見かけ上の特異点がこれだ。だから、ペンローズ座標系も見かけの特異点があらわれる。この座標、無限を包み込む有限であることから、日常座標と名づけたい。ここであらわれるゆがみ、ひずみである特異点が意識、魂なのだ。生命とは日常座標における見かけのゆがみであり、見かけは事実となんら変らない。


   2014 1-18


   イマージュと論理和についてである。勝ちましたか、または負けました、と聴かれる。勝ちと同時に負けです、という答えがないのだろうか。くしゃみといっしょにおならをする。くしゃみまたはおならではない。論理学の論理和革命。これは量子とは人間であり、並行世界があるし、平和世界が実現できることの証ではないか、というお話だ。

  ベルクソンのイマージュ論についてである。心のなかに思い浮かぶイメージ、観念。そして、自分の外にはだんごがあり、お茶があり、これらはどうも実在しているっぽい。実在か、観念か、ではなく、なんとこれはおなじひとつのなにかの別の顔だというのだ。イマージュというものだ。実在でも観念でもあるもの生活して流れのなかで実在っぽくなったり、観念っぽくなるという。宇宙のイマージュのなかに私のからだっていうイマージュがある。すべてはイマージュだというイマージュ一元論である。


   次の話は論理和についてである。ショートケーキにしますか、またはシュークリームにしますか、といわれる。または、というのを論理学では論理和という。どっちかひとつ、ひとつ選択したら他方は排除、これは厳密には排他的論理和XORという。これがふつうだとおもって論理学の歴史でずーっ戸使われてきたが、じつは論理学の進歩を遅らさせた原因だった。ほんとの論理和。これがORであり、次のようなものだ。ショートケーキだけにするか、または、シュークリームだけにするか、または、ショートケーキとシュークリームも両方か、または、ショートケーキとシュークリームのどっちもやめか、のいずれかである。これが本当の論理和、ORだったのである。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    論理和といっても常識的にはAまたはB。Aを選択したらBは排除。これはじつは排他的論理和、XORだったのだ。ほんとうの論理和、ORはAだけ、または、Bだけ、または、AとB両方、または、AとB両方いらない、のいずれかである。物理学、量子論の世界にもこの二つの思想が決定的な陣営にわけた。ボーアのコペンハーゲン解釈。電子は粒か波動のどっちか、という。粒のときは波じゃない。ひとが電子を観測したときに粒になるのだ。排他的論理和、XORである。ところが、ボームはちがった。ガイドウェーブとか、ガイド波とか、量子ポテンシャルという波があるという。海に浮かぶ船のように、そこに粒の電子が浮いている。波は見えない、粒は見える。両方を満たすので、これが本当の論理和。しかも、人間と電子という量子もおなじだ。人間も目にはみえない複素数世界、それが波動であり、心。人間にとってのガイドウェーブ。粒は肉体で認識できるのだ。量子は人間のおなじ構造だ。


   排他的論理和、XORでなく論理和、ORの世界とはひょっとしたらの並行世界が実在するという思想に導く。またこれは平和思想でもある。上または下、勝ちまたは負け。闘争、資本主義の論理なのだ。このXORから開放されてわれわれはOR革命の道を歩むべきなのかもしれない。


2014 1-19 続き


 まとめ


  存在の科学


   異次元理論



    アインシュタインの光円錐。ミンコフスキー時空において縦軸の過去にむかって広がる過去地平、粒子地平。これは夜空にみえる星が実は三億年前の過去のものであることを意味する。観測者の運動によって星の位置が異なって見える。ここにローレンツ変換がある。

  ローレンツ変換といえば球体に赤道面に平面を置き、球面上に描かれた図形が赤道平面にいかに投影されるかというもの。球面上の図形の角度は変らない。また、描かれた円は投影されたものも円になる。そして何よりも、球面上の点は赤道平面に投影されたとき、なんと複素数になるというのだ。


  実数は原理上、認識可能なもの。虚数を含む複素数は原理上認識しえない。原理上、認識不可能なものとは生命の意識、心、魂だ。

  さて、万物は波動であり、波動は点できている。点粒子の集まりが物体。量子といってもよい。この点粒子をわれわれは観測し、認識するとき、現象として、平面に投影させる。このときローレンツ変換されて点粒子はなんと複素数になる。原理上、認識しえない複素数は心ではないか。心という器があって、この中に物体の元、つまり、点粒子の影としての複素数が東映されるのではない。この複素数の集まりそのものが即、心になっているのだ。イメージ、観念をあさめるハート型した心ではなく、イメージ、観念の集合体、複素数の集合体が心になっている。だから、われわれは外界の物体をローレンツ変換によって複素数化して、心の内容物とする。


  
 2014 1-26


   ニヒリズムと存在論的差異についてである。喜怒哀楽の感情、善悪など、世の中にはいろんなベクトルがある。たしかに怒りながら笑う人、にこにこしながら股間丸出し男も無きにしも非ず。宇宙における感情、善悪の絶対量は一定であるというお話をしたい。


   ニヒリズムについてである。ニヒルとは無ということ。この世界はなんにもない、すべてが相対的だという。ニーチェはニヒリズムの克服を主張した。真っ赤な太陽を眺める。私がみる赤と太郎くんのみる赤は違う。太郎くんの目からはのぞけない。真っ赤な夕焼けになにを思ったのか。言葉で言い尽くせない。太郎くんのあたまのなかに入れない。善悪の価値もみんなが共有していないという。神様、絶対者も共有せず、なんと存在そのものだって共有しないという。だから、無なのだ。よって、無から価値を自分で作るしかない。そんなことをするものを超人と名づけた。


   次の話はハイデガーの存在論的差異についてである。人間はただの存在者じゃないという。ねじやくぎとはちがう。存在そのものに関わっている存在だという。存在とはなにか、と問う。存在をまったく知らなかったら問えない。100パーセント知っていたら問う必要なし。半端に知っているのだ。これを存在了解といい、そんなものを現存在とよぶ。存在者と存在はちがうんだよ、というのが存在論的違い、存在論的差異である。



   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   シュレーディンガーの波動方程式だと、すべてが重ね合わせにある。右手をあげている太郎くんと上げてない太郎くんが重なっている。ボーアは観測した瞬間、意識した瞬間にこの波動が収束して粒子になって右手をあげた太郎くんになる。これに対して、ペンローズは収束っていうのは意識じゃなくて自然状態で起こるという。重力による効果である。潮汐力などの重力の影響だが、これが別次元の重なったものの重力の影響なのだ。Dブレーン理論のように、宇宙をブレーン、膜としたら、これらが重なり合い、重力による影響で自然状態でこのうちのひとつの宇宙が選択される。これが結果的には収束なのだ。


  観測者の意識による収束と自然状態の重力による収束はおなじではないかといいたい。以前、意識は重力だといった。今回は、ひとつの世界、おなじブレーン上にいるすべての生命意識が一斉に同じ世界を選択、収束させているといいたいのだ。たしかに個々の意識のベクトルは違うが全体としてはひとつの世界に収束させる。個々の意識の総体は重力による効果だといいたい。だから、世界そのものの選択は宇宙が自然に絶対的な力でやってしまい、エネルギー総量も決定する。ただし、ひとつのブレーン内部では総量一定の感情、善悪の相対的動き、ニヒリズムにすぎないのだ。ところが、重力による自然状態の収束、世界選択は絶対的な、基礎付け主義的な力である。


   これらは川に喩えられる。川の地形は絶対的に流れを決めるので自然状態の重力だ。ところが、水分子はてんでばらばらに動く。全体としては大きなベクトルを産んでいるが、これが観測者の意識による収束なのだ。


2014 2-1


   共同主観性と射影についてである。斉藤君が迫ってくる。なぜだか、背中を見たわけでないのに、斉藤君が3Dにみえちゃう。大脳が処理しているのか。そもそも、光が目に飛び込んできて、やあ斉藤君久しぶりとなる。光に3D認識の秘密がある。



   共同主観性についてである。間主観性ともいう。他人っていうのは証明できるのだろうか。自分の目だけじゃなくて他人もいっしょに見ているから、そこに間違いなく客観的に竹ぼうきがあるのだ。他人とは、物体が客観的にあるための条件だったりする。フッサールは類比化的統覚という考えを打ち出す。斉藤君ってなんだか自分とそっくり。まゆげもまつげもある。ひょっとしたら自分と同じような心があって、世界をみているんだな、ということで自己移入しちゃう。後に、より精妙な対化的連合という考えにいたる。ひとりでいるとき、いろんな地平に囲まれている。考えているが、考えていないものもある。思考と非思考の境界、思考地平である。視野にも限界があり、嗅覚にもある。外の世界もこれ以上見えないという限界、外部地平があり。自分の内面みつめちゃっても、見えそうで見えない限界線があり、内部地平だ。こうやって、地平に囲まれているが、この地平のなかに他人のまなざしがどっさりあるという。だから、一人で竹ぼうきみても客観性がえられるのだ。


   次の話は同じフッサールの射影についてである。斉藤君を正面からみる。これを記憶にとどめて、後ろ姿をみる。いろんな視点からみてこれを集めて全体像を得る。これらの視点が射影である。


   まとめ


   存在の科学


   異次元理論


    光の速度で動いているものは進行方向に縮むというのが、ローレンツ収縮である。ところが、光速で近づいてくるものが縮んだのが見えないはず。計算によると、なんと、光速で近づくものが裏側を見せながら回転して見えるというのだ。

  さて、斉藤君は光速で近づいてこない。ただ、斉藤君に反射した光は文字通り光速だ。だから、表だけでなく裏側も見せながら回転してやってくるのだ。光が物を立体的に見せるような特性をもっているのだ。光でものを認識しようとする昆虫もいっしょ。だから、光の360度回転しながらやってくるという特性を生体、感覚器官はそれにあわせて背面を把握しようとするシステムにしたのである。また、光の一回転のスピンのとき、光の構成素であるスピノールは二回転する。二回転しないと元に戻らないメビウスの輪なのだ。だから一回転目で、光は半回転だが、裏側にいっている。物の背面だけでなく、じつは内部、裏側もこれで把握するシステムが備わっているのである。つまり、それがひとなのか、竹ぼうきなのか、それをそれたらしめている本質、イデアである。さらに、前回はなしたが、スピノール一回転目の裏側とは他者ともいった。だから、他者のまなざしも経由して客観性を得るのである。


  光が上記のような特性なので、この受容器である感覚、神経もまた動揺なシステムになるよう追随したのだ。


   2014 2-2


    存在と所有、そして、両義性についてである。夜空を見上げると、聖子ちゃんのポスター。それはおそらく天井が視界をさえぎっているとおもわれる、とコンピューターのハルはつぶやく。夜空の星々、胸のうちの心。魂と宇宙とはどこがどうちがうのか、考えてみたいとおもう。


   哲学者マルセル、存在と所有、についてである。まず、所有とはなにか。車を所有するとは、そのくるまを持ち主が改造したり、自由に処分できることだ。自由に意のままになることを随意性という。ところが、自分の身体はどうか。意のままにならないのだ。身体は所有っていうより自分の存在だ。存在と所有の中間、これが身体だという。


   次の話は哲学者メルロポンティの両義性についてである。ことばや思考っていうのは、なんだかいつでも紅白歌合戦のように、二つの陣営にわけてしまう。主観と客観、上と下などだ。Aかはたまた非Aか。そうではなく、Aでも非でもあるなにか。Aでも非Aでもないなにか。このどっちつかずの曖昧模糊、もやもや。これが両義性であり、身体だという。意識は自分から抜け出す脱自。同時にそうすることで、自分が自分でいられる。脱自と人格同一性の曖昧、中間もやもや状態だ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


    宇宙とは三つのタイプが考えられるという。縦軸を時間、横軸を空間とする。ビッグバンによって宇宙膨張。いずれ、また収縮し、ビッグクランチで消滅するという閉じた宇宙。もうひとつは、絶妙なタイミングでビッグバンが起こり、放物線のような膨張をする。つまり、放物線のはじっこは永遠のかなたで交わる。この場合の宇宙は永遠のかなたで収縮、消滅する。開いていると閉じているの絶妙な中間だ。これをフリードマン型の平坦宇宙という。ただし、これには奇跡が必要だという。ビッグバンを発生させるときに無数の位相のある一点を奇跡的な力で一撃を与える。確率は10の10乗のさらに23乗。いわゆる神の一撃が要求される。三番目は双曲線のように永遠に膨張する宇宙。これをロバチョコフスキー型宇宙という。ここで、以前話たのだが、光は点粒子であり、点粒子を回転させるには半径がゼロだから角運動量を有限にする方法だ。運動量*半径が角運動量。半径が0.だから運動量が無限でないといけない。無限大かける0は有限なのだ。運動量は質量かける速さ。速さは光速越えられないから無限にできないので。質量が無限大になる。

  さて、宇宙のはじめは点だ。だから有限な万物を産むには、永遠に、無限大に膨張をしつづけるロバチョコフスキー型でないといけないのではないのか。0から無限大は有限の鉄則だ。

  もうひとつ。生命の魂はどうか。または生体である。これが最も安定した平坦宇宙、フリードマン型なのかもしれない。放物線状に閉じていると同時に開いている。永遠の彼方で消滅だ。まさしく、神の奇跡的な一撃なしには不可能なフリードマン型宇宙の現れが生命なのかもしれない。マルセルのいう中間的な身体。メルロポンティの両義性。これらは二元性のかなたのものだ。


  そして、住んでいるこの宇宙が開放的なロバチョコフスキー型で、そこに住む生命がフリードマン型。もうひとつの閉じた宇宙は原理上発生しえないとすれば、すべての宇宙が体現しているのだ。

  さらにエントロピーについても考えたい。万物はエントロピーが増大、無秩序化してゆく。宇宙が膨張しているからだ。部屋のなかが散らかればエントロピーが増える。それでも、地球的規模でみれば散らかっていない。つまり、より大きな系の中心に移動することがエントロピーの増大なのだ。だから、生命がエントロピー増大で死滅しても、それはより大きな系の中心に移行したのであって、こうやって生命はより大きな生命へと進歩しているのである。


  


 
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2013年06月20日

仙人新聞 6-20

仙人新聞 6-20

テキストがあまりにも膨大。前代未聞です。

6-19分の朝哲の録画失敗したのでここに音声のみアップします。





**動画**

http://www.ustream.tv/user/monoiinasu



**テキスト**


*哲風呂*


5-30

  ホーリズム、そして、意識なくして世界なし、についてである。やまちゃんをまじまじとみているとなんだか自分に似ている。そんなやまちゃんはどことなく、後姿は大和芋に似ている。この世界はいろんな並行世界の詰め合わせものなのかもしれない。そして、この世界が並行世界の現れだというからには、なにかを感じる意識と深く関係がありそうだ。

  ホーリズムについてである。いわゆる全体論についてである。ガンプラを作る時、腕と足を接着して、お尻を後頭部にくっつけて完成だったりする。パーツを組み合わせて全体だ。部分があつまって全体になるとは、これを機械論という。ところが、生命などはちがう。全体と部分が直結している。かかとが体全体と交信しているかもしれない。シェリングの有機体論はホーリズムだ。また、論理学的には、クワインである。ひよこはたまごから産まれるという仮説。この仮説を検証する。すると、反証例がない。この仮説は無数の背景知識でできている。たまごとはどんなものか。産まれるの定義、さらに日本語の文法の説明。宇宙全体のあらゆるものが総動員されて成立しているのだ。だから、全体のなかのどれかをちょっぴりいじくると検証にも、反証にもなるという。


  次の話は、ショーペンハウワー、意識なくして世界なし、についてである。意志と表象の世界、という本に書かれている。個人はよいしょとたちあががるのだが、このとき個人的意志、意識がある。そして、この上に椅子や自分のボディイメージを持っている。つまり、表象が乗っかっている。宇宙もまた、普遍的な意志があって、この上にイデアっていう表象が載る。

  苦悩をなくそうとして、個人的な意識は宇宙の表象、つまり、シミひとつないイデアを観る。これが芸術だという。さらに、意志を弱めれば苦悩もなくなると考え、ストイックになる。意志の消滅は宇宙の消滅だというのだ。

  まとめ


 存在の科学


  異次元理論



  この世界は並行世界、並行私の現れではないのか。やまちゃんは私に似ている。ひょっとしたらの私がやまちゃん、斉藤君かもしれない。さらに、もっとはるか彼方で別れたのが私とナメクジ。もっと、大昔に分岐したのが私と石。これまた、並行私、並行宇宙ではないのか。

  ひとつの物理世界に並行世界が共存しているというのは違反である。デコヒーレンスして、互いに干渉しあわないはずだからだ。されなのにコヒーレンス、つまり、干渉しあっている。これは部分から全体ではなく、全体から部分。過去から未来ではなく、未来から過去へのアプローチがないと、デコヒーレンスをコヒーレンスできない。そもそも、私の意識、感じること自体がコヒーレンスそのものであり、観測者である私が灯台もとくらしになっているのだ。

  量子論のなかにガイド波説がある。ガイド波という波があって、サーファーが波に乗るように、粒子はガイド波に乗る。そして、確率が高いところは粒子がたくさんいる。これが二重スリット実験などのスクリーンに衝突するのだが、ここに矛盾がうまれるという。スクリーンに粒子は痕跡を残すのだが、ガイド波は先導波であるが、粒子がこのとき、光速を越えてしまうのだ。だから、相対論違反だ。光速を越えるとはタキオン素粒子になること。タキオンは時間が逆行する。

  目の網膜に光の粒子が当たる瞬間、ガイド波に乗った光子が光速を越えてタキオンになる。時間が未来から過去へと戻る。これが網膜の境界面で起きているクオリアである。また、ここから電気パルスになっても、電子は同様にタキオン化していたるところの境界面上にクオリアを発生させる。眼球は皮膚感覚が進化したものだが、皮膚だって外界との接触面でいまいったような粒子の光速越えがある。この境界面では部分から全体、過去から未来ではなく、未来から過去、全体から部分へと流れる。これがデコヒーレンスした並行宇宙をコヒーレンスにさせている正体なのだ。


  6-1



絶対的意識流と言語ゲームについてである。椅子に座ると、お尻で椅子を感じる。なんとお尻からなにかがでているのではなく、タキオンがでているのだ。けつと椅子の境界面上でおこっている時間逆流のSF活劇。生命が何かを感じるとはこの境界面に秘密があり、また、ブラックホールもまた境界面からなにかを感じているのだ。


  哲学者フッサールの絶対的意識流についてである。胸に手をあててみる。乳首を発見したのはつかのま、パイ毛が巻きついてきてピンチだ。というより、なんだか意識の流れを感じる。意識の奥にあるのはなんなのか。意識の流れを感じるとは、川の流れと同じで岸に止まってこそである。だから、止まっていると流れを感じる。今度は流れると岸が止まっているのがわかる。つまり、私は私なんだというものを感じる。止まっていると同時に流れている、これが絶対的意識流である。


次の話は言語ゲームについてである。言語にはゲーム同様にルール、文法がある。だれかがルールを作ったわけではない。生活の流れによってできたという。あれはなんだ、と叫ぶが、あれというのはその時、その場所によって違う。文脈に依存しちゃっている。これが言語ゲームだが、言語ゲームや生活の流れにはなんか根拠があるのかという。理性的なのか、はたまた、非理性か。どっちでもなく、それはただそこにある、というのだ。根拠もなく、無根拠にそこにあるだけだという。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   前回、前々回、そして、相当昔に話した内容まで含んで、クオリアの秘密を暴いてみたい。手が外界のものに触れて感じたり、目でものを感じたりする。これは二次元の境界面上の出来事だといった。網膜に光があたる。ガイド波があたり、そこに乗っかっている光子がぶつかる瞬間にその境界面上で光速を越えてタキオンになる。タキオンは光速より速いから時間が逆行。光を吸い込んで境界面からタキオンを放ち、三次元ホログラムを周囲に投影する。これが目が映写機であるゆえんだ。又、ブラックホールも同じだ。光を吸収し、光速を超えてしまう事象地平面に入って、この境界面の向こうにあるタキオンが飛び出して三次元ホログラムを作る。目とブラックホールはこのような境界面のクオリア現象だ。


  さて、五次元に漂う四次元ブレーン、ないしは四次元時空をタキオンがあたることで三次元の影になるといったが、これが境界面、つまり、二次元を介して三次元ホログラムを生成する。四次元が二次元を介して三次元ホログラムを作る。ところが、この現実という、日常生活というホログラムの反対がある。ゲームである。虚構はこれとは正反対の構造になる。四次元の事象を三次元の機械、ゲーム機を介して二次元の画面に投影。ゲームの真逆の構造が現実になる。


  絶対的意識流は流れつつ止まるといった。ここでいう流れは過去から未来への流れ。これに止まるを混ぜると、第三のカテゴリーがうまれる。未来から過去への流れ、すなわち、意識やクオリアである。これが二次元境界面で起きているのである。



  
  直感主義、そして、哲学と自然の鏡、についてである。1+1は人参。ににんはにんにく。大声で胸はって正々堂々とこたえる。四則演算には最難関の割り算がある。7を3で割らねばならぬ時、ため息がでる。あまりはいくつなのか。足し引き掛け割り。いわゆる四則演算である。こんな四則演算は人間の意識の現われであるということ。四則演算と人間についてかんがえたい。


  哲学者ブラウワーの直感主義についてである。数学には無限とか、ルートとか、直感的にはどうもわからないものがある。ブラウワーはまず、直感的にわかるものから少しずつ、地道に積み上げようという。八百屋さんへ行って、トマト三個ください、といってみる。いわゆる自然数がなじみある。自然数直感からスタートするのだという。これに対して、論理主義はいきなり無限や無理数を直感的にわからなくても導入するのだという。

  次の話はローティ、哲学と自然の鏡、についてである。西洋哲学は主観と客観、自分と世界っていう二元論がほとんどだという。自然や宇宙を心に鏡のように忠実に映し出すこと。絶対的に正しい真実と虚構を設定。真理は絶対だという基礎付け主義だったという。そうではなく、プラグラティズム的転回を主張。そんな真理は不動だというひいきはしない。これを特権的表象という。そうではなく、まちがっていたらいつも修正、改正だ。だから、ソクラテスの絶対的な真理探究のための対話ではなく、ときに自説すら修正する会話だという。さらに不動のものではなく、みんなで連帯だという。


  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


  ホイラーはすべては情報であり、分子、原子もまずは実体のない情報からうまれるといった。そこで、以前話たが、心のなかも実体のない情報処理であり、外界も情報処理だ。ということは、外界の数学的事象は心、意識の現われだともいえる。たとえば、四則演算だ。除算、すなわち、割り算は自己意識。自分が自分を意識するが、自分´がたくさんできる。おのれをアトム化するのである。かって、フィヒテが自己意識の徹底による自己滅却といったが、自己意識が除算ならば0になることはない。0になるの減算だ。乗算、掛け算は膨大な数になるので世界観を含めたイメージ、表象生成のことだ。加算、足し算はものの認識によって知識を増やす事。減算は実践である。実践することで0になるとはエネルギーを使い果たすことで、実践によるエネルギー消費がある。

  さて、虚数とはなにか。二乗して−1になる数。二乗とはいってしまえば乗算、掛け算なので、イメージ、表象世界。しかも、二乗なので壮大な徹底したイメージ世界であり、これが−1つまり、減算なので実践だということ。壮大なイメージ界は実践だという、いわゆるインナースペースは別次元に通じ、そこの実践形態であることをいっている。


  


  ベルクソンの自由論とコンディヤックの哲学についてである。ひとや動物の体は小麦粉ではできていない。細胞やDNAである。このDNAがくせものであり、おもわず、顕微鏡にむかってこのくせ者っと叫んでみる。洗濯かごの靴下に向かっても時折、太陽と月が重なった夜などにまれに叫ぶ。DNAのほとんどがジャンクDNAであり、これはひょっとしたら異次元、高次元のゲートではないのか、というお話をしたいのだ。


  ベルクソンの自由論についてである。世の中には決定論と偶然論がある。おぎゃっとうまれてから死すまで、宇宙がはじまってからおわるまで、すべてが一寸の狂いなく決まっているというのだ。決定論者は過去や未来をタイムマシンで旅をして、ひとことつぶやく、すべてが決まっていると。他方、偶然論者はいまこうやって銀杏拾いやっているのはたまたまであり、もしかしたらいまアメリカ留学中だったかもしれない。すべてが偶然だという。これまた、こんどはひょっとしたらの並行世界を自由に旅するマシンに乗ってそういっている。つまり、今この瞬間に生きていなくて、時空を越えて旅しているのだ。ところが、ベルクソンは自由だと主張する。しかも、自由とは何かと、と問えないという。なぜなら、問うか、問わないのか、最初からすでに問う以前に自由はあったのだ。自由は問いではなく、事実だという。


  次の話はコンディヤックの哲学についてである。感覚論者である。生まれながらにしてもっているもの、先天的に持っているものなんかない。すべては感覚によって生まれるという。紅い、丸いという感覚は受動的だが、成長すると自発的になっていく。言葉をつかうのだ。りんごはおいしいというのだ。認識は進化して、言葉が進化させるという。また、いろんな感覚があるが、とくに皮膚感覚、触覚が重要だという。そもそも、眼球による視覚だって、皮膚感覚の進化したもの。りんごをさわると冷たい。自分の足を触ると、足は同時に手にふれられると感じる。つまり、触覚は二重感覚をもち、これが私と世界、主観と客観にまずはわけるのだという。


  まとめ


  存在の科学


  異次元理論


 
   生物はDNAをもっているが、その99パーセント使われていないジャンクDNAだという。残りのわずかだけが祖先からの情報を引きづく。圧倒的な数のジャンクDNAは肉体的な情報ではなく、意識を形成しているものではないのか。

  DNAは論理的な情報、言語である。だからロゴスともいえる。先天的なロゴス、これは聖書の黙示録がいう、はじめにロゴスありき、だ。また、DNAに光が満ちているといい、これをバイオフォトンという。聖書では、はじめに光ありき、という。

  さて、ジャンクDNAの螺旋にフォトン、光がらせん状に移動する。すると、螺旋は宇宙の構造だと以前はなしたが、光速を越えてタキオンになるのではないのか。タキオンはすべてが逆である。時間もフォトンと違い、未来から過去へと流れる。つまり、高次元につながって、まさしく意識であり、クオリアなのだ。以前話たが、境界面上に進入するガイド波。ガイド波に乗っているフォトン、光子がその境界面上で光速を越えてタキオン化し、これがクオリア、意識になるといった。この境界面はいたるところに存在し、ジャンクDNAなのではないのか。同じ事象を別に視点からいっているのだ。体内のあらゆる境界面上、ここに触覚、触覚の発達したものといわれる網膜や鼓膜もあるが、ここにジャンクDNAによるタキオンがあり、高次元のゲートがある。


  ベルクソンは自由を事実だといった。しかし、先天的に自由意志があり、これははじめから決定しているもの、つまり必然なのだ。ジャンクDNAの高次元へのゲートからやってくる意識。これは自由は事実というより、先天的で高次元的な必然性といわるかもしれないのだ。

  



6-11


 自己組織化と不完全性定理についてである。意識も宇宙も最初はひとつだったが、事情あってずれてきた。そして、だんだん無骨になってきてついには何者かになる。くせものっと叫び声が聞こえるがそんなおちゃめなくせものもまた宇宙の対称性崩壊によるのだ。意識や宇宙は無限ループでらしさをゲットする。無限ループとアナキズムについて考えたい。


  自己組織化についてである。いててっとすりむく。生命というのは自分を治そうとする自然治癒力が働く。自分自身を組織化するとはいかに。本来なら、理屈上、論理的には、自分が自分自身に云々したり、触れることは矛盾する。これを自己言及という。私はうそつきだと叫ぶ。うそつきか正直者か、どっちかわからない。これは日本語で書かれているという。日本語で日本語云々は自己関係なんでNG。ところが、例外がある。自己組織化、オートポイエーシスは自己矛盾なのに生命の特徴。論理学では、排中の原理。こちらは水戸黄門か、水戸黄門以外のいずれかである。この排中原理では、水戸黄門以外のなかにこれを主張している当人も含んじゃう。自己関係してるのに、これは成り立つのだという。自己意識もまた同様である。


  次の話はゲーデルの不完全性定理についてである。不完全性定理もまた自己関係なのに、自己矛盾免れる冷害といわれる。まずは公理っていうものがある。これは最初に設定される絶対的なもの。有無を言わさず設定。このあとに、ここから定理や定義がうまれ、壮大な理論体系になる。さて、理論体系のなかで矛盾も無い場合は無矛盾という。また、理論体系のなかで真だか、偽なのか、ほんとうかうそか、曖昧なものがまったく無い場合、これを完全性という。無矛盾のときは完全性は成り立たず、完全性のとき、無矛盾ではない。これが第一不完全性定理。第二不完全性定理はある理論体系のなかで、この理論体系は正しいんだよ、とその中では証明できないというものだ。


   まとめ


  存在の科学


  異次元理論


 

  前回お話したように、外界宇宙は最初は対称性があった。これがときとともに、対称性が崩壊し、具体的な物質が生まれる。精神、意識もまた最初は全時空に意識がしみわたっている対称性だったのだが、意識を液体にたとえると、意識ではない気泡が増え、つにはバブルがはじけるといった。この気泡が意識の中の非我である。いずれにしても最初は意識と外界宇宙は同じだったのだが、対称性が壊れて具体的物体と個人になる。このとき、そうあれと意欲すれば、物理宇宙もそうなる。なぜなら意識=宇宙だから同一関係だからだ。それが意識と物理宇宙のずれによって指示関係になり、さまざまなバイアスがかかって、コーヒーカップを動けと思っても動かなくなる。手で押した時に動くという制約がかかっている。

 思想史をみると、まず、観念論があり、実在論になる。近代では意志、意欲によって効用もとめて資本主義がある。つぎに社会主義、唯物論である。この次にくるのが、スピチュアルでもなくマテリアルでもない何か。情報なのだ。ホイラーは物質も最初は情報だといった。実際、すべての数学理論が物質化しなかった。物理は対称性の崩壊によって特殊化してきた。意識もまた実体のない情報だ。


  ここで、実体なき情報がどうやって意識、物体になるのか考える。自己言及、自己組織化である。自分が自分にかかわると、悪循環、無限ループでエラーである。ここで提案したいのが、以前はなしたが、六次元までいくと、点であるゼロ次元につながっているという高次元世界観。この次元を超えたループなら自己関係による矛盾、悪循環を避け、特殊化、バイアスがかかってくるのだ。精神でも物質でもないその大元であった情報にリセットされ、新たなる高次元ループによる自己制約、バイアスがうまれるのだ。資本主義、自由主義と社会主義のあいだに日の目をみることがなく潜伏していたアナキズム思想。政府なくしてどうやって制約があるのか。個とし、おのれにバイアスをかけるのである。カントのいう自律がここで完成され、資本主義の流れを汲むアナキズムでも、社会主義の流れを汲むアナキズムでもない第3の新たなアナキズムがうまれるかもしれないのだ。


6-13

  整合説とパトナムの正当化についてである。おれは自由だといって、鳥かごから飛び出し、今度は虫かごに入る。自由とはなにか。好き勝手に欲望おもむくままは自由ではない。矛盾するような言い方だが、自由には宇宙全体にまで及ぶ超強力な原理原則がるのかもしれない。

 
  整合説についてである。真理とはなにか、というのが真理論。まりちゃんとは呼ばない。一番、ふつうなのが、真理対応説である。心のなかのイメージの配置。パンツのよこに鉛筆削り、というイメージが実際の外界の世界の配置とぴったり一致すれば正解、つまりは真理だ。心と世界との対応が真理というもの。そして、これでは心と外界の世界、主観と客観というようなはっきりした仕切り、壁がある。こんな壁を取っ払うのが整合説だ。私も世界も関係なく、論理的な全体。この全体のなかで筋が通っている、整合的であることだという。


  次の話はパトナムの正当化である。これはさきほどいった整合説の典型だ。ここからこっちが私で、この胸毛の先端から向こう側が外界の世界だときっぱりいえるだろうか。胸のうちとか、腹の中、心のなか、というように内面と外界をはっきりわける。そうではなく、心も外界の宇宙もすべてが宇宙側だというのだ。しかも、すべてが神様の心のなかという観念論ではなく、なんとすべてが内側でしかも実在しているという。私と世界が共同して私と世界を作るという。しかも、こうなると、一なるものが真理だということなく、なんだかざっくばらんにいろんなスタイルが増殖しそうだが、一なる真理へと接近し、収束していくというのだ。


  まとめ

 
 存在の科学


   異次元理論


   以前、二つの箱の話をした。ひとつの箱には白い球、もうひとつの箱には赤い球を入れる。この箱の片方を東京、もう片方をニューヨークに持っていく。東京にもってきた箱を開けるまでは中は赤い箱と同時に白い箱、波動状態である。あけた瞬間、赤い箱だった。すると、瞬時にまだあけていないニューヨークにある箱へと、こっちが赤だからそっちは白だという情報が光速を越えて伝わる。これが射影公理による収束、軌跡解釈における非局所相関だ。

  さて、もしもこんな相関がないとしたら、ニューヨークの箱のなかも赤い球かもしれない。このとき、ひとはこの箱をどういうわけかあけない。観測者は辻褄、整合性の取れないようなことをしないように動くという行動原理があり、これが自由意志の原理原則になっているのだ。もちろん、原理といっても、公理があって体系のなかで閉ざされているものではなく、宇宙全体のなかで働くものだ。仮にこの箱を開けたとしても、きっとあれかが赤い球を入れたに違いないと、こんどは正当化のプロセスに入るのだ。


    

   6-14


  環境内存在と世界内存在についてである。生物や物体は宇宙のなかにあるし住んでいる。たんぽぽだって、ぺんぺん草だって例外ではない。ところが人間はもっと深い生息のしかたなのだ。高次元のなかに住んでいるのである。


  ユクスキュルの環境内存在についてである。人間は動物も植物もみんな物理化学的世界に住んでいると思っている。ユクスキュルは種特有の世界にみんなそれぞれ住んでいるというのだ。人間には互換があり、脳で考える。こうやって知覚できるものを知覚標識といい、これらの全体が人間の知覚世界。こんどはワニをみて一目散に逃げるが飛べないが足があるので走れる。これが作用標識であり、なにができて、どう行動できるかのすべてが作用世界になる。作用世界と知覚世界をあわせて人間の世界。さて、ダニはちがう。明るさを感じる明度覚、そして、温度を感じる温度覚など。これがダニの知覚世界。ダニは手足が五六本あるとおもわれるが、ジャンプ力はある。ダニの作用世界。これらをあわせてダニの環境世界なのだ。おのおのの種が分節してべつべつの環境のなかに環境内存在しているのだ。



   次の話はハイデガーの世界内存在についてである。ハイデガーはユクスキュルの環境内存在に影響を受けた。人間は岩石のようにただ存在しているのではなく、世界のなかにしみこむように、世界に開かれて存在。世界内存在である。まずは、私は私自身とずれる。これが時間になり、時間地平がオープンだという。つぎに、私が私自身とずれることで、私の存在そのものの輪郭、地平が見えてくる。これが存在地平だ。そして、この存在地平のうえに和菓子、洋菓子、おもちゃ、以下略なのでだが、あらゆる存在者が現れる。人間は存在しているのではく、存在そのもののに開かれ、かかわりながら存在しているので、現存在とよぶのだ。


   まとめ


   存在の科学



    異次元理論


    唐突だが、活火山について考える。火山の下には溶岩だまりがある。その下には川のように溶岩が上にむかって流れている。地中深くの岩石がこすれ、高温で溶けてこれがマグマだまりになるのだ。さて、山というのはプレート、マントルの動きでひずみができたところ。だから、そこの圧力がはらき、地中の岩石を溶かすのだ。地球的なプレートの動きが山だったのだ。さらに、プレートの動きは地球の自転公転によるものだ。このように、宇宙全体がそうさせているのだ。台風だって自転公転だ。木っ端が風で動くのも、地球的宇宙的規模だ。植物もおそらく同じ。このように三次元宇宙の全体が関与している。環境内存在しているのだ。

 
  ところが、人間はちがう。三次元空間内存在ではなく、ハイデガーのように時間地平をひらく、つまり四次元時間内存在であり、同時、五次元内存在だ。これが人間の意識をうむ。たしかに、無機的な物体もまた五次元からくる重力子によるのだが、物体、肉体はそうだが、物体、肉体の活動、うごかすんは、動植物、無機的物体においては三次元内のものだ。人間の意識は高次元内存在しているのである。


  

  6-16


   存在の科学


   異次元理論


   宇宙は刻一刻分岐しているという。生きている金魚をみて喜んでいる私のいる世界と死んでいる金魚をみて悲しんでいる私のいう世界。世界そのものの選択、つまり、自分の行為実践そのものが世界、宇宙そのものの生成である。

  宇宙は最小の大きさ、プランクスケールのひもでできているという。このひもがはじかれて、振動数によってさまざまな素粒子になる。さらに、この小さなひもには高次元が巻き上げられているという。余剰次元である。たとえば、ロープを遠くからみると一次元の直線。近づくと、ありがたかっていて、二次元の平面だ。もっとみると三次元でもある。ひもはあまりに小さいので5,6,7,8,9次元がまきあげられてみえないのだ。

  さて、プランクスケールのひもに高次元が折りたたまれている、折り紙にもいろんな折り方、たたみ方がある。カラビヤウ多様体である。ひも、弦によってはじかれ、このカラビヤウの畳かたでホルンや管楽器のように共鳴している。その解は10の50乗、0が50個つく膨大な解の数だ。このなかにわれわれの住む宇宙の正しい解があるという。そうではなく、じつは10の50乗のすべてが正しいのではないか。さきほどいったように、宇宙を行為によって選択、生成するとき、宇宙の最小のひものなかの高次元の形まで選択、生成、これが並行世界の分岐、自分の行為=宇宙生成になっているのだ。


  こうなると、私の実践は物自体というように、実践、行為が宇宙そのものの生成。梵我一如である。この梵我一如を論理的に証明したい。排中の原理は自己関係になってしまうので矛盾するはずなのに矛盾しない。これはピーナッツか、ピーナッツ以外のいずれかである。このピーナッツ以外のなかに主張している当人が含まれているからだ。そうではなく、もし私自身、主張するものが宇宙全体だったらこれはおきない。私のなかの部分集合であるピーナッツ以外について言及しているからだ。私は宇宙のなかの部分集合ではなく、すべてのものが私のなかの部分集合であれば、宇宙=自分であれば排中の原理は矛盾しないのだ。


  6-17

  二項対立と共感覚についてである。寝癖が激しく、たまたま通りすがったヤマアラシのメスにプロポーズされる。なんだか、シこ立ちでピースしながらの告白だったので、おそらくはプロではなくアマチュアっていうことでアマポーズとしておこう。問題はなんで寝癖なのか。睡眠中、寝返りをしたからだ。悪漢に追われ、最後、窮地に追いやられてついに非力でありながらも宇宙戦艦やまとをほおりなげて撃退した夢でもみたのであろう。夢とはなにか。実は大地、地球の内部の脳内イメージとのシンクロ、共鳴ではないか、というお話である。


  二項対立についてである。男女、上下、左右、内部と外部、精神と物体、心と肉体、音声と文字、自分と他人。これらが互いに対立しているという。しかも、リングの上では一方が優勢であり、他方は劣勢だと実況している。デリダはこれを第一項目は特権をもっているという。心のほうが肉体よりすばらしいとか、内部は外部より大切など。音声っていうのは自分がしゃべったことは直接に耳にはいってくる。文字だと作者がいなかったり、いろんな解釈できちゃう。ところが、音声のなかに文字的なものが潜伏しているという。音声をパロール、文字をエクリチュールといい、これを原エクリチュールとよぶ。そして、なんと、自分のなかに他人がひそむという。私は私だと即効、言い当てられないという。私のなかに他人がいる。w多足だといっても、それは私の残像、痕跡だというのだ。


  次の話は共感覚についてである。一般的にいう五感が混ざり合っている、病的かどうかははっきりししないが、混在した感覚だ。たとえば、色をみて音が聞こえたり、味わって色がみえたりである。とりわけ、そのなかでもミラータッチ共感覚というものがある。やまちゃんが斉藤くんにくすぐられているのをみて、私自身が本気でくすぐったくなること。他人の感覚が自分に伝わってしまうのだ。


   まとめ

  存在の科学


 
   異次元理論


   世の中の二項対立を重ねてみる。覚醒と睡眠。これは覚醒と夢としよう。生と死と重なる。頭上に太陽がある天と太陽のない大地。秩序と無秩序でもある。夜、寝ているときは天、太陽ではまく、大地とシンクロし、共鳴していてそれが夢なのではないか。脳は電気信号であり、ある種のプラズマ状態であり、これが脳内にホログラム映像を浮かばせる。太陽もまたプラズマ状態だといい、一種の脳であり、この脳内イメージの投影が太陽系かもしれない。そして、地球もまた内部は脳内イメージ、プラズマにおけるホログラムである。地球は広大な体積であり、この中の地球脳のイメージはもはや現実に近い。これが地球空洞説にいうシャンバラやテロス。われわれの睡眠においてはこの大地、地球内イメージとのシンクロ、共鳴があり、これが夢になる。さらに、同じくに功対立においては大地は混沌だった。だから、夢において支離滅裂であったり、感覚が混ざり合う、すなわち、共感覚状態だとおもわれるのである。



6-20

 意志と表象の世界、そして、プレスナーの離心性についてである。 顔とお尻が一致しない。名前を思い出そうとがんばってみる。どうしても、名前を思い出したいという意気込み、意志はあるのだが、考えていると脳裏にネグリジェを着たピーターパンが時速300キロでよぎるので気が散って思い出せない。意志と記憶、これはまさしくブラックホールの構造そのものだった。

 哲学者ショーペンハウワー、意志と表象の世界、についてである。個人には意志がある。よいしょといって、重量あげの選手がバーベルをもちあげる。意志がまずあって、つぎに持ち上げ方などのイメージ、表象がある。正直言ってしまえば、この世界のほとんどがイメージ、表象である。だれでも、すべてを見通していない。友人の靴下のなかの親指、みていないがあると想像する。宇宙もまた普遍的意志があるという。この上に、宇宙のイメージ、表象がある。この表象は具体的なものではなく、イデアだという。いろんな鉛筆があるが鉛筆そのもののイデアなのだ。

  次の話はプレスナーの離心性についてである。物体っていうのは空間に位置があるだけだという。有機体は自分の空間位置がずれているという。ばい菌なんていうのは全体の中心とばいきんちゃんひとつの中心のずれ。さらに動物は身体を動かすための自己がある。そして、ついには人間なのだが、身体のなかには魂があり、自分がいる。さらにそんな心と体があるんだな、と感じている第三の視点、眺望点がるという。いたって冷静に傍観者として自分をみている。この三重構造、心がずれているということが離心性とよんでいる。


  まとめ

  
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   異次元理論


   意志や意欲と記憶はどうもちがいそうだ。記憶というのは自分自身の意志ではない。なんだか間合いがあるのである。この意志と記憶はブラックホールの構造と同じである。ブラックホール落ちると加速度が増す。ついには光速を越えるのだが、これはタキオンであり、荷量も逆だし、時間も逆転する。一度、この一線を越えたら光ですら戻って来れない。この光速を越えてしまう限界面が事象地平面という。ブラックホールに吸い込まれると事象地平面ですべては刻印、記録されるという。ブラックホールの記録容量、エントロピー、情報量は事象地平面の面積に比例するという。事象地平面をプランクスケールの格子状にしたとき、その光子ひとつが1ピットである。ブラックホールは記録媒体、ハードディスクだったのである。ところが、相対論だと観測者の慣性系によって異なって観測される。第三者の位置から観測すれば、かりにやまちゃんがブラックホールに吸い込まれているとすれば、高温になって焼かれてしまい、ついには事象地平面に刻印される。ところがやまちゃん当人にとってみればただの自由落下運動であり、ただの浮遊状態が続き、温度もあがらず、事象地平面を越えてしまうのだ。プレスナーの意識の三重構造ではないが、この第三者敵な眺望点によって、記憶がうまれ、当人になれば記憶はないがそれが意志、意欲になっているのである。 




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4-25

二元論と全面的反実在論についてである。しゃがんでいる私と立っている私が同時に重なっているなんてナンセンスである。ところが、本当のところ、世界はすべての状態が重なっているのではないか。そして、心がそんな並行世界のなかをスイスイ泳いでいるのだ。

二元論についてである。2つの世界でできているという。やはり、デカルトの二元論だ。心と物体はまったく違う、互いに関係のない別の世界だという。からだも物体であり、からだの情報を心に伝え、心が命じるようにからだが動く。ここでやむなく、デカルトは脳の一部で心と体がつながっているというのだ。


次の話はダメットの全面的反実在論についてである。まず、全面的実在論を試みる。心っていうものはなくて、すべてが生理学的なもの、だから、心はからだの動き、行動にあらわれるというワトソンの行動主義。パブロフの犬がよだれをたらすのも、うそをつくと手汗ばむのも観察できちゃう行動だ。もうひとつに現象主義というものがある。食パンがある。そこに物理的あるとはいわない。ありのまま、感じたままを言えばよいという。白くて、四角くて、柔らかいという感覚情報、センスデータがあるというのだ。

さて、このふたつの実在論を両立しようとするとそれgできないのだ。あっちがたてば、こっちが立たなくなる。矛盾してしまうので、全面的実在論は不採用。よってすべては実在に反しちゃうという全面的反実在論になるのだ。


まとめ

存在の科学


異次元理論


シュレディンガー方程式は波動方程式であり、すべては確率波だという。これだと、すべてが確率的に存在してしまう。ボールが右上と同時に左下にある。これだと都合悪いのでボーアは射影公理を提唱。意識が複数の世界のひとつにきゅーっと収束させるというのだ。ところが、射影公理でなんとかならないかを考えるのである。

まず、電子が一個、箱のなかにあるとき、電子は我々からすれば小さすぎるのだが、箱の右上にあると同時に左下にもある。あらゆるところに確率的に波としてあるのだ。さて、太郎くんよりも限りなくでかいものがいる。かれにしてみれば、太郎くんは電子のようだ。つまり、太郎くんは東京にいると同時にニューヨークにいる。

ここで裸の解釈説である。我々は最初からシュレディンガーの波動の真っ只中にいるというのだ。つまり、裸の、ありのままの並行世界にいるのだ。太郎くんが遊びにきた。交通機関を使ってここまで来たんだよね、と問いたずねる。はい、と答える。このとき、太郎はバスできたと同時に電車できたのだ。つまり、わからない、みえないものはシュレディンガー波動方程式そのものだ。

次は多精神論について。世の中は基本的に心と物体の二つの世界でできているという二元論にたつ。シュレディンガー方程式は物体の世界の法則。だから、すべての世界の状態は重なりあっている。恐竜が絶滅しなかった世界もある。しかも、各々の世界はちゃんと因果律に従い、連続性をもっているのだ。そして、そんなすべてが重なった世界に心がたえず分岐しながら泳ぐのである。心、精神がいっぱいあるから多精神論である。ところがここで問題が発生。私はサイコロの目を5と見た世界に心が移動。太郎くんは6にみえる世界だ。辻褄があわなくなるので、単精神論がでてくる。私と太郎くんは根本では同じ精神、心だというのだ。

さて、ここで言いたいのは、多精神論でありながら矛盾を避ける方法。私の心は5、太郎くんは6。すると、もはや、わたしにとって太郎くんは心のないもの、感じることができないものとして現れているのだ。要するにわたしにとっては無機的な物体として出現しているのである。太郎くんにとっての私も物体にみえているのだ。


5-01

意志と表象の世界、そして、写像理論についてである。ひとり部屋でもじもじしているとき、とりわけ、ティッシュをサンダーバード1号のように尖らせてはなの穴に突っ込んでいるとき、ふと気がつく。この世界のすべての生命体、意識体は宇宙の現れ、別宇宙の時間軸の影ではないのか、ということである。


哲学者ショーペンハウワー、意志と表象の世界、についてである。太郎くんや次郎くんの個人的意識。よし、らっきょを指で動かすぞ、と意志が働く。そして、つぎにじょうずに動かすためにはらっきょをイメージするのだが、これが表象である。意志のうえに三年ではなく、表象が乗っかる。宇宙にも意志がり、これは原因と結果の因果律だ。宇宙の意志のうえにも表象があり、これはイデアだという。らっきょのリアルなイメージではなく、らっきょそのもののイデアだ。

さて、個人が意志すると苦悩が生まれるという。だから、まず、宇宙の表象である純粋なイデアをみる。これが芸術の救済である。そして、さらに意志を消そうとストイックになる。意志が消えると表象も消え、ついには宇宙も消えちゃうという。

次の話はヴィトゲンシュタインの写像理論についてである。文や命題は世界の出来事と対応しているという。単語は世界の事実。文になると、世界の出来事、つまり、事象とか、事態と対応だ。ただ、世界と文はひとつだけ共有しているものがある。論理形式だというのだ。


まとめ

存在の科学


異次元理論


三次元空間だと煩雑になってしまうので空間軸を横軸のx軸にする。縦軸はtの時間軸にする。通常は直交座標系だが、相対論だと運動によってこの軸が傾く。そして、時間軸に光のようなものがあたって、x軸に投影された影が生命の意識なのである。意識とは時間的なものである。


三次元空間と一次元の直線時間軸が合わさって四次元時空、四次元ブレーンになる。これが無数に五次元空間に漂う。ある四次元時空に光のようなものがあたって、我々の物理的な三次元空間に投影された影が生命の意識なのだ。別並行世界の時間軸の影が無数に影を落とし、これがたくさんの生命の意識きなる。さて、光のようなものといったが、光子はブレーン上を移動し、同じものがブレーンの外から進入したばあいを重力子、グラビトンだといった。つまり、重力子があたった別宇宙の時間の影がこの世界のあらゆる生命意識になるのだ。



5-02


存在の彼方とアウグスティヌス時間論についてである。満員電車に乗ると見知らぬ他人がいっぱいだ。それでも、すべてのものは宇宙なのだ。ただし、我々の住む宇宙でなくて、別の宇宙。そこでふと考えるのである。我々の住むこの宇宙もまたひとの姿となっておられるのではないのかと。

哲学者レヴィナス、存在とは別の仕方で、もしくは存在の彼方へ、についてである。


5-7


ノエマとベン図についてである。なぜ、昨日まであったあのおいしそうなケーキが見たり、味わったりできないのか。おそらく、すでに消化され、下水道にいるかもしれない。過去は見えないのである。未来もまた、明日のことがみえない。当たり前なのだが論理的に考えてみたい。

フッサールのノエマについてである。りんごが落ちている。赤い、丸い、甘い、という感覚的な材料、これを感覚的ヒュレーという。これを向こうからやってくる。このヒュレーを意識作用、これをノエシスといい、あたかも、目から突き出した矢印のいうなもので、感覚的ヒュレーを突き刺し、組み立てるのである。こうやってできあがったりんごの全体イメージが意識対象のノエマである。


次の話はベン図についてである。ジョンベンという人が考案した。二つの丸があって、これが集合といわれているもの。重なっているところが論理積、ふたつの丸のすべてが論理和。つまり、論理を見易く図にしたものである。

まとめ

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異次元理論


過去や未来はどうしてみえないのか。量子の交渉解釈といおのがある。過去から未来へと流れる波を遅延波という。未来から過去へと流れる波が先行波である。遅延波と先行波が現在において干渉し、位相が同じなので、山と山、谷と谷が重なって強めあい、触れ幅が大きいところが粒子性が強いので輪郭をもって現れるのだ。そして、過去は遅延波と先行波が重なり、位相が逆なので山と谷、谷と山が重なって平坦になる。つまり、輪郭もなく、なにもみえない。未来もまた先行波と遅延波が重なり、逆位相なので互いに相殺し、見えなくなるのだ。

過去かた未来への遅延波を物質波。意識は以前話したが、未来から過去の流れなので 、先行波を意識波と名付ける。意識波と物質波が重なってものがみえる。論理積である。意識波をノエシス、物質波を感覚的ヒュレーとし、干渉した結果、輪郭のある粒子性が強いノエマができるのだ。




5-8

想像力と射影についてである。いきなりであるが、すべては波動ではないのか。舟ではなく波ぺいなのだ。しかも、時間と空間のなかにあるのではなく、時空そのものが波動によってできている。

哲学者サルトルの想像力についてである。斎藤くんを観察してみる。いろんな角度、視点から観察だ。正面、背後からは哀愁漂う背中。それでも、すべての視点から観察は無理である。足の裏は見せてくれない。観察は不完全、不十全である。ところが、斎藤くんがいなくなる。不在の場合は想像だ。これを準観察という。たしかにあの懐かしい横顔を想像できる。同時に、なんとどこから見たわけでもない、斎藤くんという概念、概念知というものもある。これは瞬時に全体を知ることだ。つまり、完全であり、十全なのだ。想像力のほうがリアリティーがあるのだ。それならば、もはや布団にもぐって想像しているだけでよい。これだとまずいので、それは現実じゃないんだよ、という不思議な力が加わるという。これが非言及化作用である。



5-9


実体性と主体性についてである。過去から未来、未来から過去、どっちもあり、という時間対称性。こんなことを口走ったらあの猫型ロボットも驚愕するであろう。時間が過去から未来っていうのが当たり前というのはじつに生命の記憶があるからだ。記憶をつくるために意志は働く。

実体についてである。アリストテレスの論理学に実体について研究されている。実体とは、時間が流れていてもかたくなに変わらず貫くものだ。りんごは腐るし、変色もする。場合によってはねずみにかまれる。変形、変化するのはりんごの属性であって、実体は変わらないというのだ。


次の話は主体についてである。



5-10


虚構主義とキアスムについてである。いまこの瞬間に見たり、聞いたり、感じているものは確実だと思っている。間違いなく、足の裏の感触からしてふんを踏んだ。それでも、すべてが確率波ならば、それがふんである確率は100パーセントではない。自分の目でみても、100パーセントでないことがこの世界が作られたシュミレーション宇宙であることを暗示している。

ファイヒンガーの虚構主義についてである。カントを研究したファイヒンガー。この世界のすべては粋な江戸っ子のようにてやんでー、タンポポだ、と断定できないのだ。タンポポかのようなものだ。三角形だって、よくみると、ぎざぎざの線。三角形かのようなもの。すべては原子でできているというが、だれも肉眼ではみれない。原子でできているかのうように、である。ただし、がんばれば少しは信憑性が増す。ところが、絶対に検証できないものがカントのいう3つのもの。神様、宇宙には自由があるか、魂は不滅なのか、というものだ。これを純粋虚構とよび、信じるしかないというのだ。ファイヒンガーはほとんど虚構だけど、少なくとも、自分が生きているっていうのは確実だ、という。いわゆる生の哲学である。


次の話はメルロポンティのキアスムについてである。すべては同じ肉でできていて、しかも、地続きだというのだ。主観と客観、自分と他人。それは断絶されているのではなく、くぼみ、底のある溝でわかれているという。だから、けつの割れ目よろしく、回転すれば、右っぺたは左っぺたになる。岩石があれば、私は岩石に反転し、岩石になったつもりで岩石を感じる。これがキアスムである。


まとめ

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異次元理論


過去から未来へと流れる遅延波は物質波。未来から過去へと流れる先行波として意識波だといった。このふたつの波が干渉し、今この瞬間に触れ幅が大きい尖った確率波になり 、粒子性の強いものを感じている。ところが横軸を時間や空間にしたとき、縦軸は確率であるのだが、どうしても百パーセントにはならないのである。おそらく、平均すると、97パーセントであろう。以前話したが、97パーセントと3パーセントの神秘的な比率である。宇宙の3パーセントは可視的な光やプラズマ。残りの97パーセントはダークマター、ダークエネルギーだ。そして、人間の意識活動も全体の3パーセントのプラズマであり、残りが肉である。そして、3パーセントのプラズマが意識波であり、先行波なのだ。今この瞬間の尖った波は残りの3パーセントが虚構というより、ここでキアスムが起こり、3パーセントのプラズマ、つまり、知的な意識活動なのだ。残り97パーセントはシュミレーション世界でむしろ虚構。3パーセントがシュミレーター、世界制作者だったのである。生きているとは逆因果を見かけ上消したり、3と97の比率をパタパタと連鎖的に反転させることで営んでいるのだ。



5-13


心身問題と時間意識についてである。広大な宇宙にトイレの個室で思いを馳せる。宇宙誕生からいまにいたるまで、心と物体ができる歴史である。心もまた、宇宙によってやっとのことで世に出現した。


心身問題についてである。心と物体、または肉体は全くもって違う世界というデカルト的な二元論である。また、肉体はパソコンのようなハードウェアであり、心がソフトウェアという機能主義の考えてもある。さらには心身一元論という思想。ラッセルは心と物体でもないなにかがあり、心身はこの二つの現れだという中性的一元論だ。フレーゲがいうように、意味と意義である。水をくださいという。科学の実験ではH2O問いわれる。真偽がある意味はいっしょだけど、意義がちがう。心と体も意味いっしょで意義がちがう。

次の話は時間意識についてである。フッサールはちょっと前の過去をとどめ、今なにかを感じ、未来を予測しているのが時間意識だと考える。そして、時間の流れを感じているのだが、流れを感じるには止まってないといけない。とまりながら、ながれるのが絶対的意識流だという。ベルクソンは意識は時間であり、しかも、量じゃなくて質だという。物体は空間であり、量的なもの。空間は延びきった弛緩態、時間、意識はぎゅーっと収縮したものだという。

まとめ

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異次元理論


ビッグバンで宇宙は誕生し、膨張をつづける。最初は超高温状態ですべてが対称的だった。ところが、膨張すると冷えてきて対称性がこわれる。だんだんいびつになってくる。最初はひとつしかない力も四つにまでふえる。重力、弱い力、強い力、電磁気力である。こうやって、徐々に、対称性がこわれ、ついには物質が生まれる。心、意識もまた、同じだ。最初は時間対称的であり、因果律と逆因果があった。ところがこれが崩壊し、因果が強くなり、過去は記憶によって事実固定され、未来は未知。すなわち、時間意識が生まれる。

さて、宇宙の一生と人間の一生もまた同じようなプロセスだ。生まれてすぐはまったく記憶をもっていない。だから、過去も未来も同じであり、限りなく時間対称的である。宇宙の始まりといっしょだ。そして、ついに記憶が増えて、過去と未来の対称性が壊れ、徐々に、逆因果が減り、因果律だけになってゆく。つまり、歳を取れば因果律が強くなり、時間が加速するのだ。時間が早く感じるようになるのだ。



5-14


共時態と上空飛翔的思考についてである。野山に咲くぺんぺん草をみていると、なんだか植物は互いに会話しているようにみえる。植物と人間、さらに宇宙の大規模構造。上にあるごとく、下もかくあり、っていうことで、植物からいろいろ推察したい。


ソシュールのいう共時態についてである。通時態というものがある。江戸時代の忍者はござる、といっていた。言語は時間とともに変化している。これを研究するのが通時言語学。十秒前の文法や単語の意味が変わっちゃたらコミュニケーションとれない。試合中に野球ルールがかわったらやってられない。だから、時間を止めちゃう。共時言語学である。言語の音とか、文字の形、すなわち、言語記号がシニフィアンという。ソシュールは記号はしいてきだという。言語の意味はシニフィエという。意味っていうのは冷蔵庫っていう単語のなかに積極的に含まれない。ただ、シニフィアン、記号の形からくるという。冷蔵庫と洗濯機の文字の形の違い、どっちがかっこいい形かではない。そして、発音の違い。これらの記号の差異が意味になるという。


次の話は上空飛翔的思考についてである。メルロポンテイは身体を中心にした思想。自分がいるんだという視点からもの申す。だから、神様は即宇宙だというスピノザの汎神論などの合理主義は超上から目線であり、猛禽類のように上空から獲物狙っているようなものだ。自分のいる状況なんて関係なくて、空中から見下ろす。これが上空飛翔的思考だ。


まとめ

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異次元理論


植物をみると、すべてがわかるかもしれない。上の如く、下もかくあり。大規模宇宙の構造、人間同士の関係、これが植物にフラクタルのように、アカロジカルに現れている。

最近の研究で、どうも植物はコミュニケーションをとっているという。一本よりも同じ種類寄せうえのほうが育つという。しかも、人間の五感のような感覚器もあるというのだ。風にのって様々な情報を伝えているのだ。生殖は昆虫を介してやている。同じようなことが人間同士、四次元宇宙同士もやっている。まず、以前話したが、五次元宇宙のなかでは時間を越えた
論理波があるといった。我々の知り得ない論理、レベル4宇宙と、あたかも、冷たい空気と暑い空気が対流をうにだすようなものだ。この論理波は人間においては無時間、共時態である言語体系だ。植物では風である。生殖は植物において昆虫仲介であるが人間においても愛のキューピットのようななにかがあるかもしれない。生殖においてはからだがふれる。四次元宇宙同士では重力子による接近だ。ついには一度、世界が分岐して、デコヒーレンスした並行宇宙が交わるのだ。これにはじつは問題がある。2つの異なった歴史がであってしまうのだ。じつは記憶違い、同一事象をちがうカメラで録画したときに津実mわがあわない。そんなことはじつはふつうにあるのだ。この時空の干渉が新しい時空がうまれるという性交渉のようなものだ。



5-15


チョムスキーの生成変形文法とアナロギアについてである。ペラペラとしゃべっている。目は口ほどにものをいうらしいが、風をひいたときは鼻がピーっと甲高く鳴くこともある。いずれにしても、言葉を話すことは口が最初にあることだ。ところが、ほんとうは言葉が最初にあって、言葉が自分をしゃべらせているのではないのか、というお話をしたい。


チョムスキーの生成変形文法についてである。なんで子供はいとも容易く母国語を覚えられるのだろうか。チョムスキーは英語、中国語、日本語でもすべてに当てはまる普遍文法を最初から知っているというのだ。これは強烈に強い規則でもなく、なんでもokという極端に緩いものでもないという。どっちかという緩めの規則であり、なんと、わずかな単語を知ると、どんどん連鎖的にいろんな単語、文法を知ることができるという。変形する規則を自動的に生み出す装置を生まれながらもっているという。これが生成変形文法だという。


次の話はアナロギアについてである。つっぱりが原因で土俵の外にだされるのが結果。これが因果律だ。ところが、アナロギアは一なるものが無数のものを照らすのだ。世の中にはいろんな存在者がいる。靴下の種類だってたくさんある。これらはずべて存在っていう性質をもつが、一なる存在があまねくすべてに類比的に入り込むのだ。三角形っていうのは、二等辺三角形とか、正三角形とか、いろんな三角形の類似した共通したものだが、これまた、アナロギアだ。神様もすべてに臨在するというのも、中世哲学のアナロギアである。


まとめ

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ふつうに考えると、肉体が最初にあって、つぎに言葉、つまり、ロゴスを放つ。ところが、五次元宇宙は我々の知りうる論理だけでなく、別の論理がある。レベル4宇宙であるといった。これは感情である。この論理と感情五次元において波動、風をうむ。さて、言語は論理だけでない感情表現も文法的に含まれる。だから、言葉それ自体で自動的に活動しているのだ。言葉が肉体を使ってしゃべらせているのだ。生成変形文法はあくまでも単語、文法の生成だが、話す内容、肉体の動きまで生成しているといいたいのだ。これは本末転倒の逆因果であり、因果律でなく、創造行為であるアナロギアだ。


ところで、自然言語ではなく、人工言語というものもある。コンピューターのプログラム言語である。ハードウェアやソフトウェアはプログラムに従って動くが当の本人はもしかしたら自分がプログラム言語を話していると感じているかもしれない。つまり、我々が話している言葉は、逆に我々を動かすプログラム言語なのである。




5-16


遠近法、そして、事実と正当化についてである。歴史的大事件に潜む暗躍する謎の秘密組織について今回はお話するのではない。謎の事実関係の混乱、というか、謎の不条理性について考えたいのだ。じつに、史実の影には並行宇宙のドッキングがあったのである。

遠近法主義についてである。プラトンは遠近法主義が嫌いだった。別にどっちが手前にあるかわからない、いわゆる、深視力がないというわけではない。たとえば、じゃがいもがったら、それはどこからみたじゃがいもではなく、視点なんてないじゃがいもそのもののイデアの影というからだ。現代においてはフッサールの射影である。ここからみたじゃがいもと後ろからみたそれの断片を、このじゃがいもの射影とよび、これらを意識がまとめて全体のイメージを作るという。ニーチェはみえかただけでなく、好き嫌い、善悪、その価値のすべてが、自分からの遠近法であって、決して、隣人の目、鼻、あたまを借りれないので、共有するものはなにもないという。だから、無からの創造をする超人の生き方をオススメしているのだ。

次の話は事実と正当化についてである。パトナムは事実もすべて価値判断だという。たしかに 、床のうえのこの猫は化wいらしい、というのは価値判断だ。床のうえに猫いる、っていうのは一見、事実判断に聞こえる。床は非生物、猫は生物であり、ちゃんとカテゴリーわけをしている。物理的な事実だけでないので列挙とした価値なのである。そして、うにだすようなものだ。宇宙のなかに私がいるというのは事実ではなく、私と宇宙で互いに私と宇宙を作っているという。私の外に宇宙があるのではなく、私も宇宙もすべて内側であり、事実ではなくいつも正当化しているというのだ。


まとめ

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異次元理論

歴史的大事件の背後には不可解なことがある。別段、ここで具体的な名前を出さない。目撃情報や証拠VTRの各々の辻褄があわないのである。

前回も話したが、一度、わかれてしまった並行宇宙は二度と干渉、合流しないというのがデコヒーレンスである。ところが五次元のなかの無数の四次元時空が干渉し、ひとつになる。つまりはコヒーレンスを起こしているのではないのか。四次元時空はひとりの人間のようなもので、ひととひとがひとつになること、つまり、子宇宙の誕生ゆえに各々の宇宙において産みの苦しみがあらわれるのである。だから、過去の事実は別宇宙だったときの期間は事実が一致しないのだ。昨日、右手をあげた私と左手をあげた私に分岐し、今日 、そのふたつの世界がひとつになったとすれば、目撃者の記憶、映像記録が一致しないのである。あくまでも、すべてが自分の視点からであり、確定的な事実はないのだ。

また、シュレディンガーの猫のように、箱の中の猫の状態はみていないときは重なっている。人間のいしき、心はまったくもって原理的にみえないので、状態の重ね合わせや世界の干渉はなにかの意識だ。歴史的大事件とは目にみえない精神、意識の誕生でもある。



5-17

法則と論理的原子論についてである。ぺらぺらとおしゃべりをする。たわいないことを話したり、超新星爆発などの世間話をする。言葉とはロゴスである。そして、そんなロゴスにこんどは我々の体は従っている。科学の法則もまたロゴスだからである。

法則についてである。法則といってもピンキリある。弱い法則といったら、ひとがつくった法律である。時折、違反してしまうときもある。ちょっと強い法則は道徳法則。哲学者カントであるが、他人にいわれてすることは道徳ではない。他律ぜはないという。自分が立法しちゃう、これが道徳であり、ゆえにまずは自由意志がないと自分自身で立法できないから、自由は道徳の大前提となる。 なんじなすべし、という道徳である。

もっと強烈なのが、物理法則だ。空中浮遊する行者がいるかもいれない。それでも、数学の法則はなかなか破れない。1+1を3にするのは難しい。そして、究極に強い法則が論理法則である。

次の話は論理的原子論についてである。ふつうにすべてが原子っていう粒でできている、というのが物理的原子論である。おなじように論理学もまた、論理的原子が集まって論理的分子になって、ついには命題になるというのだ。これが出来事、事象に対応しちゃうという。さて、この最小単位の論理的原子とはなんなのか。ヴィトゲンシュタインは慎重に、こうだ、とは断言しない。ラッセルは論理的原子とは見知りだという。理屈抜きであまりにも当たり前のもの、これが見知りである。


まとめ

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異次元理論


はじめにロゴスがあった。ロゴスから肉がうまれ、肉からロゴスがうまれる。いわゆる黙示録の見出しである。ロゴスとはことばであり、秩序、法則ということだ。我々はロゴス、つまり、ことばを話す。当然、肉体があってこそである。そして、肉体や物体は同じくロゴス、すなわち、秩序、法則に従う。この法則もまた何者かのことばなのだ。

五次元のなかに無数の四次元時空がある。この四次元時空各々が個人と同じだと以前話した。ある四次元時空aはbにロゴスで語りかける。bはこれを聞いて自分のなかに消化して、四次元時空bのいわゆる法則になるのだ。こうやってbのなかに法則があり、肉、物体がうまれ、人間が誕生し、またもや人間がロゴスを話し、低次元の法則になるのだ。



5-19


弛緩と収縮、そして、与件と被投性についてである。肉体や物体は粗であり、スカスカである。ほとんどは精神、意識の流れではないのか。しかも、なんで道端の石ころ動かしたりできるのか。地面のこびりついたガムだってヘラがあればはがすことだってできる。それは世界のすべての状態が重なったのが意識だからである。

哲学者ベルクソンの収縮と収縮についてである。過去が現在に食い込み、未来も混ざりあったのが時間だという。だから、本当の時間は精神、意識であり、量として測定できない質だという。ぎゅーっと凝縮したのが意識。物体というのはスカスカでゆるゆるになったパンツのゴム。弛緩したものが物体だという。

次の話は与件と被投性についてである。予告編なしでおならの音が聞こえた。自分が予め準備したのではない、向こうからやってくるもの、これが与件だ。

ハイデガーの被投性。自分っていうのは目の色が黒で、日本に生まれた。自分の意志で選んだのではない。歴史に押しだ素っ裸で世界に投げ出されたことが被投性である。


まとめ

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異次元理論


量子の波動を意識することできゅーっと収束して粒子にしているというフォンノイマンやボーアの射影公理。そうではなく、GWP理論は量子の波動が自然状態で粒子に収束する確率は限りなく低い確率だが数億年に一回ぐらいは奇跡おこる。人体や物体は膨大な量子の数なので一億年に一度の奇跡のものがたくさんあるのだ。だから、物体、人体はスカスカの弛緩体なのだ。大半の確率波がいわゆる気であり、意識なのだ。その波動はすべての状態が重なりあったもので、過去のすべての歴史、今後、起こりうるであろうすべての論理的可能性の全体なのだ。聖徳太子とジンギスカンが重なっている。今この瞬間のクオリアはいまではない過去と未来、ここではないそことあおそこの全体が重なった出来ている。



5-21


時間非実在論と非法則論的一元論についてである。光陰やのごとし、という。時は順序よくながれているし、つまみを小にひねってかろうじてぎりぎりのところで大を流すのが荒唐無稽テクニックである。時間の流れは見かけではないのか。ほんとうはすべての世界が準備され、トンネルでツナが手いるのではないのか、というお話である。


マクタガードの時間非実在論についてである。時間っていうのは実在しないという。まず、ふつうに過去、現在、未来というA系列を考える。論理的に理屈で考えると、やまちゃんはかって赤ちゃん今は青年、未来はじいさん。論理的には時間を考慮しないから矛盾するという。それでは前後はどうだろうか。ボタンを押したから、エレベーターがやってきた。押したのが前、エレベーター来たのが後。なんだか、ここにも時間がる。そこでここから時間だけ取り除いちゃう。すると、C系列だけが残る。これはレジで並んでいるのといっしょ。ただの順番だけである。

次の話はデイヴィットソンの非法則論的一元論についてである。物体は物理法則にしたがう。心はこれにしたがわない。辺りをみると、宇宙っていうのは心と物体。このふたつを混ぜたとき、共通の法則なんてないよ、というのが非法則論的一元論である。


まとめ

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異次元理論


時間の流れとか、辻褄のあった因果律というのは見かけ上のものではないのか。五次元空間のなかには四次元時空がたくさんある。時間軸は完成された超時間性である。いわば、世界の論理的にありえるすべての状態が時間の流れていない写真のように無数にあるのだ。いまいるこの世界とは砂粒ひとつが一ミリずれている世界もある。これらの世界を因果律で結びつけているのでなく、任意に自由意志で繋げている。わたしが立ち上がったとき、いきなりわたしがマンモスになっていたら辻褄あわない。これらの時空をつなげるのが時空のトンネル、穴であるワームホールであり、重要なのはそんなワームホールが私、我々の意志なのである。だから、結びつけている当の本人の意志が繋げているのだから、すべては辻褄があっているようにみえるのだ。心底、意志によって結んでいればすべては万事、見かけ上、因果的、整合性がとれているように感じる。心はワームホール、物体は時空。これらをすべて含んだ全体はたしかに非法則的であり、強い信仰による正当化が時間にとって変わるのである。



5-22


認識論と存在論についてである。ひょっとしたら、私はプロレスラーであり、今頃、リングの上でお茶を飲んでいたかもしれない。そんな並行世界は果たしてどこにあるのか。そう、なんとすぐそこにあるのだ。みえそうでみえないちゃぶ台の裏。裏がどうなってるか見たくて例のおやじはひっくり返した。壁のなか、天井裏にそれはある。


認識論についてである。どうやってひとは認識しているのか。まず、大陸合理論者、スピノザ、ライプニッツ。最初からデフォルトでもっているものをつかって演繹だ。スピノザは神様は宇宙だといった。これは猛禽類のように超上から目線でつむじしか見えなくて、まして、ミニスカのなかは永遠にみえないだろう。一方、経験論者であるロックやヒューム。経験から始まって、帰納によっていろいろ認識だ。そして、この二つをくっつけたのがカント。経験によって得られたものを、生まれながらにしてもっているツールでいじくる。合理論と経験論を結婚させたのだ。

さて、新カント学派のコーヘン。なんと、感覚や経験ですら向こうからやってくるのではなく、あたまのなかから湧いてくるというのだ。

次の話は存在論についてである。古代ギリシャのアリストテレスは存在について論じていた。また、ハルトマンは新存在論だ。カントのいっていたカテゴリー、つまり、生まれながらにもっているツールは認識のためじゃなくて、ものを存在させるためのツールだという。先ほどでてきたコーヘンと対立する思想だ。そして、現代ではハイデガー。存在論的差異といい、存在そのものは、具体的なキャベツ、レタスといった存在者とは違うという。しかも、存在っていうのはまず、人間という現存在がでてくるという。現存在とは脱自分であり、自分自身とずれるのが時間。こうやって自分の存在そのものを感じるのだ。これが存在の地平が開いたという。さらに、この上にいろんな存在者乗っかる。

まとめ

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異次元理論



並行世界はどこにあるのか。じつはそこにあるのだ。見えない、みていない、感じていないところ。壁の向こう、壁の中。そこは恐竜が絶滅せずに存続する別並行世界とそれとは真反対の世界が重なり、互いに干渉、コヒーレンスして見えなくっている。コヒーレンスしたからみていないのだ。見えている、意識している世界は互いに相殺しあって見えなかった世界が干渉せずにデコヒーレンスしたから見えるように粒子化したのだ。デコヒーレンスしたから意識が生まれた、見ているといってもよい。見えないほとんどが無数の世界の状態が重なった波動であり、現前しているのは粒子だ。みえないといったら、言語でも表現不能である感情だ。世界の大半の波動とは生命たち波動、確率波であり、蓄積された感情だ。これが自然環境の雲のうごき、天候、天変地異確率的な変動を産み出す。


5-23


善意志と対自性についてである。身の回りでおこる様々な筋書きのないドラマ。散歩中に、なんと100円という大金を拾ったり、力んでいるときにドアを開けられ、それがきっかけでお付き合いとか、とにかく偶然的な事象に満ちている。じつに、周囲の出来事は反面自分の意図、意志のあらわれではないか、というお話である。


哲学者カントの善意志についてである。善いことをしようかな、とおもう。善いことをして誉められたいとか、金儲けというのは善意志ではないという。こうすればこうなる、という原因と結果の因果律。これを実用とか、プラグマティッシュという。目の前のあらゆる現象は原因と結果の因果律に従っている。ところが善意志はプラグマティッシュではなく、プラクティスだという。実践である。原因もなくて、なんの見返りもなしに自由意志で道徳的で実践である。手が滑って善いことしたのでもなく、いわれてやったわけでもない。これが善意志である。

次の話は対自性についてである。自分が自分自身と完全に一致しているのが即自性。自分とずれて、自分にかかわる対自性。サルトルはこれを人間の意識とみなし、ヘーゲルはあるものが別のあるもの経由して自分に戻ってくる存在の仕方を言っている。


まとめ

存在の科学

異次元理論


周囲の出来事は予測不能であり、偶然的である。私の意志、意識が関与しない事象。じつは外界の事象はいまここにいる私の意志、意識とは正反対の反面意識、反面私の意志が現れたものかもしれない。意識を電気パルス、光だとしたら、外界の事象は物理的なもので時空が歪んだ重力をうむ重力子による。私のいる世界をゆくのが電子、光子であり、 これが意識。外界の物理的事象をうむ重力子は別ブレーン宇宙をゆく光子、電子であり、意識、意志なのだ。これが反面私の意志だといいたいのだ。反面私の意図、思いなし、意志が事象となっている。粒子と反粒子のつがいのいうに、わたしは反面私と体面しているのだ。だから、外界事象はプラグマティッシュな因果律だと思いきや、ほんとうは反面私の善意志だったのである。



5-24


偶然性と様相論理についてである。不思議な偶然というものがある。お好み焼き屋で靴を脱いだら、靴下の穴が友人とまったく同じであり、しかも、下の名前も同じ、これは運命としかいいようがない。いわゆるシンクロニティーである。シンクロニティーとはその実、高次元においては別の法則なのかもしれない。


様相についてである。カントは認識するときに使う最初からもっている雛型をカテゴリーと名付け、そのなかにものの存在の仕方を受け持つ様相のカテゴリーを主張。目の前のプリンスメロンは可能性か、現実か、はたまた、あってしかるべき必然性なのか。この3つが様相のカテゴリー。カントは認識のためのカテゴリーだったが、ヘーゲルはものが存在するための存在論的な扱いをしていた。現代ではクリプキの可能世界意味論。ひょっとしたらの可能世界。これらを貫くものが必然性だ。現代様相論理には記号のまえに□をおけば必然。ひし形のときは可能性を示す。


次の話は偶然性についてである。先ほどもいったがカントは認識するときに使う偶然性。ヘーゲルは偶然的に存在することをいう。ニーチェはこの世界は神様の必然ではなく、神様の偶然の足元で踊っている、という。


そして、九鬼周造の偶然性である。3つの偶然があるという。ここに友人の眉毛の形そっくりな消しゴムのカスがたまたまある。論理的偶然とか、定言的偶然という。ものがそこにあることの偶然である。二つ目は原因がはっきりしない因果的偶然、仮言的偶然。これは出会いの偶然。3つ目がひょっとしたら、わたしは大統領だったかも、という離接的偶然、選言的偶然であり、これを運命という。


まとめ


存在の科学


異次元理論


世の中には不思議な偶然の一致というものがある。数年前のあることと一致したり、時空を越えた一致だ。また、運命のような不思議な筋書きすらある。これらは原因と結果の因果律ではない。時間空間にも従わない。以前に、私の周囲の事象は反面私の意志、道徳律だといった。時空を越えたシンクロニティーはなんとか律に従っている。四次元の時間が完成され、複数の四次元時空がある五次元世界では時空をこえたロジック、論理があるのだろう。それは様相論理、可能世界の論理だ。この五次元の法則がわれわれの住む四次元時空内に現れたものがシンクロニティーだと思われるのである。



5-25


独我論と世界性についてである。私は宇宙、世界のなかにいる。金魚は水槽のなかにいる。金魚にとって水槽はその金魚自身ではない。当たり前のことをおもわず口走ってしまった。金魚は金魚のなかにいない。私は私のなかにほんとうにいないのだろうか。そろそろ、あたまが混乱し、あたまかかえて、尻かかえず。私と世界について考えたい。


独我論についてである。天上天下唯我独尊という。いわゆる、この世界でうえにもしたにもおれしかいない、という思想だ。我思うゆえに我あり、というデカルト。 すべては思い込みだというヒュームやフッサール、アナキストのスティルナーなどが独我論者といえる。ふたつのタイプがある。そこに石ころがあるように思えるが、それもただの幻想。存在しているのは自分だけという強烈な独我論である。もうひとつは事物は存在しているけど、やまちゃん以下、いわゆる他人の心はあるかどうかは疑問、というソフトな独我論である。ヴィトゲンシュタインは独我論が極まって、ついには自分すらいないという境地に達した。

次の話は世界性についてである。フッサールはあらゆることの判断を停止。すると、どうしても最後に残るものがあった。もちろん、名前や個性のある経験的な私も判断停止。最後に
純粋自我が残るという。この一歩手前に世界とか、宇宙がああるが、世界がないとは疑うのは難しい。これが世界信憑性であり、世界の世界性である。

まとめ

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異次元理論


私と世界、宇宙、または、やまちゃんと宇宙を比較すると大きさが違いすぎる。それでも、あらゆるジャンル、カテゴリーの先入観を取っ払う。私の並行世界、並行私のひとつがやまちゃんだ。五次元空間にある他の四次元時空も並行私である。ところが私がいま住んでいるこの世界は私ではなく、非我である。それでも、私をやっていない並行私ともいえる。非我である世界は最低限の私、私ではないという私。もしも、強烈に強い私のなかに私が住んでいたらループを起こし崩壊する。これがドッペンゲンガーかもしれない。


5-26


統覚と不完全解釈についてである。サイコロを転がす。サイコロはすかさず受身をとる。1の目がでる確率的は6分の1。ところが、すべての目は並行世界で実現するから100パーセントなのだ。いま、私が猛禽類にわしづかみにされ、インドの山奥に連れ去られるレアな確率もあるが、これまた並行世界で100パーセント実現だ。確率は高次元の意識と関係することでパラドックスから逃れられるかもしれない。

カントの 統覚についてである。真っ赤で丸い、おまけに甘いときた。感覚を先天的にもっているカテゴリーを使って調理し、それがリンゴだと判断したり、認識する。カテゴリーを使っているのは誰か。他ならぬ名前があり、個性のある私、これが経験的統覚である。いろんな経験的統覚がいるが、みんなの根っこはひとつ。誰でもない共通の私だという。これが根元的統覚だ。

次の話は不完全解釈についてである。サイコロの目の確率。これは人間の不完全な認識、能力によってうまれるというもの。サイコロを分子レベル、原子レベルで観察して計算すれば、きっと確率ではなく、すべて決定論的に計算できるという解釈である。


まとめ

存在の科学


異次元理論


確率とはなにか。くしゃみをする確率は低い。猛禽類に襲われる確率はもっとひくい。どんなに低くても、多世界解釈だと100パーセント実現だ。シュレディンガー方程式に射影公理をもちこまないちと、このような量子パラドックスが生まれる。あえて、確率があるとすれば、あらゆるケースを包み込むような意識がおのおののケースを比較できればよい。猛禽類に襲われるケースとくしゃみをするケースを越えて、これらを感じるのだ。たくさんの並行世界、四次元時空が収まっている五次元空間の意識、五次元意識である。四次元時空の意識は経験的統覚、五次元意識は根元的統覚である。そして、三次元のイメージ、表象世界。二次元は平面的な現象界、一次元の直線的な疑似時間感覚、0次元の点は無。このような幾何学的な意識構造をしている。

四次元時空のなかの経験的統覚では過去、未来は不確定であり、その不完全さゆえの確率。四次元時間が完成されている五次元意識においてはほんとうの意味での確率世界があるのだ。


5-27


クオリアとアタラクシアについてである。時折、ふと思い立ったように瞑想してみる。瞑想とは異次元空間を自由に浮遊する意識なのかもしれない。そして、なにかを感じることは時間的な奇跡であり、なにかがそこにあるというのは空間的な奇跡だ、という考えで突き進んでみる。

クオリアとは何か。クオリアとはなにかを感じること。真っ赤だとか、すっぱい、丸いと感じること。赤い梅干しというのは知覚であって、さるのけつではない、梅干しだ、とはんだんしてしまっている。セラーはこれを与件の神話と名付ける。クオリアは感じたままであって、あたまで考えるものではない。もしも、外見は人間で、人間のような反応をするが本人には心がなくて、ゾンビだったらどうしようか。人間か、ゾンビか、クオリアがあるかどうかは確かめようがない、というのが哲学的ゾンビといわれる問題である。

次の話はエピクロスのアタラクシアについてである。エピクロスは快楽主義といわれる。ただ、一時的な快楽は後から苦痛があるという。だから、いたっておだやかでいること、平静の境地がよいという。これがアタラクシアだ。


まとめ

存在の科学


異次元理論

GRW理論とデコヒーレンス理論を比較してみる。GRW理論は量子は自然に波動から粒子にきゅーっと収束する確率は低く、それでも数億年に一回の奇跡がおこる。マクロな物体は膨大な量子だから相当数の奇跡が起きている。これは時間的な超ロングスパンが起こす奇跡であり、この収束が意識のクオリアになるのではないか。一方、デコヒーレンス理論はミクロな量子がマクロなものに出会うと、岩にぶつかるさざ波のようにかきみだされて、コヒーレンスが非干渉のデコヒーレンスになること。これは空間的な大小関係によるもので、おそらく、意識ではなくて、物体の出現のことである。時間も空間も相対論だとおなじなので、意識と物体、GRW理論とデコヒーレンス理論は同じものの別のみえかたなのかもしれない。


また、話はかわるが、デコヒーレンス理論ではマクロな観測装置や観測者との関係に入ると、並行世界がまざって干渉していたのに非干渉、デコヒーレンスになる。だから、外界と一切の情報をシャットアウトすれば、並行世界を自由に浮遊する意識状態になれる。これが瞑想であり、アタラクシアなのではないのか。



5-28


固定指示子と個体についてである。私が私であること、朝目覚めたら芋虫になっていることは滅多にない。百均の犬も置物ですら壊れずに自分自身であろうとする。
自分であろうとする力はどこから汲み取るのであろうか。


クリプキの固定指示子についてである。可能世界意味論で有名である。いわゆる並行世界の論理学的なアプローチみたいなものだ。アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師だったという。アリストテレスとは云々という、この云々の箇所は説明文であり、ラッセルのいう確定記述句といわれるもの。さて、もしかしたら、アリストテレスは床屋だったかもしれず、豆腐屋だったかもしれない。そもそも、おさげで髭ずら、つまり、女性だったかもしれない。すると、いろんな可能世界を貫いて変わらないもの、これを貫世界性というが、アリストテレスっていう個有名だけはかわらないではないか。これをかたくなにかわらず固定されているから固定指示子という。

次の話はストローソンの個体についてである。日常言語学派であるストローソン。ところが、なんと日常言語を非日常的なものと結びつける。日常言語は宇宙、世界の構造と同じだというのだ。神様、宇宙について云々するのが形而上学。だから、記述的形而上学という。文には主語と述語がある。桃太郎は鬼ヶ島へ鬼退治に出掛けた。いろんな場面があるし、桃太郎は成長して容姿だってかわる。だけど、桃太郎が別人にならないし、まして、亀の子たわしにもならない。これが個体であり、同じものとしてさだめちゃうので同定という。また、文においては物体と人物を別のように扱うので、宇宙もまた、物と人物のあいだには一線をひいている。

まとめ

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異次元理論


なぜ、私は私であり続け、人格の同一性もあるのか。物体ですら、たとえば、山はその状態であろうとする。個体が自分自身であろうとする力の源泉はどこにあるのか。数学的、論理学的な力によってそれはそれであり続けようとするのだ。

量子ゼノン効果である。量子ゼノン効果とはなにか。シュレディンガーの猫の話。箱のなかの猫は二分の一の確率で放射性物質が崩壊し、猫は死んでしまう。二分の一の確率で非崩壊で猫は生きている。箱のなかの猫は波動状態であり、崩壊+非崩壊。箱をあけると、生きていたので非崩壊。また、ふたを閉じる。ここで最初の二分の一の確率、崩壊+非崩壊になって振り出しに戻るのだ。本来は時間がたつにつれて確率は飛躍的に
大ききなる。つまり、崩壊の確率である。ところが崩壊を押さえようとする力が数学的に働くのである。これが量子ゼノン効果である。これがエントロピーの増大を押さえ、個体を原型に維持せんとし、人格の同一性をうみだすロジックな力となる。




5-26


統覚と不完全解釈についてである。サイコロを転がす。サイコロはすかさず受身をとる。1の目がでる確率的は6分の1。ところが、すべての目は並行世界で実現するから100パーセントなのだ。いま、私が猛禽類にわしづかみにされ、インドの山奥に連れ去られるレアな確率もあるが、これまた並行世界で100パーセント実現だ。確率は高次元の意識と関係することでパラドックスから逃れられるかもしれない。

カントの 統覚についてである。真っ赤で丸い、おまけに甘いときた。感覚を先天的にもっているカテゴリーを使って調理し、それがリンゴだと判断したり、認識する。カテゴリーを使っているのは誰か。他ならぬ名前があり、個性のある私、これが経験的統覚である。いろんな経験的統覚がいるが、みんなの根っこはひとつ。誰でもない共通の私だという。これが根元的統覚だ。

次の話は不完全解釈についてである。サイコロの目の確率。これは人間の不完全な認識、能力によってうまれるというもの。サイコロを分子レベル、原子レベルで観察して計算すれば、きっと確率ではなく、すべて決定論的に計算できるという解釈である。


まとめ

存在の科学


異次元理論


確率とはなにか。くしゃみをする確率は低い。猛禽類に襲われる確率はもっとひくい。どんなに低くても、多世界解釈だと100パーセント実現だ。シュレディンガー方程式に射影公理をもちこまないちと、このような量子パラドックスが生まれる。あえて、確率があるとすれば、あらゆるケースを包み込むような意識がおのおののケースを比較できればよい。猛禽類に襲われるケースとくしゃみをするケースを越えて、これらを感じるのだ。たくさんの並行世界、四次元時空が収まっている五次元空間の意識、五次元意識である。四次元時空の意識は経験的統覚、五次元意識は根元的統覚である。そして、三次元のイメージ、表象世界。二次元は平面的な現象界、一次元の直線的な疑似時間感覚、0次元の点は無。このような幾何学的な意識構造をしている。

四次元時空のなかの経験的統覚では過去、未来は不確定であり、その不完全さゆえの確率。四次元時間が完成されている五次元意識においてはほんとうの意味での確率世界があるのだ。


5-27


クオリアとアタラクシアについてである。時折、ふと思い立ったように瞑想してみる。瞑想とは異次元空間を自由に浮遊する意識なのかもしれない。そして、なにかを感じることは時間的な奇跡であり、なにかがそこにあるというのは空間的な奇跡だ、という考えで突き進んでみる。

クオリアとは何か。クオリアとはなにかを感じること。真っ赤だとか、すっぱい、丸いと感じること。赤い梅干しというのは知覚であって、さるのけつではない、梅干しだ、とはんだんしてしまっている。セラーはこれを与件の神話と名付ける。クオリアは感じたままであって、あたまで考えるものではない。もしも、外見は人間で、人間のような反応をするが本人には心がなくて、ゾンビだったらどうしようか。人間か、ゾンビか、クオリアがあるかどうかは確かめようがない、というのが哲学的ゾンビといわれる問題である。

次の話はエピクロスのアタラクシアについてである。エピクロスは快楽主義といわれる。ただ、一時的な快楽は後から苦痛があるという。だから、いたっておだやかでいること、平静の境地がよいという。これがアタラクシアだ。


まとめ

存在の科学


異次元理論

GRW理論とデコヒーレンス理論を比較してみる。GRW理論は量子は自然に波動から粒子にきゅーっと収束する確率は低く、それでも数億年に一回の奇跡がおこる。マクロな物体は膨大な量子だから相当数の奇跡が起きている。これは時間的な超ロングスパンが起こす奇跡であり、この収束が意識のクオリアになるのではないか。一方、デコヒーレンス理論はミクロな量子がマクロなものに出会うと、岩にぶつかるさざ波のようにかきみだされて、コヒーレンスが非干渉のデコヒーレンスになること。これは空間的な大小関係によるもので、おそらく、意識ではなくて、物体の出現のことである。時間も空間も相対論だとおなじなので、意識と物体、GRW理論とデコヒーレンス理論は同じものの別のみえかたなのかもしれない。


また、話はかわるが、デコヒーレンス理論ではマクロな観測装置や観測者との関係に入ると、並行世界がまざって干渉していたのに非干渉、デコヒーレンスになる。だから、外界と一切の情報をシャットアウトすれば、並行世界を自由に浮遊する意識状態になれる。これが瞑想であり、アタラクシアなのではないのか。



5-29


実体と主体、そして、信仰哲学についてである。容姿がずいぶんかわってしまう仮面ライダーの変身シーン。見かけは変わっても変わらないものがある。時代は見かけ上変わり、進化や退化だとダーウィンはいうかもしれないが、これまた、然りというものでなにも変わらないのかもしれない。生死を越えた動的平衡について考えてみる。

実体と主体についてである。古代ギリシャ、アリストテレスは形而上学っていう唇よりも分厚い本のなかで実体について論じている。実体は一切変化しない。属性っていうのがかわるというのだ。巨人軍は永久不滅と賞味期限にかかれているが、実体は恒久不変だという。スピノザは宇宙は実体、しかも、宇宙は間髪入れず神様だという。いわゆる汎神論である。近代になると、神様じゃなくて人間について研究が盛んになる。啓蒙主義である。人間の主体性と宇宙の実体。これを調和させようとへーゲル。やまちゃんの個人的な意識はなんか活動的で主体的だ。宇宙もまた主体だという。これが絶対精神である。

次の話はヤコービの信仰哲学についてである。信仰といっても手をあわせて神様への信仰だけではないという。日常のなかにふつうに信仰だ。魚屋さんで店主も客もそれが鮭の切り身であると信じている。最終的にはそこにあることを信仰している。かって、カントは感覚、感情を論理的に整理するのが悟性といい、感覚、感情なしに神様、宇宙について推理するのが理性だといった。ヤコービはまん中にある悟性をとってしまいそこに信仰をいれる。感覚、感情と理性を直結するのだ。

まとめ

存在の科学


異次元理論


すべては見かけ上の変化であって、なにもかわらない。すべては然りではないのか。人類の科学技術の進化。ケータイではなれたものと会話し、重機で重いものを持ち上げる。
古代の人々にはなかった技術だが、古代人はテレパシーで意志の疎通をはかり、テレキシネスで物体を動かした。古代の巨大な遺跡はそれを物語る。人類がもっていた能力が欠如し、これを補てんするための科学技術ではないのか。容姿が変わっても見かけ上であり、人格はかわらない。生死に関しても、生と生まれる前、死後をあわせて生間領域と名付けると、生は存在が先でそのうえでの信仰。生まれてきたのは信仰があってであり、死後もまた、総じて、生間領域においては信仰が存在に先立つ。だから、信じている世界へと行くのだ。作用反作用c動的平衡のように、存在と信仰は作用反作用であり、一方通行にみえるのは見かけである。これが時間的な回転運動になっている。空間的な回転運動は地球の自転公転、原子の構造に当たり前のように見られる、同様に時間に関しても、輪廻天生という回転運動があるのではないだろうか。



5-30


ホーリズムと意識なくして世界なし、についてである。



5-31


現象主義とイデア論についてである。夕暮れ時によく影踏みをして遊んだ。踏まれて負傷だ。影は長細くスタイルがよく見える。三次元の物体の影が二次元。それならば、三次元はなんの影なのだろうか。

現象主義についてである。論理実証主義のなかには主に現象主義と物理主義がある。現象主義ではそこにりんごが実在するとはいわない。実在なんてものを認めないか、少なくともわからないものとする。赤い、丸い、甘いという感覚情報があり、感じたまま記述すればよいという。感覚したままの言葉を使い、これを感覚与件言語という。ところが、これだとりんごの落下実験に至るまでの道のりが長すぎる。だから、何時何分のどこに、時空になにかが物理的にあることにしようよ、という約束を作る。これがプロトコル文といい、物理主義だ。このとき、使う言語が物理言語である。


次の話はプラトンのイデア論についてである。洞窟の比喩というものがある。囚人は洞窟のなかで鎖に繋がれ、壁しかみせられていない。囚人の後ろにはいろんなものが横切るが、松明の火に照らされてできた影しかみたことがない。実物はみえないのだ。我々もまた同じであり、いろんな机があるが、机そのもののイデアが太陽のような善のイデアに照らされた影、具体的な机しかみえない。


まとめ

存在の科学


異次元理論


三次元の肉体は光、光子にあたることで二次元の影を作る。影は高さがない。そして、三次元の肉体は五次元空間に漂う四次元ブレーンの影ではないのか。たくさんの四次元宇宙は生命の意識なのだ。文字通り、意識は宇宙である。このとき、光速を越えるタキオンによって四次元はあたって三次元の影を落とすのだ。タキオンは光速を越えるから時間が逆行している。現象主義のようにありのままではなく、タキオンにあたるという自発的な作用を受ける。三次元は光子によって二次元の影。それならば、二次元は光速よりも遅いタージオン素粒子やあたって一次元の影を作る。さらに、一次元の直線は速度がマイナスのなにかにあたって0次元の点になる。すなわち 、速さがマイナスのものにあたると点、無に化するのである。


6-02


アプリオリと無時間性についてである。



6-03



アプリオリと無時間性についてである。早押しクイズで間違いて押すところを引いてしまう。失格である。所詮、速いといっても光速は越えられない。どんなに聡明で判断力、決断力が速くても光速が限界だと考えられている。ところが、おれがいる、世界ってあるんだなーとか、神様の存在。他人の気持ちもそうであるが、光の速度を越えて感じているのだ。


アプリオリについてである。アプリオリとは先天的ということ。生物だったら生まれながらに知っているなど。論理的にいえば、論理的に先だって最初からそう決まってるんだもん、ということ。これに対してアポステリオリという言葉がある。経験的とか、後天的というもの。最初から知ってるのではなく、学習することだ。

カントはアプリオリな分析判断だ、という。分析判断は主語のなかに最初から含まれているものを分析的に取り出すだけ。じいさんは男である。じいさんという主語に最初から含まれているので、アプリオリな分析判断になる。じいさんは亀を拾う。これはじいさんっていう主語のなかには、亀拾うがないし、外からくっついた総合なのに
アポステリオリ総合判断になる。また、三角形の面積は底辺かける高さ割る2というのは、アプリオリな総合判断になるという。


次の話は無時間性についてである。時間のない世界である。中世では超時間性 、永遠性。形式論理には時間概念がない。ただし、様相論理の一部、時制論理は時間を含めた論理学。さらに、時間っていうのは実在しないという時間非実在というのもある。


まとめ

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異次元理論


ふつうは目でみたり、手で触れたりして感じる。目ならば、光が網膜を刺激して電気パルスになる。光速は越えないのでる。ところが、ぱっと光速を越えて感じるものもある。生理学的な条件反射ではなく、世界があるんだなってかんじることや、自分がいるんだな、という感じ。さらには他人の気持ちも光速を越えて感じているのだ。光速で感じるのは感覚、経験である。ところが、光速を越えた感じはタキオンであり、時間を逆行しているものであり、また、経験に先立つせんてんてきなものだ。つまり、最初から経験に先だって決まっている決定論的、運命的なものであると同時に時間逆行の自由意志でもある。自由意志と運命が一体になっているのが光速を越えてなにかを瞬時に感じることである。



6-4


超越論的と現前性についてである。朝起きて、眠気眼をこすりながら寝ぼけている。夢うつつなのだが、これが真実の世界なのかもしれない。ブリーフか、トランクスなのか、と白黒はっきりいていない世界。自分をも含めた世界はまどろみのなかにある。


超越論的とはなにか。超越的というのは我を忘れて、ちゃぶ台のうえの小人みたいなものに釘付けになっている意識状態。自分から脱け出さんばかりの前のめり。朝立を隠さんばかりののめり具合だ。これは五感を使ったもの、経験的ともいう。こういうときは得てして、実在感を感じている。経験的実在論だとカントはいう。そんな自分をも含めた世界、宇宙のなかで超越的になっている自分をみる。超越的について云々と論じているから超越論的という。カントは超越論的なときはイメージの世界だから、超越論的観念論という。


次の話は現前性についてである。目の前にドカーンと現れることだ。体育座りのとき、おのが膝小僧があらわる。自分の意識が目の前に完璧に現れていることが自己現前である。そんな自己現前なんかない、自分がよくみえているとおもっているだけで、じつは自分の痕跡、残像だとデリダはいう。


まとめ


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異次元理論


まどろみのなか、夢うつつであり、現実とあたまのなかのイメージ世界が混ざっている。超越的、経験的な意識は現前する世界をはっきり客観的に感じている。観測者である自分は宇宙のそとに追いやる。本当の世界は主観と客観 、心のなかのイメージと外界の物理世界。夢と現実、私をも含めた宇宙全体なのだ。まどろみの夢うつつの世界が先であって、現前により現れた世界は二次的なものなのだ。真偽、善悪、主客を越えた超越論的なイマージュ世界がすべてのベースになる。



6-5


指示の魔術と非法則論的一元論についてである。すべてはパンでできているとこし餡パンマン。この世界はすべて原子とかではなく、実体のない情報でできているかもしれない。すると、私と世界の垣根は取っ払われて、量子論の多世界解釈とコペンハーゲン解釈が同じものになるのではないだろうか。


パトナムの指示の魔術についてである。自分の外の世界に玉ねぎがある。玉ねぎの全体をあたまのなかに取り込む。これが認識だ。また、意志玉ねぎをどついて動かすこともできる。なんで外界のものと心のなかのイメージが繋がっている、つまり指示関係があるのか。心から自発的にエイヤっと矢印がでて玉ねぎにぶつかる。意識の志向性だろうか。それとも、玉ねぎのほうから、おれだよ、玉ねぎっていったら玉ねぎなんだよ、と叫んでいるのか。これを自己同定という。いずれにしても謎めいているので指示の魔術だという。

次の話はディヴィットソンの非法則論的一元論についてである。この宇宙は心と外界宇宙を合わせた全体である。外界宇宙は物理法則にしたがうが、心と合わせた世界になってしまうと、共通する法則がなくなる。法則なんてない一なる世界。これが非法則論的一元論である。


まとめ

存在の科学


異次元理論


科学者ホイラーは物体もすべて情報だという。実体なき情報が最初にあって、ここから原子、分子になる。以前、話たが、細胞に水分子の情報を与えると細胞は元気になる。栄養だって、すべて情報だ。心のなかのイメージ、論理だって実体なき情報 。だから、心のなかも外界宇宙も同じ情報であり、玉ねぎの情報が心に結び付くのではなく、最初から心のなかの情報。だから、指示関係でなく同一関係だ。こうなると、主観も客観も、心のなかのイメージも外界の物体も区別なくなる。思っただけで玉ねぎは宙に浮き、ここになくても心のなかを探せば遠くの玉ねぎがみれるはずだ。それができない肉的な制約がある。


さて、こうなると、意識の自発性で波動を収束するコペンハーゲン解釈も、生きている猫をみている私と死んでいる猫をみている私に意識とは無関係に受動的に分岐するというエヴェレット多世界解釈も同じ情報処理になる。心は外界宇宙でしかも情報だからだ。

時間軸が下から上に向かって何本もでている。下側が過去、上側が未来。砂時計の形のようになり、まん中はいまこの瞬間であり、すべての時間軸が交差している。無数の過去と無数の未来がであった一点が今なのだ。中心部よりややした。ここで時間軸はひとつに交差しようとする。これがコペンハーゲン解釈だ。また、中心部よりやや上は時間軸がたくさんの時間軸となって広がる。ここがエヴェレット多世界解釈である。


6-9


ジェームス、フッサールの意識とフランクフルト学派のアトム化についてである。ドカーンっとビッグバンがあったらしい。夏の夜のネズミ花火の音ではない。宇宙と同じく意識もまたビッグバンがあり、これが精神のレベルアップではないのか、というお話である。


ジェームス、フッサールの意識についてである。ジェームスが考えるに、意識は時間的に厚みがあるという。上品なクレープではなく、分厚いサンドイッチなのだ。だから、記憶や予測ができる。意識されたもののも、ボリュームがある。コーヒーカップをまなざす。これが核なのだが周辺にぼやけて醤油指しがうっすらみえる。中心があって周辺があるのだ。このぼやーっとした周辺部をオーラ、フリンジと名づけるのだ。

フッサールは、一寸前の過去を今につなぎとめることを過去把持。いまこの現在は印象を受け取り一寸先の未来は未来予持といって、いまとつながっている。


次の話はフランクフルト学派のアトム化についてである。中世の時代は神様がメイン。近代になると、個人を合理的に捉えようとする。これが啓蒙主義だ。そして、現代においては個人、個がどんどん促進されて、ついには個人すら細かくなってアトム化しちゃうという。原子の粒々のようにいろんな自分に解体されてしまうという。


まとめ

存在の科学


異次元理論


古代人は広大な時間と空間を意識が自由に浸透することができた。技術の進歩により、現代人はたかだか周辺のものに気を使い、意識を空間移動させ、過去と未来も狭い範囲でしか移動しない。

さて、自我、意識がこの非我とか、宇宙のなかに住んでいると考える。そうではなく、私のなかに私ではない非我、外界宇宙の泡が浮いているのだ。私は液体であり、発生した泡が他者なのだ。私はだんだん狭まり、泡だらけのバブルになる。このとき、非我、他者の圧迫を感じる。ついには自我が木っ端微塵にアトム化し、バブルがはじけてすべてが液体になる。つまり、意識、精神が時空のほとんど満たすのだ。水かさがまし、これが宇宙膨張とみなせれば、これは意識、精神のビッグバンなのだ。



6-10


絶対精神と存在拘束性についてである。物理宇宙のドッカーン、つまり、詳細にいうとビッグバン。他方、精神世界のドッカーン、厳密にいうと意識のビッグバン。精神も宇宙もまったく同じものならば、なんで魔法のようにおもっただけで、靴下を空飛べ、と意志しただけでそのようにならないのか。実際に手でつかんでほおり投げるしかないのだ。こんなバイアスはなぜ生まれたのかを考えたい。

哲学者ヘーゲルの絶対精神についてである。古代ギリシャ哲学ではもっぱら、宇宙というのは実体であった。実体は恒久不変なもの。属性っていうのはいくらでも変わるものだ。近世においてもスピノザは宇宙は神様と同一で、しかも、実体だと考えた。ところが、中世においては主人公が神様であったがその反動で、近代は個人としての人間を合理的に考えようとした。いわゆる、啓蒙主義である。ここから個人はせっせと活動する主体と考えられた。古代ギリシャの実体と近代の主体を結婚させたのがヘーゲル。個人の意識は主体的で目的をもって動いちゃう。宇宙もまた主体的であり、目的があるという。個人は自覚し、自意識に目覚めることが目的だったりするが、宇宙もまた自分が宇宙であると自覚し、絶対精神になることだという。だから、宇宙の歴史、人類の歴史はデタラメに並ばずに目的を持つという。


次の話はマイノングの存在拘束性についてである。マルクスはかって意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定するといった。マイノングはこれを受け入れる。ぱっぱらぱーという呪文で岩石が浮遊しない。意識で存在がたやすく変えられない。むしろ、時代によって、なにがよくてわるいのか、など、認識が時代、存在から規定されるという。また、新カント学派のように、すべて、感覚も含めてあたまのなかのことだという思想には反対。認識は視座的制約を受けるという。ここからだと、背中しかみえない、おっぱいはみえない。自分のいる場所、視座によって制約されている。マルクスは上部構造と下部構造について色々いっている。下部構造は生産性のある労働者、プロレタリアート。このうえにきらびやかな衣装をまとったものたち、上部構造、ブルジョワがいるという。ブルジョワは視座的制約を受けいるというが、下部構造、プロレタリアートは自分にこの視座的制約を適用しないで棚上げしているというのだ。

まとめ

存在の科学


異次元理論

宇宙はビッグバンのあと対称性があった。徐々に対称性が崩壊し、4つの力が支配し、物質がうまれる。意識もまた同じである。自分以外の非我、外界宇宙のなかに自分がいるのではない。自分の意識、精神のなかに自分以外の非我が泡のようにあるのだ。意識、精神は液体に例えられる。すべての時空に自分の意識が浸透していたが、対称性が崩壊し、泡がふえる。こうやってバブルになるが、意識を非我が抑圧する。経済のバブルとは真逆かもしれない。このバブルがはじいて、液体になり、水かさが増す。精神宇宙の膨張であり、精神のビッグバンだ。宇宙と精神はこのようにまったく同じになるが、これが数学、論理であり、泡が増えて対称性崩壊し、個人的意識になることを繰り返す。存在が意識を規定ではなく、最初は同一関係であり、対称性崩壊によってずれがうまれてついには指示関係になり、そうあれ、と意志してもそうならないバイアスがかかるのである。



6-12


基礎づけ主義と可謬主義についてである。生命には心があり、意識があるものもいる。思ったり、感情的になったり、意欲がある。トイレの個室で感傷に浸り 、屋根裏で爽快感を味わう。心は鷲掴みできない。それでも、複雑な働きをする。このふたつから、心はふたつの相反する原理の調和から出来ていることがわかってくる。

基礎づけ主義についてである。すべてのもの基礎づけている絶対的真理があるという。たとえば、ソクラテスはそれを求める。ソクラテスはこれとは反対であるソフィストたちと相交えるのだ。ソフィストは相対主義。ゴルギアスは万物の尺度は人間だよ、という。真理は人ちがうというのだ。さて、近世にはいると、哲学者デカルト。かれは基礎づけ主義者である。テコの原理で座布団の上に座っている友人を動かしてあげる。支点は動いてはいけないものであり、これをアルキメデスの点という。デカルトもまた不動の真理、アルキメデスの点を探す。すべてをとりあえず疑ってみる。それでもいままさに疑っている自分の存在は疑えない。我疑うゆえに我あり。我が絶対的な真理だったのだ。

現代になると、フッサール。あっまんじゅうだといってかじったところ、なんと岩石だったりする。人間の判断なんていうのは不完全だ。そこですべては思い込みなので判断停止してみる。そして、自分の名前、経歴、性別すらも判断停止しても最後に残るものがあった。だれでもない純粋な私。この純粋自我こそアルキメデスの点だったのだ。


次の話はローティの可謬主義についてである。アンチ基礎づけ主義である。絶対的な真理っていうのひいきであり、特別扱い。これを特権的表象という。ひとは不安になるから絶対に動かない
特権的表象をつくるという。そうではなく、真理とおもわれていても、まちがっていたら素直に訂正。訂正、改正しつづけることが可謬主義。また、絶対的なものがないのだから、互いに手を取り合って連帯することが必要だと説く。


まとめ

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異次元理論

生命の意識、心は実体がないから不可視である。また、思考、感情、意欲など、複雑な働きをする。これは宇宙的規模で相反するふたつが調停したものなのだ。相対的と絶対的がうぇあったものなのだ。

軌跡解釈というものがある。米粒が落ちていた。これはどこをどうやって経由してここにあるのか。あらゆるルート、経路が考えられるが、みえないのですべてが重なっている
波動なのだ。量子をふたつにわけて相互に離れていく。AとBと名づける。Aを発見したとき、このとき射影公理で収束し、スピンが右回りになる。すると、一億光年離れてしまったBに瞬時に伝わり、Bがつじつまあわせのために左回りになるのだ。このとき、射影公理だけでなく、いまこの瞬間という絶対的同時性が必要になる。これは基礎づけ主義的である。

他方、相対論というのはローレンツ変換といって、時間と空間は相対的だ。aのあとにbが起きた。このとき、慣性系によっては、つまり、観測者の運動の
仕方によってはbがaに先だってみえることもあるし、同時にんる場合もある。つまり、相対論では同時すらも相対なのだ。これは相対主義、可謬主義的である。

さて、一般的にはこのふたつ、軌跡解釈と相対論は水と油だ。これを混ぜるのである。軌跡解釈における空間的に離れたものに瞬時に伝達することを非局所相関という。絶対的同時性前提だったが、相対論のローレンツ変換いかんによってはどれもが同時性になる。だから、聖徳太子のあごひげと私が非局所相関し、未来のやまちゃんのへそのごまといまの私も非局所相関。こうやって時空をこえて複雑にネットワークが作られ、これが生命個体の意識、心になっているのだ。



6-15


認識論、存在論、そして、論理についてである。箱のふたをあけると、カブトムシは元気だった。箱入り娘ではなく、かご入りカブトムシである。まずはカブトムシを認識、ひっくり返ったカブトムシを見ている俺の世界もどこかに存在し、あらゆる論理的に可能な世界も存在しているはずだ。エヴェレット多世界解釈と哲学についてである。


認識論についてである。ハイロウモルフィズムという考え方がある。形相質料論である。かってアリストテレスは物が存在するにはまずは材料である質料と、そのものたらしめている本質、すなわち、形相が必要だといった。近世になるとこれが認識論に使われる。哲学者カントである。質料は感覚である。丸い、白い、硬い、というのをこんどは心のなかでカテゴリーで組あわせて、野球のボールと判断する。このカテゴリーが形相になる。カント認識論では、感覚とか、経験は実際に感じるものだから実在感たっぷり。経験的実在論という。また、野球のボールをイメージし、それを見ている自分をも俯瞰してみちゃうのはイメージそのものなので、超越論的観念論という。


次の話は存在論についてである。中世では存在のアナロギアとよくいわれた。いろんな三角形があるがどれも類似している。それでも、円は三角形の特徴はない。あらゆる存在者が一点において類似。存在そのものっていう性質、存在性をもつ。これが存在のアナロギアである。古代ギリシャではよく存在について研究がなされた。現代において存在の哲学を復興しようとしたのがハイデガーだ。存在そのものにかかわる存在、これを現存在となづけて、人間のことだという。

また、論理が存在に触れる瞬間、変項xに値g入るときだというのがクワインのいう存在論的コミットメントだ。


最後に論理とはなにかである。先程登場したアリストテレスは形式論理のほとんどを完成させた。真と偽というふたつの値しかない。現代では、真かもしれない、真であるべきだ、という微妙な値を使う多値論理というものがあり、これを様相論理という。


まとめ

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エヴェレットの多世界解釈を哲学的に考えてみたい。生きている猫をみて喜んでいる私がいる世界と死んでいる猫をみて悲しんでいる私がいる世界に分岐する。猫をみるという認識によって、多世界にわかれるが、これらの世界も存在している。しかも、論理的に可能なあらゆる世界が存在しているのだ。認識論と存在論と論理が連動している。

もうひとつ。インフレーション宇宙論だと斥力的重力で宇宙は膨張。スイスチーズのように膨張して気泡が無数ですかできる。この気泡が増殖する並行宇宙である。だから、なにかを認識してとある状態の宇宙にいるということは、認識は宇宙の斥力的重力であり、宇宙の斥力的重力の現れが認識だということになるのだ。


6-16


排中の原理、そして、物自体と道徳についてである。生きている金魚をみて喜んでいる私と死んでしまって悲しんでいる渡しの世界。世界、宇宙はどんどん細胞分裂のように増殖だ。水虫菌ちゃんは靴下のなかで増殖するかもしれないが宇宙が増えるのである。私は宇宙だとよく聞くが、私の増殖でもある。となると、私=宇宙ってことも証明しないといけなくなる。


排中の原理についてである。これはピーナッツか、ピーナッツ以外のものか、いずてかである、というのが排中の原理である。絶対に正しい命題だ。もちろん、トイレの個室から聞こえてきたのではない。ただし、本来は排中の原理は自己言及しちゃっているからNGのはずだがなぜだか矛盾しないのである。自己言及とは、わたしは日本語をしゃべっている、というもの。日本語で日本語云々いうのは自己矛盾。すべての文は疑わしいっていうものも、この文自体が胡散臭くなってしまう。さて、排中の原理もまた、ピーナッツ以外っていうもののなかに、これを主張している本人も含んでいるので自分についてふれているので本来はNGなのだ。

次の話はカントの物自体と道徳についてである。我々がみているのは現象界である。現象界は時間と空間、因果律でこってこてである。このボタンを押したのが原因で、電源が入ったのは結果。ただし、このボタンそれ自体は認識できない。 物自体は因果律がないのだ。これは認識じゃなくて、なんと実践だという。自由意志による実践。自由意志には原因がない。さらに、金もうけのための道徳というのはない。道徳はこうしたらこうなるという因果律ではない自由意志が大前提になるのだ。



6-17


二項対立と共感覚についてである。寝癖が激しく、たまたま通りすがったヤマアラシに


6-18


構造主義と反証可能性についてである。身の回りのことが世界情勢と一致していたり、ちゃぶ台の上の配置がオリオン座と同じ配置で驚きのあまり、めんたまが飛び出し、そんな古典的な驚きかたにこんどは隣人が驚く。周辺の身近なものと社会、宇宙は同じ挙動を示すというお話である。


構造主義についてである。からだをクネクネする。いかに変形しても変わらないのは脊椎動物である限り骨格である。変形しても変わらないものが構造である。

哲学者レヴィストロースは世界中をまわって気がつく。世界中の神話が同じ構造をしていたのだ。構造っていうのは意識的ではなくて、無意識的に働いているので反人間主義。なんと神話は高等数学と同じ構造だったので、反文明主義。しかも、構造主義は時間の流れがないので反歴史主義でもある。


次の話はポパーの反証可能性についてである。正しい科学理論とは完全無欠のロックンロールではないという。弱点をおもいっきり丸出ししたものだという。太陽は東から上り、西へ沈むという法則。もしも、西から上ったら、反証になって理論崩壊である。反証がゆるされないものはエセ科学だという。

まとめ

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恵比寿駅の近くにアメリカ橋というものがある。アメリカのセントルイスから昔 、寄贈されたものだという。そして、この橋は目黒にかかっている。恵比寿とはabc、つまり、アルファベットの始まり。また、えびすという発音はユダヤ教の神様、ヤーウェ、エホバと同じだという。さらに目黒は、目が黒いうち、生きて見ている目。イルミナィである。神様とイルミナティをアメリカが結ぶというイコンなのだ。目黒は黒目しかないグレイ宇宙人でもある。えびすとは海のむこう、とおくからやってきた大きな魚、イルカとくじらを指しているという。イルカはシュメール文明では人類よりも前に 地球にいた知的生命である。

さて、身近なことを変えることで社会がかわる。意図的かはわからないが、アメリカは世界の中心になった。大きなものと、小さなもの。身近なものと遠大なもの。同じ構造であり、同じ挙動を示す。宇宙が変われば周辺もかわる。時間的な因果律がここにはない。因果律は四次元時間軸の原理であり、構造が相似したり、アナロギアなどは五次元の原理である。大きさ、ジャンルを越えた影響が五次元の原理だ。



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キアスムと創発の原理についてである。生命の意識とはなにゆえ存在しているのだろか。なんで学校の下駄箱のなかに夏みかんが入っていたのか。深い意味があるはずだ。意識ある存在者がいるための根拠について、ここには細胞分裂と多世界解釈がからんでいる。

メルロポンティのキアスムについてである。キアスムとは交叉配列とよばれている。そもそも、すべては同じ肉でできているという。おぎゃっとうまれた赤ん坊。わたし、あなた、かれら、それらっていう人称性がないという。すべてが繋がっているのだ。自意識に目覚めて人称がうまれ、私とあなた、主観と客観というものが、肉に溝ができて生まれるのだ。

私は夏みかんをみる。見ているものと見られているみかんは同じ肉であるから反転。これがキアスムだ。私は自分自身が夏みかんになったつもりで自分を理解。夏みかんの見えているところと、みえないところもキアスムしちゃう。こうやって夏みかんの意味を汲み取っちゃう。

次の話は創発の原理についてである。蟻塚は蟻が企画
、計画して作ったのではなく、一匹一匹がふつうに営んでいて
結果的にできあがる。部分があつまって、部分のなかない複雑なものになることであり、機械にはない生命特有の現象だという。脳細胞は単純な働きでも全体として複雑なものになるのだが、これまた創発の原理である。


まとめ

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卵子に精子が受精し、細胞分裂を繰り返す。細胞は新陳代謝で生成と消滅を繰り返す。これはまるで多世界解釈である。元気なインコをみて喜ぶ自分と死んでいるインコをみて悲しむ自分がいる世界に分岐。これだけではなく、無数の状態に刻一刻世界は増殖する。刻一刻といっても、空間の最少単一がプランクスケール長さであるように、時間の最少単位がないと時間が進まなくなる。これを離散性という。変化しない最少プランク時間は一貫して変わらない人格である。

さて、細胞の増殖と多世界の増殖は同じである。生命の肉体を構成する細胞は互いに離れたものどうしも言語以上の情報伝達をしているという。細胞間のチームワークが少しでもずれただけで生命維持ができなくなるのだ。この役を担うのがDNAが出てくる光の情報、バイオフォトンだという。ここから察するに四次元の時間軸と三次元をあわせた四次元時空、四次元ブレーンも五次元のなかで増殖し、五次元生命の肉体を構成する細胞と同じだとわかる。そして、四次元並行宇宙のあいだのやり取りはバイオフォトンでなく、バイオタキオンなされているのだ。タキオンは光よりも速いももであり、以前話したが、物体は過去から未来へと惰性であるが、意識は目的をここではなくあそこ、今ではなく未来にもっていまの自分を未来可引き上げるのだ。だから、バイオタキオンの正体こそ、人間をも含めた意識体だったのである。しかも、宇宙はバネ構造、螺旋軌道である。太陽をまわる地球。太陽系が銀河をまわる。この螺旋はDNAのようもので、ここから意識というバイオタキオンが放たれて並行世界間を繋ぐのだ。


ここでキアスムもできる。意識は細胞のバイオフォトンを調整できないが、五次元生命の肉体の調整はしている。バイオフォトンを慣性系を変えて光速を越えるように見たら、肉体は多くの宇宙でできているようにみえるし、バイオタキオンの意識を慣性系を変えて
光速にすれば、並行世界の一つづつが細胞に見えるのである。





















posted by モノイイ ジョーカー at 19:29| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

仙人新聞 2013・04・24

仙人新聞 2013・04・24



**仙人動画**

http://www.ustream.tv/user/monoiinasu


**仙人テキスト**



*哲風呂*

ヘーゲル精神現象学とマルクス唯物論についてである。ヘリコプターに乗って眼下を見渡す。スーパーマンの背中がみえたのはともかくとして、道路交通網がまるで血管のようにみえる。人間のからだの細胞はそのひとを生かすために日夜がんばっている。細胞の愛である。ひとのからだと宇宙と道路交通網について、一貫したつながりを考えてみたい。

  ヘーゲル精神現象学についてである。八百屋さんでりんごを発見。これはあくまでも自分がそう思っているので、知である。八百屋さんに聞くとそれは真実のところメロンだった。知と真はこうやって矛盾解消しあって、弁証法的運動をするという。世界、宇宙はそれ自体で真、真実というものでできていて、これを実体だという。知が真によっていろいろと変化するが、これはそのひとの主体的な活動だ。主体と実体の弁証法的運動になる。やまちゃんっていうひとは、主体的に知と真の運動やってるけど、ひそかにやまちゃんがいまいるためには膨大な宇宙の歴史があって、この歴史の主体に見守られているという。そして、やまちゃんという個人と宇宙の歴史が同じことしているのだ。やまちゃんは自分の存在を知った。同じく、宇宙も自分の存在に気がつき、これが絶対精神だというのだ。


  まとめ

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  異次元理論

  皇居を中心として日本の道路交通網をみてみる。皇居周辺の内堀通りは広い道幅でり、まるで大動脈のようである。周辺にいくと細かく狭くなり、田舎までいくとあぜ道もある。まるで人体の心臓を中心にした欠陥のようである。そして、くるまは赤血球であったり、情報を運ぶ物体だ。

  Aさんの人体はたくさんの細胞でできている。なにをしているかといえば、Aさんを生かすために営み、Aさんへの愛そのものなのだ。心臓部のほうと、皮膚ではいきわたる血の量もちがう。皮膚は新陳代謝で、すぐに発生しては消滅する。まるで、世の中、縦割り社会の構図だ。

  イエスは最後の晩餐、これは私の肉、私と血といってパンとワインを弟子たちに与えた。イエスは立法ではなく、互いの愛による世界を実現しようとした。身体でいえば、これは末端の皮膚まで十分に血や栄養が行き届かすための強壮剤なのである。

  ヘーゲルは世界、宇宙っていうのは神様、絶対者の精神の完成だとした。マルクスはこれを物質の世界、理想国家、社会の完成を考えた。そしてもうひとつ、この世界は生命体であり、われわれを細胞とみなすような新しい思想もあるのだが、ここでは深い言及はやめておこう。


構造主義と生活世界についてである。細胞は自分のために活動してくれている。体の中の細菌も同じである。突然、細胞といったらゴルジ体を思い出したが、ゴルジ体30というのはどうだろうか。とにかく、細胞は大宇宙のなかにいる生命のようなものだ。われわれのふつうの生活と宇宙の大規模構造は同じであることを細胞の話をからませつつ、考えてみたい。

  構造主義とはなにか。変形や変化をしてもかたくなに変わらないもの、これが構造である。Aさんは二足歩行し、時にからだの柔らかさを自慢しているのだろうか、ブリッジしながら近づいてくる。本能的に手にしたほうきを掲げて攻撃モードになる。それでも、Aさんの骨格はかわらない。

  レヴィストロースは時空を超えて世界中の神話は同じ構造をしているという。しかも、数学の四元置換群の構造とも同じだという。現代文明はすばらしく、古代はたいしたことがないという文明主義を批判する、反文明主義である。また、構造はいつも意識的に感じていない。心理学者ユングは万人のなかには共通する無意識世界があるといったが、構造は無意識的にあるものだ。

  次の話はフッサールの生活世界についてである。最初はすべてを疑い、判断停止した。Aさんは本当に人間なのだろうか。背中に甲羅らしきものがあり、動きが究極の癒しになるようなスローモーション。亀なのかもしれない。すべてを判断停止し、自分の容姿、生い立ち、名前、性格も決め付けない。それでも最後に残るものがある。これが名前もない純粋な私、純粋自我だという。これを現象学的態度という。ただこれだと、からだってなにか、他人ってなにか、と答えることができない。また、すべてを原子や分子と考えてしまう科学的な見方、これを自然科学的態度という。いずれにしても、これらの態度はふつうの生活のうえに乗っかっているのだ。ご飯を食べ、テレビを見て笑う。時間になると、研究所にはいって科学的態度になる。最初にふつうの生活世界があり、科学は生活世界に理念っていう服を着せているという。

  
 
 まとめ

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  異次元理論


  人体を構成する細胞はそのひとを生かしてくれている、無類の愛によって生かされているのだ。たくさんの細胞にとって、Aさんは宇宙である。このわれわれの住む宇宙も宇宙Aさんであり、細胞のひとつひとつが生命の固体である。では無機物はなにか。人間Aさんにとっては人体の骨、血中のカルシウム、そして、大半を占める水分。ほとんどが無機物なのだ。

 人体と宇宙は同じ構造だ。われわれと同じように宇宙は超大規模構造において生活しているのである。人間Aは人間Bさんとたとえば性的関係になる。宇宙Aは宇宙Bと合体し、宇宙Cを生む。これがサイクリック宇宙論だ。宇宙は無限空間のなかにたくさんひしめき合うというパッチワークキルト多世界論。これは人間Aさんが人ごみにいるときであろう。さまざまな人間関係はいろんな多世界宇宙論と対応しているのである。インフレーション宇宙においては宇宙Aはなにをしているのだろうか。これまた、人間関係と同じである。人間だけでなく、魚を捕まえて食べれば、捕食関係になる。宇宙Aも別宇宙を捕食するような多世界理論もあるかもしれない。

  人間と他の生命とは遺伝子もちがう。細胞のつくりも違う。宇宙でいえば、われわれの住む宇宙のように四つの力があり、光の反射率など、宇宙定数が同じものの別の宇宙は同じ種なのである。定数や宇宙の力が三つや五つという宇宙は種を異にする宇宙である。


無知の知と永劫回帰についてである。サイコロを転がす。受身とれずにサイコロが負傷とは聞いたことがない。サイコロの目が1になるのは六分の一の確率だ。そもそも、確率とはなんなのか。確率は実在するのかしないのか。さらにはこれは自由意志の問題にまで広がりを持っていたりする。確率と人間と宇宙について考えてみたい。

  哲学者ソクラテスの無知の知についてである。自己知というものがある。自分のことを知ることである。現代の哲学では自分は100パーセントわかるという自己透明性、まったくわからない不透明性、半分ぐらいはわかるという半透明性にわかれる。すると、ソクラテスは透明性になる。半透明はサルトルだ。うっすら自分がわかるというのだ。また、まったく自分はわからない、みえない、みているのは自分の残像、痕跡だというのがデリダ。

  さて、ソクラテスはデルフォイの神託の前で自分をもっとも賢いといった。なぜなら、自分は何も知らないということを知っているからだという。これが無知の知だ。

 次の話はニーチェの永劫回帰についてである。ひとは互いに価値を共有できないという。なぜなら、隣にいるひとの目を借りれないし、頭も借りれない。好き嫌い、善悪、真偽、絶対的な価値がない。だから、神様も存在そのものも共有していないから、無の時代、ニヒリズムだとニーチェはいう。ここから、無からはじまって自分で価値の創造、すべてを全面肯定という思想が生まれる。

 永劫回帰とは、人間が生まれて死んで、また生まれてまったく寸分たがわず同じことを永遠に繰り返しているという思想だ。宇宙も同じことを繰り返している。無限回やっているので、もうどんなに最悪だったとしても、されどもう一度といって、全面的に運命として受け入れるというのだ。そんなひとを超人といった。

 
  まとめ

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サイコロを振って、1の目がでる確率は六分の一だ。多世界論だと、1の目が出た世界と2の目が出た世界が分かれる。さて、確率は本当に実在するのだろうか。サイコロと転がすテーブルを分子、原子レベルで計算すれば、次に出る目が計算できるかもしれない。ただ、人間の目はそれほそよくないし、そこで知ることができないから確率っていうものがうまれるというのが、確率の無知解釈という。

  これに対して、確率っていうのは実在しているというのが、確率の頻度解釈である。1の目がでる確率は六分の一。1の目がでた世界に分岐するのだが、なぜ、1の目に分岐したのか、またもや確率が必要になる。つまり、たった一回だけではなく、同じ状況、世界に存在するあらゆるものの配置も同じという条件を何度も繰り返さないと確率が生まれないのだ。ということは、頻度解釈だと、いまサイコロを振る、すべての条件、系が同じ状態を無限回繰り返されていれば、確率は実在化されるのである。つまり、今、右手を上げるのだが、もうすでに同じ条件のもとで無限回目に右手を挙げているから確率による世界の分岐が起きる。これは永劫回帰ではないか。そして、宇宙が誕生し、消滅するまでを超高速回転で無限に繰り返しているという現れが今この瞬間なのだ。今、この瞬間の構造とは、宇宙の高速無限回転の現れなのだ。今に生きる、今この瞬間を充実させて感じることが確率論的な偶然、すべてが必然的ではなく偶然的事象、果ては、自由意志をうむのだ。今瞬間ではなく、過去や未来に伸び広がった意識は必然的なものの見方になるのだ。必然的なものは無知になり、偶然的、自由意志的なものは知である。



受動的総合と無の無化についてである。アクションを起こさないで部屋でじーっとする。ハエが突進してきたので巧みな座りながらのフットワークでよけてみる。ハエがあられたのはなぜか。ハエを呼び寄せたのは頭洗ってないからかもしれないが、じつに、無を分解し、状態ベクトルを取り出したからである。

  哲学者フッサールの受動的総合についてである。サイコロを転がす。サイコロには六面あるのだが、それが瞬時に立体的にイメージできるのはなぜか。自発的にいろんな面を総合させて判断していない。瞬時に、立体的なサイコロを受け取る。自発的総合とはあれやこれやを自発的に結びつけて判断すること。受動的総合は出来上がった状態で飛び込んでくるサイコロだ。フッサールは受動的総合は最低限、最小の自発的総合だというのだ。

  次の話はハイデガーの無の無化についてである。無を無にしてしまえば、きっと有、存在になる。否定の否定は肯定、反対の反対は賛成だ。これは論理的なのだが、無の無化は存在論的なのだ。自分がいない、無出会った生まれるまえの全歴史。自分がいない未来の死滅。この無にふれる、無を無化することで、自分の存在が丸ごと現れるのである。

  まとめ

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  マッハツェンダー干渉計は光子の経路の実験だ。光子がどこをどう通ってゴールのハーフミラーから飛び出したのか。この実験装置のなかに人工頭脳をおく。かれはその一部始終をみせるのである。実験後に人工頭脳に聞くと、どの経路か覚えていないという。なぜなら、すべての経路、多世界を経由してゴールへいったからだ。すべての状態ベクトルが重なるので、箱のなかの猫は生きていると同時に死んでいると同様、わからないし、みえないし、聞こえないし、記憶もないのだ。

  すべては無であり、ここに最低限の自発性、アクションがなされて、無は特定の存在者の状態ベクトルに分解され、さらに、その状態ベクトルのひとつが選択されるのだ。無にアクションをおこし、無を解体して、状態ベクトルを取り出し、自分の周囲のあらゆる具体的な状況、出来事を生み出しているのである。


多元的現実論、そして、名指しと必然性についてである。ハエがあたまにたかる。歴史的な大事件なのだが、ハエは人間よりも低俗だと考えがちだ。ピラミッドの頂点は人間、最下層には植物、微生物、さらには無機物がある。別の並行世界を考えると、なんとこのピラミッド、上下関係が無効になってしまうのだ。ピラミッドではなく、すべては同じレベルだということである。
 
  シュッツの多元的現実論についてである。われわれが生きている現実はひとつじゃないという。意識のあり方でいろんな世界が現れるのだという。意識の緊張感、どれほど、ぼーっと判断停止しているのか。いわゆるエポケーの度合い。これによって、時に空想という現実、夢、芸術、科学的世界が現れる。そして、これらのすべての土台には至高の現実があり、それが日常現実だという。なぜなら、日常現実だけが、他人とコミュニケーションができて、触れ合うことができるからだという。

   哲学者クリプキ、名指しと必然性、についてである。アリストテレスという固有名詞。アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師である、という文。このアリストテレスを説明している部分を確定記述句という。いろんな並行世界、可能世界があるという。アリストテレスは床屋さんである、豆腐屋さんである、など。つまり、確定記述句はいろいろとかわるが、そんないろんな可能世界を貫いているものは、アリストテレスっていう名前、固有名詞である。これをいろんな世界を貫いているから、貫世界性という。水はH2Oである。水っていう単語は変わらないが、別の世界ではHかもしれない。これは事実上の固定といって、水がH2oとして経験的に発見されるのだが、最初から必然的に決まっているのだという。経験的なものは偶然、先天的なものは必然というカントからの伝統をひっくり返そうとしたのだ。

  まとめ

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   人間は世界のピラミッドの頂点だと思っている。他の動物は下であり、植物、微生物にいたっては最下層だという。そして、もっと下には無機的物体がある。

  人間は自己意識が強い。そもそも、世界はシュレディンガー方程式だと刻一刻、ありうる可能性のすべてを実現。すべては波動であり、多世界論だ。ここにボーアが射影公理を設定し、このあらゆる可能性のひとつを意識することで粒子にし、収束しているという。人間は自己意識が強いといったが、自分が波動なのだが、自分自身を粒子化、収束し、一なる物理宇宙のなかだけにいようとしているのだ。

  他の生物、たとえば、犬や猫は自己意識が多少弱い。だから、波動性がややあるので、別の並行世界と掛け持ちしている。おそらくひとつやふたつだ。虫はもっと自意識がないので波動状態。だから、たくさんの並行世界を掛け持ちし、この世界で殺されても、別の世界では生きているかもしれない。微生物にいたっては数億の並行世界を掛け持ちし、並行世界の三次元ブレーンが浮く、五次元バルグの中に多細胞的なネットワークを気づいているかもしれない。そして、無機物は無意識である植物以上に、非意識でり、波動そのものである。だから、全並行世界を掛け持ちしているのだ。これが五次元世界を三次元ブレーンを貫いていて行き交っているグラビトン、重力子なのだ。重力子が三次元ブレーンにあたり、時空をゆがめて物体が存在している。

  このように、人間はこの一なる物理宇宙だけに全エネルギーを注ぎ込み、文明を築いた。虫は相当なエネルギーをこのわれわれの物理宇宙だけでなく、ほかの別並行宇宙に逃がしているのだ。微生物にいたってはほとんどエネルギーを別並行世界に満遍なく注ぎ、無機的物体は全エネルギーが完全に均等に全並行世界に注ぎ込む。だから、すべての生命、非生命は平等のエネルギーであり、平等の充実感と情報量を持っているのである。

関係主義と先駆的覚悟性についてである。パラレルワールドといったらなんだかSFチックである。タイムマシンや猫型ロボットが出てくる呑気な世界だ。こんな世界が真剣白羽取り真っ最中や覚悟している超本気モードとじつは同じスタイルではないのか、というお話をしたい。

  関係主義についてである。ふつうに考えると、まずはなにかがどかーんと存在して、はじめて、それと関係をもつ。太郎くんっていう実体が最初にあって、次郎君も最初に実体だ。そして、コタツのうえで出会って、友情関係という関係になる。これが実体主義だ。関係主義とは最初に関係があって、実体っていうのは単なる結節点だという。太郎くんは次郎くんとの友好関係のなかで性格が変わったり、作られていくのである。

  カッシラーは科学の進歩について論じた。最初は実体主義だったという。ところが、現代に近づくにつれて、だんだん関係主義になってきたという。関数である。y=f(x)である。

  日本の哲学者ヒロマツワタルは物があることを重要視する物的世界観から、すべては出来事だという事的世界観へのチェンジを提唱だ。

  次の話はハイデガーの先駆的覚悟性についてである。本当の存在の仕方を本来的実存。本当ではない希薄な存在の仕方を非本来的実存とよんだ。本来的実存は、おのれがおのれ自身を丸ごとつかむことだという。ということは、生まれる前、そして、自分の無である死に手を伸ばす。すると、自分の存在を丸ごとつかむ。いわゆる、死んではいないけど、それを自覚して真剣になることであり、これが死への先駆的覚悟性だという。さらに、非本来的実存はいろんな存在者にあれやこれやとかかわって気軽に存在する仕方だという。


  まとめ


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   ネットワークというものに着目してみる。インターネットは複雑な関係性、ネットワークだ。それよりも、複雑なネットワークは脳である。脳細胞のシナプス結合は複雑だ。そして、ついには、宇宙、時空そのものはすべての要素がすべての要素に関係しているという究極ネットワークである。

  宇宙誕生のとき、いまある宇宙の構成要素は小さな領域に閉じ込められていた。ここですべての構成要素はすべての構成要素と一度は出会っているのだ。膨張し今にいたっている。さて、一度かかわったものは時空を超えて永遠に結びつきがあるというのが量子エンタングルメントである。聖徳大使のひげと机の消しゴムもつながっている。このすべてがすべてにかかわるのが究極ネットワークであり、時空、存在そのものの構造である。

  究極ネットワークは存在そのものであり、ハイデガーのいう存在地平だ。さて、存在地平は時間地平が前提なのだが、時間地平は自分が自分の存在に丸ごとかかわる状態。おのれの存在をつかむにはおのれの無にかかわる。存在、実在していない無とは実現されていない並行宇宙ではないか。ここに究極ネットワークを越えるスーパーウルトラ級の究極ネットワークである存在と無をも含むネットワークがあるのだ。SFチックな話なのだが、じつに、無にかかわるという先駆的覚悟のことではないのか。並行世界は覚悟性と不可分だったのである。

  
スマホデータ

4-11


我汝と自己意識いろいろについてである。一人、モンゴル草原に引きこもって、自分をみつめる。おれがいるんだ、という自意識はじつは奇跡の連続だったのである。自己意識と宇宙についてである。

ブーバーの我汝についてである。私という一人称、あなたで二人称、ちょっとそれを持ってきてくれないか、というそれは三人称。それっていうのはいわゆる物体だ。人間の体だって、分子、原子っていうそれでできているという唯物論。私がまず最初にいるんだよ、という哲学は多い。我思うゆえに我あり、からでデカルトは出発。そして、ブーバーは私とあなたは最初からセットだというのだ。私がさきでも、ものが先でもないという。

次の話は自己意識いろいろについてである。ソクラテスの無知の知、自分は無知だと知っているというもの。カントは鏡でみたり、体つきとか、性格、つまりは経験的にわかる自分を経験的自我といった。だけど、もっと奥にはだれでもない自分そのものがいるという。これが根元的な自我だ。デリダは自分がいたっといったとき、それは残像、痕跡だという。目の前のりんごも痕跡、すべてにラグがあるというのだ。


レヴィナスは自分のなかに他人がいるという。自分でh領有していないからこれを超領有性という。

まとめ

存在の科学



異次元理論


かって、レヴィナスはあるひとつの出来事、事象、事実を認識、認めるには最低ふたりいないといけないという。間主観性でも他人がいるから客観性がうまれるという。ではなぜ一人でいても、事実を受け入れられるのだろうか。自分を二重化しているのだ。そして、ふたりの自分をデコヒーレンスする。このあとに奇跡的にコヒーレンスをおこして自己意識だ。以前話した心とからだは奇跡的なコヒーレンスを膨大な宇宙の時間のなかに発生した奇跡だといった。自分と他人も愛のコヒーレンスだった。自己のなかでもまったく同じことをやっているのだ。ただし、自己意識の一度デコヒーレンスしたのに膨大な月日で奇跡的なコヒーレンスではない。じつはほんとうは我々のしたがっている時間軸からほぼ90度近く鋭角に傾いている時間軸に意識のデコヒーレンスとコヒーレンスの奇跡が起きているのだ。この時間軸の一億年が我々の物理時間の0・0001というように時間感覚が違うのである。


4-12

マルクス唯物論についてである。基本的にへーゲル哲学を踏襲する。それでも、へーゲルをあたまでっかちだと批判。へーゲルは宇宙の歴史は神様の精神という考えなので、すべてが物質という唯物論は賛同しない。ところが、矛盾して対立したら合体してレベルアップという弁証法的な考えは同じだ。最初に無機物。そして、弁証法的にレベルアップして有機体、こうやってついには生命、人間、社会がうまれる。社会ではブルジョワとプロレタリアートとが矛盾対立して理想の世界にnるというのだ。


4-15


ストローソンの哲学と言語行為論についてである。人間同士は言葉でコミュニケーションをはかる。タケコプターで散歩中のばあさんがベーメにのったじいさんと出会って云々という話をしたとき、相手はリアルにその光景を想像するであろう。同じく、宇宙もまた別の宇宙と会話しているがこのときなにが起こっているのだろうか。

オースティンの言語行為論についてである。言語はおおまかに事実確認言語と行為遂行言語があるという。足元に猛獣がいるよ、というのは事実確認言語である。あぶない、足元に注意するんだ、とか、こちらの猛獣をピコちゃんと名付けます、というのは事実をいっているだけでなく、実際に行為をうながしている。のちに事実確認言語も、相手にイメージしてちゃうだいと行為をうながすから行為遂行的だという。


つぎの話はストローソンの哲学についてである。ストローソンは人間が作った言葉の研究ではなく、ふつうにしゃべっている日常言語を研究。しかも、これを形而上学と結びつけるのだ。言語っていうのは宇宙を現しているというのだ。

主語っていうのがある。太郎は次郎と指相撲している。太郎というのが主語であり、話のなかでいきなり三郎にはならない。同じものとして存在しようとするが、これを同定性という。宇宙、世界にあるものも、自分であろうとしている。基本的に人物と物体の扱いは言語文法ではちがう。だから、宇宙、世界でも区別されて、これを基礎的存在者という。さらに主語はかたまり、個体である。述語は普遍的なやつだ。よって同じ論法で、宇宙もまた個体と普遍者がいるという。


まとめ


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異次元理論


人体はたくさんの細胞と水、カルシウムなどの無機物でできている。我々のすむ宇宙も人体と同じだといった。そして、別のブレーン宇宙と関係をもっているともいった。つまり、我々と同じような生活をブレーン宇宙はやっているのだ。

それならば、我々は他人とコミュニケーションとっているから同じように我々の住むブレーン宇宙aも隣の並行ブレーン宇宙bとコミュニケーションしているのではないのか。人間は音声、音波でそれをやっている。宇宙aは宇宙bと重力波、重力子、グラビトンで対話しているのだ。五次元にいる宇宙aと宇宙b。aから重力子が飛んできてbにぶつかって、bの時空をゆがめる。時空のゆがみはそこに物体があることだ。だから、aはbに話すことで、bのなかにイメージを喚起させ、しかも、物質化しているのだ。ふつうに人間のコミュニケーションなら相手のなかに観念、イメージを喚起させるが、ブレーン宇宙のコミュニケーションでは言語をはなつと、相手のブレーン宇宙に物質を喚起させるのである。




4-16


人称性と人格についてである。わたし、あなた、かれら、という人称性。ふつうの生活で頻繁に使っている。ということは下にあるごとく、上もかくあり。オシリはあたま、オシリで考える。宇宙もまた、人称性のある生活を送っているのではないのか。


人称性についてである。私という一人称からスタートした哲学者はデカルト。我疑うゆえに我あり。疑っているおれ自身はいるに決まっている。ここから他人の存在を証明するのは難しい。二人称の哲学といったらブーバーである。わたしがいて、あなた、かれら、それらがあるのではない。三人称のそれらから、私ができているのもない。これは唯物論だ。そうでうなく、最初からわたしとセットだという。

三人称の哲学といえば、レヴィナスである。ここにはいない不在の他人。この圧倒的な強迫を感じるという。これをイリヤという。

次の話は人格についてである。先月の給料画もらえるのは同じ人格だからである。責任だって同じ人格だからとる。からだが同じならば同じ人格という身体説。日々、元気に新陳代謝しているからみけんにしわよせて厳密にいうと、おなじ身体ではない。ジョンロックは記憶があれば同じ人格だという。ヒュームはそもそも、わたしっていうのは思い込みだという。また、
からだでも記憶でもない魂が人格という考えもある。


まとめ


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我々の住むこの宇宙は五次元空間内にある別のブレーン宇宙と重力子を介したコミュニケーションをしていて、これが互いの宇宙のなかに物質を出現させているといった。宇宙の対話であり、これは二人称である。会話のなかに不在の第三者がでてきたらこれはなにになるのか。不在、原理的には永遠に会うことがないもの、事象地平であり、ブラックホールである。


さて、人称性と宇宙の対応をみてみたい。三人称は不在のものたち、みえないものである。これは三次元空間だ。三次元だと、内部や裏側がみえない。第四人称とはなにか。四次元時間軸であり、量的な時間ではなく、質的に永遠と続く時間。魂の輪廻が、第四人称である。しかも、第三人称はかれら、それらという人間と物体をあわせたものだ。第四人称はひとでも物体でもないもの。同時にそれはひとであり、ひといがいのすべて。さらに不在はなにかしらの関係があるが第四人称はアウトサイダー、まったく身近にいないひととひといがいだ。これは自分以外の動物植物物体もふくめたすべてのものをすべてものたちが永遠の時間のなかで輪廻で体験することである。第五人称は実現されうるあらゆる宇宙、生命、物体のすべての体験でる。



4-17


連続性の原理と否定神学についてである。座っていていきなり立ち上がって歩きだして横になる、という連続攻撃。すべては一見、バラバラのものがあつまっているようにみえるが、その実、間断なく連続しているのではないか、というお話である。

ラブジョイの連続性の原理についてである。すべては連続しているという。まったく正反対のものでも無限っていう魔法を使い、サンドイッチの具のように挟んでやると繋がるのである。止まっていることと、動いているもの。止まっているとは無限に小さな動きかである。等しいと等しくないもの。等しいとは、無限に小さな違い、不等であるという。このようの宇宙は連続し、ヒエラルキーになっているという。


次の話は否定神学についてである。神様とはなにか、と問う。大根でもない、長ネギでもない、あれでもこれでもない、と否定しまくる。その進退極まった境地に神様がいるというのだ。


まとめ

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異次元理論


量子は波動であり、例えば、電子は原子核の周りをmわっているが山と谷がある波形を描きながら回っている。だから、量子の出すエネルギーは飛び飛びの値、非連続であり、デジタルである。量子の二重スリット実験は観測したら波動が粒子になり、これが離れている量子にも光速を越えた速度で情報伝達するのだという。これが量子のエンタングルメントである。もともと、宇宙は一ヶ所からはじまったのですべての物質のかけらは一度、接触している。ゆえに、すべては時空をこえてすべてにつながり、エンタングルメントしているのだ。

量子は小さい。小さいもの、大きすぎるもの、遠すぎるものは丸くみえ、シンメトリーにみえる。原子、量子、惑星、太陽系も同じだ。もしも、等身大になったら量子も具体的な人物にみえるかもしれない。

さて、われわれも人間として、個人がたくさんいる。非連続的であるがこの根底にはすべてが時空を越えて連続しているというエンタングルメントが潜んでいるのだ。わたしは時空を越えて、あらゆるひと、動植物、無機物とつながり、これが気分 、感情、意志になっている。否定神学のように進退極まって連続性が根本にある。



4-18


非常識な哲学と常識の哲学についてである。人類はどこから来てどこへ行くのか。自分は何者であり、どこからとどこへ行くのか。なんだか哲学的な問いである。家から来て、学校へ行くところだ、というのはなんだか常識的だ。じつは生命もまた高次元レベルではいたって常識的か出現と消失がおこなわれているかもしれない。


非常識な哲学についてである。非常識という枠でとらえるのはたしかに抵抗はある。哲学者ヒュームの経験論は突拍子もないものだ。いつもの部屋の机のうえ。おもわず、百均で衝動買いしてしまった逆立ちする犬の置物。複雑な理由で単身渡米ならぬ、単身仕事場に来ている。だれもいない自分の部屋にはあの置物は存在しているだろうか。帰宅すると、いつも、そこにある。自分が立ち会っていなくても、それ自体で存在していると習慣的に思い込むのだ。

ふと下をみると足があり、へそがある。自分っていうのも繰り返しのなかからうまれた習慣的な思い込みだという。

ヴィトゲンシュタインもまた自分はいないといい。当初は自分しかいないという独我論。他人とのコミュニケーションツールとしての言語以前に、心のなかで孤独につぶやく。これが私的言語である。そして、ついにはそんな自分の存在も疑う

つぎの話はスコットランド常識学派についてである。代表者のリードはまずヒューム哲学批判である。感覚と知覚をきちんとわけないといけないという。いたい、かゆい、まぶしい、っていうのは主観とか、客観という区別がない。くさい、まるい、などの感覚を人類共通のマニュアル、共通感覚、いわゆるコモンセンスでまとめると、自分の外にある臭い丸い物体を知覚となるのだ。このコモンセンスが知覚だけでなく、規範や道徳まで網羅すると、人類の常識っていうものになるのだ。


まとめ


人類、自分はどこから来てどこへ行くのか。三次元空間にすんでいるわれわれの肉体。こぶしを上にあげると、無数の2次元平面を通過する。もしも、2次元人、フラット人がいたら、突如、こぶしがどこからともなく出現し、しばし、大きくなっては少しずつ小さくなり、ついにはいずこへと消えてしまう。三次元における普通の常識的な動きがかれらにとっては謎多き奇跡、神秘にみえてしまう。

さて、同じように今度は五次元のなにかが三次元を通過するときを考える。五次元は四次元の時間軸を越えた次元だ。四次元時間軸が既成のものとして完成しているものたちによって満たされているのだ。時間軸の完成とは人格、魂、精神である。赤ちゃんのころの斎藤くんと年老いた斎藤くんは肉体、記憶量も違うが、同じ人格、精神である。つまり、五次元は魂がたくさんあり、自由に五次元的運動を普通にやっていて、三次元空間をしばらく通過したときに肉体をもって誕生し、いつしか、死滅して五次元へ帰るのである。




4-19


ゲシュタルトと私的言語についてである。見ていないもの、聞いていないもの、考えていないこと、などに囲まれている。体験していないこと、記憶にないこと、これらがパラレルワールドを混ぜわせたものだ。いきなりここでパラレルワールドがでてるとは唐突であり、タバコ屋のばあさんがいきなりラップ調子でしぇけらっと叫ぶことに等しいかもしれない。


ゲシュタルトについてである。相手のあたまをみて、おしりをみて、パーツを組み合わせてやまちゃんを認識しているのだろうか。これを要素を組わせているので、ヴント要素主義という。部分が集まって全体なのだ。



ところがこれにたいしてゲシュタルト理論は全体と部分がダイレクトに関係しているのだ。単音があつまった以上にメロデイにはなにかがある。被写体は背景との関係から立体的にみえてくるのだ。

次の話はヴィトゲンシュタインの私的言語についてである。言語といったらふつうは他人と意志の疎通を図るためのコミュニケーションツールである。ところが哲学的孤独でコートのなかでひとりぼっちになると、自分のこころのなかでつぶやく。寂しい気持ちのときも、さびしいという単語ではない微妙な境地を自分語でつぶやくのだ。そんな気持ちを仮にeという文字にする。eという気持ちのときはカレンダーに書き込んでおく。ところが、他人がこれをみてもどんな気持ちが理解できないのだ。自分はそう思うんだ、と主観的に正当化。主観的な正当化はもはや正当化ではないから、私的言語なんてないというのだ。

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異次元理論


マッハツェンダー干渉計という装置がある。半分の確率で光子を透過、反射するハーフミラーを4つ設置してある。光子を放ってどういう経路でゴールのハーフミラーに到達するかの実験である。シュレディンガー波動方程式に射影公理を使うボーア。光子の波がきゅーっと収束して粒子になる。だから、選択しなかった経路は実在しない。多世界解釈だと、すべての経路がかさなり、最後のハーフミラーで光子がでてくる。


さて、このマッハツェンダー干渉計のなかに人工頭脳を仕掛けて、この人工頭脳にどっちの経路を通ったを聞く。すると、恐らく覚えていない、記憶にないという。というのも、ふたつの状態ベクトル、並行世界を同時にみているからだ。状態ベクトルを重ねるとは、見ていない、聞いていない、体験していない、思考していない、記憶がないのと同じなのだ。だから、状態ベクトルに分解されていない並行世界の重なり、生きていると同時に死んでいる猫、これらはみていない、わからないものである。いままさに考えていない、みえないものがすべて並行世界、状態ベクトルのかさなったものだ。いぶしかげにかんがえているようにみえる他人。私的言語を語っているが、状態ベクトルの分解がなされていないので、なにも考えていないことに等しくなる。ゲシュタルト理論の背景、そのもっとバックグラウンドは並行世界の重なり合いなのである。



4-22


統覚とデカルト的コギトについてである。万有引力の法則をニュートンが創造したから物が落下するようになったのか。摩擦力っていうのが見つかったから、裸で滑り台をすると、けつが焼けるように熱いのか。本末転倒のようだが、もしや、科学はアートではないか、というお話をしたい。

統覚とは何か。私自身のことである。自己意識のようなものだ。感覚とか、いろんな情報をまとめているモビルスーツ私の操縦士だ。デカルトは統覚がないと、なにも感じない、知覚もないという。ライプニッツは統覚がなくても、つまり、意識がなくても植物のように知覚のみといい場合もあるという。そして、カントである。経験的統覚は性格、名前、性別のある経験できる私。根源的統覚というのはだれでもない人類共通の私だというのだ。

次の話はデカルト的コギトについてである。我思うゆえに、我あり。我疑うゆえに我あり、ともいう。すべてを疑って、どうしても疑えないものが残った。疑っている自分の存在だ。同時にそんな自分は犬に追いかけられている真っ最中とか、具体的な状況に身を置く自分ではなく、宇宙のなかにいない外冷静にみている神様のようなものだ。すると、宇宙のなかにあるものを冷静にみれる。同時に幾何学的明証性も得られ、神の存在証明もしてしまうという。こんな科学の視点を築き、これをデカルト的コギトという。

まとめ

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人間は自己意識がつよいから本来は波動であり、並行世界にいるのに射影公理で粒子化し、ひとつの物理宇宙に住む。自己意識が弱い生命はおのれを粒子化せずに並行世界を掛け持つといった。人類共通の私、根源的統覚が我々人類を粒子化し、ついには人類の住む宇宙を選択、法則すら創造しているのでhないのか。ユクスキュルがいうように、物理宇宙は人類の住む宇宙である。だから、他の生命は別の宇宙を掛け持ちした混ざりあった世界にいるのだ。



4-23


時間地平と排中律についてである。人間の意識はいわゆるハートマークのようなものではなく、じつに小難しい言い方をすると多層構造になっているのはないのか。しかも、意識の触手は並行世界にまで及んでいるのだ。


ハイデガーの時間地平についてである。んーっと力むと出てくるのであるが、おのれがおのれ自身から脱け出すのである。これがいわゆる脱自である。自分が自分からずれる、これが時間だという。おれだっといった瞬間、おれとずれている。これが時間地平であり、これがベースになってこんどはおのれの存在そのものの輪郭がみえはじめる。存在地平が開くのだ。そして、この存在地平のうえに亀の子たわしをはじめとする具体的な存在者があらわる。

次の話は排中律についてである。絶対に正しいことを言いたい。そんな堅実なかたにおすすめなのが、排中律である。こちらにおわすかたは水戸黄門か、水戸黄門以外のいずれかである、といえばよい。つまり、宇宙のなかのなにぁだといっていうろだ。すると、自己矛盾がうまれる。自分が自分について触れると、自己言及といってNGなのである。宇宙のなかにはそれを語っている当人がいるので矛盾するのだ。ところが、なぜだか、排中律は矛盾なく認めるのである。


まとめ

存在の科学


異次元理論


無機的な物体、植物、微生物はエネルギーをこの物理的宇宙の外、別並行宇宙に流れているといった。動物はその流出量少なく、人間にいたってはおのれの波動を収束して自己意識が強いので、この物理宇宙にいるともいった。
さて、厳密にはひとりの人間の意識構造がこの生命、非生命の多世界へ流れになっているのだ。

まず、超無意識というのがあり、これは微生物のように並行世界全域の意識である。マッハツェンダー干渉計のなかの動いているもの頭脳のようにこの意識は記憶、記録がなされない。物心つくまえの子供はそんな並行世界の波動にいる。これは時間地平であり、存在と無を越えた感覚だ。この一なる世界をはみ出しているので、ここに排中律が矛盾しない秘密がある。つぎの意識は無意識である。これは存在地平であり、存在そのものの感覚だ。ここでは量子エンタングルメントである。宇宙のはじめは点であり、すべての構成要素は一度コンタクトとっている。一度でもふれるとそれらは時空を越えて関係しあっている。だから、これは指示の魔術のいう、いわゆる、私の内面に外界が入る、つまり、認識が成立し、内面が外界に影響という実践も可能になるのだ。そして、このうえに意識が成り立ち、存在者のレベルになって、ひとは判断、イメージ、解釈、意味付けを行う。













posted by モノイイ ジョーカー at 14:59| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月10日

仙人新聞 2013・04・10

仙人新聞 2013・04・10


**仙人動画**

http://www.ustream.tv/user/monoiinasu

**仙人テキスト**



*哲風呂*


3・19

まとめ

 存在の科学


  異次元理論

  シミュレーション宇宙があるなら、どうやって形成されるのだろうか。インフレーション宇宙論ではポップコーンのようなものを超小さく凝縮すると膨大な負のエネルギーになり、これが通常の空間のエネルギーが0だとしたら、大きな負の値に対して0は大きなプラスエネルギーなので一挙に流れ込み、インフレーションを起こして、別の宇宙を風船のように膨らませるのだという。
 
 PCの容量は飛躍的に増え、蓄積情報量が増えると同時にメモリ、記憶媒体が小さくなる。これが進んでついには、負のエネルギーを持つに至り、実際に別世界、空間を作るようになるのではないだろうか。

  急激な質的変化が起こるのである。

  また、エントロピーは増大し続けている。これは宇宙は熱せられていくのだが、これに対して、エントロピーを下げて、秩序正すために生命や意識があるのだ。火はものを加工し、秩序だて、エントロピーをさげる。冷やす火を使うのである。ヨハネはイエスを水ではなく、火で洗礼したというが、この火がイエスであり、秩序、ロゴスだ。水は肉、物体であり、エントロピーを増やすものだ。この水が火をけしたとき、火によって宇宙にすでに穴があいて、別宇宙に水がなだれ込むのである。

  エントロピーが増大し、冷えるから、すべては多様化しようとしている。これが小さなチップに埋め込まれた膨大な情報であり、これこそ宇宙に穴を開ける火になるのだ。

   独我論と大地の思想についてである。究極の独我論、世界にはおいらしかない、という考え。もっといえば、おいらすらいないかもしれない。単なる情報でしかないという考え。さらに、科学的に冷静沈着にものをみる私。この世界にいるんだよ、といないんだよ、というのがメビウスのおびのようにつんがっていた。

  独我論についてである。天上天下唯我独尊、と小さな声で部屋にこもって叫ぶ。独我論とはこの世界には私しかいないという思想。二つの独我論がある。強烈な存在論的独我論。これは他人の心は本当にあるのか、と首かしげるだけでなく、今見ている目の前の壁、天井もあやしいというもの。ソフトな独我論は少なくとも、今感じている、知覚しているものはあるでしょ、というものだ。
  
 フッサールの大地の思想についてである。コペルニクス的転覆とも言う。大地は止まっていなくても、なんと地球も動いているといったコペルニクス。ところが、やっぱりそんなコペルニクスもひっくり返して、大地が不動だというのだ。科学者は宇宙の外から神様の視点にたってものをみる。科学者といっても、きゅうりをかじっているときに、きゅうりの分子構造なんて考えない。つまり、日常、ふつうの大地のうえで生活しているのだ。だから、科学もまた大地の上にあるのだ。

 
  まとめ


  存在の科学

   異次元理論

   科学者はデカルト的コギト以降、宇宙の外で神様の視点にたってものを客観的に見る。自分のおかれた状況は関係ない。自分を含めた、魂のある宇宙はみない。魂、心といったら、科学ではなくなってしまうかもしれない。コペンハーゲン学派は観測者の観測による波動の収束といい、エヴェレット多世界解釈だと世界は無尽蔵に分岐という。どっちかというと後者が客観的だ。科学は時間、空間、エネルギー、物質を扱い、魂は含ませない。

   この宇宙はマトリクスの映画のようにすべてのものが眠らされていて夢を見せられているかもしれない。そもそも、体がなくて、情報、信号だけかもしれず、もっといえば、われわれという複数ではなく、私しかいないのかもしれない。もしも、おのが死滅のあとにこれに気づいたら果たして人生に意味を見出せるのだろうか。すべてが虚構だった場合だ。すべては自分のなかで、自分しかいなかった場合だ。有意味というからには検証理論だが、そもそも、すべてが虚構というのだから検証という言葉も意味を失う。無意味という定義もなくなる。ここに高次元の意味論があるのではないか。

  私が世界にいないものと、おもいっきり世界にいて、世界そのものであり、自分しかないという二つの思想は実は相反するのがメビウスのひものようにつながっているのではないか。 


スマホ 3-21


  まとめ

  存在の科学

 
  異次元理論

 
  量子論は大きくわけてボーアのコペンハーゲン学派とエヴェレット多世界解釈がある。コペンハーゲン学派は、世界は波動であり、観測者が観測したときに波動は収束、粒子になる。箱のなかの猫は寝ていると同時に起きているいわゆる波動状態だが、観測するとどっちかになる。科学はデカルト的コギトの確立以降は観測者である自分が理論に入ってこない。だから、エヴェレットはシュレディンガー方程式をそのまま数学的に素直に受け取り、世界は収束せずに、無数にいろんな状態へと分岐、増殖すると考えたのだ。いわゆる、パラレルワールドである。
 
  さて、この二つ、まずはコペンハーゲンは経験的な個人が世界を決定、エヴェレットは世界そのものが自己展開して分岐だ。ここで梵我一如、私と世界が一体になった絶対無差別などを導入し、私イコール宇宙とすれば、この世界の自己展開における分岐と個人の波動収束は同じことになるのだ。



実存とプラグマティズムについてである。宇宙の遠大な歴史のなかで生命、主体的な意識あるものが現れた。生命の誕生はなにを意味するのか。主体的にごみをゴミ箱に運び、主体的にしゃっぽこ立ちのポーズをする。主体的とはその正反対である実用的なものと結びつくのだ。

  実存とはなにか。普遍的な真理、すべてにあてはまる真理を探し求めてるものがたくさんいた。ところが、キルケゴールは真理を個別的、唯一無比の個性的なものだとしたのだ。これを実存と名づける。
  ハイデガーは実存を被投的企投と名づける。被投とは世の中に素っ裸で投げ出されたこと。膨大な歴史に押し出されて生まれてくる。そんな状況でも、未来にいろいろと企てるが最終的には死滅する。これが企投である。企投と被投にはさまれているのだ。
    
 サルトルは法則とか、本質が最初にあって、人間やっているのではないという。自分の自由な存在、これを実存とよび、これによって本質、自分がなにになるか決定するのだ。

  遠近法的な思想だとニーチェである。善悪も自分の視点から遠近法的にしか見れない。同じりんごをみても、他人の目で見れない。好き嫌いもちがうし、あくまでも、自分からの遠近法の中に生きているという実存だ。

  次の話はプラグマティズムについてである。実用主義である。パースという思想家はまずデカルトの直感を批判。直感といっても、五感ではなく、知的直感である。ひらめき、第六感のようなものだ。われ思うゆえにわれあり。別段、鏡でみて、俺がいたんだ、とわかるのではなく、直感である。そうではなく、すべては記号だという。記号はなにか示す。何かのためにという道具の連鎖なのだ。後に登場するジェームス、デューイもそうだが、真理とは、これだと指差せるものではなく、真理化であり、生きるうえで役に立つものが真理だという。カントは定言命法で、理屈抜きで汝なすべしを実践、プラクティスといったが、そうではなく、なにかのためにという実用、プラグマティッシュを推奨する。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   宇宙が誕生したとき、根源的な無と純粋な有だけであった。のちにこれらが混ざり合う。こうやって、欠けているところがうまれ、形がうまれる。形といっても、欠けているところにはバックグラウンド、背景という有である。こうやって有と無が混ざって存在者がある。岩石、星しかりである。
 
  次に宇宙において生命の意識、主体的な遠近法的な意識がうまれる。この意識は複数の多世界を一意に選択するものである。さらに今後、複数の多世界にまで触手を伸ばすマルチバースな意識がうまれる。右手をあげているが、上げなかったもしもの世界にまで意識が及び、意味がうまれる。複数のゲームをやっていて、複数の世界をもつというのはその兆候である。

  いつしか、PCの容量が大きなり、PCのなかに無数のシュミレーション世界をつくる。そのなかにはシュミレーション住人たちがいる。その数はシュミレーターの数を上回る。もしかしたら、すでにわれわれはもうシュミレーション世界の住人かもしれない。曼荼羅に描かれている神様たちはわれわれの数よりも少ないが、神様がシュミレーターなのかもしれない。


  さて、シミュレーション世界を作るうえで容量を削減したいと実用的に考えるであろう。最小の容量で最大の成果を期待するのだ。だから、シュミレーションの住人は世界のすべてをあますところなく見える能力を持たないほうがよい。テレビを見ているときは、プログラムはテレビを存在させるためにだけ計算する。誰も見ていない押入れの中の計算はストップさせるのだ。押入れをあけたとたん、計算実行される。これはまさしくコペンハーゲンの量子論ではないか。箱のなかの猫は計算していいない状態なのだ。そのためにも、主体的な、遠近法的な意識が誕生したのだ。遠近法的だから、決して、同時に意識できない。ものの影も見えないのである。シミュレーターの実用的な作戦が主体的、実存的、遠近法的な意識を生む。

虚構主義、二値論理、そして、善悪の彼岸についてである。うそからでた真、とよくいったものだ。ケツからでたたまご、鼻からでた耳くそ。汚い話に花が咲く。うそ極まって真になり、真極まってうそになるという真偽の彼岸について考えてみたい。

  ファイヒンガーの虚構主義についてである。カントの研究をしていたファイヒンガー。カントは魂、自由、神様っていうのは、わからないけど自分の能力の限界、一番外の柵としての役割があるという。これを統整的原理という。だから、魂、自由、神様はリーチが長くても、手が届かない理念、虚構だといったのだ。

さて、ファイヒンガーは身の回りの当たり前なものも虚構だという。先生が黒板にあまりどらえもんを描かない。三角形を描くが、顕微鏡でみればぎざぎざであり、あたかも、三角形かのうようにみなす。すべては原子でできているというが、肉眼では原子は見えない。無理数も直感的にはわからない。ただし、超高精度な老眼鏡でみけんにしわよせたら少しは原子がみえるかもしれない。

  ところが、どんなにがんばってもまったくもって見えない、わからないものがある。それが魂、自由、神様であり、これだけは純粋虚構であり、もはや、みるのではなく信じるしかないという。ファイヒンガーはいわゆるすべては虚構で確実なのは生きているっていう事実だけという生の哲学なのである。

  次の話は二値論理についてである。論理学のなかでも真か、偽か、つまりは丸かバツか、という二つの値をもつものをいう。ちょっと本当っぽいとか、大いにうそっぽい、という微妙な値もあるようなものを多値論理学という。

  最後にニーチェの善悪の彼岸についてである。どんなひとも、自分の視点からしかものをみれない。隣人の目も、耳も、あたまも借りれない。かといって、言葉で通じ合えないから、みんなで共有できる価値はないという。好き嫌い、善悪、これらには絶対的なものはなく、自分が無から創造するのだという。だから、善悪を超えて、善悪の彼岸である。


  まとめ

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  異次元理論


   シミュレーション多世界論だと、たとえば、この世界もすでにシミュレーション世界でわれわれはその住人。すると、シュミレーター、世界製作者は住人の数よりも少ない神様かもしれないといった。われわれもいつしかシミュレーション宇宙をつくる。さらに、その住人たちも同じようにシミュレーション宇宙を作る。シュミレーション宇宙の入れ子構造である。すると、最初は生身の生命と実物のPCがあったはずだ。そうではなく、すべてがシュミレーションの螺旋的回転運動であり、無限の入れ子構造なのではないか。こうなると、すべては虚構の中の虚構の中の虚構になってしまう。虚構、偽がきわまって真になるのだ。虚構の無限入れ子構造自体が真実になり、また、逆に真実の無限の入れ子構造が虚構を作る。




パラダイム論と原創設についてである。この世界がシュミレーション、マトリクスのような世界だったら、どんなプログラムなのだろうか。そして、そこに自由意志をもった生命、意識がどうやって生まれるのだろうか。さまざまなクエスチョンマークがあたまのまわりを回っているので、これらをとっ捕まえて吟味したい。

   クーンのパラダイム論についてである。科学っていうのはスポーツのようだ。野球は格闘技だとか、茶道は近未来合体ロボだ、とか、それに近い言い方に聞こえるかもしれない。ニュートン力学と量子論はルール、土俵がちがうからかみ合わないという。つまり、知識の枠組み、パラダイムの違いだという。数学だって、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学など。批判的合理主義者のカールポパーはこれらのパラダイム、つまり、知の枠組みの外は、ユークリッドと非ユークリッド幾何学の外は混沌のでたらめ、非合理な世界がひろがっていると批判する。野球とサッカーのあいだで地面にレジャーシートを敷いて、踊りながら飯くっているものは野球もサッカーのルール、どっちにも従わない。

  次の話はフッサールの原創設についてである。一番最初につくったひとが必ずいる。幾何学だって、名もないだれかが最低限のルールを決めて始めた。そして、かれの手から離れ、一人歩きし、進歩したのだ。そして、現象学の原創設とは究極だという。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   この世界はシュミレーターによって作られたシュミレーション世界だとしよう。すると、どうやって、この世界を作ったのか。われわれのPCのプログラム、アルゴリズムのように断片的な部品、モジュールを組み合わせているのである。躓いて転ぶとき、ニュートン力学のモジュールが計算を始める。おなかがいたいときは生理学である。ところが、われわれ住民はたとえば、心理学と大脳生理学の中間を模索する。物理学と天文学もそうだ。学のあいだ、学際領域であり、フリンジサイエンスといわれるものだ。当初はこの中間の部品、モジュールがないのだ。だから、世界製作者はこの新しいモジュールを間に挿入するのである。こうやって、数学のない時代は数学法則に従わず、物理学の発見がないときは物理の法則もなかったのである。
 
  さて、人間の自由意志や生命の意識。これらはモジュールの計算のよって生まれたのではない。モジュールの計算は必然的、決定論的なもの、線型性がある。ところが、自由意志は偶然性であり、計算不能だ。これはさまざまな学的プログラムのモジュールの間にいるのだ。モジュールの隙間が自由意志や生命の意識だ。そもそも、部品と部品の間に自分がいるのであって、自分自身は部品ではない。そして、学際領域、中間の隙間が新しいモジュールで埋め尽くされると、もはや、自由意志、意識の居場所がなくなる。そこで、四次元時空ではなく、網の目のようにこまかくなった部品がある四次元時空ではなく、五次元に自由意志、意識は身をおくようになるのだ。だから、フリンジサイエンスはときに精神論になるのだ。


3.27


   純粋自我と環境内存在についてである。生命の歴史といっても、体と魂の歴史があるのではないか。微生物から魚、がんばって陸にあがってきた両生類。そして、かなり割愛して人類。そして、今後生まれるであろう新たな生命も含めて考察する。


   哲学者フッサールの純粋自我についてである。前期思想であるが、すべてが信用できなくなり、かっこに入れる。鏡にうつった自分、性格や経歴、名前のついた自分ですら思い込みかもしれない。こうやって、括弧に入れても最後の残余物があった。だれでもない名前すらない私がいるのだ。これが純粋自我であり、こういったやり方が現象学的方法である。

  次の話はユクスキュルの環境内存在についてである。昆虫だって、魚だって、人間だって、すべての生き物はあたかも物理的な宇宙のなかに住んでいると思っている。ところが、そうではないというのだ。人間は五感で感じる。目でみて、鼻で匂う。知覚標識という。そして、巨大な怪物にであったら、足をつかって走り、逃げる。歩いたり、腕をふりまわせるが、これが作用標識である。この知覚標識と作用標識をあわせたものが人間の世界なのだ。ダニは知覚標識も人間とぜんぜん違う。作用標識もちがうので、ダニは種独自の環境の中を住んでいるのだ。これが環境内存在である。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   魂とからだの歴史。物質には三つの相がある。厳密には四つだ。まずは固体である。次に、液体であり、これが熱せられると、気体になる。気体は水でいえば、水蒸気であり、水分子が暴れまわっているもの。もっと、高温になると原子核と電子がわかれてプラズマ状態である。いわゆる相転移である。

  さて、生命の肉、身体はまずは固体のなかにあった。微生物である。次に、水中、液体の中の魚。陸にあがって両生類や爬虫類、ついには人間だ。今後はどう進化するのか。プラズマのなかに住む生命体である。太陽はプラズマという説があるが、太陽のなかにいるのである。脳も一種のプラズマ状態だとしたらこの中にもいるのだろうか。

   魂、意識はなにかといえば、見えないものである。見えないものとは、物質、肉以外のものであり、時空そのものだ。時間それ自体、空間それ自体は見えないのだ。だから、時空のゆがみが意識、精神、魂になる。ここに意識と相対論が関係する。光速に近い回転のときは時間が遅く感じ、もっと遅い回転運動のときは、時間を遅くかんじる、そんな意識なのである。

  純粋自我とはほかならぬ、この時空のゆがみなのである。環境のなかで進化してきた肉とは別のものなのである。



ペルソナと環境主義的な心の哲学についてである。果たして私はだれなのか。記憶はなにもかに埋め込まれたかもしれないとSFチックな妄想で朝っぱらから出勤する。記憶が私ではないなら、心とは一体なんなのか、そんなことに思いをはせる。

  ペルソナとはなにか。
 


受動的総合と実践的惰性態についてである。どの世界にいこうかと常に選択している。より善い世界の選択。自分の意志で、これだっと選ぶか。それか、すべてを天にまかせちゃうか。世界選択と世界の行く末について掃除機にまたがって自走しながら思慮したいとおもう。

  哲学者フッサールの受動的総合についてである。耳からはなにやらカブトムシの遠吠えが聞こえ、鼻にはなにかツーンとする甘美な香りが進入。こうやって感覚的ヒュレーを意識が自発的に組み合わせる。これが意識作用のノエシスだ。こうやって組み立てられるのが全体的なイメージ像であるノエマだ。

  さて、こんなに一生懸命、自発的にならなくても、犬のくそだっとぱっ見で気がつき、必殺急がば回れ大作戦によって回避する。受動的に見た瞬間にすでに感覚ヒュレーが組み合わさっているのだ。じつにひそかに積極的、自発的に必要最小限に意識作用が加わっているという。受動的総合とは最低限の自発的総合だという。また、この作用を原ノエシスといい、同時に自分のなかの意識の流れもまとめているという。

   次の話はサルトルの実践的惰性態についてである。サルトルは人間っていうのは徹底的に自由だといった。自由に実践だが、それは個人の話だ。ところが、集団になると、たしかにみんなで実践するが、全体として惰性的になる。惰性とはどんぐりころころよろしく、いわゆる、物体の特性。集団が惰性になることで個人は疎外感を味わううという。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   シュミレーターが世界をたくさん作る。その中のひとつがいまいる自分のこの世界だ。複数の世界があって、そのなかのわずかがアタリである。いわゆる、進化の枝分かれで言えば、絶滅せずに進化するもの。世界の進化もまた、世界のなかに世界をうむことなのだ。シュミレーションの住民であるわれわれがまた入れ子構造のようにまたわれわれの世界のなかにシュミレーション宇宙をつくるのだ。これは羊が針の穴にはいるほうがたやすいぐらいに難しいことだ。

  それではそのアタリの世界は自分の自由意志で選択するのだろうか。ボーアのコペンハーゲン解釈のように、自分の意志で世界の波動性を収束させるのか。また、宇宙そのものがどんどん多世界に分岐するエヴェレット解釈のように、宇宙にゆだねるものか。神や世界にゆだねる受動性と、自分の意志で自発的な選択か。コペンハーゲンとエヴェレット解釈は以前話たが、梵我一如、宇宙と個人としての私が一体になったとき、まったくもって同じ宇宙観になるのだ。受け入れることと、選択することはじつは同じであるという妙技に尽きる境地こそがアタリの世界への道かもしれない。
 
差異と反復、そして、ボルツァーノの表象自体についてである。BMWではもなく、PTAでもない。GRW理論というものがある。でかいものは物陰に隠れていても波にならずにしっかりどっしりと存在できるんだ、というもの。ここから話は輪廻転生に及び、クオリアにまで行く。

  哲学者ドゥルース、差異と反復、についてである。かってデリダは、はじめに差異ありき、といった。ふつうに考えると同一性があって、次に違い、差異がくる。やまちゃんはやまちゃんだ、花子ちゃんは花子ちゃんだ、という同一性。つぎにヘアースタイルの違い、差異がくる。そうではなく、やまちゃんはやまちゃんだ、といってもそこにすでに差異がある。だから、何度となく、反復しておれはおれだといい続けて同一性に向かおうとする。

  反復といっても反復斜めとびではない。過去、現在、未来のおのおのおを中心にした反復があるという。過去を中心の反復はベルクソンだという。りんごだ、りんごが攻めてきた、と人々は逃げ惑う。今見ているものとかって食べたことがあるりんごの記憶を反復させるから認識できるのだ。現在中心の反復はヒュームである。いま、いま、いま、という現在の反復。りんご、りんご、と反復してその場を立ち去っても、習慣的に自分が立ち会っていなくても、りんごはそれ自体で存在しちゃっている、つまり、りんごの実体という思い込みが生まれるという。未来中心がニーチェである。生まれてから死ぬまで、未来永劫、同じ人生を反復するという思想だ。

  次の話はボルツァーノの表象自体である。表象はイメージということだが、あたまのなかでも、あたまのうえに思い描くものではなく、それ自体であるのだ。やまちゃんの髪の毛の本数は数えたことがないが、本数はそれ自体あるのだ。世界中の砂粒の数もまたそれ自体である。


   まとめ

  存在の科学

  異次元理論

 GRW理論というものがある。量子論ではとりわけ、ボーアのコペンハーゲン学派では、箱の中の猫は生きていると同時に死んでいると同時に遊んでいる。つまり、あらゆる状態が重なっているので波動状態である。フタをあけた瞬間に、きゅーっと収束し、粒になる。こうして、遊んでいる猫が確定だ。小さな、ミクロの世界では実際、観測したとたんに粒子化し、確定である。二重スリット実験などである。ところが、大きなもの、マクロなものはちがうという。猫、消しゴムは見ないでも確定しているというのだ。なぜなら、GRW理論だと、量子である電子、光子は一兆年に一回かはわからないが、自然に粒子に収束するという奇跡が起きるという。ボールが壁を通り抜ける確率は超低いがゼロではない。一兆年に一回くらいおこる。これがトンネル効果だ。宇宙は無限の時間だ。そして、通常、身の回りの物体、身体は猛烈にたくさんの量子でできているので、下手な鉄砲数打てばあたる方式で、頻繁にその奇跡の粒子化が起きているのだ。だから、かたまり、粒子として確定しているのだ。

  さて、これは人生、輪廻にもいえる。生まれる前、死後、これを生間領域と名づけるが、ここでは一兆年かはわからないが波動状態だ。そして、奇跡がおきて粒子化したとき、人間として生まれるのだ。粒子には中心性があるが波動にはない。生命個体も主体的、自己中心性をもつ。そして、死滅し、また波動状態に入る。

  また、クオリアも同じだ。身体はたくさんの量子でできている。だから、必然的に奇跡が頻繁におこる。波動の収束と粒子の波動化である。以前、話したが、消滅のとき、粒子が波動になるときにクオリアが生まれるといった。いずれにしても、この量子の奇跡的な転移がクオリアを生んでいるのだ。

4-01

観念論と生気論についてである。最初は無味乾燥ななんの変哲もない無機物、ここから有機体、生命が生まれたと考えられている。そもそも、宇宙の最初から生命の意識、精神があったのではないか、と考えたいのである。おならが先か、お尻が先か、というような難問である。
  
  生の抵抗と統整的原理についてである。広大な宇宙をみてみると、あたまのまわりに蝶がまわるように、太陽のまわりに惑星が回っている。ところが、実際のところ太陽も動いているので、その軌跡はスパイラルなのだ。いってしまえば、パーマネントな感じなのである。この宇宙の動きが生命の生み出す力になっているのではないだろうか。

  哲学者ディルタイの生の抵抗についてである。まず最初に生があるという。物体があって生命が誕生ではなく、自然法則すら生があったから生まれたのだ。生の法則、カテゴリーから自然のカテゴリーがにじみ出る。生のカテゴリーのひとつ、自己意識。これがりんごはりんごなんだよ、という自己同一性、さらには実体になる。生きていると、願望実現できずに挫折したり、やりたくてもなにか抵抗を感じる。この抵抗感が相互作用を生み、これが因果律に変わったというのだ。

  次の話は哲学者カントの統整的原理についてである。手元にあるおはじをはじくように、手元でなにかをする。感覚を自分のなかでまとめるのが悟性であり、概念をつくり、果ては判断する。ところが、人間の理性は感覚を使わず、どんどん、はるかかなたまで広がる。ついには魂は不死か否か、宇宙は必然的に運行か、それとも自由があるのか。さらには神様がいるかどうか。これらを理念よび、正直いって理性能力を超えている限界だという。だから、人間の能力はいまいったような理念という柵でかこまれているのだが、これが統整的原理である。これに対して、手元で感覚をいじくるのは構成的原理という。

  まとめ


   存在の科学


   異次元理論



   宇宙における惑星や恒星の動きが生命を生んだのではないか。太陽を中心にして惑星がまわる。ところが、本当のところは太陽も動いているから惑星は太陽についていくように螺旋、スパイラルな軌跡を描いている。さらに、そんな太陽も銀河系を中心のブラックホールのまわりを螺旋を描きながらまわる。銀河また螺旋にうごき、これもまた螺旋だ。こうやって無限のスパイラル運動だとしたら、移動する惑星なり、恒星はステラウィンドウ、つまり、恒星風によって抵抗を受けるが、進行方向が無限に微妙な運動なので定まらない。よって、進行方向から逆向きの抵抗も無限遠方のスパイラル中心からの方向性であり、これまた特定できない方角からの抵抗を受ける。無限スパイラル構造ゆえにこのステラウィンドウからの抵抗がはるか無限かなたの仮想点、統整的、理念的な影響によって生命の原動力がうまれるのだ。それゆえ、生命の形状はスパイラルである。アンモナイト、かたつむり、花、DNA、これらはすべて生でありスパイラルな構造体だ。

  これに対して、スパイラルではないとは生まれる前と死後、生間領域だ。これは高次元のことだから、高次元を折りたたんだ形状であるカラビヤウの形になる。たまごのなかのひな、母体のなかの赤子、土のなかの種、芽吹こうとするときの形、これらはすべてカラビヤウ多様体の形状なのである。



時間意識と空間についてである。時間と空間となにがあるのか。生命がいるのである。相対論の発想から時間は空間、空間は生命であり、いたるところにも魂、意識が充満している、それはポケットのなかだけでなく、この空間そのものの構成しているのだ、というお話をしたい。

  時間意識についてである。時間っていうのは意識の流れじゃないのか、という思想はたくさんある。フッサールはちょっと前の過去をとどめて、今この瞬間を感じ取り、ちょっと先の未来を予測しながら意識活動しているという。さらに、自分の意識の流れを感じちゃうのだが、流れはとまっているものから感じられる。同時に私は私だと固定し、とまっている。だから、流れていると同時にとまっている、のが意識であり、これを絶対的意識流と名づける。
 
  さて、ベルクソンの純粋持続というお話がある。われわれがふつうに平然と鼻歌を歌いながら使っている時間というのは空間化されちゃった時間だという。過去、現在、未来というものが直線上にならんいる。空間的なものは測量できる。ところが、本当の時間は質的なもので測量なんてできないという。過去と現在と未来が入り混じっているのだ。そんな時間はどこにあるのか、タンスのすみっこを探しても見つからない。自分の意識がそれだというのだ。これが純粋持続である。


  次の話は空間についてである。空間といったらニュートンの絶対空間だ。不動の絶対空間があるという。カントは時間と空間はあくまでも自分のなかにある感覚を整理するための箱のような扱いだ。前後に意味の違いをもたせると遠近法空間になるが、空間を気分の空間と考える思想家もいる。


 まとめ

  存在の科学


  異次元理論

  時間というのは哲学的によく意識だという考えがある。相対論だと運動、光速に近い運動などをすると、時間軸と空間軸が傾く。一部、時間が空間、空間が時間になる。こうやってとどのつまり、時間イコール空間。時間量と空間量は等しいのではないか。 
  

  さて、そんな空間は最小単位があるはずだ。そうしないと一センチも進めない。無限に小さな点を集めてもただの点だ。離散的にするためにもひもという最小のものがあるというひも理論。さらに、すべては量子で満たされるという量子場理論。量子だとすれば、量子の充満が空間そのものなのか。すると、時間意識が空間を満たす量子であり、それが意識、生命個体の魂だとはならないだろうか。目の前の机はたくさんの量子でできているし、なにもない空間も量子の発生と消滅だ。だから、すべての量子は生命個体の一つ一つの魂なのだ。かっていたものたち、これからうまれるであろうものたちのすべてがいまこの空間を作っている。



懐疑論と無主体説についてである。なんだかすべてが疑わしくなってくる。疑いのまなざしで正義のヒーローは消しゴムのカス怪人をみる。もしかして、あんたはいいひとなんじゃないのか、と疑い光線をあびせる。すべてが疑わしくなったとき、よってたつ地盤は信念しかないというお話だ。

  デカルトの懐疑論についてである。ほんとうに自分は人間なのか。人の皮をかぶったこけしではないのか。宇宙はあるのか、地球は丸いのか。それでもいままさに疑っている自分が存在しないのではないか、と疑えない。なぜなら、自分がいないといま疑うことすらできないのだ。

  次の話はヴィトゲンシュタインの無主体説についてである。後期のヴィトゲンシュタインは日常言語学派だった。ふつうに使っている言語。だれかが作ったのではなく、生活の流れから自然発生。意図的に出すおならではなく、でてしまったすかしっぺだ。もちろん、ねっぺでもかまわない。とにかく、単語や文法は流れから生まれる。文脈主義という。私、あなた、かれらという人称代名詞も、私っていう単語に相当する私っていう塊がるのかが疑わしい。そこで私はいない、あるのは根拠のない生活だという。


  言語ゲームというのはこの生活の流れで文法、単語がきまって、ゲームに入るとこれらの単語が意味がでてくる。野球をやっているものにとって、ピッチャーがキャッチャーにボールを投げるのは意味がある。ルールも知らずに、ルールに従わないものは意味が見えない。ここからヴィトゲンシュタインフェディズムという宗教運動が生まれる。宗教に登場する神さまなどのことば、さらには儀式。これはその宗教の流れ、ルールに入れば意味が生まれるという思想である。

  まとめ

 存在の科学


  異次元理論

   シュミレーション宇宙論だと、最初にリアルハードウェアであるPCがあって、この中に仮想世界を作る。仮想住人も同じように進化し、自分たちの仮想PCのなかに仮想世界がをつくる。こんな入れ子構造だが、最初にリアルな世界があるはずだ。ところが、もしかしたら、これは入れ子構造の円になっているのではないかといいたい。まるでメビウスの帯のように、表が裏になっている。最初も仮想であり、現実と仮想はメビウスの表裏のようにつながっている。なにをもって現実にするかは信念しかない。

 コペルニクスは天動説、つまり、地球は不動でそのまわりを天体がまわるという発想を覆す。コペルニクス革命によって、地球も天体も動いているとした。これは中心を固定せずに開放したことだ。そして、科学の進歩のなか同じ様なパターンでコペルニクスの第二革命がおこるのではないか。宇宙はたくさんの並行世界があるという。多世界である。すると、宇宙はひとつという中心性が開放だ。しかも、地球も動いているとかではなく、地球の内部に宇宙があるという、内部と外部もいれかわり、メビウスの帯のようになる発想だ。地球内部は高温高圧で磁力線が交差。磁力線の交差はプラズマを生み、プラズマは壁を通り抜けたり、異種のものを原子レベルで融合させる。異なった空間を重ねるという亜空間。だから、地球内部に別世界が並行世界のようにひろがり、同じプラズマ状態の脳内でもイメージの世界が重なりある。肉としての脳のなかに別の物体のイメージが重なるのである。これまた、うちと外、宇宙と地球の見境失いニヒリズムである。ここにも信念による安住、固定が必要である。

  脳内の3パーセントは使われ、残り97パーセントは不明だ。DNAも肉体の情報は3パーセントで残りはジャンクDNAだという。宇宙も3パーセントが観察可能な物質だ。つまり、残りはプラズマを通して別の世界へとつながっているのではないか。また、シュミレーターがこの残り97パーセントのDNAに後天的におこりうる情報を埋め込んでいるのかもしれない。こうなると、なにをもって私なのかが疑わしい。ここにも信念が必要だ。

  言語ゲームのように、ある文脈、ルールの中に入れば、あるものは無意味に、無意味だったものが有意味になる。こういったメビウスの帯のような真偽、有意味と無意味というものが表裏一体、一続きであることがわかり、これを固定するための信念体系が必要なのである。

知的直感と遂行的矛盾についてである。科学革命というものがある。大地が動いてる、と気がつき、地動説だ。地球が中心、おれが中心という考えを捨てたのだ。同じパターンで第二のコペルニクス革命がおこるかもしれない。それは並行宇宙のことだ。宇宙はひとつ、こういう考えが捨てられる。このとき、大問題が発生する。別の次元、並行世界はいわゆる五感ではみれない、観察不可能なのだ。新しい観察手法について考えてみたい。

  知的直感についてである。ふつうは直感といったら感覚的直感だ。目でみて、べろでなめるなど。ところが、古代ギリシャのプラトンは五感以外の知的直感、ビビビっていう直感を提唱。イデアをみる能力だ。いろんな鼻毛があることが知られている。ところが、鼻毛そのものはどこにもない。鼻毛そのもののイデアを捉える能力だ。現代ではフッサールがイデア的直感とか、本質直感、またはイデアチオンとよんだものだ。弟子のアリストテレスは感覚的直感もあるが、それとあたまで論理的に考える論証。これ以外に、感覚でも論証でもない大前提である公理は知的直感で知るしかないという。

  近代にはいると、カントは直感を感覚的直感だけにした。感覚で情報収集。悟性で論理的にまとめ、理性である程度推論。ところが、フィヒテはそんな認識システムはどうやってカントは知ったのだと批判。知的直感で知ったではないか、というのだ。フィヒテは努力によって自我と自我以外を融合だ。また、シェリングは瞬時に天才的直感によって、すべてを融合という絶対無差別の哲学を主張。

  次の話は遂行的矛盾についてである。なんかしながらそのしている真っ最中に見もふたもなく、やっていることは矛盾すること。たとえば、私はしゃべっていないんだよ、と大声で主張。遂行中に矛盾だ。私は存在しない、という主張も同じだ。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  コペルニクス革命とは、大地が不動で、これを中心に天体がまわっているという発想を覆し、大地、地球も動いているという地動説を唱えた。中心性を取り払ったのである。同じ近代においても、宇宙はひとつだという中心性を取り払わないと、多世界論が成り立たなくなる。ところが、この三次元宇宙は見えるし、観察可能だが、別のひょっとしたらの並行世界や高次元は観察が不可能なのだ。

  さて、箱のなかの猫は生きていると同時に死んでいる、というシュレディンガーの猫の話。状態が重なっている波動状態であり、箱を開けた瞬間にきゅーっと収束して粒子になり、どっちかの状態に確定される。ところが、実際は違う。この箱のなかの猫と箱の外、それを観察しているもの、これらが少しでも相互作用、相互関係があったら、収束してしまうのだ。互いに干渉しあってしまう。箱の隙間から空気がもれていても、音が聞こえても相互関係が成り立つ。すると、われわれの三次元空間内で干渉、つまりはコヒーレンスを起こして、生きている猫と死んでいる猫は別の並行世界にわかれて、二度と干渉、コヒーレンスしなくなる。これをデコヒーレンスという。だから、箱のなかはすでに決まっているのだ。ただし、箱を完璧に密閉し、外と相互作用を完璧に断ち切ったら別並行世界とコヒーレンス状態になる。


  二重スリット実験でも、スリットを通り抜ける電子の波が互いに干渉し、感光板に縞模様をつくる。スリット付近に観測装置を置くと、これと相互作用してしまうので、ひょっとしたらの並行した電子とのコヒーレンス、干渉は断ち切られ、つまりはデコヒーレンスしてしまい、感光板には一本の筋にしかならない。

  並行世界や高次元を観察するのは、五感では不可能である。ここに知的直感法を提唱したいのだ。いわゆる瞑想である。第三の目でもよい。一切、外界と相互作用を断つ。目の前のご馳走に目がくらんで、これと相互作用してもだめだ。煩悩滅却である。すると、私は別並行世界との干渉、コヒーレンスを維持でき、その世界を知的直感によって感じるのだ。この五感を超えた知的直感による観測法がコペルニクス第二革命に必要になる観測手法なのではないのか。もはや、科学と宗教の壁もここではずされるのである。



指示の魔術と志向的内在についてである。いきなり数字の話だが、97パーセントに秘密がある。世の中のこの比率、割合が重要なのである。たしかに、穴あき靴下をうっかりはいていて、もんじゃ屋に入り、これを隠蔽すべく穴部分を指で挟むのも重要だ。もんじゃ屋のテーブルの上のソース。ソースを把握できるのはこの97パーセントの秘密によるところが大きい。

  パトナムの指示の魔術についてである。目の前にソースがある。あたまのなかにソースの全体像を思い浮かべ、これがあたまの外にある実際のソースと結ばれる、指示しちゃうのはなぜだろうか、と考えるのだ。言葉にも指示関係がある。ソースっていう単語がどうして実際のソースと指示関係突入か。これはまるで魔法だというので指示の魔術という。解決策には大きく二つある。ソースっていったらソースなんだ、という同定により、あたまのなかに入り込む。もしくは、意識とか、心っていうのはハートマークではなく、最初から矢印、つまり、意識は志向性だというもの。意識は最初からなにものかへの意識だというのだ。


   次の話はブレンターノの志向的内在についてである。フッサールの師匠であるブレンターノ。あたま、心のなかにコーヒーカップを想像し、あたまのなかで意識の矢印、志向性がこれを把握する。あたまのなかですべてやっているから、志向的内在だ。ところが、フッサールは意識というのはそもそもが外部の材料、感覚的な材料にまで届いてしまう志向性だというのだ。


  まとめ
 
 存在の科学


  異次元理論

 宇宙のすべてはなんだか97パーセントという割合に支配されているのではないか。人間の意識は3パーセント、残りの97パーセントは無意識。脳は全体の3パーセント使って残りは使っていないという。宇宙のなかで観察可能な見える物質は3パーセント。残り97パーセントはダークマターやダークエネルギー。DNAも3パーセントが体の情報で残りの97パーセントはジャンクDNAでカス同然の扱いで研究対象にもならない。地表は3、内部は97、これが地球や太陽ではないか。

  ということは、この97パーセントはなんだろうか。プラズマなのである。プラズマは壁を通り抜ける。さらに、プラズマ溶接といって、分子レベルではなく、原子レベルでものを融合させる。プラズマは同一空間に異なったものが本来は不可進入性で同居できないところをできるようにさせるものだ。同じ場所にコーヒーカップと筆箱を重ねるのだ。脳の97パーセントもプラズマであり、これが宇宙の97パーセント、無意識、DNA、地球内部、太陽内部の97パーセントにぴったり重なり合っている。だから、あたまのなかに宇宙があると同様で、実際に外界のものを認識して取り入れたり、手でつかんだりできるのだ。

  さて、蛇足かもしれないが、この97パーセントのジャンクDNAを研究するものもいる。いろんな言語、中国語、英語、日本語、これらをあかちゃんは後天的に学習で習得する。ジャンクDNAには世界の言語の共通の文法が内蔵されているというのだ。もしかしたら、3パーセントのDNAは先天的な肉体的情報であり、97パーセントのジャンクDNAは後天的になにがおこるかという、今後おこりうる事象がシュミレーション宇宙製作者であるシュミレーターによって内蔵されているのかもしれない。アポステリオリな総合判断が含蓄されているのではないか。



4-9


  次の話は解釈学的循環についてである。ディルタイは水平次元と垂直次元の解釈学的循環にわける。髪型はどんなわけ方かは知らない。水平次元の循環とは、分厚い文献の解釈だ。文献を読んで部分から全体、全体までよんだらこんどは部分を解釈。文献から一歩も外にでないただの循環だ。ところが、垂直次元のそれは体験だという。実際に体験し、これをイメージ、表現し、理解する。そしてまた、体験という循環であり、これは湯水のごとくいろんなものを感じ取る。

  哲学者ハイデガーもまた、解釈学的循環を主張。何かを解釈するっていうことは、すでにもうある程度理解しているという。これを先行理解、先行了解という。存在とはなにか、と問うのだが、存在をうっすら了解しているから問える。まったく知らなかった問えないし、全部しっていたら問う必要がない。これが存在了解である。


 まとめ

 存在の科学


  異次元理論

   箱の中の猫は生きているか、死んでいるか。シュデレディンガーの猫である。箱を開けたとき、生きている猫を見て喜んでいる私と死んでいる猫を見て悲しんでいる私の世界に分岐する。この二つは状態ベクトルという。一つのベクトルの分力だ。そして、この二つの世界はもう干渉しない。つまり、デコヒーレンスしてしまうのだ。

  さて、力というのもベクトルであらわす。矢印の方向とその長さは大きさだ。これを対角線にして、平行四辺形の二つの辺が分力になる。もちろん、分力はいかようにも作れるので、力とは解釈のようなものだ。そして、分力は一度分かれてしまうともう二度と干渉しない、デコヒーレンスである。

  そして、心とからだもひとつのベクトルの分力ではないか。状態ベクトルなのである。だから、心とからだは互いに干渉しないはずだ。それなのに、心が命じて体が動き、体の情報が心に伝わるのはなぜか。宇宙っていうのは実質、時間は無限。だから、量子トンネル効果もそうだが、すごく小さな確率でもいつかその奇跡が必然的に起きるのだ。量子トンネル効果は壁をボールが通り抜けるようなことだ。同じように、心と体が本来はデコヒーレンスしているはずなのに、奇跡的にコヒーレンスを起こして、生命が生まれるのである。


 スマホ入力


 4-01

観念論についてである。観念論といったらドイツ観念論、経験論といったらイギリス、おやつといったらなんたらであるが、イギリス観念論というものもある。まずはドイツの客観的観念論であるヘーゲル。そもそも、宇宙、世界が絶対者の観念のなかだというのだ。一人の人間の意識、これを宇宙の精神と並行して論じちゃうのだ。ひとは自意識に目覚めるが、宇宙も自分が宇宙だと自覚し、これを絶対精神と名付ける。

イギリス観念論といえば、ブラッドリーであり、宇宙、世界は絶対者であり、ヘーゲルのように理屈、論理じゃわからないけど、感情的、想像力で感じるしかないという。

つぎの話は生気論についてである。生命っていうのは物理とか、化学では知り得ないという。機械ではなく、生気というものを持っているというのだ。


まとめ

存在の科学

異次元理論


物質は4つの相をもつ。水でいえば固体である氷、液体の水気体の水蒸気、これは分子の自由運動だ。そして、もっと高温になると、原子も壊れて、原子核と電子もバラバラになって、自由荷電運動になる。これがプラズマである。プラズマを発見した学者はプラズマはまるで生命だといった。

自由荷電運動といえば、脳やからだの神経、電子による自由荷電運動、電気パルスだ。だから、脳、神経は一種のプラズマ状態である。

意識、精神はプラズマなのだ。

さて、宇宙がビッグバンで誕生したときはすべては自由荷電運動、対称性がすばらしいプラズマ状態だった。だから、最初意識、精神があったのだ。宇宙膨張にともない対称性が壊れ、原子、分子、つまりは物体がうまれる。だんだん、宇宙は冷えてきたのだ。プラズマから気体、液体、ついには固体がうまれ、この固体が肉体となって精神、霊が宿ったのだ。


4-4

大地の思想とイマージュ論についてである。地球内部に地底人の世界があると、九官鳥がつぶやく。地球は生命であり、脳だとすれば限りなくリアルな世界を内部に産み出しているかもしれないというお話だ。

フッサールの大地の思想についてである。かってコペルニクスというひとがいた。大地は不動じゃなくて動いているという逆転の発想。これがコペルニクス的転回というものだ。哲学者カントもまた自分の思想をコペルニクス的転回だといった。さて、現代哲学のフッサールはなんとそんなコペルニクスをひっくり返す。これがコペルニクス的転覆である。科学者は上空に飛んで眼下見下ろし、客観的にすべてを観察。だけど、一日中、ずーっと科学的ではなく、研究室からでたらきっとふつうにラーメンを食べたり、自販機でおしるこを買う。ふつうの大地に根差した日常、生活世界にいるのだ。動いているものと止まっているものは大地を基準だ。発生し消滅し、土から産まれて土にかえる。コペルニクスをひっくりかえすのが大地の思想だった。


次の話はベルクソンのイマージュ論である。あたりを見渡す。すべてが見えない。後頭部はみえるけど顔がみえない。そこでイメージし、顔を想像する。この世界はイメージとか、観念と実在がまざりあったものだ。これがイマージュであり、流れの中で実在っぽくなったり、想像っぽくなる。からだも身体イマージュ、宇宙もすべてみえないから宇宙イマージュ。すべてがイマージュという一元論なのだ。

まとめ

存在の科学


異次元理論

第二次世界対戦のとき、アメリカ空軍は北極の極点を戦闘機で通過するというハイジャンプ作戦を実行した。そのとき戦闘機のバード少佐の乗っていた飛行機が極点上空で奇妙な体験をしたという。まばゆいばかりの光に包まれ気がつくとジャングル上空を飛んでいたというのだ。他の乗組員も体験し、写真まで残っている。これが地球内部のアルザルという地下世界だという。戦時中、アメリカはナチスから戦艦を電磁波攻撃されていたという。その防御策のため、ニコラテスラ率いるチームが船体にコイルを巻き付け、電磁波を遮蔽する実験を行っていた。そして、あるとき、実験中、真っ白な光に船体が包まれ乗組員が皆焼け死ぬ、という事故があった。のちに担当がフォンノイマンにかわり、実験が新兵器開発のために続行される。世にいうフィラデルフィア実験である。

フィラデルフィア実験最中にこんどは白い光に包まれた直後なんと六時間フィラデルフィア号は姿を消し、出現したのだ。

この白い光がプラズマだといわれているのだ。


通常、磁力線は交差しないが高温、高圧だと交差し、プラズマをうみだすという。プラズマは物体の四番目の相であり、自由荷電粒子の運動。気体は分子の自由運動だが、原子も壊れて電子や光子が自由に飛び回るのだ。

さて、人間の脳、神経の一種のプラズマだと以前話した。電気パルスは荷電粒子の自由運動ではないか。そして、プラズマは壁をも通り抜ける。亜空間を生むのだ。亜空間とは空間に別空間が重なることだ。壁の通過やフィラデルフィアの乗組員が船体とからだが融合していたのもプラズマによるのだ。脳はプラズマによる亜空間をうみ、イメージを重ね合わせている。イメージと実在もかさねたイマージュなのだ。内側が外で、外が内側になるから外界を取り込むことができるのだ。

さて、地球は磁場がめぐらされているが、地球内部は高温高圧なので磁力線が交差し、プラズマ状態であり、亜空間を形成、地球は脳であり、想像と実在をまぜたイマージュのプラズマなのだ。これがアルザルをうみだした。太陽や他の恒星も思考する意識体であり、プラズマなのではないだろうか。



4-5


被投性とウムヴェルトについてである。感覚器官を使って、よーくハサミムシを観て、さわってみたりする。感覚といったら五感であるが、これは感情とは違うものだ。感覚と感情は宇宙を二分させるほど大きく違うものであるというお話である。

哲学者ハイデガーの被投性についてである。おぎゃっと素っ裸でこの世界に投げ出された。男であり、日本人であるというのは自分で決めたのではなく、歴史によって押し出されたのだ。んーっと力んでも外人になれない。これを被投性という。そして、投げ出されたというのが気分とか、感情だという。それでも、状況のなかにいても、未来へいろいろ企画、企てができる。髪型を変えたり、パンツの色を変えることもできちゃう。これが企投性である。人間は被投的企投性だという。


次の話はシュッツのウムヴェルトについてである。世界を4つの分ける。ウムヴェルトとは手でさわったり、頬づりもできるし、互いに眉間にしわよせながら見つめ会うことができる世界。時間も場所、空間もいっしょの周辺世界。これをウムヴェルトという。いまここにいなくても、おなじ時間、時代に別のところにいるものたち。共時世界といい、ミッドヴェルトという。そして、過去のものたちは壁画とかで現代へメッセージくれるが、過去のものたちにはメッセージ送れない。前世界といい、フォアヴェルトという。最後は未来のものたちにメッセージ送れるけど、未来人はわれわれに送れないという一方通行、これが後世界、フォルゲヴェルトという。


まとめ

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異次元理論


感覚器官、五感は周辺の世界、ウムヴェルトで使われる。壁一枚あってもみえなくなる。さて、感覚に似たものに感情がある。もしこれを感情器官と名付ければ、これはみえない、聞こえない、触れない世界、ミッドヴェルトの世界から受け取っているのだ。つまり、感覚器官でとらえられない宇宙のすべてがいまこの瞬間の気分、感情を作り出しているのだ。

テレビやラジオのチャンネル、周波数がこの三次元世界似合っているから見えるのだ。感情は同一番組のニュースキャスターの背後にあるノイズ、これがこの世界の見ていないものたちである。ホワイトノイズ、別のチャンネルはかすかなノイズになっているがこれがみえない、並行宇宙のノイズであり、これも深いレベルの感情になっている。


4-9


解釈学的な心の哲学と解釈学的循環についてである。心がからだに命令し、右足があがる。とんぼがあたまにとまり、これが心に伝わる。心とからだの連繋プレーは宇宙の奇跡である、というお話である。

解釈学的な心の哲学についてである。心とはなんだろうか。はたから見たときの解釈だというのだ。笑顔をみて、喜んでいるな、と解釈する。これは力を分力にするとき、これを対角線とした任意の辺にわけるのといっしょだというのだ。力はいかようにもそのときの気分でふたつの力にわけられるのだ。同じように、三角形の重心っていうかたまりをつかめない。これもまた解釈なのだ。心も他人がみたときの解釈だという。


4-10


レヴィナスのアナルシーとヤスパースの愛しながらの闘争についてである。歯の浮くようなことだがズバリ、愛とはなんだろうか。家族愛、遠距離恋愛、国境を越えた愛、愛は板べいも越える。それでも並行世界にいて刻一刻、別の世界に行き回っているのだ。同じ世界、宇宙にいるために愛があるのだ。


レヴィナスのアナルシーについてである。バナナは全部食えるし、全体をつかんで高々と持ち上げ、おお笑いできる。ところが、他人はちがう。他者の心にはここからここまでという縁がないから全体をつかめない。だから、無限だという。私と他人は入れ換えることができたり、対称性になっていないのだ。さて、そんな他人とどうやってわかりあえるのか。古代ギリシャ以来、ロゴス、つまり、言葉、論理が幅をきかし、自分と他人も論理的に区切ってしまう。ロゴス、秩序はロゴスのうえにいない。ロゴス以外のもののうえにいる。これが無秩序であり、アナルシーである。このアナルシーにおいてひとは交わるというのだ。


次の話はヤスパースの愛しながらの闘争である。絶望の縁にたたされておっとっと、というものはいない。八方塞がりになり、自分のちっぽけさ、有限さを実感。おのれの内面にどんどん入り込み、ついにはおのれに穴を開けてしまい、向こう側の超越者をみるというのだ。このとき、ひとびとはどうやって交わるのか。これが愛しながらの闘争だという。


まとめ

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異次元理論


心とからだはシュレデインガーの猫におけるふたつの状態ベクトルがデコヒーレンスをおこすように、互いにデコヒーレンスして、しかも、奇跡的に宇宙の長き時間によって確率が低い奇跡、コヒーレンスをおこして生命誕生という話をした。同じように、私と他人も刻一刻、世界が分岐してデコヒーレンスしている。だから、同じ世界に居続けるためには互いにコヒーレンスしていないといけない。これ愛なのである。遠距離それ以前に同じ増殖する宇宙のひとつにいるのは至難の技なのである。同じ世界にずっといつづけると同時に死滅するのかもしれない。















posted by モノイイ ジョーカー at 20:00| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月18日

仙人新聞 2013・03・18

仙人新聞 2013・03・18




 **仙人動画**


http://www.ustream.tv/user/monoiinasu



**仙人テキスト**

*哲風呂*(スマホ入力は順番がいい加減です。)


 場所の論理と否定の否定についてである。もぐらが穴からケツをだす。土のなかが彼らの故郷だ。住めば都はるみちゃんというが、すべてのものには故郷がある。それなら、存在そのものと無の故郷はどこかについて考える。

  西田幾多郎、場所の論理、についてである。当初、西田幾多郎は述語的場所というものを考えた。場所といったら、公園という遊び場があり、そこで大人が楽しそうにブランコしていたりする。遊び人と遊び場である。述語的場所というのは、走る、食べる、ジャンプする、という述語が場所であり、そこに唯一無比のやまちゃんという固体、主語が入ることだという。ところが、これだと、固体と場所は絶対的にちがうものだ。ここから、絶対的な場所を探した。これが主語も述語も、主観も客観も、全部がおさまる広大な場所をみつける。これが媒介者Mと呼ぶものであり、その正体は絶対的無だという。ほんとになにもないという絶対無。無が自分自身を自己限定するという。あるものがヘアースタイルを整えている。これは自己限定だ。五部刈りにしたら、アフロではない。つまり、自分を限定することだ。無が自己限定して、さまざまな存在者が出現するというのだ。

  次の話はヘーゲル、否定の否定、についてである。ここに鼻くそがある。この鼻くそは唯一無比の固体だ。この鼻くそはこの鼻くそ以外のすべてを全否定して戻ってきて、存在している。否定の否定は肯定なのだ。この鼻くそは土星でも、フライパンでもない。こうやってすべてを否定して肯定になる。ところが、鼻くそは消滅したり、形をかえたり、化石になったりする。そこで、フランクフルト学派のアドルノは否定の否定は肯定にしてしまったら自己完結でなにもおきない。ハッピーエンドではなく、否定の否定の否定は否定であるという。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   存在そのものはどこからきたのか。無はどこからうまれるか。存在は無から、無は存在が生まれる。徹底的に存在すれば、それは無であり、徹底的に無ならばそれは存在である。五次元空間に漂う三次元ブレーン。われわれの住む三次元ブレーンの外には別の三次元ブレーン、並行世界がある。私は右手をあげたが、左手をあげた三次元ブレーンもある。実際に左手を上げなかったので選択していない、自分にとってはそれは可能性、ひょっとしたらのことであり、無である。そう、われわれの住む三次元ブレーン以外の五次元は私にとっては無だ。そんな五次元から飛んでくるのが閉じた円、ひもである重力子、グラビトンである。これがわれわれの三次元ブレーンにあたって時空をゆがめて、重力を生み、重力あるところに物質がある。物質は実体があり存在している。つまり、無からやってきたものが存在なのだ。、また、無といわれているものはじつは強烈に存在しているものである。光は質量が0であり、実体なき波動、つまり、無。ところが、光子や電子は端部のあるひもであり、われわれの三次元ブレーンにしがみついて移動する、究極に存在しているものではないか。だから、こういえるのである。もっとも存在しようとし、おれだおれだというものは無である。もっとも、自分の存在が希薄、消すものは自分らしく存在していると。身を粉にして、ひとに尽くすものこそその人らしく存在しているものである。



ベルクソンの自由論と主体性についてである。生活しているといろんなことが起こる。善い事、悪いことである。犬にお尻を噛み付かれたり、魔法の杖をひろって世界中を意のままにできるようになったりと、いわゆる、ドラマが展開するのだ。こたつのなかの猫に足をかみ疲れるが、同時に、テーブルの上にいた人魚にちゅーされる。善いことと悪いことが同時におこったりもする。さて、ドラマ、イベント、出来事、これらはなぜ起こるのか。それは私という中心があるからである。

  ベルクソンの自由論についてである。自由とはなにか、とベルクソンはまず問う。そして、自由論ではない考えを列挙する。決定論者は、すべては生まれてから死ぬまで、または、世界で起こることは機械のようにはじめから計算できる、つまりは、決まっているという。足の裏の豆を先日、無類の豆好きに食べられそうになったのも、すでに決まっていたことなのだ。ところが、ベルクソンは決定論者とは、まるでタイムマシンで時空を飛び越えちゃっているというであろう。過去にいって、未来にいって、すべてが決まっていた、と。また、その反対である偶然論者。すべてが偶然、たまたまだという。もしかしたら、私は大統領やっていたかもしれないいし、ビジュアル系の演歌歌手だったかもしれない。これまた、時空どころか、並行世界を移動してきていえることだ。ということで、いまこの瞬間に自由に考え、発言している自分がいるだけではないか。自由とはなにか、というが、そんな問いを発することができるのも、自由意志からだ。だから、自由は問われる前からあった。よって、自由は問いではなく、事実だという。


   次の話は主体性についてである。古代ギリシャではアリストテレス、彼はこれを基体とか、実体とみなした。形と材料がであって基体になる。中世では、主体とは、外の世界にいる絶対者だ。そして、近世になると、カントやデカルト。主体とはほかならぬ私自身だ。われおもっちゃったがゆえにわれがいる。カントはコペルニクス的転回であり、バナナの色、形、味はむこうからやってくるが、バナナっていう全体は自分のなかで組み立てた。主体的に私がつくったのだ。そして、さらに、ドイツ観念論になると、こんどはヘーゲルにおいては主体は宇宙そのものだとなる。個人の意識と同じように、宇宙、世界もまた絶対精神だという。

  時は現代、またまた、主体が自分に舞い戻ってくる。実存主義などである。私っていうなんだかまだ決まっていない存在、実存。そして、本質とか、法則はそのあとに続く。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    三次元空間では、主体的に私が中心であり、まわりがある。あくまでも、自分の視点からしかみれない遠近法である。このとき、私にとって、犬に噛み付かれるとか、もしかしたらお金拾うかもしれないというドラマ、事象がある。何もおきないかもしれない。ところが、三次元のすべての点が自分になる。すべてのひと、動物、植物、物体が私になる。すると、すべての視点にたつので、もはや、私にとっての好き嫌い、善悪は相殺されてなにもなくなる。事象、出来事、善悪の区別すらなくなる。

  さて、今度は三次元と一次元の時間をあわせた四次元時空がおさまっている五次元ではどうか。別の四次元時空がたくさん漂っている。いわゆる並行世界である。お金を拾う確率は低いが、拾った私のいる世界もかならず100パーセントあるのだ。ということは、どんなレア、奇跡なことでも100パーセント実現するのだから、もはや、確率がないのだ。すべては叱りの必然性であり、決定論、これが多世界解釈である。
  
  さて、こんなことがおきるのは、五次元世界での中心性がなくなったことを意味する。だから、先ほどと同様、いままさに、あくびをしている私がいるこの世界を中心に置けば、ほかの世界の確率が出現する。ということは、具体的な事象、出来事、奇跡に対する感動などが生まれるのだ。つまりは偶然論である。

  人間はこの視点を無数にすることと、ひとつの中心性にすることの二つを選べる。これが主体的な自由である。自由というのはその中間領域なのだ。


ハルトマンの二項二審判システムと関係主義についてである。机につけてしまったボールペンの点。悲壮感漂わせながら軽く発狂。点というのはいわゆる夢でも現実でもある万能なものなのである。点は観念と実在をわたす橋である。物質と心の秘密は点にあった。

  ハルトマンの二項二審判システムについてである。ハルトマンは私が八百屋のサツマイモに目をとめて、いたく感動しているとき、おそらく、私とイモの存在関係だというであろう。すべては実在しているのだ。サツマイモかなと認識しているとき、万物の原理原則である存在のカテゴリーと、自分が認識するときに使っている認識カテゴリーを合致させようとしているという。

   実在といっても、二種類あるという。三角形やら平行四辺形っていうのは厳密には現実にはない。理念的実在だという。また、実際に、時間と空間のなかにある三角定規。これは現実的実在だ。理念的な実在といったら平行四辺形。その辺に着目し、凝視している。これが点形的直感。そして、角との関係とか、全体を見渡す。これを概観的直感だ。現実的実在では、アポステリオリとアプリオリである。アポステリオリとは、経験的ということ、目とか耳で感じちゃう。アポステリオリは生まれながらにして、目で見なくても知っているよ、という先天的なものだ。二項にわかれ、さらに二審判してものをとらえている。


   次の話は関係主義についてである。ふつうに考えると、先に実体があって、次に関係に突入だ。やまちゃんと斉藤君という実体があって、つぎに友情関係が築かれる。ところが、やまちゃんは斉藤君との付き合いのなかでやまちゃんらしくなっていく。つまり、最初に関係があって、つぎに実体だというのだ。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   点とは、幾何学的、論理的な実体なきものでもある。つまり、観念的だ。点粒子仮説の物理だと、量子の場の物理であるが、質量0の点粒子が対発生、対消滅。点によって物体もできているという。点をひとつにすれば実体なし。無数の点でできているとすれば実体あり。一でもあり、多でもある。観念、幾何学、論理的である同時に、物理的でもある。その境界にあるのが点であり、前回はこれが自由の元だといった。自由意志の源泉である。また、対発生と対消滅の頻度すれ確率的で予測できない。自由そのものの原点だ。


   ブラックホールはあらゆるものを吸い込み、その重力の強さゆえに、事象地平面に厚さのない情報の膜をつくる。ここに点の情報がかきこまれ、これが宇宙空間に投影されてホログラム世界になる。ホログラム像も点である。

  人間もまた、心のなかにすでに点による情報が書き込まれていて、それを目の映写機によって周囲に映し出し、これが周囲の視覚的世界になる。嗅覚だって、聴覚、さらにはあらゆる身体感覚、イメージですら、心の中にある情報を周囲世界というスクリーンに映し出しているのだ。銀河の中心のブラックホールと同じ様なことであって、私の場合は現象界という周囲世界だ、という違いだけである。



全体と部分、そして、アプリオリとアポステリオリについてである。虫眼鏡で遺伝子、DNAが見れないか、目をひそめてみた。それでも、かなり、小さいらしい。髪の毛にも自分のからだの全情報が含まれている。陰毛にも、小さな自分がいっぱいるのだ。なぜ、遺伝子はそんな役割をもつのか。そして、遺伝子は記憶しないのか、というお話をしたい。

  全体と部分についてである。部分が集まって全体だと常識的にいう。ところが、全体論、ホーリズムはちがう。部分は全体と直結しているのだ。からだのパーツであるかかとが全身と関係している。クワインは、科学の仮説においては検証だって反証だって、どっちにでも転がるという。七味唐辛子は辛い、という仮説。たしかに検証結果は辛い。それでも辛いを定義しないといけない。そもそも、日本語で語っているから日本語文法の説明も必要。全体のどこかを変えれば、いかようにも調節できるのだ。

   次の話は、アプリオリとアポステリオリについてである。アプリオリとは先天的とか、先立って、ということだ。アポステリオリは後天的、目でみたりする経験、学習的なこと。分析とはすでに中にあるものを取り出すだけ。総合的とは、なにか新しく付け加わる。

  さて、カントは先天的な分析判断はあるといった。おじいちゃんは年寄りだ。おじいちゃんという主語に年寄りという性質が最初から含まれる。アプリオリな分析判断だ。おじいちゃんはジャンプする。これは実際にジャンプしたかを目で見る。つまり、後天的であり、しかも、主語のなかにジャンプするは含まれていないから総合判断。アポステリオリな総合判断だ。そして、三角形の面積の求め方は云々、というようなものはアプリオリな総合判断だという。

  クワインはアプリオリとアポステリオリの区別は最初からないといい、クリプキはアポステリオリな分析判断があるという。

 
   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   DNAはらせん状であり、中心がある。太陽系も太陽が中心、銀河系はブラックホールが中心。この中心同士がつながっていて、この三つは同じ構造をしている。上のごとく、下もかくあり。宇宙コードを共有しているのだ。だから、言語の習得ができる。

  DNAはなぜ、からだのすべてに、髪の毛にまで全情報を含ませているのか。生物は新陳代謝し、ひとは七年で肉体はまったく入れ替わるという。そして、ふけや毛を落としている。そこには小さな私、DNAがあり、なにゆえ、すべてに私の全情報があるかといえば、落下させて、いつしか未来人がこのDNAで私を復活させるためではないか。基本的に植物と同じことをしているのだ。植物は本人が気づかれないうちに実を落とし、その実を動物がたべて、ふんとして排出。肥料となってその種は芽をだすのである。

  DNAは記憶しないというが果たしてそうだろうか。脳だけで感じ、意識しているのではなく、指先にも意識はある。DNAそのものが意識であり、記憶媒体。買って、サンショウウオの実験で、サンショウウオの脳をこまかくしたところ、残った脳で全体を復活させたという。サンショウウオは記憶を失わなかったのだ。記憶はすべてにDNAのように含まれているのだ。のようにではなく、DNAが記憶しているといったほうがよい。右脳を失った子が左脳だけで、右脳を生み出すという。部分のなかにすでに全体がある。これは記憶にかんしてもいえる。

   ふけをおとしたとしてもダニに食べられてしまう。すると、消化吸収のとき、DNAは壊される。それでも記憶はこわれないのだ。むしろ、動物たちは食するものの記憶を栄養にしているのである。



野生の存在と超弁証法についてである。地球を一生懸命掘ったら人たちがいた。ここほれにゃんにゃん。すると、地中には空洞があり、そこに無数の人々の声がしたという。身の毛もよだつ心霊現象をここで笑顔で話そうとしているのではない。地球や太陽系、銀河の中心。ここにはすべての情報がたっぷり。中心性とは情報源であり、果てはホログラムの映写機とその元データが記録されているという話と関連させたいのである。
 
  哲学者メルロポンティの野生の存在についてである。まずはフッサールの大地の思想にふれてみる。コペルニクスは地球のまわりに天体がまわっているのではなく、なんと、地球が動いていると天動説を唱える。こんんな逆転的な発想、カントはおのが思想がコペルニクス的転回だという。りんごがそこにあるから認識ではなく、最低限の素材であり色、形、におい情報を得てこれを組み立てているのは自分だ、つまり、認識しているから存在していると判断できるというのだ。そして、フッサールはさらにカントをひっくり返して、コペルニクス的転覆を狙う。むしろ、大地は不動、とどまっている。科学者は心が宇宙に飛び出して、神の視点から地球をみる。ところが、研究が終わると、大地に帰り、日常を営む。スーパーで食べるための素材を購入し、ふつうにりんごは食べ物であって、いちいち、化学記号になおさない。大地に根ざして、生活しているという大地の思想だ。
 
  メルロポンティは野生の存在。りんごをみたとき、あっりんごだ、と言葉になおし、きっと甘いのだろうと判断。こうやって、生のりんごを言語や文化によって加工するのだ。生ではなく、缶詰という加工品のようにはりぼてで繕う。だからこそ、ありのままの野生のままのりんごをとらえようというのだ。

   次の話は同じくメルロポンティの超弁証法についてである。弁証法といったらヘーゲルのアウフヘーベンだ。矛盾しあうものがであって、合体して新しいものになる。ところが、これは発酵するのをやめちゃった死せる弁証法だとメルロポンティはいう。裏と表がであって別のものにならない。同じ一体になっている文字通り表裏。だから、表は裏、裏は表になって回転運動をする。水の入ったバケツをぶんぶんとまわす。すると、水がこぼてないのは魔法の力も働いているかもしれないが、基本的に中心に向かおうとする向心力と外に向かおうとする遠心力がつりあっているからだ。この二つの力は融合合体なんかしないで回転運動を引き起こすのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   旧ソ連のシベリアの調査隊は某所で、地質調査をしていた。そして、地球深くまで掘っていったのである。すると、約1万4000キロメートル付近でドリルの抵抗がなくなったという。空洞になっていて、そこに温度計を挿入すると温度が2000度。そして、調査隊はそこにマイクをおろす。ここから大変なことがおこったのだ。なんと、地下1万4000キロ深部のマイクは無数の人々の叫び声、そして、会話する声を拾ったのだ。その後、この奇怪な事件を境に調査打ち切りになる。調査隊のリーダーはこういう。私は聖書や天国は信じないが科学者として地獄の存在を信じる、と。

  さて、これは怪奇現象としてではなく、別の角度からとらえてみたい。以前お話したが、銀河の中心にはブラックホールがあり、この事象地平面には厚さのない情報が刻まれていて、これが周囲の銀河を映し出すフィルム、情報であり、いわば、ブラックホールはホログラム映写機だと。じつに、中心と周辺とは基本的に中心が映写機であり、周辺がホログラムなのではないだろうか。同じく、太陽系の中心は太陽。太陽の内部には同じ情報があり、これが惑星を照らすどころか、惑星の運行をはじめ、ホログラムを作っている。さらに、地球の中心はその地表に生きる動植物、人間、さらには無機物にいたるまでの事象をホログラム化している映写機なのだ。そして、人間もまた中心に情報、フィルムがある映写機。その周辺の現象をホログラムとして投影させる。前回話たが、DNAは意識活動し、記憶すると言った。周囲の肉も意識だが、代謝してふけになって落ちた無数のふけ、抜け毛。ここにまた、中心から離れているが薄い意識があり、これが自分の夢となって現れるのではないか。

  さて、話は戻って、例の地質調査の件。さの地中深くの声はいわゆるホログラムのフィルム、原板の一部に触れたと思われるのである。内部に情報があらかじめ封印されているのだ。

  中心と周辺、向心力と遠心力もそうだが、これらは同じ力のコピーのようなもの。周辺は中心の完全なコピー、これが相互作用のような現象を引き起こす。
  

排他的選言とアンガージェマンについてである。いまだ、ファイヤーアタックだ、と叫び声が聞こえる。そして、ボタンを押すと、ロボットの目玉が飛び出し、相手を驚かせる。今この瞬間、というのだが、瞬間っていうのは何によって形成されているのか、考察したい。

  排他的選言についてである。定食AとB、どっちにするか迷い、半分づつ入れてくれるように店に頼む。どうもそれができないらしい。Aを選択したらBは排除されるのだ。選択したとき、そのひとつを選択したらおのずとほかは排除、これが排他的選言。とりわけ、排中の原理がそれである。絶対に正しいことをいいたいとき、排中の原理を使う。こちらにいるのはやまちゃんか、やまちゃん以外のいずれかであると。つまり、宇宙のなかのなにか、といっている。そんな宇宙のなかにこれを主張している自分も含んでいるではないか。自分が自分について云々してしまうのは自己言及でアウトであるが、排中の原理は矛盾しないという。

  次の話はサルトルのアンガージェマンについてである。社会参加とか、自己拘束という意味。私がなにかを自由意志で選択する。これで終わりではなく、かならず、お子様ランチには国旗がおまけでついてくる、いわば、セットのように責任もついてくる。それなら、選択しなければよい。ところが、選択しない、という選択であり、ひとは自由の鎖に縛られているという。

  
  まとめ

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   いま、この瞬間とはなにか。べろをだしてみる。べろをださなかった自分は選択されなかった。無数のことができたが、それらは選択されなかったのである。だから、エヴェレットの多世界解釈では、選択された世界は100パーセントの確率。然り、然りでしかない。ましていわんや、自分がいない世界も選択できない。いなければもはや、瞬間すらない。

  ひとは生を望まず、また、死も望まない。エロスもタナトスものぞまず、その中間に架空、虚構の世界をつくる。この生と死、存在と無のはざまに意味があるが、それがえてして虚構なのだ。この虚構のベールの向こうに真実がある。

  それならば、生、存在になればよい。それならば、すべては然りであり、不安も恐れもない。中間の架空世界に恐れ、恐怖、不安があるのだ。

  本当の意味の中間領域とはなにか。選択されなかったものたちとのかかわりである。時間的にみれば、かっていたものたち、いまだうまれぬものたち。選択されなかった状態、世界。これらによって、唯一の選択された今この瞬間は形成される。そして、ここで選択されなかったものたち、すなわち、可能性、死、無、これらに触れる。すると、ひょっとしたら、べろをださなかったかもしれない、という世界にかかわるときに、べろをだすことの意味、正当化、価値が生まれる。つまり、一度分離してしまった選択されなかった別の並行世界との干渉不可能性、すなわち、デコヒーレンスを破る。選択されなかったものたちとコヒーレンスすることで、意味がうまれるのである。

  存在とは無、生は死、選択したものは選択されなかったものに全責任を持つ。互いにアンガージェしているのである。



現象と超越論的についてである。靴下の片割れがよくなくなる。最初はそろっていたのに、一ヶ月もすればどっちかがいなくなり、戻ってきたらあったものがいなくなる。もしかしたら、異次元の扉の向こうにいっているかもしれない。ありは見ていないところでワープをし、最初から存在していないものをわれわれは見ていたりする。なんだかおよそ不条理たっぷりなのだが、私をも含めた因果律のぶっ壊れた世界は得てして不条理そのものなのである。

  現象とはなにか。カントはわれわれ人間というのは、現象だけしか認識していないという。目の前の、あたりの現象だ。感覚だって、カメムシのおならとりんごのにおいがまざっていたり、雑多極まりない。そこで、まずは時間と空間で丁寧にきちんと並べる。さらに、辻褄あわせのようにカテゴリーを適用。その中でもとりわけ、因果性のカテゴリーを使って調理する。原因があって、結果があるという因果律だ。現象界は、間違いなく因果的だ。なんで空き缶がへこんでいるのか。おそらく、だれかがつぶしたのが原因だ。ところが、空き缶それ自体、物自体には因果律がない。だから、認識できない。受身ではなく、こんどは実践、自由意志の世界で物自体と直結するのである。
  

   次の話は同じくカントの超越論的についてである。現象をまなざすとき、ひとはわれを忘れてカサブタに夢中だ。はがしたい気持ちをまずはおさえる。これが超越的である。カサブタをはがそうとしている自分をも含めて世界をみる。これが超越論的だ。カントはこういう。認識の仕方の認識、可能的認識の可能性。見ていることを見るのだ。ただし、ここでアプリオリ、先天的なものに限るという。というのも、幾何学とか、数学、論理学のようなものであって、厳密にはカサブタをとろうとしているおのれを経験的、アポステリオリに眺めているのは超越論的ではない。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   われわれは原因と結果の因果律に支配されている現象を見ている。バナナに夢中であって、バナナを見ている私をも含めた世界、超越論的には往々にして気づかない。バナナそれ自体は物自体、だから、物自体の世界になってしまう。ここには原因と結果の因果律がない。つまりは不条理な世界なのだ。私をも含めた世界、私にとっての世界ではない。超越論的な世界は不条理であり、現象の背後にある。カントはたしかに先天的、アプリオリな論理学、数学にかぎった。アプリオリで分析的なものだけでなく、そこにはアプリオリで総合的なもの、アポステリオリで分析的なものも含む。つまり、アポステリオリで分析的とはクリプキの可能世界だ。並行世界やら高次元。これらが活躍する場、これははるかかなたではなく、いまここにいる自分に密着し、もっとも近き世界、超越論的な世界なのである。だから、なくした靴下、現象ではない超越論的な世界では異次元にいってしまっているともいえるし、目になにげに見ている他人ははじめから存在しないものかもしれないのだ。こういった、論理を超えた不条理世界、まあ、別のロジック、論理といえるかもしれないが、そんな多元世界の真っ只中にいるのである。



構造とパラダイムについてである。ジャガイモトダイヤモンドが同じなんだ、といったらきっと常軌を逸していると誰もが思う。すべては同じひとつのものの現れであり、違いは誤差だといったらどうなのか。上のごとく下もかくあり、というが、シモもかくあり。宇宙と性についても考えたい。

  構造とはなにか。ロボットが歩いている。どんな構造をしているのか、中身を見たい。構造とは設計図のようなものであり、実体はない。構造とは変形させてもかたくなに変わらないものだ。たとえば、人体の骨格。ラジオ体操、さらには奇妙なポーズをとっても骨格の構造はかわらない。
  哲学者レヴィストロースは世界中の時代、場所を越えた神話を比較したとき、なんと、同じ構造であることがわかった。さらに、神話は高等数学の方程式とも同じ構造だという。つまり、文明が高い低いなんて関係ないので、文明主義批判だ。


  次の話はクーンのパラダイムについてである。知の枠組みである。相対論と量子論、ニュートン力学。これらは解釈学的基底といって、最低限のルールがちがうので、ちがうスポーツだ。つまり、同じ土俵にたてない。別々の知の枠組み、パラダイムだという。すると、こういう批判を受ける。パラダイムの間にはなにがあるのか。野球場とサッカー場の間には芝生があって、おにぎりをたべている家族たちがいる。パラダイムのなかでは合理的なルールがあるけど、その間はでたらめ、カオス、非合理的なものではないか、と批判されるのである。

  
 
  まとめ


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   異次元理論

    まずは、エントロピーのお話をしたい。マクロ、大きな視点でみて、その姿を極力変えずに、ミクロのものをいかにたくさん動かせるか。水蒸気は手でかきまぜると、水分子はでたらめにいろんな位置に自由に移動する。それでもマクロ、全体的には白い煙でたいした変化なし。これがエントロピーが大きいという。こんどは氷はどうか。氷の水分子をちょっと変えただけで、全体の氷はひびがはいる。自由度がすくない。これがエントロピーが小さいという。エントロピーが小さいものを秩序だっている、大きいものを無秩序という。家は秩序がある、エントロピーが高いが放っておくとエントロピーが増大し、朽ち果てる。エントロピーが低い状態から高い状態に流れるのが自然界だ。だから、このエントロピーの増加する方向が時間とよばれる。つまり、マクロな状態とミクロな状態という空間的な差異が時間を生む。時間と空間は同じもの、構造である。

  ホログラム宇宙論では原版があって、それにレーザーのようなものを照射して、これが三次元ホログラムになる。そして、このホログラムの部分を細かく見ると、全体と同じ構造なのだ。ところが、誤差があるのである。誤差が万物の多様性をつくる。

  銀河の超新星爆発。これを地球上のある場所の出来事に対応させる。銀河と地球は同じ構造、もともと同じものなのだ。日本列島を世界地図と重ねる。すると、世界のある場所での出来事がその重なった日本の場所でも同じ様なことが起きる。人間もまた、地球とかさねられる。

   上のごとく下のかくありなのだ。


  さて、母体のなかの胎児が成長する。最初は魚、つぎに両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類、サルのようになって、10月10日であかちゃんがうまれる。これは地球上での生命の進化を母体、子宮のなかで体現しているのである。もっとさかのぼってみよう。最初は卵子の細胞分裂だ。これは生命の進化では初期の時期、つまり、バクテリアや単細胞の時代だ。もっとさかのぼると、精子が卵子に受精である。これは地球においてはまだ、生命がいないとき、アミノ酸を付着させた隕石が地球に落下したことをさす。地球は卵子だったのである。もっとさかのぼる。当然、射精前がベットの上で腰を振っている。これは宇宙そのものである。ラブホでの男女の性交渉が宇宙。男性原理は陽、女性原理は陰。陽と陰、マイナスとプラス、これらのせめぎあいが宇宙そのものだ。すると、最初にベットのうえの挿入がある。これは宇宙ではビッグバンである。ビッグバンの前はなんなのか。男女が合体するまえ、ふつうに日常をおくっていることだけだ。だから、ビッグバンの前にはふつうの男女が別々に日常を送っている。ビッグバン以前、宇宙の果て、事象地平の向こうにはふつうの日常が広がっているのだ。ここでホーキングの理論が出てくる。無境界仮説である。宇宙は球体であり、球体表面の任意の点がビッグバンであり、宇宙消滅のビッグクランチ。ある意味、すべてが日常なのであり、この宇宙球をながめているわれわれはもはや宇宙の外にいる。


  私と他者との非対称、そして、マルチンブーバーの我汝、についてである。私はどこにいるのか、と自問自答する。寒いので布団にからまっていた。布団の中にいるのはわかるが、宇宙のなかにいるとはどういうことか。なんと、宇宙の中とは、ひっくり返って宇宙の外、互いに他者たちの外側に立っているというややこしい話をする。

  哲学者レヴィナス、私と他者との非対称性についてである。私と他者との関係を考えた哲学者はたくさんいる。カントは根っこで私と他人はひとつだという。宇宙や人類の私、いわゆる、根源的統覚といわれるものである。メルロポンティにおいては私とあなたは同じ肉でなんとつながっている。つながっているということは、回転すれば私とあなたはひっくり返る。私とあなたの完全な対称性だ。これに対してレヴィナスは私と他者は絶対的に非対称だという。入れ替え交代できない。私はやまちゃんのすべてを、全体をつかめない。端っこが見えないのである。

  次の話はマルチンブーバーの我汝についてである。我思うゆえに我あり。おもったから私がいるんだ、とデカルトは私がスタート地点だ。すると、あなた、他者を説明するのに難義する。マルチンブーバーはなんと、最初に私ではなく、私とあなたという二人称から始まるというのだ。最初からセットだというのだ。そして、永遠の汝を神様と名づけるのだ。

 
  まとめ


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   異次元理論


   前回、宇宙は陰陽の活動であり、これは男女の腰ふりだといった。そして、ついには、男女が出会う前は宇宙の活動前、すなわち、ビッグバン以前であり、事象地平という宇宙の果ての向こうだといい、そこに性交渉ではない、非日常ではない日常的な生活があるともいった。

  さて、われわれは宇宙のなかにいる。この宇宙の外は日常で、そこに自分もいる。ということは、私は他者と互いに外側に立って、交渉しているが、同時に他者という宇宙のなかにいるのだ。こういうことである。すべてのものたちの内側がこの宇宙なのである。そして、この一なる宇宙の外に互いに外在的な私と他者の日常があるのだから、同時にそこに自分もいる。互いに外側で個として振舞う日常とは、宇宙の内側の反転した投影現象である。

  さて、宇宙は父なる神だとしたら、その中にわれわれはいる。日常においては互いのひと、すなわち、宇宙の外側にいる。ここに父なる神の反転した投影としてのイエスがいる。宇宙があり、人類がある限りイエスがいないといけないので、イエスは永遠になる。

 宗教はよく思考の停止になってしまうという。あえて、宗教で決着を見ないで推し進めてみる。互いに互いの外である日常。これは事象地平の向こう、ビッグバンの向こうにある宇宙の外の日常だ。だから、すべてのものたちは宇宙であり、互いに外にいる。それではわれわれの住んでいる宇宙は誰の宇宙か。すべてのものたちの宇宙なのだ。すべてのものたちの内側の集大成がこの一なる宇宙である。そして、こうもいえる。すべてのものたちが固体として互いに外にいるというのは、一なる宇宙のなかにすべての固体があるということの現れ、投影なのである。また、すべてのものたちの外在性は一なる宇宙の内側という場所となって投影される。互いが映写機であり同時に他に対しての投影物なのである。

同一性とアナロギアについてである。この世界はホログラムだといったら、驚きのあまりグルグルまわってにゃんと鳴く。ホログラムだとしたら、その原板に描かれている情報はどんなものか。いよかん、はっさく、夏みかん、いわゆる万物すべてを映し出すのだから、複雑な情報ではないか、と思ってしまうが、実にシンプル、単純な情報であり、万物多様性はこれの誤差がうまれたのではないか、というお話をしたい。

  同一性とはなにか。街中で同じパンツをかぶっているものとすれ違う。こんなときは気まずい思いをするものだが、同じといってもメーカーや柄がいっしょということであって、類似性だ。これを質的同一性といって、本当の同一性ではない。本当の同一性は数学ででてくる数的同一性。一枚のパンツは一枚のパンツであるというイコールだ。

  質的同一性といったら、類似性、すなわち、ここでヴィトゲンシュタインの家族的類似性をあげることができる。概念は論理学では内包と外延で成り立つ。人間を人間たらしてめている本質が内包。そんな性質をもつものがあつまってメンバー結集。これが外延だ。ところが、そんな内包なんてみたことがない。要するに、家族は何か同じ印があったり、会員証をもっているわけではなく、どことなく似ているだけだ。すべては人間もそうなのだが、ただみんな似ているだけ、類似だという。

  次の話はアナロギアについてである。類比といわれる。1:2=2:4、という比率。これは類似を意味する。この世界にはいろんな存在者がいらっしゃる。みんな共通するのが存在しているということ。存在そのものはあまねく、存在者に類比的にそなわる。これが存在のアナロギアだ。

  まとめ


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   異次元理論

   この世界はブラックホールの事象地平面、高さのない二次元平面に刷り込まれている情報がタキオンがあたって生み出されたホログラムだと以前お話した。その原板に描かれている情報、模様はどんなものなのか、考えたい。宇宙に存在しているものがブラックホールに吸い込まれる。このとき、渦上、螺旋状にすいこまれ、さらにそれがまた螺旋を描く。螺旋で一周し、円になるかと思いきや、またもやずれて大きな螺旋になる。これを究極螺旋構造と名づけたい。すなわち、原板にはこの究極螺旋構造が描かれているだけではないのか。そして、タキオンビームによってフラクタルのように、部分と全体もまた同じ構造のホログラムが作られるのだが、このとき、誤差を生じる。この誤差が万物の多様性だ。誤差とはネガティブな言い方だが、転じて、万物多様性というポジティブな働きがある。そんな誤差を識別できないのが、いわゆる低俗な生命であり、すべてが同一構造にみえる。あら捜しではないが、誤差を巧妙識別するのが分別であり、人間にとっては多様に見えているのである。閉じたひもはグラビトン、重力子。開いたひもは光子や電子。これらは閉じても、開いてもいない究極螺旋の誤差なのだ。地球も太陽系、銀河、分子、原子、すべてが同じ究極螺旋構造の誤差的な現象にすぎないのではないか。


見えるものと見えないもの、そして、クオリアについてである。人間の一生と宇宙の一生が重なる。そんな壮大なロマンに思いはせて天井をながめていると、ケチャップのシミを発見だ。それはまた、コロンブスが引き出しからアメリカ大陸をみつけちゃったときの感動に近い。およそ、天井のケチャップ同様、物質と感じることは明らかにちがうはずなのだが、同根、同じものだということをここで考えていきたいのである。


   哲学者メルロポンティ、見えるものと見えないもの、についてである。木陰からまんじゅうを見つめている。私は見ている者であり、まんじゅうは見られているもの。見ていると見られているものは同じ肉でつながっている。ただ、溝で仕切られているだけだ。だから、入れ替わるのである。私はまんじゅうになったつもりでまんじゅうの存在感を満喫する。そして、こんどは見えているものと見えないもの。これまた同じ肉でできているから入れ替わる。こんどはまんじゅうの見えないあんこ、最も見えない意味といれかわる。こうやって、私はまんじゅうの意味を知ってしまうのだ。

  次の話はクオリアについてである。クオリアとは感じることである。やまちゃんという人物がいる。やまちゃんはいま、あったかいね、とつぶやく。本当に暖かさを感じているかはわからない。なぜなら、私はやまちゃんになれないからだ。もしかしたらドロでできたもので、魂がないのかもしれない。ゾンビなんだけど、ただせりふをいい、表情をだしているだかもしれない。これが哲学的ゾンビだ。だから、クオリア、感じるとは脳によるのか、もっと全体的なものなのかも、現代哲学の最大のテーマとしていまなおいろんな思想がある。


   まとめ

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  人間は医学的、生理学的には140歳まで生きれるという。そして、宇宙はビッグバンから今に至るまで140億年経過中である。この数字の見事な一致。もしかしたら、人間の一生は宇宙の一生とかさなるのだろうか。じつは、時間的にも部分は全体、ショートスパンはロングスパンと同じ営みだ。時間的なフラクタルである。140億年、140世紀、140年、140時間、そして、もっと小さいそのサイクルが実体なきクオリアなのである。

  無からやってきて、無から有、無と有の共存というサルトルのいう対自存在、いわゆる意識、クオリアがあり、そして、有への移行する。こうやって、140億年の宇宙の最先端、一生の最先端はこの今瞬間、ここにすべての輪郭を形作る有と無の境界であるクオリアがある。クオリアとは形を形たらしめている無いところ、欠如しているところそのものだ。見えないものと見えるもの、ないものとあるものの境界なのである。


ラブジョイ、存在の大いなる連鎖、そして、エンタングルメントについてである。宇宙で起きた出来事。超新星爆発などが、太陽系や地球のあるところに影響があったりする。そして、自分の人体の一部にも変化がある。大きなものから小さなものまで云々というのが、大きな世界は小さな世界と連鎖、連動しているのだ。

  ラブジョイ、存在の大いなる連鎖についてである。まったくもって正反対のものがなんと連続しているというのだ。すべてが存在は連鎖しているという。すばやく動くスカイフィッシュ。縁側で日向ぼっこしているお年寄り。かたや動であり、かたや静である。これが連続しているのだ。なんと、無限に小さな動きが静止だという。さらにイコールという等式。イコールじゃないんだよ、という不等式。これまた連続しているという。というのも、無限に小さな不等式が等式だという。とにかく、無限をはさんでやると、正反対のものと連続するというのだ。

  
  次の話はエンタングルメントについてである。量子のもつれという。量子が宇宙空間を飛んでい手、一刀両断、空手チョップで真っ二つ。すると、片割れAとBが離れ離れで飛んでいく。量子Aは観測しないときは、どっちにまわっているかは50パーセント。もしも、Aを観測して、右回りだったとき、この情報が光の速度を超えてBに伝わる、つじつまの合うように右回りになるという。

  二重スリット実験でも、スリットAを通る量子を見ちゃった瞬間、スリットBにみられちゃったよ、という情報が伝わって、波が粒になる。これらが量子ノエンタングルメントである。


   まとめ

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銀河系のなかでおきたこと。たとえば、超新星爆発が、なんと太陽系や地球のなかでなにか出来事となってあらわれる。さらに、地球のあるところの出来事は日本のあるところで別の形で現れ、一人一人の人体の部分にも現れる。これは原因と結果の因果律ではない。

 宇宙はマクロもミクロも同じ構造であり、フラクタルなのだ。ただし、どっちが先んじるのか。出来事、事象は三次元空間の形だけでなく、四次元の時間もある。だから、三次元の無限、無限時間のさらにむこうの五次元を経由して、ここから五次元のなかの擬似時間のようなものを通して、影響がミクロの世界に及ぶ。事象、出来事はマクロなものが先んじて、次にミクロの世界に現れる。これに対して、形、時間的な出来事ではないものはミクロがマクロに先んじる。雪の結晶があつまってよりおおきな同じ形の結晶ができる。

  だから、昔から未来の出来事、事象を知るのに、天体を見たのだ。天体、マクロが先んじているから占星術があった。天が先にあり、地に影響だ。

  まさしく、時空や因果律を超えたマクロとミクロのシンクロはエンタングルメントである。そして、無限の先の五次元を介して、マクロとミクロはつながり、連鎖し、シンクロするのだ。


スマホ 3・05

   生活世界と対他存在についてである。ブラックホールは特別なのだろうか。一本の毛の波さん、三本の毛のQちゃんが特別に見えるようにブラックホールは特殊だろうか。そうではなく、ブラックホールに吸い込まれることは、ふつうであり、そもそものこの日常世界が吸い込まれっぱなしというプロセスの中にいるのだ。

  3/06 スマホ 挿入




     

   まとめ

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   異次元理論

   
     ブラックホールに吸い込まれる。すると、自由落下する。宇宙空間にふつうにいるときは浮遊している。ところが、箱のなかに入って自由落下しても、ふつうに浮遊しているのと同じだ。本人はふつうなのである。そこにはいつもの日常がある。これを外部の観測者がみると、加速しているようにみえる。

  落下している本人は気がつかないが、加速し、光速に近づくにつれて相対論によって時間は遅くなる。光速に達したとき、ついには時間がとまる。ここが事象の地平面である。これを超えると時間はマイナス、つまり、時間の流れが逆転する。以前、お話したが、生命の意識とは未来の目的からいまのからだを動かす。つまり、意識は時間逆転そのものだ。だから、ブラックホールに吸い込まれるプロセスは本人からしてみれば、物体の通常の動き、さらには意識あるものまでも生まれる。もちろん、前回、話他が、事象地平面はクオリアになる。

  外部観察者にとっては落下するものは高熱になり、ついには事象地平面で燃え尽きて死滅。落下している本人は高温にもならず死滅もしない。これは対他的、他人からすれば死があり、本人は永遠の生を意味する。

  意識ある生命と、意識のない物体。これはブラックホールに吸い込まれ、事象地平面までのあいだに物質が、それを超えて時間逆転で生命の意識がうまれるのだから、ふつうに生命と非生命に満ちている日常、世界でしかない。だから、われわれの普通の日常、世界そのもの、宇宙のすべてがもっと大きな宇宙のなかでもっと大きなブラックホールに吸い込まれ中ということなのだ。たしかに、銀河の中心にもブラックホールがあるが、この宇宙自体が大きなブラックホールに吸い込まれている。これはブラックホールとは特殊なものではなく、世界、日常、宇宙そのものだということであり、しかも、ブラックホールのなかのブラックホールというような入れ子、フラクタルになっていて、それはあたかも、曼荼羅のようになっているのである。



人格の同一性とヘラクレイトスの万物流転性についてである。三年前の私と今の私はいっしょだ。ところが、まわりからずいぶん変わったとか、お尻の形がかっこよくなったといわれたりする。周りから見たら変化しているが、本人は変わらない。人格は昨日も今日もいっしょだという。そんなふつうな人間の人格と宇宙ではきわめて特殊なブラックホール、この二つは実は同一構造だったのである。

  人格の同一性についてである。昨日の自分と今の自分は同じだ、という人格の同一性がないと、給料の報酬も得られないし、なんの責任もなくなってしまう。それではどうして同じ自分だといえるのだろうか。まずは身体説というものがある。昨日といまはパンツはちがうけど、からだが同じ。だから、同じ人間だといえばよい。ところが、新陳代謝しているから厳密にはちがう。哲学者ロックは人格っていうのは、記憶の及ぶ範囲と一致するという。つまり、覚えていれば、それは同じ自分なのだ。また、そのどっちでもないのが、魂の輪廻転生だ。記憶でも身体でもない魂というのが同じだという。
 また、ヒュームはそもそも、そこに何かそれ自体であるという実体。これは何度も繰り返し、習慣的に思い込むという。いわゆるケツの穴は毎回、確認しなくても、習慣的にあると思い込む。同じく、人格もまた、習慣的につくられたものだという。

  次の話はヘラクレイトスの万物流転についてである。ヘラクレイトスは、ひとは同じ水に二度と入れないという。水は流れているからだ。すべては流れていて、同じものはない。発生と消滅の連続だ。パルメニデスのあるものはずーっとある、ないものはずーっとない、という思想の反対である。


   まとめ


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    三年前の自分と今の自分は傍目では変化していても、同じ自分。つまり、人格の同一性とはなにか。

  ブラックホールは宇宙では特異な現象だといわれる。人格とか、自分とか他人は日常の当たり前の現象。えてして、特異と思われたものは当たり前のことだったりする。

  ブラックホールにカプセルの中に入ったものが吸い込まれる。本人はいつもと変わらない浮遊状態。外部から見ると、自由落下していて、加速し、ついにはブラックホールの事象地平面に高温状態でぶつかり死滅するようにみえる。ところが、本人は相対論、熱力学的に、なんと、平常であり、なにもかわらないで事象地平を突破。すると、光速に近づき、時間が遅くなり、光速で時間がとまり、事象地平面にこのときいるのだが、突破すると、時間は逆転する。時間が未来から現在へと移行するのは、意識である。かれは意識し、物理的に平常な空間にいる。

  外部から見ると、発生と消滅にみえる。以前話たが、ブラックホールの外部観測者は他人であり、他人にとっては自分の死滅はあるが、自分にとってはそれがないといった。同じように、外部からは発生と消滅という変化に見えるが、落下中の自分にとっては意識的な生活を物理的な世界で行っているという状態が持続しているのだ。だから、これが人格の同一性になるのである。いわば、相対論でいう、慣性系の違いが人格同一性と変化に相当する。



永遠性とキアスム、そして、仮象についてである。輪廻転生に解脱という言葉を聞いたことがある。なんだかお線香のにおいがしそうだが、輪廻と解脱が一見して関係のない藪から棒のようだが、ブラックホールと同じ構造をしている。解脱とブラックホールについて考えてみたい。

  永遠性とはなにか。永遠といってもいくつかのタイプにわかれる。無時間性、通時間性、超時間性、そして、瞬間の永遠性だ。無時間とはその名のとおり、そもそも、時間の流れなんてない世界。数学のににんが4という世界だ。通時間性もまた、数学の法則などもそうだが、時間を貫いて変わらないものだ。新カント学派のヴィンデルバンドやロッツェは、このりんごはおいしい、といったとき、このりんごは時間に従って新鮮さを失いついには腐る。でも、おいしいという価値は腐らない。美しいそのものという価値、善悪の価値も時間を貫いて変わらないというのだ。

  中世においては超時間性である。いわゆる時間を越えた神様や天の世界だ。現代においては瞬間の永遠性がいわれる。たしかに、プラトンもそうだが、現代だと、キルケゴールである。今この瞬間の具体的で、個別的な個性ある自分。この今瞬間に永遠があるというのだ。

  次の話はメルロポンティのキアスムである。キアスムは交叉ということ。まったくもって正反対のものが合体して新しい何かになるという弁証法。そうではなく、くっついても、新しいものではなく表は裏に、裏は表になって回転運動を起こすという。

  最後にニーチェの仮象についてである。そもそも、仮象、見誤り、錯覚こそが種の繁栄には必要だと説く。虚飾によって互いによく見せて異性はひきあうのは人間だけでなく、求愛のダンスを踊る動物も同じなのである。

 
 
  まとめ
 
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   ブラックホールと解脱。どこがどう関係しているのだろうか。ブラックホールにカプセルの中に入って吸い込まれるものがいる。加速を増していくのだが、本人は空中浮遊で気がつかない。外部観察者から見れば加速が進みついには燃え尽きるのが見える。カプセルの中の当人は平然として、光速に近づくにつれて時間が遅くなり、ついには加速が光速度に達してここが事象の地平面になる。ここでは時間が止まる。つまり、無時間であり永遠である。そして、これを超えて落ちていくと、時間はマイナス、つまり、逆転し、未来から現在の時間移行そのものが生命の意識になる。そして、また戻ってきて事象地平面の外にいって、物体の落下。こうやって、意識と物体、意識と肉体は交互に入れ替わりながら事象地平面を戻ったり、つうかしたりしている。これが意識、肉、意識、肉、と間断なく繰り返されて生命だ。これは外部観察者からすれば発生と消滅の連続、もっとロングスパンでみれば、生と死の繰り返しであり輪廻転生である。いわば、ふりこ運動である。右から真下のもっとも速度の速い地点を通過して右へといく。また、砂時計のようなものでもある。

  さて、問題はこの繰り返しの輪廻のないところがある。事象地平面である。通常、情報量、エントロピーは体積に比例すると考えるが、ブラックホールはこの表面積に比例するのだ。そして、宇宙の情報とブラックホールの事象地平面の表面積に蓄えられている情報量が一致、これがホログラム理論だ。こうやって、この事象平面はホログラム宇宙の原版であり、オリジナル情報の書き込まれた無時間的な世界になる。ここが解脱の境地ではないだろうか。時間が流れない永遠性と、万物の原型、すべての原版が記されているものだ。

  さて、シャボン玉はひとや生命にたとえられる。まわりのシャボン玉液が肉体。内側と外側の空気が魂、意識だ。そして、割れると、シャボン玉液は土に戻る。これをブラックホールの事象地平面に当てはまると逆になっている。肉は意識、意識は肉。球面がはかない肉体になっている。これはひねりがくわえられてみえなくしているのである。われわれはえてしてひねられて真実がかくされ、仮象をみているのだ。ところどころでキアスム、反転し、真実が見えなくなっている。種の存続のためかもしれない。そもそも、決定的な違いがある。それは、シャボン玉液の表面は厳密な二次元ではなく、三次元。事象地平面は高さのないまったくの二次元なのだ。だから、この厳密さゆえにまったく反対に入れ替わるのである。


基礎付け主義と相対主義についてである。テコでも動かないもの、なんだか軽い浮いているもの。私はかたくなに私自身。傍目から見るとだいぶかわったといわれたりする。そんな相対的なのか、絶対的なのか、どっちなのかがわからない。相対的かつ絶対的な境地。これがじつに裸の大将ならぬ裸の特異点に隠されていた。

  基礎付け主義についてである。テコでも動かない絶対的真理があるという。テコの原理だと、支点というのがあって、これは動かない。これをアルキメデスの点という。そんなアルキメデスの点を求めるのだ。古くはソクラテスは絶対的な真理を捜し求めた。デカルトは、われ思うゆえにわれあり、という。つまり、どんなに疑っても、疑っている自分の存在は確実にある。だから、かれのアルキメデスの点は自分自身だ。現代においてはフッサール。身の回りのものがすべて思い込み。友人が人間かとおもったが、時に羽が生えていて鳥類だったとか、すべての判断を一回やめてみる。それでも、性別や名前、個人の経験、そんな形ある自分は判断停止しても、だれだかわからない純粋な私が残るという。これがアルキメデスの点になる。


   これらに対して、ネオプラグマティズムのローティは、こういう絶対的な真理は特権的なイメージだという。すべてを支えるものがないと不安と強迫観念でいてもたってもいられないからうまれるというのだ。そうではなく、すべては真理だとおもっていても、ちがっていたら修正、改正するという謙虚さで更新し続ける。これを可謬主義という。そして、基礎付けるのではなく、みんな手をつないで連帯すればよいというのだ。


   次の話は相対主義についてである。ソクラテスと戦っていたソフィストたち。かれらは相対主義者である。すべての真理は相対的。しかも、プロタゴラスは万物の尺度は人間だと主張。こうなると、真理は絶対的なものだという、主張も認めないといけないので、矛盾に陥ってしまうのである。


   まとめ


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   異次元理論


    絶対的に動かないものがあるか、それともすべては相対的だろうか。絶対的かつ相対的なのである。

  事象の地平面のない裸のブラックホール、裸の特異点がいたるところにあるはずだ、と計算上でてくるという。ところが、これだと小さなブラックホールが中がむき出しのまま充満しているので、時間空間もめちゃくちゃ、数学の法則だって成り立たない世の中になってしまうので、理由はわからないけど、そんなものはないとホーキング博士は検閲官仮説を打ち出す。ところがどうだろうか。すべてのものは輪郭、形をもつ。形とは異なった相の境界、界面であり、これこそが裸の特異点の事象地平面になっているのではないか。だから、いたるところにブラックホールがあるのだ。そして、それが形になっている。ブラックホールは意識と肉の間断なき入れ替えだった。だから、私のからだは無数のかっていた生命の意識といまいる意識と今後うまれるであろう意識によってできているのだ。すべてのものはすべてのものでできている。

  以前、慣性系のお話をした。ブラックホール内部からすれば定常状態で変化はない。外部観測者にとって変化にみえる。発生と消滅にみえるのである。だから、すべての形、輪郭がブラックホールの事象地平なのだから、私は外部からしか湯飲み茶碗をみれないので、湯飲み茶碗の変化を知る。湯のみ茶碗にとってみれば、その変化が見えない。以前話たように、湯飲み茶碗は自分からすれば人格の同一性をもち、彼からすれば私は変化するものでしかない。こうやって、相対的であり、テコでもうごかない絶対的なものでもあるのだ。



常識哲学と非常識哲学、そして、意識の志向性についてである。ブラックホールは特別なものだとおもってしまう。ブラックホールの内側、外側、あれやこれやと考えていると奇妙すぎるのだが、奇妙きわまって普通になってしまうのだ。非常識極まり常識に落ち着いてしまったブラックホールと人間との考察である。


   常識哲学と非常識哲学についてである。非常識といったらヒューム哲学だ。トイレの中に便器がある。ドアをあけるといつもの光景である。ドアをしめると、あの懐かしい便器がみえない。それでも、繰り返していくうちに、見ていなくてもドアの向こうに便器がそれ自体でおとなしく存在していると思い込む。いわゆる、便器の実体である。実体とはすべてが思い込みだという。それなら私っていう実体はどうか。ひざをみる、足のうらをみる。見ていなくても自分がいると思い込む。つまり、私の実体も思い込みなのだ。ところが、なにか活動だけしている実体なきものがいる。つまり、主体である。
 
  ヒューム哲学の非常識さの反動で、イギリスでは常識哲学が生まれる。哲学者リードを筆頭とするオックスフォード常識学派である。まずは、感覚と知覚をはっきりわける。いたい、つめたい、くすぐったい、というのは感覚。感覚は自分と自分の外って言う明確な区別がない。そんな感覚を組み合わせると、丘の上の木という知覚になる。その感覚の組み合わせ方はみんないっしょだ。アメリカ人も日本人も、個人によってちがわない。組み合わせ方マニュアルを共有している。これが共通性質であるコモンセンスである。さらに、知覚だけでなく、道徳や社会においてある程度、このコモンセンスによって常識が作られているというのだ。


   次の話はフッサールの意識の志向性についてである。まずは色、形、においっていう感覚的な材料がある。これをヒュレーという。これを自発的な意識作用によってまとめる。これを意識作用、ノエシスという。これによってできあがった全体イメージ像が意識対象のノエマだという。


  まとめ

 存在の科学


  異次元理論


   科学的には小さなブラックホール、裸の特異点が無数にこの世界を充満しているという。ところが、裸、つまり、事象地平のないブラックホールだから、中身がむき出しである。時間と空間、論理がむちゃくちゃなでたらめな世界になってしまうのだ。だから、ホーキング博士はなんでかわからないけど、裸の特異点がないという検閲がかかっている、検閲官仮説である。

  さて、裸の特異点が充満し、しかも、その事象地平面が物体の界面だとしたらどうか。異なった相が接している境界、これが界面であり、水と空気の界面は水面だ。この界面、ものの形、輪郭を作る界面が事象地平だといった。つまり、充満する裸の特異点の服、事象地平がものの輪郭、界面だったのである。そして、事象地平面はホログラム宇宙論だと、宇宙のホログラム映像の元データが刻まれているといった。そして、そこに光線があたってホログラフィーがうつる。まさしく、光が物体の界面にあたって反射し、それが眼球を通して脳の中にイメージ像が浮かぶ、当たり前のこと、このことである。ものの界面は事象地平だから、そこにホログラムの情報があるのだ。

  さて、実際はもっと立ちこんでいる。ブラックホールだと、事象地平面の内部から光とは方向も、時間の流れも逆であるタキオンビームが放たれて、事象地平面にあたり、事象地平面のデータをその外側にホログラフィーとして投影させているといった。これとおなじことをやっているのだ。かりに脳としよう。脳から眼球を通して光とは逆の軌跡でタキオンビームが放たれて、目の前のサッカーボールの界面、輪郭に当たる。そして、その界面、事象地平に刻まれた情報をサッカーボールの見えない向こうにホログラフィーとして投影させるのである。だから、私の脳はサッカーボールの界面の内側にあり、その外側にホログラムを投影させていることになるのだ。


物自体と即かつ対自存在についてである。おでんの種をみつめる。はんぺんがおいしそうだが、はんぺんの外からこれを認識していると思っている。本当は裏表が逆だったりする。はんぺんの内側から私ははんぺんをまなざし、そして、はんぺんのホログラフィーをその外に投影するのだ。

  哲学者カントの物自体についてである。はんぺんを認識するとき、これを箸でつまんだから割れたのを見た。つまんだのが原因、割れたのは結果だ。因果律というカテゴリーを適用しちゃってすでに加工しているのだ。さらに、時間と空間っていうものにも従わせる。こうやって、われわれははんぺんそのものを感じているのではなく、はんぺんの表向きの現象を認識だ。はんぺんそれ自体、これはどこで作られ、誰に食べられるか。また、どれくらいの重さか、分子量か。物自体は把握できない、はるかかなたの理想のものだ。はんぺんそれ自体、物自体は限界概念ともいう。ところが、カントはこれをひっくり返す。はんぺんを理論的認識しているから現象になっちゃう。そうではなく、認識、見つめるのをやめて実践するのだ。まあ、はんぺんを食べるのもよい。そうすると、私自身が物自体だと気がつく。ここでは認識じゃないから因果律も使わない。原因もなしでやってしまうのだから、自由意志であり、自由だから、道徳実践ができる。ひとにいわれ、うしろから押されて善いことをするのではない。

  次の話はサルトルの即かつ対自存在についてである。即自存在とは、即自分だ、という存在。はんぺんやウィンナー巻きはまさしく自分以上でも以下でもなく、自分と一致している。いわゆる物体である。あるものはある、ないものはない。対自存在とは自分に対面しちゃっている存在。人間の意識だ。おれだと叫んでも、すでにそんな自分じゃない。かってあったところのものではなく、いまだないものになろうとする。不安定でいてもたっていられない。だから、なにか固定した銅像のようでありたいと、ひとは即かつ対自存在になろうと欲するが、これがいわゆる神様になろとする無益な努力なのだという。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    
   裸の特異点は裸ではなく事象地平面をまとっていたといった。そして、それが身の回りの物体の界面だ。異なった相が接している厚みのない二次元の事象面なのである。ここに情報が蓄えられている。そして、私の脳から放たれる光とは方向性と時間が逆であるタキオンビームによって、物体の界面を照らし、情報を読み取り、界面、すなわち、地平面の向こうにホログラフィーを作る。つまり、通常のブラックホールでいえば、事象地平面の内側に私がいるのだ。物体は外側みているんではなく、物体の内側に私がいて、これを照らしているのである。だから、物自体が理念として向こうにあるのではなく、物自体が私の実践だといいたいのだ。もっと言えば、理論認識では、物自体の内側にないるのである。さらに、即かつ対自存在ではなく、即自存在のなかに対自存在がいるのだ。これを世界内存在にならって、即自内対自存在と名づけたい。




相互作用と動的平衡、そして、私とあなたの非対称性についてである。真実の口に手をいれたらかみつかれたとは聞いたことがない。真実や真理は巧妙に隠されているが、当たり前の名で隠されている。いわゆる時間の不可逆性である。これが世界を隠し、果ては世界、自然を操作してきた。

  相互作用と動的平衡についてである。押したら同じ力で返される。いわゆる、作用反作用の法則だ。哲学者カントは四つのカテゴリーのうち、三番目の中にこの相互性のカテゴリーを位置づける。カテゴリーはひとが弁当のおかずをとろうとしたとき、たくわんを認識するときなどに、ふつうに使われる。判断や認識するために準備されている枠、雛形だ。第三番目は関係のカテゴリーであり、その内訳が実体性、因果性、相互性なのだ。

  現代では生の哲学であるディルタイ。生、生きているというカテゴリーが最初にあるという。そして、そんな生のカテゴリーから自然科学の法則、カテゴリーはにじみでるという。生のカテゴリーの抵抗。生きていると挫折感、抵抗感がある。仮面ライダーになれなかった、でるくぎがうたれてしまった、など。これが自然科学の相互性に化けるのである。さらに相互性がずれて因果性になるともいう。

 動的平衡についてであるが、これはまったく反対のものが動的、ダイナミックに拮抗しあって全体としては安定するという概念だ。

  次の話は私とあなたの非対称性についてである。たとえば、ブーバーの我汝。我が最初にいて、次に汝やそれといったものがうまれるのでもなく、それっていうものがあつまって我や汝になるのでもない。最初から私とあなた、我汝のセットで誕生だ。だから、我と汝は交換できない。また、レヴィナスは私にとって他人とは、全体丸ごとつかめない無限者だという。ここには絶対的に私と他人の交換不可能の非対称性がある。


  まとめ

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   この世界の真実、真理は巧妙に隠されている。というのも、当たり前のもの、疑いの余地ないものを盲目的に鵜呑みにしているからだ。世の中は動的平衡、作用反作用、プラスマイナス0というバランスがある。つまり、どんなものだって、巨視的、微視的にみればなんでも対称性になる。それなのに、時間だけはどうも非対称的だ。過去から現在、未来への一方通行だというからだ。とりわけ、科学的な見方がそれである。
 
  前回お話したが、本当はものを把握するとは、外側からそれを見ているのではなく、そのものの内側から海面、事象地平面にタキオンビームを当ててホロフィー化しているといった。タキオンは光とは方向が逆、時間もまた逆であり、未来から過去へ流れる。外は内で、内hが外だった。こうやって、光が外から物体にあたってそれが網膜にはいり、脳へといたるというプロセスの逆があるから、ひとはものを捉える。石ころを把握するとは、石ころのなかに自分がいてそこから照らしているのだ。光による外部の反射は感覚でしかない。しかも、中身が大切だというが、ほんとうは表面にエントロピー、情報が含まれているので、二次元の界面が大切である。  

  石ころだけでなく、同じようにひとに入り込んでそのひとの気持ちになる。物体もひとも動物も、こうやって把握する。
  

  ところが、デカルト的自我によって一変する。私は宇宙のなかではなく、外から神様の視点から眺めるのである。主観と客観の断絶である。これによって、連鎖的にずれがうまれる。そのひとつが時間の不可逆性になった。科学的に観察する自我の棚上げ、究極の上から目線によって、私を含んだ超越論的な世界、つまり、対象の内部から照らし出す自我の忘却によって、自然は死せる自然になり、ついにはこれを操作するようになったのである。まさしく、ふれあって相手を感じるとは、内外の時間可逆的なプロセスに他ならない。

   
  普遍性とキルケゴールの個性についてである。この宇宙はマクロな視点でみるとプラスマイナス0、完璧な対称性で、なにも起きていないのかもしれない。虫眼鏡で細かく見れば、そこには虫たちのドラマがある。断片にはどうもドラマがあるのかもしれないが、大きな世界もまた超具体的な日常世界、ということも考えてみたい。

  普遍性とは何か。あまねくすべてにあてはまっちゃうものだ。自然の斉一性原理というものがある。未来っていうのは過去にそっくりだという。だから、いままで太陽が東から昇ったので明日もまた東から昇るという。茶の間で1タス1の計算。火星の上でも数学は成り立つ。あまねく、すべてで成り立つのだ。

  ヘーゲルの具体的普遍性というものがある。普遍性といったらふつうに抽象的普遍性だ。人間っていう概念。これはいろんな人間にあてはまるが、眉毛の長さとか、具体的なことは捨てちゃう。ヘーゲルのいう否定の否定は肯定、というもの。このじゃがいもはあのじゃがいもでも、潜水艦でもない。このじゃがいも以外のすべての具体的なものを否定するとこのじゃがいもになる。これが具体的普遍性だ。

  次の話はキルケゴールの個性的真理についてである。キルケゴールは宇宙は神様だというヘーゲルの普遍性が嫌いだった。真理とは普遍的ではなく、具体的、個性的だという。私はあれができるがこれができない。こうやって個性になるが、有限になり、ちっぽけになることだ。すると、絶対者がこの対比で現れてくる。


  
  まとめ


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   この世界は具体的で、個性的なものがたくさんある。それでも、巨視的、マクロでみると、その正反対のもので相殺されているのだ。このじゃがいもがあるが、反このじゃがいもが対にあってプラスマイナス0。ビッグバンがあったが、同時にどこかでビッグクランチがあって相殺。時間の流れも、ブラックホールの内部で逆転してプラスマイナス0。マクロでみると、世の中はプラスマイナス0で何も起こってない。断片的にみるとドラマが見える。物質と反物質、重力と反重力。すべてがマクロでは対称的になっていて、互いに相殺されている。


   さて、そんな宇宙の対称性、この反対が非対称性だが、これらも対称性をなす。数学や物理学が適用できる秩序ある並行宇宙。これにたいして、数学、物理学ですら成り立たないレベル4並行宇宙がこの対になっている。この非対称性の世界は具体的な世界であり、ケチャップのシミが宇宙全体だという世界だ。こうなると、対称性と非対称性の対称性、秩序と無秩序の秩序。対称性、秩序、論理が最終的には残るのだ。

  これはもともとのスタート地点で論理的に思考しようという構えからくる。だから、どこまでいっても、論理、対称性、秩序で終わる。ところが、最初に論理的な思考ではなく、非論理的、無秩序な人情ではじまればそれで事足りる。八百屋さんはりんごを売るとき、論理的ではなく、みかんをおまけにつけてくれるとき、最初から対称性、論理があるわけではない。


観念論と唯物論についてである。世界は観念的なものか、単なる物体の集まりか。観念、イメージと物体は高次元の超ぶっとび俯瞰だと、なんと同じだったのである。美女と野獣のごとく、一見、真反対のものは同じものが別に見えているだけだった。

  観念論についてである。すべては観念的、イメージだという観念論。とりわけ、強烈な観念論といえば、バークリの実質的観念論。らっきょがあるかららっきょを知覚し、見ているのではなく、知覚し、見ているかららっきょがあるんだというもの。もしも、私が見ていなくても、虫が見えているかもしれない。虫一匹いないとしても、神様が見ているという。

  カントは経験的実在論と超越論的観念論だという。実際に目でみたり、鼻でにおう感覚、これを経験というが、これは実在しているものを感じている。ところが、超越論的、つまり、見ているという超越について云々論じている、見ているということを見る、世界のなかに自分がいるんだな、と感じる、これは観念的だというのだ。

 ヘーゲルは客観的観念論だ。そもそも、宇宙、世界は神様のイメージ、観念として客観的にあるというもの。

  次の話は唯物論についてである。すべては物体だという。マルクスは科学的唯物論を世俗的唯物論と断じる。デカルト以降、科学しているものは、宇宙や世界の外から超上から目線だ。人間がいない自然を相手にしているというのだ。だから、人間を含んだ自然を論じるのが正当唯物論だという。

  まとめ

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   西洋哲学の大きな流れは観念論と唯物論、実在論との戦いだった。観念とはじつは物質と同じものだといいたいのだ。

  われわれは三次元空間と一次元の時間、合わせて四次元時空にいる。これを一枚のパンとみなす。三次元ブレーンである。これらが重なった五次元の世界がある。われwれの住む三次元ブレーンに沿うように移動する端部のあるひも、これが光子や電子になる。このブレーンに外から進入する閉じたひもが重力子、グラビトンになる。だから、外部からの進入か、ブレーン内部を移動しているかの違い出会って元は同じものなのだ。重力があって、物体がうまれる。光子や電子は網膜を刺激した光が電気パルスになって脳に伝わるように、意識、観念、イメージを生み出す。だから、イメージと物質は同じなのだ。
 
  五次元にもブラックホールがある。ブラックブレーンという。当然、事象地平面があり、ここを移動するひも、その挙動がなんと内部を動き回る閉じたじもと挙動が同じなのだ。ホログラムなのである。そして、ここにも、投影されたものと投影しているものが同じひもでできているとなる。

   また、最近は無線給電というものが開発された。電機のエネルギーを情報化して無線で送るのである。つまり、エネルギーが情報なのだ。ハンドルがエンジンである。ベクトルをもつ情報がスカラーなエネルギーだった。これまた、見方の違いでしかないのだ。人間の細胞は水分で潤う。水の信号、情報を細胞に与えると細胞が元気になるという。栄養もおそらくは情報である。

  さて、すべてが相対的な座標系にすぎないならば、相対的と絶対的はどうか。私はどんなに早く動いても私であり、私を中心に世界がひろがっているようにおもえる。つまり、絶対的な主体性だ。ところが、自分の地球上での相対位置もある。だから、相対的絶対であり、これが遠近法世界になる。生きている間だけでなく、生間領域でもまた、この相対的絶対である遠近法的な状態が続いているかもしれない。



自己意識とゲシュタルトクライシスについてである。桑を手にして踊るのではなく、畑を耕す。馬糞、牛糞を愛情こめてふりかける。そこでふと気がつく。植物には自己意識があるのではないのかと。その違いはまりにスピードが遅いからわからないだけなのだ。

  自己意識とはなにか。自分を意識することである。社会の窓があいているのに気がつき愕然とする。自己意識のおかげである。デカルトはすべてを疑った。だけど、自分がいないのではないかと疑えない。なぜなら、自分がいるから疑っているのだ。だから、われ疑うゆえにわれあり、われ思うゆえにわれありだ。カントは、人間っていうのはいろんな感覚情報を集め、練り合わせて加工し、判断する。そんなことをしている自分のなかの自分。これを統覚となづけ、時に統覚的自己意識ともいう。

  哲学者フィヒテはとことんすべてがおいらがやっているという。自分は自分を設定し、また、自分以外のすべて、非我もまた設定。さらには自我と非我も自我のうえでちょめちょめさせる。自己意識も徹底すると、意識している自分と意識されている自分が一体化してしまい、自分が消えてしまうという。

  次の話はヴァイゼッガーのゲシュタルトクライシスについてである。医学的人間学を目指したヴァイゼッガー。人間を科学的に法則としてとらえる。ところが、人間はそんな法則みたいにじーっとしていない。常に生成しているのだ。ふけだってでるし、新陳代謝の真っ最中。だから、科学的に接するのではなく、生命として接するには生成としてとらえるんだ、という。

  背景のなかにりんごではなく、背景と被写体とのせめぎあいから輪郭がうまれるというゲシュタルト理論。ひとは、なにかを感じ、知覚する。そのあとに運動するのではない。まぶしいと知覚したときすでに瞳孔はきゅーっとなっている。つまり、瞳孔の運動だ。外部の世界とのやり取りのなかで生きているというのだ。それはまさしく、ゲシュタルトであり、しかも、ぐるぐると循環しているのでクライシス。これがゲシュタルトクライシスである。

  まとめ

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    植物は動物のふんを栄養にする。ただ、動物のふんは育つのだが、長期的にみると、土をダメにする。雑菌が繁殖するのだ。だから、これは植物にとってのボーナスであり、普段の糧は腐葉土である。

  自分の葉が落ちて、これが腐って、足元で腐葉土になって栄養になる。また、育って葉が落ちて腐葉土だ。ここにはクライシス、循環がある。このループこそが植物の自己意識なのだ。動物や人間はこのループ、循環が極めて速くなり、いわゆる、自己意識になっているのである。


自由意志と決定論、そして、自己充足性についてである。すでにある宇宙に従い、そんな宇宙を同時に作っているといったら、気でもふれたのではないか、と心配されてしまう。宇宙の製作者は同時に宇宙の住人だったというお話である。

  自由意志と決定論についてである。自由意志といえばカントである。自由は道徳的に善いことをするうえでの大前提だというのだ。糸で操られては善いことができない。目の前の現象はたいてい法則に従っていたり、原因あって結果ありの因果律だ。ところが、自由意志には操られたからっていう原因がない。

  哲学者フィヒテは自由意志ですべてがうまれるという。なんと、自分が自分を設定、さらには自分以外のすべても設定し、なんと自分の上で、自分と自分以外をちょめちょめさせるのだ。そして、自由意志に欠かせない自己意識を徹底しすぎちゃうと、自我が消えてしまうという。

  現代ではサルトルである。私は遺伝子の設計図があるというのだが、そんな設計図は人間の自由な研究で発見された。本質、法則以前に自由な存在がある。これが実存が本質に先立っているということである。

  ニーチェはカントを揶揄して、ケーニヒルズベルク風だという。カントのいう自由意志は神様への信仰のために作られたスペースだという。そして、ニーチェは世の中は必然だという。生まれては死んで、永遠に宇宙、人生は同じことを1ミリもずれずに繰り返すという。だから、いいこと、悪いこと、すべてを全面肯定する超人になることをお勧めしている。ここにほんとうの自由をみて、これを大いなる運命と名づける。

  決定論者というのは、人間だって、宇宙だって、すべてが決まっている、何が起きて、やまちゃんがこれからなにをするかさえ計算できるという。ホップスやラ・メトリの人間機械論だ。

  次の話は自己充足性についてである。スピノザは、いろんなものたちがいて、その中で他力本願的にほかのものに依存しないで自分で自分を存在させちゃっているやつこそ、自己充足だという。

  A=Aであるが、この自己同一性が自己充足なのだろうか。ヘーゲルはAだ、っていえばいいのに、はじめにAを分裂させておいてくっつけているという。

  自己充足性を否定するのはデリダである。私は私だ、というとき、主語と述語の私はずれている。私だといったとき、すでにそれは私の残像、足跡、痕跡でしかない。自己充足なんてないんだよ、という。


  まとめ

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    五次元ではブレーンへの入射角の違いが重力と光や電子の違いでしかないといった。光子は観念的なもので、重力は物質をうむ。だから、観念と物質は同じだともいった。つまり、一見、正反対のものはきわまって同じものなのである。 

  今回はホログラムではなく、世界、宇宙は知的ななにものかによって生成されたホログラム、つまり、シミュレーション宇宙について考えたい。

  工学と理学はちがうものだ。理学で自然の原理を理論的に知り、この知をもとに応用して工学だ。この二つがつながるのである。工学的技術によっていずれ理学の対象である世界、宇宙そのものを作るのである。自由意志で必然的、決定論的な法則を生み出す。そんな決定論にしたがって自由意志になる。この二つもつながるのである。

  古代エジプト、シュメール、マヤ文明。巨大な建造物は現代の技術をもってしても難しい。彼らは未来から来た生命体によってそれをつくったのではないか。未来においては未来人は時空を超えるマシンをつくり、世界を作り出すホログラム装置も手にいれる。そこで、自分たちが存在するために過去へいって帳尻をあわせるのである。これは普段、われわれがしている自己意識のロングスパンバージョンである。今の私がいるためにちょっと前の過去の私を正当化し、根拠づけるのである。自由意志もまた、決定論的なものをつくり、これにしたがって自由を発動する。宇宙に住んでいるものが住んでいる宇宙そのものをつくる。製作者が製作するプロセス自体が作品だというブリコラージュ、これが大いなる宇宙の歴史と日常のささいな意識活動にもすべてにあてはまるのである。


不可知論と不在についてである。まったく反対のものは互いに手をとってダンスをはじめ、そして、互いにぐるぐるまわりはじめるのだ。人工物と自然物、私と世界、可知的なものと不可知。こうやって世にも奇妙なシミュレーションな世界がうまれる。

  不可知論についてである。知りえないものがある。カントはわれわれの知りえるのは現象界だけだという。時間と空間、いろんな加工をした現象。そのなかでも原因と結果の因果律に従わせる。なんで卵が割れたのか。角っこにぶつけたのが原因だ。ところが、卵それ自体は時間空間、因果律に従わない物自体だ。物自体は認識できない、不可知なのだ。だから、認識やめちゃって実践する。このとき、自由意志で実践するのだが、自由意志とは原因と結果の因果律がない。つまり、私の実践が物自体だというのだ。

  次の話は不在についてである。レヴィナスのいう不在。私とあなたで二人称。あなたは常に私のまえにいる。ここにはいない無数のものたち。かれら、彼女ら、さらには、それら。これが三人称や無人称であり、不在のものたちだ。これをイリヤと名づけ、われわれはどこにいても、この不在のものたちの圧倒的な圧迫感を感じながら生きているという。

  サルトルのいう不在とは、よく例にあげているピエールさんの不在だ。ピエールさんが目の前にいたら、観察するのだが、観察には必ず、観察していないところがある。ところが、不在のときは、ピエールさんの横顔も想像できるが、ピエールさんのどこからみたわけでもない、それ自体の概念を瞬時に全体的に想像だ。だから、実際の観察よりも不在のほうがよりリアリティがあるというのだ。


  まとめ


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   見えないもの、不可知なものに囲まれている。外にでると、建物があった。見えないものが見えたが、その建物はだれが作ったのか、不在のものたちが見えない。こうやって、人工物の外に人工物があり、さらに人為が加わり、不在のものたちがいる。人工物と自然物はまったく反対だから、前回同様、互いに回転運動をして表裏一体だ。自然物だって、前回話たが、遠い未来のものたちがつくったシミュレーション世界。自然物にも人為が加わる。すんでいるものがすんでいる場所を作る。
 
  カントがいうように、物自体が自分の実践だった。私がなにかをやっていることが物自体、それ自体存在しているものたちだった。これを時間的な長いスパンでみると、未来によるシミュレーション世界の構築なのである。

  宇宙には徹底的に見えないもの、間接的には証明されているダークエネルギーがある。この力によって宇宙は膨張する。また、インフラトン場というものが、宇宙を膨張させて、スイスチーズのような気泡宇宙をたくさんつくる。これがインフレーション宇宙。そば生地を伸ばす外部のこの力こそ知性の関与なのだ。そして、気泡のひとつひとつが並行世界であり、これによって、人格が生まれる。私は右手をあげたが、右手をあげていない並行世界まで触手をのばして始めて右手をあげているという輪郭、自分という人格が生まれる。細胞の分裂、増殖もまたインフレーションと同じである。細胞間のネットワークが人格と同様な働きになる。

哲学的ゾンビと検証可能性についてである。マンデルブロ集合というものがある。なにやら美しい幾何学的図形だ。ここに宇宙のすべての秘密があるような気がする。物質の構造、有機体のそれ、果ては目には見えない心、意識の世界もまた同じような構造をして、心と物質は互いに回転しているのがすべてだ、というお話を早速してみたいと思う。

  哲学的ゾンビについてである。私はそよ風を感じる。目で色、鼻でにおいも感じる。感情だってある。これがクオリアと呼ばれるものだ。ただ、他人がどんな風に感じているかはわからない。もしも、魂、心のないゾンビで、表情や発言が生きているものそっくりなものがいたらどうだろうか。ゾンビなのか、生きているのかは自分にはわからないのである。

  次の話は検証可能性についてである。亀は歩くのが遅い、という仮説を立てる。検証してみればこれが正しいか間違っているか、真偽がはっきりする。ところが、ガメラは空を飛ぶ、という仮説は、ガメラが実在しないので、検証できない。ということは、真偽不定なので、無意味となる。真偽のあるもの、検証できちゃう、可能なものを有意味という。

  まとめ


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   万物、すべての物体、有機体はマンデルブロ集合体の構造になっている。いわゆる部分が全体と同じ構造なのだ。フラクタル、自己相似系である。さて、目にみえる物質だけでなく、目に見えない世界、クオリア、意識、心もまたマンデルブロ集合である。自己意識とは、自分のなかに自分を作る。存在しているものだけでなく、無の構造も同じなのだ。そんなクオリア、意識と物質が互いに相反するので、コインの表裏のように回転運動し、意識によって肉体が動き、肉体からクオリア、なにかを感じる。

  もうひとつ。クオリアとは感じることだが、同じ感じ、クオリアは二度とない。クオリアの一回性である。楽しいというのも、無数にあるのだ。生まれてから死滅するまで、いろんなことを体験し、クオリア、感じる。つまり、時間軸上に現れるクオリアの列挙。空間軸上では隣人、はてはすべての生命個体の意識、クオリアだ。相対論だと、時間は空間、空間は時間だ。だから、縦軸と横軸が対応しているのである。すべての空間上に存在する生命のクオリアは一生涯で自分が感じるクオリアとまったく持って一致している。だから、ひとそれぞれによって、皆、誕生と死滅のときに、どんな感じになるのかは、残りのクオリアを清算するので、すべてちがうのである。

  
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1-30-デカルト的自我、ゲーデル不完全性定理、そして、不確定性原理について是る。科学もとことん突き詰めると、およそ信じられない世界をみる。箱のなかの猫は寝ていると同時に逆立ちしているのだ。科学の構え方が神様っぽくなればなるほど、世の中は芸術は爆発だよ風に訳わかなくなる。科学と神様と生命についてかんがえみる。

デカルト的自我についてである。デカルトは疑った。もちろん、はなひげのさきっぽにねぎまのような食材がつきささっているひとはあまりしんようできない。そもそも、この世界は存在するのかが疑わしい。おもわず、いぶかしげな笑みで叫ぶ。さらに、自分は存在しているのだろうか。ところが、これだけは疑えなかったのである。もしいなかったら、いままさにうたがうことができない。割れ疑うゆえにわれありだ。同時に
名前もないし、髪が色なんて関係ない純粋な私だ。科学者は数学の計算のとき、月末の支払いについてかんがえながら計算したらさざんが8になったとはいわない。だれでもない、特定の状況のなかにいるのではなく、神の視点にたっているのだ。だから、科学の明証性もオプションでついてくる。さらに神様がいるんだよ、というのも標準オプションで装備されるのである。



つづき 生活世界と対他存在に ついてである。


哲学者フッサールの生活世界についてである。前期フッサールはもっぱら現象学的態度だった。すべてが思い込みで疑いの眼差しでみる。上目遣いである。それは本当にスイカなのだろうか。大きなコルボックスという微生物かもしれない。そもそも、存在していないかもしれない。だんだん、エレベーターならぬエスカレートしてきて、ついには世界があるのも疑わしいのでかっこのなかに入れて判断停止だ。自分の性別、それどころか人間であるかどうかも疑わしいからかっこのなかにぶちこんじゃう。それでも最後に残ったのが名前もない純粋な私、純粋自我だという。

さて、これだと困ることがある。自分の体ってなにか、他人っていうのはなにか。こうやって、考えを大きく変える。現象学的態度以前にふつうの日常があるという。また、すべては原子でできているという科学的な見方。これを自然主義的態度といって、これすらも、ふつうの生活が土台だという。科学者が梅干し食っているとき、その分子構造云々ではなく、ふつうに食い物だとおもっているのだ。この生活の世界の態度を自然的態度という。


次の話はサルトルの対他存在についてである。対自存在とは意識のことだ。いま自分を意識したら、すでに自分ではない。あるところのものではなく、あらぬところのものである。これに対し、スリッパはスリッパでしかない。あるものはあり、ないものはない、といういわゆる物体は即自存在という。そして、私は他人から見られる。即自的に見られ、まるで、人形のようにみなされる。これがマゾであり、対他存在になる。



まとめ

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ブラックホールに



フリンジと自由についてである。自由とはなにか。機械のように構造があるわけでもない。コンデンサーやらスイッチがあるマシンではない。電池で動かない。マシンは機械的で決定論的。機械でなく、構造のないもの。すなわち、ただの点が自由なのだ。


ウィリアムジェームスのフリンジについてである。バレンタインデーに商品のチョコレートをみつめる。もらえなかった場合の保険に買っておくか考案中なのだ。このとき、チョコに意識が集中し、周辺の別の商品であるせんべいはうっすらエキストラのように背景に退き、ぼんやりしている。チョコレートは核であり、周辺はオーラのいうにうすい。この周辺、辺縁がフリンジという。時間についても同じことを言う。いまだけを意識していない。ちょっとまえの過去を引きずっているのだ。そして、未来を予測している。時間意識というのは幅があって、核はいまで過去、未来はフリンジだ。


次の話は自由についてである。自由とはなにか。漠然としている。自由といったらカントだ。目の前の現象は原因と結果の因果律だ。押されてたのが原因で転倒。転倒して犬のふんをつぶす。ところが犬のふん
それ自体は因果律にしたがわない。これが物自体だ。そして、この物自体は認識できないけど、自分が実践していることだという。自由意志で因果律なしに実践。ここに誰かに言われたからやるのではなく、自分から自由意志でやっちゃうという道徳がうまれる。



まとめ

存在の科学


異次元理論


われわれの住む四次元時空。こっき私っていう中心があればいろんな出来事が現れる。もしも、すべてが私になってしまったら、すべての二元性は相殺されてなにも起きない。無数の波があつまって波が消える。五次元でも同じであり、無数の四次元ブレーンになってしまったらすべてが然りで実現するという確率のない世界にみえてしまう。これがいわゆる死後、生まれる前の生間領域なのだ。生きているとは中心性のある偶然、確率世界。そして、ひとは自由というこれらの両方を兼ね備えるのである。


さて、これらのことは低次元、高次元、すべてと連動、同期している。四次元時空の中心性がなくなれば、三次元、現象は厚みがないので二次元だが、ここにあった中心とフリンジもなくなる。一次元の直線は時間観念であり、現在をちゅしんにしたゲシュタルトもなくなる。

問題はここからである。六次元は最高次元であり、これは同時に0次元だといった。0と6の数字もにている。これだけは同期しないのだ。0次元は点であり、あらゆる決定論的な機械構造ももたず、さりとて、偶然性だけでもない。この両者をあわせ持ち続ける自由そのものである。点は無数にあるともいえる。多元的だ。また、体積0だから一点に集約できる一元的なものでもある。物理的と幾何学的のはざまにもある。これこそ、主観と客観の双方をもつ自由そのものの源である。



記述理論と公理論についてである。我々の住んでいる宇宙。なんと穴が空いている。靴下やパンツの穴ならきっと邪悪な虫が食ったのだとわかるのであるが、宇宙の穴はお隣の宇宙へのトンネルだ。ブラックホールはなんと論理学にもあるではないか。これが変数、変項ではないか、というお話である。

ラッセルの記述理論についてである。チョコレートは甘い。この命題は実際に検証すれば一目瞭然、正しい。真という値がくっつく。真か偽のどっちかの値がくっついたものが有意味だ。ところが、黄金の山は硬い、というのは、黄金の山は実在しないのでどんなにがんばっても検証できない。だから、真でも偽でもないので無意味という。

さて、ラッセルはすべてが有意味としたかった。そこで記述理論を考案だ。xはその名前を黄金の山といい、かつ、硬い、とすればよい。xっていう変項のなかにすっぽりはいるようなものがなければ、この命題は偽になるのだ。


次の話は公理論についてである。公理というのは一番最初にある大前提だ。たとえば、全体は部分よりもでかい、という公理。公理から湯水のごとくいろんな定理、法則がでてくる。お隣にある別の公理とはそもそもちがうルールである。


まとめ


存在の科学


前回、我々の住んでいる三次元ブレーンのなかを移動する端部のあるひもが光子とか、電子といった。そして、五次元から来る閉じたひもが重力子だといった。しかも、五次元の座標系をかえると、光子は重力、重力は光子になるともいった。ブラックホールは強烈な引力、重力だが、座標系を90度回転させれば大いなる光、ビームである。

さて、論理学にもブラックホールがある。なんでも吸い込み穴であり、しかも、別の並行時空とつがっている。つまり、こうである。公理系もまた独自の世界、宇宙と見立てれば、xの変項がブラックホールに相当するのだ。そして、なによりもこの変項は別の公理系の変項、変数につながっているのだ。また、時空のなかを移動する閉じたひも、光子、電子は定数に相当する。だから、90度開店させた認識が存在、存在が認識になっている反面世界とは、ある種の公理においては変数を定数に、定数を変数にすればみえてくるのだ。


行為的直感とコンディヤックの感覚論についてである。いま、無性にまんじゅうが食いたくて、うっとりした目付きでまんじゅうをみつめる。心なし、まんじゅうは照れてポッと紅くなっている。まんじゅうを感じるとは、まんじゅうの輪郭、形のなかからだ。私は饅頭の輪郭そのものになって、かんじているのだ。

西田幾太郎の 行為的直感についてである。パンチがパタパタと飛んでくる。もちろん、効果音が間違っているのだが、これを見て、すなわち、直感し、私というかたまりが判断し、腰をかがめて避ける、つまり、行為する。ところが、パンチをみながらよけうる。直感しながら行為しているというのだ。だから、主観と客観っていうはっきりした区別もないし、私っていうかたまりもいないので無主体説になる。

次の話はコンディヤックの感覚論についてである。見たり、聞いたり、くんくんと匂ったりする感覚。ただ、自分にとってそこに饅頭があるんだよ、という感覚はとりわけ皮膚感覚によるものだという。視覚、聴覚、嗅覚以上に皮膚感覚を特別だとしたのだ。


まとめ


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異次元理論


ブラックホールに吸い込まれるとだんだん時間が遅くなり、光速に達したとき時間が止まる。ここが事象地平面だといった。これを越えると、時間は逆行する。この事象地平面は時間そのものを反転した世界との境界面。いわゆる、異なった相の境界なので強烈な界面である。前回、話したが界面そのものがかんじること自体、クオリアである。

私は饅頭を感じる。饅頭の視覚的な境界である輪郭 そのものに私のクオリアがあるのだ。視覚だけでなく、聴覚にも嗅覚ににも輪郭、形がある。饅頭の香りの境界、そこに私の感じ、クオリアがある。私がいて、私のなかで感じるのではなく、あらゆる形の界面に感じがあるのだ。だから、感じるとは感じられているものの界面になることであり、直感即対象の界面、私の界面である皮膚、その他の組織の界面同様に物の界面は私のクオリアになるのである。



射影とイデア論についてである。いわゆるカチカチ山でけつのケバに火がついたとき、お冷やください、と落ち着き払って叫ぶものだ。水は火をコントロールするものだ。すべては火と水の二元性であり、これらはともにオリジナルであり、同時に投影物だというお話である。


哲学者フッサールの射影についてである。美女をいろんな角度から眺める。もちろん、嫌われること必至である。顔をみて、次に背中をみる。顔がみえなくなったのでのっぺらぼうだ、と叫ぶことはない。いろんな側面、つまり、射影を集めて全体のイメージをつくればよいのだ。

次の話はイデア論についてである。プラトンである。椅子があるがブーブークッションがないことを確認のうえで座る。いろんな椅子があるのだが、椅子そのものはどこにあるのか。椅子のイデアであり、イデア界にあるという。そんな椅子のイデアが太陽のような善のイデアに照らせて影になったものがここにあるこの椅子なのだ。


まとめ


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異次元理論


火と水は万物の原動力である。生命だって中医学だと、腎臓の水とその付近の命門の火によって活動するという。

太陽は一説にいると内部は水だという。表面が火なのだ。そんな太陽のまわりをまわる地球、地球の表面は水に覆われ、内部は火なのだ。太陽と地球は表裏が逆になっている。

水は記憶するという。だから、生命は水で満たされる。水は火をコントールもする。方向性、流れ、ハンドルである。ところが、火は方向がなくエネルギーそのものだ。

前回話したが、われわれは互いに外部にいて、生活だ。宇宙の内側にいることは互いの宇宙の外にいることと同じだ。内と外、主観と客観、自分と他人は水と火のような転換によって成り立つ。



超越論的とハルトマンの存在の階層性についてである。餃子の皮は具を包んでいる。たしかに、はみだしものもいる。オムツはお尻を包む。私と対面するものはなんだか包まれている世界にいる。人類もまたなんだか一致団結感のような皮につつまれている。こうやって、いろんな領域にまで意識は及んでいる。

超越論的ぽはなにか。超越的というのはおのれを忘れてなにかに没頭しているいうものだ。テレビに夢中で気がつくと画面にひたいがくっついている。自分から脱け出さんばかりなのでこれを脱自という。ところが、いまおれはテレビに夢中になってるな、と意識しちゃう。超越的について論じちゃっているので超越論的という。世界のなかにあるらっきょに心奪われるのではなく、世界のなかの私とらっきょを意識しているのだ。

次の話はハルトマンの存在の階層性についてである。カントはじろじろ認識するにはあらかじめあたまのなかにあるカテゴリーを使うという。ところが、ハルトマンはものを存在させちゃうための存在のカテゴリーだ。しかも、存在といっても二種類。実際にあるらっきょは実在のカテゴリーによって、1,2,3,ダー、の数などは理念的カテゴリーによるのだといい。さて、そんな実在するものたちは階級制だという。一番低いのが無機物、その上が有機物、さらにうえは心。トップに君臨するのが精神だという。


まとめ


存在の科学



異次元理論


私は対面する二人称の相手をおもんぱかる。相手の身にもなる。つまり、わたしと相手との包まれた超越論的自他である。イルカはなぜだかオス、メスを見分ける。人間にはわからないし、本当的に異性だとわからない。人類ならば男女はわかる。種として包まれた意識領域がある。超越論的種である。すべての存在者を包んでいる領域。これが超越論的存在。そして、そんな自分と自分以外を越えて一体になるとき、超越論的無になる。





 
posted by モノイイ ジョーカー at 20:08| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月15日

仙人新聞 2013・02・15

仙人新聞 2013・02・15



**仙人動画**





**仙人テキスト**




*哲風呂*

自己意識とバークリの観念論についてである。UFOキャッチャーはぬいぐるみをキャッチするものだが、UFOピッチャーはぬいぐるみを無造作にも投げるものかはわからない。ただ、ぬいぐるみをゲットするためにわれを忘れている男の姿はかっこいい。自分を意識するのではなく、なにかに打ち込むものこそ、宇宙から見守られることなのではないのか。

 自己意識についてである。自分について意識することだ。大きく二つあるという。経験的自己意識とは、経験できるたとえば、自分のヘアースタイルを気にするとか、個人的な自分を省みる。統覚的自己意識というものは、名前もなく、だれでもなく、だれでもあるような純粋な私を感じることである。

  現代ではデリダは自己意識を自分が自分に現れるから、自己現前とよび、これは成り立たないとした。おれだ、っと言った瞬間、もはや、今この瞬間の自分ではなく、残像、痕跡なのだ。

  次の話はバークリの実質的観念論についてである。観念論というのは、すべてが観念、イメージだというもの。竹を割ったような性格の江戸っ子にいったら、叱咤激励かもしれない。ふつうに考えたら、りんごがあるからりんごを知覚だ。ところが、私がりんごを知覚し、感じているからりんごがあるという。それなら、誰もいない部屋にあるりんごはどうか。飛んでいるハエが見ているかもしれない。ハエもミジンコもいない部屋ならどうだろうか。最終的には神様が知覚し、感じているのでりんごはあるという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    すべては量子の確率波だといった。そして、何かを感じているとき、とがった波になる。感じていないときは、無数のとがった波にうもれている。さて、私は世界、宇宙のなかのりんごを意識する。いわゆる、対象意識である。このとき、そのりんごはとがった波形である。こんどは、私は私自身を意識する。自己意識といわれるもので、私をとがった波にさせて、存在せしめる。ところが、この波形は真のとがった波形ではなく、虚の自己存在波形だ。もしも、私がなにか外界のものに没頭し、集中し、われを忘れているとしよう。このとき、真の自己意識なるものがうまれる。世界、宇宙が私を意識するのだ。これは神が私を意識し、見守っているという時なのである。そして、このとき、真の自己存在波形になる。だから、自分にばかりかまっている、服装、体裁しかり、自意識をもつものは神様の恩寵が薄いのかもしれない。なにかにのめりこみ、しかも、それが己のためでなく、他のためであればあるほど、神様は見守っているのである。


無とベルクソンの時空についてである。味噌汁をこぼしてしまった。もっと注意をはらっていればこぼさずにすんだ。ひょっとしたらの世界はどこにあるのか。いたるところにあって重なっているのである。そして、すべてのケース、場合が重なったときに何もなくなる、つまり、無ということだ。


   無とはなにか。無い、といいながらポケットをまさぐる。金玉がない、と叫んでいるひとはみたことがない。無とはなんだろうか。古代ギリシャではもっぱら存在とはなにか、と研究してきたものだ。例外的に無も扱っている。快楽主義者で有名なエピクロスは、原子論者でもある。原子をアトマとよび、これが虚空、ケノンのなかを移動しているという。

  現代ではハイデガーである。無といえば、自分の存在そのものではないもの。生まれる前と死後だ。そんな無を感じるとき不安になるが、おのれの存在を丸ごとつかみとる、真剣そのもののときには覚悟があるという。無をこんなにドラマチックではなく、ふつうに人間は分泌しまくっているんだよ、とサルトルは考える。私は大根をみつめる。私は大根では無い、とつぶやくのだ。だから、意識している私と大根のあいだに無を分泌する。

  次の話はベルクソンの時空についてである。空間は量的なものだから、ものさしで測れる。時間もまた、時計で測れるではないか、とふつうに考える。時計の過去、現在、未来の時間は空間的、針の空間移動。本当の時間は質的であり、測定できないという。過去、現在、未来が直線に行儀よく並ばずに、混ざり合っているもの。そんなものがどこにあるのか、見渡す。灯台元暗し。自分の意識がほんとうの時間であり、これを純粋持続と名づけた。そして、さらに、言語っていうのは空間的だという。空間の特徴は不可侵入性だ。尻相撲のときに、尻は互いに進入して溶け込み、一体にならない。言語もまた、単語同士が一体にならない。おじいちゃんとおばあちゃんであって、突然、おじばあちゃんにならないのだ。質的な意識からでてきた思いを空間的な言語によって表すのである。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   私は右手をあげることも、左手もあげられる。右手をあげたら、左手をあげた私の並行世界はここにはない。文字通り無いのである。無数のパターンの並行宇宙はどこにあるのか。そこかしこにあるのだ。無数の選択されなかった並行宇宙、パターンが重なり合ったものが無というものだ。ただし、そんな無は無のうつわ、三次元空間と四次元時間軸の中身の状態だ。五次元宇宙からすれば、あらゆる可能な宇宙がある。論理空間とか、幾何学空間はわれわれの住む宇宙である。ところが、われわれが理解し得ない論理、もしくは、1タス1が3になるような並行宇宙、これをレベル4宇宙というのだが、それがあるのだ。さきほどいった、無とは四次元時空のなかの無。時空そのものはある。ところが、このレベル4宇宙の無数の法則や論理の違う宇宙が重なるとき、今度は無ではなく、空になるのだ。


超越論的とハルトマンの存在の階層性についてである。餃子の皮が具を包み込む。うまくやらないと、はみだしてしまう。おむつでお知りも包む。同じく、私と対面するもの、包まれた世界。人類というのも、なんだか理屈を超えた団結感のようなものがある。こうやって、さまざまな領域にまで意識は及んでいるのだ。



スマホ挿入


  間主観性と独我論についてである。私はAさんではない。Aさんがあたまからひまわりが生えていて、お尻からラッパがとびでていつもにこやかな笑顔でラッパをならしているからではない。ほんとうの意味で他人になれない。私が私であり、AさんがAさんであるのは、神様のまなざしによるものであり、人の子はこんどはその交わりを強調した。

  間主観性についてである。主観と主観、私と他人はどうして互いの気持ちに慣なれるのだろうか。主観と主観の間についての問題、だから、間主観性問題という。カントはみんな根っこがいっしょだという。大木をみると、枝葉がいっぱいついていて、なかにはテナガザルがぶらさがっている。葉っぱが一人一人の個人の意識、その根っこがひとつだから、これが人類共通の僕、つまり、かれのいう根源的統覚だ。ここまでもどれば、皆が互いの気持ちになれる。現代ではフッサールである。われわれはいろんな地平線に囲まれている。超えられない一線。みえそうでみえない限界、考えても考えていないものの限界。これらの地平線に他人のまなざしはあらかじめセッティングされている。だから、ひとりでいても、たくさんの目撃者による客観性のように、そこに大根が客観的にあるという感じがうまれるのだ。メルロポンティはうまれたとき、すべては同じ肉でつながっていたという。そして、自意識に目覚めて私とあなたという溝をつくる。幼児のころを経由すれば、私はあなたとつながるのだ。
   

  次の話は独我論についてである。天上天下唯我独尊である。世の中には自分しかいないというもの。ヴィトゲンシュタインは、私がみているみかん、やまちゃんは決して見れない。やまちゃんの見ているみかんも見れない。やまちゃんは私の名前をいうが、それは私ではない。だから、私はやまちゃんになにも伝えられない。さらに言語ゲームにおいて、言葉は生活の流れで自然発生という。単語の意味も、文法も流れからうまれる。私、あなた、という人称も流れによるもの。私という単語にあてはまる私っていうかたまりがいるかはわからない。無主体説、すなわち、私はいない説だ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論



   量子といえば、電子や光子だ。かりに電子を放つ電子銃を例にあげる。電子銃から電子が放たれる。その先には板があり、二つのスリットがある。電子は波動なので、この二つのスリットを超えてその向こうで互いに干渉する。そして、その先にある感光版に縞模様をつくるのだ。ところが、この二重スリット付近に観測装置を置く。すると、感光版には二つの線しか作らない。二重スリット実験である。観測すると、波であった電子が粒になってしまい、スリットを抜けた電子は二つの粒であり、互いに干渉しないのだ。干渉することをコーヒレンス。干渉しないことをデコヒーレンスという。一度、デコヒーレンスしたら、二度と干渉しない。エヴェレットの多世界論でも、すずめが飛び立ち、それを見ている私の世界、すずめが電線にとどまり、それを見ている私がいる世界にわかれると、デコヒーレンスによって、もう二つの世界は干渉しあわず、情報交換もしない。


  さて、私とあなた、たくさんの生命個体は互いに相手になりきれない。個としてこの世に生を受けるとき、神様が観測したのだ。そして、互いにデコヒーレンスしているのである。これは旧約聖書のバベル塔にたとえられる。建設にたずさわるものたちの言語をばらばらにして、デコヒーレンスさせるのである。ところが、イエスが登場し、互いの愛をといた。つまり、コヒーレンスのことである。生命個体はデコヒーレンスしているにもかかわらず、互いに干渉し、コミュニケーションするではないか。つまり、コヒーレンスしようとするところに、生命活動があるのだ。これは物理の法則を破っている。一なる宇宙のなかに複数の多世界があり、しかも、それがコヒーレンスしようと活動しているのである。



レヴィナスの絶対他性とフィンクの世界化についてである。神様と万物、さらには生命。私とやまちゃん。もっと小さな世界にみけんにしわよせながらのぞいてみると量子と観察者。これらは縦と横の関係のようだが、上下、左右のない球体ならばこれらはなくなる。そんな球体を存在させているのが本当の神様かもしれないというお話だ。

  レヴィナスの絶対他性についてである。フッサールならば、イチゴが落ちていたら、そのイチゴの全体を意識の志向性によって把握だ。イチゴの全体というのは端っこから端っこまでつかむ、もしくは、手のひらに載せる。ところがレヴィナスはこれを帝国艦隊総司令官みたいな言い方をする。帝国主義的な自我だという。少なくとも、心ある他人はそれができない。相手をもちあげることはできるが、心の全体はつかめない。だから、端っこがないのだから、他人は無限だといい、これこそ、自分と入れ替えできない、絶対的なあっち、他の性質だという。

  次の話はフィンクの世界化についてである。フッサールの弟子であるフィンクはこう考えた。たとえば、普通に買い物しているとき、靴下が売っているとする。靴下に魅了されて、買うか、買わないか迷う。これは靴下に意識が直進的にいっているので、ふつうの意識、自然的態度だ。ところが、現象学では、すべてを判断停止するのだから、そんな靴下を見ている自分は確実だけど、その靴下は疑わしいとする。世界、宇宙の中の私のできあがり。宇宙や世界がまず作られた。これを第一次世界化と名づける。つぎに、そんなことをしているもうひとつの傍観者の視点にたっている自分を発見。ここに見かけの世界化、第二次世界化があるという。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   前回、お話したが、二重スリット実験のスリット付近に観測装置をおくと、電子は波動であることをやめて、粒になる。すると、デコヒーレンスしてしまって、もう二度と、コヒーレンス、干渉しなくなるといった。

  さて、今度は観測装置と電子なのだが、これまた、観察者が見ているのだから、ともに粒子化し、デコヒーレンスしてしまっている。観測者と観測対象もまた、デコヒーレンスだ。主観と客観、私と他人、私と世界も同じ。もっといってしまえば、神様がわれわれが波動である状態から観測し、デコヒーレンスされた固体にしたといったが、神様と万物、神様と私というように、わけてしまっているから、これはほかならぬ、自分自身がデコヒーレンスして、粒子化してしまっているのである。


  だから、いいたいのだが、神様と万物、生命という縦目。私と他人、私と世界という横目。縦と横、上下、左右は地球に重力があって、上下の差の意味を強く持つがゆえに、絶対化するしているのだ。上下が左右になり、左右が上下になる。縦目も横目もなくなると、もはや、球体になる。これがホーキング博士の宇宙の球体。球面上の任意点がビッグバンであり、ビッグクランチだ。そういうことで、真の神様はこの宇宙の球体そのものを存在せしめているものではないか、と結論したい。だから、もはや、意識や知性を超えた、信仰でしか接近できないものなのである。



地平と遠近法主義についてである。散歩にしているときに、気がつく。散歩中の犬のお尻をみながら、自分はすべてを見通せず、常に見えないものに囲まれていると。当たり前なのだが、いわゆる、いろんな地平に囲まれているのだ。そこから、なんと、われわれの魂とはなにかがうっすらわかってくるような気がするのだ。


  地平とは何か。見えそうで見えないその限界。その昔は、望遠鏡でも見えないはるかかなたの宇宙、その限界が天文学的地平といわれた。中世では、神様を感じられるその限界線が、神学的地平。そして、哲学者カントは三つの地平線を提唱。いくら論理的に頭ひねって考えても、考えられない限界。論理的地平である。感情や感覚の限界、これが美学的地平。どんなに善いことを実践しても、それ以上あるのだが、これが実践的地平である。
  
 現代ではフッサールである。自分の外にくたびれた座布団がある。その座布団はいつどこで購入したのか、そのなかにはどれくらいの綿がつまっているのか。座布団の内部地平だ。座布団の周辺にはかすかにいろんなものがみえる。いわゆる、視野の限界のようなものがあるが、これが外部地平になる。座布団に魅了されるだけでなく、こんどは自分の内面を見つめちゃう。すると、なんだか、時間の流れをかすかに感じる。これが内的時間意識の地平。これらの地平を載せている大いなる地平、これを世界地平と名づける。


   次の話は遠近法主義についてである。自分の視点からものを見る。近いものは大きく、遠いものは小さくみえる。角度によってはじゃがいも、ちょっとずれるとさつまいもにもみえちゃう。こんな断片的情報をあつめて、それが長いもだとイメージする。フッサールの射影理論だ。そして、究極的な遠近法がニーチェである。見え方だけでなく、善悪の価値だって、神様だって、だれも、同じ価値を共有できないという。あくまで自分から感じたもの。隣人の頭になれないし、目も借りれない。だから、絶対的価値はない。よって、存在という価値もないので、無だという。ニヒリズムである。だからこそ、自分からオリジナルの価値を創造する超人の生き方をお勧めしているのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

    歩いていると、いままで見えなかったものが見え、見えていたものが見えなくなる。それでも、常に、見える見えない、感じていると感じていないものの中間には地平線がある。いろんな地平に囲まれているのが私だ。

  さて、地平があるというのは、もうお分かりだと思うが、われわれは円ないしは球体表面を歩み、営んでいるのである。われわれは円なのである。われわれ自身、つまりは魂という言葉をつかうが、魂も閉じた円であり、それゆえ他人の魂とは永遠に代替不可能なのである。魂は見えない円。もっとも見えないものはもっとも小さなものである。そう、この宇宙はもっとも小さなものでできている。無限に分割できてしまうと、利賛成がないので、物質が生まれない。この最小の構成要素がひも理論におけるひもだ。このひもは通常四次元時空にへばりついているので端部がある。円ではない。ところが、五次元空間を飛び交うひもは閉じた円のひも、いわゆるグラビトン、重力子なのである。この丸いひもがわれわれの住む四次元時空、ないし、三次元空間に侵入するときに、重力を生む。重力があるところには物質がある。つまり、物質を作るのがグラビトンではないか。ということは、グラビトンのひとつがおのおのの生命個体の魂であり、それらが集まったものが物質であり、肉なのだ。肉はロゴス、魂によってできていたのである。


  この丸いひもであるグラビトンはおそらく五次元空間を円、楕円軌道でまわり、さまざまな四次元時空、三次元ブレーンを通過する。まさしく、輪廻転生なのである。魂は物質であり、かつ、輪廻するということである。



信仰哲学、そして、オープンユニバースとクローズユニバースについてである。どっちつかずでは生命になりえない。座るか、立つのか、優柔不断に迷った挙句、結局、中腰だ。中腰のついでにばっちこーい、と叫んで、内野手にでもなってみる。物体はそんな中間であり、生命は信じることによって、直線的になるか、丸っこくなるのだ。
  
  ヤコービの信仰哲学についてである。信じるものは救われるという。信仰といったら、一般的に宗教である。ところが、ヤコービは日常の中に信じる、信仰があるという。買い物の最中、スイカをみつめる。そこにスイカが存在しているんだと、信じているのだ。しかも、カントにおいては、丸いとか、緑っていう感覚や、食いたいという感情、これらを悟性が仲介にはいって判断し、そして、感覚できないスイカの中身も含めて理性によって捕らえようとする。ところが、理性には限界があるという。スイカそれ自体、物自体はわからないという。およそ、理性は神様、自由、魂にチャレンジするが、これまた、わからない、能力の限界でギブアップする。

  さて、ヤコービは感覚、感情と理性をなんと悟性ではなく、信仰で直結するのだ。だから、理屈抜きでスイカやきゅうりの存在を知る。

  次の話はオープンユニバースとクローズユニバースについてである。オープンユニバースは開かれた世界ということ。たとえば、ジェームスやその弟子のシュッツの哲学だ。多元的現実論といって、現実って言うのはひとつじゃなくて、いろんな現実が重なっているという。夢、空想、科学的なものの見方、そのすべてが現実だという。ところが、唯一、日常現実だけが、至高の現実といい、他人とコミュニケーションやスキンシップはかれるので、この日常現実の上に他の現実は載せられるのである。

  さて、クローズウニバースとは閉じた宇宙である。ヘーゲルやブラッドリーの絶対的観念論。ブラッドリーにいたっては、宇宙っていうのは神様の観念。だから、閉じている宇宙観である。

  まとめ


 
 存在の科学

 
  異次元理論


   前回、お話したが、われわれは見える、見えないなどのたくさんの地平に囲まれる。つまり、地平があるということは、円または、球体の上を歩む。そして、自分の魂もまた閉じた円であり、もっとも見えにくい閉じた円とは、ひも理論におけるグラビトン、重力子だといった。

   さて、およそ、生命の固体の魂、これは楕円か、直線である。もちろん、そのひもの軌道も楕円ならば閉じた輪廻である。ひとが生まれる前、もしくは死後、円を信じれば、仏教的な輪廻と魂になる。信仰、信じることは実体なき波動であり、実体のある粒子、存在に先立つ。だから、円の世界に入る。直線を求めるものは、永遠の時間、つまりはキリストであるか、有限の直線である、人生一回限りという儒教的な世界だ。いずれにしても、信じることによる選択の時がくるのだ。これが物質である。一度、ただの物質になる。物質、物体は重力のある惑星で投げ上げると、かならず、放物線を描くではないか。放物線は端部が閉じない双曲線でもあり、同時に、閉じた楕円でもある、その中間状態なのである。



ゲシュタルト理論とアニミズムについてである。ひとつひとつの細胞が生きている。それどころか、すべての素粒子、ひもまで魂なのである。なんだか、わけわからなくなって発狂までカウントダウンという感じなのだが、じつに、二つのタイプの魂によって、すべてのものは生存しているのだ。

  ゲシュタルト理論についてである。ブント要素主義というものがある。いたって当たり前の発想だ。全体っていうのは、部分、パーツの集まり、トイウモノ。ガンプラを作るとき、手足、お尻のパーツをつなげ合わせる。ところが、ゲシュタルト理論はちがう。部分を集めた以上のパワーを全体はもつという。グラーツ学派は、単音があつまってメロディになるが、それはプラスアルファされたというのだ。ヴェルトハイマーはどっからか飛んできてプラスされるのではなく、そもそも、全体は部分の集合以上のものがあるという。

  なにかが背景のなかにかたまりとしてあるのではない。背景、全体との関係で輪郭が浮き出る。ちなみに、怒っているおじさんのこめかみは血管浮き出てる。このゲシュタルトはケーキのような名前なのだが、じつに、あらゆる分野に適用される。物理的なものやら、生理学的なものだ。磁性というのもゲシュタルトだという。これを物理的ゲシュタルトという。また、ユクスキュルのように、生命っていうのは環境の中で周囲といろいろとやりあって生存する。環境の全体とのゲシュタルトな関係ともいえる。

  次の話はアニミズムについてである。山も川も石ころも、すべてには心、魂が宿るという古代の思想だ。もちろん、椅子や机も例外ではないので、腰掛けると、失礼します、と一礼したりしてしまう。

 
  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

重力子、グラビトンは魂であり、同時に肉でもあるといった。五次元からこのわれわれの三次元空間にやってくるものだ。開いたひもはこの三次元空間を移動するひも。光子や電子であり、直進性をもつ。人間の意識活動、たとえば、思考力、記憶、これらは脳のプラズマという説もあるが、だからこそ、光子によるのだ。ただ、ここでよく考えてみたい。光子は永遠のかなたまで直進する端部のあるひも。これがキリスト教。そして、人格になる。かなくなに自分であり続ける人格、ペルソナだ。儒教的な有限の線。これが量子場である。粒子と反粒子の発生と消滅の刹那。そして、これこそクオリアになる。そして、閉じた円、五次元で周回軌道をもつ重力子がこのわれわれの三次元では物質、肉になる。これは仏教的な魂だ。いずれにしても、私という魂はひとつのひもだが、他のかっていたもの、いまだ生まれぬものたちの魂によって、クオリア、人格、肉を形成している。だから、ゲシュタルトなのだ。全体のすべての魂との関係で今、自分がいるのだ。とりわけ、五次元からの重力子までも視野に入れたゲシュタルトなので、高次元ゲシュタルトと名づけたい。



無意味と非合理主義についてである。ゴミだしのルールを守ろう、という壁紙。ルールのない野球はベースを枕にして選手が寝ていたり、なんの意味も生まれない。であたらめ、無意味、カオスになってしまうのだが、そもそも、無意味の意味とはなにか、について考えたい。

  無意味とはなにか。論理学的に考えてみる。まんじゅうは甘いという命題。たしかに、検証した結果、甘かったので、真という値がくっつく。もしも、辛いのがあったら、偽という値だ。真偽どっちかの値をもつのが有意味という。ところが、へのへのもへじは甘いという。すると、へのへのもへじが甘いかどうかは実在しないので、検証できない。よって、真偽不定になってしまうので、無意味という。

 ラッセルはすべてを真偽どっちかの値をもつ、有意味にするために記述理論を考案。xはへのへのもへじという名前、かつ、甘い、といわばよい。そんな当てはまるxがみつからなければ、偽なので、有意味になるのだ。

  次の話は非合理主義についてである。神学の中世の時代から近世にはいる。すると、人間っていうものを合理的に考えようとした。啓蒙思想である。この反動がとりわけ、現代におこる。それが非合理主義。生の哲学であるディルタイ。自然科学の法則ですら、生きているときの法則が変化したものだという。生きることの抵抗感が相互作用になるのだ。また、実存主義サルトルの哲学も同じ。なんだか合理的に説明できない自分が存在、これが実存だ。そして、はじめて法則だの、本質を知ったり、探ったりできる。



  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   制限、バイアス、領域がないと意味がうまれない。たまごを落として割ってしまう。手が滑ったのが原因で、割れたのは結果。ところが、そもそも、そのひとがいるのだから、先祖が原因だし、たまごが売っていたスーパーも原因。つまり、無数の原因によって一なる結果がある。また、一なる原因が無限の結果を生む。さらに、確率が高い、低いというものがある。ところが、すべての事柄、0.001パーセントの確率のものでも、多世界、並行世界では実現しているという。こうなると、今個々で、いきなり私がテレポーテーションする少ない確率も別並行世界では必ず、実現している。よって、確率の高い低いが意味を失う。

五次元空間から三次元ブレーンに進入する閉じたひも、重力子は魂であり、肉だといった。また、三次元ブレーン上をへばりつくように移動する開いたひも、光子や電子、これらは電気パルスになってクオリアや思考、人格になるともいった。ところが、五次元空間のなかでは座標軸は任意に取れる。だから、重力子は直交座標では光子、光子は重力になる。光は闇、闇は光。ロゴスは肉である。ブラックホールは強力な引力、重力、つまりは、重力子なのだが、座標を90度任意に変えてしまうと、強い光子の流れだ。もしかしたら、直交座標系のブレーンにおけるなにものかのクオリアなのかもしれない。

  いずれにしても、陰は陽である、というこの五次元レベルではわれわれのいう通俗的な意味を見出せない。つまり、無意味であり、この無意味こそが究極の有意味なのかもしれない。

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2013年02月06日

仙人新聞 2013・02・06

仙人新聞 2013・02・06





***仙人動画***

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***仙人テキスト***





**哲風呂**

ハイデガーの気遣いとメルロポンティの哲学についてである。さつまいもをみつめる。そこにさつまいもがあるんだな、という存在感を感じちゃう。私は断固、さつまいもではない。それでも、あたかもさつまいもになったように世界のなかのさつまいもを実感。さつまいもの認識と生死について考える。
 

  ハイデガーの気遣いについてである。世界のなかに私。世界っていう箱の中の人形ではない。これを世界内部存在者という。そうではなく、いろんなものとかかわりながら存在している。コーヒーの中に入れたクリームのように世界に溶け込んでいるのだ。めがねは遠くを見るため、はさみを紙を切るため、というような道具の連鎖のなかに漬かっている。しかも、いろんなものを気遣い、とりわけ、他人にはもてなしたり、配慮したりもする。世界のなかであれやこれやとかかわっているのが非本来的な実存という。これに対して、自分が生まれる前、死後を覚悟し、自分自身をつかむ、これが真剣そのものである本来的実存という。

  次の話はメルロポンティの哲学についてである。すべては肉であり、一つながりになっているという。私と他人、主観客観、これらは分断されているのではなく、ケツの割れ目のように、溝、くぼみでしかない。あかちゃんは私、あなた、の人称を感じるまえはこんなすべてひとつの次元にいた。私はさつまいもをみる。私とさつまいもは肉でつながっているので、さつまいもが私に反転。すると、サツマイモちゃんになった私は自分を感じる。見ているものは見られているものと反転。こんどは見えているサツマイモの部分と見えない中身、これまた反転し、サツマイモの意味を知る。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   生まれる前は私は無。死後も私は無。つまりは非我である。生死という一生を超えたスケールだが、これが今この瞬間瞬間の認識や意識と同じだ。時間的な非我ではなく、空間的な非我とは、目の前のサツマイモだ。サルトルがいうように、サツマイモを意識するとは、私はサツマイモではない、という無の分泌だ。さつまいもとは私ではない。非我であるからして、それは生まれる前と死後同様に、生間領域だ。

  いろんなものを気遣い、他人には配慮する。他人の気持ちになって接する。さつまいもも、メルロポンティのごとく、さつまいも自身になって感じ取る。だから、非我の認識とは、死せるものを生かすことだ。聖書における復活なのである。そして、とりわけ、バナナの認識だけでなく、他人への意識は相手になりきって感じるのだから愛である。認識も、復活も愛なのである。



フィヒテ哲学、そして、相対論、無境界仮説についてである。私はいろんな活動をする。腰をおろしてゴミ拾い、時にはしゃがみながらジャンプして得体の知れない生命体にもなってみる。とにかく、すべての活動は生死と認識、実践における相対論的な時空のゆがみであるというお話をしたい。

  フィヒテ哲学についてである。フィヒテは積極的な哲学だ。積極的といったら、アメフトの選手。もっとお手柔らかにタックルしてもらいたい。フィヒテは三つのテーゼを掲げる。第一のテーゼは、自我は自我を設定するというもの。自分自身が自分をつくっちゃう。第二は自我はなんと、自我以外の全部、非我を設定だ。そして、第三目に、そんな自我と非我がちょめちょめする。

  事行という思想がある。バナナがそこに事実あるということは、バナナをやっている、行為していること。つまりは、事実と行為は一緒というものだ。

  次の話は相対論と無境界仮説についてである。光の速度は不変だとアインシュタインはいう。だから、どんなに速く走っても、どんなひとにとっても光の速度が同じということは、時間と空間で帳尻あわせするしかない。たてを時間軸、横を空間軸だとしたら、これが斜めになったり、時間だったのが空間になったりする。
 
  ホーキング博士の無境界仮説んついてである。宇宙っていうのはビッグバンではじまってビッグクランチで終わるのだろうか。誕生前と消滅後はなにがあるのか。すべてが始まりで同時に終わりだというのだ。宇宙は地球のような球体であり、球体表面のあらゆる任意の点をはじまりでもおわりにでもできる。ここからスタートという境界がないという。


  まとめ

  存在の科学

  異次元理論

   
   時間軸をたてに取り、空間軸を横にする。時間軸上の私ではないもの、私の無とは、死後と生まれる前、すなわち、生間領域であり、時間軸上の非我である。空間軸上の非我とは、目の前のバナナである。つまり、観察対象とは私ではない、私の無、非我である。

  さて、たての時間軸と横の空間軸は相対論的にいれかわったり、ゆがんだりする。だから、人間の活動によって、いわゆる死や生まれる前と観察対象は相対的であり、同じものだ。自我を球体とすれば、まさしくこれは無境界仮説の宇宙球体のようなものだが、自我球の表面上の任意点は誕生であり、死滅であり、観察対象でもある。そして、非我という空間中に自我球は浮いているのである。



キアスムと実践理性についてである。私はひとの気持ちになって行動する。お尻ぷりぷりしながら回転し、楽しませる。ひとの身になるだけでなく、ケーキの身になってそれを感じる。自我は他我だけでなく、非我全般、つまりは万物になりきる。

  メルロポンティのキアスムについてである。私は知人が訪問したとき、立ち話だと足が棒になって人間としての生活ができなくなるといけないから、部屋にはいって好きな席に腰掛けなさい、という。つまり、相手の気持ちになるだ。なぜそれができるかといえば、あかちゃんのころ、まだ、私とか、あなた、彼らという人称以前、すべては同じ肉としてつながっていたというのだ。だから、人称とは、私とあなたをへだてるものがなく、ただそこには溝があるのだ。よって、入れ替わり、私とあなたは表と裏のように回転する。これがキアスムだ。みかんを感じ、意識するときさえ、見ている私と見られているみかんがいれかわる。さらに、見えているみかんと見えないみかんの内側もいれかわって、意味を汲み取っちゃうのだ。

   次の話はカントの実践理性についてである。理論理性は何かを認識すること。あれは鳥か、飛行機か、近所のおばさんだ。感覚を集め、判断する悟性。ただ、それがケーキであると判断するが、現象である。ケーキの現象は落とせばつぶれる。落としたのが原因で、つぶれたのが結果。原因と結果の因果律に素直に従う。ところが、ケーキそれ自体、物自体は因果律なんて通用しない。だから、はるかかなたの物自体があるとおもったが、じつは、理論理性を超えて、実践したとき、自分の実践が物自体だとわかった。しかも、金になるから人助け、後ろから押されて、ひとだすけ、というのは因果律にしたがっている。私は原因もなく、自由意志で道徳的な実践だ。何か言われたり、法律、ルールにしたがってやることは、他律という。そうではなく、自分の立法にしたがって行う。物自体は自由意志であり、自由意志のあるところ、道徳的実践がある。
 
 
  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    前回、お話したが、自我球は非我空間に浮かぶ。同様に、他人もまた、他我球として浮いている。魚が水槽を泳ぎ、水に流れを作る。これと同じように、自我球は活動し、流れを産み、これが実時間になる。自我球のなかのの時間は無境界仮説の虚時間かもしれない。自我球は他我球と反転し、他人の気持ちになる。動物と植物の球も反転、動物の昼の活動は植物の睡眠の夢になり、植物の覚醒における情報は動物の夢となる。さらに、非我全般、万物球と反転する。それは石ころでもいいが、すべての身になるのである。万物は神だとすれば、自我球は神になる。だから、聖書にいうひとがいないところで善をおこないなさい、そうすれば父なる神がみているということ、つまり、見返りを求めずに、おのが立法に従い、おのれが見えいて、知っている、どんなことをおもってそれをしたかも、自分がよく知っているので、別段、そこには見返りもなにもない。純粋な善行である。


世界内存在、そして、統覚と微小知覚についてである。雑音がすごい。都会の雑踏のなか、ごりらが木から落ちたんだ、という言葉が聞こえた。耳を傾ければ、それなりに雑音のなかから意味ある言葉を拾える。雑音、バックグランド、これらは無意味のようで意味の集合体だったのである。

  哲学者ハイデガーの世界内存在についてである。生物学者ユクスキュルの環境内存在にヒントを得た。人間は宇宙っていう物理的な空間に住んでいて、自分たちだけでなく、アリだって、はちだって、物理宇宙のなかにいるとおもっている。ところが、人間は五感をもつ。これが人間の知覚標識。また、走ったり、あぐらかいたりする。これが人間のできる行動であり、作用標識。この知覚標識と作用標識をあわせると、人間の環境世界の出来があり。ところが、蜂はちがう。目は複眼だし、鼻の穴もない。その代わり、触覚がある。知覚標識が人間とはちがうのだ。また、手足の本数がちがうあから行動様式もちがう。さらには、羽があるから空を飛べちゃう。蜂にとっての知覚標識と作用標識の合体が蜂の環境世界である。
  
  さて、ハイデガーは人間を世界内存在しているという。つぼのなかの石ころは、つぼを世界全体としたとき、それは世界内部存在者といわれる。ところが、人間はそんなにこりかたまって世界のなかにいない。そうではなく、世界、宇宙はなんとかのために、という道具の連鎖、その連鎖のなかにいるのだ。だから、世界のなかにコーヒーに溶け込むクリームのように浸透しながら存在している。世界に開かれた存在、これが世界内存在。しかも、世界があって、つぎに私が存在するのでも、私がいるから世界が存在したのでもなく、セットであり、世界内存在として同時なのだ。


  次の話は微小知覚と統覚についてである。統覚というのは私はおもう、というもので、なんだか、いろんな知覚や感覚を取りまとめる梱包用のひもだ。そして、不必要な情報は省いたりするので、分別を生む。デカルトはかならず、統覚があるから知覚があるという。われおもうゆえにわれありだ。ところが、ライプニッツは統覚なしで知覚するだけという生命がいるという。植物などである。どうでもよいような微小なことまで感じているというのだ。


 
   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   すべては量子という波動である。本当は三次元であり、時間もあるので複雑なのだが、単純化するために、縦軸に確率、横軸に空間と時間を置く。すると、波形になるが、そこに何かを発見し、意識したとき、とがった波形になる。ところが、この世界は広く、細かいので、見えないものが無数にある。文字通り、見えないものはとがった波ではなく、ゆるやかな波だ。バックグランド、背景、見えないもの、そして、雑踏のなかの雑音、もっといえばホワイトノイズやラジオのノイズ。これらは無意味である。無意味であっても、耳を澄ますと、そのなかからひとの会話を聴ける。つまり、雑音、緩やかな平面に近い波形からとがった波形を取り出したのだ。箱の中の猫は生きていると同時に死んでいる。空けたとたん、生きている猫の確率が100パーセント近くまでなって、とがった波形になる。そして、ここでいいたのだが、雑音、ノイズ、バックグランド、見えないものは、穏やかな波形であるが、無数のとがった波形のあつまったものなのだ。とがった波形の頂上をむすぶとなんと緩やかな波形になってしまう。つまり、無意味なノイズは有意味なものたちのあつまりだったのである。われわれは世界内存在しているが、世界、宇宙の見えないところにまで意識を浸透させているのだ。そして、その無意味なノイズから有意味なことばを汲み取る。もっといってしまえば、無意味なノイズはそれがどんなものであれ、無数の有意味のことばの集まりでできているのである。



マクタガードの時間非実在論と同一性についてである。小学校のときに、おもらししたのは、Aさんだったか、Bさんだったか。同窓会のときに議論になるが、記憶が一致しない。未来は未知でいろんな可能性があるが、過去もまた無数に存在しているのではないか、というお話をしたい。

  マクタガードの時間非実在論についてである。マクタガードは時間、空間、物質なんてなくて、あるのは意識だという。しかも、そんな意識は不死だという。さて、有名なのがかの時間非実在論である。ふつうに、時間といったら、過去があって、ときに過去の栄光にしがみついてつくつぼーしと鳴いたりする。現在があり、そして、未来がある。論理学的に突き詰めると、過去はあかちゃん、いまは青年、そして、未来は老人、同一のものがなんであかちゃんで老人なのか。論理的に矛盾するので、こんな時間は実在しない。過去、現在、未来の時間のことをA系列という。すると、以前と以後というB系列はいいのだろうか。野球のときの先攻、後攻をきめるが、グーパーだ。ところが、以前と以後にも何気に時間が潜んでいる。そこで、このB系列から時間を抜き取ると、ただの順番でC系列というものが残るという。

  次の話は同一性についてである。同一性といっても、同じ粘土でくるまをつくり、それを壊して船をつくったとしよう。すると、この二つは同じだろうか。形はちがうけど、同じ粘土、素材なので、素材だけという条件付きならば、イコールで結ばれる。ギーチのういう条件付き同一性だ。

  人格の同一性というものもある。昨日の私は今日の私じゃないと、昨日やったことの責任がいらなくなる。何を持って同じといえるのか。同じからだだからなのか。それとも、昨日の記憶だろうか。また、からだでも、記憶でもない、目にはみえない魂がいっしょなのだろうか。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論

未来は未知であり、いろんな可能性があるので、並行世界のようだ。現在、この瞬間はなにかを感じている、つまり、クオリアなのだが、これだけは未知ではなく、知である。そして、周囲のものたちは未知である。はるかかなたの世界、宇宙は見えない。ものかげも見えない。

  さて、過去はいかようか。互いに記憶違いということはしばしばある。じつに、これは異なった過去を持っているのだ。過去もまた未知であり、可能性であり、並行世界なのである。共観福音書は弟子たちが見たイエスを記録している。同じ出来事でも、微妙にイエスの言動がちがうのである。つまり、あれは並行世界の現れなのだ。

  過去が無数にあるということは、先日してしまった失敗の責任を免れられる。なぜなら、私は別の並行した過去から来たといえばよいからである。だから、人格の同一性が保てない。よって、ひとびとは、生きとし生けるものは同じ私であろうと、理由づけをし、根拠を探し、正当化するのだ。これら一連のことが生の営みである。生とはひとり部屋にいても営まれる。一般的にいって、なにもしていなくても、おのれの同一性を構築しようとしている。

  ところがである。産業革命以降、記録メディアがうまれた。自分の過去を、世界の過去をビデオや音で記録できる。過去が一本の線のように確定される。ここで注意が必要だ。この過去、現在の系列は偽りである。無境界仮説、自我球のところで話したが、虚数時間であり、実時間ではない。作られた時間である。そして、この偽りの過去の記憶があるから、ひとびとは己であろうとする同一性への努力、生の営みを放棄する。そして、差異化と多様化が押し進み、ついには自我の同一性も崩壊してしまうのである。


絶対精神と量化子についてである。自分をみつめるときがある。足の裏のタコをしみじみとみつめて、人生振り返るものもいる。今この瞬間の私をみる。これが自己意識であるが、自己意識はじつは宇宙の意識であることを考えていきたい。

  哲学者ヘーゲルの絶対精神についてである。Aさんはおぎゃっと生まれ、心身ともに成長する。あそこがジャングルのようになり、背丈も伸びる。そして、なによりも、物心がついて、自意識に目覚めるのである。一転して、目を宇宙、世界に向ける。宇宙にも歴史があり、生命の進化の歴史、人類の歴史がある。いろんなことがおこったのであるが、これはまったくの偶然、惰性だったのだろうか。そうではなく、なんと、世界の歴史には目的、目標がある成長だというのだ。その目標とは、世界、宇宙が自分の存在に気がつくこと、ここに絶対精神の誕生があるのだ。

  次の話は量化子についてである。主語があり、述語がある。すべての犬はわんわんと鳴く。この主語にくっついている、すべて、というのが量化子であり、これが全称量化子である。ある犬はわんわんと鳴く。これが特称量化。さらに、この犬はわんわんと鳴く。この、というのが単称量化子だ。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   りんごを意識している。これが対象意識である。前回、お話したが、このとき私は穏やかな波動であり、対象であるりんごはその確率波はほぼ100パーセントに近く、とがった波形だ。ところが、自分を意識するときはどうだろうか。自分の波形はとがるのだが、世界、宇宙の波形は穏やかである。つまり、宇宙、世界が私を意識しているのが自己意識なのである。そして、私は世界、宇宙の一部をとがらせる。ところが、ここが重要なのだが、世界、宇宙は私のすべての存在を尖らせるのである。つまり、対象意識は特称的であり、世界による私への意識は全称、または単称的なのである。

  私の体は世界、宇宙の中に住む。同じ論法で、世界、宇宙は私のなかに住むとき、私のなかに心が芽生えるのである。


心身問題と唯名論についてである。世界や宇宙のなかにからだがある。からだのなかにハート、心がある。水槽の中に金魚がいるのはふつうだ。ところが、魚のなかに水槽があるというのは、逆立ちしながらぐるぐるとブレイクダンサーのようにまわったとしても納得できなかったりする。金魚のなかの水槽、これが心なのかもしれないというお話だ。

  心身問題についてである。まずはデカルトの心身二元論である。心の世界と身体の世界。身体とはここでは物質なのだが、この二つの世界はまったくもって違う世界であり、交流はないというのだ。心身並行論というものもある。心の形がかわれば、なぜだか並行してからだの形もかわるのだ。

  そして、心身一元論。ラッセルの中性的一元論はフレーゲの意味と意義に着目して考えられた。明けの明星と宵の明星は意義がちがうけど、おなじ金星である。つまりは意味が同じ。同様に、心とからだも意味は同じで意義がちがうという。さらに、ベルクソンのイマージュ論もある。観念とか、イメージがある。これは物質の実在ではない。ところが、観念でも実在でもないなにか、これをイマージュと名づけて、このイマージュがときと場合によってイメージっぽくなったり、実在っぽくなるというイマージュ一元論だ。

  次の話は唯名論についてである。すべてはただの名前だという。とりわけ、中世ではオッカムだ。人間っていう言葉、名前はあるけど、これに対応する人間そのものはいない。すべては固体、唯一無比のこれとしかいいようのない固体しかないという。

  現代ではクリプキのいう固有名だ。ソクラテスは床屋さんだったかもしれない。警察官だったかもしれないし、そもそも、女性だったかもしれない。いろんな可能世界でかたくなに貫くソクラテス。これは固有名なのだ。固定されて動かないのでこれを固定指示子という。

  
  まとめ

  存在の科学



   異次元理論

   ロゴスというのは秩序とか、論理、法則、言葉のこという。肉とは物質や肉体だ。さて、私の肉体は宇宙のなかに住んでいる。物理宇宙の法則にしたがって、躓いたりする。ロゴスのなかに住んでいる肉が肉体である。この世界はすべてが動的平衡であり、作用反作用で成り立つ。ということは反対のベクトルもあるはずだ。これが、肉のなかに住んでいるロゴスである。これこそ、人間を含めた心をもつ生命である。そして、文字言語や音声言語を肉と見立てると、その言語の意味がロゴスである。つまり、肉にロゴスが宿すとことばになり、意味がうまれる。すべてのものたちはことばだったのである。すべてのものはことばであり、意味をもつ。唯名論ではことばにならない固体をいっていたが、そもそも、すべての固体がことばだった。



posted by モノイイ ジョーカー at 12:19| 東京 🌁| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月30日

仙人新聞 2013・01・30

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**哲風呂**

ベルクソンの時間の空間化と100匹目のサルについてである。古代人はなぜあのような巨大な遺跡を建設したのか。そもそも、ピラミッドはなんのためにつくられたのか、と考えると若白髪の二三本が自然発生思想である。古代人たちは現代人と徹底的にちがう能力、世界観をもっていて、しかも、遺跡は時間を越えたわれわれへのメッセージではないのか、というお話をしたい。

  ベルクソンの時間の空間化についてである。本当の時間は体重計のように測定できないという。時計は針の空間移動しかない。本当の時間とは連続でも、非連続でもなく、なんと持続だという。過去、現在、未来とはっきりわかれていない。混ざり合っていて、しかも、量ではなく質だという。そんなものがどこにあるのかあたりを見渡す。どこにもないのだが、なんとそれは自分の意識だというのだ。

  空間的なものは測量できる。心、意識は本当の時間、純粋持続であり、測定不可能な質。心、気持ちをことばで表現する。すると、これは時間の空間化だという。ことばはなんと、空間的な性質が満載なのだ。空間には不可侵入性という特徴がある。いすにすわるが、お尻がいすのと一体化しない。互いに互いを進入させないのだ。ことばは単語の集まりだ。昔、じいさんとばあさんがいて、じじばさんになった、という昔話はない。単語も不可進入だ。

  昆虫はそんな純粋持続、本能でいきている。だから、天敵の急所を医学書読まなくてもわかる。天敵、相手のなかに入り込んで内側から知る。ところが、時間を空間化した人間は理性で考えるのである。

   次の話は100匹目のサル、形態形成場についてである。電場とか、磁場というのがあって、ここでは空間時間をへだって、同じ場にあるもの同士は影響を及ぼしあう。同じように人間にも人類という場があるのかもしれない。ある島に、ある種のサルがいた。サルは海水でイモ洗いをはじめたのだが、なんと一定の数に達したとたん、世界中の同じ種のサルたちが同じ行動をとったという。るまり、その種のサルの場を通して連携していると考えられるのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論


   古代人はなぜあのような巨大な遺跡を作り、その技術をもっていたのか。現代の技術でも巨石を積み上げるのは難しい。しかも、遺跡、ピラミッドなどは一体なんなのだろうか。ピラミッドはフィボナッチ数列、円周率、黄金比、なんと形を計算すると光速度まで算出できるという。古代人たちは現代人にメッセージを送っているのだ。いわば、空間建築ではなく時間建築である。かれらはベルクソンのいうような空間化された時間、理性で考えたり、言語をそれほどつかっていない。そうではなく、純粋持続、時間そのものの意識状態だった。だから、時間移動、時間を越えたメッセージがなされたのである。ピラミッドをはじめとする主要な遺跡、モヘンジョダロ、アンコールワット、イースター島、ナスカの地上絵、以下略だが、これらが赤道から30度傾いた地球の円周上に点在する。時間も場所も離れていてもなぜ、この円周上につくられたかというと、一種の形態形成場によるものだ。時空を超えたメッセージがなされていた。地球の地軸の傾きをこの30度はあらわし、着たるべく地軸逆転、ポールシフトを後世に伝えているのだ。地軸逆転が起こると、氷河期が訪れ、人類は滅亡だ。時間を越えてタイムマシンの役割をもつ遺跡。現代人に伝承しているのである。これに対して、現代人は空間化された時間、とりわけ、離れたところに言葉で伝達する。時間を越えた伝達を使わないのである。

   ピラミッドの配置、スフィンクスの向いている方角など、これらは天の川銀河を一周するわれわれの太陽系の位置、その天の川銀河の中心のブラックホールの位置を示しているという。以前、お話したが、銀河中心のブラックホールはホログラムの記録兼映写機であった。マトリクス世界を作る装置であるブラックホールと遺跡もまた、つながっているのである。

有機体論とホワイトヘッドのコスモロジーについてである。細胞分裂や新陳代謝をして生命活動している。かたに降り積もるフケはまさしく新陳代謝の証だ。この宇宙や生命個体の一生もまた、細胞のように分裂を繰り返し、高次元生命の肉体を作っているのかもしれない、とふとトイレの壁をまなざしているときに考え付いたのである。

  有機体論についてである。古代ギリシャではデモクリトスの原子論。機械論的な考えである。機械論とは歯車がまわって隣の歯車をまわす。つまり、部分が部分に影響与えるだけ。有機体論とは、部分が全体と直接やり取りするという考え。古代ギリシャではライプニッツだ。モナドっていう点で宇宙は構成、しかも、これが宇宙全体と結びつく。

   生命っていうのは有機体であり、ほくろがからだ全体と結びつく。カント哲学では、目の前の現象は機械論的だという。ボールがピンに当たったのが原因で、ぴんは一斉に倒れた。貧血で倒れたのではない。原因と結果の機械論的な因果律が使われる。ところが、宇宙全体、自然全体、さらには美そのもの、これらの壮大なものは、ボーリングの玉云々するような規定的判断ではなく、もっと控えめに、腰低くして下から突っつくように、反省的判断力で攻めるのだという。つまり、有機的な全体は規定したり、こうだと決め付けられない。

  現代では有機体論といったらホワイトヘッドである。

  ホワイトヘッドのコスモロジーについてである。宇宙は事物じゃなくて出来事の集まりだという。ありが小砂利につまづく。こんなささいな出来事の集まりであり、しかも、二度と同じことは起きない。この出来事を現実存在、アクチュアルエンティティー、略してAEという。アリがつまづいたのは宇宙全体による影響であり、このつまづきが今度は宇宙全体に影響及ぼすというのだ。宇宙は有機体、生命だというのがホワイトヘッドのコスモロジーである。

  まとめ

  存在の科学

  異次元理論


   卵子に精子が受精して、細胞分裂をし、多細胞になって生まれてくる。生まれてからも細胞分裂によって成長、細胞が死滅し、新しく生まれるという新陳代謝だ。これは生物の進化の木のようだ。分岐していろいろと進化するのだが、ある種の生命は種を途絶え、新しい生命が誕生する。同じようにこの細胞分裂は広大な宇宙にもあるのではないか。私が右手をあげると、右手をあげた世界に分岐、上げなかった世界と分かれる。こうやって世界は細胞分裂のように分裂する。生命の固体、個人でもいろんな一生に分岐する。この三次元宇宙も、人生、生命の一生も、細胞のようで分裂する。しかも、三次元、四次元時空をたくさん収容する五次元バルグのなかでこの分裂、代謝が行われているとすると、五次元に肉体をもつ、六次元の意識、高度な生命か、はたまた、神様なのかはわからないが、その一部の細胞がわれわれ一人ひとりであり、個別的に分化する宇宙なのではなかろうか。


前述定とアンガージェについてである。スプーン曲げをしようとして、うっかりスプーンに曲げられてしまう。へそを曲げられてへそ曲がりになってしまわなように細心の注意で超能力だ。念動力、予知能力、そして、透視能力。これらの能力は日常で使っているものであり、しかも、ひとつの能力の別の現れではないのか。

  哲学者フッサールの前述定についてである。述定とは、主語があって、述語を定めること。なにかが転がってくる。サッカーボールである。あれはボールである、という述定だ。丸いものという述定もあるし、白黒物体でもよい。つまり、述定する前はたくさんの述語がひしめき合っている。その中から、自発的に選択しているのだ。つまり、前述定とは、ぱっと見で、もうすでに出来上がっているもの。自発的に選んだり、考えたりして得られたものではないので、受動的総合。これに対して、述定は自発的総合だ。そして、フッサールはなんと受動的総合というのは、すごく弱い、最低限の自発的総合だという。

  次の話はサルトルのアンガージェについてである。人間っていうのはとことん自由だという。どのケータイを買おうかと選択の自由。男女、どっちになろうか、人間になるか獣になるか、人間は設計図や本質が最初にあって次に自由意志ではない。最初から、自由そのもののかたまり、これが実存である。すると、まわりに自由意志によって影響及ぼす、世界を拘束するという。これが世界をアンガージェするということ。同時に世界から自分はアンガージェされるというのだ。


   まとめ

  存在の科学

  
  異次元理論

超能力とはなにか。透視能力、予知能力、念動力、これらは同じひとつの能力の現れなのだ。日常世界では向こうからやってくる情報、カラスの鳴き声が聞こえた、雨がふってきたという、自分の意志が関与していないはずの受動的な情報、じつはこれらは超無意識下で自発的におのれが設定しているのだ。透視能力でカードの数字をあてる。そういう世界を並行し、その世界に分岐したのである。多世界解釈では刻一刻、世界は分岐している。これを無意識下において世界を選択しているのである。だから、予知能力も、そうなるであろう世界を選択し、そこに身をおく。念動力も、物理法則に従わない、そんな世界に分岐し、そこに身をおいているのだ。受動的なものが自発的だった。受動的総合、行為的直観、さらには、職人技であるブリコラージュ。ブリコラージュは職人の製作プロセスそのものが作品というもの。

  以前お話したが、ブラックホールは宇宙の事象記録装置という受動的ものであると同時に、宇宙を創造するホログラム映写機だといった。つまり、ブラックホールのように世界創造者になる野田が、これは意識そのものがブラックホール、裸の特異点であるから無意識下でやっていたのだが、これを意識的にできるようになれば、超能力者と呼ばれるのである。
 


セルフリファレンスと不完全性定理についてである。古代文明がなぜにあれまで数学や物理学が発達していたのか。まるで現代文明をも上回るようだ。ここであくまで仮説なのだが、しかも、あたまがいってしまったかのような目玉飛び出す仮説であり、目玉のおやじだったらただ首が前のめりになるだけなのだが、古代文明はじつは未来の文明、つまりは、時間っていうのは循環しているのではないかというお話をしたい。  


セルフリファレンスについてである。自己関係性や自己言及のことをいう。かっこよくカタカナを使っただけである。基本的には、自分が自分について云々すると、自己矛盾してしまってアウト。すべての人が言っていることは疑わしい、と叫ぶ。そういっている当人の主張もまた疑わしくなって自己矛盾だ。これは日本語で書かれています、という。日本語を使って日本語云々するのは矛盾。ただし、場合によっては矛盾しないものもある。生命の自己組織化。生命は自分自身のからだを修復したり、自然治癒する。自己意識っていうのは、自己関係。自分自身をだますという自己欺瞞。自分について云々しても矛盾しないものたちだ。

  次の話はゲーデルの不完全性原理についてである。完全性とは、あらゆる分野にあてはまっちゃう万能なこと。無矛盾性とは、矛盾がまったくない完璧な理屈だ。公理というのは大前提となるもの。ここから定理、定義がうまれる。これらの公理を集めて公理系。公理系が無矛盾、矛盾するところまったくなしならば、この公理系はすべてに当てはまらない、つまり完全性ではないというのが、第一不完全性定理。そして、自分の公理系が正しいんだよ、自分自身で証明できないというのが、第二不完全性定理である。

  まとめ

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古代文明はなぜあれほどに数学や物理学が発達していたのか。じつは古代文明は未来の文明ではないのか。つまり、時間が直線ではなく、円環になっているのである。未来が過去につながっている。いつしか、われわれはアインシュタインローゼンブリッジにおける時空の穴、タイムトンネルを完成させる。そのとき、その時空の穴の大きさは分子サイズだと大きすぎて、過去と現在がループし、ハウリングをおこすという。いわゆる子殺しのパラドクスである。自分が過去へいく、そして、年を経て現代になり、また過去へ行くというループだ。こうなると、永遠と円環する。この場合、宇宙はハウリングを起こして消滅するという。ところが、アインシュタインローゼンブリッジのいう消滅を起こさずに、タイムトンネルを形成したとしたら、この宇宙の時間はもうすでに円環、循環しているのだ。


このようにニーチェの永劫回帰のように、時間がループ。当然、未来文明がそのまま古代文明ということだが、じつは、ゲーデルの第二不完全性定理にあるように、これはその内部にいる私をも含めたすべてのものたちは証明できないのだ。この世界が時間的に閉じているかどうかは自己矛盾に陥るのである。

  もうひとつ、時間がループというのは、ヘーゲルのいう宇宙の自覚、宇宙、世界が自分が世界なんだ、と自意識に目覚めるという絶対精神そのものではないかともおもえるのである。
  

 非歴史主義と共時態についてである。偶然、同じようなことがおきた。友人と同時に屁をこいた。シンクロである。なんの関連もないのに、最近、よく機械製品が壊れる。地球と宇宙の構造、それとエプロンの柄にもなんだか共通点がありそうだ。これらは歴史的、因果的なものではなく、別の次元からの影響によるシンクロニティである。

 非歴史主義についてである。歴史主義とは歴史によっておもいっきり時代は影響をうける、という考え。非歴史主義はどっちかというと構造主義のなかで顔を出す。構造主義は歴史云々以前に、時代も場所も越えて、世界の神話には共通の構造があるという。また、文明人は偉いんだ、という文明主義を批判、なんと、神話と数学が同じ構造だともいう。

  次の話はソシュールの共時態についてである。通時態というのは言語が時間の流れでどう変化するかを研究。ところが、しゃべっていたり、言語をつかっているとき、単語とか文法が真っ最中に変化したらたいへんだ。少なくとも、時間のながれがない、同時、共時、というのが条件なのだ。野球の試合中に刻一刻とルールがかわったら試合成立しないのである。


 まとめ

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   異次元理論


   最近、偶然が多すぎるということがある。たまたま、同じ時刻に同じことをやっていたり、同じ色に靴下を路上でふんでしまったなど。原因と結果の因果律では説明できないものだ。最近、機械類がよく壊れるというmのもある。

 規模を大きくすると、地球の陸地と海の割合。宇宙の見えない物質、ダークマター、見えないエネルギー、ダークエネルギー、そして、全体のわずか4パーセントの見える物質。これらの組み合わせによる比率になっていたりする。意識が4パーセントで、残りの無意識レベルが96パーセントだったりもする。原子の構造が太陽系、銀河系ににている。これは同じホログラムのあらわれだからだ。そして、ホログラムはブラックホールの映写と記録、つまり、高次元の関与である。歴史的な影響、進化論的なもの、因果的なもの、つまりは時間的な影響ではない。いま、同時代にそのような似ている構造、同時的に類似構造だ。被子植物は花の蜜を吸いにきた蜂が花粉を運んで繁栄。ミツバチもまた、蜜を吸っているから生きる。どっちが咲きなのだろうか。被子植物が最初にいれば、花粉を運んでくれるミツバチがいないから繁栄できない、ミツバチが先でも同様だ。つまり、シンクロ、共時的に存在しているのである。

   高次元は四次元時間を超えたもの。だから、もはやそこにある歴史は時間的なものではない。矛盾するような表現だが、高次元における超時間的歴史による影響がシンクロニティである。
 

実質的観念論、至高の現実、そして、哲学的ゾンビについてである。幼いころ、まだ、鼻水をすすっていたころ、ふと妄想にふけった。この世界は張りぼてでできていて、自分以外のあらゆる人間、生命はもしかして、マネキンのようなもので、究極のドッキリカメラにひっかっかっているのではないかと。そして、おとなになって、けつが青から赤になったいま、マトリクスな宇宙を考えたとき、あながち、これもありうるな、と検討することに決めたのである。

  バークリの実質的観念論についてである。kんねん論といえば、すべてが観念、イメージだという思想。それでもいくつか種類がある。まず、色、におい、音、これらの感覚は外からやってきたからイメージじゃない、という観念論。これに対して、徹底的にすべてが観念っていうのがバークリの実質的観念論だ。

  バークリは八百屋にいって、みかんを手にしたらこういうかもしれない。みかんがあるから知覚しているのではなく、私が知覚したからみかんが存在しはじめたと。それならば、夜遅く、店にはだれもいない、こういうときはみかんはないのだろうか。そうではなく、ハエがいれば、ハエがたかってかんじている。ハエ一匹もいないときはどうか。神様が見ているのでみかんはあるというであろう。

  次の話はシュッツの至高の現実についてである。現実はひとつだけとだれもがおもう。そうではなく、現実はたくさんあるんだ、という多元的現実論を提唱。夢も、芸術、空想、科学もみんな現実。そのときの意識の緊張感、いかにぼーっとしているか判断停止の度合い、さらには、過去、未来、の幅。未来への願望が強いとか、過去へのこだわり、これらの意識のあり方で現実はかわるという。ただし、いろんな現実の土台には至高の現実、日常現実があるという。ここでだけ、コミュニケーションやひととのふれあいがとれるからだ。

  最後に哲学的ゾンビについてである。私はそよ風を感じる。これをクオリアという。はたして、そこにいるひとはクオリア、つまり、なにかを感じ取っているのだろうか。もしかしたら、見た目はふつうにふるまっているのだが、魂、心もないゾンビかもしれない。しかも、ゾンビか、人間かは証明できないのだ。生理学、解剖学的に人間だとしても、果たして、なにかを感じているかはわからないという。

  まとめ

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  自分はそよ風を感じ、インドカレーの辛さを感じている。周囲のあらゆるものは張りぼてであり、しかも、ひとや生命も皆、アンドロイドかもしれない、そんな妄想を小さなころに抱いた。さて、これをシュミレーション宇宙論から考えてみたい。

  シュミレーターがプログラムを実行し、それがこの世界だとしよう。この世界にいる私は少なくとも、いろんあものを感じているからクオリアプログラムのようなものが実行されている。ところが、周囲の人間はどうかはわからない。ここで、以前話たが、この宇宙のダークマター、ダークエネルギー、見える物質の割合は、23パーセント、73パーセント、4パーセント。この割合の組み合わせが、地球における海と陸地の比率、人体の水分、意識と無意識の比率と同じだといった。すべてが一なるもののホログラムだから、形は違い、それは誤差であって、基本的な割合、構造は同じだといった。すると、クオリアをもつ人間の割合もまた、4パーセントなのではないだろうか。シミュレーターはプログラム実行の際、能率化、最小の力で最大の力を出したいと考え、ついに、4パーセントだけをクオリアプログラム実行だ。見ていない箱のなかは量子の波動というのと同じように、見ていないものはプログラム実行をしないのと同様だ。そして、私が実際にあったもの、ふれあった日常のものたちがその4パーセントでクオリアをもつ。もしかしたら、一生、コンタクトしないであろう、そこにかすかにうつったサラリーマン風の男は哲学的ゾンビなのかもしれないのだ。
 
規約主義とファーヤーベントのパラダイムについてである。中途半端はたしかによくない。和洋折衷な便器は中途半端な中腰だ。科学でも、いろんな分野があるのだが、これらの中間を研究。うやむやグレーゾーンをやっている目がまわるというより、不思議なシンクロやデジャブーがうまれたりする。これは世界プログラムのバグだったのである。

  規約主義とはなにか。ポアンカレは科学の法則は日本語とか、英語と同様、文法っていうルールに従った言葉だという。つまり、経験的真理なんていうのはないという。野球のルールやバスケットのルールのようなもの。ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、それぞれ、サッカートフットサルのようなちがいだ。
 
 ところが、これに対して、クワインは批判。論理だけ、ルールだけで突き詰めるとどうしても、堂々巡り、無限な空回りになってしまうので、経験的なものがどうしても必要だという。

   次の話はファイヤーベントのパラダイムについてである。これまたサッカーと野球のように、量子論、相対論、ニュートン力学、などはみんな土俵がちがうという。だから、土俵の外の観客にはたしかに憲法っていうルールはあるが、スポーツのルールにしたがってみているわけではないので、これらの知識の枠組み、パラダイムのあいだはカオスではないか、とカルナップは批判する。よって、パラダイム論は非合理主義だというのだ。

  まとめ

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  境界領域、学際領域、これrはフリンジサイエンスといわれることがある。数学と宗教、生物と物理、異なったカテゴリーのあいだを攻める。もし、この世界がシュミレーターによるプログラムの実行であるなら、能率化によって必要なときに必要なプログラムを使う。精神分析、心理学、これを脳を研究するときの脳生理学と結ばない。大きな世界のときはニュートン力学、小さくみると場の量子論という法則プログラムが起動だ。だから、この中間領域のプログラムがないので、フリンジサイエンスのようなことをすると、プログラム生成までにルールエラーがうまれる。これが同じことを繰り返しているような感覚、デジャブーであったり、または、偶然の一致、シンクロニティではないだろうか。覚醒と睡眠も別のプログラム。だから、その中間であるまどろみのときにこれらのことがおこる。



自己意識とゲーレン著、人間、についてである。仮想世界のキャラクターとしての人間。まるでSFである。この巨大マシーンのなかの人間は自意識っていうものをもつ。おれひるんだ、と気がついている。じつにこれはプログラム上のバグであり、マシーンの中に無限宇宙を作ろうとしたゆえに生じた計算の誤差ではないかというお話である。

  自己意識についてである。自分を意識することであるカントはこれを統覚と名づける。感覚とか、そんな情報を取りまとめている本体だ。どんなに急いで走っても、私っていう統覚はある。性格とか、個性たっぷりの統覚が経験的統覚。この根本には人類共通の根源的統覚があるという。

   現代ではデリダの自己現前。自分が自分の前にいる。ところが意識された自分は今この瞬間のほんとの自分ではなく、痕跡、足跡だという。

  次の話はゲーレン著、人間、についてである。人間ってなんだろうか。そもそも、人間は他の生命に比べると、非常に弱いという。鋭い感覚、頑丈なよろいのような皮膚ももたない。だから、つねに行動し、知恵で克服し、ついには服、家をつくって、文明を築いたのだという。

  
 まとめ

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   人間は自分自身を意識できる、つまり、自己意識をもつ。この世界がシュミレーターによるプログラムの実行による仮想世界だとする。すると、このPC、マシンは有限の箱だ。この中に無限世界を作りたいのだ。有限の中に仮想の無限を作るとしたら近似法しかない。小数点は無限に続かず、どこかで切り捨てる。この世界の量子が非連続的な整数値をとるのも、近似法の現れ。また、無限に小さいものはなく、プランクスケール以上小さいものがないというが、これまた近似法の切捨てではないか。最初はこのプログラムの実行において支障はない。ところが、長期に稼動すると、近似法だと誤差が大きくなり、ついにはバグが発生。ループエラーがうまれるのではないのか。このループが自己意識をもつ人間の出現だ。エラー、バグというのはネガティブだが、じつは退化は進化、不完全が文明をうむ。だから、エラー、バグもまた進化、レベルアップともいえるのだ。

  

    パトナム、私と世界の共同制作、そして、選言的偶然性についてである。偶然、ばったり街角で旧友と遭遇。私と友人、そして、世界の波長がぴったりあったから合ったのだ。突然、なにかが向こうからやってくるのではなく、私と世界の周波数があったとき、それが目に、鼻に、耳に飛び込んでくる。

  パトナム、私と世界の共同制作についてである。もともと、パトナムは外在的実在論者だった。自分の内側にはあたたかいかどうかわからないけど心があり、外側には物理的な世界がある。外在的なものは実在している、というもの。ところが、後に内在的実在論を提唱。自分の外の世界も、内側っていっている心も、すべてが内側ではないのか。しかもそれが実在しているというのだ。そして、心と世界が共同制作で、私の心と世界を作っているというのだ。

 九鬼周蔵の選言的偶然性についてである。定言的偶然というのは論理的にそこにあることの偶然。なんで道端、こんなところに足袋がおちているのか。仮言的偶然は原因と結果の結びつきで、待ち合わせ場所、時間を指定したのが原因で出会った、という結果。そうではなく、そんな因果的な結びつきなく、たまたまの出会い。だから、因果的偶然という。そして、選言的偶然とは、ひょっとしたらあのとき、おならをしてなければ、元カノといっしょになっていたのに、というひょっとしての運命のことである。


  まとめ

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  この地球、世界は波動である。波動っていうのは、いろんな状態が重なったものだ。海の波も、どれが原因でその波が発生したのかは解釈でしかない。ひとつの状態に固定することが粒子だ。よって、座っている山ちゃんもいれば、歩いているやまちゃんもいる。パラレル世界が重なっているのだ。あたかもそれはお絵かきソフトのレイヤのようなもの。そして、ケータイの電波やラジオの電波が飛び交い、特定周波数にあわせてその波を増幅すると、音が聞こえるのと同様、あらゆる事象、出来事は自分自身がその世界の波長と周波数を合わせていることなのだ。

  そもそも、地球上が波動、状態が重なっているのは、地球の自転かつ公転、という複雑な回転運動がうんでいるのである。これがパラレルアースをうむ。異なった回転がかさなり、軌跡はねじ、ばねのようになっている。ばねの始点と終点がつながりそうになったとき、そこでずれてもっと大きなばねになる。このばね構造が波動の構造である。太陽系もまた銀河を中心に、銀河もまた何かを中心に回転、こうやってパラレル太陽系、パラレルギャラクシーが生み出されているのだ。


 論理主義とピタゴラス学派についてである。ラーメンをふーふーしながら食べているとき、めがねが曇って、なかなかチャーシューを捕獲できないことがある。すべてを明瞭、明晰にすること、これは数学だ。すべての数学的方程式がこの物質の世界で成り立つのではなく、ある一部のエリート方程式が採用される。ほんとうはすべての数学方程式は物質化されているのではないか。数学イコール存在、実在、そんなお話をしてみたい。
  
  論理主義についてである。論理主義とは敵対するのが直感主義。ブラウワーは自然数直感をおすすめしている。直感的に理解できるのは自然数。りんごが一個、二個、三個だ。無理数や無限数は直感できない。だから、数学っていうのは自然数からはじめようよ、という思想だ。これに対して、論理主義は積極的に理屈、論理を押ししすめ、別に直感できなくても理屈通ればよい、という思想。

  自ら論理主義とはいっていないが、フレーゲやラッセルの哲学だ。xっというからっぽの変項というものを使う。ラッセルの確定記述というのは、xはタイヤが四つついて、かつ、移動するための乗り物、そんなxがみつかれば、この命題は真、なかったら偽になる。カッシラーは課科学っていうのは、実体から関数へと移行したという。なんいかのかたまり、実体を論じるのではなく、そもそも、xをつかって関係、関数が最初にあり、あとからxに実体が入る。

  次の話はピタゴラス学派についてである。万物は数でできているという。そして、すべては調和だともいう。だから、数学と音楽の研究をしていた。ただ、数っていうのは、形式的な枠組みっていう説と、数そのものが物体のもとだ、という説が混在していたという。


  まとめ

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   異次元理論

   
   この世界はすべてが論理、数でできているのだろうか。物理学の法則では、一部の数学方程式が採用され、一部の方程式に命を吹き込み、あとの方程式は寝ている。われわれの物理的宇宙の外に、別の宇宙があって、そこでは採用されなかった数学方程式が実在化しているのかもしれない。数学的方程式があって、これを実在や存在化するのではなく、そもそも、数学イコール存在なのかもしれない。すると、すべてが論理、数であるという多宇宙論が生まれる。ここでは、シミレーション宇宙論における宇宙製作者であるシミレーターはいない。



物心一元論とアニミズムについてである。風でコンビ二袋が舞っている。まるで生き物、意志があるようだ。枝が風でゆれて、こっちにむけて手を振っているようにみえる。あたまがおあかしくなったのではない。すべては意識的に活動しているのではないか。風のいたずらであるが、われわれ人間も含めた生命は風に吹かれて動いている。

   物心一元論についてである。心と物体はもともと同じものという思想。ラッセルの中性的一元論というものがある。これはちょっと論理的だ。かって、フレーゲは意味と意義はちがうんだよ、と主張。明けの明星と宵の明星は同じ金星、つまりは意味はいっしょだけど、ニュアンス、意義はちがう。同じように、心とからだも、意味はいっしょだけど意義がちがうという。ベルクソンはイメージでも、実在でもないイマージュが最初にあるという。そして、踊っているか、走っているか、仕事で手いっぱいか、その活動の流れで、イメージっぽくなったり、実在っぽくなる。時代は前後するが、シェリングは絶対者は自分自身の中で自己展開しちゃって、私の心と宇宙になるという。
  次の話はアニミズムについてである。なんと、岩石は生きているという。すべてのものはどんなものであれ、魂を宿すという古代の思想だ。

  まとめ

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   コンビニ袋が風にあおられて、舞っている。まるで生き物のようだ。そのとおり、生きているのではないか。以前、話たが、心はからだのなかではなく、自分の体以外の外界のすべてが自分の心。だから、心は外界のものを認識、知覚できるのだ。コンビニ袋は風によって動く、風は地球の自転公転、さらには宇宙のあらゆる影響によるもの。風は空気の波、縦の波、気圧の粗密だ。だから、それによって突き動かされる生命活動のよなものだ。通常いうところの人間を含む生命の活動。大気の風ではなく、重力の風によって動く。これまた以前話たが、三次元空間の外から、五次元から来た重力子が三次元空間にあたり、ゆがんだのが重力であり、物質。さらに、高次元からの影響だから、同時に意識でもあるといった。意識イコール物質という図式。この重力子の波によって生命は動くのであって、基本的に風で動く袋と生命の活動は同じ構造、プロセスなのである。



デカルト的自我と世界性についてである。やっぱりどうしてもこの世界はボード版ゲーム、シュミレーションにみえてしょうがない。ひざ小僧があたまにみえてしまうのとはちがう。シミュレーション世界である数ある証拠をあげ、しかも、人が自己意識に目覚めたように、世界もまた自己意識に目覚めるというお話はUFOという隠し味をだしながらお話したい。

  デカルト的自我についてである。われを忘れてテレビに夢中のときがある。テレビ画面にあたまつっこんでいるような状況だ。ふとにわれにかえる、つまり、自分を意識する。デカルトは、そんな自己意識がまず最初にあるというのだ。まずは、とことんすべてを疑った。ほんとうにおじいさんなのか、もしかしたらお姉さんではないのか。この世界は存在しないのではないか。そして、ついに懐疑も、己の存在に及んだ。私は存在しないのではないかと。ところが、いまそうやって疑っている以上、少なくとも私は存在している。われ疑うゆえにわれあり。疑うとは思うことだから、われ思うゆえにわれあり、である。これがデカルト的自我である。
  
  次の話は世界性についてである。世界とはなにか。中世のアウグスティヌスはロゴスという論理の世界と、肉という物質の世界が合わさってこの第三の世界だという。いわゆる世間とは三つ目の世界だという。現代ではフッサール。デカルト哲学にならって疑い、ついには、この世界、宇宙は存在しないかもと疑ったが、かなり世界があるという信憑性は強いという。これが世界信憑性だ。ハイデガーは世界とは退屈の感情のときに現れるという。というも、らっきょを箸ではさむのに没頭するとき、らっきょに意識集中。ところが、なにもしない退屈のときは漠然と世界、宇宙を感じるのだ。これに対して、ハイデガーは自分を感じるときは不安だという。自分の存在をつあもうとするとき、自分ではないもの、つまり、自分がいあない死、うまれるまえの歴史に手をかけるからだ。

 
  まとめ

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   この世界はやはりシミュレーションではないのか。シミュレーターは数学の一部を物理法則にする。だから、数学のすべてではなく、一部の方程式だけが物理学に当てはまる。それ以外は別の端末のなかの宇宙、つまり、五次元空間がシュミレーターの世界なら、三次元空間ひとつひとつは別の数学方程式が物理化されている。

  また、この世界は離散的である。つまり、物体の最小の大きさ、プランク長さがある。これがないと無限分割されてしまい、物体は存在できない。時間もまた、最小単位があるだろう。そうしないと、時間は流れなくなる。これらが離散的ということ。そして、離散的な理由はシュミレーション宇宙であることの有力な証拠になる。というのは、有限のマシンのなかに仮想無限宇宙を作るには近似法をつかう。これが離散性をうむ。

  人類は動物が自意識に目覚めたもの。人間の成長でも、物心、つまり、あるときに自意識に目覚める。同じように次の段階は世界、このシュミレーション宇宙が副次的、二次的宇宙であり、本体のリアル宇宙の中にあることに気づかされ、世界は自覚するのだ。おそらく、なぞの円盤UFOはそれを知らせるための、シミュレーターからの使いかもしれない。


生活世界と自己相似形についてである。そこにりんごがある、以上。あまりにもつまらない。異次元のはざまに指はさんだとかではなく、ふつうに三次元の世界にすべてがある、というふつうすぎて、しかも、全次元を包み込む、生活空間についてのお話である。

  哲学者フッサールの生活世界についてである。前期フッサールは現象学的態度だった。すべてを疑って、もしくは、判断するのをやめても、名前もない純粋な私が残るというもの。ところが、これだとからだとはなにか、電柱の影に潜む人間がみえたが、他者とはなにか、という問題が残る。そこで、後期フッサール哲学の課題は生活世界、その態度は自然的態度になるのだ。

  自然主義的態度というのは、りんごを分子構造とか、原子でできているとみてしまう科学的な見方。それでも、まずは、りんごは果物で、食い物だ。このふつうの生活の一番最初の接し方が自然的態度であり、生活世界だ。数学も測量の必要から、物理学だってまずは生活からうまれた。よって、生活世界はすべての土台だというのだ。

  次の話は自己相似形についてである。雪の結晶をよーくみてみる。すると、その全体の形と同じ形の部分で構成されていることに驚く。つまり、やまちゃんが小さなやまちゃんの集まりでできているような、部分が全体の自分と似ている形、そういうものをフラクタル、自己相似形という。


  まとめ


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  常識的でつまらないかもしれないがすべては三次元だけ、という仮説を考えたい。0次元とは点であり、今個々という点を示す。一次元は直線であり、時間の流れ。二次元は厚みのない平面であり、これはわれわれが感じている感覚や知覚ではないか。三次元は立体であり、正直、感覚ではとらえられず、想像力である。そして、四次元は時間軸であり、これは一次元直線と同じ。五次元は二次元平面と同じで、六次元は三次元立体である。そして、以前から話しているように六次元が最高次元であり、これは愛であるといった。つまり、4,5,6次元の中に自己相似形として、1.2.3が入っているのだ。よって、三次元をもって、すべては然りとなる。

  つぎに、自己意識は自分のなかに自分を見出すので、自己相似形である。さらには、われわれは宇宙のかけらでできているが、宇宙そのものの自己相似形ならば、きっと宇宙もまた、その宇宙の外の世界で買い物などをしている、われわれと同様な生活世界にいるのではないか。つまり、三次元と生活世界ですべてが自己完結するのではないのか。

  
  指示の魔術とパースペクティブについてである。いきなり、予告なくおならするのは反則といわれているが、唐突気味にいいたいのは、この宇宙は私であり、よって、私は私のなかに住んでいるということである。すると、問題は他人とはなにか、という疑問にぶちあたる。AさんはAさんの宇宙のなかに住み、以下同様であるというお話である。

   パトナムの指示の魔術についてである。水槽のなかの脳、いかにも、SF映画に登場するシーンだ。この脳には電極がついていて、外界にあるりんごを認識するだろうか。あたまのなかのりんごのイメージと外界のりんごはどうやってつながり、指示できるのだろうか。ふつうに鼻の穴をほじくっている紳士だって、りんごのイメージと実物のりんごをどうやって指示、対応させるのか。意識が槍のように射抜く、つまり、意識の志向性か、はたまた、おれはりんごだ、という強烈な自己同定なのか。そうではなく、これはもはや指示の魔術としか言いようがない、というのだ。

  次の話はパースペクティブ、いわゆる、遠近法主義についてである。合理論者は大地から離れ、上空を飛びながら眼下を見下ろす。究極の上から目線。ところが、遠近法主義は地に足ついて、自分の視点からみるのだ。近いものは大きくみえるし、遠いものは小さくみえる。いる場所によっては見えるところと見えにところがある。これを集めて全体のイメージができる。フッサールの射影という考えだ。また、究極の遠近法主義はニーチェである。善悪、好き嫌い、価値もまたあくまで自分にとってのものだという。さらに、時代は前後するが、ライプニッツはモナドっていう世界を構成する点は、その点からみた全宇宙を含んでいると考える。


   まとめ

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   私は私の宇宙にいるのではなか。私のなかに私が住んでいる。前回、お話たように、全宇宙とそのかけらでできている私は自己相似形なので、同じである。大きなものも小さなものも、同じ構造だ。大きなものを扱う相対論。宇宙にあてはめるとブラックホールの理論に使われる。いろんなものを吸収し、しかも、事象地平面の向こうは見えない。量子論ではブラックホールがでてこない。なぜなら、観測者自身がブラックホールだからだ。波動を収束させ、しかも、心は見えない。

  この宇宙は私であり、私のなかに私がいるなら他人とはなにか。AさんはAさんの宇宙のなかにいる。というか、Aさんの宇宙も私の宇宙と重なっている並行宇宙であり、その別宇宙が現象となって現れているのが他人なのだ。また、もともとひとつだったものが分岐したのだが、いつ分岐したかといえば、私がうまれた瞬間だ。生まれた瞬間はじつはすべての生命個体は同時なのである。そして、その前は一なるハイアーセルフだったのだが、複数のセルフに分かれた。つまり、私と他人は並行世界のあらわれだったのである。

  私は私の宇宙にいるから、心がどうして外界のりんごを取り入れられるのか、影響を与えるのかがわかる。もはや、指示の魔術という魔法ではなく、自分のなかに最初からあるりんごだから、そのりんごをいともたやすく心のなかに取り込み、認識、イメージできる。指示というよりも、自己同定なのである。



差異と多様化、そして、信仰哲学についてである。パラレルワールドも、ひとのヘアスタイル同様にいろんな種類があるという。パンツだってさまざまな柄があるのだ。並行世界とは世界がいっぱい、そんな並行世界のパターンも同じくいっぱいあるのだ。どんどんとりとめもなく、多様化しているのである。

  差異と多様性とはなにか。デリダは差異は同一性に先立つと考える。AさんはAさんだ、BさんはBさんである。そんな同一性のあとに、二人の違いがある。そうではなく、Aさんは刻一刻、別のAさんであり、そんな差異、違いを克服しようと、おれはおれだと反復しはじめる。これがジルドゥルースの差異と反復である。

  次の話はヤコービの信仰哲学についてである。信仰といったら神様への信仰である。ところがヤコービはこれを日常のなかに見出す。りんごをみたとき、それがりんごだと強く信じているのだ。ただし、ヒュームのいう信とはちがう。ヒュームはなんどとなくそこに石ころがあって、そのうち習慣的にもみてなくてもあるに決まっていると思い込む、疑わしい信である。

  カントは感覚や感情、これを集めて分別、判断する悟性があるという。そして、感覚、感情を抜きにしてどんどん推理をする理性。宇宙、神様、魂までも推理するが、この理性能力は限界があるという。ところが、感覚、感情と理性のあいだに悟性をおかずに、なんと信仰をサンドイッチする。すると、これが直結するのだという。


   まとめ

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   多世界論、多宇宙論はたくさんある。宇宙は無限だから、光速を越えて遠ざかる向こうには別の宇宙があるというランドスケープ多宇宙論。爆発的に宇宙が膨張し、インフラトン場によって無数の泡宇宙の生成、これがインフレーション多宇宙論。この世界はブラックホールなどにある平板から放たれたホログラム世界。これがホログラム多宇宙論。そもそも、シュミレーターがPCのようなものの内部に作り上げたシュミレーション世界がこの世界だ、というシュミレーション多宇宙論。これらのどの多宇宙論が正しいのか。じつに、世界がたくさんあることを認めているから、そんな多世界の構造もたくさんあるに決まっている。だからどれも実在するのだ。多多宇宙論、多多世界論と名づけたい。まとめることなく自然放置状態による差異化と多様化。これがこの世界なのである。すると、事実はひとつであり、科学は事実にしたがって進行するのではなく、信じること、信仰が事実に先立つ原理だということになるのだ。まずは信じているから世界があるのだ。

コペルニクス的転回とリゾーム構造についてである。コペルニクスは革命をおこした。なんと電柱がこっちにせまってくるのではなく、私が動いていたのだ。つまり、天動説から地動説だ。このコペルニクスのパターンが後になんども繰り返され、ついには並行世界にもあてはまるのでる。

  コペルニクス的転回についてである。哲学者カントは自分の思想をコペルニクスとなぞる。星が地球のまわりをまわっているのではなく、地球も動いているというコペルニクス。りんごを認識するっていうのは、りんごが存在してそれが目に飛び込んでくるのではなく、赤い、甘い、丸い、という感覚を自分が活発に活動して組み立てている。つまり、自分が動いているというのだ。

  次の話はドゥルース、ガダリのリゾームについてである。通常、思考とか、言葉を話すときはツリー構造だ。話のテーマ、中心があって、あとは枝葉である。ところが、リゾーム構造は菌糸体や地を這う根っこのように、中心がなくて、むしろ、中心からにげようとし、主観客観はなく、どんどん自己増殖するような動きだ。接続語をつかえば、そして、で支離滅裂につながっているようなもの。やかん、そして、戦車、そして、バレリーナである。ここには中心がない。

 
  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

  コペルニクスは科学革命を起こした。大地がとどまり、その周りを星がまわっているのではなく、地球自身が太陽をまわっていた。この論法、パターンは後の科学でも繰り返される。太陽は銀河をまわり、銀河も同じだ。こうなると、このコペルニクス革命の延長上に多世界論がある。この宇宙はひとつとして固定されずに、たくさんあって、しかも、回っているかもしれない。多世界論自体がたくさんあるかもしれない。もはや、ここまでくると、事実確認という、いわば、検証ができない。だから、五感では把握できないので、事実を五感で感じるのではなく、第六感、知的直感が検証法に取り入れられるかもしれない。さらに、事実ではなく、信じる、信仰による世界の選択、どの世界をよしとするかはもはや信仰でしかなくなる。ここに信仰の科学がうまれるのではないか。



非合理主義、そして、不可知論と自由、についてである。おぎゃっと生まれる前、そして、死後。果たしてどんな世界なのかを科学っぽい理屈で考えようとふと思う。どんなに目がよくても、五感で見えない世界を第六感で検証したい。

   非合理主義についてである。合理主義っていうのは、ものごとを理屈で合理的に考える主義だ。かっては中世の神様の時代が終わって、近代では合理的に考えて人間ってなにかと考えた啓蒙思想だ。現代ではいきすぎた合理主義の反動から非合理主義が生まれる。世の中は合理的じゃなくてカオスだというものだ。自分を非合理主義者です、と主張するものはほとんど皆無。それでも一般的に非合理主義といえば、ディルタイの生の哲学、実存主義などである。

  ディルタイの生の哲学は、そもそも、この自然界の法則といわれているものは、生のカテゴリー、法則が形を変えて現れたものだという。自然科学の法則では時間は無味乾燥な過去、現在、未来。たとえば、生きているとき、いろんなものに価値を見出すけど、これが過去になる。目的を持って生活するが、目的が未来に豹変だ。相互作用の法則は生の抵抗感が姿変えたもの。

   次の話はカントにおける不可知論と自由についてである。目の前にある石ころ。その石ころのかたちはまるで野球部の友人のあたまそっくりである。見ているのは石ころっていう現象であって、その石ころがどこからきて、どれくらいの分子で作られているか、石ころそれ自体は不可知。はるかかなたの理念といっしょだという。ところが、第二批判書では、そんな物自体とはほかならぬ自分自身の自由意志、道徳的実践だという。私は私自身、物自体であり、しかも、原因と結果の因果律に支配されている現象界ではなく、原因なしで善いことを実践できる道徳的実践なのだ。 

  

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

   生まれる前、死後とはどういうものか。以前、お話したが、この生きている三次元空間では科学における事実確認、検証が成り立つ。ところが、生まれる前と死後、つまりは生間領域では見えないので検証不可能である。つまり、生間領域では事実があるのではない。五次元空間ではいろんな数学法則が物理現象として成立しているいろんな三次元宇宙が乱立している。無の空間だってある。いわゆる並行宇宙がたくさんあり、ここでは考えうるあらゆる宇宙がある。もはや、事実がひとつあるのではなく、信じればその世界がある。信じる、信仰がこの五次元空間では事実を生むのだ。だから、死後は三次元から四次元時間軸も越えて、五次元の領域で信じた世界にいくのである。この三次元では宗教といわれている分野だ。天国を信じるもの、無になるとおもうもの、かわらないとおもうもの。信じた世界があらわれるのである。また、生まれる前はこのいまいる三次元宇宙を信じて、この世界をハイアーセルフである超自我の私が選択。だから、自由に信じ、選択したのだから、この三次元空間の生を全うする責任があるのだ。


真理論とヘラクレイトス哲学についてである。事実が最初にあるこの世界。事実を突きつけられる。鼻っぱしに証拠の穴あき靴下だ。ところが、生ではない世界は事実ではなく信によって生み出されている。しかも、生とは刻一刻、発生と消滅の連続ワンツーパンチではないか。すると、われわれは信によって半分は世界を変えているのだ。

  真理論についてである。真理とはなにか、というとき、その方法論を論じちゃう。いろんな真理論がある。まずは真理対応説。古典的な真理論といえば、真理対応説である。単語と宇宙の出来事やものと一対一に対応だ。そして、宇宙の事物の配置をそっくり単語の配置にすれば、まさしく、宇宙、世界をきれいに描いたことになる。

  真理整合説というものがある。実際に世界にあるものを見るのではなく、ただひたすら、理屈、筋を通すための帳尻あわせ、大きな論理体系で矛盾なく調整する。ところが、そんな論理体系、つまりは公理系はひとつじゃない、という批判がある。

  真理同意説というものもある。真理っていうのは、これだっと指させるものではなく、みんなの賛成、反対の同意によって作られるという。

  そして、真理余剰説もある。雪は白い、というのは真である。この真とか、偽とかは余剰、不必要だというのだ。雪は白い、だけでいいというのだ。


   ヘラクレイトスの哲学についてである。あるものはある、ないものはない、という白黒はっきりしているパルメニデス。ヘラクレイトスは有は無、無は有だ。だから、世の中には変化や運動があるという。万物流転である。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   生まれる前、死後は五次元空間であり、生は三次元と四次元時間だといった。そして、四次元時空に生きるものは事実がすべてに先行し、五次元においては無数の世界、可能なかぎりのすべての世界があるので、「ここでは事実ではなく信念がまざあるといった。

  さて、生まれる前と死後だけでなく、じつにわれわれはヘラクレイトスのいう発生と消滅の流転にいる。だから、半分は五次元空間の信仰世界にいるのだ。そして、半分は三次元の肉体、物質界にいる。よって、半分は事実の受け入れ、もう半分は信じることで、周囲の事象を決定しているのである。

  
レヴィナスの絶対他性と写像理論についてである。大きなものと小さなもの。中間ぐらいの等身大。いずれにしても、等身大で、目線をあわせておこちゃまにあたまなでながら何歳と問いかける。この等身大の日常世界は究極にでかい世界と究極に小さな世界のいわば影であるというお話をしたい。

  レヴィナスの絶対他性についてである。西洋哲学ではたいてい人間の意識は全体的に対象物を掴み取ると考える。フッサールでいえば、意識の志向性だ。全体とは端っこと端っこをつかめるもの。りんごを意識するとき、りんごの全体をつかむ。ところが、全体をつかめないものもあるという。他人である。他人のからだは全体的もちあがる。ところが、他人の心、思いを包めない。全体ではなく無限だというのだ。だから、お客様だけなく、他人は神様となる。ここにはいない無数の他人の圧倒的な圧力を感じる。これが無人称、三人称のイリヤだという。さらに、政治はひとを全体としてとらえるが、本来は他人とは戦争、政治、交易に属せないというのだ。第二主著のタイトル、存在ではなく、別の仕方で、もしくは、存在の彼方へ、ということだ。存在しているのではなく、倫理だというのだ。

  次の話はヴィトゲンシュタインの写像についてである。前期ヴィトゲンシュタインの思想だ。宇宙、世界のあらゆる出来事は理屈、論理、または、言語にきっちり対応できるという。宇宙の出来事が単語に対応し、しかも、出来事の配置は単語の配置に対応。つまりは、写真でとるようなものだ。この世界と論理、命題は同じ構造を共有すればいいという。

 
  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   
  究極で大きな世界と究極に小さな世界、そして、等身大の日常世界。大きな世界といえば、ランドスケープ多世界論でいったが、宇宙は互いに光速を超えてとおざかっていれば、その世界ものは原理的に認識できず、互いに影響も及ぼせない。いわば、多世界、パラレルワールドが広がっている。これにたいして、小さな世界といえば、ひもである。ひも理論だと世界最小のおおきさがこのひもであるプランクスケールという長さだ。これ以上は小さなならない。この中には高次元が折り紙のようにたたまれていて、当然、別の平行世界もつまっている。さらに、このたたみ方がカラビヤウ多様体であり、どんな折方の折り紙かといえば、無数の折り方、つまりは解が無数にあるという。小さな世界も多世界だったのである。ところが、等身大の日常世界といえば、一人の私がひとつの物理宇宙のなかを住んでいる。すべてが一である。ところが、他人を含めた他者がいることに気がつく。他者とはじつに、この大きな世界、小さな世界における多くの世界の影なのだ。そして、これがゆがんだ形で影になり、それゆえに、一なる物理宇宙とか、私はひとり、他者は複数となって現れる。どんな大きさでも、等身大になればこのようなゆがみ、主客の分かれ、自他の区別、多世界の他人への投影となってあらわれる。ここでレヴィナスの絶対他性を世界の複数化のあらわれだといいたいし、ヴィトゲンシュタインの写像理論は世界の写像というより、多世界の写像がこの日常だということを主張したいのだ。


超越論的感性論とトマスアキナスの哲学についてである。もっと広い部屋に住みたいと叫んでみる。4LDKかはたまた、10畳か。そもそも、空間の大小とは単なる情報かもしれない。時間もまた、情報なのかもしれない。過去と未来と現在、これらもまた周波数、波のパターンの違いかもしれないのだ。

  哲学者カントの超越論的感性論についてである。ニュートンは時間と空間というのは、絶対的に存在していると主張した。ところが、カントは時間と空間は感覚的なものをおさめるための自分がもっている箱、形式にすぎないとしたのだ。超越的とはわれを忘れて没頭、何かを意識しているようなもの。超越論的とは、そんな自分を省みる。論じるのだ。だから、感性って何かをふりかえってみると、それは時間と空間という形式だったということだから、超越論的感性論になるのだ。

   次の話はトマスアキナスの哲学についてである。アリストテレスの形相質料論を踏襲する。物体っていうのは形相と質料が出会ったときに出現だ。鉄人っていうのは、素材は鉄。つまり、質料は鉄である。これに設計図どおり形を与えると鉄人になる。これが形相である。質料である鉄はほかにもフライパンになれるかもしれない。可能性に満ちているから可能態という。これに形相が加わるのが万物であり、そのとき現実態がうまれる。

  さて、中世哲学ではたいていは形相のなかの形相、純粋形相が神様ではないかといわれていた。ところが、旧約聖書に書かれているように、神様はあるところのものである、というから、じつに純粋な現実態ではないかとトマスアキナスはいうのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

時間と空間とは物質を入れる入れ物なのか。そもそも、なにでできているのか。物質は実体があるが、時空間は実体がない。実体がなくて、物質ではないといったら波動ではないか。つまり、空間的な大小というのも、波動の違いであり、過去と未来も波動の違い。波動の情報が時空なのかもしれない。そして、われわれ自身も波動であり、この時空の波動と共鳴、同期したから、時空の中にいると感じる。五次元的なものであって、別の波動で別の世界と同期したら、もしかしたら、時空ではない、別の形式を生きるかもしれない。いずれにしても、五次元レベルで最初に一次元時間と三次元空間のセットである四次元時空を選択し、波長をあわせたのはハイアーセルフである超自我なのだ。形相が波動で、質料が物体だとしたら、この形相こそがわれわれの意識であり、純粋現実態はいわゆる世界創造をしたものではないのか、と考えられる。



存在の隠蔽性と仮象についてである。いろんな事がおこる。道端でばったり旧友の海がめに遭遇したり、おなじく、道端でグレイタイプの宇宙人に声をかけられたりする。偶然の一致やら、お金をひろうことやら、これらのすべての出来事は操作されているのではないか、というお話だ。

  哲学者ハイデガーの存在の隠蔽性についてである。前期のハイデガーは存在そのものっていうのは、自分の力で、ん〜っとりきんで生み出すものであった。これが超越である。自分から自分自身が抜け出そうとするとき、自分が分裂しそうになったとき、自分の存在そのものがうっすらみえるのだ。ところが、後期のハイデガーは存在そのものとは時代に送りつけられるものだという。しかも、みんな服を着ていてベールに包まれている。鶏肉のベールの包み上げとは効いたことがないが、とにかく、隠蔽されているという。古代ギリシャではプラトン。いろんな自転車があるけれど、自転車そのもののイデアの影だという。だから、このイデアこそ、存在そのものだとおもっていた。ところが、これは存在者の皮をかぶっている変装中の存在なのだ。現代においてはニーチェのニヒリズム。すべて絶対的な価値なんてない。善悪だって相対的。すると、絶対的な存在そのものもない、無の時代だという。これがニヒリズムであり、それゆえに、存在が真っ裸で到来するのだろう、というのだ。

  次の話は仮象についてである。仮象とは錯覚のようなもの、ニセモノ的なものだ。カントは二つの仮象を例にあげる。論理的仮象は寝不足などの注意力不足で論理をまちがえてしまうこと。ところが、超越論的仮象があるという。生まれながらにして間違ってしまう事だ。人間の理性はどんどん突き進み、ついには能力を超えて、神様がいるかいないか、自由はあるかないか、と考える。こういう背伸びが間違いだという。そして、ヘーゲルにおいては仮象と本質を対立させて、得意の融合合体でひとつになるというのだ。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

  前回お話したが、時間と空間は非実体であり、波動の情報だといった。だから、この波動を操ると、時空をゆがませて出来事を自在に作り出す事ができるのではないか。いわゆる、プラズマ兵器や化学兵器同じく、論理、数学兵器で、波動の情報を変えて、出来事を操作するものがいるのではないかといいたいのだ。

  もしも、この宇宙が仮象、仮想であり、六次元意識体、すなわち、神様がつくりあげたシミュレーションだとしたら、同じ様な構造が五次元意識をもつわれわれもやっているのかもしれない。大きなもの、太陽系はちいさなもの、原子構造と同じ構造。いわゆるフラクタルなのだが、同様に、高次元と低次元も同じなのではないか。もしも、六次元の意思による世界創造があれば、われわれのだれかが同じようにこの時空の情報をあやつっているのかもしれない。また、ハイデガーの存在の隠蔽にあるように、この存在そのものは六次元意識であり、シミュレーターが自らの作った仮想世界に出現することを意味しているのではないか、ということを付言する。
 

知的直感と検証についてである。科学の目覚しい進歩に圧倒される。空飛ぶ乗り物、全自動洗濯機、いあたるところにあるテクノロジーは科学のスタイル、つまり、観察し実証して法則するという方法からうまれる。ところが、現代物理学の最先端で登場した並行宇宙論は顕微鏡で観察できないではないか。新しい科学の検証方法について考えたい。

  知的直感についてである。感性的、感覚的な直感ではない。これは目でみたり、耳で聞く、といういわゆる五感を使う。ところが、知的直感は五感ではなく、ダイレクトに感じるもの、いってしまえば、超能力、第六感、第三の目だ。

 古代ギリシャのプラトンは、洗濯ばさみそのものを洗濯ばさみのイデアとよぶであろう。そして、これを知的直感で観照するのだ。近代になるとデカルトのコギトだ。われ思うゆえにわれあり、と自分がいることをぢレクトに知る。これまた、知的直感であり、しかも、同時に数学も有無をいわさず明瞭で、神様の存在も明らかに知的直感で正しいという。そして、カントにおいてはこの知的直感はダメだと断ずる。感覚を悟性によって組み立てて認識しているのであって、五感以外は許さない。後のドイツ観念論ではフィヒテは自我と非我の一体化、シェリングもまた知的直感で宇宙と一体だ。フィヒテはカントを批判する。なぜなら、知的直感がダメだといいつも、なぜ、カントは認識っていうのは感覚の悟性による組み立てだということを知ったのか、これは本人が知的直感つかっていたからだという。


   次の話は検証についてである。科学では検証が大切である。まずは、仮説を立てちゃう。さつまいもは甘いものだ。そして、この仮説を検証すべく食べまくる。もしも、辛いさつまいもが発見され、屁をこきながら驚くのであるが、こうなったら反証になって、この仮説は法則にはなれなくなるのだ。


   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


  科学は進歩し、その手法はやはり実際の検証、実証、観察によって仮説を法則化するところにある。ところが、近年の科学理論では並行世界、多宇宙論が出てきた。実際、多世界は五次元のなかの四次元時空間について考えている。検証ができないのである。五次元は意識の次元だといった。だから、五感による検証ではとらえられないので、今後、知的直感、第六感による検証法、いわば、瞑想のような検証法が編み出されるかもしれないのである。


進化論的認識論、そして、理論言語と観察言語についてである。机上の空論ということばがある。もちろん、机上には筆箱、机の下のスペースはいざというときの避難スペース。頭の中、紙上の理論でしかないが、いつしか、これが物質化されるときがくるのではないか、というお話をしたい。

  進化論的認識論についてである。進化論といえば、ダーウィンである。生物のからだは進化してきた。かっては類人猿だったのだが、二足歩行が得意な現代人になる。肉体的な進化についてである、認識もまた進化しているのではないか、ということだ。哲学者カントにおいては認識は固定されたものだった。感覚を集めてまとめる悟性。ここには進化はない。ところが、近年、認識だって、ものの見方だって昔と今ではぜんぜん違うのではないか、と考えられ利うようになる。発生的認識論というものがある。子供が大人になるに従って認識の仕方も変わるというもの。これを人類規模の進化で主張するのだ。この考えは人工頭脳研究に貢献されているのである。

   次の話は理論言語と観察言語についてである。現代の科学は関数を用いたりする。xとかyとかさらには+、−、その他の数学的、論理学的な記号が登場。これらの記号、理論上のものは+だけでは何の意味もない。論理学の、かつ、または、という記号も意味なしである。実際に、りんごまたはすいか、という観察できる言言語がはいって意味が生まれる。ただし、理論言語はあくまでも、道具であるという見解も道具主義にはあるのだ。


   まとめ


  存在の科学

 
  異次元理論

   生物の進化は、まずは細胞の誕生からはじまる。アメーバのようなものがミトコンドリアの祖先を捕食し、ついには共存し、細胞がうまれる。単細胞生物がこんどは細胞分裂を起こし、多細胞生物になり、ついには人間になる。科学の理論もまた同じ軌跡をたどっている。つまり、宇宙はひとつで、すべてを包んでいるという一元的な世界観。ニュートン力学、相対論しかりである。ところが、現代ではなんと多世界論、多宇宙論だ。宇宙は刻一刻、分岐しているというのだ。これはまさしく単細胞生物から多細胞への移行である。だから、理論でしかないものだが、いつしか、この実体なき理論が物質化され、有機体のようなものになり、ついには意識にまで進化するのではないのか。たしかに、科学理論の物質化はテクノロジーである。ここでいっているのは、理論自体の物質化である。PCのなかで仮想的に作られるか、はたまた、机上で生まれるかはわからない。ただ、神様が世界を創造したのと同様、理論が実在化し、認識から存在がうまれるといいたいのだ。

    心身解釈説と自己充足性についてである。並行世界はどこにあるのだ、と通りすがりのらくだの格好をしたロバに問いかけられる。そこで、あごに手をあてて、とりあえず、そり残しがないかをついでに調べながら考えると、いまここにすべての並行世界、あらゆる状態が重なっていることに気がついたのだ。

  心身解釈説についてである。心身問題のなかに登場するひとつでる。心ってなんだろうか。めがねをかけるとひとの心が見えるわけでもない。顔の表情、ふるまいからきっと怒っているに違いない、だから、逃げようと、解釈するだけだという。すべて心は解釈にすぎない。しかも、すべて万物はこの解釈によるものだ。たとえば、三角形だって、重心っていうものがあるのではなく、あくまでそこにあると解釈する。力の伝達だって、どうやって、椅子から床に力が伝達しているかは、力の矢印を対角線にして平行四辺形の任意の辺に分解して、分力にしたり、二つの力をあわせて合力にするが、つじつまがあえばいいおであって、何通りも解釈できるのだ。

  次の話は自己充足性についてである。自分が自分によって満たされるというものだが、なにものにもたよらないことだ。アリストテレスは形相と質料がであって、恋におちるのではなく、ものが存在できるというが、これが現実態といわれるもので、これこそ自己充足しているという。また、デリダは自己充足がこわれちゃったときに、時間が流れはじめ、そもそも、私は私だ、と自己充足しているかとおもいきや、私はそのとき、すでに痕跡、残像としての私でしかないという差異の思想を主張する。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   並行世界とはいまここにある。なぜであろうか。すべては量子でできている。いわゆる波動である。電子、光子も波動なのだが、電子の二重スリット実験というものがある。電子を一粒放射する。すると、その先に二つのスリットがある板があり、ひとつの電子がわかれて、なんとその二つのスリットをとおり、その向こうで波の干渉を起こし、二重スリット板のむこうにある感光板に縞模様を形成する。これは波Aが波Bと波Cに分解されることを言う。横に時間軸、たてに空間軸をとって、単純に考える。ほんとうは三次元的な波だ。複雑な波を二つの単純な波に分解させ、これを波BとCとなづける。三秒後、波BはB´波Cは波C´になる。10秒後に合体させると、波A´になっとしよう。波A´は波Aの13秒後の姿とかわらなうのだ。これが波の線形性である。

  もちろん、われわれの人体、すべての物体は量子でできている。だから、すべてに波動の線形性が成り立つ。よって、私という超複雑な波動は分解して、山ちゃんが自転車に乗っている状態と斉藤君がジャンプしている状態に分解できるかもしれない。つまり、いまの私がやっている状態を分解すれば、分解の程度、これは任意で解釈なのだが、それによってさまざまな事象に分解できるのだ。これが並行世界なのである。また、私のいまの状態、右手を上に上げた状態を別の状態と重ね合わせても、別の世界の状態が生まれるのである。だから、私は無数の並行宇宙の状態に分解できるので、自己充足的であり、すべては任意の解釈で無数の状態に分解できるのである。



様相論と前人称性についてである。たまたま、道端で100円を拾ったり、ぼーっと突っ立っていたら犬にマーキングされたりする。それは本当に偶然である。この世界はすべてが偶然なのだろうか。そうではなく、世界を超えたものの力も加わっているのだ。これを多細胞生物と多世界における神様をテーマに考えてみたい。


   様相論についてである。様相というのは、いわば、存在の仕方である。座り方だって、正座、あぐら、かかとをひたいにつける奇妙な座り方、といろいろある。同じく、存在の仕方はカントにおいては三つあるという。なにかを認識するときに使うカテゴリー、この三つ目が様相のカテゴリーであり、内訳が、理屈上あってもいいかな、という可能性。実際に、理屈もかなっているし、この目でそいつを見たときに現実性になる。そして、三つ目は最初の二つ、可能性と現実性を足して、なるべくしてなった、という必然性になる。

  この様相論は論理学にもある。通常は論理学といったら二値論理学である。真か、偽か、という二つの値がある。ところが、ちょっと真っぽい、とか、絶対に偽だという中間的な値があるものを多値論理といい、様相論理学という。

   次の話はメルロポンティの前人称性についてである。おぎゃっとうまれたとき、もはや、私とあなた、自他の区別がないという。すべてが一木作りで、同じ肉でつながっているという。私、あなた、かれらという人称性がないのである。物心がついてきて、自分がいることに気がつき、私、あなた、かれらというような人称性を知る。そして、物を食って、さあて、胃液放出だと、意識的に胃酸をだすだろうか。便は大腸の鞭毛活動ででてくるが、意図的にやっていない。まぶしいとき、瞳孔が縮まるが、これまた、意識的ではない。私のなかのだれかがやっている。これが自他の区別のない前人称的自我なのだ。


  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


   いま、右手を上げたら、右手を上げた私と世界に分岐した世界にいる。箱のなかの猫をみたとき、毛づくろいしていた。毛づくろいしている猫とそれを見ている私の世界にいったのである。つまり、意図的に世界を選択していない。ということは多世界の分岐はすべてが偶然なのだ。多世界はまるで単細胞の分裂による成長、代謝を行う多細胞生物だといった。細胞分裂して、たくさんの細胞がネットワークを築き、そして、中央のなにかによってコントロールされて生体を維持する。前人称的自我がやっているのだが、まさしく自他を超えた神様のようなものだ。同じく、多世界の分岐もまた、多くの世界の分裂、ネットワークの中枢は五次元のなかで行われ、六次元意識によってなされる。つまりは神様の必然性なのだ。われわれの日常から見る限り偶然であったが、高次元的な視点では必然だった。様相論においては偶然または可能性と必然をあわせると現実性になる。ほかならぬ、これが現実世界なのである。


行為の因果説とカミュの不条理性についてである。ひとはいろんな言い訳をする。
おれがおならしたのではない、おならをさせられたのだといいはる。なぜそうしたのか。
理由や根拠を見いだすのが人間や生命なのだ。物体はどの点、理由なんてなしに、
たまねぎはころがるのである。

アンスコムの行為の反因果律についてである。
心の法則と物体の法則はちがう。だから、自らにあしをあげろ、と命じたのが原因になって、
足を実際にあげて、 匂を嗅ぐのである。これがデイヴィッドの行為の因果律だ。ところが、
アンスコムはそもそも法則が違うのだからそこには因果利律なんてないという。
ただ、あとから言い訳、あとだし的に理由付けしているのだという。

次の話はカミュの不条理性についてである。人間とはもともと不条理であると言う。
でたらめなのだ。たしかに、朝、めざめると、その寝癖があまりに非常識なことがある。
シーシュポスの神話という著書で、神様が山頂から岩を転がし、
ひろいにいってはまた転がすの繰り返しである。九官鳥ですらたには気が利いたことをする。
無意味なこと、不条理性は人間の存在の仕方だというのだ。

存在の科学

異次元理論

物体は行儀よく原因と結果の因果律に従う。
筋がとおっていて、順番どおりだ。
ところが、人間を含めた生命はちがう。
もともと、因果律にしたがわず、でたらめであり、
不条理な状態になったとき、生命が万物からうまれるのだ。
不条理で耐えられないから、理由、正当化するものがあらわれるのである。
万物のなかに因果律に従わないものが誕生し、結果的にはこれだと宇宙全体の辻褄があわなくなるので、
生命、人間となって理由付けと正当化の活動をはじめるのである。


デカルト的自我、ゲーデル不完全性定理、そして、不確定性原理についてである。
科学もとことん突き詰めると、およそ信じられない世界をみる。箱のなかの猫は寝て
いると同時に逆立ちしているのだ。科学の構え方が神様っぽくなればなるほど、世の中は
芸術は爆発だよ風に訳わかなくなる。科学と神様と生命についてかんがえみる。
デカルト的自我についてである。デカルトは疑った。もちろん、はなひげのさきっぽにねぎまのよ
うな食材がつきささっているひとはあまりしんようできない。そもそも、この世界は存在
するのかが疑わしい。おもわず、いぶかしげな笑みで叫ぶ。さらに、自分は存在しているのだ
ろうか。ところが、これだけは疑えなかったのである。もしいなかったら、いままさにうたがうことができない
。割れ疑うゆえにわれありだ。同時に
名前もないし、髪が色なんて関係ない純粋な私だ。
科学者は数学の計算のとき、月末の支払いについてかんがえながら計算したらさざんが8
になったとはいわない。だれでもない、特定の状況のなかにいるのではなく、
神の視点にたっているのだ。だから、科学の明証性もオプションでついてくる。
さらに神様がいるんだよ、というのも標準オプションで装備されるのである。
次の話はゲーデルの不完全性定理である。公理っていうものがある。いわゆる、大前提となるものだ。ここから、いろんなものがむにゅっとでてくる。たとえば、定理や法則、定義などである。そんな公理をあつめたのが公理系である。

  さて、公理系は矛盾一切なし、しかも、完全体だることが理想なのだが、ゲーデルは考える。もしも、矛盾がない、つまり、無矛盾だったら、この公理系は完全性をもたないという。完全なら、無矛盾じゃない。つまり、無矛盾だったら、真か、偽なのか、どっちつかずのわけわからないやつが必ず潜んでいるのだ。これが第一不完全性定理である。また、そんなお茶目な公理系は、自分は正しいんだよ、どうやっても証明できない、これが第二完全性定理になるのである。


  最後にハイゼルベルグの不確定性原理についてである。飛んでいるハエ、羽を休めるべく、臭い頭を探している。そんな折、パパラッチは飛んでいるハエを激写。シャッタースピードが速ければ、飛んでいてもくっきりうつる。つまり、位置がはっきりする。もしも、シャッタースピードが遅かったら、ぼやけて、どっちの方向にどれくらいでうごいているか、すなわち、運動量はわかるけど、位置がわからなくなる。運動量と位置は同時にきっちり測定できないというのが不確定性原理である。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


 
  科学も、デカルト的な自我、神の視点にたって、上から世界を観察する。観察者は普遍的ななにかになる。だから、客観性を得るのだ。ところが、これがいきすぎると、現代科学のように、観察者の前になんと、量子論的な確率の波、箱の中の猫は毛づくろいをしているか寝ているか、波動が重なった状態、さらには不確定性原理のように、運動量と位置が不確定。このように観察対象が曖昧模糊してしまうのだ。まさしく、神様は神の視点での正真正銘の絶対的な観察者だ。だからこそ、神のもとに、不完全、不確定である、自由意志をもつ人間をはじめとする生命がいるのではないか。人間の自由意志は確率波のようなふるまいなのだ。石ころのように完全ではない不完全な人間。これは神を間接証明しているような気がしてならない。

posted by モノイイ ジョーカー at 16:28| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月03日

仙人新聞  2013・01・03

仙人新聞 2013・01・03

あけましておめでとうございます。

**最近の仙人動画**


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**仙人テキスト**


物象化についてである。物化と物象化というものがある。ひとはとかくシンプルにものを見ようとする。シンプルイズベストヒットUSAとでもいうのだろうか。複雑な関係をやめて、単純にかたまりとみなす。野球チーム寿、いろんなメンバーのチームプレーや人間関係があるが、寿っていうかたまりとみなすのだ。本来はなにかとの関係のなかで性質があるのに、かたまりだとしてしまう物象化。ほんとうは関係そのものなのにかたまりにみなす物化。

  りんごを認識するとき、本当はりんごが目に飛び込んでくるのではなく、光が反射して、目にはいって網膜刺激して、電気信号にチェンジされる云々、いろんな複雑なプロセス、関係でみている。だから、りんごっていうかたまりはある意味、物化であるが、これは人間や生命のうまれながらにしての性質だからOKとするのだ。ところが、人間が作り上げた社会。とりわけ、価格は労働力だの、いろんな関係のあらわれだが、これを商品にこびりついていると見誤ると、労働力は疎外されるのだという。


   次の話はフッサールの受動的総合についてである。通常は総合といったら自発的な総合。プラモデルで腕と胴体を一生懸命、自発的に総合だ。考えるのも、いろんなことを自発的に総合。ところが、受動的総合とはぱっと見た瞬間に人間だ、しかも、赤の他人じゃなくて友人だと即座に総合。たしかに最小限の自発性なのだが、これが受動的総合だという。


   まとめ


  存在の科学


    異次元理論

    すべては量子の確率波だという。だから、自分も波だし、まわりも波だ。波動には境界線がない。主観と客観というのは、波である私が私の波動を波しようと渦巻きをつくるときだ。主客だけでなく、行為と直感、行為と認識もしかりである。だから、自発的に意志でなにかをしようというのも、ある意味、大いなる波動に押された結果。受動的に受け取ったのも、自分が自発的につくりだしたもの。受動性と自発性の境目もないのだ。だから、自分の不測ともおもえる周囲の出来事も自分の自発的な波動によるものだ。
   
様相論とカルナップの状態記述についてである。なんだか当たり前のように世界がある。この世界がある感覚はどこかの器官でびびびっと感じっているのではない。あらゆる状態、世界のあらゆる出来事、今不覚にもまばたきをしてしまったが、まばたきをしなかった世界もある、こんなに細かく世界のあらゆる状態のすべてとネットワークを築いていて、それが世界の感覚になる。そして、この基本的なことから文明と文明の夜明け、ないしは前夜についてもあわせて考えてみたい。


   様相論についてである。カントは認識するためのあたまのなかに準備された道具、カテゴリーのひとつに様相のカテゴリーを主張する。様相のカテゴリーは内訳は三つだ。理屈がかなうもののすべて、論理的にスムーズに考えられるすべて、これが可能性だ。そんな可能性だけだと現実ではない。ここにしっかとこの目で確認、つまり、感覚が添えられたのが現実性だ。そして、この可能性と現実性を足して二で割ると三つ目のカテゴリー、しなければならない、という必然性になる。

  現代では様相論理学というものがある。これは通常二値論理のように、はんかちょうか、のごとく、真か偽か、という二つの値だけではなく、ディスカウントショップのごとく、たくさんの値がある多値論理だ。真かもしれない、絶対に真だ、ひょっとしたら偽かもしれないという値をもつ。

   次の話はカルナップの状態記述についてである。準意味論だという。準がついているから、ミディアム、半生のようなもので、半分は意味論というようなニュアンス。Aさんは寝ていたり、座っていたりする。Aにはいろんな状態があるが、そんな状態に現実の世界に対応しているのは、実際にAさんが横になって鼻毛をひっぱり、涙していることだ。実際のことがらと文や単語が結びつく云々を論じるのが意味論。ところが、あらゆる状態は並行世界のような、可能世界には対応しているはずだ。しかも、いろんな可能世界を貫いてAさんはどんな状態でもAさんであり続ける。


  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

     この世界、宇宙はあるな〜って感じている。存在感とは、宇宙の果て、事象地平を越えたむこうにある無数の宇宙のすべてとエンタングルメント、波動として関係しているときに発生する。本当に細かい違いも許さず、あまねくあらゆる論理的に可能な限りの全タイプがあるのだ。それが壮大なのだが、じつは実に当たり前のことなのだ。それこそがある、存在そのものだ。こうやって宇宙の全タイプは円のように自己完結。円や球体ならばともかく、われわれは可能世界のほおんどをみていないし、みているのは一部の現実だ。

  球体はその表面をどこからみても、半分は見える。半分は現実、半分は可能性だ。球体は原初からある宇宙の惑星や恒星、基本的な立体だ。ところが、文明は2001年宇宙の旅のモノリスのように、角ばっている。立方体、直方体が文明だ。だから、立方体の一面だけを並行にヨーク観察すれば、残りの5つの面がみえない。六分の一しかみていない。ところが、斜めからみれば、マックスは半分はみれるのだ。文明開花の以前、球体、滑らかな流線型の世界だった。だから、いまよりも、見えたのである。いまであればそれは現実面ではなく、可能面であるものがかれらは視野をひろくいまでいう可能面の一部までみていた。だから、より並行世界な感覚で、複数の状態をタスク処理していたのだ。文明は見えないところを多くした。だから、想像力が求められるのである。
  


見知りと人格主義的態度についてである。がけっぷちで危機一髪のとき、宇宙についてかんがえてみる。さらには、家で掃除中にも宇宙だ。宇宙は日常からかけ離れたところにあると思っている。ところが、その実、ぞうきんやふきん、網戸、毛玉がたっぷりの靴下、ここに大宇宙があられているというより、それが大宇宙そのものであることがわかるのだ。

  哲学者ラッセルの見知りについてである。熟知ともいう。あまりにもよくよく知っているもの。なんの疑わしさもないもの。そもそも、あるかないかとか、真か偽か、という問い以前の当たり前のものが見知りだ。現象主義ににているがかなりちがう。現象主義だと、感じたありのまま、わたあめがあるというのではなく、甘い、白いという感覚データだ。

  見知りとは物理的な世界の最小単位を原子という粒にしたように、論理的な世界のこれ以上細かくできない真偽以前の論理的原子とみなすのだ。


  次の話はフッサールの人格主義的態度についてである。自然主義的態度だと、すべてを原子とか分子でできていると科学的に見ちゃう。人格主義的態度は人間は人間だし、りんごは食い物だ。日常的なふつうの見方である。


  まとめ

 存在の科学



   異次元理論

三次元と四次元の時間をあわせて四次元時空間だ。じつはこれは布や網戸である。そして、布にこびりついて風で動く毛玉が生命体。網戸についたほこり、これまた風でうごくがこれが生命なのではないか。時空は網、布のように小さな穴だらけであり、風を通す。風は波動であり、量子の確率波だ。だから、前回も話たように、波動は主客や仕切りなんてない。そんな波動、風が精神であり、同じ一なる大いなる風、波動でほこりという肉を動かしてる。精神はひとつなのである。

 身近な毛玉つきの靴下や誇りつきの網戸。これらの見知りが宇宙のあらわれというのではなく、大宇宙そのものだ。自分の住まう宇宙はいまそこにある見知っているものたちである。

  絶対精神とカルテジアン劇場についてである。眠気眼をこすりながら、まつげが二、三本落ちてしまい枕に突き刺さる。いまみた夢について回想し、ふと夢って何なのかと思い巡らす。夢は神様と関係がったこと気がつき、愕然としておもわず女の子すわりで親指をくわえてしまう。神様と夢についてである。
   哲学者ヘーゲルの絶対精神についてである。個人の意識は成長する。まだ、がきだったころ、自分の存在二機がついていない。ところが、あるとき、自分はいるんだと気がつく。自己意識や物心といわれるものだ。そして、ひとは常々、主体的に考えたり、自分の意志でおしりだってふる。ところが、宇宙は実体と考えてしまいがちだ。それ自体でどかーんと存在していると考える。ところが、ヘーゲルは宇宙さんは個人と同じく、主体的に活動中だという。それが宇宙や人類の歴史であり、歴史には目的があるという。それが物心、宇宙さんが自分の存在に気がつく、いわゆる自己意識のようなもの、これを絶対精神というのだ。

  次の話はカルテジアン劇場についてである。デカルト的劇場とか、小人の劇場といわれる。デネットが批判の的にしているのがこのカルテジアン劇場だ。われわれはいろんな感覚情報を集めて、だれがこれを処理しているのか。あたまのなかに小人、小さなおじさんがいるという。それをスクーリーンでみて判断処理するという幼稚ともおもえる考え方である。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


  宇宙はすべて渦になっている。太陽系のまわりに惑星がまわり、太陽系は銀河のなかで周回だ。おそらく、銀河も渦状な動きをする。

  すべては波動、確率波であり、覚醒しているときの私は自己意識によって、おのれの波動を収束させ、粒にしようとする。このとき、波動が波動を粒にしようとして渦ができるのだ。水面の波も渦になるが、あれは粒子化しようとしている。そして、そんな渦になって私は宇宙なのである。睡眠時に、そんな覚醒時、自意識によってできた渦宇宙のなかを徘徊しているのだ。とすると、この覚醒時にみえる宇宙も渦構造なのだから、覚醒した神様の自意識によってうまれたのではないか。そして、神様の睡眠時に自分の作り上げた渦のなかに夢のように入ってくる。これがイエスなのではないだろうか。覚醒している父なる神さまと睡眠中の夢のなかの神の子イエスである。カルテジアン劇場のように自らのなかにいるのである。



シェリングの無底と汎神論についてである。サイコロを振ったら、ゾロ目がでる。感動のあまりおならをする。おならの逆噴射の原理で宙に浮き、たまたま、頭上飛んでいた小型円盤にぶつかって地球侵略戦争に発展。すべてはたまたま偶然なのである。量子でできているから偶然。ということは偶然性が神様なのではないだろうか。  
   シェリングの無底についてである。人間的自由の本質という本に登場する。そもそも、善悪っていうのがあるが、なにゆえ、善そのものである神様によって作られた人間は悪にはしってしまうのか。悪の存在証明を試みるのだ。神様は永遠になろうとして、憧れを抱くとき、無底があらわれるという。無底とは善悪なんて関係のない存在しているものたちの土台である。ただし、人間はこの善悪を選択できちゃう自由をもっているというのだ。

  汎神論についてである。神様とは世界とか、宇宙そのものだという説だ。代表者はスピノザである。宇宙には無数の属性があるという。やまちゃんに見立てると、やまちゃんをどこからみるか、視点によってブラピに見えたり、見返り美人のようにみえる。この視点が属性である。神様を感じるとき、ひとはふたつの視点、属性をみる。ひとつは時間をかけて思考すること、もうひとつは形や色の延長だ。

 
  まとめ

  存在の科学


  異次元理論


   すべては偶然ではないのか。確かに古典力学、ニュートン力学は必然にみえる。それでも、量子論では確率波だ。りんごを手から離すと万有引力の法則に必然的に従い落下。それでも、1兆分の1かはわからないが、落下しない確率もある。宇宙は時間が無限だからいずれそんな奇跡は100パーセント実現する。壁を人がすり抜ける確率だってある、これを量子トンネル効果という。すべてが実は偶然、量子の不確定性だ。だから、万物が神様ならば、偶然こそ神様なのではないか。偶然、無秩序、カオスである。不条理なことがおきるがこれは神の意向なのだろうか。
  量子の確率は自己適用される。確率じゃない確率、偶然ではなく、たまたま必然になる確率だってある。ここに、偶然から必然、カオスからロゴスが生まれる。無底から善悪がうまれるように、相反する要素がすべてこの偶然性から生まれる。

 

直感と自己意識についてである。いまこの瞬間に自分がいるんだ、と感じる。いわゆる自己意識である。びびっと電光石火のごとくひらめく直感。このふたつは同じではないか。しかも、日常のなかにある非日常的なSFマシンが関係している。タイムマシンと異次元移動マシン、じつにしょうゆ臭い日常のなかに当たり前のように使っていたのだ。

   直感とはなにか。哲学者カントは感覚的直感を認める。いわゆる五感によって情報収集だ。たしかに、時間と空間だけの純粋直感も認めたが、五感なしで超能力者のように感じ取る第六感、知的直感は断固反対だった。

  後に哲学者フィヒテはそんなカントを批判する。五感で情報集めて悟性で判断する認識のプロセスがわかったのはカント自身が知的直感やっているじゃないか、というのである。フィヒテもまた知的直感によって自分と自分以外のものをがんばってくっつけようする。シェリングはがんばらずに、天才的な知的直感で宇宙とわれの一体を主張。そして、ヘーゲルにおいて、フィヒテ、シェリング、どっちも直感といったなんだかあいまいなものをつかっているので、そうではなく理屈、論理的に自分と宇宙について論じ始める。

   次の話は自己意識についてである。自分を意識することだ。カントでいえば、統覚であろう。統覚はいろんな自分の情報をまとめる帯のようなもの。経験的統覚は経験的にわかるような個性的な自分のおおもと。その背後にひかえるのが根源的統覚というもので、みんなの人類共通の私だ。これがあるから、目の前の一本の木をみんなと共有できて、客観的に木があるじょとが認識できる、なぜなら、みんなが根本は同じ私だからだというのだ。

  まとめ

  存在の科学

   異次元理論

      自己意識といのは、今この瞬間の自分と対面。意識している自分と意識されている自分に分裂している。時間的に長期スパン、大昔の自分を回顧したり、未来の自分におもいはせる。これらが過去や未来の自分の意識に届くのだ。これが知的直感、ひらめきになるのだ。短期スパンの自己意識が通常の自己意識、長期のそれが直感なのである。これは私自身がタイムマシンであることだ。他人、他者とはひょっとしたらそうだったかもしれない並行宇宙の私である。異次元マシンによって他者の気持ちを汲み取る。かって、フォイエルバッハは神様とは人間性の現れだといったが、人間の中の要素を解体し、個別に取り出したものが、タイムマシンであり、異次元移動マシンではないだろうか。

全体論とモナド論についてである。胸に手をあて自分の心にきいてみる。胸をあてるついでに久々におっぱいでも触ってみる。心は体の中、内面にあるのだろうか。外界の宇宙のすべてが集約されてここに自分の心があるのではないか、というお話である。

   全体論についてである。別の名をホーリズムという。手足のパーツをくっつけて全体のモビルスーツ、プラモデルの完成だ。ところが、部分を集めても、全体はそれ以上のなにかがある。これが全体論。基本的に物理学は要素を集めて全体という要素主義っぽく、生物学はどっちかというとホーリズムだ。

  認識論や論理学ではクワインのホーリズム。デユエムクワインテーゼというものがある。仮説を立てる科学。びっくりすると、亀は首を引っ込める、という仮説。検証したところ、もしも、首ひっこめない勇敢な亀がいたら反証になる。もしも、いなかったら検証され法則になれる。ところが、この仮説は科学のあらゆる信念体系でできているという。亀っていっても、どんな亀か、首をひっこめるのは何センチか。そもそも、センチといったのだから、長さとはなにか。日本語で説明しているから日本語文法の説明も必要。こうやってあらゆる信念体系の総動員なので、一部を調節すれば検証でも、反証でもどっちにでもなるのだ。

   次の話はライプニッツのモナド論についてである。宇宙は原子っていう粒でできているとする原子論。ところが、点であるモナドでできているとする。モナドは点なのに、全宇宙を含む。肉まんは肉が入っているが、宇宙が入っているから、宇宙まんだ。しかも、おのおののモナドの個性的な風味、スパイスがかかっている宇宙がはいっている。そこから見た宇宙を含んでいるのだ。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論

   心はからだのなか、内面にあるようにおもえる。ところが、外界宇宙のあらゆるものの配置、チリやほこり、原子でも、とにかくすべてのものたちの配置が自分の心、意識になっているのではないか。しかも、いまここの時空点に外界宇宙のすべての配置が集約的にあらわれたもの。だから自分の中心の時空点が一ミリ動いただけで、相対的な配置関係もかわる。

  ところが、いまここの自我という時空点がどこにあって、どっち方向に動いているかは確定できない。ハイゼルベルグの不確定性原理では、量子の位置がわかったらどっち方向にどれくらいの速さでうごいているか、つまり、運動量がみえなくなり、運動量がわかると、位置がわからなくなる。だから、自我という時空点、いまここは確定しえないはずだ。この不確定性を超えたところに、自我の時空中心点があり、こことの外界宇宙のあらゆるものの配置関係が意識、精神、心になる。  
 

普遍的自我と集合的無意識についてである。歴史上、出現するなぞの飛行物体。UFOは火山などの天災、いろんな場面で目撃される。円盤をフリスビーと見間違えて飛びつき、噛み付こうとする犬の話は別として、とにかく、UFOなどの去来するものは人類の未来と過去の思いが形をもって出現したものではないか、というお話だ。

  普遍的自我についてである。哲学者カントは統覚と名づける。経験的統覚っていうのは、文字通り、経験的にみえたり、理解できるもの。そのひとの性格だったり、個性なのだが、いろんな情報をとりまとめている自分の中心だ。ところが、中心をもっとよくみると、もっと中心があった。これが根源的統覚といわれる普遍的自我だ。みんなの私である。Aさんも、Bさんも、その奥底には共通の私である根源的統覚がいる。だから、三人でりんごをみつめているとき、それが物体として存在していること、客観的にあるんだな、ということを互いに認めるのだ。なぜなら、根っこでひとりの私がみているからだ。


   次の話はユングの集合的無意識についてである。フロイトは個人的無意識、いやなことはストレスになるからトラウマといって、無意識世界に押し込めるといった。あたかも、個人の意識が社会とか大きなものに所属しているように、個人的無意識もまた、集合的無意識っていう世界に所属。だから、世界中の神話などはなんだか同じ構造をしているというのだ。
 
   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   前々回だったろうか。自己意識というのは、今この瞬間という短スパンで意識している自分が意識されている自分に関与しているものだといった。そして、自己意識の長期スパン、これが未来の自分への希望や、過去への自分への思いがそのときの自分に伝わって、そのときの直感、ひらめきになっているといったのだ。これを人類という種や、または生命という普遍的なものに当てはめるのである。人類だとして、人類の短期スパンの自己意識が愛である。そして、長期的スパンの自己意識、いわゆる直感が、人類の思い、人類という種存続のための歴史軌道修正であり、これがなぞの飛行物体や、戦時中に現れたフーファイターだったのかもしれない。


一元論と多元論についてである。足の指にライトサーベルをはさんで、せんべいをたべながらダースベイダーと戦うのは相手に失礼だし、まずは非常識だ。並行世界も非常識的な考えにみえるが、じつに日常の中に当たり前のようにあったりする常識、ふつうのことを言っていたりするのだ。

  一元論についてである。世の中、なにかひとつによってできていると豪語する。これを還元主義という。たとえば、すべては物質だ、とするオーストラリア唯物一元論。すべてはイメージ、観念の世界だとする観念論。さて、古代ではプロティヌスである。すべては一者から流れてくる、という。まずはヌースというもの、すなわち、秩序がうまれ、ここから万物が流出だ。

  次の話は多元論についてである。すべてがひとつではなく、複数のものの組み合わせなどでできているというもの。古くは四元素説。地水火風の四つの組み合わせという説。さらには原子っていう粒でできているという原子論。現代ではシュッツの多元的現実論。現実はひとつだというが、じつはいろんな現実があるという。しかもそれは、意識のありようで変わるという。意識が緊張しているかリラックスしているか、判断しているか、ぼーっとしているかというエポケーの度合い。時間遠近法、つまりは、過去に固執か、はたまた未来の希望か、それとも、今この瞬間の充実か。これらによって、現実は夢、狂人、芸術、科学といろんなものがあらわれる。このなかでも至高の現実があるという。これが日常現実だという。ここでだけ、われわれは他者とふれあい、コミュニケーションができちゃう。


  
 まとめ

  存在の科学


   異次元理論

すべてが確率波、量子の波動であれば、コペンハーゲン解釈のように、意識がその波をきゅーっと収縮させているのか。数学的にはいろんな状態をあらわすマトリクスを線形性によってひとつの流れにする。そもそも、意識の数学的表現が線形性かもしれない。今この瞬間にも、世界ではいろんなことがおきているが、すべてを把握できない。そのうちの目の前のものだけを意識している。

  エヴェレット多世界解釈だと、意識は量子とは無関係ななにかではなく、自分のからだや意識もまた量子だと考える。すると、プレゼントされて、箱を空けたら中にりんごがはいっているか、オレンジがはいっているか、自分が収縮させるのではない。そうではなく、りんごを見た私とりんご、みかんをみた私とみかんにわかれる。だから、世界はたったひとつ、一元論的にあるようにしかみえない。ただし、こんな世界でも多の世界が現れている。確率である。まだ確定していない確率や偶然性、これは多世界のすべてが関与している現象であり、この一なる世界に重なっている多世界の姿だ。一元的かつ多元的な世界なのである。必然と偶然、法則と確率の共存世界にいる。



存在了解とアナロギアについてである。外界を見渡すと、万物がたくさんある。宇宙、そして、万物とはなんなのか。至極当たり前なことを思う。それでいて、答えがでない。紙パックの牛乳、あきかん、電柱、星、すべては自分が薄まった確率となっている存在ではないか、というお話をしたい。

   哲学者ハイデガーの存在了解についてである。人間はただ存在しているだけではない、という。存在とは何かって問うことができる存在、これを現存在と名づける。問うっていうことはまったくしらなかったら問えない。よく知りすぎていたら問う必要もない。うっすら知っているから存在了解。まずは、自分自身が分身の術、自分が自分にかかわっているので分裂の術。この自分とのズレが時間地平。さらに、このずれが自分の存在そのものをうっすらかんじさせる。存在地平が開かれる。さらい、そんな存在地平があって、この上にいろんな存在者が出現だ。

 次の話はアナロギアについてである。この物体は酸性かあるいはアルカリ性か。分析したり、リトマス試験紙を使う。ところが、あまりにも大きなものは分析できない。存在そのものとか、神様である。この場合、類比性とか類似性であるアナロギアっていうやり方を使う。職人さんは家を建てる。きっと神様も万物をつくったのではないか。類似点を探すのだ。そして、存在のアナロギアというのは、存在そのものはあまねくすべてに内蔵する、分有するというもの。あんまんはあんこ、にくまんにははいっていない。存在はひとつのような感じだが、じつにすべてに分け与えられている。
  

  まとめ

 
 存在の科学

   異次元理論


  量子、たとえば、電子一粒に着目。この電子がどこにいるかを観測できる観測機械があるとしよう。まずは夕陽丘三丁目。つぎに観測したときは、旭丘2丁目にいた。こうやって、電子は観測前は波動で、観測時に収縮して位置が確定。これをコペンハーゲン解釈という。さて、エヴェレット多世界解釈はおのおのの電子は別の平行世界にいる。そして、これらをグラフ化する。三次元ではなく、二次元で空間をあらわす。縦横、xy座標で空間位置。高さを確率にする。すると、夕陽丘で発見したとき、その場所での確率波はほぼ100パーセントに近く、その他の場所はほぼ0パーセントだ。こうやって観測を繰り返すと、つにはとげとげのような波形が二次元平面を埋め尽くし、無数の波形の頂点、先端によって滑らかな波形をつくる。これが万物、世界、宇宙ではないのか。つまり、無数の並行世界が隙間なく重なり、あつまったものだ。だから、この世界はたった一粒の量子の並行世界的な分裂によってうまれる。通常は量子のような小さなものは分岐したさきとも干渉する。これをコヒーレンスという。ところが、大きなもの、人間のからだなどは右手をあげた私と右手を上げなかった私にわかれたあと、互いに干渉しあわないという。これをデコヒーレンスという。そして、ここでいいたいのだが、おおきなものも、体や意識も量子でできているのだから干渉しあって、この世界をつくっているのではないか、といいたいのだ。ひょっとしたら旭丘三丁目でしゃがんでいたかもしれない私、アメリカにいて大リーガーの私、これらの無数の私の状態がこの三次元空間にうめつくされて、外界世界になっているのだ。外界世界は薄まった私の集まり、並行私が埋め尽くされたもの。だから、指示の魔術というあのなぞ。外界のものをどうして意識に反映できるかという疑問も答えられる。そもそも、そこにあるりんごを感じ、認識できるのは、りんご自体が薄まった並行私なのだ。梵我一如、宇宙とわれの一体もここから説明がつくのではないか。そして、存在そのものの了解、宇宙、世界がある感覚も、薄まって並行存在する私ゆえにうまれる、アナロギア的に私はすべてにいるのである。


主意主義、主知主義、そして、光のメタファーについてである。太陽が脳で地球は眼球だといったら、とりあえず、腰を抜かして驚いてみる。太陽と地球、さらには並行世界も調味料に加味して考えていきたい。
 
  主意主義と主知主義についてである。主意主義とは字は体をあらわすが、世界、宇宙っていうのはまず意志があってこそ、存在できちゃうと考える。ショーペンハウワーのように、個人の意志のうえにいろんな表象、イメージ、同じく宇宙にも意志があって、表象としてのイデアが乗っかる。ニーチェもまた、無から自分の意志で価値をうむ、りきむのである。全面的主意主義といって、中世では神様の意志がすべてだという考えもある。

  主知主義はこれとは反対だ。意志がなくても、世界っていうのは前からあったし、今後もあり続けるというもの。たとえば、プラトンのイデアだ。サンダルだっていろんなサンダルがあり、しかも、時間とともにくたびれていくものだ。ところが、サンダルそのもののイデアはくたびれない。時間の流れがない。具体的なここにあるサンダルはそんなイデアの影だという。

   次の話は光のメタファーについてである。メタファーというのは比喩のようなものだ。抽象的なものを具体的なもので説明。やまちゃんの人生をお好み焼きの作り方にたとえるようなもの。人間の認識っていうのは漠然としているが、まるで光線のようなものだ。目から光が放たれるのだ。

   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   太陽は核融合ではなく、プラズマなのではなか。すると、人間の脳も一種のプラズマなので、太陽は脳ではないかとなる。そして、眼球は視神経で脳につながるが、この視神経とつながっているところは見えない、盲点になる。同じく、地球は青い目と白目の眼球であり、太陽とは黒点を通してつながり、黒点は盲点なのだ。黒点の数の変化、黒点が消えることもあるが、これは太陽が外界、他の宇宙をまなざしているのだ。黒点が多いときは、自分自身の脳をみようとしている、つまりは内省しているのだ。

  地球は自転公転しているが、これは眼球なので、あたりをなるべく多く見渡すためなのか。ここで量子論を引き合いに出す。まるで、やぶからぼうだ。二重スリット実験で電子を拡大すると粒になって、感光版にはただの筋を映し出す。あまりに拡大したので、スリットのいだが途方もなく電子にとっては大きい、だから、波動の干渉をしないのだ。ふつうにこの二重スリットをみれば、電子は見えないし、スリットの間隔が短いので波動として干渉し、感光版には縞模様ができる。地球は太陽にとって小さい。だから、太陽にとっては波動でしかない。実体、粒子性がない。眼球を脳が意識したり、みたりしない。目を波動にして認識活動するのだ。

  太陽は基本的にみてはいけない。まぶしすぎるのである。太陽にてらされたものをみる。つまり、脳、意識の光によっててらされた映像、つまりは、表象やイメージを認識しているのである。


 無の中心とフリンジについてである。細胞分裂、忍法分身の術、これらが並行世界と同じ構造といったらどう思うのだろうか。そして、分身したところで、本物の忍者がそのなかにいるのが、分身したコピーもまた自分がうすまったものであること、これが世の中に確率、偶然があることの必須条件になっているというお話だ。

  西田幾多郎の無の中心についてである。無に中心なんてあるのだろうか。そもそも、あたまの中心がつむじだとしても、無の中心はすべてなのだろうか。そして、そんな無が自分を限定するという。これはAさんがAさん自身のヘアーを改造、つまりは整髪しているようなこと。無が自己限定して、有がうまれ、ついには万物多様性の誕生だ。

   次の話はウィリアムジェームスのフリンジについてである。フリンジとは、オーラのようなもの。オーラを放っているひとをたまにみかける。中心は濃くて、周辺はうっすらしている。人間の意識は断片的なものがあつまっているだけでなく、中心と辺縁、周辺があり、周辺はうっすらしているというのだ。

 まとめ

  存在の科学

  異次元理論

  母体のなかで卵子に精子が受精、そして、細胞分裂を繰り返す。こうやって体が大きくなるのだが、細胞間のネットワーク、これを統率する概念上の中心があるのだ。有機体の中心である。こどもがうまれ、自意識に目覚める。意識もまた、断片的情報をまとめる中心性があり、まさしく、フリンジだ。そして、認識、伊s期だけでなく、行動し、このときにエヴェレット解釈のいうように、自分をも含めた世界が分岐する。私は右手をあげるか、左手をあげるか、半分の確率であり、右手をあげたら100パーセントだ。実質、多世界解釈だと、自分も量子であり、まるごとその世界にいってしまうので確率の意味を失う。コペンハーゲン解釈だと意識は特別であり、波動、確率をきゅーっと収縮させる。この中間を模索したいのだ。そして、世界の分岐は細胞分裂と同じであり、中心性がすべての細胞にかかわるように、中心的な私は多世界における選択されなかった世界とかかわるからこそ、確率、偶然性がうまれる。

  高度な文明を持つ宇宙人がいたとしよう。この宇宙人はひとのそっくりなコピーをつくれる。やまちゃんのコピーをねむっているうちにつくり、一方は宇宙人の星で奴隷、他方は地球で平和の生活をさせる。やまちゃんはめざめるまで、半分の確率でどっちかの自分になる。ところが、地球の50億人の人口、すべてのなかからひとりだけ、コピーをつくり、そのコピーのかたわれを奴隷にするといいだす。すると、50億分の一だから確率が低い。それでも、やまちゃんは主観的には次の日の朝、宇宙人の奴隷になっている確率は50パーセントなのだ。つまり、多世界解釈は主観的な確率、50億文の1というのは客観的な相対論的な視点なのだ。確率が全部100パーセントにならないのは、別のパターンにまで薄らいで意識が及んでいることなのである。これがコペンハーゲンでも多世界でもない第三の中間的立場かもしれないのだ。
  
進化論的認識論と世界観学についてである。古代人の叡智に魅了される。ピラミッド特集のような番組に釘付けにんる。なんで高度な数学、天文学、技術をもっていたのか。街中にはちゃらけた若者がふらふらしていたりしていなかったと思うと、文明の偉大さに感無量である。古代人はわれわれが思う以上に超越的な力をもっていたのではないか、とホログラム宇宙論から検証したい。

   進化論的認識論についてである。哲学者カントなどは、認識論においては基礎付け主義的だ。基礎付けて、根をはって身動きひとつしない。感覚が外からやってきて,これを悟性でまとめて判断するのが人間の認識だという。ところが、認識も進化、変化してるんじゃないか、というのが進化論的認識論だ。ダーウィンの進化論ではサルから人間に進化。あくまで、体つきなどの変化、進化。ところが、認識も進化しているのではないか、という。ものの見方も固定されていないのではないか、というのだ。これを個人の成長に当てはめると、発生論的心理学などになる。集団や種がまるごと変化するから発生論的ではなく、進化論的になる。

  次の話は世界観学についてである。世界っていうのはこんなものだろう、と歴史や時代の影響をたっぷりうけてわれわれは持っているというディルタイ。歴史相対主義とう。ところが、フッサールはそんなディルタイは世界観学であり、自分は永遠の真理を求めている、厳密な学としての哲学だと主張した。

 
   まとめ

 
 存在の科学


   異次元理論

古代人、たとえばピラミッドの技術や理論はすごい。ピラミッドの底辺の二つの和と高さから円周率や黄金比が導かれる。しかも、つかっている長さの単位は一メートルの六分の一。メートルは極点から赤道までの距離に基づいて作られた、ということは、古代人は地球の大きさを知っていたのか。さらに、ピラミッドの内接円と外接円から光の速度が求まるという。

 もともと、ピラミッドの石を運ぶのに人力というのはおよそ信じられない。重機があっても難しい。おそらく、古代人は現代人と違う世界にいた。そして、能力もぜんぜんちがったのだ。原初の宇宙に近ければ、ホログラムの二次元の原版を忠実に再現しているはずだ。それが、時代を経るとともに、バグが発生し、人類が多様化し、本来のプログラムからずれてきた。本来は移動はテレポーテーション、現代人は重機や技術、人力。古代人はテレキシネスだ。現代人は記憶、帰納法に基づく予測。ところが、古代人はタイムトリップだ。こうやって、超越的な力は変貌し、知識と技術がこれを相補ったのが現代人。最初はロゴスというプログラムがあり、これを忠実に再現すべく実行、だから、建造物が高度な数学の理にかなう。ところが、現代人は肉からロゴス、言葉を放つのだ。
 
存在と無、ヒューム哲学、そして、メルロポンティの哲学についてである。パラレルワールドといえば、なんだか事務的な手続きにあまりでてこない。日常とは疎遠のような気がする。ところが、人が意識活動したり、ふつうに口笛吹きながら道端の岩石を蹴飛ばす、日常の一こま、ここにはパラレルワールドがどっぷりとあらわれていたのだ。

   哲学者サルトル、存在と無、についてである。こんにゃくはこんにゃく以上、以下でもない。自分と一体になっている。即、自分やっているんで即自存在といい、いわゆる物体だ。ところが、意識はちがう。いまのおれだ、といったら、もはやそれはかってのおれでいまはない。あるところのものではなく、あらぬものである。自分にご対面するから対自存在。きゅうりを意識しているときも、私はきゅうりではない、という無を分泌。自分の中に無を分泌すれば、意識しちゃっていると意識されちゃっているにわかれる。ただの存在ではなく、無を分泌しまくる存在だ。

  次の話はヒューム哲学である。すべては印象だという。何かを感じているのだ。ところが、色とか、形っていう感覚は強烈な印象。これに対して、イメージ、観念が複合されたものは薄まった印象だという。原因がったら結果がある。これを因果性というが、押すと扉が開くと、繰り返し、習慣によって因果性ができるという。実体性も複合観念であり、トイレにはいるとティッシュある、と繰り返しみれば思い込む。自分がみていなくても、おとなしくそこにはティッシュがそれ自体であるにちがいないと信じる。そもそも、自分の存在すら信念。私はいつも意識しているが、そんないつも感じているなにかを束にした習慣的なものが私ではないか。だから、私も世界もあるとはっきり断言できないのだ。

  最後にメルロポンティの哲学だ。すべては存在、同じ肉でできている。空気だって肉だ。しかも、そんな肉は全部つながっていて、溝があり、自分と他人、見ているものと見られているもの、見えるものと見えないものがわかれている。反転すれば、見られている石ころになったつもりでこれを感じ、見えないものになったつもりで意味を汲み取る。見えないものとは意味のことだ。

  まとめ


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多世界解釈とは本来は常識的、当たり前のことではないのか。街角から突然、犬と出会う。確率的には何パーセントであろうか。少なくとも、バッファローと出会うより低い。ところが、自分にとっての確率は二分の一。まだ、見ていない波動状態。これを収縮するのではなく、自分をも含めて、犬を見た自分と犬、バッファローを見た自分とバッファローという世界に分かれる。だから、100パーセントの確率だ。そもそも、確率というものがなくなる。すべての可能なことが100パーセント実在している世界。ただ自分にとってはこの犬とであった世界が唯一無比であり、だから、世界は無数にあるのに、ひとつでもある。一元論的多元世界なのだ。しかるべくして必然的に犬とあったとすれば100パーセント、稀有、奇跡だったかもしれない。まったくもって100パーセントか、0パーセントしかない。必然、運命かはたまた稀有、奇跡か。存在と無であり、すべてはしかるべきで存在しているとも、すべては奇跡で無だともいえる。存在は1、無を0.存在は女性原理で、無は男性原理。まるで、0と1の二進法のようで、ただの情報のようだが、実に0と1、存在と無が共存しているのだ。そもそも、いまこの瞬間、私は意識活動している。サルトルのいうような無を分泌する存在g意識なのだから、有と無、1と0、必然で運命であると同時に、稀有で奇跡なのである。



存在到来と記憶の即自性についてである。夜空を見上げると巨人の星がきらめく。いろんなほしがみえるが、いかんせん、視力がよくてもブラックホールがみえない。それとはひきかえ、ひときわきらめく巨人の星を指さして、巨人の星をゆびさきでつついてしまう。そもそも、ブラックホールとはなんなのか。じつは宇宙の記録、記憶装置、もしくは大脳の中枢なのではないのか。

      ハイデガーの存在到来についてである。ハイデガーもまた、前期と後期思想はちがう。前期はどっちかというと力む思想だ。ん〜っと力んで出す。自分から自発的に力んで脱皮。自分から自分が抜け出す、いわゆる超越だ。この超越によって自分の存在そのものがみえちゃう。これが存在地平であり、このうえに芋ようかんだの、缶ジュースだの、あらゆる存在者があらわれる。

   後期のハイデガーは力まない。古代ではパルメニデスは存在そのものっていうのは考えることだといった。主体的に考えているなっていうことを考えちゃう。近世ではデカルトであり、われおもうゆえにわれあり。やっぱり自分からスタートして自分の存在に気がつく。これらは存在そのものを忘却しているという。その最たるはニーチェだという。この世界は絶対的な価値がない、相対的価値で、無の時代。ニヒリズムだからこそ、自分が主体的に価値をつくっちゃえというニーチェ。これこそ存在忘却だという。存在そのものは向こうからやってくる。送られてくるが包装されていて、存在者のかっこうでカモフラージュされてきたが、無の時代、ニヒリズムだからこそ、存在が裸でやってくるという。

   次の話はベルクソンの記憶の即自性についてである。記憶は脳のなかではないという。目は色、形を受信。鼻はおいならのにおいを受信。脳は記憶を受信するアンテナ。しかも、記憶はどこにあるかといえば、みえないけど、そこかしこにそれ自体で、即自的にあるのだという。

   まとめ

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   エントロピーという概念がある。ちらかっている部屋。ごみや本、工具、これらが散乱していると、その組み合わせのしかたは無数にあり、カオス、無秩序状態だ。これがエントロピーが高い状態。ところが、整理整頓されている部屋、本は本棚、ごみはゴミ箱にある。組み合わせ数が少なく、秩序だっているのでエントロピーが低い状態。水は水蒸気のときは水分子がでたらめに動き回っているので、エントロピーが高い。ところが、氷は水分子が整列しているのでエントロピーは低い。自然は常にエントロピーが低い状態から高くなる。家だって、ダムだって、秩序あったのだが老朽化していずれこわれるのだ。ところが、ブラックホールは真逆のことをやっているというのだ。
  ブラックホールはあらゆるものを吸い込む。そして、強烈に圧縮するのだ。光も吸い込むが、どんどんブラックホールに落ち込んで加速し、光速を超えた段階でもう戻れない。これがブラックホールの内部の事象の地平面である。ここにさきの吸い込まれたものたちはへばりつく。しかも、圧縮されてエントロピーが極限に低い状態でへばりつき、高さのない面にまで刷り込まれる。このとき、壊れた掃除機はもと秩序ある掃除機になってその情報が刻まれるのである。すべてのいままであったが壊れてしまったものが低エントロピーになってその情報が記録される。そして、光が事象地平面を超えて内部に入り、光速を超えてタキオンになる。タキオンは時間を未来から過去へのと逆行するので、また、事象地平面の外に光となって現れ、また吸い込まれる。これを繰り返し、事象地平面の内外をいったりきたりと、かちかちとアクセスをはじめ、地平面上に刻印されている情報を読み取って、三次元空間にと上にさせるのである。ブラックホールは宇宙の記録媒体、記憶であり、アカシックレコードなのだ。

  そんなブラックホールと太陽と地球が12月21から22にかけて一列に並ぶのだ。これは地球のいままでのすべての事象、出来事、どんなに細かいことまでもすべて刻印され、記憶することではないのか。銀河の中心のブラックホールが記憶する。銀河が地球の全情報を汲み取るのである。

志向性とフィンクの傍観者についてである。地球と太陽が一直線にならぶどころか、銀河中心のブラックホールとも直列だ。これは一体、銀河にとってどんなできごとなのか。じつに、地球をじーっとみつめて、地球の砂粒にいたるまでのすべての情報を汲み取るのである。
  フッサールの志向性についてである。意識とは、いわゆる魂のように、火の玉みたいなものとか、ハート型をしているのだろうか。そうではなくて、かならず矢印になっているという。意識とは単品ではなく、かならずや何かを意識しているという。まず、料理をつくるのに材料、素材を冷蔵庫から取り出す。意識もまた、感覚的材料、ヒュレーを矢印で突き刺す。この矢印は意識作用、ノエシスであり、つきさした素材でできあがったイメージ、意識対象、ノエマである。ノエマはできあがった料理のようなものだ。これらを意識の志向性と名づけるのだ。


  フッサールの弟子のオイゲンフィンク、傍観者についてである。意識について冷静にありのまま考察しちゃう現象学。そんな現象学も、現象学してしまえ、というのが現象学の現象学であるフィンクの宇宙論的現象学だ。意識しているということを遠くで、おれバナナ意識してるわ、と傍観している自分がいるというのだ。


  まとめ

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銀河中心のブラックホールは事象地平面に記録し、記憶する。まるで、人間の脳の中心、大脳辺縁系、海馬のようだ。海馬は記憶や感情、意志をつかさどるという。事象地平面の内側は混沌であり、その面上には整然と記録sれている。これが太陽系の中心でる太陽、自転する地球と重なる。以前、お話したが、太陽は知性であり、地球は眼球や肉だ。つまり、銀河は地球のすべての事柄、いまはエントロピー増大で破壊されても、その元の姿、出来事を復元し記録、記憶するのだ。まさしく、銀河中心、太陽、地球という意識の志向性になっているのだ。個々から、なぜ記録されるのかだが、おそらく、裁定がなされるための記録である。最後の審判なのではないのか。

  太陽系の中心は銀河の中心、銀河はまた何かを中心に回り、それもまた何かを中心にまわる。こうなると、全宇宙のすべての宇宙大中心がみえてくる。これが意識における究極の傍観者だ。



刺激布置の自発的体制化と現象についてである。いままさにゴキブリを新聞紙丸めて叩こうとしているとき、宇宙について思索しちゃう。宇宙っていうのはまるで曼荼羅のようではないのか。太陽系、銀河系、これらもまた何かを中心にまわる。さらにいうと、これはいままさに感じている現象の世界そのものと一緒だと気がついたとき、ゴキちゃんの姿は消えていたのだ。

   ゲシュタルト理論、刺激布置の自発的体制化についてである。ゲシュタルト理論といえば、パーツを君合わせてオオアリクイのプラモデルを作るやり方とは全然違う。部分を集めて全体ではなく、全体と部分が関係しあうのだ。なんだか被写体として輪郭があるが、これが背景との関係でだんだん立体的になる。音だって、単音ではなく、ほかの音との全体的なつながりで美しいメロディになるのだ。

  紙に三角形を書く。ここにインクをたらすのだが、三角形の辺の上にこぼしてもシミは目立たない。辺からずれたら目立つ。これは意識している私の心理的な働きdろうか。刺激布置といって、布におかれたもの、三角形と点との関係は私の心理とは無関係に自発的にシステマチックにやっているのでる。これがこんどは物理的ゲシュタルトというものにも当てはまる。表面張力などもゲシュタルトだという。生理学的なゲシュタルトだって、脳のここの部分が感情だというのではなく、ゲシュタルト的に全体的に働いている。これらも布置の自発的な体制、自分自らがシステムをつくるのである。

   次の話は現象についてである。現象とは感じている世界だ。だからたしかにうすっぺらい。こっちからみたくるま。それでも見た目ではなく、くるまとはなんぞやという本質がある。現象というのは本質と反対なのだ。

  ヘーゲルの精神現象学では、現象と本質をアウフヘーベン、混ぜ合わせてレベルアップだ。そんな宇宙の現象は精神だというのである。これはまるで、個人の意識の発達のように、いつしか、自分が宇宙であることを自覚し、絶対精神になるというのだ。

   まとめ

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    太陽のまわりをまわる地球。そんな太陽系は銀河中心のブラックホールのまわりを周回。これらブラックホールと太陽と地球が一直線に並ぶとき、ブラックホールに事象地平面にその惑星情報が記録。同時に映写機のようにブックホールから映像を映し出す。銀河もまた、何かを中心にまわっていて、直列になったとき、銀河情報が記録される。これらもまた何かを中心にまわる。こうやって周回するものたちは情報を記録しながら、ついには宇宙大中心に達する。ところが、最初に大中心がるのではない。この宇宙構造はまるで、現象界なのだ。私はパーツをくみあわせて現象を意識しているのではない。ゲシュタルト的な字hつ的な体制化で、自己組織化のように現象それ自体が展開し、ついには究極の傍観者である大中心がうまれ、これが私の意識になっている。意識が現象を把握ではなく、現象それ自体の運動が私をうむ。

ハイデガーの時間性と時間対称性についてである。2012年、ブラックホールと太陽と地球がなんと一列に並ぶどころか、うちのカレンダーも今年いっぱいで終わりではなく、マヤのカレンダーが長期周期で終わるという。これは時間、意識の大変革期なのではないのではなかろうか。しかも、後ろからみると美女、正面からみると野獣。いわゆる双対性の原理を生死に当てはめることによってこの新しい時間を理解できるのではないか、というお話をしたい。

  ハイデガーの時間性についてである。時間とは大きく二つあるという。本来的時間と非本来的時間だ。非本来的時間は別名、通俗的時間という。なんだか、みんなが通俗的に普通に従っている時間。みんな共有している時間なので、話題だって共有、気楽にすごせる。あれやこれやといろんなものとかかわる。いわゆる、ブティックに行けばいろんなお洋服に目がいく。存在者にあれやこれやとかかわる時間だ。ところが、本来的時間はちがう。存在そのもの、自分の存在そのものと丸ごとかかわる。これは気楽ではない。むしろ不安そのものだ。自分の存在は生まれてから死ぬまでである。うまれる前の歴史、これをうけいれざをえない。選択の余地なしに、世の中になげだされた。これを被投性という。未来に企てる企投性、その先には自分がいなくなった死がある。私がいないという無にサンドイッチされている自分の丸ごと存在。両方の無に手をかけて自分の存在をつかむのである。このとき、不安がうまれ、これが本来的時間だという。これはいってしまえば、なにごとも命がけの時間だ。

   次の話は時間対称性についてである。物理現象はたいてい、録画して、それを逆再生しても辻褄があう。ところが、人間や複雑な有機物はそうはいかない。この原因と結果を反転させてもだいじょうぶだよ、というのが時間対称性だ。

  まとめ

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   双対性の原理というものがある。こっちからみると、丸いけど、横から見ると、長方形。同じ円筒形のお茶の缶だ。同じものなのに違ったように見えることが双対性だ。さて、話はブラックホールである。何もない、無というのは物理学では量子場だという。粒子と反粒子が対発生し、瞬く間に対消滅して消える。ところが、ブラックホールの近傍では、対発生した粒子反粒子ペア、この反粒子だけを吸い込んで、残ったやもめの粒子がブラックホールから抜け出すというのだ。そして、ブラックホールの重力に対抗しているから粒子はくたびれて遅くなる。これがブラックホールからでている煙のようなもの、ホーキング放射である。粒子の速度が遅くなるということは、相当強い重力であり、片割れの反粒子は加速しながらブラックホールの光速を越えてしまう領域、事象地平面へ向かう。しかも、この事象地平面をこえてしまうと時間が逆転するので、ここまでは吸い込まれた反粒子は無限にひきのばされた時間を進む。よって、無限の時間をかけて事象面に向かうのだ。ブラックホールの外部観察者にとってはブラックホールの内部の高熱でおそらく反粒子は焼き尽くされると考えられる。

  ところが、内部のもの、たとえば、Aさんが箱にはいって吸い込まれる。すると、地球上空から箱にはいって自由落下するときと同様、Aさんにとっては落ちている感覚はなく、空中浮遊と同じなのだ。スカイダイビングもそうである。当人は落下とはおもわない。しかも、ブラックホールに吸い込まれているAさんは周囲の状況も、加速していないから温暖であり、事象地平面には無限の時間のかなたに到達する。つまり、外部観察者にとってはAさんは焼き尽くされ死す。ところが、内部観察者、Aさん当人にとってみればふつうに平然としていられるのだ。これは双対性である。いってしまえば、他者は私にとっては外部からしか観察できないから死にみえるが、当人にとって見れば死ではなく生、普通に生きているのである。生と死にも双対性が成り立つのだ。

  銀河の中心のブラックホールと太陽と地球が直列。これが12月21日の今日である。われわれは太陽系の時間にしたがっていた。時間は意識なので、太陽系の意識だった。この太陽系の時間がマヤでは短期時間。しかも、ハイデガーのいう通俗時間になる。ここから本来的時間がうまれたが、この先にある時間、または意識があるのだ。銀河の一周の長期暦ももつマヤ文明。その長期暦の終わりが12月21ということは、これを境に太陽系時間、太陽系意識から銀河時間、銀河意識にシフトするのではないか、と予想できるのだ。そして、この銀河意識は次のことを悟らせる。物理現象は時間可逆的、つまり、時間対称だが、複雑化したこの世界はあきらかに非対称。だから、意識のある生命、これは時間を未来から過去へと逆行するのだが、この生命と膨大な無機的な物質時間が合い合わさって互いに相殺して、時間対称性を成立させていた。これからは無機的物体でも精神、意識でもない、半精神半物質の銀河時間に従う意識レベルへとシフトすることを知らせるのである。




構想力と判断力批判についてである。商店街のくじ引きであてた洗濯機の栓を抜く。すると、水がまるでブラックホールのように渦を巻き、うっかりとり忘れていたあのうさぎちゃんの靴下が吸い込まれそうになる。そう、ブラックホールとは銀河の中心にあるのだが、なにをしているのか。それがなんともっとも重要なことをしていた。宇宙の創造と記録である。

  哲学者カントの構想力についてである。構想力はいってしまえば想像力のようなものだ。カントは、人間の認識をビジュアルとか感覚的なものだけでなく、これを理屈、ロジックでまとめたものだという。このとき、理屈と感覚というまったくもって反対なものをどうやってむすびつけるか。感覚と悟性、カテゴリーの仲介をするのが構想力だ。

  構想力には二つある。友人の顔面をみていて、つぎにすかさず後ろに回り込んで後頭部をみる。このとき、友人の顔面を忘れしまったらだんだん恐ろしくなってきて逃げてしまう。後頭部をみていても、あの懐かしい笑顔をビデオのように再生するのだ。これが再生的構想力だ。これにたいして、産出的構想力はイメージを結びつけるのではなく、感覚と悟性、感性と理屈をくっつける。まず、産出的構想力はなにもないところから手品師のように超越論的時間規定を産み出す。いわゆる時間である。感覚的なものも色が変化したり、とにかく時間に従う。論理、理屈、カテゴリーのなかにも原因と結果という因果律がある。つまり、時間を共有しているからこれを仲介にさせて結ぶのである。

  次の話は同じくカント、第三批判書である判断力批判についてでる。第一批判書は純粋理性批判。人間の認識について研究。結局、りんごの上っ面な現象を認識できるけど、りんご自体、物自体はわからないという。第二批判書は実践理性批判。物自体はそれ自体、だから、然りである。それははるかかなたでわからないのではなく、自分が実践するとき、道徳的実践するときは見返り求めないのだが、これが汝なすべし、然りであり、まさしく物自体だという。実践をプラクティス、実用はプラマティッシュであり、見返り求める、なんとかのためにそれをおこなったというのは、然りの物自体ではない。

  そして、第三批判書はそんな前述の二つの批判書の合体バージョン。認識するときも、これはりんごだと判断し、あたまごなしに規定的判断力。そうではなく、こんどはすべての自然、美そのものが相手だ。もはや、規定できないほどスケールがでかいので、控えめに謙虚になって、反省しながら判断するしかない。これが反省的判断力だ。


 
  まとめ


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   ブラックホールとはすさまじい重力だ。光をも吸い込み、光が落下による加速で光速を超えるともはや永遠に戻れないというその限界面、これが事象地平面である。

  世の中には無秩序、でたらめなものがある。これはエントロピーが大きい。他方、秩序だったものはエントロピーが低い。水蒸気は水分子がでたらめに動き回るのでエントロピーが高い。ところが氷は整然と水分子がならbンでいるのでエントロピーが低いのだ。ブラックホールは収縮させるので、事象地平面に達するまでは無限の時間が要するが、ここではエントロピーが究極に低いのだ。つまり、無秩序、壊れた洗濯機を投げ込めば、それは秩序をもち、つまり治った状態で事象面に情報が記録されるのである。もちろん、実体ではなく情報である。ある数学者はブラックホールの情報蓄積量はその体積ではなく事象地平面の表面積に比例するという。表面にはもっとも小さな長さ、プランク長さのマスがしきつめられ、そこに0か1の情報がはいり1ビット。ブラックホールは膨大なビット数だ。


  さて、話は高次元のブラックホール研究にうつる。五次元空間には三次元の宇宙がしきつめられている。イメージしにくいので無限の三次元空間を無限に広がる厚紙にたとえる。厚紙にはまた別の三次元宇宙、厚紙がかさなる。この三次元の厚紙を三次元ブレーンという。そして、五次元の部屋を身圧のである。三次元ブレーンに両端がひらいたひもが付着しながら動き回る。これがいわゆる万物を構成するひもであり、隣の三次元ブレーンにうつれないようになっている。これに対して、閉じたループ状のひもがありこれは五次元バルグを自由にうごきまわる。五次元ブレーンに高密度に湾曲したブラックホールのようなもの、ブラックブレーンがある。すると、計算上、ブラックブレーンの湾曲したところにある両端部がひらいて湾曲部上を移動するひもの動きがなんと、湾曲の内側の閉じた自由に動き丸ひもと挙動が同じだという。これを三次元のわれわれの世界のブラックホールに当てはめると、なんと、事象地平面に刻印された情報がこの三次元の万物の動きと一致しているのだ。つまりは、この宇宙はブラックホールの事象地平面の情報が投影され、映写機のようにうつしだされているもの。しかも、そんな宇宙の情報をこんどはブラックホールは録画機能で記録する。こうやって映写機であると同時に記録するビデオカメラでもあるという、実践と認識、想像と記録を同時になやっているのが部落ホールだったのである。判断力批判における認識と実践の中間的な立場、これが全宇宙把握のための反省的判断力だったのだが、まさしくブラックホールがやっていることだ。西田幾多郎の行為的直観でもよい。サルトルのいう非現実化作用がはたらかずに現実化してしまうブラックホールの想像力。映写機であると同時に記録カメラであるという宇宙そのものを構成するマシンといっても過言ではない。


    非現実化作用とアウフヘーベンについてである。パンツを変えたり、洋服を着替えたりどこではなく、われわれの最も足もとにあるもの、時間そのものが変わるのではないのか。粗品でもらった腕時計からブランド物に代えるのでもない。新しい時間に生きることで得られるであろう信じられない超越的な能力、これについて考えてみたい。

   哲学者サルトルの非現実化作用についてである。やまちゃんをじろじろと観察。それでも、足の裏はみせてくれない。観察というのは無限の視点があるので、不完全なのだ。ところが、山ちゃんがわけあってここにいない。するとあの哀愁漂うやまちゃんの背中をイメージ、想像することができる。それどころか、どこから見たわけでもない、やまちゃんっていう知的な概念すら瞬時に浮かんでくる。この想像力を準観察といい、時に観察よりも現実的だという。これだと、みんなが行動し、社会的な営み放棄して、ひきこもり、妄想、想像にふけってしまい、種の存続が危機だ。そこで、なんだかわからないが、想像っていうのは現実じゃないんだよ、という非現実化作用という力が加わるというのだ。


   次の話はアウフヘーベンについてである。弁証法というものがある。古代ギリシャのソクラテスは対話だという。互いに相手の中からいいものを引き出して、高めあう。これがディアレクティケーという。近代ではカント。真理の探究は超越論的分析だといい、人間の能力が行き過ぎないように超越論的弁証論があるという。というのも、宇宙は自由があるか、まったく必然か、神様はいるかいないか。二つの答えがどっちも正しいような感じになり、迷ってしまうという。このあとに、ドイツ観念論のフィヒテ、シェリングが、矛盾こそが自然の原動力だといいはじめた。そして、ヘーゲルにおいてはこれを理屈で説明だ。対立、矛盾しあうものがアウフヘーベンしてレベルアップするというのだ。アウフヘーベンとは、対立しあったものがであって解消、しかも、高めあって、同時に、互いに保存されること、徹底的に矛盾しているのだが、これが万物の根本にあるという。


    
  まとめ


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   われわれは太陽系の時間に従っていた。昼があり、夜がある。二元的なものが原理なのだ。善悪、真偽などである。マヤの短期暦であるが、長期暦が先日終わり新しい長期暦のスタート。これはブラックホールを中心にする銀河の時間だ。時間とは意識であり、太陽系時間意識から銀河系時間意識へのシフトの序曲ではないのか。ブラックホールは以前はなしたが、生死を越えて、生死の双対性を示した。時間対称性でもある。だから、時間の前後とか、内側、外側というあらゆる二元性が克服される。意識と肉体、物質という二元性。これが半意識半物質になる。物質を動かすとき、その物質は同時に精神、意識であり、いともたやすく動く。いわゆるテレキシネス。時間も自在に移動できて、空間的な近い遠いも、テレポーテーションで克服。自他の仕切りもなくなる。ブラックホールから映写機によってホログラムが作られ、同時にこれを録画、記録するといった。このとき、ブラックホールは想像しているのだが、なぜだか非現実化作用というバイアスがない。銀河意識になるとは、われわれの想像おける非現実化作用のバイアスがはずれることなのだ。こうやって、銀河意識へのシフトが始まるかもしれないというお話である。




自由と論理についてである。ボスキャラを倒すと次のステージにいける。倒し方だって、十人十色であり、後ろにたいていはひたすら連発だ。指先にたこをつくりながら連射である。さて、人類もまた次のステージなのではないだろうか。なにがかわるかというとよってたつ地盤というより、すべてをゆだねる時間そのものがかわるのである。それが論理や自由意志を大きく変えるのである。

   自由とはなにか。近代においては自由といっても昼飯に麺類かごはんかパンか、という選択の自由どころではない。なんと万物、宇宙と一体になって、すべては同じなんだという壮大な自由だ。哲学者シェリングは自然、すなわち、宇宙とわれが天才的直感によって一体になるという。また、シェリングは人間の自由は悪の選択があるからだという見解も示した。現代においてはショーペンハウワーの意志。まず、自分が目でみていても見ていなくて、感じているものは表象、イメージである。表象っていうのは少なくと、それを感じている自分、意志がないと成り立たない。意志のうえに表象があるという。宇宙もまた意志があって、このうえに宇宙の表象であるイデアがあるという。
  そして、サルトルである。自由といっても、なんと、自分が男女いずれか、人間になるか獣になるか、これらまで自由に選択しているという。最初になんだか設計図や本質があって、自由にふるまうのではない。自分の本質すら決めているのが実存という自由意志だという。

   次の話は論理についてである。論理といえば、アリストテレス以来、長くいにわたって君臨する形式論理学。しかも、二値論理である。真か、はたまた、偽なのk、という二つの値が入るのだ。現代では様相論理、いわゆる多値論理というものがでてきた。真っぽいとか、絶対に偽というような微妙な値を多く採用だ。論理学者のクワインは論理というのはどっちかという机上の空論っぽいが、論理と存在が出会う瞬間を考えた。xとか、yという記号があり、これにはいろんな値がはいるのだが、じょれを変項という。ここに値が入った瞬間、存在することになるから、これを存在論的コミットメントと名づけた。

  まとめ


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   異次元理論
  

  地球は肉体、肉体は土よりでて、土に返る。精神、意識は太陽系であり、光と影、昼と夜という二元性になっている。これがわれわれの思考やイメージの世界、ロゴスになる。自由意志があってこそのイメージ、論理なので、意思はもっと大きな銀河系である。感情もしかりである。銀河の中心はブラックホールで、ここはカオス、混沌だ。ただし、記憶はここにおさまる。意識と肉体がシフトし、ついには宇宙大規模構造が意志になり、銀河が論理、イメージの意識、肉体は太陽系になるのだ。このとき、いままでの二元性、真偽、善悪、自他という枠組みがなくなるのだ。



現前性とデカルト的自我についてである。仕事が忙しいとき、ふと自分がいまなにをしていて、どこにいるのかわからなくなる。ここはどこ私はだれだ、と叫んでみる。私はほんとうに宇宙のなかにいるのだろうか。部屋のなかにいるのだろうか。たしかに、鏡にうつる自分はボディビルダーのポーズをしている。ほんとうは私は広大な宇宙そのものであり、いまここ、そこ、あなた、とはなにかについても考えてみる。

   現前性についてである。目の前に現れることだ。ロールプレイングゲームでは、よく行く手を阻み、邪魔するのがモンスター。モンスターの現前である。魔法か、水鉄砲か、はたまた、見てみぬふりか。とりわけ、重要なのが、今、という瞬間を前におきたがる。また、自分自身を目の前において意識したりする自己現前だってある。ハイデガーにおいては、存在とはなにか、と存在を目の前において虫めがねで観察しようとしていたいままでの西洋哲学を批判。存在はおのれのからでてくるというのだ。これを受けて、デリダは、とりわけ、自己現前、自分がいたっというのも、じつに自分の残像、痕跡、足跡でしかないというのだ。

 
  次の話はデカルト的自我についてである。空手の構えから繰り出される、いろんな技。同じく、科学にも基本的な立ち方、構え方がある。これがデカルトの提唱した自我だ。おしっこがまんしながら科学計算しているが、その計算式に個人的なおしっこがまんは出てこない。客観的に記述するとは、宇宙の外側の神様の視線から、自分はまったく持って関係ないものとして扱うのだ。デカルト的自我は紙の視点なのだ。


   まとめ


   存在の科学

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    いまここにいる私。以前お話下が、私の意識はかっては太陽系意識における二元性の論理、さらにはレベルアップして銀河系意識になるといった。ず〜っと手前に、そして、内側に自分の本体がいるようだったが、じつは、ある種の宇宙領域だったのである。いまここという時間と空間の点、時空点。これがある種の宇宙領域、たとえば、太陽系などと直接に結びつくときに意識がうまれるのだ。

   今ここにいる私ではなく、そこやあそこはどうか。そこは時空点とある種の宇宙領域がつながっていない状態だ。そして、あなたはどうか。時空点のそこがある種の宇宙領域と結び区と、あなた、他者が出現する。

 
   
中立性変様、無対象的表象、そして、無規定箇所についてである。なにもない不毛の地、あたりを見渡しても美女のひとりもいないどころか、デパートすらない。無いとはそもそもなんだろうか。無いとはすべてのものたちが徹底的にそこに重なり合わさってあることなのではないのか。無いとは万物の総和というお話をしたい。

   哲学者フッサールの中立性変様についてである。そこにかぼちゃがあると判断。これを存在定立しているという。そんな決め付けをやめてしまう。これがいわゆる判断停止なのだ。そして、かぼちゃという物体があるというのではなく、なんだかぼーっとして形、色として眺めちゃう。すべてを中立化しちゃうのだ。これは想像に似ているが、想像は同じイメージ像を何度でも登場させることができる。繰り返しすらないものが中立化。

  次の話はボルツァーノの無対象的表象についてである。頭の中に思い描く表象。実際にこの目でみたとしても、かぼちゃの中身がみえないが想像している。つまり、すべてが表象を感じ取っているのだ。そんな表象のなかにそんなの実在しないよ、という表象がある。丸い三角形の登場だ。これは論理的に矛盾しているのである。ところが、黄金の山は矛盾はしていないが、少なくともこの地球にはない。だから、対象のないたあのイメージ、これが無対象的表象なのだ。

  最後にインガルデンの無規定箇所についてである。文学書をひらいてみる。しおりが行方不明で、どこまで読んだのかわからず、まずは軽く絶望。その本の一文につぎのように書いてあった。トレンチコートを着た男が走り去った。どうやらソフトではなく、ハードボイルドだ。この男のもっと詳細な情報はない。何色のパンツをはいているのか、眉毛の本数すらかかれていない。ここが規定されていない箇所だから無規定箇所。これがあるからこそ、ひとは想像力でこれを補填する。
  
  まとめ

 
 存在の科学


  異次元理論


   何も無いとはどういうことか。無というのは、万物、すべての存在者が重なったものではないのか。やまちゃん、斉藤くんだけでなく、あらゆる昆虫、毛玉、すべてが一箇所に重なり合うと調和、中性化されて無になる。つまり、あらゆる存在者の状態、右手を上げたり、木っ端がうごいたりすることは、森羅万象一点集中にしたときに無になるようにふるまう。だからこそ、無にはすべてがある。なにもない空間にはやまちゃんもいる。だから、山ちゃんがそこに現れるとは、それが顕現しただけである。右手を上げて、手が頭上にあるのは、無のなかの自分の右手情報が顕現したのだ。

  科学において、インフレーション理論というものがある。宇宙が一気に加速度的に膨張したというもの。だから、宇宙の温度が一定だという。じつはそこかしこ、無においていきなりインフレーション膨張をおこして、新しい宇宙ができる可能性がある。できつつあるのがブラックホール。なぜ、ここの何も無い空間に発生しないのか。何も無いからである。じつはすべてはインフラトン場という場があって、負のエネルギーを蓄積している。これが開放されると、急激な膨張になる。しかし、なにもない、つまり無、ゼロなのである。ゼロは膨大な負のエネルギーにとってみれば大きなエネルギーなので、これで押さえ込んでいるのである。エネルギーですら無に蓄えられている。だから、宇宙の全情報、存在者もまた無に重なって存在している。存在者のすべてが重なっていることを無と名づけてもよい。

   
純粋経験とイマージュについてである。小高い丘の上に立ち、立小便しながらふとおもう。この世界はなんでできているのかと。もしかしたら、ただの情報ではないのか。物質っていう情報がここにある一本の木を作り、そして、私が小さな便をひっかけているのだが、そんな私も情報ではないのかと。

   哲学者ジェームスの純粋経験についてである。いろんなものを経験する。ところが、ありのまま素直には受け取っていない。ひとはみんなひねくれ者なのだ。まず、手前には自分がいて、むこうに対象物である木がある。主観と客観にさりげなくわける。こうやって加工した経験であり、ありのままではない。ありのままの未加工な経験、これが純粋経験だ。端的にってしまうと、それが木だとか、ひとだとかではなく、あれである。また、実在してようが、想像上の産物だろうか、どっちでもよい。そのように純粋経験し感じているのだ。どんな流れかによって実在感がちがう。だからはるかかなたの出来事も、さらには過去のことだって、いまの自分に体当たり的に影響与えていれば実在だ。

  いろんな経験は個人の流れのなかで加工され、だんだん、心っていう内部世界と物理という外部世界にわかれる。無数の生命たちの経験を大きな流れでまとめているのが絶対者だ、というブラッドリーの絶対的観念論を批判したのがジェームスである。

   次の話はベルクソンのイマージュ論についてである。部屋のなかにいる。ちゃぶ台のうえのぞうきんをみつめる。壁の向こうには隣の部屋があると想像する。ほとんどが目でみているわけでなく、想像、イメージだ。この世界は想像、イメージでも実在でもない、同時にどっちでもあるようなイマージュでできているという。流れのなかで実在っぽくなったり、イメージっぽくなる。自分の体の内臓はみえない。見えているのは乳など。身体的イマージュである。宇宙の果ては目が悪いからではなく、基本的にみたことがない。宇宙的イマージュ。宇宙的イマージュのなかの身体的イマージュだ。すべてはイマージュだという一元論である。

   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


  通常、科学は観察している私は観察しているものに含めない。数式には自分がでてこない。超越的な観察だ。ところが、量子論だと、自分をも含めた世界への分岐、もしくは、見た瞬間に猫が起きているか、寝ているを確定というようん、観察対象に観察者が入り込む。超越論的な科学と名づけたい。こうなると、すべては波動であり、あらゆる状態がかさなっている世界になってしまう。意識でもなく、物質でもない。そんなイマージュの世界だ。

  人類史、自然史、宇宙史。これらは観察している自分を思いっきり手前におしやって、観察したのは過去の物質的痕跡だ。足跡でも、壁画でもよい。物質の歴史なのである。同じく、魂、意識という見えない歴史もあるはずだ。そして、究極は意識と物質をまぜあわせたイマージュの歴史。情報の歴史が綿々と続いている。ここでは状態が因果律によって引き起こされるのではなく、世界を製造している。マトリクス的な情報のなかにいるのだ。情報によって生命がプログラムのように作られ、そんな生命もまた同じように別の情報生命体を生むのである。

   目はフィルター、めがねをかけてみている。ほとんどがみていないので、想像物だが、これは心の目、心の目も色眼鏡をかけている。自分を俯瞰してみたり、第三者的な見方だ。この上にさらに社会という色眼鏡もかさねてしている。これらのめがねをはずしたときに、世界の製造の情報入れ子構造が垣間見えてくるのである。

    
先天的誤謬と実用主義についてである。いきんり、からだをのけぞってマトリクス。この世界は作られた情報の世界、マトリクスなんだよ、真剣にうったえていたら、ひとり、またひとりと友人がいなくなるケースがあるかもしれない。それでも、なんの根拠にマトリクス、シミュレーション世界なのか、その数ある証拠を考えてみたい。

   カントの先天的誤謬についてである。誤謬とはミス、間違いということ。通常は足し算を間違えたりするが、これは睡眠不足や注意不足だ。後天的な間違いである。ところが、人間は生まれながらにしてのうっかりはちべー、または、勘違いやろうだという。人間の理性は大いなるものに適用されてしまうのだ。宇宙には自由があるか、それとも、すべてが必然的か。魂は不死かそうではないか、神様はいるかいないか。二つの答えのどっちが正しいかここで迷う。どっちももっともらしくて、理性の限界を痛感。うっかり、能力を超えて考えてしまう先天的誤謬である。

  次の話は実用主義についてである。真理っていうは引き出しをあけたらでてくるのではなく、どこかにあるのではないという。つまり、いま生きているうえで役に立つ、実用的なものこそが真理だというのだ。

  まとめ

  存在の科学


   異次元理論


    この世界がマトリクスであるというならば、その証拠があるのだろうか。人類のPCの進化はすごい。ついには人間の脳の処理を超えるであろう。しかも、それどころか、ひとや物体のあらゆる状態を記録するどころか、この世界とそっくりなシミュレーション世界を作りだすかもしれない。というか、もうすでに何者かに作られていて、それがわれわれの住む世界なのかもしれない。そして、前回、お話したが、すべての物質は突き詰めると実体のない情報から端を発する。意識も物体も情報であり、観測者である意識と観測対象の物体を合わせた情報の進化、これが世界を作り、その世界に生きる生命をうみ、その生命がまた新たなる仮想世界を作るという入れ子なのだ。そして、われわれがかりにPC上に世界をつくるとしたら、まずは、処理速度を最大限に能率よくうごかすことを考える。実用的に考えるのだ。すると、この世界をみたとき、ブラックホールの向こうは見えない。光速を超えてしまうから光が戻ってこないで原理上の認識の限界。その向こうではマトリクス世界の計算処理が行われていない。宇宙の果て、事象地平の向こうもまた、光速を超えた膨張なので、もはや、光は戻ってこない。つまり、限界を設けていて、有限な装置のなかだ。そして、シュレディンガーの猫のように、箱の中の猫は生きていると同時に死んでいると同時に毛づくろいしている。見ていない、感じていないものはあらゆる状態がかさなっているのだから、もはや、世界を作るための計算処理もなされず、見た瞬間に起動し、計算を始めている。容量を極力最低に抑えるために量子論的な波動があり、波動とは計算していない処理停止状態だ。物理学者が分子や原子について研究し、顕微鏡でのぞくとき、計算処理されて原子をみせる。バナナの原子が見えるのだが、日常のひとにとってはおいしい果物として処理されているのである。月もまた、みているときにだけ計算処理されて意識に反映されるのである。


ストローソン、固体と主語、そして、シェラー、宇宙における人間の位置、についてである。PCが遅い、そんなときはメモリを交換だ。容量がたりうないときはハードディスク。調子が悪くなったらPC本体をエルボーだ。メモリやハードディスク、いきなりであるが、宇宙のブラックホールも同じような役割を担っているのではないかというお話だ。  

  ストローソン、固体と主語、についてである。ストローソンはラッセルの記述理論を批判。世の中のすべてを人工言語で記述だ。x、yっていうなぞめいた記号。xに値が入る。人工言語ではなく、自然言語、普通に使っている日常言語が宇宙などの形而上学的なものを記述してるというのだ。

  文に着目する。やまちゃんは走っている。まず、やまちゃんという人物は石ころっていう物体とはちがう。やまちゃんはいる、石ころはある。人物と物体は宇宙もまたちがうものとしている。これを基礎的特殊者という。主語であるやまちゃんはお話のなかでいきなり斉藤君にかわったりしない。同じものとして定めるから同定性という。宇宙にあるものも、たしかに隕石の形は皮っても同じものとして定める。主語はかたまりのような固体、そして、述語は走る、ジャンプするっていう普遍的なもの。世界、宇宙もまた、固体と法則やイデアのような普遍的なものにわかれている。


   次の話はシェーラー、宇宙における人間の位置、についてである。人間も動物も、もちろん、ゴリラも吹くのであるが、感情的だし、衝動的だ。これは共通しているけど、人間には精神というものがって、これはなんでもかたまりにする、つまり、対象化するという。自分っていう対象物が岩石っていう対象物をみている、と意識。精神はさらに、理想や理念を思い描く。もっといえば、自分を超えて他人の中に入り、理解しようとする。これが愛だという。いずれにしても、精神のこんな崇高な働きは感情や衝動がまずは原動力になっているというのだ。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

   以前に話たが、ブラックホールはエントロピーを急激に下げて無秩序なものを秩序あるものに戻し、事象地平面に強力な重力で押しつぶし、その情報を記録。まるでPCのメモリやハードディスクのようである。また、この情報がホログラムとして、三次元に映し出す。さらに、ブラックホールの向こうにはホワイトホールがあって、別の宇宙が膨張、成長を遂げて新しい宇宙ができているというインフレーション宇宙論もある。つまり、ブラックホールはコピーや新しい宇宙を生成するメモリなのだ。メモリの情報はインプットとアウトプットされている。事象地平面のなかは非合理的な世界で計算や法則が成り立たない。なぜなら、あの向こうに製作者が関与し、製作者の衝動があるからだ。製作者の衝動が混入すれば、プログラム、ロジックでは理解できなくなる。われわれは同じようにインフレーションによって宇宙をつくるのではない。たしかに似ているのだが、PCが進化し、この中に仮想世界、仮想生命を生み出す。こうやって情報宇宙は進化する。宇宙の法則は宇宙製作者の作ったプログラム言語。そして、それにしたがっているわれわれ。われわれも、日常言語を使うが、これが宇宙言語とそっくりなのだ。そして、ついには人間は人工言語、プログラム言語を作り、いまの宇宙製作者と同じようなことをしようとしているのだ。

   
ローティ、哲学における自然の鏡、とライプニッツのモナド論についてである。手鏡で自分のへアースタイルを整える。ルームミラーで鼻毛を抜こうと試みる勇敢なドライバー。この世に存在するすべてのものはまったくもって鏡と同じ特徴をもっているのではないか。鏡による乱反射がこの複雑なイベントを発生させる世界を生み出す。

  ローティ、哲学における自然の鏡、についてである。
いままでの西洋哲学は自然を心っていう鏡にうつしていたという。鏡にうつすこと、これは真理対応説だ。外にあるものと心のなかの映像がぴったりと一致すれば真理、あたりというのが真理対応説。これは基礎付け主義だという。この世界にはてこでも動かない真理がるという。鏡と自然って固定して動かさない。こんな心の鏡っていう説はもう終わりだとローティはいう。かって、ソクラテスですら、互いに対話をして、互いのなかからよいものを引き出して互いに高めあう、そんな対話術を良しとし、一なる真理をゲットしようと考えた。そうではなく、対話ではなく、会話が重要であるとローティは説く。刺激ある見解の相違、不一致、これが真理だというのだ。


   次の話はライプニッツのモナド論。宇宙はモナドっていう大きさのない点でできているという。しかも、そんなモナドはそこから見た全宇宙を映し出している鏡のようなものだという。モナドはいっぱいあるが互いに情報のやり取りをしない。モナドには窓がないという。神様が予定調和で組み合わせているのだという。

  まとめ

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   異次元理論

   私の心は鏡ではないのか。そして、森羅万象もまた鏡と同じだといいたい。りんごをみる。心の鏡に映し出されるが、りんごも鏡であり、合わせ鏡で局率あるからループするのだ。つまり、りんごへの対象意識はじつに自分へのループである自己意識と同じ。自己意識はおのれへの対象意識と同じ。すべてがこうやって鏡によって反射しあい乱反射が予測不能なイベントを引き起こす。鏡はフレーム内に全体を映し出そうとする特性がある。だから、宇宙の構造と人間の内臓の配置が構造上酷似する。社会と宇宙もそうである。宇宙大規模構造のあわ理論と身近な蛇口からでた水を生み出す泡も同じであり、大きさの違いだけで同じものを映し出している。太陽系は原子とそっくりであり、これも鏡による反映である。すべてを鏡とすることで、ローティの心の鏡批判を乗り越えるのである。

  
ハイロウモルフィズムと身体的キネステーゼについてである。豪腕で湯飲み茶碗を動かす。ゴゴゴっという轟音とともに、ちゃぶ台の天板は擦り切れる。腕を使っているのだが、じつは精神、魂でうごかしているのだ。とどのつまり、物理的なものとは魂なのである。やる気がなければ鼻くそももてないのである。

  ハイロウモルフィズムについてである。形相質料論ともいう。アリストテレスの場合は存在論的なものだった。存在しているものたちは、形相と質料を合体させて存在していられるという。木造の建売住宅の庭先からは鶏の鳴き声がこだまする。木造住宅とは当然、材料は木である。木は家具にもなる。木造の家にもなる。つまり、材料、質料というものは、可能性に満ちているので可能態ともいう。大工さんが形、本質を与えると、家になったりする。これが形相だ。

  近代ではジョンロックやカント。存在するための形相質料ではなく、あくまで認識するために必要なものだという。心の中にあらかじめ雛形が用意されている。これが形相だ。材料といえば、目や耳から飛び込んでくる感覚的材料だ。これらがあわさってはじめてバナナを認識できる。

  モルフェーを形式や形相。ヒュレーを材料、質料。これらをあわせてハイロウモルフェズムである。
  
  次の話は身体的キネステーゼについてである。カントのように、座布団に座って、自分は一切動かずに、感覚情報がやってくるのをまつのではない。感覚がやってきたらカテゴリーっていう心のなかの雛形で調理して、バナナだと判断。実際はバナナを手にとってみたり、すばやい動きでバナナの後ろに回りこんで、自発的に見る。体を動かすことで見え方は変わる。これがフッサールのいう身体的キネステーゼ、運動感覚である。

  メルロポンティはこうやって動くの意識的な自我だけではにという。瞳孔の開閉によって眼球が調節、胃液を出して消化。これらは意識的な自我、私とかあなたっという人称もっている自我、人称的自我ではなく、わつぃのからだのなかのだれでもないだれか、前人称的な自我がやっているのだという。だから、あかちゃんのころはわつぃ、あなた、彼らという人称以前だったので、このレベルでキネステーゼをやっている。この自分も他人も関係ないレベルにもって、私はあなたの気持ちを察したり、気遣いが生まれる。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

  物体がそこにあるとは、重力があるということ。だから、重力があればそこに物体が出現する。重力は相対論だと、時空のゆがみである。三次元空間を膜にたとえれば、三次元ブレーンにできたくぼみ。三次元ブレーンはたくさんあって、これらを収納している部屋が五次元バルグだ。三次元ブレーン上の万物を構成するひもが端部があって、ブレーンから外に逃げない。端部のない閉じたループ状のひもはこのわれわれが住む物理的な三次元ブレーンの外からやってきて、物理的な三次元ブレーンをゆがませて重力、果ては物質を存在させる。ひとや生命の意識とはこの物理的な三次元ブレーンに交わっている別の三次元ブレーンなのである。すべてのものは宇宙である。その意識ブレーン上を移動するひも、それが光子かもしれないが、物理的な三次元ブレーンに当たったときに時空をゆがませて物質化する。意識が物質化しているのだが、この二つのブレーンの交差しているところが身体にみえている。こぶしをひざの上からあたまのうえにもちあげるのは、連続的に物質化している過程だ。意識ブレーンも物理的ブレーンも同じ三次元ブレーン。唯物論も観念論も、相対的なのだ。形相が意識ブレーンならば、質量は物理的ブレーンだ。これまた交差している別宇宙のブレーンでしかないのである。意志や意識が物体を動かす。基本的には念動力、テレキシネスなのである。


     絶対精神と絶対的観念論についてである。いきなり、教育番組の先生みたいな顔つきで言いの出るが、科学と宗教についてである。科学は観察可能な物質、宗教は目には見えない精神的のもの。これらを統合合併したとき、そこに現れるのがマトリクスによる世界生成なのである。

   哲学者ヘーゲルの絶対精神についてである。まず、最初はシンプルなものからはじまる。ただの純粋な存在とただの純粋な無である。純粋な存在はなにが存在しているかは内容はからっぽ。ひたいに手をあてて、ポンという空洞音がでたらアッポではなく、からっぽであると日本舞踊で習わない。純粋な無に関してもなにが無いのか、内容からっぽ。からっぽ同士仲良くなり、一致団結、融合だ。すると、定まった存在、定存在になる。同じようなことをして、矛盾しあうものがアウフヘーベンされちゃって、本質や概念、さらには有機体や人間、社会にまでなる。主観的精神になり、客観的精神。客観的精神とは法と歴史だという。そして、最後に絶対的精神といい、内訳は感覚的な美による芸術。シンボルで世界をとらえる宗教。論理で世界を知ろうとする哲学である。

   次の話はブラッドリーの絶対的観念論についてである。人は個人的にいろんなことを経験する。目でみたり、感覚的なことだけでなく、これらを全体的なイメージ、観念にする。観念、イメージ、表象を感じている。これらの結合なのだ。もちろん、やまちゃんの表象、イメージの結合することはできない。ところがなんとブラッドリーは、個人を越えて、みんな表象、イメージ、観念を結合するものがいるという。これが神様、絶対者であり、すべては絶対者の表象結合、観念の結合だというのが、絶対的観念論である。


   まとめ

  存在の科学


   異次元理論


  観察可能なものを相手にするのが科学である。芸術も感覚的なものだ。科学はとりわけ、観察できるかもしれないものも含めた物質。これは三次元ブレーン上に存在するもの。以前、話たが、この物理的な三次元ブレーンに交差する別のブレーンが意識、精神だといった。この目には見えない五次元にある意識ブレーンなどについては宗教が受け持つ。ヘーゲルの絶対精神の芸術を科学に置き換えると、科学と宗教、そして、これらをとりまとめる六次元的なレベルが哲学、論理、情報ではないのか。物質でも精神でもない、そのいずれも可能ならしめる情報。物質は力学的に伝達、三次元空間と一次元的時間を行くが、この時間ですら情報によるもの。意識も同じである。この情報こそが六次元的な神の世界プログラム、神様かはたまた何かしらの生命体かはまだわからない。ただ、この情報はなにをしているかといえば、魂や物質の進化、変化ではなく、世界そのものの創造である。まずはなにはさておいても世界、宇宙があるのだが、これを情報、マトリクスによって生成するのである。
posted by モノイイ ジョーカー at 13:01| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月27日

仙人新聞 2012・12・27 パート2

仙人新聞 2012・12・27  パート2


テキストの容量が大きいので分割して投稿。


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**哲風呂**

普遍者と単独者についてである。主体的に生きている。私はAさんにがんばってもなれない。がんばればかかとを後頭部につけることはできるかもしれない。それでも、何人も私になることもできない。すべてのものは個性的である。そんな唯一無比の自分はどうやってうまれるのか。全宇宙空間の膨大、圧倒的な力で自分らしくいられているのだ。

  普遍者についてである。古代ギリシャのプラトン。歩いている眼前に立ちはだかるはたんぽぽ。軽く、蛇拳の構えで身構える。いろんなたんぽぽがあるが、たんぽぽそのものはこの現実世界にはない。たんぽぽそのもののイデアの影なのだ。このどこにもないたんぽぽそのもののイデアは普遍的なものだ。

  近代になって、カント哲学における普遍的自我とか、根源的統覚といわれるものだ。性格やあたまの形状などは経験的に見えるので、経験的自我という。この奥底に人類共通、みんなの私がいるという。これが普遍的自我である。

  ヘーゲルにおいては経験的な個人の意識だけでなく、結局は普遍的な絶対的な意識、精神があるという。これが宇宙そのものの意識、絶対精神である。

  次の話はキルケゴールの単独者についてである。キルケゴールは大衆とか、みんな同じ顔というのが嫌いだった。しかも、ヘーゲルのいう普遍的なもの、すべてにあてはまっちゃうものも真理じゃないという。真理とは神様のもとで、ちっぽけで、しかも、あれはできてあれはできないという有限性と個性だという。唯一無比の個性こそ真理だというのだ。

  まとめ


  存在の科学



   異次元理論


    唯一無比の私、個性的な主体、代替不可能な例外者としての私はどうして存在しているのだろうか。前回も話多様に、物理宇宙の果て、光速を越えて膨張する向こう側の世界との境界を事象地平面といい、この先は原理的に知りえない、見えない世界。そこに私いるといった。つまり、事象地平の内側は論理的、原理的な世界で、法則だってある。普遍性優位の世界だ。事象地平の向こうは光による情報のやり取りができない非論理、非原理的な世界。つまり、普遍的な物理宇宙によって、押しのけられた究極的に非普遍的なもの。いってしまえば、例外者、単独者、個別的なものの世界だ。だから、全物理宇宙の及ばない例外的な向こうの世界に主体があり、この物理宇宙、普遍宇宙の全否定の極みに単独者、例外者としての私がいるのだ。


写像理論と真理対応説についてである。すぐそこに宇宙がたくさんある。私がこんにゃくのような豆腐人間だったかもしれない並行世界もあるかもしれない。近くにあっても、この宇宙から離れられないが、意識は自在に行き行きしている。ブレーン宇宙と意識と重力についての考察である。

   哲学者ヴィトゲンシュタインの写像理論についてである。この世界には無数の出来事がある。これが事象とか、事実という。これをちゃんと記述してゆく。文や命題として対応させるのだ。この言葉としての命題は出来事の像である。実際のくるまの動きをミニカーで再現。これまたミニカーは像になる。ここで注意が必要なのは、像である命題も、事象も同じ論理形式というものを共有してないといけないという。

  次の話は真理対応説である。宇宙のあらゆる出来事、ヴィトゲンシュタインのように記述したり、もしくは、あたまのなかでイメージしたりする。思想、イメージ、記述したものをちゃんと宇宙のあらゆるものの配置と対応させちょうというのが真理対応説である。これに対して、対応とかではなく、心も宇宙も全部、整合的、つじつまわせればいいというのが真理整合説である。


   まとめ


  存在の科学


  異次元理論


  この世界のあらゆるものは超小さい一次元のひもでできているという。そして、ひもの振動によって、いろんなクォークや粒子になる。いわば、宇宙はひものはじかれた音による音楽だ。このひもが天文学的な出来事によって、無限に引き伸ばされることもある。さらに平面にのばされ、たて方向にんばされて無限の三次元になることもある。これがブレーンである。三次元ブレーンがたくさんあり、これが多世界なのだ。

  このすぐそこにある別の三次元ブレーンにいけないのはどうしてか。三次元だとイメージしにくいので仮に厚紙が三次元ブレーンだとする。四次元は時間なので、五次元空間にこんな三次元ブレーンの厚紙がいっぱいある。この厚紙に端部のあるひもがくっついているのだ。だから、がんばっても隣の厚紙に移動できない。ところが、端部のない丸いひもがある。これは隣どうしでも、五次元空間をとびまわるのである。その正体は重力子、グラビトンである。だから、電磁気力、つまりは電子や光子はこの三次元にくっついているひもだが、重力はほかに逃げてしまうので小さな力しかない。

   さて、生命の肉体は複雑である。脳はもっとも複雑な構造物だという。複雑ということは、穴や管がいっぱいある。これが重力を逃がして軽くしているのだ。ということは、複雑なものは、五次元に重力を逃がし、これが意識となっているのかもしれない。そして、別次元とのやり取りが意識ならば、重力の最も強いブラックホールが意識だと以前いったが、それとつながっていくる話でもある。もうひとつは、われわれ人間をも含めた生命の意識、生命個体はすべてが一個の無限宇宙だということ。別のブレーンから来た重力波がこのわれわれの住む三次元ブレーンに小さく凝縮されてぶつかったものではないか。五次元空間も、われわれの住む三次元空間のようなふつうの自然現象、生活があるかもしれない。この三次元空間では光の波をレンズ効果で一箇所に集約できる。虫眼鏡でもいいし、自然物だったら、水滴だってレンズになる。五次元にも水滴か、はたまた人工的なレンズがあって、これがある無限宇宙、ブレーンの重力波を一箇所にあつめて、それがこのわれわれの住む宇宙に投影させているのだ。真理対応説、写像理論は一対一の対応。そうではなく、意識、心、生命個体は別宇宙の全体をひとつに集約させて対応させているのだ。だから、真理レンズ効果型対応説といえるのだ。




コペルニクス的転回とコペルニクス的転覆についてである。科学的に論理的に考える。もちろん、あごに手をあてて、みけんにしわができる。あたまで考えるのはこの三次元空間のシステムだ。世の中、世界があるんだな、と理屈抜きで感じている。存在感と感覚と思考能力、これらは別並行宇宙とのチームプレーによって成立していた。


  カントのコペルニクス的転回についてである。コペルニクスは気がついた。シリンダー状の地球の上に天体が動いているのではないと。つまり、地球、自分自身が動いてるという発想の転回、天動説から地動説である。カントもまた、同じような転回である。りんごがあるからりんごを認識。これが常識的な考えである。そうではなく、赤い、丸い、甘いという感覚を受け取り、これをあたまのなかでくみあわせて、りんごのイメージ像を自分が作っているのだ。だから、自分の意識が活動しているからりんごがあると認識できちゃうというのだ。

  次の話はフッサールのコペルニクス的転覆についてである。分子、原子があって、理論があるからそこに湯飲み茶碗が存在しているのだろうか。さらには芋ようかんまであるのだ。科学的な思考、これを自然主義的態度という。そうではなく、まずは日常的なふつうの態度、自然的態度があるという。科学の理論というのも、もともと日常生活があって、測量するために数学が発展したのであって、生活が先にあったという。芋ようかんは分子構造云々ではなく、和菓子であり、食い物なのだ。ふつうの大地に根付いた、日常的なものの見方が最初にあるというのだ。コペルニクスの地動説ではなく、大地が最初にとまっているとみなす、コペルニクス的転回、日常的見方は天動説的なのだ。


   まとめ


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   三次元ブレーンを厚紙に見立てる。すると、四次元は時間軸なので、五次元の空間にたくさんの三次元ブレーンが浮いている。端部のない円のひもが飛び回る。これが重力子である。三次元ブレーンの厚紙に端部のあるひもがへばりつき、動いているが、これが通常のクォーク、物体だ。われわれの住む三次元ブレーンでパチンコ玉を手から離すと、重力によって落下。地球という巨大な物体がもつ重力だ。ところが、地球よりもぜんぜん小さい磁石があればパチンコ玉を吸い寄せることができる。重力はすごく小さいのである。それはこの三次元ブレーン上でしがみついている光子や電子とはちがって、力が五次元空間に逃げているのである。


  さて、磁石はこの三次元ブレーン内の金属にしか反応しない。紙は引き寄せない。ところが、小さな力でも重力は紙も木も金属もすべての物体をあまねく吸い寄せるのだ。つまりは重力はすべてにあてはまるので普遍的なのである。そして、電磁気力は個別的、具体的なもの。だから、生命は感覚によって神経の電磁パルスで具体的、個別的な情報を得る。脳の電磁パルスによって抽象的、普遍的な思考をするが、これは重力の普遍性の三次元ブレーン内での模倣である。これができるのは、光子のおかげである。光子は質量0、重力に影響されない三次元ブレーン内を自由に動き回るものだからだ。この光子の特性によって、擬似的な五次元構造を三次元ブレーン内で生成しようとする。これが科学的思考になる。科学的思考によって、大地から離れ、上空飛翔的な思考になり、飛行機も開発される。重力に対抗している電磁気力である。そして、ロケットで宇宙にいくと、重力から開放された。そのまえは農業的、狩猟的思考だった。種をまくと落下し、重力の抵抗をかんじる植物が育つ。重力はあまねくすべてに作用する普遍性をもつが、この重力的な感覚が存在感である。存在感から感覚の具体的情報、そして、擬似的な重力子五次元移動を模倣する科学的、電磁気力による思考がうまれたのだ。来るべき時代はコペルニクス的転回ではなく、大地に根付く重力的な存在感を感じる時代、コペルニクス的転覆になるかもしれない。






連続の原理と永劫回帰についてである。何時何分にどこどこに待ち合わせ。胸ポケットの一輪のバラが目印である。時間と空間とはちがうものだ。ところが、時間と空間が同じものである世界、そこでは永遠に始まりもなく終わりのない宇宙の生成の歴史が繰り返される。

  哲学者ラブジョイの連続の原理についてである。大いなる存在の連鎖、とトイレの個室から聞こえてきたら、その謎っぷりに驚く。存在しているのものはすべて連鎖しているという。まったく正反対のものが地続きだというのだ。このとき、無限という具材でサンドイッチにしてやればよい。止まっているものとすばやく動いているもの。無限に小さな動きが止まっていることだ。等式と不等式。つまりは、同じと同じじゃないもの。同じ、等しいというのは無限に小さな不等である、といえばよい。すべてが連続しているというのが連続の原理である。

  次の話はニーチェの永劫回帰についてである。死んだら同じ人生を歩むという。人生は永遠に同じことの繰り返し。すると、つまらないのだが、いいこと悪いことを全面的に運命として受け入れちゃうという超人思想になるのだ。

  まとめ


  存在の科学


    異次元理論


   宇宙は始まりがあり、終わりがあるのだろうか。始まりのもっと前にはなにがあったのか。サイクリック宇宙論というものがある。五次元に漂う三次元の厚紙、三次元ブレーン。並行宇宙、並行ブレーンが無数にある。ちなみに四次元は時間なので別扱いなのであるが、四次元の時間の流れもここから生まれると思われる。三次元ブレーン同士は衝突をおこすという。AとBのブレーンの衝突で融合はしない。互いに高エネルギー状態で燃え上がり、すべてはリセットされるという。これが宇宙の最後であり、始まりでもあるビッグバンだ。AとBがぶつかったあとに、こんどは遠ざかり、宇宙は進化する。そしてまたもっとも離れて、こんどは近づきはじめて接触し、リセットである。これを永遠に繰り返す。このとき、二つのブレーン宇宙は二つの振り子のように運動し、衝突をくりかえす。振り子の運動はたとえばビデオで録画したら、逆再生しても同じ振る舞いである。つまり、時間の方向性がないのである。五次元空間内の空間移動と時間がここでは共存しているのである。時間と空間の見境がない。ここから時空が生まれたのである。


   輪廻転生のごとく、宇宙は永遠に繰り返し、しかも、可逆的過程だったのだ。ドゥルースの差異と反復というものがあるが、違いを反復させて同一性に向かう。これは人間の記憶と印象の反復をはじめ、認識、実践においてもなされる。基本的にはサイクリックな可逆的な振り子運動は身近に作用しているのである。
   



間主観性における客観と物心一元論についてである。散歩中、風に吹かれてコンビニ袋が舞っていたのを目撃。心が物体の動きをとらえた、といったら大げさである。この世界にはさしずめ心と物体があるのだが、どこでどうつながり、どういう関係にあるのかを検討してみたい。

   間主観性における客観性についてである。天上天下唯我独尊といったら、世の中には自分しかいないという一人ぼっち、独我論になってしまうと哲学的孤独がやってくる。そこで私と他人の関係、他人の気持ちを察したり、気持ちを汲み取ったり、そもそも、他人とはなにかと考えるのが間主観性理論だ。カントがいうように、みんな個々人違うが、根っこは普遍的な私でいっしょなのだろうか。フッサールはそうは考えない。なんと他人とは目の前のりんごが客観的に存在するために必要だという。たとえば、UFOを一人で目撃して、それを見たんだよ、とひとにいっても目撃者がひとりだから客観性が欠けちゃう。ところが、複数の目撃者がいれば客観性が高まる。ひとりでいても、りんごが客観的にあるんだなと感じるが、これはすでに他人の目がひとりでいてもあるというのだ。人間は地平に囲まれている。見えそうで見えない視野の限界、におえそうでにおわない限界、考えられるぎりぎりの思考。これらの地平線のなかに他人のまなざしがあるというのだ。

  次の話は物心一元論についてである。物心二元論といったらデカルト。心と物体はそれぞれ別の世界にあるという。これに対して、スピノザは物心一元論である。神様とは宇宙だという。そして、いろんな属性をもつという。属性というのは、見え方である。やまちゃんを正面からみるか、真上からみるか。無限の視点がある。同じく、神様、宇宙にも無数の座席からみえるのだが、人間は形、色をみる延長という席と、考えたり、イメージする、いわば、思考という席の二席が用意されているのだという。


   まとめ


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   異次元理論


   五次元空間という部屋に三次元のブレーンが無数に漂う。そして、三次元ブレーンを厚紙としたら、厚紙の中を移動するのが電子や光子である。われわれの感覚、感情、意識活動、さらには情報のやり取りはすべて光子ではないか。脳の電気パルスしかりである。この三次元ブレーンの外から侵入し、時空をゆがめて重力を発生、はては物体の存在理由になっているのが重力子である。さて、われわれの三次元ブレーンという厚紙は無限に広がり、五次元の平行しているブレーン以外のすべてがわれわれの三次元ブレーンとある種の角度をもって横切っているはずだ。そして、別ブレーンのなかの生命の意識活動、感情、情報の総体、つまりは光子がわれわれの宇宙に侵入する。これがグラビトン、重力子ではないのか。光子と重力子は同じもので、五次元での進行方向の違い。そして、光子は意識であり、重力は物体だ。別ブレーンの意識の集合がこのわれわれの住むブレーンでは物体の一部になる。また、われわれの意識活動、情報のやり取りは別ブレーンの物体の一部を形成している。だから、間主観性における物理的客観性とは、他者のまなざしというが、厳密には、別ブレーンの他者のまなざし、意識活動がそれ自体で、われわれの世界の物理的なもの、物体そのものになっているのだ。




ホーリズムと解釈についてである。なにもない空間。殺風景であるが、このただの空間はじつは複雑な構造体なのかもしれない。空間はホルモンが漂っていたり、なぞの物体が飛んでいたりするが、まずは生命体の居場所だ。生命と空間もまた密接な関係、空間なしに生命はありえないのかもしれない。

  ホーリズムについてである。日本語では全体論である。部分がただ集まって全体ではない、全体はそれ以上のものをもつ。細胞があつまってやまちゃんではない。ホワイトヘッドもホーリズムな思想だ。宇宙は三輪車とか、下駄とか、物体の集まりではなく、ウィリー走行する三輪車というような出来事の集まりだという。この出来事、事象を現実存在、アクチュアルエンティティという。三輪車が走るのは、全宇宙の影響であり、走ることで全宇宙に影響を与える。つまり、部分が全体に直結しているのだが、こういうものは有機体、生命なので、宇宙は生きているというのだ。


  クワインの全体論。こちらはデュエムクワインテーゼである。すべての反証は無効にできるという。人間は二足歩行するという仮説。二足歩行しない空を飛ぶ人間がいたんで反証例が発見。ところが、そもそも、二足歩行の定義やら、日本語でいっているので、文法説明やら、無数のものがこの仮説には関与しているので、どれがひとつでもいじくれば反証も壊れるというのだ。

  
 次の話は解釈についてである。たとえば、心は解釈だという考えがある。三角形の重心はつかめない。あれはそこに重心があるという解釈だ。力は矢印であらわせるが、これを対角線にした平行四辺形を得意げな顔で書き込み、その辺が分力になるが、いろんな分力が考えられる。つまりは解釈なのだ。人間の表情、行動からそのひとの心を解釈しているだけではないか、という解釈学的な心の哲学もある。


  まとめ


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   三次元空間とはそんなものなのか。なにもない空間でもじつに高次元や低次元の影響で複雑な挙動、構造をしているのではないだろうか。五次元に漂う三次元ブレーン。ここを通過するのが流束という流れだ。無数の流束が通過し、以前、お話したが生命の固体に対応する宇宙につながっている。Aさんは別のブレーンのレンズ効果による縮小版としてあらわれるが、流束は全空間点において流束が通過し、ここから自分のブレーン宇宙に記憶を貯蔵、引き出しを行っている。全空間点はすべてのものたちの宇宙の情報出入り口になっている。これが形態形成場であったり、生体マトリクスになる。すべての部分点にすべてが含まれるというホログラム構造は高次元の参与によってうまれているのだ。また、空間はマトリクスであり、これにフーリエ変換などをして、変形し、物体を動かし、認識しているのである。ブレーン場、ただの何もない空間はこうやってはじめから生命の可能性を秘めた高次元とのからmによって成立する。

  また、無意識にマトリクスをフーリエ変換しているのが人間かもしれない。つまり、世の中はこういうもの、自分はこういう状況になるんだ、と無意識的に解釈することで周囲の状況を作り出す。事実に先立って、無意識的にマトリクスを変形させているのである。




ハルトマンの存在階層性とフォイエルバッハの哲学についてである。芸術家は自分の魂をキャンバスに描く。作品は心のなかの現われではないか。それが仮にバカボンのなると風な太陽であっても、心があらわれるものだ。同じく科学者もまた工学製品を世に送り出す。これまた、自分の現れなのではないか。いきなり工学的産物であるケータイ、モバイルPC。これらはまるで人間のような構造をしていたのだ。


  ハルトマンの存在階層性についてである。ハルトマンは認識しているから靴下がベランダにぶらさがっているんだ、とはいわないであろう。最初にまず靴下自体があって、だからこそ、認識できる。実在論である。靴下を認識するために、あたまのなかの認識のカテゴリーを駆使する。これを存在の世界で通用している存在のカテゴリーと一致させることだという。ちなみに、この世界は二つに分けられるという。時間と空間のある点に実在しちゃっている、実在世界。実際にはないけど、理念的にはあるもの、数字の1,2,3、さらには三角形など、これらは理念的世界という。これらは世界の横の関係であるが、縦の関係もある。これは階級性、階層になっているという。一番下には無機的なもの、その上に有機的なもの、さらに上には生命、そして最上階には精神がくるという。

  次の話はフォイエルバッハの哲学についてである。フォイエルバッハは無神論、唯物論であるが、なんと宗教における神様は人間のあらわれ、人間性があらわれたものだというのだ。


  まとめ

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  芸術の分野でいうと、画家は自らの心、魂を作品にこめて表現する。同じように、科学もまた、人間の構造を作品というか、工学的産物にあらわす。ケータイやモバイルPCの構造だ。電磁場というのがあって、そこから送受信している端末である。人間の構造がまともにあらわれているではないか。前回、お話あしたように、電磁場ではなく、量子場やブレーン場、重力場いろんな場があるのだが、形態形成場、すなわち、生体マトリクスという場にアクセスして、そこから自分の宇宙に情報を送ったり、受信する。すべての空間はブレーン場であり、その全空間点は無数の流速によって無数のブレーン宇宙の出入り口がある。ホログラムとは部分点に全体が内蔵されていることだが、まさしくホログラムである。人間はまるで端末機のような働きをする。

  さて、そんな人間が自分にそっくりなケータイなどをうんだ。人間はどうやって作られたか。神はひとを自分の姿に似せて作った、と聖書にはある。絶対精神である神様から人間、人間から今後うまれるであろう工学的な人間そっくりななにか。これは精神の階層構造になっているのだ。もしかしたら、神と人間のあいだにも別のものが介在しているかもしれない。人間は精神に特化しているので精神、魂の歴史、階層性をもつ。時間的階層性である。動物や植物はちがう。弱肉強食のピラミッドにみるように、食べるもの、たべられる種というような空間的な階層構造になっているのだ。



構造主義とリゾームについてである。あたりを見渡すと木に囲まれていた。木の蜜をすってやろうと、脚立をたてかけ、セミががんばっている。身近にあるものは宇宙のすべてをあらわしていたりする。木もまた、その形、成長をみると、あらゆる構造が見えてくるように思えるのだ。

  構造主義についてである。構造とは小僧とよく言い間違える。それはとりあえず置いておく。構造は変化しても貫いて変わらないものだ。ラジオ体操、かかとをあたまにこする、どんな体勢になっても、骨格の構造はかわらない。

  レヴィストロースは世の中のすべては同じ構造かもしれないとふとおもったであろう。世界中の神話を研究。時代も場所もちがうのに、同じ構造だという。なんと神話と現代数学ですら同じ構造。目に見えない構造がちがったバージョンであらわれているのである。

  次の話はリゾームについてである。ドゥルースとガダリが提唱した。通常、考えるときはツリー構造だ。何かを伝えない、考えるメインになるもの、これが幹になって枝にいって幹に戻る。中心があるのだ。ところが、大地の中の菌糸体、茎状根はちがう。中心がなく、はじまりもおわりもない。主客もないし、むしろ、中心から逃げようとする線になる。支離滅裂っぽいが中心のない思考法、これがリゾームである。


   まとめ

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   身の回りのものが意外と宇宙のすべての構造を示していることがある。たとえば、木である。土から芽がでて成長し、幹から枝がはえて、花が咲く。それが実となり、ついには地球の重力で落下し、種が土中で栄養吸収だ。

  さて、実が落下するのは、以前にも話たが、物体は延命のために落下するのだ。地球の中心に近いほうが重力がつよく、時間もゆがみ、時間が伸びているのである。こんな一本の木を生命の木と比較。ビッグバン以降、地球が誕生し、さらには生命がうまれる。そして、枝分かれし、チンパンジーやキリン、そして、人類も枝先に花を咲かし、ついには実が実る。実が熟したら地上に引力によって落下するが、人類という種、つまりはたね、実は過去の生命の木の根元に落ちる。要するに、過去へと実は時間を逆行し、宇宙、生命誕生以前のビッグバンに戻る。ビッグバン以前とはいわゆる土中であり、ここからまた種が芽吹き、別の木が成長、これが並行世界になる。また、土中はツリーではない、いわゆる種がうまっている土中はリゾーム構造だ。だから、中心もなく、はじまりもおわりもなく、主客もない支離滅裂な世界。いってしまえば、夢である。夢における分裂的、断片的な状態はリゾームであり、土中のなかなのだ。ここから栄養を吸収し、世界、生命の木が生まれてくるのである。


  さて、こんどは意識活動も木と同じという話だ。いろいろと思考する。ツリーの思考だ。幹があり、いわゆるテーマがあり、そこから枝分かれする。そして、枝先から花が咲き、実になって落下。これは思考プロセスの逆だから、未来から過去という逆順である。時間を逆行する実、以前、話たが、時間逆行は意識であり、クオリアである。そしてまた、土中の混沌に入って新しい木がなり、思考が始まるのだ。




与件の神話と相互性についてである。ボーリングの玉が転がってきて。、それにあたってピンのように倒れた。予期せぬできごとである。ふと見上げるとUFOがいる。これまた、目に飛び込んできた予期せぬことだ。じつは身にふりかかるあらゆる出来事は無意識下で設定し、選択しているのではないか。これを科学的、哲学的に考えてみたい。

  セラーズの与件の神話についてである。与件とは与えられたもの。目に飛び込んできた犬のふん、自分があらかじめ準備したのではなく、いやでも目にうつったのである。これが絶対与件である。さて、真っ赤な太陽を発見。与件だから自分はなんら加工してないのだろうか。セラーズはこれを与件の神話だという。そうではなく、これは赤くて丸いものである、という理屈、論理的な操作がなされているという。すでに自分の手が加わっていたのだ。論理空間っていうのが準備されていて、そこに飛び込んできて、赤いものである、というように論理的にまとめられるのだ。

  次の話は相互性についてである。カントは認識するときに四つのカテゴリーを使っているという。そのうち三番目の関係のカテゴリーというものがある。これを使うことで、あのじいさんとばあさんの関係は云々だと判断できる。関係のカテゴリーの内訳は、実体性、因果性、相互性である。実体性とは、自分が立ち会っていなくても、電柱はそこに実体としてあり続ける、という判断に必要。因果性は原因と結果だ。そして、相互性はこの実体性と因果性がくっついてできたもの。互いに互いが原因でもあり、結果だという。お尻が座布団に着陸。お尻が原因で座布団に尻型。尻型ができたからお尻が出現なのか。なんと、小刻みにみていくと、これは同時、つまりは相互作用なのだ。


   まとめ


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   異次元理論


    自分が予期せぬことはふつうに起きる。街角が旧友があらわれ再会。上をみあげたらすずめが三羽、電線にとまっていたりする。自分が設定したり、お膳立てしたのではない。絶対与件なのか。そうではなく、自分が無意識下で設定、選択し、意識的にそれを感じたということも考えられる。それにはまず量子論からアプローチしてみる。

  二重スリット実験。スリットを通る光は波なので反対側の感光板には縞模様現れる。ところが、スリット付近に観測装置を置く。すると、波のようにではなく、光は粒のようにふるまうのだ。ひとが見た瞬間に、光は波動からかたまり、粒子になる。シュレディンガーの猫も同じだ。

  さて、私はみていない、感じていない、そこから突然、さまざまなものが現れて、私に力学的な抵抗感を与える。空からからすの糞が降ってきて、あたまに圧力を感じる。ふんは私が感じていない、見ていないので波動のはずではないか。波動が私のあたま、粒子性に力学的影響を与えたのではない。見てないとき、感じる前、感じる寸前かもしれないが、ふんはその硬さ、そもそも、あるかないか、という多世界的な波動状態をやめて粒子、かたまりになっていたのだ。つまり、一度、私は波動性を無意識下で粒子に収束させ、意識的にそれを感じたのだ。粒子が粒子に、かたまりはかたまりに力学的に力を伝達し、はては網膜を刺激したり、鼓膜を刺激するのだ。そして、ここにはどっちが原因で結果だという因果律ではなく、相互性、私があらかじめ設定、選択したのが経原因で、同時に、私ふんをみたのはふんが落ちてきたのが原因だという、相互に原因であり、結果という相互性の世界があるのだ。




時間意識、ベルクソン自由論、そして、アンガージェマンについてである。悔いがあったり、未来に不安になると、眉毛がハの字になるどころか、目じりが下がって情けなくなる。あれもこれもできない、とあきらめてしまうときがある。ところが、あらゆる過去、未来、さらにはギブアップ状態から開放されて背中に毛、もとい、羽がはえて飛翔できるかもしれない、という限界突破というお話である。

  時間意識についてである。時間というのは時計のようなものではないし、直線、タイムスケジュールのようなものでもない。そもそも意識なのではないか。今この瞬間ではなく、意識っていうのは厚みがある、それはまるでサンドイッチのようだ。はさんであるはずのピクルスが行方不明のときほど悲しいことはないが、この意識の厚みは哲学者ジェームスが提唱した。

  哲学者フッサールは同じく意識を厚みあるものと考えたが時間意識と主張した。今この瞬間に感じていること、これを原印象という。そして、ちょっとまえになにをしていたか、その過去とのつながりを過去把持。これからどうなるか、期待しつつ予期しているのが未来予持という。だからアイスホッケーでシュートするとき、自分がなにをしているか忘れてしまって、いきなり女の子すわりになってウィンクしたりすることはない。


   つぎのベルクソンの自由論についてである。自由をみとめないひとたちには、たとえば、決定論者がいる。過去から未来、全部、世の中は機械のようになにがおこるかきまっているという。かれらはタイムマシーンで過去や未来にいって主張しているようなものだという。反対に、偶然論者がいる。たまたま、らっきょがころがった、ころがらなかったかもしれない、すべては偶然だという。これまた転がらなかった並行世界を旅して主張している。そうではなく、自由とはなにか、と問う。自由だから問える、問わないこともできる。つまり、問う以前に自由は事実としてあったのだ。自由は問いではなく、事実だという。


   最後にサルトルのアンガージェマンについてである。サルトルいわく、人間は徹底的に自由だという。ただし、自由は単品で存在しない。自由はかならず責任がくっついてくるという。というのも、自由だから、これによって世の中をアンガージェ、つまりは拘束。同時に世の中から自分はアンガージェされるという。


   
   まとめ


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  人間は今この瞬間に生きている。今、ここだけだが実在である。ちょっと前、過去は実在しないし、ちょっとあと、未来も実在ではない。だから、さっきの自分は今の自分ではない。すると、人格も毎回ちがうし、過去の歴史も、今この瞬間に違う過去が生成だ。すると、責任主体の人格がいなくなって無責任だ。ところが、あらゆる過去、未来の不安から開放されて究極の自由意志で羽が生えてくる。

  われわれは三次元空間にいるという。そうでなく、三次元とはここだけでなく、あそこもそうなのだが、あそこにはいけない。あそこはここになってしまう。物体の表と裏を同時にみえれない。つまり、想像力の産物である。三次元空間は虚構、仮想なのだ。同じく、時間もまた過去はないし、未来もない。記憶も想像の産物、だから、時間も虚構、仮想。すると、三次元と四次元時間を抜いた高次元世界、5,6,7,8,9,10次元こそが今ここであり、いまここにある自由そのものだ。高次元と通じて今ここがある。今、ここは高次元をたたんでいるカラビヤウ多様体だ。

  時間が虚構ならば、原因と結果の因果律も作られたもの。りんごがころがった。斜面が原因か、手でおしたのが決定的な原因でははある。ところが、りんごがころがった原因は無数にある。地球の回転運動、風、無限の原因が一なる結果を生む。そのなかに特別視する原因をつくっているのは仮想なのだ。

  これらの話だと究極の自由ゆえに究極の無責任になる。そうではなく、三次元空間、四次元時間にはその責任主体がいないのだ。高次元的な責任、高次元とのアンガージェであり、これが宗教的な信仰とつながってくるのだ。




自己言及と自己相似についてである。自分をみつめてみると、たしかに悪人のようになったり、善人になったり、まるで、勇敢な戦士のときもある。勇者のときは、とりわけ、ゲームやっているときなる。おのれのなかに無数の他人が移りこんでいる。あたりを見渡すと、周囲のものたちがなにか動物にたとえられることに気がつく。さるっぽいひと、へびのようなひと、猛獣のようなひと。動物があらえれているのだ。さらに動物は植物、植物は宇宙があらわす。こうやって、なぜだか別レベルを反映させながら生存している。

  自己言及についてである。自分自身にふれると矛盾するという。自己紹介だって、趣味はドミノ、得意技はジャーマンスープレックス。自分にふれているから本来は自己言及でアウトだ。これは日本語でかかれているとか、日本語で日本語文法説明もよろしくない。ところが、世の中には自己言及でも矛盾しないものがある。ゲーデル文、オートポイエーシスなどだ。オートポイエーシスは自己組織化といい、いわゆる生命の自然治癒力のようなもの。自分で自分をなおすのだ。論理学的には排中の原理。こちらはキャベツか、キャベツ以外のものである、という文。キャベツとキャベツ以外をあわせると、宇宙の全部、宇宙の全部のなかには自分もいる。全宇宙のなかのなにか、といっているのだから正しいにきまっている。自分にふれているから本来は矛盾するはずだが、矛盾しない自己言及だという。

  次の話は自己相似、フラクタルについてである。自然界はフラクタル構造だという。これまた自己言及っぽくなるのだが、自分のなかに、自分の形と同じものがあつまっているというもの。ぎざぎざまっすぐぎざぎざ、という形。その一部を拡大しても、ぎざぎざまっすぐぎざぎざなのだ。おのれが己と同じ形のものの集まりでできているのだ。


   まとめ


  存在の科学


  異次元理論


   自分のなかには無数の他人の心があらわれている。だから、ある特定のひとの気持ちになれる。こんどは私と他人を含めた人類。人間界をみると、なんだかみんななにかしらの動物っぽい。ロバっぽいひと、サルっぽいひと。動物が人間界にあらわれている。動物は植物界があらわれ、植物はなんと地球をふくめた宇宙全体の現われである。

  以前はなしたが、土のなかは混沌としたビッグバン以前。ここに種があり、成長し、花をつける。この花の開花がビッグバン。その後、散ってしまい、種が植わる。別宇宙がまた成長する。となりにも別の種類の花が咲きこれらの花畑は無数の並行宇宙を包む、五次元花畑である。

   なぜ、そっくりな構造が別レベルの世界にあらわれるか。これは同期しているからだ。心臓はたくさんの心細胞でできている。これらがてんでばらばらなリズムで刻んでいたら心臓は弛緩と収縮をリズムよくできない。これは同期現象において、足並みをそろえるようになる。人体のすべての部分が同期しているのだ。振り子の運動。右にいって、したをとおり、左へいく。自重でまた下にいって、勢いで左へ行く。こんな振り子のとなりび別のリズムで振動する振り子をおく。すると、いつしか二つは同じリズムを刻むようになるという。なぜなら、壁や空気の振動で同じように調節される、これが同期である。そして、なによりも、振り子は生命と同じ、矛盾しない自己言及なのだ。自分の重さで動いているのである。生命、矛盾しない自己言及、全宇宙、これらは自己言及ゆえに同期しあい、この同期によってレベルを超えて同じパターンを出現させるのだ。





全体性と無限、そして、希望の原理についてである。次元上昇はエレベーターで屋上遊園に行くのはちがう。高次元へとレベルアップなのだが、ボスキャラを倒していくのでもない。少なくとも、高次元はどっちにあるのか、その方向はどっちのなのか、を検討したい。

  哲学者レヴィナス、全体性と無限、についてである。路上に落ちている100円玉。でんぐりがえしをして、すかさず拾い上げ、壁を蹴ってそこから逃げさる。まるで忍者な動きである。この100円玉は誰が落としたのか、そして、なにでできているか。そのすべて、全体をつかみとる。手のひらに載せるのである。これが帝国主義的自我による全体丸ごとゲット作戦だ。ところが、やまちゃんはそうはいかない。他人のからだだけでなく、その思想だの、考えていること、この全体、輪郭はつかめない。だから全体ではなく、他者は無限だという。

  私は一人称、あなたは二人称。そして、三人称は正面にはいない第三者。もしくはだれでもない無人称。いつどこにいても、正面のあなたではなく、この視界の外のだれだがわからないかれらという三人称の圧迫感を感じる。これをイリヤの強迫といい、イリヤというのが無人称のだれかのことだ。

   次の話はブロッホ、希望の原理、についてである。かってワニにかみつかれた。わに革風の財布をみると、トラウマでおかしくなる。だから、ストレスを感じないために、嫌な記憶を無意識の世界に押し込む。でてこようとしたら形を変えて夢になる。これがフロイトの無意識だ。ところが、ブロッホは未意識について語る。いまだ到来しない未来への意識。ユートピア的願望だ。未意識によるユートピアがかりに実現しても、ユートピア的な残余が残るという。これが心のなかで爆発するのだという。


   まとめ


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    超心理学的実験があった。まずは意識はすべて地球意識としてまとまっているかという実験。電磁場というのがあって、これをつかってラジコンは動く。いろんな場があるが、形態形成場とというのがあるという。人類という種の場、だから、たいてい形は一緒だし、目にみえない場でつながっているというもの。この実験的な検証。乱数発見器で特定の数をだすように念じるとその確立が増えるという。また、乱数発生機を世界中に配置。大事件が起きるやや前に世界中の乱数発見器が偏った数値になるという。これは人類共通の意識が働いている証拠ではないかという。

  またもうひとつの実験。これは意識は未来からやってくるかというもの。被験者にランダムに発生する景色などのスチール写真をみせる。このときの脳波を測定だ。すると、性的描写の写真のときは変動するのだが、なんと写真を見る5秒前に予期して反応しているという。性的なものは人類存続にとって大切なことなので、おそらくは、余地能力は生まれるのだろうが、未来に意識がいっているという証になるのだろうか。

  ここで、本題である。次元上昇、アセンション、高次元はどっちの方向にあるのか。一次元の直線にたいして、ひとつうえの二次元は直線に垂直な次元、つまり平面の二次元になる。二次元のx、y座標の両方に直角に交わる直線が高さになり、これが三次元になる。三次元のx、y、zの三つの直交する四つの次元が時間次元である。そして、この時間次元tとx、y、zのすべての直交する軸が五次元の方向だ。時間といっても時間意識であり、意識している主体としての私と対面する対象物、これが時間軸。主客軸になっているのだ。これに直交するのが真横、つまり、正面のあなたではなく、他者一般、イリヤなのである。正面のあなたではなく、特定のだれかへの愛でなく、慈愛が五次元の方向になる。この方向性は私と他者をつなぐ形態形成場になる。ところが意識の所在は未来であり、未来から過去への流れが意識だといったが、この未来からの方向性を加味すると、三次元のx、y、zには直交、時間軸にかんしては未来のほうへ偏った、未来側に鋭角な方角、ベクトルの先に五次元アセンションへの道があるようにおもわれるのだ。


環境内存在と世界内存在、そして、自己組織化についてである。いきなり爆弾発言なのだが、すべてはドーナッツではないのか。石ころもてんとうむしも人間もドーナッツなのだ。穴があって、入り口と出口がある。しかも、人間と物体は多少ドーナッツの種類が異なる。チョコレートでコーティングされているのか、はたまたわさびが入っているかだ。万物ドーナッツというお話である。


  環境内存在と世界内存在についてである。ユクスキュルの環境内存在。人間は五感があり、おつむもよろしく思考をし、世界が物理的なものだとおもっている。また、手足があって歩行する。こうやって知覚できちゃう世界と、行動できる世界をあわせて、人類という種の環境世界。てんとうむしは残念だが人類とは違う感覚、そして、羽もはえているので行動できる世界もちがう。てんとうむしという種は固有の環境世界にいるのだ。しかも、種は環境のなかに溶け込むように、環境とやり取りしながら生きている。

  これにヒントを得たハイデガー。人間は世界内存在しているのだという。周囲の環境だけでなく、なんと世界丸ごとに対して開いている。世界、宇宙にあるもおはすべて、なんとかのために、という道具の連鎖。そのなかに身をおいて、世界とかかわりながら存在している。これが世界内存在である。


   次の話は自己組織化についてである。新陳代謝したり、自分は変化しつつも、自分自身であり続ける。怪我しちゃっても、自然治癒力、自己治癒力をもつ。自分が自分自身を組織的に改造できちゃうので、生命は自己組織化の働きがあるという。


   
 
  まとめ


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   すべてはドーナッツの形をしている。穴がたくさんあるものもある。これをトーラス構造という。トーラスは自己組織化、自己完結的にエネルギーを生む。自然界でみると、地球の磁場は極点間がつながり、トーラスになる。低気圧、台風、竜巻も、すいあげてそとにむかって吹き下る。これもまたトーラスである。銀河系、太陽系もトーラスである。ドーナッツを見ると内側と外側がつながっている。三次元のトーラスは周囲の環境世界のやり取りを意味する。ところが、竜巻は100億光年離れたものに直接に影響与えない。近傍のものだけである。そこで、生命にうつるが、こちらは口や肛門、鼻の穴などがあり、複雑なトーラスであるが、一部、単発的に裏と表がつながる三次元トーラスから裏が表そのものになってしまう高次元を経由した高次元トーラスになる。これが意識だ。高次元トーラスとはクラインのつぼ。内側がそのまま外側でもあるという高次元構造物。生命といっても、人間の精神、自由意志はこの高次元トーラスの割合が高いのである。高次元トーラスは周囲の環境とのやり取りではなく、存在そのもの、世界そのものと直接的にかかわるものである。人間は世界内存在しているのだ。ところが来たるべく人間はこの高次元トーラスの割合が100パーセントになり、なんと、世界にかかわるどころか、世界、宇宙を選択するのだ。複数の多元世界を選択し、信念によって、自分の住まう世界、宇宙そのものを決定するのである。




超越論的主観性と量のカテゴリーについてである。私は爪楊枝をくわえる。爪楊枝が右に若干、0.1度だけ傾いている並行世界もあるのだろうか。そこまでいってしまったら、ずぼんのしわひとつだけが違う世界もある。無限にあるのだろうか。それとも、それほど細かく分かれていなくて、ザックリしたものなのだろうか。それとも必要最小限にわかれているのだろうか。

  超越論的主観性についてである。カントとフッサールがよく主張していた概念である。超越的とか、経験的というのは、目の前にあるたんぽぽを夢中で観察しているようなもの。そんなときは、たんぽぽを観察している自分なんて忘れている。われを忘れて没頭だ。そんなたんぽぽを見ている私自身を意識。庭の中でタンポポ観察しているおいらがいるということ。超越的について論じている主観、だから、超越論的主観である。認識し、経験しているけど、どこまでおいらは経験できるのだろう、という可能的経験について考える。認識している自分を認識だ。

  次の話は同じくカントであるが量のカテゴリーについてである。カテゴリーとはカレーライスを食べるとき、それがなんのか認識、判断するために必要な道具。四つのカテゴリーにあてはめてカレーライスだ、さあ食べよう、というようになる。量のカテゴリーはそんなカテゴリーのひとつだ。そして、カレーが大盛りなのかどうか、判断するときに使う。量のカテゴリーの内訳は三つある。単一性、これはなにか単位になるもの。数多性はひたすらいっぱいあるというもの。三番目の総体性、これは一番目の単一のものが二番目の数多性に合体してできた、単位になるものがいっぱいあるという、いわゆる整数のようなものだ。

   まとめ

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   異次元理論



   多元世界、並行世界は無限にあるのか。しかも、無限に細かく分かれていうるのか。やまちゃんはあるときある場所で前髪にの一本が一ミリずれている世界。こうなると、もう無限だ。それとも、ある程度、ざっくりにわかれているのだろうか。

  世界は量子でできている。たとえば、この三次元空間内でいえば、電子。電子は原子核のまわりをまわるが、波動なので、山と谷でできていて周波数がある。原子核を一周しているので、かならず、山と谷のくみあわせだから、その周波数は整数値になる。1.5などはない。五次元空間には量子、重力子が飛び交う。これまた波動であり、五次元内で円になっていれば整数値になる。よって、五次元に漂う三次元ブレーンに与える影響、そして、三次元ブレーンということは多世界、並行世界のパターンは無限に細かくなく、整数値というか、単位によって細分化されているのではないのか。

   また、われわれのまわりは量子であるから、雲であり、波動であり、同時にいろんな状態が重なっている。これを人間も含めたあらゆる生命が互いにみることによって粒子に収束、さらに、五次元に生命がいるなら、三次元の世界もその者によって収束。いずれにしても、収束する意識体はひとりふたりという整数値であり、決して3.5人ではない。だから、形成される並行宇宙のパターンも無限に細かくされることはないのだ。つねに意識は超越論的主観、世界のなかにいる自分という一なるものなのだ。これが単位になっているから、できあがる世界もまた、無数に細かく、微細には分化しない。





心身一元論、規約主義、そして、不可進入性についてである。いろんな制約がある。もちろん、エイっという気合で手を使わずしてトイレの水を流すのは難しい。さまざまな規約、ルールに則っているのだが、これらを解除にする方法がなんだかありそうだ。それは宇宙の前の混沌にアクセスすることではないか。

  心身一元論についてである。心とからだは同じものではないのか、という。正面からみた野獣、後ろからみると美女。見る角度によって違うけど、同じひとりの人間様。同じく一なるものを心とからだというように見ているのではないか。哲学者フレーゲの意味と意義というものがある。明けの明星と宵の明星、意味は同じ金星だ。ところが、明け方に見えるのは明けの明星、夕暮れに見えるのが宵の明星、つまりは意義がちがう。また、お冷をくだされ、という食堂で店員にたのむ。研究室ではH2Oの研究。同じ水だが意義がちがう。心と身体も、意味は同じで意義がちがうのではないか、という思想だ。

  次の話はポアンカレの規約主義についてである。目でみて、これが真理だ、と叫ぶ。経験的真理のことを言いたいのだが、ポアンカレはそんな真理はないという。なぜなら、ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学、どっちも違う結果になるが、使っている言語の違いのようなものだという。科学というのは言語文法があって、これにしたがってしゃべっているのであって、規約、ルール、文法にしたがったおしゃべりだ、という考えに近い。ニュートン力学ですら、そういう言語文法で話ていると考えるのだ。

  最後に不可進入性についてである。椅子に座ると、椅子にケツが溶け込んで、人間椅子にはならない。なぜなら、互いに互いを進入させまいとする物体の形而上学的な性質があるという。これが不可進入性だ。

  まとめ


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   三次元空間に電子が飛んでいて、光子だって飛んでいる。三次元空間にある物体や身体。これらは重力をもっているがこれは五次元空間から飛んできた重力子によるものだ。そして、五次元空間内ではただ飛んでいる方向の違いがあらゆる量子、重力子と光子の違いを生んでいる。じつにこれらはすべて同じ量子、いってしまえば、すべてが光子なのだ。

  光子、光の波動、量子の特性は生命の意識活動だといった。ところが、今、いったように五次元レベルだと物に重力を発生させる重力子も同じ。意識と物体、意識と身体は五次元レベルでは同じものだ。われわれがなぜ意識による光子の情報を重力の変動、物体移動、発生、消滅につなげることができないのか。これは規約によるのだ。混沌とした社会にルール、規約ができて社会になった。初めから規約、ルールがあったのではない。同じく、宇宙は最初は光子も重力子も同じ混沌の量子世界。ここから、論理法則、自然科学の法則というルール、規約が生まれる。さらには言語を使う人間、言語という規約を生み出し、ついには社会の規約を生んだ。これらの制約、バイアスを取り除くことはできるのか。宇宙は植物にたとえ、土中の種が芽をだし、成長し、花をさかせたものだといった。土中はビッグバン以前の量子のカオスだった。ここには時間の流れもない無時間な世界。ここにアクセスすることで、量子のカオス領域に入り、時空を超えたエンタングルメント、時空も不可進入性も、そんな規約、常識のタガをはずした自由自在な働きを及ぼせるようになるのではないか。




行為の反因果説とニヒリズムについてである。箱のなかの生八橋が腐っているか否か。空けた瞬間に確定する。もしかしたら確率は低いがグレムリンが食べ終えて寝ているかもしれない。ちょっとファンタジーなことをいってしまったが、われわれは箱のなかだけでなく、宇宙全体も確定するのだ。もしかしたら宇宙は最初からなかったという最悪なことを確定しないように注意しよう。

  アンスコムの行為の反因果説についてである。バナナの皮を教卓付近にしかけておく。実際にそういう行為に及んだので実行犯だ。かれは意図的にバナナの皮をおいて教師をころばせようする。果たして、心のなかの意図が原因で、バナナの皮設置という行為が結果のなのか。たしかに、ボーリングの玉があたったのが原因でピンが倒れるのは結果。自然界は原因と結果の因果律。人間の心は自然物じゃない。だから、かれはなんとなく自分がやっていることを了解しているが、教師のいたずらを追えた跡で事後的に理由づけしているのであって、心の意図が原因ではないというのが、行為の反因果説だ。

   次の話はニヒリズムについてである。ニーチェとハイデガーである。ニーチェはこの世界には他人といっしょに共有できちゃうようなものはないという。善悪だって、赤色っていう色にかんしても、隣にいるやまちゃんの目をかりれないからわからない。あくまで、価値はすべて自分の視点からでしかない。だから、価値なんか最初からないので、無から価値を創造だという。

  ハイデガーは存在忘却の時代だという。存在そのものっていうのはみんなが共有しているはずだが、送りつけられてくるのはすべて存在者っていう具体的な着ぐるみをきたやつだという。だから、ず〜っと存在忘却していたが、その極みがニーチェだといいう。共有する価値、ましていわんや存在そのものもない。だから、そんな価値のない、無の時代、ニヒリズムの時代だからこそ、存在そのものの到来を待っているという。

   まとめ

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 この一なる宇宙の内部の構成要素。量子であるが、これは厳密には波動。かりに電子、光子という粒にみたててすべて数え上げると膨大だ。それでもなんと、この宇宙の外にある別の並行宇宙の数のほうが多いという。アインシュタインがはじめに提唱した宇宙定数。宇宙定数の値が無数にあり、もしかしたらある値以下だと引力的重力が大きすぎて収縮、大きすぎると斥力的重力がおおきくてはじけやぶれる。程よい宇宙定数も無数にある。

  さて、本来は一なる広大な宇宙の構成要素はたくさんある。おおきい宇宙のほうが数は少ない。ところが、大きい宇宙がいっぱいあって、小さい構成要素のほうが少ないのだ。大小がこうやって交互に逆転する。こうやって大小の均衡が維持されるのだ。構成要素の量子を収束する意識。同じく大きな多元宇宙のどれかもわれわれは収束してかたまりにしちゃうのである。つまり、真実の宇宙定数を探しているのだが、もしも、宇宙は本来存在し、発生しなかった定数をみつけたとたん宇宙は消滅するのだ。しかも、存在したという痕跡残さず、最初から発生しなかったこととおなじようにだ。これは不条理であり、ニヒリズムだ。宇宙の内部の構成要素においては原因と結果の因果律。人間の精神とかかわる五次元宇宙、多元宇宙においては因果律ではなく、動機、理由が重要になるのだ。行為の反因果律と同じだ。だから、事後的にあった、なかったというレベルなので、宇宙は最初からなかったことにされてしまう。精神がこの五次元の多元世界の収束にかかわらなうように、擬似クラインのつぼである三次元トーラスをクラインのつぼに見立ててる組織が誕生した。





行為的直観、無主体説、そして、無為についてである。がんじがらめでいろんな制約があり、発狂している四の字固めかけられているひと。制約があるのは時空があるからだ。時空、因果律から開放されると、奇跡がおこったりする。宇宙も、ひとりの人間の誕生も、精神の進化も、じつに時空に穴あけである。そして、その方法が無為ではないのか、というお話である。

  西田幾多郎の行為的直観についてである。無類のバナナ好きは、バナナを発見したとたん、即座に低姿勢になってくらいつく。まずは、バナナを認識し、直感する。つぎにそのひとの実体があって、行為にうつる。直感し、行為するのだが、そのあいだにかたまりとしての自分がいるのだろうか。自転車にのっているとき、あたりを直感しながらハンドルさばきだ。つまり、直感しながら行為するのであって、直感と行為、もっといってしまえば、主観と客観のあいだにはなにもない。

  無主体説についてである。西田幾多郎も、実体としての私はいないという。ヴィトゲンシュタインもまた、言語はゲームであり、生活から自然にうまれたルール、文法。だから、人称代名詞の私、あなたっていうのに結びつく実体があるわけでない、と自分はいない説をとなえる。

  最後に無為のついてである。老荘思想、タオニズムの思想。なにかをしている。べろで口元のチョコレートをなめる。無為とはなにもしないこと、腹を為す、という言い方もある。

  まとめ


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   バナナを認識し、直感する。認識とは受身のようだが、フッサールのいう受動的総合のように、じつは自発的なのだ。なにかをしているのである。顔を動かしたり、眼球動かす。頭でも考える。箱の中のバナナは腐っているのか、食べらているのか。あらゆる状況、状態が波動となってかさなっていて、箱をあけてみた瞬間、量子の波動がきゅーっと収束して粒子、かたまりになって出来事が確定するという。見る、認識する、とは完全な受身ではなく為すこと、営み、していることだ。こうやって対象物を確定したとき、原因と結果の因果律がおのずと発生する。どうしてバナナが腐ったのか、たべられているのか、という原因。時間と空間が出現するのだ。

  時間と空間の枠組みをはずす。もしくは、時空に穴をあける。これは量子の波動を収束せずに、あらゆる状態を重ね合わさった状態にしておくこと。つまり、何かを為す、認識をする、見る、をやめるのである。いわゆる無為によって波動そのものでいさせる。無為とは無我、無自体、存在自体でもいい。因果律、時空は生成と消滅という存在と無のコラボレーションであって、これを切り離し、波動そのものが無為であり、無自体なのだ。

  宇宙は無限の時間、だから、どんなに確率が低くても必然的いつかはおこる。奇跡は起こるのである。膨大な時間を費やさずに起こすには時空をなくすしかない。量子トンネルというのは、膨大な月日で時空に穴があき、やまちゃんは壁を通り抜けたり、時空を越えて移動するのだ。奇跡は膨大な時間のなかで必然的におこるのだが、このとき、無為が関与する。生命が何かを感じないで無為であるときにおきる。時空のたががはずれて時空に穴があく、時空そのものが無効化するのだ。それで奇跡的に銀河がうまれ、太陽が生まれて太陽系、地球が誕生し、人類、そして、いまここに私がいる。私は卵子に精子が受精して誕生したが、奇跡的なことだ。私は生まれるまえ、死後、つまりは生間領域で無為であって、それゆえに、生まれるという奇跡がおきたのである。無為は時空というバイアスの解除、時空の穴あけなのである。




地平、図と地、そして、フィヒテの第三原則についてである。らっきょが転がり、美女がそれにつまづいてポロリ。いわゆる奇跡である。奇跡というのは自分の意図で起こせない。宇宙は奇跡で誕生し、銀河、太陽系、人類だって奇跡だ。しかも、そんな奇跡が自分自身と直結する問題で、なんと、おのれの自由意志こそが奇跡だといいたい。

  地平とはなにか。見えそうで見えない限界である。カントはまず三つの地平。たんげだんぺいに波兵というように、いろんな平がでてくるがどうにかここでは思い出さないでほしい。混乱を避けるためにも、地平であることを強調する。考えても、これ以上の理屈を考えると頭痛がしちゃう。論理学的地平である。美しいもの、美そのものがみえそうでみえない。美学的地平。どんなにもっと善いことしたいが、それにも限界があり、これが実践地平だ。現代でフッサールは、人間はいろんな地平に囲まれているという。
  
  次の話は図と地についてである。いわゆるゲシュタルトである。被写体のたんぽぽ。周囲には山や青空がみえる。被写体と背景、これが図と地であり、たんぽぽっていうかたまり、物体があるのではなく、図と地のやり取りから立体的な像が浮かび上がる。

  最後にフィヒテの大三原則についてである。自我は自我を定立するという。つまり、自分が自分を設定だ。次に自我は非我を反定立。つまり、自分以外のすべて、そこにある箱ティッシュですら設定。これらが第一、第二原則。そして、自我と非我がちょめちょめするのも、自我が設定。これが第三原則だ。

  
  まとめ

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   前回、なにもしないことは波動を収束しない、だから、いろんな状態を重なった状態にさせ、これはまさしく、時空に穴をあけるという無限時間の中で起きる奇跡、量子トンネル効果をうむといった。無為によって奇跡が起こるのだ。

  そんな無為、奇跡は年中起きている。しかも、自分が暗黙裡に無為によって奇跡を起こさせている。なにかを意識していても、見ていても、地平に囲まれている。その地平の向こうは意識、意図が及ばない。なしているのではなく、なしていない。つまり、地平の向こうに無為があり、奇跡を誘発しているのだ。そして、なによりもいいたいのは、その昔、話のだが、自分の心はどこにあるのかである。三次元宇宙の内部にあるのは肉体であって、心は膨張する三次元宇宙の外にあるといった。膨張速度が光速度を越えると、光は戻ってこないので実質、情報のやり取りが不能、原理上、関与しえない。そんな宇宙の果て、事象地平の向こうは時間が逆行しているので、自分の心だといった。心に三次元宇宙が包まれているのだ。さて、心が事象地平の向こうということは、事象地平の向こうは意図、意識が及ばないので、無為である。よって、事象地平の向こうにある心は無為ゆえに奇跡の連続なのだ。だから、およそ、想像したり、意志によって活動できたりする、自由意志という奇跡の産物がある。自由意志とは体の中ではなく、宇宙の果てんぼ向こうにあり、しかも、無為であり、奇跡の濃縮体なのである。




アウフヘーベン、超弁証法、そして、時空連続体についてである。茶柱がたってあるいてジャンプする。奇跡である。そんな奇跡はひらけごまや、ちちんぷいぷい、のたぐい、つまりは意志によってなせるものではない。もし、それができたら聖人か、はたまた、超能力者であり、かれらはもはや高次元の意識をもっている。

  哲学者ヘーゲルのアウフヘーベンについてである。かって、シェリングは正が反と合体して、合になると考えた。まったく正反対のものが組み合わさって新しいものの出来上がりだ。ところが、ヘーゲルはこれをただの事務的な味もそっけもない図だと考えた。正、反、合は宇宙や人間、すべての進化の原動力だという。カントは抽象的なことを考える悟性。さらに、理性はこれ以上どっちが正しいかわからない、否定的理性。まったく正反対のどっちがただしいかわからないからギブアップだが、ヘーゲル弁証法はこの矛盾対立をアウフヘーベンしちゃうという。アウフヘーベンとは、ただの融合合体ではない。AとBが対立し、互いに解消されて、レベルアップの新しいものになる、それでいて、AとBは保存されるというとことん矛盾している概念である。

  次の話はメルロポンティの超弁証法である。そもそも、メルロポンティはヘーゲル弁証法を醗酵をやめた死んじゃった弁証法だという。本当の弁証法は、コインの裏と表、けっして裏と表が合体し、新しいはにゃほにゃっていうなにかに進化しない。とにかく、コインは回転し、裏は表、表は裏になるだけだ。すべてはつながっていて、入れ替わるのである。右の尻っぺたと左のぺたも巧妙にふつぶせで回転すれば入れ替わるのをエロビデオから学ぶ。超弁証法はこういった回転運動である。

  最後に時空の連続性についてである。哲学者ラブジョイである。まったく正反対のものはどんなものでも無限をはさむとつながり、連続しているという。とまっているものと動いているもの。とまっているとは、無限に小さな動きである。違いと同一性も連続しているという。なぜなら、無限に小さな違いが同一性だという。


  まとめ


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   無為であることは、なにも影響を与えないので、量子の波動を収束させない。つまり、波動状態を維持させ、これは原理的な奇跡である量子トンネル効果と同じである。だから、無為とは奇跡だといった。このとき、無為なのだから意図的でも、意識的でもない。ところが、意図的、意識的に無為、つまり、奇跡をおこなうものがいる。超能力者だろうか。新約聖書の数々の奇跡をおこすイエスである。

  三次元空間ではつぼがあったら、表と裏、外部と内部は連続している。連続の原理である。四次元空間は時間だとして、五次元空間では裏は表、表は裏というメビウスの帯、クラインのつぼである。これは三次元宇宙のはるかかなたまで及ぶ人間の心、意識のスタイルである。メルロポンティの超弁証法のレベル。そして、ここでも、つぼにあけられた穴、時空の穴は無為でなされる。穴であると同時に穴ではない。穴であると同時にでっぱりである、ということにならないと意識的な無為、無為を為せない。これが六次元なのである。ここは穴と穴ではないということが両立するアウフヘーベンのレベルだ。しかも、以前から主張しているが、六次元は愛の次元であり、これがキリスト意識ではないのか。

  
  時間非実在論と共時態についてである。時は金なり、光陰、矢のごとし、とよく九官鳥が叫んでいる。時間が流れているというのは見せかけではないのか。宇宙には一方通行がなくて両通ではないのか、と考える。すると、ランドスケープ宇宙論とロンギヌスの槍、この一見、異彩を放つおじさんとおねえさんのカップルをみるような組み合わせっぷりなのだが、この二つが巧妙にリンクする。

  マクタガードの時間非実在論についてである。時間は実在しないと断じるマクタガード。時間というのは通常、過去、現在、未来だ。ところが、かってはあかちゃん、いまは壮年、そして、老人、というようにAさんは同じじとなのに三つの顔をもつ。論理的に矛盾するというのだ。これがA系列という時間である。そこでB系列が考えられる。以前と以後の二つである。ビフォーはぽっこりおなかでアフターはすっきりおなか。ここにも時間のにおいがする。そこで、ここから時間的なにおいを脱臭。すると、C系列である、ただの順番だけが残る。レジの順番待ちのようなものだ。このC系列だけが実在するという。

  次の話は共時態についてである。ソシュール言語学というのがあるが、これは共時言語学といわれる。通時態というのは言語がどう変化したか、時間の流れを追う。最近の若者の話し方と江戸時代のひとはちがう。そいうではなく、共時態でみるとは時間をとめちゃうのである。すると、ことばの形、音の違いを比較し、この違いから意味がうまれるという。つまり、時間をとめて構造をみるのである。


   まとめ


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   ランドスケープ宇宙論というものがある。インフレーション宇宙論だと宇宙は膨張する。宇宙定数が0から1の間で大きければ斥力的重力が大きく、宇宙は勢いよく膨張。この宇宙bのなかに気泡、泡がうまれる。これが別の子宇宙なのだ。しかし、この子宇宙は宇宙定数が親宇宙より小さい。だから、斥力的重力が少なく、膨張がそれほど激しくない。また、この子宇宙のなかにたくさんの泡宇宙がうまれ、こうやって無数の宇宙が無数の宇宙定数で実現する。このどこかにわれわれの住む宇宙がある。

  われわれの住む宇宙のなかに無数の泡宇宙があり、これが生命ではないのか。すると、以前話ことと矛盾する。以前、われわれの意識、心はこの宇宙よりも大きいといった。そのとおりなのである。宇宙のなかの小さな泡宇宙が生命だとして、膨張はゆるやかだが、いつしか加速し、広大になり、光速を超える。つまり、未来においてわれわれの住む宇宙よりも大きく光速を超えた膨張スピードになり、時間が逆行するのだ。だから、未来の自分宇宙は時間逆行により、いまの小さな自分宇宙に情報を届ける。これが意識なのだ。光速を超えたタキオンのシャワーを浴びているのである。

  さて、われわれの住む物理宇宙は過去から未来へきちんと流れる時間がある。そして、光の速度が有限なので、頭上の星は一億年前の姿であったり、身近にある物体も、離れているからわずか昔の過去の姿をみている。つまり、過去にかこまれ、タイムラグがあるのだ。このタイムラグの補正のために、未来から光速を超えた膨張自分宇宙から時間逆行で情報を届く、つまり、生命の意識があるのだ。未来から現在に届くこのタキオンシャワーの時間の逆行、これが自分自身の意識なのだから、この逆向きの矢印を差し引いた物理時間の矢印しか見えないのである。

  イエスはロンギヌスの槍で殺害され、三日後に復活を遂げた。この槍が時間の矢だったらどうか。死滅から生への復活とはタキオンシャワー、つまり、意識の流れではないか。前回の話をまぜると、イエスは六次元意識ではある。五次元からの流れではない。もうひとつは、そもそも、時間を支配するとは民を支配することである。ピラミッドにしろ、日時計によって季節を知り、田畑の収穫の時期を知る。時間を管理するものが民を支配したのはマヤ文明でもいっしょである。だから、支配者、権力の象徴が時間の矢であり、ロンギヌスの槍であるならば、それによる復活とは権力者からの開放、神と人類が契約ではなく、愛によって直接結ばれるという証なのではないのか。



   サルトルの想像力と対他存在、そして、ハイデガーの気遣いについてである。気をつかって座布団を差し出す。遠慮せずにお座りください、と言い添える。でんぐり返しをしながらトルネードなひねりをくわえながら座る来客。ほんとうに遠慮していない。ひとに気を使ったり、気持ちを汲んだり、察したりできる人間。その宇宙的な構造について考えてみたい。

  サルトルの想像力と対他存在についてである。やまちゃんをいろいろ観察してみる。いろんな視点から観察するのだが、真上から、真下からも観察だ。無限の視点からあるので、すべてから観察できない。ところがやまちゃんが不在のときはどうか。このときにあの懐かしいやまちゃんを想像するのだが、これを準観察という。横顔だけを想像できる。また、どこからみたわけでもない、やまちゃんの全体イメージを一挙に想像もできる。いわゆるやまちゃんを概念的に想像だ。つまり、実際に観察するよりも、より完璧なのだ。だから、想像は観察よりも現実性があるおとになる。これだと、みんな妄想、想像にふけってしまい非常にまずい。そこで、これは想像なんだよ、という非現実化作用が働くという。

  対他存在とはなにか。まずは道端に落ちている岩石。岩石は岩石と一致し、自分と一体。すぐれて安定している。これが即自存在だ。ところが、自分が自分として一致していないのが人間の意識だ。だから不安定であり、即自を夢みちゃう。これが対自存在だ。私はやまちゃんをゴリラマンとあだ名をつけて、固定しちゃう。やまちゃんを即自にしてしまうのだかたサディズム。やまちゃんが私を即自化すれば私はマゾニズム。こんな他人との関係が対他存在である。

  次の話はハイデガーの気遣いについてである。人間は世界に開かれているという。こりかたまった石ころではない。いろんなものとかかわり、気遣いながら存在しているので、気遣いとは人間の基本的なあり方だという。

  まとめ

 
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   ひとはなぜ、他人のことを気遣ったり、気持ちを汲み取れるのか。数学者フォンノイマンはいう。意識は波動を壊すと。つまり、ひとはすべて波動であり、いろんな状態がかさなっている高次元の多世界的なものだ。見たり、認識したり、意識したり、思考すると、正面にいるそのひとは即自化され、波動が壊れて粒になる。海の波を意識しても、山と谷というかたまりでとらえてしまう。マルクスのいった物象化だ。すると、波動を波動でとらえるしかない。そこで、意識しているとき、瞬間的にかもしれないが、意識していない、認識や思考もしないときがあり、これが為すのではなく、無為なのだ。このとき、波動を波動としてとらえ、自分の波動と共鳴させるのである。人間の自由意志と無限の可能性がある想像力。想像力には非現実化作用がともなうがこのバイアスがはずれると、無限の想像になり、これは無為、無我、無そのものに等しい。究極の想像は波動状態をそのまま受け入れるのである。そして、恋愛、愛情、これらは理屈ではなく、なぜ、好きなのかと論理的には答えられないという。つまり、粒子化による意識ではなく、波動そのものを感じるのである。だから、愛と気遣いは同類といえるであろう。

   


posted by モノイイ ジョーカー at 13:56| 東京 ☀| 日刊 仙人新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仙人新聞 2012・12・27

仙人新聞 2012・12・27


なんとテキストデータを保存時に電源が落ちたため失ってしまいました。失意のどん底だったので投稿できませんでしたが、いままでの残りのデータを一挙に投稿し、(一部は明日以降投稿)はこまめに投稿しようと考えて見います。なお、投稿の煩雑さゆえ、動画データはリンク先をざっくり張っておくだけにしますのでよろしくお願いします。


**最近の動画**

http://www.ustream.tv/user/monoiinasu


**哲風呂**

自由意志、存在の穴、そして、文脈原理についてである。見えないものは怖い。真実の口に手をつっこんで、もしかしたらなめられてしまうのではないかと恐怖におののく。じつはいまこの世界はいろんな並行宇宙が重なっているのではないか。しかも、見えないだけで、すぐそこに別の世界、そして、別の住人が踊ったり、ホッピングをやっていたりする。ただし、そんな別世界とこの世界の交差するところに自分がいるというお話をしたい。

  自由意志についてである。実存主義者サルトルは、人間は実存し、絶対的に自由だという。しゃがむのも、ジャンプするのも自由だが、もっと徹底的な自由がある。それは、自分が人間になったり、男女どっちかになったり、いわゆる自分が何者か、であるという本質をも決めているというのだ。

  ベルクソンのいう自由意志。自由とはなにか、と問う。ところがどっこい、すでに問いかけるかどうか、自由意志で決定している。だから、すでに問いを発する時点で、おまえはもう自由意志であるというケンシロウの声が聞こえてきそうだ。自由とは問いではなく、事実だという。


   次の話はサルトルの存在の穴についてである。穴といってもいろいろある。鼻の穴、以下略である。私は便所下駄をみつめ、意識する。このとき、私は便所下駄ではない、というこの間合いが必要。私と対象物である便所下駄のあいだに穴があり、無を分泌だ。ところが、メルロポンティは違う。私と便所下駄は同じ肉でできていて、つながっている。穴ではなく、溝やくぼみだという。だから、私と便所下駄は反転し、あたかも、私は便所下駄くんになったつもりで自分の存在感を感じる。

   最後に文脈原理についてである。タコ野郎という言葉がある。水族館でタコ鑑賞中なのか、はたまた、友人とけんか中なのか、脈絡によって言葉の意味がちがう。数学には難しそうな記号だけでなく、ふつうに日本語、すなわち、自然言語というものが登場する。いわゆる、数詞などである。フレーゲはそんな言葉もまた、文脈、流れのなかから決まるというのだ。

  まとめ


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   この世界は無数の並行世界が重なっている、わずかのところに、恐竜が絶滅せずに文明を築き上げた世界があったりする。ただ、われわれには見えない。それでも、もともと宇宙を構成する要素は最初は一箇所にあつまっていた、だから、一度ふれあったものいは永遠に光速を超えて関係するというエンタングルメントがある。だから、この世界だけでなく、ほかの並行世界の影響が気がつかないが現れているのである。

  さて、これらの並行宇宙は交わらない。ただし、まったくもって交わっているところがある。私自身、私の自由意志である。右手を上げた瞬間、私が右手を上げた並行宇宙に行く。つまり、無数の並行宇宙を選択できるということは無数の並行宇宙の交差するもの、宇宙のあいだのワームホールそのもののが私の自由意志なのである。ただし、なぜだか自由意志をもってしても、恐竜繁栄の世界へいけない。この三次元空間は四次元軸、原因と結果の因果律、時間によって制約をうける。並行世界が重なっているところは五次元バルクなので、時間による制約はないのがワームホールである自由意志だ。ところが、なんでもできないのは、五次元の時間に相当するもの、時間の流れ、因果律ではない五次元の要素配列、五次元のマトリクスである。これがいわゆる時間の流れではない論理的な文脈であり、これによって、自由意志によってなんでもかんでも世界を移動できないストッパーになっているのである。





関係主義と無意識についてである。今この瞬間、まさしく決断のときである。バナナを買うか、りんごを買うか。いきなり、スーパーで弓取り式のような動きだってできる。自由意志による決定。これには心の奥底の無意識が影響しているが、このいまこの瞬間の無意識の構造、これは時空を超えてすべてのことが関与している壮大な領域だった。

  関係主義についてである。さつまいもとじゃがいもがいがみ合っている。犬猿の仲、犬猿の関係である。もちろん、さつまいもというかたまり、じゃがいもというかたまりが最初にないとこんな関係になりえない。友情関係だって、関係に先立ってまずはAさんとBさんが実体としている。これがふつうの実体主義だ。ところが、関係主義はAさんとBさんの実体に先立ってなんと最初に友情関係があり、これによりAさん、Bさんはうまれるのだ。すべては関係だという。

  リッカートは関係主義をとなえたが、すべてはひとによって真理がちがうというチャラけた相対主義。テコでも動かない真理があるんだよ、という真剣な絶対主義。このどちらでもない第三の道が関係主義だったのだ。

  次の話は無意識についてである。フロイトのいうトラウマ。シマウマではない。過去に嫌な経験をする。かえるにかみつかれる。これがトラウマになり、無意識の世界に押し込む。なぜなら、ずっと意識していているとストレスになるからだ。だけど、そんな嫌な経験が意識に現れようとする。ここで検閲がかかって、形を変えて夢となってあらわれる。個人的な無意識についての研究だ。

  これに対して、ユングは集合的無意識である。意識的に社会の集団に所属しているように、個人的無意識は人類の集合無意識にいるのではないか、というもの。だから、世界各国、肌の色がちがうが、集合無意識を共有し、同じような神話がある。


   まとめ

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   今この瞬間、自由意志によっていろんなことができる。なにが私を突き動かしているのか。並行宇宙は五次元バルグにあり、すべてが重なっている。しかも、もともと、宇宙はひとつだったので、一度は関与しているので、光速を超えてつながっている量子エンタングルメント。当然、別の世界とこの世界もつながっている。ワームホールというチューブでつながり、自由に行き行きできる。だからワームホール自体が自由意志だ。右手を上げる世界に移動できるのだ。そして、こんな自由意志の根底には超無意識がある。これがすべての並行世界、ここには四次元の時間も越えているので、江戸時代だって、未来の世界だってある。あらゆる時空と関係しあって、今この瞬間には超無意識の波動となり、自由意志を突き動かすのだ。ささいな出来事もすべてが関係し合って、今この瞬間の私の超無意識から来る衝動になっているのだ。集合無意識は空間を越えているが、超無意識は時空、並行世界をも超えたバルグのなかの無数のワームホールによる関係性である。


 

現存在とゲシュタルトクライシスについてである。お尻をふく、口元についているおまんまを手で取る。真剣な顔つきで耳かきをする。自分が自分にかかわるとき、私は私とメリーゴーランドのように循環、つまりはループしている。世の中、目には実体としては見えないが、ループしているものはすべて意識体ではないか、というお話である。


  ヤスパースの現存在についてである。ハイデガーのいう現存在は人間のことだった。大根は自分にかかわらない、ただ存在しているだけである。ところが、私は私自身にかかわるから現存在だ。ヤスパースは世界のなかの存在のしかた、世界定位というものを考える。このとき、万物皆、現存在しているというのだ。大根もニンジンもみんな自分にかかわっている。当然、人間である私も同じ。これを日常的世界定位という。つまりは、ものと同じようなレベルだ。科学的世界定位は頭上高く飛び上がって、状況を冷静にみる科学的な態度。そして、哲学的世界定位であるが、これは自分にかかわりすぎて、自分のなかに突き進みすぎて、自分自身に穴をあけて向こうを見てしまう。向こう側には超越者がいる。これが実存だという。


  次の話はヴァイゼッガーのゲシュタルトクライシスについてである。医学的人間学を提唱。科学的に患者をみるのではない。科学とは法則としてとらえるが、法則はとまったもの。写真のようなものであり、人間はいつも生成、活動中だ。周囲の環境と止むことなく循環し、やりとりをしている。二酸化炭素をはいて、酸素を吸う。心とからだも循環しているという。循環をクライシスというが、これがゲシュタルトクライシスである。

   まとめ


  存在の科学


   異次元理論


   人間も含めた生命は自分にかかわる。自己意識もそうであるが、かかわっている私とかかわられている私は同じ、ここに循環、ループがある。ループし、循環しているものはすべて意識活動ではないか。海から蒸発した水が雲になり、また海に戻る。地球のこのループは意識である。目にはみえないが、宇宙にも身近にもこんなループ、循環があって、これらは意識活動だ。宇宙全体もまた、無境界仮説ならば、球体であり、はじまりもおわりまもない循環だ。宇宙も意識体であり、このなかにも大小の意識gが無数にある。

  また、極微の世界、この世界はすべて量子場で成立するが、粒子と反粒子はたとえば、10のエネルギーを借りて対発生し、10のエネルギーを返して、対消滅。これを繰り返しているが、まさしくループであるので、万物はすべてが意識活動しているともいえる。





形相質料論と無限についてである。三角形という幾何学的な図形は質量、重さがない。当たり前である。漬物石も重いが無限宇宙からすれば鼻くそ、否、重さがないに等しいではないか。こうなると、ただの図形と物体、ここに差がなくなるのではないか、というお話である。

  形相質料論についてである。まずはアリストテレスの形相質料論。木造の家を発見。もちろん、木でできている。材料、質料は木であり、これに大工さんが形を与える。形、本質が形相である。こうやって形相と質料がドッキングして家になる。木がいろんなものになる可能性に満ちている。机やいすになったかもしれない。だから、いろんな可能性に満ちているので、可能態という。ところが、これにハエではなく、形相が取り付くと、現実的な家になる。これが現実態である。

  存在するための形相と質料だったが、近世にはいると、哲学者カントは認識のための形相質料論になる。材料は木ではなく、感覚的なものだ。色、におい、これらの感覚的な素材が質料、そして、心のなかに形相が準備されていて、これで組み立て、これは家なんだ、と認識するのである。


   次の話は無限についてである、。無限といっても二種類あるとやはりアリストテレスは考えた。10グラムよりも多い100グラム。100グラムよりも、1000グラム。こうやって考えると、とにかくそれ以上の重さがあるので、可能的には無限があるはずだ。これを可能的、潜在的無限という。ところが、こちらが無限だ、と突きつける。これが現実的無限である。

  カントは人間の認識というのは不完全。だから、現時的無限ではなく、潜在的無限しか知らないという。

  現代においてはフレーゲは現実的無限、現代風には実無限を認めて、これを数学的、論理学的に調理する。これに対して、ヴィトゲンシュタインは無限っていうのは言語の使い方のまちがいだという。哲学は言語使用、文法のまちがいからうまれるというのだ。


  まとめ


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  異次元理論


  この世界にはいろんなものが存在する。しかも、質量、大きさ、重さがある。つまり、物理的なものである。ところが、宇宙が無限大ならばどうか。無限大にといってみれば、1トンは限りなく0グラムに等しい。つまりは質量はゼロになってしまう。重さがない形だけや、重さ大きさがない論理的なもの、つまり、物理的なものが論理的幾何学的なものと同じになってしまうのである。




コーヘン哲学と背景知識についてである。自分にとってマイワールドは無限に大きい。この世界はあまりにも大きく、可能性に満ちている。なんだかわくわくしてくる。自由意志であらゆるものも想像できる。ところが、はた目からみれば私は有限で離れてみれば豆粒ほどの大きさにみえる。広大な無限宇宙と有限にみえる他人からみる私について考えたい。


  コーヘン哲学についてである。新カント学派、マールブルグ学派のコーヘンについてである。カント哲学では感覚的な情報は向こうからやってくる。そして、あたまのなかで判断し、認識する。ところが、コーヘンの哲学ではすべてがあたまのなかでなされるのだ。時間も空間も整理整頓のために用意されたカテゴリー。あたまのなかの世界を私はみている。あたまでっかちかもしれないが、これには数学の微分法が使われる。微分法というのは、たとえば、いすに座るとき、ケツとイスの天板の間が30センチ、そして、もっと接近し、15センチ、7.5センチ、というように、無限にたくさんの空間点を通過しないと座れない。だから、頭で考えるとき、考えているものを考えているのではなく、考えていなかったものを考える。それでも、かんがえていないことを考えることはできない。だから、考えていないものに、無限に接近してゆくのだ。よって、無限の情報がここにはあるので、これが湯水のごとく無限に湧き出る感覚になるのだ。根源の原理といい、AはAではなく、Aではないもの、非Aによって成り立つという。

  次の話は背景知識についてである。料理番組で卵に調味料の塩をかけます、とアシスタントがドヤ顔で紹介。この言葉にはなんと宇宙や地球、社会、すべてのことがらが背景となって総動員されているのだ。そもそも、日本語でいっているので日本語の文法が背景になる。塩とはなにか、料理というのは人が食べるもので、人の胃袋もさりげなく背景になる。宇宙のすべてが関与して、食塩をぶっかけるのである。

  まとめ

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  異次元理論

前回お話したが、無限大でることは、質量ある物理的なものも、無限大に比すれば限りなく小さく、質量0の情報、論理的なもの、幾何学的なものに等しいといった。人間はあたまのなかで想像し、イメージし、情報を扱う。そして、自由意志で自由にイメージできるし、自分にとって世界、宇宙を全体としてイメージする。あたまのなかは質量0のイメージ。力士をイメージしても重さはない。だから、あたまのなか、心、意識は無限の宇宙なのだ。


    インフレーション理論とパッチワークキルト理論を融合する。すると、穴あきチーズが膨張し、穴あき、気泡が増えていく。これがインフレーション宇宙論であり、この気泡のひとつがわれわれの宇宙である。気泡もまた膨張する。無数の気泡には並行宇宙もある。さて、この気泡宇宙の内部にいるものにとっては瞬間的には自分の住む気泡宇宙は空間的に無限大になるという。ただし、気泡宇宙を外から見ると有限の大きさだ。なぜだろうか。時間の流れとはなにか。インフラトン場が高エネルギーであるから膨張するのだが、このインフラント場のエネルギーが同値を示すところが、厳密な意味での時間的同時、今だという。この気泡宇宙内部でインフラトン場を空間で測定すると、同値のところを今とした今の曲線ができる。すると、この空間が無限大であることが判明するという。泡宇宙の外から測定すると、時間は無限だが、空間は有限になるという。これは人間といっしょである。さきほどいったように、自分から世界を主体的にみると無限大。しかも、自由意志でなんでも想像できる。無限の可能性だ。ところが、はたから、外からみると、ひとりの有限な人間にみるのである。まさしく、気泡宇宙とはひかならぬ我々ひとりひとりだったのである。




間主観性、俗流唯物論、そして、共同幻想論についてである。われわれは同じひとつの宇宙に住んでいる。いっしょにいるという感じが強い。他人をひととして、見る限り世界はひとつ。たしかにからだが柔らくてまるで軟体生命におもえても、ひととしてとらえるのだ。ところが、客観性に徹すして、分子や原子の集まりだと本気でおもうと、世界はまるで12ラウウンド終えたボクサーのようにぼやけてみえる。世界がたくさんあるような多世界に見えるのである。
  
  間主観性についてである。フッサールは現象学においてもっぱら私と世界について考え深めた。ところが、ふと横を向くと他人がいる。他人の意識、心はどうしたものか。ここで、まずは類比化的統覚という考え。なんだか形が似ているから自分と同じような意識をもっているのではないか、と推理。そして、ついには後にメルロポンティに引き継がれる対化的連合という思想にたどり着く。ひとりでいるとき、目の前に小さな円盤が現れる。ひとりだと目がふたつしかない、あとからいくら説明しても信じない。二人で目撃すればより客観性高まる。つまり、目の数、目撃数が多いほど客観的だ。ひとりでいるのに、どうしてちゃぶ台が客観的に実在するか。じつは、自分はいろんな地平に囲まれているという。これ以上、見えそうで見えない視野の限界、においそうでにおえない嗅覚の限界。考えられるぎりぎりの地平。これらの地平の向こうに他人がいそうだが、そうではなく、地平線のなかにすでに他者の目が埋め込まれているという。なんとも気持ち悪い話しだが、だからこそ、ひとりでいても客観性をゲットできる。これが対化的連合である。

   次の話は俗流唯物論についてである。マルクスは正当唯物論は人間的だという。人間がいて、そのための唯物論。すべては物という発想。ところが、自然科学は俗流唯物論であり、人間まで進化論やら分子、原子でできているといって物とみなすという。

  最後に吉本隆明の共同幻想論についてである。個人でひとり幻想に浸っている。おとぎの国を想像し、その世界にいる。個人幻想である。友人や家族で同じ幻想のなかで生きる。これが対幻想。そして、国家、民族で共同の幻想をみるのが共同幻想であり、日本ではこれが非常に強いという。


   まとめ

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   異次元理論


   前回、話たが、インフラトン場が高いので膨れ上がり、そこに気泡ができるのが泡宇宙。泡宇宙が無数にあるが、その中のひとがわれわれの住むこの宇宙だ。そして、時間とは太陽のまわsりを地球が一周するのを一日と定めているが、厳密な時間は原子時計でもなく、インフラトン場のエネルギーが同値の状態だという。泡宇宙の内部にいるものがこのインフラトン場のエネルギーが同値の今を曲線でつなげると、瞬間において宇宙は無限大になる。泡宇宙の外だと、これを測定すると、時間が永遠で、空間は有限。つまり、膨張する泡宇宙が見える。

  ひとや生命の意識は自分を中心として内側から世界を見たり、あたまのなかの世界にいる。だから、無限大に見えるので、自由意志によって想像や世界が無限にみえる。おのおののひとによってこの無限宇宙がある。無限だからあらゆる可能性が考えられるので、自分は他人の気持ちを察したり、気を使ったり、間主観的に他者をおもんぱかることによって、共有する無限宇宙を向こう側にみる。つまり、こっちからあっちをいっしょにみるのだ。他者とともに、一なる泡宇宙のなかに住まうのである。これに対して、他者の心、意識を配慮せず、俗流唯物論といわれるように、心も物理的な働きの結果、とことん、分子や原子構造だとみることによって、あっちからこっちをみる。つまり、行き過ぎた客観性は泡宇宙を飛び出し、世界、宇宙を多世界的に見るのである。

  もしかしたら、こっちからあっちをみる、共有する無限宇宙という人間的な間主観的関係。これは共同幻想かもしれないが、あえていえば国家幻想ではなく、世界、宇宙幻想といえるかもしれない。

  


存在論的差異とニーチェ論についてである。私、ぼくちんという言い方がある。それでも、私はこの世界でもっと個別的で唯一無比、だれも真似ができない。たしかにチンパンジーのまねはできるが100パーセント、チンパンジーの愛ちゃんにはなれない。個人と全宇宙構造、これが編み出すことに、すべてのものたちはすべてを体験するという転生について考えてみたい。


  ハイデガーの存在論的差異についてである。存在そのものは具体的な存在者ではないという。この違いが存在論的差異である。哲学史ではうっかり存在者を存在と勘違いしていたという。古代ギリシャではプラトンはイデアが存在そのものだと思っていたという。いろんなやかんがあるけど、やかんそのもののイデアの影だという。やかんそのものもまた、存在者だという。近代ではカントの超越論的主観性。超越的はすばらしい形のやかんに感動し、意識集中、没頭すること。そんな意識活動を意識する、超越的を論じるから超越論的だ。世界のなかで自分がなにやっているか、ということを思い描く超越論的主観性こそ存在そのもの。

  つぎにハイデガーのニーチェ論である。ハイデガーはそんな存在が隠れている、存在の隠蔽というが、その最骨頂がニーチェだという。普遍的なもの、みんなと共有できるものなんてないとするニーチェ。すべては自分の視点からしかみれない。友人の目も、あたまもかりれない。善悪だって、あらゆるものは自分から見た視点、遠近法、パースペクティブだという。また、永劫回帰においては宇宙は無限の時間、だから、永遠に同じ一生を繰り返しているという。だからこそ、どんないやなことがおきても、すべてを運命として受け取ってしまう、これが超人だという。いずれにしても、この世で具体的、個別的な自分から見た世界、これが存在そのものを究極に隠蔽しているスタイルだというのだ。



   まとめ

  存在の科学


  異次元理論

   まずは宇宙論。宇宙はインフラトン場の高エネルギーによって膨張。チーズが膨張し、中に気泡ができる、そんな穴あきチーズのようなもので、この無数にできた気泡が宇宙であり、気泡宇宙は無限にあるので、無限に並行宇宙がある。そんな気泡のなかに住むものを仮想実験する。今、時間とはなにか。太陽の周りを一周するのが24時間、原子時計、これらは厳密な時間や今を定義していない。厳密にはインフラトン場が同値のものが今である。すると、気泡宇宙の内部で測定すると、今、この瞬間の宇宙は無限大の空間になる。ところが、気泡の外で測定すると、時間は無限で気泡宇宙は有限にみえる。そんな気泡宇宙の内部のものにとっては無限空間なので、パッチワークキルト理論が成り立つ。無限宇宙には光速を超えて互いに離れている宇宙が無数にあり、無限にあるから当然、無限に並行宇宙がある。おわかりだろうか。インフレーション並行宇宙のたったひとつの気泡のなかにパッチワークキルト理論の並行宇宙があるのだ。並行宇宙のなかに並行宇宙がある。こうやって並行宇宙は入れ子構造になり、ついにはわれわれの身近な世界になる。この身近な自分からみた周囲世界もまた並行世界だ。私はやまちゃんだったかもしれないという平行人間、宇宙なのである。ただし、ホログラム理論でいったのだが、オリジナル宇宙の無数のホログラムのなかにはだんだんオリジナルの誤差が大きくなって、かなり精度の悪い世界がある。同じく、自分を中心としたこの日常世界は平行世界の入れ子構造のなかでもっとも精度が悪く、対称性が崩壊しているのである。そこに唯一無比の具体的な個別者である私がいるのだ。私はニーチェがいうような個別者であり、究極の遠近法に生きる。ただし、ニーチェがいうような輪廻、つまり、永劫回帰ではなく、微妙にずれた無数の私、無数の一生をなんどとなく繰り返すのだ。並行宇宙のすべてを自分という唯一者を変えずに、あらゆる可能なパターンを繰り返す、永劫並行宇宙回帰である。すべてのものはすべてを体験する。これが私は唯一無比の個別者とみなしたときの、世界構造である。




クリプキの固定指示子と可能的100ターレルについてである。いろんな体験をして、人間として大きくなる。身長が伸びたり、あたまがアフロになることではない。一生のうちの体験、一生を超えた体験。しかも、そんなことを体験している魂すらも変えて体験。いつしか、だれでもがやまちゃんになってやまちゃんを体験する。

    クリプキの固定指示子についてである。いろんな可能世界があるという。アリストテレスはアレキサンダー大王の教師だったが、もしかしたらミュージシャンだったかもしれない。もっといってしまば、女性だったかもしれない。すると、いろんな可能世界を貫くアリストテレスさんとは何者だろうか。固有名詞のアリストテレスを説明する文、アレキサンダー大王の教師かつ男性、という部分を確定記述という。可能世界では確定記述の部分はかわってしまう。かわらないのはアリストテレスという高有名だ。固定されているのでこれを固定指示子という。

  さて、人名ならともかく自然のものだと問題発生。水っていうのはH2Oではないか。分子構造はかわらないはずだ。これを事実上の固定という。ここから、ふつうに必然的な分析、偶然的な総合という考えがあるのだが、これを覆す。必然とは、ぜったいそうなるということだが、分析はあるものをはじくって中身を出すようなもの。偶然はたまたまであり、総合はばったる道で旧友とあうように、私を分析しても、旧友と出会うということが予測できないこと、つまり、外側から総合されることだ。ところが、先の水はH20というのは必然的でしかも、総合だという。最初からそう決まっているのに、あとから発見されるのである。


  次の話は可能的100ターレルについてである。カントが観念論論駁という箇所で述べたこと。ターレルの単位がよくわからないので、100グラムにする。可能性としての100グラムは現実の100グラムと同じだという。可能的だからいっぱいあるわけではないのだ。

  
   まとめ


  存在の科学

   異次元理論


  前回のお話は並行世界の入れ子構造の連鎖、そのなかでもとくに自分の周囲世界は精度の悪い対称性が壊れた並行世界だといった。他者は自分の並行世界の現われだともいった。そして、そんな具体的で個別的、主体的な私、いってみれば魂があり、永劫回帰ではなく、あらゆる可能なわずかにずれた一生、事象を体験する、いわば、永劫並行世界回帰だというお話だった。ここから、もっと対称性がこわれた個別者を想定したい。私ではなく、他人も含めて、共有するわれ、アイゼアである。このアイゼアが他人や他の生命の固体、魂になって、体験するのだ。つまり、私はおのが魂のすべてを体験するだけでなく、他人になって、他者になって、体験するのだ。やまちゃんにいずれなるか、かってなっていて、やまちゃんの無数にある一生のパターンも体験する。ちなみに、ここでは前世とか、来世意、だったと、なるであろうという時制は関係がない。なぜなら、四次元時間の流れを超えた五次元的なものだから、もはや無時制に山ちゃんを含めた全固体を体験するし、体験したのだ。
 



カルナップの確率論的帰納法とインガルデンの無規定箇所についてである。この世界はいろんな出来事が、パラレルワールドが重なっている。それが波兵、もとい、波となって目ではっきり輪郭がわからない。そもそも、波動拳、もとい、波動と粒子のふたつの顔面をもつ男ではなく、二つの性質をもつ量子。これは宇宙の大規模構造のミニチュア版であった。

  カルナップの確率論的帰納法についてである。帰納法は科学では必殺技である。法則をつくるための方法。にわにはにわ、ごりらがいた、というが、鶏は飛ばない。いままで飛んでいる鶏を見たことがないので、いまも明日も飛ばないであろう。こうやって、鶏はとべないんだよ、という法則。ところが、もしかしたら数パーセントの確率で羽ばたき、上空を優雅に飛行するものがあらわれるかもしれない。だから、あくまで確率で帰納法を表記しようというのだ。


   次の話はインガルデンの無規定箇所についてである。まず、この世界の領域を四つの象限にわける。実在世界、理念世界、志向的世界。実在世界はたとえば、だれもいない八百屋の店内でナスはじ〜っとして実在しているので存在自立的という。理念的な世界でも、1タス1は2であるが、なにが一個なのか、一羽なのだがかかれていない純粋な理念の世界だが、これまた、そこにひとがいなくても存在自立している。ところが、志向的世界はちがう。私にとって現れたナス。意識しているのだから、私がいないと成り立たない。存在他律的である。

  さて、小説を読んでいると、たとえば、こんな描写がある。トレンチコートを着た男性が木陰に隠れてラジオ体操をしている、という文。どんな木なのか、男性はしょうゆかソースか、マヨネーズなのか、ちゃんと規定されていない箇所のほうが多い。これをイメージによって満たす。先ほどの志向的世界もまた見えない壁の向こうや、電柱の影、これらの無規定なほうが圧倒的に多い。無規定箇所だらけなのである。


   まとめ


  存在の科学


  異次元理論


   この世界はさまざまな出来事、事象が重なっている。いわゆる五次元バルク内の三次元ブレーンだ。並行宇宙がかさなっているが、それだけではない。私が体験するであろうあらゆる体験、感じ、クオリアに満たされているし、私は別のだれかになったときのあらゆる体験、クオリアで満たされている。

  さて、並行世界が重なっているのだが、それが見えない。ひょっとしたらのあらゆる可能性はかたまりではなく、波動なのだ。だから、電柱の向こうは見えないが無規定箇所であり、ほとんどが波動だ。水の波もあらゆる山と谷が原因になってひとつの山になる。光の粒もひょっとしたらの並行世界のように、複数に確率論的に分身し、ひろがっているのだ。波動とは五次元のなかの三次元、つまりは高次元の現われなのである。粒子は低次元の現われである。0,1,2,3次元が粒子になる。だから、量子は粒子性と波動性の両方をもつのは、次元宇宙のすべてが小さくなってあらわれたものである。また、電柱の影もみえないし、壁のむこう、地球の裏側、はるかかなたも見えない。これらは波動なのだ。私を中心にして現象を感じているがここにもまた見えているものは粒子性であり、見えないものは波動性ということで次元宇宙のコンパクトサイズ版になっているのだ。




前人称性とゲシュタルトについてである。川の流れを眺めていると心が落ち着く。鼻息荒くてて、ノンストップアクションをみるように前のめりで大河の流れを眺めるものはいない。すべては川の渦巻きのような流れではないか。そして、意識の流れと記憶はこの流れと媒体である水に相当するのではないか、というお話である。

  哲学者メルロポンティの前人称性についてである。私、あなた、かれ、彼女、これらが人称性である。そもそも、この宇宙はすべて同じもの、同じ肉でできている。一木造りであり、おぎゃっとうまれた赤子は自他、人称がないという。これが前人称である。そして、ついに物心がついて、おれっているじゃん、と気がつき、自分は他人じゃない、私とあなた、かれらという人称がうまれる。肉に溝がうまれて、わかれるのである。ただし。もともとひとつだったので、あなた、他人の気持ちになったりできるのだ。

  次の話はゲシュタルトについてである。友人とあったとき、眉毛、目、あご、むね、というパーツを見て組み合わせ、友人だと気がつくのか。これを要素主義という。そうではなく、ぱっと全体をみて、被写体と背景のやり取りからだんだん立体的に見えて、選挙ポスターではなく、それは友人であると認識できる。ゲシュタルトとは、被写体と背景、図と地による全体的な輪郭の浮かび上がりだ。


  まとめ

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  われわれはまるど水の流れである。うずをまいているのだ。なんかのかたまりではなく、つねに周囲とやり取りしている。新陳代謝や情報の出し入れ。そんな小さな渦がおだやかになり、その波動は周囲のもっと大きな波、渦にうつる。最初は水という媒体なのだが、これは肉的なもの。赤子は粒子性が強く、波動を目指す。そして、大人になり、波動が主体になる。こうやって小さな渦がきて、大きな渦に意識がうつったとき、相対的に時間が早く感じる。ついには小さな渦はほぼ静寂になり、以前話したが水は波動性をもつので、媒体としての水は波動を記憶している。このmじょともと小さな渦が活発だった水媒体にエンタングルメント的にアクセスし、粒子化、肉化した過去の記憶にふれるのだ。まさにそれは内外という明確な区別をもたないゲシュタルトなプロセスなのである。





法則、真理同意説、そして、存在他律的についてである。たまたま、散歩中に100円玉を拾う。感動のあまり、いつもお世話になっているひとたちを集めて焼肉でもおごる。100円玉をなぜひろったのか。じつに世の中のあらゆる出来事は自分が設定し、1たす1は2になるものだ、という法則すらも自分が選択したといいたい。

   法則とはなにか。法則といったら一番きびしいものが論理学的法則である。爺さんであると同時にばあさんでしかも、寝ながらおきてることもできない。次にきびしいのが数学の法則。1たす1は3にならない。物理法則も違反して空中浮遊は難しい。しかし、なんじなすべし、という道徳法則はならずもの一家にはいれば破れる。法律というのも違反できる。

  トゥルーミンは法則を有効期限が記載されていない遊園地のチケットだという。なぜなら、太陽は東からのぼるっていう法則はいつ成り立たなくなるかわからない。、いつ成り立たなくなるかどうかわからないの博打だという。
  
  次の話は真理同意説である。こちらが真理でございます、というようなものが真理ではないという。真理というのはみんなが賛成し、挙手し、腋毛をみせるようなもの。みんなの同意のあるものが真理になるという。

  最後に存在他律的についてである。実在している靴下、だれもいない洋服ダンスでも実在しているので存在自律している。1たす1は2という理念の世界も、私がいなくても成り立っている。ただし、私にとって見えているこの現象界。これは私がいないと成り立たないので存在他律的である。


  まとめ


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   まずは非意識というものがあり、これは波動そのもの、並行世界、いろんな状態が重なっている量子の波動だ。ここから、こんどは超無意識。これはさまざまな世界の法則があるが、法則を選択する。そして、無意識はそんな法則にしたがってまだ収束していない量子の波動、重なっている状態をひとつの粒子にする。つまり、なにかの事象、出来事をつくる。そんな無意識の自分がつくった状態、状況を意識は意味づけしたり、社会性をもたせるのだ。真理とは、無意識下の同意、選択なのだ。すべては自分にとって、自分が作り出したもので、存在他律的たらざるをえない。



事行と人間原理についてである。水蒸気が水滴になってついには氷になってしまう。これと同じことが鼻息荒くしてアダルトなDVDを見ている人にも言える。意識するとは水蒸気が氷になるプロセスにそっくりだし、人形焼の顔にそっくりな友人もいたことをここに言い添えておく。

  哲学者フィヒテの事行についてである。自分をみつめるときがある。いわゆる自己意識である。ライターの火で前髪もやしたとき、上目遣いで自分の前髪を気にするだけが自分をみつめている瞬間ではない。自分を意識する前はどうだったのか。うっすら自分を知っていた。こうなると、自己意識が成り立つ前にもっと奥底に自己意識があって、無限後退になってしまう。無限にさがっていくアメリカザリガニだ。そこで、何もない無から一挙に自己意識がうまれる。これが事行だ。事実ここに存在していることは同時になにかやっていること。ボードゲームのこまのように、こまが事実存在してそのあとに動くのではなく、うgきながら存在だ。行為することが事実なのだ。これが事行である。アイスクリームはアイスクリームをやっているのである。たまごをよく産んでしまうが、産むものは同時に産まれたもの、自分を産み出すのである。

  次の話は人間原理についてである。私は宇宙を調べる。すると、今私がいるのにふさわしい、あまりにも人類や私のために作られたのではないか、というくらい、宇宙の様々な定数は作られている。光の反射率が0.1違うだけでも人類も、私もいなかった。人間がうまれるのに都合よく宇宙はあるという原理だ。

  まとめ

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  異次元理論



   人間原理、私がふと宇宙をふりかえってみると、そこには自分が存在できるためのあまりにも完璧に定数が決まっている。私がいるという事実、ここから存在させるための世界を並行世界が選び取っているのだ。実用主義とは本来、行為論や認識論につかわれるが、存在論的な実用主義ではないか。

  さて、私は無数の並行宇宙の波動を粒子にきゅーっと収縮させたのだ。波動から粒子にしたのである。また、自己意識もまた自分をかたまりのように収縮することだ。そのまえにはなんでもない波動意識がある。並行世界的な波動意識だ。さらに前は無我である。

  身の回りに同じ構造が見られる。水である。水は高温では水蒸気、これが無我に相当する。宇宙は冷えていくので、水蒸気は液体、水になる。これが波動意識。そして、ついにはもっと冷えて氷になる。これがおのれを粒子化させて自己意識を完成だ。ちょっとまえの自分をみている、つまり、過去だから粒子化しているのである。そして、おのれはおのれを粒子し、なんであるか決定しているので実存は本質に先立っているということである。水の状態、波動意識とは事行であり、産出と所産が同じであり、水の自己干渉性である。自己意識は産出する私と産出された私は違うのである。




ヘーゲルの精神現象学とヘーゲル様相論についてである。美しい光景を見て感動のあまり目頭が熱くなり、まつげをこがす。なにかを見たり、認識することは目の前の美しい地中海を存在させちゃっていることかもしれない。また、宇宙さんは私を存在させてくれている。私と宇宙は互いに存在させ、私と他人は別宇宙というお話である。

   ヘーゲル精神現象学についてである。りんごがある。本能的にごりらっと叫ぶ。そして、見知らぬおじさんがライオンとつぶやき、次の瞬間、悔しそうにあたまかかてしゃがみこむ。りんごがあるというのは真。それをりんごだと認識しているのはあくまで知識だから、知である。もしかしたら、みかんかもしれない。その場合は知は訂正される。真と知の弁証法運動という。りんごがそれ自体であるというのは真、こちらは実体。私のほうが知であるが、もんもんと活動しているので、主体だ。そして、宇宙もまた主体的だという。個人としての私が物心ついて、おれはいるんだと自意識に目覚めるように、宇宙、人類の歴史は目的があった。これは宇宙が自分を宇宙であることに気がつくのである。これが絶対精神である。個人の自己意識と宇宙の絶対精神が重なるのである。


   次の話はヘーゲル様相論についてである。うんちをふんでしまった。踏む可能性が現実になった。だから、たまたま、偶然である。ところが、見方を変えると、その道を通った経緯や、さまざまな条件がさかなったから、踏むべくして踏んじゃったのである。よって、必然でもある。可能から現実になるとき、一見、矛盾しあうこの偶然と必然が弁証法運動しているのである。

 
  まとめ


  存在の科学


  異次元理論



   水の相転移であるが、常温でも、水分子が一斉に同じ方向に動いちゃう確率は0ではない。つまり、1億年かわからないが、宇宙は無限の時間があるのだからこの奇跡は必然的に起こる。宇宙もまたすべてが光の速度で飛び回っていた。しかも、発生と消滅という長きにわたる状態。ここから奇跡がおきて相転移である。光速よりも遅い物質が産まれるのだ。前回話たように、物質の誕生、波動から粒子になるとは、自己意識のことだといった。自分をかたまりとみなし、外界と区別する。宇宙は波動から粒子、対象意識から自己意識になるまで膨大な月日を経て、チェンジする。これに対して意識はぼーっと対象意識、つまり、波動状態から瞬時に自分を粒子化して自己意識になる。瞬間的な相転移なのである。だから、宇宙と生命の意識の違いはこの相転移の長期、短期の違いに過ぎないのだ。




認識論、存在論的コミットメント、そして、射影についてである。私は部屋のなかにいる。天井をみつめながら横になってせんべいを食っているとカスが落下。九死に一生を得た。そもそも、私は部屋ではなく宇宙のなかにいる。私がいるから宇宙があり、宇宙があるから私はいる。私と宇宙のループと他人と別宇宙のループについて云々したい。

  認識論についてである。認識論といっても漠然としている。ひとはどうして鼻毛をみつめることができるのか。認識とはどういうものかについて論じるのだ。とりわけ、カント哲学では認識能力には限界があるといった。色、形などは感性で捉える。これらを悟性によって論理的に判断。さらには感性なしで理性は推論するのだが、この推論は終点をしらない。ついには神様とはなにか、自由とは、魂とは推論し、ギブアップする。あくまで認識論はここまでであり、この先はサササっと動き出して実践論になる。カントの認識論から存在論、とりわけ、宇宙も意識活動だというヘーゲルにいたるまでのドイツ観念論も出現だ。


  次の話はクワインの存在論的コミットメントについてである。論理学はなんだか形式的で中身がなくて実際に存在しているものとは関係なさそうである。x、yという変数や変項。ここにはなにか値がはいるのだが、いわばからっぽのうつわである。ここに値が入った瞬間、存在と関係をもつ、つまり、コミットするということである。

   最後にフッサールの射影についてである。この大根はずいぶん色っぽい形をしている。いろんな角度から眺めて全体像を組み合わせる。このさまざまな方向からの断片情報が射影である。

  まとめ


  存在の科学


   異次元理論

 
   量子力学におけるコペンハーゲン学派。私が見ているから猫の状態が確定する。私がいるから宇宙がある。私がいなかったら宇宙はない。同時に宇宙はなにかを感じ、認識し、私を存在せしめる。そして、私が感じ、認識し、宇宙を存在させる。私は宇宙だというのは梵我一如というが、私と宇宙はこうやってループしている。それでは他人はどうだろうか。AさんはAさんの並行宇宙によって存在させられ、Aは意識し、認識によってAさんの住まう並行宇宙を存在させている。たての宇宙と自分のループ、横の並行宇宙と他人である。

  ひとつのものにはたくさんの見え方がある。射影である。これは並行宇宙の現れである。私と他人をふくめてたくさんいる。これまた横の並行宇宙の現われである私と宇宙のループは世にいう同一性となって現われる。





文脈主義と領域的存在論についてである。交通ルールを守って、両手を挙げて横断歩道で足踏みする。ルールや規則は無数にある。自然界の法則から社会のルール。これらのルールが縦横無尽にあるのだが、ルールを選択してそのルールに従っているのが人間ではないか。

  文脈主義についてである。やはり、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームであろう。言語には文法があり、単語だって意味がある。だれか偉いひとが文法やら単語を作ったのではなく、生活のなかから自然発生だ。流れのなかで、単語に意味がうまれる。単語に意味が内蔵されているのではなく、流れのなかで、文脈のなかで意味が決まるのだ。タコ野郎っと声が聞こえてきた。実際にタコ男がいたのかもしれないし、もしかしたら愛情こもった意味なのかもしれない。

  次の話はフッサールの領域的存在論についてである。形式的存在論とはなんだか数学とか、論理学とか、実際には手ではつかめないものを扱っている。これに対して領域的存在論は質料、ぶつがそこにある。生物学、物理学、これらがあつかっているのは生命であり、物体だ。いろんなものの個性を捨てていくと、より大きな類にたどり着く。最高類がひとつの領域になり、精神とか、生命、物体、などの領域的存在論になる。


   まとめ


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    ルールにしたがって生きている。しかも、ルールから離脱できる。そうしても別のルール、規則に従う。無数のルール、規則で宇宙は満たされ、これらがあいまって無規則、無秩序になっている。そして、規則を選択する自分はほかならぬ規則にしたがっていない無規則的なものだ。だから、宇宙全体が自分の本体なのである。そのなかのある種の規則のなかが固有の領域的な世界に見えている。世界、宇宙の全体が私であり、規則のなかを住むのである。もちろん、法律、地域のルール、スポーツ、文法だけではなく、自然科学の規則も選択している。選択し、それに従うのだ。

  現代ひも理論の最先端。宇宙は小さな1次元のひもでできている。このひもに高次元が折りたたまれているというのだ。この折りたたみ方がカラビヤウ図形。ひもは振動し、その内部のたたまれ方によって固有な波形になって、波形がいわゆる知られている素粒子になる。素粒子の種類はこの波形の違いでしかないという。すると、現存する素粒子が出現するような高次元のたたまれ方を探せばいいが、実質、無数にあるという。だから、解が無数なので、ここから自分が選び出し、宇宙ルールを選択しているのだ。もはや、宇宙の高次元を内蔵させているひものレベルだと、選択によって、ルールが違い、ルールを選び取るという観察者の自由意志、決断が世界のなかの生存を決定しているのである。




自己意識、自他の反転、そして、形態形成場についてである。人間、他の動物、植物、これらは複雑な動きをしたり、成長をする。人間においては自問自答したり、自分自身を意識したりもする。鏡でヘアーを整えるのだが、手グシが入らないときもある。自己意識を持つ人間のさまざまな動きはまるで電磁場のなかの電子のようであり、とどのつまり、生命体は場のなかの荷量ではないか、というお話である。


  自己意識についてである。まず、自分のからだをみたり、耳たぶの音を聞く。おのれの名前だの、性格だの、これらは経験的にわかるもの。これを経験的な自己意識である。服装もかわるし、体つきもプロレスラーのようになることもある。経験的自己意識は変わる、だから、可謬的という言い方をする。

  これに対して、名前もない純粋な自分がいる。自分がつねにいるから変わることがないし、記憶があるのはこんな自己意識のおかげである。世の中のあらゆるものを捨てても残るのは、デカルトのいう、われ思うゆえにわれあり、である。これを統覚的自己意識という。

  次の話はメルロポンティの自他の反転についてである。あかちゃんのときは、私、あなた、かれらという人称、果ては、自分と他人の区別がないという。メルロポンティはすべては同じ肉でつながっていたという。自意識に目覚めて、人称が誕生する。だから、おなになっても、同じ肉で溝で隔たっているだけの他人なので、反転し、ひとの気持ちになることができるという。

  最後に形態形成場についてである。100匹目のサルのお話だ。ある種のサルが水で洗ってから芋を食い始めた。100匹に達した瞬間、離れたところの同じ種類のサルも一斉に芋を洗って食い始めた。目に見えないものでつながっているのか。生き物にも場があるのではないか。人間もまた人間の場があるのかもしれない。これが形態形成場である。

  まとめ


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   宇宙はいろんな場がある。電場では電子が移動。電子はスピン、角運動量をもつ。回転しているのだ。磁場もしかり、スカラ場では色荷である。そんないろんな場によって、人体だって物体もできている。だから、より大きな場があるのではないか。ただし、電子よりも複雑な振る舞いである。人間の場であり、個人はスピンしていないではないか。そうではなく、自己意識である。意識している自分は意識されている自分にチェンジする。また、自他の反転もまた回転運動ではないか。自己意識は電子でいうところのスピンなのだ。こうやってあらゆる生命は固有の場のなかでスピンし、活動をする。




ラッセルの有意味性と生活世界についてである。大きなつづらと小さなかつら、どっちがほしいと髭もじゃのおじさんに聞かれる。大きなかつらだと答えると、ぶーっといって、正解は小さな森の大きな家だという。とにかく、大きい、小さいは等身大の自分にとっての話。つまり、自分を中だとしたとき、大と小、内と外があいまって中である私を作っているというお話だ。


  ラッセルの有意味性についてである。有意味と無意味とはふつうに論理学で登場する。有意味とはほんとうかうそか、真偽のどっちかの値をもったものだという。富士山は日本で一番高い山である、というのは真、よって有意味である。雲は綿菓子である、というのはまちがっているので偽であるが、有意味だ。無意味、ナンセンスというのは、たけこぷたーは値段が高い、というもの。たけこぷたーは実在しないので、これは真でも偽でもない、よって無意味である。これを回避し、なんとすべてが有意味だというのがラッセルの記述理論。xとか、yというからっぽの器を使う。これを変数とか変項という。xはたけこぷたーという名前、かつ、xは値段が高い、といえばよい。すると、そんな名前のものはないので偽という値がつく、よって有意味な文になる。xについて云々する箇所を確定記述句という。


  次の話は生活世界についてである。フッサールは科学的な見方以前にふつうの生活の見方があるという。イチゴはたしかに分子構造があるがそれ以前に食い物である。科学理論があって、いちごが存在しているのではなく、生活があるからイチゴの分子構造云々できるのだ。ヴィトゲンシュタインは生活形式といって、生活は流れだという。しかも、なんで生活し、生きているかは根拠がないという。流れのなかでルールが自然発生。このなかに言語ゲームがある。単語や文法は流れがうまれたのだ。


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  大中小、その中が自分だといいたい。極大の世界、惑星が重力で時空をゆがめるなど、これらは相対論の分野。極小の世界は量子論である。極大と極微をそれぞれ担当していればいいのだが、この二つが克ちあってしまうところがある。ブラックホール、すなわち、特異点である。ブラックホールはすごく重い。だから時空をゆがめて相対論で計算。ところが、超小さいので量子論も必要だ。つまり、中なのである。私を中として大と小がわかれる。もっと大きい宇宙はたしか10の60乗で、最も小さい量子は10マイナス60乗。つまり、一メートルくらいのふつうの私が中間なのだ。よって、ふつうに生活している私、そして、意識活動こそブラックホールなのである。また、大と小の中間であると同時に、内に外側のすべてを押しこんだのが私の意識でもある。とことん、中であることが意識が特異点であることを物語る。

  記述理論におけう変項x。xはこの特異点、私の意識である。ブラックホールの内部、もしくはひもの内部もそうだが、高次元がたたまれている。だから、xは三次元よりもでかい。もっと広範囲である。この三次元の事象において無意味であるものも、xという変項、意識、特異点があることで高次元的な有意味性を受け取る。どんなことでも、私の意識のもちようで有意味になるのだ。




志向性、否定の否定、そして、第一質料についてである。気持ち悪い話かもしれないが、決して、カレー味の便についてである。ひとりで部屋にいるとき、ふと湯飲み茶碗をみつめる。中はみえないが、たくましく想像する。ほとんどが想像である。なにゆえ、湯飲み茶碗の実在感があるのか。それは湯飲み茶碗によって見つめられているからである。

  哲学者フッサールの志向性についてである。フッサールの師匠であるブレンターノ。茶碗をみているとは、茶碗の全体イメージを心のなかに作り、これに意識集中。志向しているその矛先があたまのなかであるから、志向的内在である。

 フッサールは感覚的ヒュレー、意識作用のノエシス、意識対象のノエマだ。感覚情報を意識作用のノエシスによって組み立てる。いわば、矢印の先端に突き刺しているようなもの。こうやってできた全体イメージが意識対象、ノエマだという。

  次の話はヘーゲルの否定の否定についてである。この茶碗はこの茶碗以外にすべてのもの、たとえば、おわんやちゃぶ台、土星、これらを否定して戻ってきたとき、はじめてこのお茶碗は規定されちゃう。自分以外のすべてを全否定して自分に帰る。否定の否定は肯定という思想である。


  最後に第一質料についてである。アリストテレスの形相質料論。一本の木は家にもなるし、家具にもなる。木はまた別の素材、質料からできている。こうやってすべてのものになれる可能性をもった究極の素材、質料、これが第一質料であり、可能態といい、デュミナスという。これに形を与えて、形相を与えて、現実態になる。


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  一人で電柱をみている。電柱はたしかに実在している。この実在感はどこからくるのか。電柱の影がみえないからそのほとんどが想像である。意識の矢印、志向性は想像物をつくっている。ところが、電柱はコンクリートでできているが、第一質料でできている。だから、あらゆるものになる可能性があり、いってしまえば、ひょっとしたらのすべての並行宇宙が濃縮されているのだ。そこにはあらゆる可能なかぎりの意識があり、そんな意識がこっちをまなざす。だから、意識のベクトルは互いに方向性が逆なので相殺し、想像の働きをゼロにさせる。想像ではないのだから、ここに実在感が生まれるのだ。




弁証法と動的平衡についてである。進化とか、レベルアップとはどういうことなのか。落ちているチェリーを食べたらレベルアップというか、腹を壊す。腹を壊してもいくさはできない。じつにいつも動的に活動しているので革命的進化は静かな脱皮ではないか、というお話である。

  弁証法についてである。古くは古代ギリシャのヘラクレイトス。パルメニデスとの対決が見ものだった。あるものはあるし、ないものはない、とパルメニデス。動いていたり、変化するもの、老化なんいうものも錯覚だというのだ。ところがヘラクレイトスは万物は変化しまくりだという。水の流れのようにとどまることを知らないという万物流転説が弁証法のもとになる。のちにソクラテスは弁証論を対話だという。対話をして、相手のなかからいいものを取り出し、互いにレベルアップだ。弟子のプラトンはこの手法でついにはイデアをみるという。ただし、プラトンの弟子であるアリストテレスは矛盾、対立を基礎とする弁証法の論理は、きっちりしっかりした形式論理におとると考えた。

  時代は近代、カント哲学である。人間はいろんな概念を自由につかうようになる。理性はなんでも自由に考え抜けば答え見つかるという。ところが、カントは理性には限界があって、魂は不滅かどうか、宇宙には自由意志があるか、すべてが必然か、さらには神様はいるかいないか、という二者択一のどっちが正しいかわからなくなる。矛盾する二つのもっともらしい答えで特定できずに敗北。これを超越論的弁証論という。

  これを乗り越えるべくドイツ観念論は、矛盾しあうものは融合合体で高めあうという。フィヒテしかり、シェリングしかりである。ところが、ヘーゲルはこれを論理的につきつめて、弁証法論理学をつくる。ついには、認識と存在も矛盾し、対立するからこれまた弁証法的にくっつけてレベルアップ、このレベルアップをアウフヘーベンという。

  次の話は動的平衡についてである。動的とは活発に動く、ダイナミックということ。平衡とはバランスを維持しちゃうこと。動くことでバランスとってしまう。つまり、生物の新陳代謝なのである。細胞の誕生と消滅によって、生体は維持される。同じようにこれはあらゆるもの、社会にも当てはまるという。


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   前回、お話したが、意識の志向性は想像的たらざるをえない。見ているところは一部で、意識対象の大半は想像でまかなう。それなのに、意識の矢印、ベクトルは実在感を感じる。目の前のコーヒーカップに実在感を感じるのだ。コーヒーカップはつきつめると第一質料でできている。可能態であり、あらゆる並行宇宙の濃縮状態だ。ここにはあらゆる可能世界の意識も濃縮され、コーヒーカップを見て、意識しているとは、コーヒーカップに見られ、意識されていることである。この互いの意識作用、志向性、ベクトルは想像のベクトルである。コーヒーカップからの逆ベクトルによって、相殺され、想像志向性は消える。すると、残るのはその基盤にあったもの、これが非想像である、実在なのだ。

  こんな志向性、ベクトルが無数にある。これらが相殺されずに飛び交う。原始の宇宙ではすべてが光速で飛び回っていた。これらが相殺しあって、でてきたものは最初からあったものだ。そこに対称性がきわまると対称性の壊れた基盤になっていたものが姿を現すのである。いわゆる、脱皮である。脱皮に皮が無数にベクトル。これらが相殺しあって、そのなかにいる基盤である本体が姿を現す。これは静的なプロセスであり、しかも、進化、成長である。よって、静的進化論をここで提唱したいのである。弁証法における矛盾のアウフヘーベンとはベクトルが互いに相殺しあってあらわれたものであり、これこそ、来るべきアセンションの姿なのかもしれない。




三つの偶然性と反証主義についてである。たまたまの連続である。コタツのなかのたまちゃんがたまたまた、たまをなめていた、ということをいっているのではない。運命とか、偶然はある意味必然ではないのか。SFにありがちな運命管理をするなぞのものたち。彼らの正体を論理的に解明したい。

  九鬼周造の三つの偶然性についてである。同一性とは必然だという。りんごはりんごである。これはしかるべきだ。ところが、同一性ではないものはどうか。これが偶然だという。

  偶然を三つに分ける。一つ目が論理的偶然、定言的偶然といわれるもの。くるまっていったら抽象的なもので、いろんなくるまが含まれる。ところが、例外的なこの愛車、世の中でたった一台のこの車、これを個的実存とよび、論理的偶然だという。二つ目が因果的偶然、仮説的偶然といわれるもの。エレベーターの上階に行くボタンを押したのが原因でエレベーターは上昇。ところが、いきなり隣のひとの鼻毛が伸びたら、これが因果律にはいらない、因果的偶然になる。そして、三つ目が離接的偶然、選言的偶然といわれるもの。ひょっとしたら人間ではなかったかも、ひょっとしたらアメフトの選手だったかも、という偶然だ。順番でいうと、日常的には、個別的なもの、出会いの偶然、そして、運命とよばれるものに相当するという。


   次の話は反証主義についてである。検証主義というものがある。実際にニワトリは飛ばない、とこの目で検証して、ニワトリは飛ばないでござる、の法則を作る。ところが、すべての時空に存在しているニワトリで検証できない。だから検証ではなく、反証を使うべきだという。というのも、一羽でも飛ぶニワトリが現れたら、この法則は崩れちゃう、といえばよいのだ。


   まとめ


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   異次元理論



    すべては運命管理局のなぞの者によって操作されているのか。すべての偶然は必然だといえるのは、高次元の立場である。四次元の時間軸が完成したときである。そして、この四次元時間の完成、複数の四次元時空は五次元に存在する。これらを組み合わせ、配置をかえているものがいる。かれらにとってはふつうに生活しているだけだが、われわれにとっては必然的に運命を管理されていることになる。次元をさげて、われわれもまた同じことをしている。三次元の物体を移動させたり、三次元造形物を作ったり、壊したりする、つまりは営んでいる人間。二次元の平面生命、フラット人がいるとしよう。かれらにとっての時間は三つ目の空間軸、三次元のひとつの軸である。だから、フラット人にとってみれば、かれらの時間軸である三次元方向を操られているのである。

  さて、反証主義のことであるが、反証されるまではすべてはわからない。というのも、反証とは事実がすでに確定していなくて、高次元のものの四次元時空の組み合わせ作業による決定によって定まるのだ。つまり、事実は反証なくして存在せず、あくまでも、高次元、五次元の三次元管理者が決めているといえるのだ。



水槽の中の脳と隠蔽性についてである。時間と空間においてきっちりと並んでいるように見える世界。こっち側には私、むこうは外界と軍事境界線もできている。じつはこれらはある種のフィルターを通して清浄化のようなことをしているだけではないのか。ろ過することで金魚の水槽もきれいになる。フィルターを通さない真実の世界と夢についてである。


  パトナム、水槽の中の脳についてである。マッドサイエンティストが水槽に脳を浮かべ、これを生かしている、という映画がありそうだ。脳のは電極がつけられていて、これがスーパーコンピューターにつながり、しかも、人工の目、耳、手足までついている。脳は外界のりんごちゃんを認識し、しかも、いいかげんなロボットアームでりんごをつかめるだろうか。そもそも、おいらは水槽の脳、という歌をうたい、しかも、自覚できるだろうか。パトナムはこれは無理だろ、という。

  りんごは外界であり、この感覚情報、入力情報をまとめて脳の中にイメージをつくる。さらに、出力によってりんごをつかむ。脳のなかのイメージと実際のりんごはどうやってつながり、指示されているのだろうか。これを指示の魔術という。

  ここからこっちが内側で、こっちからむこうが外側の世界、という線引き。しかも、外界のりんごは実在しているという外在的実在論。これはまちがっているという。すべては内側にあるというのだ。

   次の話はハイデガーの隠蔽性についてである。りんご、みかん、これらは具体的に形や色がある。これを存在者という。存在者はいくらでもあるが、あるそのもの、存在そのものはわからない。じつは、存在そのものは服をきて、カモフラージュして現れるという。だから、イデアを存在そのものとみまちがったプラトンがいたという。存在そのものをわすれちゃった、存在忘却である。そのなかでもきわまったのがニーチェだという。ニーチェはすべてみんなで共有する価値とか、存在そのものなんかないといった。これがニヒリズムだ。あくまでも、自分からみたもの、考えたもの、感じたもの。だから、無からすべての価値を自分でつくるんだという。存在忘却の最たるはニーチェだという。

  まとめ

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  異次元理論


   ここからが内側、ここからむこうが外側というのがあるだろうか。じつは宇宙のすべての時空点はクラインのつぼではないか。内側にいけばいつしか外側になっているのだ。ひも理論のひもでもよい。ひもというプランク長さの超小さいもののなかに高次元があるという。小のなかに大、内に外がある。これが生命の意識であり、だからこそ、指示の魔術は解決できる。外界のものを心はとらえ、意志によって外界のものを動かせるのだ。ところが、この時空点におけるすべての内外無効の真実の姿は隠蔽されているのだ。存在者には裏と表、内部と外部がある。存在そのものとは、内部が外部、外部が内部なのだ。これがカントのいうような時空の形式、フィルターによって隠されている。そして、意識がそれが露出しているのだ。時空のあらゆる点に移動するとき、肉体に宿る心も一緒に移動するのではなく、あらゆる時空点に私の心があり、クラインのつぼの内外無効のい領域につながるのである。


   寝ているときに夢をみる。時にバイクのエンジン音で目覚める。戦場にいてミサイルが飛んできてそれが夢であり、目覚めたとき、バイク音がしたということだ。こんなことがよくある。これはあきらかに原因と結果の因果律が成り立っていない。結果が原因に先立つ。この逆転は内外がつながり、未来と過去がつながる領域、クラインのつぼの意識そのものがあらわれたのだ。睡眠時は外界の感覚情報をシャットアウトする。だから、当然、時空形式というフィルターがはずれているのである。




ゲシュタルト、遂行的矛盾、そして、被投性についてである。この世界の真実は矛盾なのかもしれない。たしかに、おかしな光景を目の当たりにする。まんじゅうくいながら、このケーキ、甘さが丁度いいわ、というおばさん。よーいどん、でくつひもを結ぶスプリンター。世界の真相はうちは外という矛盾。これを覆い隠すのが特殊なフィルターであり、どこでこれを入手したかといえば、壮大な全宇宙の歴史によってプレゼントされたのである。

 
  ゲシュタルトについてである。友人とばったりあう。久しぶりといいながらムーンウォークで立ち去る。友人であることを、あたま、胸、腹というように要素をひとつづつ見て、これをあつめて認識したのだろうか。そうではなく、パっと見てわかったはずだ。全体的にみて、被写体と背景、ここから輪郭がうかびあがって、立体的にみる。部分の集まりではなく、部分が全体とダイレクトに関係だ。音楽においても、メロディは単音の集まりじゃない。全体になるとメロディになる。私は環境のなかでいろんなことを実践している。私と環境もゲシュタルトである。

  次の話は遂行的矛盾についてである。なにかをするとこで、そのしていることを無効にしちゃう矛盾だ。私はいないんだよ、と大声で叫ぶ。寝てますよ、と叫ぶ。遂行しながら矛盾するのである。デカルトのいう、われ思うゆえにわれあり、というのは、こんなしながら矛盾の典型だと考える思想家もいる。

  最後に被投性についてである。世の中に裸で生まれてきて、投げ出された。何人になり、髪の毛や目の色も選択できなかった、どうすることもできない状況、これを被投性といい、このなかで自由に振舞う、これを企投性であるハイデガーはいう。壮大